王権の継承
列王記上1:1-8
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

本日から列王記に入りたい、と思います。お読みいただいた個所は、ダビデの晩年のところで、最後のダビデ後継者争いが、始まるところです。この頃、ダビデは70歳くらいとみなされておりますが、体力は衰え、だれの目から見ても、最後の時が近づいている、と見える時でした。まず、先ほどお読みいただいた列王記の個所での出来事と、その結末について申し上げます。

一言、事前に申し上げておきたいことがあります。これから、私が申し上げることはダビデというユダヤ人に英雄視されている人物に関する手厳しい批判です。伝統的な神学から大きく外れる内容で、牧師であれば、お話することは憚られるだろう、と思いますが、私は「信徒伝道師」という立場でお話していますので、自分の考えを率直に言わせていただくことが許されている、と心得、申し上げる、ということです。ご容赦願います。

最初に「シュネム人の女アビシャグ」と言う女性が登場します。シュネムというのはヨルダン川北西部の肥沃な地イズレエルにある古いカナン人の町です。その町の出身者である、と言うことですから、おそらくカナン人の共通の神バアルとアシュタロテに対する信仰のもとで育った女性と考えられます。アビシャグの出身地のシュネムは後に預言者エリヤの弟子エリシャに食事を提供した裕福な女性が住んでいた地でもあります。この女性は不妊の女性ですがエリシャによって子をさずかります。この子は死にますが、エリシャはこの子を蘇らせます。旧約における「蘇り」の話として有名です。今日の個所では、アビシャグの話は、王としてのまともな決断も、指導力の発揮もできなくなっていたダビデの姿を象徴しています。

ダビデの後継者争いを見てみると、本当に罪の業(わざ)の大集合と言っても良く、現在における権力闘争と全く異ならない、と言っても良いと思います。なかには、現代のみにくい権力闘争以下といえるような事態も展開致します。しかし、しかしです。聖書はその罪の現実を隠しません。赤裸々に語っています。歴史書の著者集団である申命記史家の解釈に基いて、英雄列伝的に記述されている傾向は強いのですが、随所にこれら英雄と思しき人物が犯す大いなる罪が記述され、また、「勝利の方程式」を述べているような個所にそれと反対のことが記述されていたりして、美しい物語に終わらせるものにはなっていません。「罪の現実」が、ばればれ、です。むしろ、イスラエルの陥っている罪の状態があからさまになっているのです。後継者問題においてもそのとおり、醜い争いが展開されます。そのような状況を作った原因はダビデ自身にもあります。後継者を指名し、その者を謙虚な者として教育し、民が敬意をもってその後継者に従う、という状況を作り出すことを全くしていないのです。主なる神がすべてを為してくださる、という信仰はよいでしょう。しかし、王制が既にスタートしている状況下では後継者に帝王学を教示することは指導者として当然の義務です。ダビデの後継者争いの状況を見ると、ダビデが、一介のヤハウェの信徒が、たまたまの運があり、イスラエルの軍事指導者となったが、イスラエルの指導者としての自覚に欠け、イスラエル民族の分裂が必然となる状況をもたらした、と言わざるをえません。

では具体的に本日の聖書個所の後継者争いを見てみます。アビシャグの話に続き、ダビデの第四夫人ハギテの子アドニヤが王の座を奪おうとの野心を抱いた旨が書かれています。ダビデの四男になります。ちょっと振り返りますと、まず長男のアムノンは母親違いの妹タマルに恋慕したため、タマルの兄アブシャロムに殺されました。次男のキルアブは名前が挙げられていますが、何も記されていません。幼少の時に病死したのかもしれません。三男がタマルの兄アブシャロムです。彼は、アムノンの死後、王位をとろうとしてダビデと対立します。ダビデは一時的に、彼から逃げ、のちに反撃しました。ダビデ軍が勝利し、アブシャロムは戦死します。ダビデの命(めい)を無視し、アブシャロムを殺したのが、昔からのダビデ軍の将軍ヨアブです。そもそもダビデが一時的であれ逃げなければならなくなったのは、既に民心はダビデを離れていたからです。特に、北イスラエルの民はダビデの治世にうんざりしていたと予想されます。それはダビデのたびたびの戦争にいつも駆り出され、戦利品もろくにない戦争に辟易としていたからと考えられます。また、ダビデは出身部族ユダ族にはえこひいきをして、戦争においても優遇していたことが想像されます。とにもかくにも、ダビデは「ダビデの戦士」と言われた、側近の勇士たちの活躍によりエルサレムに帰還致します。

そして、四男がアドニヤです。1:6に「彼の父(ダビデ)は存命中、「あなたはどうしてこんなことをしたのか」と言って、彼(アドニヤ)のことで心を痛めたことがなかった。」と言われています。要するに、アドニヤはダビデに甘やかされていた、ということです。そしてイケメンです。彼に味方したのはダビデ近衛軍の将軍ヨアブと祭司エブヤタルと記されています。将軍ヨアブは古くからのダビデの部下ですが、だんだんダビデは指導者としては不適と思うようになってきており、自分の判断で行動を起こすようになっていました。ましてや、今やダビデは死に体の状態ですからなおさらです。祭司エブヤタルはアロンの子イタマルの系統の祭司です。その後も綿々とつながる祭司の系統はアロンの子エレアザルの血筋です。エブヤタルはサムエルの先生である祭司エリの子孫です。このエリの系統の祭司はピネハス、アトヒブ、アヒメレク、エブヤタルと続きますがこれで長たる祭司の立場は終わりとなり、祭司長は正統的血統に戻ります。エブヤタルはサムエルの影響下にあった最後の祭司長ということです。このヨアブ、エブヤタルに代表される人々はダビデのヘブロン時代からの忠実な部下たち、ということです。順序から言ってアドニヤが王の位を継ぐのがあたりまえ、と考えたのかもしれません。

これに対し、異をとなえた集団がありました。後に明らかになりますが、バテ・シェバの子ソロモンを後継者に推す人々です。1:8には「祭司ツァドクとエホヤダの子ベナヤと預言者ナタン、それにシムイとレイ、および、ダビデの勇士たち」が挙げられています。ツァドクは祭司職の正統派の人物です。サムエルによって祭司の正統派ではないところから祭司長が出ていましたが、ツァドクはその奪還を目指していたものと推察されます。結局、この派が勝利します。これから後、祭司長、後の大祭司はこのツァドクの流れになります。主イエスの時の大祭司カヤパやアンナスはこのツァドクの流れにある人物です。ベナヤはユダ族の祭司エホヤダの子でありダビデの戦士の一人で後にヨアブに代わり軍団の長となります。預言者ナタンはバテ・シェバ事件でダビデの罪を指摘した預言者であり、後に、今はなき「ダビデ王の業績」、「ソロモン王の業績」を記した、と言われている人物です。「シムイとレイ」はどのような人物かは解りません。ツァドク、ベナヤ、ナタンはダビデがエルサレムに居を定めたのちの側近です。エルサレムにおける青年官僚というところかもしれません。「ダビデの勇士たち」と称せられるのはダビデ近衛兵である「ダビデの戦士」の一部のことと思われますが、彼らが老獪な指導者ヨアブ、エブヤタルにつかず、若きリーダー、ツァドクやベナヤについたことは重要です。青年将校の反乱の様相を呈した、と考えられます。ヘブロン派とエルサレム派と言っておきます。ダビデは何かをする力を全く失っています。自分の子どもが不埒なことをし、死んでいったのを悲しんでいるのみのことではこのような事態に立ち至るのは当然です。聖書はバテ・シュバ事件におけるダビデの罪に対する神の罰の予言の成就と言っています。

ヘブロン派の支援をうけたアドニヤはエルサレム郊外で宴を催します。決起集会のようなものでしょう。エルサレム派を除く自分の兄弟すべて、王の家来すべてを招きました。もちろん、ソロモンは対象外です。これを見た、エルサレム派の預言者ナタンはバデ・シェバのところに行き、ダビデ王に、ソロモンを後継者にするとかつて誓約したことを実行してください、と言うように助言します。実は、ダビデがこのような約束をしたことは聖書にはありません。ダビデが老体であることを、いいことにナタンがでっち上げた話であることが濃厚です。ナタンに言わせれば「うそも方便」ということなのでしょうか。それにしてはあまりにも重大な「うそ」です。バテ・シェバは助言の通り、ダビデにせまります。更にナタンが入ってきてアドニヤの宴会で、参加者一同で「アドニヤ王万歳」と叫んだと言います。本当かどうかは分かりません。とうとう、ダビデはソロモンを王とすることを神に誓います。もう取り返しはつきません。イスラエルの伝統では神に誓うのは絶対的約束であり、覆すことはいかなる理由があっても許されません。これで後継者は決定です。

