キリストの叫び
ヘブル書5章1~14節

1.序論

みなさま、クリスマスおめでとうございます。今年も様々なことがありましたが、こうして平安の内にクリスマスを迎えることができたことを心から感謝します。今日のメッセージには、クリスマスの喜ばしいイメージからはちょっとかけ離れたようにも思える、「キリストの叫び」という説教タイトルがついています。これはキリストの誕生というよりも受難のほうの話なのですが、クリスマスというおめでたい時にこのような重々しいメッセージを選んだのは、イエスがこの世界に来られた意味を改めて考えたいと思ったからです。

私たちはどんな時に叫ぶのでしょうか?うれしい時に叫ぶ、勝利の雄たけびというようなものもありますが、同時に苦しい時、助けを求めるときの切実な叫びというものもあります。今回のキリストの叫びというのは、まさにそのような苦しい場面での叫びです。救い主であるイエスがご自分の救いを求めて叫ぶ、というのはなんだかおかしなことのように思えますが、しかし今回のへブル人の手紙では確かにそのようなイエスの姿が描かれています。それは同時に、イエスご自身が救いを求めて叫ぶほどに追い詰められていた、ということでもあります。ではなぜイエスはそこまで苦しめられなければならなかったのでしょうか。イエスの受けた苦難にはどんな意味があったのでしょうか?それには様々な答えがありうるでしょう。私たちが受けるべき苦しみを代わりに担ってくださった、という見方も当然あるでしょう。しかし、理由はそれだけではありません。むしろこのヘブル書によれば、イエスが苦しまれたのは私たち人間の苦しみを理解するためだった、というころが言われているのです。この点について、今日の説教では取り上げたいと思います。

2.本論

さて、今日の説教は「へブル人への手紙」を取り上げています。この書簡は、かつては使徒パウロが書いた書簡だと考えられたこともありました。しかしいまではそのような見方は否定されています。誰が書いたのかわからない、匿名の書簡だということです。この書簡は非常に独特な神学を提示しています。それは「大祭司キリスト論」と呼ばれるものです。キリストの叫びの意味を考える前提として、まずこの大祭司キリスト論についてみていくことにしましょう。そもそも論になりますが、私たちは主イエスのことをイエス・キリストと呼びますが、キリストというのはイエスの苗字ではなく、役職を示すタイトルです。トランプ大統領という場合、大統領はトランプさんの苗字ではなく彼の職責を指しています。同様に、イエス・キリストも、キリストという役職を担っているイエス、という意味なのです。キリストというのはギリシア語ですが、それはヘブライ語の「メシア」と同じ意味です。イエス・キリストは、イエス・メシアと同じだということです。では、「メシア」とは何かというと、日本語では「救世主」というような意味合いで使われますよね。しかし、メシアの本来の意味は救世主ではありません。その言葉の意味は「油注がれた者」という意味です。どういうことかと言えば、古代イスラエルでは重要な役職に就く人には、頭から油を注がれるという儀式が行われました。ですからメシアすなわち「油注がれた者」というのは、イスラエルでは特別な地位に就く人のことを指す言葉だったのです。では、その特別な地位とは何かといえば、三つありました。王、祭司、そして預言者です。メシアとはこの三つの地位に就いた人のことを言います。イスラエルの歴史に王、祭司、預言者はたくさんいたので、そういう意味ではイスラエルの歴史にはたくさんのメシアがいたことになります。ダビデもソロモンも油注がれた王、すなわちメシアなのです。イエスもそのメシアの一人なのですが、イエスの場合は比類ないメシア、究極のメシアだというのがキリスト教信仰です。

では、イエスは王、祭司、そして預言者の三職のうち、どのような職責を担ったのかといえば、実は全部です。「キリストの三職」という言葉を聞いたことがあるかもしれませんが、イエスは王であり、祭司であり、預言者だというのがその意味です。ただ、その中でも「王」という意味合いが一番大きいわけです。イエスはダビデの子孫だ、ということが強調されていますが、ダビデは王であり、イエスはその血筋なのだということが言われているのです。イエスがダビデの血筋にあるメシア王だということです。同時にイエスが預言者だ、というのも重要です。イエスはいろいろな奇跡を起こしましたが、旧約の預言者であるモーセやエリヤも奇跡を起こしました。また預言者エレミヤが時の権力者、王を批判したように、イエスも彼の時代の最高権力者である大祭司を強く批判しました。このように、イエスは王として、また預言者として活躍しました。この王職、預言者職に対し、イエスが大祭司であるというのは実はあまり注目されないことでした。大祭司とは、神と民との間に立ち、仲立ちをする存在です。民を支配する王とも、民を叱責する預言者とも違います。その、イエスが大祭司であるということを非常に強調しているのがこの「へブル人の手紙」なのです。

