エレミヤ書 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 調布 深大寺のプロテスタント教会 Sun, 01 Dec 2024 04:13:22 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.3.20 https://domei-nakahara.com/wp-content/uploads/2020/03/cropped-favicon-32x32.png エレミヤ書 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 32 32 新しい契約エレミヤ31章23~34節 https://domei-nakahara.com/2024/12/01/%e6%96%b0%e3%81%97%e3%81%84%e5%a5%91%e7%b4%84%e3%82%a8%e3%83%ac%e3%83%9f%e3%83%a431%e7%ab%a023%ef%bd%9e34%e7%af%80/ Sun, 01 Dec 2024 04:12:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5986 "新しい契約
エレミヤ31章23~34節" の
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みなさま、おはようございます。いよいよ本日から待降節、アドベントに入ります。アドベント期間中は、これまでのサムエル記からの講解説教からは離れ、アドベント、つまり主のご降誕を「待ち望む」というこの期間にふさわしいと思われる箇所からメッセージをさせていただきます。そして第一アドベントの今日はエレミヤ書からです。私が当教会に赴任して最初にさせていただいたのがエレミヤ書からの講解説教なので、久しぶりの同書からのメッセージとなります。

今日の箇所は、エレミヤ書の中でも最も希望にあふれた、前向きなメッセージを含む聖書箇所です。神とイスラエルとの特別な関係は、イスラエルの罪のゆえに壊れてしまいましたが、神はイスラエルと再び新しい契約を結ぶ、と約束しているからです。その新しい契約はイエス・キリストによって結ばれた、というのが私たちクリスチャンの信じるところです。ですからこの箇所はイエス・キリストの大切な働きを預言する、非常に重要なところなのです。

けれども、エレミヤ書においてはこのような明るい未来を展望する箇所は実は大変少ないのです。例外的とすら言えると思います。エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれていますが、エレミヤ書は確かに涙なしには読めないようなところがたくさんあります。そして、このエレミヤの苦難の預言者としての歩みは、そのまま主イエスの苦難の人生を先取りしたようなところがあります。そのような意味で、主イエスのご降誕を待ち望む時期にエレミヤ書を改めて読むことには大きな意味があると私は考えています。

では、なぜエレミヤはそんなに苦しい人生を歩まなければならなかったのでしょうか?それは、彼が人々の聞きたくない、人々を嫌な思いにさせるメッセージを語ったからです。エレミヤのメッセージは人々をイライラさせる、不愉快なメッセージだったのです。エレミヤがどんなことを語ったのか、私たち日本の歴史を振り返りながら考えてみましょう。私たち日本は、戦後は平和国家として歩んできましたが、戦前は戦争に次ぐ戦争、戦争に明け暮れる日々を送っていました。そんな時代に、人々が一番喜ぶニュースは「戦争に勝った!」というニュースでした。大国中国に勝った、ロシアに勝った、日本は今や世界の一等国だ、と人々は興奮したのです。いつしか日本は絶対負けないのだ、という根拠のない自信を人々は抱くようになりました。

しかし、そのような時代に「日本は必ず戦争に負ける」、「日本の国力の何倍もあるアメリカのような大国に勝てるはずがない。はやく降伏して命乞いしなさい」などと叫ぶ人がいたら、周囲の人たちは激怒したことでしょう。「非国民」と呼ばれて石を投げられたり、最悪の場合は命さえ危なくなったことでしょう。そして、エレミヤはまさにそのようなことをイスラエルの人々に語ったのです。そのような箇所を一つ読んでみましょう。エレミヤ書38章1節から4節です。これは、エルサレムがバビロン軍の大軍に包囲されて、籠城戦をしている時の話です。

さて、マタンの子シェファテヤと、パシュフルの子ゲダルヤと、シェレムヤの子ユカルと、マルキヤの子パシュフルは、すべての民にエレミヤが次のように告げていることばを聞いた。「主はこう仰せられる。『この町にとどまる者は、剣とききんと疫病で死ぬが、カルデヤ人のところに出て行く者は生きる。そのいのちは彼の分捕り物として彼のものとなり、彼は生きる。』主はこう仰せられる。『この町は、必ずバビロンの王の軍勢の手に渡される。彼はこれを攻め取る。』」そこで、首長たちは王に言った。「どうぞ、あの男を殺してください。彼はこのように、こんなことばをみなに語り、この町に残っている戦士や、民全体の士気をくじいているからです。あの男は、この民のために平安を求めず、かえってわざわいを求めているからです。」

このように、バビロンの猛攻に必死に耐えているイスラエルの人たちに対して、「お前たちは必ず負ける。無駄な抵抗は止めなさい。降伏すれば命だけは助かる」と叫ぶエレミヤは、裏切り者として人々からひどく嫌われました。この時エレミヤは捕まって、不衛生な牢屋に入れられて、死にかけています。

このバビロンに包囲されている時だけでなく、バビロンとの戦争が始まる前、平和な時ですら、エレミヤは盛んにバビロンに仕えろ、逆らってはならないと預言していました。ユダ王国の王様に対してですら、繰り返しそう語ってきたのです。その箇所を読んでみましょう。27章の8節から12節をお読みします。

バビロンの王ネブカデネザルに仕えず、またバビロンの王のくびきに首を差し出さない民や王国があれば、わたしはその民を剣と、ききんと、疫病で罰し ―主のみつげ― 彼らを彼の手で皆殺しにする。だから、あなたがたは、バビロンの王に仕えることはない、と言っているあなたがたの預言者、占い師、夢見る者、卜者(ぼくしゃ)、呪術者に聞くな。彼らは、あなたがたに偽りを預言しているからだ。それで、あなたがたは、あなたがたの土地から遠くに移され、わたしはあなたがたを追い散らして、あなたがたが滅びるようにする。しかし、バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える民を、わたしはその土地にいこわせる。 ―主の御告げ― こうして、その土地を耕し、その中に住む。』」ユダの王ゼデキヤにも、私はこのことばとおりに語って言った。「あなたがたはバビロンの王のくびきに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ。どうして、あなたとその民は、バビロンの王に仕えない国について主が語られたように、剣とききんと疫病で死んでよかろうか。」

このように、ユダ王国の王様に対してでさえ、その首をバビロンの王に差し出せ、と語ったのです。一度ならず、何度もです。しかし、自分たちは神に選ばれた特別な民族であり、バビロンは偶像を拝む神に背く国であると信じるイスラエル人にとって、エレミヤのいうことは到底受け入れがたいものでした。実際、過去の預言者たちも、ここまで露骨に外国に仕えろと叫んだ預言者はいませんでした。預言者イザヤは、大国エジプトに頼って彼らと同盟を結ぼうとするユダ王国の指導者たちを皮肉って、次のように言っています。

あなたがたは、こう言ったからだ。「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。たとい、にわかに水があふれ、超えて来ても、それは私たちには届かない。私たちは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから。」(イザヤ28:15)

イザヤは、繰り返しイスラエルの指導部に対し、大国に頼るな、どの国にも仕えるな、ただイスラエルの神にのみ仕えなさい、と語っていました。そのようなイザヤの言葉を覚えている人たちにとって、異教の神々を礼拝するバビロンに仕えろというエレミヤのメッセージは、異様なものとして聞こえたかもしれません。

人々の中には、バビロンに降伏しろ、仕えろとしつこく叫ぶエレミヤはバビロンのスパイなのではないかと疑う人までいました。その場面を読んでみましょう。37章の11節以降です。

カルデヤの軍勢がパロの軍勢の来るのを聞いてエルサレムから退却したとき、エレミヤは、ベニヤミンの地に行き、民の間で割り当ての地を決めるためにエルサレムから出て行った。彼がベニヤミンの門に来たとき、そこにハナヌヤの子シェレムヤの子イルイヤという名の当直の者がいて、「あなたはカルデヤ人のところへ落ちのびるのか」と言って預言者エレミヤを捕らえた。エレミヤは、「違う。私はカルデヤ人のところに落ちのびるのではない」と言ったが、イルイヤは聞かず、エレミヤを捕らえて、首長たちのところに連れて行った。

この場面は、エルサレムを包囲していたバビロン軍が、エジプトがユダ王国を助けにきたという知らせを聞いて、一旦退却したところです。エルサレムを出ようとするエレミヤのことを、退却するバビロン軍に合流しようとしていると思ったのでしょう。エレミヤが普段からエルサレムの人たちからどのように見られていたのかが分かろうというものです。つまり、エレミヤはバビロンに内通していて、エルサレムの人たちの士気を内側から無くさせようと画策していると思われたのです。

このように、エレミヤの苦難、同胞からのひどい仕打ちの原因の多くは、敵であるバビロンへの降伏を呼びかけたことによる反発だったことがわかります。

そして、こうした苦しい状況をなんとも思わないほどエレミヤは鋼のメンタルを持っていたわけではありません。それどころか、エレミヤは非常に感受性の強い人で、孤独に悩んでいました。エレミヤは故郷アナトテの人たちから命を狙われたこともあったので、親兄弟との関係は良くありませんでした。さらには結婚もしていなかったので、問題を一人で抱え込まなければならない状況にいました。エレミヤ書には、この預言者の内面の葛藤をつづった箇所が数多くあります。エレミヤの告白と呼ばれる箇所ですが、それらの箇所を二つ読んでみましょう。まず15章17節と18節です。

私は、戯れる者たちの集まりにすわったことも、こおどりして喜んだこともありません。私はあなたの御手によって、ひとりすわっていました。あなたが憤りで私を満たされたからです。なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は直らず、あなたは、私にとって、欺く者、当てにならない小川のようになられるのですか。

もう一か所お読みします。20章7節以降です。

主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。私は一日中、物笑いとなり、みなが私を嘲ります。「暴虐だ。暴虐だ」と叫ばなければなりません。私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです。私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。

このように、エレミヤは主のことを「当てにならない」とか、「私を欺いた」とまで言うほど精神的に追い込まれていました。そんな状況でも、なぜ彼は語り続けたのか。それは同胞の命を一人でも救いたかったからです。戦いで命を落としてはいけない。たとえ屈辱的であっても、敗北を受け入れて生きなさい、というのがエレミヤのメッセージでした。

しかし、これは大変勇気のいるメッセージです。人々は負けるぐらいなら、悪の力に屈服するぐらいなら、潔く死んだ方がよい、と考えてしまうものです。エレミヤの時代から、いきなり現代の問題に話題を変えてしまうのをお許しいただきたいのですが、朝日新聞の記者をしていた副島英樹さんという方は、現代は「殺すな」と言いにくい空気があると語っています。ウクライナ戦争について論じた彼の著者から引用させていただきます。

そうした中、「ウクライナが負けないように武器支援すべきだ」という「戦え一択」の主張が朝日新聞を含む日本の大手メディアでも当然のように流され、それが「ロシア憎し」の感情にとらわれた世論と共鳴し合う様相になった。憎きプーチンをたたくためなら、ウクライナ市民の多少の犠牲はやむを得ないという思考に陥ってはいないだろうか。「戦え一択」の思潮には疑問をぬぐいされない。(「ウクライナ戦争は問いかける」)

かつての日本人は、「これは正義の戦争だ」と信じ、「欲しがりません、勝つまでは」と犠牲をものともせずに戦い続け、300万人もの犠牲者を出しました。その経験から、もう武力、軍事力で問題を解決しない、勝つためには多少の犠牲が出ることはやむをえないという考え方は捨てることを誓ったはずです。しかし今の日本は急速に別の空気に覆われている気がします。そういう中で、エレミヤの「負けなさい。降伏しなさい」というメッセージは衝撃的です。しかし勝利よりも一人一人の命の方が大事だ、というのは青臭い理想論ではなく、非常に大事な主からのメッセージなのではないでしょうか。

主イエスも、エレミヤと同じような時代に生きていました。先週もお話ししましたが、ローマ帝国の植民地になってしまったユダヤの人々は、ローマの課す重税と、逆らう者への暴力に怒りをたぎらせて、暴動を繰り返し、ついには八年間に及ぶローマとの大戦争に突入してしまいました。その結果は夥しいほどの死者と、国を失うという悲劇でした。イエスは暴力による解決を求める人々を戒め、敵を愛する、つまり敵を理解して、暴力とは別の方法で事態を打開する道を示そうとしました。しかし、人々はイエスの示す平和の道を選ぼうとはしませんでした。そのことを主イエスは嘆かれました。ルカ福音書19章41節以降をお読みします。

エルサレムが近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」

主イエスが本当に神から遣わされた神の子であることを知り、彼の教えに聞き従っていれば、エルサレムは最悪の破局を免れることが出来たはずでした。しかし、エレミヤの教えを無視して破局に突き進んだイエスの時代から六百年前のエルサレムの人々のように、イエスの時代の人々も破局への道を選んでしまいました。

私たち日本人も、かつて80年ほどまえに破滅を経験しています。その記憶を忘れてはいけません。軍事に頼れば、さらに大きな軍事力によって滅ぼされます。そのような轍を二度と踏まないように、このアドベントの季節に私たちは改めてエレミヤのメッセージ、主イエスの平和のメッセージを聞くことを願うものです。

最後に、今日のテクストを見てみましょう。この箇所は、特にエレミヤの新しい契約の約束のところが有名ですが、しかし私が一番好きなのはそこではありません。私の愛唱聖句は26節です。そこをお読みします。

―ここで、私は目ざめて、見渡した。私の眠りはここちよかった。―

神から厳しいメッセージを託され、それを人々に伝えなければならなかったエレミヤはそのために人々から憎まれ、厳しい孤独な人生を送りました。眠れぬ夜も何度もあったことでしょう。そのエレミヤが、本当にここちよく眠ることが出来た夜がありました。その時、主はエレミヤに慰めのメッセージ、希望のメッセージを授け、その美しいヴィジョンをエレミヤに見せたのです。破局の先にある希望を垣間見て、エレミヤの心は満たされました。彼はぐっすりと、心から安心して眠ることができたのです。そのエレミヤの見たヴィジョンは、彼の時代から六百年後にお生まれになった主イエスによって成し遂げられました。主イエスは命をかけて、新しい契約を結ばれたのです。私たちはその新しい契約に招かれた人たちです。そのことを覚え、感謝し、私たちもまた、勇気を持って主イエスの掲げた平和への道を歩んで参りましょう。お祈りします。

エレミヤを召し、叱咤激励し、また慰められた神様、そのお名前を賛美します。今日は改めてエレミヤのメッセージを学びました。悪に勝つためには多少の犠牲も仕方がないという空気に支配されつつある今日において、エレミヤのメッセージは非常に大切な主の御心を語っています。私たちもエレミヤの、そして主イエスの教えに従って歩むことができるように、力をお与えください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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神の痛みエレミヤ書31:15-22森田俊隆 https://domei-nakahara.com/2022/11/20/%e7%a5%9e%e3%81%ae%e7%97%9b%e3%81%bf%e3%82%a8%e3%83%ac%e3%83%9f%e3%83%a4%e6%9b%b83115-22%e6%a3%ae%e7%94%b0%e4%bf%8a%e9%9a%86/ Sun, 20 Nov 2022 00:29:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=4019 "神の痛み
エレミヤ書31:15-22
森田俊隆
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* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

今日の聖書箇所を含むエレミヤ書31章は「新しい契約」と称せられる個所であり、新約聖書に示された「新しい契約」を指し示す個所として有名です。従って、キリスト教の教会においてはしばしば説教個所として取り上げられています。昨年、9月27日の山口先生のエレミヤ書からの説教の時もこの「新しい契約」のことを話されていました。聖書箇所はエレミヤ書31:31「見よ。その日が来る。--主の御告げ--その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ」です。今日は、その章の少し前の15-22節です。特に中心的部分は20節「わたしのはらわたは 彼のためにわななき、 わたしは彼をあわれまずにはいられない」の個所です。

まずこの20節を除き、他の節を概観しておきます。まず、15節「主はこう仰せられる。 「聞け。ラマで聞こえる。 苦しみの嘆きと泣き声が。 ラケルがその子らのために泣いている。 慰められることを拒んで。 子らがいなくなったので、 その子らのために泣いている」 です。ラマというのは、エルサレムの北、ベニヤミンの地の町でBC586年、ユダ王国がネブカドネザルによって滅ぼされた時、捕囚の民はこの町に一度集められ、それからバビロンに連れていかれた、と推測されています。エレミヤはネブカドネザルと戦うことはするな、と預言したので、このラマで釈放されることになります。従って、この個所は、バビロン捕囚の直後に読まれたものと考えられます。捕囚に送られる民の「苦しみの嘆きと泣き声」が聞こえる、というのです。このあと、ラケルがその子らのために泣いている、と言われています。ラケルは創世記に記されているヤコブ即ちイスラエルの第二番目の妻で、彼女は第一番目の妻レア以上にヤコブに愛されました。子供は12部族の内の最後のヨセフとベニヤミンです。ラケルはベニヤミンを生む時陣痛が激しく、生んだのち、なくなります。その時、ラケルは「ベン・オニ(私の苦しみの子)」とその子を名付けました。この場面ではラケルが自分は死んでしまうので、子を育てることもできない悲しみは、主なる神が、選びの民が、遠くバビロンに追いやられるのを見て、悲しみの中にある、と言っているのです。

実は、子供を産む時に母親が難産で死ぬ事は、古来から、しばしばあることではありますが、「断腸の思い」という言葉の由来を調べていたところ、このラケルの話と似た話が背後にあるので紹介します。昔、中国の晋の時代の話です。晋は三国志で有名な魏の国の将軍司馬炎が建てた国です。AD3c半ばから5c初めの王朝です。その晋の武将、桓温(かんおん)が、敵国を攻めようと船に乗ったとき、彼の部下が猿の子供をつかまえて、船に乗せてきました。すると、母猿がとても悲しい声をあげながら、どこまでも追いかけて、ついてきます。そして、長いあいだ追ってきたあと母猿は船に飛び乗ってきましたがそのまま苦しんで死んでしまいました。なぜ死んでしまったのか。しらべてみると母猿のお腹の中で腸がひきさかれたようにちぎれていたのです。母親の子供との別離の悲しみ、そして死んだ母親が共通です。また後程見る、20節のヘブル語の苦難の表現が、内臓が動くことをもって表現しているところも類似しています。ラケルも断腸の思いであったのでしょう。主なる神がイスラエルの民がバビロンに送られていくのをみて「断腸の思い」であったと想像するのは行き過ぎでしょうか。

ついで、31:16「主はこう仰せられる。 「あなたの泣く声をとどめ、 目の涙をとどめよ。 あなたの労苦には報いがあるからだ。 --     主の御告げ-- 彼らは敵の国から帰って来る」とあります。捕囚の国から帰ってくることが述べられています。新バビロニアからペルシャに代わってBC539、キュロス王によってエルサレム帰還が許されます。BC597年の第一回捕囚から58年後です。この悲しみのなかで「希望」が預言されているのです。31:17「あなたの将来には望みがある。 --主の御告げ-- あなたの子らは自分の国に帰って来る」と再びこの預言が繰り返されます。その時は捕囚の民はその地で死に、帰還するのは「その子ら」です。31:18「わたしは、エフライムが嘆いているのを 確かに聞いた。 『あなたが私を懲らしめられたので、くびきに慣れない子牛のように、 私は懲らしめを受けました。 私を帰らせてください。 そうすれば、帰ります。 主よ。あなたは私の神だからです』と述べられています。主なる神が、イスラエルが嘆き悲しむ声を確かに聞いた、と言っています。エフライムというのはラケルの子ヨセフの子で、イスラエル民族の最も正統的部族とされています。北イスラエルのことをエフライムと通称することもあります。首都はサマリヤです。北王国は既に滅亡していますので、エレミヤはイスラエル12部族全体を代表する表現としてエフライムの名を使用したと考えられます。主なる神の懲らしめを受容し、そしてついにはイスラエルの地に帰還するのです。

ここで「帰る」と訳されている言葉は「shu:b」という言葉で、新約のなかでは、「悔い改める」と訳されている言葉です。イスラエルの地に帰還することは主なる神に立ち返る、という信仰上のことも意味しています。「shu:b」は、そもそもは、「戻る」という意味ですので「悔い改める」の「改める」部分を指していると言えそうです。31:19「私は、そむいたあとで、悔い、 悟って後、ももを打ちました。 私は恥を見、はずかしめを受けました。 私の若いころのそしりを 負っているからです』と」あります。ここで「悔いる」とされていることばはヘブル語で「ra:ham」ということばで、「慰める、心を変える、悔いる」などの意味を持つ言葉ですが、この三つの意味は相互に無関係なように見えますが、深いところでつながっています。ここでは「悔いる、後悔する」の意味で使われています。この言葉も新約の「悔い改める」のもとになっている言葉の一つです。「shu:b」と「na:ham」が一緒になって「悔い改める、の言葉になったと考えて良いと思います。「na:ham」が悔い改めの「悔いる」を指し示していることばです。この個所で「na:ham」のギリシャ語訳は「metano-e:wo」であり、これこそ新約で「悔い改め」として使われているギリシャ語です。

捕囚の民イスラエルは罪を犯したことを悔いて、自分を痛めるために、ももを力いっぱいたたき、主なる神の教えに立ち返り、エルサレムに帰還するのです。注意しておきたいことがあります。このようなバビロン捕囚を懲らしめ、として受けることになった罪はなんだったのでしょうか。異教の神々を拝む、ということがイスラエルの初期では第一次的に罪とされましたが、ここでは、そのような表面的なことだけではなく、寡婦やみなしご、のような弱き民が守られない社会、一般的な言い方で言えば「正義と公正」が成り立っていない格差社会にイスラエルをしてしまったことであろう、と思われます。人による人の支配が公然と存在する社会です。今の社会もそのような社会です。滅亡前の南北イスラエル王国は経済的繁栄のなかで、だんだん貧富の差が拡大し、格差社会になっていました。貴族支配の国です。特にユダ王国の王マナセの時代がそうです。エレミヤはその時代背景のもとでイスラエルの罪を弾劾したのです。表面的な経済的繁栄は、何もしないでいると格差拡大の社会となることは普遍的真理です。強い者はお金の力で更に強くなるからです。

20節はのちほど詳しく見ますので飛ばして、31:21「あなたは自分のために標柱を立て、 道しるべを置き、 あなたの歩んだ道の大路に心を留めよ。 おとめイスラエルよ。帰れ。 これら、あなたの町々に帰れ」です。捕囚の民がバビロンに行く途上道筋にしるしをおきなさい、と言っています。その大きな道の様子をこころにとめなさい、と言われています。子らに語るためでしょう。「おとめイスラエル」という言い方は主なる神を親とし、イスラエルの民はその娘、という譬えのことです。旧約聖書で一般的な比喩です。エレミヤ書のあとにあるエレミヤ哀歌や、ソロモンの雅歌と言われる文書はこの比喩のもとで語られています。そして「帰れ」の繰り返しです。讃美歌517番「われにこよと、主は今」を思い出しますね。「帰れよ、帰れよ」です。この個所を読むと思いだす話があります。アメリカン・ネイティブの話です。アメリカ合衆国政府はアメリカン・ネイティブのチェロキー族をオクラホマのインディアン居住地に強制移動させることに決定いたしました。チェロキーは移住してきたアメリカ人と良好な関係を築こうと努力した部族でクリスチャンも沢山いました。時の大統領はアンドリュー・ジャクソンで、時は1838年の5月のことです。テネシー州からオクラホマ州まで1,900キロの道のりです。チェロキー族の黒人奴隷2,000人を同伴した17,000人のチェロキー族の人々がアメリカの軍隊にせき立てられつつ、目的地に向かったのです。この道を「涙の道」と言います。3週間かかりました。4,000人から5,000人が途中で死にました。チェロキー族の人々は「我々が泣いた道」と呼びました。チェロキーの指導者はジョン・ロス首長でクリスチャンです。驚くべきことに、一人の医者で宣教師のバトラーが一行と共にしました。この時、うたわれたのが「AmazingGrace」です。作者の一人がチェロキー族です。私は西部のアメリカでインディアン居住地にいくつか行きましたがそれは、それはひどい土地です。農業は全くできません。オクラホマの居住地でのチェロキー族の生活もみじめなものであったに相違ありません。アメリカの歴史における辱部、恥ずべき一面として語り続けられるべき歴史です。

31:22、最後の節には「  裏切り娘よ。いつまで迷い歩くのか。 主は、この国に、一つの新しい事を創造される。 ひとりの女がひとりの男を抱こう。」とあります。裏切り娘とは主なる神の選びの民としての期待を裏切ったイスラエルの民のことです。「一人の女がひとりの男を抱こう」の部分はいろいろな解釈があります。文脈から考えて、女はイスラエルの民、男は主なる神を意味しているはずですが、ピタリときません。新改訳2017は「女の優しさが一人の勇士を包む」と訳し、協会共同訳は「女が男を保護するだろう」と訳しています。新改訳ではまれにみる意訳です。いずれも女はイスラエルの民という制約を外しているようです。どうも私は同意できません。私は、雅歌にしめされているようにイスラエルの一人の女が主なる神の使者である一人の男に恋い焦がれて抱き着く、ということだ、と解釈できないものか、と考えています。これで31:20を除く各節を見てみました。余談も若干ありましたが、本日の聖書箇所では何が言われているかは想像できると思います。「悲しみ」です。

