奪われた契約の箱
第一サムエル4章1~22節

1.序論

みなさま、おはようございます。サムエル記からの説教は、今日で四回目になります。これまでは、ハンナ、サムエル、エリとその息子たちというように、個人の信仰の在り方に注目してきましたが、今日の箇所からは個人の問題を越えたイスラエル民族全体の命運、政治的な話にテーマが移っていきます。しかし、それは個人の命運とは無関係にではありません。前回の箇所では、イスラエルの霊的指導者であるはずのエリの息子たちが道を踏み外し、それに対して神はサムエルを通じて裁きを宣告するという場面を学びました。しかし、その裁きはエリとその息子たちだけでなく、イスラエル全体に及びます。指導者の罪が、彼らの率いる群れ全体、民族全体に悪影響を及ぼすということです。リーダーの責任の重大さを改めて思わされる箇所です。

さて、今日の場面では「戦争」の場面が中心になっています。今日に限らず、サムエル記を通じて繰り返し戦争の場面が出てきます。しかも、神が率先して戦争を導いているような印象を受けるケースも少なくありません。戦争は当たり前の現実として描かれています。そのことを私たちはどのように受け止めるべきでしょうか。私たちはつい先ごろ終戦記念日を迎え、戦争のもたらす悲惨さを覚え、不戦の誓いを新たにしました。しかし、例えばウクライナのように隣国から侵略されたら戦うしかない、日本も危険な国々に囲まれているのだから軍事力を増強すべきだ、という声もとても強くなってきています。では、教会はどうすべきかと言えば、主イエスは武器を取らない道、敵を愛しなさいという教えを私たちに与えてくださいました。しかし、二千年の教会の歴史を見れば、教会は常に戦争に係わってきました。クリスチャンも、この世の中で生きている以上、戦争に全くかかわらずに生きていくことができない、そういう厳しい現実があります。そのようなことを考えると、今サムエル記を学ぶということには非常に大きな意味があると思われます。サムエル記の時代のイスラエルは、敵対的な隣国に囲まれ、望まなくとも戦わざるを得ないという状況に置かれていました。こちらが武器を置けば相手も武器を置いてくれる、このような相手の善意を信じるという政策は取れませんでした。むしろ武器を捨ててしまえば、相手はしめたとばかりに襲いかかって来る、そういう非情な世界でした。そんな中で、イスラエルはサウルやダビデという優れた武人をリーダーにして強国、軍事大国への道を歩んでいきます。その過程で、多くの戦争があり、多くの命が失われていきました。しかし、サムエル記には戦争それ自体を悪として描く思想は認められないように思われます。むしろ神は、すべてではありませんが、いくつかの戦争にはお墨付きを与えている、そのような印象すら受けるのです。そのような神の戦争に対する態度と、主イエスの平和の教えが果たして両立するのか、という疑問に私たちはこれから悩まされるかもしれません。

しかし、この世の現実は決して単純ではありません。戦争が単純に、絶対に悪だとも言えない現実があります。たとえ絶対平和主義を信奉している人でも、自分の家族や親しい友人が暴漢に襲われそうになった時に応戦したり、あるいは警察に頼ってそうした暴漢を武力で制圧してもらうことに反対する人はいないでしょう。その状況を拡大して、私たちの住む地域が暴徒の群れに襲われそうになった時に、武力でそれに抵抗しても、それが道徳的に誤っているということにもならないでしょう。それを国家のレベルにまで拡大すれば、それが防衛戦争ということになります。そのような戦争まで否定することはできないのではないか、という議論は確かに成り立ちます。しかし、近代以降の戦争の悲惨さを知る私たちは、そのような議論の危険性にも同時に気が付きます。自衛のための戦争と言って始めた戦争が、どれだけの巨大な破壊をもたらしてきたか、取り返しのつかない悲惨と破壊をもたらしてきたかということを知っています。それに、現代においては戦争が起きる背景も複雑で、そうした複雑な背景を考えていくと戦争の一方の当事者だけが絶対悪だとは言えなくなっていきます。「正義の戦争」なんて、果たしてあるのだろうか、と思えてきます。

現実を見れば、私たちの世界からは残念ながら戦争はなくなってはくれません。多くの人が戦争のない世界を願ってきましたが、しかしその同じ人々が、自分の大切な家族や仲間を殺されたことへの復讐のための戦争を支持する、そういう現実もあるのです。同じ人間の中でも、戦争に対する矛盾した考えがあり得るということです。そして、聖書の戦争に対する見方も、実に様々なのです。それが聖書の偉大さでもあります。確かに私たちの信仰の中心には主イエスの教え、平和の教えがあります。しかし同時に、聖書は戦争の生々しい現実を描き、ある場合には戦うことを肯定していると思える場合もあります。私たちは聖書の示す現実と理想の狭間を生きていると言えます。サムエル記の示す生々しい現実も、主イエスが指し示す平和の理想も、いずれも大切なのです。そのことを思いながら、今日のテクストを読んで参りましょう。

