三つの癒し
マタイ福音書8章1~17節

1.序論

みなさま、おはようございます。前回でイエスの山上の説教は終わり、イエスがいよいよ本格的な活動を始めるというところに入ります。これらの癒しは大変有名ですが、ではこうした癒しにどんな意味があったのか、イエスの宣教における病の癒しの意義を考えていきたいと思います。

まず初めに考えたいのが、山上の垂訓とこうした癒しとの関係です。イエスはここまで非常に長い説教を行ってきました。それらは驚きに満ちた、またチャレンジに満ちた、とてもとても深い内容のものでした。また、前回の説教でお話ししたように、イエスはこうした教えを人々が聞くだけで満足しまっては何の意味もない、むしろこうした教えは実践されてこそ意味があるのだ、ということを強調していました。ですから私たちとしては、イエスの教えを実際に人々が実践に移そうとして努力している姿が描かれていると、大変参考になるわけです。私たちにとっても山上の説教の内容を日々の生活でどのように活かすべきか、実践すべきかというのは大変関心のあるテーマですので、時代も文化も大いに異なる当時のユダヤの人たちではあっても、彼らがこうした教えをどのように実践しようとしていたのかを知ることには大きな意味があります。

しかしマタイは、イエスの話を聞いた人たちが、それからどのように行動したのかということについては触れずに、もっぱらイエスの活動に焦点を合わせています。しかも、その活動は大変印象的ではあるものの、イエスのこれまでの教えとは直接関係のないもののように思えます。イエスの山上の説教と、今回の三つの病の癒しを結びつけるものはいったい何なのでしょうか。この二つを結びつけるキーワードは「神の国」です。もっと具体的に言えば、「神の国の到来がもうすぐだ」というイエスのメッセージです。イエスの宣教の目的とは、神の国とはどんなものなのかを人々に示し、その備えをさせようというものでした。マタイ福音書におけるイエスの宣教の第一声は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」でした。「天の御国」というのはマタイ独特の言い回しで、マルコ福音書やルカ福音書では「神の国」となっています。これは日本語でも「神をも恐れぬ」と「天をも恐れぬ」というのが同じ意味であるように、マタイは「神」という言葉をみだりに用いるのを避けて「天」と言い換えたのです。それが近づいている、というのがイエスの伝えようとした福音でした。神の国とは神の支配です。神ご自身がこの世界を愛と正義によって支配する世界の到来がもうすぐ到来するということです。そのような新しい現実、新しい世界に備えなさい、というのがイエスのメッセージでした。では、その神の国に「入る」ためにはどうすればよいのかを教えるのが「山上の説教」の目的でした。私たちは新しい環境に入る場合、新しいルールや決まりを覚えなくてはいけません。新しく学校に進学したり、新たに企業に就職する場合、その学校の校則やその企業の社内ルールを守らなければなりません。それを知らなければ学校生活、企業での生活を円滑に行っていくことができません。「山上の説教」も同じです。これから実現しようとしている神の王国、神の支配の中で人々がどのように生きるべきなのかを教えたのが山上の説教でした。それは近いのですから、人々は今すぐにでも生き方を変えるべきなのです。

それに対して、今回のイエスの行った「癒し」は、神の国がほんの近くまで来ているということを示すための「徴(しるし)」でした。イエスはこうした癒しによって「天の御国が近づいている」というメッセージが本当であることを実証しようとされたのです。そのような大きな背景を考えていきながら、三つの癒しを見て参りましょう。