では31:20「エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。 それとも、喜びの子なのだろうか。 わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。 それゆえ、わたしのはらわたは 彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。 --主の御告げ--」です。エフライムはイスラエルの民のことを象徴的に言っていることで、主なる神は、このイスラエルは裏切りの民であり、見捨てるべき民であるが主なる神は選びの民を見捨てられない、という主なる神の屈折した心境を示しているのが前半部分と言えると思います。なんと主なる神について、「あまりにも人間的、あまりにも人間的」という叫び声が聞こえそうな部分です。イスラエル信仰における主なる神は全能の創造者なる神であって、人間とは隔絶された世界におられる絶対的超越者のはずではなかったか、という疑問がわいてきます。問題はここにあります。主なる神をどのようにみるのか、ということでの問題です。私たちは「主イエスのまなざし」の優しさに浸りたく思っています。しかし、旧約なかんずく、モーセ五書を見ると峻厳な罪への妥協を許さない主なる神の姿が見え、そのはざまで「三位一体とかいうのは何のことだろうか」と思うことがしばしばあります。中世キリスト教神学では絶対他者としての神が強調されたため、旧約の神の「人間的側面」を垣間見ると面食らってしまうのです。

この問題は31:20の後半を見ると更に拡大いたします。「それゆえ、わたしのはらわたは 彼のためにわななき、 わたしは彼をあわれまずにはいられない。 --主の御告げ--」とあります。「はらわたがわななく」のは主なる神です。このヘブル語の表現はもだえ苦しむ様(さま)のことです。先ほどの断腸の思い、と通じるものです。ラケルの悲しみ、苦しみを主なる神が経験される、と言っています。文語訳は「我、腸(はらわた)、かれの為に痛む」です。「痛む」という言葉を使っています。カソリックと共同の訳であった新共同訳は「彼のゆえに胸は高鳴り」で、大分ニュアンスが異なりますが、その改定版である協会共同訳は「彼のために、私のはらわたはもだえ」と変わり、新改訳と類似の訳になりました。実は口語訳は「わたしの心は彼をしたっている」であり、代表的なカソリックの訳であるフランシスコ会訳は「まことに、わたしのはらわたは彼を切望し」となって、主なる神の悲しみ、苦しみ、痛みは感じさせない表現に翻訳されています。そもそも、BC2c頃にギリシャ語に訳されましたが、その七十人訳という聖書のギリシャ語訳にそもそもの理由があると思われます。そこでは「私は彼を憐れむことに熱心で、彼の上に確かに憐れみをかける」という表現になっています。しかし、そのギリシャ語訳の英訳では「私は彼を助けることを急ぎ、彼の上に確かに憐れみをかける」となっています。またAD2cにラテン語訳が作成されました。そこでは「私の腸は彼のために悩まされています。憐れみつつ、私は、彼を憐れみます」となっており、ヘブル語の原義に少々もどったような感じです。しかし、「私の腸は彼のために悩まされています」であり、神が痛みを覚える、ようなヘブル語の表現とは異なります。ギリシャ語訳を作成したのはユダヤ教のラビです。ラテン語訳はキリスト教の神学者ヒエロニムスです。このラテン語訳がローマ・カソリックの正典となりました。

本当にいろいろに訳されていますが、根本的問題はギリシャ語訳のところで示されています。ユダヤ教のラビは主なる神が“悲しみ、苦しみ、痛む”のには抵抗感在り、主なる神がイスラエルの民に憐れみを掛ける、というように訳したのだと思われます。この問題は神の受苦問題と言われ、初期キリスト教での重大問題とされました。キリストは神の一顕現態様であり、キリストの受難は即ち神の受難である、とするモナルキア主義が異端とされ、正統派は受難即ち苦しみを被ったのは主イエス・キリストであり主なる神ではない、と主張しました。モナルキア主義は神とキリストは同一位格(人格)であるが態様が異なるに過ぎないので受難はこの同一人格の神、キリストが受けたものだ、というものです。正統派は神とキリストは別位格(人格)であるが本質において同一だというのです。神の受苦問題が三位一体論争に巻き込まれ、ローマ・カソリックはモナルキア主義の否定の結果、神の受苦否定にまで至ってしまったのです。結果的にはユダヤ教ラビの考え方と同じになりました。私は、この二つの問題は別の問題で、主なる神には人間から見ると矛盾して見えることがともに在る、と言うことなのではないか、と思いますので、主なる神の受苦(苦しみを受けること)はおかしくはない、と思っています。神の受苦に関する神学的議論はいまだ決着はついていません。聖書を読んでいくと、神は絶対他者で超越者という人間から隔絶された聖なる存在、という単純なことではなく、怒り、愛し、悲しむなど人間と同様な性質をお持ちである、としか読めません。神、エロヒームは超越的な聖なる方かもしれませんが、私たちが親しんでいる主なる神はそうではありません。苦しみを覚える方でもありはずだと思うのです。人となりたる神、主イエスはこれらの性質においては同一だと思います。三位一体という言葉の意味は正直言ってよくわかりません。旧約聖書を読んで黙想していくと主なる神と主イエス・キリストの同一性」が目立ってくる「ように思います。

実はこの個所は、戦後のキリスト教神学者で東京神学大学の教授であった北森嘉蔵先生の著書『神の痛みの神学』の中心的聖書箇所です。文語訳で「我、膓(はらわた)かれの爲に痛む」の個所から「神の痛み」ということを主題としたのです。この著書は1946年に出版され、1965年に英訳、1972年にドイツ語に訳されました。その後、更に韓国語等にも訳されました。ドイツの神学者の一部から絶賛され、日本のキリスト教界においても一世を風靡する神学となりました。ナチスの迫害のもとで死んだボーンヘッファーの「苦しむ神」と通底するものだともいわれました。「希望の神学」で有名な、現代のドイツの神学者ユルゲン・モルトマンの「神概念の革命」に寄与したともいわれています。「神の痛みの神学」は「神の痛み」を述べる神学です。「神の痛み」とは“神が自らの愛に反逆し、神にとって裁きの対象であるのみの罪人に対し、神がその怒りを自らが負い、なお罪人を愛そうとする神の愛を意味する”というのです。批判もあります。20世紀最大のキリスト教神学者と称せられるカール・バルトは「神の痛みの神学」の中に大東亜戦争の推進思想であった「日本的キリスト教」の匂いを感じ取りより批判しつつ、より普遍性を持ったキリスト教神学に発展することを期待しています。また戦前・戦中に人気を博した西田哲学の影響を読み取り、仏教的知恵の影響でのキリスト教だ、と批判されてもいます。また著者自身が神の受苦、を認めるものではないと主張したため、混乱が生じたことも事実です。私自身は「主なる神の受苦」を認めて何が悪いのか、と思いますが、神の受苦を認めないカソリックの伝統は極めて強い影響を残している、と思われます。

新改訳第三版の訳では「わたしの、はらわたは 彼のためにわななき」です。ヘブル語では「はらわた」は「e:me:」、「わななく」は「ha:ma:」です。それぞれの格変化で「he:me:-mu:a:」とつづられています。そしてこの直後にヘブル語「ra:ham(あわれむ)」が続いています。実は、これとそっくりの表現がイザヤ書63:15にあります。新改訳第三版の訳は「どうか、天から見おろし、 聖なる輝かしい御住まいからご覧ください。 あなたの熱心と、力あるみわざは、 どこにあるのでしょう。 私へのあなたのたぎる思いとあわれみを、 あなたは押さえておられるのですか。」とあります。この「あなたのたぎる思い」という部分が「hamo:n-me:e:ha:」で「ha:ma:(わななく)」の名詞形と「e:me:(はらわた)」の二人称語尾が付加された名詞です。そして「ra:ham(あわれむ)」が続きます。この節の少々前の63:9に「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、 ご自身の使いが彼らを救った。 その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、 昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた」とあることから、イザヤ書63:15もエレミヤ書31:20同様、神の痛み、について述べた個所、と言ってよかろうかと思います。まとめてみますと、「神の痛み」は、イザヤ、エレミヤに明確に述べられており、それは「神のあわれみ」につながるものであり、かつ、「神の痛み」の具体的表現は「選びの民イスラエルが苦しむ時、いつも主ヤハウェーも、ともに苦しむ」ということです。

北森先生の言う「神の痛み」は「大いなる罪の為、本来包むべからざるものを徹底的に包む」もので「神の愛」の表現そのものです。それは①神が神の敵である罪人を愛し給う時の痛みであり、②主なる神がその選ばれた民を罪の故に裁く時の痛みです。私たちクリスチャンにとってみれば、これ即ち、主なる神と主イエス・キリスト、更には新しきイスラエルとしての我々との関係と並行的です。神は、罪ある人とされた主イエス、即ち我々を痛みをもって愛し、いかなる罪をも許さない主なる神が、罪人とされた主イエス、即ち我々を、裁きの座に置く時の痛みが表現されている、と見ることができます。主イエス・は復活し、天上に挙げられたのちは、復活の主イエスが主なる神の痛みを私たちに示してくださることになるのです。その復活の主イエスはイザヤ書63:9にあるように「我らが苦しむときには、いつも主(イエス)も苦しみ、 その愛とあわれみによって主は我らを贖い、 我らを背負い、抱いて来られ」る、のです。これはインマヌエルの主、我らと共にある主を指しており、マタイ福音書11:28の有名な「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」のみ言葉に直結しています。

エレミヤ書31:20とイザヤ書63:15の神の痛み、のところのギリシャ語訳をみて、新約のどの言葉とつながっているかを見てみます。まずエレミヤ書31:20の問題の部分のギリシャ語訳を直訳すると「私は彼を憐れむことに熱心になり、彼の上に確かに憐れみをかける」となります。「あわれむ」という言葉がKeyWordであろう、と推測されます。イザヤ書63:15の該当部分のギリシャ語を直訳すると「どこにあるのか、大いなるあなたのあわれみと、我々への忍耐への共感は」となります。やはりKeyWordは「あわれむ」です。この「あわれむ」というギリシャ語の言葉は動詞は「elee:wo」ということばで、「主よ、憐れみたまえ(クリエ・エライソーン)」ということばで有名です。マタイ福音書9:27 「イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た」とある言葉であり、ローマ・カソリックの典礼定型句としてよく知られています。マタイ受難曲の児童合唱のところにも出てくる言葉です。主イエスの受難に思いを致し、苦難の中にある我らに主の憐れみを賜れかし、という意味です。「主よ、憐れみたまえ」は神が苦にある我々に同情してくれることを願い求める言葉ではありません。先ほど来、申し上げている「インマヌエルの主」が重要です。主が我らと共にいて苦難を共にしてくださる。ということです。讃美歌551番にもこの言葉が出てきます。この最初は「我らをあわれみ、さきわいたまえ。神よ、み顔を我らの上に、てらしませ」とあります。「苦難を共にする」ということを考えると仏教においても「苦」が重要な言葉であることが思い出されます。イタイイタイ病のことを書いた石牟礼道子の『苦海浄土』のことも思い出されます。一切は苦、というのは仏教の悟りの一つですが、キリスト教はそれを「主よ、あわれみたまえ」と言う願いの表現で示しています。

新約聖書にはこれと類似の言葉がもう一つあります。「splangks-nizo:mai」という動詞です。この言葉は新約聖書で「深くあわれむ」と訳されている言葉です。用例としてマタイ9:36 には「また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」とあります。ここでは「かわいそうに思う」と訳されています。新約聖書には12の節に用例がありますが、大部分は主イエスが人間を「深くあわれん」だり、「かわいそうに思われ」たりする場面で使用されています。内容的にエレミヤ、イザヤの「神の痛み」を「主イエスの痛み」と読み替えた時の意味合いと同じです。現在、同盟教団杉戸キリスト教会の牧師の野町真理先生は東海聖書進学塾の卒論で「神の痛みの神学のキリスト論的展開」のKeyWordとされています。「神の痛み」の個所、エレミヤ31:20、イザヤ63:15との言葉の上での関連を見ると、両個所の後半部分で「(神が)彼(イスラエル)をあわれまずにはいられない」、「私(イスラエル)への—あわれみ」と訳されているヘブル語「ra:ham」のギリシャ語訳の一つとして「splangks-nizo:mai」の変化形「saplangkna」がある、という関係です。エレミヤ31:20、イザヤ63:15では意訳され、異なる言葉が使われています。

七十人訳などでの「saplangkna」の用例を若干見てみます。箴言12:10「正しい者は、自分の家畜のいのちに気を配る。 悪者のあわれみは、残忍である」では「あわれみ」と訳されています。外典シラ書30:7 の協会共同訳「子を甘やかす者は、その傷の手当てをし/彼が叫び声を上げる度に/はらわたをかきむしられる思いがする」では「はらわたをかきむしられる」と訳されています。「神の痛み」のところとほぼ同じ意味です。外典第二マカベア書9:5 「するとイスラエルの神、すべてを見ておられる主は、目に見えない治癒不能な一撃で彼を撃たれた。彼が言葉を終えるやいなや、内臓の致命的な痛みと刺すような疼痛が、彼を襲ったのである」の「内臓の致命的な痛み」が「saplangkna」です。エレミヤ31:20の「わたしのはらわたは 彼のためにわななき」と極めて近い表現になってきています。更に同じく第二マカベア書6:07では「そして彼らは、月ごとの王の誕生日にはいけにえの内臓を無理やり食べさせられ、ディオニソス祭という祭りが催されると、—」と記されており「いけにえの内臓を—食べさせられ」がこの言葉です。これらは所謂中間期文書であり、ヘブル語原文は今に残されていませんが、対応のヘブル語は先ほどの「ra:ham」でほぼ間違いはありません。またこの「saplangkna」「splangks-nizo:mai」の元の意味は{(いけにえを供えた後、その内臓を食べる)であり、「はらわた」と共通しているイメージの言葉です。これらからの推測としてエレミヤ31:20の「わたしのはらわたは 彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない」の「わななき」と「あわれむ」の両方の意味を一つの単語で表現することばとしてギリシャ語の「saplangkna」「splangks-nizo:mai」が使用されるようになったものと考えられます。中間期文書が「はらわたがわななく」の意味を継承していると考えられる個所と「あわれむ」の意味を継承している分が混在しています。新約の時代に至ってはほぼ「あわれむ」の意味となっています。なお新約聖書で「主よ、あわれみたまえ」のギリシャ語「ele-e:wo」もヘブル語訳新約聖書では「ra:ham」が使われています。ギリシャ語「splangks-nizo:mai」とギリシャ語「ele-e:wo」はヘブル語「na:ham」を媒介として通じている言葉だ、ということもできます。

これらの言葉のつながりも考慮に入れると「主なる神の痛み」は新約に在っては主イエスの「splangks-nizo:mai」(深くあわれむ、かわいそうに思われる)によって表現されている、といってよい、と思われます。人間の方からそれを表現する時は「主よ、憐れみたまえ」の願いとなるのです。キリスト教、イスラエル信仰における主なる神は「痛み」を覚える存在であり、我らの痛みを共にしてくださる神なのです。祈ります。 (ご在天の父なる御神様、今日の聖書箇所は「神の痛み」に関する個所でした。神学的議論はいろいろありますが、我らの主イエスは我らと共に在って、「痛み」を共にしてくださる方であることを知り感謝申し上げます。このことは、旧約のエレミヤ書において既に現れている、ことを知り、新鮮な驚きを感ずるものです。インマヌエルの神、主イエスが「あなたを休ませてあげる」と、私たちにあわれみの言葉を与えてくださっています。私たちを、主イエスにすべてをゆだねる者とさせてください。我らと共に在って「痛み」を共にしてくださっている主イエスの名において、この祈りを捧げます。アーメン)

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偽りの預言者エレミヤ書23:18-29森田俊隆 https://domei-nakahara.com/2022/10/16/%e5%81%bd%e3%82%8a%e3%81%ae%e9%a0%90%e8%a8%80%e8%80%85%e3%82%a8%e3%83%ac%e3%83%9f%e3%83%a4%e6%9b%b82318-29%e6%a3%ae%e7%94%b0%e4%bf%8a%e9%9a%86/ Sun, 16 Oct 2022 00:08:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=3899 "偽りの預言者
エレミヤ書23:18-29
森田俊隆
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* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

本日の聖書箇所はエレミヤ書23:18-29です。23:9から23章の最後までは「偽りの預言者」と称せられており、本日の箇所はその中心部分ということになります。エレミヤ書全体を極めて概略的に見ますと、ヨシヤ王の時代の託宣、エホヤキム王時代の託宣、ゼデキヤ王の時代の託宣、そして、エレミヤ後半生の事件に関する記述があり、諸外国への託宣で結ばれる、ということができます。本日の「偽りの預言者」の箇所は、ゼデキヤ王の時代の託宣の中間に位置しています。ゼデキヤ王はユダ王国最後の王です。ユダ王国最後の時にエレミヤは当時の預言者達を、偽りを言う預言者として批判したのです。

この時代背景を簡単に見ておきましょう。エレミヤの預言はヨシヤ王の時代に始まります。ヨシヤ王は申命記改革と言う宗教改革を行ったことで有名です。現在、モーセ五書と言われる、旧約聖書の原型がこの時発見され、これに基づきカナンの農業神バアル等の偶像崇拝を完全にやめ、エレサレム神殿を中心とする、「主なる神」への信仰を確立した時代です。牧師の子どもで「義也(ヨシヤ)」という名の男の子がときどきいますが、このヨシヤ王から採られた名前と思われます。このヨシヤ王の時代は北のアッシリアは衰退し、BC612、メディアとバビロニアの連合軍により首都ニネベが陥落し、メソポタミアの地はバビロニアの支配するところとなります。他方、南のエジプトはエチオピア王朝である25王朝からエジプト人の26王朝となり漸次力を回復してきていました。そして、BC609年、エジプトは新興国バビロニアの進出を阻止するためアッシリアの完全崩壊を阻止しようと出兵します。ヨシヤ王はバビロニアと友好関係にあったのでエジプトの北上を阻止すべく、エジプト軍と戦います。そこでヨシヤ王は戦死し、ユダヤは敗退いたします。その後、ヨシヤ王のあとを継いだのはその子のエホアハズですがわずか3か月の短命政権です。エジプト王ネコII世のいうことを聞かなかったようでありエジプトに囚人として連れて行かれます。そのあとはヨシヤ王の他の子どもである、エホヤキムがユダ王国の王となります。エホヤキムはエジプトに従属した政治を行います。宗教政策は偶像崇拝の復活です。またエレミヤと同様にユダ王国に裁きの預言をした「シェマヤの子ウリヤ」を殺害しました。エレミヤやその書記バルクも殺されそうであった、と言われています。

さてアッシリヤを滅ぼしたバビロニアがエジプトの支配を放置していることはありえません。ネブカドネザルはシリア近辺でエジプト軍を決定的に敗北させ、パレスチナ地域に進出します。ネブカドネザルはエルサレムに侵入し神殿を収奪し、エホヤキムをバビロニアに従属させ、エルサレムの指導者の一部をバビロンに捕囚しました。バビロン捕囚の先駆けです。このなかに、ダニエル書のダニエルとその友人が含まれていました。エホヤキムは当初はバビロニアに忠実でしたが、エジプトを頼みとしてバビロニアの支配を逃れようと図るようになります。王子から正式な王となったネブカドネザルはBC598年、エルサレムに侵入し、多くのユダ王国の指導者を捕囚にします。第一次バビロン捕囚です。エホヤキム王は足枷をはめられ、バビロンに連れて行かれる前、敵の兵士によって殺害された、と見られています。本日の聖書箇所の前の22:18-19では「それゆえ、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムについて、主はこう仰せられる。 だれも、『ああ、悲しいかな、私の兄弟。 ああ、悲しいかな、私の姉妹』 と言って彼をいたまず、 だれも、『ああ、悲しいかな、主よ。 ああ、悲しいかな、陛下よ』 と言って彼をいたまない。彼はここからエルサレムの門まで、 引きずられ、投げやられて、 ろばが埋められるように埋められる。」と記されています。そしてこのあと子供のエホヤキンが王となりますが、王位にあったのはわずか3か月であり、ネブカドネザルは彼も捕囚としてバビロンに連行し、おじのゼデキヤを王としました。このゼデキヤがユダ王国の最後の王であり、エレミヤが「偽りの預言者」の預言をした時の王です。しかし、当時、ユダの民衆はエホヤキンを王と見做していたようです。バビロニアにより王とされたゼデキヤは当初はバビロニアに従順でしたが、エジプトに援助を求め、バビロニアとの対決姿勢に転じます。これをみて、ネブカドネザルは再度エルサレム攻略に出兵いたします。ユダヤ人は頑強な抵抗を行ったようです。考古学上の証拠が残されています。二年半の抵抗です。結局、バビロニア軍に占領され、ゼデキヤ王は捕囚されます。エレミヤ書52:10-11には「バビロンの王は、ゼデキヤの子らを彼の目の前で虐殺し、ユダのすべての首長たちをリブラで虐殺した。またゼデキヤの目をつぶし、彼を青銅の足かせにつないだ。バビロンの王は、彼をバビロンへ連れて行き、彼を死ぬ日まで獄屋に入れておいた。」とされています。この年、BC587年がユダ王国の滅亡の日、となっています。

ユダ王国の末期は北のアッシリアそのあとのバビロニアと南のエジプトの間にあって、ユダ王国はあっちにつき、こっちにつき存続を図ろうとしますが、最後はバビロニアに滅ぼされる運命となります。エレミヤは一貫して、大国を頼みの綱とするのではなく、「主なる神」のみを頼りとする信仰に立てということを述べます。ユダ王国が自ら両大国のいずれとも同盟することをよしとしませんでした。政治的、軍事的には、具体的にはバビロニア支配を受容することを意味しました。その最後の場面で命の危険が迫ってきている中で、エレミヤは「偽りの預言者」に対する批判を行うのです。

23:9-17は「偽りの預言者」の前半部分ですが23:15-17をお読みします。「それゆえ、万軍の主は、 預言者たちについて、こう仰せられる。 「見よ。わたしは彼らに、 苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。 汚れがエルサレムの預言者たちから出て、 この全土に広がったからだ。」万軍の主はこう仰せられる。 「あなたがたに預言する預言者たちの ことばを聞くな。 彼らはあなたがたを むなしいものにしようとしている。 主の口からではなく、 自分の心の幻を語っている。彼らは、わたしを侮る者に向かって、 『主はあなたがたに平安があると告げられた』と しきりに言っており、 また、かたくなな心のままに歩む すべての者に向かって、 『あなたがたにはわざわいが来ない』と 言っている。」とあります。「偽りの預言者」達は、平安だ、平安だと言い、災いが来ることはない、と言いふらしている、というのです。イスラエルの民は神の選民であり、アブラハム、ダビデに対する神の祝福の約束があるから、必ずや平安が守られ、外国による占領と言うような災いはこない、と言っていた、というのです。エレミヤはユダ王国に対する神の裁きは避けられず、その滅亡が近い、ということを言っていた訳ですから、これと真っ向から対立する預言です。だれでも、エレミヤのように“滅亡は近い、救いはない”というようなことを言われると、“もう、聞きたくもない”というのが普通ですから、おそらく、この「偽りの預言者」の方が大勢であり、エレミヤのような預言は圧倒的少数であったでしょう。エホヤキムの時代に殺された預言者「シェマヤの子ウリヤ」と同様、エレミヤも殺害の危険にあったと考えられます。それでもエレミヤはこの預言を止めませんでした。神様はジグザグに進む救いの完成の道において悔い改めの心を持たない我々に、大災厄が起きることを容認することがあるのだ、という事だけは心に留めておく必要があります。聖書はネブカドネザルを神の使い、とまで言っています。

続いて本日の聖書箇所23:18-20をお読みします。「いったいだれが、主の会議に連なり、 主のことばを見聞きしたか。 だれが、耳を傾けて主のことばを聞いたか。/見よ。主の暴風、--憤り-- うずを巻く暴風が起こり、 悪者の頭上にうずを巻く。主の怒りは、 御心の思うところを行って、成し遂げるまで 去ることはない。 終わりの日に、 あなたがたはそれを明らかに悟ろう。」と言われています。「主の会議」についてはアモス書3:7に「まことに、神である主は、 そのはかりごとを、 ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、 何事もなさらない。」とあります。「会議」と「はかりごと」は同じ語です。ヘブル語で「so:d」です。アモス書のこの部分は主なる神は主のしもべや預言者を通じて働く、ということを述べています。エレミヤ書のこの部分は、真の預言者はこの場において主のはかりごとを聴く機会があるが、偽りの預言者にはこの場に連なることが許されない、ということを意味していることになります。そして、偽りの預言者には主の怒りが向けられます。このことが「終わりの日」に明らかに悟る、とエレミヤはあなたに言います。終わりの日、即ち主の日は「未だ、であり、既に、である」というのがイスラエルの信仰であり、我々の信仰です。エレミヤにとっては、このことが明らかになるのは未来でもあり、現在でもある、ということです。

