詩篇 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 調布 深大寺のプロテスタント教会 Sun, 07 Dec 2025 04:22:48 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.3.20 https://domei-nakahara.com/wp-content/uploads/2020/03/cropped-favicon-32x32.png 詩篇 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 32 32 賛歌詩篇40篇1~17節 https://domei-nakahara.com/2025/12/07/%e8%b3%9b%e6%ad%8c%e8%a9%a9%e7%af%8740%e7%af%871%ef%bd%9e17%e7%af%80/ Sun, 07 Dec 2025 00:43:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6943 "賛歌
詩篇40篇1~17節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。アドベント第二週になりました。今日は詩篇からみことばを取り次ぎます。私が当教会にお仕えするようになって六年になりますが、驚くことに詩篇からの説教は今回が初めてになります。いつも交読文で詩篇を読んでいるので、意外に思われるかもしれませんが、説教で話すのはこれが最初になります。詩篇というと、先月天に召された森田兄弟が大変愛しておられ、詩篇からの奨励をなさっていたことを懐かしく思い出します。

さて、今回は詩篇40編からの説教になります。この詩篇40編というのは私にとっても非常に思い入れのある詩篇です。といいますのも、私の思い出話をして恐縮ですが、はるか昔、私が高校生だった時に、大好きだったロックバンドがいました。今ではロックはほとんど聞かなくなりましたが、高校生の頃はいくつか好きなバンドがあって、よく聞いていました。そのバンドが、皆さんも名前ぐらいは聞いたことがあると思いますが、U2というバンドです。世界最高峰の賞であるグラミー賞を22回も獲得しているという、ロックの歴史に残るバンドの一つです。ある時期から、いくつかの理由で私はこのバンドへの興味を失ってしまったのですが、高校生の頃は大好きでした。彼らがライブで最後に歌う曲が「40(フォーティー)」という曲なのですが、何の四〇かというと、まさに詩篇40編で、詩篇40編の1節から3節までに曲を付けたという、クラシック音楽ならいざ知らず、ロックミュージックでは大変珍しい曲です。私はこの曲から初めて詩篇40編を知り、それからこの詩篇は私の愛唱聖句になりました。

この詩篇40編の聖句は新約聖書にも引用されていますので、アドベントにふさわしい箇所ではないかとも思いました。では、さっそく詩篇40編を読んで参りましょう。

2.本論

さて、この詩篇は伝統的にはダビデ王の書いたものとされ、タイトルにも「ダビデの賛歌」と書かれています。ダビデがサウル王に命を狙われていたとき、あるいは息子であるアブシャロムの反乱でエルサレムから逃げ延びた時の作品とされています。私たちはずっとサムエル記を学んできたので、なじみ深い話です。しかし、詩篇にある多くの歌はダビデ作とされていますが、実際は少なからぬ作品は後世の人がダビデの名前で書いたものだとされています。旧約聖書にはダビデ作、あるいは彼の息子のソロモン作という作品が大変多いのですが、実際は詠み人知らずの作品が、後に時代にダビデ作とされたことが少なくないということです。ですから、この詩篇についても著者は誰なのかということはあまり考えずに、内容そのものにフォーカスしたいと思います。

この詩篇は大きく三つの部分に分けられます。最初は1節から5節までで、作者の個人的な感謝の気持ちが詠われています。苦境にあった作者が助け出されたことを神に感謝するという内容です。今日の説教タイトルにあるように、まさに「賛歌」、神に感謝し、賛美する歌です。そして6節から10節までは、礼拝について書かれています。神はいけにえを求めない、ということが書かれています。神学的な内容と言えるでしょう。そして11節から17節までは、救いを求める嘆願の歌になっています。最初に苦境から救い出された感謝があるのに、最後は苦境から救ってくださいという嘆願になっているというのはおかしいと思われるかもしれません。最後にもう一度、救われたことを感謝するくだりがあれば、私たちも安心できると言いますか、ハッピーエンドで気持ちよく終われるのですが、なんだか尻切れトンボで終わってしまう印象を受けます。これは、この詩篇がもともと別々の機会に歌われた歌だったものを、後で編集して一つのものにまとめたという可能性を示唆します。つまり、救いを求める嘆願の歌がまずあり、それに救いを感謝する賛歌が加えられ、さらに礼拝についての考察の歌がそこに加わり、一つにまとめたのではないかということです。これについては確かなことは言えませんが、聖書は長い時間をかけて編集された文書なので、そういうこともありうるということです。ですから、ここでは思い切ってこの詩篇40編を再構成したいと思います。順番をさかさまにして、最初に救いを求める部分、次いで救われたことを感謝する部分というように読んでいくのです。具体的にはまず11節から17節までを読み、それから1節に戻って読んでみるということをしたいと思います。

まず、詩篇の著者は自分の苦境を正直に神に申し上げています。「数えきれないほどのわざわいが私を取り囲み」と、苦しい胸の内を打ち明けています。

それで13節ですが、「主よ。どうかみこころによって私を救い出してください。主よ。急いで、私を助けてください」という一文から始まります。詩篇にはこのような救いを求める歌がたくさんありますが、ここもその典型です。次いで作者は、自分を辱めるものを神が辱めてくださいますように、と祈ります。

私のいのちを求め、滅ぼそうとする者どもが、みな恥を見、はずかしめを受けますように。私のわざわいを喜ぶ者どもが退き、卑しめられますように。

こういう復讐を求める歌は、多くのクリスチャンをつまずかせてきました。イエス様は「敵を愛しなさい。迫害する者のために祈りなさい」と教えられたのに、ここまで赤裸々に敵の辱めや破滅を神に願ってよいのか、と思われるかもしれません。しかし、私たち人間は神ではなく人です。自分にひどいことをする人のことを怒るというのは人間としては当たり前の感情で、そういう気持ちがなくなってしまったらもはや私たちは人間とは言えません。もちろん私たちには理性というものがありますから、そういった怒りに満ちた自分を抑えようとする働きも持っています。私たちはたとえ相手に腹を立てても、一呼吸おいて冷静になろうとします。とはいえ、詩文学というのはそういう理性的な自分だけでなく、ありのままの自分をさらけ出す文学形式です。本音をぶつけるのが詩文学だと言えます。だからこそ、それを聞く私たちも共感できるのです。きれいごとではすまない赤裸々な人間、それをありのままに表明するのが詩文学なのです。復讐の思いを乗り越えるには、まず初めに自分の中にはそのような思いがあるのを認める必要があります。それを吐き出す必要があります。そして初めて人は冷静に自分を見つめることができるのです。そういう意味で、ここで詩篇の作者が自分の気持ちをありのままに書いていることは素晴らしいことだと思います。預言者エレミヤも、同じようなことを述べています。エレミヤも、自分を殺そうとする者に怒り、彼らに復讐してくださいと神に祈ります。エレミヤ書18章23節をお読みします。

しかし、主よ。あなたは、私を殺そうとする彼らの計画をご存じです。彼らの咎をおおわず、彼らの罪を御前からぬぐい去らないでください。彼らを御前で打ち倒し、あなたの御怒りの時に、彼らを罰してください。

このように、エレミヤも激しい復讐の祈りをしています。私はこういう祈りが正しいと言いたいわけではありません。エレミヤも、こういう復讐を求める気持ちから抜け出して、さらに預言者として成長していったのを見ることができます。しかし、繰り返しますが人間であればこういう思いを持つのは自然なことだし、自分のこころにそのような思いがあるのを認めることは大切なことです。認めたうえで、私たちはそういう気持ちを取り扱い、乗り越えることができるからです。

