矢田洋子
「私の後ろに従って来なさい」とイエスさまが言われたのは、福音宣教の旅をするイエス・キリストが最初に弟子たちに受難予告をしたその場面でした。イエスさまは、今ここで、初めてご自分の救い主としての使命を、弟子たちにはっきりとお話になりました。ご自分が苦しみを受けて排斥され殺されるということ、そして復活するということ、それこそがご自分の使命なのだということを、弟子たちにここで初めてはっきりとお話しになりました。
しかし、弟子たちはこの時、イエスさまのこの言葉の意味を理解することは、全くできませんでした。イエスさまは、多くの病人を癒し、力強い教えを語る、力ある輝かしいお方でした。イエスさまが「静まれ」というと、荒れ狂う嵐はすぐに静まりました。イエスさまが「出ていけ」というと、悪霊は取りついた人から出て行きました。多くの人がイエスさまの教えを聞こうと集まって来て、イエスさまの力強い教えに喜んで耳を傾けました。イエスさまの癒しによって、足の萎えた人は立ち、耳の聞こえない人は聞こえ、目の見えない人は見えるようになりました。
それだからペトロは告白したのかもしれません。「あなたはキリストです」と。この時代に「キリスト」とは、ただ一般的に、特別な力を持った救い手を指しています。救い主という一般名詞です。新共同訳では、その「一般的さ」を強調するためだと思いますが、ここを「あなたはメシアです」と訳しています。ただこの世を救ってくれる人、すごい王様、そんな意味にすぎないものでした。この時、ペテロは、イエスさまが救い主であるという本当の意味を全く理解できていなかったのです。力強いイエスさまは、キリスト、メシアなのだ。救い主なのだから、殺されるなんていうことがあるわけがない。ペテロは、イエスさまを脇にお連れして、いさめ始めました。「いさめる」「忠告する」とは「叱る」と同じです。ペトロがイエスさまを叱ったのです。イエスさまはこういう働きをしてくれるはずだと決めつけて、メシアはこうあるべきだと決めつけて、ペテロが上になり、イエスさまを下において叱ったのです。・・イエスさまの後ろに従ってきたつもりだったのに、いつの間にか前へ出て、ペテロはイエスさまに教えようとしていました。あなたはこういうお方のはずです。救い主キリストはこうあるべきである。殺されるなどと言ってはなりません。・・・他人事ではありません。私たちも、私たちは十字架と復活の出来事を知っているはずなのに、神さまの前に出て、神様に自分の確信を押しつけようとしていることがあります。神は愛である、正義である、秩序であるから、だから神はこうあるべきであります。教会はこうあるべきであります。キリスト教信仰はこうあるべきであります。・・従っているつもりだったのに、いつの間にかイエスさまの前へ出て、イエスさまの上に立って意見していることがあることがあります。
イエスさまはそのペトロを叱りました。「下がれ、サタン」。「サタン」、私たちは、イエスさまがここでペテロを「サタン」と呼ばれたことに衝撃を受けます。「サタンのような者」ではなく、「サタンよ、ペテロから出ていけ」でもなく、ペテロを「サタン」と呼んでいるのです。・・「サタン」という言葉は、旧約聖書の原語であるヘブライ語由来の言葉で、旧約聖書でもともと「サタン」とは、「敵対する者」「妨げる者」という普通名詞でした。注解書によりますと、マルコ福音書では、「サタン」は、「神の御心を妨げる者」という意味で用いられているとありました。ペテロのここでの発言は、イエスさまを十字架から遠ざけようとする行為です。十字架の出来事は、神さまの最大の愛の出来事ですから、それを邪魔する者は、神さまの御心に決定的に反した者です。その意味ではサタンそのもの。・・・でも、この「サタン」という言葉が、あまりに強烈なので、私たちはここで、突然、断罪され切り捨てられるように受け取ってしまいます。
ペテロだって、悪気があったわけではありませんでした。ペテロなりに一生懸命だったのです。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」イエスさまはそう叱って言われましたが、人間に神のことが全部わかるはずがありません。人間は、どんなに神様の御心を尋ね求めようとしても、そうしているつもりでも、人のことを思って、人間世界の考えと感情を引きずってしか、何を言うことも、何をすることもできないのです。
