申命記 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 調布 深大寺のプロテスタント教会 Sun, 21 Jun 2020 14:06:12 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.3.17 https://domei-nakahara.com/wp-content/uploads/2020/03/cropped-favicon-32x32.png 申命記 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 32 32 三人の証人・証言申命記19:15-21森田俊隆 https://domei-nakahara.com/2020/06/21/%e4%b8%89%e4%ba%ba%e3%81%ae%e8%a8%bc%e4%ba%ba%e3%83%bb%e8%a8%bc%e8%a8%80%e7%94%b3%e5%91%bd%e8%a8%981915-21%e6%a3%ae%e7%94%b0%e4%bf%8a%e9%9a%86/ Sun, 21 Jun 2020 14:06:10 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=437 "三人の証人・証言
申命記19:15-21
森田俊隆
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先月は申命記の各種律法のなかから安息年における負債の免除の条項を採り上げました。本日は、裁きの時に於いて、証人が一人では罪に定めることはできず、複数人の証人を必要とする、ということが言われています。この規定は十戒のうちの第九戒申命記5:20「あなたの隣人に対して、偽証してはならない」を更に具体的に示したものです。十戒に違反して偽証していても一人であれば、それが偽証かどうかも分からない、ので、複数人の証言を求めています。いわば裁判の公正さを確保するための方法を律法として定めたもの、ということができます。「証人」「証言」は現代の裁判においても証拠の一つとされ、ここにおける偽証は極めて重大な問題を引き起こします。一般の社会においても「あの人が言っていることだから間違いないであろう」ということで信ずることも日常的にあります。考えてみると重大なことが気軽に決められていることもあります。

今日の聖書個所を順にみながら、この聖書個所の意味するところを理解するとともに、この世の中でおきていることを付け加えていきたいと、思います。まず19:15「どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。」とあります。「咎」は裁判によって罰を与えられるべき行いの事ですが、「罪」の方は聖書では主なる神への背信全体を指していますから「だれだれは主なる神以外の神を拝んだ」という証言や、「だれだれは、自分の父を敬わず、どうなってもかまわない、と言った」という証言も立派な「罪」とみなされる事柄であった、ということです。裁判は今でいう民事、刑事、行政の裁判に加え、後の宗教裁判のようなことも含んでいたということです。このことはなぜ、主イエスが裁判にかけられることになったのかに関連して重要なことです。

「立証する」という言葉は直訳では「事を立てる」と訳され、証明する、ことを意味しています。「証しする」と訳されることもあります。証拠をもって何かを証明することです。クリスチャンの信仰体験を「証(あかし)」と言いますが、これは「主イエスが私に働いたことを私の経験を通して証明します」ということです。ギリシャ語では「martyu-re:wo」という言葉ですが、ヨハネ福音書の8章で、主イエスは、自分自身と父なる神が、自分を裁く者として証言しているとおっしゃられ、「あなたがたの律法にも、ふたりの証言は真実であると書かれています。」と述べております。聖書は信仰の書ですから所謂宗教的な意味での「証言する」個所が多いのですが、旧約聖書は社会的な法でもありますから、この世における社会倫理との関係で「立証する」「証言する」「証しする」という使われかたも多数あります。現代における「証言する」よりはもっと広い意味でこの言葉が使われています。

また、「ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって」とあります。わかりにくい表現です。「または」は英語の「or」です。内容的には英語の「rather than」の意味であり「ふたりの証言、またはそれより三人の証言」という意味合いです。できれば三人の方が良い、ということです。二人であれば口裏合わせて組んで偽証することも容易のように思われますが、三人となると口裏合わせの危険はかなり減ります。この個所は裁判の公平性を確保するための個所ですから証人の数を多くすることにより、冤罪を避ける、ということなのであろう、と思われます。当時は、今のように、指紋とかDNAとか血液型とか所謂物証の類(たぐい)はほとんどなく、証言によって有罪、無罪が決められていたと思われますので、証人の数は単なる数字の問題ではなかったのです。しかし、政治的・宗教裁判的事件では、強い「同調圧力」が働きますので、証人の数は多くてもあまり意味をなさなかったのではないか、と思われます。一般大衆には「同調圧力」が極めて強く働きますし、日本は、特に「同調圧力」が強い国だ、と言われています。「みなが、そういうのなら、そうなのだろう」という見方です。そういう社会では民主主義は育ちません。

次に19:16-17      をお読みします。「もし、ある人に不正な証言をするために悪意のある証人が立ったときには、相争うこの二組の者は、主の前に、その時の祭司たちとさばきつかさたちの前に立たなければならない」とあります。「悪意のある証人」と言っているのは意図的に偽証をしようとしている人間のことです。「主の前」に立つというのは公に認められた裁きの場にたつ、ということで、おそらく、「宣誓」が求められ場と思われます。日本でも、裁判の前には宣誓書を読みます。「良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べない旨を誓います」と言います。原則は隠してはならないのです。しかし、刑事訴訟法第161条には「正当な理由なく宣誓又は証言を拒んだ者は、10万円以下の罰金又は拘留に処する」とされています。「自己または一定範囲の親族が刑事訴追を受け、又は有罪判決を受けるおそれがある証言」は拒絶できるとされています。国会における証言についても同様の証言拒絶権が認められ、先般の日本の国会で森友学園事件に関連し公文書変造の疑いをかけられた財務省元局長が片端から証言拒絶をしました。野党議員の追求も空振りになってしまいました。国会は国権の最高機関であり検察より権威のある存在のはずなのに訴追の可能性があれば証言拒絶ができるというのは本来の法の趣旨に反したことと思います。

もし、申命記条項を適用し、モーセ律法に従い「主の前で」「隠さず」と宣誓したのに、有罪にされるかもしれないので証言拒絶する、と言えば、それだけで有罪確実だと思います。これがキリスト教の影響の強い社会であれば、「これが真実です」と吐露する他の人間が現れるように思います。更に悪いのは日本には親分を守るために自らが犠牲になることを美徳とする伝統があります。武家社会のなかで培われたものでやくざの論理です。そのためには嘘や隠ぺいも方便となるのです。そして犠牲になった本人は裏で報酬を受け陰ながら称えられるのです。日本の会社組織においてもこの論理が強く生きています。モーセ律法の精神とは大変異なる文化です。実のところ、私自身も心当たりがあることを認めざるをえません。

聖書に戻ります。19:18-19です「さばきつかさたちはよく調べたうえで、その証人が偽りの証人であり、自分の同胞に対して偽りの証言をしていたのであれば、/あなたがたは、彼がその同胞にしようとたくらんでいたとおりに、彼になし、あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。」とあります。偽証していることが解ったら、その偽証した人間には被告となっている人間と同じ罰を与えなさい、と言っています。だれかを殺人罪に陥れようと偽証した人間は死刑にしなさい、と言うことです。偽証は大変な罪です。十戒の第九戒で偽証は禁止されていますがこの個所はその具体的適用例ということができます。