次に23:21-22をお読みします。「わたしはこのような預言者たちを 遣わさなかったのに、 彼らは走り続け、 わたしは彼らに語らなかったのに、 彼らは預言している。もし彼らがわたしの会議に連なったのなら、 彼らはわたしの民にわたしのことばを聞かせ、 民をその悪の道から、その悪い行いから 立ち返らせたであろうに」と言っています。偽りの預言者は主の語られなかったことを述べており、もし彼らが主の言葉を真に聞く機会があったなら、その偽りを述べる悪の道から、悔い改め、主の言葉に立ち帰ることができただろうに、という事です。ここで「立ち返る」と言う言葉は新約聖書で「悔い改める」と言う言葉になっている「shu:b」です。

続く23:23-24も現代的問題を述べています。「わたしは近くにいれば、神なのか。 --主の御告げ-- 遠くにいれば、神ではないのか。人が隠れた所に身を隠したら、 わたしは彼を見ることができないのか。 --主の御告げ-- 天にも地にも、わたしは満ちているではないか。 --主の御告げ--」とあります。「主の御告げ」とありますので、ここはエレミヤの言葉ではなく「主なる神」の言葉です。主なる神は、人間には近くにいる、と感じられない、超越的であり「隠れたる神」であるが、同時に、この被造物世界のすべての場に満ち満ちている方だ、と言っています。ここでも「遠くにあるが、満ち満ちている」という我々から見ると論理矛盾と言える、ことが言われています。これは「主の日」が「未だ、であり、既に、である」のと似ています。イスラエルの歴史が示しているのは「絶望のなかに希望を見る」という信仰姿勢ですが、これもこれら論理矛盾とみられることと共通しているようにおもわれます。但し、イスラエルの信仰は抽象的哲学ではなく必ず、両者とも、この被造物世界において発生していることに根拠に持っている、ということを忘れてはなりません。

23-:25-28は偽りの預言者が夢を見たことを悪用している点についてです。「「わたしの名によって偽りを預言する預言者たちが、『私は夢を見た。夢を見た』と言ったのを、わたしは聞いた。いつまで偽りの預言が、あの預言者たちの心にあるのだろうか。いつまで欺きの預言が、彼らの心にあるのだろうか。彼らの先祖がバアルのためにわたしの名を忘れたように、彼らはおのおの自分たちの夢を述べ、わたしの民にわたしの名を忘れさせようと、たくらんでいるのだろうか。夢を見る預言者は夢を述べるがよい。しかし、わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦はわらと何のかかわりがあろうか。--主の御告げ--」とあります。主なる神の言葉です。偽りの預言者の夢は、心の中の偽りの預言、欺きの預言から出たものだ、と言われています。「欺きの預言」の部分は新共同訳では「自分の心が欺くままに預言」となっています。自己欺瞞の預言ということであり、偽りの預言の別表現とみてよさそうです。この偽りの夢を述べ、主なる神の名を忘れさせようとしている、と言われています。そして、28節で主なる神の言葉に聞く者、即ち、主の僕、真の預言者はこの言葉を忠実に語らなければならない、と言われています。「聞いて、語る」です。聞かずして語ると、これは主なる神の言葉ではなく、自分の、人間の言葉になってしまいます。18節の「主の会議に連なる」ことも主の言葉に聞く場です。「聞く」はヘブル語では「sha:ma:」という動詞ですが、これが命令形「shema:」になると、あのイスラエルの祈りの最初の言葉「イスラエルよ、聞け。われわれの神、主は唯一の主である。」の「聞け」です。この言葉は「心に留める」「理解する」の意味でも使用されます。また再帰形という変化形では「従順である」という意味にもなります。謙虚な心で主の言葉に聞き、心に貯えられる、その言葉に従順に従って生きる、という意味でしょう。「麦とわらと何のかかわりがあろうか」は真の預言者と偽りの預言者は無関係、まるで逆だ、と言っています。

本日の聖書箇所の最後は「わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか。--主の御告げ-- 」という文で閉じられています。主の言葉の力を表現したことばです。エレミヤ書20:9では「主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。」と言われています。火の中で神の言葉が語られる、と表現されてきたのが、エレミヤでは神の言葉そのものが火となっています。エレミヤにとっては主なる神より預かった言葉は、心の中で火となり燃え盛り、それが語られる時、岩を砕く金槌のようでもある、というのです。聖書を読んでいて、グサッと突き刺さる言葉に出会うことがありますが、それがこのことを意味しているのかもしれません。

30節から23章の最後までは、主の言葉ではなく自分の言葉を騙(かた)っている偽りの預言者には主が彼らの敵になる、と言われています。また、主の宣告を主からの重荷とし、それから逃れようとする者には主の裁きが下される、と言われています。「永遠のそしり、忘れられることのない、永遠の侮辱をあなたがたに与える。』」と言う言葉で結ばれています。ここで「宣告」と訳されている言葉と「重荷」と訳されている言葉はヘブル語では「masa:」という言葉です。新共同訳では一貫して「宣告」と同様の意味の「託宣」と訳されています。逆にカソリックのフランシスコ会訳は一貫して「重荷」と訳されています。この語は「物を持ち上げる」という意味の「masa:a:」が名詞化したもので「masa:」は「宣告」「重荷」「苦難」の意味があります。ナホム書1:1「ニネベに対する宣告」、ハバクク書1:1「預言者ハバククが預言した宣告」、ゼカリヤ書9:1「宣告」のところで「宣告」英語ではoracleと訳されることがある言葉です。苦難を宣告する神の言葉です。エレミヤの預言は、「平安、平安」と言っている偽りの預言者やユダの民には“主からのイスラエルに対する過酷な重荷である預言“と受け止められたのです。ナホムやハバクク、ゼカリヤの預言も同様です。この事情から、新改訳の一部、そして新共同訳ではすべてのこの言葉が「宣告」とか「託宣」と訳される結果になったと考えられます。しかし、意味するところに重点をおいて考えるなら、すべて「重荷」と訳するのが理解しやすい、と思われます。通常の「預言」とは異なります。「重荷」「苦難」の宣告なのです。そしてエレミヤ書のここでは、主から重荷を負わされたなどといってはならない、しかし、これを重荷というユダは滅びの裁きを逃れられない、と言われているのです。そうではなく、「主は何と答えられたか」ということにのみ注意を払い、主の言葉を忠実に語れ、それをどうこう解釈するなどするな、と言われています。これは主の言葉は「重荷」「苦難」を与え滅ぼすことが目的で与えられるのではない、ただ言葉を受けよ、と言われているのです。その裏には、その時には、人間には理解できない、神のはかりごとが隠れている、ということでしょう。

この偽りの預言者の章では、私たちの信仰姿勢に大きな問いを投げかけている、ということは理解できますが、このメッセージは新約聖書にはどのように受け継がれているのでしょうか。もう一度、言葉から入って行きます。ここで「偽りの預言者」と称しているのは23:25の「偽りを預言する預言者」のことです。これをつづめた「偽りの預言者」という言葉はエレミヤ書及び旧約聖書には登場しません。ここで「偽り」と訳されているのはヘブル語で「sheqer」という名詞です。「嘘」「偽り」「誤り」「欺瞞」というような意味で多用されている言葉です。預言者は「nabi:」ですから、「nabi: sha:qe:r」となります。イエス様が日常的に使用していたと推測されているアラム語ではここが「nebi: shaqra:」となっており、ヘブル語の「nabi: sha:qe:r」と同じ言葉です。発音は少々異なります。マタイによる福音書7:15に「にせ預言者」というのが出てきます。「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。」とあります。19世紀に成立した新約聖書のヘブル語訳というのがありますが、そこでこの「にせ預言者」は「偽りの預言者」(nabi: hasha:qer)です。これは旧約の「nabi: sha:qe:r」に冠詞「ha」を補つたものです。次に、ギリシャ語の方を見てみましょう。旧約聖書のギリシャ語訳でエレミヤ書23:25の「偽り」は「psyu:de:」という言葉で、預言者は「profe:te:s」です。従って、「偽りの預言者」は「profe:te:s psyu:de:」ということになります。マタイ7:15の「にせ預言者」は「psyu:do-profe:te:s」と記されています。これは旧約聖書ギリシャ語訳での「偽り」という形容詞と「預言者」という言葉を合成し造られた言葉です。「psyu:de:」と言う言葉は「偽り」「嘘」を意味する言葉です。英語にも「pseudo」(sju:dou)という「偽」と言う意味の言葉がありますね。従って、新約聖書でしばしば出てくる「にせ預言者」というのは旧約聖書における「偽りの預言者」のことだと断定してよさそうです。もっとも旧約聖書では「偽りの預言者」と言う形でまとめられた言葉はでてきませんから、エレミヤ書23:25における「偽りを預言する預言者」がその後、ユダヤの民に於いて一語として慣用的に使用されるようになり、新約の「にせ預言者」になった、と言えるでしょう。

本日のエレミヤ書23:18-29を追いかけていくと、「偽りの預言者」は神の言葉に忠実ではない、という特徴が見えてきます。神の言葉に「聞く」姿勢がなく、自分の思いを語るのです。厳しい、ある意味で残酷な言葉は、語りにくいものです。けして皆から喜ばれるものではないからです。しかし、それが、神の言葉であり、神の答えがあるならば、真の預言者は曲げずにこれを語るのです。では何が神の言葉でしょうか。もちろん、聖書が神の言葉の基本だというのはそうなのですが、私たち新約の民には神の言葉が人となられた、我らの主イエスがおられます。主イエスのおっしゃられたこと、なされたこと、が神の言葉という神からのメッセージになります。旧約の時代に神から与えられた律法という神の言葉では人間は救いの道に入ることは出来ませんでした。神は主イエスという形で神のメッセージ、神の言葉を私たちに与えられたのです。

エレミヤ書では神の言葉に忠実でない者を「偽りの預言者」としています。列王記、歴代誌では「預言者の口で偽りを言う霊」という表現があり、イザヤ書9:15には「そのかしらとは、長老や身分の高い者。 その尾とは、偽りを教える預言者」という表現があり、「偽りを教える預言者」という形で出てきます。そしてエレミヤ書では「偽りを言う預言者」が多数でてきますが、これ以降はゼカリヤ書13:3に「なお預言する者があれば、彼を生んだ父と母とが彼に向かって言うであろう。「あなたは生きていてはならない。主の名を使ってうそを告げたから」と。彼を生んだ父と母が、彼の預言しているときに、彼を刺し殺そう。」という表現があります。これは「うそをつく預言者」は裁きの時彼の父母が彼を殺す、と言っている部分です。十戒第二戒を破り「みだりに主の名を言う」預言者のことです。また外典と称せられる「知恵の書」14:28には「彼らは快楽に狂い、偽りの預言をし、不正な生活を送って、軽々しく偽証する。」という表現がでてきます。偶像崇拝にふける者は道徳的にも堕落して、遂には「偽りの預言」をし、十戒で禁じられた偽証をする、というのです。これらの表現は「偽りの預言者」の系列に属する、と言って良いと思いますが、神の言葉に忠実でない預言者というエレミヤ書の原義より拡大されているようです。

新約聖書で「にせ預言者」をみると、主イエスの福音から人々を離れさせる預言者のことを言っています。マタイ24:24では「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」と言われていますので「大きなしるしや不思議」を起こし、これによりイスラエルの民を惑わす預言者のことのようです。当時の状況において考えれば、イスラエル解放を実現してやると称している自称キリストのことではないか、と思われます。使徒の働き13:6では“「にせ預言者」バルイエスというユダヤ人魔術師“という表現も出てきます。これはキプロス島にいた魔術師のことです。おそらく、当時の医者も兼ねた魔術師的霊的指導者のことでしょう。ペテロの手紙、ヨハネの手紙にも「にせ預言者」が登場します。しかし、パウロの手紙には登場しません。パウロにとっては「預言者」と言えば、モーセに始まりイザヤ、エレミヤに続くイスラエルの綿々たる系譜にあるものですから、このような不埒な人々は「にせ」とは言っても「預言者」というに値しない、というようなことなのでしょう。新約聖書の最後に黙示録にこの「にせ預言者」という表現が3度でてきます。黙示録20:10が最後ですが「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」と言われています。サタンの支配するハデスに居る「預言者」です。黙示録19:20では「獣の像を拝む人々を惑わしたあのにせ預言者」と言われています。偶像礼拝をしている民を悔い改めに導くのではなく、ハデスに行き、永遠の苦しみの道に惑わし、入れる指導者のことです。主イエスの福音のメッセージから離れたことを語る教師のことです。

「偽りの預言者」「にせ預言者」を通して見るとこの両者の識別の鍵は「神の言葉」にあることが一貫していると言えます。「神の言葉」の理解が旧約と新約では異なる、ということです。新約での「神の言葉」は主イエスの福音のメッセージ、即ち「愛の律法」ですが、この背後には旧約における火のような、岩を砕く金槌である「神の言葉」があるのです。この旧約の「神の言葉」があるがゆえに新約の「神の言葉」が神からの一方的恵みとして我々に迫って来るのです。あまり安易な適用は良くありませんが、大災害や戦争のような悲劇が主なる神からの警告であり、人間に平安・平和を回復するチャンスが与えられている、ということも出来るのです。原発事故のこと、憲法9条のことを考えると私たちに「神の言葉」が臨んでいる、と感じざるをえません。私たち、日本のキリスト者はこの「真の預言者」の系譜に立っているでしょうか。祈ります。

(ご在天の父なる御神様、今日の賛美と祈りの時を感謝いたします。「偽りの預言者」の言葉から学びました。エレミヤはユダの民に、選びの民には神の守りがある、と根拠のない気休めの言葉を語った預言者を「偽りの預言者」と呼びました。新約聖書黙示録などでも「偽預言者」が語られています。今の世にも、地球は氷河期に向かっているのだから地球温暖化は一時的出来事だ、という人もいます。私たちは、そのような気休めの言葉に振り回されてはならない、と思います。主イエスが私たちに語られた言葉に忠実に生きるよう私たちを導いてください。苦難は人間の罪からくる苦難として真正面から受け止め、耐える力をお与えください。なすべきことをなす勇気をお与えください。主イエスの御名により祈ります。アーメン)

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新しい契約エレミヤ書31章23~40節 https://domei-nakahara.com/2020/09/27/%e6%96%b0%e3%81%97%e3%81%84%e5%a5%91%e7%b4%84%e3%82%a8%e3%83%ac%e3%83%9f%e3%83%a4%e6%9b%b831%e7%ab%a023%ef%bd%9e40%e7%af%80/ Sun, 27 Sep 2020 06:42:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=704 "新しい契約
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1.導入

みなさま、おはようございます。半年間かけて、エレミヤ書に取り組んでまいりましたが、今日はその最終回になります。前回は、エレミヤの人生の終わりがどのようなものだったかを学びました。20歳そこそこの青年時代からすべてを神に献げ尽くした人物の生涯の終わりとしては、それはあまりにも悲劇的なものでした。このような義人の苦しみ、神に心から仕えた人の受けた苦難の意味をどう考えるのか、というのは聖書における一つの重大なテーマです。神に仕える人は神に守られるべきではないか、なぜ神は僕を見捨てたもうたのか、という問いは、実にイエス・キリストの十字架にまで続く大きな問いなのです。しかし今日は、エレミヤの生涯の軌跡を追うよりも、そのような苦難の人生を経てエレミヤの思想がどのように深められていったのかを考えてまいりたいと思います。エレミヤという偉大な預言者の思想、あるいは神学の深まりの軌跡を考えていこうということです。

神学というと難しく感じられるかもしれません。しかし、私たちキリスト者は皆、ある意味では神学者なのです。神学者とは、神について、神とはどんな方なのかを考える人、思いめぐらす人です。「神」という言葉から、私たち人間は様々なイメージを思い浮かべます。古今東西、あらゆる文化において神は信じられてきましたが、神に対するイメージというのは文化によって相当異なります。現代の文明社会では、神を信じていないという人が増えてきましたが、そういう人たちでさえ、「神」についての何らかのイメージを持っているものです。最近「神ってる」という言葉が流行語になりましたが、これも「神」について人々が何らかの共通のイメージを抱いているからこそこういう言い方ができるのです。多くの人が思うのは、神というのは人間をはるかに超えた力や知恵を持つ、そういう存在、あるいは穢れた人間とは異なる聖なる存在、このように思います。しかし私たちクリスチャンは、何を差し置いても「神は愛である」と告白します。神とは圧倒的な力だ、パワーなのだと考えたり、あるいは人間が絶対に近寄ることもできない、はるかに遠い聖なる存在なのだと、そういうふうに神を捉えるよりも、神は愛だ、ということを強調します。では神が愛だとはどういう意味なのか、神の愛とはどんなものか、と問われれば、それはイエス・キリストというお方、この人の生きざま、この人の愛、これこそが神の愛を最も明確に私たちに示してくれたのだ、とこう告白するのです。そして、神をこのような愛のお方として理解するときに、私たちは神についてのある特定の見解、見方を人々に表明しているのですから、私たちは立派に神学している、と言えるのです。

このように、私たちの神に対するイメージは、イエス・キリストとの出会いを通じて形作られていきます。ではエレミヤの場合はどうだったのでしょうか。エレミヤは神に出会った人です。しかも、普通の信仰者が体験するような神の出会いというものをはるかに超えた、直接的で強烈な神との出会いを経験した人です。しかもその出会いは40年にもわたる、大変長い期間に及ぶものでした。この神との出会いを経験する前は、エレミヤも子供の時からモーセの律法の書を読むことなどを通じて、神についていくばくかのことは知っていたでしょう。しかし、神の僕として、神とのより深い人格的交流を続けることによって、エレミヤの神についての理解は格段に深まっていきます。エレミヤは、より深く神を知るようになっていったのです。今日は、神の真の僕であるエレミヤから、神について、人間について、そして神と人間との関係について学んでまいりたいと思います。

2.本文

今日お読みいただいたエレミヤ書31章は「慰めの書」と呼ばれる部分で、イスラエルの民の罪に対する厳しい糾弾や裁きの宣告が続くエレミヤ書の中では、際立った章だと言えます。エレミヤの人生は、神との格闘の人生だったと言えます。神はエレミヤに、人々に厳しいメッセージを届けるようにと迫ります。エレミヤは、頑なな民がそのようなメッセージを受け付けないのを知って、それを言いたくはありません、と抵抗します。しかし、神の言葉はエレミヤの上に重くのしかかり、エレミヤはその言葉を吐き出さないわけにはいかない、そういう苦悶に満ちたプロセスが繰り返されます。

神は預言者に何事かを伝える際に、主に二つの方法を取られます。一つは預言者が目ざめている時に、その耳に向かって言葉を直接伝えることです。預言者は初め、それが神の言葉なのか、あるいは幻聴なのか、戸惑ったことだろうと思われます。現代の心理学によれば、このように耳に何かが聞こえてくる、響いてくるという状況は、聞く者に非常な苦痛を与えると言われています。聞く者にとっては神の言葉が耳に突き刺さってくるような、頭が割れるような、非常な痛みを伴う体験なのです。主は、エレミヤの耳に直接語りかけるという形でコミュニケーションをとることが多かったのです。そしてこのような体験は、実はエレミヤには大変な苦しみでした。そのことが暗示されているのが20章9節です。

私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はしまっておくのに疲れて耐えられません。」

このように、神の言葉はエレミヤに迫ってくる、逃れたくても逃れることのできない重荷のようなものでした。しかし、預言者に言葉を直接語りかけるというこうした方法とは別の手段もありました。それは言葉ではなく、ヴィジョン、幻を見せるというものです。旧約聖書では、アブラハムのひ孫でエジプトの宰相になったヨセフ、あるいはエレミヤより一世代後の預言者ダニエルなどが、神から夢やヴィジョンの形で預言を受け取りました。このような場合には、預言者は苦痛を感じることなく、夢うつつの状態で神からのメッセージを受け取るのです。今日の箇所でエレミヤが神から受けたものは、ヴィジョン、幻でした。しかもそれは恐ろしい幻ではなく、楽しい夢のようなヴィジョンでした。31章ではエレミヤはリラックスし、さらには喜びに満たされているとさえ言えます。それが端的に示されているのが26節です。そこをお読みします。

ここで、私は目ざめて、見渡した。私の眠りはここちよかった。

エレミヤは夢を見ていたのでしょうか。エレミヤは眠りの中で、神から美しいヴィジョン、イスラエルの幸いな未来の幻を示され、心地よい気分になっていたのでした。楽しい夢を見た後に起きると、その余韻が残っているものですが、エレミヤもそんな状態でした。エレミヤが見た幻とは、イスラエルの回復、かつてアッシリアに滅ぼされてしまった北イスラエル王国の10部族、そしてまさにエレミヤの目の前で滅ぼされようとしている南ユダ王国の人々、これらの人々が皆、神の永遠の愛によって回復される、そういう夢を見たのです。エレミヤは、これまでも神からヴィジョンを受け取ったことがありましたが、それは楽しいものというより、むしろまがまがしいもの、恐怖を感じるものでした。それはイスラエルに下る神の裁きの幻だったからです。そんな恐ろしいヴィジョンばかりを見せられてきたエレミヤにとって、神とは怒る神、恐るべき方だったのかもしれません。特に今日お読みいただいた章の前の30章では、イスラエルの通らなければならない恐るべき運命が語られています。30章の5節から7節をお読みします。

まことに主はこう仰せられる。「おののきの声を、われわれは聞いた。恐怖があって平安はない。男が子を産めるか、さあ、尋ねてみよ。わたしが見るのに、なぜ、男がみな、産婦のように腰に手を当てているのか。なぜ、みなの顔が青くなっているのか。ああ、その日は大いなる日、比べるものもない日だ。それはヤコブにも苦難の日だ。しかし彼はそれから救われる。」

イスラエルはこれから、空前絶後の苦難に直面しなければなりません。子供の産めない男性が妊婦のように苦しむ、ということが言われています。しかし、それは終わりではないのです。イスラエルは神に裁かれた、ジ・エンドだ、というわけではないのです。主はそうした状況からイスラエルを救われる、そういう約束も同時に与えられました。エレミヤが見た喜ばしい夢とは、そのような救いについての夢でした。エレミヤは怒る神、裁きを下す神ではなく、救う神、ご自身の民をとことんまで愛し抜く神の姿を見たのです。この31章では、そのような神の姿が描かれています。特に美しいのは、今日の31章の2章以降です。そこをお読みします。

主はこう仰せられる。「剣を免れて生き残った民は荒野で恵みを得た。イスラエルよ。出て行って休みを得よ。」主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。」

神はイスラエルを愛しています。神は「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」と言われます。では、なぜ神はそのイスラエルに激しい怒りをもって臨んだのでしょうか。神のイスラエルへの怒りが激しかったのは、その愛が大きかったからです。よく言われることですが、愛の反対は憎しみではありません。愛の反対とは無関心です。「あんな奴は、どうでもいい。私には関係ない」と、こういう態度をとるのは、愛を全く感じない対象に対してです。神はイスラエルを愛していました。だからこそ、イスラエルの裏切りに怒りを感じたのです。親が子供に怒るのは、子供を愛しているからです。子供を愛するがゆえに、子供に間違った道を歩んでほしくないと願うがゆえに、親は子に怒り、時には厳しい罰を与えます。しかしそれは愛から出ていることなのです。エレミヤも、神のイスラエルへの激しい怒りの背後にある、こうした神の強い愛をはっきりと知りました。それが20節です。

エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。
それとも、喜びの子なのだろうか。
わたしは彼のことを語るたびに、
いつも必ず彼のことを思い出す。
それゆえ、わたしのはらわたは
彼のためにわななき、
わたしは彼をあわれまずにはいられない。

神のはらわたは、エフライムのためにわななきます。はらわたがわななく、というのはどういう状態なのか、うまくは言えませんが、これはヘブル語特有の言い回しで、その意味は「私は彼を慕い求める」とも訳すことができます。「エフライム」というのはイスラエル12部族の一つのエフライム族のことです。ご承知のように、ダビデ、ソロモンによって打ち立てられたイスラエル王国はソロモンの死後北と南の王国に分裂します。南ユダ王国はダビデ王の家系の王が統治しましたが、北イスラエル王国の初代の王ヤロブアムはエフライム族出身でした。それで北イスラエル王国はしばしばエフライムと呼ばれます。北イスラエル王国は南ユダ王国が滅びる100年以上も前に滅亡しており、北王国を形成していた10部族は失われた10部族と呼ばれ、行方不明になっていました。その10部族を慕い求めて、神のはらわたがわななく、というのです。エレミヤは、とうの昔に滅んでしまった北イスラエルの人々のためにわななく神を知ったのでした。神はご自身のものとされた民を決して忘れず、見捨てることはない、ということをエレミヤは確信していきます。神はイスラエルの罪を怒り、裁いたけれど、しかしイスラエルのために平和を、そして将来と希望を用意されているのです。その将来の希望を一言で言い表すのなら、それは「新しい契約」と呼ばれるものでした。「契約」という言葉は難しいかもしれませんが、ここでは結婚と言い換えてもよいかもしれません。神とイスラエルとの関係はしばしば夫婦関係にたとえられますが、その関係は壊れてしまいました。神はその壊れた結婚関係を立て直すといっておられるのです。離婚した夫婦がもう一度やり直すように、神はイスラエルとの壊れた関係をやり直します、そのことを「新しい契約」と呼んでいるのです。しかし、失敗した結婚をやり直すためには、なぜ失敗してしまったのかについての反省が必要です。反省がなければ、また同じ失敗を繰り返すだけだからです。では神とイスラエルとの関係はどうして壊れてしまったのでしょうか?それはイスラエルの罪のためだ、イスラエルが神を裏切ったからだ、ということになりますが、しかし話はそう簡単ではないのです。イスラエルも、何も好き好んで神を裏切ったわけではないのです。なぜイスラエルの人々は神を裏切ってしまったのか?それは、どうしようもない不安のためでした。イスラエルの人たちが偶像と呼ばれるほかの神々の下に走ってしまったのは、不安のためでした。私たちも、いつも生活の不安を抱えて歩んではいないでしょうか。健康が損なわれて病気になる不安、事故のために体が不自由になってしまう不安、農業を営んでいる人は、気候不順のために作物の収穫が不調に終わってしまう不安、仕事をしている人であれば失業してしまう不安、私たちの日常生活は不安だらけなのです。イスラエルの人々も同じでした。周囲を大国や敵対的な国々にぐるっと囲まれた小国として、どうやって生き残るか、あるいは干ばつや洪水などの自然災害の脅威を常に感じながら、どうやったら安定した収穫が得られるのか、そういう生存のための不安をいつも感じていました。彼らには先祖からずっと仕えてきた神がいます。しかし、その神はエジプトの神よりも強いのだろうか、無敵のバビロンの背後にいる神よりも強いのだろうか。バビロンやエジプトの神々にも敬意を払うべきではないだろうか。また、イスラエルの人々に日々の糧を提供してくれる農業についてもそうです。イスラエルの神は砂漠の神です。モーセに率いられた出エジプトの民が砂漠をさまよう中で、彼らを導いてくれた神です。しかし、今や彼らは砂漠ではなく農地で暮らしています。イスラエルの神は農業には不得手ではないのか。豊作の神であるバアルにも敬意を払うべきではないだろうか。このように考えると、イスラエルの神だけでなく、ほかの神々も拝んだほうが安心ではないか、という風に思えてくるでしょう。私たちも彼らのことを笑えません。日本にも、星の数ほど神々がいます。商売繁盛の神様、縁結びの神様、安産の神様、受験の神様、等々です。そんな神様本当にいるんだろうか、と思いながらも、少しでも不安が和らぐのなら、とそういう神様にお参りするのです。そういう不安から出る行動を笑うわけにもいきません。困った時の神頼みというように、普段どんなに強がっていても、いざとなれば人間は何かにすがらなくてはやっていけません。そして、すがるものが多ければ多いほど安心でしょう。イスラエルの人たちも、まさにそのように行動してしまいました。神は人ではないので、そのような不安に動揺することはありません。しかし、イスラエルは神のパートナーだからと言って、神のように完璧にはなれないのです。本質的に弱くもろい人間は不安だらけなのです。ですから、ついふらふらしてしまうのです。しかしイスラエルの神は唯一の神です。自分だけを信頼してほしい、偽りの神々を信頼しないでほしい、と強く願われる神です。そのためにイスラエルの人々の背信に怒るのです。しかし、その神は憐み深い神です。神は人間の持つどうしようもない弱さ、不安のあまりに愚かな行動に走ってしまう人間を深く理解しておられます。ですから、彼らをただ怒るだけでなく、その根本の問題、病を治療しよう、不安のあまり右往左往してしまう人間性そのものを癒してあげようと、そのように心を決められたのです。エレミヤの語る新しい契約とは、そのような契約のことです。神はイスラエルの人々の弱さを包んであげようとされるのです。ですから神は自ら人となられたのです。私たち人間と同じ弱さを身にまとい、人間と同じように日々の生活の不安の中で暮らしながら、同じ仲間として人間に必要なものを与えてあげようと、そう心に決められたのです。人間と同じ土俵に立つこと、人間との連帯の中で、人間と共に歩むことを神は決意なさったのです。それが新しい契約です。ですから人となられた神であるイエス・キリストこそ新しい契約です。イエス様こそ、神と人間の新しい結婚関係、真のパートナーシップのあるべき姿を示してくださったのです。そのとき、「人々はもはや、『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ」というエレミヤの預言が成就するのです。エレミヤは、苦難に満ちた預言者人生の果てに、このような素晴らしい未来がイスラエルに、そして人類全体に約束されていることを知ったのです。そして、そのようなことを成し遂げて下さる神の、人類への愛を知ったのです。エレミヤの晩年は確かに不遇なものではありましたが、エレミヤがこのような希望を抱きつつその人生の終わりの日々を過ごしたことを忘れないようにしましょう。

3.結論

今日は、エレミヤ書からの連続説教の最後として、エレミヤの思想の深まり、その終着点について考えてまいりました。エレミヤがたどり着いたのは、神の将来のヴィジョンでした。それは「新しい契約」と呼ばれるもので、その時神は人間の持つどうしようもない弱さ、不安のあまり神を何度も裏切ってしまう根本的な弱さ、その弱さそのものを癒してくださる、正してくださる、そのような未来をエレミヤは垣間見ることができたのです。ではどうやって?というところまではエレミヤには知らされてはいませんでした。まさか神ご自身が人となられ、人と同じような弱さや苦しみの中を歩まれるとまでは、想像できなかったでしょう。しかし、確かに神はその民との、そして人類との関係を新たにされる、ということについては確信を抱いて死んでいったのです。彼の苦難の人生の果てにあったのは絶望ではなく希望だったのです。そして私たちは、エレミヤの夢見た希望が実現した時代に生きているのです。その幸いを覚え、またエレミヤの気高くも赤裸々な人生を思いながら、ひと言お祈りしましょう。

エレミヤを召し出し、エレミヤを導き、またエレミヤに素晴らしい未来のヴィジョンを示された神様、そのお名前を賛美します。エレミヤが夢見た未来は、ついに人となられた神であるイエス・キリストにおいて実現しました。私たちは私たちの弱さを深く思いやって下さる方、主イエス・キリストと共に歩みことができます。そのことを心から感謝します。私たちはエレミヤのような勇敢な生き方とは程遠い生き方をするものではありますが、しかしこのような信仰の先達を持った幸いにも感謝します。あなたがいつもエレミヤを見守ってくださったように、私たちを見守ってください。われらの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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エレミヤのその後エレミヤ書42章1~22節 https://domei-nakahara.com/2020/09/13/%e3%82%a8%e3%83%ac%e3%83%9f%e3%83%a4%e3%81%ae%e3%81%9d%e3%81%ae%e5%be%8c%e3%82%a8%e3%83%ac%e3%83%9f%e3%83%a4%e6%9b%b842%e7%ab%a01%ef%bd%9e22%e7%af%80/ Sun, 13 Sep 2020 06:49:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=667 "エレミヤのその後
エレミヤ書42章1~22節" の
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1.導入

みなさま、おはようございます。エレミヤ書からの連続説教も今日で16回目、残すところあと2回となりました。今日のメッセージは、エレミヤの人生の最後の日々、エルサレムが陥落し、ユダ王国に遣わされた預言者としての使命を終えた後の人生の最晩年について学んでまいりたいと思います。エルサレムが陥落した時、エレミヤはもう60歳になっていました。今日では人生100年時代と呼ばれるようになりましたが、当時は60歳というともう現役を退く年でした。過酷な預言者人生を送ったエレミヤですので、せめて余生は平穏な人生を送りたかったでしょうが、そうはいかなかったのです。彼の人生は、その終わりまで苦難に満ちたものでした。

さて前回は、エルサレムが滅びる直前に行われた、エレミヤとユダ王国最後の王ゼデキヤの密談の場面を見ました。エレミヤは、もうすぐバビロンがエルサレムを滅ぼすために戻ってくる、それまでの間に早くバビロンに降伏して生き延びなさいと強く勧めます。その言葉を受け入れたゼデキヤ王ですが、結局徹底抗戦を叫ぶ部下たちを恐れて決断できず、エルサレムはとうとうバビロンによって攻め滅ぼされました。その顛末は、本日交読文でお読みした通りです。バビロンの王ネブカデレザルは、エルサレムが陥落するとき、部下に命じて囚われの身だったエレミヤを保護させました。なぜバビロンの王がイスラエルの預言者を保護したのか、その詳しい理由は書かれていません。おそらく、早い段階でバビロンに投降していた親バビロン派のユダヤ人たちが、バビロンの王にエレミヤのことを伝えていたのでしょう。エレミヤは、イスラエルの神はバビロンの王を覇者に定めたと預言していましたら、そのことを聞いたバビロンの王も悪い思いはしなかったのでしょう。エレミヤを助け出すことにしたのです。

しかし、40章の前半を見ますと、保護されたはずのエレミヤは、戦争捕虜として鎖につながれて、バビロンに連行されそうになっています。おそらく戦争直後の混乱で、エレミヤを保護するようにとのバビロンの王の命令が末端の兵士にまでは伝わっていなかったのでしょう。バビロンの王からエレミヤ保護を命じられていた侍従長は慌ててエレミヤを捕虜の中から再び助け出し、釈放します。そしてエレミヤに、自分と一緒にバビロンに行ってもよいし、エルサレムに残ってもよい、好きな道を選びなさい、と語ります。エレミヤはエルサレムに残ることを選択します。廃墟になったエルサレムの人々を励ますことに残りの人生を費やそうと思ったのかもしれません。ではこれから、その後にエレミヤとエルサレムの人々に何が起こったのかを見てまいります。

2.本文

エルサレムの主だった人々がバビロンに捕囚の民として連行されていく中、エレミヤはエルサレムに残された人々と共にいることを選びました。バビロンの王は、廃墟となったエルサレムとユダヤ地方の治安維持のために、生き残ったユダヤ人のリーダーたちの中からゲダルヤという人物を選び、ユダヤ地方の総督にしました。ゲダルヤはシャファンの一族の者でした。シャファンの一族のことはご記憶でしょうか。この一族はエルサレムの有力な一門でしたが、これまで迫害されて殺されそうになったエレミヤを何度も守ってきた人々でした。彼らはエレミヤを信じていたので、エレミヤの言う通りバビロンに従うべきだと信じていました。つまり、エルサレムで籠城していた人々の中では珍しく親バビロン派の人たちだったのです。バビロン側もそのことを知っていて、占領したエルサレムの統治をシャファン一族のゲダルヤに委ねたのです。アメリカも太平洋戦争後に日本を占領した時に、戦前から親米派と目されていた吉田茂を日本のトップに据えましたが、それと少し似ているかもしれません。エルサレムに残ることに決めたエレミヤは、このゲダルヤの下に身を寄せました。

バビロンによって全土を焦土にされ、王様は連れ去られ、宗教生活の中心であった神殿も破壊され、失意のどん底にあったエルサレムの人たちも、新しい総督ゲダルヤのリーダーシップの下で少しずつ落ち着きを取り戻していきました。ゲダルヤの政策は、基本的にエレミヤの預言に従ったものでした。すなわち、バビロンに仕えなさい、バビロンに従うことであなたがたは平和になる、というものでした。バビロンへの敵意は捨てて、バビロンと友好的にやっていこうというものです。かつての日本も、鬼畜米英を叫んでいましたが、戦後はアメリカに従っていくことで繁栄を手に入れていきましたが、それと似たところがあるでしょうか。その結果、段々とエルサレムやその周辺の人々の暮らし向きも上向いてきました。しかし、この平和な日々は長くは続きませんでした。以前の説教で、ゼデキヤ王は周辺の国々の王たちから反バビロン連合に加わるように誘われていたということをお話ししましたが、パレスチナの王国にはバビロンに反感を持つ国が少なくありませんでした。そのうちの一つ、アモン人の王は、エルサレムとユダヤの地が親バビロン派のゲダルヤによって治められているのが面白くありません。ユダ王国最後の王ゼデキヤも、バビロンに敗れたときにアモン人の王のところに逃げ延びようとしていましたので、アモン人の王はユダ王国の王室とは親しかったのでしょう。そこで、アモン人の王はユダ王国の王家の生き残りである王子イシュマエルに使いを送って、こうけしかけます。「世が世なら、君はイスラエルの王となるべき人だ。ところがどうだ、バビロンにしっぽを振って出世したかつての家来の下にいるなんて、惨めなものじゃないか。さあ、あのゲダルヤなど殺めてしまいなさい。私も君に協力するから」と、こんな具合にささやいたのでしょう。王子イシュマエルも家族をバビロンに殺されたり捕虜にされたりしていたので、バビロンにべったりのシャファンの一族とゲダルヤに良からぬ思いを抱いていたのでしょう。このアモン人の誘いに乗ってしまいます。この陰謀を察知した総督ゲダルヤの友人たちは、「王子イシュマエルが君の命を狙っているぞ」、と警告します。中でも将校のヨハナンは、機先を制して、イシュマエルを殺してしまおうと進言します。このヨハナンというのは大事な人物なので、覚えておいてください。しかしゲダルヤは少しお人よしというか、あまり人を疑うようなタイプの人ではなかったのでしょう。王家の人イシュマエルのことを、そんな風に悪く言うものではない、とたしなめて取り合いません。

しかし、このゲダルヤの鷹揚さは高くつきました。イシュマエルたちは無警戒のゲダルヤを食事に誘うのですが、その時に、彼を不意打ちで殺害してしまったのです。だまし討ちです。イシュマエルはゲダルヤだけでなく、そこにいたバビロンの将校たちまで殺してしまったのです。終戦直後の日本でいえば、日本の総理大臣だけでなく、アメリカのGHQの将校まで暗殺してしまうようなものです。日本でマッカーサーや吉田茂がもし暗殺されていたなら、戦後の復興など吹っ飛んで再び日本は大混乱に陥ったでしょう。しかし、まさにそのような最悪の出来事がエルサレムとその住民たちに起きたのです。

イシュマエルら暗殺者たちは、多くの同胞のユダヤの人々をだまし討ちで殺したり、捕虜にしましたが、ごく少数で行動したものですから彼らも危ない橋を渡っていたのです。ゲダルヤの友ヨハナンたちがイシュマエルの凶行を知って反撃に出るのと、多勢に無勢で勝ち目はないと見てアモン人の王のところにさっさと逃げてしまいました。そしてユダヤの地に残されたのは、ゲダルヤにイシュマエルの悪だくみについて警告したヨハナンとその仲間だけになりました。そこで、彼らは大変危険な状況に置かれました。彼らにはバビロンに反逆する気など毛頭ありませんでした。しかし、問題はバビロンの王が彼らのことをどう思うかでした。バビロンの王としては自分の任命した総督ゲダルヤと、バビロンの兵士たちが殺されたのですから、これは間違いなく謀反です。首謀者はイシュマエルだとしても、バビロンの王はヨハナンたちのことも共謀者として疑うでしょう。なぜなら、ヨハナンがゲダルヤの友ならば、イシュマエルは彼らも殺したはずだからです。そして今やイシュマエルがいなくなったとあっては、バビロンの王はヨハナンたちをゲダルヤ殺しの下手人として捕まえるでしょう。彼らは総督殺しの汚名を着せられて、処刑されてしまうかもしれません。そういう最悪のシナリオを考えて、彼らはエジプトに逃げることにしました。エジプトならかつての同盟国として、自分たちをかくまってくれるだろうと。しかし、彼らは自分たちの決断に自信が持てませんでした。そこで、そのことについての神からのお墨付きを得ようとして、預言者エレミヤに神からのみ言葉を与えてくれ、と願うのです。ここまでが、今日お読みいただいた42章の背景です。ヨハナンたちはエレミヤにこう願います。

あなたの神、主が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように。

そして彼らは、エレミヤを通じて語られる言葉がどんなものであっても、たとえそれが彼らの期待に反したものだったとしても、私たちは主の言葉に従います、と誓ったのです。彼らの願いを受けて、エレミヤは十日間神に祈り、神からの言葉を待ちました。それからどんな神の言葉をエレミヤが受けたのか、それは今日お読みいただいた42章に書いてある通りです。ユダヤの地に留まりなさい、バビロンの王の報復を恐れてはいけない、主がバビロンの王を動かし、あなたがたを憐れむようにしてくださる、と。しかし、もしエジプトに逃げるなら、あなたがたには災いが臨むだろう。剣とききんと疫病で死ぬことになるだろう、とエレミヤは警告します。しかもエレミヤは、彼らが神の言うことを聞くと誓ったのにそれを守らずにエジプトに下るだろう、と彼らが自分の話した神の託宣に従わないということまで預言しました。

さて、このエレミヤの話を聞いたヨハナンたちはどうしたでしょうか。「いいえ、エレミヤよ。十日前に誓った通り、私たちはあなたを通じて語られるどんな神のご命令にも聞き従います。ユダヤに残ります」と答えたでしょうか。残念ながら、そうではありませんでした。43章の2節と3節をお読みします。

すると、ホシャヤの子アザルヤと、カレアハの子ヨハナンと、高ぶった人たちはみな、エレミヤに告げていった。「あなたは偽りを語っている。私たちの神、主は『エジプトに行って寄留してはならない。』と言わせるために、あなたを遣わされたのではない。ネリヤの子バルクが、あなたをそそのかして私たちに逆らわせ、私たちをカルデヤ人の手に渡して、私たちを死なせ、また、私たちをバビロンへ引いて行かせようとしているのだ。」

と、こういうのです。エレミヤよ、あんたは嘘をついている、とまで言うのです。この言葉から分かるのは、彼らの方こそ嘘をついていたということです。彼らはエレミヤに対し、神の言葉がどんなものであっても従うから、私たちに神のみ言葉を下さい、と誓いました。しかし彼らは、神の言葉を聞く前からエジプトに逃げることを固く心に決めていたのです。彼らは単に、自分たちの決断について神様からのお墨付きが欲しかった、それだけだったのです。彼らは本当に神を信頼し、神の命じることならなんでも従うというような素直さ、従順さを持っていませんでした。むしろ、うなじの怖い人々だったのです。ですから、エレミヤが、いや神様が自分たちの思い通りのことを言ってくれないと知って、神に従おうとはしませんでした。彼らは神の御心(みこころ)よりも、自分たちの御心(おこころ)にしたがったのです。 

しかし、私たちも彼らを笑うことはできません。私たちもまた、神に従うことよりも神に私たちの願う通りに動いてもらおう、神が自分たちの思い通りに行動してくれるようにと願う者ではないでしょうか。また、神よりも自分の判断を信頼してしまうような、そんな者ではないでしょうか。神の前に本当に謙虚になる、神の言葉に心から従うというのは本当に難しいものです。神が私たちの人生に試練や苦難を与えるのも、私たちの頑なな心が砕かれて、神の前にへりくだり、神に従うことを学ぶためなのです。

さて、エレミヤたちの話に戻りますが、結局、ヨハナンたちはエレミヤの言うことを聞かず、無理やりエレミヤやバルクをも連れてエジプトに下りました。このエレミヤとバルクを連れて行ったことに、彼らの動揺する気持ちが見透かされているように思われます。エレミヤとバルクが神の名をかたって嘘を語ったと彼らが本当に信じていたのなら、エレミヤたちを殺すかユダヤの地に置き去りにするかしたはずです。しかし、彼らは実はエレミヤが本当のことを語っていることを心の奥では知っていたのかもしれません。ですからエレミヤたちに一緒に来てほしかったのです。これからエジプトに行って、本当に困ったことになったときに、エレミヤを頼ることもあるかもしれない、と考えたのでしょう。エレミヤにとってはなんとも迷惑な話ですが、彼と盟友のバルクは心ならずもエジプトに連れていかれることになりました。エレミヤたちは、シナイ半島の荒れ野を旅してとうとうエジプトの王パロの宮殿の前までたどり着きました。かつてモーセに率いられた出エジプトのルートを逆戻りしたわけです。しかしエレミヤはここで非常に大胆な行動に出ます。なんと、このパロの宮殿はバビロンによって滅ぼされる、エジプトの神殿はバビロンの王ネブカデレザルによって破壊される、と宣言したのです。今でいえば、亡命先の国のど真ん中で、並み居る記者たちの前で「あなたたちの国は遠からず滅ぼされる」と宣言するようなものです。このエレミヤの突然の行動に、ヨハナンたちが慌てふためいたのが目に浮かぶようです。

しかし、ともあれエルサレムの生き残り組はエジプトに亡命を受け入れてもらい、エジプトでの生活が始まりました。彼らの暮らしが44章に書かれていますが、そこには驚くべきことが書かれています。エジプトに亡命したユダヤ人たちは、なんと天の女王を拝み始めました。エジプトは、様々な神々が礼拝されている、混合宗教のメッカのようなところでした。そのような多神教的な宗教的環境にユダヤ人たちは順応しようとして、彼らもイスラエルの神以外の神々を拝み始めたのです。エレミヤはそのことに怒り、あなたがたは偶像礼拝をしたために神の怒りを買い、国を失ったことをもう忘れたのか、と厳しく彼らを批判します。しかし、言われたほうも今度は黙っていません。彼らは、エルサレムが滅んだのは偶像礼拝のためではない、逆だ、むしろ天の女王を礼拝するのを止めたので、国が滅んでしまったのだ、だから今こそ私たちは天の女王を礼拝するのだ、とこのように開き直るのです。この、全く反省のないユダヤ人を前にして、エレミヤが何と言ったか。エレミヤの最後の言葉が44章27節に残されています。それをお読みします。

見よ。わたしは彼らを見張っている。わざわいのためであって、幸いのためではない。エジプトの国にいるすべてのユダヤ人は、剣とききんによって、ついには滅び絶える。

このような悲惨な宣告をしなければならないとは、エレミヤの胸も張り裂けそうだったでしょう。もうエレミヤもおじいさんです。みんなの喜ぶ顔が見たかったはずです。みんなが嫌がることなど言いたくなかったでしょう。しかし、ユダヤの人たちがあまりにも頑なで、また神を畏れないので、このような厳しいことを言わざるを得なかったのです。この後にエレミヤに何が起こったのかは聖書には記されていませんが、言い伝えによれば親エジプト派の人たちによってエジプトで殺されたと言われています。それが本当だとすると、この偉大な預言者の終わりとしてはあまりに悲劇的なものです。

3.結論

今日は、エルサレムが陥落した後の、エレミヤの人生の最終局面について学んでまいりました。エレミヤの最後は本当に気の毒なものでした。彼が一番行きたくなかったエジプトに無理やり行かされ、そこで同胞の人々がイスラエルの神を捨てて再び偶像礼拝にのめり込むのを目撃し、そして同胞の手によって異国の地で殺されてしまったのですから。この時、神はいったい何をしていたのでしょうか?神はエレミヤに対し、「わたしは必ずあなたを助け出す」と何度も何度も約束されたではありませんか。それなのに、なぜエレミヤはこんな悲惨な余生を送らなければならなかったのでしょうか。まさにエレミヤは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びたいような気持だったでしょう。こんなにも全身全霊で神に仕えた人を私たちは知りません。40年もの間、その人生のすべてを神にささげ、その間何度も殺されかけ、ののしられ、それでも不屈の信念で神とその召命に従いとおしたエレミヤ、その偉大な人物の晩年がこのようなものとは、私たちはなんともやりきれない思いがいたします。ここに人生の不条理、そして神の御心の不思議があります。なぜ神を信じる人、神に忠実に、まっすぐに生きる人が苦しみの人生を送るのでしょうか。この、義人の理不尽な苦しみというのは聖書全体の最も深刻で重要なテーマになっていきます。エレミヤの先輩である預言者モーセやエリヤ、旧約聖書のヨブ記、旧約と新約の間の中間時代に書かれたユダヤ人たちによる文書、そして新約聖書の主イエスや使徒パウロなど、神に仕える人の人生は幸いよりも苦難に満ちたものとなっていきます。

しかし、エレミヤの人生がいかに報われないものに見えたとしても、その人生は意味のない苦役に見えたとしても、彼の生きざまは真実なものとして私たちに迫ってきます。エレミヤは生涯正式なポストには縁がない人物でした。王家の一員でもないし、大祭司の一員でもありませんでした。無名無冠の彼のことを記録にとどめる必要などなかったのにもかかわらず、それでも彼の生きざまに衝撃を受けた人たちは、必死で彼の語ったことを書き留め、保存しました。それを読んだ後世の人々も深く感動し、何世代もの多くの人たちに勇気を与えてきました。エレミヤは愚直な人でした。まったく空気の読めない、いや読まない人でした。しかし、確かに彼は神に出会った人なのです。彼の壮絶な人生を支えたのは、真の神との遭遇という深い霊的な経験だったのです。神に捉えられ、神の言葉を語らずにはおられなかった、たとえその結果すべてを失うことになったとしても。

けれども、すべてを失ったエレミヤはすべてを得たのです。彼はこの世では不朽の名を得て、そして天においては神から冠を得たのです。この愚かなようで崇高な生き方に、私たちもほんの少しでも近づきたいと願うものです。エレミヤの人生を思い起こしながら、今週も歩んでまいりたいと思います。お祈りします。

