エレミヤの召命
エレミヤ書1章1~10節

1.序論

みなさま、おはようございます。今日から、エレミヤ書から12回ほど説教をして参りたいと思っています。今日の説教題は「エレミヤの召命」ですが、私が中原キリスト教会でこの1月に初めて説教をした時の説教題は「それぞれの召命」でした。私はこの「召命」ということをとても大切に考えています。前にも話しましたが、「召命」とは聖書に出てくる預言者たち、あるいは今日の教会で宣教活動を担う牧師たち、こうしたいわば特殊な人たちだけのものではありません。すべてのクリスチャンは「召命」を持っている、召されているということを改めて強調したいと思います。「召命」という言葉のギリシャ語の原語は「呼ぶ」ということです。神から召された者とは、神から呼ばれた者です。そして全てのクリスチャンは神から呼ばれたのです。神はなぜ私たちを呼んだのか、といえば、それは私たちに何らかの使命、役割を与えるためです。このことはとても大事なことです。

私たちプロテスタント教会の文化では、いわゆる「証し」をする時に、自分の救いの体験を「召命」として語ることが少ないように思います。私たちは自分がどれほど罪深いのかが分かって、自分で自分を救うことが出来ないという現実に気が付き、そこで十字架に自分の救い、罪の赦しを見出す、このような救いの証しをすることが求められ、こういう救いの証しが出来るようになって初めて一人前のクリスチャンとして認められる、という傾向があるように思います。もちろんそれは間違ってはいません。しかし、「証し」を「召命体験」として、つまり自分は神から何らかの使命を与えられていることに気が付いたという体験として語ることは少ないように思うのです。この点は率直に認めてもよいでしょうし、ここにプロテスタント教会の克服すべき課題がある気がいたします。私たちが信仰者となるということは、神との間に人格的な関係を築くということです。神という方が得体のしれない恐るべき方ということではなくなり、「お父さん」と親しみを込めて呼べる存在になるということです。神と私たちとがこのような関係を築く際に、私たちの罪の問題を取り扱っていただくのはもちろん大切なことです。それと同時に、神が私たちを呼ぶとき、何らかの期待を込めて呼んでおられる、私たちが何らかの使命を、あるいは役割を果たすことを期待して呼んでおられる、ということを忘れてはならないのです。神はこの世界で非常にたくさんのことを成し遂げたいと望んでおられます。私たちはその手足となるべく呼ばれ、召されているのです。ですから「救われる」、「クリスチャンになる」ということは、それまで自分は何のために生きているのかよく分からずに、なんとなく生きてきた、なんとなく世間に恥ずかしくない、人並みの生活をしたい、あわよくば人並み以上の生活がしたい、そんな動機だけで生きてきたけれど、神に呼ばれたことで初めて自分の人生には意味があることが分かった、自分にはある使命が与えられていることが分かった、このような「証し」をすることも出来るし、またそのような証しは周囲の人々を大いに勇気づけるのではないかと思うのです。

今日はこれから「エレミヤの召命」を学びます。このエレミヤの召命を、自分とは何の関係もない、旧約時代の偉人・聖者の話だ、とは思わないで頂きたいのです。むしろ、彼の召命は私たちにとっても他人ごとではない、大いに関係のあるものなのだ、という気持ちを持っていただきたいのです。

2.本文

では、今日与えられたみことばを読んで参りましょう。1章の1節から3節までは、エレミヤの活躍した時代のことがかなり詳しく書いてあります。この情報は重要ですが、まずは4節以降からを見て参りましょう。ここでは二つのことが特に大切です。一つは、エレミヤが召された時、それは突然の召しであり、彼にはその準備ができていなかったこと、それに対して神の側からは周到な準備のもと、まさに相応しい時にエレミヤを呼んだということです。このことは、私たちの召命を考える際にも大事なことです。

エレミヤは神から呼ばれた時に、こう答えました。

ああ、神、主よ。
ご覧のとおり、私はまだ若くて、
どう語っていいかわかりません。

エレミヤは神から召された時に、それを拒もうとしました。自分はまだ若すぎます、私には十分な準備ができていないのです、と理由を述べてその召しを辞退しようとしたのです。では、エレミヤが実際にその時に何歳だったのか、というのははっきりとは分かりません。おそらく二十歳前後だったと思われます。今の日本で言えば、大学生ぐらいの年齢です。エレミヤは祭司の家系にいた人ですが、イスラエルでは、一人前の祭司として働くことができたのは三十歳からでした(民数記4:3)。イエス様も公生涯を三十歳ぐらいから始められました。ですから、まだ二十歳になるかならないか、という年齢では、神様の御用のために働くにはまだ若い、と考えられていました。そこでエレミヤも、「私にはまだ準備ができていないのです」と神の召しを拒もうとしたのです。これは私たちみんなが思う事ではないでしょうか。神様から何か新しいヴィジョン、新しい幻が与えられても、「いや、私にはそんな大きなことをする力はありません。準備も出来ていません。もっと相応しい方がいるはずです」とひるんでしまうのです。しかし、忘れてはならないのは、ことを成し遂げてくださるのは私ではなく、主だ、ということです。主が新しいことをなさろうとし、私たちはそこに巻き込まれていくのです。私たちに準備はできていなくても、神が私たちを整えて、その働きをなす力を与えてくださるのです。ですから私たちは自分の召しを考える時に、自分の能力や力量ばかりに目を向けてはいけません。むしろそんな小さな私であることを十分ご存知の神が私を呼んだからには、きっとできるのだ、成し遂げる力を与えてくださるのだ、と神に信頼すべきなのです。

エレミヤに対しても、主は非常に力強い言葉を与えられました。「まだ若い、と言うな」と主は言われます。なぜなら「わたしはあなたとともにいる」からだ、と主は言われました。たしかにエレミヤ一人では無理でも、神が共におられるならできるのです。エレミヤはこれから自分より人生経験もあり、地位も高い人たちに向かって、神の預言者として非常に厳しいメッセージを伝えなければなりません。「この若造が、何を生意気な」という反応が当然返ってきます。しかし、ひるんではならないのです、なぜならそれはエレミヤ個人の意見や思いではなく、主のことばだからです。主のことばには権威があります。力があります。エレミヤはそれをまっすぐに伝えるだけなのです。

さて、このように、エレミヤの意識の中では自分が召された時にはまだ準備ができていませんでした。しかし、神の側からは準備ができていないどころか、まさにそのタイミングしかない、という「時」を選んでエレミヤを呼んだのです。預言者エレミヤの特徴として、そのキャリアが非常に長いことが挙げられます。彼は40年もの間、預言者として活動しました。神はこのように息の長い預言者としてエレミヤを召し、育て上げる決心をしておられました。ですから、まだエレミヤはまだ若く、訓練を積んでいない段階で召されたのですが、神の側ではそれはまったく問題がないだけでなく、むしろ必要なことでした。「鉄は熱いうちに打て」という言葉があるように、まだナイーブさを残すエレミヤを試練を通じて鍛え上げ、熟練した神のスポークスマンにまで成長させるには、彼がいろいろなことを柔軟に吸収できる若い段階で呼ぶ必要があったのです。神には、エレミヤをどのような預言者に育て上げるのかについて、はっきりとしたヴィジョンがあったのです。つまり神は、たとえるならば指導方針・育成方針の明確な、非常に優れたコーチであるということです。

まだ、エレミヤ個人の事情を超えた、時代背景も重要です。先ほども述べましたが、エレミヤ書の冒頭には彼が活躍したのはどんな時代なのか、その情報がかなり詳しく書かれています。特に、エレミヤの預言者としてのキャリアがいつ終わるのかを明確に述べていることに注目しましょう。彼は、イスラエルの歴史の中でも極めて重要な瞬間にその預言者としての役割を終えるように定められた預言者だったのです。その時はいつか、といえば「エルサレムの民の捕囚の時」までです。いわゆる世にいう「バビロン捕囚」の時まで、エレミヤは預言者として働き続けたのです。バビロン捕囚とは、つまり国家の滅亡、ということです。約束の地に住んでいたイスラエルの民は、その地に住み続けることが許されなくなり、さらに重要なのは、神の家であり、唯一の礼拝の場であるエルサレム神殿を失ってしまったことです。このことは神とイスラエル民族との関係が壊れてしまったことを示します。神を礼拝したくでも、礼拝する場所がなくなってしまうからです。このイスラエル民族の悲劇的瞬間に立ち会うように召されたのがエレミヤだったのです。エレミヤは40年間の預言者としての歩みの中で、5人のイスラエルの王に仕えます。しかもそのうちの二人の王は、僅か数か月王位にあっただけでその地位を追われるという非常に短命な王でした。このことから見ても、エレミヤの活躍した時代、彼が生きた南ユダ王国の政治情勢は極めて不安定だったことが分かります。このような不安な時代、人々は確かな指導者、リーダーを求めます。どこに進むべきかを示してくれる指導者を切実に必要とするのです。本来なら王様がその役目を果たすべきですが、王は次々と入れ替わり、その役目を果たすことができません。その時に、霊的指導者のみならず、政治的な方向性をも人々に示す役割を与えられたのがエレミヤだったのです。エレミヤは国家の滅亡の預言をすることで、人々に来るべき悲劇への備えをさせ、同時にその悲劇の先にある希望を指し示すことで、人々の神への信仰が消えることなく、かえってこの悲劇を通じてそれが強められるように人々を鼓舞する役目を負っていました。

