召命 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 調布 深大寺のプロテスタント教会 Sun, 13 Aug 2023 04:53:35 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.3.17 https://domei-nakahara.com/wp-content/uploads/2020/03/cropped-favicon-32x32.png 召命 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 32 32 サムエルの召し第一サムエル3章1~21節 https://domei-nakahara.com/2023/08/13/%e3%82%b5%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%83%ab%e3%81%ae%e5%8f%ac%e3%81%97%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%82%b5%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%83%ab3%e7%ab%a01%ef%bd%9e21%e7%af%80/ Sun, 13 Aug 2023 04:51:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=4814 "サムエルの召し
第一サムエル3章1~21節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。サムエル記からの説教は今回で3回目になります。そして、今回から初めてサムエル記の主人公の一人であるサムエルが本格的に登場します。今日はそのサムエルの預言者としての召命物語になります。私たちは以前、預言者エレミヤの召命物語を学びました。エレミヤは祭司の家系に生まれた人で、祭司には30歳になった成人男性がなるのですが、エレミヤは弱冠20歳で預言者としての召しを受けます。祭司として働く年齢より10歳も若いわけで、エレミヤはこの時「自分は若過ぎます」といって神の召しを拒もうとします。しかし、今日のサムエルはもっともっと若いです。幼いといってもよいかもしれません。この時点でサムエルは何歳だったのか、はっきりとは分かりません。サムエルは既に祭司エリの下で祭司見習いとして働いていましたが、ユダヤ人の元服は13歳ですので、おそらくサムエルも13歳になるかならないかという年齢であったと思われます。日本でいえば、中学1年生ぐらいの歳です。古代のイスラエルは、現代の日本よりも大人になる年齢はずっと低かったわけですが、それにしても13歳ではまだ世の中のことはよく分かっていなかったでしょう。

とはいえ、サムエルはかなり特殊な環境で育ってきました。サムエルは乳離れした歳、1歳半ごろですが、そのころから母親の手を離れてずっと祭司エリの下で育てられてきました。彼の家は、なんと神の宮だったのです。つまり、物心ついてからの生活環境は非常に宗教的なものであったということです。宗教上の聖地には独特の雰囲気がありますが、サムエルにはそれがむしろ当たり前だったのかもしれません。3章3節には、「サムエルは、神の箱の安置されている主の宮で寝ていた」とあります。「神の箱」というのは、モーセの十戒が刻まれていたと言われる石板が収められていた契約の箱のことですが、それは神の聖所の中でも最も神聖な空間である至聖所に置かれていました。その近くでサムエルは寝ていたことになります。当時、契約の箱が置かれていたのはシロというところで、後にダビデがエルサレムを首都と定めてそこに契約の箱を安置するまで、二百年もの間イスラエルの聖地とされていた場所でした。サムエルは、その聖地シロで少年時代を過ごしてきたのです。

そのサムエルはある意味で、非常に複雑な人間関係の中で育ったと言えます。母親のハンナは素晴らしい信仰者で、わが子サムエルを深く愛していましたが、なにしろ彼女がサムエルに会えるのは年に一度だけです。ハンナは毎年成長するサムエルのために上着を作るほどの子煩悩な親でしたが、しかし繰り返しますが会えるのは年に一度だけです。サムエルは、一番母親に甘えたい時期に、肉親と離れて大人たちに囲まれて暮らしていたわけです。しかもその大人たちが非常に個性的な人たちでした。年の離れたお兄さんたちともいうべきエリの息子たちはやくざな連中で、神の聖所の中で狼藉ばかり働いていました。聖所で働く他の人たちは、サムエルに対し、「あんな連中と付き合ってはいけないよ。あんたもあんなろくでもない大人になってはいけないよ」と忠告したでしょう。しかし、サムエルにとっては大祭司エリは後見人、親代わりですから、その子どもたちとまったく付き合わないわけにもいきません。エリの息子たちも、真面目な少年サムエルをからかいながらも、自分たちの仲間に引き込もうとしていたかもしれません。サムエルが一番頼りにしていたエリは、基本的には善良な人でしたが歳を取り過ぎていて、目も悪くなっていて、サムエルのことに十分目が届かなくなっていました。サムエルも、ですからエリに頼ってばかりもいられない状態でした。そのような不安定な周囲の状況の中で、サムエルは早く大人にならざるを得なかったといいますか、若干早熟な子どもであったものと思われます。そのようなサムエルに、神は呼びかけて預言者としての最初のことばを与えたのでした。では、さっそく今日のみことばを読んで参りましょう。

2.本論

まず、3章1節です。ここに、とても重要な情報が記されています。それは、「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」という言葉です。簡単に言えば、神様とイスラエルの民とのコミュニケーションがほとんどなかったということです。民は神を尋ね求めることをせず、霊的な事柄に関心を失っていました。彼らの関心事は、この世の歓びをいかに味わい尽くすか、そういう世俗的な方向にばかり向かっていました。神様の方も、そんな人々にご自身を現わそうとはなさらなかったので、お互いの距離はどんどん開いていく一方でした。イスラエルは一件平穏でした。人々はそのぬるま湯の中に浸りきっていました。しかし、段々と危機は迫りつつありました。強大な武器を手にしたペリシテ人が、イスラエルの領土を狙って牙を研ぎ澄ましていました。イスラエル人はそうした脅威に備えなければなりませんし、イスラエルの神も、人々に警告を与えたいと考えておられました。しかし、人々に警告を与えるべき立場にいる人たちそのものが、神の裁きの対象になってしまっていること、それが問題でした。祭司という、イスラエルを率いるべき立場の人々が完全に神に背を向けてしまっていました。彼らは神と全くコミュニケーションを取ることができずにいたので、神は彼らを通じて大切なメッセージをイスラエルの人々に届けることができないのです。このどうしようもないリーダーを何とかしないことには、イスラエルに未来はありません。ですから、神が最初になさろうとしたことは、こうしたリーダーたちの排除でした。イスラエルに良き指導者を与えるために、悪い指導者を取り除く、それが神の目指すところでした。本来なら、イスラエルの指導者である祭司エリがそのことをすべきでした。彼はどうしようもない自分の息子たちをその高い地位から罷免しなければならなかったのですが、エリは神からそのように促されても従おうとはしませんでした。いくらダメ息子でも、子どもたちがかわいかったのです。そこで、その仕事がまだ少年であったサムエルに回ってきたのです。

このサムエルにこれから与えられるメッセージは大変厳しいものです。旧約聖書で、預言者に与えられるメッセージには、大別すると2種類のものがあります。一つは希望のメッセージ、救いを告げ知らせるメッセージで、モーセが燃える柴の中から聞いた「出エジプト」のメッセージや、イエスの母マリアが受胎の時に聞いたイスラエルの救いのメッセージなどです。こういう喜ばしい知らせはまさに「福音」と呼ぶべきものです。しかし、預言者が与えられるのはこうした喜ばしい知らせばかりではありません。むしろそれとは正反対の、厳しいメッセージの方が多いのです。例えばイザヤです。大預言者イザヤの召命物語は、神殿の中で栄光の主を見上げるという壮大なものでしたが、そこで彼に与えられたことばは、

町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。(イザヤ6:11-12)

という寒々としたものでした。栄光の主を見たという高揚感と、そこで与えられるメッセージの残酷さのコントラストが際立ちます。

預言者イザヤより少し前の時代を生きた、もう一人の偉大な預言者であるアモスに示されたイスラエルの未来もまことに暗く厳しいもので、アモスは主から幻を知れされた後に思わず主にこう叫びました。

神、主よ。どうぞお赦しください。ヤコブはどうして生き残れましょう。彼は小さいのです。(アモス7:2)

このように、預言者たちに与えられる神のみことばや幻は、預言者が押しつぶされてしまいそうになるほど重苦しいものが多いのです。そして、サムエルにも今やそのような厳しいみことばが与えられようとしています。しかし、既に成人になっていて人生経験を積んでいたイザヤやアモスとは違い、サムエルはまだ年端もいかない少年です。その少年に与えられた初仕事は、あまりに厳しいものであったように思います。

では、そのサムエルがどのように神から召されたのかを見ていきましょう。神は、宮の中で眠っているサムエルに呼びかけました。それは夢の中で現れたというよりも、実際に音として届くようにサムエルの耳に語り掛けたものと思われます。霊である神が、どうやってその声を物理的に届けるのか、というのはなかなか不思議なことですが、おそらく神は御使いをサムエルのところに遣わし、彼にご自身のことばを託したものと思われます。御使い、すなわち天使も霊的な存在ですから、同じではないかと思われるかもしれませんが、天使というのは一時的に人間と同じように物理的なからだを持つことができる存在として聖書に描かれているように思われます。ともかくも、寝ているサムエルは自分の名が呼ばれるのに気が付きました。こんな時間に自分を呼ぶのは、お師匠さんのエリしかいないと思い、サムエルは「はい。ここにおります」とエリのころに走っていきました。この一件からも、サムエルが相当厳しくエリからしつけられていたことが窺えます。寝ているのを起こされると誰でも不機嫌になるものでしょうが、サムエル少年は文句ひとつ言わずに、すぐに起きてしかも走ってエリのところにダッシュで向かっています。かなり体育会系ですよね。エリは自分の息子たちには大甘でしたが、サムエルには厳しく教育していたようです。これは養子のサムエルに辛く当たったということではなく、むしろハンナから預かった大事な子どもということで、エリもサムエルには大きな期待を賭けていて、それで厳しく躾けたのではないかと思います。サムエルもそれに応えて頑張ったので、エリも鍛えがいがあったということなのでしょう。 さて、エリのところへ飛んでいったサムエルは、再び「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と答えます。しかし、エリはサムエルを呼んだ覚えはありません。眠りを妨げられる格好になったエリですが、サムエルが寝ぼけていたのだろうと考えて、ここは優しく、「帰って、おやすみ」とサムエル少年に伝えました。サムエルも、おかしいなと思いつつ、再び眠りにつきます。そうすると、再度自分を呼ぶ声がしました。今度こそ、エリが呼んでいると考えてサムエルがエリの所に向かうと、今度もエリは私は知らないと言います。しかし、二度あることは三度ある、ではありませんが、再び眠ろうとしたサムエルは、今一度自分を呼ぶ声を耳にします。今度こそ間違いなくエリだろうと思ってサムエルはエリのところに向かいます。しかし、今度はエリの方が、今何が起きているのかに気が付きました。サムエルが三度も間違えるわけがない、これは主がサムエルを呼んでいるのだと確信し、エリはサムエルに、今度声がしたらこう言いなさい、と伝えます。『主よ。お話しください。しもべは聞いております』と。

果たして、サムエルを呼ぶ四度目の声がしました。サムエルも、これはただ事ではないと思いつつ、エリに言われたとおりに答えます。10節で、「主が来られ、そばに立って」とありますが、これは主ご自身ではなく、先ほど申しましたように主の御使いのことだと思われます。そして、サムエルは生まれて初めて神のことばを託されます。しかもそれは非情とも思えるほどの厳しい裁きの宣告でした。なんと、サムエルを養子として引き取ってくれた、優しい父親代わりのエリに対する裁きのことばでした。主はこう言われました。

わたしは彼の家を永遠にさばくと彼に告げた。それは自分の息子たちが、みずからのろいを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった罪のためだ。だから、わたしはエリの家について誓った。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に償うことはできない。

