1.序論
みなさま、おはようございます。これまで当教会では毎週サムエル記から講解説教を行い、月末のみ新約聖書から、現在は第一ペテロから説教をしております。今日は月末ではないのですが、来週の説教は矢田洋子先生がしてくださいますので、今日は一週早めて第一ペテロからお話しさせていただきます。
今回の説教題は「妻と夫」です。新約聖書の中で妻と夫の関係について扱っているところはいくつかありますが、パウロの第一コリント書簡の7章が有名です。これは結婚生活のリアルな現実について語っている箇所ですが、私は第一コリントの講解説教をしたときにこの箇所からお話ししました。説教の録音がホームページにアップしてありますので、ご関心のある方は聴いてみてください。今日の箇所や、あるいは第一コリントの7章のみことばを聞く上で注意したいのは、私たち21世紀の日本に住む人々と、ペテロやパウロが語りかけた1世紀のギリシア・ローマ世界での文化の違いです。日本は永らく男尊女卑の社会だと言われてきましたが、ジェンダーバランスの改善、つまり男女間の社会における地位の格差をなくそう、男性も女性も同じ給与をもらい、同じ地位に就けるようにしようという意識が急速に高まっています。今でも日本での女性の社会参加率は世界ランキングで100番以下という、残念な結果にはなっていますが、それでも私が社会人になった30年前と比べると大きく改善しているように思えます。そのような現代から見ると、ペテロが語っている内容は、何と言うかあまりにも古風というか時代遅れのような、そんな気持ちにさせられてしまうかもしれません。しかし、そのように現代人の価値観で読むのではなく、なるべく当時の人々の気持ちになって、当時の社会状況を考えながら今日の箇所を読んで参りたいと思います。
ペテロが活躍した紀元1世紀の女性の地位はどうだったのか、というのは研究者たちの注目を集めるテーマになっています。どんなことが論じられているかといえば、紀元前1世紀からローマには「新しい」タイプの女性が現れたということが言われています。実は、現代でもこれと同じような現象がありました。みなさんは「ウーマン・リブ」運動というのを聞いたことがあると思います。これは1960年代から70年代にかけてアメリカを席捲した運動で、女性の解放、特に女性に押し付けられているとされたいわゆる「女らしさ」、家事や育児は女の仕事だ、みたいな考え方から解放されて、より自由に生きようという運動でした。それと同じとはいませんが、似たような動きが当時の古代ローマ世界にもあったのです。これはローマ社会全体というよりも、上流社会の女性を中心に起きた動きでしたが、しかしそれは徐々にローマ世界に広く影響を及ぼしていったと見られています。日本でも、一部の「進んだ」女性たちが新しいことをし始めると、多くの人たちはしばらく様子見をしていますが、段々と影響を受けていくということがありますよね。そんな感じです。このローマの「新しい」女性たちは、男性と同じような権利や生き方を要求し、自分らしく、自分が好きなように生きることを求めました。彼女たちは性的にも奔放で、貞操観念に縛られないという特徴もありました。これもウーマン・リブ運動やベトナム戦争への抗議から生まれたフラワー・ムーブメントと似ていますね。特に彼女たちがこだわったのが服装、ファッションでした。服装は人を表すとばかりに、ものすごくファッションに力を入れました。今日のペテロの女性への勧告は、そのような時代背景に留意して聞く必要がありますしかし同時に、そうした「進んだ」女性たちは例外的な存在であり、一般的にはローマ社会における女性の地位は低く、また女性への強い偏見もありました。上流階級の裕福な女性は例外的存在であり、普通の女性は隷属的な立場に置かれていました。つまり、妻は夫の権威の下に生きるというのがごく当たり前のことだったのです。特に問題だったのが、妻には実質的に信教の自由がなかったことでした。女性は結婚前は父親の宗教を信じ、結婚後は夫の宗教を信じるべきだ、というのが当然視されていたのです。これはキリスト教徒にとっては由々しき問題、死活的な問題でした。なぜなら、今日の日本の教会のように、当時のローマでも妻だけがクリスチャンというケースが圧倒的に多かったからです。こうしたことを踏まえたうえで、今日の聖書箇所を読んで参りましょう。
2.本論
では、3章1節です。そのすぐ前の2章の後半では、ペテロは奴隷と主人の関係について話していました。これは必ずしも奴隷という社会的身分にあった人だけに語られたのではなく、クリスチャンは「神の奴隷」であるという観点から、様々な社会における組織の中で人に仕える立場にあったクリスチャンに対して語られたと考えるほうがよい、ということを前回の説教で申し上げました。とはいえ、基本的には奴隷と主人についての訓告でした。ですから、「同じように」というのは奴隷が主人に仕えるように、妻は夫に服従しなさい、という意味です。しかし、現代社会においてこんなことを言ったら、「なんてことを言うんだ」とお叱りを受けてしまうかもしれません。夫婦関係は奴隷と主人の関係に譬えられるようなものではないし、妻が夫に一方的に服従するなんてとんでもない!と思われるでしょう。しかし、当時のローマにおいては一般的な家庭において妻の立場はそのようなものでした。ペテロは、そのような当時の社会慣行に抗って、妻も夫と同様の権利を主張すべきだ、とは教えませんでした。実際、今日のように経済的に自立する手段を持っていなかった当時の女性の立場は弱く、経済力を持つ夫に従うほかはありませんでした。しかしペテロは、そのような服従をいやいやするのではなく、むしろ証しの機会として用いなさい、と述べています。というのも、この1節で呼びかけられている「妻たち」とは、夫がクリスチャンではない女性たちだったからです。「たとい、みことばに従わない夫であっても」とは、「福音を信じない夫であっても」という意味です。この1節は、家庭の中で自分だけがクリスチャンだという妻たちに呼びかけられているのです。
少し前に戻りますが、ペテロは2章の19節で「横暴な主人に対しても従いなさい」と書いていますが、ここでいう「横暴」とは暴力的なパワハラ的人物ということでは必ずしもなく、むしろ「心の曲がった主人」、つまり福音を素直に受け入れない主人という意味合いがあります。ですからペテロは奴隷に対しても妻に対しても、福音を受け入れない主人に対しても従いなさい、ということを教えているのです。とはいえ、夫から「キリスト教なんて信じるな、やめちまえ」と言われても、それについては従うことはできないわけです。では、そのようなキリスト教に対して全く理解のない夫に対してどのように行動すべきか?ということですが、そういう夫に対し、いくら口で「イエス様を信じなさい、クリスチャンになってください」と言ったところで逆効果で、何を偉そうに、とかえって反発を招き、ますますキリスト教に対して敵意を燃やしてしまうかもしれません。火に油を注ぐという具合です。ですから、口先ではなく行動で、言葉ではなく生き方で福音を示しなさい、とペテロは教えます。これは非常に大切な教えで、今日にもそのまま当てはまります。今の日本でも、クリスチャンの男女比の割合はだいたい1対2であり、圧倒的に女性の方が多いです。おのずと、妻だけがクリスチャンだという家庭が多いのです。多くのご婦人は、夫が信仰を持ってほしいと願っておられます。ではそのためにどうすればよいのか、というのがここでのペテロの教えです。ペテロは「無言のふるまいによって」、夫が神のものとされるようにしなさいと教えています。つまり「神を恐れかしこむ清い生き方」を主人に示しなさいということです。つまり言葉よりも行いで、ということです。こう言われると、キリスト教とは「行いなしで、信じるだけで救われる宗教だ」と考える人にはえらくハードルが高いと感じられるかもしれません。しかし、これまで何度もお話ししてきたように、主イエスも十二使徒ペテロも異邦人の使徒パウロも、「行いは不要だ、信じるだけでよい」とは誰も言ってはいません。むしろ主の兄弟ヤコブが言うように、「行いのない信仰は、死んでいるのです。」そして、未信者を信仰へと導くのは、キリスト教を擁護する巧みな議論ではなく、クリスチャン一人一人の生き方なのです。私は神学も知らない、聖書もあんまり勉強したこともないので、キリスト教の伝道なんて無理だ、私にはできません、と思われる方がおられるかもしれませんが、そうではないのです。なぜならキリストを証しするのはキリストについての巧みな議論ではなく、キリストに倣う私たち一人一人の歩みだからです。
では、婦人たちのキリストに倣う歩みとは具体的にはどのようなものなのでしょうか?寛容でありなさいとか、親切でありなさい、というような教えが来るのではないか、と思われるかもしれません。しかしペテロはなんと、髪型や服装について話し始めます。なぜ外見のことばかり書いているのか、と不思議に思われるかもしれませんが、そこには当時の進歩的な女性運動の影響がありました。当時のいわゆる「新しい」女性たちは外見に異様にこだわりました。女の価値を決めるのは美である、という信念のもと、派手な装飾品やセクシーな服を好みました。妊娠でお腹がふくれるのはみっともないということで、妊娠を隠そうとしたと、ローマの哲学者セネカは嘆いています。当時のこうした女性は妊娠を嫌がり、中絶もしばしば行ったと言われています。セネカのようなローマの一級の知識人はこうした外面ばかりにこだわる世相を憂い、女性を本当に美しく装うのは内面の慎み深さという美徳なのだ、と書き残しています。そして奇しくもペテロも、同じようなことをここでは述べています。ここでペテロのことばを改めて読んでみましょう。
あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。
ペテロも、適切なおしゃれまでも否定しているわけではないことに注意してください。ペテロもセネカと同じように、過度に外見的なことにこだわる世相を意識してこのような勧告を書いているのです。そうでなければ、女性に勧めるべきことはたくさんあるのに、このように装飾の問題に殊更に的を絞って話す必要はなかったでしょう。
ペテロはさらに、こうした内面の美しさを持った女性の例として族長アブラハムの妻サラのことを挙げています。ただ、みなさんはサラについてどんなイメージを持っておられるでしょうか?サラはかなり高齢だったのにもかかわらずエジプトの王から見染められるほどの絶世の美女だったとされていますが、主人に従順な控えめな女性というよりも、むしろ亭主を尻に敷かせるような強い女性というイメージではないでしょうか。特に、アブラハムの尻を叩いて側室のハガルを追い出させた場面などを思い浮かべると、気が強そうだなという感じですよね。ただ、ユダヤ人にとってアブラハムはいわば伝説化・理想化された人物でしたので、その妻であるサラも良妻賢母の鏡というイメージが出来上がっていたのでしょう。ペテロはおそらくそのようなユダヤ人のイメージに従って、手紙の受け手の異邦人たちにサラを見倣うようにと書き送ったのでしょう。
そして7節では今度は夫たちに対して勧告を書いています。妻たちに対しては6節も費やして、夫にはたった1節しかないのはおかしいではないか、と思われるかもしれません。旧約聖書でも、例えば箴言では、「良き妻はこうあるべきだ」ということはたくさん書かれているのに、「良き夫はこうあるべきだ」という教えはほとんどありません。これは聖書が男性目線で書かれているからだ、男性優位が当然視されているからだと、フェミニスト神学の方々は批判しますし、それにはもっともな面もあると思います。しかし、ここでペテロが夫について1節しか割いていないのは彼が男性優位主義者だったからではありません。むしろ、彼の手紙の受け手には妻だけがクリスチャンという家庭の方の方が圧倒的に多かったという事情があったのです。また、クリスチャンの女性が家庭で肩身の狭い思いをしていたように、男性・女性を問わす異邦人のクリスチャンは社会の中で肩身の狭い思いをしていました。ですからペテロは「妻たちよ」と語りかけながらも、クリスチャン全体に同じメッセージを伝えようとしていたのです。ということで、7節の内容に戻りたいのですが、ここでもペテロは現代の私たちから見ればポリコレに抵触するようなことを書いています。コリコレとは「政治的に正しい言い方」という意味で、人種や性別で差別するようなことは言ってはいけないというものです。ペテロは女性のことを「自分よりも弱い器」だと言っています。シェークスピアのハムレットも、夫を殺したかもしれない人物と再婚した母について、「弱き者、汝の名は女」などと述べていますが、こういう女性=弱いという見方は今日の社会では許容されない見方になっています。実際、確かに体力では男性の方が強いかもしれませんが、知性においては女性の方が男性よりも優れていることがいろいろな場面で示されてきています。ここでペテロが女性を弱いと言っているのは、主に社会的・経済的な立場のことです。当時の女性には今日のように自由に職業を選ぶ自由がありませんでした。むしろ、親が決めた相手に嫁がされ、そこで夫に従って生きるより他はなかったのです。もちろん上流社会の女性のように、実家が有力者であれば、嫁ぎ先でも強い立場を維持できるわけですが、そういう女性はほんのわずかで、多くの女性は夫に頼って生きるほかなかったのです。そういう妻に対し、自分の社会的・経済的優位を誇示してつらく当たってはいけない、いばり散らしてはいけない、ということをペテロは教えています。むしろ、信仰のパートナーとして、同伴者として敬意を持って接しなさいと諭しています。これは当然のことですが、改めて心に刻むべき教えです。
3.結論
まとめになります。今日はペテロの妻と夫に対する教えを学びました。ペテロは当時の社会の中で弱い立場にある人々、前回は奴隷でしたが、今回は妻に対して語りかけました。イエスへの信仰を持つようになった奴隷、あるいは妻が、信仰を共有しない主人あるいは夫に対してどのように振舞うべきなのか、というのがここでのテーマでした。このように、奴隷や妻という当時の社会において立場の弱かった人たちに語りかけているのは、当時のクリスチャン全体が社会的に弱い立場に置かれていたことを反映しています。イエスを信じない人々に取り囲まれたクリスチャンたちはどうすべきなのか、というより大きなテーマが、キリスト教に否定的な考えを持っている未信者の夫に対してクリスチャンの妻がどう振舞うべきかというペテロの教えの背後にあるのです。ペテロは、主を信じない人に抗議しなさいとか、あるいは巧みな言葉で説得しなさいとは教えません。むしろ敬虔な生き方を無言で示すことで、彼らが回心するようにしなさいと促しています。これは妻たちだけでなく、社会の様々な場面で弱い立場に置かれていたクリスチャンに対するメッセージでもあります。私たちにとっても、大きなチャレンジですね。言葉よりも行動で、というのはよく言われることではありますが、実践するのは容易ではありません。しかし、それが最も重要な証しの方法だと述べているペテロの言葉を真摯に受け止める必要があります。私たちがお手本とすべきは、主イエスの生き方です。彼はののしられてもののしりかえさず、裁きを神に委ねられました。私たちも苦しい立場に置かれた時には主イエスの事を思い、耐え忍ぶ力を与えていただきましょう。キリスト教について悪くいう人がいる時には、こちらが悪いのかもしれないという謙虚な思いを持つことも必要です。よくあるキリスト教への非難は、「キリスト教国と言われる国々は戦争ばかりしている」というものですが、ごもっともだと思います。キリスト教国は正義を振りかざすことは得意だけれど、譲歩したり我慢するのが苦手だというのも耳が痛い話です。批判を受けた際は、批判する相手が悪いとは思わず、自らを省みる機会とするというのも平和づくりのためには大切なことです。ともかくも、私たちの目的は勝つことではなく平和を作り出すことです。そのことを覚えて歩んで参りましょう。
天におられます我らの父よ。そのお名前を賛美します。今日は妻と夫というテーマからより大きな問題までを考えて参りました。私たちがこの世界で主イエスをどう証ししていくべきか、その際に最も大切なのは私たちの行動なのだ、という教えには身が引き締まる思いがします。どうか私たちをお助け下さい。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン