サムエルの召し
第一サムエル3章1~21節

1.序論

みなさま、おはようございます。サムエル記からの説教は今回で3回目になります。そして、今回から初めてサムエル記の主人公の一人であるサムエルが本格的に登場します。今日はそのサムエルの預言者としての召命物語になります。私たちは以前、預言者エレミヤの召命物語を学びました。エレミヤは祭司の家系に生まれた人で、祭司には30歳になった成人男性がなるのですが、エレミヤは弱冠20歳で預言者としての召しを受けます。祭司として働く年齢より10歳も若いわけで、エレミヤはこの時「自分は若過ぎます」といって神の召しを拒もうとします。しかし、今日のサムエルはもっともっと若いです。幼いといってもよいかもしれません。この時点でサムエルは何歳だったのか、はっきりとは分かりません。サムエルは既に祭司エリの下で祭司見習いとして働いていましたが、ユダヤ人の元服は13歳ですので、おそらくサムエルも13歳になるかならないかという年齢であったと思われます。日本でいえば、中学1年生ぐらいの歳です。古代のイスラエルは、現代の日本よりも大人になる年齢はずっと低かったわけですが、それにしても13歳ではまだ世の中のことはよく分かっていなかったでしょう。

とはいえ、サムエルはかなり特殊な環境で育ってきました。サムエルは乳離れした歳、1歳半ごろですが、そのころから母親の手を離れてずっと祭司エリの下で育てられてきました。彼の家は、なんと神の宮だったのです。つまり、物心ついてからの生活環境は非常に宗教的なものであったということです。宗教上の聖地には独特の雰囲気がありますが、サムエルにはそれがむしろ当たり前だったのかもしれません。3章3節には、「サムエルは、神の箱の安置されている主の宮で寝ていた」とあります。「神の箱」というのは、モーセの十戒が刻まれていたと言われる石板が収められていた契約の箱のことですが、それは神の聖所の中でも最も神聖な空間である至聖所に置かれていました。その近くでサムエルは寝ていたことになります。当時、契約の箱が置かれていたのはシロというところで、後にダビデがエルサレムを首都と定めてそこに契約の箱を安置するまで、二百年もの間イスラエルの聖地とされていた場所でした。サムエルは、その聖地シロで少年時代を過ごしてきたのです。

そのサムエルはある意味で、非常に複雑な人間関係の中で育ったと言えます。母親のハンナは素晴らしい信仰者で、わが子サムエルを深く愛していましたが、なにしろ彼女がサムエルに会えるのは年に一度だけです。ハンナは毎年成長するサムエルのために上着を作るほどの子煩悩な親でしたが、しかし繰り返しますが会えるのは年に一度だけです。サムエルは、一番母親に甘えたい時期に、肉親と離れて大人たちに囲まれて暮らしていたわけです。しかもその大人たちが非常に個性的な人たちでした。年の離れたお兄さんたちともいうべきエリの息子たちはやくざな連中で、神の聖所の中で狼藉ばかり働いていました。聖所で働く他の人たちは、サムエルに対し、「あんな連中と付き合ってはいけないよ。あんたもあんなろくでもない大人になってはいけないよ」と忠告したでしょう。しかし、サムエルにとっては大祭司エリは後見人、親代わりですから、その子どもたちとまったく付き合わないわけにもいきません。エリの息子たちも、真面目な少年サムエルをからかいながらも、自分たちの仲間に引き込もうとしていたかもしれません。サムエルが一番頼りにしていたエリは、基本的には善良な人でしたが歳を取り過ぎていて、目も悪くなっていて、サムエルのことに十分目が届かなくなっていました。サムエルも、ですからエリに頼ってばかりもいられない状態でした。そのような不安定な周囲の状況の中で、サムエルは早く大人にならざるを得なかったといいますか、若干早熟な子どもであったものと思われます。そのようなサムエルに、神は呼びかけて預言者としての最初のことばを与えたのでした。では、さっそく今日のみことばを読んで参りましょう。

2.本論

まず、3章1節です。ここに、とても重要な情報が記されています。それは、「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」という言葉です。簡単に言えば、神様とイスラエルの民とのコミュニケーションがほとんどなかったということです。民は神を尋ね求めることをせず、霊的な事柄に関心を失っていました。彼らの関心事は、この世の歓びをいかに味わい尽くすか、そういう世俗的な方向にばかり向かっていました。神様の方も、そんな人々にご自身を現わそうとはなさらなかったので、お互いの距離はどんどん開いていく一方でした。イスラエルは一件平穏でした。人々はそのぬるま湯の中に浸りきっていました。しかし、段々と危機は迫りつつありました。強大な武器を手にしたペリシテ人が、イスラエルの領土を狙って牙を研ぎ澄ましていました。イスラエル人はそうした脅威に備えなければなりませんし、イスラエルの神も、人々に警告を与えたいと考えておられました。しかし、人々に警告を与えるべき立場にいる人たちそのものが、神の裁きの対象になってしまっていること、それが問題でした。祭司という、イスラエルを率いるべき立場の人々が完全に神に背を向けてしまっていました。彼らは神と全くコミュニケーションを取ることができずにいたので、神は彼らを通じて大切なメッセージをイスラエルの人々に届けることができないのです。このどうしようもないリーダーを何とかしないことには、イスラエルに未来はありません。ですから、神が最初になさろうとしたことは、こうしたリーダーたちの排除でした。イスラエルに良き指導者を与えるために、悪い指導者を取り除く、それが神の目指すところでした。本来なら、イスラエルの指導者である祭司エリがそのことをすべきでした。彼はどうしようもない自分の息子たちをその高い地位から罷免しなければならなかったのですが、エリは神からそのように促されても従おうとはしませんでした。いくらダメ息子でも、子どもたちがかわいかったのです。そこで、その仕事がまだ少年であったサムエルに回ってきたのです。

このサムエルにこれから与えられるメッセージは大変厳しいものです。旧約聖書で、預言者に与えられるメッセージには、大別すると2種類のものがあります。一つは希望のメッセージ、救いを告げ知らせるメッセージで、モーセが燃える柴の中から聞いた「出エジプト」のメッセージや、イエスの母マリアが受胎の時に聞いたイスラエルの救いのメッセージなどです。こういう喜ばしい知らせはまさに「福音」と呼ぶべきものです。しかし、預言者が与えられるのはこうした喜ばしい知らせばかりではありません。むしろそれとは正反対の、厳しいメッセージの方が多いのです。例えばイザヤです。大預言者イザヤの召命物語は、神殿の中で栄光の主を見上げるという壮大なものでしたが、そこで彼に与えられたことばは、

町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。(イザヤ6:11-12)

という寒々としたものでした。栄光の主を見たという高揚感と、そこで与えられるメッセージの残酷さのコントラストが際立ちます。

預言者イザヤより少し前の時代を生きた、もう一人の偉大な預言者であるアモスに示されたイスラエルの未来もまことに暗く厳しいもので、アモスは主から幻を知れされた後に思わず主にこう叫びました。

神、主よ。どうぞお赦しください。ヤコブはどうして生き残れましょう。彼は小さいのです。(アモス7:2)

このように、預言者たちに与えられる神のみことばや幻は、預言者が押しつぶされてしまいそうになるほど重苦しいものが多いのです。そして、サムエルにも今やそのような厳しいみことばが与えられようとしています。しかし、既に成人になっていて人生経験を積んでいたイザヤやアモスとは違い、サムエルはまだ年端もいかない少年です。その少年に与えられた初仕事は、あまりに厳しいものであったように思います。

では、そのサムエルがどのように神から召されたのかを見ていきましょう。神は、宮の中で眠っているサムエルに呼びかけました。それは夢の中で現れたというよりも、実際に音として届くようにサムエルの耳に語り掛けたものと思われます。霊である神が、どうやってその声を物理的に届けるのか、というのはなかなか不思議なことですが、おそらく神は御使いをサムエルのところに遣わし、彼にご自身のことばを託したものと思われます。御使い、すなわち天使も霊的な存在ですから、同じではないかと思われるかもしれませんが、天使というのは一時的に人間と同じように物理的なからだを持つことができる存在として聖書に描かれているように思われます。ともかくも、寝ているサムエルは自分の名が呼ばれるのに気が付きました。こんな時間に自分を呼ぶのは、お師匠さんのエリしかいないと思い、サムエルは「はい。ここにおります」とエリのころに走っていきました。この一件からも、サムエルが相当厳しくエリからしつけられていたことが窺えます。寝ているのを起こされると誰でも不機嫌になるものでしょうが、サムエル少年は文句ひとつ言わずに、すぐに起きてしかも走ってエリのところにダッシュで向かっています。かなり体育会系ですよね。エリは自分の息子たちには大甘でしたが、サムエルには厳しく教育していたようです。これは養子のサムエルに辛く当たったということではなく、むしろハンナから預かった大事な子どもということで、エリもサムエルには大きな期待を賭けていて、それで厳しく躾けたのではないかと思います。サムエルもそれに応えて頑張ったので、エリも鍛えがいがあったということなのでしょう。 さて、エリのところへ飛んでいったサムエルは、再び「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と答えます。しかし、エリはサムエルを呼んだ覚えはありません。眠りを妨げられる格好になったエリですが、サムエルが寝ぼけていたのだろうと考えて、ここは優しく、「帰って、おやすみ」とサムエル少年に伝えました。サムエルも、おかしいなと思いつつ、再び眠りにつきます。そうすると、再度自分を呼ぶ声がしました。今度こそ、エリが呼んでいると考えてサムエルがエリの所に向かうと、今度もエリは私は知らないと言います。しかし、二度あることは三度ある、ではありませんが、再び眠ろうとしたサムエルは、今一度自分を呼ぶ声を耳にします。今度こそ間違いなくエリだろうと思ってサムエルはエリのところに向かいます。しかし、今度はエリの方が、今何が起きているのかに気が付きました。サムエルが三度も間違えるわけがない、これは主がサムエルを呼んでいるのだと確信し、エリはサムエルに、今度声がしたらこう言いなさい、と伝えます。『主よ。お話しください。しもべは聞いております』と。

果たして、サムエルを呼ぶ四度目の声がしました。サムエルも、これはただ事ではないと思いつつ、エリに言われたとおりに答えます。10節で、「主が来られ、そばに立って」とありますが、これは主ご自身ではなく、先ほど申しましたように主の御使いのことだと思われます。そして、サムエルは生まれて初めて神のことばを託されます。しかもそれは非情とも思えるほどの厳しい裁きの宣告でした。なんと、サムエルを養子として引き取ってくれた、優しい父親代わりのエリに対する裁きのことばでした。主はこう言われました。

わたしは彼の家を永遠にさばくと彼に告げた。それは自分の息子たちが、みずからのろいを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった罪のためだ。だから、わたしはエリの家について誓った。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に償うことはできない。

これは非常に厳しい神のことばでした。前回の説教で学んだように、エリはすでに「神の人」と呼ばれる預言者から、自らと子どもたちに下るであろう厳しい裁きについて知らされていました。しかし、神は憐み深い方ですから、裁きの宣告を聞いて悔い改める場合には裁きを撤回する可能性が残されていました。例えば預言者ヨナは、アッシリアの帝都ニネべに下る裁きを宣言しましたが、アッシリアの人々が悔い改めたのでその裁きは撤回されました。エリとその息子たちも、この「神の人」からの裁きの声を聞いてそこで深く悔い改めていたならば、あるいは最悪の事態は回避できたかもしれませんでした。しかし、その猶予期間は既に過ぎ去ってしまいました。神は今や、エリの家が如何なる犠牲をささげ、悔い改めて、償いをしたとしてもそれらを受け入れることはない、もはや決定が覆ることはない、ということを少年サムエルに伝えたのです。

しかし、初めて聞いた神の言葉が、よりにもよって自分を預かって育ててくれたエリとその家族への神からの最後通告であるということを知ったサムエルの気持ちはいかばかりだったでしょう。もう13歳ほどで、また大人に囲まれて育ったために早熟だったサムエルは、その言葉の意味を完璧に理解したことでしょう。サムエルはとんでもないことを聞いてしまったと思いながら眠りにつきました。興奮はしていたでしょうが、それ以上に緊張で疲れ果てて眠ってしまったものと思われます。しかし、翌朝目覚めた時も、神から預かったことばは鮮明に記憶していました。けれども、できれば誰にも言いたくない内容でした。

しかし、サムエルを待ち構えていた人がいました。主がサムエルを召したのだ、と確信していた祭司エリでした。なにしろサムエルを四度も主が呼ばれたのです。よほど重要な話をされたのだろうということは分かっていました。おそらくその内容は、自分にとって非常に厳しいものであろう、ということも。それでもエリは、どうしても主の御告げを知りたかったのです。未来が分からないという不安と、最悪の未来だろうけれどそれをあらかじめ知ることができるという二択がある場合、もちろん人間には未来のことは分からないので、こんな選択はあり得ないのですが、しかしもしそんな選択ができるとしたら、多くの人はためらいつつも、悪い未来でもいいからあらかじめ知りたいと思うのではないでしょうか。最悪だけれども何が起こるかは分かっている方が、先が分からない不安よりもましだということです。ですからエリは、サムエルにきつく言いました。

おまえにお告げになったことは、どんなことだったのか。私に隠さないでくれ。もし、おまえにお告げになったことばの一つでも私に隠すなら、神がおまえを幾重にも罰せられるように。

こう言って、サムエルに真実を語るように迫ります。サムエルももはや隠せないと思い、本当のことを話しました。まさに死刑宣告を聞かされたようなエリでしたが、しかし彼はそれを正面から受け止めて、こう言いました。「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように。」この一言が、エリという人物の人柄を表しているように思います。確かに彼には優柔不断なところがあり、厳しい決断を先延ばししてしまう弱さがありました。しかし、彼の息子たちとは違い、彼は心から神を畏れる人でした。彼は自分の至らなさを素直に認め、神の裁きを甘んじて受けるという決意を口にしたのでした。

このサムエルが神から呼ばれたという出来事は、人々の間に伝わるようになりました。神は今や、この少年サムエルを神のみことばを預かる人として召したということがイスラエル人の間の共通認識になっていったのです。それは旧い時代の終焉であるとともに、新しい時代の始まりでもありました。

3.結論

まとめになります。今日は少年サムエルが、初めて神からのみことばを預かるという場面を学びました。預言者というのは神のことばを預かるという、非常に恵まれた立場のように思えますが、しかし旧約聖書を見れば分かるように、預言者になるということは決して手放しで喜べるようなことではありません。なぜなら、預言者は迫害に遭うからです。なぜ預言者が迫害に遭うのかと言えば、それは人々が聞きたくない厳しい内容、耳障りの良くない話をするからです。みんなが喜ぶ話ではなく、「良薬は口に苦し」と言われるように、苦い話を伝えなければならないのです。今回、サムエルが預かった神のことばも、まさにそのようなものでした。しかし、今日の話に一つだけ救いがあるとすれば、その厳しいことばを少年サムエルから聞いた時のエリの態度でした。サムエルは、エリが赤ん坊のころから預かっていた子で、今でもやっと13歳ぐらいの子どもです。「この小童が」と軽んじても不思議ではないような子どもです。しかし、エリはその子どもの口から名門であるエリの一門の破滅の宣告を聞きながらも、それをへりくだって神のことばとして聞き、「主がみこころにかなうことをなさいますように」とだけ語ったのです。ここに救いがあったように思います。その後、エリの家は預言通りに没落します。しかし、全く信仰が絶えてしまったわけではありませんでした。むしろ、それから数百年後に、没落したエリの家の人々が住んでいたアナトテの地から、あの預言者エレミヤが生まれたからです。ここに神の憐みと、またエリの家の残された小さな信仰の結晶を見る思いが致します。ですから、私たちも主から喜ばしい知らせを聞いた時だけでなく、厳しいお咎めを受けた時にも、エリのように「主がみこころにかなうことをなさいますように」という信仰を持つ者でありたいと願うものです。それも手遅れにならないように、なるべく早く主の警告を受け止めるべきだということです。そのような謙虚な気持ちを持てるように、お祈りしましょう。

サムエルを召し、大きな働きを与えられた主よ。そのお名前を賛美いたします。「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」このように、私たちには常に神の御心が示されています。どうかその声を、素直に謙虚に受け止めることができますように、私たちを整えてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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