キリストにあって一つに
エペソ書2章1~22節

みなさま、おはようございます。本日は2025年最後の主日礼拝になります。この一年かもみなさまのおかげで礼拝を続けていくことができました。ありがとうございます。今日は、これまで取り上げたことのない書簡であるエペソ書からメッセージをさせていただきます。

さて、今年一年を振り返ると様々なことがありましたが、一つの重要なテーマとして浮上していたのが「分断」ということでした。トランプ氏がアメリカの大統領になってから、いや実はその前からアメリカは真っ二つに分裂しているということが言われてきました。アメリカがどのような意味で分裂しているのか、ということについてはいろいろな分析がなされてきました。マスコミに登場する多くの論客はトランプ氏のことを反知性主義、人種差別主義者などと徹底的に批判し、アメリカに分断をもたらしているのはトランプ氏だと批判します。しかし、実際は少なくともアメリカの国民の半分以上がトランプ氏を支持しているので彼は大統領になれたわけです。私は、個人的にはこの分断の背景として最も重要な要素は経済問題、とくに経済格差なのではないかと思います。アメリカ国民を二分するテーマとして、移民を無制限に受け入れるのか、あるいは不法移民を厳しく取り締まるのかということが大きな争点になっていて、不法移民を厳しく取り締まろうとするトランプ氏は差別主義者だとよく言われます。ですが、実際にはこの背後には経済の問題があります。西側先進国では移民を大量に受け入れる国が多いですが、それを支持しているのは主として産業界です。なぜなら人手不足の中、移民は安価な労働力となるからです。人件費の安い海外に工場を移転するということがこれまで行われてしましたが、海外に移転しなくても海外の安い労働力を大量に受け入れれば似たような経済効果が生まれるからです。アメリカも、生産拠点を海外に移すのと同時に大量に移民を受け入れてきましたが、その結果アメリカの工場労働者の賃金は上がらずに、中産階級が没落していきました。アメリカはモノを作らなくなり、もっぱら金融で儲ける国になっていきました。アメリカでは株や債券など金融商品から生み出される利益はなんと500兆円にも上ると言われています。日本のGDP、国民総生産に匹敵する利益が、金融商品だけから生み出されているのです。しかしそのような金融商品からの利益を受け取る人が限られてしまっていることが大きな問題なのです。アメリカ人の約半分は株などの金融商品を保有していないと言われています。反対に、上位1%の人の資産のアメリカの全資産に占める割合は何と30%に達しているとも言われています。このように、アメリカは持てる者と持てない者とに二分され、持てない人たちの不満がトランプ氏を押し上げたということになります。こういうトランプ支持の人々は、経済エリートたちから見れば学歴が高くない人たちなので、彼らに支持されるトランプ氏が「反知性主義」というレッテルを張られてしまうのです。しかし、個人的にはトランプ氏は非常に頭のいい人だと思います。

さて、このように今日でも分断の問題が大きなテーマになっていますが、イエスやパウロが生きた時代にも分断というのは大きなテーマでした。イエスの宣教の大きなテーマの一つは、「義人」と「罪人」という分断でした。ここで間違えないようにしたいのは、私たちはパウロがローマ書簡で「義人はいない。ひとりもいない」と書いていることを思い浮かべて、この世に生きる人はすべて罪人なのだ、と考えてしまいます。しかし福音書で「イエスは罪人の友となった」と言われる場合の「罪人」とは、特定の職業に就いている人々を指す言葉でした。イエスが親しくした「罪人」とは具体的には「取税人と遊女」でした。イエスは当時のイスラエルのエリートたちに対して、「取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです」と語りましたが、この「取税人」や「遊女」たちが「罪人」たちだったのに対し、イエスを糾弾する祭司や律法学者たちは律法をきちんと守る「義人」たちでした。ここで注意したいのは、「祭司や律法学者」というグループと「取税人や遊女」というグループは、そのまま「金持ち」と「貧乏人」という二つのグループだったということです。この二つのグループの違いは道徳よりも、経済力だったということです。取税人というと、あのザアカイさんのようなお金持ちを連想するかもしれませんが、取税人になる人はもともとは貧乏だったのに、取税人という仕事を通じて金持ちになったということに注意してください。取税人と聞くと、今日の税務署の職員のような人たちを連想するかもしれませんが、全然違います。税務署の職員は国家公務員であり、安定した職業ですが、取税人はまったくそのような人たちではありませんでした。彼らは当時ユダヤを支配していたローマ帝国によって雇われた人たちでしたが、彼らに対してローマ帝国は賃金や給料を払わなかったのです。えっ、そんなことがありうるのか、と思うかもしれませんが、本当です。では、彼らはどうやって生活していたのかといえば、彼らは例えばローマから10%の税金を集めろと命じられた場合には、実際には12%とか15%の税金を徴収し、差額の2%とか5%を自分の給料としていたのです。いわばピンハネのようなことをしていましたし、ローマもそれを認めていました。そして、自分の取り分として何パーセントを乗っけるのかというのは取税人の裁量に任されていたのです。悪質な取税人になると、暴力団のような人たちを雇って厳しい税の取り立てをしていました。取税人で金持ちの人たちはこうした不正な取り立てによって貧乏人から成りあがっていったのです。当然人々からは毛虫のように嫌われていました。では、なぜこのような人々から嫌われる仕事を選んだのかといえば、それはそうする以外に生きていく手段がないほど追い詰められていたからでした。今の日本の国民負担率、つまり所得税や住民税、消費税と社会保険料の合計は46%にも達すると言われ、給料の半分は税負担になると言われていて大きな政治テーマになっていますが、しかし当時のユダヤ人の国民負担率は70%から80%にまで達し、しかも逆累進課税で貧しい人ほど税負担が大きかったのです。この恐るべき状況の中で、お金のない人の選べる道はわずかしかありませんでした。若い女性の場合は、戦前の日本の貧しい農家のように、遊女として売られていきました。男性の場合は、人々から「罪人」として後ろ指さされることを覚悟のうえで取税人になっていったのです。このように、イエスが親しく付き合った罪人の取税人や遊女は、道徳的に非常に行いの悪かった人たちではなく、貧困の故に「罪人」とされる職業を選ばざるを得なかった人たちでした。そうした彼らを、義人と呼ばれる人たちは軽蔑しました。ここでいう「義人」とは一度も罪を犯したことのない完璧な人、という意味ではありません。むしろここでは「神との契約の中にいる人」という意味です。ユダヤ社会の中で立派な職業に就いている人たちは契約共同体の一員でしたから、彼らは義人だったのです。こうした社会状況の中で、イエスは罪人たちの友となることで、イスラエル社会の深刻な分断、「義人」と「罪人」との間の垣根を取り除き、イスラエルの民に一体感を取り戻そうとしたのです。

このように、イエスの宣教の目的の一つはイスラエルの分断を解消することにありました。それに対し、「異邦人の使徒」であるパウロは別の形の社会の分断に取り組みました。イエスはユダヤ人の中の分断を問題にしましたが、パウロはユダヤ人とユダヤ人以外の人々の分断を問題にしました。先ほど、ユダヤ社会の中で「罪人」とされていたのは取税人や遊女など経済的な困難にいた人々だと申しましたが、ユダヤ人にとってもう一つの「罪人」のカテゴリーがありました。それはユダヤ人にとっての外人、外国人、いわゆる異邦人でした。ユダヤ人は外人をひとまとめに「罪人」と呼んでいたのです。パウロはガラテヤ書2章15節でこう述べています。

私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。

と、このように、ユダヤ人と異邦人はそれぞれ「義人」と「罪人」として対比されていたのです。先ほども述べたように、「義人」とは何の罪を犯したことのない完全な人、ということではありません。先ほどと同様に「神との契約の中にいる人」という意味です。イスラエルは神との契約の中にいるので、イスラエルのメンバーはよほどひどい罪を犯さない限りは「義人」なのです。パウロは、イエスがユダヤ社会内部の分断を取り払おうとしたように、ユダヤ社会の外の人々との分断を取り払おうとしました。なぜなら、パウロはメシアの使命がイスラエルの救いのみならず異邦人の救いでもあると信じていたからです。パウロは異邦人の救いを「福音」と呼んでいます。その箇所を見てみましょう。ガラテヤ書3章8節です。

聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福を受ける」と前もって福音を告げたのです。

とあります。「アブラハムによって」とありますが、創世記では「アブラハムとその子孫によって」すべての国民が祝福を受けるとなっています。そしてそのアブラハムの子孫がイエス・キリストだ、というのがパウロの福音です。イエスはユダヤ人と異邦人との壁を打ちこわし、異邦人を神の民、神の契約へと導き入れてくださったというのがパウロの福音なのです。

そして今日のエペソ書です。エペソ書はパウロが書いた書簡だとされていますが、実際にはパウロの弟子の一人とされる人物によって書かれた書簡だと多くの研究者は考えています。パウロが死んだあとに、パウロの思想を正しく伝えようとしたお弟子さんが書いたということです。また、「エペソ書」ということで小アジアのエペソ教会への書簡とされていますが、この書簡の古い写本にはエペソ教会のことは書かれておらず、おそらくのちの時代に追加されたものだと思われます。つまり、パウロの弟子が特定の教会ではなく、広くパウロの流れを汲む教会すべてに書き送った「公同書簡」的な色合いが強い文書だということです。

そして、この書簡が特に強調しているポイントが、キリストがユダヤ人と異邦人との間の隔ての壁を打ち壊したということです。この2章など、まさにそのようなテーマが語られています。2章1節の「あなたがた」とは異邦人クリスチャンのことです。彼ら異邦人はかつて「自分の罪過と罪の中で死んでいた者」だった、というのがこの書簡の著者の抱く異邦人理解でした。11節と12節に、そのことがさらに詳しく書かれています。

ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人でした。

このように、異邦人であるということは契約の民であるユダヤ人から見れば神に見放されたような、将来についてまったく希望のない状態だったのです。しかし、そのような異邦人に希望と未来を与えてくれるのがイエス・キリストの到来、とりわけその十字架での死だった、というのがこのエペソ書の著者の主張なのです。そのことが書かれているのが13節以降ですが、そこを改めて読んでみましょう。

しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

このように、キリストの十字架の意味とは異邦人とユダヤ人の隔ての壁を打ち壊すためだった、とこの著者は主張しているのです。そして、その隔ての壁とはユダヤ人と異邦人の交際を厳しく制限する律法なのだ、というのがこの著者の考えです。ここで注意したいのは、イエス様は十字架上で死なれるときに、「私の死によって、ユダヤ人と異邦人との隔ての壁が壊される」と考えていたのではないだろうということです。イエスは自らの死によって新しい契約が結ばれると信じていましたが、その新しい契約とはイスラエルの全家と結ばれるものだからです。新しい契約を預言したエレミヤも、「わたしがイスラエルの家と結ぶ契約」と言っていますので、この契約は神とイスラエルとの新しい契約だということができるでしょう。イエスは自らの民であるイスラエルの救いのために死んでいったのです。では、イエスの死がユダヤ人と異邦人との間の壁を壊すためのものだったというパウロの解釈、あるいはパウロの弟子の解釈が誤りだったのかといえば、そうではありません。むしろ、彼らはイエスの宣教の目的の一つである「義人」と「罪人」との垣根を壊すという働きを正しく拡張して、ユダヤ人のみならず全人類の問題としてとらえなおしたのです。「義人」と「罪人」との間の壁の問題をユダヤ内部の問題としてではなく、全世界の問題としてとらえなおしたということです。これはイエスがはじめられたことを正しい方向で拡大したということなのです。

これは21世紀に生きる私たちにとっても大事なことです。イエスの生きた時代は私たちの時代とは様々な意味で異なります。イエスのなさったことを私たちがそのまま継続しようとしたり、繰り返そうとしてもうまくいきません。なぜなら私たちの時代とイエスの時代とは大きく異なるからです。しかし、イエスのなさったことのエッセンスを正しく理解し、それを私たちの時代に当てはめることはできます。イエスの働きの本質とは、人々を分断するもの、バラバラにするものをうち壊して、人々を自らのもとで一つにすることでした。私たちの時代にも様々な分断が存在し、それが社会を不安定化させます。私たちはそういう問題を正しく見抜いて、分断を解消するために働くべきです。そうすることで、私たちはイエスの働きを21世紀においても継続できるのです。新しい一年も、この目的のために歩んで参りましょう。お祈りします。 イエス・キリストの父なる神様。そのお名前を賛美します。今年一年間も当教会を守り導いてくださったことに心から感謝いたします。新しい一年も主イエスの歩まれたように歩むことができますように。特に、人々の間にある壁を取り払う働きができますように。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

ダウンロード