さて、詩篇に戻りますが、16節では今度は主を求める人ヘの祝福を求める祈りが続きます。

あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「主をあがめよう」と、いつも言いますように。

私たちが主を求めるのは、究極的には敵を罰してほしいからでも裁いてほしいからでもなく、私たち自身が喜ぶためです。もし私たちが本当に幸せなら、敵に対してですら優しい気持ちを持てるでしょう。自分が幸せだと、苦しんでいる人を見ると辛くなります。自分が不幸だと、人も自分のレベルに引きずり下ろそうとしますが、自分が幸せなら、周りの人も幸せになってほしいと願うものです。ですから、敵に対する復讐心を乗り越えようと思うのなら、まずは自分自身が幸せになるということが必要になってきます。そこで、詩篇の記者は自分を泥沼から救い出して、幸いを見させてくださいと願います。それが17節です。

私は悩む者、貧しい者です。主よ。私を顧みてください。あなたは私の助け、私を助け出す方。わが神よ。遅れないでください。

この救いを求める熱烈な祈り、その祈りが応えられた結果が1節の「賛歌」なのです。

私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は私のほうに身を傾け、私の叫びを聞き、私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。

この詩篇の作者は、自分が滅びの穴、泥沼にいたと述べています。それが具体的にはどんな状態なのか、私たちには分かりません。この詩篇がダビデ王の書いたものならば、サウル王に命を狙われていたことを指しているのか、あるいは息子のアブシャロムに王位を狙われていたことを指すのか、どちらかである可能性が高いでしょう。けれども、これがダビデの作品ではないのならば、作者がどのような苦境にいたのか、私たちには分かりません。しかし、それでもいいでしょう。なぜなら私たちは自分自身の苦境をそこに重ね合わせることができるからです。私たちも人生において大変暗い時期、辛い時期を歩むことがあるわけですが、この著者も自分と同じような経験をしたのだろうと共感することができます。ともかくも、この詩篇の著者は、自分が滅んでしまうかもしれないと思うほどの辛い経験をし、その悲惨な状態から抜け出すことができ、さらには自分が泥沼ではなく巌、つまり非常に確かな土台に立つことができたと感じていたのです。皆さんにはそういう経験があるでしょうか。私も自分自身の人生を振り返ると、確かにそういうことがあったと思います。ここで私の個人的な経験を話すと説教ではなく証しになってしまうので、今は話すことはしませんが、こうした経験をした後に私の心に残されたのは神への賛美でした。神に感謝の気持ちを伝えたいのです。そのような気持ちをこの詩篇の作者も抱いたのです。それが3節です。美しい一節です。

主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。

このように、この1節から3節まではまさに詩篇の白眉ともいえる箇所で、本当に素晴らしい、美しい箇所だと思います。4節、5節も同じ内容が続きます。

さて、しかし6節からは内容が大きく変わります。私たちは神に感謝の思いを抱くとき、それを形にしたいと思います。それはちょうど、人間関係において大変お世話になった人に対して、なにか贈り物をしたいと思うのと同じです。「ありがとう」の気持ちを贈り物に込めたいということです。古代の人々は、神に感謝の献げものをしました。ここで使われている「いけにえ」という言葉のヘブライ語はザバーとかオラーという言葉ですが、新約聖書にも出てくる言葉には「コルバン」という言葉もあります。このコルバンはあらゆる種類の神への献げものを意味するような包括的な言葉ですが、それは「贈り物」とかギフトと訳したほうがニュアンスが伝わるように思います。いけにえ、というと何かおどろおどろしい響きがありますが、ギフトというともっと明るい感じがしますよね。6節で言われている「いけにえ」は、みなギフトと言い直してもよいと思います。つまりここで言われているのは、神様は私たちに与えてしてくださった恵みのお返しに、私たちからお礼の贈り物を求めることはしない、ということです。今風に言えば、たくさん献金をしなさいという風に求めることはないということです。念のために言いますと、教会の献金は不要だということではありません。私たちは小さな群れですが、しかしこの教会を維持していくためにもお金は必要です。教会はみなで支え合って維持しているので、献金なしには教会は存続できないのです。しかし、献金を神に対する義務のように考える必要はないのです。神にそういう形で「お返し」をする必要はないのです。では、神に対してどのように感謝の気持ちを表せばよいのでしょうか?その答えが8節に書かれています。

わが神、私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。

神にお返しをすることは、神のみこころを行うことです。それが神への最大の感謝の献げものになります。では、神のみこころを行うというのは具体的にはどういうことでしょうか?周りの人々に親切にしたり、貧しい人や困っている人たちのために働くことでしょうか?もちろんそうしたことも大切ですし、神のみこころを行うことになります。しかし、詩篇の著者はここでは別のことを語っています。彼が語っているのは、「義の良い知らせ」を告げ知らせることです。大きな会衆に対してそれを語ることです。ここでの「会衆」という言葉は、ヘブライ語の旧約聖書をギリシア語に翻訳したいわゆる七十人訳聖書では「エクレシア」、つまり教会となっています。神の御心を行うとは、つまり教会の人々に対し「義の良い知らせ」を告げ知らし、神の義、神の真実、神の救い、神の恵みとまこととを語ることです。これは私たちがいつもしていること、つまり「証し」をすることです。神が私たちに与えた恵みの応答として私たちに求めているのは、お礼の贈り物を神に献げることではなく、むしろその受けた恵みを教会の人たちに語り掛けなさい、分かち合いなさいということなのです。

3.結論

まとめになります。今日は、苦難にある詩篇の作者が切々と神に救いを求め、神がそれに応えて彼を苦境から救い出してくださった、その恵みの業に対する詩篇の著者の感謝の賛歌を見て参りました。そして、驚くべきことに、神が私たちに求めておられるのはその恵みへの応答としての献げものではなく、その感謝の気持ち、賛美の言葉を会衆の多くの人々に語り掛けることなのだ、ということです。私たちの教会でも「証し」を非常に大切にしていますが、それは神がまさに私たちに求めておられることなのだ、ということです。 

ですから、私たちは今後も「夏の会」や「冬の会」で証しをする機会を大切にしていきたいと思います。それだけではなく、主のご降誕を待ち望むこのアドベントの期間にも、「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」というみ言葉を胸に、神が私たちになしてくださった恵みをともに分かち合ってまいりたいと思います。お祈りします。

私たちを人生の苦難から救い出してくださる神よ、そのお名前を賛美します。私たちも神への賛美を隠すことなく人々に分かち合いたいと願うものです。どうかこのアドベントの歩みをますます豊かなものとしてください。われらの平和の主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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讃美詩篇150篇1~6節 https://domei-nakahara.com/2024/10/20/%e8%ae%83%e7%be%8e%e8%a9%a9%e7%af%87150%e7%af%871%ef%bd%9e6%e7%af%80/ Sun, 20 Oct 2024 06:31:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5902 "讃美
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みなさま、おはようございます。本日は当教会にとって一年に一度の大切な日です。それは、礼拝後の午後に「音楽の集い」が開催される日です。この日を楽しみにしてくださっている方もおられると思います。そこで、本日の説教もいつもとは違うスタイルでさせていただきます。

私の毎週の説教は「講解説教」といいまして、聖書に書かれている内容を解き明かしていくことを目的とするものです。今はサムエル記とヤコブの手紙を読んでいますが、こうした文書の中身を1年間あるいはそれ以上の時間をかけて詳しく解説しながら、現代に生きる私たちへのメッセージを考えていくというものです。

