役員の証し

家庭礼拝から中原キリスト教会へ」 村山 唯一

「あなたの父と母を敬え」モーセによる主の十戒から中原キリスト教会の働きを述べたいと思います。

父(宏平兄)と母(タヤ姉)は、新潟県のキリスト教会で昭和27年頃ともに、バプテスマを受けました。同盟基督教団派遣、宣教師ストローム夫妻と共に信仰生活を深めあい、研鑽されていました。      

昭和29年 村山宏平&小海タヤの結婚、主に啓示されて。早速昭和30年には、東京・お茶の水学生キリスト教会館の管理棟にて暮らし、宣教師住宅、小教会建設に従事。村山宏平は(建設業三代目)新潟県十日町市で修業。

私(村山唯一)は1955年6月10日順天堂医院で産湯に浸り、翌年10月には弟の、信次も生まれ、1959年頃までお茶の水で暮らしていました。そこから家族と大工さんたちと、仮小屋(はんば)を建てあちらこちらの土地に、教会堂、バイブルキャンプ場、宣教師住宅建築に携わっていました。

昭和36年三鷹市中原の地に、故郷の村山家所有の山林木材(幼なじみで信徒の藤田木材で製材、運搬)で住宅を、父自ら手でコツコツと建築、未完成でしたが大工さん達と一緒に引っ越し安住しました。この時点で父宏平は、〔家督放棄〕したそうです。「長男の親戚付き合いも放棄」。

その頃からストローム宣教師家族(同じ年頃の双子兄弟とも)と頻繁に交流がありました。             

妹の聖子(次女)が生まれた頃から、家族礼拝(かはい)毎日夕食後、父と母と4人の子ども揃って、聖書を開き各1章を1節ずつ読み(輪読)お祈りを捧げた後に、デザートを食すのが日課でした。毎日曜日は家族で自家用車に乗って、中野教会の主日礼拝に通っていました。子供たちは、讃美歌を歌ってから、牧師先生の説教の時には外で遊んでいました。僕ら兄弟も小4・5年頃から、落ち着かなくなったので、中野教会には行かず、家の近所の3教会(しおん、使途キリスト、バプテスト)の日曜学校へふたりで、おこずかい(献金)を持たされ通っていました。

ところが、行く先々で「あなた達兄弟は来ないで良いです」と、教師さん達の言葉。聖書のお話し中に「大きな声でチャチャ」をいれるので教師さんたちは、ご立腹のようでした。

宏平さんタヤさん共に熱心な信徒で、初代コリント教会の働き人、アクラとプリスキラ夫婦(天幕作り)の様に良き奉仕者でした。

中原伝道所として、中野教会の役員、青年会及びTEAM宣教師の方々の支援応援で、天幕伝道(2度開催)8ミリ映写機による伝道映画鑑賞会・・。 家庭集会(礼拝)など経て、牧会が始まる。日曜学校でも、妹の愛子筆頭に、近所の小さい子から25名以上子供たちの参加(クリスマス会には沢山のプレゼント)。 その頃、私たちは(唯一&信次兄弟)青年会の薦めもあって、夏の松原湖バイブルキャンプ場の、小学生(高学年)中学生夏のキャンプに、連続参加、冬スケートも(計3回)参加していました。年子の兄弟は双子の様に,何をするにも何処へ行方にも、元気に出かけていました。

その松原湖バイブルキャンプ場でのこと、最初のうちは走り回っての遊び中心でしたが、中一の(夏のキャンプ)でのこと、私の中学校生活では、何となく・孤独感・を感じていたのでしょう「物事をもっと真面目に」考えようと、キャンプ礼拝では、牧師先生の説教も真剣に聞き。讃美歌も心を込めて歌っていました。 

自由時間にひとりで、ひと気のない山道を散歩している時、何故か急に、〔しあわせな爽快感〕に包まれて空を見上げて、「イエス様は私の救い主です。」とつぶやき祈りました。そうして唯一少年は翌年の春、中野教会で故松田牧師先生の、司式でバプテスマを授かりました。父と母はおおいに喜んでいたと記憶しています。この年から多分?伝道所から正式に「中原キリスト教会」が始まったと思います。                

昭和44年頃には、中野教会の木下師、松田師、各宣教師の方々に牧して頂き、主日礼拝を。村山宏平氏の事務所を日曜日に開放しての主日礼拝でした。

私は受洗後、高校一年生の冬ごろまでは、まあまあ品行方正に新聞配達などのしながら過ごしていました、夢中になる趣味があった。

しかしながら、少年時代を過ぎて、何かと心奪われ、主日礼拝にも出席しないようになり、その後のことは恥ずかしくて、語れません。

あなたの父と母を敬え。今日こうして中原キリスト教会に、微力ながら自分の出来うる奉仕活動を、続けられていられるのは、宏平さん、タヤさんの、父と母の訓戒の贈りものと、感謝。

いつ何時も、師匠であり友である『イエスさま』と『父なる神様』と『みたま』とともに、歩んで行きます。 アーメン



「証(あかし)」 森田 俊隆

証(あかし)というのは自分が、主イエスの証人となるに至った「出来事」を述べることだろうと思います。ここでは、その入り口の話であり、私が、どうして聖書を読むようになり、教会に通うこととなったかの経緯についてお話し、します。

私は、所謂(いわゆる)「大学紛争」の世代です。3年生になる前に「将来は大学に残ろう」と決め、法学の勉強を、腰をいれて勉強し始めました。専攻は行政法、なかでも土地法です。4年を卒業したら、室蘭の実家に経済的負担をかける訳にはいかない、と思いましたので、大学付属の社会科学研究所の助手に応募することにしました。助手論文を提出しましたが、不合格になりました。審査担当の教授の一人から、「今回は昨年応募して不合格だった人が採用になったけれど、もう一度来年、挑戦すれば十分可能性ありますよ」というおだて(?)にのって、1年留年して翌年、再挑戦することにしました。(結果的には、学部からの助手採用そのものが停止になってしまいました。)

そうしているうちに東大闘争が始まりました。そしてあの安田講堂事件が起きました。1969年1月19日です。大学4年の時です。私の下宿は正門のすぐ前にあり、学生運動の学生がよく転がり込んで泊まっていました。安田講堂に泊まり込んでいた人間のなかにも友人が数人いました。そしてこの朝、目が覚めると下宿の通りが機動隊に占拠されていて、大学に入ることはできなくなっていました。安田講堂攻防戦といわれる事件です。

このあと私の精神的迷走がはじまりました。安田講堂にいて警察に捕まった友人に対する申し訳なさ、大学に対する期待感の崩壊、助手応募論文の執筆に関する自信喪失、両親の期待に応えられそうにない焦燥感、勉強していることに対する興味の喪失、等々です。その4月からは妹が東京学芸大学に入学していましたので、小金井の方に安い下宿を借り、2人で生活していました。私の方はあちこちふらふらでかけて、なにか興味のわくことはないか、と探し回ったり、知り合いの人のところに行って、相談を持ち掛けたりしました。「気分転換で運動をしたら良い」とか、「法律の勉強とは関係ないことをしたら良い」とか言われましたが役に立ちませんでした。頭の中は、いろんなことが巡りめくるだけで何の結論も得られません。俗にいうノイローゼというものです。しかし、これが嵩じてきて、活字は目で追っているだけで、内容は全く理解できない事態になりました。そして寝られず慢性的睡眠不足です。この調子で生きていてもしょうがないので、電車に飛び込もう、とも思いましたが、その勇気もわかず、やめて下宿に帰る、というようなことも数度ありました、ちょっと死ねるかどうかわからないけど紐で首を絞めてみよう、としていたら妹に見つかって、止められたり、ということもありました。妹が「とにかく、どこか病院に行ってちょうだい」と言うものですから、大学の構内にある学生診療所というところにふらふらと行きました。すると精神神経科の先生が、ちょっと話してすぐ、「入院してもらいます。ご両親の家の電話は?」と聞きますので、答えると、その場で電話して入院が決まってしまいました。私はそのまま精神神経科病棟に直行です。すぐ両親が室蘭から来て、数日、東京に居たと思います。私は睡眠薬を飲まされて、寝ていました。目がさめると母親が居て、2日くらいずっと寝ていた、と言っていました。

病名は「うつ病」ということでした。精神神経科ですから、世の中の一般の人からみると「おかしな人」ばかりでした。しかし、本当に、心は純粋です。純粋すぎて、世の中で普通に生活していけなくなったのです。私は、そんな中で、信頼のおけるお医者に恵まれたこともあり、少しずつ落ち着きを取り戻していきました。しかし、活字が読めない、のは変わりません。ある時、同室のNさん、という方が「聖書」を読む気、ありませんか、と声をかけてきました。その方は、35歳くらいの弁護士の方で、友人と一緒に法律事務所を開いていました。病院から事務所に行く途中、沢山の人がいるところに行くと恐怖感を覚え、事務所にいけなくなり、帰ってくる、という生活をしていました。そしてこの方はカソリックのクリスチャンということでした。この時、彼は、入院中であり、教会に行ってはいませんでした。

私は「聖書」を読むように勧められたので、大学生協で口語訳「聖書」を買ってきて、読もうとしました。無理に決まっています。新聞だって読むのが無理だったのですから。やっぱりだめだ、と思っていた時、ある時、詩編を見ました。どの詩編だったかわかりませんが、何と意味のわかる単語が時々あるのです。文章としては理解できませんでしたが、単語としては解るのです。内容はさっぱり分かりませんが、とにかく言葉としてわかるのですから大変な救いです。詩編以外はまるでだめでした。この時、聖書・詩編により助かった、という気持ちが強く心に残りました。それから、症状も良くなっていき、聖書の他の個所もぼちぼち読みました。その時の印象では新約聖書は訓示っぽくて嫌い、旧約聖書は背景がさっぱり分かりませんので言っていることの意味は解らず、でした。いやに戦争の話が沢山あるな、というくらいの印象でした。

6か月くらいの入院で無事退院しました。その後、就職活動をし、東京銀行に内定し、生け花「草月」編集部でアルバイトし生活費を稼ぎ、「聖書」一冊を持って出かけた香港・台湾へのヒッピー旅行、高校時代に、英語教室で少し通った教会の牧師に紹介され、中野教会に行くようになり、1971年5月30日のペンテコステ礼拝の時、受洗しました。そして7月1日に東京銀行銀座支店に入行しました。

証(あかし)になっているのかどうかはわかりません。しかし、死に向かっていた自分がなんとか前向きに生きていくことができるようになったのには、「聖書・詩編」のきっかけと、自分には説明がつかない、導きがあったものと今は、信じることができます。



「神様の御心と信じ」 嶋田 浩一

私たち夫婦は、調布の国領という町で『放課後等デイサービス ちょうふの風』という福祉施設を運営しております。

この施設は、普段は支援学校に通う知的障害のある児童(小1生~高3生)を下校時に学校までお迎えに行き、色々な活動や遊びを通じて社会性を身に着ける為のサポートをするというのが主な活動内容です。

こちらの教会の多くの兄弟姉妹には役員や会員として支えていただき、また村山洋子姉妹と藤田愛子姉妹には指導員として直接活動にも関わっていただいております。

開所から丸6年が過ぎ、今では児童数は36名、スタッフは私たち夫婦そして村山姉妹、藤田姉妹を入れて18名でやっております。

何故この活動を始めるようになったのか?敢えてきっかけを挙げるとすれば、やはりがんを患ったことでしょうか。

もう9年程前になりますが、直腸がんを患いました。

元々3週間ほどで退院の予定だったのですが、手術当日の深夜に腸のつなぎ目が破裂して危篤となり、何とか目を覚ました時には別室に移され回りを見ると家族も呼び出されていたほどだったのでかなり危なかったのだと思います。

翌朝もう一度再手術となり、その後3カ月を超える入院生活を強いられました。

おまけにお腹には人工肛門も付いていて、それから約1年弱それと付き合っていくことになります。

退院してから復帰した職場は、やはり私にとって大きく景色が変わりました。

当時は役員になってから3~4年目の時で、多分一番脂ののっていた時期だったと思うのですが、退院してからはその仕事上の支え(立場)を失うことになってしまったのです。

会社での私の所属は営業部門を担当していて、ほとんど毎日、お酒にカラオケ・麻雀で深夜近くまで、そして週末は決まってゴルフや釣りに駆り出される正に接待接待の毎日でしたが、その全てが人工肛門の私の身体では「もうできないこと」になってしまったのです。

周りの上司や同僚そして部下たちは、勿論直接的な事を言ってくるわけではありません。

しかし自分の中では「この会社での自分は、もう今までの自分ではない。」ということは分かっていて、毎日精神的にも苦しい日々を過ごすことになります。

でもやはり、そんな苦しい時にこそ神様はちゃんと新しい道をご準備くださいます。

先ず約3か月の入院中、これまで何度も挫折した『聖書の通読』を達成することができました。また退院後のリハビリ中、木曜日の祈祷会にも参加させて頂き、私にとっては教会の存在をぐっと身近に感じることのできる良い機会となりました。

更に職場復帰後、接待接待の毎日から解放され毎週礼拝にも参加できるようになり、ちょうどそのころに教会学校の教師のご奉仕にも就かせていただき、私の生活の『軸足』が着実に【教会】そして【お祈り】の方へと移っていっていく実感を得てくるようになりました。

結局、その後2年間で何度かの手術と入退院を繰り返し、それに伴って仕事も軽勤務になったこともあって、漠然と“自分と家族の将来”を思った時「どうせ一度は無くしかけた命だ。残りの人生は、何か人の役に立つ仕事ができないだろうか!」という気持ちが日に日に募り、とにかく毎日毎日祈りました。

そんなある時に示されたみ言葉が、受洗の際に頂いた聖句『ヨシュア記1章9節:強くあれ。

雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。』でした。

妻(リンさん)からも「きっと神様からの導きだよ。」と支えられ、夫婦2人で『NPO法人ちょうふの風』を立ち上げるに至ります。

今では毎日、通ってくる子ども達の笑顔に囲まれ、また保護者の皆さんからも「ありがとう」の言葉をいっぱい頂けて、心から幸せを感じる毎日を過ごしております。

これからも、神様から導かれた【今この時】を大切にし、そしてまた神様からお示しいただいた【ご計画】に沿って、夫婦2人まっすぐに歩んでまいりたいと思っております。