ただ、この「大祭司」という言葉にはあまりなじみがないという方もおられると思います。日本の歴史には「大祭司」なるものがなかったからです。これは、私たちにイメージしやすい言葉で言えば「牧師」と同じです。大祭司は大牧師という感じです。プロテスタントでは教職のことを牧師と呼びますが、カトリックでは司祭と言いますよね。牧師と司祭は基本的には同じ働きをします。その司祭をひっくり返せば祭司となるのですが、ユダヤ教では司祭ではなく祭司と呼ぶのです。そしてその祭司の頂点にいるのが大祭司です。このように考えれば、「大祭司」という呼び名もそんなになじみのないものでもないと思います。

へブル人への手紙は、イエスが大祭司であることを諄々と説いているのですが、この5章では大祭司となるための要件、条件を二つ挙げています。その二つ目の理由が「キリストの叫び」という説教テーマと深い関係があるのですが、それは少し後で話すので、まずは一番目の要件、条件をお話しします。その第一の条件とは、大祭司は神が任命するものだということです。そんなのは当たり前だと思われるかもしれませんが、実はとても大事な点なのです。なぜなら、ユダヤ人の常識では大祭司というのは世襲で自動的に決まるものと信じられていたからです。つまり、大祭司にはそれにふさわしい人物がなるのではなく、父から子へといわば自動的に受け継がれると考えられていたのです。しかし、大祭司がそのように決まるとすれば、イエスは大祭司にはなれないことになってしまいます。なぜなら大祭司はレビ族の中でも、モーセの兄であるアロンの子孫が代々受け継ぐことになっていましたが、イエスはレビ族ではなく、ユダ族、それもダビデ王の家系に属していたからだす。つまりイエスは王にはなれても大祭司にはなれないということになってしまいます。へブル人への手紙の著者もそのことがよくわかっています。そのことは7章13節と14節に書かれています。

私たちが今まで論じて来たその方は、祭壇に仕える者を出したことのない別の部族に属しておられるのです。私たちの主が、ユダ族から出られたことは明らかですが、モーセは、この部族については、祭司に関することを何も述べていません。

これは何を言っているのかといえば、「今まで論じて来たその方」とはイエス様のことで、「祭壇に仕える者を出したことのない別の部族」とは、イエスが祭司の家系のレビ族ではなく、王家の家系であるユダ族だということです。

しかし、へブル人の手紙の著者は、その原則をイエスは破る存在であると主張します。なぜなら、大祭司は確かにモーセ律法によれば系図で決まるのですが、例外的に神が直接選んで任命するケースがあるからです。実はそのような先例があり、それがあのアブラハムを祝福した伝説の祭司メルキゼデクです。イエスもメルキゼデクと同じように、神から直接任命されて大祭司となられたのです。しかも、イエスは大祭司になられるのにふさわしい方なので、だからこそ神はイエスを永遠の大祭司として任命しました。では、イエスはどのような理由で永遠の大祭司になられたのでしょうか?イエスは神の子だから、当然大祭司になれるのだ、と言ってしまえば身も蓋もないのですが、実はそうではなく、大祭司になるために必要な条件というものがあるのです。それが2節に書かれていますのでお読みします。

彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。

このように、大祭司になる条件とは彼が牧する人々の弱さを理解し、思いやることができるということなのです。なぜなら、彼自身にもそのような弱さがあるからです。しかし、実はそのことがイエスが大祭司になるための障害にもなりうるのです。イエスは神です。しかし、神に弱さがあるというのは、神の定義と矛盾するように思われます。むしろ神には人間のような弱さがないのは当たり前でしょう。ですから、イエスは人間の弱さを知るために、人となる必要があったのです。弱さを知るには、それを経験するしかないからです。人々の弱さを思いやるという能力は生まれつき身についているものではなく、経験する他ないからです。昔、フランスの王妃だったマリー・アントワネットが民衆がパンがなくて飢えているという話を聞いたとき、「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」と言ったと言われています。これは本当に彼女が言ったものかどうかわからず、デマである可能性が高いとも言われていますが、ただマリー・アントワネットには本当に飢えるということがよく理解できなかったというのは本当のことだと思います。こればかりは体験しないと分からないのです。また、よく「名選手は必ずしも名コーチにはならない」ということも言われます。これも理解できることです。というのも、天才と言われるような人は、普通の人が苦労して身に着けることが簡単にできてしまうので、できない人の気持ちがわからないのです。どうやればうまくできるのかと聞かれても、「簡単だよ。ただこうすればいい」といって、普通の人には難しいことをいとも簡単にやり遂げてしまいます。しかし、そんな人に教わっても全然上達できないですよね。