エレミヤを召し出し、エレミヤと共におられた神よ、その御名を賛美いたします。エレミヤはあなたの真の僕(しもべ)でした。彼はあなたに従いぬきました。しかし、人々は彼を認めず、あるいはいいようにあしらい、彼を通じて語られる神の言葉に従いませんでした。そのために彼がどんなに苦しんだか、そのことを深く思わされます。私たちもエレミヤに逆らった人々と同じく、うなじの怖い愚かな民です。しかし、どうか私たちに砕かれた心をお与えください。エレミヤのように、誠実に神と人とに仕える人生を送ることが出来るように、私たちを強めてください。今週の日々の歩みをどうかお守りください。エレミヤと同じく苦難の生涯を過ごされたわれらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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王と預言者エレミヤ書38章14~28節 https://domei-nakahara.com/2020/09/06/%e7%8e%8b%e3%81%a8%e9%a0%90%e8%a8%80%e8%80%85%e3%82%a8%e3%83%ac%e3%83%9f%e3%83%a4%e6%9b%b838%e7%ab%a014%ef%bd%9e28%e7%af%80/ Sun, 06 Sep 2020 07:36:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=650 "王と預言者
エレミヤ書38章14~28節" の
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1.導入

みなさま、こんにちは。9月に入りました。エレミヤ書からのメッセージも、今日を含めて三回になります。さて、ここ一週間は安倍総理大臣の突然の辞意表明を受けて、次のリーダーは誰か、どう決めるのかについて世間の注目が集まっています。リーダーの資質は国の行方を左右するので、このことは大変重要なことです。特に国が危急存亡のときには、リーダーの決断一つで国の運命が決まってしまいます。私たち日本も、問題が山積している状態にあるので、本当にふさわしい人がリーダーになることを願わずにはおれません。

さて、今日はエレミヤの仕えた最後の王、そして実にユダ王国の最後の王となったゼデキヤの決断、いや決断というより彼の優柔不断について見てまいります。南ユダ王国はまさに危急存亡の際にいました。今や世界の覇者となったバビロンに攻め込まれ、18か月もの間首都エルサレムはバビロン軍に包囲されていました。エジプトから援軍が来たためにバビロンの包囲は一時的に解かれましたが、バビロンの王ネブカデレザルはエルサレム攻略をもちろん諦めてはいません。いつまたバビロンが攻めてくるか分からない、そういう状況にユダ王国は置かれていたのです。このバビロンの包囲が解かれた、つかの間の時間、この時が一国のリーダーたるゼデキヤ王に残された最後の時、決断をするための最後の機会でした。この時どう決断するかで、彼自身とその王国の命運が決まるのです。この時ゼデキヤ王は預言者エレミヤに助言を求めました。その顛末を今日は学んでいきます。

2.本文

さて、先週はエルサレムにいるエレミヤの下に、彼のいとこであるハナムエルがエレミヤの郷里であるアナトテからやってきた話を学びました。先週はお話ししませんでしたが、実はエレミヤはこの時は牢に入れられて監視されている状態にありました。軟禁状態にあるエレミヤを、ハナムエルは訪ねたのです。では、エレミヤはどうして捕まってしまったのでしょうか。38章では、エルサレムがバビロンに滅ぼされるという不吉なことをエレミヤが語っていたからだ、と説明されています。それはその通りなのですが、逮捕されるのにはひとつのきっかけがありました。そのいきさつは、すぐ前の37章の11節以降に書かれています。そこをお読みします。

カルデヤの軍勢がパロの軍勢が来るのを聞いてエルサレムから撤退したとき、エレミヤは、ベニヤミンの地に行き、民の間で割り当ての地を決めるためにエルサレムから出て行った。彼がベニヤミンの門に来たとき、そこにハナヌヤの子シェレムヤの子イルイヤという名の当直の者がいて、「あなたはカルデヤ人のところへ落ちのびるのか」と言って、預言者エレミヤを捕らえた。エレミヤは、「違う。私はカルデヤ人のところに落ちのびるのではない」と言ったが、イルイヤは聞かず、エレミヤを捕らえて、首長たちのところへ連れて行った。首長たちはエレミヤに向かって激しく怒り、彼を打ちたたき、書記ヨナタンの家にある牢屋に入れた。そこを獄屋にしていたからである。

エレミヤは、エルサレムがバビロンに包囲されている18か月の間、エルサレムはバビロンによって滅ぼされると叫び続けていました。助かりたければ、バビロンに降参して投降するしかない、そうすれば命だけは助かる、とエレミヤは語り続けました。エルサレムの防衛にあたっていた将軍たちは、部下たちの士気をくじくようなことばかり言うエレミヤに激怒していて、いつかあいつを黙らせてやる、殺してやると殺気立っていました。そしてとうとう彼らに好機が到来しました。包囲の解けたエルサレムを出て、故郷のアナトテに向かおうとするエレミヤを見て、あいつはバビロンに逃げ延びようとしている、あいつはバビロンの内通者、スパイだったのだと、エレミヤを訴える口実を見つけたのです。こうしてエレミヤは国外逃亡および敵との内通の嫌疑で捕えられました。彼らはゼデキヤ王に対し、「どうぞ、あの男を殺してください」と迫ります。彼らは王に、このエレミヤという男は民にわざわいを求めていると訴えます。エレミヤの行動が彼らを怒らせたのは理解できます。日本の歴史で考えれば、太平洋戦争の最中、冷静に考えればアメリカに勝てるはずがないのに、そのことを口にしただけで袋叩きにされました。アメリカに降伏しよう、アメリカと戦っても勝てないのだから、などと言おうものならすぐさま非国民、アメリカのスパイだと言われて非難され、下手をするとリンチに遭ったかもしれません。エレミヤも同じような状況に置かれていました。しかし、エレミヤは著名な預言者だったので、エルサレムの指導者たちもさすがにいきなり殺すわけにはいかず、王の許可を求めたのです。ゼデキヤは内心、エレミヤを神の預言者として信頼していましたので、この事態を心配していたはずです。しかし、彼はこう答えます。

今、彼はあなたがたの手の中にある。王は、あなたがたに逆らっては何もできない。

ゼデキヤは、エレミヤを殺していいとも、殺すなとも言いません。ただ、エレミヤがあなたがたの手の中にあるという事実を指摘しただけです。また、自分は無力な王だということを自嘲気味に語っています。あなたがたは私の裁断を求めているけれど、私はあなたがたの意に逆らっては何もできない無力な王なのだ、だからエレミヤの件も、あなたがたの好きなようにするがよい、と言っているのです。これはなんとも無責任な言葉ですが、ゼデキヤという人物をよく表している言葉でもあります。彼はヨシヤ王の息子たちの中でも三番目に王になった男です。兄たちは敵国に連行されたり、あるいは戦死したりして、やっとお鉢が回ってきたのです。しかも、彼は人々から推挙されて王になったのではなく、敵であるバビロンによって王にしてもらったような人物でした。自分はただのお飾りの王だ、お前たち重臣たちには逆らえないよ、と皮肉交じりに言ったのです。

しかし、そうはいっても彼はユダ王国の王です。しかも彼は本心ではエレミヤを救い出して、自分の相談相手になってほしかったのです。ですから、彼が強くエレミヤを助けよ、と言えば、家臣たちもそう簡単にはエレミヤには手を下せないはずです。結局彼はエレミヤのために何もしませんでした。このような煮え切らない王を最後の王として戴いてしまったことに、ユダ王国の悲劇がありました。

さて、王からエレミヤを自由にしてよいといわれたエルサレムの首長たちですが、さすがに彼らにも良心が残っていたようです。神の預言者と言われるエレミヤに直接手をかけることを躊躇し、エレミヤが餓死するような方法をとることにしました。そこで、エレミヤを雨水を貯めるための水溜めに放り込むことにしました。ここで「穴」と言われているのは水をためるための貯水池のことでした。しかし、そこには水はなく、地面は湿っていて泥でぬかるんでいました。そんなところに投げ入れられれば、エレミヤの体は段々と沈んでいきます。彼らはそこにエレミヤを閉じ込めて、食事さえ与えるつもりはありませんでした。エルサレムは1年半にもおよぶ籠城攻めを受けて、食糧は底をついていました。囚人に与える食べ物などない、ということです。エレミヤは寒さと飢えでじわじわ弱って死んでいくだろうと、彼らはそう考えたのです。ある意味で、直ちに殺すのよりも残忍な仕打ちだと言えます。

このエレミヤの絶体絶命のピンチを見て、すかさず行動したのがクシュ人の宦官でした。クシュ人とはエチオピアの宦官のことです。新約聖書の使徒の働きでも、エチオピアの宦官がイザヤ書を熱心に読んでいる場面がありますが、エチオピアは昔から信仰の深い人が多かったようです。彼は、このままでは神の人エレミヤが死んでしまいます、彼を助けるべきです、と王に直訴したのです。この宦官の勇気ある行動に促されて、ゼデキヤ王もやっと勇気を出してエレミヤを救う気持ちになりました。三十人の部下をエレミヤ救出に向かわせたのです。王も本当はエレミヤと話して、助言を受けたいと願っていたのです。クシュ人エベデ・メレク、これは王の僕という意味ですが、彼は首尾よくエレミヤを水ための中から救い出しました。

それからゼデキヤは、助けたエレミヤをこっそりと自分の下に呼びます。彼は、エレミヤが本物の預言者だと確かに信じていました。ですから、彼から神の言葉をどうしても聞きたかったのです。ゼデキヤはそれほど追い詰められていました。彼の姿は、ペリシテ軍の軍勢との戦いにおびえ、我をもすがる思いで霊媒師にサムエルの霊を呼び出してもらったイスラエルの初代の王、サウル王に重なるものがあります。彼はどうしても未来が、自分がこれからどうなるかを知りたかったのです。この王と預言者の秘密の会談はどんな風だったのか、興味を沸かせます。ゼデキヤはエレミヤを殺そうとしていた首長たちを恐れていたので、自分がエレミヤと会っていることがバレないように、細心の注意を払ったことでしょう。サウル王は霊媒師に会いに行くときに身元が割れないように変装していきましたが、ゼデキヤも、もしかすると変装してエレミヤとの密談に臨んだのかもしれません。王はエレミヤに会うと、単刀直入に切り出します。

私はあなたに一言尋ねる。私に何事も隠してはならない。

ここでは、ゼデキヤは何を尋ねたいのか言っていません。けれどもエレミヤには王が何を聞こうとしているのかがすぐわかりました。王は、「私はどうなるのか、どうすれば私は助かるのか」を聞きたかったのです。しかし、エレミヤは答えるのを躊躇しました。エレミヤは王の弱い性格を見抜いていました。この王は現実を見ようとしない、自分の聞きたいことを私が語ればよいが、私が彼の望まないことを語れば、それを決して受け入れようとしない、と思ったのです。エレミヤはこれまでも、人を介して王に忠告してきましたが、王は聞こうとしなかったのです。とはいえ、エレミヤは自分の命を助けるために、王におもねって、偽預言者のように調子のよいことを言う気などまったくありません。エレミヤはこれまでも、人々がどんなに嫌な顔をしても、神から告げられた本当の事だけを語ってきました。ですからここでもエレミヤは真実だけを言うつもりでした。そうはいっても、エレミヤも馬鹿ではありませんので、みすみす自分の命が危うくなることを言う気もありません。そこで王にこう言いました。

もし私があなたに告げれば、あなたは必ず、私を殺すではありませんか。私があなたに忠告しても、あなたは私の言うことを聞きません。

エレミヤにピシャリと言われてしまったゼデキヤですが、彼も必死です。エレミヤがまた何か不吉なことを言うのでは、という不安はあるものの、それでも未来がどうなるか分からないという不安の方がもっと大きかったのです。是が非でもエレミヤから神からの預言を聞き出そうと、彼は誓うことすらします。

私たちのいのちを造られた主は生きておられる。私はあなたを決して殺さない。また、あなたのいのちをねらうあの人々に、あなたを渡すことも絶対にしない。

ゼデキヤは神にかけて誓うことすらしました。私はあなたを殺さない、と。それだけでなく、あなたの命を狙うユダ王国の重臣たちからも、あなたを守ろう、とまで誓ったのです。これはエレミヤにとっても有難いことだったでしょう。この真剣なゼデキヤの願いにこたえて、エレミヤは彼に真実を告げます。とはいえ、これまでエレミヤが語ってきたことと変わるものではありませんが、今回は王に面と向かって伝えるという意味で、格段に重みのある言葉でした。エレミヤはこう言います。

イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『もし、あなたがバビロンの王の首長たちに降伏するなら、あなたのいのちは助かり、この町も火で焼かれず、あなたも、あなたの家族も生きのびる。あなたがバビロンの王の首長たちに降伏しないなら、この町はカルデヤ人の手に渡され、彼らはこれを火で焼き、あなたも彼らの手からのがれることができない。』

エレミヤはここで非常に大切なことを言いました。バビロンに降伏すれば、王の命だけでなく、エルサレムも破滅を免れるのだと。王というのは自分の命のことだけを考えればよいわけではありません。むしろ、自分はどうなろうとも、王国の民の命は助けたい、それが良い王というものではないでしょうか。しかし、ゼデキヤはエルサレムが救われることよりも、自分の命の心配をしているようでした。これは正直であるかもしれませんが、残念なことでもあります。ゼデキヤは、自分がバビロンに投降した場合、先にバビロンに投降していた人々が自分を殺すのではないかと、そのことを恐れていたのです。ユダ王国には二つの派閥に分裂していたようです。一つはゼデキヤのように、エジプトと連合を結んでバビロンに対抗しようとする勢力、もう一つはバビロンに従い、バビロンの属国として生きていこうという人々です。今の日本の政治家の中にも、親中派と親米派がいると言われていますが、ユダ王国もそういう拮抗する政治勢力がいたのです。親バビロン派の人々は、ゼデキヤがバビロンと戦争を始めたときに、こんな勝算のない戦いをしても無駄だとばかり、さっさとバビロンに降伏していました。彼らはバビロンと無益な戦いを始めたゼデキヤ王に怒っていました。ですからゼデキヤは、自分がバビロンに降伏したら、それらの親バビロン派のユダヤ人に殺されてしまうと恐れたのです。しかし、この時にエレミヤは力強い保証の言葉を与えました。王は投降しても、バビロンは彼を親バビロン派のユダヤ人たちに引き渡すことはしない。だから、今決断して主の言葉に従ってください。さもないと、あなたは友達の愚かな助言に従って国を滅ぼした愚か者として笑いものなる、と警告しました。ここでいう親友たちとは、ゼデキヤにエジプトと同盟を結んでバビロンに対抗しようと勧めたユダ王国の重臣たちのことでしょう。そしてエレミヤは、ダメ押しをします。王よ、あくまでバビロンに抵抗するのなら、あなただけでなくあなたの妻や子供たちもバビロンの手から逃れられない、そしてエルサレムは焼かれてしまう、と。

このエレミヤの言葉を聞いて、ゼデキヤも覚悟を決めたように思われます。エレミヤの言葉、彼を通じて語られた神の言葉に従うほかはないのだと。しかし、彼には別の懸念がありました。ユダ王国には親バビロンの勢力が確かにいました。しかし彼らはみなバビロンに投降してしまったのです。今ユダ王国に残っているのは、最後までバビロンと戦い抜くのだと意気込む反バビロン派の勢力ばかりなのです。彼らがこの王とエレミヤとの密談の内容を知ったらどうなるか、それを恐れました。太平洋戦争においても、日本がアメリカに勝てないことをよく知っていて、早く降伏したほうが良いと考えていた政治家や軍人はいたけれど、そんなことを言おうものなら一億総玉砕と徹底抗戦を叫ぶ軍人たちによって暗殺されることを恐れた、という話がありますが、ゼデキヤも同じようなことを考えていたのでしょう。バビロンに投降するにしても、いきなりその話をしようものなら、自分もエレミヤも殺されてしまうだろう。だから今はこの計画は秘密にして、入念に根回しをしてことを実行しよう、今はしばらく時間を稼ごうと思ったようです。そこでエレミヤに、非常に実際的な助言をします。もしこの会談のことが、エルサレムの首長や将軍たちに漏れて、彼らがエレミヤに王に何を話したのか言いなさい、殺すことはないから正直に話しなさいと言ってきても、彼らに正直に話してはならない、と言います。むしろ、こう言いなさいと助言します。

「私をヨナタンの家に返してそこで私が死ぬことがないようにしてくださいと、王の前に嘆願していた」と言いなさい。

エレミヤに、私は政治について王に進言したのではない、ただただ命乞いをしていたのだと言いなさいと助言したのです。このときエレミヤは王の助言に従いました。自分のところに来た首長たちに、王に語ったように、バビロンに降伏しろということもできたでしょうが、しかし彼らの心を変えることはできないと知っていたエレミヤは、無駄なことはせずに自分の命を救うことを選んだのです。

では王はどうしたでしょうか?ゼデキヤ王は確かにエレミヤの語った神の言葉を信じたはずです。しかし彼は信じただけで、行おうとしませんでした。彼はユダ王国の徹底抗戦を叫ぶ首長たちに恐れをなして、とうとう自分の望むこと、つまり降伏を言い出すことはできませんでした。彼は何をすべきか知りながら、人々の反対を恐れてそれができなかったのです。ゼデキヤのしたことは、いわば、行動の伴わない信仰です。神を信じたけれど、神の言うことに従おうとはしなかったのです。彼の優柔不断は大変高くつきました。彼の運命については次週学びますが、彼のために他の多くの人たちの命が失われることになったということだけは、言っておきます。

3.結論

今日は、せっかく預言者から神の言葉を聞きながら、それに従おうとはしなかったために国を滅ぼし、自分自身にも破滅を招いた悲劇の王ゼデキヤのことを学びました。彼に信仰がなかったわけではありません。彼は神に誓うこともできましたし、神の人エレミヤに聞こうという謙虚さも持っていました。しかし、彼は神に従うことはできませんでした。行おうとしなかったのです。行いの伴わない信仰は人を救わない、というのがヤコブの手紙の重要なメッセージですが、そのことを端的に示したのがゼデキヤだと言えるでしょう。なぜゼデキヤは正しいことが出来なかったのか。それは恐れのゆえです。正しいことをしたい、でも怖い。これは私たちがいつも感じることではないでしょうか。学校でいじめられている人がいる。これはよくないことだと知っていて、助けたいと思う。けれども彼を、あるいは彼女を助けると自分まで一緒にいじめられてしまう、それが怖い。だから黙っている。こういう経験をした人は少なくないと思います。そんなとき、私たちもゼデキヤと同じだと言えるでしょう。私たちもゼデキヤと何ら変わらないのです。もしそうならば、ゼデキヤを責めることは私たちにはできません。けれども、何も行動しなかったためにゼデキヤに起きた事、またエルサレムに起きたことを考えるなら、また何もしなかったために、いじめられていた人に何が起こったのかを考えるのなら、いかに恐れが大きいとしても、何もしないということでよかったのか、と心を探られます。

しばしば私たちの問題は、何をすべきかわからないことではなく、何をするべきかわかっているけれど、それに伴うコスト、面倒なこと、他の人たちの反対に恐れをなして、それをしないということです。しかし、だからこそ神への信仰が必要なのです。いや、神への信頼と言ったほうがいいかもしれません。私がやろうとしていることが、どんなに面倒な事態を引き起こすとしても、神が共におられる、神が共におられるのだと、そう心から信頼することからしか、行動を起こす勇気は沸いてこないでしょう。エレミヤはまさにそのような神への信頼と、勇気とを持った人でした。そのために彼は投獄され、殺されかけました。しかし主は、彼を最後まで助けたのです。願わくは、ゼデキヤのようにではなく、エレミヤのように生きる力を持てるように、主に祈りましょう。

歴史を支配し、私たちの心を探られる神よ。御名を賛美します。今日は、あなたから道を示され、何をなすべきかを知りながらも、恐れからそれが出来なかった悲劇の王ゼデキヤのことを学びました。私たちもゼデキヤと何ら変わるところがありません。私たちもあなたから、何をすべきか示されながら、恐れに足がすくんで何もできないものです。しかし、どうかそのような私たちを変えてください。行動する勇気をください。どうか日々の歩みの中で、そのような小さな勇気を私たち一人一人に与えてくださいますように。私たちの主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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エレミヤの祈りエレミヤ書32章16~44節 https://domei-nakahara.com/2020/08/30/%e3%82%a8%e3%83%ac%e3%83%9f%e3%83%a4%e3%81%ae%e7%a5%88%e3%82%8a%e3%82%a8%e3%83%ac%e3%83%9f%e3%83%a4%e6%9b%b832%e7%ab%a016%ef%bd%9e44%e7%af%80/ Sun, 30 Aug 2020 06:08:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=629 "エレミヤの祈り
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1.導入

みなさま、おはようございます。さて、エレミヤの預言者としての人生も、いよいよ終盤に差し掛かってきました。前回は、ユダ王国の人々が奴隷解放の誓いを撤回したために、滅亡が避けられないものとなったというお話をしました。今日の箇所は、その滅亡の先にある希望についてです。

ではいつものように、これまでの経緯を振り返ってみたいと思います。ユダ王国最後の王であるゼデキヤは、北の超大国バビロンの後ろ盾でユダ王国の王となることができました。しかし、ゼデキヤは南の超大国エジプトとひそかに同盟を結ぶことで、バビロンの支配を脱しようとしました。このユダ王国の動きを知ったバビロンの王ネブカデレザルは自分の子飼いの王の背信に怒り、大軍をもってユダ王国に攻めてきました。バビロンは、南ユダ王国の主要都市をすべて滅ぼし、最後にエルサレムを包囲しました。いわゆる籠城攻めです。しかも、18か月間、1年半もの間包囲網を敷きました。ユダ王国は窮地に追い込まれ、神の憐みを乞うために今まで一度も守ったことのない神の戒め、つまり奴隷解放の戒めを実施します。しかし、ここで事態が急変します。南の大国エジプトがとうとう動き出し、エルサレム救出のために援軍を送ったという報が届きました。バビロンも強国エジプトからの軍を警戒し、いったんエルサレムの包囲網を解きます。すると、脅威が去ったと喜んだエルサレムの人々は奴隷解放の宣言を撤回し、解放奴隷を再び奴隷にしました。この恥ずべき行動は神の激しい怒りを引き起こし、神はバビロンを再び連れ戻してエルサレムを滅ぼすことをエレミヤに伝えました。これが前回までの話です。

つまり、今回の聖書箇所はエルサレムが一時的にバビロンの包囲から解かれ、人々がつかの間の平和、安堵感を味わっているという状況で起きた出来事でした。では、今日の箇所を詳しく見ていきましょう。

2.本文

今日の箇所は、ある一つのエピソードから始まります。それは、エレミヤの郷里であるアナトテからエレミヤの親戚がエルサレムに訪ねてきたことでした。包囲されていたエルサレムですが、バビロンが去った後に一時的に交通が再開され、他の町からもエルサレムを訪れることができたのです。この訪問者、ハナムエルはこうエレミヤに語りました。「どうか、ベニヤミンの地のアナトテにある私の畑を買ってください。あなたには所有権もあり、買い戻す権利がありますから、あなたが買い取ってください。」実はエレミヤは、神からハナムエルにこのようなことを言われるであろうとあらかじめ知らされていたのですが、まさにその通りになったのです。このことから、ハナムエルの訪問が偶然ではなく神によって定められていたことが明らかにされたのです。このエレミヤが頼まれた買い戻しというのは、どういうことなのか少し説明しましょう。前回ヨベルの年のところで読んだ、レビ記25章にその規定があります。25章の25節です。お読みします。

もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買い戻しの権利がある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。

この規定は、前回もお話ししたようにイスラエルの中で富の集中、一部の人たちだけに土地やお金が集まって他の人たちが貧しくなることを防ぐためのものです。イスラエルの律法には先祖の地境を移してはならないという戒めがありますが、たとえば山口家に代々受け継がれてきた土地の割り当てを増やすことも減らすこともしないことで、ある一族が大地主になって富を独占するのを防ごうとしたのです。ですから、ある一族の中で誰かが貧しくなって土地を売らざるを得ない時は、同じ一族の他の人がそれを買い戻して一族の割り当て地を守ろう、維持しようという趣旨の掟です。エレミヤの一族にも先祖から伝わる相続地があったのです。エレミヤ自身は祭司の一家レビ族に属していたので、土地は持たないはずなのですが、アナトテという小さな町で暮らしていくためには祭司だけでは生活できず、いわば兼業農家のように農業と祭司の務めの両方をしていたのかもしれません。今でいえば、生活のために牧会の傍らアルバイトをしている牧師のようなものでしょうか。エレミヤはアナトテを離れて大都会であるエルサレムで生活をしていたわけですが、郷里で何らかの理由で畑を手放さざるを得なくなった親戚が、この律法の教えに基づいて親類であるエレミヤに畑を買い戻してくれ、と頼んできたのです。

