十二使徒を遣わす
マタイ福音書10章1~23節

1.序論

みなさま、おはようございます。マタイ福音書を読み進めてきましたが、これまでは主イエスの活躍、その教えや癒し、あるいは悪霊払いというような活躍を見て参りました。そして今回は弟子たちの活躍についての箇所です。この箇所はなかなか理解が難しい箇所だということをあらかじめ申し上げておきます。

どういうことかと言いますと、前にもお話ししたように、それにはマタイ福音書が書かれた時期と関係があります。イエスが十字架に架けられ、その後に天に昇られたのは紀元30年だと考えられていますが、そこからだいたい50年後にマタイ福音書が書かれた、というのが多くの研究者の見方です。つまり紀元80年代です。ですから、マタイ福音書はイエスの伝記であるのと同時に、イエス後の50年間の教会の歴史をも反映しているということになります。マタイはイエスが天に昇られた後の、50年にも及ぶ教会の歴史を知っているので、それは当然のことです。50年というのは半世紀ですから、かなり長い時間です。1970年代の日本と、2020年代の日本は大きく変わったように、教会もその誕生から50年の間に大きく変化していきました。今日の箇所のイエスの教えも、イエスがガリラヤで教えていた時の内容と、イエスが昇天した後の50年間の教会の状況の両方を反映しているということです。どうしてそんなことが言えるのか?その根拠を具体的に説明します。

マタイ福音書というのは、最も古い福音書であるマルコ福音書の後に書かれた福音書で、マタイはマルコ福音書の9割以上の内容を引用して自らの福音書に収録しています。マタイにとって、マルコ福音書は大変重要な情報源だったのです。今回の十二弟子の派遣の記事も、マタイはマルコ福音書から引用しています。しかしよく見るとマタイはマルコ福音書の全く違う二つの箇所から引用し、それを組み合わせているのが分かります。一つはマルコ6章で、それはイエスが十二使徒を派遣するという、マタイとまったく同じ文脈の箇所です。イエスは十二使徒を派遣し、その時に指示を与えているのですが、それがマタイ福音書の10章7節から14節までにそのまま使われています。ですからここではマタイはマルコを忠実に用いています。

しかし、マタイは全く別の箇所からも引用しています。それはどこかと言うと、イエスがガリラヤで弟子たちを派遣したときではなく、むしろイエスが十字架に架かって天に上った後、イエス亡き後に弟子たちに何が起きるのかを警告した箇所、それはマルコ13章です。先ほどの箇所がマルコ6章ですから、まったく違う場面であることがお分かりいただけると思います。マタイは、マルコ6章と13章の二つの箇所の記事を一つにしてこの10章を書いているのです。そしてマルコ13章でイエスが教えられたのはガリラヤではなく、エルサレムにおいてです。十字架にかかる直前の、エルサレムでのいわゆる「オリーブ山の講話」です。この講話では、イエスは世の終わりについて語っており、それはキリストの再臨、イエスが天から再び来られて歴史を終わらせるときの前に何が起きるのかを語っている箇所だと言われています。

このように、マタイ10章でのイエスの教えはイエスがガリラヤで宣教活動をしていた時の教えと、イエスが天に昇ってから世の終わりまでの時代についての教えが組み合わされているということになります。マタイは、イエスのガリラヤでの活動を描いただけではなく、マタイと同じ時代に生きた教会の人々に、イエスの言葉として弟子としての心得を伝えたのです。このことに注意したうえで、今日の教えを見て参りましょう。

2.本論

それでは、1節から見て参りましょう。イエスはこれまでご自身で悪霊払いをしてきましたが、今度は自らの最側近である十二使徒にも悪霊を制する権威、あるいは病をいやす権威をお与えになります。それはどうやったのか、どうすればイエスの権威を弟子たちに委譲できるのか、その詳しい仕組みというか、やり方は書かれていません。しかし、ペテロたちはイエスが天に昇られた後も癒しや悪霊払いをしていますので、こうした奇跡を行うことができたのはイエスだけではなかったというのは確かです。それはなぜか?理由は明白です。イエスが病を癒したり、悪霊を追い出すことができたのは聖霊を受けたからです。イエス様は神様だからそういうことができるのでは?と思われるかもしれませんが、少なくとも福音書ではそのように描いてはいません。その点を一番明確に描いているのがルカ福音書です。ルカ4章14節には、「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた」とありますし、イエスはイザヤ書61章を引用して、「わたしの上に主の御霊がおられる」というイザヤの預言が自分に実現したと語っています。このように、イエスは聖霊の力で癒しや悪霊払いを行ったのですから、弟子たちも同じ聖霊を受けることでこうした業を行うことができたのです。ですからイエスが弟子たちに権威を授けたとは聖霊を分かち与えたということなのです。

2節から4節までは十二弟子のリストがあります。このリストについては、今回は詳しい話をいたしません。むしろ重要なのは5節と6節です。ここでイエスは弟子たちに、異邦人、つまりユダヤ人以外の世界の諸民族のところに行くなと命じています。これは私たちからすると驚きですね。私たち日本に住む人々も異邦人です。ユダヤ人ではないので当然ですよね。ですから主イエスは日本やほかのアジアの国々の人々のところに行って伝道するな、と言っているのと同じなのです。しかし、復活した後の主イエスは弟子たちに向かって、「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と語っています。ここでは、異邦人のところに行きなさいと命じているのです。ですから教会の歴史を見ればわかるように、福音は全世界に伝えられるようになったのです。ここで注意していただきたいのは、世界に出て行って異邦人に宣べ伝えよとイエスが語ったのは、十字架に架けられて復活した後だということです。つまり、イエスは天に昇られた後に初めて異邦人伝道を命じたのです。逆に言えば、復活前、地上で宣教をしていた頃のイエスは弟子たちに異邦人のところに行くな、と指示していたということです。この5節、6節は、地上で宣教しておられていた頃のイエスの言葉を忠実に反映しています。イエスは自分の使命を、イスラエルの再建と明確に位置づけられていました。イエスは神の国、神の支配が近いことを告げ知らせていましたが、その神の支配を最初に受け入れるべき国民、すなわちユダヤ人に対してそのメッセージを届けようとしたのです。

イエスの届けようとしたメッセージとは「天の御国が近づいた」です。このメッセージの意味するところは、簡単に言えば、「世の終わりはすぐだ」ということです。世の終わりといっても、世界がなくなってしまうわけではもちろんありません。今の時代が終わり、新しい時代、神ご自身が直接世界を支配してくださる素晴らしい時代が来るということです。それがどれくらいすぐなのかといえば、23節にその答えがあります。「確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです」という言葉です。「人の子が来る」という言葉はキリストの再臨、つまり天に昇られたイエスがこの地上に帰ってこられるということです。その時にこそ、神の国、天の御国が来るのです。しかし問題はその時期です。イエスの弟子たちがイスラエルの町々を巡り終える前にキリストが再臨したのかといえば、歴史を振り返れば分かるように、そのようなことは実際には起こっていないのです。それどころか、それから約二千年も経っています。この問題はあまりにも大きく、次回の説教でもお話ししますが、それは初代教会に大変な難題を突き付けました。キリスト教の第一世代は、紀元一世紀に世の終わりが来ると信じていたのです。ですから、今日のイエスの教えもそのような信仰が前提となっています。

さて、9節以降ですが、先ほども申しましたように、9節から15節までと、16節から22節まではまったく別の教えです。なぜなら9節から15節までは、イエスがガリラヤで宣教していた頃の教えで、16節から22節までは、イエスが天に昇られた後、イエス亡き後の弟子たちに対する教えだからです。最初の方、9節から15節までのイエスの教えのポイントは、神を信頼するのと同時に、ガリラヤの民衆のことも信頼しなさい、ということでした。なにしろ旅行用品もお金も持たずに村々を渡り歩くのですから、その行った先々の人々のご厚意に頼るほかはないのです。そして村々の人々も、イエスやその弟子たちは誰にも直せなかった数々の病を癒してくれるのですから、大歓迎です。そういう人たちの支援を期待できるので、イエスは弟子たちに何も持たせずに送り出したのです。しかし、イエスやその弟子たちのことを歓迎しない人たちもいます。そういう人たちは相手にするな、というのがイエスの教えでした。なんだか冷たいではないか、粘り強く話せばわかってくれるのではないか、と思うかもしれませんが、何しろ時間がないのです。弟子たちがイスラエルの村々を巡り終わる前に世の終わりが来るのですから、ありていに言ってしまえば聞く耳を持たない人には構ってられないということです。これは反対に言えば、話を聞いてくれる人はたくさんいるのだから、そちらを優先しなさいということです。

しかし、16節以降は話が変わってきます。イエスは17節で「人々には用心しなさい」と語ります。ユダヤの人々、民衆がイエスの弟子たちに対して好意的ではなくなる時代が来るということです。それはいつか?それはイエスが十字架で犯罪者として処刑された後です。どんな組織でも、そのトップが犯罪者として処刑されれば大変な打撃を受けます。仮の話ですが、仮に私たちの教団のトップが犯罪を犯したということで死刑宣告を受けたなら、マスコミが大々的に報道し、私たちの教団は一般の人たちから見れば危険な集団という風に見られるでしょう。イエスの十字架刑はまさにユダヤの人たちにそのように映ったのです。十字架というのは、さらし者です。わざわざ目立つところに素っ裸で人を木に架けるという屈辱的な処刑方法です。しかも、頭上には「ユダヤ人の王」などという皮肉に満ちたプラカードを掲げたのです。イエスの弟子たちは、その後にイエスが復活したのを目撃したので、イエスは死にさえも打ち勝ったとその信仰を新たにしたのですが、しかしそのことを知らない一般のユダヤの人たちから見れば、イエスはみじめな失敗者であり、その彼をメシアと崇める信者たちは怪しげな集団としか映らないのです。さらに言えば、ユダヤ人にとって十字架で死んだイエスがメシアであるというメッセージは屈辱的なことでした。メシアは当時の超大国であるローマをやっつけてくれる人であるはずなのに、そのローマに殺されたイエスがメシアであるはずがないではないか、ということです。ですからそんな愚かなメッセージを広める集団は危ないから黙らせよう、迫害しようということになります。18節も、この教えがイエスが天に昇られた後のことであることを示しています。それは「異邦人たちにあかしをするためです」と書かれているからです。先ほどの5節ではイエスは「異邦人の道に行ってはいけません」と語っているのに対し、ここでは異邦人にあかししなさい、と命じています。これは、イエスの復活後に弟子たちがイスラエルだけではなく異邦人にも福音を宣べ伝えるようになった状況を示しています。そして、ユダヤ人にとっての外国人、異邦人たちの福音に対する反応は様々でした。福音を信じた人もたくさんいましたが、それ以上に反発が大きかったのです。多くの異邦人、特にローマ帝国の支配下にある人たちにとって、イエスの福音、つまりイエスは今や天に昇られて全世界の王になられたというメッセージは非常に問題のあるものでした。なぜなら、彼らにとっての世界の王とはローマ皇帝であって、そのローマによって十字架に架けられたみじめなユダヤ人であるはずがないからです。ですから多くの異邦人にとっても、イエスの弟子たちの語る福音は政治的に危険で、怪しいものとして響いたのでした。

こうしてイエスの弟子たちは、ユダヤ人にも異邦人にも迫害を受けることになります。イエスはそのような状況について、こう語っています。

いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。

イエスを信じる人は、鳩のようにすなおな人は多いのですが、蛇のように狡猾であるというのは苦手な人が多いのではないでしょうか。しかし、そのような狡猾さが必要になるほど、大変危険な状況になるということです。その厳しさについては、21節から22節にこう書かれています。

兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

このように、ものすごく大変な状況ですよね。イエスの弟子たちを支援した人たちももちろんいましたので、すべての人に憎まれるというのは誇張もあるとは思いますが、しかしイエスの弟子たちが至るところで迫害を受けたのは間違いありません。大変つらい状況ですよね。しかし救いはあります。なぜならそんな苦しい時代はそんなに長く続かないからです。弟子たちがイスラエルの町々を巡り終わる前に、イエスは戻ってこられて彼らを救ってくれるからです。前にも申しましたように、実際の歴史はそのようにはいかなかったのですが、弟子たちはそう信じて伝道に励んでいたのです。

3.結論

まとめになります。今日は、イエスがガリラヤで十二弟子を伝道旅行に派遣した記事を見て参りました。イエスは弟子たちに、何も心配しなくていい、何も持たなくていい、なぜなら人々は基本的にあなたたちを歓迎してもてなしてくれるからだ、と語ります。しかし、イエスが十字架に架かった後は状況は一変します。マタイはそのことを知ったうえで今日の箇所を書いています。イエスが天に昇られた後にはイエスの弟子たちは、歓迎されることは少なく、むしろ激しい迫害を受けるようになります。その大変厳しい状況を耐え忍びなさい、なぜなら主イエスが戻られる日は近いからだ、というのがこの箇所に込めたマタイのメッセージでした。実際には、弟子たちが生きている間にイエスが戻られることはありませんでした。ここからわかるのは、パウロの場合と同じように、主イエスがいつ来られるのか、いつ世の終わりがあるのか、ということは誰にも分からないということです。福音書記者ですら分からなかったのです。ですから、それがもうすぐだ、という人がいたとしてもそれを信じてはならないのです。とはいえ、この終末論というテーマはとても大きなものなので、今日はここらへんでやめておきます。

さて、ではこのマタイ10章の「伝道」についての教えは私たちにとってどんな意味を持つのでしょうか。「伝道」というのはクリスチャンにとって、とても大切なことですが、今日においては大変難しいものでもあります。よく、友人とは宗教と政治の話はするな、ということが言われます。政治の方は、最近はもう少し敷居が低くなったといいますか、話しやすい雰囲気になってきたように思いますが、宗教の方はむしろタブー視する傾向は強くなってきたように感じられます。統一教会問題とか、宗教二世問題とか、社会にとってよくない影響を与えるものだというイメージが強くなっているからです。ただ、別に世の中の人が宗教に全然関心がなくなってしまったという風にも思いません。むしろ、スピリチャルなものへの関心が強まっている気がします。ではなぜ宗教の話をするのが嫌われるのかといえば、これは私見ですが、宗教を信じている人は自分の信じているものが絶対だと信じていて、批判を受けつけない傾向があるからだと思います。話す相手が、自分の言っていることが絶対正しいと確信していて、何を言っても聞く耳をもってくれないとなると、もうそんな人とは話す気がなくなりますよね。逆に政治の話がしやすくなってきたというのは、政治にもいろんな意見があって、自分なりに考えてどれかの意見を選んでもいいのだ、自分の考えを述べてもいいのだ、という雰囲気が出来上がってきているからだと思います。SNSなど双方向のメディアが発達してきて、様々な立場からの情報の量が飛躍的に増えただけでなく、自分の意見が言えたり、ほかの人の考え方を聞いて自分の考えを改めたり、ということが普通にできるようになってきました。そのような状況の中で、政治の話が少し身近になってきている気がします。

それに対して宗教は、今でもあまり自由な発言が許されない雰囲気があるように思います。「正しい」教えというのがあり、それに対して疑問を抱いても、その疑問を自由に言えない空気がある、その息苦しさが人々を宗教から遠ざけてしまうのかもしれません。私は、宗教についてもっと自由に語ることができるようになれば、宗教そのものに関心を持っている人は少なくないので、宗教に対する敷居も下がるのではないかと思います。「伝道」とは、人を説得してその人にイエス様を信じさせることではありません。そんなことをすれば確実に嫌われるでしょう。むしろ、宗教とは人生についてもっと深く考えるきっかけになるものだと私は考えています。また、宗教を信じている人が常に正しい「答え」を持っていると考える必要もありません。間違えることもあるのです。初代のキリスト教徒たちは紀元一世紀に世界が終わると期待していましたが、そのようなことは起こりませんでした。だからといってキリスト教が無価値になるわけではありません。間違いがあったとしても、そこから学べばよいのです。むしろ、「私は間違っていない」とかたくなになってしまえば、そんな態度は人を遠ざけてしまうでしょう。私たちが開かれた心を持つこと、それこそが伝道の最も大きな助けになるものと信じています。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今日は主イエスの伝道についての教えを学びました。初代教会の人々もいろいろなことに悩み、また苦しんだことを学びました。私たちもそこから何かを学ぶことができるように助けてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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