先般、1971年に起きた渋谷騒乱事件で死亡した機動隊員を殺した実行犯ということで無期懲役刑が確定し、再審請求を何度か繰り返していた星野文昭氏が73歳で病死しました。きれいな花の絵を描く方で獄中結婚した奥さんが個展を開催などしていました。彼が、殺人事件の実行犯とされたのは、他の警察官が、星野氏が着ていた色の服を着ていた人物が火炎瓶を機動隊に投げ、それによって機動隊員が焼死した、と証言したことが決定打でした。しかし、再審のなかでその記憶は極めてあいまいであり、かつ、その色も当日星野氏が着ていた服の色とはかなり異なっていた可能性がある、ことが、明らかになりました。しかし、再審開始には至らず、結局、亡くなってしまいました。あの騒乱のなかでだれがこの機動隊員を殺したかなど特定できる訳がないのに、他の警察官は目撃したと「証言」しています。その警察官だって、騒乱に巻き込まれて、一方の当事者であったのだから悠長に観察できる立場にあったわけではありません。警察官が殺された、ということでだれかを実行犯にしなければ親族を含め収まりが付かなかったので星野さんがその標的になったということだとおもわれます。世論も警察の味方で、裁判所もそのような社会のムードに沿った判決をした、ということです。世論というのは無責任ですから「だれか犯人がいるんだろう。それなら一番疑わしい星野氏が有罪でいいじゃないか」くらいのものです。モーセ律法をそのまま適用すれば、この証言をした警察官は死罪となる、ことになります。

その他、冤罪事件と言われるものを見ますと、不確かな「証言」が必ずと言ってよいくらい登場します。各種の鑑定も証言の一つです。「可能性が高い」というような鑑定が決定打となり有罪になったケースが多数あります。「疑わしきは罰せず」とはどこに行ったのか、と思わせられます。この原則を文字通り適用すれば、再審請求がされている事件はおそらくほとんど無罪でしょう。「証言」の怖さを思います。先般、成城大学の先生が日本の司法制度の問題をあげていました。欧米に比し大きく立ち遅れている点が指摘されていました。おそらく、江戸時代以来の「お上にたてつくな」の文化が反映しているのだと思います。とにかく偽証は絶対ダメです。確実とされる証言以外は刑事事件では証拠能力を否定されるべきです。また制度の問題として、すべての捜査記録は弁護士が見ることができるようにすべきです。検察に不利な証言は弁護士に知らされない、のが現状です。裁判官も検察官に対し証拠開示を命ずることは滅多にありません。

最後の19:20-21をお読みします。「ほかの人々も聞いて恐れ、このような悪を、あなたがたのうちで再び行わないであろう。あわれみをかけてはならない。いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。」とあります。「このような悪を、あなたがたのうちで再び行わないであろう。」とは、偽証する人間に強い罰を与えると、イスラエルの他の人がこれを見て、偽証することを行わなくなるだろう、と言っています。これは「刑事罰の抑止効果」と言われるものです。申命記13:11や17:3にも同様の表現があります。前者は偶像崇拝者に対し死刑の罪を実行すると、「イスラエルはみな、聞いて恐れ、重ねてこのような悪を、あなたがたのうちで行わないであろう。」と言っており、後者はさばきつかさの判決に従わない者には死刑を与えるべきで、そうすれば「民はみな、聞いて恐れ、不遜なふるまいをすることはもうないであろう。」と言われています。刑事罰においてこのような「抑止効果」を期待するのはそれなりに意味のあることだと思われますが、偽証についてまで、同じ刑を科すことをもって抑止効果としているのです。ものすごい厳しさです。この趣旨を貫くと、再審で無罪となった場合、有罪とした検察官、裁判官は被告に与えられた罪状をもって裁かれねばならない、ことになります。また指導的立場にある人は裁き司の役割も実際には行っていますから、間違いを犯した場合、被害を被った人と同じ被害を与えるべき、ということになります。更に、「容赦をしてはならない」と言われています。再審無罪の事件で、有罪としていた検察官に対する何らかの罪を問うべき、という意見はありますが、検察官だけ罪に問うのでは片落ちで裁判官自身も罪に問うようにしなければなりません。政治家については、日本は大問題です。特に昨今の現状は語るに落ちた、というしかありません。

以上で今日の聖書個所を見終わりましたが、最後に見てみたいのは、主イエスに対する裁きにおける証言はモーセ律法の定めに沿った取扱いがされているのかどうか、です。

マルコ福音書14:53-64にありますが読み上げるのは省略させていただきます。ここでの大祭司はカヤパの子アンナスの事だと思われます。これは宗教裁判ですので刑事事件とは異なりますが、ここでは、いろんな証言があり、一致しなかった、と言われています。じゃあ、有罪はだめです。大祭司は不利な証言が続いているぞ、と主イエスに警告するとともに弁明の機会を与えています。この辺は正当な手続きです。しかし、主イエスは答えませんでした。黙秘を通しているように見えます。大祭司は切り札の質問をしました。「お前は、イスラエルの救い主、キリストか」という質問です。主イエスは「わたしは、それです。」と答えられました。「あー、これはまずい」という叫び声が傍聴者から出そうです。大祭司は「これでもまだ、証人が必要でしょうか。/あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」と一同の者に聞きました。裁判官はこんなやり方をしてはなりません。既に判決をしてしまっているようなもので「第三者性」「独立性」を失っています。裁き司としてはここで失格です。

そもそも大祭司が宗教裁判の裁き司をすることに問題があるとも言えます。そしてこれ以上の証言は不要ということでよろしいか、と参加者に問うたわけです。それに対し、全員が「死刑に同意」したので全員が証人となった、と考えられます。大祭司の罪ある判断に共同体全員が同意を与えたのです。旧約の伝統には預言者の伝統があります。いかに預言者がイスラエルの王や民に厳しいことを言っても、裁判にかけて断罪する、というようなことはありませんでした。しかし、預言者の伝統を受け継いでいる主イエスについては、とうとうこの地上での裁きの座に立たせることまでしたのです。手続き的には問題はあるにしても、結局は参加者全員が「証人」となり、主イエスへの死罪が宣告されるようになりました。一般の刑事事件での死罪とはことなり、政治的・宗教的意味での死罪はローマ帝国の判決が前提でしたので、ローマの総督の方に回されることになったのです。この過程での最大のポイントはその場に居た全員が主イエスを死罪にするための「証人」となったという点です。「黙示の承認」による間接的「証言」です。モーセ律法における積極的「証言」ではありませんが、それと本質的には変わりはありません。私たちは罪ある行動を「黙示の承認」している場合がなんと多いかにも心を向ける必要があります。

また、キリスト教の影の歴史の中で「証言」がいかなる意味を持っていたかについてもほうかむり、しているわけにはいきません。中世キリスト教会はこの「証言」を自らの立場の擁護や特定の人々を罰に追いやる手段として使用しました。所謂、異端審問とか、魔女裁判における証言の取り扱いです。異端審問はカタリ派の人々を断罪するために神学者、司祭さらに町の長老たちの「証言」を大いに利用いたしました。はては地動説まで異端審問の対象にされたのです。今でも専門家という人のコメントは尊重されていますが、これは申命記の言う「証言」です。証言が排斥、断罪の道具として使用されるようであればそれは警戒すべきです。恵みの手段が、反対の役割を果たすことになってしまうのです。主イエスの山上の説教のこの引用は、恵みの手段としての律法の回復の意味があるのです。また魔女裁判においても同様です。一般民衆を含む多くの証言が「魔女」と認定するのに使われました。ジャンヌ・ダルクも魔女として断罪された一人でした。17世紀、アメリカのマサチューセッツ州セイラム村での魔女事件は信じられない出来事です。約200人の女性が「魔女」として告発され19人が処刑されるという出来事が発生したのです。もう中世が終わり近世と言われる時代にこんなことが起こったのです。これも「証言」による有罪認定です。ちょっと変わった人が、それにとどまらず、「魔女だと思う、間違いなく魔女です」という「証言」になっていったのです。そして一般の人々は「黙示の承認」をしたのです。恐ろしいまでの出来事です。今は、この町は「魔女の町」として観光地化していますが、なんとも釈明できない人間の罪の深みを示した事件です。キリスト教会はこの異端審問、魔女裁判に直接、間接の責任があります。類似のことは現代でも起こっています。所謂ヘイト・スピーチはこの類(たぐい)です。私たちキリスト者はむしろ「警告を与える」者であることを願います。祈ります。

ご在天の父なる御神様、今日は、偽証を禁じている律法の個所を学びました。多くの場合、偽証する人を見ても、「しょうがない人達だ」と言って、みて見ぬふりをしているのがわたしたちの現実です。また、そのようなところを見ないようにしている、のも事実です。私たちは、主の恵みにより救いの道を確実にされた者ですので、偽りを言う者に対し、声をあげる者とさせてください。私たちに勇気を与えてください。主イエスの聖名により祈ります。アーメン

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負債の免除申命記15:1-11森田俊隆 https://domei-nakahara.com/2020/05/17/%e8%b2%a0%e5%82%b5%e3%81%ae%e5%85%8d%e9%99%a4%e7%94%b3%e5%91%bd%e8%a8%98151-11%e6%a3%ae%e7%94%b0%e4%bf%8a%e9%9a%86/ Sun, 17 May 2020 13:12:44 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=385 "負債の免除
申命記15:1-11
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*当日の説教ではこの原稿の一部を省略して話しています

今日は申命記の中でモーセが述べた律法のなかから一つを採り上げます。申命記の12章から26章は十戒以外の各種律法が述べられているところです。カソリックのフランシス会訳によると51項目の律法が述べられている、ということになっています。ユダヤ教の中では律法は整備されて結局最後は613個の戒めということになりました。先ほどお読みいただいたのはそのうちの一つで、安息年における「負債の免除」の部分です。簡単に言えば、7年目になったらすべての借金はなかったことにしなさい、というものです。私は銀行に勤めていましたが、そんなことをしていたら銀行業は成り立ちません。いくら昔のこととはいえ、この律法は守られたのでしょうか。信じられませんね。

実はレビ記の25章に土地についてこの申命記の個所の前提になることが書かれています。要約しますと次のようなことです。7年目は主の安息の年であるから、土地を休ませて、農耕はやってはならない、というのです。7日目は神が創造の業を休まれたように土を耕すのもやめるべし、というのです。土地を休ませることもさることながら、この年には奴隷、雇人、在留異邦人ができたものをとるに任せなさい、という貧しい者への施しの意味もあります。さらに、7の7倍49年の翌年はヨベルの年と称し、すべてが解放される年だ、とされています。7年ごとの安息年と同様作物を作ってはいけないし、すべての買い取られた土地はもともとの土地の所有者に返却しなければならない、というのです。イスラエルの民がカナンの地に入る前に各部族に嗣業の地が与えられましたが、その時の状態に戻しなさい、というのです。従って、土地の売買の値段はヨベルの年までの年数が長いほど値段が高くなるべき、というのです。これらからわかるように、7年ごとの安息年、50年目のヨベルの年も根本の考え方は安息日の考え方から来ています。

安息日は言うまでもなく十戒の一つであり、厳格に守ることを命じられています。出エジプト記31:14では「この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる。」とありますから、この安息日に由来する、安息年、ヨベルの年についても、その戒めを破る「破戒」行為は死をもって贖われなければならない、ことになりそうな話です。本日の「負債の免除」もヨベルの年に土地を本来の人々に戻さなければならない、ということと似ていますから、やはり、絶対的順守が要求されそうなことがらです。ところが実際はあまり守られていなかった、というのですから、ユダヤ教の律法順守も眉唾です。いろいろ抜け穴があったのです。人間は、何かの命令があってもそれをかいくぐる道を見つけるには天才的知恵がはたらく動物です。主イエスはそれを根本の根本にまで遡って「恵みの手段」としての律法の精神をよみがえらせた方です。

このモーセの定めた「安息年における負債の免除」は現実的にはほとんどワークしなかった、と言って差し支えありません。いろいろ理屈をつけて逃げ道を作っていったのです。ユダヤ教も「安息日」についてはこまごましたところまで解釈して律法を精緻にしていきましたが、根本的なところで同一の意味をもつ安息年、ヨベルの年については、その趣旨にのっとったように解釈はされていかなかったのです。安息日については出エジプト記34:14でこれを破る者は死をもって贖うべし、とされているため厳守が強調されました。しかし、安息年やヨベルの年は本来、イスラエル共同体にとっては安息日以上の事であるにもかかわらず、「死による贖い」の規定がないことをいいことに、守られなかったのです。律法の解釈としてユダヤ人ラビが注釈した文書として「ミシュナー」という膨大な文書があります。そのゼライーム第5巻シェビイートの10:2には「法廷によって課されたすべての負債—これらは安息年によっても赦免されない。担保で借りる者これらは安息年によって赦免されない。」とあります。この記述を利用して「負債の免除」を逃れるのは簡単にできます。ここでいう「担保」とは土地による担保のことで「負債の免除」の代わりに担保を実行されては大変ですので、土地の権利を守るために「負債の免除」をしなくてよい、ということにしたのだと思われます。また10:3では「プロズボールによって保全された貸付は赦免されない。これは老ヒレルが定めたことの一つである。」とあります。プロズボールは債権者による法廷の前での宣誓文のことで、証人として署名するのは判事と言う官職を持たない人でも良く、二人の証人で良い。とされていました。ヒレルと言う人物はパリサイ派の二つの学派の一つの筆頭ラビです。2人の証人の署名のある正式な契約書があれば、「負債の免除」を逃れられる、というのです。

さらには、安息日に休むことと同様に安息年には借金の取り立てを休まなければならない、というのが「負債の免除」の律法の趣旨だという解釈をする律法学者も多くいたということです。単なる支払い猶予です。これはここで述べられているモーセの言葉と違うことは明らかです。本当に人間はいろいろ屁理屈を発明するものです。主イエスがパリサイ人を痛烈に批判しているのもむべなるかな、と思われます。安息日にはどれだけ以上は歩いてはならない、とか些末な規定が多数ありますが、そんなことよりイスラエル信仰共同体にとっては「負債の免除」「貧しい者への土地解放」「ヨベルの年における土地売買解消」の方が重要です。その重要な規定が実は守られていなかったのです。主イエスの時代には「恵みの手段」としての律法の根本精神は地に落ちていた、と言わねばなりません。根本的に人間の力で神の国をもたらすことはできないこと、また神の国の証人として歩むキリスト者は大きな困難に直面する宿命の下にある、ということです。銀行員の職業倫理との関係では重大なディレンマが与えられます。私には今は何の回答もありません。主イエスのおっしゃられたのは心の持ち方の問題で社会倫理・職業倫理とは関係ない、という欺瞞的なことも言えません。とにかく、「負債の免除」は重大な問題を我々キリスト者に突き付けていることは疑いありません。銀行による貸し付けは人による人の支配を意味してはいないか、ということです。

