ダビデの歌
第二サムエル22章1~51節

1.序論

みなさま、おはようございます。約二年間に及んだサムエル記からの講解説教も今回で最終回となります。ハンナの祈りから始まったサムエル記ですが、サムエルやサウル、ダビデといった非常に個性的な登場人物が生き生きと描かれた、旧約聖書文学の最高峰と呼ぶべき非常に内容の濃い話でした。その講解説教の結びに当たり、今日は第二サムエル記の22章に収められたダビデの歌を見て参りましょう。

この歌は、詩篇18編に収録されているダビデの歌と同じものです。これは、若き日のダビデがサウル王の手から救い出されたときに歌われたものだとされています。つまり、ダビデが王となった後に奢り高ぶり、バテ・シェバ事件やウリヤ殺害を引き起こし、その結果ダビデの家が完全に崩壊していくというダビデの後半生をこれまで見てきましたが、この歌はダビデがそのようになってしまう前の時期、信仰者として最も充実していた時期のダビデの歌だということです。しかし、長々とダビデ家が崩壊していく物語を聞かされた私たちがここで突然、堕落する前の輝かしい時期のダビデの歌を聞かされると違和感を覚えるかもしれません。あれほどの罪を犯したダビデが「私は主の道を守り、私の神に対して悪を行わなかった」などと言っても、何と白々しいとかえって反発を覚えてしまいます。むしろ、アブシャロムの乱という最悪の出来事を経験した晩年のダビデの悔悛の歌を聞きたいと思うのではないでしょうか。では、サムエル記の作者はなぜこのダビデの歌を彼の人生の終わりの記述の中に置いたのでしょうか?その意味を考える前に、まずはダビデの人生全体を振り返ってきましょう。

旧約聖書には様々な人物が登場します。どの人物も、とても個性豊かなので、類型化はできないとは思いますが、あえて私なりに三類型を提示してみたいと思います。第一の類型は「ヤコブ型」です。ヤコブという人物は、最初はお世辞にも信心深いとは言えず、父親を騙すなど、本当にこんな人が神に選ばれた人なんだろうか?という疑念を読者に抱かせるような行動ばかりしています。しかし、そんな彼が神の取り扱いを受け、また自分の罪の問題にも真剣に向き合うようになり、最終的には非常に霊性の高い人間となっていくというものです。第二の類型は「エレミヤ型」です。若い時のエレミヤは、ヤコブのようにひねくれたような面があったわけではないですが、しかしどこかナイーブなところがあり、危なっかしいと感じさせることもありました。しかし、多くの苦難に直面しながら段々と強さやたくましさを身に着けていき、ついには謙虚でありながらも揺るがない心を持つ神の人へと成長していくというものです。モーセもこのような類型の人物と考えてもよいのではないでしょうか。そして第三の類型は「ダビデ型」です。若い時のダビデは神への信仰に篤く、勇敢であり、苦難の時にも神への信頼を失いません。まさに今日の「ダビデの歌」で言い表されているような信仰の持ち主です。しかし、そのダビデも絶対的な権力を手に入れると傲慢になり、次々と罪を重ねて自滅していきます。そういう残念な人生ですが、彼の前のサウル王もそのような人生を送ったと言えるかもしれません。このように言うとショッキングに響くでしょうが、ダビデやサウルの原型ともいえるのがサタンです。もともと大天使であったサタンはあまりの美しさゆえに高慢になり、神に反逆したと言われています。預言者エゼキエルは次のように記しています。「あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものにした」(エゼキエル28:17)。ダビデやサウルも、始めは神に忠実だったのに、絶対権力者である王となってからは段々と神の道から逸れて行ってしまいました。サウルはともかく、ダビデとサタンを比較するなどとんでもない、と思う人も多いでしょうが、しかしダビデの人生が転落の人生であることは確かです。

ダビデの人生は、この世における成功が信仰者にとっては罠となってしまうという警告を私たちに与えています。主イエスを信じるクリスチャンであっても、多くの人はこの世での成功や名声や財産を求めます。私たちは競争社会に生きていて、子どもの時からスポーツや芸術での勝利、あるいは学歴社会での勝利を目指すようにとけしかけられています。スポーツや勉強は自分を磨くためだ、自分との闘いだ、というようなことが言われますが、それがきれいごとにしか聞こえないほど私たちは子どものころから人に勝つこと、実績を挙げることを求められます。もちろん、努力して神から与えられた自分の才能を伸ばすことは良いことです。しかし、その成功に対する報酬が大きくなればなるほど、私たちの霊性が脅かされる可能性も高くなるということを忘れないようにしたいものです。では今日のダビデの歌そのものを見て参りましょう。

2.本論

今日のダビデの歌は詩篇18編と同じだ、ということは申し上げました。その他にも、この歌は旧約聖書の多くの箇所と関連の深い内容になっています。そこで、今回はたくさん旧約聖書の他の箇所に言及することをあらかじめ申し述べておきます。では、2節から3節をお読みしましょう。「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、わが身を避けるわが岩なる神、わが盾、わが救いの角、わがやぐら。私を暴虐から救う私の救い主、私の逃げ場」となっています。ここで注意したいのは、神がすべて防御用の物事に譬えられていることです。神が刃とか、槍とか、人を殺傷するための武器ではなく、人を攻撃から守る盾など、そういうイメージで神が語られているのです。新約聖書でも同じで、神の武具と呼ばれるものは盾とか兜とか胸当てとか、大抵は防御用のものです。その唯一の例外は「剣」ですが、これは「私たちの心を刺し貫く」というような意味合いでのみ用いられています。つまり、人間の体に危害を与えるための剣ではなく、私たちの心に深く突き刺さる「神のことば」のたとえとして剣という言葉が使われているのです。新約聖書では平和が強調されているのに対し、旧約聖書の神は好戦的な神として描かれているというようなことがしばしば言われますが、この詩篇で描かれている神は攻撃ではなく防御、ダビデを守る方として描かれているのは大変興味深いことです。

 5節から20節までは、死の谷を歩み、危機にあるダビデが神の助けを叫び求めると、天から神が救出にやって来られる様が劇的に、また詩的に描かれています。神がその民の叫びを聞かれるというテーマは、旧約聖書では最初に出エジプト記に登場します。その箇所を読んでみます。出エジプト記2章23節から25節です。

イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。

神はその民の苦しみの声、叫びを聞かれます。この詩篇においても、ダビデの声を聞かれた神が天から降りて来られる様が描かれています。もちろん神は霊ですから、このように実際に神が天から降りて来るのを人間が肉眼で捉えることはできません。それはダビデの時代も、私たちの時代も同じです。しかし、私たちの霊眼が開かれれば、神とその軍勢が私たちのために戦ってくださるのを見ることが出来るのです。そのことは、預言者エリシャが示してくれたことです。その箇所もお読みしましょう。第二列王記6章15節から17節です。

神の人の召使いが、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいでしょう」と言った。すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開いたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。

このように、私たちの肉眼では霊の世界のことは見えないし分かりませんが、この世界と霊の世界は重なり合っているのです。私たちが信仰的に落ち込んで神のことが信じられなくなるときは、霊的な意味での悪の軍勢に囲まれてとりこにされてしまっているのです。そしたときに、ますます私たちは落ち込みます。しかし、神はそのような私たちを救出すべく天から降りて来られます。ダビデは霊的な目が開かれて、その様子を見ることが許されました。その様子が10節と11節に描かれています。

主は、天を押し曲げて降りて来られた。暗やみをその足の下にして。主は、ケルブに乗って飛び、風の翼の上に現れた。

もちろん、ダビデは言い尽くせないような神の栄光を表すために、非常に劇的な描写を用いているのであって、神の姿が文字通りにこのようであったとは言えません。人間には神のみ姿を見ることは許されていませんので。しかし、このダビデのイマジネーション溢れる描写は後の時代のイスラエル人に大変大きな影響を及ぼしました。大預言者イザヤもその一人です。イザヤがダビデの表現に基づいて神の降臨を描いていると思われる箇所を見てみましょう。イザヤ書64章1節から2節です。

ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。火が柴に燃えつき、火が水を沸き立たせるように、あなたの御名はあなたの敵に知られ、国々は御前で知られるでしょう。

このように、後の預言者たちに影響を与えていることはダビデの詩人としての面目躍如といったところです。17節には、ダビデが天から降りて来られたダビデが神によって救出される様が劇的に描かれています。「主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕らえ、私を大水から引き上げられた。」この、神による救出というのはダビデにとって非常に重要なテーマであり、他の歌にも見られるものです。詩篇40編の冒頭には以下のような下りがあります。

私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は私のほうに身を傾け、私の叫びを聞き、私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。

今日の聖書箇所の17節から20節までも同じようなことが書かれています。ダビデにとって、溺れた人が救い出されるというイメージがとても大切だったのが分かります。

 そして、21節から28節までは、なぜダビデが苦境から救い出されたのか、その理由が記されています。それは、ダビデは主の前に常に清く正しく歩んだからだ、というものでした。ダビデはこう言っています。

私は主の前に全く、私の罪から身を守る。主は、私の義にしたがって、また御目の前のわたしのきよさにしたがって 私に償いをされた。

バテ・シェバ事件以降のダビデを知っている私たちからすればこれは驚くような発言ですが、しかしサウル王に追われて放浪者だったころのダビデは確かに主の前に正しく歩んでいたのです。彼はサウル王からいわれのない嫌疑をかけられてもサウル王に報復せずに、さばきを主に委ねました。サウル王も、ついにはダビデに対し、あなたは私よりも正しい、主があなたに幸いを与えるだろうと宣言するまでになりました。これはまったく皮肉なものです。理不尽な目にばかりあって、まるで神から見放されていたように見えた頃のダビデが信仰者としてはもっとも輝いていて、反対にこの世の栄耀栄華をすべて手に入れてまさに神の寵愛を一身に集めていたように見えた頃のダビデが信仰者としてはまったく堕落してしまっていたのですから。しかし、ここに重要な真理があります。先ほども申しましたが、この世における大きな成功は私たちの霊性においては大いなる罠になってしまうということです。これは難しい問題です。確かに私たちは自分たちに神から与えられた才能を生かし、伸ばすべきです。しかし、その結果としてこの世から大きな賞賛が与えられると、私たちは何か非常に大切なものを失いかねないということです。実際、この世での成功は大きな代償を伴うということを私たちはみな知っているのかもしれません。政治家が選挙で勝つため、あるいは大臣ポストを得るために自らの信念を曲げる、サラリーマンが自らの良心を殺してでも会社の利益のために行動する、というようなことがあるのを私たちは知っています。偉くならなければ、上に行かなければ何も変えられない、世の中をよくするためには出世するしかない、そして出世のために自らの理想や信念を一時的に棚上げするのは仕方のないことなのだ、ということがしばしば言われます。しかし、そうして世と折り合いをつけていくうちに、私たちは何か大事なものを失っている、代償を支払っているということも忘れてはならないのです。ダビデも、いつしか保身のために道に迷い、神の掟を破り、大変な災いを招くことになりました。ダビデはこう続けています。

あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。

この言葉はダビデにそのまま当てはまりました。ダビデがひたすら主に忠実であった時には、神は大いなる報いを彼に与え、羊飼いに過ぎなかった彼は王にまで出世しました。しかし彼の心がねじ曲がり、無実のウリヤを殺害した後は、彼の人生にはひたすら災いがありました。神はそれぞれの人に行いに応じて報いられるというのはいつの時代にも真理なのです。

そしてダビデの次の言葉は、サムエル記の冒頭にあったハンナの祈りを思い起こさせます。「あなたは、悩む民を救われますが、高ぶる者に目を向けて、これを低くされます。」ハンナもこう歌っています。「主は、貧しくし、また富ませ、低くし、また高くするのです。」サムエル記全体がまさにこのようなテーマに貫かれていると言えます。ダビデはまさにその典型でした。彼は小さな名もなき羊飼いでしたが、苦難においてさえも神に忠実だったがゆえに引き上げられて、イスラエルの王にまで昇りつめました。しかし、成功して高ぶってからは、辱められ、低くされました。このダビデの一生の中にサムエル記のテーマが凝縮されていると言えるのではないでしょうか。

3.結論

まとめになります。今日はサムエル記の結びの部分に収録されているダビデの歌を読んで参りました。この歌は、晩年のダビデの歌ではなく、むしろダビデが信仰者として最も充実していた時期、すなわちサウル王の嫉妬によってゆえなく命を狙われ、何度も命の危険を乗り越えたダビデが神に感謝して歌った歌でした。この歌が第一サムエル記の終わりに置かれているのならともかく、どうしてこの箇所に収録されているのか、不思議に思う方もおられると思います。私もそうでした。その理由を自分なりに解釈すれば、サムエル記の作者は私たちに大切な教訓を与えようとしているのだと思います。今やダビデの悲惨な後半生を知る私たちは、この青年時代のすがすがしく自信にあふれたダビデの歌を読むときに、人の人生の移ろいやすさというものを感じずにはおれません。あんなに立派だった人が、とその落差を思わざるを得ないのです。そしてそれがサムエル記の記者の狙いなのではないでしょうか。私たちの人生は、苦しい時期、ピンチだと思われる時期、将来が不安で一杯な時期の方が、神との関係でいえば実は安全なのかもしれません。なぜならこういう時期の私たちは神により頼まざるを得ないからです。苦難の時は、私たちの心は主に近く、それゆえ安全なのです。ひるがえって、ひとたびこの世の提供する安心・安全を手にしてしまうと、私たちの心は知らず知らずのうちに神から遠ざかっていきます。「私は安全だ。私を脅かすものはなにもない」という心が忍び寄ってくるのです。しかし、こういう状態が実は一番危険なのです。ダビデがまさにそうでした。外国との戦争も部下に任せて自分は安穏と王宮でうたたねをしていたときに、大きな罪がダビデの心に忍び寄りました。その後にどうなったかはよく知る通りです。私たちの人生は、ある意味で安心・安全を求めるためにあるといっても過言ではありません。私たちが必用以上にお金を貯めたり、いろいろな心配事をするのもすべては将来の不安を取り除きたいからです。しかし、それで自分が本当に安全になるのかを今一度問うてみたいと思います。主イエスは「人は、たとい全世界を手に入れても、まことの命を損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう」と語られました。この言葉は、人としての栄華を極めながらすべてを失ったダビデの生涯を思う時、一層強く胸に迫ります。私たちはまことのいのちを目指して歩んで参りましょう。お祈りします。

天におられます我らの父よ、二年間におよぶサムエル記からの講解説教を守り導いてくださったことに感謝します。本当にいろいろなことを考えさせられましたが、その一つ一つが今後の信仰生活の糧となりますように。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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