みなさま、おはようございます。当教会では現在マタイ福音書を読み進めていますが、毎月月末は別の箇所、今は第二ペテロ書簡を読んでいます。しかし今月の月末は棕櫚の主日になりますので、予定を繰り上げて今日第二ペテロを取り上げます。
今日のテーマは「背教」です。背教とは文字通り教えに背くことです。イエスの教えに背くこと、と言ってよいでしょう。第二ペテロが書かれたのは紀元二世紀の初頭だと考えられていますが、キリスト教は誕生してから百年もしないうちに深刻な背教の問題に苦しんでいたのです。背教というのを今の言葉で言えば異端とかカルトと呼ばれるものですが、この問題は紀元二世紀のみならず、私たちの生きる二十一世紀においてもとても大きな問題となっています。カルト的な宗教が世にはびこるのは、それを広めている人がいるためなのですが、そのような人のことをペテロは「偽教師」と呼んでいます。しかし、偽物と言っても、信じている人たちにとってはまさに信じるべき先生なわけです。そういう偽教師を信じている信者さんに対して、「あなたの先生は間違っている」と言ってもなかなか信じてもらえません。むしろあなたたちこそサタンのしもべなのだと反論・反撃されてしまうことも少なくありません。信仰というのは非常に個人的なもの、ある意味ではきわめて主観的なものですので、どこまでが正統な宗教で、どこまでがカルトなのかという線引きは決して容易ではないのです。最近旧統一教会に解散命令が出されましたが、このように広く世間に問題が認識されている宗教であれば分かりやすいのですが、一見まともな宗教団体のように見えてその内実は非常に問題があるという場合も少なくないのです。では、どのようにして背教、カルトを見抜くべきでしょうか。カルトかどうかを見分ける基準の一つは非常に分かりやすいのですが、もう一つの基準は大変微妙で難しいものです。まず、その二つの基準についてお話しします。
まず分かりやすい基準の方ですが、カルトといっても非常に幅広いので、ここでは自分たちはキリスト教だと主張している団体の場合に限定してお話しします。一番わかりやすいカルトの見分け方は、聖書に全く書かれていないような内容を教理としているような団体です。たとえば統一教会の場合は、その教理によれば日本はイブの国で韓国はアダムの国だとされ、イブがアダムに仕えなければならないように日本も韓国に仕えなければならないと教えます。そして、日本の信者から集めたお金を毎年150億円も韓国の本部に送っていたといわれています。なぜそんな教えを日本人が信じるのかまったく理解に苦しみますが、そんな教えは明らかに聖書には書かれていません。ですからこれはおかしいとすぐに分かります。ほかのカルトでも、教祖が自分は神の子だから自分と肉体関係を持てばあなたは救われると言って、信じ込ませて実際に多くの女性の信者と肉体関係を持ったという話があります。これもとんでもない話なので、どうしてそんな話を信じてしまうのかと思うのですが、そんなことも聖書には全く書かれていません。ですから、そういう聖書にはない教えを教義とするようなグループはキリスト教ではないと明確に言うことができます。
しかし、もう一つの基準はより難しいものです。というのも、その団体は「自分たちは聖書しか信じない。聖書のみに忠実に従っている」と主張し、実際にその通りにしているのですが、しかし彼らの主張はどこかおかしいというような場合です。そういう人たちは聖書を信じているので、先ほどの基準で言えば確かにキリスト教なのですが、それでもおかしいと感じてしまうのです。なるほど彼らは聖書のみを用いて教理を作っているのですが、ではどこがおかしいのかというと、彼らの聖書解釈がおかしいのです。例えば、聖書に親をののしる者は殺されなければならないと書いてあるので、親に暴言を吐いた子供を殺しました、という人がもし仮にいたとしたら、その人はまともなクリスチャンだと言えるでしょうか?確かに旧約聖書には親をののしる者は死刑に処せられるという教えという掟があります。この人は、自分は聖書に忠実に従っている、というかもしれません。