1.導入
みなさま、おはようございます。ここ数回の説教は、エレミヤ書の歴史的背景についてかなり詳しくお話しました。エレミヤが活躍した時代の状況や背景が皆さんもだんだんと掴めてきたことと思います。今日は歴史というよりも、聖書全体を通じての重要な神学的テーマである「預言」について、またその対極にある「偽りの預言」、「偽預言者」について、エレミヤ書から学んでまいりたいと思います。まず、預かる言葉と書く「預言」という文字そのものについて確認したいのですが、これは予め語ると書く「予言」、未来予告のことではないということです。「今から3年後に大戦争が起きる」ですとか、「今から1年以内に大地震が起きる」と語って、それが起きなかったらその人の予言は信用されなくなるでしょうが、だからといってその人が聖書のいう「偽預言者」かというと、直ちにそうはならないのです。つまり、聖書の言う偽預言者とは、未来の出来事を予告してそれが外れた人のことではないのです。
むしろ、「神はこう言われる」、「神は私に、あなたがたにこのことを告げるようにと命じられた」と神の名によって語りながら、実は自分の思いを語っている人、そのような人を偽預言者というのです。実際、語った内容が起きるか起きないかでその人が本物の預言者かどうかを判断するということになれば、おかしなことになります。例えば預言者のヨナ、彼は正真正銘の預言者、神から語るべきことを託された人物ですが、彼は「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」との預言の言葉を語りましたが、四十日経っても、そのようなことは起きませんでした。では、彼が偽預言者かというと、その反対です。神の御心は、この警告によってニネベの人々が悔い改め、生き方を変えることでした。そしてニネベの人たちは、ヨナの言葉を神の言葉として受け入れ、悔い改めました。ヨナは立派に役目を果たしたのです。この一例からも、預言とは未来を正確に予測することではなく、むしろ人々に警告して悔い改めを促すことで、悲惨な未来を回避させるためのことであるのがわかるでしょう。
ここからもう一つ大事なことがわかります。神はあらかじめ未来の出来事をすべて決めているわけではないということです。もちろん、世界や人々を良い方向に導こうとか、そういう大きな方針は定めておられますが、しかし人間を機械仕掛けの操り人形のように用いて、寸分の狂いもなくあらかじめ決められていた通りに歴史を動かしていく、というようなことを神はなさらないのです。神は思い直される神です。たとえ破滅を宣告したとしても、人間が心から立ち返れば、それを撤回する自由をも神は持っておられます。ですから、未来とはもう変えようのない行程表のようなものではなく、神や私たちの行動如何によって変わりうるものなのです。
このように考えると、「西暦何年何月に、これこれの出来事が起きる」というような予告は、神の預言ではないということになります。神の預言とは、あらかじめ決められた未来を語るのではなく、むしろ未来を変えること、人々の行動が変わることで悪い未来を良い未来に変えることを目的としているからです。
今日でも偽りの預言、偽預言者の問題はあります。あと何年すると世界が滅びる、というような預言は人々に強いインパクトを与えます。そして人々の関心が宗教に向かうのは、人々が現状に満足しきっている時よりも、未来に漠然とした不安を持っている時のほうが多いのです。オウム真理教には多くの高学歴のエリートたちが入信していて世間を驚かせましたが、彼らのコメントを読むと、「未来に危機感を抱いていた」ということを語っていました。また、アメリカでも20世紀の終わりにフレンチ・ダビディアン事件という多くの死者を出した事件がありましたが、これも終末が近いという預言を信じた人々が起こしたものでした。また、19世紀以降に急速に信者を獲得したグループでは、聖書研究の結果、1874年にキリストの再臨があるとか、あるいは1914年にあるとかの預言を繰り返し、外れるごとに新たな預言をする、というようなことがありました。こういう預言には気を付けなければなりません。イエス様は、自分も終わりがいつなのかは知らない、とおっしゃいました。イエス様ですらわからないことを、私たちがわかるはずがないのです。ですから、未来を知りたい、将来が不安だからこれから何が起こるのかを知りたい、というような動機から、いわゆる聖書の預言に興味を持つのは大変危険なことだと申し上げておきます。預言とは、神が人々を救うために、悔い改めて神に立ち返らせるために語るためのものであって、未来に起きる破局がいつのことなのかを私たちにこっそり教えるためのものではないのです。
このように、破滅の預言というのは人々の注目を集めやすいのですが、他方で人々に偽りの安心を与える預言というものもあります。本当は危機が目の前にあるのに、危険がない、破滅は起きない、大丈夫だ、というようなことを語ることです。こうした類の預言も、人々から支持を集めやすいのです。人間にはありのままの現実を見ようとしない、自分の見たいように現実を見ようとする、そういう傾向があり、それを自己欺瞞といいます。自分で自分をだますのです。偽りの預言は、こうした自己欺瞞にお墨付きを与えるので、人々から喜ばれるのです。エレミヤが悩まされたのは、このような類の偽預言者たちでした。
2.本文
では、エレミヤ書23章を読んでみましょう。16節以下にこうあります。
万軍の主はこう仰せられる。「あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたをむなしいものにしようとしている。主の口からではなく、自分の心の幻を語っている。彼らは、わたしを侮る者に向かって、『主はあなたに平安があると告げられた』としきりに言っており、また、かたくなな心のままに歩むすべての者に向かって、『あなたがたにはわざわいが来ない』と言っている。」
偽預言者とは、自分の思い、自分自身の考えを神のことばとして語る人なのです。また、人々の願望が何であるのかを敏感に感じ取り、彼らが喜ぶことを言って、逆に人々が嫌がること、耳の痛いことを言わないのです。「何も問題はない」ですとか、「あなたたちには災いは来ない。大丈夫です、神様はあなたに恵みを与えてくださいます」などと、耳障りの良いことだけを言うのです。もちろん、それが本当ならそれでいいのですが、もし私たちに問題があるのに、何も問題がないというのならば、どうなるでしょうか。問題はないのだと信じれば、問題はなくなってしまうのでしょうか?この問題を考える時、私はいつも20世紀後半のバブル崩壊のことを思い起こします。
日本の文化財の修繕を請け負う会社の代表取締役であり、日本に外国人観光客を増やすための政府のアドバイザーになっているデービッド・アトキンソンというイギリス人がいますが、彼はバブル経済とその崩壊の時期にはゴールドマン・サックスという投資銀行で経済アナリストをしていました。アトキンソンはこのゴールドマン・サックスでバブル崩壊後ほどなくして、日本の銀行業界についてのレポートを書き、「日本の銀行の不良債権は100兆円に達する」ですとか、「日本の銀行業界の淘汰は進み、3行に統合される」というようなレポートを書きました。それを読んだ日本の大蔵省や日本の大手銀行の幹部は激怒し、「何を根拠にこんなレポートを書くのか」とクレームをつけてきて、しまいには日本の右翼の宣伝カーが彼の勤務するビルに乗り付けてきたそうです。彼は身の危険を感じて隠れなければならなかったそうです。彼の不吉な予言が人々を激怒させたわけですが、「いや、そんなに問題は深刻ではない。大丈夫だ、日本の銀行システムは健全で、すぐに問題は回復するだろう」と言っていたアナリストも大勢いたのです。つまり、日本の銀行システムについて、まったく逆の現状分析と未来予想をしたアナリストたちがいたのです。アトキンソンはまさに「荒れ野で呼ばわる者」という感じの、みんなから嫌われる、孤独な予言者だったわけですが、しかし彼が正しかったことはその後の歴史が証明しています。私も1993年のバブル崩壊後に日本の銀行に入りましたが、それから7年ほどは不良債権問題の後始末ばかりしていた記憶があります。銀行も彼の予告通り、13行あった都市銀行の多くは三つのメガバンクに集約されてしまいました。
このように正確な未来を予想できたアトキンソンには、別に超能力があったわけではありません。ただ正確に、先入観なく日本の銀行の状態をしっかりと直視したからこそ、その将来を予見できたのです。しかし、厳しい現実を直視せずに、それを放置してしまったらますます傷は深くなり、もっと恐ろしい危機を招くことになります。
それは聖書の預言者たちにも当てはまります。神は預言者たちに、未来の出来事がいつ起きるのかを正確に知る超能力を与えた訳ではありません。しかし、彼らの預言は、それが語られた当時は圧倒的な少数意見で、それを聞く人たちを怒らせたり、あるいは人々から嘲られたりしたのですが、それでも多くの場合、彼らの語ったことは実現してしまいました。後の人々が彼らの言葉を神からの言葉として認めたのは、それが実際に実現していったのを目撃したからでした。なぜ彼らは多くの人には見えない未来を見通すことができたのでしょうか?それは、預言者たちが現状をありのままに見て、適切な現状分析をすることができたからです。しかもそれは経済分析ではなく、人々の、イスラエル民族の霊的な状態をしっかりとありのままに分析したのです。神は預言者に、神の民の霊的状態がどのようなものであるのかを見通す眼力を与えたのです。その診断に基づき、もしこのまま何もせずに現状を放置していたら何が起きるのかを人々に語ったのです。
偽預言者たちは現状をありのままには見ません。現状よりも、人々が喜ぶことは何か、それを目ざとく見つけます。そして人々を安心させようと、「心配ないですよ」と語って回るのです。しかし、彼らは「あなたは心配ないどころか、大変危険な状態にあるのだ」という神の言葉を伝えなければならないのです。ガンの患者に向かって、医者は「あなたは大丈夫だ、何も問題はない、安心しなさい」と言えば、その時はその人に喜ばれるかもしれませんが、後で必ず恨まれるでしょう。ガンも今や治る病気ですから、それを放置したせいで治るものも治らなかったといって、遺族から訴えられることすらあるでしょう。偽預言者は偽りの預言を語ったことで、彼らを信じたばかりに命を失った人々の命の責任をも問われることになるでしょう。
医者は、患者自身でも気が付いていないような病気を検査や診断で見抜くことができます。神も、私たち以上に私たちを知っておられ、私たちの行いや霊的な状態をよくご存じです。主イエスはヨハネ黙示録2章23節で、「こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる」と言われました。私たちのどんなことも、主の前に隠しおおせるものはありません。その私たちの真の状態を知らせる任務を持っているのが預言者です。私たちに本当に罪がなく、愛と信仰に溢れていれば預言者からの言葉は褒め言葉ばかりになるかもしれません。しかしもしそうでないならば、預言者の言葉が厳しくなるのは当然なのです。それは私たちの霊的状況を正確に反映しているからです。私たち神を信じる者でも、神に逆らった歩みを続け、その心が曲がっていたり冷えていたりしたら、そしてそのような現状を放置するなら、大変深刻な結果を招くでしょう。そのような結末を回避するためには、気休めではなく現状を正しく告げる真摯な言葉に耳を傾ける必要があるのです。
さて、エレミヤ書のテクストに戻りましょう。21節以降をお読みします。
わたしはこのような預言者たちを遣わさなかったのに、彼らは走り続け、わたしは彼らに語らなかったのに、彼らは預言している。もし彼らがわたしの会議に連なったのなら、彼らはわたしの民にわたしのことばを聞かせ、民をその悪の道から、その悪い行いから立ち返らせたであろうに。
偽預言者たちも一生懸命なのです。彼らは走り回り、「神がこう言われた」と語ります。しかし神は彼らに語りかけてはいないのです。では彼らがまるっきり嘘を言っているのかといえば、そうとも言えないのです。おそらく彼らは、本当に神から語りかけられたと信じていたのでしょう。今日の招詞で、第一ヨハネ4章から読んでいただきましたが、それをもう一度読んでみましょう。
愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうか、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。
このように、私たちに語りかける声、霊の世界からの声は、神からのものとは限らないのです。霊の世界にも、この世と同じように良い霊と悪い霊、神からの霊とそうではない霊が存在しています。偽預言者たちも、何らかの霊的な体験をしたのかも知れませんが、彼らに語りかけたのは悪い霊、だます霊だったのです。では、良い霊と悪い霊をどう区別すればよいのでしょうか。良い霊、神の霊にははっきりとした目的があります。「民をその悪の道から、その悪い行いから立ち返らせる」、これが神の霊の目的です。反対に、民が悪の道を歩むのを放置したり、それを容認したりするのは悪い霊の働きだということです。ヨハネも、「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか」と語っています。神の霊は、私たちを正しい行いに向かわせるのです。ですから、私たちの行いが悪い時には、神からの言葉も厳しくなるはずです。私たちの行いが悪いのに、それを容認するような預言は、神からのものではないのです。これは預言に限らず、みことばの解き明かし、つまり説教についてもそのまま当てはまることだと私は考えています。
25節以下でも、偽預言者に対する神の厳しい言葉が続きます。預言者たちは「私は夢を見た。夢を見た」と言います。夢を通じて神の御心を知る、というのは聖書的な方法で、例えば創世記ではヨセフが夢を見て、またそれを解き明かすことで未来を告げることが出来ました。しかし、夢であるなら皆神からの啓示である、ということはもちろんありません。近年の深層心理学が明らかにしているように、夢とは私たちの潜在意識における願望や不安を映し出しているだけかもしれないのです。夢とはなにかはかない、つかみどころがないものです。それが無意味だとは言いませんが、そこに神の御心を求めようとするのは大変危ういことです。それに対し、神の言葉には明確な方向性と目的があります。それは一貫して私たちを悔い改めさせ、正しい行いをするようにと促すのです。主はエレミヤにこういわれました。
夢を見る預言者は夢を述べるがよい。しかし、わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。
ここでいう、夢を語る者とは自分の思いや願望を語る人のことです。そういう人は好きなだけ自分の思いを語ればよいのです。しかし、預言者に求められるのは「忠実」であることです。人から預かったものを預けられた人は好き勝手にはできないように、神から預けられた言葉も好きなようにいじくりまわしてはいけません。ここはいいけれど、あそこは嫌だ、聞きたくないからもっと耳にやさしい言葉にしよう、というのではいけないのです。預かったものである以上、そのままの形で届けなければなりません。確かに神の言葉はそのまま聞くには厳しいものです。「わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか」と主は言われました。主の言葉は私たちの心にストレートに突き刺さるものです。それは燃える火のように激しく、岩をも砕く槌のように強力です。私たちの頑なな心を打ち壊し、罪をはっきりと示し、悔い改めに導く、そういう強さが神の言葉にはあります。夢のような曖昧なもの、どうとでも解釈できるものとは違うのです。
神は自分の考えや思いをまるで神の言葉にように語る預言者たちを盗人だと非難し、彼らに立ち向かう、と言われます。偽預言者は神を敵に回すことになるのです。32節にはこうあります。
見よ。わたしは偽りの夢を預言する者たちの敵となる。—主の御告げ— 彼らは、偽りと自慢話をわたしの民に述べて惑わしている。わたしは彼らを遣わさず、彼らに命じもしなかった。彼らはこの民にとって、何の役にも立ちはしない。—主の御告げ—
とあります。ここには重要な一言があります。「彼らはこの民にとって、何の役にも立ちはしない。」偽預言者がなぜ駄目なのか、人々に心地よいことばかりを語る自称神の遣いはなぜ問題なのかといえば、彼らは人々に何の益ももたらさないからです。確かに彼らの甘い言葉は、当座は人を喜ばす、心地よいものです。しかし、その甘い言葉のために人々は現実を直視すること、自らの問題、罪の問題と直面しなくなります。当面はこれで良くても、彼らは悔い改めのチャンスを逃してしまうので、いずれ大きなツケを払うことになります。ですから偽預言者は、神が人々を悔い改めに導き、救おうとしておられることを妨害する者だということになるのです。偽預言者に対する神からの厳しい叱責が36節にあります。
しかし「主の宣告」ということを二度と述べてはならない。主のことばが人の重荷となり、あなたがたが、生ける神、私たちの神のことばを曲げるからだ。
「主の宣告」というのは、「私は神に代わって話しているのだ」というのと同じです。しかし、皆さんもほかのだれかが自分の言葉でもないものを、「これはだれだれさんの言葉だ」などと言って吹聴されたら怒りますよね。ですから、神の言葉を語る者は、預言者であれ説教者であれ、自分の思いを語るのではなく、神の語られた言葉を忠実に語らなければならないのです。
3.結論
今日は、エレミヤ書の中で、そして聖書全体においても重要な位置を占める、偽預言者の問題と、彼らへの糾弾、告発を学んでまいりました。良薬は口に苦し、と言いますが、神の言葉も苦いのです。ヨハネ黙示録の著者も、預言の巻物を咀嚼すると、「私の腹は苦くなった」と記しています。私たちは神の言葉の中でも優しい響きのもの、慰めてくれたり励ましてくれたりするものを好みます。しかし、私たちの霊的状態がそれを許さない、ということもあるのです。ヨハネの黙示録の冒頭には、七つの教会に宛てられた主イエスからの預言の言葉があります。そのうち、主に忠実な教会への手紙は、慰めと励ましに満ちています。しかし、厳しい言葉ばかり与えられている教会もあります。では、そのような主から厳しいことばかり言われた教会は、恵みを受けなかったのかといえば、そうではないのです。それは、彼らに自分たちの真の姿がどのようであるかを見せてくれるものだからです。現実を直視しなければ、反省や悔い改めも生じようがないのです。ですから、私たちの痛いところを突いてくるみことば、私たちの耳に痛いみことばとは、私たちの霊的な健康のためにはなくてはならない良薬なのだと知りましょう。私たちがみことばをまっすぐに受け止めることができるように、祈りましょう。
天の父なる神様。説教は神のことばだと言われます。しかし、神の御心から離れて自分の思いを語ったり、神のみことばを捻じ曲げる時に説教者は偽預言者となります。どうかこの教会の講壇に立つもの、また日本の諸教会の講壇に立つものを強め、神のみことばを忠実に語る者とならしめてください。また、聞く者一人一人が、たとえ厳しい言葉であっても、主からのことばとして受け止めることが出来ますように。私たちの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン