1.序論
みなさま、おはようございます。今日は月末の主日礼拝なので、毎週のマタイ福音書からの講解説教を離れて、第二ペテロからメッセージをさせていただきます。今日のメッセージは大変重要な内容になります。
さて、今日の聖書箇所の詳しい説明に入る前に、一つ大事なお話をしたいと思います。それは「キリスト教の語る救いとは何か?」という話です。いきなり大上段の話だな、と思われるかもしれませんが、なるべく分かりやすくお話ししたいと思います。キリスト教というのは「救い」に関する宗教だ、ということは多くの方が同意することだと思います。では、その救いとは何かといえば、私たちが死んだあと、イエスを信じる人は天国に行けることなのだ、というように多くの人は考えているでしょう。しかし、正確に言えばそれは正しくない、とキリスト教をまじめに学んだ人は指摘するはずです。なぜならイエスの語った救いとは、私たちが死んだあとに天国に行くことではなく、むしろ私たちの住んでいるこの世界に天国が来ることだからです。みなさん、「主の祈り」で何と祈るか思い出してください。「み国を来たらせたまえ」ですよね。私たちが天のみ国に行けますように、ではなく、天のみ国が来ますように、と祈ってますよね。私たちが行くのではなく、むしろ御国は私たちのところに来るのです。み国は、私たちが生きているこの地上に来るのです。「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈っていますが、それは天国で神様の御心が行われているように、この地上においても神様の御心が行われますように、と祈っているのです。地上において神の御心がなされるようになること、それが「み国が来る」ということの意味なのです。
ですからキリスト教信仰の核心部分は、私たちの死後の魂がどうなるかということではなく、私たちの生きているこの世界が変わる、この世界に神のご支配が実現するということにあるのです。もちろん、私たち一人一人が救われることはとても大事ですし、私たちの関心がそこに集中するのは自然なことなのかもしれませんが、最初のクリスチャンの方々はもっと広い視野で、この世界全体が救われる、贖われることを願っていたのです。こういうと、疑問の声が上がるでしょう。「それは分かりました。しかし、そんなことがいつ実現するというのですか?イエスが来られてからもう二千年も経っているけれど、この世は何も変わっていないし、神のご支配など実現していないではないですか。この世界には相変わらず多くの苦しみがあり、不正や悪や戦争も絶えることがないではないですか」と。これは当然の疑問です。キリスト教信仰の関心事が、この世が変わるということではなく、私たちの死んだ後の魂がどうなるのか、という方向に変わっていったのは、この世に神の支配がなかなか実現しないという厳しい現実を前にして、だんだんと信仰の中身が変化していったものといえるでしょう。しかし、キリスト教第一世代は、もうすぐにも神の国が来ると信じていたのです。もっとはっきり言えば、天に昇られたイエスが戻ってこられて、すぐにも世の終わりをもたらすと信じていました。しかし、歴史を振り返れば分かるように、そうはなりませんでした。世の終わりがすぐだ、と言われると緊張感が高まり、気が引き締まるのですが、それがどうにも実現しない、起きないのです。そうなると、動揺があり、また気の緩みがあり、さまざまな面で教会にマイナスの影響が生じます。最も深刻なのは、キリストの再臨などというものはないのではないか、という疑問が広がったことです。世の終わりは来ないという考えを人々が抱くようになりました。
この第二ペテロを書いた人物は、そのような状況に危機感を持った人物でした。前回のメッセージでもお話ししたように、この無名の人物は有名な使徒ペテロの名を借りて、ペテロの遺言としてこの手紙を書いたということです。そして、教会の人々に再臨信仰に堅く立って、もう一度気を引き締めるようにと促しているのです。今日の箇所は、まさにそのような箇所です。では、テクストを詳しく見て参りましょう。
2.本論
では、12節から16節までを見ていきましょう。ここで「地上の幕屋」と言われているのは比喩であって、これは肉体のことです。ペテロを名乗るこの作者は、使徒パウロが書き残した書簡を知っていました。そしておそらく、パウロも自らの肉体のことを「幕屋」と呼んでいるのを知っていたのでしょう。この手紙で用いられているのと、パウロの用いている「幕屋」という言葉のギリシア語は少し違うのですが、しかし互いに親戚のような同根の言葉ですので、同じものとみてよいでしょう。そしてパウロが幕屋について語っているのが第二コリント書簡の5章1節から2節です。そこをお読みします。
私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
ここでパウロの言う、「地上の幕屋がこわれる」というのは私たちの肉体が死を迎えることです。そして「天から与えられる住まい」とは復活のからだのことです。パウロのこのような表現を踏まえて、第二ペテロの著者も肉体の死のことを「幕屋を脱ぎ捨てる」と表現しているのです。先に、この手紙を書いた人は、ペテロの名を借りて手紙を書いたと申し上げましたが、そのペテロの死が目前に迫っているという状況設定で、いわば遺言としてこの手紙を書いています。なぜこの手紙の著者が自分自身の名前ではなく、ペテロの名前で書いたのかといえば、それは自分が今は亡きペテロからこの手紙の内容を託されたと信じていたからです。この著者はおそらくペテロのことを個人的に知っていて、ペテロが生前に語っていた内容をよく記憶していました。ですから、ペテロが教えていた内容を、彼の名前で書こうと思ったのです。そこで、私もこの手紙の著者のことを「ペテロ」と呼ぶことにします。なぜなら彼は、ペテロになりきって、ペテロの精神でこの手紙を書いているからです。
さてペテロは、主イエスは必ず天から戻ってこられるということについて、読者の人々に確信をもってほしいと願っています。そして、そのような確信を持つことができる根拠として二つのことを上げます。一つ目は、ペテロ自身が変貌山でイエスの栄光に輝く姿を目撃したこと、もう一つは旧約聖書がイエスの来臨を約束していることです。まず、変貌山のことを見てみましょう。この出来事のことは共観福音書に書かれています。少し長くなりますが、マルコ福音書9章2節から7節までをお読みします。
それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。また、エリヤが、モーセとともに現れ、彼らはイエスと語り合っていた。[中略] そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。
第二ペテロ1章の17節から18節で書かれているのは、この変貌山での出来事です。ペテロは、主イエスはその時に私が実際に目撃した輝く姿で必ず戻ってこられると訴えているのです。
ペテロは、イエスが再び来られることの第二の証拠として、聖書を挙げます。ペテロは19節で、「確かな預言のみことばを持ってます」と語りますが、「預言のみことば」とは旧約聖書に書かれている預言のことです。というのも、この第二ペテロが書かれた当時は新約聖書はまさに成立しつつある途上であり、どの書が正典として認められるかという問題は流動的でした。したがって、誰もが認める聖書とは旧約聖書のことでした。その聖書の中に、イエスが再臨するという確かな預言があるとペテロは語っているのです。その預言は具体的にはどこなのか、というのは難しい問題です。いくつもあるようにも思えるのですが、一つ非常に印象的な箇所があるのでそこをお読みしたいと思います。それはゼカリヤ書14章の3節から9節までです。ここも少し長いですが、全文をお読みします。
主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたは、わたしの山々の谷に逃げよう。ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう。私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。これはただ一つの日であって、これは主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる。主は地のすべての王となられる。その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる。
このように、主がイスラエルの人々を救うためにエルサレムのオリーブ山に来られるという預言があるのですが、初代のクリスチャンはここで言われている「主」とは主イエスだと理解していました。ですから、ここに描かれている様子で、主イエスがすぐにも戻って来られるとクリスチャンたちは信じていたのです。そして20節ですが、そこにはこうあります。
それには何よりも次のことを知っていなければなりません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。
実はこの訳には問題があります。「私的解釈」と訳されている言葉を直訳すると「それ自体の解釈」となりますが、では「それ自身の解釈」とは誰の解釈のことなのでしょうか。それを「(聖書を読む)私たち各人の解釈」と読めば、私的解釈の禁止という意味になるでしょう。つまり、教会が定めた権威ある解釈に従うべきで、自分勝手な解釈ではいけないという意味になります。しかし、今や多くの研究者は、このそれ自身は「預言者自身」のことであると理解しています。私の恩師のリチャード・ボウカム先生もそのように訳しておられます。ですから、この一文の訳はこうなります。
第一にこのことを知りなさい。すべての聖書の預言は、預言者自身の解釈によってもたされたのではありません。
では、預言者自身の解釈でないならだれの解釈か、と言えばそれは「聖霊の解釈」です。旧約聖書にある預言は、預言者自身の解釈や思い、考え方から生まれたものではなく、預言者が聖霊に導かれて、動かされて神からの言葉として語ったということです。そのような神の言葉がメシアの来臨を語っているのだから、キリストは確かに来られるのだ、ということをペテロは言いたいのです。
3.結論
まとめになります。今日はキリストの来臨がなかなか実現しないという現実に際して、確かに主は来られるということを伝えようとしたのが今日のテクストのポイントでした。そうはいっても、このだいにペテロ書簡が書かれてから二千年経っても主は来られませんでした。ただ、忘れないようにしたいのは、主は来られるという約束は確かにありますが、それはいつか、というのは誰も分からないということです。主イエスご自身が、
ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。(マルコ13:32)
とこのように言っておられるからです。その時期はパウロもペテロも知りませんでした。彼らはもうすぐイエスが来られると期待していました。しかしそれは彼ら自身の期待であって、神からの約束ではなかったのです。
ここから私たちも大切なことを学びたいと思います。それは、私がこれまでの説教で何度も語ってきたように、「世の終わりが近い。主の再臨が近い」という人がいても決して信じるな、ということです。パウロやペテロでさえ知らないことを、なぜその人は知っているということができるのか、ということです。いわゆるカルトと言われる集団は、常に終末論を強調します。日本で一番有名なのはオウム真理教ですが、アメリカでもブランチ・ダビディアンという暴力的なカルトがありました。このグループはセブンスデー・アドベンティストという再臨運動を重んじるプロテスタント宗派から生まれたグループです。オウム真理教もキリスト教とは何の関係もない宗教でしたが、彼らも「ハルマゲドン」などのキリスト教用語を使っています。安倍元首相の殺害事件で社会の注目を浴びるようになった統一教会も終末論を強調します。なぜ彼らは終末論を重視するのかといえば、そうすることで求心力が増すからだというのが一つの理由です。世の終わりが近いのなら、今持っているものはいずれ消えてなくなるので、全部献金していいのではないか、仕事もやめて、宗教活動に専念すべきではないか、ということになります。ですから教勢を伸ばしたいグループは「終わりが近い」ということをいわば煽って、信者を獲得してきたのです。かくいうプロテスタントも、非常に終末論を強調します。ルターはローマ教皇をアンチ・キリストつまり悪魔のしもべと呼び、今の時代はアンチ・キリストが猛威を振るう終わりの世なのだということを強調しました。また、オウム真理教が拡大していった1980年代には、日本の福音派も終末が近いということを盛んに強調していました。また、今のトランプ政権の岩盤支持層である福音派も、終末が近いということを非常に強調し、そして彼らが現にアメリカの政治や外交にさえ強い影響を及ぼしています。そして、こういった宗教的な運動は、おおむね世の中に良くない影響を与えている場合が多いのです。それはそうですよね。この世がすぐに終わるのなら、この世界をよくしようなどという気持ちにはならないでしょう。むしろ、この滅びつつある世界からどうやって逃れるのか、ということをいの一番に考えてしまいますよね。パウロやペテロの偉かったところは、世の終わりが近いことを強調しつつ、社会に対してしっかり責任を持つようにということを強く訴えたことです。世の終わりが近いからといって仕事を辞めるようなことには強く反対しましたし、納税など、国に対する責任をしっかりと果たすようにと教えていました。善き市民として、社会に対して模範となる生き方をするように信者たちを励ましました。だからこそ、彼らの期待に反して終末は来なかったけれど、キリスト教はその基盤をしっかりと整えて、それから二千年間も続く、続くだけではなく拡大していく組織を作り上げることができたのです。私たちも終末論、終末の期待を捨てる必要はありません。主が来られて、万物を刷新するという期待は持ち続けるべきです。しかし同時に、キリストの再臨がこれからさらに二千年なかったとしても存在できるような教会形成に努めるべきです。そして組織が存続できるのは実際に人々の役に立つ、人々にとって必要なものであるからです。私たちも、この世界を少しでもよい世界にするために努めて参りましょう。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美いたします。今回は第二ペテロ書簡の終末論について考えて参りました。私たちには主イエスがいつ来られるのかは決して分かりません。それがいつなのかといらぬ心配をすることなく、むしろこの世界のために働く者とならしめてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