それに対し、もう一つの種類の説教があり、それは「テーマ説教」と呼ばれるものです。これは聖書の特定のテクストの解き明かしではなく、あるテーマ、例えば「祈り」とか「戦争と平和」とか、ある特定のテーマを選んでそれについて語るというものです。この場合にも、もちろん聖書を参照しますが、より自由にいろいろな角度からそのテーマについて語ることになります。そして、今日の説教はこのテーマ説教です。ですから単に詩篇150編の解き明かしをするということではない、ということです。

今日の説教のタイトルは「讃美」ですが、そのテーマはさらに大きく、「キリスト教と音楽」についてです。私たちの礼拝にとって音楽、そして讃美はなくてはならないものです。教会の礼拝とは聖書を読むこと、讃美をすること、そして祈ることから成り立っています。教会に通うようになる動機やきっかけは様々ですが、その一つは讃美歌に惹かれた、また讃美歌を歌いたくなったから、というものではないでしょうか。説教で言われていることはさっぱり分からないけれど、讃美歌がよかったからまた教会に行こうと思った、という方もおられると思います。それだけ、教会で歌われる讃美歌には名曲、佳曲が多いのです。このように、私たちの礼拝、またキリスト教そのものが音楽に支えられていると言えます。同時に音楽、特に西洋の音楽を育ててきたのがキリスト教だとも言えます。

もちろん、西洋文明が生まれるずっと前の時代にも、音楽は礼拝と深くかかわっていました。今日の詩篇150編をお読みいただければお分かりのように、旧約聖書の時代、まだイエス・キリストが誕生する時代より千年も昔のイスラエルにおいて、礼拝に音楽は欠かせないものでした。詩篇の作者の一人だとされるダビデは立琴の名手だったと言われています。ダビデがいったいどんな音楽を奏でたのか、大変興味があるところですが、録音はおろか楽譜も残されていませんので、残念ながらどんなものなのかは分かりません。しかし、旧約聖書の時代から、礼拝と音楽との間には切っても切れない関係があったのです。

そして、イエス・キリストの誕生後に新約の時代が始まり、キリスト教が西洋に普及するにつれて、教会音楽は飛躍的な進歩を遂げていきました。みなさんはポリフォニーという言葉を聞いたことがあると思います。これはギリシア語からきた言葉で、ギリシア語で「音」とはフォネイという言葉で、「たくさんの」はポロスです。ポロスとフォネイが組み合わさったのがポリフォニーなのですが、日本語では多声音楽です。二つ以上の異なる旋律が組み合わさって音楽を形成していくというものですが、これを大きく発展させたのがルネッサンス時代の教会音楽です。そしてそこから西洋文化の精華ともいうべきクラシック音楽が生まれました。クラシック音楽というと、交響曲とかオペラが中心だと考えるかもしれませんが、その中心には宗教曲があると言っても過言ではないと思います。音楽の父と呼ばれるヨハン・セバスチャン・バッハの代表曲はほとんどが宗教曲です。

今日は、この宗教音楽が何にもまして「神学」というものを表現しうるものだというお話をしたいと思います。「神学」というと、何か非常に難しいものに思えるかもしれません。「神学論争」というのが、誰にも意味が分からない抽象的な議論という意味で用いられるようになっていることからも、何だかとっても難しいもの、というように響きがありますね。そしてそれはある意味で正しいのです。神学とは神についての学問ですが、「神」という超越者について人間が分かるはずがないのです。科学の実験のように、神について実験することなどできません。神学とは、ある意味で分かるはずのない神についてああだ、こうだと論じることなのですから、難しかったり抽象的だったりするのもある意味で当然です。ただ、そのような神が、ではまったく理解不能なのかといえば、そうではありません。なぜなら神ご自身が私たち人間と係わりを持とうと、ご自身を私たちに現してくださるからです。神の方から私たちに近づいてくださるのです。そのような不思議な経験を通じて私たちは神の一端に触れます。そのような不思議な体験を何とか言葉にしよう、人に伝えることができる文章にしよう、というのが神学の試みであり、また聖書そのものもそのような試みの典型だと言ってよいでしょう。聖書記者たちは神との遭遇という筆舌に尽くしがたい体験を、何とか必死に文章にしようとしたのです。

しかし、神について言い表すのは文章だけではありません。むしろ、音楽こそ神について、神がどんな方なのかについて、私たちに雄弁に、非常に重要なメッセージを与えてくれるものだとも言えます。今日は、三つの大変有名な曲についてお話ししたいと思います。これからお話しする曲はいずれも大変有名な曲なので、ユーチューブで検索すればすぐにたくさんの演奏を聴くことができますので、ぜひ聴いていただきたいと思います。

最初の二つは「レクイエム」からのものです。レクイエムとは葬送曲、つまりお葬式の時に奏でる音楽です。クラシック音楽には三大レクイエムというものがあり、その一つは誰もが知る天才モーツァルトの白鳥の歌、絶筆となったレクイエムです。これは鳥肌が立つほどの名曲ですが、この偉大な曲については今回はお話ししません。むしろ他の二つのレクイエムについてお話ししたいと思います。それはイタリアのオペラの巨匠ヴェルディ作曲のレクイエムと、フランスの作曲家ガブリエル・フォーレのレクイエムです。フォーレは初めて聞いたという方もおられるかもしれません。フランス音楽というとドビュッシーがすぐ挙げられるかもしれませんが、私はフォーレが一番だと思っています。この二人の作曲家によるレクイエムはまさに対照的な曲調ですが、その背後にある「神学」も大きく違うなあ、という印象を受けます。

レクイエムというのは教会音楽ですから、そこには式文というか、決まったスタイルがあります。例えばレクイエムの構成曲の中には「キリエ」、これはギリシア語でいえばキュリオス、つまり「主よ」という意味の言葉ですが、そのキリエや、「サンクトス」、これはラテン語の「聖なる」、Holyという意味ですね、それらが含まれています。また、アニュス・デイ、これは「神の小羊」という意味ですが、キリストを表すこのアニュス・デイもレクイエムの重要なパートです。

ただ、先ほどの三大レクイエムはそれぞれ独自の式文を使っていて、神の審判を表す「怒りの日」がモーツァルトとヴェルディのレクイエムにはありますが、フォーレにはありません。モーツァルトの「怒りの日」には悲哀のこもった美しさがありますが、ヴェルディの「怒りの日」は恐ろしいというか、恐怖を感じさせる響きがあります。ユーチューブでヴェルディの「怒りの日」をぜひ聴いてみてください。私の言いたいことが分かると思います。なぜ葬式の音楽にこんな恐ろしい曲が含まれるのかといえば、それは人間はみんな死んだら神の恐るべき審判を受けなければならないのですよ、だから生き残っている私たちはその恐るべき日のことを思いながら真面目に残りの地上の生涯を過ごしましょうというような、ある意味では伝道的なメッセージが込められているのです。

しかしフォーレのレクイエムには、神の恐るべき審判を描く「怒りの日」がないのです。反対に、最後曲である「イン・パラディスム」これは「天国の中へ」という意味ですが、この通常のレクイエムには含まれないとても静かで美しい曲があります。

この二つのレクイエムを説教にたとえるならば、ヴェルディのレクイエムは最後の審判、神の裁きの恐ろしさを強調して、だから今神さまを信じてこのような恐ろしい裁きから救われましょうというような、どちらかと言えば福音派に多いメッセージだといえるでしょう。それに対してフォーレは、地獄とか神の裁きとか、そういう人間の恐怖心を掻き立てる内容は語らずに、神の憐み深さや神の愛、天国の平安のすばらしさを強調して人を神への信仰に導こうというスタイルの説教に通じるものがある気がします。

