癒しと赦し
マルコ福音書1章40~2章12節

1.導入

みなさま、おはようございます。マルコ福音書のこれまでのところは、イエスが歴史の表舞台に登場するまでの様々な出来事を描いた、導入部のような意味合いがありました。そして今日の箇所からは、有名なエピソードが次々と登場します。本日の箇所の二つの癒しもとても印象的な、有名な話です。そして、こうしたエピソードを読むうえで注意していただきたいのは、これら様々な出来事を通じて見えてくるイエスの狙い、目的です。といいますのも、漫然と福音書を読んでいくと、イエスは何の目的もなくガリラヤの村々を放浪しているような印象を受けてしまうからです。イエスは特に目的も目指すべきゴールもなくあちこち歩き回っていたけれど、その行く先々で可哀そうな人たちに出会い、彼らの悲しみや苦しみに心動かされて、自分に備わっている不思議な癒しの力を用いてそうした人たちを癒していった、そんな風に読んでしまうかもしれません。しかし、イエスは決して漫然とあちこちを放浪して、場当たり的に癒しの業を行っていたのではありません。むしろ、一刻も自分に与えられた時間を無駄にしないように、よくよく考えて、計画的に行動していたとみるべきです。実際、イエスには明確な目的があり、その目的に沿って行動していました。イエスの目指していた目標を一言で言うならば、それは「神の王国」の到来、あるいは「神の支配」の実現です。この地上世界に神の支配を目に見える形で実現する、神ご自身が支配されるというのは、どんなものなのかを人々に具体的に示すことです。

しかし、そのような目的を抱いたのはイエスが初めてではありません。むしろ旧約聖書から始まるイスラエルの歩みそのものが、その目的のためのものでした。イスラエル、ユダヤ民族が神に選ばれたのは、世の光として世界の人々に道を示すこと、世界中の人々を真の神へと導く祭司の王国となるためでした。そのためにこそ、彼らは世界中の民族の中から選ばれたのです。しかし、イエスが登場した時代のユダヤの人々は、自分たちが世の光だと胸を張って言えるような状態ではありませんでした。「むしろ私たちは世の笑いものです」と自嘲気味に語るユダヤ人の方が多かったかもしれません。実際、当時のユダヤ民族は深く傷ついており、その内部にも様々な分裂や対立を抱え込み、また外国勢力からも搾取されるという、まるで神から見放されているかのような、そんな有様でした。ユダヤの人々もそのことを強く感じていました。自分たちは惨めな立場にあることを強く自覚していた、いやさせられていたのです。自分たちが外国人に支配されて、神の祝福が得られないのは、自分たちの祖先が犯してきた罪の結果だと、そう考えました。それで彼らは彼らなりに、神にこれまでの罪を赦していただこう、神に心から立ち返ろうと努力しました。そうすれば神はこれまでイスラエルが犯してきた様々な失敗や罪を赦してくださり、この惨めな状態から救い出してくださり、これからはユダヤ民族を大いに祝福してくださるだろう、そう考えたのです。しかし、そのために彼らが行った努力は、イエスの目からは見当違いな、むしろ有害にさえ思えるものでした。多くのユダヤ人は、問題はローマ帝国の支配にあると考えました。ローマは異教的な風習、異国の神々を神聖なるユダヤの地に持ち込み、聖なる大地を汚している。だからローマ帝国と命を懸けて戦うこと、それこそが神の御心なのだ、と考えたのです。さらに彼らは、外部だけでなくユダヤ内部の人たちにも厳しい目を向けました。自分たちは神の選ばれた民、聖なる民なのだから、自分たちの中から不純な者たちを取り除かなければならない、神の目に喜ばれない罪深い人々を自分たちの中から排除すべきだ、それが神の御心なのだと、そのように信じていました。しかし、イエスはそのどちらにも賛成しませんでした。

