反乱の後に
第二サムエル19章1~30節

1.序論

みなさま、おはようございます。2023年の7月からサムエル記の講解説教を始めましたので、この6月で二年が経ったわけですが、いよいよサムエル記の説教も今回を含めて残すところあと二回になります。サムエル記そのものはこの19章の後もまだ続いていきますが、サムエル記の主人公であるダビデの生涯という意味では、このアブシャロムの乱を一つの区切りとしてよいと考えています。ですから今日の話でアブシャロムの乱について振り返り、次回の説教ではダビデの生涯の全般を考えて、サムエル記の説教を終えるということです。

前回見てきましたように、この反乱はアブシャロムの死という悲劇的結末で幕を閉じます。これはダビデが最も望まなかった、彼にとっては最悪の結末だったわけですが、しかし皮肉にもアブシャロムの死によってダビデの家の大混乱は一旦落ち着きを見せることになります。このアブシャロムの乱とはいったい何だったのか、それをどう理解すべきか、ということですが、これまで繰り返し述べてきたように、これはバテ・シェバ事件の引き起こした結果でした。つまり神はダビデに自らの犯した罪の刈り取りを求めたのですが、その刈り取りの一つがアブシャロムの乱だということです。使徒パウロは「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ6:7)と書いていますが、ダビデは自らが蒔いた種、つまり人妻の強姦とその夫の殺害という悪の種が熟し、その刈り取りをしたということです。バテ・シェバ事件やその夫のウリヤ殺害については、神はダビデを赦したではないか?と思う方もおられるでしょう。しかし、罪が赦されるということと、罪の刈り取りをすることとは別なのです。ここは非常に大切なポイントなので、詳しくお話しします。

いきなりとんでもないたとえだと思われるかもしれませんが、あなたの大切な家族や友人が誰かに殺害されたとします。あなたはその人殺しを赦せないと思うでしょうが、しかし彼がその行為を深く反省しているのを知って、赦してあげようと思うようになりました。あなたはその殺人犯に会って、「あなたを赦します」と言うことが出来ました。その犯人もあなたのことばを涙を流して聞いていました。しかし、だからといって彼がその犯した罪の償いをしなくてもよいということになるでしょうか?すぐに刑務所から出て、何事もなかったように日常生活を送ってよいものでしょうか?そうではないでしょう。あなたも、彼を赦したとしても、彼にはきちんと罪を償ってほしいと願うでしょう。神とダビデの関係も同じです。確かに預言者ナタンは、神がダビデの罪を見過ごしてくださったと語りました。ダビデと神との関係は完全に決裂することはなかったのです。しかし、ではダビデが犯した罪とその結果は消えてなくなったのでしょうか?いいえ、それどころか実際は、ダビデがバテ・シェバ事件を起こしてからというもの、ダビデの家には忌まわしい、呪われたような事件が立て続けに起こりました。まず、ダビデの娘のタマルを、ダビデの息子のアムノンが強姦するという事件が起きました。兄妹間の近親相姦、しかも強姦という国を揺るがすようなスキャンダルが王家の中で起こってしまいました。しかし、ダビデはこの事件を黙認してしまいました。このダビデの無責任な行動に抗議するかのように、タマルの兄であるアブシャロムが妹を辱めた第一王子のアムノンを殺害します。動機は理解できますが、しかし王子を暗殺するというのは国家を揺るがす事態です。しかし、このクラウン・プリンス殺害という大事件でさえ、ダビデはうやむやにして、アブシャロムの罪を問うとはしませんでした。王の仕事、あるいは一家の大黒柱としての父親の大切な仕事の一つは「裁く」ことです。公平な裁きを執行し、国家の、あるいは家族の秩序を維持するというのが大切な役割なのです。時には厳しい、非情な判断を下さざるを得ない時もあるでしょう。三国志の諸葛孔明の「泣いて馬謖を斬る」という故事にあるように、自らの心情に反してでも違反者には厳罰を下すということが指導者には求められます。ダビデもイスラエルという国家を預かる者として、またダビデ王家の家長として、公平な裁きをする必要がありました。

しかしダビデは王としての責務、家長としての責務よりも私情を優先しました。大きな罪を犯した子供たちの一人として処罰しませんでした。その結果、一番苦しんだのは兄に強姦されて処女を奪われたタマルでした。ダビデは彼女の名誉回復のために何もしなかったのです。その結果、ダビデの家にはさらに恐ろしい惨劇が起ることになりました。そして、おそらくこちらの方がより大きなダビデの根深い問題なのですが、ダビデが息子たちの罪を裁かなかったのは、それによって自分の罪の問題が蒸し返されることを嫌った、恐れたということがあったということです。ダビデは長男アムノンの強姦の罪を裁いて、死罪とまではいかなくとも彼の王位継承権を剥奪して僻地への流罪とするというぐらいの処置をとる必要がありました。けれども、そのように厳しい処置を取ったならば、ではなぜダビデ自身の罪への処罰は何もないのか?という疑問の声が上がる可能性がありました。もちろん相手は王様ですので、表立ってダビデを糾弾する勇気のある人はいないとしても、内心そのような不満を抱く人たちは少なくなかったでしょう。今の日本のクリスチャンの間でも、誰かを故意に殺した人がいて、その人が心から悔い改めて神の前にへりくだったのだから、もうその人の罪についてとやかくいうのはやめよう、神様に赦されたのだからそれで終わりにしよう、という話にはならないでしょう。ですから、ダビデも神の前に謙虚にへりくだるのは当然のこととして、自分が治める国民に対してもしっかりと責任を取る必要がありました。しかしダビデはそのようなことを何もしなかったのです。そのダビデが自分の子どもには厳罰で報いるということになれば、片手落ちの非難は免れないでしょう。ダビデは結局自分の罪に真摯に向き合えなかったのです。そのために息子たちの罪の問題を取り扱うことができませんでした。しかし、このように罪の根本原因と向き合うことを拒んだために、さらなる問題が生じるのです。ダビデがこの負のスパイラルを止めるには、どこかで自らの罪の問題と向き合う必要がありました。神はダビデにそれを求めておられたのです。しかしダビデはそれから逃げ続けました。

そして今回のアブシャロムに対してもそうです。今回のアブシャロムの乱の根本的な原因が親子の対立、息子の父親に対する怒りがあったのだとしても、これは国家を転覆させかねない大事件で、しかもその内戦の結果数多くの死傷者が出たのです。そのような大事件を引き起こしたアブシャロムは当然処刑されるべきなのですが、またもやダビデはその責任をうやむやにし、アブシャロムを助けようとしました。そのことに怒ったのが今やダビデ軍団の大黒柱、大将軍のヨアブでした。ヨアブはダビデから直接アブシャロムを助けてくれと頼まれていたにもかかわらず、それを無視してアブシャロムを殺しました。そうしないとこの内戦が終わらないからでした。今回の場面はその結果を受け止めきれなかったダビデに対してヨアブがどのような言葉をかけたのか、そこから始まります。では、さっそくその場面を見て参りましょう。

2.本論

さて、前回見てきたように、わが子アブシャロムの死を知ったダビデは、人目もはばからずに衆目環視の下で大泣きします。門の屋上に上がって泣いたとありますから、皆がそれを目撃していたのです。本来なら勝利の喜びに沸き上がるはずのダビデ陣営は、文字通りにお通夜のようになってしまいました。サムエル記の記者は端的に、「それで、この日の勝利は、すべての民の嘆きとなった」と書いています。本当は戦勝記念のお祭りが開かれるところが、民は王に遠慮して、自分の住居に戻ってしまいました。しかし、このような状況を快く思わない人たちもいました。兵士たちはダビデのために命がけで戦ったのです。ダビデが敗北すれば、彼に従った人たちもアブシャロムによって処刑されるか、あるいは赦されたとしても新体制の中で冷や飯食いに甘んじたことでしょう。ですから彼らは必死に戦って、敵の大将を討ち取ったのです。それなのに、我らが大将は自分たちの獅子奮迅の働きに感謝もせずに、むしろ敵の大将ではなく自分が死ねばよかったと泣き出す始末です。彼らからすれば、俺たちは何のために必死に戦ったのか、ということになります。そして、こうした兵士たちの気持ちを一番よく理解していたのが、彼らの先頭に立って戦ったヨアブでした。ヨアブは知っていました。自分だけがダビデを叱ることができるのだと。このままダビデが民の前で女々しく泣き続けていれば、この王国は崩壊してしまう、ここでダビデを正気に戻さなければならないと。

ヨアブはダビデを激しく叱責します。あなたはアブシャロムの代わりに自分が死ねばよかったと言うが、ではなぜアブシャロムと戦ったのか、いや自分の部下たちをアブシャロムと戦わせたのか、と。それはつまりあなたの部下がアブシャロムを殺すことより、あなたの部下がアブシャロムに殺されるほうがよかった、ということではないか。部下たちに「生きて帰って来い」と命じるのではなく、「俺の息子のために死んでくれ」と言うようなものではないか。これは命がけで戦った部下たちへの侮辱であり、こんなことをすれば国は立ち行かなくなる。そのように諭して、ヨアブは最後にこう言いました。

それで今、立って外に行き、あなたの家来たちに、ねんごろに語ってください。私は主によって誓います。あなたが外においでにならなければ、今夜、だれひとり、あなたのそばに、とどまらないでしょう。そうなれば、そのわざわいは、あなたの幼いころから今に至るまでにあなたに降りかかった、どんなわざわいよりもひどいでしょう。

ここでヨアブは主の名によって、つまり預言者として語っています。今もしダビデが兵士や民に語りかけて、彼らに感謝の気持ちを伝えなければ、国は崩壊し、これまでの災いよりもさらに酷い災いがあなたを襲うだろう、という恐るべき預言です。ここまで言われてようやくダビデは正気を取り戻し、立ち上がって民の前に出ました。ここでダビデとイスラエルの民の信頼関係が崩壊するという最悪の事態は回避できたのでした。ダビデにとってヨアブは意のままにならない目の上のたん瘤のような部下でしたし、確かに彼は何度も独断専行をするような部下でしたが、しかし彼なしにはダビデの王朝はとっくに崩壊していたでしょう。今回も、ヨアブのおかげでダビデ王朝は救われたのでした。ヨアブはまさに「汚れ役」ですが、しかしこういう人物なしには組織も立ち行かないというのがこの世の現実なのでしょう。

しかし、ダビデはヨアブのこうした貢献を正当には評価せず、どこか疎ましく思っていました。それも当然かもしれません。ヨアブはもはやダビデ王朝の最高権力者であることが、隠しきれない事実として人々の間で認識されるようになっていたからです。ダビデもヨアブの言っていることが正しいのは分かっていましたが、しかしこれ以上ヨアブが増長するのを黙って見ているわけにもいかないという思いが強くなっていました。そこでダビデは、禁じ手ともいうべきことを考え出します。それはなんと、反乱軍の親玉、アブシャロムの反乱に加担したヨアブの親戚のマアサをヨアブに代えてダビデ軍団の長として迎え入れるという提案でした。これは反乱軍を懐柔するという作戦なのかもしれませんが、しかし今やアブシャロム軍は壊滅しています。このような譲歩を行って相手を懐柔する必要などなかったのです。またヨアブからすれば、自分の顔に泥を塗られたような思いだったでしょう。なんだかんだ言っても、今回のアブシャロムの乱に勝利したことの最大の功労者はヨアブです。にもかかわらず、恩賞が与えられないどころか、自分の親類の年下の若造の部下に降格させられるのですから、腹の虫がおさまるはずがありません。実際、このマアサは後にヨアブに暗殺されます。こうなることが分かり切っているのに、このような提案をすること自体、ダビデのどこか大人になり切れないといいますか、王たる器ではないことがここでも露呈しているように思えます。

ともかくも、反乱軍はダビデに全面的に降伏してダビデをエルサレムの王城に迎え入れることを決断します。かつてエルサレムを逃げ延びようとしたダビデに呪いの言葉を投げかけたシムイという男がいました。彼はサウル家の家来で、自分の主君の家を滅ぼしたダビデを恨んでいて、ダビデに呪いの言葉を浴びせたのでした。しかし、そのダビデが勝利者として戻ってくると聞いて、手のひらを反すようにしてダビデに平謝りに誤ります。なんとも情けない話ではありますが、シムイも生き延びるために必死で、恥も外聞もないわけです。ダビデの家来の中には、このような人物は厳罰に処すべきだという意見もありましたが、そこはダビデの政治家としての顔が出てきます。ここでシムイを厳罰にしてしまうと、他の反乱軍に与した人々が自分も罰されてしまうのではないかと不安を覚えて、再びダビデに対して反旗を翻してしまうかもしれません。そこでここは寛大な顔を見せて人心を落ち着かせることを選びました。また、このように恥も外聞もないシムイは放っておいても今後の脅威にはならないという判断も働いたのでしょう。シムイに対して、あなたを殺すことはないと誓って安心させました。しかし、ダビデはシムイのことを赦してはいなかったのです。彼はソロモンに遺言してシムイを殺させているからです。ダビデもなかなか執念深い男なのです。

シムイに続いて、今度はダビデの盟友のヨナタンの忘れ形見であるメフィボシェテがダビデを迎えに出てきました。ダビデがエルサレムを逃げ延びるときに、メフィボシェテの家臣のツィバという男がやってきて、メフィボシェテはダビデを裏切ったと告げました。ダビデはその話を信じて、あるいはもしかすると信じたふりをして、メフィボシェテのすべての所領をツィバに与えるという約束をしたのでした。しかし、この話は嘘、つまり讒訴であって、ツィバは足が悪くて動けない主君のメフィボシェテを裏切ってダビデに取り入ろうとしたのでした。メフィボシェテはそのような事情をダビデに話して、自分は決してダビデを裏切ってなどいないと訴えました。こうなると、ツィバが嘘をついているか、あるいはメフィボシェテが嘘をついているのか、二つに一つです。ダビデとしては真実を明らかにすべきでした。しかし、ここでもダビデは判断を下す、さばきを下すことを回避します。そして玉虫色の解決策を提示します。ダビデはメフィボシェテになぜ言い訳ばかりするのかと叱責しながらも、彼の言い分も認めて、彼の所領をツィバと二等分せよと命じます。これもおかしなことで、ツィバが嘘をついているならメフィボシェテに全部所領を戻すべきなのですが、どっちが嘘をついているのかはまあどうでもいいじゃないか、とばかり二人に財産を二等分するように命じたのです。この一件からも、ダビデは裁き人としてはもはや機能していないことが明らかになったのでした。

3.結論

まとめになります。冒頭で申し上げたように、今回のアブシャロムの件は神がダビデに自らの罪の刈り取りをさせるという流れの中で起こった出来事でした。ダビデはその中で、自らの罪の問題に向き合いつつも、イスラエルの王として人々の罪を正しく裁くという責任も果たしていかなければなりませんでした。そしてダビデがもし裁き人として正しい行動をしていたのなら、ダビデの家に起った不幸の連鎖は途中で止まったはずでした。しかし、ダビデは自分を裁くことも他人を裁くこともできませんでした。その結果、ダビデの家の崩壊は加速していき、ついに内乱という最悪の結果をもたらしてしまったのです。この負の連鎖を止めるためにダビデはアブシャロムを裁かなければなりませんでした。しかしダビデはそれをせずに、そのためにヨアブがダビデに代わって裁きを執行しました。しかし、そのヨアブの行動をダビデは快く思わずに、ヨアブの顔に泥を塗るような人事でそれに応えました。そのために、たしかにダビデ家の崩壊という負のスパイラルは一旦ここで止まるのですが、未来にさらなる禍根を残し、ソロモンが王となる時に再び大きなお家騒動が起きることになります。ダビデはヨアブを恨み続けていて、ソロモンにヨアブを殺せと遺言するのです。ダビデ家の流血はまだ終わっていなかったのです。 

最後に、このアブシャロムの乱を通じて、聖書が私たちに何を語りかけているのか、何を教えているのかを考えてみたいと思います。この一連の出来事を読み進めて、なかなか「恵まれた」という気持ちにはならないでしょう。人間社会の浅ましい現実、信仰の勇者だと思っていたダビデの惨めな有様、しかもこれだけの悲劇を経験した後もダビデがあいかわらずご都合主義的な対応に終始しているのを見ると、なんとも救われない気持ちになります。しかし、聖書はそれだけ正直に人間のありのままの姿を描いていると言えます。なぜ私たちに宗教が必要なのか、救いが必要なのかといえば、私たちがそれだけ浅ましい本性を秘めた人間だからです。ダビデも立派な人でしたが、権力の高みに上るや否や、たちまち堕落してしまいました。私たちも、自分は良い人間だ、そんなに悪い事などしないと思っていても、もし大きな権力を振るえる立場に身を置くと、たちまち誘惑や権力の罠に堕ちてしまいかねません。ですから私たちは、大人になっても、いくつになっても自分たちを導いてくれる方が必要なのです。「自分は大丈夫だ」と過信しないことです。私たちもいつ何時、ダビデと同じような迷路に堕ちてしまうかもしれないのです。そして、私たちを導いてくださるイエス・キリストは私たちの弱さに同情しないようなお方ではありません。主も私たちと同じように人間としてのあらゆる苦しみや誘惑を経験されました。だからこそ、私たちをよく理解した上で導くことができるのです。ダビデを反面教師として、また主イエスを見上げて今週も歩んで参りましょう。お祈りします。

歴史を導かれる神様、そのお名前を賛美します。今回はアブシャロムの乱が終わった後のダビデの行動を見て参りました。責任ある地位に就いた者が、その地位に相応しく行動することの難しさを思わされた箇所でもありました。私たちも様々な責任を負う場面がありますが、そのような際にはそれにふさわしい行動ができるように力をお与えください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

ダウンロード