1.序論
みなさま、おはようございます。サムエル記の上も、いよいよ残すところ今日を含めて二回となりました。次回はサウル王の壮絶な死で終わるのですが、そのサウル王の後継者となっていくダビデの活躍が描かれているのが今回の箇所です。今日の説教題は「信仰によって奮い立つ」で、ダビデの信仰に光が当てられています。ピンチの中でも神への信仰によって難局を切り抜けるダビデは素晴らしいのですが、逆に言えばこれまでのダビデの行動は、実はあまり信仰的ではなかったとも言えます。ダビデは危機に際して信仰に目覚めたのです。
これまでのダビデは一年半ほど、イスラエルの敵であるペリシテ軍に傭兵、つまり外人部隊として雇われる格好になっていました。なぜイスラエルの敵側に寝返ったと思われるような行動を取ったのかといえば、それはサウル王を恐れたからでした。ダビデは自分の命を狙うサウル王の命を奪うことができる機会があったのにもかかわらず、それを見逃したことがありました。そのダビデの立派な行動に感動したサウルは、もうダビデの命を狙うことはしないと誓ったのですが、これまでも何度も前言を撤回して自分の命を狙ってきたサウルの言葉が信じられず、ダビデはサウルの手の届かないところに逃げようとしたのです。そして、サウルの手の届かないところというのが、イスラエルの宿敵であるペリシテ人のところだったのです。サウルも強大なペリシテ軍を恐れていましたから、そこに逃れればうかつに手は出せないだろうと考えたのです。
ただ、問題はダビデのこの決断が信仰に基づいたものであったかどうかです。興味深いことに、これまで重要な決断をする際には常に神の御心を求めてきたダビデですが、このペリシテ人の都市での逗留の間に一言もそのような記述がありません。つまり敵であるペリシテ人に雇われるというダビデの奇抜な戦略は、神の指示ではなくダビデ自身の判断だったのではないかということです。ダビデはペリシテ人からイスラエルを守るために神から選ばれた人物ですから、そのダビデを神がペリシテ人の傭兵にするというのは確かに考え難いことなのです。つまりここから言えるのは、ダビデのこの行動の背後にある動機は、神への信頼ではなくサウルへの恐れだったということです。聖書には、人を「恐れるな」というメッセージが至るところに出てきますが、恐れは私たちの神への信仰をかき消してしまうものだからです。ダビデもサウルを恐れずに神を信頼すべきでした。そのように考えると、サウルへの恐れからペリシテ人の下に逃れたダビデの行動は不信仰から生じた行動であったと思われるのです。
そしてペリシテ人の王アキシュに仕えるようになってからのダビデの行動も信仰に基づいたものだとも思えません。というのも、ダビデはかりそめにとはいえ自分を保護してくれているアキシュ王を騙す行動を1年以上も続けているからです。アキシュ王にはイスラエル人と戦っていると言いながら、実際はアマレク人と戦っていました。そして、その嘘が露見しないように、アマレク人の兵士だけでなく、罪のない女子供までも皆殺しにしました。このダビデの残虐な行為によって、アマレク人の間にもいつかダビデに復讐してやろうという思いが生じたことでしょう。そしてこれらの行動に関しても、ダビデが神に祈ったとか、神の御心を求めたという記述がありません。したがって、これもダビデの独自の判断に基づいた行動であったのではないかと思われます。
そうしているうちに、アキシュ王を騙すというダビデの行動は1年以上も続きますが、とうとうその嘘が露見しそうになる事態が訪れました。アキシュ王はイスラエルに総攻撃をかける決断をし、辺境の地で国境警備に当たるダビデにもこの攻撃に加わるように要請してきたのです。ダビデとしては大変困った事態になりましたが、王自ら自分を招集してきたので、それに応じないわけにはいきません。この事態をどう打開するのか、妙案を持たないまま、おっとり刀で急いでアキシュ王のもとに馳せ参じました。ダビデはこの時に相当に慌てていたものと思われます。ですから自分の領地であるツィケラグの防衛について、自分の留守中の十分な対策を打たないまま、アキシュ王の下に向かってしまいました。しかしアキシュ王は、イスラエルとは戦いたくないというダビデの思いに実は気が付いていたように思われます。そしてダビデの体面を傷つけない形で、ダビデがこの攻撃に加わらないですむようにしてあげました。ダビデの側はこのアキシュ王の恩情に気がついていないようでしたが、ともかくもダビデとしてはたいへんありがたい展開となり、ダビデは自分の所領であるツィケラグに戻っていきました。しかし、一難去ってまた一難とばかりに、そこでも大変な事態になっていました。
2.本論
では、今日の箇所を1節から見てみましょう。「大変な事態」とは、ダビデが不在の間にこれまで戦ってきたアマレク人がダビデの領地であるツィケラグを襲っていたことでした。アマレク人たちはダビデの行動を掴んでいて、彼の隙を突いたのです。ただ、アマレク人たちはツィケラグにいたダビデやその部下たちの家族を一人も殺さなかった、と書かれています。これまでダビデはアマレク人の兵士たちの家族を容赦なく殺してきました。ダビデに復讐する、「目には目を」というのが目的であるならば、ダビデの家族を皆殺しにしそうなものですが、そうはしなかったのです。おそらくは彼らを捕虜にして奴隷として売り飛ばそうとしたのでしょう。古代社会ではむしろその方が普通で、民間人を含めて皆殺しという方が異常だったのです。ともかくも、ダビデたちが戻ってくると、町は焼かれてそこの住民は皆連れ去られた後でした。
ダビデもその部下たちも絶望しました。これからイスラエルの同胞と戦わなければならないのかと不安で一杯だった彼らがその心配から解放された途端、今度はもっと大きな悲劇が彼らを襲ったのです。そして、絶望したダビデの部下たちの怒りの矛先はダビデへと向かいました。なんと、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したのです。いきなりどうしたのだ、と思われるかもしれません。ただ、彼らのダビデに対する怒りはこの一件だけから生じたのではないように思われます。むしろこの一件が引き金となって、これまで鬱積していた不満が爆発したものと思われます。というのも、ダビデの部下たちにとってもペリシテ人の地で過ごした一年半はけっして楽なものでも楽しいものでもなかったということです。彼らもイスラエルの現在のサウル王朝に不満を持っていて、だからこそダビデに従ってきたのですが、だからといってイスラエルの仇敵であるペリシテ人の味方をするなどとは考えたこともなかったでしょう。大将であるダビデの判断だということで、これまでは渋々従ってきたものの、最後の最後にこのような悲惨な結末を迎えてしまったことで、今まで抑えてきた不満が一気に爆発したものと思われます。やっぱりお尋ね者のダビデなんかに従うべきではなかった、この男は我々を破滅させるためにあちこち引き回してきたのだと口々に不満をぶつけあいました。彼らは不満と怒りのはけ口をダビデに求めたのです。
さあ、ダビデは追い込まれてしまいました。これまで騙しだましなんとかやってきたダビデですが、とうとうにっちもさっちもいかなくなったのです。しかし、ここでダビデはようやく目を覚ました。自分の原点に立ち戻ったのです。つまり信仰に立ち戻り、主の御心を求めたのです。困った時の神頼み、というのは悪い意味で使われることが多いですが、良い意味にもなり得ると思います。信仰者でも、つい神への信仰によらずに自分の力で、自分の策略で何とか目の前の事態を切り抜けようとしてしまうことがあります。そういう時に、神はその信仰者にあえて自分だけの力では解決できないような苦難やピンチを送ります。そうして信仰者に忘れかけていた信仰を取り戻すようにと促すのです。自分の力はちっぽけなものに過ぎないことを気づかせてくれるのです。今回のピンチも、ダビデの信仰にとってはまさにウエイクアップコールとなりました。すぐにダビデは祭司エブヤタルに、祭司の衣装であるエポデを持ってきて、神意を占うようにと命じます。エポデを使って、具体的にどうやって神意を伺うのか、詳しいことは不明ですが、ともかくも神はダビデの呼びかけに応えてくださいました。それによると、アマレク人の略奪隊には追いつけるので、追撃せよというのが神託でした。この神の命令に奮い立って、ダビデは直ちに全軍で追撃部隊を組織しました。しかし、ダビデの手勢は総勢六百人でしたが、彼らの中には疲れ切った者や、あるいはダビデの言うことがもはや信じられなくなっていた者もいました。そして三分の一の二百人はこれ以上動けないということだったので、ダビデは残る四百人を率いて追撃を続けました。
ダビデたちにとって幸運だったのは、彼らがアマレク人の捨てた奴隷を発見したことでした。この奴隷はエジプト人で、病気になってしまったのでアマレク人の主人に棄てられてしまったのでした。可哀そうに、彼は三日三晩飲まず食わずの状態で放置されていました。ダビデはこのエジプト人奴隷をねんごろに介抱してやりました。そうするとこの奴隷も元気になり、またダビデたちに恩を感じて、ダビデの追撃に協力することを約束しました。彼はアマレク人のアジトまでダビデたちを案内してくれたのです。こうしてダビデたちは道案内を得て、最短でアマレク人の略奪隊に追いつくことができました。しかも彼らは安心しきっていて、お祭り騒ぎをしている最中でした。その不意を突いて、ダビデたちはアマレク人に襲いかかりました。慌てふためいたアマレク人たちはそこから逃げ出しましたが、ダビデたちは丸一日かけて彼らを追撃し、らくだに乗って逃げた若者を除いて彼らを皆打ち殺しました。
そして幸いなことに、連れ去られたダビデや彼の部下たちの家族は皆無事でした。また、このアマレク人たちはあちこちの村々で略奪を働いてきたので、たくさんの牛や羊を分捕りものとして帯同していました。それらの家畜もみな、ダビデたちのものとなりました。こうして焼け太りというのでしょうか、この苦難を乗り越えてダビデたちはむしろ豊かになったのでした。しかし、その後にひと悶着が起りました。先ほど言いましたように、アマレク人を追撃したのはダビデの軍勢六百人のうちの三分の二の四百人でした。二百人は追撃には加わらなかったのです。この二百人には分捕り物の分け前を要求する権利はない、とダビデの部下たちが言い出したのです。しかし、ここでダビデは鷹揚な態度を示します。ダビデは信仰的にとても大切なことを言います。この度の成功は私たち自身の力で勝ち取ったものではない、むしろ主が私たちに与えてくださったものではないか、と部下たちに語りかけます。彼の家族も部下たちの家族も奇跡的に皆奪い返すことが出来たのは主が私たちを守ってくださったからだし、こうした分捕り物も主が私たちに賜ったものなのだ。それなのに、自分の働きの方が大きいとか、これは働いた者だけのものだとか言うのは主の前に正しいことだろうか、と語ります。むしろ主の恵みとして、皆で平等に分けようではないか、とダビデは諭します。このように、自らの働きを自分の功績とせずに、むしろ主の恵みの賜物だとすることはイスラエルの信仰にとって非常に大切なことでした。彼の部下たちもダビデの言うことを聞き入れ、そしてこのことはその日以来イスラエルのおきてとなりました。イスラエルでは、いわゆる能力主義で多く働いたものがたくさんの報酬を得るというのではなく、むしろ主の前に皆平等に分け合うということがルールになったのです。これは今日の能力主義の時代の価値観から見ると奇妙に思えることかもしれませんが、聖書が一貫して主張していることでもあります。主イエスのたとえでも、働いた時間の長さに関係なくみな同じ賃金が払われたという話がありますが、これが聖書の提示する社会の在り方なのです。しかし、このときにダビデが決めた取り決めは、後の時代になると守られなくなり、イスラエルは段々と不平等な社会、格差社会へと変質していってしまいます。ただ、初めからそうであったわけではないのです。それからダビデは自分たちだけでなく、かつてイスラエルの領内でサウル王から逃げ回っていた時に自分たちを匿い助けてくれたユダ族の人々にも、この時の分け前を贈ったのでした。
3.結論
まとめになります。今日は特にダビデの信仰について見て参りました。ここでは特に二つのことがポイントでした。一つは、ダビデのような信仰者といえども、常に神の御心を求めて行動するというわけではないことです。ダビデもサウル王への恐れから、つい神への信仰よりも自分の思いに引きずられて行動してしまうことがありました。ペリシテ人の地に逗留していた一年半、ダビデは神の御心に従っていたとはいえず、むしろ自分の知恵に頼って行動していた部分があったのですが、そのようなときに神はあえてダビデに自力では乗り越えられないような苦難を与えました。それはダビデを苦しめるためではなく、むしろ忘れかけていた神への信仰を取り戻すためでした。このようなことは私たちの人生においてもたびたび起こり得ることです。私たちも信仰を捨てるわけではないにせよ、神の御心よりも自分の判断を優先して行動してしまうことがあります。そういう時に私たちの人生の航路は神の御心から離れていってしまうのですが、そのことを私たちに気付かせるために神は私たちにあえて苦難を与えることがあるのです。そのようなときに私たちはパニックにならず、むしろ立ち止まって神の御心を探り求めるべきなのです。このように考えると、苦難ですら神の与えてくださる恵みだと言うことができるでしょう。
もう一つのポイントは、ダビデが今度の働きを自分の手柄にはせずに、むしろ神に栄光を帰したことです。これも非常に重要なことです。私たちは何かで成功すると、つい自分が頑張ったからだと考えてしまいがちになります。しかしそれは大きな間違いなのです。申命記にも次のような警告の言葉があります。
あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。(申命記8:17)
このことはとても大事なことです。私たちの成功は、私たちの努力のたまものである以上に、神の賜った恵みなのです。自分の成功を自分の努力のたまものだと思う心が、自分の待遇に対する不満を生むのです。「俺はもっと評価されるべきだ。給料をもっともらうべきだ」というような思いは多くのサラリーマンが抱くことかもしれません。確かに社内の評価制度に改善すべき点もあるかもしれません。しかし、クリスチャンとして忘れてはならないのは、私たちの成功は神が与えてくださったものだという謙遜な思いです。そのようなへりくだった心があるからこそ、勝者がすべてを得るということではなく、むしろたくさん働いた人も少しの働きにしか見えないような人も平等に成果を分かち合おうという思いが生まれてくるのです。私たちは自分が持っているもので、自分のものと呼べるようなものは何もない、すべては神から来たものなのだ、このような思いを抱いてこそ、神の下に平等な社会を築くことができるのです。ダビデもこの時そのような思いから、分捕り物は皆で平等に分けるという決まりを造ったのです。今日の資本主義社会でそのようなことを実現するのは難しいかもしれませんが、せめて教会の中ではこのようなことを実践していきたいと願うものです。お祈りします。
信仰から少し離れかけていたダビデに気づきを与え、信仰を取り戻させてくださった神様、そのお名前を讃美します。私たちもともすればダビデのようになりやすい者ですが、そのようなときには私たちにも気づきをお与えください。またダビデのように、自分の成功を自分の力のせいだと思うことなく、すべては神の恵みであるという謙遜な思いを持つことができますように。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン