1.序論
みなさま、おはようございます。だんだんと春が近づいてくるのが感じられます。現在私たちはレント、すなわち受難節の時期を歩んでいますが、それは十字架への道です。そして、なぜイエスは十字架に架からなければならなかったのかを考えるのがこのレントの時期の大きなテーマになります。
イエスが十字架に架かったということは、イエスに反対していた人たちがいたということです。イエスがなさっていたことは、人の病を癒したり、生きる道を教えるなど、よいことばかりですので、人に憎まれたり恨まれたりするようなことはしていないはずなのです。それなのに、どうしてイエスに反対した人たちがいたのか。そこには二つの理由があります。一つは政治的な理由、もう一つは宗教的な理由です。政治的な理由というのは明らかです。当時のユダヤを支配していたのはローマ帝国でした。ユダヤはローマの植民地で、ローマ皇帝は自分が派遣した総督と、現地のユダヤ人の代表である大祭司、彼らを通じてユダヤの地を支配していました。皇帝が彼らに求めたことは二つありました。一つは税金をしっかりと集めること、もう一つは暴動を起こさせないことでした。当時の税金は非常に高かったので、ユダヤの民衆の生活は大変苦しく、不作が続けば生きていくのも大変なほどでした。そのような困窮した際に、人々は失うものは何もないということで、一揆・暴動を起こす可能性があります。暴動が起きると、ローマ皇帝は鎮圧のために軍隊を派遣しなければなりません。昔も今も、軍隊を動かすのには大変お金がかかります。ですからローマ皇帝は暴動を大変嫌いました。もしも暴動が起こってしまった場合には、ローマ皇帝は責任を取らせて総督や大祭司を解任しました。本来ユダヤの大祭司は日本の天皇のように終身職だったのですが、当時の大祭司はローマの意向一つで簡単に首を挿げ替えられました。ですから総督や大祭司は何としても暴動を抑え込もうとしました。そのために使ったのが十字架刑です。十字架刑に処せられた人は、何日間も素っ裸で木に吊るされて、見せしめにされました。イエスの場合はすぐに絶命しましたが、普通は何日も生き残るのです。息も絶え絶えになった十字架上の人を野犬や鳥たちが襲うのです。見るも無残な姿を晒すことになります。こういう姿を人々の脳裏に植え付けることで、絶対に暴動を起こそうなどと言う気になるなよ、という警告を発したのです。イエスが十字架刑に処せられたのは、彼自身には暴動を起こす気はなくても、あまりにも民衆の期待が高まったのでイエスを担いで暴動を起こそうとする人々が現れる恐れがありました。ですからローマ総督は、いわば予防処置としてイエスを捕らえて十字架に架けたのです。これが政治的な理由からのイエスへの反対です。
同時に宗教的な理由からの反対もありました。それが今日の聖書箇所と大いに関係しているところです。当時のユダヤ社会は一枚岩ではなく、いくつかの派閥がありました。皆さんもご存じの通りのパリサイ派やサドカイ派、また新約聖書には登場しませんが有名な死海文書を残したエッセネ派などです。なぜこのような派閥が生まれたのかといえば、それは当時の終末思想に関係がありました。当時のユダヤ人は終末、終末と言っても世界の終わりという意味ではなく、新しい時代が到来する、神の国が来るという期待が高まっていました。その新しい時代にイスラエルは救われるのですが、しかしすべてのイスラエルが救われるわけではなく、むしろイスラエルの中のイスラエル、「真のイスラエル」だけが救われるという思想が広まっていました。そして、われこそが真のイスラエルだと主張したのが死海文書を残したエッセネ派や、あるいは民衆に律法を教えて支持を広げていたパリサイ派だったのです。こうした派閥同士は、互いに相手を激しく非難しました。エッセネ派もパリサイ派を非難しましたし、パリサイ派はサドカイ派を非難しました。そんな彼らにとって、イエスのグループは新しい一派、新参者でした。新参者は老舗派閥からは叩かれるのです。近年の日本の政治舞台でも、六年前にインターネットの呼び掛けて生まれた参政党という政党ができました。最近でこそ世間で認知されるようになりましたが、創立から数年はほかの政党からもマスコミからも徹底的に叩かれました。出る杭は打たれるのです。しかも新しい政党は目立たなければならないので、かなりエッジの効いたスローガンを掲げます。それでますます叩かれることになります。最近躍進したチームみらいも、当初はそれほど注目されてませんでしたが、先の衆議院選で大躍進したのでアンチが一気に増えました。新興勢力はかならず老舗に叩かれるのです。イエスの始めた運動も、急激に人々の支持を集めたので、既存の派閥、パリサイ派などには非常に煙たい存在でした。パリサイ派はこれまで苦労して民衆の支持を集めてきたのに、急に現れた無名の青年であるイエスに人気をさらわれてしまったのです。悔しい思いもあったでしょう。嫉妬もあったでしょう。パリサイ派の中にはイエスのことを認める人たちもいましたが、中には何としてもあらさがしをして潰してしまおうと考えた人たちもいました。そういう人たちがイエスの反対勢力になっていったのです。そのような背景から、今日のみことばを読んで参りましょう。
2.本論
さて、今回の箇所には二つのグループが登場します。一つはバプテスマのヨハネとその弟子たち、二つ目はイエスの力ある業を目撃したのに悔い改めなかったコラジンやベツサイだの人たちです。バプテスマのヨハネはガリラヤの領主であるヘロデ・アンティパス、これはあのヘロデ大王の息子ですが、彼によって牢に入れられていました。イエスは世のヨハネからバプテスマを授けられています。この二人の関係は二人にしか分からないでしょうが、はたから見ていたひとは、ヨハネがイエスに洗礼を授けたので、イエスがヨハネに弟子入りしたと思ったことでしょう。しかし、そのヨハネが逮捕され、イエスはますます人気を博しているので、ヨハネの弟子たちは面白くありません。彼らは牢に入っているヨハネに伝言してイエスのことを伝えました。ヨハネもイエスのことをもちろん注目していましたが、しかし彼がイスラエルの待ち望んでいる救世主なのかどうか、確信が持てずにいました。そこで明確な証拠が欲しいと思い、イエス本人に対してあなたがイスラエルの待ち望む人物なのかどうか、ということを直接聞くために伝令を送りました。それに対し、イエスは預言者イザヤが語った言葉で応答しました。イザヤは、「神は来て、あなたがたを救われる」と預言し、その救いのしるしとして目の見えない者が見えるようになり、足のなえた者が歩けるようになるだろうと語りました。イエスは自らがそれらの業をなしていることを示し、自分こそイザヤが預言した者なのだと語りました。それから民衆に対して、バプテスマのヨハネが何者なのかを説明しました。イエスは、ヨハネこそ預言者マラキが預言した人物だと語りました。マラキは、神がこの世界に来られる前に、あの大預言者エリヤの再来が現れて道を整えるだろうと予告しました。イエスは、ヨハネこそその再来のエリヤなのだと語りました。しかし、もっと驚くべきなのは、そのヨハネさえも、天の御国、神の国では一番小さい者になるだろうと語ったことです。これはちょっと信じられない言葉ですよね。私たちが神の国に入れるのだとしたら、私たちの方がヨハネよりも偉大だ、ということになってしまうからです。しかし、ここでの意味はそのように捉えるべきではありません。むしろイエスがおっしゃりたかったのは、ヨハネは神の国の準備をするという役目を与えられ、それに対してイエスは神の国そのものを実現する役目を帯びているということでした。「準備」とその「実現」あるいは「成就」ではその重みが違うのです。ヨハネはその準備という役割に限定されている、ということをイエスはおっしゃりたかったのです。ヨハネが準備の人で、イエスが成就の人だということは、彼らの行動から分かります。バプテスマのヨハネと弟子たちは断食をしていました。断食をしているのは、神様に何か願い事があるからです。ヨハネたちは「神の国がすみやかにこの地上に到来しますように」と願っていました。しかしイエスは、神の国はご自身の宣教によって今や始まっていると宣言しました。もう神の国が来ているのであれば、今は断食ではなく宴会をすべきです。ですからイエスとその弟子たちは断食ではなく宴会をしていたのです。まだ完全な到来は実現していませんが、それはもうすぐ来る、いやもう始まっている、ということをイエスはその行動で伝えていたのです。
しかし、こうしたヨハネやイエスの意図を理解しない人たちも少なくありませんでした。彼らはヨハネのことを、「禁欲的で世の楽しみを知らない狂った人たちだ」と馬鹿にし、イエスに対しては反対に「あいつは大酒飲みで罪人の仲間だ」と揶揄します。さらには力づくで暴力的にイエスの運動を妨害しようとした人たちさえいたことが示唆されています。このような人たちに対するイエスの叱責の言葉は大変厳しいものでした。
しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。
とまでおっしゃっています。ソドムというのは旧約聖書の創世記に登場する伝説の町で、神の裁きによって灰燼に帰したところです。それよりも重たい裁きとはいったいどのようなものなのか、想像もつきませんが、イエスがおっしゃりたいのはソドムの場合はイエスの救いの言葉もイエスの偉大な癒しの業も与えられていなかったのに、あなたがたは与えられている。それなのに信じないあなたがたの罪はより一層重い、ということなのです。
しかし、神は確実にイエスを信じる人たちを起こされました。イエスはそれらの人のことを「幼子たち」と呼んでいます。これは文字通りの小さな子供という意味ではなく、子どもが親に信頼してより頼んでいるように、神を信頼してより頼んでいる人たちという意味でしょう。自分が賢い、知恵があるとうぬぼれている人たちは神を信頼せず、自分に頼ろうとします。そういう人ではなく、心の砕かれた人にこそ神は真理を表すということをイエスは語っておられるのです。
そして大変有名な聖句である28節から30節です。ここで注意したいのは、「くびき」という言葉をどんな意味で用いているかです。当時のくびきには二種類あり、人間が負うくびきと動物が負うくびきがありました。人間が負うくびきとは、人の両肩に渡して重い荷物を運ぶための装具でした。それに対して動物のくびきとは、牛などの二頭の動物の肩を渡して、二頭で一つの荷物を運ぶというものでした。一頭で運ぶより二頭で運ぶ方が負いやすいですよね。イエスがおっしゃっているのは、人間には負うべき重荷があるけれど、私が与えるくびきはその重荷を一人ではなく二人で一緒に負うものなのだ、私があなたと一緒に負ってあげるから、一人の時よりもずっと軽くなるのだ、ということです。重荷そのものがなくなるわけではありませんが、イエスという心強い助け手がおられるので、それは負いやすくなるということなのです。さて、マタイはここまでイエスの宣教に対する様々な反応について語ってきたのに、なぜ最後にこのようなくびきの話をしたのでしょうか?それは、ここで言われている重荷が宣教の重荷のことであるからだと思われます。人間の人生には様々な重荷があります。しかし、主に召された者には特別な重荷が与えられています。それが福音を人々に届けるという重荷です。こればかりは、どんなクリスチャンも「そんなものはいりません」というわけにはいかないのです。しかし、宣教というのはどうやればいいのか、そんなことをするとかえって人に嫌われてしまうのではないか、と心配してしまいますよね。あのイエス様ですら、宣教に対してさまさまな反対や迫害を受けたのですから。しかし、主はそのような私たちに対して、「心配はいらない。宣教の重荷は私が一緒に担ってあげるから」と約束されているのです。それに感謝し、宣教の業に励みたいと願うものです。
3.結論
まとめになります。今日はイエスの宣教に対する様々な反応について見て参りました。イエスに長年苦しめられてきた病を癒してもらった人たちはイエスに感謝し、深く信じたことでしょう。しかし、その業を傍から見ていた人たちの中にはそれが素直に受け入れられない人たちもいました。イエスのよき理解者であるはずのバプテスマのヨハネでさえ、イエスのことを測りかねていたのです。イエスのことをあまりよく知らない人たちは、この突然現れた癒し人のことを素直に評価できない人たちもいたです。そういう人たちに対して、イエスは非常に厳しい言葉を残しました。しかしそれは、これらの人たちを切り捨てた、ということではないのです。イエスは、裁きの時が迫っているという強い確信を持っていました。今から振り返ると、その裁きとは世界の終わりの裁きではなく、イスラエルの国が亡びるという裁き、紀元70年のエルサレム陥落という裁きだったことが分かりますが、イエスの時代からわずか四十年後に裁きの時が迫っていたのです。そのような緊迫感の故にイエスは厳しい言葉を残しましたが、それは断罪の言葉というよりも、イエスの厳しい言葉を聞いて今一度考え直してほしい、思い直してほしいという最後のチャンスを与えるためのものでした。
私たちも今日の日本で宣教の業を委ねられています。しかし、イエスがここで語ったような言葉を用いることはかえって宣教の妨げになってしまう危険性があることも忘れないようにしていただきたいと思います。なにしろ私たちはイエスにように、誰にも直せないような病を癒す力はありません。今日の人々にはそのようなしるしは与えられていないのです。むしろ、宗教というと、世界の戦争の原因になっていたり、あるいは高額献金を要求して家族を破壊するようなことがあったりと、世間の見る目は格段に厳しくなっています。ですからむしろ私たちはもっと謙虚になり、その世界の人たちに尽くすべきなのです。上から目線で「私たちは救われるが、あなたたちは滅びる」などとゆめゆめ言うべきではありません。「裁きは神の家から始まる」のです。私たちの方こそ、裁かれてしまうというようなことにならないように、謙虚に、世のため人のために歩んで参りましょう。祈りします。
イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今朝はイエスの宣教に対する様々な反応を学びました。私たちの時代においても、宣教の言葉に対する世の中の反応は必ずしもかんばしいものではありませんが、だからとって人々を非難するようなことはせず、むしろ我が身を顧みることができるように助けてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