そもそも、バテ・シェバ事件に際し、ナタンが、ダビデが自分の罪の重大さを告白しているのに対し、「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。/しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」と言い、ダビデ自身に対する神の裁きは全くなし、となったこと自体に疑問なきにしもあらん、と言うところです。律法から言えば十戒の第七戒違反で死刑です。ましてやダビデはイスラエルの民を率いる指導者です。ナタンのこの言葉が真に主からの預言であったのかに疑問を投げかけるのはわたしだけではないと思います。この後継者争いの重大局面において、いくらソロモンの方が王として適任であったにせよ、嘘を使って、ダビデに神の前での誓いをさせることなど、預言者の名に恥じる行いです。後の時代であれば「偽預言者」の責めを逃れることはできなかった、と考えられます。ダビデ礼賛の申命記史家の独自解釈によりナタンの不誠実な預言がまかり通ることとなった、というのが事実でしょう。あわせて、ダビデ礼賛のようなことは一言もおっしゃられなかった主イエスのことが思い起こされます。また「ダビデの子」として主イエスを持ち上げる民衆の声に振り回されることも全くなく、自らのことは「人の子」という表現にとどめられた主イエスの態度が思い起こされます。

ソロモンを後継者にする誓約をしたのち、ダビデはエルサレム派を呼び、エルサレム市内の唯一の泉ギホンにソロモンを連れていき油注ぐことを命じます。そして「ソロモン王、ばんざい」を叫ぶように言います。エルサレム派の青年官僚たちは言われた通りに致します。そしてダビデはソロモンを王に任命した」とまで言います。「任命した」は「—なさせる」という意味の言葉であり、主なる神の名「在りて、在る者」の「在る」という時の言葉です。イスラエルの王は次期王を決める権限さえ与えられているという理解はイスラエル信仰の基本に反しています。神の言葉(メッセージ)のみが王を決めることができます。その言葉・メッセージを取り次ぐのは真の預言者のみです。祭司が預言者の役割を兼ねることは許されますが、王が預言者の役割も兼ねることはイスラエルの伝統に反していることは明白です。ダビデ王が祭司ツァドクと預言者ナタンに命じてソロモンに油注ぎ、そして、ダビデ王が後継の王ソロモンを任命する、というのですから、イスラエルの伝統はここでは無に帰しています。ダビデは神御自身になったかのごときです。主イエスは「私は神の子であるから私の言うことに従いなさい」などとは一度もおっしゃっていません。私から言わせれば、ダビデは主イエスの予型である、というような表現は主イエスに関し、大きな誤解を生みます。これは、申命記史家の呪縛から脱していないキリスト教指導者の「まるで誤解」と思います。

王となったソロモンはアドニヤをはじめとする人々どのように遇したでしょうか。これがダビデ―ソロモンの王座継承の終局です。恐怖におののくアドニヤに対し、一度は「家に帰りなさい」と言い、罪を問わない態度のように見えたソロモンでしたが、ダビデの死の直後にアドニヤがダビデの体を裸になって温めたアビシャグを自分のものにしたい旨をバテ・シェバ経由ソロモンに申し上げます。ソロモンは、それは王位を求めていることだ、と考え、後の軍団長ベナヤを送ってアドニヤを殺しました。アビシャグのことを、口実に死に追いやった、と言うのが正直なところでしょう。

次に軍団の長ヨアブです。彼は「主の天幕」に入って出てこない、という態度をとりました。ここで死ぬと言い出しました。ベナヤが外に出ろと言っても出てきません。イスラエルの将軍アブネルとユダの将軍アマサを殺したのが、ヨアブが殺されなければならない理由だ、というのです。これはこじつけ的な理由です。

アブネルは、サウル王の死後その子イシュボシェテを担ぎダビデ軍と対立しました。結局、彼はイシュボシェテとの確執在り、ダビデに寝返りますが、ダビデ軍の軍団長ヨアブは彼の態度は信用ならんとして殺した、と言う話です。アマサの方はダビデの姉の子であり、甥と言うことになります。アブシャロムが反乱を起こした時のアブシャロム軍の軍団長でした。ダビデはアビシャロムの死を悲しんで、アビシャロムを殺したヨアブを軍団長からはずし、反乱軍の軍団長アマサをユダヤ軍の軍団長にしました。その後のシェバの乱の時、同じダビデ軍に居たヨアブは軍団長アマサを殺し、軍団長に復帰します。

祭司長についてはエブヤタルに代えツァドクを据えたことが記されています。これで預言者エリの系統の祭司長は終わりになります。このエリの系統はアナトテの町に祭司の家系として残り、後にエレミヤと言う偉大な預言者を生むことになります。権力にこびることは一切、ない祭司の系譜として繋がっていったのでしょう。その点、ツァドク家は権力の一翼を担う血筋の祭司として続き、大祭司カヤパ、アナニヤにまで続きます。イスラエルの地がローマの支配下に入ってからは、大祭司職が事実上のユダヤ人社会の最高指導者になっていたのが実態です。

最後はシムイです。サウル王の出身部族ベニヤミンの士師としてゲラの子エフデが登場します。左利きの士師で有名です。このゲラの子孫にシムイという人物が、ソロモン王が目の敵(かたき)にする人物です。サウル王朝と関係があった可能性があります。シムイもソロモンの陰謀的やりかたで殺されます。

列王記上の記述に従い、ダビデからソロモンへの王権承継のプロセスを見てみました。イスラエルにおける当初のヤハウェ信仰から見ると、多数の罪が犯されました。王位継承という国の一大出来事がかくも罪深き事柄に彩られていた、というのも予想外だったのではないでしょうか。「世の中そんなものよ。特に政治の世界は食うか食われるかの権力闘争なのだから」とわかったようなことを言う人もいるでしょう。しかし、「旧、新約聖書66巻は、すべて神の霊感によって記された誤りのない神のことばであって、神の救いのご計画の全体を啓示し、救い主イエス・キリストを顕し、救いの道を教える信仰と生活の唯一絶対の規範である。」と告白する我々キリスト者にとってはそのような達観視は許されません。特に、ユダヤ教の歴史において崇拝の対象のように扱われることになるダビデがかくも大きな罪を犯していた人物であることを、どう受け止めるのか、という点は重大です。これら出来事のなかで神の摂理はどのように貫いている、と理解するのかです。旧約は主イエスの来臨を預言するものとしてのみ意味があり、新約の理解に役立つ範囲において意味を持つ、という考え方もあり得ますが、これは先の信仰告白に反していることは明白です。旧約が新約を通さずに我々に「信仰生活の規範」として直接、語り掛けている部分もあるのです。旧約歴史書はヤハウェ信仰の中核としてのイスラエルを世界に示していく出発点でもありますが、大いなる罪の赤裸々な記述でもあります。我々は、ダビデ王朝を理想とする著者たちの色眼鏡的解釈にとらわれず、歴史的事実を推測しつつ、イスラエルに働く、神の真実を見なければなりません。

ダビデ王朝の成立,継承、滅亡の歴史をみていると現在のイスラエル/パレスチナ問題を考えざるを得ません。ユダヤ教は観念的なところが強くあり、過激な思想が政治を握ることは十分あります。日本人のように宗教的にいいかげんじゃあないんです。あの地には、少数ではありますが、ひたすら和解を祈っているカソリック、ギリシャ正教、プロテスタントのキリスト者が居ます。私たちは、主イエスのおっしゃられた「神の国」の証人として何を為すべきか、が問われています。私たちは少なくとも、祈ることはできます。主イエスが和解の働きをしてくださることを切に祈りましょう。

天にまします父なる神様、今日の時を感謝いたします。ダビデ王朝の後継者争い、を見ました。血を血で争う権力闘争です。驚くなかれ、現代においても同じことが行われている現実が、私たちの目の前にあります。イスラエルとパレスチナの争いに思いが行かざるを得ません。少ないキリスト者があの地で和解の祈りをささげています。人間の力ではどうにもならない事態に陥っております。どうか、どうか、この地のキリスト者と伴なる祈りを捧げることができるよう、導いてください。主イエスの御名により祈ります。アーメン

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