たしかに、ペテロの理解は間違っていました。でも、ペテロは、イエスさまを救い主だと信じていたから、ああ言ってしまったのです。イエスさまがこの世の中を変えてくれる救世主だと思っていたから、そしてイエスさまが大好きだから、ああ言ったのです。それなのに「サタン」と・・・神様の御心を理解することのできない私たちは、いつ神様に「サタン」と言われるかわからない。そう思うと、神様に何も言ってはいけないんだと、何を言うことも怖くなります。神様に捨てられないように、自分を捨てなければと自分を抑圧して、自分が何も考えないように、何も感じないように自分を強いるしかないかと思ってしまいます。
しかし、イエスさまはここで、ペテロに「サタン」と非難して、切り捨てようとしているのではありません。「サタン」と呼びながら、同時に「下がれ」と言われているのです。「消え失せろ」ではなく「下がれ」です。「下がれ」は、直訳すると「私の後ろへ行け」です。イエスさまは、十字架の邪魔をしようとしたペテロに対して、「サタン」という激しい言葉でその間違いを指摘しながらも、同時に、「私の後ろへ」と言われているのです。
「下がれ」「私の後ろへ行け」・・それは、間違って前に出てしまった者を叱りつけて引き戻す、きびしい指導の言葉です。でも、切り捨てられるのではありません。「私の後ろへ」・・それは、後ろへと引き戻して、「後ろにいさせてくださる」、後ろに一緒に居させてくださるという言葉でもあります。どんな失敗をしても、何をしてしまっても、決して見捨てないでいてくださるイエス・キリストの姿がここにあります。私たちは、失敗を恐れて縮こまらなくてよいのです。どんな間違いをしてしまったとしても、神さまは私たちを決して見捨てません。
私たちが持っている信仰理解も、間違っているかもしれません。神を賛美しているつもりの私の言葉も行動も、福音伝道の妨げになるかもしれません。でも、私の思いを、私の確信を、素直に神様に祈り求めてよい、と聖書は言います。間違ったら怒られるでしょう。しかし、イエス・キリストが、ペテロをサタンと叱りながらも見捨てなかったように、私たちをも決して見捨てません。何をしてしまっても、神様は、間違いは間違いだと教えてくださり、そして、「イエスさまの後ろ」へ行くようにと導いてくださいます。
ペテロは今、「下がれ、サタン」「私の後ろへ行け」とイエスさまに叱られました。おそらくペテロはきっと、「サタン」というお叱りの言葉にびっくりして、立ちすくんでしまったに違いありません。ペテロは、後ろへ、一緒にいた弟子たちの一番後ろへ、そして群衆たちに紛れてもっともっと後ろへ遠く下がりながら、不安になっていたことでしょう。イエスさまは、そのペテロを放っておきません。イエスさまは言いました。「誰でも私について来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、私について来なさい。」「ついて来なさい」は「従って来なさい」「従いなさい」とも訳されます。イエスさまは、弟子たちと、群衆たちと、そして今叱られてどうしていいか分からなくなっているペテロに対しても「私に従って来たい者は、従いなさい。ついて来なさい」と呼びかけてくださったのです。ペテロは喜んで、イエスさまの後にくっついて、イエスさまと一緒に歩き出したことでしょう。
「私の後ろへ」・・それは、かつての召しの言葉、ペテロが初めてイエスさまに呼ばれたときの言葉でもありました。ペテロと兄弟アンデレは、ガリラヤ湖で漁師をしていた時、イエスさまから「私について来なさい」直訳すれば、「さあ、私の後ろへ」(マルコ1:17)と呼びかけられて、イエスさまの弟子としての人生をスタートしました。「私の後ろへ」。イエスさまの後ろが私たちの本来の居場所なのです。
「イエスさまの後ろ」は、イエスさまの後ろ姿をずっと見続けていられる場所です。イエスさまより前を歩こうとしてしまったら、イエスさまが見えませんから勝手な方向に行ってしまうかもしれません。勝手な方向へ迷い出て、イエスさまからはぐれてしまうかもしれません。でもイエスさまの後ろにくっついて歩いていれば、イエスさまを見続けていられる。イエスさまを見失って迷子になることはないのです。
主の後ろ姿を見続けていましょう。主の背中をいつも見ていられる、主の後ろにいましょう。主の後ろ姿を見続けることは、それがそのまま、主に従い行くことにつながります。主なる神さまと同じ方向を向いて、主の後ろを従い行くのです。神さまの背中をいつも見ている者は、生きて働かれている神さまの進み行かれるのと同じ方向へ、神さまの後ろにくっついて、歩み続けるのです。主の後ろで、主の後ろ姿を見続けるとき、人は神に聞き従う者へと変えられるということなのだと思います。
イエスさまに従うとは、イエスさまの後ろにいつもいること、イエスさまの後ろについて行くことです。イエスさまの後ろ姿を見続けて、主の栄光によって力と平安をいただきながら、イエスさまと同じ方向を向いて、一緒に歩ませていただくことです。ペトロはまた、イエスさまの後ろに従って歩み始めました。イエスさまの後にくっついて、イエスさまを見つめながら、日々何でもイエスさまに相談しながら、イエスさまから勇気も希望も知恵もすべてを与えていただきながら、歩みを続けたことでしょう。神さまは私たちにも、「後ろ」という素晴らしい居場所を与えて、一緒にいなさい、ついて来なさいと、招いて下さっています。「だれでもわたしついて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
「自分を捨てて、従う」とは、大切な自分よりもイエスさまをこそ見つめる、ということです。自分を握りしめるよりも、イエスさまを握りしめて、イエスさまの後ろについて行くことです。「自分を捨てて従う」とは、決して自分の素直な感情や沸き起こる考えを無理に捨てて、足を引きずりながらいやなことをすることではありません。「自分を捨てる」というと、私たちはどうしても、日本文化にある滅私奉公のニュアンスに惑わされてしまいがちですけれども、イエスさまは決して、自分の感情や考えを無理やり捨てて命令通りに動くロボットになれ、とはおっしゃっていません。
イエスさまに従うとは、いつもイエスさまの後ろにいて、イエスさまをどんな時も見上げつつ歩むことです。主に従うとは、主の後ろで、主の栄光を見せていただきつつ、主と同じ方向を向いて歩ませていただくことです。「自分を捨てて」と言われると、私たちはどうしても、自分の力で「自分を捨てなければ」と思ってしまいます。自分の力で自分を抑えつけなければと考えてしまう。でも、自分をどうにかしようと自分にばかり集中してしまっては、従うべきイエスさまを見失ってしまいます。大切なのは、自分よりもイエスさまの後ろ姿に集中することです。自分を見てうつむくよりも、他人と比較して横をきょろきょろ見て動揺するよりも、大切なのは、ただ主の後ろ姿を見上げ続けることです。主が私たちに示してくださっている主の恵みの後ろ姿から目を離さず、ひたすら主の後ろを見続け、主から離れないようにすること、それが、そのまま、主の後ろに従うことになります。
ただ、それは、「自分の十字架を背負って」というのですから、ただ楽しいだけの簡単な道のりではないでしょう。十字架の道を歩まれるイエスさまについて行くのですから、険しい道です。自分自身の力ではとうてい無理だとしか思えません。この時、イエスさまに従ったペテロは、この後、イエスさまが十字架に付けられた時、イエスさまを知らないと三度も言って逃げてしまいます。ペテロは、「自分を捨てる」のではなく、イエスさまを捨てたのでした。・・・しかし、そのペテロも、イエス・キリストの十字架の死と復活が実現した後には、復活のイエスさまの命に生かされて、復活のイエスさまの後にしっかりとついてもう二度と離れず、福音を宣べ伝える者となりました。イエスさまの後ろという、本来の居場所で、神さまの平安と力に満たされて歩んで言ったのでした。
私たちにもそれが可能です。今を生きる私たちにとって、主が見せてくださる後ろ姿とは、第一に、歴史の中に働かれた神さまの出来事のことでしょう。つまり、聖書に記された啓示です。主の後ろ姿を見るとは、「イエス・キリストが私たちの救いのために、十字架で死なれ、復活された」という聖書が啓示する事実から、決して目を離さないことです。私たちは、この聖書を通して、主の後ろ姿を見る幸いが与えられているのです。この聖書が私たちに与えてられていることに感謝します。私たちは、何よりもこの聖書を通して神さま御自身を見、神様の栄光が私たちに働きかけてくださっている今をしっかりと受け取りたいと思います。
もちろんそれは簡単なことではないでしょうけれども、私たちを決して見捨てない神様が、私たちが、主の後ろという場所で、いつも喜びに満たされて、主に従っていけるようになるまで、恵みと憐れみを持って、導いてくださいます。私たちには、主の後ろという素晴らしい居場所が与えられているのです。そして、私たちがその「後ろ」という居場所から迷い出ようとするときには、その間違いを教えてくださり、またイエスさまの後ろへと引き戻して、本当にしっかりと自分の十字架を背負って主に従いゆく者へと導いてくださるのです。ですから、私たちはただ、その見捨てないイエス・キリストの神様の安心の中で、神様にすべての思いを打ち明けながら、どんな時もイエス・キリストをしっかりと見上げてついていきたいと思います。