イエスは自分の同胞であるユダヤ人の人々に、彼らは神から決して見放されてはいない、それどころか今や神は彼らを大いに憐み、傷ついた彼らを癒し、そして彼らに新しい活力を与えようとしておられる、そのことを示そうとしました。そのためにイエスは、イスラエルの中でもことさらに神からも人からも見捨てられていたと信じられていた人々、失われた人々を捜し求めて、彼らを癒し、イスラエル共同体の中に再び招き入れました。こうした癒しの業を通じて、機能不全に陥っていたイスラエルを神が憐み、神は今や新しくされたイスラエルを通じて神の支配、神の王国を実現しようとしておられる、そのことを示そうとされたのです。そのようなイエスの大きな目的、ヴィジョンを念頭に置きながら、今日のテクストを読んで参りましょう。

2.本文

今日の箇所ではイエスによる大変有名な二つの癒しが描かれています。これまでも多くの病人を癒してきたイエスですが、今日の箇所の二つの癒しはこれまでのものと比べても際立った点があります。では何が特別だったのか、そのことに注目しながら読んで参りましょう。

最初の癒しはツァラアトと呼ばれる病の癒しでした。このツァラアトというのがどのような病だったのかというのは、いまではよくわかっていません。しかし、旧約聖書のレビ記は、まるまる1章を割いてこのツァラアトについて記述していますので、それが特別な病であるのが分かります。ツァラアトには強い感染性があったので、このツァラアトに罹った人は、人里離れたところに隔離されて住まなければなりませんでした。しかし、このツァラアトにはさらに深刻な問題がありました。このツァラアトに罹った人は宗教的な意味で「汚れている」と見なされなければならないことでした。これは聖書に書かれていることなので、強い拘束力を持っていました。そして、聖書的な意味で汚れた人に触れることは禁じられていました。汚れた人やモノに触れると、その人も宗教的な意味で、つまり神の目に汚れた者になると信じられていたからです。そのためにツァラアトに罹った人はユダヤ人の共同体から完全に排除されていました。隔離され、治療も受けられないのですから、治りようがないのです。モーセの律法は、ツァラアトに罹った人に対して、今日の私たちの目から見れば残酷とも思えるようなことを要求しています。レビ記13章44節から46節までをお読みします。

彼はツァラアトの者であって汚れている。祭司は彼を確かに汚れていると宣言する。その患部が頭にあるからである。患部のあるそのツァラアトの者は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、「汚れている、汚れている」と叫ばなければならない。その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。

このように、ツァラアトの人はイスラエル共同体から断ち切られ、孤独の中に住まなければならないと、神の掟である律法は命じるのです。では、イエスと出会ったこのツァラアトの人は、いったいどのようにしてイエスのところに近づいたのでしょうか。40節には、そのへんの事情は何も書かれていません。イエスとその人は、突然出会ったような印象すら与えます。しかし、イエスと彼が偶然出会うなどということはまずありえないことでした。その当時は、ツァラアトに罹った人たちはある特定のエリアに閉じ込められていて、彼らが勝手にそこから出て出歩くことは許されてはいませんでした。彼らはボロボロの恰好をして、ふろにも入れなかったのでひどく不快なにおいを発していたものと思われます。そんな人たちの一人が、ツァラアトの居住区を抜け出したとしても、すぐに人々に見つかってしまったでしょうし、そうなると大騒動になったのは間違いありません。その人は、人々に近づいてはならないというモーセの律法を公然と破ったのですから、冒瀆者として石打にされて殺されても文句は言えなかったでしょう。そんな人が、人だかりの中にいて屈強な大人でも容易に近づくことができなかったイエスの下にたどり着けるとはとても思えません。では、なぜ、またどうやって、このツァラアトの人はイエスに会うことが出来たのでしょうか?それは、イエスの方から彼のところに近づいていったからとしか考えられません。つまり、イエスが自ら人里離れたツァラアトの人々が住むエリアに出かけて行ったということです。イエス一人だったのか、弟子を連れてなのかは書かれていませんが、イエスは自ら誰も近寄らないツァラアトの人々の住むエリアに出かけて行ったのです。ここに、イエスの積極性、失われた人々を探し求める情熱を強く感じます。