しかし、その人の聖書の読み方はどこかおかしい、とほとんどのクリスチャンの人は感じるのではないでしょうか。つまり、二つの目の判断基準は聖書を用いているかどうかではなく、どう聖書を読んでいるのか、という問題なのです。これは非常に難しい問題です。聖書とはとても複雑な本です。何百年もの時間をかけて、様々な人たちが異なる時代背景の中で書いた文書を集めたものです。その中にはお互いに矛盾しているような内容も数多く含まれています。ですから聖書の解釈は大変難しい、デリケートなものだと言わざるをえません。多くの人に愛されている愛唱聖句ですら、その元々の意味とはかなりかけ離れた理解をされている、という場合も少なくないのです。
そのような多種多様な文書が含まれている聖書を全体として理解するのは大変難しい課題です。それでも、ある人たちは「自分たちは聖書の正しい読み方を知っている。それは聖書全体を一貫して読むことができて、矛盾のないものだ」と主張するのです。そのような人たちの代表的なグループが、アメリカ合衆国の「福音派」です。これは今や大変有名なグループになりました。なぜなら、トランプ大統領を誕生させた二つのグループの内の一つだからです。トランプの支持母体は二つ、一つはMAGA、メイク・アメリカ・グレイト・アゲイン、アメリカ・ファーストの人たちです。そしてもう一つがキリスト教の福音派です。この二つの何が違うのか分からない、と思われるかもしれません。たしかに重なる部分もあるでしょう。しかし、この二つには明確な違いがあります。それが「戦争」に対する態度です。MAGAの人たちは戦争が嫌いです。海外の戦争でお金を使うよりも、もっとアメリカ国内でお金を用いてほしい、アメリカ人・ファーストでいってほしいというのが彼らの主張です。だから金食い虫のアメリカの戦争は大嫌いです。それに対して、福音派は「戦争」そのものが好きなわけではないのですが、「聖書的な」戦争が好きなのです。聖書に預言された戦争、とでもいえばいいでしょうか。彼らは、聖書を読めば未来が分かると主張します。そして、この福音派はかつてのブッシュ・ジュニアの時代にはイラク攻撃を熱心に支持し、そして今のトランプ政権においても、アメリカ人全体ではイラン攻撃に反対している人の方が多いのに、福音派に限れば支持する人の方が圧倒的に多くなります。なぜ福音派はアメリカの中東での戦争を支持するのでしょうか?別に彼らは戦争が好きなわけではないと思います。イエス様の教えを聞いているのに、戦争が好きになるというのはちょっと考えられないわけです。しかし彼らは、彼らから見れば「聖書的な」戦争であれば支持する、というのです。イラクとイランは、聖書時代のバビロンとペルシアに相当します。そして、聖書にはバビロンやペルシアの破滅を描いているような箇所が確かにあります。ですから彼らはこうした戦争を、聖書の預言の成就として支持するのです。「ちょっと待ってくれ。バビロンとかペルシアとかは二千年前の国で、今のようなイスラム教の国ではないし、イラクとかイランとかとはまったく違う国でしょう?どこをどう読めば、聖書が現在のイラクやイランの滅亡を預言しているなどということができるのか?」と突っ込みたくなります。しかし、彼らはそのように読むのです。それだけでなく、今のロシアや中国も神の敵として聖書に描かれている、なんとEUまでもがそうなのだ、という人たちもいるのです。アメリカが中国やロシアを敵視するのは、政治的には彼らがアメリカのライバルに成りうるからですが、福音派の人たちからすれば「聖書がそう言っているから彼らは悪なのだ」という話になります。にわかに信じがたい話ですが、彼らはそう強く信じ、信じるだけでなく行動し、アメリカの政治を自分たちの望む方向に動かそうとしているのです。
さて、今日のそもそものテーマは、「背教」、すなわちカルトで、カルトをどう見分けるのか、という話をしてきました。そして今私たちはアメリカの福音派の話をしています。アメリカの福音派といえば、八千万人にも及ぶと言われるほどのアメリカのキリスト教の最大派閥です。アメリカの政治すら動かす、まさに巨大勢力です。そんな人たちが、ではカルトなのかといえば、話はそう簡単ではありません。彼らはもちろん、三位一体ですとかキリストの贖罪ですとか、正統的な教理を信じています。多くのキリスト教の教派と比べても、正統的・伝統的な信仰を非常に強く信奉しています。そういう意味では、カルトどころかキリスト教の保守本流とさえ言えるし、彼ら自身もそう自負しています。しかし、彼らの聖書解釈の少なくとも一部、とりわけ終末論に関するものには私は非常に強い危惧を抱いています。それは世界を戦争の泥沼に引きずり込んでいくように思えるからです。私個人は、この点に関しては彼らの解釈は完全に間違っていると思っています。しかし、何しろ解釈というのは人によって大きく変わるものだというのも事実です。ですから彼らが聖書を信じていると主張する以上、彼らの解釈がおかしいから彼らのキリスト教もおかしい、というわけにもいかないのです。なぜなら、私の解釈の方が絶対に正しいとは言えないからです。それでも、私たちはなるべく正しい解釈を探し求める必要があります。なぜならペテロが「背教者」と非難している人たちは、聖書の解釈がおかしい人たちだからです。ペテロは3章の15節と16節でこう書いています。
また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。
ここでペテロが非難しているのが「偽教師」です。偽教師たちは聖書の権威を否定しているわけではありません。彼らは聖書の権威に訴えるのですが、その解釈がおかしいのです。だから彼らは背教者であり、カルトなのです。繰り返しますが、聖書を強く信じ、その権威に訴えている場合でも、その宗教はカルトになり得ます。
しかし、解釈によってはカルトになりうるといっても、どの解釈が正しいのかをどう見分けることができるでしょうか?ここで大切なのは、実は「常識」なのです。先ほどの例で言えば、「教祖である私と肉体関係を持てば救われる」ですとか、「全財産を教団に献げれば救われる」などという人がいれば、神様がそんなおかしなことをいうはずがない、と常識で考えれば分かりますよね。ですから、たとえ聖書に基づいた教えだと言われても、攻撃されてもいない相手国に対して予防的措置だと言って先制攻撃するような行動を支持するような宗教はおかしい、ということも常識で考えれば分かるのではないでしょうか。とはいえ、私たちのクリスチャンの持つ常識とは、世の中の人たちの常識とはかなり違います。なぜなら、クリスチャンの常識とは、「神様は私たちの幸せを願っておられる。それも、信者である私だけでなく、人類全体、さらには地球上の生きとし生けるもののすべての幸せを願っておられる。なぜなら、神様こそそれらすべての生物の生みの親だからだ」というものだからです。ですから、他人を傷つけたり、いきなり外国を攻めたりするようなことを神様が私たちに命令するはずがないのです。こういう常識を持っていれば、おかしな聖書解釈に振り回されることはありません。
それでも、私たちは「権威」というものに弱いのです。「先生」とみんなから呼ばれているような有名な人の教えることは正しいのではないか、巨大なメガ・チャーチの牧師が言っているのだから本当なのではないか、とつい考えてしまいます。しかしペテロは、「権威」を疑うべきだと教えています。そこで彼が例に出すのは、なんと「天使」なのです。しかもただの天使ではなく、偽天使、あるいは堕天使です。偽教師が間違ったことを教えて人を堕落させるように、偽天使、あるいは堕天使は間違ったことを人に吹き込んで人を堕落させます。それにしても、今日の聖書箇所は、みなさんも一読されて、一体何の話をしているのか分からないと思われたかもしれません。特に4節で、
神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。
とありますが、これがいったい何のことだか分からないと思われるでしょう。それもそのはずで、私たちの持っている聖書にはこのことは書かれていないからです。この話は、『エノク書』と呼ばれる、いわゆる聖書偽典に含まれている話なのです。エノク書は、初代教会では広く読まれていました。たとえば新約聖書の『ユダの手紙』にはエノク書からの引用があります。しかし、後にカトリック教会がこれを拒絶したために、聖書正典からは外されています。とはいえ、エチオピア正教会では正典聖書として受け入れられているという、クリスチャンの間でも意見が割れる書なのです。ではそこにどんなことが書かれているかというと、天使が人間の女性が美しいということで、なんと人間の女性と関係を持ってしまうのです。そして天使と人間との間に生まれたハーフが巨人、ネフィリムになります。天使たちは人間の女性に科学的な知識を教えたり、化粧品のことを教えたり、あるいは魔術のようなことを教えますが、それは人間を賢くさせるのと同時に堕落もさせます。また天使と人間のハーフのネフィリムは地球上のすべての生物を食べつくそうとするなど、とんでもない行動を取るようになります。それをご覧になった神様は世界を滅ぼすことを決意し、ノアの家族と一対の動物たち以外は洪水で滅ぼします。そして、人間をそそのかした天使たちは地獄の穴に閉じ込めたのです。なぜペテロがここでそんな話を持ち出したのかと言えば、ペテロが非難する「偽教師」たちと、人間を堕落させた天使たちとは同じような輩だと言いたいのです。私たちは「天使」と聞けば、人間よりも神様に近くて強くて賢くて正しい存在だと考えてしまいます。しかし、その天使の中にもとんでもない偽天使がいるのです。彼らは人間に間違ったことを教えて、人間を堕落させました。それと同じように、多くの人たちが正統なキリスト教だと思っているものの中にも、とんでもない教えが紛れ込んでいる可能性があります。「カルト」と呼ばれる団体ではなくても、その一部の教えがカルト的である、ということはありうるのです。立派な教師だと思ったら、実は偽教師であるという可能性もあるのです。
まとめになります。今日は偽教師と、偽教師たちが広めるカルトの問題を考えました。カルトを見分ける基準は二つある、という話もしました。一つは分かりやすい場合、すなわち聖書に全く書いていないことを教えているような場合です。この場合はカルトかどうかの見分けはすぐにできます。問題は、聖書を用いながらも、独特の教理を唱えるようなグループです。こういうグループは、自分たちは「聖書信仰」に堅く立っていると主張するので、一見安心できるように見えます。実際、彼らの言っていることは聖書のみに基づいているように思えてきます。それでも、どこかおかしいと感じる時があります。そのような直観というか、常識的な見方は実はとても重要です。カルトはみことばを捻じ曲げるのが得意です。カルトだけでなく、天使ですらそういうことをします。聖書で悪魔とかサタンとか呼ばれている存在も、もともとは大天使だったことを忘れてはなりません。天使が偽天使になってしまうのです。同じように、教師も偽教師になってしまう危険性があります。ですから、私たちは人を外見や肩書だけでなく、その人の結ぶ実で判断しなければならないのです。鳩のように素直で、蛇のように聡くなければならないのです。私たち日本人にキリスト教を熱心に伝道してくれたアメリカの「福音派」と呼ばれるグループには大きな恩がありますが、同時に彼らの教えが本当に聖書の教えに合っているのかどうかも慎重に判断しなければならないという、大変難しい課題もあります。今の時代は、特に難しい時代です。情報が溢れ、何が正しいのか、何が嘘なのか、判断が難しいのです。それでも私たちはそのための努力を惜しんではならないのです。この難しい時代に、地の塩となる教会として歩むことができるように、主の導きを祈って参りましょう。
イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今日は背教やカルト、偽教師についてみことばから考えました。難しい問題ですが、私たちの理解が深まりますように。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