このように、イスラエルの歴史において非常に重要な局面で預言者として召されたエレミヤでしたが、神はその無限の知恵と配慮によって、エレミヤが生まれる前から彼を預言者として立てることを決めておられました。主はこう言われました。

わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、
あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、
あなたを国々の預言者と定めていた。

こう言われて、エレミヤはさぞびっくりしたことでしょう。神は私のことを、生まれる前から知っておられるとは!しかも、母のお腹から出る前に、すでに聖別していたというのです。イースター礼拝でもお話ししましたが、聖書では「聖別」ということは「派遣」と深くかかわっています。エレミヤは生まれる前から神によって選ばれ、イスラエルに派遣されることが決まっていたというのです。生まれる前からということは、エレミヤの意志とは全く関係なく、神によって彼の生涯の目的が定められていた、ということです。人によっては、生まれる前から親が将来の職業を決めていた、というようなことがあるかもしれません。しかし、いくら親が決めても本人が嫌な場合は、その通りにはならないことの方が現代では多いでしょう。しかし、では神様が決めていたらどうなのか?親には逆らえても神様には逆らえないでしょう。ここで注目すべきは、エレミヤは「イスラエルの預言者」ではなく、「国々の預言者」と言われていることです。確かにエレミヤは主にイスラエルの人々に対して預言しましたが、エレミヤの語る預言はイスラエルの南ユダ王国のみならず、周辺諸国のことも含んでいました。このことは、神はイスラエルの神であるだけでなく、すべての国々の神でもある、唯一の神だということを示しているのです。

エレミヤが神から召命を受けた時、彼がどのようなヴィジョンを受けたのかはわかりません。しかし、エレミヤは主が自分の口に触れた、と言っているので、栄光の主が自分の前に現れて自分に触れるという体験をしたのかもしれません。預言者イザヤのように、人が畏怖するような圧倒的な神のご臨在を感じ、その神から言葉を与えられたのでした。こういう聖なる体験というのは、やはりごく限られた、神から重大な任務を与えられる人だけの体験かもしれません。私たちも、むやみに神秘的な体験を追い求めるべきではないと思います。それは私たちが願い求めたから得られるようなものではなく、神御自身の主権によって与えられるものだからです。しかし、それでも聖なる神との出会いを求めて、私たちはたまには忙しい日常を離れて、神との個人的な交わりを持つ静かな時を持つようにしたいと願わされます。

さて、エレミヤの口に触れた神はこう言われました。

今、わたしのことばをあなたに授けた。

預言者とは自分の言葉ではなく、神の言葉を語るのです。神ご自身が預言者の口に言葉を授けるからです。神の言葉を預かっているのです。ですからそこに何かをつけ加えても、省いてもいけません。ありのままに語るのです。では、誰に対して語るのか?神はこう仰せられました。

見よ。わたしは、きょう、
あなたを諸国の民と王国の上に任命し、
あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、
あるいは滅ぼし、あるいはこわし、
あるいは建て、また植えさせる。

主の言葉には力があります。神は預言者イザヤを通じてこうも言われました。

わたしの口から出るわたしのことばも、
むなしく、わたしのところに帰っては来ない。
必ず、わたしの望む事を成し遂げ、
わたしの言い送った事を成功させる。
(イザヤ55:11)

