1.序論
みなさま、おはようございます。前回に続いて、今日も「主の箱」、「契約の箱」を巡るペリシテ人とイスラエル人との間の一連の騒動について見て参ります。聖書テクストを詳しく見る前に、この契約の箱のはらむ問題について少し考えたいと思います。この契約の箱は、一歩間違えればイスラエルを偶像礼拝に導きかねない、そのような問題を抱えているという話をさせていただきます。
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みなさま、おはようございます。前回に続いて、今日も「主の箱」、「契約の箱」を巡るペリシテ人とイスラエル人との間の一連の騒動について見て参ります。聖書テクストを詳しく見る前に、この契約の箱のはらむ問題について少し考えたいと思います。この契約の箱は、一歩間違えればイスラエルを偶像礼拝に導きかねない、そのような問題を抱えているという話をさせていただきます。
“一体何が起こっているのか?みなさま、おはようございます。サムエル記からの説教も、今回で五回目となります。さて、今日の箇所ですが、お読みになられてどのようにお感じになったでしょうか?なんだか本当の話とは思えない、おとぎ話かファンタジー小説のように思われたかもしれません。もちろんこれは聖書のテクストですから、そんな失礼なことは考えたこともない、思いもよらないことだ、とお考えになる方もおられるでしょう。しかし、クリスチャンでない方が今日の箇所を読んでどう思うかと考えると、「これは聖書の話というよりも、おとぎ話の類いではないのですか?」という反応が返ってくるのを容易に想像できます。
“おとぎ話としてではなくみなさま、おはようございます。先月までは、毎週マルコ福音書を学び、月に一度だけ旧約聖書から説教をさせていただきましたが、今は毎週の説教が旧約聖書のサムエル記からなので、今度は逆に毎月一度は新約聖書から説教をさせていただきます。これから数カ月間は、パウロのテサロニケ教会への手紙からメッセージさせていただきます。
“テサロニケの教会みなさま、おはようございます。サムエル記からの説教は、今日で四回目になります。これまでは、ハンナ、サムエル、エリとその息子たちというように、個人の信仰の在り方に注目してきましたが、今日の箇所からは個人の問題を越えたイスラエル民族全体の命運、政治的な話にテーマが移っていきます。しかし、それは個人の命運とは無関係にではありません。前回の箇所では、イスラエルの霊的指導者であるはずのエリの息子たちが道を踏み外し、それに対して神はサムエルを通じて裁きを宣告するという場面を学びました。しかし、その裁きはエリとその息子たちだけでなく、イスラエル全体に及びます。指導者の罪が、彼らの率いる群れ全体、民族全体に悪影響を及ぼすということです。リーダーの責任の重大さを改めて思わされる箇所です。
“奪われた契約の箱みなさま、おはようございます。サムエル記からの説教は今回で3回目になります。そして、今回から初めてサムエル記の主人公の一人であるサムエルが本格的に登場します。今日はそのサムエルの預言者としての召命物語になります。私たちは以前、預言者エレミヤの召命物語を学びました。エレミヤは祭司の家系に生まれた人で、祭司には30歳になった成人男性がなるのですが、エレミヤは弱冠20歳で預言者としての召しを受けます。祭司として働く年齢より10歳も若いわけで、エレミヤはこの時「自分は若過ぎます」といって神の召しを拒もうとします。しかし、今日のサムエルはもっともっと若いです。幼いといってもよいかもしれません。この時点でサムエルは何歳だったのか、はっきりとは分かりません。サムエルは既に祭司エリの下で祭司見習いとして働いていましたが、ユダヤ人の元服は13歳ですので、おそらくサムエルも13歳になるかならないかという年齢であったと思われます。日本でいえば、中学1年生ぐらいの歳です。古代のイスラエルは、現代の日本よりも大人になる年齢はずっと低かったわけですが、それにしても13歳ではまだ世の中のことはよく分かっていなかったでしょう。