この申し出に対して、エレミヤはどうしたでしょうか。エレミヤは躊躇なく購入を決めました。実は神は、このアナトテの土地を買い戻すことをもエレミヤに指示していたからです。この買い戻しの取引をエルサレムの人々が見ている目の前で行ったエレミヤは、皆の前で書記であり盟友であるバルクに対し、神からの言葉をこう語ったのです。

イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。これらの証書、すなわち封印されたこの購入証書と、封印のない証書を取って、土の器に入れ、これを長い間、保存せよ。まことに、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。再びこの国で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるのだ。

主がエレミヤとバルクに命じてさせた行動とは、一種のタイムカプセルのようなものです。みなさんは、タイムカプセルというものをなさったことがあるでしょうか。小学校の卒業式に、未来の自分に手紙を書いて、その手紙を地面に埋めて、成人式などの記念の日にそれを掘り返す、というようなことです。エレミヤが親類から土地を買い戻したのに、そのことを証しする大事な証書を直ちに用いずに、長い間土の器に入れて保存するのは、それがアナトテで直ちにその土地を買い取るためのものではなかったことを示しています。そうではなく、長い時間の後に平和が戻って、また普通に土地の売り買いが出来る時が来る、そのような未来のために、またそうした未来が来るまでに、土地の権利を証しする証書は開封せずに保存しておくということなのです。この土の器は、バビロンとの戦争でも消失しないように、どこか安全な場所に隠されました。ですからこの行動は、確かに将来に希望があることを示すための象徴行動でした。

しかし同時に、エレミヤはエルサレムがもうすぐバビロンに滅ぼされるということも、神から聞かされていました。迫りくる破局と、遠い未来の希望、こうした相反するようなメッセージをエレミヤは神から受け取ったのです。エレミヤの心情には複雑なものがあったでしょう。

この取引を終えたエレミヤは、独りになって神に向き合います。祈ったのです。それが17節以降です。この祈りは非常に充実した祈りなので、よく見ていきましょう。

まずエレミヤは神を賛美することから祈りを始めます。このことは私たちにとっても大事なことです。私たちは祈るとき、自分の言いたいことから始めてしまわないでしょうか。「神様、私は今こういうことで困っています、悩んでいます。助けてください。」といきなり祈るかもしれません。しかし、私たちが誰か親しい人に頼みごとをするとき、前置きなしにいきなりお願いすることはないでしょう。人間相手でも、私たちは相手のことをおもんぱかって、相手に喜んでもらえるようなことから切り出すでしょう。相手が神ならなおさらのことです。ですから、祈りの時にまず神を賛美するのはまさにふさわしいことなのです。そして、神を賛美するのは、神に向かって語りかけているのと同時に、自分自身に語りかけていることでもあります。私たちは神に祈るときに、それにふさわしい精神状態に自分を高めていく必要があります。私たちは神がどんな方であるのか、自分がどんな方に語り掛けているのかを、祈る際に改めて確認する必要があります。私たちの神は、世にあまたいる神々の一人ではありません。唯一の神、天地万物の創造者なのです。神を賛美するとき、私たちはその大切なことを改めて思い起こします。そしてその神の前に、謙虚な態度で向かうことができるようになるのです。

また、神様のことを考え、神に祈り願い求めるときに忘れてはならないのが、神が恵み深い方だということです。神が恵み深く、私たちの声に耳を傾けてくださると信じるからこそ、私たちは神に祈るのです。ここでの18節のエレミヤの祈りの言葉は、かつてシナイ山で神ご自身がモーセに語った言葉を思い起こさせます。エレミヤはその神の言葉を思い起こしながら祈ったのでしょう。それが出エジプト記34章6-7節です。これはどんな場面かというと、モーセは大胆にも神にその栄光を見せて下さい、その御顔を拝ませてくださいと願いのですが、そのモーセの願いに対し、神はご自分がどんな方であるのかを示されました。そこをお読みします。

主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代にも保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰するべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」

私たちの信じる神はあわれみ深い神です。主ご自身が、自分はそのような者であると宣言なさっているのです。確かに神は咎を正しく罰せられますが、いつまでも怒り続けておられることはありません。罰はずっとは続きません。恵みは千代にも及びますが、罰は三代、長くて四代で終わるのです。そしてこのことはエレミヤ書のメッセージを考える上で非常に重要です。エレミヤは、背信のイスラエルに裁きが下ることを宣言しており、彼らは捕囚としてバビロンに連行されますが、それは三代まで、70年で終わるのです。未来永劫続くわけではなく、70年という限られた期間です。それに対し、アブラハムの子孫であるイスラエルへの恵みは千代にも及びます。神はイスラエルを見捨てることなく、必ずその罪と咎を赦してくださるのです。エレミヤ書にいかに裁きのことが多く語られていようとも、最後には主はイスラエルを憐れんでくださる、この神の変わらぬ愛と誠実こそがエレミヤ書のメインテーマ、希望のメッセージなのです。

ですからエレミヤがここでモーセに対する神の言葉を引用したのは、神は確かにこれからエルサレムに罰を下すけれども、神はアブラハム・イサク・ヤコブとの契約を忘れることなく、いつか必ず我らを助けて下さる、罪を赦してくださる、そのような信仰を言い表しているのです。

しかし、恵み深い神ではあっても、神は公平な方であるので、よい行いには良い報いを、悪い行いには悪い報いをお与えになります。そのことが19節に書かれています。それは、「人それぞれの生き方にしたがい、行いの結ぶ実にしたがって、すべてに報いをされます」という一言です。神は、私たちそれぞれに行いにしたがって報いられるというのは、旧約・新約を通じて一貫した教えです。二か所だけ、そうした箇所を新約聖書から確認しましょう。まず主イエスの言葉として、マタイ福音書16章27節です。

人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのの行いに応じて報います。

また、使徒パウロもこう書いています。第二コリント5章10節です。

なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるのです。

と、私たちはその生涯の終わりに、行いに応じて報いを受けることが語られています。しかし、エレミヤがここで行いによる報いを語ったのは、個々人のことというよりも、イスラエル民族全体としての行いに対する神の報い、あるいは裁きについてでした。イスラエルの中には、善良な人も邪悪な人もいたでしょう。背信のイスラエルの中でも、神への信仰を捨てなかった人もいたのですが、しかしそのような個人の違いを抜きにして、イスラエルは全体として行いによって裁かれるのです。いわば連帯責任です。バビロン捕囚は、敬虔なユダヤ人にも、不敬虔なユダヤ人にも、等しく望むものだからです。23節にはそのイスラエルの行いのことが語られています。ユダヤ人の中にはエレミヤやエゼキエルのように神を恐れる人ももちろんいたので、ユダヤ人が一人残らず律法を何一つ行わなかったというようなことではありません。これは一種の誇張表現です。しかし、彼らは民族全体として神に逆らいました。前回学んだ、奴隷解放の撤回など、まさに彼ら全体としての決断、民全体の罪でした。神は個々人を裁かれるのと同時に、私たちを共同体として裁きます。ですから私たちは、自分のことだけでなく、兄弟姉妹の霊的状態についても敏感であるべきなのです。私たちは一人だけいい子でいることはできません。周りの人たちの影響を必ず受けます。ですから正しく生きようと思えば、他の人たちにもそのような生き方を促す必要があるのです。

さて、このように、17節から24節までは、エレミヤは神とイスラエル全体との関係を回顧しています。そして、これまでのイスラエルの歩みゆえに、またイスラエルの神は人を公平に裁く方であるがゆえに、裁きは避けられないのです。今エルサレムはバビロンの包囲を解かれ、一息ついています。エルサレムの住民の中には危機は去ったのだと考える人も少なくありませんでした。しかしエレミヤは厳しく現状を見ています。一時撤退したバビロンは必ず帰ってくる、そしてその時にはエルサレムは今度こそ助からないということを神によって示されていたのです。神は、奴隷解放を撤回したエルサレムに、剣と疫病と飢饉を送るとエレミヤに宣言しました。それで、エレミヤはこれから何が起こるのかが見えていたのです。そのことを語るのが24節です。

ご覧ください。この町を攻め取ろうとして、塁が築かれました。この町は剣とききんと疫病のために、攻めているカルデヤ人の手に渡されようとしています。あなたの告げられた事は成就しました。ご覧のとおりです。

エレミヤは「あなたの告げられた事は成就しました」と言っていますが、実際には現時点ではまだこのことは成就していません。バビロンはまだエルサレムには戻ってきてはいなかったからです。しかし、エレミヤはここでは既に起こったかのように完了形で語っています。それほどはっきりと、エレミヤにはエルサレムの行く末、滅亡が見えていたのです。それなのに、とエレミヤは言います。なぜ神は、これから滅びゆく国の土地を買いなさいなどと私に命じられるのですか、とエレミヤは神に問いかけるのです。そんなことにどんな意味があるのですか、と問いかけるのです。

このエレミヤの真剣な問いかけに対して、神は答えてくださいました。27節から35節までは、イスラエルの背信と、それゆえ裁きが避けられないことを今一度神は念押しされました。しかし、それだけではありません。裁きだけで終わるのではないのです。神はここで、希望のメッセージをエレミヤに託しました。そのメッセージ、39節以降をお読みいたします。

わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与え、わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。

これからまさにエルサレムに起きようとしていることは、神とイスラエルとの関係の破局、契約関係の破綻です。しかし、そのような悲劇のあとに、神はイスラエルと新しい契約、とこしえの契約を結ぶと約束しておられるのです。神は彼らの幸福のために、彼らに新しい心、神を畏れ敬う心を与えると約束しておられるのです。神がもし将来においてイスラエルと再び契約を結ばれたとしても、イスラエルの心に変化がなければ、イスラエルは再び神を裏切り、神の怒りを買うことになるでしょう。そうすると、同じことの繰り返しになってしまいます。ですから、イスラエルは神と新しい契約を結び、その契約の恵みに与り続けるために、新しい心を持つことがどうしても必要になります。では、どうすればそのような新しい心を持つことが出来るのか?いくら頑張っても、そのような心を持つことが出来ないとしたら、どうすればよいのか?そう考えるかもしれません。そこで神は、その新しい心を、神ご自身がイスラエルの人々に与えようと約束しておられるのです。

このような将来の希望という見地から振り返ってみれば、現在の苦難や艱難すらも、肯定的に思えてくるでしょう。つまり、新しい契約、新しい心を与えられるのにふさわしい人間となるために、現在の試練があるのだと。人間の魂の成長のためには苦難が必要であるように、イスラエル民族が苦難の歴史をたどるのも、民族全体の霊性が高められ、新たなステージへと到達するためなのです。艱難汝を玉にす、という言葉があるように、この苦しみを通ることで、神から新しい心を与えられるのにふさわしい状態になるように、心が耕されるのです。エレミヤに親類の畑を買うようにと神が命じたのは、このような素晴らしい未来がイスラエルにはあることを指し示すための、象徴行動としてでした。神はエレミヤにこう言われました。43節からお読みします。

あなたがたが、『この地は荒れ果てて、人間も家畜もいなくなり、カルデヤ人の手に渡される』と言っているこの国で、再び畑が買われるようになる。ベニヤミンの地でも、エルサレム近郊でも、ユダの町々でも、山地の町々でも、ネゲブの町々でも、銀で畑が買われ、証書に署名し、封印し、証人を立てるようになる。それは、わたしが彼らの繁栄を元どおりにするからだ。—主の御告げ—

確かにこれからエルサレムとユダ王国の人々は大きな苦難に向かっていきます。そこには何の希望もないようにさえ思えます。しかし神は、そのような苦難の先に目を向けるようにとイスラエルの人々に促しているのです。再び、ユダヤの地のどこででも、今エレミヤがしているように、自由に畑が買えるようになる。再び繁栄と平和が取り戻されるのだ、と神は約束しておられるのです。

3.結論

今日は、滅亡へと突き進んでいくエルサレムの住民に対し、神がエレミヤを通じて、その滅亡の先にある希望のメッセージを届ける箇所を学びました。この滅びの先にある希望というのは、聖書で繰り返されるライト・モティーフ、中心主題です。古くはモーセがこのような希望を語りました。モーセは、イスラエルが神に逆らい続けて契約が壊れてしまうことを予見していました。その結果、イスラエルの人たちは祖国を追われ、捕囚の民として諸国民の中で暮らすようになると語りました。しかし、神はイスラエルを憐み、彼らを再び祖国に連れ戻し、また彼らに新しい心を与えることをも予見していたのです。預言者イザヤも、イスラエルに徹底的な裁きが下るものの、その後に神の豊かな憐みが注がれると預言しています。でも、そのような祝福と憐みが注がれる前に、なぜイスラエルは苦難と裁きを受けなければいけないのでしょうか。今ここで、苦難なしに祝福しては、なぜ駄目なのでしょうか。それは、彼らの頑なな心が打ち砕かれるためでした。

人間というのは、なかなか謙虚になれないものです。学校を卒業して会社に入った新入社員はいろいろな訓練を受けなければいけませんが、一番大事なことはそのプライドが打ち砕かれることだ、ということを聞いたことがあります。特に一流大学から一流企業に入ったいわゆるエリートと呼ばれるような人ほど、そのことが当てはまると聞いたことがあります。こういう人は、心のどこかで自分は優秀だ、特別なんだ、という意識があるものです。しかし、そういう意識を持っている限りは、その人は本当の意味では活躍できないのです。仕事上で失敗をしたり、苦労を重ねてそうした天狗の鼻を折られ、自分の弱さ、未熟さを知り、周りの人たちに対して謙虚になり、感謝の気持ちを持つようになり、周りの人の助けによって自分はやっと立っているのだ、ということがわかってから、その人は本当の意味で社会に役立つような人材になっていくのです。南ユダ王国の人たちも同じでした。自分たちは神に選ばれた民だ、特別なのだ、という意識が彼らにはあったのですが、自らの罪深さと無力さを異国の地で思い知らされ、そこからやり直すことで彼らの信仰は磨かれていくのです。

私たちも、人生で様々な苦難に出会いますし、特に今私たちはコロナや地球気候変動問題など、自分の力ではどうにもならないような問題に直面しています。しかし、数年前には人間は疫病を克服し、人工知能などの助けを借りて、この世界を完全にコントロールできるようになる、というようなことがまことしやかに語られていたのです。けれども、今回改めて思い知らされたように、私たち人間は実際は大変もろいものです。地球環境をコントロールできる力など持っていませんし、またそもそもコントロールしようとすること自体間違っているのです。私たちは現在の苦難を通じて、神の前に謙虚になることを学ぶように促されているのかも知れません。しかし、私たちの神は苦難の先には希望があることをも、私たちに告げてくださっています。ですから、この試練の中で謙虚さを学び、同時に未来の希望を仰ぎつつ歩んでまいりたいと願うものです。そのような歩みに主が伴ってくださるように、祈りましょう。

光を造り、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造される神よ。その御名を賛美いたします。今朝はエレミヤ書から、苦難の先にある希望について学びました。主が私たちに試練を下されるのは、私たちの霊性を整え、神の豊かな恵みに与るのにふさわしい者とするためであることを信じます。どうか現在の困難な歩みを続ける私たちを守り、また神の子として相応しいものとなれるように私たちを鍛えてください。私たちの主、苦難を通じて栄光に入られたイエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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偽りの解放エレミヤ書34章8~22節 https://domei-nakahara.com/2020/08/23/%e5%81%bd%e3%82%8a%e3%81%ae%e8%a7%a3%e6%94%be%e3%82%a8%e3%83%ac%e3%83%9f%e3%83%a4%e6%9b%b834%e7%ab%a08%ef%bd%9e22%e7%af%80/ Sun, 23 Aug 2020 07:08:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=618 "偽りの解放
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1.導入

みなさま、おはようございます。早いもので、エレミヤ書からの説教は今日で13回目になります。実は、エレミヤ書の連続説教を始める時、12回ぐらいを考えていると申し上げましたが、今日でそれを超えてしまったことになります。エレミヤ書の説教も後半にはなっていますが、もうしばらくエレミヤ書からのメッセージに耳を傾け続けたいと思っております。何度かお話ししましたが、エレミヤはユダ王国の5人の王の時代にまたがって預言者としての活動を続けました。5人というのは大変多いのですが、その5人目はユダ王国最後の王となるゼデキヤでした。今日を含めてこれから数回は、ゼデキヤとユダ王国がなぜ滅んでしまったのかを見ていきます。

さて、ゼデキヤは大国バビロンによって王にされた人物で、したがって当時のユダ王国はバビロンの属国でした。神の民であるユダ王国が異教徒のバビロニア帝国に服従すること自体が神のイスラエルに対する裁きだったのですが、ユダ王国はバビロンの属国として生き延びることが可能でした。エレミヤも、ゼデキヤ王に対しバビロンに仕えて生き延びなさい、バビロンに謀反を起こしてはならない、という助言を繰り返していました。ゼデキヤも、近隣諸国からの反バビロン連合への誘いに加わらないなど、当初は慎重な姿勢を示していましたが、しかしついに破滅への道、バビロンへの反逆の道を選んでしまうことになります。その原因は南の大国エジプトでした。ユダ王国は、いつも北の大国と南の大国との間を揺れ動いていました。アッシリアなどの北の大国に従ったり、あるいは南の大国エジプトについたり、ということを繰り返してきたのです。ゼデキヤがバビロンに謀反を起こそうという気になったのも、エジプトが後ろ盾になろうという働きかけを強めてきたからでした。エジプトは一度はバビロンに敗れたものの、勢いを盛り返してバビロンからパレスチナを奪い返そうとしていました。その動きに連動するように、ゼデキヤもバビロンに反旗を翻したのです。それがユダ王国の滅亡へとつながっていくのですが、その過程では様々なドラマがありました。今日はその中でも、一つの重要な出来事について考えてまいります。

2.本文

さて、ゼデキヤはエレミヤの忠告を聞かずに、とうとうバビロンに謀反を起こしました。その経緯について預言者エゼキエルはこう言っています。エゼキエル書17章15節を見てみましょう。

ところが、彼はバビロンの王に反逆し、使者をエジプトに送り、馬と多くの軍勢を得ようとした。そんなことをして彼は成功するだろうか。助かるだろうか。契約を破って罰を免れるだろうか。

ゼデキヤはエジプトの援軍を当てにして、バビロンに謀反を起こすことを決めたのです。実はこれは南ユダ王国の歴史の中で繰り返されてきた、お決まりのパターンでした。預言者イザヤの時代、南ユダ王国は北の大国アッシリアの侵攻を恐れ、南の大国エジプトに助けを求めました。しかしイザヤはそれを痛烈に批判し、エジプトとの同盟を死との契約、冥府との同盟と呼びました。それから100年後、ゼデキヤは同じ轍を踏もうとしたのです。それを知ったバビロンの王ネブカデネザルは黙っていません。なにしろ自分が王にしてやったゼデキヤが反逆したのですから、まさに飼い犬に手を嚙まれるようなものです。大軍を率いて南ユダ王国に攻めてきます。その戦術も、かつてアッシリアが100年前に南ユダ王国を攻めたときと同じでした。以前アッシリアは、エルサレム以外のすべての主要な都市や要塞を攻め滅ぼし、難攻不落と言われたエルサレムを孤立させ、最後にエルサレム攻めを行いました。バビロンも同じでした。今日の聖書箇所のすぐ前の7節にはこうあります。

そのとき、バビロンの王の軍勢は、エルサレムとユダの残されたすべての町、ラキシュとアゼカを攻めていた。これらがユダの町々で城壁のある町として残っていたからである。

ラキシュという町も堅固な要塞でしたが、かつてアッシリアはユダ王国第二の要塞ラキシュを攻略してから、満を持してエルサレムに攻めてきました。バビロンも同じルートでエルサレムに向かってきたのです。籠城攻めは日本の歴史では豊臣秀吉が得意とした戦法です。敵を城に閉じ込めて、相手が飢えや渇きに疲れ果てるのを待つという戦法です。この籠城攻めは援軍が来ない限り解かれることはありませんが、バビロン軍はエルサレムに誰も助けに来られないように、エルサレム以外の主要都市をすべて攻め滅ぼし、それからエルサレムを包囲したのです。

エルサレムに閉じこもったゼデキヤは、もはやイスラエルの国内からの援軍は期待できません。残る頼りは、ひそかに同盟を結んだエジプトからの援軍だけです。きっとエジプトが来れると当てにしていたのですが、待てど暮らせどエジプトからの援軍は来ません。バビロン軍は、難攻不落との呼び声の高いエルサレムを無理に攻め落とそうとはせずに、気長に長期の包囲戦を引きました。バビロンの軍はエルサレムをぐるっと取り囲み、外に出られないように閉じ込めたのです。この包囲網がなんと18か月、1年半にも及びました。エルサレムの人は城壁の外に一歩も出られず、バビロンがいつ攻めてくるかとおびえる毎日でした。しかもそれが1年以上も続いたのです。精神的に追い詰められ、おかしくなっていきます。食糧をも底をつき、飢えと渇きで兵士の士気もどんどん落ち込みます。そこで藁をもつかむ思いで、預言者エレミヤのところにきました。ゼデキヤ王は、バビロンには逆らうな、バビロンに従いなさいというエレミヤの警告を無視してバビロンに反逆したのですから、どの面下げてエレミヤのところに来たのか、とも思うわけですが、ゼデキヤは恥も外聞もなく、必死なわけです。その時のやりとりが記されているのがエレミヤ書21章です。1節から2節までお読みします。

主からエレミヤにあったみことば。ゼデキヤ王は、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わしてこう言わせた。「どうか、私たちのために主に尋ねてください。バビロンの王ネブカデレザルが私たちを攻めています。主がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼らを私たちから離れ去らせてくださるかもしれませんから。」

ここでいう奇しいみわざとは、かつてヒゼキヤ王の時代、エルサレムがアッシリアの猛攻に遭って陥落寸前になったときに、ヒゼキヤが部下を大預言者イザヤに遣わしたときのことを指しています。イザヤは力強く、主が救ってくださると答え、実際にアッシリア軍は一晩で18万5千人もの兵が疫病で死んでしまい、彼らはエルサレムから逃げ帰ったのでした。この時の再来、二匹目のどじょうを願って、ゼデキヤはイザヤならぬエレミヤに頼み込んできたのです。しかし、イザヤとは違い、エレミヤの返事はつれないものでした。イザヤの時は、敵のアッシリアが疫病で死にましたが、今度は味方のエルサレムの住人が疫病で死ぬだろう、というのです。そしてこれからバビロンに攻め滅ぼされると宣言します。助かる道はたった一つ、城壁を出てバビロン軍に降伏せよ、そうすれば命だけは助かる、と申し渡したのです。まさにけんもほろろの返事でした。そこで、ゼデキヤ王は神の憐みを受けるために最後の手段に打って出ました。それが今日の聖書箇所の内容です。

彼らは、神の律法の定めでありながら、これまで一度も守ったことがない掟を実行し、それによって神の憐みを乞うたのです。その一度も守られたことがない神の掟というのが、今日の交読文でお読みした掟、すなわち「ヨベルの年」の戒めでした。ヨベルの年の戒めは、イスラエル建国の理想を体現した非常に大事な戒めでしたが、同時に守るのが最も難しいものでもありました。イスラエル建国の理念、それは「神の前の平等」でした。つまり、強力な王や金持ちが富や権力を独占して、他の平民を奴隷のようにこき使うという他の古代の帝国とはことなり、皆が助け合い、分け合う社会を作り、一人の人に権力や富が集中しないようにしたのです。申命記19章14節には

あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地のうち、あなたの受け継ぐ相続地で、あなたは先代の人々の定めた隣人との地境を移してはならない。

と命じられています。地境を移してはならないとは、ある人が他の人の土地をどんどん奪って大地主になることを防ぐために設けられた教えです。しかし、実際には借金をするときに土地を担保にすると、返せない場合は土地が借金のかたとして取りあげられてしまいます。このようなことが繰り返されると、一部の大地主とその他大勢の小作人ということになってしまいます。そうすると、イスラエル建国の理念から遠く遠ざかってしまいます。そこで、貧富の格差是正のために、50年に一度、ヨベルの年には、お金がなくて手放してしまった土地は、その本来の所有者に戻すのです。また、お金がなくて自分自身を奴隷として売った場合でも、ヨベルの年になれば自由になれる、解放されることになります。もっとも、奴隷に関しては7年に一度はイスラエル人の奴隷は解放されなければならないことになっていましたが、ヨベルの年には単に奴隷から解放されるだけでなく、生活の手段である土地も戻されます。奴隷から解放されても生活の手段がないと再び奴隷に逆戻りということがありますが、そうならないように、土地も元に戻されるという、そういう画期的な制度がヨベルの年なのです。ですから、仮にイスラエルが超格差社会になっても、50年に一度はその格差が是正されるのです。日本でいえば、太平洋戦争後の農地改革がそれにあたるでしょう。それまで皇族・華族や大財閥が大地主だったのですが、その土地を小作農たちに安く譲ったのです。これがヨベルの年と非常に似通った政策だったのですが、日本の歴史の中でこんな大胆な改革が実施されたのはこの時が最初で最後だったのではないでしょうか。これは壊滅的な大敗北という未曽有の事態があったからこそ実現した、奇跡のような出来事でした。では、イスラエルの歴史ではどうだったかというと、実はこのヨベルの年が本当に実施されたという記録はないのです。あれほど律法の遵守にこだわり、律法主義とまでいわれたイスラエルにおいても、この制度だけはいろいろな理屈をつけて実施をしなかったようなのです。ヨベルの年どころか、7年に一度、奴隷を自由の身にするという律法も守ろうとはしませんでした。金持ちが既得権益にしがみつく、というのは古今東西共通してみられる現象なのでしょう。しかし、バビロンの猛攻に遭い、エルサレムの運命も風前の灯火となった時、ゼデキヤ王や指導者たちは神からの憐みを乞うために、必死の思いでほとんど忘れ去られていた律法の教えを実施することにしたのです。ヨベルの年には国中のすべての住民に解放を宣言するのですが、エルサレムの中だけでも、これを実行することにしたのです。むろん、ヨベルの年は50年に一回でしたので、この籠城の時、それは紀元前588年でしたが、その時がヨベルの年に当たっていたわけではありません。しかし、ヨベルの年の精神に則って、すべての奴隷の解放と債務の免除を宣言することにしたのです。奴隷たちはエルサレムに包囲されている以上、イスラエルの先祖伝来の地に戻ることはできないにせよ、二度と借金のために奴隷になることはない、という約束を与えられました。そのことを記している8節から10節をお読みします。