けれども、ツァラアトの人たちは、見知らぬ訪問者を警戒し、また薄汚れた自らの姿を恥じて、イエスの前には出てこようとはしなかったでしょう。しかし、その中の一人には、その訪問者がイエスであることが分かりました。たまたまその時、ツァラアトに罹った人の家族が来ていて、イエスのなさった話をしていたのかもしれません。そこでその人は、勇気を奮い起こしてイエスの前に身を投げ出しました。彼は必死に、「もしあなたがそう願われるのなら、私をきよくすることがお出来になります」とイエスに言いました。イエスは必死に願う彼に強く心を動かされ、深く同情し、彼に手を伸ばされ、触れました。イエスは病を癒す際に患者に触れるということを先週申しましたが、この場合は特別な意味合いがあります。ツァラアトは単なる病気ではなく、宗教的な意味での汚れと見なされていたからです。ですからツァラアトの人に触れるということは、単に感染リスクに自らを晒すということだけでなく、宗教的なタブーを犯すこと、してはいけないことだと見なされていたからです。人によっては、それは罪を犯すことと同じだったでしょう。しかしイエスは、神はそんな宗教的なタブーに拘る方ではないこと、むしろ人々が恐れる汚れなど、ご自身の清さによって打ち消すことが出来る、打ち勝つことが出来るということを示そうとしたのでした。イエスがこの癒しによって象徴的に示そうとしたのは、神の願いはイスラエルの汚れた者たちを失われた人として排除するのではなく、むしろ彼らを神の憐みと愛によって癒し、イスラエルの聖なる交わりに引き戻すことなのだということでした。神に清めることのできない汚れなどないのです。イエスは「私が願うのだ。清くなりなさい」と命じられました。すると、たちどころにツァラアトが癒されました。もちろん、他の奇跡と同じく奇跡など信じられないという人には、この癒しの話もただの作り話としか思えないでしょう。この話は、傷ついた人へのイエスの限りないやさしさを示すもので、それ以上のものではない、という人もいます。しかし、ツァラアトに罹った人々に深い同情を示した人はイエス以外にもたくさんいたでしょうが、そうしたやさしい人たちのことは私たちには何も伝わっていません。人々がそれこそ命がけでイエスのなさったことを伝えたのは、単にイエスがとっても優しかったからだ、などとは私には信じられません。イエスがなさったことが、どうしても伝えなければならない、歴史を変えるほどのインパクトを持っていたからだと考える方が、ずっと自然なのではないでしょうか。

さてイエスは、自らがたった今行った癒しがどれほど大きな衝撃を人々に与えるのかをよく理解していました。なにしろ旧約聖書全体を通じてもツァラアトが神の力で癒されたというケースはたった一度しかないからです。しかもそれは、イスラエル人への癒しではなく、外国人の将軍であるナアマンに対して、預言者エリシャを通じてなされた癒しでした。ですから、ここでイエスに癒された人は、イスラエル人として初めて神からツァラアトを癒されたということになります。この癒しがガリラヤ全土に伝えられれば、イエスの評判はさらに大きくなり、いや大きくなりすぎて、行動の自由を奪われるほどのものとなったでしょう。そこでイエスはこのツァラアトを癒された人に、このことを誰にも言わないようにと命じられました。むろんイエスもいつまでも秘密にできるとは思っていなかったでしょうが、余りにも急速に自分の噂が独り歩きしてしまうのはよくないと思われたのでした。ただイエスはその人に、モーセの律法に従ってツァラアトが治ったことを祭司に確認してもらうようにと命じました。その手順を踏まなければ、彼がイスラエル共同体に復帰することができないからでした。しかし、この癒された人はイエスの言いつけには従いませんでした。でも、それは無理もないと思います。人生に絶望し、人里離れたところで死を待つだけだと思っていた自分の人生が一瞬にして、劇的に変わったのです。うれしくて仕方なかったでしょう。とても黙っておられず、自分の身に起こった驚くべき神の業を人々に宣べ伝えました。これをこの人の罪だというのは酷な気がします。しかし、その結果、このニュースは人々に巨大な興奮を引き起こし、その騒ぎのあまりの大きさに、イエスは町の中に入って行くことが出来ないほどでした。このツァラアトの癒しは単に一人の人の病が癒されたというのにとどまらず、神がイスラエルのために大いなることをなさろうとしておられる、その確かな徴として人々に受け止められたでしょうし、まさにそれがイエスの伝えようとしておられたことでもありました。イエスのなさる奇跡には、象徴的な意味というか、より大きなことを指し示すような面があったのです。

さて、このツァラアトの癒しという驚くべきニュースと共にイエスはカペナウムに凱旋しました。むろんイエス本人には凱旋などという気持ちはありませんでしたが、周囲の人々は間違いなくそのように捉えていました。われらがイエスは、さらにビッグになって私たちのところに戻ってきてくれた、そんな感じでしょうか。有名になるのは結構なことですが、しかし有名になればなるほどイエスに会うのが難しくなります。本当にイエスに会う必要がある人が、その機会を奪われてしまうという、そういうことになってしまいかねません。実際、そういう人がいました。その人は中風、つまり体がマヒしていて自分では動くことが出来ない、そういう重い病を抱えていました。しかし、彼にとって幸運だったのは、彼のためにわがことのように必死に動いてくれる四人の友人たちがいたことでした。イエスはおそらく今回もシモン・ペテロの家にいてそこで人々の訪問を受けていたのでしょうが、人だかりでイエスに近づけそうもないことを見て取った中風の人の友人たちは、なんと大胆にも屋根に上ってその一部をはがし、中部の人を釣り下ろしてイエスのところに降ろしたのです。器物損壊罪じゃないか、と思われるかもしれませんが、イエスはもちろんそんなことは気にしませんでした。むしろ中風の人の友人たちの強い信仰に感心し、喜んで癒そうとなさいました。

しかし、イエスがその時この中風の人にかけた言葉は意外なものでした。「私の心だ。癒されるように」と言うと思いきや、「あなたの罪は赦されました」と言われたのです。でも、中風の人は懺悔のために連れて来られたのではなく、病の癒しのために来たのです。どうして病の癒しではなく罪の赦しを与えられなければならないのか、とどこかちぐはぐな印象を受けてしまいます。もしかすると、イエスはその人が中風になってしまったのは、その人が何か重い罪を犯してしまったためなので、病気の前にその罪の問題を取り扱わなければならないと考えておられたのかもしれません。しかしイエスは、病気の原因はその人が犯した罪なのだという、かなり短絡的な因果論を別の場面ではきっぱりと否定しています(ヨハネ福音書9:3)。ですからイエスがここで「あなたの罪は赦されました」と語ったのは、「あなたの病気の原因である罪は赦されました」という意味ではないだろうと思われます。

