1.序論
みなさま、おはようございます。アドベント第二週になりました。今日は詩篇からみことばを取り次ぎます。私が当教会にお仕えするようになって六年になりますが、驚くことに詩篇からの説教は今回が初めてになります。いつも交読文で詩篇を読んでいるので、意外に思われるかもしれませんが、説教で話すのはこれが最初になります。詩篇というと、先月天に召された森田兄弟が大変愛しておられ、詩篇からの奨励をなさっていたことを懐かしく思い出します。
さて、今回は詩篇40編からの説教になります。この詩篇40編というのは私にとっても非常に思い入れのある詩篇です。といいますのも、私の思い出話をして恐縮ですが、はるか昔、私が高校生だった時に、大好きだったロックバンドがいました。今ではロックはほとんど聞かなくなりましたが、高校生の頃はいくつか好きなバンドがあって、よく聞いていました。そのバンドが、皆さんも名前ぐらいは聞いたことがあると思いますが、U2というバンドです。世界最高峰の賞であるグラミー賞を22回も獲得しているという、ロックの歴史に残るバンドの一つです。ある時期から、いくつかの理由で私はこのバンドへの興味を失ってしまったのですが、高校生の頃は大好きでした。彼らがライブで最後に歌う曲が「40(フォーティー)」という曲なのですが、何の四〇かというと、まさに詩篇40編で、詩篇40編の1節から3節までに曲を付けたという、クラシック音楽ならいざ知らず、ロックミュージックでは大変珍しい曲です。私はこの曲から初めて詩篇40編を知り、それからこの詩篇は私の愛唱聖句になりました。
この詩篇40編の聖句は新約聖書にも引用されていますので、アドベントにふさわしい箇所ではないかとも思いました。では、さっそく詩篇40編を読んで参りましょう。
2.本論
さて、この詩篇は伝統的にはダビデ王の書いたものとされ、タイトルにも「ダビデの賛歌」と書かれています。ダビデがサウル王に命を狙われていたとき、あるいは息子であるアブシャロムの反乱でエルサレムから逃げ延びた時の作品とされています。私たちはずっとサムエル記を学んできたので、なじみ深い話です。しかし、詩篇にある多くの歌はダビデ作とされていますが、実際は少なからぬ作品は後世の人がダビデの名前で書いたものだとされています。旧約聖書にはダビデ作、あるいは彼の息子のソロモン作という作品が大変多いのですが、実際は詠み人知らずの作品が、後に時代にダビデ作とされたことが少なくないということです。ですから、この詩篇についても著者は誰なのかということはあまり考えずに、内容そのものにフォーカスしたいと思います。
この詩篇は大きく三つの部分に分けられます。最初は1節から5節までで、作者の個人的な感謝の気持ちが詠われています。苦境にあった作者が助け出されたことを神に感謝するという内容です。今日の説教タイトルにあるように、まさに「賛歌」、神に感謝し、賛美する歌です。そして6節から10節までは、礼拝について書かれています。神はいけにえを求めない、ということが書かれています。神学的な内容と言えるでしょう。そして11節から17節までは、救いを求める嘆願の歌になっています。最初に苦境から救い出された感謝があるのに、最後は苦境から救ってくださいという嘆願になっているというのはおかしいと思われるかもしれません。最後にもう一度、救われたことを感謝するくだりがあれば、私たちも安心できると言いますか、ハッピーエンドで気持ちよく終われるのですが、なんだか尻切れトンボで終わってしまう印象を受けます。これは、この詩篇がもともと別々の機会に歌われた歌だったものを、後で編集して一つのものにまとめたという可能性を示唆します。つまり、救いを求める嘆願の歌がまずあり、それに救いを感謝する賛歌が加えられ、さらに礼拝についての考察の歌がそこに加わり、一つにまとめたのではないかということです。これについては確かなことは言えませんが、聖書は長い時間をかけて編集された文書なので、そういうこともありうるということです。ですから、ここでは思い切ってこの詩篇40編を再構成したいと思います。順番をさかさまにして、最初に救いを求める部分、次いで救われたことを感謝する部分というように読んでいくのです。具体的にはまず11節から17節までを読み、それから1節に戻って読んでみるということをしたいと思います。
まず、詩篇の著者は自分の苦境を正直に神に申し上げています。「数えきれないほどのわざわいが私を取り囲み」と、苦しい胸の内を打ち明けています。
それで13節ですが、「主よ。どうかみこころによって私を救い出してください。主よ。急いで、私を助けてください」という一文から始まります。詩篇にはこのような救いを求める歌がたくさんありますが、ここもその典型です。次いで作者は、自分を辱めるものを神が辱めてくださいますように、と祈ります。
私のいのちを求め、滅ぼそうとする者どもが、みな恥を見、はずかしめを受けますように。私のわざわいを喜ぶ者どもが退き、卑しめられますように。
こういう復讐を求める歌は、多くのクリスチャンをつまずかせてきました。イエス様は「敵を愛しなさい。迫害する者のために祈りなさい」と教えられたのに、ここまで赤裸々に敵の辱めや破滅を神に願ってよいのか、と思われるかもしれません。しかし、私たち人間は神ではなく人です。自分にひどいことをする人のことを怒るというのは人間としては当たり前の感情で、そういう気持ちがなくなってしまったらもはや私たちは人間とは言えません。もちろん私たちには理性というものがありますから、そういった怒りに満ちた自分を抑えようとする働きも持っています。私たちはたとえ相手に腹を立てても、一呼吸おいて冷静になろうとします。とはいえ、詩文学というのはそういう理性的な自分だけでなく、ありのままの自分をさらけ出す文学形式です。本音をぶつけるのが詩文学だと言えます。だからこそ、それを聞く私たちも共感できるのです。きれいごとではすまない赤裸々な人間、それをありのままに表明するのが詩文学なのです。復讐の思いを乗り越えるには、まず初めに自分の中にはそのような思いがあるのを認める必要があります。それを吐き出す必要があります。そして初めて人は冷静に自分を見つめることができるのです。そういう意味で、ここで詩篇の作者が自分の気持ちをありのままに書いていることは素晴らしいことだと思います。預言者エレミヤも、同じようなことを述べています。エレミヤも、自分を殺そうとする者に怒り、彼らに復讐してくださいと神に祈ります。エレミヤ書18章23節をお読みします。
しかし、主よ。あなたは、私を殺そうとする彼らの計画をご存じです。彼らの咎をおおわず、彼らの罪を御前からぬぐい去らないでください。彼らを御前で打ち倒し、あなたの御怒りの時に、彼らを罰してください。
このように、エレミヤも激しい復讐の祈りをしています。私はこういう祈りが正しいと言いたいわけではありません。エレミヤも、こういう復讐を求める気持ちから抜け出して、さらに預言者として成長していったのを見ることができます。しかし、繰り返しますが人間であればこういう思いを持つのは自然なことだし、自分のこころにそのような思いがあるのを認めることは大切なことです。認めたうえで、私たちはそういう気持ちを取り扱い、乗り越えることができるからです。
さて、詩篇に戻りますが、16節では今度は主を求める人ヘの祝福を求める祈りが続きます。
あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「主をあがめよう」と、いつも言いますように。
私たちが主を求めるのは、究極的には敵を罰してほしいからでも裁いてほしいからでもなく、私たち自身が喜ぶためです。もし私たちが本当に幸せなら、敵に対してですら優しい気持ちを持てるでしょう。自分が幸せだと、苦しんでいる人を見ると辛くなります。自分が不幸だと、人も自分のレベルに引きずり下ろそうとしますが、自分が幸せなら、周りの人も幸せになってほしいと願うものです。ですから、敵に対する復讐心を乗り越えようと思うのなら、まずは自分自身が幸せになるということが必要になってきます。そこで、詩篇の記者は自分を泥沼から救い出して、幸いを見させてくださいと願います。それが17節です。
私は悩む者、貧しい者です。主よ。私を顧みてください。あなたは私の助け、私を助け出す方。わが神よ。遅れないでください。
この救いを求める熱烈な祈り、その祈りが応えられた結果が1節の「賛歌」なのです。
私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は私のほうに身を傾け、私の叫びを聞き、私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。
この詩篇の作者は、自分が滅びの穴、泥沼にいたと述べています。それが具体的にはどんな状態なのか、私たちには分かりません。この詩篇がダビデ王の書いたものならば、サウル王に命を狙われていたことを指しているのか、あるいは息子のアブシャロムに王位を狙われていたことを指すのか、どちらかである可能性が高いでしょう。けれども、これがダビデの作品ではないのならば、作者がどのような苦境にいたのか、私たちには分かりません。しかし、それでもいいでしょう。なぜなら私たちは自分自身の苦境をそこに重ね合わせることができるからです。私たちも人生において大変暗い時期、辛い時期を歩むことがあるわけですが、この著者も自分と同じような経験をしたのだろうと共感することができます。ともかくも、この詩篇の著者は、自分が滅んでしまうかもしれないと思うほどの辛い経験をし、その悲惨な状態から抜け出すことができ、さらには自分が泥沼ではなく巌、つまり非常に確かな土台に立つことができたと感じていたのです。皆さんにはそういう経験があるでしょうか。私も自分自身の人生を振り返ると、確かにそういうことがあったと思います。ここで私の個人的な経験を話すと説教ではなく証しになってしまうので、今は話すことはしませんが、こうした経験をした後に私の心に残されたのは神への賛美でした。神に感謝の気持ちを伝えたいのです。そのような気持ちをこの詩篇の作者も抱いたのです。それが3節です。美しい一節です。
主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。
このように、この1節から3節まではまさに詩篇の白眉ともいえる箇所で、本当に素晴らしい、美しい箇所だと思います。4節、5節も同じ内容が続きます。
さて、しかし6節からは内容が大きく変わります。私たちは神に感謝の思いを抱くとき、それを形にしたいと思います。それはちょうど、人間関係において大変お世話になった人に対して、なにか贈り物をしたいと思うのと同じです。「ありがとう」の気持ちを贈り物に込めたいということです。古代の人々は、神に感謝の献げものをしました。ここで使われている「いけにえ」という言葉のヘブライ語はザバーとかオラーという言葉ですが、新約聖書にも出てくる言葉には「コルバン」という言葉もあります。このコルバンはあらゆる種類の神への献げものを意味するような包括的な言葉ですが、それは「贈り物」とかギフトと訳したほうがニュアンスが伝わるように思います。いけにえ、というと何かおどろおどろしい響きがありますが、ギフトというともっと明るい感じがしますよね。6節で言われている「いけにえ」は、みなギフトと言い直してもよいと思います。つまりここで言われているのは、神様は私たちに与えてしてくださった恵みのお返しに、私たちからお礼の贈り物を求めることはしない、ということです。今風に言えば、たくさん献金をしなさいという風に求めることはないということです。念のために言いますと、教会の献金は不要だということではありません。私たちは小さな群れですが、しかしこの教会を維持していくためにもお金は必要です。教会はみなで支え合って維持しているので、献金なしには教会は存続できないのです。しかし、献金を神に対する義務のように考える必要はないのです。神にそういう形で「お返し」をする必要はないのです。では、神に対してどのように感謝の気持ちを表せばよいのでしょうか?その答えが8節に書かれています。
わが神、私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。
神にお返しをすることは、神のみこころを行うことです。それが神への最大の感謝の献げものになります。では、神のみこころを行うというのは具体的にはどういうことでしょうか?周りの人々に親切にしたり、貧しい人や困っている人たちのために働くことでしょうか?もちろんそうしたことも大切ですし、神のみこころを行うことになります。しかし、詩篇の著者はここでは別のことを語っています。彼が語っているのは、「義の良い知らせ」を告げ知らせることです。大きな会衆に対してそれを語ることです。ここでの「会衆」という言葉は、ヘブライ語の旧約聖書をギリシア語に翻訳したいわゆる七十人訳聖書では「エクレシア」、つまり教会となっています。神の御心を行うとは、つまり教会の人々に対し「義の良い知らせ」を告げ知らし、神の義、神の真実、神の救い、神の恵みとまこととを語ることです。これは私たちがいつもしていること、つまり「証し」をすることです。神が私たちに与えた恵みの応答として私たちに求めているのは、お礼の贈り物を神に献げることではなく、むしろその受けた恵みを教会の人たちに語り掛けなさい、分かち合いなさいということなのです。
3.結論
まとめになります。今日は、苦難にある詩篇の作者が切々と神に救いを求め、神がそれに応えて彼を苦境から救い出してくださった、その恵みの業に対する詩篇の著者の感謝の賛歌を見て参りました。そして、驚くべきことに、神が私たちに求めておられるのはその恵みへの応答としての献げものではなく、その感謝の気持ち、賛美の言葉を会衆の多くの人々に語り掛けることなのだ、ということです。私たちの教会でも「証し」を非常に大切にしていますが、それは神がまさに私たちに求めておられることなのだ、ということです。
ですから、私たちは今後も「夏の会」や「冬の会」で証しをする機会を大切にしていきたいと思います。それだけではなく、主のご降誕を待ち望むこのアドベントの期間にも、「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」というみ言葉を胸に、神が私たちになしてくださった恵みをともに分かち合ってまいりたいと思います。お祈りします。
私たちを人生の苦難から救い出してくださる神よ、そのお名前を賛美します。私たちも神への賛美を隠すことなく人々に分かち合いたいと願うものです。どうかこのアドベントの歩みをますます豊かなものとしてください。われらの平和の主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

