讃美
詩篇150篇1~6節

みなさま、おはようございます。本日は当教会にとって一年に一度の大切な日です。それは、礼拝後の午後に「音楽の集い」が開催される日です。この日を楽しみにしてくださっている方もおられると思います。そこで、本日の説教もいつもとは違うスタイルでさせていただきます。

私の毎週の説教は「講解説教」といいまして、聖書に書かれている内容を解き明かしていくことを目的とするものです。今はサムエル記とヤコブの手紙を読んでいますが、こうした文書の中身を1年間あるいはそれ以上の時間をかけて詳しく解説しながら、現代に生きる私たちへのメッセージを考えていくというものです。

それに対し、もう一つの種類の説教があり、それは「テーマ説教」と呼ばれるものです。これは聖書の特定のテクストの解き明かしではなく、あるテーマ、例えば「祈り」とか「戦争と平和」とか、ある特定のテーマを選んでそれについて語るというものです。この場合にも、もちろん聖書を参照しますが、より自由にいろいろな角度からそのテーマについて語ることになります。そして、今日の説教はこのテーマ説教です。ですから単に詩篇150編の解き明かしをするということではない、ということです。

今日の説教のタイトルは「讃美」ですが、そのテーマはさらに大きく、「キリスト教と音楽」についてです。私たちの礼拝にとって音楽、そして讃美はなくてはならないものです。教会の礼拝とは聖書を読むこと、讃美をすること、そして祈ることから成り立っています。教会に通うようになる動機やきっかけは様々ですが、その一つは讃美歌に惹かれた、また讃美歌を歌いたくなったから、というものではないでしょうか。説教で言われていることはさっぱり分からないけれど、讃美歌がよかったからまた教会に行こうと思った、という方もおられると思います。それだけ、教会で歌われる讃美歌には名曲、佳曲が多いのです。このように、私たちの礼拝、またキリスト教そのものが音楽に支えられていると言えます。同時に音楽、特に西洋の音楽を育ててきたのがキリスト教だとも言えます。

もちろん、西洋文明が生まれるずっと前の時代にも、音楽は礼拝と深くかかわっていました。今日の詩篇150編をお読みいただければお分かりのように、旧約聖書の時代、まだイエス・キリストが誕生する時代より千年も昔のイスラエルにおいて、礼拝に音楽は欠かせないものでした。詩篇の作者の一人だとされるダビデは立琴の名手だったと言われています。ダビデがいったいどんな音楽を奏でたのか、大変興味があるところですが、録音はおろか楽譜も残されていませんので、残念ながらどんなものなのかは分かりません。しかし、旧約聖書の時代から、礼拝と音楽との間には切っても切れない関係があったのです。

そして、イエス・キリストの誕生後に新約の時代が始まり、キリスト教が西洋に普及するにつれて、教会音楽は飛躍的な進歩を遂げていきました。みなさんはポリフォニーという言葉を聞いたことがあると思います。これはギリシア語からきた言葉で、ギリシア語で「音」とはフォネイという言葉で、「たくさんの」はポロスです。ポロスとフォネイが組み合わさったのがポリフォニーなのですが、日本語では多声音楽です。二つ以上の異なる旋律が組み合わさって音楽を形成していくというものですが、これを大きく発展させたのがルネッサンス時代の教会音楽です。そしてそこから西洋文化の精華ともいうべきクラシック音楽が生まれました。クラシック音楽というと、交響曲とかオペラが中心だと考えるかもしれませんが、その中心には宗教曲があると言っても過言ではないと思います。音楽の父と呼ばれるヨハン・セバスチャン・バッハの代表曲はほとんどが宗教曲です。

今日は、この宗教音楽が何にもまして「神学」というものを表現しうるものだというお話をしたいと思います。「神学」というと、何か非常に難しいものに思えるかもしれません。「神学論争」というのが、誰にも意味が分からない抽象的な議論という意味で用いられるようになっていることからも、何だかとっても難しいもの、というように響きがありますね。そしてそれはある意味で正しいのです。神学とは神についての学問ですが、「神」という超越者について人間が分かるはずがないのです。科学の実験のように、神について実験することなどできません。神学とは、ある意味で分かるはずのない神についてああだ、こうだと論じることなのですから、難しかったり抽象的だったりするのもある意味で当然です。ただ、そのような神が、ではまったく理解不能なのかといえば、そうではありません。なぜなら神ご自身が私たち人間と係わりを持とうと、ご自身を私たちに現してくださるからです。神の方から私たちに近づいてくださるのです。そのような不思議な経験を通じて私たちは神の一端に触れます。そのような不思議な体験を何とか言葉にしよう、人に伝えることができる文章にしよう、というのが神学の試みであり、また聖書そのものもそのような試みの典型だと言ってよいでしょう。聖書記者たちは神との遭遇という筆舌に尽くしがたい体験を、何とか必死に文章にしようとしたのです。

しかし、神について言い表すのは文章だけではありません。むしろ、音楽こそ神について、神がどんな方なのかについて、私たちに雄弁に、非常に重要なメッセージを与えてくれるものだとも言えます。今日は、三つの大変有名な曲についてお話ししたいと思います。これからお話しする曲はいずれも大変有名な曲なので、ユーチューブで検索すればすぐにたくさんの演奏を聴くことができますので、ぜひ聴いていただきたいと思います。

最初の二つは「レクイエム」からのものです。レクイエムとは葬送曲、つまりお葬式の時に奏でる音楽です。クラシック音楽には三大レクイエムというものがあり、その一つは誰もが知る天才モーツァルトの白鳥の歌、絶筆となったレクイエムです。これは鳥肌が立つほどの名曲ですが、この偉大な曲については今回はお話ししません。むしろ他の二つのレクイエムについてお話ししたいと思います。それはイタリアのオペラの巨匠ヴェルディ作曲のレクイエムと、フランスの作曲家ガブリエル・フォーレのレクイエムです。フォーレは初めて聞いたという方もおられるかもしれません。フランス音楽というとドビュッシーがすぐ挙げられるかもしれませんが、私はフォーレが一番だと思っています。この二人の作曲家によるレクイエムはまさに対照的な曲調ですが、その背後にある「神学」も大きく違うなあ、という印象を受けます。

レクイエムというのは教会音楽ですから、そこには式文というか、決まったスタイルがあります。例えばレクイエムの構成曲の中には「キリエ」、これはギリシア語でいえばキュリオス、つまり「主よ」という意味の言葉ですが、そのキリエや、「サンクトス」、これはラテン語の「聖なる」、Holyという意味ですね、それらが含まれています。また、アニュス・デイ、これは「神の小羊」という意味ですが、キリストを表すこのアニュス・デイもレクイエムの重要なパートです。

ただ、先ほどの三大レクイエムはそれぞれ独自の式文を使っていて、神の審判を表す「怒りの日」がモーツァルトとヴェルディのレクイエムにはありますが、フォーレにはありません。モーツァルトの「怒りの日」には悲哀のこもった美しさがありますが、ヴェルディの「怒りの日」は恐ろしいというか、恐怖を感じさせる響きがあります。ユーチューブでヴェルディの「怒りの日」をぜひ聴いてみてください。私の言いたいことが分かると思います。なぜ葬式の音楽にこんな恐ろしい曲が含まれるのかといえば、それは人間はみんな死んだら神の恐るべき審判を受けなければならないのですよ、だから生き残っている私たちはその恐るべき日のことを思いながら真面目に残りの地上の生涯を過ごしましょうというような、ある意味では伝道的なメッセージが込められているのです。

しかしフォーレのレクイエムには、神の恐るべき審判を描く「怒りの日」がないのです。反対に、最後曲である「イン・パラディスム」これは「天国の中へ」という意味ですが、この通常のレクイエムには含まれないとても静かで美しい曲があります。

この二つのレクイエムを説教にたとえるならば、ヴェルディのレクイエムは最後の審判、神の裁きの恐ろしさを強調して、だから今神さまを信じてこのような恐ろしい裁きから救われましょうというような、どちらかと言えば福音派に多いメッセージだといえるでしょう。それに対してフォーレは、地獄とか神の裁きとか、そういう人間の恐怖心を掻き立てる内容は語らずに、神の憐み深さや神の愛、天国の平安のすばらしさを強調して人を神への信仰に導こうというスタイルの説教に通じるものがある気がします。

ただ、神の怒りを含めないフォーレのレクイエムは公演当初は、キリスト教的ではない、異教的ななどと批判されたことがありました。今日の説教でも「神の怒り」について語らない説教は福音的ではないなどと批判されることもありますが、フォーレも同じような批判を受けたのです。そのような批判に対し、フォーレはこう反論しています。

私の『レクイエム』は死に対する恐怖感を表現したものではないと言われており、中にはこの曲を死の子守歌と呼んだ人もいた。しかし、私には死はそのように感じられるのであり、それは苦しみというよりもむしろ永遠の至福と喜びに満ちた解放感にほかならない。グノーの音楽が人間的優しさに傾き過ぎていると非難されても、彼の本性がそのような感性を導いたのであり、そこには固有の宗教的感動が作られている。芸術家には自己の本性を容認することが許されているのではないだろうか。私の『レクイエム』について言うならば、恐らく本能的に慣習から逃れようと試みたのであり、長い間画一的な葬儀のオルガン伴奏をつとめた結果がここに現れている。私はうんざりして何かほかのことをしてみたかったのだ。(ネクトゥー著『ガブリエル・フォーレ』より)

このように、フォーレは因習的なレクイエムのスタイルにあえて挑戦したのです。このレクイエムはどこをとっても素晴らしいですが、特にアニュス・デイ、「神の小羊」が本当に美しいです。歌詞は、神の小羊よ、彼らに永遠の安息をお与えください、永遠の光で彼らを照らしてください、というようなものですが、本当に優しい、平安に満ちた音楽です。そしてこの音楽を聴いていると、フォーレの信じた神がどのようなお方なのか、ということが良く伝わってきます。それをフォーレの「神学」と呼んでいいと思います。ヴェルディの「怒りの日」が伝える怒れる神とは違う、何かすべてを包み込んでくださるような愛の神が伝わってくるのです。

私は何も、神には怒りがないと言いたいわけではありません。聖書にも「神の怒り」についての記述が溢れていますし、神は不正や悪を憎み、それらに怒りを向けるお方であるのは間違いないことです。ただ、神様のイメージを思い浮かべる時に、雷おじさんのような怖い神様をイメージするのか、優しい母親のような神をイメージするのかで、だいぶ私たちの信仰も変わってくるのも確かです。ユダヤ教・キリスト教の神のイメージは厳しい父親のイメージだと言われることが多いですが、フォーレの音楽を聴いていると、何かそれとは非常に違う神のイメージが感じられますし、それも真実なのだと思わされます。このように、音楽は私たちに直観的に理解できる神学を伝える非常に優れたコミュニケーション手段だと言えます。

ただ、素晴らしい「アニュス・デイ」を残したのはフォーレだけではありません。ここで、ヴェルディ、フォーレに続く三番目の曲をご紹介したいと思います。その作曲者は、モーツァルトと同じく西洋音楽の代名詞になっている人物、すなわちベートーヴェンです。このベートーヴェンも素晴らしいアニュス・デイを書いています。それはベートーヴェンの荘厳ミサ曲という大作に含まれています。荘厳ミサ曲は、あの有名な『第九』と同じ時期に書かれたベートーヴェンの晩年の傑作です。一般的にはこの曲は第九ほど有名ではないかもしれませんが、ベートーヴェン自身は第九とこの荘厳ミサ曲を同時に楽譜の出版社に持ち込むとき、なんとあの『第九』の十倍の値段を付けたと言われています。それほどベートーヴェンにとって重要な曲だったのです。この曲は演奏が非常に難しく、あまりよくない演奏だとそれほど感動できないのですが、素晴らしい演奏を聴くと、それこそ得も言われぬ感動があり、特にクライマックスに置かれたアニュス・デイは感動的です。この曲をフォーレの曲と聴き比べると、ここでもまた異なる「神学」が伝わってきます。ベートーヴェンが伝えようとした神は、平安に満ちた慈愛の神というより、人類と共に苦しむ神、この世の不条理の中でのたうち回りながらも、それでも平和を求めてやまない、そのような苦難を哀れな人類と共に担う神のイメージです。この曲は「ミゼレーレ」、神よ憐みたまえという呻きのような言葉から始まります。非常に暗い、重苦しい音楽です。それが途中で転調して、「われらに平安を与えたまえ」という世にも美しい、天上の調べと呼びたくなる祈りのような曲へと変わっていきます。しかし、そのような美しい調べの中にも戦争の響きが入り混じり、私たちが求める平和はこの世界ではどれほど得難いものなのかという現実も突き付けられます。しかし、その戦いの響きの中でも「アニュス・デイ」、神の小羊に救いを求める叫びのような歌声が響きます。そして最後は平安を求める歌声が戦争の響きをかき消すほど力強く歌われて、この曲が結ばれます。フォーレのアニュス・デイは私たちに天国を垣間見せてくれますが、ベートーヴェンのアニュス・デイはこの世の悲惨な状況の中で必死に天国を願う私たちの祈りを形にしてくれたのだと思えます。

このように、宗教音楽は私たちに本物の「神学」を語ってくれるものです。音楽は私たちの信仰を養い育てるために、なくてはならないものです。今日の「音楽の集い」を通じて、私たちは音楽を楽しむだけでなく、神を賛美すること、そして私たちの賛美する神様とはいったいどんなお方なのか、そんなことを感じられれば素晴らしいと思います。お祈りします。

私たち人類に音楽を与えてくださった神様、そのお名前を讃美します。今日は特に音楽と私たちの信仰について考える日です。午後の演奏者の方々を特に祝福してください。音楽が私たちの信仰を豊かなものにしてくれますように。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

ダウンロード