2.本論

では8章1節から読んでいきましょう。イエスが山上の説教を終えて山から下りてこられて初めに出会われた病の人はツァラアトという病を持つ人でした。このツァラアトというのが具体的にはどのような病だったのか、今でもよくわからない部分があります。それが皮膚の病であるのは確かなのですが、現在の私たちが知っている皮膚病のどれに相当するのか、確かなことは分かりません。ただ、そのツァラアトに罹患した人が社会的に大変厳しい状況に追い込まれてしまったことは確かです。まず一つには、このツァラアトは人に伝染すると考えられていので、ツァラアトになった方は家族から離れたところで寂しく暮らさなければなりませんでした。同時に、ツァラアトの人は宗教的な意味、聖書的な意味で「けがれた」人と見なされました。この聖書的な「けがれ」は罪ではないということは強調しておく必要があります。たとえば女性が出産すると、その女性は聖書的な意味で「けがれ」ます。聖書的な意味でけがれるとは、そのような女性はけがれると聖書に書いてあるということです。しかし、子供を産むのは祝福であって罪ではありません。にもかかわらず、その女性はけがれるのです。ですから聖書的な「けがれ」は罪とは区別する必要があります。ともかくも、ツァラアトになった人はそのような聖書的な意味での「けがれ」の状態にあり、そのようなけがれも人に伝染すると信じられていました。しかも、産後の女性の汚れは時間と共になくなりますが、ツァラアトの場合は治るまで「けがれた」状態のままです。したがって、ツァラアトの人は二重の意味で、つまり病気が伝染するとの、宗教的な意味でのけがれが伝染するのを防ぐために、人々から隔離されなければならなかったのです。しかも、当時はツァラアトに対する医療行為は確立されていませんでした。治る見込みがなかったということです。ですからツァラアトになってしまいことは、社会的な意味では死亡宣告を下されるのに等しいことでした。そして、旧約聖書を見ても、ツァラアトが癒されたという話はありません。唯一の例外は、異邦人の将軍であるナアマンの癒しでした。ナアマンはユダヤ人ではなくアラム人でしたが、彼のツァラアトは預言者エリシャによって癒されました。しかし、旧約聖書の癒しの記事はこれだけなのです。ほかにユダヤ人がこの病から癒されたという記録はありません。したがって、この病が癒されるということはイスラエルの長い歴史においても大事件なのです。イエスがこれから神の国が来ようとしているということを証明するための癒しとして、ツァラアトの癒しほどふさわしいものはありませんでした。

このツァラアトの人はイエスの前にやってきました。これは大変勇気のいる行動でした。なぜなら、聖書はツァラアトになった人が人前に出ることを禁止しているからです。レビ記13章45節、46節にはこうあります。

患部のあるそのツァラアトの者は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない。その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。

このように、聖書で明確に隔離を命じられている人が、イエスとその周りに群がる大群衆の前に出てくるというのはまさに命がけの行為なのです。人々から冷たい視線を浴びせられ、それだけでなく皆が自分の前から逃げ去るという、心が折れそうな状況だったことでしょう。それでも彼はどうしても治りたかったし、イエスならそれができると信じたのです。そこでイエスの前に身を投げ出して、「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます」とイエスに訴えました。「お心一つで」とは直訳すれば「もしあなたが願うなら」とあります。彼はもちろん治してほしいのですが、それをイエスに強いるようなことはせずに、あくまでイエスの憐みの心に委ねました。また、「治してください」ではなく「きよくしてください」という願望を伝えています。ツァラアトは単なる病ではなく、聖書的な概念では汚れた状態なので、その状態をきよい状態に戻してほしいと願ったのです。イエスもその人のまっすぐな気持ちに応えました。イエスは言葉を発する前に、まずそのツァラアトの人に触りました。これは驚くべきことでした。なぜなら聖書の教えでは、汚れた状態の人に触れると自分も汚れてしまうので、触ってはいけなかったからです。また、イエスならばその人に触れなくてもツァラアトを癒すことができたでしょう。なぜなら預言者エリシャはナアマン将軍に触れることなく彼のツァラアトを癒しているからです。しかし、イエスはあえて彼に触れました。このツァラアトの人もイエスに触れてもらってうれしかったでしょう。なぜならすべての人が彼を避けて、触ろうとはしなかったからでした。イエスは彼に触れた後、「私の心だ」と言っていますが、ここも直訳すれば「私は願う」となるでしょう。このツァラアトの人がお願いしたからではなく、イエスご自身の意思で彼のツァラアトを癒したかったということです。そしてその人はたちどころに清められました。聖書ではさらっと書いてますが、これはとんでもない大事件でした。なぜなら旧約聖書でツァラアトを患ったユダヤ人が癒されたという記事は一つもないからです。ですからこの癒しはイスラエルの歴史の中でも前代未聞の大事件だったのです。このような驚くべきことを行ったイエスですが、不思議なことに自分が彼を癒したことは誰にも言うなと命じています。とはいえ、周りにはたくさんの人がいたはずなのでこんな大事件が秘密にされることなどありえないのですが、ともかくもイエスはこの癒しをあまり広めないようにと指示したのです。しかし彼には癒されたからだを祭司に見せるように指示します。これは旧約聖書のレビ記の教えに従ったもので、ツァラアトから癒された人は祭司が「きよい」と宣言することを通じて正式にイスラエルの共同体の中に復帰することができるのです。イエスはこの人を癒してきよめただけでなく、彼がイスラエルの共同体の一員に戻ることを願っておられたということです。ここには、イエスの人々へのやさしい思いと配慮を見ることができます。イエスは彼らの病を治すだけでなく、社会生活をも回復させてあげたかったのです。

これが、マタイ福音書に記されたイエスの第一の癒しでした。次いでイエスは二度目の癒しを行いますが、今度の場合も最初の場合とは違う意味で極めて異例なケースでした。というのも、依頼に来たのはユダヤ人ではなく、ユダヤ人を支配し、高い税金を課し、時にはひどい暴力をふるうローマの兵士だったからです。多くのユダヤ人はローマの兵士をひどく嫌っていたことを忘れてはいけません。今でいえばベネゼエラ人にとってのアメリカ人、ウクライナ人にとってのロシア人のような存在だったのです。そのローマの兵士が、ユダヤの流浪の癒し人に部下の癒しを願ったのです。その病気のローマ人の部下も、ユダヤ人にひどいことをしていた可能性は否定できません。彼に対してイエスはどう対応したでしょうか?7節の訳では「行って、直してあげよう」というようにイエスが躊躇なく癒しに同意したように描かれていますが、より詳しくギリシア語を研究している研究者は、ここは「あなたは私に彼を直すために行けというのですか?」と言うように、疑問文として訳したほうがよいと主張していますし、私もそう思います。イエスはすぐに癒すことに合意したわけではないのです。なぜならイエスはその人を癒すためには異邦人の家に入らなければならないわけですが、当時のユダヤ人は異邦人の家に行くことを躊躇していたということは使徒の働きのペテロの言葉からも分かります。ですから繰り返しますが、イエスはその依頼に直ちに応じたわけではないのです。そして、イエスに依頼に来たローマ兵の隊長も、ユダヤ人が異邦人の家に入りたがらないということをわかっていました。そこで彼はイエスに、私の家に来てもらう必要はない、と言ったのです。むしろナアマン将軍を癒したエリシャのケースのように、言葉で言ってくれるだけでいい、それで私の部下は直るでしょうと言いました。イエスにはそのような「権威」があると認めているのです。これは見上げた信仰です。イエスもこの異邦人の軍人の深い信仰に感嘆し、初めの躊躇は撤回して彼の部下を言葉だけで癒しました。このように、イエスは初めに異邦人の癒しを躊躇したけれど、その異邦人の信仰が素晴らしかったので、それに応えて癒すという話の流れになっています。これはマタイ15章に出てくるカナン人の女の癒しとまったく同じパターンです。その時にもイエスは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と、けんもほろろでした。しかし、そのカナン人の女性の信仰があまりにも素晴らしかったので、「あなたの信仰はりっぱです」と褒めて、癒しを行っています。今回の百人隊長とまったく同じですね。ですからこれらはマタイが好んでいたパターンだということになります。そしてこの話には、マタイの教会人としての意図を感じます。というのも、イエスはその宣教対象をもっぱらユダヤ人に限定し、異邦人との接触を極力避けていたのですが、イエスの時代からだいたい50年後にマタイが福音書を書いていた時代には、なかなかイエスを信じようとしないユダヤ人たちをしり目に多くの異邦人がイエスを信じて救われていました。マタイはこのエピソードを記すことで、異邦人の救いの時代がこれから到来していくことになると、暗示したかったのでしょう。

そして三番目の癒しです。これがある意味で最も普通の癒しの記事だと言えるでしょう。イエスはナザレ出身ですが、ガリラヤでの拠点はカペナウムのペテロの実家でした。イエスはペテロの実家に、言い方は悪いですがいわば居候させてもらっています。そこでいつもお世話になっているペテロのしゅうとめが高い熱で苦しんでいましたので、イエスはそれを癒してあげました。この場合は持ちつ持たれつという具合で、とてもよい話だと思います。

このように、三つの癒しを見て参りましたが、もちろんイエスが癒されたのはこの三人だけではありません。ほかにもたくさんの悪霊につかれた人から悪霊を追い出したり、病の人を癒されました。悪霊を追い出すことは、人々を悪魔の支配から神の支配に取り戻すことなので、神の国、神の支配は近づいているというイエスのメッセージを確証するという意味でもとりわけ重要なものでした。マタイはまた、イエスのこうした活動が旧約聖書の預言者のことばの成就であるということを強調しています。マタイは14節で預言者イザヤのことばを引用しています。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」というのは、あの有名なイザヤ書53章の「苦難のしもべ」の歌から取られた一節です。ここからわかるのは、イザヤ書53章のしもべの「苦難」とは単に十字架だけではなく、むしろイエスの公生涯すべてを指している、ということです。イエスが私たちの苦しみを引き受けてくださったのは十字架上だけではなく、公生涯すべてにおいてだったということです。イエスは、おそらく人々を病や悪霊から解放するときに、ご自身でもそうした人々の苦しみを共有されたのでしょう。それがどういうことなのか、私にはうまく説明できませんが、おそらく相手の病をいやすときに、相手がこれまでどんな苦しみを背負ってきたのかが分かったのだと思います。そのような共感の上で、癒しの奇跡を行ったということです。ですからイエスご自身も、大変な思いをしながら癒しの業を行い続けたのです。

3.結論

まとめになります。今回は、イエスがその公生涯の初めに行った三つの癒しを見て参りました。最初はツァラアトの癒し、二つ目は異邦人の癒し、三つめはペテロのしゅうとめの癒しでした。このうちの最初の二つは、まさに神の国の到来、神の支配の到来がもうすぐだということを指し示すものでした。ツァラアトが癒されるというのは長いイスラエルの歴史でも初めてのことでした。このようなことが起きるということは、イスラエルの歴史に大きな転換点が訪れることを指し示すことでした。また、異邦人を癒したことも重要です。救いは今やユダヤ人に限定されず、広く異邦人にも及ぶということ、これが神の国の大きな特徴の一つです。そのような神の国の福音の拡大のミッションを、ペテロたちがこれから担っていくのですが、そのペテロのしゅうとめが癒されたことは、イエスがこうした働き人たちの生活のことも深く配慮してくださっていることを示すものです。

そして、こうした働きすべての背後にあるのはイエスの人々への深い愛と憐み、さらに言えば父なる神の愛です。神は人々を苦しみから救うために行動を開始したのです。このイエスの始められた神の国運動は、二千年を経た今日でも続いています。私たちにはイエス様のように人の病をいやす力はありませんが、社会の中の孤独や孤立を癒す働きはできると思います。イエスの働きを、今年も続けて参りましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神よ。そのお名前を賛美します。今日はイエスのなされた癒しの業を学びました。今日においても癒しを求める方は多くおられます。主がそうした方々を癒してくださいますように。また私たちも微力ながらそうした働きを担うことができますように。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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