では今日の個所をもう一度見てみましょう。まず、15:1-2です。「七年の終わりごとに、負債の免除をしなければならない。/その免除のしかたは次のとおりである。貸し主はみな、その隣人に貸したものを免除する。その隣人やその兄弟から取り立ててはならない。主が免除を布告しておられる。」とあります。非常に明快です。借金のある関係は人による人の支配の出発点です。7年目にはその関係を清算し、本来の「主は神のみ」という関係に戻しなさい、と言っているのです。この負債という言葉はヘブル語では「shemitah」と言いますが、ギリシャ語訳では「afeh-sis」という言葉です。この動詞形は「afi-ehmi」とい言います。皆さん主の祈りで「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ」と祈りますが、ここでの「赦す」という言葉が同じ「afi-ehmi」です。新改訳聖書では「負い目を赦す」と訳されています。要するに、安息年に負債を免除しなさい、という精神は主イエスが私たちに教えられた他人の負い目を赦しなさい、という言葉に生きている、ということです。人による人の支配をやめます、というのが主の祈りの内容です。人間は本来、神による制約だけであり、他の人間によって制約を受ける、というのは神の国の原則に反していることだ、という訳です。主イエスのおっしゃられていることは実に根本的なことを指示していますが、それは律法の基本精神というものは人間社会の在り方を根本からひっくり返すようなものだ、ということを意味しています。

またローマ書13:8に「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。」とあります。教会内で貸し借りはやめなさい、とパウロが言っているのではありません。キリスト者の間での貸し借りは人と人の貸し借りではなく、貸す者は神に、教会に捧げるつもりで与えなさい、ということで、借りる方は神の恵みを受けるのと同様な気持ちでこれを借りなさい、というのです。もちろん、神の恵みに対する感謝の捧げものとして借り入れの返済をする、ということです。借主が貧困のなかで返済能力がなければ、この貸借関係は贈与と受贈の関係になります。それが主の恵みに答える答え方です。神に、教会にささげた物ですから、神の恵みの手段、として使われるのは当然のことという訳です。従って、このパウロの言葉も背後には、この安息年における「負債の免除」の律法の精神が厳然と存在しています。それが主イエスの「愛の律法」です。これを実践する人がパウロの言う「律法を完全に守っている」人ということになります。

もう一点重要な点があります。「主が免除を布告しておられる」と訳されている部分です。まず、「布告」というところは、「声」です。「kah-rah」という言葉ですが基本的に神の言葉が臨んだときに使われる言葉です。神がこの世に現れる現れ方は旧約では基本的に「神の声」によります。「神の言葉が我々に臨んだ」というのと同じ、神の顕現を示す言葉です。そしてこの「免除を」のところですが、「免除」は先ほどの「shemi-tah」ですが、問題はこれにつく前置詞です。「免除へ」となっているのです。英語でいう「to」です。「主への免除の声」となって何の意味か分かりません。この「shamih-tah」の原型である動詞は「shah-mat」ですが、これは負債を免除するという意味に加え、「放り投げる」という意味もあります。これは「自由にさせる」という意味に通じます。この部分の主イエスが日常語として使用したのではないかと言われているアラム語訳では「shebak」という言葉が使われこれには明確に「自由にさせる」という意味があります。奴隷解放の時の「解放」です。ギリシャ語ではさきほど申し上げた通り「afi-ehmi」ですが、これは聖書では「解放」の意味で通常使われる言葉です。「債務の免除」は単なる借金棒引きではなく、「主への解放の声」として理解されるべきことなのです。「主への解放」は「主なる神の支配下にゆだねる」ことを意味し、貸主が自分の支配を否定して神の主権のもとに戻す、ということです。「悔い改めの業」と言っても良いと思います。ここでの「悔い改め」は過去を悔いて改める、という意味ではなく、主なる神の下に立ち返ることです。神の義は貧しき者、弱き者にこそ現れる神の力ですから、その働きの助けとなる「債務の免除」は主なる神への解放にほかならない、のです。ここに律法の根本である「恵みの手段」の真価が示されます。申命記の注解書のなかに「その土地(嗣業地)は空間の中に自由を提供するものであり、安息日は時間の中に自由を提供するものであった」という表現がありましたが、安息日、安息年、ヨベルの年が「解放の時」と理解されることをよく示している、と思います。

しかし、15:3-4で制約条件が述べられています。「外国人からは取り立てることができるが、あなたの兄弟が、あなたに借りているものは免除しなければならない。/そうすれば、あなたのうちには貧しい者がなくなるであろう。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、主は、必ずあなたを祝福される。」とあります。「外国人」と訳されている言葉は異邦人と訳す方が適当です。要するに、異なる神の下にある異民族です。逆に言えばこの「負債の免除」はイスラエルの共同体のみに適用されることであり、異邦人には免除する必要はない、ということになります。このことは十戒についても同様であり、イスラエル共同体にのみ適用される戒めなのです。「殺してはならない」も当初の律法はイスラエル共同体のなかだけの話です。イスラエルというのをモーセ、ヨシュアの時代の十二族全体というのを意味するならまだ良いのですが、イスラエルの歴史の中で、正当なヤハウェ信仰とそうではない者と、みなされるものが対立することとなり、律法の適用範囲が更に限定されるようになっていきました。新約の時代において一番の問題はユダヤ人とサマリヤ人の対立です。互いが安息年における負債の免除の関係にある、とはされていませんでした。即ち、隣人ではなかったのです。経済的にはサマリヤを含む旧北王国の方が豊かな人が多かったですから、旧ユダ王国の人々は周りの彼らが言う「異邦人」の経済的圧迫の下に置かれることになったのです。イスラエルの歴史の中で、異邦人の豊かな者が借金のかたに土地を取得し、かつての自営農民は小作人化していったのです。これが、主イエスの時代のイスラエルの民が置かれていた現実です。「負債の免除」のすばらしい律法は空文化していたのです。主イエスのみ言葉は、それを「愛の律法」という形で復権させようと図るものであり、革命的意味を持ちました。そのため、当時の支配層は許せなかったのです。

15:6-7には「ただ、あなたは、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令を守り行わなければならない。/あなたの神、主は、あなたに約束されたようにあなたを祝福されるから、あなたは多くの国々に貸すが、あなたが借りることはない。またあなたは多くの国々を支配するが、彼らがあなたを支配することはない。」とあります。先に述べた通り、イスラエルの信仰の正統的信仰者と自認していたユダヤ人たちはむしろ、他の諸民族より借りる結果となり、その経済的支配下に入る結果となりました。ここで述べられた戒めと逆の方向に向かうことになったのです。モーセの言葉として理解すれば、ヤハウェ信仰の民が先々に陥る状況に対する警告と受け止めることができます。貸す者であっても借りるものにはなるな、という戒めを守ることができなかったのです。異邦人は「安息年における負債の免除」の律法の下にはありませんから、借金は被支配に簡単になります。「隣人」「同胞」「共同体」の範囲を狭くすればするほど、この「負債の免除」の律法は意味をなくしていくのです。私たちも共同体の範囲を小さくして「愛の律法」の適用範囲を縮め、無意味なものとするようなことをしていないでしょうか。もちろん広げすぎるとこれまた、何もしないことを正当化する結果になります。個々人の置かれた状況のなかで自分のとっての「隣人」を、祈りをもって考えていく必要があります。個々人の主の下での決断です。国際世界での国民の決断ということになると更に難しい問題が絡みます。国家利益を第一に考えるなどというのはキリスト者の取るべき姿ではないことだけはあきらかです。