これは非常に厳しい神のことばでした。前回の説教で学んだように、エリはすでに「神の人」と呼ばれる預言者から、自らと子どもたちに下るであろう厳しい裁きについて知らされていました。しかし、神は憐み深い方ですから、裁きの宣告を聞いて悔い改める場合には裁きを撤回する可能性が残されていました。例えば預言者ヨナは、アッシリアの帝都ニネべに下る裁きを宣言しましたが、アッシリアの人々が悔い改めたのでその裁きは撤回されました。エリとその息子たちも、この「神の人」からの裁きの声を聞いてそこで深く悔い改めていたならば、あるいは最悪の事態は回避できたかもしれませんでした。しかし、その猶予期間は既に過ぎ去ってしまいました。神は今や、エリの家が如何なる犠牲をささげ、悔い改めて、償いをしたとしてもそれらを受け入れることはない、もはや決定が覆ることはない、ということを少年サムエルに伝えたのです。

しかし、初めて聞いた神の言葉が、よりにもよって自分を預かって育ててくれたエリとその家族への神からの最後通告であるということを知ったサムエルの気持ちはいかばかりだったでしょう。もう13歳ほどで、また大人に囲まれて育ったために早熟だったサムエルは、その言葉の意味を完璧に理解したことでしょう。サムエルはとんでもないことを聞いてしまったと思いながら眠りにつきました。興奮はしていたでしょうが、それ以上に緊張で疲れ果てて眠ってしまったものと思われます。しかし、翌朝目覚めた時も、神から預かったことばは鮮明に記憶していました。けれども、できれば誰にも言いたくない内容でした。

しかし、サムエルを待ち構えていた人がいました。主がサムエルを召したのだ、と確信していた祭司エリでした。なにしろサムエルを四度も主が呼ばれたのです。よほど重要な話をされたのだろうということは分かっていました。おそらくその内容は、自分にとって非常に厳しいものであろう、ということも。それでもエリは、どうしても主の御告げを知りたかったのです。未来が分からないという不安と、最悪の未来だろうけれどそれをあらかじめ知ることができるという二択がある場合、もちろん人間には未来のことは分からないので、こんな選択はあり得ないのですが、しかしもしそんな選択ができるとしたら、多くの人はためらいつつも、悪い未来でもいいからあらかじめ知りたいと思うのではないでしょうか。最悪だけれども何が起こるかは分かっている方が、先が分からない不安よりもましだということです。ですからエリは、サムエルにきつく言いました。

おまえにお告げになったことは、どんなことだったのか。私に隠さないでくれ。もし、おまえにお告げになったことばの一つでも私に隠すなら、神がおまえを幾重にも罰せられるように。

こう言って、サムエルに真実を語るように迫ります。サムエルももはや隠せないと思い、本当のことを話しました。まさに死刑宣告を聞かされたようなエリでしたが、しかし彼はそれを正面から受け止めて、こう言いました。「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように。」この一言が、エリという人物の人柄を表しているように思います。確かに彼には優柔不断なところがあり、厳しい決断を先延ばししてしまう弱さがありました。しかし、彼の息子たちとは違い、彼は心から神を畏れる人でした。彼は自分の至らなさを素直に認め、神の裁きを甘んじて受けるという決意を口にしたのでした。

このサムエルが神から呼ばれたという出来事は、人々の間に伝わるようになりました。神は今や、この少年サムエルを神のみことばを預かる人として召したということがイスラエル人の間の共通認識になっていったのです。それは旧い時代の終焉であるとともに、新しい時代の始まりでもありました。

3.結論

まとめになります。今日は少年サムエルが、初めて神からのみことばを預かるという場面を学びました。預言者というのは神のことばを預かるという、非常に恵まれた立場のように思えますが、しかし旧約聖書を見れば分かるように、預言者になるということは決して手放しで喜べるようなことではありません。なぜなら、預言者は迫害に遭うからです。なぜ預言者が迫害に遭うのかと言えば、それは人々が聞きたくない厳しい内容、耳障りの良くない話をするからです。みんなが喜ぶ話ではなく、「良薬は口に苦し」と言われるように、苦い話を伝えなければならないのです。今回、サムエルが預かった神のことばも、まさにそのようなものでした。しかし、今日の話に一つだけ救いがあるとすれば、その厳しいことばを少年サムエルから聞いた時のエリの態度でした。サムエルは、エリが赤ん坊のころから預かっていた子で、今でもやっと13歳ぐらいの子どもです。「この小童が」と軽んじても不思議ではないような子どもです。しかし、エリはその子どもの口から名門であるエリの一門の破滅の宣告を聞きながらも、それをへりくだって神のことばとして聞き、「主がみこころにかなうことをなさいますように」とだけ語ったのです。ここに救いがあったように思います。その後、エリの家は預言通りに没落します。しかし、全く信仰が絶えてしまったわけではありませんでした。むしろ、それから数百年後に、没落したエリの家の人々が住んでいたアナトテの地から、あの預言者エレミヤが生まれたからです。ここに神の憐みと、またエリの家の残された小さな信仰の結晶を見る思いが致します。ですから、私たちも主から喜ばしい知らせを聞いた時だけでなく、厳しいお咎めを受けた時にも、エリのように「主がみこころにかなうことをなさいますように」という信仰を持つ者でありたいと願うものです。それも手遅れにならないように、なるべく早く主の警告を受け止めるべきだということです。そのような謙虚な気持ちを持てるように、お祈りしましょう。

サムエルを召し、大きな働きを与えられた主よ。そのお名前を賛美いたします。「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」このように、私たちには常に神の御心が示されています。どうかその声を、素直に謙虚に受け止めることができますように、私たちを整えてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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弟子たちの召命マルコ福音書1章16~20節 https://domei-nakahara.com/2022/06/12/%e5%bc%9f%e5%ad%90%e3%81%9f%e3%81%a1%e3%81%ae%e5%8f%ac%e5%91%bd%e3%83%9e%e3%83%ab%e3%82%b3%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b81%e7%ab%a016%ef%bd%9e20%e7%af%80/ Sun, 12 Jun 2022 05:19:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=3277 "弟子たちの召命
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1.導入

みなさま、おはようございます。先週は大変恵まれたペンテコステ礼拝になりましたが、今週から通常通り、マルコ福音書からの説教に戻ります。前回は、イエスがいよいよ福音宣教に乗り出すという場面でしたが、イエスにはまだその時には仲間がおらず、単独で行動を始められました。しかし、神の王国を人々に広めるという任務は一人だけでできるようなものではありません。ある王国があって、その王国には王様一人しかいなければ、それは王国とはとても呼べません。神の王国は神の支配という意味ですが、その支配に従う人々がいて初めて王国は王国となるのです。ですからイエスの最初の仕事は、王国の中で自分に従ってくる弟子たち、しもべたちを呼び集めることでした。今回は、十二使徒の中でも特に有名な四人の弟子たち、彼らの召命物語を見てまいります。

しかし、例によってマルコは必要最小限の情報しか読者に伝えてくれません。このわずか5節の描写からは、イエスと弟子たちとの出会いの場面はいったいどんなものだったのか、ほとんどわかりません。この簡潔な記述を読むと、逆にいろんな疑問がわいてきます。まず、ここに出て来る四人の漁師たちはイエスから一声かけられただけで自分の仕事を捨てて彼に従っていく決断をしたように見えます。しかし、マルコ福音書によれば、イエスはまだこの時点では一つも奇跡を行っておらず、まったく無名の青年です。もしこの四人とイエスがそれまで面識がなく初対面だとしたら、見知らぬ人物から一声かけられただけで自分の仕事を捨ててついていく大の大人がこの世にいるのだろうか、いるとしたらよほど軽率な人物なのではないか、となんだか心配になってきます。こういう疑問については、マルコ福音書よりも後に書かれた別の福音書が補ってくれます。マルコを資料として用いながら、ルカはより詳しくて長い福音書を書きましたが、ルカによればシモン・ペテロはこの召命の場面より前に、すでにイエスに会っています。イエスはひどい熱に苦しむシモンのしゅうとめを一声で癒しています。マルコでは、この癒しはシモンの召命の後になっているので、マルコとルカのどちらが時間的に正確なのか、私には分かりませんが、もしルカの方が正しいのだとすると、イエスはシモン・ペテロを召し出す前に、彼のしゅうとめを奇跡的に癒していることになります。ルカは病の癒しの後に起こった出来事として、シモンの召命物語に11節を割いて詳しく記しています。そこでは夜通し働いても魚一匹取れなかったシモンが、イエスの言われた場所に網をおろすと網が破れそうなほどの大漁になったというエピソードが書かれています。これほど印象的な奇跡を立て続けに見せられれば、シモンがこの見知らぬ青年に人生を賭けてみようと決断することもできたでしょう。シモンは決して軽率だったのではなく、むしろイエスのなさったことがあまりにすごかったのだ、ということをルカは私たちに納得させてくれます。そして四つの福音書の中で最後に書かれたヨハネ福音書は、この件についてさらなる情報を提供してくれます。ヨハネによれば、イエスがシモンと彼の兄アンデレと初めて出会ったのはガリラヤではなく、ユダヤ地方でした。彼らはバプテスマのヨハネの所に来ていて、そこで出会っているのです。ですからガリラヤでの召命物語は、イエスとシモンたちが生まれ故郷のガリラヤで再開した際の情景だということになります。

このように考えると、シモンたちがイエスに呼びかけられて、従っていく決意をしたのは、決して考えもなしの衝動的な行動ではなく、むしろ一連の運命的な出会いの結果だったということが言えます。しかし、それではシモン・ペテロたちが熟慮の末に、イエスの指し示すヴィジョンをよく理解したうえで彼に従っていく決断をしたのかといえば、そうとも言えません。むしろ、これからの物語展開の中で明らかにされるように、シモンたちはイエスのことをよく分かっておらず、それどころか根本的に誤解していました。特にシモン・ペテロについて、この福音書は赤裸々に彼のイエスへの無理解と失敗を描いています。そしてそれは驚くべきことなのです。なぜなら、このマルコ福音書の実質的な作者はこのシモン・ペテロに他ならないからです。福音書記者のマルコ自身は、イエス本人にはおそらく会ったことがありません。マルコは異邦人に向かって伝道するペテロの、通訳として活躍しました。ペテロはギリシア語がうまく話せなかったので、通訳が必要だったのです。ペテロという、イエスを最もよく知る人物の片腕として活躍したマルコは、ペテロから伝えられたイエスの伝記を書いたのです。ですからマルコ伝は実質的にはペテロの作品だとも言えます。普通、人は自分のことが歴史の本に描かれるのを知った時には、少しでも自分のことをよく描いてほしいと願い、そのためには脚色さえ要求するということがあります。一例を挙げましょう。現実の話ですが、明治時代の日露戦争の後にその戦争史を書くことになりました。その際、戦争で戦って生き残った将軍たちは「自分のことをもっとよく書け」と戦争史を書く歴史家に注文を出したために、歴史が歪められ、またそれを読んだ若い軍人は日本の軍は無敵だと勘違いしてしまったという話を聞いたことがあります。確かに大国ロシアに勝ったということは、明治の人々に大きな自信と勇気を与えました。しかし、日露戦争の現実は、ロシアは国内の革命騒ぎで対外戦争どころではなかったということ、日本軍が戦いを続けられたのも膨大な戦費を調達してくれたユダヤ人の存在や、陰に陽に支援してくれたイギリス軍のおかげだということ、またロシアに勝ったといっても実際には中国の一部からロシア軍を撤退させただけであり、勝利と呼ぶのは微妙であることも忘れてはなりません。私の祖先が日露戦争を戦った元帥の一人であることからも、このことははっきり申し上げたいと思います。もし日露戦争の現実がこのようなものであると当時の人々が知らされていたのなら、それから半世紀も経たないうちに超大国アメリカに戦いを挑むという愚は避けられたかもしれません。このことからも、歴史をありのままに記すというのは本当に大切なことだと思わされます。初代教会の絶対的な指導者だったペテロは、福音書記者マルコに自分のことをもっとよく描いてくれ、自分のみっともない場面は書かないでくれ、と注文を付けることもできたはずです。しかし、ペテロは自分の大失敗や恥ずかしい行動を包み隠さずに述べています。これは考えてみるとすごいことなのですが、しかもそれはペテロがイエスの福音をどう捉えていたのか、それを理解するための重要なカギともなるのです。ペテロがイエスから受け取った福音とは、罪深い者、あるいはどうしようもないダメ人間を憐み深く受け入れ、決して見放さず、根気よく我慢強く育ててくださる神でした。失敗が大きければ大きいほど、それを赦す神の懐の深さが明らかにされます。その恵み深い神の愛と本質は、イエスとペテロとの関係の中にこれ以上ないほどはっきりと示されている、これがペテロの確信でした。ですから彼は情けない自分、そしてその自分を受け入れて赦すイエスの姿を包み隠さずに人々に示したのです。

ここで、このシモン・ペテロと言う名前について一言説明しますと、彼の名前はシモンであり、ペテロというのは彼のあだ名です。ペテロ、アラム語ではケファと言いますが、それは「岩」という意味です。ですから、イエスはシモンに対して、日本語でいえば、「おい、岩」と呼びかけていたということです。なんだか微笑ましいですね。ペテロというニックネームの方が有名になりましたが、彼の正式な名前はシモンだということを確認したいと思います。

ペテロの目撃証言に基づくマルコ福音書の中では、ペテロは第二の主人公とも呼べるほどの存在感があります。そしてペテロこそ、「多く赦された者は多く愛するようになる」というイエスの言葉をまさに体現した人物だったのです。

2.本文

では、今日のみことばを読んでいきましょう。イエスが活動の拠点として選んだのはガリラヤ湖の周辺でした。ガリラヤ湖は琵琶湖の四分の一ほどの大きさなので、滅茶苦茶大きいというほどではありませんが、とてもきれいな湖です。私も1度しか行ったことがありませんが、忘れられない場所です。ガリラヤ湖はたくさんの魚がとれる漁場であり、同時に人々が舟で交通をするための重要な交通路でもありました。まさに人々の日常生活に密着した場でした。同時に時には嵐が起こって人々を恐れさせる場所でもありました。まさに自然の恵みと怖さ、さらに言えば自然を造られた神の恵みと厳しさを体現したような湖でした。イエスがガリラヤ湖を宣教の場として好んだのは、そこが多くの人に語りかけやすい場所だったということももちろんありますが、イエス自身がガリラヤ湖に強い魅力を感じておられたからではないのかな、と思います。そのガリラヤ湖の湖畔で、今回の召命物語が起きたのです。

イエスはここで、二組の兄弟と会っています。シモン・ペテロとその兄のアンデレ、またゼベタイという人の子であるヤコブとヨハネという兄弟です。この四人はこれから十二使徒の中核メンバーとなっていきます。当時の彼らが漁師という仕事を自分の天職として見ていたのは間違いないでしょう。イエスが十字架で死んだ後、ペテロたちは一旦漁師の仕事に戻ってしまいましたが、もし彼らが漁師という仕事を嫌っていたのなら、昔の生活に戻ることはしなかったでしょう。実際、ガリラヤ湖という豊かな自然の中での漁師という仕事は、やりがいのある、楽しい仕事だったのではないかと思います。特にゼベタイとその息子たちは使用人を雇っていたことから、比較的余裕のある生活を送っていたことがわかります。しかし、今の生活にそれほど強い不満を持っていなかった彼らが、どうして仕事を捨ててイエスについていくことを決意したのでしょうか。彼らはどんな気持ちでこの決断をしたのでしょうか。

ここでぜひとも注意していただきたいのですが、この四人の漁師たちはキリスト教の宣教師になるつもりでイエスについていく決断をしたのではありません。ここは誤解しないようにしましょう。今日では召命と聞くと、神を知らない人たちに福音を伝える宣教師や伝道者になる召しを受けることだと思うでしょうが、しかし私たちの時代や社会とペテロたちのそれとは全く異なります。思い出していただきたいのは、ペテロたち四人の漁師はみなユダヤ人であり神を信じており、彼の家族や仲間たち、また近隣の町や村のガリラヤの人たちもみな神を信じていたということです。ですから彼らは、ガリラヤ湖の近くに住んでいるユダヤ人たちに「神を信じなさい」と呼びかける必要はなかったのです。みんなすでに神を信じていたのですから。また、ペテロたちはガリラヤの人々に「このイエスこそ、あなた方の待ち望んでいた救世主キリストだ。彼を信じなさい」というメッセージを伝えようと思ったのでもありません。そもそもこの時点では、ペテロにもイエスがメシアであるという確信がありませんでした。ペテロは、マルコ福音書の8章でやっとイエスがメシアであると告白し、イエスもそれをお認めになりましたが、その時点まではペテロたち側近ですら、イエスがメシアであるという確証が持てなかったのです。ですからペテロたちはイエスに呼ばれた時、「よし、これから神とキリストのことを人々に伝えよう」と考えたのではありません。では、彼らはどういうつもりでイエスに従う決断をしたのでしょうか?宣教師でなければ、彼らは一体何になるつもりだったのでしょうか。

彼らが、イエスのことを新しい宗教を始める教祖としては見ていなかったのは確かです。もしイエスが、先祖伝来の神の教えであるユダヤ教を捨てて、全く新しい宗教を始めようとしていたのなら、保守的な宗教的環境で育ったガリラヤの漁師であるペテロたちは、とても彼について行く気にはなれなかったでしょう。もちろん彼らはイエスのことを優れた律法の教師、ラビとして見ていました。しかし、だからといって彼らは律法の勉強がしたくて、これまでの自分の仕事を捨ててまで、イエスの弟子になろうとしたのでもないでしょう。彼ら四人が勉強が好きで好きでたまらなくて、肉体労働である漁師を止めて、これからは学問で身を立てようとした、というのも彼らの性格からすればありそうもないことです。では、彼らが自分たちの気に入っている仕事を捨ててまで、イエスに従っていった動機はどこにあったのでしょうか。彼らがイエスに従っていった動機が明らかになるのは、聖都エルサレムに向かう途上で、彼らがイエスに願い出た内容からです。そこを読んでみましょう。マルコ10章35節から37節です。

さて、ゼべタイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左に座らせてください。」

ここに、彼らのイエスに従っていった動機がはっきりと示されています。彼らは出世がしたかったのです。もっとはっきり言えば、天下を取りたかったのです。これはエルサレムに向かう途上での話ですが、彼らはイエスがエルサレムで栄光の座、つまり王様に就任することを期待していました。ダビデ王朝はもう600年も前に滅亡していましたが、この伝説の勇者ダビデ王の末裔であるイエスこそダビデ王朝を復興してくれるはずだと彼らは期待していたのです。使徒の働き1章6節では、復活したイエスに対し、弟子たちは「主よ。今こそ、イスラエルのために王国を再興してくださるのですか」と尋ねています(使徒1:6)。彼らの望みとは、イスラエル民族の悲願であるダビデ王朝の再興でした。そしてイエスが王になれば、彼の側近である我々は大臣になれるのです。だから私たちを十二使徒の中でも特別に高い地位であるナンバー2、ナンバー3にしてくださいと、彼らは願ったのです。今風に言えば、自民党の総裁候補に対し、「総理になった暁には、ぜひ私どもを財務大臣と外務大臣に指名してください」と頼むようなものです。それはペテロやアンデレにしても同じでした。ですから彼らは、ヤコブやヨハネに対し、抜け駆けしたと怒ったのです。ペテロが8章でイエスに対し、「あなたは、キリストです」と告白した時の彼の真意とは、「あなたこそダビデ王朝を再興してくださるメシア王です」というものでした。それ以上でもそれ以下でもありません。彼が思い描いていたのは、イスラエルを勝利に導くメシア王で、自分はそのそばに仕える勇敢な将軍になることでした。ですからペテロはイエスがこれから自分は死ぬ、と言った時にびっくりしたのです。あなたは勝利を得るお方だ、死ぬはずなどないではないですか、と抗議したのです。ペテロは最後の晩餐の後に、イエスに向かって私はあなたを決して裏切らない、一緒に死ぬことも厭わないと宣言しましたが、これは本気でそう言ったのでしょう。但しペテロは、死ぬとすれば勇敢に戦って死ぬのであり、むざむざ無抵抗で殺される気などはさらさらなかったのでした。だから彼は、イエスには戦う気が全くないということを思い知られた時に、イエスの下を逃げ去ったのです。そんな死は犬死でしかない、と思ったのでしょう。

これらのことから言えるのは、ペテロたち漁師四人がイエスに呼びかけられたとき、彼らはイエスのことを、たとえるならば、これから天下を取ろうとする織田信長か豊臣秀吉のような人物として見ていた、というほうがずっと真実に近いということです。ペテロとアンデレはイエスから、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と声を掛けられました。この意味は、魚とは人間の比喩であり、ペテロやアンデレはこれからは魚ではなく人々をとる、救う、そういう人物になるということです。イエスもそのような意図で言われたのは間違いありません。ただし、この言葉を聞いたペテロたちは全く別のことを想像していたかもしれません。彼らは自分が多くの敵の兵士、ローマ兵を魚のように生け捕りにする大将軍になれると、そのように勘違いしていた可能性も否定できないのです。実際、この勘違いのせいでペテロはイエスの言っていることがまったく理解できず、肝心な場面で大失態を犯してしまうことになります。ペテロはイエスが逮捕される場面で大祭司のしもべに剣で打ちかかりますが、イエスが逮捕されると一転して恐怖に囚われ、イエスのことを三度も知らないと否定してしまいました。このちぐはぐな行動は、ペテロは初めからこの時点までとうとうイエスの真意を理解できなかったことを示しています。

では、イエスの側はどうだったのでしょうか。彼は、この四人の漁師たちが自分の意図を全く誤解していることに気が付いていなかったのでしょうか?いや、間違いなく気が付いていました。しかし、それでも彼らをその勘違いごと引き受けた、受け止めたのです。彼らの目は今は見えないかもしれない、しかし私と行動を共にし、私の生涯を終わりまで見届けたなら、彼らにも分かる日がきっとくる、そう確信して彼らを自分の弟子として召したのです。実際、イエスの目は確かでした。この四人の漁師たちは失態を重ねましたが、ついにはイエスの意図を理解し、立派に彼の始めた神の王国の事業を引き継いでいったからです。特にペテロの成長は目覚ましいものでした。彼はユダヤ人からも異邦人からも信頼される、稀有なキリスト教指導者になりました。それは彼の温かい、人間的な性格によるものでしょう。彼は人の欠点や弱さを受け入れる懐の広さ、相手の立場になって自分とは異なる意見の人も受け止める包容力がありましたが、それこそ彼がイエスから直々に教えられたことでした。イエスはペテロの可能性を信じ、度重なる失敗にもかかわらず彼を見捨てずに育て上げました。そのようなペテロの人生を思う時、今回の召命物語も、より一層私たちの心に響くものとなるのではないでしょうか。

3.結論

まとめになります。今日はイエスがご自身の最初の弟子である四人の漁師たちを召し出した場面を学びました。この弟子たちは、イエスにすぐに従った弟子の模範のように見られることもしばしばですが、実際には彼らはイエスの意図を大きく誤解しており、また彼らがイエスについていった動機も、それほど純粋なものではなかった、ということも見てきました。しかしイエスは、彼らの内心の思いをよく理解しておられたのにも関わらず、彼らを召し出しました。そして時間をかけて少しずつ、彼らの誤解を解き、彼らの心の目が開かれるように導いていきました。私たちも、初めて信仰に入ったときには、イエスの意図を、そしてイエスの指し示す神の王国のヴィジョンをひどく誤解していた、ということがあるかもしれません。私自身がそうでした。しかし、主イエスはそんな私たちを丸ごと受け止め、正しい方向へと導いてくださいます。ですから、私たちも後ろを振り返らず、前を向いて進んでいきたいと願うのです。これからの信仰の旅路に、常に主イエスと聖霊の導きがあるように祈りましょう。

イエス・キリストの父なる神様。今日はイエスが最初の四人の弟子たちを召し出した場面を学びました。彼らは初めはイエスのことを誤解していたのですが、そんな彼らをイエスは温かく受け止めてくださいました。私たちも愚かであなたの意図を悟るのに遅い者ですが、どうか私たちをも完成へと導いてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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召命について第一コリント7章17~24節 https://domei-nakahara.com/2021/01/31/%e5%8f%ac%e5%91%bd%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%82%b3%e3%83%aa%e3%83%b3%e3%83%887%e7%ab%a017%ef%bd%9e24%e7%af%80/ Sun, 31 Jan 2021 06:48:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=1200 "召命について
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1.導入

みなさま、こんにちは。1月も、はや今日で終わりになります。今日の第一コリント書からの説教は「召命について」です。「召命」というテーマではこれまでも何度かお話をしています。「召命」という言葉は普通の日常会話ではあまり使いませんが、神学校ではよく使われる言葉です。将来牧会者になることを志して神学校の門をくぐる人に、真っ先に問われるのは「召命はありますか?」という問いです。神から牧会者として召されているという確信があるのかを問われるのです。これは教会の教師になるための試験の時も同じです。あなたはこの職責に召されているという神からの声を聞いたのか、その確信があるのか、と問われるのです。では、神からの召命とはどんなものでしょうか?

有名なものでは「イザヤの召命」や「エレミヤの召命」、そして「パウロの召命」があります。イザヤは神殿に広がる主の栄光のヴィジョンを目撃して恐れるのですが、その時神がこう語られるのを聞きます。「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」そこでイザヤは「ここに、私がおります。私を遣わしてください」と応えます。それに対してエレミヤは、神の召しにひるんでしまい、「私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません」と答えました。そのエレミヤに対し、神は「私があなたを守る」と約束して、エレミヤを励まします。そして、この手紙の著者のパウロも劇的な召命体験を持っています。教会を滅ぼすために東奔西走するパウロに対し、主イエスが現れ、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」と語りかけられます。この経験を通じてパウロの人生は百八十度の方向転換を遂げます。

しかし、このようなドラマティックな召命物語を聞くと、普通のクリスチャンの方は、「召命」など、自分とは関係ないことだ、と思われるかもしれません。召命という言葉には、神を信じてはいるけれど、神から特別な任務は与えられていなかった人が、それまでの生活や仕事を離れ、特別な責任を負うようになる、預言者とか宣教者になる、という意味があります。しかし、もっと一般的な意味としての召命、召しとは、それは神を信じるということです。今まで神を知らなかった人が、神に呼ばれ、神を信じるようになる、これが「召し」なのです。ですから、それは入信とか、回心と呼んでもよいものです。実際、「召し」とは、原語のギリシャ語では「呼ぶ」という意味です。キリスト者はみな神から呼ばれた者たちなのですが、呼ばれたときにその人はすでに結婚している場合もあれば、結婚していない場合もあり、または奴隷だったり自由人だったりするわけです。私たちにはみな、社会的な立場というものがあります。キリスト者になったときに、そのような自分の置かれている状況についてどう考えるべきか、それを変えるべきかどうか、というのが今回の箇所のテーマになっています。

2.本文

さて、今日与えられている聖書箇所は、結婚についてのパウロの教えに挟まれるような格好になっています。結婚についてのパウロの教えのエッセンスを一言でいえば、そのままの状態にとどまっていなさい、というものでした。キリスト者として神に呼ばれる、召されたときに結婚している場合はそのままでいなさい、配偶者がキリスト者であってもなくても、その結婚状態にとどまっていなさい、また一人でいる人は、もしそれが出来るならば、一人で留まっていなさい、と教えます。むろん、先週学んだように、パウロは様々なケースについて具体的な指示や助言を与えましたが、原則は「今の状態にとどまりなさい」というものでした。そして今日の箇所では結婚ではなくて、人種や社会的身分がテーマになっていますが、それらについても「召された時の状態にとどまっていなさい」ということが三度も繰り返されます。

こう聞くと、がっかりされる方もおられるかもしれません。パウロはガチガチの現状維持派、保守反動のかたまりのような人物ではないかと。特に、「召されたときに奴隷であった人も、それを気にしてはいけません」という下りを読むと、幻滅を覚えるという方もおられるでしょう。アメリカの公民権運動、特にマルティン・ルーサー・キング牧師の死を乗り越えて奴隷解放にルーツを持つ人種差別撤廃に向けてのムーブメントが盛り上がったのを目撃してきた私たちにとって、パウロの言うことは余りにも消極的に思えるのです。パウロは奴隷制度などという、人権を無視した制度を容認していたのか、と。しかし、そのように早急に結論付けるべきではないでしょう。パウロはこの7章で、男と女という性別、割礼のあるユダヤ人か割礼のない異邦人かという人種の違い、そして自由人か奴隷かという社会的身分の違い、この三つについて語っています。実はパウロは、この三つについて他の箇所でも語っています。その箇所をご一緒に見てみましょう。ガラテヤ書の3章28節です。

ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。

ここでもパウロは男女の性別、人種の違い、そして社会的な身分について語っていますが、それらの区別はキリストにおいてもはやないのだ、と語っています。これは当時の時代背景を考えれば、ものすごく進歩的な、あるいは革命的と言ってもよいほどの発言です。このように、パウロは決して保守反動の人ではありませんでした。にもかかわらず、今日の箇所では、パウロは人種の違い、社会的な身分の違いがあることを認めながらも、その現状を変えようとするな、と教えます。それはどうしてなのでしょうか。

その理由の一つは、来週学ぶ箇所である31節にあります。それは「この世の有様は過ぎ去るからです」という言葉です。パウロは、世界の終わりが近いと信じていました。イエス・キリストがすぐにでも天から戻って来られ、今の世界秩序は終わると信じていました。キリストが来られた後の新しい世界では、男女の区別、人種の違い、あるいは社会的身分の違い、そんなものはみな無くなる、無意味になる、だから今の時代に慌てて社会改革を実施して奴隷制度を廃止しようとか、人種差別をなくそうとか、そんなことをする必要はないのだ、というような考え方がパウロの言葉の裏側にはあります。

しかし、パウロの時代から二千年も経った今から考えれば、世の終わりが近いというパウロの期待は実現しなかったことが分かります。ただ、これはパウロが間違えたとか、そういうことではありません。主イエスも言われたように、いつ世の終わりが来るのか、それは誰も知らないからです。使徒パウロといえども、キリストの再臨の時期は教えられていませんでした。それは何年か先かもしれないし、数千年先かもしれません。したがって、私たちはパウロのように緊張感を持つべきでありますが、同時に気長にというか、長い目で歴史を展望する余裕を持つ必要もあるのです。その意味では、ここでパウロが勧めている内容を必ずしも文字通りに受け止めるべきではない、と言うことが許されるのではないかと思います。どういうことかといえば、例えば奴隷制度の問題です。パウロは奴隷制度をあまり問題視していないように見えますが、それは奴隷制度を支える社会構造そのものが長続きしないと思っていたからです。しかし、その社会構造はパウロが考えていたよりもずっと長続きしました。なんと、科学技術が開花した近代と呼ばれる時代にも奴隷制度は存続していたのです。そしてあろうことか、体制側に回ったキリスト教徒たちが、パウロの言葉を盾にして、奴隷制度を維持したり、肯定したりしてきました。その結果、神の前に人類はみな平等であるというキリスト教の理念は歪められてきたのです。聖書の言葉は何でも文字通りに守ろう、受け止めようという姿勢は、こうした弊害を生み出しうるのです。ですから、聖書の言葉は、その言葉が語られた時代の制約を受けているということも事実として受け止めるべきでしょう。今日の私たちの社会には奴隷制度はありませんが、しかし異常なまでの貧富の拡大という別の問題があります。今世界で最も貧しい人たちと、最も豊かな人たちとの経済格差は200万倍以上だと言われます。人間一人一人の価値が神の前に平等だとするならば、このような格差は認められるでしょうか。しかも、この格差社会の先頭を走っているのはキリスト教国と呼ばれるアメリカです。聖書は、ヨベルの年に象徴されるように、極端な経済格差のない社会を目指しているにもかかわらず、です。私たちは、今の社会はどうせ遠からず過ぎ去るのだから、現状を変えようとする必要はない、などという風には考えずに、平和的な手段で、しかも積極的に、より平等な社会を築くために努力すべきなのです。奴隷制度が容認できないように、極度な格差社会も人間の尊厳を奪うものです。そのことに、キリスト者はもっと敏感であるべきでしょう。

さて、このように、パウロが積極的に社会的身分の違いを是正しようとしなかった理由の一つは、「世の終わりが近い」というパウロの期待にあったのですが、しかしそれだけではありません。もう一つの大事な理由は、社会的な地位や身分を変えようと願うあまり、一番大切なこと、つまり神の戒めを守ることがおろそかになってはいけない、という配慮があったのです。そこで18、19節を見てみましょう。

召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくしてはいけません。また、召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません。割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ることです。

この言葉を理解するには、当時の社会的慣習についての知識が必要になります。「召されたとき割礼を受けていたのなら」という下りを分かりやすく言い換えるならば、「もしあなたがキリスト者として神から召されたときにユダヤ人であったなら」ということになります。割礼を受けているというのはユダヤ人であることのトレードマークだからです。しかし、自分がユダヤ人であるのを恥じて、ユダヤ人のシンボルである割礼の跡を消そうとする人たちもいました。最近はアメリカ文化の人気も少し下火になりましたが、以前は「アメリカナイズ」される、という言葉があったように、日本人でも日本文化ではなく、より進んだアメリカ文化に憧れ、アメリカ人のような格好をするのがかっこいいんだ、と思う人が少なくありませんでした。古代のユダヤ人の中にも、当時の最先端の文明であったギリシャ文化に憧れ、ギリシャ人のようになりたい、生きたいと願った人たちがいました。パウロの時から約200年ほど前のことを記した第一マカバイ記には次のような記述があります。

民の中のある者たちは進んで王のもとに出かけて行き、異邦人の習慣を採用する許可を受けた。こうして彼らは異邦人の流儀に従ってエルサレムで鍛錬場を建て、割礼の跡を消し、聖なる契約を離れ、異邦人と軛を共にし、悪にその身を引き渡した。(第一マカバイ1:13-15)

鍛錬場とはギムナシウムと呼ばれるギリシャの競技場のことで、人々はそこで肉体美を誇るために裸でスポーツをしました。裸になると、ユダヤ人たちは割礼を受けていることが分かってしまうので、ギリシャ人と同じようになるために割礼の跡を消す手術を受けるユダヤ人もいたのです。つまり、割礼の跡を消そうとするユダヤ人とは、ギリシャ人のようになって自分のステイタスを上げたい、より進んだ文明人、かっこいい存在になりたいという、そういう人たちのことでした。今の日本でいえば、アメリカ人のようになりたい、あるいは洗練された金髪のヨーロッパ人のようになりたい、というような人たちのことです。パウロはそうであってはならない、といいます。キリストに召された者は既に神の子なのです。その上どんなステイタスが欲しいというのでしょうか?そのようなことに気を揉むよりも、今与えられている状況の中で愛によって働く信仰に生きなさい、というのがパウロの教えなのです。

召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません。」というのも同じことです。割礼を受けていない者とはギリシャ人のような異邦人のことです。異邦人が神に召されてクリスチャンになった時、彼らを教え導いていたのは昔からの神の民であるユダヤ人クリスチャンたちでした。ユダヤ人のクリスチャンたちは皆割礼を受けていましたから、異邦人クリスチャンの中には「自分もパウロやペテロのように割礼を受けたい。それはアブラハムに与えられた契約の民のしるしなのだから」と思った人がいたのです。この場合は、割礼を受けることで自分の教会の中でのステイタスを上げることが出来ると思ったのです。しかしパウロはそれも禁じます。キリストにある者は、割礼を受けていようといまいと、皆既にアブラハムの子孫なのです。だから、割礼を受けることでステイタスが上がることはないし、そもそもそんなことを気にしていること自体がおかしいのだ。あなたは人より偉くなろうとするのではなく、かえってキリストのように仕える者になりなさい、というのがパウロの言わんとしていることなのです。ですから、パウロが召されたときの状態にとどまりなさい、と教えた背後には、キリスト者としての生き方は社会的地位の上昇を目指すものではなく、むしろ進んで仕える者になりなさい、というイエス様の教えがあるのです。その次の20節ですが、このギリシャ語はなかなか訳すのが難しいものです。直訳すれば

おのおのは、召されたときのクレイシスにとどまっていなさい。

となります。クレイシスとは「召し」や「召命」と訳される言葉ですが、そうなると「召されたときの召しに留まっていなさい」という同音反復のようになり、意味がよくわからないので、クレイシスを「身分」とか「状態」というように訳されますが、要は召された時のままでいなさい、という意味です。奴隷の人は奴隷のままで、ユダヤ人はユダヤ人のままで、結婚している人は結婚した状態のままで、ということです。立場や身分は変わりませんが、しかしその状態の中での生き方そのもの、生きる態度が変わらなければならない、これがパウロの教えです。

さて、そして問題の21節です。この箇所は、かつてアメリカの黒人奴隷制を正当化するために用いられたという歴史があるため、特に問題となる箇所です。ただ、当時のローマ帝政下の奴隷制度は、19世紀のアメリカ合衆国の奴隷制度とはずいぶん違っていたことも注意すべきです。アメリカの奴隷制度の問題は、それが人種差別に基づいていたことです。奴隷になるのは黒人だけでしたが、それは黒人が白人より劣っているという誤った信念に基づいた制度でした。しかしローマ帝国では人種に関係なく、だれでも奴隷になる可能性がありました。戦争で負ければ奴隷になってしまうリスクは誰にでもあったのです。また、奴隷には確かに様々な制約がありましたが、他方で生活が保障されていた安定した身分でもありました。奴隷から自由人になってしまうと、自分で三度三度の食事のために稼がなければならないので、かえって困窮してしまう人もいたのです。ですから自由になれるのに、奴隷のままでいたいという人もいました。また、身分の高い人の奴隷で、特にその主人から信頼されている場合には、その奴隷自身も高いステイタスを持つ者と見なされました。このように、一言で奴隷と言っても19世紀の黒人奴隷のように劣悪で差別された状態にいたとは限りませんでした。こういう背景を踏まえて21節を読みましょう。

奴隷の状態で召されたのなら、そのことを気にしてはいけません。

とあります。パウロは、キリストにある者は自由なのだ、と繰り返し語りますので、奴隷の身分でクリスチャンになった人は自分の身分が恥ずかしい、自由な身に相応しく自由市民になりたい、という人もいました。しかしパウロは、そのことを気にするな、といいます。主はその人を奴隷の立場にいる人として召したのですが、主の目にはその人は自由です。ただ、その人は奴隷という身分を通じて主に仕え、人に仕えるように、とパウロは促しているのです。その次の節はなかなか難しい箇所です。聖書協会共同訳では、「自由の身になれるとしても、そのままでいなさい」、つまり奴隷の身分のままでいなさい、となっていますが、新改訳では「むしろ自由になりなさい」と正反対の訳になっています。原文では、「もし自由になることが出来るのなら、それを活用しなさい」となっています。では、何を活用するのか、ということは明記されていません。自由になるチャンスを活用しなさい、という風にとれば新改訳のようになるし、「むしろ今の状態、つまり奴隷の身分をよく用いなさい」ととれば聖書協会共同訳のようになります。個人的には、どちらにもとれると思います。パウロは「今の状況をよく用いなさい」という、非常に柔軟なアドバイスをしているということです。自由になる機会を捉えて何が何でも自由になれ、ということでは必ずしもありません。自由の身であろうと奴隷の身であろうと、とにかく今ある状態を最善に用いて主に仕えなさい、隣人に仕えなさい、というのがパウロのポイントです。むしろパウロはこの世におけるステイタスをクリスチャンが気にしすぎることの方を心配しているのです。奴隷は奴隷という身分を最大限用いて主の栄光を現し、自由人は自由人という身分を最大限生かして主の栄光を現すべきなのです。クリスチャンとは主にあって自由な者ですが、主の奴隷でもあるのです。これがクリスチャンのステイタス、本当の身分なので、過ぎ去っていくこの世の身分、ステイタスにこだわってはならない、というのがパウロの一番言いたいことなのです。

さて、パウロは「奴隷であっても気にするな」といいながら、23節では「人間の奴隷となってはいけません」と命じます。これはどういう意味でしょうか?パウロは気が変わったのでしょうか?いずれにせよ、現在の日本には奴隷制度などありませんから、この勧告は私たちには関係のないことなのでしょうか?そうではありません。パウロはコリントの人たちに奴隷であってもそれを気にするな、と言ったばかりなのですから、ここでは文字通りの意味での奴隷制度の話をしているわけではなく、比喩的な意味で語っているのです。パウロが言っているのは「この世の価値観の奴隷になるな」ということです。当時のローマ人も、今の現代人と同じようにステイタスを非常に気にしていました。現代人のステイタスシンボルとは、麻布や広尾に住んだり、ベンツやBMに乗ったり、東大など一流大学を卒業したり、高い給与を貰える会社に勤めたりすることでしょうが、当時のローマ人やギリシャ人も同じでした。少しでも上に行こう、高いステイタスを得よう、というのが彼らの価値観でした。パウロはそのようなこの世の知恵、この世の価値観の奴隷になってはならない、と言っているのです。だから、今自分がどんな身分なのか、どんなステイタスなのかを気にせずに、「おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい」と言う言葉を三度もこの短いセクションの中で繰り返したのです。

3.結論

さて、今日は「召命について」と題してお話をさせていただきました。神から召されたクリスチャンは、神の子という身分、これ以上ない高いステイタスを頂きます。しかし、その身分に比べて、今の自分の社会的な身分はみすぼらしいと思えてしまうかもしれません。しかし、神はこの私たちの身分、立場へと私たちを召したのです。私たちの現在の身分は神が私たちに割り当てられたものなのです。ですからこの身分をもっと高い位に変えようと頑張るよりも、むしろ謙虚な思いで、今の身分を通じて神に仕え、また人に仕えなさい、というのがパウロの教えです。もちろん、この世のおかしな、また不条理で理不尽な身分制度や差別や偏見をなくすために努力するのは大切なことです。19世紀の人種差別に基づく奴隷制度を廃止したのは素晴らしいことでしたし、南アフリカのアパルトヘイトを打ち壊したのも素晴らしいことでした。しかし、この世の制度は一朝一夕で変えられるものではないことも確かです。それを暴力的な手段を用いずに変えていくことは根気のいる、時間のかかることでもあります。しかし、制度は変わらなくても自分を変えることは出来ます。いや、むしろ神に自分を変えて頂くことは出来ます。私たち一人一人が主によって変えられ、そしてその輪がどんどん広がっていけば、社会が、そして世界が変わるのです。そのことを信じ、主によって変えられていくことを願いつつ、今週も歩んで参りましょう。お祈りします。

私たちそれぞれを子として召してくださった父なる神様、そのお名前を賛美します。私たちの社会は、自分たちの身分や立場に敏感です。「スクール・カースト」という言葉があるように、そうした意識は子供たちの間にも広がっています。しかし、私たち主にある者は、主の前にすでに尊いものであり、また主の前に平等な者であります。ですから、この世の身分や立場にこだわりすぎることなく、それぞれの置かれた立場で主に仕え、人に仕えることができますように。今週の私たちの歩みを祝してください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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召命、再びエレミヤ書15章15~21節 https://domei-nakahara.com/2020/06/07/%e5%8f%ac%e5%91%bd%e3%80%81%e5%86%8d%e3%81%b3%e3%82%a8%e3%83%ac%e3%83%9f%e3%83%a4%e6%9b%b815%e7%ab%a015%ef%bd%9e21%e7%af%80/ Sun, 07 Jun 2020 09:47:50 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=410 "召命、再び
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1.導入

みなさま、おはようございます。先週は幸いなペンテコステ主日礼拝を献げることができましたが、今日から再びエレミヤ書から学んでまいります。今日の説教タイトルは「召命、再び」です。エレミヤ書からの最初の説教が「エレミヤの召命」でしたが、一度神に召されたエレミヤが、再度その召しを新たにされる、というのが今日のメッセージの内容です。では、なぜ召しを新たにされる必要があったのかといえば、それはエレミヤが一度自らの召命を見失ってしまう、神の召しに背を向けてしまうという、そういう状態に落ち込んでしまったからです。どうしてエレミヤはそのような状態に落ち込んでしまったのか、また神はどのようにしてエレミヤを再びその使命へと呼び戻したのか、そのことを考えて参りたいと思います。

今日の私たちの生きる社会には、「燃え尽き症候群」という心の病があります。今まで仕事に人一倍熱心に取り組んでいた人が、燃え尽きてしまう、バーンアウトしてしまい、仕事への熱意を失う、やる気を失う、ひどい場合には人とのかかわりそのものを避けるようになる、そういう状態のことです。24時間働きます、というような猛烈サラリーマンの多かった昭和の時代にしばしば言われ始めた言葉ですが、昨今ではコロナと第一線で戦う医療関係者にそうした人が多いと言われています。

燃え尽き症候群になってしまう人や仕事の特徴をいくつか挙げると、「プライベートな時間が取れない」というのがあります。仕事を離れていても、いつ呼び出されるか分からない、常に緊張感を強いられるような仕事です。お医者さんは休んでいる時でもいつでも急患で呼び出されます。特に今回のコロナ問題は日々情勢が刻々と変わっていきましたので、休んでいてもずっと緊張感から解放されなかった医師の方も少なくなかったでしょう。

また、燃え尽き症候群になる場合の特徴として「一生懸命やっているのに、自分の仕事が評価されていないと感じてしまう」ということがあります。今回のコロナ問題でも罹患者が急増しましたが、治療に当たる医師としては「私はコロナの患者は診ません」というように仕事を選べません。したがって、どんどん仕事は増えます。しかし他方で、コロナの治療に当たる医療関係者が差別を受けることも増えました。訪問看護をしている方が、「お前のせいでコロナが広がる」などと心ないことを言われたという話も聞きます。人を助けるために骨身を削って働いているのに、感謝されることもなく、かえって非難されてしまうと、もうやる気も何も失ってしまうでしょう。