ただ、神の怒りを含めないフォーレのレクイエムは公演当初は、キリスト教的ではない、異教的ななどと批判されたことがありました。今日の説教でも「神の怒り」について語らない説教は福音的ではないなどと批判されることもありますが、フォーレも同じような批判を受けたのです。そのような批判に対し、フォーレはこう反論しています。

私の『レクイエム』は死に対する恐怖感を表現したものではないと言われており、中にはこの曲を死の子守歌と呼んだ人もいた。しかし、私には死はそのように感じられるのであり、それは苦しみというよりもむしろ永遠の至福と喜びに満ちた解放感にほかならない。グノーの音楽が人間的優しさに傾き過ぎていると非難されても、彼の本性がそのような感性を導いたのであり、そこには固有の宗教的感動が作られている。芸術家には自己の本性を容認することが許されているのではないだろうか。私の『レクイエム』について言うならば、恐らく本能的に慣習から逃れようと試みたのであり、長い間画一的な葬儀のオルガン伴奏をつとめた結果がここに現れている。私はうんざりして何かほかのことをしてみたかったのだ。(ネクトゥー著『ガブリエル・フォーレ』より)

このように、フォーレは因習的なレクイエムのスタイルにあえて挑戦したのです。このレクイエムはどこをとっても素晴らしいですが、特にアニュス・デイ、「神の小羊」が本当に美しいです。歌詞は、神の小羊よ、彼らに永遠の安息をお与えください、永遠の光で彼らを照らしてください、というようなものですが、本当に優しい、平安に満ちた音楽です。そしてこの音楽を聴いていると、フォーレの信じた神がどのようなお方なのか、ということが良く伝わってきます。それをフォーレの「神学」と呼んでいいと思います。ヴェルディの「怒りの日」が伝える怒れる神とは違う、何かすべてを包み込んでくださるような愛の神が伝わってくるのです。

私は何も、神には怒りがないと言いたいわけではありません。聖書にも「神の怒り」についての記述が溢れていますし、神は不正や悪を憎み、それらに怒りを向けるお方であるのは間違いないことです。ただ、神様のイメージを思い浮かべる時に、雷おじさんのような怖い神様をイメージするのか、優しい母親のような神をイメージするのかで、だいぶ私たちの信仰も変わってくるのも確かです。ユダヤ教・キリスト教の神のイメージは厳しい父親のイメージだと言われることが多いですが、フォーレの音楽を聴いていると、何かそれとは非常に違う神のイメージが感じられますし、それも真実なのだと思わされます。このように、音楽は私たちに直観的に理解できる神学を伝える非常に優れたコミュニケーション手段だと言えます。

ただ、素晴らしい「アニュス・デイ」を残したのはフォーレだけではありません。ここで、ヴェルディ、フォーレに続く三番目の曲をご紹介したいと思います。その作曲者は、モーツァルトと同じく西洋音楽の代名詞になっている人物、すなわちベートーヴェンです。このベートーヴェンも素晴らしいアニュス・デイを書いています。それはベートーヴェンの荘厳ミサ曲という大作に含まれています。荘厳ミサ曲は、あの有名な『第九』と同じ時期に書かれたベートーヴェンの晩年の傑作です。一般的にはこの曲は第九ほど有名ではないかもしれませんが、ベートーヴェン自身は第九とこの荘厳ミサ曲を同時に楽譜の出版社に持ち込むとき、なんとあの『第九』の十倍の値段を付けたと言われています。それほどベートーヴェンにとって重要な曲だったのです。この曲は演奏が非常に難しく、あまりよくない演奏だとそれほど感動できないのですが、素晴らしい演奏を聴くと、それこそ得も言われぬ感動があり、特にクライマックスに置かれたアニュス・デイは感動的です。この曲をフォーレの曲と聴き比べると、ここでもまた異なる「神学」が伝わってきます。ベートーヴェンが伝えようとした神は、平安に満ちた慈愛の神というより、人類と共に苦しむ神、この世の不条理の中でのたうち回りながらも、それでも平和を求めてやまない、そのような苦難を哀れな人類と共に担う神のイメージです。この曲は「ミゼレーレ」、神よ憐みたまえという呻きのような言葉から始まります。非常に暗い、重苦しい音楽です。それが途中で転調して、「われらに平安を与えたまえ」という世にも美しい、天上の調べと呼びたくなる祈りのような曲へと変わっていきます。しかし、そのような美しい調べの中にも戦争の響きが入り混じり、私たちが求める平和はこの世界ではどれほど得難いものなのかという現実も突き付けられます。しかし、その戦いの響きの中でも「アニュス・デイ」、神の小羊に救いを求める叫びのような歌声が響きます。そして最後は平安を求める歌声が戦争の響きをかき消すほど力強く歌われて、この曲が結ばれます。フォーレのアニュス・デイは私たちに天国を垣間見せてくれますが、ベートーヴェンのアニュス・デイはこの世の悲惨な状況の中で必死に天国を願う私たちの祈りを形にしてくれたのだと思えます。

このように、宗教音楽は私たちに本物の「神学」を語ってくれるものです。音楽は私たちの信仰を養い育てるために、なくてはならないものです。今日の「音楽の集い」を通じて、私たちは音楽を楽しむだけでなく、神を賛美すること、そして私たちの賛美する神様とはいったいどんなお方なのか、そんなことを感じられれば素晴らしいと思います。お祈りします。

私たち人類に音楽を与えてくださった神様、そのお名前を讃美します。今日は特に音楽と私たちの信仰について考える日です。午後の演奏者の方々を特に祝福してください。音楽が私たちの信仰を豊かなものにしてくれますように。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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畏れと驚き詩篇111:1-10森田俊隆 https://domei-nakahara.com/2022/04/24/%e7%95%8f%e3%82%8c%e3%81%a8%e9%a9%9a%e3%81%8d%e8%a9%a9%e7%af%871111-10%e6%a3%ae%e7%94%b0%e4%bf%8a%e9%9a%86/ Sun, 24 Apr 2022 00:01:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=2789 "畏れと驚き
詩篇111:1-10
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今日は先月に続き、詩編のなかからお話をさせていただきます。詩編111編です。詩編には、最初に「ハレルヤ」という言葉で始まる詩編が10編あります。そのなかで「アルファベット詩編」と称し、ヘブル語のアルファベットで各節が始まる詩が2編あります。それが111編と112編です。今日の詩編はそのうち前の方ですが、内容的には連続しているようです。ともに「神賛美の歌」です。両編に共通している言葉は「主は情け深く、あわれみ深く」です。イスラエルの神、主は私たちを超えた存在でありながら、「情け深く、あわれみ深い」存在であることがうたわれています。111編は「尊厳と威光」を示す神、112編は「繁栄と富」を齎す神に強調点がある、と言えようかと思います。

さて、5節に「主を恐れる」と言う言葉が出てきて、9節の最後に「おそれおおい」という言葉が出てきます。ヘブル語では同じ言葉です。今日の主題です。そして、10節には「主を恐れることは、知恵の初め」という言葉が出てきます。これは箴言9:10「主を恐れることは知恵の初め」と同じ表現です。箴言1:7には「主を恐れることは知識の初めである」という表現があります。知恵が、知識に変わっているだけの違いです。ヨブ記28:28に「主を恐れること、これが知恵である」とありますので、おそらく、原型は「知恵」(hakma:)であり、「知識」(da-at)のところはその変形であろう、と思われます。ギリシャ語訳はどちらも「sofia」(知識)です。そのギリシャ語は「哲学」(philosophy)のもととなった言葉です。ヘブル語ではこの2つの言葉はかなり違います。「知恵」という時は「知恵者」「賢者」を指すときのことばで、物知り、とは関係ありません。イスラエル信仰の真実の忠実な人、という意味合いであり、旧約聖書流に言えば「義人」です。これに対し、「知識」の方は、文字通り「知識」のことで通俗的には「ものしり」です。イスラエル信仰の上では「知恵者」こそが尊敬の対象です。

