イスラエルの復興
エゼキエル書37章1~28節

みなさま、おはようございます。今日はアドベントの第三週ですので、いよいよ次の主日礼拝はクリスマス礼拝になります。また、今年も残すところあと半月あまりとなります。個人的にはあっという間という感じです。さて今日の説教は、このアドベントにふさわしいかどうか正直申し上げると少し不安なのですが、今日の世界にとって非常に深刻な問題を扱います。

今年の世界の人々の大きな願いの一つは、戦争が終わってほしいということであったと思います。私たちを含めた世界中のクリスチャンも、平和を求めて祈り続けてきました。2022年から始まっているウクライナ戦争は開戦してから3年を超えているのに、まだ終わる見込みが立っていません。これまで膠着状態にあったロシアとウクライナの戦線は、今年に入って明確にロシア優勢に傾いています。ウクライナびいきの西側メディアでさえ、そのことを否定できなくなっています。ウクライナの多くの電力インフラが破壊され、計画停電が続き大変寒い冬を過ごしています。私はヨーロッパで長いこと暮らしましたのでわかりますが、欧州の冬の寒さは日本の比ではありません。そんななかで寒さに苦しんでいる人々のことを思うと、一日も早くこの戦争が終わることを願わずにはおれません。しかしロシアとウクライナだけでなく、アメリカやEUといった第三の勢力が深くかかわっているために、利害関係が複雑になり、なかなか皆が納得する結果にならないという非常に悩ましい状況になっています。戦場になっているウクライナの人々は疲労困憊し、一日も早く戦争が終わってほしいと願っていることと思います。他方で、もう一つの大きな懸念であったパレスチナのガザ紛争は、なんとか停戦にこぎつけましたが、それでもまだガザでは空爆が散発的に起こり、予断を許さない状況が続いています。一般人の被害の大きさという意味では、ガザ紛争はウクライナ戦争以上に深刻な問題を世界中の人々に突き付けてしました。

さて、今日の聖書箇所が、現在の深刻なパレスチナ情勢と関係していると聞いたら驚かれるでしょうか。というのも、今日の箇所はイスラエルという国家の復興を預言している箇所だからです。私は今日のイスラエル共和国がこのエゼキエルの預言の成就だと言いたいわけではありません。けれども、そのように考えている人たちも少なからずおられるのです。このエゼキエルの預言は紀元前6世紀になされたものです。今から2500年以上も前のことですから、日本では神話上の人物である神武天皇の頃ということになりますね。当時のイスラエルの国家であるユダ王国の人々は、バビロニア帝国に国を滅ぼされて、王族以下の主だった人たちはバビロンに捕虜として連行されていました。祭司であり、神の預言者でもあったエゼキエルもその一人です。そのエゼキエルは、滅んでしまったユダ王国、さらにはユダ王国が滅びる100年以上も前に滅んでいた兄弟国である北イスラエル王国、この二つの国が一つになってよみがえる、復興するという預言をしました。ユダ王国と北イスラエル王国は、ダビデ王とソロモン王の時代は統一王国だったのですが、ソロモンが死んだあとに南北に分裂し、先に北イスラエル王国が、次いで南のユダ王国が滅んでしまったのでした。エゼキエルは死人の骨がよみがえるという、なんだか気味の悪い描写をしていますが、これは文字通りの意味ではなく、滅んでしまったイスラエルの二つの王国がよみがえる、復興することの比喩的な表現なのです。エゼキエルは祖国を失って外国の地で意気消沈している同胞たちに、死者の復活という比喩的な表現で、彼らの祖国が回復するというヴィジョンを示したのです。

では、このエゼキエルの預言は実現したのかといえば、部分的には実現しました。紀元前587年に滅亡したユダ王国は、バビロンを倒したペルシア帝国によって帰還と復興を許され、紀元前516年には破壊された神殿をエルサレムに再建することに成功し、一応の復興を達成しました。しかし、エゼキエルの預言が成就したのはせいぜい半分だけでした。というのも、エゼキエルはユダ王国だけでなく、北イスラエル王国も復興すると預言していたからです。しかし、北イスラエル王国はイスラエルの12部族のうち、ユダ族とベニヤミン族を除く10部族から構成されていたのですが、その10部族はどこに行ったのかわからない状態、いわゆる「失われた10部族」になっていて、したがって北イスラエル王国の復興というエゼキエルの預言は成就しないまま時は流れていったのです。しかも、復活したはずのユダ王国のほうも、そのほとんどの歴史を外国の半植民地状態で過ごし、バビロン捕囚が終わってから約600年後、今度はローマ帝国によって滅ぼされます。祖国を失ったユダヤ人たちは世界中に離散しましたが、特にヨーロッパに移住したユダヤ人はキリスト教徒たちによってひどい迫害を受け続け、その最悪の形があのナチスドイツによるホロコーストでした。

特にヨーロッパで迫害され続けたユダヤ人たちが安住の地を求めた結果生まれたのが、1948年に建国されたイスラエル共和国です。ナチスドイツによって追い詰められた、ドイツに住んでいたユダヤ人だけでなく、世界中のユダヤ人たちが移住することで生まれたのが現在のイスラエルです。ただ、問題は彼らが移住した先には、すでに長年の間そこに住んでいた先住民がいたということです。この二つのグループは残念ながら平和的に共存、というわけにはいかず、パレスチナ人を追い出すかたちでユダヤ人の入植が進み、パレスチナ人とユダヤ人との対立が深刻になり、現在に至っています。しかも、このパレスチナ問題にはキリスト教徒も深くかかわっているのです。ユダヤ人の歴史家であるヤコブ・ラブキンという人は、このように書いています。

ユダヤ的伝統においてイスラエルの地が中心的だったとしても、17世紀から〈聖地〉にユダヤ人を集めようとしたのはまずはキリスト教徒、ある種のプロテスタントの福音主義諸派でした。彼らがそうしようとした意図は、キリストの〈再臨〉を早めることにありました。キリスト教とのこの深い共謀関係によって、今日イスラエル国家が、プロテスタントの福音主義集団が何千万人もいる、米国その他の国々から得ている膨大な支援が説明されます。

ここでラブキンは、キリスト教徒たちがユダヤ人をパレスチナに移住させるのを応援している理由は、キリストの再臨を早めるためだと書いているのが注目されます。キリストの再臨とは、文字通りキリストが天からこの世界に戻ってくるということですが、キリスト教徒たちは紀元1世紀からこれを待ち望み、なんと二千年ものあいだずっと再臨を待ち続けてきました。何度も何度も、「キリストの再臨はもうすぐだ」ということが言われながらも、それは実現しなかったのです。では、なぜ二千年もの間再臨が起きないのか?あるキリスト教徒たち、とくに福音派と呼ばれる人たちは、キリストが再臨するためには条件があり、その条件が整わないので再臨がいつまでたっても起こらないのだ、と考えたのです。ですから彼らはキリストの再臨を早めるために、その条件を整えようとしているのです。そして、その条件の一つが今日のエゼキエルの預言なのです。

どういうことか説明しましょう。福音主義の人々は、聖書はすべて文字通りに実現しなければならないと考える人が少なくありません。キリストの再臨とは、歴史の終局、歴史の終わりですから、歴史が終わる前にすべての聖書の預言は実現していなければならないと考えるのです。このエゼキエルのイスラエルの復興については、先ほども申しましたように、その内容はせいぜい半分しか実現していません。なぜなら、確かにユダ王国の回復については実現しましたが、北イスラエルの復興については実現せず、北イスラエルを構成していた失われた10部族についても回復されてはいないからです。そこで、現在のイスラエル共和国はこの失われた10部族を熱心に探していると言われています。なんと、この日本にも失われた10部族が来ていたという都市伝説のような話までありますが、現在の進んだDNA分析などを駆使しながら、10部族の探索は続けられていると言われています。福音派のクリスチャンたちは、このエゼキエルの預言が実現し、イスラエルの12部族がパレスチナに結集し、イスラエルは文字通りに復活し、そのうえでエルサレムについに神殿が再建される。その再建された神殿に反キリストと呼ばれる悪魔的な人物が現れ、その反キリストを滅ぼすためにキリストが再臨する、こうして今の歴史は終わると信じているのです。何でこんな話になるのかといえば、聖書のここかしこの預言を結びつけて一つのストーリーにすると、このような未来予想図になるというのです。

にわかに信じがたい話かもしれませんが、このように本気で信じている福音派のクリスチャンは少なくない、いやそれどころかたくさんいるのです。彼らはこの預言の実現を早めようといろいろ努力をしていて、その努力の一つとして現在のイスラエル共和国を熱心に支援しているのです。しかし、こういうことは本当に正しいのでしょうか。

聖書は、人間が神の預言を自分の力で実現しようとするときに、ろくなことが起きないと警告しています。その最悪のケースの一つが、なんと信仰の父アブラハムです。アブラハムは、神が子供を与えてくださるという約束を信じてカルデヤのウル、現在のイラクを離れてパレスチナに移住します。しかし、待てど暮らせど子供は与えられません。アブラハムは75歳、今日の後期高齢者になってしまい、妻のサラもとっくに閉経しています。もう子供は無理なんでしょうかね、と神に尋ねたところ、神は必ず彼に子孫を与えるという約束をします。それがこの有名なことばです。創世記15章5節をお読みします。

そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」

このように、神はもう子供など望むべくもない高齢のアブラハムに対し、あなたの子孫は空の星のように数多くなることを約束しました。しかし、この約束をアブラハムの妻サラは信じられませんでした。もう自分は子供を産める年齢ではないとわかっていたので、若い女性、奴隷であるハガルをアブラハムに差し出し、アブラハムにこの若い娘を通じて子供を得るようにと促しました。神にはできないことはないと信じていれば、こんなことをする必要はなかったのですが、サラもアブラハムも神の力を自分の常識で測ってしまったのでした。しかし、この行為は大変悲劇的な結末をもたらすことになります。アブラハムはハガルとの間に子供をもうけ、その子はイシュマエルと名付けられました。しかし、このような若い女性によって子供をもうけるのは神の御心ではなかったのです。神はあくまでアブラハムとサラとの間に子供を授けるお考えだったのです。アブラハムもサラも最初は神のこのような申し出を信じませんでしたが、しかし神は実際に100歳になったアブラハムとその老齢の妻サラとの間にイサクをお与えになりました。こうしていざ自分の子供を授かると、サラは自分の子供イサクの相続人としてのライバルになりかねないイシュマエルとその母ハガルが邪魔になり、アブラハムをけしかけて彼らを追い出してしまいました。なんとも身勝手な話ですが、しかし話はここでは終わりません。イシュマエルの子孫はアラブ人になったと言われていますが、ご存じのように今日のアラブ人はユダヤ人とは犬猿の仲というか、うまくいっていません。しかも、このアラブ人とユダヤ人の対立は、そもそも神の約束を信じ切れずに人間的な方法で子孫を得ようとしたアブラハムの不信仰に起因しているのです。神ではなく人間の力に頼ろうとしたアブラハムの行為は、それから四千年後のアラブ人とユダヤ人の不和の遠因になってしまっているのです。

さて、なぜアブラハムの話をしたのかといえば、今日のイスラエル共和国にもこのことが当てはまってしまっているようにも思えるからです。驚かれるかもしれませんが、現在のイスラエル共和国を認めていないユダヤ人も多く、特に信仰心の篤い正統派と呼ばれるユダヤ教徒の中にはいまのイスラエルを認めない人が少なくありません。彼らは、自分たちが国を失ったのは神の御心であるのだから、神が自分たちを祖国に帰してくださるまで待つべきだ。それなのに力づくでパレスチナの地を奪うようなことはしてはならないと主張しています。先ほどのアブラハムは、神様が子供を与えてくださるのを待ちきれなくなって自分の力で子供を得ようとしましたが、現在のイスラエル共和国に反対するユダヤ人たちはこの建国運動に神の時を待ちきれずに自分の力で歴史を動かそうとする不信仰を見出しているのです。彼らは、神がメシアを遣わしてくださるまで待つべきだと訴えています。今日のエゼキエルの預言にも、神が失われた10部族を含む全イスラエルを奇跡的に回復してくださるときに、神はダビデの子孫であるメシアを遣わすと約束しています。そこをお読みします。24節です。

わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行う。

現在のユダヤ教の正統派の人たちは、イエスが彼らのメシアだとは信じていませんが、それでも神は必ずエゼキエルの約束したダビデの子孫であるメシアを遣わしてくださる、だからイスラエル建国もその時まで待つべきだと主張しているのです。

さて、いままでイスラエルについて話してきましたが、私たちクリスチャンはユダヤ人のことをあまり偉そうに批判できない立場にいるということを十分に自覚しなければなりません。彼らがそもそもパレスチナに半ば強引に国を作ろうとしたのも、キリスト教徒たちから二千年もの間あまりにもひどい迫害を受けてきたので、どうしても自分たちが安心して暮らせる国を作りたいと願うようになったのです。その彼らの苦しみや悲しみを知らずに、その苦しみを作り出してきた我々クリスチャンが上から目線でユダヤ人を批判するなどということはあってはならないことです。彼らの苦しみを理解しつつ、同時にパレスチナ人の痛みもしっかりと理解して、彼らの和解のために汗を流すべきなのです。そのうえで、現在のイスラエル共和国を批判する正統派ユダヤ教徒の方々の声にも真摯に耳を傾けなければなりません。

私たちは「待つ」ということが苦手です。神の約束を信じ切って、神の時が来るのをじっと待つということがなかなかできないのです。しかし神は必ず約束を守られる方です。メシアである主イエスも、約束通りに世に来られて、世界の救済の業を成し遂げてくださいました。私たちもまた、自分たちに与えられた責任や課題をしっかりと果たしていく必要があるのと同時に、神の究極の約束についてはそれを自分の力で成し遂げようなどとは思わないことです。神の究極の約束とは『キリストの再臨』のことです。キリストの再臨を早めるために、人間の力でそのおぜん立てをしようなどということはすべきではないということです。

アドベントは日本語で「待降節」と呼ばれます。この期間は、私たちは辛抱強く神の約束を待つということを学ぶための時期でもあります。そのことを胸に抱きながら、アドベントの最後の一週間を過ごして参りましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。私たちは不信仰なもので、神の約束を待ちきれずに自分の力でなんとかしようと思ってしまうような傲慢な者ですが、どうかこのアドベントの期間に今一度「待ち望む」ことを学ぶことができますように。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

ダウンロード