1.序論
みなさま、おはようございます。今、私たちはマタイ福音書を読み進めていますが、これまで毎月の月末だけは別のところから説教をしてきました。昨年11月のアドベントの前に第一ペテロの説教が終わったので、今回からは第二ペテロを取り上げて参ります。
ただ、ここで注意したいのは、第一ペテロと第二ペテロを続けて読むと、これらの書簡が同一人物によって、つまりイエスの十二使徒のリーダーであるシモン・ペテロによって書かれたのは当然だと思ってしまうかもしれませんが、実際には多くの研究者はそのようには考えていないということです。もちろん、教会の伝統ではこれら二つの書簡はイエスの弟子であるケファ、つまりペテロによって書かれたとされてきました。しかし、近代以降になって聖書が客観的なアプローチによって研究されるようになってからは、こうした伝統も無批判に受け入れられるようにはならなくなりました。今や、多くの学者は第一ペテロと第二ペテロの著者は別人だという見解に立っています。もちろん、これは学説であって必ずしも事実とは言えないので、そのような見方は私の信仰にはなじまない、聞く必要はないと考えても構いません。学説というのは時代と共に変わるものですので、今の学説が100年後にはまったく変わっているということもありうるのです。このような学問的アプローチの限界を踏まえたうえで、ではなぜ多くの研究者が第一ペテロと第二ペテロの著者が違うと考えているのかといえば、大きくいえば二つの理由があります。一つは「ユダの手紙」との類似性です。みなさんはユダの手紙と聞いて、すぐにその内容を思い浮かべることができるでしょうか?それはヨハネ黙示録の前に置かれている非常に短い手紙ですが、れっきとした正典の公同書簡の一つです。その内容が、この第二ペテロと非常に似ていて、一方が他方の内容を借用したのではないかと考えられるということです。そして、ユダの手紙が書かれた時期はおそらく紀元二世紀だとされているので、第二ペテロもそうだろうということです。紀元二世紀にはシモン・ペテロはすでに世を去っているので、この手紙がペテロによって書かれることはあり得ないということになります。
そしてもう一つ、これが最も根本的な問題ですが、この書簡の扱っている内容そのものが紀元二世紀の教会の状況を強く反映していると思われることです。それは「再臨遅延問題」です。パウロ書簡を読めば分かりますように、パウロは自分が生きている間に、つまり紀元一世紀の内にキリストの再臨があるという強い確信をもっていました。パウロだけではありません。マタイ福音書には、イエスの「確かなことをあなたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなた方は決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです」(10:23)という言葉が収録されています。つまりこの言葉を福音書に含めたマタイは、イエスの弟子たちが熱心にイスラエルで伝道をしていた紀元一世紀の間に「人の子」つまりイエスが再臨すると考えていたということです。紀元一世紀の教会の大きな特徴は、キリストの再臨とそれに伴う世の終わりが近いと信じていたことでした。彼らが非常に熱心に、それこそ寝る間を惜しんで伝道活動に励んだのは、彼らに残された時間は少ない、世の終わりはもうすぐだと信じていたからでした。
しかし、そう信じていたのになかなか再臨が起きない、それどころか熱心に伝道に励んでいた使徒たちや長老たちはみな世を去ってしまった、そういう事態になってしまいました。そうすると、いろいろな動揺や反動が起きます。再臨なんてないのではないか、作り話ではないかと言い出す人たちや、信仰を捨てるまではいかなくても、それまでの緊張感のある引き締まった生活をやめて、だらけた生活を送るようになる人たちが現れました。そのような人たちを教会は厳しく注意しなければならないのですが、まさにそのような内容がこの第二ペテロに書かれているのです。つまりこの第二ペテロの書かれた時代背景が、ペテロの生きていた紀元一世紀よりも紀元二世紀の方に良くあてはまるということです。
こうした理由から、この第二ペテロ書簡は、紀元二世紀にペテロの名前で誰かほかの人が書いたものだろうと多くの研究者は考えるようになりました。それが事実かどうかは分かりません。しかしこの第二ペテロは教会が二千年もの間正典として受け継いできたものです。ですからそのような大切な聖書の一部として読んでいきましょう。この手紙の著者が誰であろうとも、教会はそれをペテロによって書かれたものとして受け継いできました。そこで私もこの著者のことをペテロと呼んで説教をさせていただきます。
2.本論
今日は冒頭の1節から11節までを扱います。ここで語られている内容を一言でまとめるならば、それは「ますます熱心に」ということです。この11節の中には、「ますます豊かにされますように」、「ますます豊かになるなら」、「ますます熱心に」など、「ますます」という言葉が繰り返されています。慶應義塾大学の創設者の福沢諭吉は「進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む」という名言を残しています。前進しない者は必ず後退し、後退しない者は必ず前に進むということです。このことは、とりわけキリスト者の信仰の歩みに当てはまる、というのがペテロの主張なのです。初代のクリスチャンの間には、主の日、すなわちキリストの再臨が近いという緊張感があり、人々は主にお会いする日に備えて霊的な高みを目指そうという強いモチベーションがありました。しかし、再臨が近い将来にはないのではないかという観測が人々の間に広まると、熱意は冷めて、弛緩した状態に陥っていきました。そんなに無理をしなくても、今のままでいいじゃないかという気持ちになっていきました。信仰そのものを捨てたわけではなくても、そこから前進しようとしない、前に行こうとはしない状態です。しかし、本人は現状維持をしていると思っていても、実はそれは後退なのだということをペテロは指摘します。
ペテロは読者の人々に、初めて救われたときのことを思い起こすように促しています。彼らは何から救われたのか、というのは大事なポイントです。ペテロは4節で「世にある欲のもたらす滅び」と記しています。これはどういう意味なのでしょうか。「世にある欲」の欲は「貪り」と訳すこともできます。人間である以上、食べるものや着るもの、すなわち快適な生活というものを求めます。そうしたものを欲すること自体には何も悪いことはありません。私たちは常により良い生活を目指し、それが頑張る原動力にもなります。聖書はそういう欲求をすべて否定しているのではありません。では、「貪り」の罪とは何でしょうか。それは他人の物を奪ってまでも、自分の快適さを求める行為です。自分と同じように、周囲の人も快適な生活を求めます。しかし、この世にあるものは無限ではありません。限りがあります。私たちはそれを分け合わなければなりません。しかしそれを独り占めする、独占しようとすると、それは他人のものを奪うことになります。他人のものを奪ってでも、自分の欲望を優先すること、これが貪りです。また、自分にとってはどうしても必要ではないのに、他人が持っているから、うらやましいからという理由で自分もそれを欲しがる、そうした行動も貪りと言えます。私たちは「足ることを知る」べきなのです。神様は私たちに必要なものを与えてくださるし、備えてくださいます。しかし、それで満足せずに、「もっと、もっと」という気持ちに突き動かされると、争いが生じます。私たちが欲望の奴隷となるとき、必ずいさかいや争いが生まれてしまうのです。その行きつく先が「滅び」です。「世にある欲のもたらす滅び」とはそういうことです。そのような滅びから免れ、私たちは「神のご性質に与る」者となるべきなのです。与る者という言葉のギリシア語はコイノノスで、コイノニアと同じ語源の言葉です。コイノニアというのはキリスト教の世界ではよく聞く言葉ですが、「交わり」という意味です。「共同体」とか「参与、参加」という意味もあります。ですから「神のご性質に与る」というのは「神のご性質に参与する」ということです。もっとわかりやすく言えば、神のご性質を身に着けるということです。では、神のご性質とは何でしょうか。私たちは神と聞くと、なんでもできる、なんでも知っている方ということを思い浮かべるかもしれません。全知全能ということですね。しかし、ペテロのいう「神の性質に与る」というのは私たち人間が神のように全知全能の存在になるという意味ではありません。私たちは人間ですから、そんなことは無理なのです。では、ペテロはどういう意味でこのようなことを言っているのでしょうか。私たちが神の性質に与るというのは、神の御姿である主イエスのようになるということです。主イエスは、ピリピ人への手紙にあるように、神と等しい方であるのに、それに固執せずに、自らを無にして仕える者となられました。「神のご性質に与る」とは、そのようなイエスの生き方をまねる、自らも身に着けるということです。ペテロはそのことを具体的に教えてくれています。彼はキリスト者が身に着けるべき徳目をいくつか語り、その究極のものとして「敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」と結んでいます。つまり私たちが努力して身に着けるべきものの最大のものを「愛」と呼んでいます。ここで兄弟愛と訳されているこの言葉のギリシア語は「フィラデルフィア」で、「愛」と訳されている言葉は「アガペー」です。フィラデルフィアとは自分にとって大切な人たち、家族や親友など、そういう人たちのために進んで自らを捧げること、そのような愛を指します。それに対してアガペーは、自分にとっての距離の近さとか、自分にとって大切な人とか、そういう「自分」を基準にせずに、むしろ自分から遠い人とか、自分にとっては無価値に思える人にも及ぶ愛です。家族とはある意味で自分自身の延長ですから家族を愛するというのは自分を愛することでもあるのですが、そのような自己愛の延長としての愛ではなく、むしろ自分にとって異質な人にも及ぶ愛がアガペーです。それが、主イエスがその公生涯で示した愛でした。もちろん、自分にとって近しい人への愛は大切です。家族のことをほおっておいて、見知らぬ人のお世話ばかりしているというようなケースには、どこかおかしなところがあります。自分自身のことや家族のことをきちんと面倒を見ることができずに、本当に他人のお世話ができるのかというと、それは難しいと思います。ですからここはバランスが必要です。自分のことしか考えないという極端な状態から私たちは成長しなければなりません。自分のことしか考えられないのは赤子の状態だからです。しかし、自分のことを考えないというのもそれはある種の病と言えるでしょう。私たちはまず自分自身の面倒を見なければならないし、それができない人には他人の世話もできないからです。では、どうすればそのようなバランスをとることができるのか?それは先ほど述べたように「足ることを知る」ことを通じてです。私たちには生きていくために必要なものがあります。それを求めるのは当然のことです。しかし、それは私たちの欲望とは違うものです。欲望は無限ですが、必要は有限です。ですから自分に必要なものがあるならばそれで満足し、それ以上のものは他人に喜んで与える、それが「アガペー」の愛です。私たちはクリスチャンとして、そのような愛を育てていくべきなのです。そのような愛にますます豊かになる、それがクリスチャンとしての歩みなのです。
私たちにはそのような歩みが可能です。なぜなら私たちは主によってそのような生き方と召され、選ばれた者だからです。神様は私たちがそのような歩みができるようにと、召してくださり、それまでの欲にまみれた生き方から清めてくださっているのです。私たちはすでに清められている、というのは新約聖書で繰り返される重要なテーマであり、クリスチャンが覚えておくべき真理です。せっかくきれいにしていただいたのですから、汚れを避けるべきです。そして「汚れ」とは世の欲望です。ただここで繰り返しますが、必要と欲望とは別物です。キリスト教は禁欲主義、つまり人間にとって必要なものを欲する気持ちを否定する宗教ではありません。そうではなく、行き過ぎた欲望、人からモノを奪ってでも自分を満足させようというような欲望から距離を置くべきだということです。現代世界は私たちの欲望を煽ります。必要以上のものを欲しがらせ、買わせようとします。ですからこの時代にあって欲望を抑えることは、聖書の時代よりも難しいかもしれません。しかし、行き過ぎた欲望は自分自身も、周りの人たちも不幸にします。私たちは神の助けを借りながら、そのような欲望に抗っていかなければならない、それが第二ペテロの重要なメッセージなのです。
3.結論
まとめになります。今日から第二ペテロを学び始めました。今日の箇所のメッセージは「ますます熱心に」ということでした。では、何に対して熱心であるべきかというと、愛において、それも兄弟愛であるフィラデルフィアだけでなく、自分にとっては遠い人たちにさえ及ぶ愛、アガペーの愛において成長することにますます熱心でありなさいということでした。
ただ、「自分にとって遠い人」といっても漠然として難しいですよね。私たちのところには世界中から報道が入ってきます。広い世界では、本当に多くの人たちが様々な理由で苦しんでいます。けれども私たちは万能の神様ではないので、それらすべての人たちに救いの手を差し伸べることはできません。この点では私たちは自分自身の限界をわきまえるべきです。では、誰から、あるいはどこから救いの手を差し伸べるべきなのでしょうか。この点でも、あまり極端にならないほうが良いと思います。全く知らない人に手を差し伸べようとしても難しいので、まず自分の住んでいる地域の困った人たちのことを考えるほうがよいでしょう。そういう人は物理的にも近いところにいるので、事情がよく分かるからです。外国に支援をしようとしても、中抜きされたりして、本当に支援が届いているのか不安になることもあります。あまり気持ちの良い話ではありませんが、ウクライナへの外国からの支援が政府高官によって中抜きされているという報道が最近になって連日のようになされていて、しかもそれはフェイクニュースではありませんでした。こういう話を聞くと、海外援助の難しさを実感します。遠くに何かを届けようとすると、その間にいろんな人が介在してしまうからです。ですから私たちは人を助ける時にも、よく考えて、よく調べてから行動すべきです。私たちが与えられるものにも限りがあるのですから。今日は同盟教団の「国内宣教デー」ですが、今日の献金は日本各地で開拓伝道をしている教会を支援するために献げられます。これは、私たちにとっても分かりやすい、明確な支援先だと言えるでしょう。福音伝道を見知らぬ地で推進することの大変さは私たちにも想像できることです。そうした人たちのことを覚え、祈り、またできる範囲で財政的な支援を行っていきましょう。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今日から第二ペテロを読み進めて参りますが、私たちがそのみ言葉を聞いて理解し、また聞くだけでなく実践できるものとなるように助けてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