むしろイエスのこの発言の真意は、イエス自身が後で説明したように、イエスには罪を赦す権威があることを人々に知らせるためでした。これは非常に大胆な、また物議をかもす発言でした。イエスはこれまで、自分がメシアであり神の子であることを秘密にしてこられました。悪霊たちがイエスの正体を言おうとするのを禁止して、黙るようにと命じてこられました。しかし、ここではイエスは自らが罪を赦す権威を持つ者であると公に宣言したのです。律法学者が言うように、罪を赦すことが出来るのは神だけなのです。イエスは自分が神だと宣言しているようなものです。自分の正体を隠そうとするイエスと、驚くほど大胆に自分が何者かを語るイエス、いったいどちらが本物のイエスなのでしょうか?この疑問を解くカギは、10節の「人の子」という言葉にあります。イエスはご自分のことを「メシア」だとも「神の子」だとも呼びませんでしたが、「人の子」というなんだか不思議な呼び名で自分のことを呼んでいるのです。そして、この「人の子」という呼び名は、実際にはメシアや神の子よりももっと大きな権威と威光を帯びた呼び名なのです。「メシア」あるいは「キリスト」という称号そのものは、実はそれほど大それたタイトルではありません。メシアとは油注がれた王という意味であり、イスラエルの歴史上の王様、ダビデやソロモンはその意味でみなキリストです。キリストは歴史上たくさん存在した、内閣総理大臣と同じような言葉なのです。また、「神の子」と言うのも実はそれほど大それた称号ではありません。イスラエルは神の子だと言われます。ですから、イスラエルの民、ユダヤ人はある意味ではみな神の子です。また、特にイスラエルの王メシアは神の子だと言われます。神の子は、キリストの別称であるということです。そう考えると、自分はキリストであり神の子であると宣言するのは自分は王であると宣言することなので、確かに政治的には大胆な発言ではありますが、神を冒涜するようなものではないのです。

それに対し「人の子」という呼び名は、大変な爆弾発言になり得るものでした。その理由は、旧約聖書のダニエル書にあります。ダニエル書には、預言者ダニエルが見た幻が描かれていますが、それによれば、「人の子のような者」とは神そのもの、あるいは第二の神とも呼ぶべき存在なのです。ダニエルは幻の中で、年老いた神が若き神に全世界の支配権を授ける場面を目撃しますが、その若き神こそが「人の子」と呼ばれる存在なのです。しかし、そうなると天には年老いた神と若い神の二人がいることになり、神はお一人である、唯一であるというイスラエルの信仰に反することになります。このように、ダニエルの見た人の子の幻はユダヤ人にとっても大いなる謎なのですが、イエスは大胆にも自分こそがその若い方の神、「人の子」なのだと示唆しているのです。イエスは自分が政治的な意味での王、キリストであることは秘密にしていますが、しかし自分がそれよりもっと大いなる存在、神そのものであるとも仄めかしていたということです。それがこの「人の子」という呼び名の持つ意味合いです。しかし、イエスの話を聞いていた人々がイエスのこの発言から、直ちにダニエル書の「人の子のような者」を連想したのかと言えば、そうではありませんでした。もしそうなら、大変な大騒ぎになったでしょうから。人の子とは、英語で言えばson of manという、普通の会話の中では何という意味もない言葉です。ガリラヤの人々は、イエスの言葉とダニエル書とを直ちに結びつけられなかったのでしょう。イエスはここでも自分の正体を慎重に隠しながら、分かる人には分かる、耳のある人には聞こえるようなヒントを与えた、ということなのだと思われます。

さて、話を戻すと、イエスが中風の人に「あなたの罪は赦されました」と語ったとき、それを聞いていた律法学者は、「罪を赦せるのは神だけだ。この人はなんと不遜なことを言うのか」と心の中で考えました。これは、マルコ福音書でのイエスに対する初めての否定的な反応です。イエスの言動が、単に素晴らしいものだということを超えて、当時のユダヤ人の宗教観・世界観をひっくり返してしまうような危険性を感じ取ったのです。また、イエスの発言は当時のユダヤ人エリートの権威に対する挑戦として受け止められるものだったことも注意すべきです。罪を赦せるのは確かに神だけですが、神は人にも罪を赦すための権限を与えていたことも忘れてはいけません。当時、罪を犯した人はどのように罪を赦されたのかといえば、それはエルサレムの神殿に行って、犠牲を捧げることを通じてでした。旧約聖書のレビ記には、罪の赦しのための儀式が詳しく書かれていますが、そうした儀式を司るのが神殿にいる祭司たちで、祭司はその儀式を終えると「あなたの罪は赦されました」と宣言しました。この中風の人にイエスが語ったのと同じ言葉です。ですから、イエスがエルサレムの神殿に仕える祭司で、祭司としてこの言葉を語ったのなら、律法学者にも文句はなかったのです。しかし、祭司でもない、無位無官のイエスが神殿ではない普通の家の中でこの発言をすることは大問題でした。イエスは祭司だけに許されている特権を侵害した、祭司の権威を蔑ろにした、こう解釈されるのです。イエスはこれからエルサレムのエリートである大祭司たちとの激しい戦いに巻き込まれてきますが、その戦いはもうこの時点から始まっていたのです。