ゼデキヤ王がエルサレムにいるすべての民と契約を結んで、彼らに奴隷の解放を宣言して後、主からエレミヤにあったみことば。-それは各自が、へブル人である自分の奴隷や女奴隷を自由の身にし、同胞のユダヤ人を奴隷にしないという契約であった。

契約を結ぶ、ということは非常に重たいことです。契約とは単なる約束ではありません。それは誓いの言葉であり、その誓いを破ったなら私は死にます、とまで宣言する最高度に重大かつ神聖な約束なのです。18節と19節にはこういう言葉があります。

また、わたしの前で結んだ契約を守らず、わたしの契約を破った者たちを、二つに断ち切られた子牛の間を通った者のようにする。二つに分けた子牛の間を通った者は、ユダの首長たち、エルサレムの首長たち、宦官と祭司と一般の全民衆であった。

この「二つに割かれた子牛の間を通る」というのが契約にともなう儀式です。その意味は、「もし私が約束をたがえたのなら、この二つに割かれた子牛のようになってもかまいません」という宣言なのです。創世記の15章で、神が二つに割かれた動物の間を通るという不思議な記述がありますが、その意味は、もし神がアブラハムに子供を与えるという約束を違えたならば、神ご自身が二つに割かれてもよい、と約束なさっているのです。このように、契約というのは本当に重い、絶対に破られてはいけない約束なのです。エルサレムの住民は、ゼデキヤ王以下、すべての人がこの神聖な儀式に加わりました。そして、彼らは実際にそれを実施しました。しかし、なんと彼らはすぐにそれを撤回して、自由にした奴隷を再び奴隷に戻してしまったのです。なぜこんなことになったのか。それは、バビロンの脅威が去ったからです。いや、正確に言えばバビロンの脅威が去ったように見えたからです。何が起きたのか、そのことはエレミヤ書37章5節に書かれています。

パロの軍勢がエジプトから出て来たので、エルサレムを包囲していたカルデヤ人は、そのうわさを聞いて、エルサレムから退却したときであった。

そうです、待ちに待ったエジプトからの援軍到来の一報があったのです。カルデヤ人とはバビロニア人のことですが、彼らはエジプト軍がエルサレム救出に来たことを知り、一時エルサレムの包囲を解くことにしたのです。エルサレムの人たちは大喜びでした。やった、危機は去った。エジプトさえ来てくれれば、もうバビロンなど恐れるに足らずだ、私たちは自由だ、と小躍りしたのです。しかし、その自由の喜びはとんでもない行動に現れてしまいました。それが今日の箇所の11節です。

しかし、彼らは、そのあとで心を翻した。そして、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻して、彼らを奴隷や女奴隷として使役した。

彼らは自分が自由になったと思ったら、急に自由にした奴隷たちのことが惜しくなったのです。彼らが自分たちのために働いてくれないと、自分たちは自由を満喫できないではないか、と浅ましくも考えたのです。そして彼らは神聖な契約を踏みにじりました。この恥知らずな行動は、何よりも神をがっかりさせ、またその激しい怒りを引き起こしました。神は奴隷解放の宣言を喜ばれました。15節にはそのことが書かれています。

しかし、あなたがたは、きょう悔い改め、各自、隣人の解放を告げてわたしが正しいと見ることを行い、わたしの名がつけられているこの家で、わたしの前に契約を結んだ。

背信の民イスラエルでしたが、やっと彼らは正しいことをした、よくやった、と神も解放の宣言を喜んでおられたのです。しかし、それは単なる困った時の神頼みであって、困ったことが過ぎ去ると彼らは神のことも忘れてしまったのです。そこで神は恐るべき宣言をされました。それが17節です。

見よ、わたしはあなたがたに剣と疫病とききんの解放を宣言する。

何と神は、奴隷の解放ならぬ、剣、すなわち戦争と、コロナのような疫病と、そして食糧難、ききんとを宣言しました。こうした災いも神の許しなく起きることはありません。神にはこうした災いを引き留める力がありますが、もう引き留めることはしない、災いを自由にしてエルサレムの住民に襲い掛からせる、と宣言したのです。エルサレムが救われる一縷の望みも絶たれた、そういう瞬間でした。しかもエルサレムの住民は自らその災いを招いてしまったのです。こうして歴史の歯車は、エルサレム崩壊へと一直線に進んでいくことになります。

3.結論

さて、今日はエルサレム崩壊に至るユダ王国最後の日々のうちでも、非常に重要な出来事を学びました。万事休すとなったゼデキヤ王とエルサレムの人たちは初めて正しいことをしました。悔い改めと、それにふさわしい行動です。しかし、彼らの行動は本当の悔い改めから来たものではありませんでした。嵐が去ったと思われる状況で、彼らはいわば馬脚を露してしまいました。彼らは神に従おうとしたのではなく、また純粋な兄弟愛から行動したのでもなく、単に目先の利益のために神に従うふりをしただけだったのです。

この彼らの失敗と悲劇から私たちも二つのことを学ぶことが出来るでしょう。一つは、神は大きな経済格差、人が人の奴隷となってしまうような貧富の差を喜ばれないということです。オックスファムというイギリスのNGOは、たったの62人の金持ちが世界の人口の半分の人と同じ資産を持っていると発表しました。現在は極端な格差社会であり、しかもそれが良いことであるかのように喧伝されています。世界のキリスト教のリーダーと目されるアメリカが、そのような超格差社会の先端を走っていることに皮肉なものを感じてしまいます。私たちはキリスト者として、神に喜ばれる社会を作ろうと願うのならば、格差社会よりも平等な社会を目指すべきなのだと、弱者が救済される社会を真剣に目指すべきなのだと強く思わされます。

そしてもう一つの教訓、これは社会全般ではなく個人的なことですが、神への誓いは果たすべきだということです。私たち人間は悩みの中にあるときは、普段神を信じないような人でも思わず「神様、助けてください」と祈るものです。私たちキリスト者であれば、なおのことそうでしょう。そして私たちは祈るときに、「神様、お願いです。こうしてください。そうしていただけるのなら、何でもいたします。私の大事なこれこれを神にお献げします」というように祈ることもあるでしょう。しかし、悩みが過ぎ去ると、私たちはそんな祈りをしたことを忘れてしまうかもしれません。あの時は追い詰められていたから、思いもよらないことを祈ってしまったが、あれはいわば気の迷いだったのだ、と自分で自分を納得させてしまうこともあるでしょう。しかし、忘れてはならないのは、神は私たちの必死の祈りを真剣に聞いておられるということです。そして実際に、私たちに助けの手を伸ばしてくださるのです。それなのに、「いや、あの時は追い詰められていたから、心にもないことを言ってしまっただけだ。普通の時なら神にあんなことを祈るわけがない」などと私たちが思ったならば、神はどう思われるでしょうか。こんな時に思い起こすのが、サムエル記の最初に出て来るハンナです。ぜひ後でサムエル記1章を読み返していただきたいのですが、長年不妊に悩んでいたハンナは、誰も見ていないところで、「神様、わたしに男の子を授けてください。もし願いが叶いましたなら、その子を一生神様にお献げします」と祈りました。神はそれをご覧になり、彼女にサムエルを授けてくださいました。ハンナとしてはやっと手に入れた待望の子ども、しかもかわいい盛りの赤ん坊でしたが、そのサムエルを「この子を主にお渡しいたします」と言って、祭司エリの養子にしたのです。誰も聞いていない、誰も見ていない、神への独り言と思えるような言葉も、ハンナは神への約束として忠実に果たしたのです。このような信仰こそ、私たちも持ちたいものだと思わされます。神はサムエルのことも、ハンナのことも豊かに祝福されました。「私を重んじる者を私は重んじ、私を侮る者を私は侮る」という主のことばは真実なのです。私たちも心から主を畏れ、主の前に誠実に歩んでまいりましょう。祈ります。

弱気を助け、強きをくじかれる神よ。その御名を賛美いたします。今日はエレミヤ書から、せっかく正しい道を歩みだしながら、利己的な思いと神を軽んじる心から救いのチャンスを失ってしまったエルサレムの人々のことを学びました。私たちも彼らの失敗を他山の石とし、神を心から敬い、神の前に誠実に歩む者とならしめてください。また、同胞の苦しみを理解し、助け合う心を持つことができますように。私たちの日々の歩みを導いてください。われらの主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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ハナヌヤエレミヤ書28章1~17節 https://domei-nakahara.com/2020/08/09/%e3%83%8f%e3%83%8a%e3%83%8c%e3%83%a4%e3%82%a8%e3%83%ac%e3%83%9f%e3%83%a4%e6%9b%b828%e7%ab%a01%ef%bd%9e17%e7%af%80/ Sun, 09 Aug 2020 07:16:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=587 "ハナヌヤ
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1.導入

みなさま、おはようございます。私たちの教会では、これまで旧約聖書の学びを熱心に続けています。この主日礼拝ではエレミヤ書、親子礼拝では創世記、祈祷会ではサムエル書を読み、森田役員のメッセージも旧約聖書からの講解です。私は以前奉仕していた教会でも、旧約ばかりを取り上げるので、「先生のご専門は旧約ですか?」と尋ねられることがよくありました。でも、私は新約学者の端くれでして、論文を書いたのはパウロについて、神学校でも新約学を教えています。ですから正直を申しますと、説教も新約聖書からの方がずっと準備しやすいのです。それでも、教会での説教で旧約聖書を大変重視しているのは、旧約聖書こそが新約聖書の土台だからです。家を建てる時は、まずしっかりとした土台を据えることが肝要です。土台もしっかりしないのに、いくら見栄えの良い上物を立てても、その家は固く立つことはないでしょう。新約聖書も同じことです。旧約聖書をよく知らずに、新約聖書ばかり読んでも、その内容を半分も理解できないでしょう。主イエス・キリストの宣教についても、旧約をよく知らずには十分には理解できないのです。理解できないどころか、それを誤解したり、曲解したりする恐れすらあります。なぜなら、旧約聖書という土台の代わりに、自分勝手な土台を据えてしまう恐れがあるからです。

旧約聖書は確かに難しいです。エレミヤ書を読んでみてお分かりのように、まずその歴史的背景をよく知らないと意味が分からない部分がたくさんあります。また、神学的に難しい問いも数多く出てきます。神様は平和の神なのに、戦争を命じている場面を読むと、私たちは困惑します。また、なぜ神はイスラエルばかりをえこひいきするのか、私たち異邦人の救いが新約になってやっと登場するのはどういうわけか、などなど、多くの疑問がわいてきます。しかし、こういう疑問を正面から受け止めてこそ、新約聖書の真の意味、そしてイエス・キリストの生涯の意味がよくわかってくるのです。ですから、私はもちろん新約聖書からもしっかりとメッセージをしていきますが、割合としてはこれからも旧約聖書の方が多くなると考えてください。しかし、それは究極的にはイエス・キリストをより深く知るためだ、ということを忘れないでください。

2.本文

さて、では今日のエレミヤ書の内容を見てまいりましょう。今回の聖書箇所は前回の続きです。これまでの流れを復習しましょう。第18代のユダ王国の王エホヤキムはバビロンに謀反を起こしたのでバビロンに攻撃され、その戦いのさなかで戦死しました。その息子エホヤキンが跡を継いで19代の王になりますが、在位わずか3か月でバビロンによって退位させられ、バビロンに捕虜として連行されました。その後、バビロンによってヨシヤ王の三人目の息子、バビロンに捕虜として連れていかれたエホヤキンからは叔父にあたるゼデキヤが第20代のユダ王国の王となりますが、ゼデキヤはユダ王国最後の王となる運命にありました。

そのゼデキヤのもとに、ユダ王国の近隣諸国の外交官たちが訪れます。彼らはパレスチナ地区で反バビロン連合を結成しようとしており、その中にユダ王国も加わるように、と言ってきたのです。ゼデキヤはバビロンのおかげで王になれたので、バビロンを裏切るわけにはいきませんが、さりとて周辺諸国すべてを敵に回すのも避けたいところです。どうしたものかと思案しているところに預言者エレミヤが現れました。エレミヤは異様な格好で登場しました。なんと、自分の首に木製のかせをはめて、まるで囚人であるかのような格好で登場したのです。この異様ないでたちそのものがエレミヤのメッセージでした。すなわち、周辺諸国の王たちと、自らの祖国であるユダ王国に対し、バビロンに首を差し出して仕えなさい、バビロンのくびきを負いなさい、神がバビロンを世界の覇者にしたのだから、バビロンに逆らってはならない、というメッセージを伝えたのです。

しかし、このようなメッセージは間違いなく人々に不人気だったでしょう。イスラエルには、バビロンに非常に強い嫌悪感を持っている人たちがいました。先週もお話しした、エレミヤと同じ時期に活躍したハバククは、神がバビロンを用いてイスラエルを罰しようとしておられることを知っていました。しかし彼にはそれが不満でした。ハバククも、イスラエルの罪をよく知っていましたが、バビロンはイスラエルよりもずっと悪い残虐な民であることも知っていました。神はイスラエルの罪は厳しく取り扱うのに、もっとはなはだしいバビロンの罪は見逃すのか、大目に見るのか、それは正しいのでしょうか?と神に抗議したのです。しかしエレミヤは、そのバビロンに仕えるのが神の御心なのだと主張しました。イスラエルの歴史の中でも、外国の、しかも真の神ではなく偶像を礼拝する帝国に仕えよ、などという預言を公然としたのはエレミヤが初めてでした。エレミヤの語る言葉を聞いた人たちは、エレミヤはこれまで偶像礼拝を厳しく非難していたのに、その偶像を拝む国に仕えよとは、いったいどういうつもりなのかとショックを受けたことでしょう。イスラエルの過去の預言者は、偶像礼拝をする大国にイスラエルが仕えることに一貫して反対してきました。なぜなら、偶像礼拝をする国の属国になると、仕える国の神々、つまり偶像を拝まなければならないことになるからです。預言者イザヤの時代にアハズ王は北の大国アッシリアに助けをもとめてアッシリアの属国になりましたが、その結果南ユダ王国はアッシリアの神々、すなわち偶像も受け入れなければならなくなり、その結果ユダ王国では偶像礼拝が盛んになりました。こういう事情から、イスラエルの預言者たちは異教の帝国に仕えることに反対してきたのですが、エレミヤはここで大転換を促していたのです。バビロンの王が神を信じようと信じまいと、イスラエルの神は彼を選んで王としたのだ、だから彼に仕えなさい、というのです。イスラエルは今や、異教徒の支配の下で、自らの信仰を守り抜かなければならなくなったのです。

しかし、そのエレミヤとは正反対のことを語る預言者が登場しました。それがハナヌヤでした。ハナヌヤという名前の意味は、「主は憐み深い」というものです。そして、ハナヌヤのメッセージは「主は今やイスラエルに憐みをかけてくださる、主はユダ王国をバビロンから救ってくださる」というものでした。ハナヌヤによれば、主はバビロン捕囚をあと2年で終わらせてくださるというのです。この時点で、バビロン捕囚が始まってから4年目に入っていましたから、バビロン捕囚は6年余りで終わるということになります。エレミヤは、バビロン捕囚は70年続き、イスラエルの人々は三代にわたってバビロンに仕えることになる、という主の預言を語っていましたので、エレミヤの預言とハナヌヤの預言とは、真っ向から対立することになります。つまり、エレミヤもハナヌヤも、どちらも主の言葉を語っているというのはあり得ないことなのです。先月、「偽預言者」という説教をしましたが、偽預言者とは主の言葉だといいながら、実は自分の思いや考え、あるいは人々の願望を語る人だということをお話ししました。ですから、エレミヤとハナヌヤのいずれかが自分の思いを語っているということになるのです。

では、当のエレミヤはハナヌヤの語る言葉をどのように聞いたのでしょうか。もしハナヌヤが正しいのだとしたら、それと正反対のことを語るエレミヤは偽預言者だということになってしまいます。自らの預言者としての信認が疑われるようなことになりかねません。ですからエレミヤは、「ハナヌヤよ、偽りを言うな。主がそんなことを言われるはずはないではないか」と真っ向から反論してもおかしくはないところです。しかし、ハナヌヤの言葉を聞いたエレミヤはこう言いました。

「アーメン。そのとおりに主がしてくださるように。あなたが預言したことばを主が成就させ、主の宮の器と、すべての捕囚の民がバビロンからこの所に帰ってくるように。」

ハナヌヤの言葉に「アーメン」と言ったのです。アーメンとは「本当にそうです」という意味です。エレミヤは、自分のこれまでの預言を撤回して、本当にバビロン捕囚があと2年で終わり、捕囚の民や神殿の宝物が帰ってくると思ったのでしょうか。この言葉はエレミヤの皮肉だ、という見方があります。つまり、「ハナヌヤよ、お前の言うことはしょせん虚しい望みで、実現することはないが、まあせいぜい頑張ってくれ」と小ばかにして言ったのだという解釈です。しかし、おそらくそうではないでしょう。エレミヤ自身は、これまでイスラエルの人々に災いや破滅の預言ばかり語ってきましたが、それは彼の思いや願いではありませんでした。エレミヤは神から伝えられたことをそのまま忠実に語っただけで、彼自身はそんなことが自分の祖国に起こることを全然望んではいなかったのです。むしろエレミヤは神に、イスラエルを憐れんでくださいと祈ってきました。そんなエレミヤに対し、神はイスラエルのために執り成しの祈りをすることを禁じていたのです。エレミヤ書7章16節には次のような言葉があります。

あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげてはならない。わたしにとりなしをしてはならない。わたしはあなたの願いを聞かないからだ。

このような、エレミヤにとりなしをすることを禁じる命令はたびたび登場します。逆に言えば、エレミヤは禁じられても何度も何度もイスラエルのために神に祈ったのでしょう。神様も、粘り強く一生懸命祈られるとそれを聞かないわけにはいきませんが、さりとてイスラエルの積もり積もった罪は非常に大きかったので、裁きを下すという決定を撤回することもできません。そこでエレミヤに、もうこれ以上祈らないでくれ、私を困らせないでくれ、と命じたのです。そして、私はたとえ大預言者モーセやサムエルがとりなしてもそれを聞かない、この災いの決定が覆ることはない、とまで神はおっしゃられました。神にそこまで言われてしまったので、エレミヤも内心の願いをぐっと押し殺したのです。それでも、エレミヤの本心、内なる願いは、実はハナヌヤが語った通りだったのです。早くバビロン捕囚が終わって、神の憐みが豊かにイスラエルに注がれることを願っていたのです。そのために、ハナヌヤの言葉を聞いたエレミヤは、思わず「アーメン、その通りになりますように」と言ってしまったのでしょう。

さらに言えば、エレミヤはハナヌヤが本当に神の言葉を語っているのかもしれないと考えたのかもしれません。エレミヤはとても謙遜な人でした。エレミヤは、決して自分だけが特別だ、自分だけが主の預言者、スポークスマンだとは思っていませんでした。神様が自分以外の人を選んで、その人に新しいメッセージを託すということも受け入れていました。実際、エレミヤの時代には偽預言者もたくさんいましたが、本物の神の預言者はほかにもいたのです。一番有名なのはエゼキエルで、彼はちょうどこの出来事から1年後に預言者としての働きを始めています。また、ハバククという預言者もエレミヤと同じころに活躍し、バビロンの台頭を預言していました。また、エレミヤ書26章にはエレミヤと同じような預言をして、それがエホヤキム王の怒りを買って殺されてしまったウリヤという預言者もいました。ですから、神がイスラエルへの裁きを思い直し、そのメッセージを新しい預言者に託すということもあり得ることでした。エレミヤも、ですから自分とは全く違うことを語るハナヌヤを偽預言者だとは決めつけずに、彼も神の言葉を預かったのかもしれない、と思ったというのは十分考えられるのです。ここにエレミヤの謙虚さと、神への畏れを見る思いがしますし、それらはまさに預言者にとって大事な資質でした。

しかし他方で、エレミヤはこれまでたくさんの偽預言者も見てきました。エレミヤ書14章13節には次のようなエレミヤの言葉があります。

私は言った。「ああ、神、主よ。預言者たちは、『あなたがたは剣を見ず、ききんもあなたがたには起こらない。かえって、わたしはこの所でまことの平安をあなたがたに与える』と人々に言っているではありませんか。」

このエレミヤの訴えに対し、神はこれらの預言者たちは実際には預言者ではなく、自分の思いを語っているだけなのだ、と説明しました。このような、偽りの平和を唱える偽預言者を見てきたエレミヤは、ハナヌヤもそのような偽預言者であるかもしれない、と指摘しました。そこで7節以降の言葉を続けて語りました。

しかし、私があなたの耳と、すべての民の耳に語っているこのことばを聞きなさい。昔から、私と、あなたの先に出た預言者たちは、多くの国と大きな王国について、戦いとわざわいと疫病とを預言した。平和を預言する預言者については、その預言者のことばが成就して初めて、ほんとうに主が遣わされた預言者だ、と知られるのだ。

エレミヤは、自分だけではなく、イスラエルのたくさんの預言者たちがわざわいを預言してきたという事実を指摘します。例えば大預言者イザヤは、神から召命を受けた時、「町々は荒れ果て、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果てる」というなんとも寒々とした神のことばを受けています。せっかく神のメッセンジャーになって人々に語ろうとするときに、こんな荒涼としたメッセージを語らなくてはならないとは、イザヤも胸がつぶれる思いだったでしょう。しかしイザヤだけではありません。旧約聖書の預言書を読めば、これでもか、というくらいに破滅や滅亡の預言があります。もちろん希望のメッセージもあるわけですが、それはこうした厳しい苦難をくぐり抜けた後にやっと与えられるものなのです。エレミヤも、今後の説教でお話しするように素晴らしい希望のメッセージを残しています。しかしそれは壊滅的と思えるような裁きをくぐり抜けた後のメッセージなのです。ハナヌヤの言うように、あっという間に終わってしまうような苦難ではなかったのです。ですから、歴代のイスラエルの預言者たちとは異なることを語る以上、ハナヌヤが真の預言者として認められるためには、彼の語ることが成就しなければなりません。神も、本物の預言者と偽物の預言者とを区別する方法として、その語った言葉が成就するかどうかを判断基準として設けています。申命記18章21節にはこうあります。

あなたが心の中で、「私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか」と言うような場合は、預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。

もちろん、これだけが偽預言者を判別する基準だということではありません。破滅の預言を聞いた人々が心から悔い改めたのなら、破滅の原因である神への不従順がなくなったわけですから、神は裁きを下すことを思い直し、破滅は起こらないでしょう。この場合は預言者が語ったことは実現しないことになりますが、それでも彼は偽預言者ではありません。しかし、人々が心から悔い改めてもいないのに、神が裁きを撤回して憐れみを下さるというのは、普通ではありえないことです。ですからそのような預言を語る者が本物かどうかは、実際にそうした平和の預言が成就して初めて確かめられるのです。エレミヤはそのことを端的にハナヌヤに語りました。

しかし、ハナヌヤは自分の語る言葉に疑いが投げかけられるのが面白くなかったのでしょう。エレミヤの語る言葉に怒りを覚えたようです。そしてさらに大胆な行動に出ます。エレミヤは、バビロンに仕えなさいという自分のメッセージを分かり易く伝えるために象徴行動をとりました。それは、自分の首にかせをはめることですが、このことはバビロンのくびきを負うということを意味しました。しかしハナヌヤは、エレミヤの首からかせを取り外して、それを木っ端みじんに砕いてしまったのです。そして自分の行動の意味を説明するように、こう言います。