また、燃え尽き症候群になりやすい仕事の特徴として、「感情労働」ということがあります。人々の生の感情に向き合わざるを得ないということです。医師と言うのは、それこそ生死の問題に係わります。患者さん本人やその家族の動揺、不安、怒り、悲しみなどを受け止めなければなりません。人の感情を受け止めて、自分の感情を出すのは押さえる、控えるというのは大変疲れる、精神的なエネルギーを消耗させるものです。さらには、たとえ医療ミスがなかったとしても、患者を救えなかった場合には、自分の無力さ、時には罪悪感すら覚える医者もいます。こういうストレスに心が折れてしまい、燃え尽きてしまうというケースもあります。

このように、私たちのライフライン、つまり命綱に係わる大切な仕事をする人ほど、燃え尽き症候群になってしまう可能性が高いのです。そして、聖書に登場する預言者たちにも、まさに燃え尽き症候群と呼ぶべき状態に陥った人たちがいます。預言者は、他でもない神様その人から次々と重大な任務、仕事を与えられます。その任務とは、神の民を滅びから救い出すために警告を発するというまことに貴い仕事なのですが、その警告を発するという任務が人から感謝されることはなく、むしろ激しい反発や怒り、あるいはあざけりなどを招いてしまうのです。預言者が人々のために一生懸命働けば働くほど人々から孤立し、孤独の道を歩まなければならなくなるのです。今日の招詞で読んでいただいた北イスラエルの預言者エリヤもまさに燃え尽き症候群を経験した人でした。エリヤは三年もの間、雨が降らずに飢饉が広がるという預言をイスラエルに与えました。こんな預言をしても誰も喜ばないわけですが、実際にその通りの深刻な飢饉が到来し、エリヤも異邦人の貧しいやもめに匿われてこの三年間を耐え忍びました。そして、その後にバアルの預言者たちとの壮絶な戦いをして、ついにイスラエルに雨をもたらしたのですが、そのことに感謝されるどころか、かえって命を狙われることになります。エリヤもこの展開に疲れ果てて、もうダメです、神様ギブアップです、と弱音を吐きます。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから」と語ったり、「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています」とイスラエルの人たちを非難したりしています。そのようなエリヤを神がどのように癒し、また力づけたのかが列王記に書かれています。

しかし今日はこのエリヤではなく、名前は似ていますが彼とはだいぶ性格が異なるもう一人の預言者、エレミヤの燃え尽き症候群とそこからの癒しについて考えてみたいと思います。

2.本文

エレミヤは20歳そこそこで神に召されました。それから40年もの長きにわたって預言者としての苦難の人生を歩むわけですが、とりわけその預言者人生の前半は挫折に次ぐ挫折を経験しています。まずエレミヤは、「北からの脅威が迫っている」と人々に警告しますが、その北からの脅威というのが一向に実現せず、人々からは「あいつは偽預言者」だとあざけられました。それが実現したのは、なんとエレミヤが預言者としての活動を終える時でした。

また、エレミヤはヨシヤ王の宗教改革を支持し、地方の神殿を廃止して中央のエルサレム神殿のみで唯一の神を礼拝するという宗教政策の実現に協力しました。しかしそのことは、彼の郷里であるアナトテの人々の地方神殿での祭司職という仕事を奪うという結果になり、エレミヤは自分の故郷の人たちから恨まれ、命さえ狙われました。このように、エレミヤ自身は一生懸命人々のために働いているつもりなのに、かえって人々を怒らせたり、殺されそうになったり、あるいは馬鹿にされたりしました。

しかも、エレミヤを励ましたり、慰めてくれるはずの家族さえ、彼にはいませんでした。彼は神から結婚をすることを禁じられていたからです。16章の2節には、次のような主の言葉があります。

あなたは妻をめとるな。また、この所で、息子や娘を持つな。

なぜ神はこのような過酷な命令をエレミヤに与えたのでしょうか。これは、聖書にしばしば登場する象徴行動と呼ばれるものです。象徴行動とは、預言の内容を言葉ではなく、行動を通じて視覚的に人々に伝えようとするものです。例えばエレミヤは、土の焼き物のびんを買い、人々の前でそれを砕きました。それは、神がエルサレムを裁き、エルサレムはこのびんのように粉々に砕かれる、というメッセージを伝えるものでした。神がエレミヤに結婚してはならない、と命じたのは、イスラエルの人々の息子や娘が神の裁きによって、戦争や飢饉によって死ぬことになるので、子どもを持たない方がよいのだ、という過酷なメッセージを伝えるためでした。また神はエレミヤに「宴会の家に行き、いっしょにすわって食べたり飲んだりしてはならない」とも命じました。これも象徴行動で、イスラエルには神の裁きによって宴会がなくなる、ということを示すためでした。しかし、このような象徴行動をすることで、エレミヤはイスラエルの社会生活から自分を切り離し、孤独の中を歩まざるを得なくなったのです。エレミヤは、すっかり人々の嫌われ者になってしまいました。不吉なことを言う奴、不愉快な気分にさせる奴、ということで人々から目の敵にされてしまったのです。エレミヤはそのような自分の立場を嘆いて、15章の10節でこう言っています。

ああ。悲しいことだ。
わたしの母が私を産んだので、
私は国中の争いの相手、
けんかの相手になっている。
私は貸したことも、借りたこともないのに、
みな、私をのろっている。

エレミヤは、私など産まれてこなければよかったのだ、と嘆くのです。彼の母親が聞いたらどんなに悲しむでしょうか。しかし、エレミヤは他の場所でも同じようなことを言っています。母親だけでなく、父親のことも語っているのが20章の14節です。

私の生まれた日は、のろわれよ。
母が私を産んだその日は、
祝福されるな。
私の父に、
「あなたに男の子が生まれた。」と言って伝え、
彼を大いに喜ばせた人は、のろわれよ。
その人は、主がくつがえして
悔いない町々のようになれ。
朝には彼に叫びを聞かせ、
真昼にはときの声を聞かせよ。
彼は、私が胎内にいるとき、私を殺さず、
私の母を私の墓とせず、
彼女の胎を、永久に
みごもったままにして
おかなかったのだから。
なぜ、私は労苦と苦悩に会うために
胎を出たのか。
私の一生は恥のうちに終わるのか。

と、このように気が狂わんばかりの独白をしています。エレミヤは面倒を起こす男、空気の読めない奴、和を乱す厄介者として国中で有名になってしまいました。仲間外れ、村八分です。エレミヤ書を読むと、彼が繊細な人間だったことが分かります。彼は追い詰められていました。そんな彼も、初めは神の預言者とされ、神の言葉を語ることを喜んでいたのです。今日の聖書箇所の16節にあるように、エレミヤはこう語っています。

私はあなたのみことばを見つけ出し、
それを食べました。
あなたのみことばは、私にとって
楽しみとなり、心の喜びとなりました。

エレミヤは、初めて神様から預言書としての召された時、そしてみことばを与えられた時、大変喜び、神の言葉を貪るように食べ、そしてその言葉を人々に語ったのでした。しかし、人々の反応は冷たいものでした。一生懸命やっても誰にも評価されず、かえって憎まれる、そんな経験をしていくうちに、初めの喜びは消えていきました。また、先ほども言いましたが、神からイスラエルの人たちと通常の社交的な交わりを持つことを禁じられ、孤独に苦しむようになりました。その苦しみをつづったのが17節です。

私は、戯れる者たちの集まりにすわったことも、
こおどりして喜んだこともありません。
私はあなたの御手によって、
ひとりですわっていました。
あなたが憤りで私を満たしたからです。

エレミヤは友もなく、一人ぼっちで座っていました。悲しいだけでなく、怒りすらこみあげてきました。なんで自分ばかりがこんな目に遭うのだ、いったい自分がどんな悪いことをしたというのだ、とふつふつと怒りが込み上げてくるのです。しかも、その怒りの矛先はイスラエルの民ではなく、自分を召し出した神に向かったのでした。エレミヤの神への怒りがストレートに述べられているのが20章の7節以降です。

主よ。あなたが私を惑わしたので、
私はあなたに惑わされました。
あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。
私は一日中、物笑いとなり、
みなが私をあざけります。
私は、語ることに、わめき、
「暴虐だ。暴行だ。」と叫ばなければなりません。
私への主のみことばが、一日中、
そしりとなり、笑いぐさとなるのです。
私は、「主のことばを宣べ伝えまい。
もう主の名で語るまい。」と思いました。
主のみことばは私の心のうちで、
骨の中に閉じ込められて
燃えさかる火のようになり、
私はうちにしまっておくのに
耐えられません。

エレミヤは神に対し、「あなたが私を惑わしたのだ」と文句を言います。これを直訳すると、「あなたは私を誘惑しました」というようなニュアンスになります。まるで結婚詐欺に遭って怒っている人の口調です。神によって騙され、私は物笑いの種になってしまった、と言わんばかりです。神に対してすごいことを言う、と思われるかもしれません。しかしエレミヤは、精神的に追い詰められ、いわゆる切れてしまった状態にあったと言えるでしょう。彼は人々に「暴虐だ。暴行だ」と叫び続けました。その語る内容がそのようなものだっただけでなく、人々に聞いてもらおうとして大声で叫んだということも意味しているのでしょう。しかし、そんなことばかり叫ぶエレミヤのことを周りの人々はただの変人としか見てくれないのです。それで、もうこんなことは止めよう、主のことばを語るのは終わりにしよう、とまで思いつめます。しかし、主のことばを胸の内に閉じ込めようとすると、そのことばは胸の内で燃え始め、エレミヤは苦しくなります。それを外に出さずにはおられないのです。しかし、神のことばを伝えれば、人々を怒らせたり、笑われたり、そんな結果になります。エレミヤはこのどうしようもない負のサイクルにはまり込んでしまったのです。

おそらくエレミヤはこの時、「もうだめだ。こんなことを続けていれば、自分はダメになってしまう。もう神のことばも預言者としての役目も全部やめよう。しょせん自分はそんな器ではなかったのだ。こんなことは止めで、普通の人間として生きて行こう」と思ったのでしょう。神に暴言とも言える言葉を吐いて、神に背を向けていた時期があったように思われます。それは短い時間だったのか、あるいはある程度長い時間だったのかは分かりません。しかし、その心が神と神の与える使命とから離れてしまった時期があったのでしょう。

人間、燃え尽きてしまった時には静かにするしかありません。休息と沈黙、それがエレミヤに必要だったのです。エレミヤの先輩預言者、エリヤにも同じようなことがありました。アハブ王の妻イゼベルから命を狙われ、命からがら逃げ延びたエリヤも燃え尽きてしまいました。その時、神はエリヤを休ませ、静かに自分と向き合う時間を与えました。彼は四十日四十夜、かつてのモーセのようにシナイ山で一人で神と向き合うことで、自らの召命を再確認されたのでした。

エレミヤも、自分の人生の目的を見失い、神すらも見失う、そのような暗い時間を過ごしたはずです。しかし、そのような暗やみの中で、彼は神の恵みを垣間見た瞬間があったのです。エレミヤの20章は絶望的な、真っ暗なエレミヤの独白が続きますが、その中に僅かな光がさすように、主を賛美する言葉が現れるのです。そこをお読みします。13節です。

主に向かって歌い、主をほめたたえよ。
主が貧しい者のいのちを、
悪を行う者どもの手から救い出したからだ。

ここで言われている「貧しい者」とは、単に経済的な貧しさではないように思います。むしろ主イエスが言われた「心の貧しい者」、絶望の余り、すべての希望を失って、神よりほかに頼るものがなくなってしまった者、そんな人でしょう。まさにエレミヤがそうでした。その貧しい私を、神は救い出してくださる、だから主を賛美しよう、そう思えたのです。エレミヤは絶望の淵で、再び主への信頼を見出したのです。エレミヤは、もう一度神に立ち返ろうとします。

そのようなエレミヤに対し、神はこう語りかけました。それが今日のみことばの最後の部分、15章の19節です。

あなたが帰って来るなら、
わたしはあなたを帰らせ、
わたしの前に立たせよう。
もし、あなたが、卑しいことではなく、
尊いことを言うなら、
あなたはわたしの口のようになる。

この神の言葉には厳しさがあります。ここには、放蕩息子の帰りを無条件に受け入れる父のような神のイメージはありません。むしろ、「もしあなたが方向を変えるなら」、すなわち15節から18節までのような卑しい泣き言から離れ、もう一度自分の召しに立ち返ろうというのなら、私はそれを許すという、そんな厳しい響きがあります。なぜならエレミヤは放蕩息子ではなかったからです。神は、神から遠く離れた罪人が帰ってくるのを喜んで迎えられます。しかし、既に神の子とされて、神のために働いている人に対しては、更なる高みを目指すように、背中を押されるのが神なのです。ロシア正教の司祭の方が、「西側の描くイエスは『あなたが泣くなら私も泣こう』というイエスだが、東方正教会のイエスは『泣くのはやめて、私に従ってきなさい』というイエスだ」という話をされているのを聞いたことがあります。確かに、神は、そしてイエスはその両面を持っておられる方です。神は私たちの辛さや悲しみをよく分かってくださる方ですが、同時に私たちを成長させよう、キリストの身の丈まで成長するようにと叱咤激励する神でもあるのです。神はただ私たちを休ませるだけではないのです。私たちを育て上げようと願っておられます。

さて、エレミヤにお話を戻すと、神はエレミヤに「あなたは彼らのところに帰ってはならない」と命じます。エレミヤは神の器なのです。その召しを捨てて、普通の人に戻るわけにはいかないのです。私たちキリスト者も、一度歩み始めた道を引き返すことは出来ません。疲れ果てて、立ち止まることはあるかもしれません。そんなときは休めばよいのです。しかし、元気を取り戻したのなら、再び前を向いて歩み出すべきなのです。

この時、神はエレミヤに彼を初めに召し出した時と同じ言葉を与えました。エレミヤ書1章の最後の言葉と同じ言葉を与えます。すなわち、こう言われました。

わたしはあなたを、この民に対し、
堅固な青銅の城壁とする。
彼らは、あなたと戦っても、勝てない。
わたしがあなたとともにいて、
あなたを救い、あなたを助け出すからだ。

神は、エレミヤを再び召し出されました。この二度目の召命が、具体的にはいつのことだったのか、正確には分かりません。しかし、エレミヤ書を読んでいると、エレミヤという人物の性格が変化していくのを感じます。最初は感受性の強い、ナイーブとも呼びたくなるような面がありましたが、段々と鍛え抜かれた、熟練の預言者、どんな困難にもひるまない、不撓不屈の人物へと変わっていくのです。まさに神は、試練を通してエレミヤを鍛え抜き、神のスポークスマンに相応しい人物へと変えていったのです。また、神はエレミヤを孤独のままにはしておきませんでした。エレミヤには信頼できる盟友が与えられます。エレミヤの言葉を忠実に書き記した書記のバルクのことです。また、中央政府の中にもエレミヤの理解者、庇護者が現れました。シャファンという有力なエルサレムの一門が、エレミヤを助けました。神はエレミヤに必要なものをすべて備えてくださったのです。

3.結論

今日は預言者エレミヤが、自らに課された過酷な召命に耐え切れず、燃え尽きてしまった時のことを学びました。私たちは、エレミヤほどの過酷な要求を神から課されることはないかもしれませんが、しかし自分の仕事や人生に行き詰まる、もうこれ以上進めないと思うような時があるかもしれません。そのような時にどうしたらよいか。私たちがエレミヤから学べることの一つは、その率直さです。神に向かって、あんなことを言ってよいのか、と思うようなことをエレミヤは思い、思うだけでなく口にしました。だからこそ、彼の思いをこのようにして聖書の中で読むことが出来るのです。ですから、私たちも本当に辛い時は、自分の気持ちを隠さずに吐き出すべきです。神に対して祈り、また信頼できる人に語ってよいし、またそうした方がいいのです。語ることで、私たちは癒されます。後で振り返れば、口にしなければよかったと思うような恥ずかしい愚痴でも、話してしまうことで楽になれるなら話すべきです。神様は大きい方ですから、それを受け止めて下さいます。

同時に、神は私たちがいつまでも自分の殻に閉じこもることをお喜びにはなりません。私たちにはなすべきことがあり、それを続けていかなければなりません。十分に休んだなら、また歩き始めるべきです。言うべきことを示されれば、勇気をもって語るべきです。最近、アメリカで黒人差別に抗議するための平和的デモを催涙弾で排除し、そのあとに教会の前で聖書を掲げるという大統領のパフォーマンスに対し、教会の内外から非難の声が上がりました。ニューヨークのクオモ知事は、聖書は掲げるのではなく、読むものだと語りましたが、もっと言えば読むだけでなく、実践すべきものです。しかし、アメリカにも権力に屈しない預言者的スピリットが息づいているのを見てうれしくなりました。私たちも聖書の目指す社会的公正を語り、また実行していきたいと願うものです。私たちは今日も明日も前を向いて歩んで参りましょう。お祈りします。

エレミヤを召し出し、燃え尽きたように思えた彼を再度召し出された神よ、その御名を賛美します。エレミヤの壮絶な人生、耐えがたいような人生をもあなたは支えてくださいました。私たちもそれぞれ課題や困難、試練を抱え込みながら歩む者ですが、どうか私たちの日々の歩みを支えてください。私たちの人生を通じて、あなたが望むことを成し遂げてください。我らの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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エレミヤの召命エレミヤ書1章1~10節 https://domei-nakahara.com/2020/04/26/%e3%82%a8%e3%83%ac%e3%83%9f%e3%83%a4%e3%81%ae%e5%8f%ac%e5%91%bd%e3%82%a8%e3%83%ac%e3%83%9f%e3%83%a4%e6%9b%b81%e7%ab%a01%ef%bd%9e10%e7%af%80/ Sun, 26 Apr 2020 06:54:10 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=332 "エレミヤの召命
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1.序論

みなさま、おはようございます。今日から、エレミヤ書から12回ほど説教をして参りたいと思っています。今日の説教題は「エレミヤの召命」ですが、私が中原キリスト教会でこの1月に初めて説教をした時の説教題は「それぞれの召命」でした。私はこの「召命」ということをとても大切に考えています。前にも話しましたが、「召命」とは聖書に出てくる預言者たち、あるいは今日の教会で宣教活動を担う牧師たち、こうしたいわば特殊な人たちだけのものではありません。すべてのクリスチャンは「召命」を持っている、召されているということを改めて強調したいと思います。「召命」という言葉のギリシャ語の原語は「呼ぶ」ということです。神から召された者とは、神から呼ばれた者です。そして全てのクリスチャンは神から呼ばれたのです。神はなぜ私たちを呼んだのか、といえば、それは私たちに何らかの使命、役割を与えるためです。このことはとても大事なことです。

私たちプロテスタント教会の文化では、いわゆる「証し」をする時に、自分の救いの体験を「召命」として語ることが少ないように思います。私たちは自分がどれほど罪深いのかが分かって、自分で自分を救うことが出来ないという現実に気が付き、そこで十字架に自分の救い、罪の赦しを見出す、このような救いの証しをすることが求められ、こういう救いの証しが出来るようになって初めて一人前のクリスチャンとして認められる、という傾向があるように思います。もちろんそれは間違ってはいません。しかし、「証し」を「召命体験」として、つまり自分は神から何らかの使命を与えられていることに気が付いたという体験として語ることは少ないように思うのです。この点は率直に認めてもよいでしょうし、ここにプロテスタント教会の克服すべき課題がある気がいたします。私たちが信仰者となるということは、神との間に人格的な関係を築くということです。神という方が得体のしれない恐るべき方ということではなくなり、「お父さん」と親しみを込めて呼べる存在になるということです。神と私たちとがこのような関係を築く際に、私たちの罪の問題を取り扱っていただくのはもちろん大切なことです。それと同時に、神が私たちを呼ぶとき、何らかの期待を込めて呼んでおられる、私たちが何らかの使命を、あるいは役割を果たすことを期待して呼んでおられる、ということを忘れてはならないのです。神はこの世界で非常にたくさんのことを成し遂げたいと望んでおられます。私たちはその手足となるべく呼ばれ、召されているのです。ですから「救われる」、「クリスチャンになる」ということは、それまで自分は何のために生きているのかよく分からずに、なんとなく生きてきた、なんとなく世間に恥ずかしくない、人並みの生活をしたい、あわよくば人並み以上の生活がしたい、そんな動機だけで生きてきたけれど、神に呼ばれたことで初めて自分の人生には意味があることが分かった、自分にはある使命が与えられていることが分かった、このような「証し」をすることも出来るし、またそのような証しは周囲の人々を大いに勇気づけるのではないかと思うのです。

今日はこれから「エレミヤの召命」を学びます。このエレミヤの召命を、自分とは何の関係もない、旧約時代の偉人・聖者の話だ、とは思わないで頂きたいのです。むしろ、彼の召命は私たちにとっても他人ごとではない、大いに関係のあるものなのだ、という気持ちを持っていただきたいのです。

2.本文

では、今日与えられたみことばを読んで参りましょう。1章の1節から3節までは、エレミヤの活躍した時代のことがかなり詳しく書いてあります。この情報は重要ですが、まずは4節以降からを見て参りましょう。ここでは二つのことが特に大切です。一つは、エレミヤが召された時、それは突然の召しであり、彼にはその準備ができていなかったこと、それに対して神の側からは周到な準備のもと、まさに相応しい時にエレミヤを呼んだということです。このことは、私たちの召命を考える際にも大事なことです。

エレミヤは神から呼ばれた時に、こう答えました。

ああ、神、主よ。
ご覧のとおり、私はまだ若くて、
どう語っていいかわかりません。

エレミヤは神から召された時に、それを拒もうとしました。自分はまだ若すぎます、私には十分な準備ができていないのです、と理由を述べてその召しを辞退しようとしたのです。では、エレミヤが実際にその時に何歳だったのか、というのははっきりとは分かりません。おそらく二十歳前後だったと思われます。今の日本で言えば、大学生ぐらいの年齢です。エレミヤは祭司の家系にいた人ですが、イスラエルでは、一人前の祭司として働くことができたのは三十歳からでした(民数記4:3)。イエス様も公生涯を三十歳ぐらいから始められました。ですから、まだ二十歳になるかならないか、という年齢では、神様の御用のために働くにはまだ若い、と考えられていました。そこでエレミヤも、「私にはまだ準備ができていないのです」と神の召しを拒もうとしたのです。これは私たちみんなが思う事ではないでしょうか。神様から何か新しいヴィジョン、新しい幻が与えられても、「いや、私にはそんな大きなことをする力はありません。準備も出来ていません。もっと相応しい方がいるはずです」とひるんでしまうのです。しかし、忘れてはならないのは、ことを成し遂げてくださるのは私ではなく、主だ、ということです。主が新しいことをなさろうとし、私たちはそこに巻き込まれていくのです。私たちに準備はできていなくても、神が私たちを整えて、その働きをなす力を与えてくださるのです。ですから私たちは自分の召しを考える時に、自分の能力や力量ばかりに目を向けてはいけません。むしろそんな小さな私であることを十分ご存知の神が私を呼んだからには、きっとできるのだ、成し遂げる力を与えてくださるのだ、と神に信頼すべきなのです。