15:7-8には次のような言葉があります。「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。/進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。」とあります。ここではこの「負債の免除」の目的がはっきり述べられています。これが共同体の共同体なる所以です。神の義が現実のものとなることがこの律法のもたらすことだ、と言っているのです。旧約の世界では貧しく困った状況の人間がいることは神の義が壊されていることを意味します。経済的に豊かであるのはその人物が偉いからとか頭が良いからとか力が強いからでなく、神の恵みがそのような形で示されている、ということで、それは神の計画の一部なのです。実際、お金持ちになったのはほとんどの場合、他律的要因であり、その個人の力に拠っている部分などほんの一部です。この世の言葉でいえば運が良かっただけです。なんらかの神の意志が示されているという意味では軽々に扱えないことですが、別にその個人がどうこう言うことではありません。したがって、同一共同体のなかで貧富の差があることは信仰共同体としては間違っているのです。その意味で「施し」は任意のことではなく明らかに「義務」なのです。ユダヤ人社会ではこの「施しが義務である」ということはすんなり受け入れられているようです。あのユダヤ人迫害のなかでの助け合いは信じられないくらいです。もちろん、これを守れなかった人も居ました。日本人であれば自発的な施しなど考えにくいです。施しを拒否する人は神の恵みから外されます。「負債の免除」をするのは神からの「負債の免除」をえるのとは裏腹なのです。施しをしなければ神よりの哀れみ、恵みが受けられないのは当然である、ということになります。イスラムの世界でも施しはザカートと言い、絶対的義務です。それがISに対する資金援助の理屈になっているのですから、話は単純ではありません。

15:9から最後までをお読みします。「あなたは心に邪念をいだき、『第七年、免除の年が近づいた』と言って、貧しい兄弟に物惜しみして、これに何も与えないことのないように気をつけなさい。その人があなたのことで主に訴えるなら、あなたは有罪となる。/必ず彼に与えなさい。また与えるとき、心に未練を持ってはならない。このことのために、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださる。/貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。『国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。』」とあります。「負債の免除」の年が近くなったからと言って貸し与えるのを渋ってはならない、と言われています。ここで問題になっているのは人と人の関係のことですから、「負債の免除」は貸し借りが発生した最初のところから起算されるべきものです。支配と被支配の関係になるきっかけになった最初の「借金」から起算すべきなのは当然です。途中で何度も貸した金も最初に貸した時から7年目ですべて「負債の免除」になる、ということです。貸し借りの関係から、主なる神の前に平等な人間関係に戻りなさい、ということです。

ここに注目すべき表現があります。「手を開く」という表現です。7節のところでは「手を閉じてはならない」という形で出てきていました。「目を閉じる」とか「目を開ける」という表現は旧約の他の個所にもあるのですが、「手を閉じる」とか「手を開く」という表現は申命記のこの個所だけです。この世に於いて救助の手を差し伸べることを意味しています。7節では同じ意味で「心を閉じる」という表現も出てきています。実は、翻訳ではわかりにくいのですが、この15:1-11までの間にヘブル語原典では「手」ということば「yahd」が5回も使われています。大変、視覚的な表現になっているということです。繰り返し「手」という表現が出てきて、韻を踏んでいるような響きもあります。

惜しんではならない、とここで言われている、ということは、古来から、惜しんでいた人がたくさんいた、ということです。お金のある人はお金のない人に施しをするのは義務だ、と繰り返し言ってもお金持ちはちょぼちょぼにちょっとプラスしか施しをしなかったのです。人間の利己心も神の創造物ですから、何らかの神の知恵が隠されているものと思いますが、施しの勧めはなかなか実効性があるところまではいかないのです。その結果、近代国家は税金という形で強制的に金持ちから国に納入させて、貧しい者には国家が最低保証をする、という方向に向かったのです。それが税金の所得再配分機能と言われているものです。くに、という共同体がここでいうイスラエル共同体と同じで、安息年ごとに「負債の免除」が実行されていれば、税金に再配分効果を期待する必要はなかったでしょう。昔は税金は主に軍隊を支える資金でしたから、国が所得再配分機能を果たすことはありませんでした。教会やお寺がある程度この機能を果たしていました。お金持ちしか国の政策決定に参画できなかったことは当然でした。これを代え、今の福祉政策を国が行うようになったのは実は戦争がこれを進める動因であったのです。フランス革命以降、国民軍が組織され、20世紀に入ってからは、戦争は国民全体を巻き込む所謂総力戦になってきました。国はすべての国民の力を必要になってきたのです。そのために、貧乏な国民も戦争に参加させなければならなくなったのです。

律法を自分たちの都合に合わせて解釈し、律法の本来の趣旨を台無しにしてしまう、ということは昔のイスラエル社会に限ったことではありません。現代の日本社会においても類似のことは、山ほど起こっています。憲法や法律を素直に読んだ時の理解と全く異なる方向に行ってしまって、挙句の果てはなぜこのような法ができたかを忘れてしまうのです。日本の場合、この最悪のケースは憲法九条です。戦争をなくすために一切の軍備を持たない、というのが憲法九条の趣旨であることは明らかです。外国軍なら良いだろう、とか、自衛に徹する軍隊なら良いだろう、とかいう解釈は詭弁です。果ては集団的自衛権という本来的には自衛権に含まれなかったことまで自衛権に入れてしまうとは、解釈の範囲を超え、この条項をなきものにしてしまっているのと同じことです。解釈には限界があります。本来の趣旨を全く意味ないものとする解釈は違法と言うべきです。

「ヨベルの年」という時の「ヨベル」は雄羊の角のことで50年目のヨベルの年の7月10日に角笛を鳴り響かせるということからこの名があります。この言葉は英語ではJubileeと言います。実は20世紀の終わりの頃ジュビリー2000という運動がおこりました。これは2000年をヨベルの年とし、貧困な国が先進国に対し債務取り消しを求めた運動です。アフリカのキリスト教協議会が呼び掛けた運動ということのようです。2000年以降もこの運動は続いています。イギリスがかなりこの債務帳消しに協力した、と言われています。そのもっと前ですが、東京銀行はメキシコ、ブラジル等からの借金棒引き要求に苦しめられました。借金の期限延長、金利の免除のみならず、借金棒引きにもかなり応じました。これは東京銀行の財務体力を大きく低下させました。イスラムのザカートは軍資金の提供という本来の貧しき者のために、という趣旨から外れた目的で行われたりもしています。日本がかつておこなった無償援助というのも本当のところは日本企業の対外進出を日本政府が応援する、というものでした。更に言えば、バブル崩壊の時、大銀行は大きな企業で破綻寸前の会社に「債権放棄」ということをやりました。破綻に直面した中小企業は「残念でした」で、破綻した中での大企業の救済でした。社会的混乱を抑える、という政府からの要請が背後にありました。銀行は、税金の支払いが長期間なくなるということから、ある意味で前向きにこれに対応しました。等々考えると、この申命記にある「負債の免除」もよくよくその効果を見なければ、偽善的なものになってしまいます。人間の罪はいかに立派な、義にかなったことも捻じ曲げてしまうだけの力を持っている、ということです。

日本人にとって「負債の免除」というと、鎌倉・室町時代の「徳政令」を思い出します。また江戸時代に入ってからの「棄損令」も同様の趣旨のものです。要するに幕府の命令により借金をなしにしてしまう、というものです。これもモーセ律法の「安息年における負債の免除」と似たものだったのでしょうか。モーセ律法の方は神の定めた秩序を回復する、という考え方を背後に置くものですが、徳政令や棄損令はそのようなものではなく、武家の借金を棒引きにして彼らを救済する、というところに主眼がありました。徳政令の方は武家の嗣業である土地を取り戻させるのが主目的であり、棄損令は武家が商家よりの借金で首が回らなくなっているのを解放しなければならない、ということが主たる理由でした。もちろん、幕府や藩の借金の清算の意味もあります。この徳政令や棄損令は実行段階で重大な障害に直面し、本来の目的は貫徹できなかったようです。当たり前です。棄損令の場合はその後、武家は借金ができなくなり、以前以上に困窮した、という話があります。しかし、一般民衆の参加した「徳政一揆」というのもあります。これは、借金の帳消しを幕府や守護・藩主に迫るものですが、成功したのは極めてまれ、と言われています。それでも、キリスト教流に言えば「神の国」運動のスローガンのようなもので、理念としてはモーセ律法の「負債の免除」に通じる、ように思います。

