アブシャロム
第二サムエル14章1~33節

1.序論

みなさま、おはようございます。サムエル記もいよいよ終盤に入って参りました。これからのサムエル記は、ダビデ王朝の第三王子、いえ第一王子のアムノンが殺されているので今や第二王子になりますが、そのアブシャロムを中心に展開していきます。ダビデはライバルであったサウル王家を滅ぼし、周辺民族や国家も次々と征服し、今や盤石な権力を手に入れたはずだったのですが、なんと最大の敵は内側に、その家族の中から出て来たのです。ダビデにとっての最大のライバルはその息子となったのです。

次回の話になりますが、アブシャロムはこれから父であるダビデ王に対して反乱を起こします。とはいえ、アブシャロムはもともと王位継承権第三位にあり、しかも彼の二人の兄たちはとても有能とは言えない王子たちだったので、反乱など起こさなくても父ダビデと良好な関係を維持し、宮廷でうまく立ち回って廷臣たちの支持を集めていれば、兄たちに先んじておのずと王位は手に入ったでしょう。反乱などというリスクを冒さなくても、気が熟せばいずれ王の地位は手に入ったはずです。アブシャロムは外見も素晴らしかったですが、同時に実力を兼ね備え、頭もよく勇気のある人物でした。彼こそ王に相応しいと思っていた人は多かったでしょう。ではなぜアブシャロムは反乱という最もリスクの高い方法に訴えてしまったのでしょうか?その謎を解くカギがあるのが今回の記述です。

今回の話は、一読すればダビデ王とアブシャロムの和解の話であるように見えます。ダビデとアブシャロムの親子は、三年間プラス二年間、つまり五年間の音信不通の冷却期間を経て、今やイスラエル王国の実質的ナンバーワンの実力者ヨアブの仲裁によって、公式に和解したように見えます。今回の最後の一文、「王はアブシャロムに口づけした」というのはそれを象徴する行為に思えます。しかし、実際にはこの後アブシャロムはダビデ王を打倒するための準備を着々と進めていきます。つまり、アブシャロムは父と和解するどころか、激しい憎悪を募らせていったのです。では、なぜアブシャロムは父ダビデをこれほど激しく憎むようになったのでしょうか?父からひどい扱いを受けた、いわゆるチャイルド・アビューズ、父からの虐待を受けてきたからでしょうか?いいえ、そうではありません。むしろ、アブシャロムは父から愛されて育ってきました。では何が不満だったのか?それは、ダビデが何もしなかったことなのです。何もしない、王としても父としても何もしなかったのです。これが心底アブシャロムを失望させ、それがついには殺意にまで至ってしまったのでした。

前回から今回の話まで、ダビデの家には様々な大事件が起こりました。最初に起った事件は、なんと兄が妹を強姦するという、前代未聞のスキャンダルでした。しかもその兄というのは王位継承権第一位、ダビデの次に王になるべき第一王子のアムノンだったのです。日本人にとっては、次期天皇になる皇子が妹を強姦したというような話です。まさに耳を疑う大スキャンダルです。しかし、そんな大事件を聞いたダビデは何をしたでしょうか?驚くべきことに、何もしなかったのです。その話を聞いたダビデは激しく怒りましたが、にもかかわらず恐るべき罪を犯した第一王子に何の処分も下しませんでした。こんなことがあり得るでしょうか?父親が強姦された娘のために何もしないなどということがあってよいのでしょうか?しかし、ダビデは何もしませんでした。辱められたタマルは、未来にすっかり失望してしまい、家に引きこもってしまいました。他方で、強姦したアムノンはお咎めなしで、のうのうと第一王子の地位にいます。タマルの兄のアブシャロムはアムノンに激しい怒りを覚えましたが、実の娘のためになにもしてくれないダビデに対しても強い憤りを覚えていたのも間違いないでしょう。

この第一の大事件が、第二の大事件を生み出します。今度は第一王子が殺害されるという事件です。また物騒なたとえで申し訳ないのですが、日本人にとっては次期天皇陛下になられる皇太子が殺害されるというような事件です。まさに国家を揺るがす事件です。しかも、第一王子を殺したのは第三王子なのです。王であるダビデは当然、国家反逆罪を犯した第三王子のアブシャロムを処罰しなければなりません。アブシャロムは母親の実家であるゲシュルという国に逃げ込みました。アブシャロムの母はゲシュルの王の娘でしたので、アブシャロムは王の孫ということになります。さすがのダビデ王も同盟国との戦争になりかねないことから、アブシャロムの引き渡しを求めることは出来なかったのかもしれません。しかし、ヨアブの策略によって三年後にアブシャロムはエルサレムに帰ってきました。そしていくらアブシャロムは王子だといっても、第一王子を殺害した大罪人です。ダビデ王は彼に相応しい裁きをくだす必要があります。そうでなければ、国の秩序は滅茶苦茶になってしまいます。にもかかわらず、今回もダビデは何もしませんでした。むしろ厄介事を避けるかのように、アブシャロムを無視し、二年間も会おうとはしませんでした。放置され、飼い殺しのようになったアブシャロムはイライラします。イライラしただけでなく、ダビデに対する不満や怒りが一層大きくなったでしょう。

ではなぜダビデは、この国家的犯罪ともいうべき二つの大事件について何もしなかったのでしょうか?そこには、王としての深謀遠慮があったのでしょうか。いいえ、そうではないでしょう。むしろダビデは個人的な理由からこうした問題に関わることから逃げたのだというのが私の見方です。まずアムノンによるタマルの強姦ですが、実はダビデ自身も全く同じ罪を犯していました。人妻であるバテ・シェバを強姦し、あろうことか彼女の夫でありダビデに忠実な兵士であるウリヤを策略によって謀殺してしまいました。しかし、ではダビデはこの恐ろしい罪の罰を受けたでしょうか?いいえ、彼は何の罰も受けませんでした。むしろ、自分は神に赦されたのだからということで、罰を受ける必要がないと正当化していたようにすら見えます。そんなダビデが、全く同じ罪を犯した息子に対して、自分は無罪にしたのに息子は厳罰に処するなどということができたでしょうか?いえ、さすがにそれはできませんでした。息子を裁けば、「王様は自分のやったことには何の責任も取らず、ウリヤの奥さんを我が物にしたのに、息子には責任取らせるんだ。サイテー」みたいな噂が立ってしまったことでしょう。それでダビデはアムノンの大罪を不問に付しました。その結果、一番の被害者はタマルでした。強姦されたのに、暴行した側の男は何のお咎めもなしです。それを知った世間は、「タマルもその気があったんじゃないの。だからアムノンは裁かれないんじゃないの。兄と妹の禁断の愛なんて、不潔よね」というような噂が立ってしまったことでしょう。そんな噂が流れれば、結婚前の若い女性からすれば死刑宣告も同じですよね。そのために、花のように美しい、明るい未来が待っていたはずのタマルは世捨て人のように兄の家で引きこもりになってしまいました。自分がかわいがっていた妹のタマルをこんなことにさせられて怒ったのは兄のアブシャロムでした。彼は暴行魔のアムノンに復讐を誓います。

そして、前回の説教でお話ししたように、アブシャロムは二年間も我慢して、機会を待ちました。アムノンを油断させるためです。そして、アブシャロムはアムノンに裁きを下しました。しかし、王であるダビデがアムノンを正しく裁いてくれていたのなら、アブシャロムはそんなことをする必要はなかったのです。そういう意味では、アブシャロムは無責任なダビデによる被害者だということになります。しかし、そうはいってもアブシャロムはクラウン・プリンスを殺した大罪人です。この人物は国家の基盤を揺るがせたのです。そのアブシャロムをダビデがどう扱ったのか、というのが今日の箇所です。では、その顛末を詳しく見て参りましょう。

2.本論

では1節です。ここではダビデがアブシャロムに「敵意をいだいていた」とありますが、この訳は行き過ぎであると思われます。ダビデがアブシャロムを憎んでいたのなら、ヨアブはどうしてアブシャロムをわざわざダビデのところに連れて来たのでしょうか?アブシャロムを殺したかったのでしょうか?いいえ、むしろヨアブの狙いはアブシャロムの復権でした。ですから、ヨアブはダビデが実はアブシャロムと会いたがっているので、その主君の思いをおもんぱかってアブシャロムを連れ戻そうとしたのでしょう。実際、「敵意をいだいていた」と訳されている箇所を直訳すれば、「ダビデの心はアブシャロムに向かっていた」となります。別に憎んでいたという意味ではないのです。敵視していたという意味は一つの選択肢としてはあり得ます。しかし基本的な意味は、単に向いているというものです。ヨアブは、ダビデは実はアブシャロムのことを気にしているのに気が付いて、いわば忖度してダビデのためにアブシャロムを戻らせようとしたのです。実際、最新の聖書訳である聖書協会共同訳では「ツェルヤの子ヨアブは、王の心がアブシャロムに傾いているのに気付いた」となっています。私たちの使っている新改訳の最新版でも「王の心がアブシャロムに向いている」と、従来の訳を訂正しています。 

ただ、ダビデも対面というものがあります。大罪を犯したアブシャロムのことを赦して帰国させるということは、王である自分からは言い出せないことです。王様は自分の子どもだけえこひいきしていると言われてしまうからです。そこでヨアブは、ダビデがアブシャロムを赦すと言わざるを得ない状況を作ってあげようとしたのです。ヨアブは、先にダビデの罪を暴き出した預言者ナタンのやり方を真似ることにしました。ナタンは、金持ちの男が自分の多くの家畜の一匹を屠ることを惜しんで、貧しい人のたった一匹の羊の奪い取った話をしました。ダビデはその話を聞いて怒り、そんなひどいことをした金持ちの男は死刑だ、と宣言しました。しかし、実はこの金持ち男はダビデだったという落ちがきます。

ヨアブはそれとまったく同じことをしました。ダビデのもとに、テコアというダビデの出身地であるベツレヘムからほど近い村からやってきた女性がいました。彼女はダビデの前で身の上話を始めます。彼女の夫は死んで、ふたりの息子が残りました。しかし、このふたりの息子が喧嘩をして、なんと一人がもう一人を殺してしまうという事件が起きてしまいました。この哀れな女性は夫と息子を相次いで失くしてしまったことになります。当時は女性は一人では生きていけない時代ですから、今やこの女性の最後の頼みの綱は、残された息子だということになります。しかし、この息子はもう一人の息子を殺した殺人者です。ですから親族全体はこの息子を殺せと母親に詰め寄ります。この女性は困り果てて、なんとかこの息子を救ってほしいとダビデに願い出たという、このような話でした。

ダビデはこの女を哀れに思い、王命として彼女の息子の恩赦を命じました。そして、自分の裁定に文句をいう人がいたら、その者を自分の所に連れてこいと命じました。ここで注意していただきたいのは、ダビデはここで兄弟殺しの罪を恩赦するという前例を作ったということです。実際は、この女性の話は作り話だったので、この恩赦も実際には意味のないものではあるのですが、それでも事実としてダビデは兄弟殺しの罪を赦すという前例をここで作ったのです。そこで、ヨアブの意を受けたこの知恵のある女はこの機会を見逃しませんでした。あなたは兄弟を殺した私の息子を赦した、それではなぜあなた自身の子どもを赦さないのか、と。ここでこの女はナタンと全く同じことをしたのです。つまり、あなたが赦すと語った息子は、あなた自身の息子なのだと。

ダビデは非常に頭の良い人ですから、ここですべてのカラクリに気が付きました。つまりこの女の話はすべて作り話であり、自分にアブシャロムへの恩赦を与えるように促すために仕組まれたものだと。そして、こんな大胆な仕掛けを王であるダビデに行えることができるのは一人しかいないと。それはヨアブです。今や王であるダビデすら、コントロールできない人物がヨアブです。そのヨアブが、この女を遣わしたのだとすぐに見破りました。そして女にそのことを問いただすと、女も白状しました。これはすべてヨアブの指図でやったのだと。そこでダビデはヨアブを呼んで、彼の願い通りアブシャロムを連れ戻してもよいといいます。ヨアブも喜び、すぐにゲシュルに向かってアブシャロムを迎えに行きました。

さあこれでめでたし、めでたし、となりそうなものですが、そうはいきませんでした。なぜならせっかくアブシャロムが戻ってきたのに、ダビデは彼に謹慎を命じて会おうとはしなかったからです。ダビデとしては、ここでアブシャロムに会うと彼の第一王子暗殺の件を追求せざるを得なくなる、そうして彼を裁くことになってしまうので、それは避けたいというある種の親心があったものと思われます。彼は決してアブシャロムを憎んではいなかったのですから。しかし、アブシャロムの方はそうは受け止めませんでした。三年も亡命して、やっと祖国に帰ってきたのです。しかし、そこでは自由を奪われ飼い殺しのような状態です。彼も第一王子を殺した以上、何らかの処罰は免れないという覚悟はあったでしょう。しかし、このようなどっちつかずの状態にとどめ置かれるということは予想していませんでした。こんなことなら、ゲシュルに留まっておればよかった、そこでは行動の自由もあったのだから、という気持ちになってきました。そして私が思うに、ダビデ王に対する決定的な敵意が生まれたのはこの期間ではないかと思います。つまり、ダビデは父としてだけでなく王としても失格だと。彼には決断ができない、面倒なことから逃げようとしている、そういう客観的な目で、もっと言えば冷徹な目でダビデを見るようになったものと思われます。五年という期間は大変長い期間です。もう怒りや激情に任せて、ということではなく、冷静にダビデを切る覚悟が出来て来たように思います。そこで彼は行動を再び起こします。ヨアブを無理やり動かして、王ダビデとの再会を迫ったのです。

こうして五年ぶりにダビデとアブシャロムとの再会が叶いました、ダビデとしては、万感の思いがあったでしょう。彼はずっとわが子アブシャロムのことを慕っていたのですから。ダビデがアブシャロムに口づけしたというのはもちろん本心から出た行動でしょう。しかしアブシャロムの心は冷え切っていました。妹タマルの名誉回復のためにはなにもせず、自分自身のことについてもヨアブにせっつかれるまでは何もしないダメな父王、無能な王だという侮蔑の思いすらあったように思います。

3.結論

まとめになります。今回はダビデとアブシャロムが一見すると和解したように見える場面に至るまでの、ダビデとアブシャロムの親子の心の動きを考えながら見て参りました。ダビデはまったく主体性に欠けた人物として描かれています。次々と起きる家族の悲劇的状況を傍観するだけの王です。そんなダビデに愛想を尽かせてしまったのがアブシャロムでした。彼はついにはダビデに対して殺意すら抱くようになってしまったのです。

この悲劇的結末に向かっていく事態を、どうすればよかったのでしょうか?ダビデはどこで間違えたのでしょうか。私には、問題は明らかであるように思えます。たとえば皆さんが会社に勤めているサラリーマンだとします。その社長がワンマン社長で、誰も逆らえないような人物であり、なんとその社長が部下の奥さんを凌辱し、その恥ずべき行為がばれないようにその部下を戦争が行われている非常に危険な国の駐在員にして、そこで紛争に巻きこまれて死ぬように画策したとします。しかしその一連の悪事が暴露された後、その社長は熱心なクリスチャンで、教会で自らの罪を涙ながらに懺悔し、教会も彼の罪を赦してくれたということでその社長の座に留まり、殺した部下の奥さんを愛人として囲っていたとします。そんな社長のいる会社で、あなたはこれからも働き続けたいと思いますか?ダビデはまさにそんな社長だったのです。いくら神に赦されたといっても、何の責任も取らない社長というのはあり得ないでしょう。せめて辞任して、殺してしまった部下への償いとして残りの生涯は社会奉仕をするとか、そういうことでもしなければ誰も納得しないでしょう。ですから、こんなことを言う牧師はいないかもしれないでしょうが、私はダビデは少なくとも退位すべきだったと思います。バテ・シェバを妻にするべきではなかったとも思います。ダビデが厳しく自分自身を律していれば、アムノンが同じような罪を犯したときに彼を厳しく罰することも出来たでしょうし、そうすればアブシャロムによる兄殺しの罪も起こらずに済んだのです。ですからすべてはダビデが自分に甘すぎた、神の赦しという大義名分に安住して自分の罪に向き合わなかったことから起きたことだと言えます。

教会は、キリスト教は確かに赦しの宗教です。大きな失敗をしてしまった人をただ切り捨てるのは教会としての正しい姿とは言えないでしょう。しかし、同時に赦しというものを安易に考えたり、あまつさえ悪用してもならないのです。たとえ神に赦していただいたとしても、罪を犯してしまった相手に真摯に向き合う、その人に対してできる限りの謝罪を行動によって示していかない限り、真の和解は成立せず、むしろ人間関係も社会も崩壊してしまうということがあるのです。今日の教会は、教会戒規というものを非常に嫌います。教会戒規とは、大きな罪を犯した教会員に対し、公の司法の場ではなく、教会として何らかの罰則を科すことです。しかし、今日では教会戒規は有名無実化していく傾向があります。たとえば不倫などの罪を教会員が犯したことが判明した場合でも、「イエス様も姦淫の女を裁かなかったじゃないか」というような話を持ち出してうやむやにしてしまう傾向があるのではないでしょうか。しかし、裏切られた配偶者のことはどうなのか、また崩壊した家族で絶望し途方に暮れる子どもの気持ちはどうなのか、ということを考えると、そういう問題を教会が「赦し」ということで曖昧にしてよいものか、という問題意識を私は持っています。先ほどのイエス様の姦淫の女の話も、あれはイエスを陥れようとした罠であって、一般化すべき事例ではないことも申し添えておきます。確かに私たちは弱い存在であり、完璧な人などいません。実際に、いろいろな過ちを日々犯してしまうものです。自分がそうした罪深い存在であるということは決して忘れてはならないことです。それでも、他の人の人生を狂わしてしまうような性質の罪、しかもそういう罪を故意に犯すということは見逃すことはできないということも言うべきでしょう。私たちは自分の行動が他の人に及ぼす影響の責任を取らなければならないのです。今の世の中は不倫などに寛容でもあるので、厳しいことを言うと嫌われてしまうことを恐れてしまいがちです。しかし、こうしたことを曖昧にしてしまった結果どうなるのか、ということを、これからのダビデの生涯から学んで参りたいと思います。お祈りします。

歴史を統べ治める神様、そのお名前を賛美します。今朝はダビデとアブシャロムとの破局に向かう親子関係から、私たちが罪にどう向き合うべきかを考えて参りました。そこから正しい教訓を得られるように私たちに知恵をお与えください。われらの平和の主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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