さて、このように「罪を赦す」権威を巡っての律法学者との小競り合いの後、イエスは中風の人に単刀直入に「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と命じられました。すると、彼はたちどころに癒され、イエスに言われたとおりに家に帰っていきました。再び大いなる衝撃が人々を包みました。このイエスの癒しにも、象徴的な意味が含まれていたように思えます。それはこの中風の人と、ユダヤ民族全体の状況が二重写しになっていたということです。この中風の人は体がマヒしていて自由に動けなかったのですが、当時のユダヤ民族も身動きが取れない状態にありました。外部からは強大なローマ帝国に押さえつけられていて、内部でも分裂状態でまとまりがなく、ユダヤ人同士で争っている、そんな状況でした。そして多くのユダヤ人は、自分たちがそんな悲惨な状況にあるのは、先祖たちが積み重ねてきた、また自分たち自身の罪のためだと感じていました。自分たちに神が怒っておられる、だから私たちはこんなに不幸なのだ、と感じていたのです。そうしたユダヤ人全体に、イエスは「あなたたちはもう赦されている。神は怒ってはおられない。むしろ神はあなたがたに祝福を与えたいと願っておられるのだ」と伝えようとしました。ですからイエスが体の不自由な人に「あなたの罪は赦されました」と語ったとき、ある意味でユダヤ民族全体にその言葉を語ったとも言えます。そして「人の子」である私には、すべてのユダヤ人に神に代わってそのように語る権威があるのだ、とも示唆したのです。ですから、この中風の人の癒しは、単なる一つの癒しに留まらない、イエスの宣教そのものを象徴した行動だと言えます。しかし、イエスがそのように語ることを面白くないと感じる人たちがいました。彼らこそ、当時のユダヤ社会でリーダーだと目されていた人たちでした。彼らはイエスの言動を、自分たちの権威や権力への挑戦と受け止めたのです。ですから、これよりイエスと彼らとの対立はますます激しくなっていくのです。

3.結論

まとめになります。今日はイエスのガリラヤ伝道の初期の段階でのとりわけ有名な二つの癒しを見てきました。ツァラアトの人と中風の人は、ある意味でユダヤ民族全体の状態を象徴するような人たちでした。貧しく無力な多くのユダヤ人は、自分たちは神の前に汚れている、罪深い状態だと感じていました。また、彼らは自分たちが比喩的な意味で身動きのできない、袋小路にいるように感じていました。ですからイエスが彼らに「清くなりなさい。あなたの罪はもう赦されている。だから前を向いて歩み始めなさい」と語った時、ある意味でユダヤ民族全体に同じ言葉を贈ったのです。

そして、このイエスのメッセージは二千年の時を経た今の時代にも有効です。私たちは自分たちがどんなに失敗したと感じていても、神の前に清くないと感じていても、清められ、癒され、神の民として前を向いて歩み始めることを許されているのです。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」(イザヤ1:18)と神は言われました。しかもそれは個人だけでなく、社会全体にも当てはまります。私たちの住む世界は、環境破壊や戦争によって、もう後戻りできないほど汚されてしまった、と感じることがあるかもしれません。しかし、神はこの世界を決して諦めることはありません。ですから私たちも、その神を信じ、世界のために、平和のために生きていきたい、そう強く願うものです。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様。そのお名前を賛美いたします。今日はイエスの癒しの中でもとりわけ印象的な二つの癒しを学びました。そして主イエスは、今の時代に生きる私たちにも同じ癒しをお与えくださることを感謝します。今週もどうか私たちに福音の光の中を生きる力をお与えください。われらの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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