“サムエルの召しみなさま、おはようございます。私たちはサムエル記を学び始めましたが、今回が二回目になります。サムエル記の始まりは、一人の女性の祈りでした。彼女は子どもを授かることができない不妊の女性で、そのために大変惨めな境遇にいました。その女性すなわちハンナの、子どもを授けて欲しいという必死な願いに応えて、神がハンナに男の子を与えてくださったという、そういう話でした。
“祭司エリの息子たちおはようございます。本日このようにして、中原教会の皆様と共に主を礼拝できる機会を与えられましたことを感謝いたします。山口先生は個人的にたいへん親しい友人であるとともに、尊敬する聖書学者でもあります。私も先生と同じく新約聖書を専門に研究している者でありますが、先生からはいつもたくさんのことを学ばせていただいています。その山口先生から中原教会での説教奉仕をというご依頼を受けましたので、喜んでお引き受けしたのですが、同時に緊張もしております。けれども今朝はご一緒に、聖書のみことばを通して主が語られる内容に耳を傾けていきたいと願います。
“教会の最初のメッセージ(山崎ランサム 和彦師)みなさま、おはようございます。先週まで私たちは、一年以上かけてマルコ福音書を学んで参りました。イエス・キリストの生涯を描く四つの福音書は、いうまでもなく教会にとって最も大切な文書です。しかし、聖書には他にもたくさんの重要な文書があります。そして、そのうちの一つが旧約聖書に収められた「サムエル記」です。サムエル記は、ある意味ではダビデの伝記と呼べるかもしれません。ダビデは16章まで登場しませんが、しかしその後は間違いなくサムエル記の主人公として常に活躍します。ダビデは、モーセやアブラハムと並んで旧約聖書で最も有名な人物の一人です。その彼を歩みを描いているという意味で、サムエル記はとても重要な文書です。
“ハンナの祈りみなさま、おはようございます。私たちはマルコ福音書を昨年の5月1日から、今日を含めると43回にわたって読んで参りました。まるまる1年がかりで取り組んできたわけですが、今日はいよいよ最終回になります。ただし、マルコのエンディングは実は大きな問題をはらんでいます。といいますのも、みなさんもお気づきのように、16章9節以降は鍵かっこで括られていますよね。なぜそうなっているかといえば、16章9節以降はほぼ間違いなくマルコ福音書の原本、つまりマルコがこの福音書を書いたときには含まれていなかったからです。私たちの用いている新約聖書の文書には、一つとして原本が残されたものはありません。原本を人間の手で一文字ずつ転記した写本と呼ばれるものがあるのみですが、マルコ福音書の最も古い写本には9節以降は含まれていません。専門家の間では、マルコのオリジナルのテクストは8節で終わっているというのが定説になっています。では9節以降の文章は何なのかといえば、8節で終わるとそれはあまりにも唐突だということで、後の時代にマルコではない誰かが書き加えたのが9節以降だとされています。いきなりこういう話をされるとびっくりするかもしれませんが、新約聖書は印刷技術などない時代に書かれたものなので、こういうことがしばしばおこるのです。
“弟子たちに告げなさいみなさま、おはようございます。さて、今日はいよいよ主イエスが十字架上で絶命されるという重大な場面です。マルコ福音書の記述は、イエスが徹底的に孤独に追い込まれ、孤立無援、まさに四面楚歌の状況に陥ったことを強調しています。ルカ福音書には、イエスのことを嘆き悲しむ多くのユダヤの民衆が描かれていますが、マルコはそのようなイエスに好意的な群衆がいたことについて触れていません。また、ヨハネ福音書では「主に愛された弟子」と呼ばれるイエスの一番弟子や、イエスの母マリアが十字架のすぐ下でイエスを見守ったことになっていますが、マルコでは十字架から遠く離れたところから見守っていたガリラヤの女性たちのことしか書かれていません。また、ルカ福音書によれば、イエスの両脇で十字架に架かった二人の強盗のうちの一人はイエスに好意的で、イエスに自分を救ってくださいと願い、イエスもそれを受け入れるという微笑ましい情景が描かれていますが、マルコはそのような強盗がいたことを一切書いていません。むしろ、イエスはすべての人から拒絶され、捨てられたことを強調しています。イエスは十字架上で独りぼっちだったのです。
“十字架での死