それにしても主なる神を恐れることは知恵のはじめ、ということはどうしてでしょうか。恐れおののいていると、知恵が深まるなどというバカげたことはありません。詩編111編では5節、9節、10節にこの「恐れる」がでてきます。ヘブル語では「ya:re:」、ギリシャ語訳は「fobe:o」です。3か所ともこの言葉またはその名詞形です。ヘブル語の「ya:re:」は旧約で332回も出てくる言葉ですが、大部分は「恐れる、怖がる」の意味ですが、「畏敬(もけい)」の意味の「畏れる」での使用も30回以上あります。日本語では同じ発音ですが意味合いはだいぶ違います。また、カソリックの日本語訳である、フランシスコ会訳では「畏敬(もけい)」の「畏れる」で訳しています。カソリック、プロテスタント共同の訳である新共同訳、協会共同訳も同じです。おそらく新改訳の訳者は同一の言葉は同一の日本語に訳す、という原則から、意味としてはおかしくてもおののく「恐れ」で訳したものと思われます。しかし、私たちが聖書の意味することを理解しようとするときは、詩編111編の「おそれ」は「畏敬(もけい)」の「畏れる」と理解することで良い、と思います。「畏れ」をもって、全能の主なる神を仰ぎ見る謙虚な姿勢こそがイスラエル信仰の上での「知恵者」=神の前に義なる人、になれる、ということを意味しています。ギリシャ語の「fobe:o」も両方の意味があります。

でもなぜ、主なる神を「畏敬(もけい)」すると「知恵」「知識」の初めになるのでしょう。それは皆さんが想像できるように、全能の神の深遠な不可思議な摂理に近づくことによる「おどろき」が契機になり知恵、知識の深みに進むのです。口語訳聖書で「恐れ」と「驚き」が同時に出てくる節をさがすといろいろあります。そのなかでいくつか見ると、エレミヤ書5:30「驚くべきこと、恐るべきことがこの地に起っている」とあります。やはりエレミヤの46:27「わたしのしもべヤコブよ、恐れることはない、イスラエルよ、驚くことはない。見よ、わたしがあなたを遠くから救い」とあります。エゼキエル書28:19「もろもろの民のうちであなたを知る者は皆あなたについて驚く。あなたは恐るべき終りを遂げ、永遠にうせはてる」とあります。新約においてもルカ5:26「みんなの者は驚嘆してしまった。そして神をあがめ、おそれに満たされて、「きょうは驚くべきことを見た」と言った」とあります。

ギリシャにおいても「おどろき」は知識のはじめと考えられてきました。ギリシャ哲学の偉人プラトンは“驚きは哲学特有の感情であり、哲学は驚きのうちに始まる。なぜなら、実にその驚異(タウマゼイン)の情(こころ)こそ知恵を愛し求める者の情なのだからね。つまり、求知(哲学)の始まりはこれよりほかにはないのだ”と言っています。ギリシャ哲学の大成者であるアリストテレスは「 人間がいま哲学し始めるのも、太古の昔はじめて哲学し始めたのも、驚嘆ゆえだからである」と言っています。こちらの方は「知恵」というより「知識」の要素が強いかもしれませんが、「恐れ」と「驚き」がつながっていることを示す、ことに変わりはありません。私たち現代人は、「驚き」を通して主なる神の神秘的力を見る、という健全さを失っています。科学はかつては神の力と言われていたことを次々と論理的説明をし、それにより、いずれはすべて、そのような科学的説明が可能になるだろう、というそれこそ神話を信ずるようになってきました。しかし、考えてみますと、未知の分野は多数あり、自然の仕組みは、知れば知るほどその不可思議さがわかってきます。

私は、銀行の中で、Computerを仕事にしていた時期が長いので、この技術に興味があります。皆さんも聞いたことがあると思いますが、量子Computerがそろそろ実用段階に入っています。この根本原理は次のようなものです。ある条件の下で2つの素粒子のペアができます。一つは右回りに回転しており、他方は左回りに回転しています。何かの原因で、右回りの素粒子が左回りになると、今まで左回りの素粒子が右回りに変わる、ということです。そして、2つの素粒子が逆回転するのが同時だということです。同時ということは時間がZeroということです。この時間Zeroは実験で証明されています。右回り、左回りを「0と1」に置き換えれば二進法のComputerの基本となります。二つの素粒子の間の情報が時間Zeroで伝達される、ということは時間ZeroでComputerの計算ができるということです。この原理を応用したのが量子Computerというわけです。今のComputerは情報の伝達は電子のSpeed以上には絶対、行きません。そんな馬鹿な、と思われるでしょうが科学的に証明された事実です。「驚き」です。

また、光とか、電波というのも不思議な性質を持っています。粒子であり、波である、というのです。ちょっと考えると、光や電波はまっすぐ進むので、なにか邪魔になる衝立のようなものがあれば、それにさえぎられて、裏側にはいかないように思われます。粒子であれば、衝立によって遮られたり反射したりして裏側にはいくはずはありません。しかし、実際には、光の場合、衝立の裏側もぼんやりと明るくなります。これは波の性質も持っているからです。電波についても同じです。衝立の裏にいる人の携帯電話に電話してもつながりますね。これは携帯電話網のアンテナから出た電波が携帯電話の周辺に電波の波を送っているからです。一直線に携帯電話に電波を送っているのではありません。発信する方も波を周囲に送っていて、それを近くにあるアンテナがキャッチするのです。電波に波の性質がなければ携帯電話は生まれなかった、ということです。音は波であり空気を伝わっていくのですが、光や電波は空気も何もない宇宙空間を伝わり波の性質を持って地球に届いています。「本当?」と言いたくなりますが事実です。「驚き」です。

今度は大宇宙の話です。大宇宙は現在、光の速さで膨張している、と言われます。この大宇宙はアインシュタインの一般相対性理論で示された公式で動いていると考えられています。ニュートンの万有引力の法則に変わるものです。この公式を解いて時間をZeroにするとすべての空間の距離もZeroとなり、時間・空間のない時点にさかのぼることができます。時間・空間がZeroであった時に一種の爆発(ビック・バン)によって時間・空間が作られ、膨張し、今の宇宙となり、更に光速での膨張を行っている、というのです。このビックバンにより、莫大なエネルギーが解放され、そのエネルギーの一部の凝縮により物質が形成され我々が見る星が形成されたといわれます。この物質のほんの少しを、もとのエネルギーに戻すのが原爆・原発の原理です。大宇宙のスタート、膨張、エネルギーと物質の関係、これらすべて「信じられない」の一言です。これを否定している科学者もいますので本当の本当なのかわかりません。しかし、時間と空間とは相互に関係しており、最初は「時空」と言う何かあって、どこかの時点で1次元の時間とN次元の空間に分かれたけれども相互の関係性は維持された、と考えるしか理解のしようがありません。首をかしげながら、「驚か」ざるをえません。

ちなみに、広島・長崎の原爆はほんの一グラムにも満たないウランが熱エネルギーに変換されたもの、ということらしいです。原発はそれを応用して発電をするものです。原爆開発には、議会の明示的承認もなしで、巨額なお金を費やしたため、アメリカ政府は民間で役に立つようにこの技術を役立て、国民の納得を得ようとしたのが原発ということです。そして廃棄物をどうするかの方針もないまま、原発拡大に突き進んでいきました。民間利用としては未完の技術だったのです。