エレミヤに対しても、主は非常に力強い言葉を与えられました。「まだ若い、と言うな」と主は言われます。なぜなら「わたしはあなたとともにいる」からだ、と主は言われました。たしかにエレミヤ一人では無理でも、神が共におられるならできるのです。エレミヤはこれから自分より人生経験もあり、地位も高い人たちに向かって、神の預言者として非常に厳しいメッセージを伝えなければなりません。「この若造が、何を生意気な」という反応が当然返ってきます。しかし、ひるんではならないのです、なぜならそれはエレミヤ個人の意見や思いではなく、主のことばだからです。主のことばには権威があります。力があります。エレミヤはそれをまっすぐに伝えるだけなのです。

さて、このように、エレミヤの意識の中では自分が召された時にはまだ準備ができていませんでした。しかし、神の側からは準備ができていないどころか、まさにそのタイミングしかない、という「時」を選んでエレミヤを呼んだのです。預言者エレミヤの特徴として、そのキャリアが非常に長いことが挙げられます。彼は40年もの間、預言者として活動しました。神はこのように息の長い預言者としてエレミヤを召し、育て上げる決心をしておられました。ですから、まだエレミヤはまだ若く、訓練を積んでいない段階で召されたのですが、神の側ではそれはまったく問題がないだけでなく、むしろ必要なことでした。「鉄は熱いうちに打て」という言葉があるように、まだナイーブさを残すエレミヤを試練を通じて鍛え上げ、熟練した神のスポークスマンにまで成長させるには、彼がいろいろなことを柔軟に吸収できる若い段階で呼ぶ必要があったのです。神には、エレミヤをどのような預言者に育て上げるのかについて、はっきりとしたヴィジョンがあったのです。つまり神は、たとえるならば指導方針・育成方針の明確な、非常に優れたコーチであるということです。

まだ、エレミヤ個人の事情を超えた、時代背景も重要です。先ほども述べましたが、エレミヤ書の冒頭には彼が活躍したのはどんな時代なのか、その情報がかなり詳しく書かれています。特に、エレミヤの預言者としてのキャリアがいつ終わるのかを明確に述べていることに注目しましょう。彼は、イスラエルの歴史の中でも極めて重要な瞬間にその預言者としての役割を終えるように定められた預言者だったのです。その時はいつか、といえば「エルサレムの民の捕囚の時」までです。いわゆる世にいう「バビロン捕囚」の時まで、エレミヤは預言者として働き続けたのです。バビロン捕囚とは、つまり国家の滅亡、ということです。約束の地に住んでいたイスラエルの民は、その地に住み続けることが許されなくなり、さらに重要なのは、神の家であり、唯一の礼拝の場であるエルサレム神殿を失ってしまったことです。このことは神とイスラエル民族との関係が壊れてしまったことを示します。神を礼拝したくでも、礼拝する場所がなくなってしまうからです。このイスラエル民族の悲劇的瞬間に立ち会うように召されたのがエレミヤだったのです。エレミヤは40年間の預言者としての歩みの中で、5人のイスラエルの王に仕えます。しかもそのうちの二人の王は、僅か数か月王位にあっただけでその地位を追われるという非常に短命な王でした。このことから見ても、エレミヤの活躍した時代、彼が生きた南ユダ王国の政治情勢は極めて不安定だったことが分かります。このような不安な時代、人々は確かな指導者、リーダーを求めます。どこに進むべきかを示してくれる指導者を切実に必要とするのです。本来なら王様がその役目を果たすべきですが、王は次々と入れ替わり、その役目を果たすことができません。その時に、霊的指導者のみならず、政治的な方向性をも人々に示す役割を与えられたのがエレミヤだったのです。エレミヤは国家の滅亡の預言をすることで、人々に来るべき悲劇への備えをさせ、同時にその悲劇の先にある希望を指し示すことで、人々の神への信仰が消えることなく、かえってこの悲劇を通じてそれが強められるように人々を鼓舞する役目を負っていました。

このように、イスラエルの歴史において非常に重要な局面で預言者として召されたエレミヤでしたが、神はその無限の知恵と配慮によって、エレミヤが生まれる前から彼を預言者として立てることを決めておられました。主はこう言われました。

わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、
あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、
あなたを国々の預言者と定めていた。

こう言われて、エレミヤはさぞびっくりしたことでしょう。神は私のことを、生まれる前から知っておられるとは!しかも、母のお腹から出る前に、すでに聖別していたというのです。イースター礼拝でもお話ししましたが、聖書では「聖別」ということは「派遣」と深くかかわっています。エレミヤは生まれる前から神によって選ばれ、イスラエルに派遣されることが決まっていたというのです。生まれる前からということは、エレミヤの意志とは全く関係なく、神によって彼の生涯の目的が定められていた、ということです。人によっては、生まれる前から親が将来の職業を決めていた、というようなことがあるかもしれません。しかし、いくら親が決めても本人が嫌な場合は、その通りにはならないことの方が現代では多いでしょう。しかし、では神様が決めていたらどうなのか?親には逆らえても神様には逆らえないでしょう。ここで注目すべきは、エレミヤは「イスラエルの預言者」ではなく、「国々の預言者」と言われていることです。確かにエレミヤは主にイスラエルの人々に対して預言しましたが、エレミヤの語る預言はイスラエルの南ユダ王国のみならず、周辺諸国のことも含んでいました。このことは、神はイスラエルの神であるだけでなく、すべての国々の神でもある、唯一の神だということを示しているのです。

エレミヤが神から召命を受けた時、彼がどのようなヴィジョンを受けたのかはわかりません。しかし、エレミヤは主が自分の口に触れた、と言っているので、栄光の主が自分の前に現れて自分に触れるという体験をしたのかもしれません。預言者イザヤのように、人が畏怖するような圧倒的な神のご臨在を感じ、その神から言葉を与えられたのでした。こういう聖なる体験というのは、やはりごく限られた、神から重大な任務を与えられる人だけの体験かもしれません。私たちも、むやみに神秘的な体験を追い求めるべきではないと思います。それは私たちが願い求めたから得られるようなものではなく、神御自身の主権によって与えられるものだからです。しかし、それでも聖なる神との出会いを求めて、私たちはたまには忙しい日常を離れて、神との個人的な交わりを持つ静かな時を持つようにしたいと願わされます。

さて、エレミヤの口に触れた神はこう言われました。

今、わたしのことばをあなたに授けた。

預言者とは自分の言葉ではなく、神の言葉を語るのです。神ご自身が預言者の口に言葉を授けるからです。神の言葉を預かっているのです。ですからそこに何かをつけ加えても、省いてもいけません。ありのままに語るのです。では、誰に対して語るのか?神はこう仰せられました。

見よ。わたしは、きょう、
あなたを諸国の民と王国の上に任命し、
あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、
あるいは滅ぼし、あるいはこわし、
あるいは建て、また植えさせる。

主の言葉には力があります。神は預言者イザヤを通じてこうも言われました。

わたしの口から出るわたしのことばも、
むなしく、わたしのところに帰っては来ない。
必ず、わたしの望む事を成し遂げ、
わたしの言い送った事を成功させる。
(イザヤ55:11)

神の言葉はこのようにただ語られるだけでなく、語られたことを実現する力を持っています。ですからその言葉を預かる預言者エレミヤの権威は諸国の王よりも高いのです。諸国の栄枯盛衰は、神の言葉によって定められるのです。歴史の真の支配者である神は、イスラエルだけでなく、諸民族、諸王国の命運をも司っておられます。その神が、自らの権威をエレミヤに委ねたのです。エレミヤは神からの言葉をまっすぐに諸民族に語らなければならないのです。

3.結論

エレミヤが預言者として活動を始めた時の国際情勢は混とんとしていました。それはどこか今日の国際情勢と似ています。今日の世界で皆が感じているのはアメリカの覇権の揺らぎでしょう。20世紀後半にはソビエト連邦との冷戦に勝ち、アメリカは世界で唯一の超大国になりました。また、アメリカ型の資本主義が世界を席巻しました。しかし、そのアメリカも同時多発テロ以降のかなり身勝手な行動や、今日ではトランプ政権に代表されるような自国第一主義に眉をひそめる人も少なくないでしょう。しかも、今や中国が台頭し、アメリカの覇権を様々な面で脅かしています。ヨーロッパでもイギリスのEU離脱や、コロナ問題による国境警備の強化など、ヨーロッパがどうなっていくのか、分からなくなってきました。今は先の読めない時代です。そして、エレミヤが活動を始めたのも、まさにそのような時期でした。エレミヤが預言を始める前の100年間はアッシリア帝国の黄金時代でした。ちょうど100年ほど間にユダ王国の兄弟国である北イスラエル王国を滅ぼし、南ユダ王国に対しても壊滅的と思えるほどの打撃を与えました。しかし、アッシュールバナパルというアッシリア帝国の偉大な王が死ぬと、その国力は急速に衰退していきました。このアッシュールバナパルが死んだ紀元前627年こそが、まさにエレミヤの召命の年でした。同時に、この頃からバビロンが急速に勢力を増していくのです。バビロンはエレミヤが召された翌年にアッシリアから独立を果たし、逆にアッシリアを圧倒していきます。覇権国が交代する時には大きな混乱が生じますが、エレミヤはそのような時期に活躍したのです。翻って今日の事を考えれば、果たしてアメリカは衰退していくのか、それともその覇権は続くのか、私たちには分かりません。しかし、私たちは神に召された者として、このような時にこそ右往左往せずに、神の前に何が正しいのか、何をなすべきなのかを私たちは考えなければなりません。自分に神から与えられた使命とは何なのかを考えなければなりません。

では、私たちに与えられている召命とは何でしょうか?すべてのキリスト者に与えられている召命とは、真の神を礼拝することです。神は霊とまことをもって礼拝する人々を求めておられるからです。ですから、この不安な時代にあって、礼拝を大切にしましょう。礼拝をすること自体が、人々への証しとなるからです。それは必ず礼拝堂に集まって、ということではありません。様々な事情があるのですから、それぞれが自分の信仰に基づいて、礼拝の時と場所を定めればよいのです。預言者ダニエルはバビロンにいたときには、エルサレムを向いて自宅で礼拝を献げていました。しかし、場所は離れていても、私たちの霊は一つにつながっています。また、私たちにはそれぞれ独自の召命、役割も与えられています。体の各部分が異なるように、各人に与えられた役目も違います。自分が出来ることを精一杯果たして参りましょう。まだ若く、経験もなかったエレミヤも神に召され、その働きを続ける中で熟練した預言者となっていきました。私たちも神のために働く中で成長していくのです。それには年齢は関係ありません。アブラハムは後期高齢者の年齢である75歳を超えてから召されてカナンの地に行きましたが、彼が召しに応えたおかげで今日の私たちがあるのです。私たちもまた、召しに応えて今週も歩んで参りましょう。

お祈りします。

天地万物の創造主にして、諸国民の歴史を導き、支配しておられる万軍の主よ。その御名を賛美いたします。緊迫した状況が続く中、健康が守られ、このように礼拝を献げることのできる幸いを感謝いたします。今日からあなたが召されたエレミヤについて学んでまいります。あなたがエレミヤにしてくださったように、私たち一人一人についてもその名を呼んで、召してくださったことに感謝します。どうかその召しにふさわしく歩む力を与えたまえ。今週も日々の生活を守り、導いてください。われらの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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