イエスに従う
マタイ福音書8章18~27節

1.序論

みなさま、おはようございます。私たちはマタイ福音書を読み進めていますが、物語はまだ序盤で、主要な登場人物がまだ出そろっているわけではありません。今「物語」と言いましたが、別に福音書がフィクションだと言っているわけではありません。むしろ、福音書は起承転結という物語の作法に従って進展していくということを言いたかったのです。

物語には主人公と呼ばれる存在が必ずいます。福音書物語の主人公はもちろんイエスです。そして主人公を取り巻く人たちがいますが、大雑把に言えば「味方」と「敵」という二つのグループに分かれます。イエスに味方をする人と、反対する人たちがいるということです。イエスの最大の敵は、これまでも一度登場しましたが、それは「悪魔」です。悪魔は荒野で断食をするイエスを誘惑し、イエスがその使命に歩みだすのを妨害しようとしました。しかし、イエスは悪魔の誘惑をはねのけて宣教を始めます。イエスの敵となるのは霊的な存在である悪魔だけでなく、人間のグループとしても登場してきます。それはユダヤの最高権力者である大祭司や祭司長たち、そして彼らに協力する律法学者やパリサイ派の人たちがいます。こうしたイエスに敵対する人々の存在感がこれから高まっていきます。

主人公であるイエスの周りには敵だけでなく、もちろん味方も集まってくるのですが、これまでイエスに従った味方はシモン・ペテロとその兄弟アンデレ、そしてゼベタイの子ヤコブとヨハネの四人でした。イエスの最側近ともいえる四人です。しかし、イエスの仲間、味方はもちろん四人だけではありません。イエスは全イスラエルに、できるだけ早く神の国の福音を届けたいのです。その手助けをしてくれる仲間は多ければ多いほどよいのです。そしてそのような仲間は「弟子」と呼ばれます。イエスはできるだけ多くの弟子を得て、彼らと共に福音宣教を拡大しようとしています。しかし、誰でもイエスの弟子になれるというわけではありません。ここでいう「弟子」とは、単にイエスの福音を受け入れて、神の国の恵みに与るというだけの人ではありません。恵みを受けるというのは受け身の側ですが、弟子はむしろ恵みを伝える、与える側の人たちです。もちろん、神の恵みを受ける側も与える側もどちらも必要で、どちらか一方が優れているとか、上だということではありません。イエスの弟子たちは仕事を捨ててイエスに従っていったので、生活をしていくための稼ぎの手段を失ってしまいました。そのような彼らが伝道を続けられたのは、彼らを支えてくれるもっと多くの人たちがいたからです。彼らは福音の恵みを受ける側ですが、ただ受けるだけでなく、福音を伝える人たちの活動を支えることで、彼らにお返しをしていたのです。

というわけで、イエスの味方には、彼の伝道活動を直接手助けする比較的少数の「弟子」と呼ばれる人たちと、イエスの伝道には直接関与しないものの、間接的に弟子たちの宣教活動を支えるより多くの人たちという二つのグループがありました。今回の箇所では、この最初のグループ、つまりイエスと常に行動を共にし、苦楽を共にしていく「弟子」となるための心構えが述べられているのです。イエスと行動を共にするということには、それなりの覚悟と犠牲が伴うことを今日の箇所は強調しています。ただ、もちろんすべてのクリスチャンがこのような覚悟や犠牲を受け入れなければならないということではありません。これはイエスに直接従う、どこまでもついていくということを選んだ少数の人たちだけに要求される厳しい要件だということです。そのようなことを念頭に置いて今日の箇所を読んで参りましょう。

2.本論

では、8章18節から読んでいきましょう。ここではイエスの弟子となることを願う二人の人物が登場します。一人は「律法学者」です。律法学者と言うのはモーセの律法の専門家で、人々に具体的に律法をどのように日々の生活で守るべきかを教えていました。律法学者は、福音書ではイエスとは対立する立場の人たちが多いのですが、みんながみんなイエスに敵対したわけではなく、イエスに心酔し、イエスに従おうとした律法学者もいたのです。しかし多くの律法学者は、イエスが自分たちとは異なる律法の解釈をして、それを人々に教えていたのでイエスに腹を立てていました。今でいえば、大学の教授が学生に教えている内容とは違う内容のことをユーチューブで教えている人がいて、学生たちが自分ではなくそのユーチューバーのことを信じるようになってしまったという、そんな感じでしょうか。大学教授は面目をつぶされて怒るでしょうが、イエスに腹を立てた律法学者たちもそんな感じでした。イエスなんて、どこの馬の骨かもわからないやつが自分の教えを否定していると感じて、なんとかこの生意気なやつをつぶしてやりたいと思ったのでした。それでも、すべての律法学者がそんなに心が狭かったわけではありません。なかにはオープンな心持の人もいて、偏見なしにイエスの教えを聞いて、またイエスがなさる驚くべき癒しの業も目撃し、このイエスこそイスラエルが待ち望んでいた救世主に違いないと確信する人もいたのです。ここで登場する律法学者もまさにそのような人でした。彼はイエスにこう語りました。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」これは、ものすごく大胆な発言ですね。この律法学者にも、今まで世話になってきた先生や先輩がいたでしょうし、また当時の律法学者は人々に律法を教えて月謝を貰っていたわけではなく、自分自身で手に職を持っている人がほとんどでした。今の時代の大学教授や、あるいは塾や予備校の先生は教えることで報酬を得ることができますが、イエスの時代の律法学者は「律法教室」みたいな会を開いて給与を得ていたわけではなく、職人のように何かを作ったりしてそれで生計を立てていたのです。律法については、無償で人々に教えていました。もちろん、食べ物とか、何らかのお礼をもらってはいたとは思われますが、それを主な収入源とはしていなかったのです。この律法学者がイエスにどこまでもついていくということになると、自分の仕事を辞めなければならないし、また今まで律法を共に学んできた同僚や先輩がイエスに反対している場合、彼らとも決別しなければならなくなります。つまり彼は仕事も人間関係も捨ててイエスについていくと宣言しているのです。今でいえば、安定した収入がある公務員かサラリーマンが仕事を辞めて、放浪の旅を続ける不思議な人物についていくようなものです。皆さんがその人の家族なら大反対するでしょうね。それほどの覚悟を持って、この律法学者はイエスについていくと宣言したのです。その彼に対し、イエスはこう言われました。

狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。

ここでイエスは自分のことを「人の子」と呼んでいますが、これはマタイ福音書では初めてのことです。イエスは、動物にすら寝床があるのに自分には枕する所もない、とぼやきのようなことを語っています。実際には、当時のイエスはカペナウムのペテロの実家に居候させてもらっていたので、衣食住には不自由していませんでした。それどころか癒し人として大変な人気がありましたので、我が家に泊まってくださいと申し出る人もたくさんいたことでしょう。では、なぜイエスがここでこんなことを言ったのかといえば、イエスについていくということは、そのような非常に困難な場面に遭遇することもありえますよ、あなたにはその覚悟がありますか?と問うているのです。実際、イエスの人気が上がるにつれ、イエスに激しく敵対する人も増えていきます。夜逃げ同然で迫害を逃れるような状況もありうるのです。イエスは自分についていきたいという律法学者に対し、慎重に考えなさい、それだけの犠牲を払って私についてくる覚悟が本当にあるのか、自分に問うてみなさいと言っているのです。

さて、21節には別の人物が登場します。この人物は「弟子」とはっきり呼ばれていますし、イエスのことを「先生」ではなく「主よ」と呼んでいますので、先の律法学者と比べても、イエスとの関係性はもっと近い人物だと言ってよいでしょう。つまり、もうイエスに従っていくということを決めていて、すでにイエスと行動を共にしている人だろうということです。その人が、イエスにいわば「忌引き」を願い出ます。それは父を葬る時間が欲しいというものでした。ここで現在の日本と古代の中近東の文化の違いに気を付けてください。今の日本では結婚も葬式も大体一日で終わりますが、当時の中近東では近親者の結婚あるいは葬儀は一週間ぐらいかけて行っていました。それだけ大変なイベントだったのです。ですから、このイエスの弟子も、イエスに一週間ぐらい宣教活動を離れて家に戻らせてほしいと願ったのです。これは至極普通のことでした。当時のユダヤ人の間では、親の葬儀を立派に行うというのは何にもまして優先されるべき家族の義務でした。十戒にも両親を敬えとありますが、親のためにきちんと葬儀を行うこともその戒めの一部だと考えられていました。ですからイエスにしばしお暇させてほしいと願い出た弟子も、何も無理なお願いをしているという意識はなかったことでしょう。しかし、それに対するイエスの答えは非常に厳しいものでした。

わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。

イエスの言葉には、たまに理解が非常に困難なものがありますが、この言葉もまさにそのようなものの一つです。休暇を認めない、とイエスが言っているのは分かります。でも、死人に死人を葬らせるとはいったいどういう意味なのでしょうか。葬儀をする人たちはもちろん生きていますし、生きていないと葬儀はできません。その人たちを死人と呼ぶのはいくらイエス様でもあんまりではないですか、と言いたくなってしまいます。私は正直に申し上げて、特にこのイエスの言葉の後半の意味を捉えかねています。しかし、ポイントは「わたしについて来なさい」のほうにあります。この言葉が、次の嵐鎮めの話の伏線になっているからです。ともかくも、イエスの要求は大変厳しいものでした。イエスはこれからも、家族の問題よりも神の国を優先しなさいと繰り返し述べています。それだけイエスに従うということは生易しいことではない、ということを伝えようとしているのだと思われます。すべてを犠牲にして、家族との絆を断ち切ってでも私に従う覚悟があるのかと、ここでもイエスは問うているのでしょう。今日でも、イエスに従うというのは容易なことではありません。牧師になると言ったら親から勘当されたという先生の話を聞いたことがあります。その先生は超有名大学を卒業して将来を嘱望されていた方でしたが、親からすれば牧師にするためなんかにいい学校に行かせてやったわけではない、という気持ちだったのでしょう。今や新卒の初任給が30万円を軽く超える時代ですから、安月給の牧師など割に合わないというのが普通の感覚かもしれません。しかし、神に従うことで受ける報いはもっと大きいとイエスは約束しています。ただ、気を付けたいのは、親の世話をするというのは聖書の非常に重要な教えだということです。パウロは第一テモテの5章8節で次のように述べています。

もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。

親兄弟を顧みないことは、信仰を捨てることだとパウロは明言しています。ですから、イエスももちろん家族のことを顧みなくてよいなどと教えているわけではありません。イエスが十字架上でも母マリアの老後のことを心配していたことを忘れてはいけません。むしろイエスは弟子となることの困難さ、代価をあらためて伝えようとしているのです。中途半端な覚悟でイエスについていくことはできないのです。

さて、この二人の人物との対話の後に有名な嵐鎮めのエピソードが来ます。この話はその直前の弟子たちとの会話とは関係がなさそうに見えますが、実際にはあるのです。マタイ福音書はマルコ福音書をベースに書かれていて、マルコ福音書に登場するエピソードをマタイはほとんどそのまま借用しています。実にマルコ福音書の9割以上がマタイ福音書に収録しています。しかし、マタイとマルコを比較すると、マタイはマルコ福音書の記述を少し変えているのが分かります。今回の嵐鎮めもまさにそのような箇所です。では、どこを変えているのか見てみましょう。マルコ4章36節では、「そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした」となっていますが、マタイ8章23節では「イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った」となっています。お判りでしょうか?マルコでは弟子がイエスをお連れしたとなっているのに対し、マタイでは弟子がイエスに従った、となっているのです。これは小さな違いのように思えるかもしれませんが、マタイは明確な意図をもってそこを変えたものと思われます。なぜかと言えば、先ほどの22節の「わたしについて来なさい」というイエスの命令は、「私に従いなさい」とも訳せますが、それと対応するかのように「弟子たちも従った」となっているということです。実際、この二つの文ではアコロウセオーという同じ動詞が使われています。つまりマタイは、この嵐鎮めの話を弟子の道という文脈で提示しようとしているのです。これから弟子たちが向かう船旅を、この世の荒波に譬えているということです。弟子たちはこれからイエスの神の国の福音を携えて、世間という嵐の中を進んでいかなければなりません。死んでしまうのではないか、と思われるほど困難な状況に直面するかもしれません。しかしそんな時でも、彼らは一人ではない、イエスがいつも共におられてこの世の荒波すら克服する力を与えてくれる、そのような堅い信仰をもって歩みなさいというメッセージを込めて、マタイはイエスの嵐鎮めのエピソードを語っているのです。弟子の道は確かに大変です。イエスからの要求もとんでもなく厳しく大きいです。同時に世間からの風当たりも非常に厳しいものがあります。しかし、イエスは彼らにその困難さをも乗り越える力を与えてくださる、だから勇気を出して歩みなさいということをイエスは伝えようとしているのです。

3.結論

まとめになります。今日はイエスの弟子となるために必要な心構えや覚悟をイエスが教えたところを学びました。私たちのすべてがこのことを求められているわけではない、ということを最初に申し上げましたが、しかし今日の世界でも宣教の最前線に立ち人たちはこのような心構えが求められています。自分がそのような立場になるのか、あるいはそういう人達をサポートする立場になるのか、というのは私たちそれぞれが神様との間で考えていくべきことです。ただ、どちらがより尊いとか偉いとか、そういう優劣はありません。どちらも必要なのです。どちらも必要ですが、イエスに直接従うと決めた人に求められる要求は大変大きいのです。でも、大変なだけではありません。イエスはそのような人と常にともにおられて助けてくれるということを嵐鎮めのエピソードは教えています。同時に、神の国のためにそれまでの人間関係や仕事を捨てた人には百倍の報いがあるともイエスは約束しています。そんなこと本当にあるのかと思われるかもしれませんが、私自身がそのようなことを身をもって体験しています。私も、当時としては最高水準の給与の企業に勤めていて、その会社を辞めて聖書を学ぶためにイギリスに行くことにしたのですが、周囲の人たちからは「大丈夫なのか」ととても心配されました。また、海外に行って学ぶのですから当然お金もかかります。それまで働いて貯めたお金のほとんどをつぎ込んだので、経済的にも決して楽ではありませんでした。しかし、そこから得たものはお金には換算できませんが、それこそ何十倍でした。神様は誠実な方です。約束は必ず守ってくださいます。ですから私たちも堅い信仰をもって歩んで参りましょう。お祈りします。

天におられますイエス・キリストの父なる神様。そのお名前を賛美します。今日は弟子となることのコストと、同時にサポートについて学びました。私たちの召命はさまざまですが、それぞれが与えられた使命を果たせるように力をお与えください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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