迫害とその結果
マタイ福音書10章24~42節

みなさま、おはようございます。マタイ福音書を読み進めていますが、今日の箇所は大変重たい、非常に難しい「迫害」というテーマを扱う所だということをまずお断りしておきます。

なにしろ、イエスの弟子たちへの迫害の結果として、36節には「さらに、家族の者がその人の敵となります」とあります。このイエスの言葉は、よくよく考えるとものすごい言葉ですよね。私たちの常識に反する言葉だからです。たとえば日本には「男は敷居を跨げば七人の敵あり」ということわざがあります。「敷居を跨げば」ということは、逆に言えば敷居を跨ぐ前、つまり家族の中にいる間はそこには敵はいない、ということになります。世間を敵に回しても、家族だけは自分の味方だ、というのが私たちの常識的な考え方です。聖書も家族を大事にしなさいと教えます。第一テモテという書簡にも、こうあります。

もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。(第一テモテ5:8)

このように、家族を大事にしない人は信仰を捨てた人であって、そもそも信仰を持っていない人よりも悪いというのです。しかし、イエスは家族に対して厳しいことを確かに言われているのです。マルコ福音書にはこうあります。

まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。(マルコ10:29-30)

つまりイエスは、自分のために、また福音のために家族を捨てることも厭うな、とまで言っているのです。ただ、こういう過激なことを語ったのはイエスだけではありません。仏陀、つまりお釈迦さまも妻や子供を捨てて修行の旅に出ました。イエスも仏陀も家族をもちろん大事にしていましたが、家族よりも大事なものがある、ということをおっしゃりたいのでしょう。しかし、今回のイエスの言葉はそれよりもさらに過激です。イエスは、福音のために家族を捨てなさいと言っているだけでなく、家族があなたの敵になる、とまで言っているのです。家族を捨てるのと、家族を敵に回すというのは全然話が違います。イエスはこうも言われました。

わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。

これはイエスの数ある言葉の中でも、最も驚くべきものの一つでしょう。イエスは「平和の君」と呼ばれます。「右の頬を打つ者には、左の頬を向けなさい」と言われるほどの筋金入りの平和主義者です。そのイエスが「わたしは剣を、すなわち戦いをもたらすためにこの世に来た」と言われるのです。家族同士が福音を巡って争うとまで言うのです。これはいったいどういうことなのでしょうか。

一つの見方として、日本のようにキリスト教の伝統のない国には、キリスト教信仰が家族の中に争いごとをもたらしてしまうというのは否定できないことであるように思います。これは前の教会で聞いた本当の話なのですが、ある小学生のお子さんがおじいさんに対して、「おじいちゃん、イエス様を信じて。そうしないと永遠の地獄に行くことになってしまうよ」と言ったということです。もちろんこのお子さんには悪気はなくて、おじいさんのことを心配して本気で語ったそうなのですが、おじいさんは大変立腹して、その子の両親に「あなたたちは孫にいったいどんな教育をしているのだ」とすごい剣幕で怒ったそうです。でも、このお子さんからすれば、教わったことを素直に信じてそのまま語っただけなので、なぜ自分の言ったことが悪いことなのか分からなかったそうです。このように、キリスト教は人の魂の永遠の運命という極めて重い、重すぎるテーマを扱うものなので、とうぜん意見が分かれます。永遠の地獄を信じる人は家族をなんとしてもそのような運命から救おうと頑張りますが、信じない人からすれば迷惑千万な、というより極めて不愉快な話であるからです。日本では、家族全員が信者でもない限り、キリスト教信仰は家庭の中に不和をもたらしてしまうものなのかもしれません。

しかし、イエスが福音を語ったのは21世紀の日本ではなく、今から二千年前のパレスチナの地です。そして、イエスが福音を語ったのは国民のほとんどが敬虔に唯一の神を信じるユダヤ人たちでした。そのユダヤ人たちは、なぜイエスの語った福音によってそんなに意見が割れて、家族同士が敵同士になってしまったのでしょうか。イエスは「神を信じなさい。さもなければあなたの家族は地獄に落ちます」などという福音を語ったわけではありませんでした。みんな神を信じているので、誰もそのような話を聞いても恐ろしいなどとは思わないのです。イエスが語ったのは、「この世界に神の善なる支配がもうすぐ到来する。今の不義の世は終わり、新しい時代が始まるのだ」という希望に満ちたメッセージでした。もうすぐ良い世界になるのだ、と言われて悪い気がする人はいないでしょう。では、なぜそんな希望に満ちた「福音」が家族の間に深刻な意見の相違をもたらしてしまったのでしょうか?それには、当時のユダヤの政治的な状況を理解しなければなりません。

当時のユダヤは、独立国ではなく、植民地でした。ローマ帝国という外国の軍隊が駐屯して、その支配者に高い税金を納めていました。日本は外国の植民地になったことがないので、外国の植民地になるのがどんなにみじめなものなのか、よくわからないかもしれません。しかし、日本はかつて外国を植民地支配したことがあり、戦後八十年も経った今でもかつて植民地支配した国々と様々な摩擦が生じています。植民地支配されるということは、それだけ民族の誇りを深く傷つけるものなのです。神の支配が来るためには、まずローマの支配を何とかしなければなりません。では、どうすればローマの支配を神の支配、ローマの帝国を神の王国に変えることができるのでしょうか。ローマも黙って引き下がるはずがないので、彼らの支配を打ち破るためには何らかの行動が必要になります。もしイエスが「その新しい時代をもたらすためにローマと戦おう。武器を取って革命を起こそう。ローマ帝国と彼ら協力するユダヤの支配者たちを打ち倒すのだ」と人々に戦いを呼び掛けたのなら、どうでしょうか。ローマの支配に不満を持っている人たちはそれを喜んで受け入れるかもしれませんが、そんな争いはごめんだという人も少なくなかったでしょう。ローマのような超大国と戦うということは、今の世界で言えばアメリカ合衆国と戦うようなものです。太平洋戦争で悲惨な敗北を経験した日本人は、それが如何に危険な行動であるのかが分かるでしょう。そのようなことになれば、多くの人が戦争で傷ついたり、死んでいくことになります。ですから、そんな戦いの呼びかけには賛否両論、熱烈に革命を支持する人と、争いを好まない人の間では、たとえ家族同士であっても大きな反目が生まれたでしょう。しかし、イエスはそのような革命を呼び掛けることはしなかったし、むしろそんなことには強く反対していました。

では、イエスのメッセージはなぜ家族にさえ対立をもたらしてしまったのでしょうか。その理由については、いくつかの説明があるでしょうが、特に注目したいのは38節です。そこでイエスは自分に従う者は十字架を背負ってついてきなさい、と語っています。ここで「十字架」に言及していることが重要です。なぜなら当時のユダヤ人にとって、十字架は「敗北」の象徴だったからです。十字架は、宗教的な冒とく罪を犯した人が処刑される方法ではありませんでした。むしろそれは、ローマ帝国に対して謀反を企てた者に対し、見せしめとして辱めを与えるためのものでした。十字架は人を素っ裸にして何日も木の上に吊るすという、単純ながら恐るべき処刑方法でした。汚いですが、排泄物は垂れ流しです。人間の尊厳を徹底的に奪うための方法でした。どんな人も、十字架だけは嫌だと思うでしょう。イエスは弟子たちに、その十字架を背負えと命じているのです。しかし、では十字架を背負えというのは、本当に十字架に架かれという意味ではないでしょう。むしろそれは、敗北を受け入れろということでした。ユダヤの地を支配する侵略者であるローマへの敗北を受け入れろということです。そのようなメッセージは誰も聞きたくないことでした。神の国が来れば、悪い人たちはやっつけられる、侵略者のローマは滅ぼされる、これがユダヤ人たちの待ち望んでいたことでした。メシアは敵を滅ぼしてくれるはずの人物でした。

しかし、メシアであるはずのイエスはその敵の手によって十字架に架かり、そしてイエスは自分の弟子に対しても同じ道を歩みなさいと教えたのです。イエスは敵を憎みなさい、ではなく愛しなさいと教えました。このまさに革命的な教えこそが、イスラエルの中に大きな分断をもたらした理由の一つなのです。なぜなら、人間というものは敵に対してはどんな犠牲を払っても打ち勝とうとし、負けを認めることは非常に困難だからです。このような話をするのは、現在も大きな困難の中にある方たちにとっては非常に不愉快なことかもしれませんが、ウクライナの話をするのをお許しください。ウクライナはもう四年間も戦場になっています。その首都キーウでは、電力不足で停電が続いています。寝室の温度はマイナス十五度にもなっているということです。そんなに寒いのに路上生活者は5万人にも達するということです。その一方で、権力者たちは肥え太っています。最近、隠されてきた汚職問題がマスコミにも明らかにされるようになり、ある国営エネルギー企業から中抜きされて政府高官に渡った汚職金額は150億円にも達しているとの報道がありました。ゼレンスキー大統領の最側近とされる人物が大豪邸を建てている写真が公表されて大スキャンダルになりました。市民は寒さで凍える中で、一部のトップは私服を肥やしているのですから、やってられないですよね。当然市民には厭戦気分が広がっています。先日の日本のテレビでも、ウクライナ軍からの逃亡者は20万人、そして徴兵逃れで指名手配されている人が200万人というとんでもない数になっているという報道がありました。ここまで悲惨な状況なのに、それでも国民の半分以上は領土を失うぐらいなら戦い続けるべきだ、と答えているそうです。それは、もし国土の二割をもロシアに割譲する結果になってしまえば、これまで戦争で死んで行った人々が犬死になってしまうという思いからです。ですから、たとえ勝てる見込みが小さくても、奇跡を信じて戦い続けてしまうのです。日本の太平洋戦争の後半も同じだったと言われています。アメリカに散々痛めつけられて、もう敗戦は必至なのに、それまでの戦争で死んでいった人たちのためには戦いをやめられないという呪縛が働くのです。

そして、イエスの時代のユダヤ人たちも同じ思いでした。彼らはイエスが宣教をしていた時代から四十年後にローマとの大戦争を七年間も繰り広げた挙句、当時のユダヤ人の歴史家によれば、誇張された数字ではありますが、百万人の戦死者を出して国土を失いました。しかも、この戦争から六十年後に第二次ユダヤ戦争を戦い、その結果ユダヤ人たちはエルサレムへの出入りを一切禁止され、二千年にも及ぶ流浪の民としての運命が決してしまったのです。イエスはこういう悲惨な未来が見えていました。ローマと戦うことの愚を解いて、むしろ敵を理解して共に歩む道を模索するように勧めたのです。しかし、こういう見方は非常に人気がないのです。太平洋戦争の末期、敗戦を認めようとした天皇を拉致・監禁しようとした軍人もいたのです。原爆を落とされて国が滅亡しようと、負けを認めるよりはましだ、という狂気じみた思いに囚われていた人たちがいたのです。ですから、ユダヤの地を不当に占拠して、高い税金を課し、少しでも抵抗しようものなら酷い暴力を振るい、イスラエルの神に敬意を払わないローマに膝を屈めるようなことを言うイエスに対する反発もあったのでしょう。結局ユダヤの人々はイエスの言うことを聞かずに、破滅的な戦争へと進んでいってしまったのでした。

まとめになります。今回は、イエスが弟子たちに、あなたがたは家族すらも敵に回すと予告されたのはなぜなのかを考えて参りました。イエスは、福音を信じなければ家族が地獄に行くよと人々を脅したわけではありません。むしろ、素晴らしい神の国が来るという福音を伝えたのです。その福音自体は素晴らしいものでしたが、問題はその素晴らしい知らせがどのようにして実現するかという点でした。イエスは神の支配をもたらすために、ローマの支配を暴力的に取り払おうとはしませんでした。そのような剣の道を明確に否定しました。むしろ、敵であるローマを理解し、彼らと共存する道を示そうとしました。この教えは一部の人たちには非常に不人気でした。敵はユダヤの人々を馬鹿にして、下に見ています。そんな人たちとどのようにして分かり合えるのか、ということです。また、ローマの人々がひどいことをしても、それに抗議することもできない、そんな不正な状態をどうして容認できるのか、ということです。そんな負け犬のような教えには従えない、と言う人たちがいたのは理解できます。侵略者たちはこちらがおとなしくしていればますます図に乗る、だからこちらも覚悟を決めて戦わなければならない、という意見も確かに一理あります。アジアの国々が欧米の植民地支配から解放されたのも、日本が暴れまわったからだという意見にも、日本はアジア解放のために戦ったのではないのですが、結果から見れば一面の真理はあるのです。そのために日本人が、またアジアの人々が払った犠牲も大変なものだったことを忘れてはいけませんが、太平洋戦争がなければアジアの国々の植民地支配がいまだに続いていた可能性すらあります。ですから、戦うことが何が何でもいけない、ということまでは言えない気もします。しかし、イエスはそのような道を示しませんでした。戦わない、ということも大変勇気がいることです。戦うこと以上に勇気がいることでしょう。侮辱を、屈辱を耐えるのも大変なことです。しかし、侮辱を耐えることは弱さではなく、強さでもあります。それは卑屈になることとは違います。十字架は弱さの象徴、みじめさの象徴とされていましたが、イエスはそれを強さに変えました。悪意に対して悪意で返すことは、ある意味では悪意に負けてしまうことです。しかし、悪意に対してさえも善意で、愛で報いるということは人間の究極の強さなのです。イエスはそのような道を示しました。それは険しい道です。家族にさえ分裂をもたらす、厳しい道です。しかし私たちはそのような十字架の道に召されているのです。そのような道を歩むには天よりの助けが必要です。自分だけで頑張ってどうにかなるようなものではありません。イエスを見上げて、聖霊に助けられて初めて可能になるものです。それを信じて困難な時代を歩んで参りましょう。

天におられますわれらの神よ。そのお名前を賛美します。今日は、イエスの非常に難しい教えについて学びました。どうか私たちに知恵と聖霊を与え、この世の様々な問題に立ち向かうことができますように。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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