実質的に「安息年における、嗣業地返還」の効果をもったものと考えられるものとして、戦争直後の「農地改革」があります。これは不在地主に国債を渡し、観念上国有にし、それを小作人らに無償で提供する、というものです。国債はインフレで価値はほとんどなくなってしまいましたから、実質、不在地主からの土地採り上げでした。この改革は小作人たちが共産党に流れ、日本における社会主義革命を防止する目的であった、といわれていますが、農村は自民党の政権基盤になったという意味で効果はありました。徳政令、棄損令の歴史の中では一番実効性があり、社会に大きな影響を与えた出来事でした。

中には、安息年に本来の関係に戻す、という「負債の免除」の思想に真っ向から反するようなことも現在の日本で、公然と行われています。非正規雇用の問題です。本来非正規雇用は臨時的・例外的に行われるものなので一定期間継続して業務に従事してきた非正規雇用者には正式雇用のオッファーをすることが義務付けられていました。大量の非正規雇用者がこの期限に近づくと、法律を変えて、別の非正規雇用者を雇い入れることを可能にしてしまったのです。非正規雇用者の配転をすればこのように非正規雇用を半永久的に続けていける方法を企業に与えてしまったのです。本来どうあるべきか、ということが将来も実現しないことになってしまって、就職氷河期世代の雇用問題が重大問題になったのです。これはあきらかに背信的なやりかたです。これには派遣業者のマージンの問題も絡んでいます。正式雇用に切り替えるとこの業者のマージンがなくなり派遣業が成り立たなくなるという問題です。以前私が銀行に居る時、派遣されて業務に従事している人の中に正式社員顔負けの人間がいました。正式雇用に切り替えようかと思いましたが、派遣業者が「この子は我々の稼ぎ頭であるから社員にするのはやめてほしい」との話でお流れになったケースがありました。今から考えると押し切るべきであったのかもしれません。

しかし、クリスチャンは神の国をこの世に示していく責任を持っています。貧しき者、弱き者こそが神の国で主が嘉(よみ)したもう人たちです。我々は、このことを証する使命を主イエスより託されています。この世は罪の支配が張り巡らされた世界ですから、我々も妥協しつつ相対的正義でとどまらざるを得ない場合がほとんどです。しかし、その中でも神の国を求めるぎりぎりのところでの妥協であるべきです。祈りにより、主の導きを信じて歩むのみです。祈ります。

ご在天の父なる神様、今日の礼拝の時を感謝いたします。今日は「負債の免除」の律法個所を見ました。人間は都合の良いように律法を解釈し、恵みの手段としての律法をないがしろにしてきました。主イエスはその偽善を明確に指摘しております。私たちが神の国の国籍を持つものとして、主イエスを証しするものとして歩まさしめてください。イエス・キリストの御名により祈ります。アーメン

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モーセの最後申命記34章1-8節森田俊隆 https://domei-nakahara.com/2020/04/19/%e3%83%a2%e3%83%bc%e3%82%bb%e3%81%ae%e6%9c%80%e5%be%8c%e7%94%b3%e5%91%bd%e8%a8%9834%e7%ab%a01%ef%bc%8d8%e7%af%80%e6%a3%ae%e7%94%b0%e4%bf%8a%e9%9a%86/ Sun, 19 Apr 2020 13:00:54 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=316 "モーセの最後
申命記34章1-8節
森田俊隆
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*当日の説教ではこの原稿の一部を省略して話しています

本日は申命記からです。申命記といえば、律法を思い出し、「あーあの、あーしろ、こーしろ、という規則が書かれた文書ですね」という声が帰ってきそうです。確かに申命記の中心部分と言えば、十戒を含め律法について書かれた部分でしょう。しかし、それがすべてではありません。

まず、「モーセの第一説教」というのがあります。これは出エジプト以降のイスラエルの民の荒野をさまよった40年の回顧です。民数記の内容とダブっているところが多くあります。次は「モーセの第二説教」と呼ばれる箇所で、これがモーセの律法の部分です。まず、十戒が与えられます。そのあとは、約束の地カナンに入った時、守るべき事柄が律法としてまとめられています。この律法の文書が後になって発見され、紀元前7世紀のユダ王国におけるヨシア王の宗教改革の基本になりました。22章にわたる律法の記述の後、祝福とのろい、が述べられています。「~はのろわれる。民はみな、答えて、アーメンと言いなさい」が11回繰り返す箇所があるので有名です。十戒の言い代えのような内容です。例えば27:16「『自分の父や母を侮辱する者はのろわれる。』民はみな、アーメンと言いなさい。」とあります。そしてモーセ最後の説教である「モーセの第三説教」になります。律法を守り、神の祝福を得ることを勧めています。この神との契約に対する違反を「のろいの誓い」と呼び、戒めています。この「のろいの誓い」と訳されている言葉は、「のろい」と「誓い」の両方の意味をもった「a:la:」という言葉です。

そしていよいよ、モーセの生涯を締めくくる箇所に入って行きます。31章以降です。

31:2-3 私は、きょう、百二十歳である。もう出入りができない。主は私に、「あなたは、このヨルダンを渡ることができない」と言われた。あなたの神、主ご自身が、あなたの先に渡って行かれる。主が告げられたように、ヨシュアが、あなたの先に立って渡るのである。

といわれています。「120才でもう歩くのが困難だ。しかし、主、自らがヨルダン川を渡る。先に主が告げられたようにヨシュアが先頭に立って行く」と言っています。モーセがヨルダン川を渡ってカナンの地に入ることはできないことは既に告げられていました。

3:26-28 しかし主は、あなたがたのために私を怒り、私の願いを聞き入れてくださらなかった。そして主は私に言われた。「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。ピスガの頂に登って、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたはこのヨルダンを渡ることができないからだ。ヨシュアに命じ、彼を力づけ、彼を励ませ。彼はこの民の先に立って渡って行き、あなたの見るあの地を彼らに受け継がせるであろう。

とあります。出エジプトの時の「カナンの地に向かえ」という主なる神の約束、導き、そしてカデシュ・バルネア以降、38年に及ぶ荒野でのさまよいのことを考えるとモーセにとってはあまりに不条理、と言いたくなる主なる神の言葉です。

どうしてモーセはカナンの地に入ることが許されなかったのでしょうか。それは民数記に原因が述べられています。イスラエルの民は何度も主なる神の導きを拒否しエジプトに居た方がよかった、とモーセ、アロンにつぶやきました。不信、不従順の罪です。その都度、モーセはその民の罪をとりなし、主なる神のあわれみを乞い、願いが聞き届かれ、主なる神は怒りを抑えてきました。このイスラエルの罪は贖われなければなりません。指導者としてのモーセがその責めを負うべし、というのが、主なる神の意志でした。「このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。」と言われています。旧約聖書を見ますと、指導者と民衆の間での罪の問題は大問題です。指導者の罪はイスラエル全体の罪と見做される、というところもありますが、逆に、民衆の罪は指導者の罪とされる、という箇所も多数見受けられます。王、祭司、預言者のような指導者は民衆の罪を知り、主なる神に赦しを希(こいねが)う役割も担っているのですが、そのことは神の怒りによる罰がその指導者にふりかかり、悲惨な運命をたどる、ということをも意味します。その代表は預言者エレミヤです。モーセにおける「罪のひきうけ」はその先駆けをなしている、といえます。この思想は綿々と繋がっており、新約の時代に到り、主イエスによるすべての人のための「罪のあがない」に帰着しているのです。主イエスの執成しの祈りは即ち「罪のひきうけ」を意味しています。それと無関係ではありえない、私たちの執成しの祈りの重大な意味を思わされます。キリスト教における執成しは、単なる口添えではありません。身代わり、の意味が隠されています。

先日、ナスカ文明に関するテレビの番組をみました。巨大な地上絵で有名なペルーの地です。そこの遺跡を発掘すると位の高い人が生贄にされたと思われる骨がでてきました。学者の推測では、雨ごいをするために部族の長が自ら犠牲となり神に命をささげたのであろう、と言うことです。民の救いのために、その長が自ら生贄となる、という習慣は古代文明ではよくある習慣だ、ということです。現代社会は逆で、指導者が生き延びて民が犠牲になるのですから、おかしな話です。モーセはイスラエルの預言者として神に立てられた人物ですが、民の反逆の罪を負って、カナンの地に入ることは許されない、という神の裁きを受けることになったのです。もちろん、我らの主イエスはこの伝統の中にあって、人間の罪を負って死を甘受するという業(わざ)をなされました。もちろん、モーセは預言者即ち「神の人」であるのに対し、主イエスは「神の子」という差はあります。しかし、十字架による贖いは既にモーセにその萌芽が示されていることは心に留めておくべきことです。

この申命記の箇所には「強くあれ、雄々しくあれ」のフレーズが3度でてくるので有名です。この言葉は、申命記の次の文書であるヨシュア記にも登場し、民を激励するための句として使われています。こども讃美歌にも「雄々しくあれ、強くあれ」という歌詞で、あります。31:6や31:23には主なる神の言葉として「わたしが、あなたとともにいる」という言葉があります。のちにイザヤ書にて使われる「インマヌエル(神ともにいまして)」です。ここでの戦いは主なる神が戦われる戦いであり、人間は後ろについていくだけの戦いです。聖書では聖なる戦い、として「聖戦」と呼ばれています。主なる神が聖なる共同体、イスラエルを形成して行くための戦いです。この神の言葉は、主なる神が自ら戦われるのであるから、あなたたちは恐れることは全くない、ただ主なる神に信頼を置き、「雄々しくあれ、強くあれ」と言われているのです。キリスト教の歴史の中で特にアウグスティヌス以降、神の義を表すための戦いとして正しい戦争「正戦」の考え方が出てきます。これはキリスト教が国教になり、その支配を維持するための戦争ということでつまるところ基本的にこの世の争い、です。この二つの戦争はどこで「聖なる戦争」から「正しい戦争」に代わって行ったのでしょうか。私はイスラエルの歴史においてはダビデ王朝の途中からもはや「聖なる戦争」は全く失われ、「正しい戦争」だけだ、と見ています。「正しい戦争」は第一次的に、主なる神が戦われるのではなく、人間が戦うものです。どう言い訳しても、支配欲という人間の罪の結果です。従って、この「強くあれ、雄々しくあれ」を現代において戦地に向かう兵士への激励の言葉に使用するのは許されない、と思います。主なる神が戦う、という「聖なる戦争」のかけらもありません。米軍がこの言葉を使用するのも、イスラム国が「聖なる戦争」=「聖戦」を叫ぶのも、その意味では同列です。キリスト者からみれば、どちらも「神の言葉」に対する冒瀆です。

申命記31:24以降でモーセは詩を歌います。背信の民イスラエルの罪への神の怒りを述べ、にも拘らず注がれる主なる神の憐みが歌われます。

32:36 主は御民をかばい、 主のしもべら、をあわれむ。彼らの力が去って行き、 奴隷も、自由の者も、いなくなるのを見られるときに。

と言われています。自分の望みは絶たれたそのときに、主なる神の「憐れみ」の言葉を取り次いでいるのです。そしてこの歌をイスラエルの全会衆に唱えさせた、と記されています。32:47でモーセは「これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。このことばにより、あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、長く生きることができる。」と言っています。個々の律法を守れという前に、主なる神の憐みを歌え、と言っているのです。聖書外典の「第二マカベア書」7:6には「主なる神がわたしたちを見守り、真実をもって憐れんでくださる。モーセが不信仰を告発する言葉の中で、『主はその僕を力づけられる』と明らかに宣言しているように。」とあります。旧約には「律法を守りなさい。そうすれば、主なる神の祝福があります」という流れと「罪を認めひたすら主なる神の憐みを乞いなさい」と流れがあります。相互に関連はしているのですが、主イエスは後者を前面に出して語られています。おそらく、「律法遵守による神の祝福」というユダヤ教正統派の流れは人間の罪の深さの前で根本的には現実化せず、神の知恵は一切の条件を問わない「憐れみ」に行き着かざるを得なかったのではないか、と思います。ある意味で、新約は旧約の失敗を指し示している、とも言えます。

ついで32:48から、モーセによるイスラエルの民への祝福の言葉がのべられます。イスラエルの民にとっては創世記の時代から、族長による祝福は極めて重大な事柄でした。「みんなこれから頑張ってください」程度の話ではないのです。主なる神の恵みが注がれることを執成し者が祈ることが祝福を与えることです。イスラエルの信仰更にはキリスト教の信仰には神の代理人はおりません。「執成し」の祭司がいるだけです。主イエスは神の子ですが人間イエスは「執成し者」であるだけで、神を代理して我々に接していたのではありません。エジプトでは王が神の代理人乃至は神そのものでした。それが古代宗教では一般的でしたがイスラエルの信仰は「人間はあくまでも人間」というもので、古代においては独自なものでした。その執成し者モーセがイスラエル部族を祝福したのがこの箇所です。イスラエルの長子ルベンから始まって、小部族アシェルまで繋がっています。このなかで、長く読まれているのは、レビ族とヨセフ族です。レビ族は祭司部族ですが、背信の罪に対し「全焼のささげもの」をし、敵を打ち砕いて下さることを祈っています。ヨセフはその子マナセとエフライムが他の兄弟と同列に扱われ、その力が大いなるものとされた部族です。主の祝福が祈られ「太陽がもたらす賜物、月が生み出す賜物」が讃えられています。しかし、ここにはシメオンがありません。二つの理由が考えられます。一つは、シメオンは創世記49:5-7で仲間に暴虐を働くものとしてレビ族とともに断罪されていることです。もう一つは、シメオンの嗣業の地はユダ族の南で、強力なユダ族の中に吸収されていった、との見方です。どちらの解釈も一長一短ですが、モーセの祝福の祈りのなかに全く名が出てこないのは不思議で、ユダ族と一体と既にみられていたからではないか、と推測します。この箇所にあたかも独立した部族の名前かの如くに「エシュルン」という名が出てきます。申命記の3箇所とイザヤ書1か所に出てくる言葉ですが、イスラエル全体を指して言われている言葉です。大変、美しい表現で使用されています。ここではイスラエル各部族への祝福の言葉のあとに33:26「エシュルンよ。神に並ぶ者はほかにない。神はあなたを助けるため天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。」とまで讃えられています。

