1.序論
みなさま、おはようございます。早いもので、第一サムエル記からの説教も今日で30回目になります。そして、第一サムエル記もいよいよ最終盤にさしかかってきました。第一サムエル記はサウル王の死によって終わります。その意味で、サウルはダビデと並ぶ第一サムエル記の主役ともいえる存在です。とはいえ上り坂のダビデに比べ、転落の人生を歩むサウルはまさにかませ犬のような存在ですが、サウルもまた第一サムエル記の、そしてイスラエルの歴史における非常に重要な人物であることは間違いありません。
そして今日の箇所はサウルの人生のどん底、まさに暗夜行路とも呼ぶべきものです。サウルは、かつて預言者サムエルからのある意味で理不尽ともいえる断罪を受けて、精神を病んでしまいました。その後のサウルにとって一番の苦しみは、神の御心を求めることができない状態になってしまったことでした。なぜならサウルの公の人生の最初から神の御心を伝えてくれたサムエルは、今後サウルと会うことを拒絶したからです。サウルは、頼りにしていたサムエルから神の言葉を聞くことはできなくなってしまいました。さらには、これはサウルの自業自得なのですが、サウルは無実の祭司一族を虐殺してしまうという大変な事件を引き起こしてしまいました。これはサムエル記22章に書かれていることですが、サウルはアヒメレクが逃亡中のダビデを匿ったと勘違いしてしまい、大祭司であるアヒメレク一族を皆殺しにしてしまいます。大祭司一族は、祭司の衣装であるエポデを用いて神の御心を占うという責務を果たしていましたが、その大祭司の一族を皆殺しにしてしまったことで、サウルは彼らからも神の御心を伝えてもらうことができなくなってしまいました。こうして、精神を病んだサウルは、神とのコミュニケーションの手段をすべて失ってしまったのです。このような状態のことを、後の時代の預言者アモスはこう表現しています。アモス書8章11節から12節までをお読みします。
見よ。その日が来る。—神である主の御告げ—その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。
サウルもこのように、主のことばを求めてさまよいますが、どうしても見いだすことができません。しかも、当時のサウルは切実に神の導きを求めていました。強大な敵国であるペリシテ軍がイスラエルを攻める準備をしているとの報告を受けたからです。国とその民の命を預かる王であるサウルには主の導きが必要でしたが、どんな手段を用いても神の導きは与えられませんでした。時代が下るとイスラエルには偽預言者たちがたくさん現れて、神からの啓示や幻がなくても、さも神からのみことばを授かったふりをして王に自分の考えを伝えるようなことをするようになりますが、サウルの時代にはそのような怪しげな預言者たちはいなかったようです。困り果てたサウルは、ついには禁断の方法に手を染めることになります。それは霊媒師を頼るというものでした。まともな医師に相手にされない患者が、絶望のあまりもぐりの怪しげな医師に頼ろうとするようなものです。もちろん、霊媒師と言ってもみんながインチキのペテン師というわけではありません。中には本物の霊媒師もいて、サウルは運よくそうした本物の霊媒師の女性に出会うのですが、しかし霊媒師に頼ることはモーセの律法が固く禁じていることなのです。レビ記19章31節には次のような命令があります。
あなたは霊媒や口寄せに心を移してはならない。彼らを求めて、彼らに汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、主である。
サウルは神の命令に逆らってまでも霊媒に頼るのですが、その動機は神の御心が知りたいからという、非常に矛盾したことをしています。そして霊媒に何をしてもらおうとしたのかといえば、あれほど自分を冷たくあしらったサムエルの霊を呼び出してもらうことでした。まさに藁をもつかむという零落ぶりで、なんとも哀れになる話です。このように、今日の聖書箇所はとても哀れで、同時にとても奇妙な箇所でもあります。このサウルの晩年の出来事から私たちはどのようなことを汲み取ることができるのか、じっくりと考えてみましょう。
2.本論
では、28章の1節から見ていきましょう。前回は、ダビデがペリシテ人の王アキシュのところに、自分の部下六百人共々傭兵軍団として雇ってもらったという話を見て参りました。ダビデはアキシュに対し、自分はもうイスラエルに帰ることはできないので、今後の戦争でイスラエルと戦うことも厭わないと大見得を切って自分を売り込みました。しかし、実際はダビデはイスラエルの王になるという目標があるので、イスラエルの人々と戦う気など毛頭ありません。アキシュ王を欺いて、さもイスラエル人と戦っているふりをして、実際はイスラエル人の敵と戦うという綱渡りのようなことをしていました。しかし、そんな嘘はいずれ露見してしまうものです。そしていよいよそのような重大な局面がやってきました。アキシュ王はイスラエルに総攻撃をかけることを決意します。そしてダビデにも、当然その攻撃に加わって欲しいと念を押します。ダビデとしては、冗談ではないということなわけですが、そこはダビデも役者です、「よろしい。このしもべがどうするか、ごろうじあれ」と返します。ダビデとしては内心困ったことになったとは思っているのですが、そうしたそぶりは見せません。
では、攻撃を受ける側のイスラエルはどうかというと、イスラエルの人々は大預言者サムエルを失って、悲しみに暮れている時でした。そんな時に、ペリシテ人たちが軍団を集結しているという一報が入りました。サウルは偵察隊から、ペリシテ軍が今回は相当な戦力だということを知りました。あのダビデまでも、ペリシテ軍に寝返って自分たちを攻めて来るかもしれないのです。サウルはひどく動揺しました。果たして自分たちはあのペリシテ軍を撃退できるだろうかと。そこでサウルは神に、どうすればよいかお伺いを立てました。しかし、宮廷に残っている預言者たちや祭司たちに聞いても、色よい返事は帰ってきませんでした。彼らも、適当なことを言って後でサウルから叱られるのを恐れ、正直に「主は何もお示しになりません」とサウルに答えたのでしょう。サウルは困り果ててしまい、精神的に追い詰められました。そこでサウルは、とんでもない禁じ手を思いつきます。先に世を去ったサムエルの霊を呼び出し、サムエルの霊から主の御心を聞き出そうとしたのです。そのために、いわゆる霊媒師を探すことにしました。霊媒師というのは、今日の日本でも存在します。東日本大震災の後に、被災して亡くなられた人たちの霊との交流というテーマで書かれたノンフィクションの作品に『津波の霊たち』というものがあります。イギリス人ジャーナリストが書かれた作品で、とてもよい内容の本でしたが、そこには霊媒師が登場します。けれども、この作品を読む限り、その霊媒師は本当に津波で亡くなった死者の霊と交流しているのではなく、遺族に寄り添おうとして遺族の慰めになるようなことをうまく語っているだけのように読めました。これはあくまで私の印象なので、そうではないのかもしれませんが、この本からは本物の霊媒師が存在するとはとても思えませんでした。では、私は霊媒師とは、あけすけに言えばインチキ占いのようないかさまの類いと考えているのかと言えば、そうではありません。ごく少数ですが、本物の霊媒師はいると確信しています。なぜそう思うのかと言えば、誰とは言えませんが私の親しい親族の中にそういう能力を持った人がいたからです。この人の能力はインチキではなかったと確信を持って言えますが、それはその人に気休めで慰められたとかではなく、本当にトラブルから救ってもらった人たちが実際に何人もいたからです。それは良くできたトリックとか、一種の暗示のようなものではありませんでした。インチキ占い師は外れた場合でもうまく言い繕えるようなことを言うものですが、その人の話はとても具体的で、間違った場合に言い逃れが出来ないような内容だったのです。ともかくも、私個人としては、ごく少数ながら本物の霊媒師はいるし、サウルが出会った女性も本物の霊媒師だったのだと思います。しかし、聖書はそうした霊媒師に頼ることを固く禁じています。私はそのことも、非常に良く分かります。なぜなら霊媒というのは非常に危険な行為だからです。私たち生きている人間は、霊的な世界と交流することはできないし、それは禁じられています。なぜなら、私たちがそうした死者の霊と交流する時には、私たちは仮死状態になっていると言われているからです。その一番わかりやすい有名なケースが、いわゆる臨死体験です。臨死体験については相当にデータが蓄積されていて、それを簡単には否定できない水準にまで研究が進んでいるといってもよいでしょう。端的に言えば、霊媒というのは一歩間違えれば死んでしまうような危険な行為だということです。訓練されていない人がそれをするのは非常に危険なことなのです。また、人間にも良い人間と悪い人間がいるように、霊にも良い霊と悪い霊がいます。霊と接触できたとしても、それが人を騙す霊、人に悪意を持った霊である場合も少なからずあるようなのです。そのような危険から私たちを守るために、聖書は霊媒を堅く禁じています。
しかしサウルはその聖書の教えを破ってまでも、どうしてもサムエルの霊と会いたいと願いました。かつてサウル王は、神の教えだとして霊媒師をイスラエルから追放したことがあったので、イスラエルには霊媒師はいないはずでした。それでもサウルは部下たちに捜させると、一人の女性が見つかりました。おそらく彼女は本物の霊媒師だったので、彼女の能力を惜しんで匿っていた人たちがいたのだと思われます。サウルは、自らが霊媒師を追放した手前、表立って霊媒師に会いにはいけないので、変装してその女性のところに行きました。今でも有名人が怪しげな店に行くときに変装するということがあるようですが、そんな感じでしょうか。
さて、こうしてサウルは霊媒の女と会うのですが、この女は明らかに警戒しています。自分を騙して、捕らえるために来たのではないかと思い、自分は霊媒師なんかではない、と言い張ります。しかしサウルは真剣に、私は決して騙してなどいない、神に誓ってそれは真実だと言います。サウルの必死な態度に心を動かされたのでしょう。彼女はサウルに、誰の霊を呼び出してほしいのかと尋ねます。サウルは、先に世を去ったサムエルの霊を、と願います。そうして彼女はサムエルの霊を呼び出そうとします。しかし、その最中に彼女は自分が今あっている人物こそがサウル王だと気が付きます。なぜ彼女はサウルだと気が付いたのかといえば、それは彼女が本物の霊媒師だからでしょう。彼女は死んだ人の霊だけでなく、生きている人の霊も見えたのかもしれません。しかし、サウルは必死に彼女を安心させようとします。騙して悪かったが、恐れることはない、どうか続けて欲しいと願います。そうすると、本当にサムエルの霊が現れるのです。この瞬間がどんなものだったのか、大いに創作意欲を掻き立てられるのか、この場面の有名な絵画がいくつもあります。
しかし、サウルが必死の思いで呼び出したサムエルの霊は、生前と全く変わらずにサウルには冷たく、けんもほろろの態度でにべもなくサウルを突き放します。サウルの心に突き刺さるようなことをグサグサと言います。お前はもう、神から捨てられたのだ、それどころか神はお前の敵になられたのだ、と言います。そして、これまでそうだろうなと思いながらもサウルが確信が持てなかったこと、つまりダビデこそ次の王として神に選ばれたのだということも、サムエルははっきりとサウルに告げます。それもこれも、お前が神の命令に逆らって、アマレク人を聖絶しろと命じたのに、その家畜を生かしてしまったからだとサムエルが畳みかけます。でも、これっておかしいですよね。なぜなら前回学んだように、ダビデもアマレク人と戦いながら、神の命令に逆らって聖絶をせずに、家畜を生かしておいて、なんとその家畜をペリシテ人の王への贈り物としたからです。サウルが罰を受けたのなら、公平な神はダビデにも同じ罰を与えるべきです。神の人ならダビデの行状も知っているはずなのですが、なんでサムエルはダビデの罪はスルーするのか、こういうところからもサムエルのいけずな性格を感じて好きになれないのですが、ともかくもサムエルはサウルが自分の命令に逆らったことを今でも怒っているし、赦していませんでした。それどころか、次の戦いでお前もお前の息子たちも死ぬと言い残して、さっさと消え去ってしまいました。
この事態に茫然自失となったのがサウルでした。弱り切っていたサウルに、正に死人に鞭打つようなサムエルの言葉でした。もうすべての望みが消えました。この時点で、サウルは生ける屍として王の責務を放棄してしまっても不思議ではない状態でした。ここまで言われて、なおもペリシテ人との戦いに行こうなどとは誰も思わないでしょう。サムエルも、決死の覚悟で戦いに臨もうとするサウルに何か他に言うことはなかったのかと、怒りさえ覚えるほどの冷酷さでした。
しかし、サウルへの助けは意外なところから来ます。イスラエルの価値観でいえば、預言者サムエルは最上位の位置にいて、この女霊媒師は最低ランク、というか最低以下の存在さえ許されないような人です。しかし、サウルにとってはこの女こそ最後の希望、死人同然の彼をよみがえらせてくれた救い手でした。彼女は、サウルが自分を騙したことについては咎めることはせずに、目の前の打ちひしがれた哀れな男を何とか助けてやりたいという同情心に動かされていました。王であるサウルに取り入って良い思いをしようとか、そういう邪な思いからではありませんでした。なぜならたった今、サウルは死刑宣告を受けたばかりだからです。彼女は純粋な同情心から、この弱り切った男を助けてやりたいと思ったのでした。一番頼りにしていて、拒まれても追いすがったサムエルからは何の助けも得られず、むしろ自分が迫害して日陰者としてきたこの霊媒師の女性からは助けられるという、なんとも数奇なことが起きているのです。
彼女は今のサウルにとって一番大切なこと、つまり何か食べなさいと語ります。この場面を読むと、預言者エリヤがバアルの預言者たちとの壮絶な戦いの後に疲れ果ててしまい、神の山に行って死を願ったときに、神の御使いがエリヤにパンを与えてくれたことを思い起こします。この霊媒の女は、サウルにとってまさに神の使いでした。しかし傷ついたサウルは「食べたくない」とこの女の申し出を断ります。もう、本当に何もかもいやになってしまったのでしょうね。可哀そうなサウルです。しかしサウルの家来もこの女も一生懸命サウルを説得します。こうしてやっとサウルも気持ちが上向いてきたのか、サウルも食べることに同意しました。
それを見た女は、彼女にとっては大きな財産である肥えた子牛を惜しげもなく、急いでほふりました。この女のやさしさを感じます。なんだか放蕩息子の帰りを聞いて、肥えた子牛をほふった父親のことを思い起こさせる話です。ボロボロだったサウロは、この女が用意してくれた食事を食べて、元気を取り戻して帰ることができたのでした。
3.結論
まとめになります。今回はサウル王の晩年の、大変有名なエピソードを読んで参りました。この話は霊媒という、聖書では大変珍しい現象を扱っているのでそれだけでも興味をそそるものですが、私が特に関心を持ったのが、「誰がサウルの隣人になったのか」ということでした。今回は二人の対照的な人が登場します。サムエルという、イスラエルの神の権威を象徴する人物と、霊媒師という、神から呪われたような職業をしている日陰者の女性でした。当然正しいのはサムエルで、悪いのは霊媒師の女だ、という前提で私たちはこの話を読むのですが、読み終えるとだいぶその印象が変わるのではないでしょうか。サムエルは権威主義的で、執念深く、赦しがなく、残酷にすら思えるのに対し、霊媒師の女は人間味があり、騙されたことを根に持たず、苦しんでいる人のためなら自分のわずかな財産でも喜んで差し出すような、ある意味で聖母のような印象すら受けます。サムエルはサウルの何の助けにもなりませんでしたが、霊媒師の女は生ける屍のようだったサウルをよみがえらせることができました。絶望の淵にいたサウルは、この女の人情に触れて生きる希望をもう一度持つことができました。この後サウルは戦場で非業の死を遂げますが、戦場で立派に死ぬことは武人の誉れです。そのような最期を遂げる力をサウルに与えてくれたのが、この女だったのです。
イエス様はイスラエルの中で尊敬されていた祭司や教師たちに厳しく、イスラエルの中で人々から軽蔑されてひたような人たちの友となられました。そのイエス様が、この時のサムエルと霊媒師の女を御覧になって何と言われるのか、とても興味があることだと思います。お祈りします。
傷ついたサウルに肥えた子牛とパンを与えてくださった神様、そのお名前を讃美します。私たちも傷ついた人に、「お前が悪いんだ、自業自得だ」と責めるのではなく、寄り添うことができるよう、力をお与え下さい。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン