アキシュ王
第一サムエル29章1~11節

1.序論

みなさま、おはようございます。第一サムエル記上も、いよいよ残すところあと三章となります。サムエル記上はサウル王の死をもって終わりますが、それは同時にダビデがその次の王となっていくことが決定的になる時でもあります。しかしそのダビデは、なんとイスラエルの敵であるペリシテ軍の傭兵となっています。ダビデはイスラエルの王となるためにはペリシテ軍を離れなければなりませんが、しかし今やダビデはそのペリシテ軍の一員としてイスラエルを攻撃することが求められています。このジレンマをダビデがどう脱するのか、その顛末を今回の箇所は記しています。

今日の箇所ではペリシテ人の王であるアキシュという人物に注目したいと思います。彼はこの物語においてはバイプレーヤー、つまりわき役ですが、しかし今回の箇所では主役級の存在感があります。このアキシュ王とはどんな人物なのか、また神の摂理の中で彼が果たした役割とは何なのか、そうしたことを考えて参りたいと思います。

今回の箇所をさっと読むと、アキシュは単なる愚かな王に思えてきます。ダビデはこれまで1年以上もの間アキシュ王を欺いて、面従腹背、つまり王に従うふりをして実は彼の目を欺いてきたわけです。それなのに、ダビデの真意に全く気付くことなく、むしろダビデを完全に信用しきっています。しかしペリシテ軍の将軍たちは誰もダビデを信用していません。ペリシテ人の間では、アキシュ王だけがダビデを全面的に信じているのです。しかも、繰り返しますがダビデはアキシュ王を騙し続けているのです。こうしてみると、アキシュは哀れなピエロに思えてきます。このお馬鹿さんな王様のおかげで、ダビデは1年以上もの間サウル王の追及を逃れることができたわけです。しかし、最終的にイスラエルの王となったダビデはペリシテ人を滅ぼしてしまうわけです。こうしてアキシュ王は敵に塩を送るどころか、最悪の敵を積極的に保護してしまったことになるのです。

しかし、このアキシュ王はただの愚かな王とは呼べない気がします。「人を見たら泥棒と思え」というような文化に生きる者としては、ここまで純粋に人を信じられる人物はすごいのではないか、とも思えてきます。この徹底的に人を信じるという姿勢は、アキシュ王がこれから戦おうとしているイスラエルの王であるサウルとは対照的です。サウルに対してダビデは何一つ悪を行わず、騙したこともなかったのにサウルは勝手に妄想を膨らませてダビデを疑い、殺そうとします。しかしアキシュについてはダビデは一貫して彼を騙し、利用することしか考えていません。それなのにアキシュはそんなダビデを心から愛し、自国民であるペリシテ人たちの言うことに耳を貸さずにかえってダビデを擁護しています。どうもこのアキシュ王は人を疑うということを知らない人物のようです。しかし、こういう人をただの愚か者と切り捨ててしまうのも、どこか違う気が致します。

「聖なる愚者」という言葉があります。純粋過ぎて人を疑うことを知らず、普通の人から見ればただの馬鹿に見えるのですが、しかしそういう人にはえも言われない美しさがあるという、そういう人のことを「聖なる愚者」と呼ぶのだそうです。「馬鹿が付くほどの正直さはただの馬鹿なのよ」ということを聞いたことがあり、確かにそうなのかもしれませんが、しかしそれが正論になってしまう社会と言うのもなんだか悲しい気がします。キリスト教は「負けるが勝ちの宗教」だと言われますが、キリスト教の価値観では、人を騙すよりもむしろ騙された方がよいと教えます。パウロもコリントの信徒たちに対して、

そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正を甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。(第一コリント6:7)

と諭しています。ただこれは、世の中の不正を黙って見逃せとか、ただ不正を黙って我慢しなさいとか、そういうことではありません。私たちはこの世界に正義がなされるように努めていく責務があります。しかし、誰も信じられない人は確かに誰からも騙されることはないでしょうが、そういう人生は寂しいものだとも思えます。むしろたとえ騙されてしまうとしても、人を信じることが出来る人の方が強い人だし、そういう人の人生の方がトータルに見れば幸せなのではないかと思えるのです。こう考えると、アキシュという王様も、ただの馬鹿なおぼっちゃまというように見ることなく、彼の人格の美徳にも目を向けることが出来るのではないかと思うのです。少なくとも今回の場面ではダビデよりもアキシュ王の方が人間的には魅力的に思えるし、私個人もどちらの友人になりたいかと言われれば、アキシュを選ぶという気がします。そんなことを考えながら、今日のテクストを読んで参りたいと思います。