もう一つ「信じられない」という話をします。先般、人間の体の不思議についてお医者さんが書いた本をよみました。そのなかで、「肛門」の機能について書いていた内容が傑作です。肛門は、体内にあって肛門から出ようとしている物質が気体、か液体・個体のいずれであるかを判別する能力を持っている、というのです。無意識でおならをする、という時、肛門は気体のみ外に出すことは問題ない、として開放するのだ、というのです。「本当かね。できすぎだ」と言わねばなりません。脳からの指令ではなく、肛門自身が識別しているというのです。「驚き」です。その他にも人間の体の持つ「できすぎ」の機能がいろいろ書かれていました。

この「驚き」はなにに驚いているのでしょう。大自然の絶大な力の表現を目のあたりにしたとき、良かれ、悪しかれ、「驚き」の声がでます。科学的研究が被造物の機能を明らかにした結果、それが自然とにできたということなど「信じられない」と叫ぶ時の「驚き」です。その他、いろいろな「驚き」があろうと思いますが、その背後に神秘的な力が働いている、としか説明できない事態に直面します。生物の種族保存の本能、と言われている者も、「なんで、そんな本能ができたの」と聞かれると何とも答えられなくなります。進化論において「突然変異」というのがありますが、なぜ突然そんなことがおきるのか、だれも説明ができません。量から質への転化だという説もありますが、何の量的変化の累積があったのか、答えられません。私は主なる神はすべての被造物がどのように動くか、について人間が理性的に理解しようとしている科学の働きは許容されている、と思いますが、不可思議さは更に増すばかりです。私たちは、これらのことを発見した時の「畏敬の驚き」を大切にする必要がある、と思います。

宗教の世界は合理的説明が不可能ないろいろな事象に充ちています。なぜ祈りが通じる、ということがあるのでしょう。夢・幻覚・幻聴はどんな意味があるのでしょうか。フロイトの「無意識」による説明で納得できる人はだれもいないでしょう。宗教的儀礼で使用されるシンボル(象徴)は何かの力(エネルギー)が宿っているのでしょうか。聖霊・悪霊と言いますが、その力は具体的には何なのでしょうか。宇宙物理学で言っている「ダーク・マター」のことなのでしょうか。「ダーク・エナジー」のことなのでしょうか。聖霊と悪霊は、人間は区別できる能力が与えられているのでしょうか。結果が起きて初めて分かるものなのでしょうか。死者の霊が立つという話はたくさんありますが実態はなんなのかでしょうか。

科学と宗教は矛盾しているのではないか、ということがありますが、そんなことあるはずもありません。神の創造物に対する、「畏敬的驚き」を失っているから、科学の非倫理的利用になってしまうのです。ヘブル語での「畏れ(ya:re:)」と「驚き(pa:la:)」を心にとめておきたい、と思います。祈ります。 (ご在天の父なる御神様、今日の礼拝の時を感謝いたします。聖書における「畏れ」と「驚き」について学びました。私たちは、この大自然・宇宙の中に示された不可思議に率直に驚く新鮮な心を失ってきています。それが、主なる神に対する畏敬の心を失い、神への賛美の声を失うことにつながっています。どうか私たちに神秘の前に驚く心を回復させてください。そして、我らが主イエスに従うことにより、全能の主にすべてをゆだねる心とさせてください。主の御名により祈ります。アーメン)

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ダビデのミクタム詩篇16:1-11森田俊隆 https://domei-nakahara.com/2022/03/20/%e3%83%80%e3%83%93%e3%83%87%e3%81%ae%e3%83%9f%e3%82%af%e3%82%bf%e3%83%a0%e8%a9%a9%e7%af%87161-11%e6%a3%ae%e7%94%b0%e4%bf%8a%e9%9a%86/ Sun, 20 Mar 2022 00:47:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=2648 "ダビデのミクタム
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* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

今日のお話は、聖書の詩編からです。詩編は全部で150編あり、一巻、二巻、三巻に分かれていますが、内容的にはこの三つに整然と分類されている訳ではありません。このなかで、「ダビデの詩(うた)」としてイスラエル第二代の王ダビデがうたったものとされているものが多くを占めています。しかし、これらの詩編は、イスラエル信仰の基本を示したもの、と理解すべき文書であり、「ダビデの詩」としての理解に執着する必要性は全くありません。むしろ、作者ダビデに執着すると、ダビデが置かれていた歴史的状況の範囲での解釈に落ちる可能性あり、詩編の持つ意義を狭めてしまうことになりかねません。サウル王からの逃避行という初期ダビデが置かれていた困難な状況における詩という意味は心にとめるべきですが、その後のイスラエルの民、およびユダヤの民が経験した歴史上の困難は筆舌に尽くしがたいものであり、その歴史の下にこれら詩編を置いてみる方がイスラエル信仰の基本・根本が見えてきます。本日取り上げる、詩編第16編をはじめとする「ダビデのミクタム」もそのような詩です。私たち、新しきイスラエルも当然、このイスラエル信仰の基本・根本に忠実である者です。

では最初にその詩編第16編を概観することから始めたい、と思います。まず、1節「ダビデのミクタム 神よ。私をお守りください。 私は、あなたに身を避けます。」とあります。「ダビデのミクタム」という言葉は6つの詩編に出てきています。16編のあとは56編から60編までの各詩編の一節目に記されています。実のことを言うと、「ミクタム」という言葉は何を意味しているか解っていません。ギリシャ語訳から推測すると、「石板に刻まれた文章」という意味だ、とかアッシリア語の「覆う」(ケタムー)からきた言葉で、「贖罪の詩」の意味だ、という説などがあります。詩編の分類からみるとこれらの詩編は「信頼の歌」「賛美の歌」に分類されています。しかし、絶対的神信仰の告白の詩編、というような単純なことは言えません。第58編は「復讐の詩編」と呼ばれ、敵に対する復讐を主なる神に祈り求める、という詩編であり、カトリック教会では共同の祈り、から排除されている詩編です。59編にもこれに類する言葉が現れ、共同の礼拝においては避けられる節、となっています。

「ダビデのミクタム」でもう一点、注目すべきことは、56編、57編の2編の最初に「私をあわれんでください」の言葉が出てくることです。カトリックの典礼用定型句「主よ、あわれみたまえ(クリエ・エライソーン)」のもとになっている言葉です。バッハのマタイ受難曲によって有名です。この言葉は、超越的な天の神に「私に同情してください」と祈り求めているものではありません。主なる神に対し、「私とともにあって、守ってください」という願いを表したものです。イスラエル信仰の主なる神は行動する神です。気休めの神ではありません。「神、我らとともにあり」ということは我らの前面で戦う神であり、敵から我らを守ってくださる神であり、我々の苦難をともに背負ってくださる神、なのです。主な力は我々ではなく主なる神からくるのです。これら2点を考えると、ダビデのミクタムは逆から追って行って、60編→59編→58編→57編→56編、そして最後の完結が16編と見た方が良いようにも思われます。

2節に、「あなたこそ、私の主。 私の幸いは、あなたのほかにはありません。」という表現があります。ここでの「幸い」はヘブル語の「to:ba;」(良きこと)です。これは人間や私の幸せ、というような狭い意味ではなく、この世で「良きこと」とされるすべてのことを指しています。創世記の創造物語で「神はそれを見て良しとされた」と言われている「良し」です。すべての良きことは主なる神の祝福によりもたらされる、という信仰告白です。