神の言葉はこのようにただ語られるだけでなく、語られたことを実現する力を持っています。ですからその言葉を預かる預言者エレミヤの権威は諸国の王よりも高いのです。諸国の栄枯盛衰は、神の言葉によって定められるのです。歴史の真の支配者である神は、イスラエルだけでなく、諸民族、諸王国の命運をも司っておられます。その神が、自らの権威をエレミヤに委ねたのです。エレミヤは神からの言葉をまっすぐに諸民族に語らなければならないのです。

3.結論

エレミヤが預言者として活動を始めた時の国際情勢は混とんとしていました。それはどこか今日の国際情勢と似ています。今日の世界で皆が感じているのはアメリカの覇権の揺らぎでしょう。20世紀後半にはソビエト連邦との冷戦に勝ち、アメリカは世界で唯一の超大国になりました。また、アメリカ型の資本主義が世界を席巻しました。しかし、そのアメリカも同時多発テロ以降のかなり身勝手な行動や、今日ではトランプ政権に代表されるような自国第一主義に眉をひそめる人も少なくないでしょう。しかも、今や中国が台頭し、アメリカの覇権を様々な面で脅かしています。ヨーロッパでもイギリスのEU離脱や、コロナ問題による国境警備の強化など、ヨーロッパがどうなっていくのか、分からなくなってきました。今は先の読めない時代です。そして、エレミヤが活動を始めたのも、まさにそのような時期でした。エレミヤが預言を始める前の100年間はアッシリア帝国の黄金時代でした。ちょうど100年ほど間にユダ王国の兄弟国である北イスラエル王国を滅ぼし、南ユダ王国に対しても壊滅的と思えるほどの打撃を与えました。しかし、アッシュールバナパルというアッシリア帝国の偉大な王が死ぬと、その国力は急速に衰退していきました。このアッシュールバナパルが死んだ紀元前627年こそが、まさにエレミヤの召命の年でした。同時に、この頃からバビロンが急速に勢力を増していくのです。バビロンはエレミヤが召された翌年にアッシリアから独立を果たし、逆にアッシリアを圧倒していきます。覇権国が交代する時には大きな混乱が生じますが、エレミヤはそのような時期に活躍したのです。翻って今日の事を考えれば、果たしてアメリカは衰退していくのか、それともその覇権は続くのか、私たちには分かりません。しかし、私たちは神に召された者として、このような時にこそ右往左往せずに、神の前に何が正しいのか、何をなすべきなのかを私たちは考えなければなりません。自分に神から与えられた使命とは何なのかを考えなければなりません。

では、私たちに与えられている召命とは何でしょうか?すべてのキリスト者に与えられている召命とは、真の神を礼拝することです。神は霊とまことをもって礼拝する人々を求めておられるからです。ですから、この不安な時代にあって、礼拝を大切にしましょう。礼拝をすること自体が、人々への証しとなるからです。それは必ず礼拝堂に集まって、ということではありません。様々な事情があるのですから、それぞれが自分の信仰に基づいて、礼拝の時と場所を定めればよいのです。預言者ダニエルはバビロンにいたときには、エルサレムを向いて自宅で礼拝を献げていました。しかし、場所は離れていても、私たちの霊は一つにつながっています。また、私たちにはそれぞれ独自の召命、役割も与えられています。体の各部分が異なるように、各人に与えられた役目も違います。自分が出来ることを精一杯果たして参りましょう。まだ若く、経験もなかったエレミヤも神に召され、その働きを続ける中で熟練した預言者となっていきました。私たちも神のために働く中で成長していくのです。それには年齢は関係ありません。アブラハムは後期高齢者の年齢である75歳を超えてから召されてカナンの地に行きましたが、彼が召しに応えたおかげで今日の私たちがあるのです。私たちもまた、召しに応えて今週も歩んで参りましょう。

お祈りします。

天地万物の創造主にして、諸国民の歴史を導き、支配しておられる万軍の主よ。その御名を賛美いたします。緊迫した状況が続く中、健康が守られ、このように礼拝を献げることのできる幸いを感謝いたします。今日からあなたが召されたエレミヤについて学んでまいります。あなたがエレミヤにしてくださったように、私たち一人一人についてもその名を呼んで、召してくださったことに感謝します。どうかその召しにふさわしく歩む力を与えたまえ。今週も日々の生活を守り、導いてください。われらの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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