2.本論

それでは4章をさっそく読んでいきましょう。ここでは突然に、ペリシテ人によるイスラエルの侵攻という場面から始まります。なぜペリシテ人がイスラエルを攻めようとしたのか、その理由は何も記されていません。そこで、ペリシテ人とはどんな人々なのかを考えてみましょう。ペリシテ人という民族は、現在の「パレスチナ」という地名のルーツにもなっている民族ですが、彼らは長い間イスラエル人とライバル関係にありました。サムエル記の前の時代を描いた「士師記」にもペリシテ人は登場します。有名な話では、怪力の勇者であるサムソンに率いられたイスラエルが、ペリシテ人と戦ったことがありました。過去において、イスラエル人とペリシテ人は勝ったり、負けたりを繰り返してきたのです。しかし、時代は下ってサムエルの時代、ペリシテ人はその力を急速に強めつつありました。当時のイスラエルの周辺には、まだ強力な中央集権型の国家がありませんでした。それぞれの民族は、小さな部族に分かれていて緩やかに連合を組んでおり、必要な時に協力し合う、そのような緩い関係でした。しかしペリシテ人は、急速に中央集権化を進めました。一人の強力な王のリーダーシップの下に、強力な軍隊を持ち、隙あらば近隣諸国を攻めるという体制を築いていたのです。しかも彼らは技術革新も達成していました。鉄製の武器を開発し、機動力のある強力な二輪馬車も用いるようになったのです。自分たちの力が周辺諸国よりも優位にあるという自信を深めた民族は野心的になります。周辺の諸国を従属させようと考えるのです。かつての日本も、明治維新以降に急速に国力を伸ばし、無謀と言えるほどの拡張主義で近隣諸国を次々と征服しようとしましたが、その背景にはアジアの国でいち早く欧米化を成し遂げ、欧米の優れた兵器を持つに至ったことがありました。ペリシテ人も、当時の近隣諸国に先んじて鉄製の武器を開発し、独占していたので非常に強力だったのです。その軍事的アドバンテージを生かそうと、拡張主義政策を採っていたのです。

イスラエルは、そのような台頭しつつある敵のすぐ横に位置していました。侵略を狙う隣国がいる場合、どうすればよいかという問題は、人類の歴史上消えることのない悩みです。こちらが戦争をする気などまるでなくても、相手に隙を見せればこちらの気持ちにお構いなしに攻めて来る、そういう厄介な隣人がいる場合、どうすればよいのでしょうか。一つの対策はバランス・オブ・パワー、勢力均衡の理論で、近隣諸国に負けない強力な軍隊をこちらも持つ、ということです。相手方も、こちらの軍隊が強力であればうかつには手が出せなくなる、相手が脅威を覚えるぐらいの反撃能力を持とうという戦略です。今の日本の政府も、そのような方向に急速に舵を切っています。ただ、この戦略にも問題があります。強大な隣国に負けないぐらいの強い軍隊を持つ、ということは、その隣国の側から見ると、当然ながら脅威なのです。こちらとしては、隣国とバランスの取れた軍事力を持とうとしているだけなのですが、相手側からするとこちら側の方にこそ侵略の野心があるのではないか、という疑念を抱かせてしまうのです。いわゆる「疑心暗鬼」というもので、相手が強くなるならこちらはさらに強くなろう、という軍拡競争に発展しかねません。このバランス・オブ・パワー理論を突き詰めれば、相手が核兵器を持つならこちらも核兵器を、という具合に核武装する国がどんどん増えていくという危険性があります。隣国同士であるインドとパキスタンがどちらも核保有国となってしまったことなどはその典型でしょう。そうなると、一歩間違えれば核戦争という人類の終焉をもたらしかねないことになるのです。

先日が終戦記念日だったので、非常に生々しい話になりましたが、話を古代のイスラエルに戻しましょう。イスラエルはペリシテ人という強力な隣人を持つことになりました。それに対する対抗策としてイスラエルが最終的に採用した方法とは、バランス・オブ・パワー戦略でした。それはつまり、自分たちも相手と同じくらい強い軍隊を持とう、そのために強力な権限を持つ王を持とうということなのですが、しかしこの時点ではイスラエルにはそこまでの考えはありませんでした。まだ王制を採用しようとは考えなかったのです。むしろ、これまでと同じやり方でこの危機に対処しようとしました。これまでと同じやり方とは、強力なリーダーを持たずに緩やかな部族連合、つまりイスラエルの十二部族で連合軍を形成して、ペリシテ人の脅威に対抗しようとしました。しかし、当時のイスラエルにはかつての有力な士師、ギデオンやサムエルのような非凡なリーダーがいませんでした。むしろ、精神的な柱となるべきエリの一門はまったく堕落しきっている状態でした。そのような状態で、強敵のペリシテ人と戦うことになりました。イスラエルは約四千人の兵でペリシテ人に対抗しようとしましたが、むしろ初戦で徹底的にやられてしまいました。

イスラエルのリーダーである長老たちは、初戦での手痛い敗北の後に軍議を開きました。彼らは信仰の民だったので、この敗戦の理由を神に求めようとしました。「なぜイスラエルの神は、私たちに勝利を与えて下さらなかったのか」、というのが彼らの疑問でした。ここで、当時のイスラエルの人々が神に対してどのような信仰を持っていたのか、それをうかがい知ることができます。当時のイスラエル人は、神について「いくさびととしての神」という信仰を持っていました。それは出エジプト記15章3節に表明されている信仰です。つまり、イスラエルの神はイスラエルの民のために戦ってくださる神だ、という信仰です。私たちクリスチャンは、平和を教え、戦いを否定した主イエス・キリストを知っていますから、神がいくさびとだというような考えに疑問を抱くかもしれません。しかし、主イエスによって啓示された神を未だ知らなかった当時のイスラエル人は、神についてより素朴な考えを抱いていました。それは、神というお方はご自身が選んだ民族のために戦ってくれる存在なのだ、という信仰でした。ある特定の民族だけをひいきにして、彼らを守るために戦争をする神、というと私たちは違和感を抱くかもしれませんが、古代世界の多くの人々は神についてそのように考えていたのです。

自分たちはなぜペリシテ人に敗れたのか、それはイスラエルの神が自分たちのために戦ってくださらなかったからだと、そのようにイスラエルの長老たちは考えたのです。ですから、ペリシテ人との次の戦いに勝つためには、戦場にイスラエルの神に来ていただく他ない、と考えました。では、どうすればイスラエルの神を戦場に連れて来ることができるのでしょうか。彼らは、神が現れる場所とされる契約の箱、神の箱のことを思い浮かべました。あの伝説の神の人であるモーセは、契約の箱の上に現れた神と直接話をした、という言い伝えをイスラエルの人々は知っていました。契約の箱には、十戒が刻まれた石板が収められている、イスラエルにとって最も神聖なものでした。もっとも、サムエルのいた当時、神はイスラエルにほとんど何も語られませんでしたから、契約の箱から神が語られるのを聞いたことがある人もいませんでした。それでも、神とイスラエルとの間に結ばれた契約のシンボルである「契約の箱」さえあれば、神は私たちと共にいて、ペリシテ人と戦ってくださる、そのようにイスラエル人は信じたのです。

しかし、そのようには事は運びませんでしたし、むしろこの出来事はイスラエル人が神について大きな思い違いや誤解をしていることを明らかにすることになりました。イスラエル人の神についての思い違いとは、具体的には何でしょうか。それは、イスラエルの神が自分たちの利益のために行動してくれるし、自分たちは神をそのように行動するように促すことができるのだ、という思い違いです。イスラエルは神と「契約」を交わしましたが、その契約は一種の安全保障条約のようなもので、神はイスラエルがピンチになったときに、イスラエルを救う義務があるのだと、そのように考えていました。日米安全保障条約というのがあり、多くの日本人は日本がピンチになったらアメリカが守ってくれると信じていますが、それとある意味で似たような感覚をイスラエル人は神に対して抱いていたのです。

しかし、神とイスラエルとの契約は安全保障条約ではありませんでした。確かに神は、契約を結ばれた時に、イスラエルが神の声に聞き従うなら、大きな祝福が与えられることを約束されました。しかしこの契約は、イスラエルを強大な軍事大国にするための契約ではないし、イスラエルの絶対的な安全保障を約束するものでもありませんでした。むしろそれは、人は神の掟に従って歩むことでいかに大きな祝福を賜ることができるかということを示す、イスラエルが他の民族にとってのモデルとなることを目指した契約でした。ですから、イスラエルが神に従わずに、神に背を向けて歩むときにもイスラエルを無条件で守るというような契約ではなかったのです。むしろ、イスラエルが神に背を向ける時には、神もイスラエルから背を向けることになります。そして残念ながら、エリの時代のイスラエルはまさにそのような状態だったのです。

ですから、聖地であるシロから神の箱を持ち出して、戦場に持って来るというイスラエルの戦略は意味のないものでした。むしろ、その箱を運んでいたのが神からの裁きの宣告を受けていたエリのふたりの息子、ホフニとピネハスだというのですから、そのような行動はかえって神の怒りを引き起こすものでした。しかし、当のイスラエルの兵士たちはそのようには考えず、むしろ契約の箱を無敵の神の最終兵器か何かのように勘違いし、その到着に興奮しました。これでペリシテ人を圧倒できると、大歓声で鬨の声を上げました。ペリシテ人側も、劣勢だったイスラエル兵が急に活気づいたことに驚き、何事かと怪しみました。そして、イスラエルの陣営に契約の箱が運び込まれたことを知りました。ペリシテ人も、契約の箱にまつわる噂話を聞いていたので、脅威を感じました。しかし、彼らも勇気を振り絞って、イスラエルの軍勢の勢いにのまれないようにと、必死に反撃してきました。

すると、当初は勢いがあったイスラエル軍も、自力で勝るペリシテ軍に押され出し、やがて敗走し始めました。しかも、イスラエルの神までが、ペリシテ人に加勢しているかのようでした。というのも、天幕に逃げ帰ったイスラエル人の間に激しい疫病が流行り出し、なんと三万人もの歩兵が病に倒れてしまったからです。まさに泣きっ面に蜂の状態のイスラエル兵ですが、それはイスラエル全体が祭司エリの一門への裁きの結果として、神の激しい怒りの手の中にいるかのようでした。

さらに悪いことは重なるものです。なんと、イスラエルと神との契約の象徴、神がイスラエルとともにいてくださることを示すシンボルである契約の箱がペリシテ人に奪われてしまったのです。そして、その箱を担いでいたエリの二人のむすこ、ホフニとピネハスはその時に戦死しました。契約の箱が奪われるというのは、日本でいえば「三種の神器」が奪われるようなものです。それが奪われるということは、完全な敗北を意味します。大祭司エリは、自分のふたりの息子たちのこと以上に、契約の箱の安全を気にしていたように思えます。日本政府も、太平洋戦争の終わりの時期に、どれだけの国民が死ぬかということよりも、「国体の護持」、つまり天皇制が維持できるかどうかを一番気にかけていたと言われます。エリにとっても、契約の箱とはイスラエルの栄光そのものであり、それが奪われることはイスラエルの終わりとすら思えたことでしょう。しかし、国民の命よりも、「契約の箱」というモノの方が大切だというのは、倒錯した考えだとも言えます。「契約の箱」そのものには、何の力も意味もありません。確かに神は過去に契約の箱を通じて自らを現わされました。しかし、神がその箱の中に住んでいるわけでも、アラジンの魔法のランプのジニーのように、その中に閉じ込められているわけでもありません。神がご自身を現すための手段の一つに過ぎなかったのです。しかし、その箱が奪われたことでこの世の終わりでもあるかのように悲しむイスラエル人の姿を見ると、彼らと生ける神との交わりがなくなっていたという事実が逆に浮かび上がっています。ともかくも、この事件はイスラエルが霊的にはどん底にいたことを表すものとなりました。

3.結論

まとめになります。今日は、預言されていた祭司エリ一門への裁きが、イスラエル全体への裁きとして成就したという場面を学んで参りました。その中で、イスラエルの人々の神に対する思い違いという問題がクローズアップされました。聖書の神は、決して「戦争の神様」ではありません。神とイスラエルとの契約は、神が如何なる場合にもイスラエルを外敵から守るという安全保障条約でもありませんでした。神がイスラエルに求めたのは強くなることでも、豊かになることでもなく、むしろ隣人を愛し、弱い者を助け、神を敬って正しい道を歩むことでした。イスラエルがそのような神の義を体現した共同体であるときに、そのイスラエルを害そうとするものがあれば、神はそのような敵からイスラエルを守ってくださったでしょう。しかし、当時のイスラエルはそのような状況からは程遠い霊的な状態に陥っていました。神への信仰は廃れ、社会から正義は失われていました。そのようなイスラエルのために、神は戦うことはなさいません。むしろイスラエルは裁かれるのです。また、イスラエルの人たちは「契約の箱」についても大きな思い違いをしていました。彼らはこの箱を、神を呼び起こすための道具であるかのように考えていました。しかし、神はいかなるモノにも閉じ込められることも制約されることはありません。神が何もなさらなければ、契約の箱もただの箱であり、何の意味もありません。私たちはモノを崇めるのではなく、生ける神との生きた関係をこそ大切にすべきなのです。そして最後に、霊的指導者の重要性について考えさせられます。リーダーがおかしいと、組織全体がおかしくなります。リーダーこそ、神の前に謙虚に歩まなければならないということを、このエリの一族の物語は教えてくれます。お祈りします。

歴史を導かれる神様、そのお名前を讃美します。今日は、イスラエルが徹底的にうちのめされる場面を学びました。イスラエルの指導者も、民全体も神について大きな思い違いをしていました。神は私たちの自由になるような方ではなく、すべての上に立ち、正義を実現されるお方です。そのような神の前を、私たちも謙虚に歩ませてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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