2.本論

さて、では1節から読んで参りましょう。前回の28章の冒頭にもありましたように、ペリシテ人はイスラエルに総攻撃をかけようとしています。アキシュは、今や全幅の信頼を置くダビデにも、この攻撃に加わるようにと要請します。ダビデはイスラエルと戦う気は全くないものの、王に直接頼まれてしまい断るわけにもいかずに、王の軍勢に加わることになりました。ダビデとしては、非常に困った状況になってしまいました。何とかこの状況から抜け出したいのですが、良い手がありません。口では平静を装っていますが、内心ではダビデも相当に焦っていたものと思われます。ペリシテ人の領主たちは、各々の軍団を率いて王のもとにはせ参じています。この大きなペリシテ軍の陣営のしんがりに、アキシュ王の親衛隊がいるわけですが、その親衛隊の一翼をダビデが担っていたのです。ダビデはペリシテ軍の中では外様というか、むしろ敵国人なわけですから、そんなダビデがアキシュ王の親衛隊になっているというのは考えて見れば驚くべきことです。親衛隊と言うのは何よりも王に対して忠誠心が強い人が選ばれます。しかし、アキシュに忠誠のかけらもないダビデがその一員になっていたのです。

しかし、アキシュはそれでよくても、他のペリシテ人の領主たちはそうはいきません。なぜこれから戦おうとしているヘブル人の男が、よりにもよって王のお側近くにいるのですか、とアキシュにかみつきます。アキシュも、ダビデがイスラエル人であることを認めますが、彼はもうイスラエルとの関係は清算していて、この1、2年は自分のために良く働いてくれている。彼については心配ないと太鼓判を押します。「私は彼に何のあやまちも見つけなかった」と言いますが、このセリフはポンテオ・ピラトがイエスの裁判においてイエスの無実について述べた言葉ととてもよく似ています。

しかし、ペリシテ人の領主たちは、このアキシュの申し開きに全く納得せず、それどころか怒り出しました。あなたはこの男がどんなに危険な男なのか分かっておられない、と。実際、14章のところにあるペリシテ人とヨナタンたちとの戦いにおいては、最初ペリシテ人に従っていたヘブル人たちが、戦いの趨勢がイスラエルに有利に傾くや否や、すぐにヘブル人を裏切ってイスラエルに寝返ったことがありました。ダビデも、たとえ今はサウル王に睨まれているとしても、ペリシテ軍の将軍の首を土産にサウル王の所に戻れば、サウル王も復帰を認めるかもしれない。だからこのダビデはいつ我々の寝首をかくかもわからないので、とても安心して背中を任せることなどできない、とアキシュ王に訴えます。しかも、このダビデはただのイスラエル兵ではない、むしろ『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った』とまで謳われるほどの猛者である。こんな危険な男を今回従軍させるべきではない、と重ねて訴えました。

ここまでペリシテ人の領主たちに言われてしまうと、アキシュも引き下がらざるを得ませんでした。アキシュはダビデを呼んで、事情を説明します。私はあなたを心から信頼しているが、他の領主たちが納得しないので、申し訳ないがここは静かに立ち去って欲しいと願います。ここでもアキシュはダビデについて、「あなたが私のところに来てから今日まで、私はあなたに何の悪いところも見つけなかった」と言っています。この言葉も、ピラトがイエスについて語った言葉を思い起こさせます。

でも、これはダビデとしては願ってもない展開です。なんとかペリシテ軍から離脱しようと必死で考えていたところ、ペリシテ軍の方から離脱して欲しいと言われたのです。しめしめと心の中で舌を出しているわけですが、その内心とはうらはらに、アキシュ王に対してはどうして私が去らなければならないのか、と抗議します。ダビデも大した役者です。最初は純朴な若者だったダビデも、経験を積むうちにしたたかさを身に付けていたのです。アキシュはこのダビデの言葉にコロッと騙されて、再びダビデをなだめすかそうと、誠心誠意詫びています。今度はダビデのことを、「私は、あなたが神の使いのように正しいということを知っている」とまで持ち上げます。正しいという言葉のヘブル語は「トーブ」とは「良い」という意味の言葉で、神が天地創造の際に造られたものをご覧になって「良い」と言われたその言葉です。ダビデは天使のようにとても良い人だった、とアキシュはダビデを讃えているのです。そのうえで、どうか今回は領地に戻ってほしいと懇願します。

ダビデとしては、願ってみない展開で、内心で喝采を叫んでいたことでしょう。このしたたかなダビデに比べて、アキシュはなんと愚かなのか、とても王の器ではない、と思われるでしょう。しかし、驚かれるかもしれませんが、実はアキシュ王は何もかもお見通しだったのかもしれません。ダビデが自分を騙してイスラエル人と戦うふりをして実は戦っていなかったことも、今回のダビデの一連の行動もくさい芝居だと見抜いていて、そのうえでダビデのことを思いやって、彼の体面が保てるようにしてあげていたように思えるのです。ダビデはアキシュを騙していたつもりが、実は何もかもを知ったうえでダビデを保護してあげていたアキシュ王の掌の上で踊っていただけだったように思えるのです。

なぜそう思うのかといえば、それはアキシュ王の最後の一言から読み取れます。アキシュは最後の最後に、本音を漏らしてしまったということです。それは「あなたの君主のしもべたちと」帰りなさい、という言葉に表れています。本来なら、ここでは「あなたのしもべたちと」と言うべきところです。しかし、アキシュはそうは言わないのです。あなたの君主とは誰でしょうか?それはイスラエルの王サウルのことです。つまりアキシュはダビデに対し、「サウル王のしもべたちと一緒に帰りなさい」と言っているのです。これはどういう意味なのでしょうか。サウルから逃れてダビデに従っているはずの彼の兵士のことを、ダビデではなくサウルのしもべと呼んだその意図はどこにあるのでしょうか?おそらくアキシュは、ダビデたち一行がいまだにイスラエルとその主君に忠誠心を抱いていることを見抜いていたのです。なぜアキシュが辺境を警備していた一部隊の長に過ぎないダビデを、今回の戦ではわざわざ自分の側の親衛隊に取り立てて、皆の注目を集めるような真似をしたのでしょうか。これは相当に異常な行動で、平社員をいきなり社長秘書にするような人事です。騒ぎが起きない方が不思議です。案の定、ペリシテ軍の領主たちがそのことで騒ぎだし、ダビデを去らせようにと圧力をかけてきました。アキシュ王でなくても、このような展開になることは誰でも分かることで、アキシュ王も当然そこまで読んでいたものと思われます。そこまで先の展開を見切ったうえで、ダビデを傷つけずに去らせようとしたのです。アキシュをうまく騙していたはずのダビデは、単に彼の恩情の中にいただけだったということです。パウロはコリントの信徒たちに、「なぜ、むしろだまされていないのですか」と教えましたが、アキシュ王はそれを実践していたということです。

アキシュというのはただの愚かな王ではなかったということです。ペリシテ軍のような実力主義の社会では、単なるおぼっちゃまでは主君は務まりません。ペリシテ人の五つの都市国家の一つを任されていたアキシュは非常に優秀な君主であったはずです。しかし、能ある鷹は爪を隠すのです。彼は彼なりにダビデの人となりを見定め、ダビデという人物を理解した上で、ダビデが出来る範囲でペリシテ人のための貢献を求めたということです。アキシュ王は非常に懐の大きい、人情がありながら賢明な人物だということです。ダビデは騙すつもりが騙されていたということです。しかしおそらくダビデはこのことに気がついてはいませんでした。

3.結論

まとめになります。今日はダビデを一年半もの間匿い続けたペリシテ人の王アキシュについて見て参りました。アキシュはダビデに騙され続け、いいように使われ続けた道化のような王だというのが一般的な見方でしょうが、実はこのアキシュはダビデの意図をすべて見抜いたうえでダビデを保護し、今回もまたダビデの立場を損なわないように、自分が道化の役を買って出ることでダビデを助けたのではないか、と言う視点からお話ししました。ペリシテ人と言うのは中央集権的な国家ではなく、五つの都市国家を中心とした連合体です。愚かな君主では他のライバル都市との戦いに勝ち残れないので、アキシュがただの疑うことを知らない馬鹿者だった、というのはどうも歴史的に見ればありそうなことではないのです。

ではなぜアキシュはモノ好きにも交戦中の敵国の将であるダビデを保護しようなどと考えたのでしょうか。それは、アキシュはダビデの中に何か好ましいもの、捨ててしまうには惜しいものを見いだしたからでしょう。それだけでなく、ダビデの歩みの中に神の摂理のようなものを感じていたのかもしれません。ペリシテ人とは、パレスチナという言葉の語源になった、イスラエルの敵の代名詞のような民族名です。しかし、そのような民族の中にもアキシュ王のような寛容で思慮深く、憐み深い王がいたことを忘れるべきではないでしょう。敵と見れば極端に悪魔化するような傾向の強い現代にあって、敵と思われている人物が実際にはどんな人なのか、改めて考えてみるべきなのかもしれません。アキシュ王は私たちにそのような問いを投げかけているように思われます。お祈りします。

ダビデを守ってくれたのは味方のサウルではなく、なんと敵であるペリシテ人の王であった、ということを今日のみことばから学びました。主イエスは敵を愛しなさいと教えられましたが、愛するためにはまず敵を知らなければなりません。そのような努力から平和が生まれるものと信じます。どうか私たちにそのような知恵と勇気をお与えください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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