3節には「地にある聖徒たちには威厳があり、 私の喜びはすべて、彼らの中にあります。」と記されていますが、ここでいう「聖徒」については注意を要します。ヘブル語では「qo:de:sh」(聖なるもの)、ギリシャ語でも「haga:thos」(聖なるもの)です。他方で、新約聖書、例えばローマ書1:7で「聖徒」と訳されている言葉は、ギリシャ語では「hagios」(聖なる人)という言葉であり同系列ですが、人について語っていることが明白な用語です。詩編16:3の「聖徒」は人に限らず「聖とされたすべてのもの」を含みうる表現だということです。イスラエル信仰に限る話ではありませんが、世界の宗教すべてにおいて「聖と俗」の問題は重大問題として横たわっています。

4節「ほかの神へ走った者の痛みは 増し加わりましょう。」の「痛み」の言葉は創世記3:16で神が女に「わたしは、あなたのうめきと苦しみを 大いに増す。」と言われた時の「苦しみ」の言葉と同じです。「ほかの神」への信仰に行った人間は、「生みの苦しみ」のようにうんうん、唸る苦しみに直面するという意味です。先ほどの復讐の詩編での復讐心が残存している、という理解も可能だと思います。「復讐心」は人間の底流のところにたまっている心情であり、その噴火はちょっとやさっと、で消えるものではない、ということだ、とも言えます。

5節「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。」とあります。また、6節には「まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。」という表現がでてきます。ふたつの「ゆずり」は別の言葉です。最初の「ゆずりの地所」はヘブル語の「he:req」で、分けられた土地、の意味です。6節の方は「nahala:」という言葉です。旧約で12部族の嗣業地と言われているのはこの「nahala:」です。詩編16:5の「ゆずりの地」は「分け与えられた土地」という側面が強調される言葉であり、嗣業地と言われると時の「ゆずりの地」は子々孫々伝えられる土地、という点が強調されている、という意味なのでしょうか。ギリシャ語では同じ言葉が使われています。それにしても「主は、私へのゆずりの地所」という表現は少々奇妙です。ヨシュア記においてレビ人は「主」そのものが嗣業地として与えられたことから、この詩はレビ人の詩なのだ、と解釈する向きもあるようですが、あまりにもうがった解釈と思います。主は私にとっての「ゆずりの地」と同様、私が入(はい)り頼み、立っている足元なのだ、くらいに理解するので、良いと思います。

9節「それゆえ、私の心は喜び、 私のたましいは楽しんでいる。 私の身もまた安らかに住まおう。」という表現は、聖書における至福の時、の表現です。主なる神の内側にいるような表現です。類似の表現が詩編の他のところにもありますが、それらと比較しても、ここでの表現は、究極の表現と言ってよいでしょう。「神の国に居るわたくし」というところでしょう。

10節は重要です。「まことに、あなたは、私のたましいを よみに捨ておかず、 あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません」とあります。この主なる神への信仰は死後にも続く、永遠の世界に通じていることだ、ということです。「よみ」はヘブル語の「sheo:l」、ギリシャ語の「hade:s」です。「死者の国」の意味です。俗にいう地獄ということではありませんが、「苦難」を負わされている世界です。主なる神は、自分を、その世界に放置するようなことはない、という信仰告白をしているのです。死者はすべて、「死者の世界」に行かざるを得ない、というのは旧約の信仰の基本です。「聖徒」は神によって「聖」とされた人間のことであり、すべてを主なる神に委ねている信仰の人、のことです。そのような人は墓の下の穴を見る必要がなく、神の救いの道に入れられる、と言っていることになります。この「墓の穴」はヘブル語で「sha:hat」であり、「死者の国」(shewo:l)と関連を持った言葉と推測されます。そうすると、死者の国にある穴には入らないで済むわけですから「苦難」に呻吟する、状態には置かれない、ということになります。

この節をルター、カルヴァンはキリストの復活を指している、と解釈しているようですが、どうも新約聖書の理解を、旧約に押し付けているようで、どうも私は同意できません。むしろ、ここでは、死後の世界をも支配している主なる神への信仰を表しており、その主なる神の力は、時(とき)至って、「よみの国」に下った主イエスを復活させた、と解釈すべき、と思います。生物学的「生き返り」と聖書の「復活」の相違は、この「死者の世界」に行ったのか、その前なのか、の差だと思います。要するに霊的死の前後、の違いです。イスラエル信仰においては決定的差なのです。

最後の11節「あなたは私に、いのちの道を 知らせてくださいます。 あなたの御前には喜びが満ち、 あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」の表現は、先の9節と同じ世界の表現です。16編の締め、の表現です。

このように、16編を見てくると、この詩編は完璧な信仰告白であり、はっきり言って「できすぎ」の感がぬぐえません。人間、信仰の訓練を続けていくと、このような境地にまで至るのでしょうか。もしくは、苦難につぐ苦難を経験した信仰者には死の直前にこのような世界への約束が告げられるのでしょうか。そしてそもそも、このような立派な信仰にたどり着いた人はどうやってこのような信仰にまで行きつけたのでしょうか。実のところは、そんな単純な話ではなく、信仰上の右往左往をさんざん行(おこな)って、主なる神への不信、反抗も何度も経験し、しかし、最後は、立ち返るところは、結局ここしかない、ということで主なる神に帰ってきた人間、というのが現実ではないか、と思うのです。

こう考えて、ダビデのミクタム、と名付けられている6つの詩編を並べてみました。そうすると、60編から初めて、逆にさかのぼって、56編までくると、16編の信仰に至る直前のところまで来ている「さま」が推測できるような気がします。実に右往左往のジグザグです。概略、追っかけてみましょう。

まず詩編60編です。ここでのメッセージを一言で言えば「神は我らを見捨てられたのか」です。ダビデの生涯にあてはめられた舞台設定はアラムやエドムとの戦いのあと、戦争で勝利を得られなくなった時期の詩、ということになっています。不遜ではあるとは思うのですが、私は、かのナチスドイツのホロコースに至る歴史を想起しながら主なる神への信仰の遍歴をこれら詩編に見ていきたいと、思います。ダビデの苦難など、これに比すればものの数ではない、と思います。3節「あなたは、御民に苦難をなめさせられました。 よろめかす酒を、私たちに飲ませられました」。苦難が降って湧いてきました。苦難がおいかけてくるようです。お金持ちは、亡命することができますが一般のユダヤ人はそんなの無理です。もちろん、亡命したからと言って、苦難に次ぐ苦難は変わりません。10節「神よ。あなたご自身が 私たちを拒まれたのではありませんか。 神よ。あなたは、 もはや私たちの軍勢とともに、出陣なさらないのですか」。かつて、我らの主は大いなる力をもって敵と戦い、勝利したことを知っています。我々はただ後をついていくだけで良かった、と聞いています。ところが、そのようなことは、ここずーとありません。なにか理由があって私たちを拒んでいるのですか。理解できないのです。でもあえて、あえて、希望を掲げます。11節「どうか、敵から私たちを助けてください。 まことに、人の救いはむなしいものです」。本当は「神こそ、私たちの敵を踏みつけられる方で」あるはずです。

59章は一言で言えば「どうか目をさまして、私を助けてください」です。ダビデ生涯での舞台は、サウルがダビデを殺そうとしたとき、ダビデは、追ってから逃げ回る必要がありました。その時の詩、ということになっています。ナチスやドイツ国民のユダヤ人排斥は命、そのものが危険な状態にまでなっていました。逃げるに、逃げられなくさせられました。多くの町ではゲットーに閉じ込められました。もうただ、ただ救いを祈るしかありません。2節「不法を行う者どもから、私を救い出してください。 血を流す者どもから、私を救ってください」。4節「私には、咎がないのに、 彼らは走り回り、身を構えているのです。 どうか目をさまして、私を助けてください。 どうか、見てください」。7節「見よ。彼らは自分の口で放言し、 彼らのくちびるには、剣がある。 そして、「だれが聞くものか」と言っている」。こんなどうしようもない時に、実は、我々を、裏切ってよい目を見ている輩もいる。5節「あなたは万軍の神、主。イスラエルの神。 どうか目をさまして、 すべての国々を罰してください。 悪い裏切り者は、だれをもあわれまないでください」。こんな状態でも、望みは「主なる神」にしかない、ことくらい頭ではわかっています。それにしても、ナチスと同調者は許せない。10-11節「私の恵みの神は、私を迎えに来てくださる。 神は、私の敵の敗北を見せてくださる。/彼らを殺してしまわないでください。 私の民が、忘れることのないためです。 御力によって、彼らを放浪させてください。 彼らを打ち倒してください。 主よ。私たちの盾よ」。習ってきた、信仰の祈り、はとても心から言うことはできません。ただ、習ったことを繰り返すだけです。

58編です。この詩編は復讐の詩編と呼ばれている詩編です。「彼らの歯を、その口の中で折ってください」という言葉で代表できるでしょう。6節「神よ。彼らの歯を、その口の中で折ってください。 主よ。若獅子のきばを、打ち砕いてください」。私たちは、力は全くないのです。主なる神のみが頼りです。死ぬことになって、それが御心ならば死んでいきますが、あの敵どももやつけてください。それのみが、唯一の希望です。7節「彼らを、流れて行く水のように 消え去らせてください。 彼が矢を放つときは、 それを折れた矢のようにしてください」。復讐をかならずお願いします。8節「彼らを、溶けて、消えていくかたつむりのように、 また、日の目を見ない、死産の子のように してください」。消えてなくならし、死者の国にさえ入らせない、のも一つの方法かもしれません。10節「正しい者は、復讐を見て喜び、 その足を、悪者の血で洗おう」。これだけひどいことをされているのですから「赦し」などあり得ません。主による復讐を見てよろこぶのは当たり前です。悪者の血が流れているところで私は足を洗います。その時が来たら、絶対やります。しかし、「私が復讐をするのでお前たちはするな」という約束は信じます。主なる神は、私たちが反抗し、皆殺しになるより、私が、生き永らえることを望んでいらっしゃることを知っているからです。でも、その時が来たら、見ていろ。

57編。ダビデがサウル王の手を逃れ「洞窟」に身を隠していた時にダビデが懸命な祈りをしていたのが舞台。一言で要約すれば、「私のたましいは、うなだれています」です。とうとう、収容所に入れられるようなことになってしまいました。もう何をすることもできません。あの過酷な労働に従事するしか生きる道はありません。4節「私は、獅子の中にいます。 私は、人の子らをむさぼり食う者の中で 横になっています。 彼らの歯は、槍と矢、彼らの舌は鋭い剣です」。6節「彼らは私の足をねらって網を仕掛けました。 私のたましいは、うなだれています。 彼らは私の前に穴を掘りました。 そして自分で、その中に落ちました」。その穴は私たちを突き落とす穴です。心から、心から願うのですが、敵がその穴に落ちて、「それみたことか、神の力だ」と言い返してやりたいのです。しかし、この死が宿命づけられた収容所のなかで希望が見えたのも事実です。キリスト教の牧師や神父がメッセージを語ってくれているのです。ユダヤ教のラビも主なる神への「希望」を語ってくれます。「絶望の中での希望」というのでしょうか。「私をあわれんでください」と言えるようになりました。あわれみ、は単なる同情心ではありません。「主なる神がともにいて苦難を担ってくださっている」というのです。本当なら、体の痛みなど耐えられます。8節「私のたましいよ。目をさませ。 十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。 私は暁を呼びさましたい」。心から、この希望を確信できれば、9節「主よ。私は国々の民の中にあって、あなたに感謝し、 国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌いましょう」、と言うことができるのです。

56編。ダビデがペリシテ人との戦いで、戦っても、戦っても勝利が見えてこない場面。「神よ、私をあわれんでください」がダビデの言葉。ダビデのミクタムの最終ステップのこの詩編は、一言で表せば、8節の一部「どうか私の涙を、 あなたの皮袋にたくわえてください」となろうか、と思います。まず2節「私の敵は、一日中、私を踏みつけています。 誇らしげに私に戦いをいどんでいる者が、 多くいます」で始まります。60編の時も悲惨でしたが、その現実は客観的には変わっていません。ここ収容所の状態は、今は、もっとひどい惨劇の状態と言ってよいかもしれません。5-6節「一日中、彼らは私のことばを痛めつけています。 彼らの思い計ることはみな、 私にわざわいを加えることです。 /彼らは襲い、彼らは待ち伏せ、 私のあとをつけています。 私のいのちをねらっているように」。本当は、7節「神よ。彼らの不法のゆえに、 彼らを投げつけてください。 御怒りをもって、国々の民を打ち倒してください」、と言いたいのです。しかし、私たちは、復讐はしません。主がなしてくださる、と約束されているからです。8節「あなたは、私のさすらいをしるしておられます。 どうか私の涙を、 あなたの皮袋にたくわえてください。 それはあなたの書には、ないのでしょうか」。神は揺れ動いてきた私の心をずうっと記録しておられます。そしてその時々での私の涙を記憶の中に蓄えてください。しかし、文章にはなっていないのかもしれません。私は、神の記憶にあるだけで良いのです。「主よ、憐れみ給え」。私とともにいてください。3節「恐れのある日に、私は、あなたに信頼します」。あえて申し上げます。11節「私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。 人が、私に何をなしえましょう」。ある牧師がこう祈ってみたら、と言いました。すると心に平安が与えられました。主が、私の右にいらっしゃることが実感できるようになったのです。12-13節、今や、「神よ。あなたへの誓いは、私の上にあります。 私は、感謝のいけにえを、あなたにささげます。あなたは、私のいのちを死から、まことに私の足を、 つまずきから、 救い出してくださいました。 それは、私が、いのちの光のうちに、 神の御前を歩むためでした」。あれだけ、復讐に執着していた自分が馬鹿馬鹿しくなってきました。死ぬ、ということが何か単なる通過点のような気持になってきました。これが「救われた」ということなのでしょうか。讃美歌を歌いながら、ガス室に向かうこともできるようになったと思います。

今、ここに至っては、16編にあるような信仰告白が自然に、できるようになりました。敵への怒りがどこかに行っちゃいました。今から思い出せ、と言われても、なにか、それをとうの昔に乗り越えたような気分です。既に神の国に居る如く平安を得ることができました。一言、祈ります。

(ご在天の父なる御神様、今日の礼拝、賛美の時を感謝します。今日は「ダビデのミクタム」という6つの詩編からイスラエル信仰の基本を学びました。この6つの詩編はユダヤ人の歩んだ悲惨な歴史の中において読む時、絶望の中での唯一の希望、主なる神の約束に委ねる信仰を示されました。私たちは異なる時代、環境にありますが、根本における「信仰の戦い」については通じるものがあります。救いのない苦難のなかにある人々も多数いることと思います。どうか、どうか、それらの人々に「主のあわれみ」が臨みますように。インマヌエルの主が彼らと共にありますように。私たちがなすべきことをなすことができるよう知恵と力をお与えください。我らの救い主、主イエスの御名により祈ります。アーメン。)

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