イエスの場合にもこれが当てはまります。人間は脆く、弱いものなのです。神にはそのような弱さがありませんから、こうした弱さというのは頭ではわかっても、こういう言い方をするのが許されるとすれば、それを実感することはできないのでしょう。ですから罪深い人間の弱さを赦すことはできても、思いやるということはなかなかできないのかもしれません。しかし、イエスは神でありながら人間となることでそのような人間の弱さ、脆さを身をもって経験したのです。神の子であるイエスでも、何も食べなければおなかは減りますし、殴られれば痛いのです。侮辱されれば悔しい思いをするのです。イエスは人となることで、そういうことを一つずつ経験していきました。しかも王侯貴族としてではなく、社会の底辺にいる貧しい人間として生まれ育ったので、貧しさゆえの苦しみ、馬鹿にされることの悔しさも身に染みて体験したのでした。しかし、イエスはそういう不遇な状況に生まれたことを呪って社会に復讐しようとか、犯罪に走るようなことはしませんでした。そうした苦しみに耐えながら、むしろほかの人々を助けました。このように、罪を犯すことはありませんでしたが、同時にやけになって罪を犯してしまう人々の気持ちも共感したり理解できるようになりました。彼らを思いやることができるようになったのです。へブル人の手紙では、キリストが苦難を通じて従順を学び完全な者とされたということが繰り返し言われています。「完全な者」になるということは、完全になる前は不完全だったということが示唆されるわけですが、キリストが如何なる意味で不完全だったのかといえば、神であるがゆえに弱さを抱えた人間への共感という意味では足りない部分があった、ということだと私は理解しています。しかし、人間であるがゆえに苦しみをつぶさに舐めて、それどころか人間として最悪の運命である十字架という恥辱と苦難すら味わったことで、イエスはあらゆる人の苦しみを理解できるようになりました。そしてこれこそがイエスが永遠の大祭司になるために必要なことだったのです。へブル人の手紙の著者はイエスについて、

キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。

と記しています。「大きな叫び声と涙」とはゲッセマネの園での祈りのことなのか、あるいは十字架上での絶叫なのか、その両方であるかもしれません。しかし、イエスは私たちとまったく同じように人としての痛みを経験し、悩みや不安を抱き、そして救いを求めたのです。本当に辛い思いをされたのです。絶望を味わったのです。そのような中でも神を、苦難から救ってくださる神を信じ、自分では人を憎んだり復讐したり暴力を用いることはせずに、神を信頼して十字架上で絶命したのです。最後まで信仰を捨てなかったのです。そのような苦しみを通られたからこそ、イエスは弱い私たちを父なる神に執り成してくださることができるのです。このような経験をされたからこそ、イエスは永遠の大祭司、大牧者になられたのです。

3.結論

まとめになります。イエスが苦しまれたのは、このように私たちの弱さを思いやることができるようになるためでした。イエスの人生は、客観的に見れば悲惨な人生だという言い方もできるかもしれません。人のために尽くしながら、人々に見捨てられて死んだのですから。しかしだからこそ、イエスは同じように悲惨な状況におられる方々のことを心から思いやることができるのです。そしてそのことは私たちにも当てはまります。私たちも人生において様々な苦難や試練を経験します。なんで私がこんな目に遭うのか、と思うこともあるでしょう。苦難の意味には様々なものがありますが、その一つはその経験を通じて他人の痛みが本当に理解できるようになるということがあります。ずっと恵まれた環境で育った人は、たとえその人がどんなに素直で良い人だったとしても、不遇な立場にずっと置かれてきた人の気持ちはわからないのです。想像はできても、実感はできないのです。しかし、自分もそのような苦しみに遭うと、そういう立場に置かれた人の気持ちが心底わかるようになります。苦しみを受けることに肯定的な意味があるとすれば、私たちがそのような共感力を高めることができることでしょう。主イエスはまさにそのような経験をするために、自ら貧しい人として歩まれたのです。そうして私たちのためにとこしえの救いの道を拓いてくださったのです。そのことに感謝しながら、今日のクリスマスを心から祝いましょう。お祈りします。

御子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださった父なる神様、そのお名前を心から賛美します。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」というみことばにアーメンと言えるように、私たちも主イエスの苦難の生涯から多くのことを学ぶことができますように導いてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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