34章に入ると、とうとうモーセに対する主の最後の言葉が発せられます。

34:4-5 そして主は彼に仰せられた。「わたしが、アブラハム、イサク、ヤコブに、『あなたの子孫に与えよう』と言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこへ渡って行くことはできない。」こうして、主の命令によって、主のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。

とあります。34:1で「モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。主は、彼に次の全地方を見せられた。ギルアデをダンまで」と言われていますので、モーセはそのピスガの頂(いただき)で死んだということになります。今はヨルダン王国になります。死海の北東に海抜802mのネボ山という山があり、その西端に標高710mのシアガと呼ばれる頂があります。これがピスガの頂であろう、とされています。標高はそれほどではありませんが死海は標高マイナス400mのところに有りますので、ピスガの頂から死海を見るとかなりの高さの急傾斜に見えます。ピスガという名前は「山の裂け目」の意味の言葉からきています。また「pa:sa:」という動詞は「間(あいだ)を通り過ぎる」の意味ですから、峠のようなところを指していたのかもしれません。今はモーセの死んだ場所として有名であり、2000年3月に教皇ヨハネ・パウロ2世が来訪し、それを記念して石碑がたてられています。ご参考までに、日本の石川県に「モーセの墓」というのがあります。日本の古代文書である「竹内文献」に載っているものでいくら何でも、これは信ずることはできません。

しかし、34:6で「主は彼をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。」といわれており、申命記が文字とされた時代にはモーセの墓はどこにあるかわからなかった、と言われているのです。三十日間喪の期間をもった、と言われていますから、モーセが死んだ当時は葬った場所があったはずです。まさかモーセは行方をくらまして、どこかで死んでしまった、という訳ではないでしょう。イスラエル民族においては墓に葬る、ということは極めて重要な出来事です。名もなき民の一人であれば、共同墓地的なところに他の死体と共に葬られる、ということはあったでしょうが、モーセについてはそのようなことは考えられません。またその名がイスラエルの子孫として記憶されることは、決定的に重大なことであり、その記憶にとどめられることこそ死後も生きていることの証であったのです。私は、かなり勝手な推測ですが、主イエスが葬られ、復活し、天にあげられたことの予型的なことが裏に隠されているのではないか、と想像しています。死ぬことはなく、生きているままで天にあげられた例は創世記5:24に記されているエノクがあります。「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」とあります。しかし、モーセの場合は死んだことは明記されています。従って、モーセは死んでピスガの頂きに葬られたが、モーセはその後、その体と霊は、主なる神により天にあげられたため、その墓は空の墓となり、時代と共に風化するに任される結果となった、という解釈です。このイスラエルの民がモーセの墓の場所がわからなくなるなど考えられません。おそらく何らかの奇跡的なことがあり、墓が無意味になったため、記憶から消し去られたのであろう、と思います。皆さんは、どう思うでしょうか。このくらいの想像は許されていると思っています。ちなみに紀元2世紀のアレキサンドリアのクレメンスという古代教父の文書の中にモーセが天にあげられ、天使とともにある、という表現があります。しかし、主イエスの最後との比較で言っているわけではありません。主イエスの場合は、使徒信条に言われているように「黄泉に下り」がモーセと異なります。肉体的死のみならず霊的な意味での死も味わられた方なのです。

34:7では「モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。」とあり、歩くのに不便はあったようですが、目、気力は大丈夫という状態だったようです。カナンの地に入ることはできませんでしたが、ピスガの頂からカナンの地も俯瞰し、十分満足して死を迎えたようです。その後、モーセはイスラエルの最初の預言者に数えられ、出エジプトというイスラエル救済史に残る偉人に数えられることになりました。預言者に対する賛辞の名である「神の人」とよばれるようになりました。新約ではマタイ17:3の「イエスの姿変わり」の箇所で主イエス、エリアと語り合っていた、とされています。この場所は「高い山」とされており、ネボ山ではなく、ずっと北のヘルモン山と考えられています。ネボ山で死んだモーセが新約の時代にヘルモン山で幻としてよみがえった、ということになります。

ちなみに、モーセはイスラム教でも預言者として高い尊敬の対象になっています。コーラン第4章(女人の章)164節には「モーセには、神(アッラー)が親しく語りかけたもうた」とあります。その他預言者として名を挙げられているのは「アブラハ、イシマエル、イサク、ヤコブ、イエス、ヨブ、ヨナ、アロン、ソロモン、ダビデ」です。イシマエルはイサクの異母兄弟でアラビア民族の祖とされている人間です。その娘マハラテがヤコブの兄エサウの妻の一人になっています。エサウはイスラエルという名をもらったヤコブに長子の権利を奪われた人物で、エドム人の祖とされています。エサウの血筋とヤコブの血筋は犬猿の中となり、モーセの時代にはエドム人はカナン侵入の行く手を阻むイスラエルへの敵対部族であったようですが、今はそんなことはありません。イスラム教徒はコーランに従い、モーセを偉大な預言者として扱っています。イスラムは教理的にはキリスト教を敵対視は全くしておらず、「経典の民」としてキリスト教徒、ユダヤ教徒をイスラム教徒に次ぐ者として扱っていることは覚えておく必要があります。イスラム教の教理はユダヤ教のそれにかなり類似しています。イスラエルという国がアラブ・パレスチナの地に意図的に作られ、それを米国が応援しているため、イスラム教徒は反米的になっているにすぎません。人間には理解できないところで、宗教としてのキリスト教、イスラム教、ユダヤ教の相克の歴史には神の導きが働いているのかもしれません。

申命記の最後は「結びの言葉」とでもいうべき箇所です。34:10では「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された。」と述べられています。「顔と顔をあわせて」神とまみえるなどは本来ありえないことですが、それほどの関係であったと言っています。主イエスの職務として王、祭司、預言者の三職と言われますが、モーセ以降エリア、エリシャ、イザヤ、エレミヤに続く預言者の伝統は三職の一部をなしています。モーセの兄アロン以降の大祭司は祭司の職務に、ダビデ、ソロモンその後のユダ王国の王の歴史は王の職務に対応しています。これらの伝統に新しい意味を込めて引き継いでいるのが主イエスの三職です。この預言者の伝統は単に神の言葉を民に伝える、という意味にとどまらず、民の罪の赦しを乞い、執成しをする預言者です。その罰は預言者に与えられるのです。モーセの生涯においてそれが示され、エレミヤの生涯において再び示され、第二イザヤの自らを奉げる苦難の僕(しもべ)に純化した形で示されます。この三者の最後はこの世の基準ではあとになるに従って、哀れなものとなって行きます。その究極のところに主イエスがいらっしゃいます。最も惨めな最後となった主イエスこそ黄泉からの復活者として最大の預言者となったのです。祈ります。

ご在天の父なる御神様、今日の礼拝の時を感謝します。今日は、申命記の「モーセの生涯の締めくくり」の個所から学びました。主イエスは、モーセがイスラエルの民のためにとりなしの祈りをされたと同様に、私たち罪多きすべての者のために、とりなしの祈りをされた方です。そしてそのとりなしの証として「神の子」の命をも捧げられた方です。私たちを主に従う者とさせてください。とりなしを祈る者としての勇気をお与えください。「強くあれ、雄々しくあれ」のみ言葉を心に刻み、主なる神にすべてをゆだね進む者とさせてください。われらの主イエス・キリストの御名により祈ります。アーメン

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