主はこう仰せられる。「このとおり、わたしは二年のうちに、バビロンの王ネブカデネザルのくびきを、すべての国の首から砕く。」

バビロンの天下は二年もたたないうちに終わる。そうして南ユダ王国も、またその近隣諸国も、バビロンの支配から解放されるのだ、と宣言したのです。これを聞いたユダ王国の人々は大喜びしたでしょう。そして捕虜としてバビロンに連れていかれた人たちも直ぐ帰ってくると、希望に胸を躍らせたことでしょう。しかし、エレミヤはここでは何も言わずに黙って立ち去りました。ここにもエレミヤの偉大さが現れていると思います。多くの人々の面前で自分の言葉を真っ向から否定された、いわば恥をかかされたわけですから、何か言い返したいという思いはあったでしょう。並の人間なら激怒してもおかしくありません。しかし、エレミヤは自分が神の僕に過ぎないということがよくわかっていました。もし本当に神がハナヌヤにことばを託したのならば、彼に反論することは神に逆らうことになる、ということまで考えていました。ですからハナヌヤについて早まった判断はせず、神からはっきりとした御心が示されるまで待とうと思ったのです。ですからエレミヤは、いろいろ言いたいことはあったでしょうが、この場は静かに立ち去ったのでした。

ほどなくして、エレミヤに神のことばが与えられました。それからエレミヤはハナヌヤのところに言って、こう言いました。

ハナヌヤ。聞きなさい。主は、あなたを遣わされなかった。あなたはこの民を偽りに依り頼ませた。

このように、ハナヌヤのことばは神のことばではない、とはっきり伝えました。また、エレミヤは「主はこう仰せられる。あなたは木のかせを砕いたが、その代わりに、鉄のかせを作ることになる」とも言いました。もうハナヌヤには砕くこともできない、より強力な鉄のかせがイスラエルの人々に科せられることになるのです。そしてとどめとして、偽りの預言を語ったハナヌヤはことし死ぬ、とエレミヤは宣言しました。

この強烈な言葉を聞いたハナヌヤがどう反応したのかは書かれていません。ハナヌヤもかなり気性の激しい人物のようですから、エレミヤのことばに激しく反発したのかもしれません。あるいは、神のことばを語るエレミヤの迫力に圧倒されて、何も反論できなかったのかもしれません。しかし、実際はどうだったのかは分かりません。ただ単に、ハナヌヤはこの出来事の2か月後に死んだ、とだけ書かれています。なぜハナヌヤが死んだのか、その理由は分かりませんが、エレミヤの予告通りにハナヌヤが死んだわけですから、エレミヤの方が正しかったのだ、ということが実証されたことになります。しかし、実はハナヌヤの残したメッセージはユダ王国の人たちに強い印象を残したようです。人々はエレミヤよりも、むしろハナヌヤの言うことを信じてしまったようなのです。なぜならそれから数年後にはゼデキヤはバビロンに反乱を起こし、南ユダ王国を滅亡へと導いてしまうことになるからです。解放を告げるハナヌヤの語った言葉の方が、人々には受け入れやすかったのでしょうが、受け入れやすいから神のことばだ、ということにはならないのです。

3.結論

さて、これまでの説教では総論として偽の預言、偽預言者について語ってきましたが、今日は具体的な人物であるハナヌヤという人物を見てまいりました。この人は真剣な思いで預言をしていたのだと思われます。神を信じ、イスラエルの神が偶像を拝む帝国が神の民を支配することを許すはずがない、かならず打ち破ってくださるという神学的な確信を持っていたのでしょう。

しかし、イスラエルの積年の罪は重く、もはや裁きは避けられないものとなっていました。バビロンへの服従は屈辱であっても、神の御心として受け止めるべきだったのです。バビロンに逆らうことは、神の裁きを耐えがたいほど重いものにしてしまうという結果になります。歴史にもしはありませんが、もしゼデキヤ王やユダ王国の人々がエレミヤの言うことに従っていれば、バビロンへの服従という辛い状況は続いたとしても、エルサレムの陥落と王国の消滅という最悪の事態は避けられたことでしょう。

エレミヤ書を読んでいると、なんとも気が重くなってきます。イスラエルに救いはないのか、という思いが沸き上がってきます。バビロンに仕えることはつらいし、かといって反逆すればもっとひどい目に遭うとは。しかし、エレミヤ書はただ暗いだけの書ではありません。苦難の先には驚くほどの希望のメッセージが含まれているのです。この出口の見えない、八方ふさがりの苦難の果てに、素晴らしい未来があるのです。これからの説教でそのことを見てまいりたいと思いますが、苦難が重ければ重いほど、その先の希望は大きくなるのです。そのような状況は、どこか今日私たちが置かれた状況と重なるものがあります。私たちもまた出口の見えない困難な状況に置かれてはいますが、神を信じる者にはその苦難の先には素晴らしい約束があるのです。目の前の現実に押しつぶされて、その希望を決して見失ってはいけません。神を信じ、また神の与えてくださる素晴らしい希望を信じて、今週も歩んでまいりましょう。お祈りします。

万物を統べ治め、歴史を導かれる神よ。その御名を賛美します。私たちはおろかで、しばしば自分の思いや願いを神の御心だと信じ込んでしまうような存在です。どうか主の御心を知る知恵と、それをまっすぐに受け止める素直な気持ちをお与えください。また、困難な状況の先には、希望の光があることを私たちにいつも思い起こさせてください。暑い8月が続きますが、そんな中でも私たちの今週の歩みが守られますように。私たちの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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反バビロン連合エレミヤ書27章2~22節 https://domei-nakahara.com/2020/08/02/%e5%8f%8d%e3%83%90%e3%83%93%e3%83%ad%e3%83%b3%e9%80%a3%e5%90%88%e3%82%a8%e3%83%ac%e3%83%9f%e3%83%a4%e6%9b%b827%e7%ab%a02%ef%bd%9e22%e7%af%80/ Sun, 02 Aug 2020 07:06:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=569 "反バビロン連合
エレミヤ書27章2~22節" の
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1.導入

みなさま、おはようございます。前回、今回と説教のタイトルに「バビロン」という名前が登場します。エレミヤにとっても、当時の南ユダ王国にとっても、バビロンというのは非常に大きな存在でした。私たち日本について考える場合にも、アメリカ、あるいは中国という大国の存在抜きに政治や経済、あるいは文化を考えるのは不可能なわけですが、南ユダ王国にとっても、北の大国バビロンは目の上のたん瘤、常にその存在を意識しないわけにはいかない存在でした。

しかもこのバビロン、あっという間に勢力を拡大した新興勢力でした。いわゆる成り上がり国家でした。バビロンはずっと北の大国アッシリアの植民地で、アッシリアから独立したのはエレミヤが預言者としての召命を受けた2年後のことでした。ですからエレミヤが預言者として活躍を始めたときには、バビロニア帝国は存在すらしていなかったのです。それが、またたく間にその力を拡大し、宗主国であったアッシリアの首都ニネベを攻め滅ぼすまでになります。わずか20年ほどで、メソポタミア地方の盟主にのし上がったのです。

では、このバビロンというのがどんな国だったかと言えば、狂暴とか、残虐とか、そういう形容詞がふさわしいような国でした。エレミヤと同じ時期に預言者として活動していたハバククという人物は、バビロンのことを次のように述べています。ちなみに、カルデヤ人とはバビロンの人のことです。ハバクク書1章5節以降をお読みします。

異邦の民を見、目を留めよ。
驚き、驚け。
わたしは一つの事をあなたがたの時代にする。
それを告げられても、あなたがたは信じまい。
見よ。わたしはカルデヤ人を起こす。
狂暴で激しい国民だ。
これは、自分のものでない住まいを占領しようと、
地を広く行き巡る。
これはひどく恐ろしい。

と、バビロンのことをこのように評しています。バビロニア帝国も、その前のアッシリア帝国も、世界帝国を築くために用いたのは暴力と恐怖でした。従う者には鷹揚な態度を見せますが、逆らうものは徹底的に痛めつけることで相手に恐怖心を植え付けて、二度と自分に歯向かわないようにしました。徳によって治めるとか、愛によって治めるとか、そういうきれいな話ではないのです。

この暴虐なバビロンが台頭することに危機感を募らせていた人たちがいました。それはパレスチナと呼ばれる地域にあった小国の王たちでした。南ユダ王国も、そうした王国のひとつです。この地域は、メソポタミアとエジプトとを結ぶ交通の要衝であり、メソポタミアの支配者とエジプトの支配者は、この地域を自分たちの支配下に置こうと常に争ってきました。これまではメソポタミアの覇者である狂暴なアッシリアがパレスチナを支配してきました。そのアッシリアがようやく滅びたと喜んでいたら、再び狂暴な王国がメソポタミアに誕生したのです。パレスチナの王たちは、自国だけではこのバビロンに対抗できないので、パレスチナの小国が連携して反バビロン連合を結成し、バビロンの支配に抗おうとしました。今日の聖書箇所は、パレスチナの王たちが、バビロンによって第20代の南ユダ王国の王にしてもらったゼデキヤに、反バビロン連合に加わるように要請する、そういう場面です。

2.本文

このように、今日のエレミヤ書の27章の背景は、新しく南ユダ王国20代目の王になったゼデキヤのところに、エドムの王、モアブの王、アモン人の王、ツロの王、シドンの王が使節を派遣した、というものです。エドムというのは南ユダ王国の南に位置する国で、族長ヤコブの兄弟エサウを祖先とする、ユダ王国からすれば兄弟国のような国です。モアブやアモンはユダ王国の右隣に位置する王国ですが、族長アブラハムの甥ロトを祖先とする国々ですので、これらもユダ王国にとって親戚のような国々です。ツロやシドンは海洋国家で地中海沿いの国々で、これらの国々もユダ王国とはソロモン王の時代からの付き合いがありました。こうした南ユダ王国をぐるりと取り囲む国々の王たちがこぞってゼデキヤ王のところに使節を送ったのは、南ユダ王国に反バビロン連合に加わるように勧誘するためでした。彼らもゼデキヤがバビロンのおかげで王になれたことは知っていましたが、バビロンの覇権主義を咎め、我々とともにバビロンのくびきをかなぐり捨てようではないか、とゼデキヤを説得しようとしたのです。小国連合は結束しなければ力が発揮できません。これらの国々の真ん中に位置する南ユダ王国は、いわばこの連合のかなめとなるべき国であるので、彼らとしてもなんとしてもゼデキヤに自分たちの連合に加わるように説得する必要があったのです。

この時、では南ユダ王国はどうするべきなのか、反バビロン連合に加わるべきか、あるいはバビロンに従い続けるべきか、またはそのどちらでもない第三の道があるのか、それについてエレミヤはゼデキヤ王に神の御心を伝えようとしたのです。このエレミヤとゼデキヤ王との関係は、100年以上前の大預言者イザヤと当時の南ユダ王国のアハズ王との関係とよく似ているように思われます。紀元前735年ころ、南ユダ王国は、アラムと呼ばれる現在のシリアに位置する王国と、北イスラエル王国の両国から、当時の北の超大国、アッシリアに対抗するための反アッシリア連合に加わるように迫られていました。もしこの連合に加わらなければ、南ユダ王国を攻撃する、とシリアと北イスラエルは迫ってきたのです。ここには二国しか出てきませんが、実際はツロなどの海洋国家も反アッシリア連合に加わっていました。南ユダ王国のアハズ王はどこにも味方しない、中立国を決め込んでいたのですが、周りの国々はそれを許さなかったのです。アラムや北イスラエルからすれば、南ユダ王国がアッシリアについてしまうと、北のアッシリア、南のユダ王国という具合に挟み撃ちにされてしまいます。後顧の憂いを断つためにも、なんとしても南ユダ王国は仲間に引き入れたかったのです。預言者イザヤはこの時アハズに、シリアや北イスラエル王国を恐れるな、神のみを信頼しなさいと強く促すのですが、その時アハズの取った行動は残念ながらそうではなく、北の大国アッシリアに助けを乞い、大金を年貢として納めるので自分を救ってくださいと泣きついたのです。このアハズの行動は結局南ユダ王国にとっては高くつきました。確かにアッシリアはこの時は南ユダ王国を助けるのですが、アラムと北イスラエルを滅ぼしたアッシリアは、その先にある南ユダ王国をも併合しようとしたのです。アハズの次のヒゼキヤ王の時代に、アッシリアは南ユダ王国に侵攻し、絶滅寸前まで追い詰めることになります。イザヤの言う通り、アッシリアではなく神にのみ信頼すべきだったのです。

さて、エレミヤとゼデキヤの話に戻りますが、エレミヤがイザヤの立場に立って助言するならば、反バビロン連合を恐れる必要はないが、バビロンを恐れる必要もない、ただイスラエルの神のみを信頼しなさい、ということになるでしょう。しかし、エレミヤはイザヤとは全然違う助言をします。エレミヤはここで象徴行動を取ります。象徴行動とは、言葉ではなく、目に見えるゼスチャーによってメッセージを伝えようというものです。エレミヤ書19章によれば、エレミヤは人々の前で陶器を粉々に砕き、エルサレムもこのように粉々になる、という恐ろしい、またわかりやすいメッセージを伝えたことがありました。今回は、何とエレミヤは、囚人のように自分の首に枷(かせ)を付けて、ゼデキヤ王に反バビロン連合に加わるように圧力をかけにきた使節たちの前に現れました。各国の外交官たちは、南ユダ王国の有名な預言者が異様な格好をして彼らの前に現れたのをみて、ぎょっとしたでしょう。いったい何のマネなのか、と。エレミヤのメッセージは単刀直入でした。バビロンに従いなさい、バビロンに首を差し出してバビロンのくびきを負いなさい、さもないと、このように哀れなバビロンの囚人となってしまうぞ、と言おうとしたのです。さらには、イスラエルの神はバビロンの王に全世界を与えたのだ、だからバビロンに逆らうことは神に逆らうことであり、バビロンに服従しない国にはイスラエルの神は災いをもたらす、と預言したのです。そしてユダ王国の王であるゼデキヤにも全く同じことを言いました。バビロンに仕えて生き延びなさい、バビロンに仕えなければ、エルサレムとその神殿は廃墟となる、と預言したのです。しかし、このエレミヤの預言は、イザヤと比べるとなんだか卑屈なように思われるかもしれません。イザヤだったら、バビロンなど恐れずにイスラエルの神に信頼しなさい、と助言してくれたのではないかと。それなのに、しっぽを振ってバビロンに従えとは、エレミヤはバビロンの犬なのか、という反応が当然あったでしょう。しかも、エレミヤはイスラエルの神がバビロンを全世界の王にした、と宣言していますが、これなどまるでバビロンのプロパガンダのようです。実際、エレミヤは今後ユダ王国の人たちからバビロンの回し者だとか、スパイなのでは、という嫌疑をかけられます。しかも、ついにバビロンによってエルサレムが滅ぼされてしまうときに、バビロンの王ネブカデレザルはわざわざスパイ嫌疑で囚われていたエレミヤを助け出すように命じているのです。その箇所を読んでみましょう。エレミヤ書39章11節、12節です。

バビロンの王ネブカデレザルは、エレミヤについて、侍従長ネブザルアダンに次のように命じた。「彼を連れ出し、目をかけてやれ。何も悪いことをするな。ただ、彼があなたに語るとおりに、彼にせよ。」

と、このような異例な命令を下しています。征服者の王が、征服される国の囚人を救い出すというのは普通ではありません。このことからも、エレミヤはバビロンに内通していたのではないか、と思われてしまったかもしれません。

また、エレミヤは何とバビロンの王ネブカデレザルのことを神のしもべとすら呼んでいます。その箇所、エレミヤ書25章9節をお読みします。

見よ、わたしは北のすべての種族を呼び寄せる。-主の御告げ-すなわち、わたしのしもべバビロンの王ネブカデレザルを呼び寄せて、この国と、その住民と、その回りのすべての国々とを攻めさせ、これを聖絶して、恐怖とし、あざけりとし、永遠の廃墟とする。

このように、イスラエルの神を知らず、自らの野心のままに世界征服を行うネブカデレザルのことをエレミヤは神のしもべと呼ぶのです。いったいなんだってエレミヤはバビロンのことをそんなにひいきにするのか、と不審に思われるかもしれません。

けれども、今日の27章をよく読むと、エレミヤが決して手放しでバビロンを支持していたのではなかったことは明らかです。7節には次のような預言があります。

彼の国に時が来るまで、すべての国は、彼と、その子と、その子の子に仕えよう。しかし時が来ると、多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷とする。

ここでの「彼」とはバビロンの王のことですが、バビロンはこのように三代にわたってすべての国々を支配しますが、その期間が終わると、メド・ペルシャによって滅ぼされてしまいます。国々を奴隷にしたバビロンは、かえって彼らの奴隷となってしまうことが告げられているのです。このように、エレミヤはいわば期間限定のバビロンの天下を宣言しただけなのです。

また、イスラエルに対するバビロンの支配も条件付きでした。神は、ご自身を信じる者も信じない者も、どちらをもご自分の目的のために用いられます。神はネブカデレザルに世界を与えることにされ、彼を通じてイスラエルの背信に対して裁きを与えることにしました。しかし、バビロンの栄華はもちろん永遠のものではありませんし、神はエルサレムを永遠に罰しようとなさったのでもありません。それは定められた一定の期間のことでした。エレミヤ書25章では、神はその期間を70年と定めた、と書かれています。これは文字通りの70年と考える必要はありません。確かにバビロンが中近東の覇権を握ったのはだいたい70年ぐらいでしたが、むしろ7が聖書の完全数であるという象徴的な意味の方が重要です。7の10倍の期間、すなわち神が定めた支配が完遂されると、バビロンはその支配の座を降りるということです。そして、定められたバビロンの時が終わると、神はエルサレムを憐れんでくださるという約束が与えられているのです。そのことが、今日の27章の21-22節に予告されています。

まことに、イスラエルの神、万軍の主は、主の宮とユダの王の家とエルサレムに残された器について、こう仰せられる。「それらはバビロンに運ばれて、わたしがそれを顧みる日まで、そこにある。-主の御告げ-そうして、わたしは、それらを携え上り、この所に帰らせる。」

バビロンに持ち去られてしまったエルサレム神殿の宝物を、神ご自身が持ち帰って下さるという預言を、エレミヤは語っていたのです。

このように、エレミヤは反バビロン連合を組む諸国の王にも、南ユダ王国のゼデキヤ王にも、バビロンに仕えなさいと助言をしますが、それはエレミヤがバビロンに心酔していたからだとか、あるいはバビロンは無敵なので無駄な抵抗はやめろとか、そういうことではなかったのです。むしろ、神がバビロンをある一定期間、覇者として定めた以上、その神の御心に従うという意味でバビロンに仕えるようにと語ったのです。

聖書全体を読んでみても、神の民に対し、その当時世界を支配している暴虐な帝国に対して立ち向かえ、立ち上がれ、と呼びかけているところはありません。最も私たちになじみ深い例を挙げれば、イエス様の時代のローマ帝国があります。当時のローマも、無敵の勢いで地中海世界を席巻し、逆らう者には容赦しないという残忍さを持った帝国でした。ローマの植民地だったユダヤ人たちは、このローマのくびきを打ち砕いて自由と平和を勝ち取りたい、それが神の御心なのだと信じ、ローマと激しい戦争を行いました。しかし、主イエスがローマへの武力抵抗を支持したことは一度もありませんでした。イエスの弟子たち、使徒たちも、彼らが牧していた教会の信者たちに、邪悪なローマ帝国に立ち向かえ、と呼びかけることはありませんでした。むしろ、ペテロは「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい」(Ⅰペテロ2:13)と命じています。

むろん、教会と国家との関係は難しい問題があります。ナチスのヒトラーの下に生まれても、あるいは軍国主義に突き進む日本に生まれても、上に立つ政府だからと言って唯々諾々と国家の侵略政策に従え、ということにはもちろんなりません。私たちは国家が武力によって人間の尊厳を踏みにじるような方向に向かうときに、それに抗うべきです。しかし、その抗い方は、力には力で、とばかりに武力を用いて抵抗することではありません。厳しい道ですが、武力に訴えずに、平和的な手段で抗議する必要があります。そんな生ぬるいことでは暴走する国家を止められないではないか、正気を失った政府に対しては誰かが力づくでも立ち向かわなければならないではないか、という見方ももちろんあるでしょう。しかし、そのような時こそ神に委ねる、神に信頼する、という姿勢を保つ必要があります。

エレミヤも、バビロンの暴虐さはよく知っていました。そして、時が来れば必ず神はバビロンの悪を罰すると信じていました。ですから、今は諸国にバビロンに仕えよと促すエレミヤは、バビロンに魂を売ったわけではなかったのです。

さて、長々とエレミヤとバビロンの関係についてお話ししましたが、ではゼデキヤ王はどうしたのでしょうか?反バビロン連合に加わったのでしょうか、それともエレミヤの助言を聞き入れて、バビロンに従うことにしたのでしょうか。ゼデキヤはこの先何年かして、結局バビロンに反逆します。しかしそれはパレスチナの反バビロン連合に与したからではなく、南の大国エジプトを当てにしてのことでした。今回の場合は、ゼデキヤは周辺諸国の誘いに乗らずに反バビロン連合には加わりませんでした。エレミヤの助言に従ったことになります。そして王に即位してから4年目に、ゼデキヤはバビロンに恭順の意を示し、貢物を納めるために自らバビロンの都へと出向きます。しかしその時、エレミヤはある重要な行動をします。その箇所をお読みします。エレミヤ書51章の59節以降です。

マフセヤの子ネリヤの子セラヤが、ユダの王ゼデキヤとともに、その治世の第四年に、バビロンへ行くとき、預言者エレミヤがセラヤに命じたことば。そのとき、セラヤは宿営の長であった。エレミヤはバビロンに下るわざわいのすべてを一つの巻き物にしるした。すなわち、バビロンについてこのすべてのことばが書いてあった。エレミヤはセラヤに言った。「あなたがバビロンに入ったときに、これらすべてのことばをよく注意して読み、『主よ。あなたはこの所について、これを滅ぼし、人間から獣に至るまで住むものがないようにし、永遠 に荒れ果てさせる、と語られました』と言い、この書物を読み終わったなら、それに石を結びつけて、ユーフラテス川の中に投げ入れ、『このように、バビロンは沈み、浮かび上がれない。わたしがもたらすわざわいのためだ。彼らは疲れ果てる』と言いなさい。」ここまでが、エレミヤのことばである。

このように、エレミヤはバビロンの都の真っただ中で、バビロン破滅の預言の言葉を語らせたのです。エレミヤもまた、イザヤのように人間の帝国を恐れませんでした。ただ、イザヤの時とは違い、神が今やイスラエルをバビロンに仕えさせることを決めておられる、ということを知っていたのです。たしかにバビロン捕囚は民族の悲劇でした。しかし、前回学んだように、ユダヤ民族は捕囚を経て霊的に大きく前進、成長することになり、何よりもこれを機会に聖書が形成されていくことになるのです。神は試練を通じてイスラエルを成長させる、そのことを確信していたからこそ、エレミヤは同胞たちにバビロンに仕えなさい、と語ったのでした。

3.結論

今日は、ユダ王国を反バビロン連合に誘う周辺諸国に対して、エレミヤが語った預言の言葉を学んでまいりました。エレミヤがとった言動、すなわちバビロンに首を差し出せ、という神の預言を伝えたのは意外なことでした。しかし、歴史を支配しておられ、また歴史のただなかで神の民を鍛え上げ、育て上げる神は、私たちの意表を突くようなご計画をお持ちである場合があります。バビロンは暴虐な国で、神も敬わないのだから、そのような国に従う必要はない、と思われるかもしれませんが、話はそう単純ではないのです。神は、そのような国をもご自身の御心を成し遂げるために用いることがあるからです。

私たちにも、なんとも理不尽な状況に置かれることがあります。なんでこんな人が上に立つのか、なぜこんな悪い人たちが栄えるのか、という状況に立たされることは必ずあります。しかし、神の知恵は私たちよりも高く深いのです。そして、神は高ぶる者を必ず低くされます。「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」と言われているとおりです。どんな状況においても、その状況を神が支配しておられる、神は私たちを見てくださっている、ということを信じられなければ、私たちはたちまち立ち行かなくなります。恐れに支配されて右往左往すれば、大事なものを失ってしまうでしょう。

私たちは、また日本中の人々が、今や不安の中にいます。もし神がこの混とんとした状況をも支配しておられる、ということが信じられなくなれば、私たちはその場しのぎの、場当たり的なことしかできなくなってしまうでしょう。しかし、このような時こそ主を信じましょう。正しい人は、神への信頼によって生きるのです。今週の一歩一歩の歩みを支えてくださるように、主に祈りましょう。

わがたましいよ。
なぜ、おまえはうなだれているのか。
私の前で思い乱れているのか。
神を待ち望め。
私はなおも神をほめたたえる。
御顔の救いを。
(詩篇42:5)

歴史を支配し、国々を興し、また滅ぼされる神よ。あなたは時として私たちに試練を与え、それを通じて私たちを鍛え育みます。どうか、どのような時にもあなたを信じる本物の信仰を私たちの中に形作ってください。試練の中で、あなたを見失うようなことがないようにしてください。今週の一歩一歩の歩みをお守りください。信仰の創始者であり、完成者であるイエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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