ヤコブの手紙 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 調布 深大寺のプロテスタント教会 Sun, 26 Jan 2025 03:25:36 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.3.20 https://domei-nakahara.com/wp-content/uploads/2020/03/cropped-favicon-32x32.png ヤコブの手紙 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 32 32 ヤコブの勧告ヤコブの手紙5章12節~20節 https://domei-nakahara.com/2025/01/26/%e3%83%a4%e3%82%b3%e3%83%96%e3%81%ae%e5%8b%a7%e5%91%8a%e3%83%a4%e3%82%b3%e3%83%96%e3%81%ae%e6%89%8b%e7%b4%995%e7%ab%a012%e7%af%80%ef%bd%9e20%e7%af%80/ Sun, 26 Jan 2025 03:24:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6123 "ヤコブの勧告
ヤコブの手紙5章12節~20節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。昨年から毎月の月末にはヤコブの手紙を学んで参りましたが、いよいよ今回で最終回になります。そこで今日は、ヤコブの手紙全般を振り返りながら今日のみことばを読み解いていきたいと思います。

ヤコブの手紙は、行動、実践をとても重視する書簡です。「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです」という言葉が端的に示すように、中身のない信仰、行動の伴わない信仰というものを信仰とは見なしません。そのために、この手紙を読み進めると「信仰のみで救われる」というプロテスタントの教えの意味を再度問い直されていきます。信じるだけ、ということは行いが不要だという意味ではないのです。むしろ、信じることと行うこと、信仰と行いが一致するとき、はじめて私たちには信仰があるといえるのだ、というのがヤコブ書の大切なメッセージでした。信じるだけで救われるというのは、信じることと行うこととが一致する場合にのみ言えることなのだ、ということがヤコブの繰り返し語っていたことでした。

ヤコブ書の最後の箇所である今日のみことばにおいても、ヤコブは私たちの語ることと私たちの行うこととが一致するようにということを強く勧めています。では、さっそく今日のテクストを読んで参りましょう。

2. 本論

では、まず12節からです。「誓い」についてのヤコブの教えです。誓いというのは私たちにはあまり馴染みのないものに思えるかもしれません。裁判所にでも行かない限り、私たちは何かに誓うことなど日常生活ではほとんど起こらないでしょう。けれども、約束をすることは私たちの日常でもよくあることです。誓いというのは、あえて言うならば約束の上位版、重みをもった約束だと考えてみてください。

また、ヤコブの教えには、イエスの教えと響き合うものがとても多いですが、この「誓い」についての教えもイエスの教えを思い起こさせるものです。ヤコブとイエスの教えを並べて読んでみましょう。まずヤコブからです。

私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい」を「はい」、「いいえ」を「いいえ」としなさい。それは、あなたがたがさばきに会わないためです。

次いで、イエスの山上の垂訓からのことばをお読みします。マタイ福音書5章33節から37節です。

さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。あなたは頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことばは悪いことです。

このように、イエスとヤコブのことばはとても似ていることに気が付かれるでしょう。ヤコブはイエスのことばを短くまとめていると言ってよいでしょう。ただ、注意したいのは聖書は「誓い」そのものは禁じていないことです。神様ご自身がアブラハムに対して誓われたこともありますし、旧約聖書も誓いを認めています。具体的な例として、レビ記19章12節を読んでみましょう。

あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。

とありますように、誓い自体ではなく、偽って誓うことを禁止しています。では、なぜイエスやヤコブがそこからさらに一歩進んで、誓うことを禁止しているのかといえば、それは「誓い」が乱用されていたという歴史的な背景があるからです。

イスラエルの文化において誓いというのは、それを破れば私は神の呪いを受けてもよいと誓うことなのです。日本でも「嘘ついたら針千本飲ます」という言い方がありますが、よく考えると針千本飲むなんて恐ろしいことですよね。これは、私は約束を破ったら呪いを受けるよ、と自ら宣言していることなのですが、イスラエルにおける誓いは文字通りそのような非常に重大な行為だったのです。つまり、誓いは呪いとセットになっており、簡単に破ることができない重大なものです。ですから誓いのことばにはそれなりの信用が伴います。

しかし、それを逆手にとって、人に自分の言葉を信じてもらうために誓いを連発するような人が不届きモノが現れたのです。七十人訳聖書というギリシア語の聖書があり、そこには私たちが用いている聖書66巻には含まれない文書も収められていますが、その一つに「シラ書」というものがあります。そこにはこう書かれています。

むやみに誓いを口にしたり 聖なる方の御名をみだりに呼んだりするな。いつも問いただされている召し使いに鞭の生傷が絶えないように むやみやたらに誓いを立てたり御名を呼ぶ者も罪から清められることはない。(シラ23:9-10)

このように、誓いを乱用する人がいたのです。誓いというのは重大な、神聖なものと言ってよいほどの思いを持つものだったのに、あまりにも頻繁に使われるうちにその重みがなくなってしまったのです。日本語の「針千本飲ます」と言っても本当に飲ませる人なんていないですよね。イスラエルにおいても、誓いの重大さがそれが乱用されるうちに失われていったのです。

こうした、律法の本来の意図からは著しく逸脱した誓いの乱用という現実を前にして、主イエスは誓いを禁止したのです。ただ、イエスは誓いそのものが悪いと言っているのではなく、むしろあなたがたの間では誓いなど不要になるようにしなさい、と教えておられたのです。誓いが必要なのは、人の言ったことが信用できない場合です。ある人が何かの約束をした場合、「それは本当ですか?誓えますか」と問われて、「はい、誓います」と答えるということがあります。このように、誓いとは自分の言葉に十分な信用を与えられない人がそれを補完するためにするものです。逆に言えば、十分に信頼されている人のことばであれば、「はい」と「いいえ」だけで十分だということです。しっかりとした信頼関係が築かれていれば、もはや誓いは不要になります。イエスの「誓うな」という教えは誓いそのものを禁止したものではなく、むしろ誓いなど必要ないような、信頼のおける人間になりなさいということなのです。ですから、クリスチャンの中ではイエスの教えを文字通りに守るために一切誓いをしない、宣誓が要求される裁判にも参加しないという方がおられますが、そのような解釈は行き過ぎたものだと私は考えています。このように、誓いはある人の言うことと行うことが一致している場合、言行一致の場合には不要なものです。言行不一致という残念な現実があるから誓いが必要になってしまいます。イエスとヤコブは、この残念な現実を乗り越えなさいと教えているのです。

 さて、それでは次のテーマに行きたいと思います。それは祈りについて、特に病の癒しを願う祈りについてです。これは言行一致の話とは少し違いますが、これも非常に大きなテーマですね。私たちの人生における大きな困難の一つは病です。今日の社会では立派な医療制度が確立していますが、それでも直らない病というものがあります。ましてや、医療が整っていないイエスの時代には、人生における病の治療は大問題であり、病を癒せる人がいればその人は大変な人気を集めたことでしょう。実際、主イエスが大変有名になったのはその癒しの力のゆえでした。しかし、とはいえこのヤコブの手紙に書かれているような内容は、今日の教会にむしろ困惑を与えるものかもしれません。というのも、ここでは教会の「長老」と呼ばれる人たちに癒しの力があるということが前提となっているからです。しかし、私たちの教会にも他の教会にも病を癒せる人なんていませんよね。

しかし、今日の教会でも「神癒」と呼ばれる癒しの力を強調するグループがあり、それは主にホーリネス系のグループだと言われています。ホーリネスは日本最大の教派である日本キリスト教団においても、私たち同盟教団においても大切な母体となったグループの一つですので重要なグループの一つですが、そのホーリネスのクリスチャンの中ですら、本当に神癒と呼ばれるものが現代においてもあるのだろうかと懐疑的な方もおられます。イエス様や最初の使徒たちには確かにそういう力があったのだろうけれど、今日にはそういう力はないのではないか、と思う方の方が多いかもしれません。

しかし、20世紀においてもインドの聖者、使徒パウロの再来とまで言われたサンダー・シングという人は神癒を行ったそうです。とはいえ彼は、そのために人々の信仰がイエスではなく自分に向けられてしまうことを恐れて、一度それを行った後はその癒しの力を封印したそうです。他方で、アメリカのいわゆるテレビ伝道師は、テレビの中でいわばショーでも行うかのように様々な病の癒しを毎週実演していることがありますが、それはやらせではないかと思う人が多いようです。私も詳しくそういう番組を見たわけではないので、あまり正確なことは申し上げられませんが、その手の番組ご覧になった方の中にはそのような印象を持たれる方が多いということです。私個人の考えでは、今日でも例外的にそのような癒しの賜物を与えられている人はいるとは思うのですが、それはとうてい一般的なことではない、つまり誰でもできるようなものではない、というものです。また、癒しの賜物を与えられている人でさえ、いつもそれができるかと言えば決してそうではないとも思います。あのパウロでさえ、癒しを求めて神に三度祈りましたが、聞き入れられなかった、と書いています。ですから、癒しというものはそういう力がある人が祈ればいつでもどこでも叶うというような、そんな便利なものではなく、むしろ神の選ばれた時に、神がなそうとされた時のみに起きるもので、私たちの祈りとはそうした神の力が実現するために必要な要因の一つだと考えています。神は私たちの祈りに応えて癒しを行うということを望まれているので、私たちは祈るべきだということです。同時に、祈ったからといって自動的にそれが叶うとも考えてはいけないでしょう。あくまでこの件についての主権は神にあるのです。人間が立派な祈りを捧げたから、神は必ずそれに応えなければならないとか、そのように考えてはならないのです。神は私たちが祈ったからといって動かせるようなお方ではないからです。

ではそうした癒しの賜物が与えられていない人にはこのヤコブの言葉は何の意味がないのかといえば、そうではありません。ヤコブはここで、もう一つ非常に大切なことを述べているからです。それは罪の赦しの問題です。みなさんは、「信仰による祈りは、病む人を回復させます」という教えと、「また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます」という教えが並べられていることが奇妙に思われるかもしれません。病気の癒しと罪の赦しは全然別ものではないか、という疑問が生じるということです。現代の医学の常識から考えれば、罪を犯すと病気になるなどといえば、とんでもないことを言うと非難されるでしょう。ただでさえ病気で苦しんでいる人に、「あなたの病は自分の罪のせいだ、自業自得だ」などと言えば傷口に塩を塗るようなもので、相手をさらに苦しめることになるでしょう。

しかし、すべての病がそうだということではもちろんありませんが、罪と関係のある病というものも存在するようなのです。これは心理学者のフロイトらが発見したことですが、体調に不調を覚える人がある種のカウンセリング、セラピーを受けることによって治ったということがありました。どんな場合かといえば、過去のトラウマになった出来事があり、そのことを忘れていた場合にそれを思い起こすことで体の不調が直るというような事象は確かにあります。そのトラウマになった出来事が罪の意識を結びついていることが多く、そのことを思い出し、そしてその罪がもう赦されている、あるいは自分が思っていたような罪ではなかったことを自覚することで、音が聞こえないというような体の障害や不調が直ってしまうというようなことがあるのです。ですから、罪を告白してその罪に向き合い、その罪の赦しを願うことで癒しが起きるということは、素人考えながら心理学的にも実証された効用があるものと思われます。カトリックには神父に罪を告白する告解と呼ばれる秘蹟がありますが、プロテスタントにおいても信頼のおける兄弟姉妹同士で罪を告白しあうということは非常に意味のあることだということを、このヤコブの教えは示しています。心の重荷は担い合うべきだということです。

そして19節と20節にはヤコブの最後のお勧めがあります。それは真理から迷い出た兄弟姉妹に関することばです。そういう人を救い出すことができれば、その人自身のたましいを救うだけでなく、自分の多くの罪をもおおうことになる、自他ともに益を受けるということをヤコブは語っています。これも大切な教えですね。日本の教会では、洗礼を受けるまでは一生懸命世話をするのだけれども、その後のフォローアップが十分でないので洗礼を受けた後に教会を離れてしまう人が多いという話を聞きます。確かに大きな教会になると、なかなか一人一人の信徒に目を配ることができないという現実もあるのでしょう。キリスト教信仰というものは、一度信じたら終わりというものではなく、生涯をかけて変化し、成長していくものだと私は考えています。私自身の信仰を振り返っても、大きな変遷といいますか、大きく変わっていった過程があったと、今振り返ると強く思います。今思い返してみて幸いだったのは、信仰の成長の節目・節目に相応しい導き手のような方々と出会えたことでした。もしそういう出会いがなかったならば、私も信仰から離れてしまっていたかもしれません。ですから、私はそういう出会いに感謝し、私を導いてくださった方々だけでなく、そういう出会いを与えてくださった神に感謝しています。私たちも、自分の救いと同時に、信仰に迷う人たちを導けるような、そういう人になりたいと強く願うものです。そのためには私たち自身が成長していく必要があります。このように、信仰というものは一人で育てるものではなく、共同体の中で育まれていくものなのです。

3.結論

まとめになります。これまで一年間にわたってヤコブの手紙を学んで参りました。本当に大切な教えが数多く含まれる、みことばの宝石箱のような書簡でした。ヤコブの手紙の大きなテーマは「一致」でした。言葉と行動が一致すること、今日の教えにもあったように、自分の語ることと行うことが一致していることです。また信仰と行動が一致することの大切さも繰り返し語られました。よく、救いには行いが必要なのか、信仰だけでよいのかと聞かれることがありますが、そのような問い自体がおかしいのです。人間は本当に信じているものに従って行動します。私たちが何かを信じていれば、それは必ずその人の行動に影響を及ぼします。私たちは本当に信頼している人からのアドバイスであれば、それが多少難しそうに思えても実行します。実行しないのは、その人のことを心からは信頼していないためなのかもしれません。同じように、神を心から信頼していれば、おのずとその教えに従おうという気持ちになるでしょう。もちろんすべてをすぐさまできるようになることはありえません。それでも、神様を心から信頼しているのなら、私たちは自然にその教えに沿った生き方をしていくようになるのです。

また、教会の兄弟姉妹の間で信仰の一致があること、そうしたことの重要性を訴える書簡でもありました。信仰は、神様と私たち一人一人の間だけの問題ではありません。兄弟姉妹同士の間の信頼関係も同様に重要です。私たちが神様を信頼して歩むように、兄弟姉妹のことも信頼して歩む、助け合い、支え合って歩むことの重要性が、特に今日のみことばで語られていました。私たちは自分一人が神様とそれぞれ勝手につながっていれば救われるのではありません。横のつながり、兄弟姉妹のつながりなしには私たちの信仰は育たないのです。ですから教会は尊いのです。信仰とは仲間と共に育てるものだからです。

このように、様々な「一致」を教えるヤコブの手紙を、これからも折に触れて読み返し、朗読し、実践して参りましょう。お祈りします。

ヤコブの手紙を私たちにお与えくださった神様、そのお名前を賛美します。これらのヤコブの素晴らしい教えや勧めを胸に留めて今後も歩むことができるように私たちをお導き下さい。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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忍耐への報いヤコブの手紙5章7節~11節 https://domei-nakahara.com/2024/12/29/%e5%bf%8d%e8%80%90%e3%81%b8%e3%81%ae%e5%a0%b1%e3%81%84%e3%83%a4%e3%82%b3%e3%83%96%e3%81%ae%e6%89%8b%e7%b4%995%e7%ab%a07%e7%af%80%ef%bd%9e11%e7%af%80/ Sun, 29 Dec 2024 05:13:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6054 "忍耐への報い
ヤコブの手紙5章7節~11節" の
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みなさま、おはようございます。早いもので、本日が2024年の最後の主日礼拝になります。この一年間も主に守られてこうして教会の歩みを続けられたことを心から感謝します。今日はヤコブの手紙からみことばを取り次がせていただきます。ヤコブの手紙は今年の二月から毎月月末にメッセージさせていただいておりますが、来年の一月で最終回になります。ですから、ちょうど丸一年かけてヤコブ書を学んできたことになります。

そして今日の箇所ですが、これは前回の箇所である5章1節から6節までと対になっています。といいますのも、1節から6節までは、貧しい人を虐げる富んだ人たちに対する警告、神の裁きが近いという厳しいメッセージでしたが、この7節から11節までは逆にこうした富んだ人たちから搾取されて苦しむ貧しい人たちに向けてのメッセージになっているからです。貧しい人たちの苦しみを顧みずに彼らから搾り取れるだけ搾り取ろうとする人々に対しては、主の厳しい裁きが待っているわけですが、では彼らに苦しめられる側の貧しい人たちはどうすべきなのか?そのような状況に置かれていた彼らが取るべき態度は何か、というのが今回のテーマです。

そのような問いについて、今日の箇所をお読みいただければお分かりになるように、ヤコブは「忍耐しなさい」と教えます。しかし、こういう教えに反発を感じる現代人は多いのではないでしょうか。理不尽な状況に置かれながら、ただ我慢して待て、というのは我慢できないという人もおられると思います。資本家たちに搾取されていた労働者に対して団結を説き、ブルジョアを打ち倒して労働者の天国を築くことを目指した共産主義の生みの親であるカール・マルクスは「宗教はアヘンだ」と喝破しました。現状の不平等や不正義を手をこまねいて甘受し、いつか天国にいけるのだから今は我慢しようというような態度は、結局は時の権力者にいいように使われているだけではないか、と言おうとしたのでしょう。確かにマルクスの言うことにも一理あります。宗教を利用して、人々の当然持つべき不公平な状況への怒りを逸らしてしまおうという試みがあるとすれば、そんなことは許せないと感じるでしょう。権力の側と結びついた体制維持のための宗教には、確かに警戒しなければない面があります。しかし、ではかつての共産主義が是とした暴力革命、つまり力づくでブルジョアを打ち倒して理想の社会を築こうという試みが正しいのかといえば、暴力によって樹立された政権は、結局は人を幸福にはしてくれないということも歴史が証明した真実なのではないでしょうか。

私たちが目指すべきなのは、現状をただ仕方がないと諦めてしまう諦念でもなく、反対にいくら血を流そうとも理想の社会を追求するためにはそうした犠牲も仕方がないのだというある種のニヒリズムでもなく、むしろ主の御心を実行していくことです。では主の御心とは何かを考えてみましょう。

私たちは来年の年間主題聖句として詩篇37編の一節を選びました。それは、5節の「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」というみことばでした。そして、このみことばが含まれている詩篇37編全体は、今日のヤコブの手紙の教えと非常に深い関係がある箇所なのです。この37編全体のテーマは、悪を行って栄えている者に対してどうするべきか、ということです。それについてどのような教えがあるのか、いくつかの箇所を読んでみましょう。まず1節と2節です。

悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対してねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるからだ。

また、7節にはこうあります。

主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。

さらに、10節から13節までをお読みします。

ただしばらくの間だけで、悪者はいなくなる。あなたが彼の居所を調べても、彼はそこにはいないだろう。しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。悪者は正しい者に敵対して事を図り、歯ぎしりして彼に向かう。主は彼を笑われる。彼の日が迫っているのをご覧になるから。

悪者に対して腹を立てるな、ということが強調されています。これらの箇所から明らかなのは、一貫した聖書の教えである「復讐は神のすることだ」という教えです。悪者に対して腹を立てるな、我慢し、耐え忍びなさいというのは、ただ我慢して悪事を見逃せということではなく、彼らの悪事を裁くために主が行動されるのを待ちなさいということです。主は悪が栄える状態をずっと放置することはない、だからあなたは慌てて動こうとせずに主が動かれることを信じて待ちなさいというのがこれらのメッセージの内容なのです。待つということは、正義を行われる主を信じることであり、それゆえ神への信仰が試されることなのです。

しかし、待つといっても神様が行動されるまで何もしないでじっとしていろということでもありません。確かに私たちは復讐や報復のような行動は控えなければなりませんが、しかし何もしないということでもないのです。そのことを、再び詩篇37編から確認してみましょう。3節にはこうあります。

主に信頼して善を行え。地に住み、誠実を行え。

また、27節と28節にはこうあります。

悪を離れて善を行い、いつまでも住みつくようにせよ。まことに、主は公義を愛し、ご自身の聖徒を見捨てられない。

そして、34節にはこうあります。

主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを高く上げて、地を受け継がせてくださる。あなたは悪者が断ち切られるのを見よう。

このように、悪者が悪いことをして栄えているのを見ても、それを羨んで真似しようとしたり、あるいは反対に悪者を自分の手でやっつけてやろう、正義の鉄槌を下してやろうというようなこともせずに、むしろあなたはただひたすら正しいこと、善を行いなさいというのが聖書の教えなのです。私たちは悪への報復は主に委ねつつ、悪とは反対のこと、つまり正しい行いによって悪に抗議する、悪とは違う道があることを世に対して証ししていく必要があるのです。

そのような聖書の教えの積極的な面をも踏まえながら、今日のヤコブの言葉を読んでいきましょう。7節、8節、9節をお読みします。

こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。

ヤコブは、主が来られるまで耐え忍びなさいと繰り返し語ります。しかも、先に申しましたように、ここには単に待つだけでなく、倦むことなく善い行いをしなさい、という教えも含まれているものと思われます。同時に、主が来られる時は近いということを強調しています。主が来られるというのはイエス・キリストが再び来られること、すなわち再臨のことでしょう。そう考えると、ヤコブの手紙が書かれた頃から二千年も後の時代に生きている私たちは戸惑いを覚えてしまうかもしれません。主の再臨が近い近いと言われて、もう二千年も経ってしまったではないか、ヤコブは主イエスがすぐにも戻って来られるのだというような、大きな勘違いをしていたのではないか、と思われるでしょう。ヤコブだけではありません。パウロもこう言っています。ローマ書の13章11節をお読みします。

あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。

このように、パウロも主イエスが来られる日は近い、もうすぐだという確信を抱いていたように思われます。ヤコブやパウロだけでなく、実に新約聖書全体に、主の来られる日は近いというメッセージがあちこちにあるのです。これをどう考えるべきなのか、新約聖書を書いた人たちは主の再臨に関して間違っていたのだろうか、という疑問を持たれるかもしれませんし、実際にそのように論じている人もたくさんいます。これは新約聖書研究における大問題であり、学者たちの間でも喧々諤々の議論がなされているテーマなのです。

この件についての私の考えは、これは私の個人的な意見だと断ったうえで申し上げるのですが、確かに主イエスはもう来られたのです。主イエスご自身も、

まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。(マタイ16:28)

と言われました。主ご自身が、紀元一世紀に生きた弟子たちが生きている間に人の子が来ると予告されたのです。ここでの人の子とはもちろんイエスご自身のことです。ですから、イエス御自身が、ヤコブやパウロと同じように、主が来られるのは近いということを請け負っておられたのです。ただ、それは主イエスが文字通りの意味で人間の姿で空からスーパーマンのように下って来たという意味ではありません。私たちは「主が来られる」という言葉を文字通り、字義通りの考えようとしますが、その字義通りという考えかたそのものが曲者だということです。聖書というのは、比喩的な表現や象徴的な表現が非常に多く用いられている書です。それらを無理やり文字通りに読もうとしても、かえって意味を見失ってしまうのです。例えば出エジプト記の19章4節に、「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れてきたことを見た」とありますが、神様が本当にイスラエル人たちを鷲に載せて運んだわけではありません。神の力強い働きを鷲に譬えているのです。

「主が来られる」というのも同じです。神は霊ですから、神が来られる時に人間の肉眼で見える姿で現れると考えるほうがおかしいのではないでしょうか。実際のところ、神はこれまでも何度も世界に裁きのために来られたのですが、その際に人間の目に見える姿で来られたわけではありません。一番有名なケースは、ノアの大洪水の時でしょう。神は世界を裁くために来られ、現実に世界は神の裁きのために一度は水没して虚無に服しました。その時に神は確かに地を裁くために来られているのですが、それは文字通りに神が人の姿で人間の前に現れたということではありません。その他にも神は裁きのために来られています。

他の有名な例は、エレミヤが預言したようにイスラエルに裁きをもたらし、ソロモン神殿と呼ばれた最初の神殿を破壊するために来られました。エゼキエル書10章には、神がエルサレム神殿を視察して、その罪をご覧になったことが描かれています。その時も、神は肉眼で見えるような姿で現れたのではなく、霊において来られましたので、エゼキエルのような霊眼が与えられた人以外には神が来られたことを知る人は誰もいなかったのです。そして神は、バビロンを用いてイスラエルに裁きを下しました。主はエレミヤを通じて次のように宣言しています。エレミヤ書34章21節と22節をお読みします。

わたしはまた、ユダの王ゼデキヤとそのつかさたちを敵の手、いのちを狙う者たちの手、あなたがたのところから退却したバビロンの王の軍勢の手に渡す。見よ、わたしは命じ、-主の御告げ-彼をこの町に引き返させる。彼らはこの町を攻め、これを取り、火で焼く。わたしはユダの町々を、住む者もいない荒れ果てた地とする。

このように、主は地を裁くためにこれまでも何度も地に来られました。もちろん、多くの人は「そんなものは神とは何の関係もない。ノアの洪水はただの自然災害であり、神の裁きなんかではない。南ユダ王国とその神殿が滅びたのも、ユダ王国の誤った外交政策の結果であり、神とは何の関係もない。歴史の中に神の見えない手が働いているなんていうのは単なる妄想だ」というでしょう。しかし私たちクリスチャンの信仰は、本当の意味で歴史を動かしているのは人間ではなく神であり、紀元一世紀に主イエスが昇天されてからは世界の歴史は主イエスの支配の下で進んでいるのだと信じています。ですから主イエスが裁きのために霊において私たちの世界に来られたと信じることは、おかしなことではないでしょう。使徒パウロもコリント教会の人たちに対し、こう書いています。

私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行いをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。(第一コリント5:3)

パウロにできたことを、主イエスがなされるのは当然です。そして、紀元一世紀に主イエスが間違いなく来られたと信じるべき瞬間があります。それは、主イエスが地上の生涯の終わり、エルサレムに滞在中にその破壊を予告されたヘロデ神殿が崩壊した時です。この神殿を破壊したのはローマの軍隊ですが、その背後には主イエスの裁きの手が働いていたと考えるべきです。そして、この神殿が破壊された時に、ユダヤの貧しい人たちを苦しめて来た富んだ者たち、とくに神殿を支配し、貧しい農民から厳しい年貢を搾り取っていた大祭司たちは厳しい裁きを受けました。まさにヤコブの語った通りのことが起ったのです。

そして、主は裁きだけでなく、大いなる報いを携えて来られるということも忘れてはなりません。主は悪に対しては裁きで報いますが、善に対しては報いをお与えになるのです。ヤコブは10節、11節で次のように記しています。

苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

ここで言われている預言者たちとは具体的に誰のことなのかは分かりませんが、迫害を受けながらも大胆に主のことばを語ったアモスやエレミヤが含まれているのは間違いないでしょう。ただ、次に語られているヨブについては、確かに彼の場合には苦難の後に財産も家族も二倍になったと書かれていて、報いを受けたというのは分かるのですが、預言者たちについてはそう言えるのでしょうか?預言者エレミヤは40年もの間激しい迫害を受けながら預言を続けましたが、彼の晩年はけっして平穏なものではありませんでした。彼は自分の意に反してエジプトに連れて行かれ、そこで不遇のまま没したと伝えられています。とても報いを受けたようには思えません。しかし、人間の目には不遇の一生のように見えても、死者の魂をも支配される神によってエレミヤは大いなる報いを受けたと考えるべきでしょう。ギリシア語で書かれている七十人訳聖書というものがあり、原始キリスト教たちによって大切に読まれていて、カトリックや東方正教会では聖書に含められている文書の一つに『知恵の書』とよばれる書があり、その3章1節から3節には次のように書かれています。

正しい人たちの魂は神の手の内にあり いかなる責め苦も彼らに触れることはない。彼らは愚か者たちの目には死んでいるように映り この世からの彼らの旅立ちは災いに 我々からの離別は破滅に見えた。しかし彼らは平安の内にいる。

このように、人間の目には報われない一生を過ごしたように見えた聖徒たちの魂は、主によってねんごろに取り扱われているということが書かれています。そういう人たちは主から大きな報いを受けるのです。

ここで、「報い」ということについて考えてみましょう。キリスト教神学、とりわけパウロ神学によれば、人間はひたすら神の恵みによって救われるのであって、神から報いを受けるのに値しない罪人だという見方があります。確かにそれは一面では正しい見方です。私たちが良いことをなすことがあったとしても、それは神の憐みのゆえに、聖霊の力で行ったことであり、私たちが神からの報いを期待できるような私たち自身の功績ではないのです。それでも、神は恵み深い方ですので、私たちの積み重ねた小さな善い行いを喜んでくださり、報いをくださるのです。パウロもこう言っています。

神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え[られます]。(ローマ2:6-7)

主は私たちの歩みに注目しておられます。そして私たちがなす、ほんの小さな善行にも喜ばれます。それは親が子どもの良いところを見つけて喜ぶようなものです。人間の親ですら、子どもの良い行いには喜んでご褒美をあげるのですから、天の父はなおさらです。ですから、私たちは残り少なくなった今年も、そして来年も倦むことなく善い行いに励んで参りましょう。お祈りします。

憐み深く、恵み深く、私たちの悪を裁くことには忍耐強く、私たちの善に報いてくださることには鷹揚であられる主よ。そのお名前を賛美します。今年一年の守りに深く感謝します。私たちもまた、来年も主に従っていこうという決意を新たにしたものです。どうか私たちを強めてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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富の危険性ヤコブの手紙5章1~6節 https://domei-nakahara.com/2024/11/24/%e5%af%8c%e3%81%ae%e5%8d%b1%e9%99%ba%e6%80%a7%e3%83%a4%e3%82%b3%e3%83%96%e3%81%ae%e6%89%8b%e7%b4%995%e7%ab%a01%ef%bd%9e6%e7%af%80/ Sun, 24 Nov 2024 00:39:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5967 "富の危険性
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1.序論

みなさま、おはようございます。毎月月末は、サムエル記から離れて新約聖書のヤコブの手紙からメッセージをさせていただいております。そのヤコブの手紙も、終盤にさしかかって参りました。ヤコブの手紙ではとりわけ貧しさや富の問題がクローズアップされていますが、今日のみことばもまさにそのような内容になっています。

さて、私たち誰もが感じていることですが、ここ数年の物価の上昇は驚くべきものがあります。ずっとデフレでモノの値段は上がらない、あるいは下がるという状態に慣れてしまった私たちにとって、この物価上昇は大変きついものに感じられます。値段が上がっているものも、住宅のような一生に一度の買い物から日用品に至るまで、あらゆるモノの値段が上がっています。日本人の日々の食卓に欠かすことのできないお米は、感覚的には倍近くに値上がりしているようにすら思えますが、報道でも60%の上昇だということです。こういう時に、お金の心配がないお金持ちはいいなあ、と思うのが庶民の気持ちでしょう。しかし、今日のみことばでは、金持ちに対して非常に厳しい言葉が向けられています。読んでいると、財産を持つのは悪いことのようにすら思えてきてしまうのですが、しかしそういう単純な話でもありません。ヤコブは金持ちのどのような点を問題にしているのか、その背景をよく考えていく必要があります。

聖書を読むと、このヤコブ書に限らず神様は貧しい者の味方で、富んだ者には大変厳しいという印象を持たれるかもしれません。有名な話では、イエス様が神殿のお賽銭箱の前で、大金をポンと献金するお金持ちと、僅かな金額ながら全財産を献げた貧しいやもめをご覧になって、こう言われました。

まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費を全部投げ入れたからです。(マルコ12:43-44)

このように、主イエスはとりわけ貧しい人々の信仰心に目を留められ、称賛されました。また、ルカ福音書では、主イエスはご自身が貧しい人たちに福音を宣べ伝えている(ルカ7:22)と語り、特に福音宣教の対象として「貧しい人々」を名指ししています。さらには、マタイ福音書の「山上の垂訓」に対応するルカ福音書の「平地の説教」では、富んだ者と貧しい者がはっきりと対比されています。

貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。[…] しかし、あなたがた富む者は哀れです。慰めをすでに受けているから。いま食べ飽きているあなたがたは哀れです。やがて飢えるようになるから。(ルカ6:20-21, 24-25)

マタイ福音書では「心の貧しい者」となっていて、精神的な貧しさ、乏しさについて語っているように見えますが、ルカ福音書では明らかに経済的な貧しさ、貧困や飢えについて語っています。このように、主イエスの教えにははっきりと経済的な弱者への慰めと、経済的に富んだ者たちへの警告というメッセージが込められています。

しかし、聖書全体を見回すと、単純にお金持ちが非難されているわけではありません。むしろその反対に見えるような箇所もあります。例えば箴言10章15節には次のようなみことばがあります。

富む者の財産はその堅固な城。貧民の滅びは彼らの貧困。

このように、財産は自分を守ってくれる良いものなのだ、というような見方があります。また、いわゆる自己責任論、つまり貧困は自らの怠惰が招いたものなのだという見方もあります。有名な箇所ですが、同じく箴言6章6節以降をお読みします。

なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。蟻には首領もつかさも支配者もいないが、夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時には食糧を集める。なまけ者よ。いつまで寝ているのか。いつ目をさまして起きるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む。だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。

このように、聖書の中には私たちの貧困はだらしない生活を送ってきた私たち自身が招くものだ、というような見方も確かにあります。それも場合によっては真実でしょう。しかし、いくら頑張っても貧困から抜け出せないというような場合も確かにあるのです。そのような場合、貧困はその人のせいというより社会全体の問題、構造的な問題なのです。

そしてイエスが貧しい人たちを擁護し、富んだ人たちを糾弾したのは、個々人の生活態度についてというより、社会全体の歪んだ構造を非難していたと考えるべきです。というのも、イエスの時代の貧困者の多くは歪んだ社会の犠牲者だったからです。

イエスの時代に、人々から軽蔑されていた職業というか生き方は四つありました。「取税人」、「遊女」、「物乞い」、そして「強盗」です。それぞれ全然違う生き方のように見えますが、そこには共通点があります。それは、そうした生き方をしている人たちは好き好んでそういう生き方をしているのではなく、強いられて、あるいはやむを得ずにそういう生き方しか出来なかったということです。なぜならイエスの時代の人々の税金は大変重かったからです。日本の江戸時代には五公五民という言葉がありました。収穫の五割はお上に年貢として納めるということです。今で言うと税金50%です。五割も税金に取られたら、低所得の人は生きていけませんが、今の日本ではここまで税負担が重いのは高額所得者だけです。しかし江戸時代は貧しい農民も50%の税金を納めていました。大変な負担です。まさに「生かさず殺さず」という状態です。

しかし、イエスの時代の人々は江戸時代よりもさらに過酷な現実の中を生きていました。ユダヤ社会は逆累進課税、つまり貧しい人ほど税金が重く、お金持ちはほとんど税を納めずにますます肥え太っていくという社会だったからです。一般のユダヤ人は宗教税として収穫の2割から3割を大祭司たちに納めていましたが、他方でユダヤを植民地支配するローマ帝国にも2割から3割の税を納めていました。ですから二重課税で、ユダヤとローマに収穫の5割から6割を納めていました。税金が払えない場合は、ローマの取り立ては厳しいので借金をしてまでも税を納めますが、その借金が返済できないと担保の畑を取り上げられてしまいます。しかも、そうした貧しい農民から畑を取り上げてお金持ちになっていくのは宗教的なリーダー、大祭司たちでした。イエスの時代の大祭司は、ローマによって大地主から選ばれていたと言われているからです。ですから、なんとイエスの時代の大富豪とは宗教リーダーだったのです。

こうして畑をなくした農民は小作農となり、小作料を払わなければなりません。税に加えて小作料も、となると、なんと収穫の8割をもっていかれ、手もとに残るのはわずか二割です。日本の平均年収は四百万と言われていますが、それで考えると税で三百二十万円もっていかれて残りの八十万円で生活しろ、と言われるようなものです。でも、それでは生きてはいけないですよね。食うに困るとどうするか?今の時代の困窮した若者が闇バイトに堕ちていくように、当時のユダヤの若者は「強盗」になりました。強盗になるほどの元気のない人たちは「物乞い」になりました。他の人たちはローマに雇われて同胞のユダヤ人から税を取り立てる、嫌われ者の「取税人」になり、若い女性は自分の体を商品にする「遊女」になりました。このように、「取税人」、「遊女」、「物乞い」、そして「強盗」になる人たちは、追い詰められてそういう生き方しかできなくなってしまった人たちでした。イエスはそういう弱い立場にある人たちに寄り添い、そういう歪んだ社会を維持しようとしている金持ちたちを批判したのです。今日のヤコブの手紙も、そのような時代背景を踏まえたうえで読んでいきましょう。

2.本論

今日の聖書箇所は富の問題を扱っていますが、それは前回の箇所、特に4章13節から17節までも同じでした。そこでも、富を得ようとして商売に励む人のことが語られていました。しかし、前回の場合はヤコブが語りかけている相手は同じクリスチャンでした。主にある兄弟姉妹に対して、愛を持って諭すというような内容でした。それに対して、今回の箇所はヤコブは教会の外の人たちに向かって語りかけています。その激しい言葉は、社会的弱者を虐げる特定のグループの人たちに向けられています。その舌鋒は、社会に蔓延する不正を厳しく糾弾した預言者アモスの言葉を彷彿とさせます。アモスは、経済的繁栄の下で貧しい人たちが苦しめられている状況について、厳しい神の言葉を残した預言者です。そのアモスの言葉を一つ読んでみたいと思います。5章11節以降です。

あなたがたは貧しい者を踏みつけ、彼から小作料を取り立てている。それゆえあなたがたは、切り石の家々を建てても、その中に住めない。美しいぶどう畑を作っても、その酒を飲めない。私は、あなたがたのそむきの罪がいかに多く、あなたがたの罪がいかに重いかを知っている。あなたがたは正しい者をきらい、まいないを取り、門で貧しい者を押しのける。それゆえ、このようなときには、賢い者は沈黙を守る。それは時代が悪いからだ。

ここで「正しい者」となっていますがヘブライ語ではツァディク、つまり「義なる者」、義人となっています。貧しい人は義人だと言われているのですが、その義人を富んだ者たちが虐げているというのです。「義人」という言葉は、しばしば「義人はいない」、つまり人間は皆罪人なのだ、というような意味合いで使われますが、このように聖書はしばしば貧しい人たちのことを「義人」と呼んでいることに注意すべきです。そしてそれは今日のヤコブ書でも同じです。5章6節には、「あなたは正しい人を罪に定めて、殺しました」となっていますが、これは直訳すれば「あなたがたは義人を弾劾して、殺しました」となります。これは罪のない正しい人を冤罪に陥れて殺したというような話ではなく、もっと生々しい話、つまり凶作で小作農が払えない貧しい農民を、税を払わないと訴えて身ぐるみはがして生活を破壊する、というような話でしょう。つまり法律的には合法かもしれませんが、人間としては最低な振る舞いのことです。合法といっても、当時の慣習では、という話であり、神の律法に照らせば違法です。なぜならモーセの律法は同胞のユダヤ人に利子を取って貸しつけることを禁止しているからです。「金銭の利息であれ、食物の利息であれ、すべて利息をつけて貸すことのできるものの利息を、あなたの同胞から取ってはならない」という教えが申命記23章19節にあります。しかし当時のユダヤ社会ではいろいろ理屈をつけて利息を取らないという教えが空文化され、むしろ高利で貸して返せない場合は身ぐるみはがすというようなことが行われていたのです。そのような行動はバビロン捕囚後に行われていて、ネヘミヤはそれを厳しく叱責していますが、利子の禁止をユダヤ社会に徹底するのは非常に難しかったようです。

さて、最後の6節をまず取り上げましたが、最初に戻って1節から見て参りましょう。ヤコブは金持ちたちに「泣き叫べ」と厳しい警告を発しています。これは笑って満足している金持ちたちに、冷や水を浴びせるような言葉です。なぜ金持ちたちが泣かなければならないのか。それは、彼らの頼りにする大きな財産が、裁きの日には彼らに不利な証拠となる、不利な証言をすることになるからです。ヤコブはここで明らかに、私たちのこの世の人生を超えた、永遠の運命について語っています。ヘブル人への手紙には、「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(9:27)というみことばがありますが、ヤコブはそのことを言っています。この世で満ち足りで死んでいった金持ちたちは、それで終わりではありません。死んだ後に、私たちはどう生き方が問われるのです。その時には、地上で頼りにしていた金銀財宝は腐り、さび付き、虫に食われているというのです。あの世を待つまでもなく、この世においても財産は一瞬で失われることがあります。日本もこれから巨大地震が来ると言われていますが、その時に失われる富の巨大さは天文学的なものとなるでしょう。だから主イエスも天に宝を蓄えなさいと教えられました。その箇所をお読みします。マタイ6章19節以降です。

自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

このように、オレオレ詐欺に狙われてしまうようなこの世の富を蓄えるのではなく、天に蓄えなさいとイエスは教えます。では、どうすれば天に貯金することができるのか?それは、貧しい人たちにタダで与えことによってです。そうすれば、私たちは天に宝を積むことになりますし、その宝は詐欺被害で奪われることもありません。しかし、ヤコブが語りかける金持ちたちは、貧しい人たちに与えることをせずに、むしろ奪ってきました。正当な対価を払わずに彼らを安い賃金で働かせ、そのおかげで自分たちは金持ちになっているのです。しかし、こうした未払いの賃金もまた、終わりの日の審判に際しては、金持ちに不利な証拠となり、不利な証言をすることになります。この世ではうまく逃げきれたとしても、私たちの死後の魂さえ支配される神は、私たちに正当な裁きを下されるでしょう。

3.結論

まとめになります。今日のヤコブの手紙の内容は、貧しい人たちを虐げる金持ちについてであり、私たちには直接関係のない話のように思われたかもしれません。しかし、正当な賃金を払わないという話は現代にも大いに関係してくる話です。今日はグローバル社会だと言われています。世界中の国々が自由に結びつき、国境がなくなり、モノやカネが自由に行き来するようになりました。これは素晴らしいことだ、というようなことがよく言われます。しかし、問題も大きいのです。例えば私たちの日本では、最低の時給は千円ぐらいですよね。しかし、最低賃金が300円の国があり、しかもその国民はよく働く人たちだとします。企業の経営者としては、三分の一の賃金で働いてくれる人たちの方に仕事を回そうと考えます。しかし、そうなると日本での仕事は失われます。どんどん失われていきます。日本人は三倍も給料が高いのだから、三倍ぐらい価値のある仕事をしないといけない、そうでなければ仕事を失いますよ、というわけです。しかし、人間の能力は途上国の人も先進国の人もそんなに変わりません。同じくらいの資質・素質の人の三倍も価値のある仕事をしろと言われても、とても無理でしょう。たしかに、一部の特別優秀な人はそれくらい難なくできてしまうかもしれません。しかし、そんなことが出来る人はごく一部です。こうして、仕事を奪われた人はどんどん貧しくなり、モノが買えなくなります。企業としても、国民がどんどん貧しくなるので国内市場には見切りをつけて、海外で勝負しよう、海外で売ろうという話になります。そして海外市場で勝つためにますます安い労働力が必要になるので、ますます賃金の高い日本人は雇わなくなります。こうしてグローバル化が進めば進むほど、普通の日本人は貧しくなっていくのです。こういう現象が日本だけでなく、あらゆる先進国で起こっています。あれだけアメリカのマスメディアから激しく攻撃されたトランプ氏が大統領選で勝てたのも、こういう人たちの不満にこたえようとしているという期待を多くの人たちが抱いたからなのです。そうはいっても、グローバル経済のおかげで貧しかった国々にもチャンスが生まれ、貧しかった国々はどんどん豊かになっているではないか、という反論もあります。先進国の人の問題ばかりを見るべきではない、とも言われます。しかし、今の中国を見れば分かるように、たしかに国としては豊かになっても、その繁栄の下で苦しむ貧しい人たちもものすごい数になっています。グローバル経済に組み込まれた途上国では、むしろ富の偏在が進んでいるのです。最近の中国で凶悪事件が増えているのも、そういう経済格差の大きさゆえだということはしばしば指摘されることです。

私たちの生きる時代は、ヤコブの手紙が書かれた時代とは全く異なります。ただ、グローバル化が進んだ時代という意味では似ているところがあるようにも思います。当時はバラバラだった世界をローマ帝国が武力で統一し、自由なモノの往来を可能にする経済圏を作り上げました。しかし、その結果生じたのは富の偏在、超格差社会でした。今日ではローマ帝国ではなく、自由主義経済が世界を統合しようとしています。主役は軍隊ではなく大企業です。しかし、その結果さらに極端な富の偏在、格差社会が生じてしまいました。それをどうすればよいのか、クリスチャンとしてどんな社会を目指せばよいのか、というのは非常に大きな問題です。けれども、自分の利益を最大化するためなら何でも許されるというような価値観が聖書の価値観と対立するものであるのは間違いのないことです。私たちの信じる神は弱い者の側に立たれる神であるということを覚えつつ、これからも神の目指す社会とはどんなものなのか、聖書に学び、真剣に考えなければなりません。そのために祈り、考え、働いて参りましょう。お祈りします。

貧しい者、弱い者を愛し、彼らを助けられる神様、そのお名前を賛美します。私たちは今日、富の問題、格差の問題をいろいろな場面で考えさせられますが、神様の御心に沿う生き方を願っている者でもあります。どうか私たちに知恵と、行動する勇気をお与えください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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イエスとヤコブヤコブの手紙4章11~17節 https://domei-nakahara.com/2024/10/27/%e3%82%a4%e3%82%a8%e3%82%b9%e3%81%a8%e3%83%a4%e3%82%b3%e3%83%96%e3%83%a4%e3%82%b3%e3%83%96%e3%81%ae%e6%89%8b%e7%b4%994%e7%ab%a011%ef%bd%9e17%e7%af%80/ Sun, 27 Oct 2024 03:17:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5914 "イエスとヤコブ
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1.序論

みなさま、おはようございます。毎月の月末はヤコブの手紙からメッセージさせていただいております。今日の説教タイトルは「イエスとヤコブ」ですが、このタイトルからお察しのとおりに、今日のヤコブ書のみことばは主イエス・キリストの教えと非常に強いつながりがあります。

ヤコブの手紙の著者はイエスの実の弟のヤコブだと、伝統的には言われてきました。十二使徒の一人、ゼべタイの子ヤコブではなく、主イエスの兄弟、義人ヤコブです。もっとも、ヤコブ本人がギリシア語で書簡を書くことはできなかったと思われます。イエスの時代の人々の識字率は、大都市でも10%にもならなかったと言われています。ガリラヤの小さな村出身のイエスの兄弟たちは、自分たちの話ことばであるアラム語ならまだしも、外国語のギリシア語の読み書きは出来なかったでしょう。私たち義務教育で英語を習っている日本人でも、流ちょうな英語で手紙を書くのは相当に難しいのですから、イエスの時代の義務教育も何も受けていないユダヤ人が外国語で書簡を書くというのはとてつもなく困難なことでした。しかも、古代ギリシア語は、現代の英語よりも文法的にはるかに複雑で難しい言語です。パウロの場合は、もともと外国生まれでしかも非常に高度な教育を受けていたのでギリシア語で手紙が書けたのですが、彼のような人は例外中の例外です。ですからヤコブの手紙は、ヤコブに近い人物でギリシア語に堪能な人が、ヤコブの教えをギリシア語に翻訳した上で記したものではないかと推定されます。ともかくも、ヤコブの手紙はイエスに非常に近い人物の思想が色濃く反映した書簡だということです。

今日の箇所も、イエスの教えと非常に近い内容です。とはいえ、ヤコブは初めから兄イエスをイスラエルのメシアとして信じていたわけではありませんでした。むしろヤコブ自身は、兄であるイエスがメシアだとは初めはなかなか信じられなかったようです。マルコ福音書3章21節にはこうあります。

イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ」と言う人たちがいたからである。

ヤコブとしては、父ヨセフが亡くなった後の一家の大黒柱だった兄のイエスが、いくら神様の御用のためとはいえ、いわば家を見捨てる形で旅立ってしまったことがなかなか受け入れられなかったのでしょう。しかし、そのヤコブも復活した兄イエスを目撃することで、兄イエスへの認識を改めました。使徒パウロはこう記しています。

また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。(第一コリント15:4-7)

復活したキリストは十二使徒すべての前に現れ、それから五百人以上の兄弟たちの前に現れました。その後にパウロは「ヤコブに現れ」と、わざわざヤコブについて特別に言及しています。それはヤコブが初代教会にとって非常に重要な人物だったからです。主の兄弟ヤコブは、復活前には兄イエスがメシアだとは信じていませんでしたが、復活したイエスに出会ってからは一変し、イエスを信じる群れに加わりそのリーダーになりました。

復活のイエスを目撃してから百八十度生き方が変わったという意味では、主の兄弟ヤコブは異邦人の使徒であるパウロとよく似ています。パウロは教会の迫害者でしたが、復活の主を目撃した後は、最も熱心な伝道者の一人になりました。主の兄弟ヤコブも、以前は兄イエスが気が狂ったとまで考えていたのに、今やその兄こそ約束のメシアだと信じるようになったのです。それどころか、ヤコブはあの十二使徒ペテロをさえ上回る権威を持つ初代教会全体のリーダーになりました。あの誇り高いパウロさえ一目置く存在となったのです。これほどの劇的な方向転換をヤコブにもたらしたのは、復活したイエスを目撃するという体験でした。イエスの復活などない、死んだ人がよみがえるなどということはあり得ないと考える人は、パウロとヤコブの劇的な変化をもたらしたものは何だったのかを真剣に考える必要があるでしょう。いくら現代人には信じがたくとも、彼らの劇的な変化はイエスの復活を目撃したからではないのかということを、真剣に考えてみるのは大いに意味のあることでしょう。

ともかくも、ヤコブは今や初代教会のリーダーとなりました。そして、血は争えないというべきか、彼の教えは兄イエスと非常に近いものでした。ヤコブの手紙には、他の書簡、たとえばパウロの手紙にはない特徴、つまり分かりやすく簡潔な内容ながら、人の心を打つ権威がありますが、それはまさにイエスの教えと通じるものです。今日はヤコブの教えをイエスの教えと並べながら考えていきたいと思います。

2.本論

それでは11節から読んで参りましょう。

兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪行を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪行を言い、律法をさばいているのです。

このヤコブの言葉は、イエスの教えを思い起こさせます。山上の垂訓には似たような教えがあります。そこをお読みします。

しかし、あなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の上に置いたままにし、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。(マタイ5:22-24)

このイエスの有名な教えは、しばしば誤解されてしまうことがあります。それは、イエス様は私たちがちょっとでも兄弟姉妹に腹を立てたり、あるいは悪口を言えば、それだけで地獄に落ちるよ、と警告しているのだというような誤解です。しかし、兄弟に腹を立てたことがない人なんていないですよね。そうなると、人類全部が地獄に落ちるという話になってしまいますが、イエス様はそんなむごいことを言いたいわけではないのです。

むしろ、この教えのポイントは後半部分にあります。それは手遅れにならないうちに、一刻も早く和解しなさいということです。それがイエスの教えの要点なのです。人が怒ったままでいる、怒りを貯めたままでいると、恐ろしい事態になりかねません。人類最初の殺人事件は兄弟殺し、兄カインによる弟アベルの殺害でした。カインは弟アベルの方が神に愛されていると嫉妬し、逆恨みしてアベルを殺してしまいました。カインは神様から怒りを鎮めなさいと忠告されましたが、それをせずにむしろ怒りを膨らませてしまい、凶行に及びました。この場合、もちろんカインの方が悪いのですが、アベルの側にも不注意な行動があったのかもしれません。聖書には書かれていませんが、もしかするとアベルはカインの気に障るようなこと、イラっとさせることを気づかないうちにやってしまっていたのかもしれません。喧嘩というのは、両方の側に多かれ少なかれ原因があります。自分だけが正しい、相手だけが悪いと考えてしまうと、仲直りをするのが難しくなり、ひたすら相手を裁き合うという事態になりかねません。ですから、喧嘩になりそうなときは、相手だけではなく自分の問題も冷静に見つめる必要があるのです。

似たようなことは族長ヤコブの息子ヨセフにも言えます。ヨセフは、父親から偏愛されていたために兄たちから恨まれ半殺しの目に遭いました。もちろんヨセフが悪いわけではないものの、彼の態度にも兄たちをイラっとさせるような無神経なところがあったのも否定できないでしょう。父からもらった上着を兄たちの前で無邪気に喜んで着たりしましたが、そのような贈り物を父からもらっていない兄たちがそれをどう思うか、少し考えれば分かるようなものです。そういう小さなわだかまりが積もり積もると爆発してしまうのです。そのような恐ろしいことになる前に、たとえ小さなことであっても兄弟姉妹の間のわだかまりはすぐに取り除いたほうがよい、それがイエス様の教えのポイントです。気が付いた時に、すぐに仲直りのための行動を取りなさい、それが手遅れにならないうちに、ということです。

イエスは大胆にも、神様のための礼拝があったとしても、それよりも和解の方を優先しなさいとおっしゃっています。神様への供え物を途中で祭壇の上に置いたままにしてでも、和解のために行けというのです。そんなのは神様に失礼ではないか、と考える方もおられるでしょうが、その神様ご自身が私たちに何よりも仲直りを優先するようにと勧めてくださっているのです。これは本当にありがたいことです。神様は私たちがお互いに仲良く過ごすことを、ご自身への礼拝よりも大切に思ってくださっているのです。

ヤコブも同じことを言っています。兄弟姉妹と仲良くしなさい、兄弟姉妹とのむつまじい関係を壊すような悪口を言い合うことは避けなさい、と言っているのです。ヤコブは、悪口をいう人は律法を裁いているのだ、といいます。律法をさばくとは、つまり律法を否定している、律法を拒絶しているということです。実際、律法は悪口をいいふらすことを厳しく戒めています。レビ記19章16節以降にはこうあります。

人びとの間を歩き回って、人を中傷してはならない。あなたの隣人の血を流そうとしてはならない。わたしは主である。心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。

「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という教えはイエスが最も大切な黄金律として教えられたものですが、そのすぐ前に隣人の悪口を言ってはならないと書かれていることは示唆に富んでいます。ですから、ゆえなく友や隣人の悪口を言うような人は、律法全体を裁く、拒否していることになるのです。

 ヤコブは「隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか」と私たちが神のように人を裁くことを戒めています。ただ、誤解しないようにすべきですが、私たちは友や隣人が明らかな罪を犯しているのに、それを見て見ぬふりをすべきだとか、そういうことではないのです。人の罪を戒めることと、悪口を言うことは全然別のことです。むしろ私たちは隣人の罪を指摘し、戒めなければなりません。先ほどのレビ記にも、「あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない」とあるように、隣人を悪の道から救い出すことは私たちの義務なのです。

 では、次のテーマについての13節以降を読みましょう。ヤコブは、今後はこれこれのことをして金儲けをしようとする人たちに対し、あなたがたは明日の命さえ分からないのだから、主を差し置いて自分であれこれ計画を立てるのを止めなさい、と戒めています。むしろ、「主のみこころなら、私たちは生きて、このことを、または、あのことをしよう」と言いなさいと勧めています。これも、主イエスの教えと非常に近いですね。ルカ福音書12章16節から21節をお読みします。

それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

このように、私たちは自分の明日の命のことさえ分からないのですから、今日という日に生かされていることに感謝し、一日一日を主のみこころに適うように誠実に歩むべきなのです。箴言にも次のような言葉があります。「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」(箴言27:1)ただ、ここでも誤解しないようにしたいのですが、イエス様もヤコブも将来のための計画を立てるな、と言っているわけではないことです。箴言にも、「あなたのしようとすることを主に委ねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない」(箴言16:3)とあるように、ポイントは主にあって計画を立てるということです。自分の欲望のままに、あるいは自分の利益ばかりを考えてあれこれ計画を立てるな、というのがここでの要点です。そこでヤコブは、自分のことばかり考えずに、他人の必要のことも覚えなさいという意味で、次の有名な言葉を書き記しました。

こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。

ヨハネの手紙第一にも同じような言葉があります。

世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。(第一ヨハネ3:17)

箴言にも次のような言葉があります。

捕らえられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。もしあなたが、「私たちはそのことを知らなかった」と言っても、人の心を評価する方はそれを見抜いておられないだろうか。この方はおのおの、人の行いに応じて報いないだろうか。(箴言24:11-12)

私たちは生活のいろんな場面で見て見ぬふりをします。見てしまうと、何もしない自分のことを心が咎めるので、見ようとしないのです。例を一つ上げましょう。福島原発が大事故を起こしたことがありました。それまで私たちは、原発の危険性を警告する人たちの声を聞きながら無視していました。あの人たちは極端なことを言っているだけだ、大げさなことを言っているだけだと。しかし、事故は実際に起こってしまいました。原発の恐ろしさは誰もが知るところとなりました。しかし、原発再稼働に対する反対運動は盛り上がりませんでした。目先の経済的な利益を最優先したのです。私は、こんなことでいいのだろうかと、知人の方々に問いかけたことがありました。しかし、「私は明日の仕事のことで精いっぱいだ。会社のために数字を上げなければならない。原発のことなんて考える暇ないよ」という返事が返ってきました。原発も、処理水の問題も、地球温暖化も、アフリカの飢餓や貧困問題も、皆同じです。分かってはいるけれど、そんなことに割く時間はない、私たちは忙しいのだ、というのです。そうして問題は先送りされ、私たちの次の世代はさらに苦しむことになるでしょう。しかし、このようにすべきことを知りながら何もしないのは罪だとヤコブはずばりと指摘します。このことを、心して聞くべきでしょう。

3.結論

まとめになります。今日は、イエスの教えと非常に近いヤコブの教えを見て参りました。一つは悪口の問題です。ヤコブは舌を制しなさい、神を賛美するその同じ舌で、神のかたちに造られた人を呪ってはならない、と教えました。舌を制することはとても大切です。大きな争いは、心ない一言から始まるからです。小さな火が、森林全体を燃やし尽くすように、私たちの言葉は大きな戦争さえもたらしてしまうのです。そのような悪い言葉は、心の中にあるわだかまりや憤り、嫉妬から生まれます。主イエスは、そのような争いの根となるものを早く取り除きなさい、一刻も早く和解のために行動しなさい、と教えられました。イエスの教えに日々従いたいと願うものです。

もう一つは、私たちは計画を立てる際に自分のことばかり考えずに、主のみこころを求めるべきだということでした。そして主のみこころとは、私たちが困った人たちに手を差し伸べることです。イエスは「最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」と語られました。

また、私たちは私たちの社会全体を蝕む様々な問題を薄々知りながらも、自分を偽ってみようとしないことがあります。そんなことよりも、今の自分の目先の問題の方が大事なのだ、そういう大きな問題は誰か暇な人がやればよいのだ、自分は関係ないと思ってしまいます。しかし、そういう人が社会の大多数を形成するので問題が一向に解決しないのです。私たちは大きな問題から目をそらすべきではありません。そのことも、ヤコブに教えられます。こうした様々なヤコブの教え、イエスの教えを胸に刻んで、今週も歩んで参りましょう。お祈りします。

私たちのすべてを御覧になっておられる神様、そのお名前を讃美します。私たちは自分を欺いて、物事を自分に都合の良いように解釈しようとする者ですが、しかし常に主のみこころを求めてそうしたわがままな思いを制御することが出来るように私たちをお助け下さい。われらの救い主、平和の主であるイエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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霊的な成熟ヤコブの手紙4章4~10節 https://domei-nakahara.com/2024/09/22/%e9%9c%8a%e7%9a%84%e3%81%aa%e6%88%90%e7%86%9f%e3%83%a4%e3%82%b3%e3%83%96%e3%81%ae%e6%89%8b%e7%b4%994%e7%ab%a04%ef%bd%9e10%e7%af%80/ Sun, 22 Sep 2024 03:13:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5852 "霊的な成熟
ヤコブの手紙4章4~10節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。毎月の月末はサムエル記から離れて、新約聖書のヤコブ書からメッセージをしています。本日は9月の最終週ではありませんが、翌週は嶋田役員がメッセージをしてくださいますので、一週繰り上げて、今朝のメッセージはヤコブ書からとさせていただきます。

今日の説教タイトルは「霊的な成熟」です。「霊的」という言葉はクリスチャンの間でしばしば使われる言葉です。「あの人は霊的な顔になった」とか、「あの人は霊性が高い」というようなことが言われたりします。しかし、「霊的な人」とはいったいどんな人なのでしょうか?なにかボヤっとした、感覚的な言葉ですよね。だいたい、霊というと普通の日本語では霊魂、お化けというような意味すらあります。しかし、聖書の言う「霊的な」というのはもちろんそんな意味ではありません。

では、「霊的な人」の反対は何でしょうか。「肉的な人」とか「この世的な人」ということになるでしょう。世的な人というのは、この世の価値観を非常に重視する人のことです。世的な人は、世間の評価に敏感です。どこに住んでいるか、どんな車に乗っているか、どんな学歴で、どんな会社に勤めているのか、そういうことを非常に重視します。そして世的な人とは、この世の価値基準を気にして、自分を少しでも良く見せよう、自分の評価を上げようと努める人だということです。そんなの、みんなそうではないか、と思われるかもしれません。確かに私たちは常に世間の評判を気にし、別に大学に行ってやりたいことがあるわけではなくても、少しでも偏差値の高い大学、評判の良い学校に行こうとします。ですから、世的な人とは特別に俗っぽいとか欲深い人というのではなく、世間一般の価値観に沿って行動する普通の人だということになるでしょう。

それに対し、「霊的な人」というのは神の価値観に沿って行動する人だということになります。ただ、神の価値観といってもなんだか抽象的で捉えどころがないですよね。ヤコブは、この神の価値観に沿って歩む人の大きな特徴は、謙虚さ、へりくだった姿勢にあると指摘します。この世の価値観に沿って歩む人は、自分を良く見せよう、自分を実際以上に優れた人間として周囲の人にアピールしようとしますが、神の価値観に歩む人はむしろ自分の小ささを認め、自分を必要以上に大きく見せようとはしません。そのような人こそ真の知恵ある人だとヤコブは指摘しましたが、そんな人は「霊的な」人でもあるのです。預言者イザヤもこう言っています。

わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。(イザヤ66:2)

主が喜ばれるのはへりくだった人、謙虚な人だということです。つまり、霊的に成熟している人は、何にもまして謙虚な人なのです。「実るほど頭が下がる稲穂かな」という日本の有名なことわざがありますが、これは聖書の語る真理を指し示す言葉でもあります。この「謙虚さ」というテーマを踏まえながら、今日のヤコブの言葉を見て参りましょう。

2.本論

では、4節から見て参りましょう。ここではいきなり「貞操のない人たち」という厳しい言葉から始まります。これまでヤコブは読者に対し、「私の兄弟たち」や「愛する兄弟たち」という親愛の情の込められた言葉で語り掛けてきたので、これには驚かされます。しかもこの言葉は女性形ですので、直訳すれば「姦淫の女たちよ」という意味になります。しかし、誤解していただきたくないのですが、ヤコブはここで女性たちだけに語り掛けたのではありません。つまり、文字通りの意味で不倫をしている女性たちを叱責しているのではないのです。むしろ、ヤコブは預言者たちの伝統に立ってここで語っています。それはどういうことかといえば、預言者たちは神を夫、イスラエルを神の妻になぞらえたうえで、偶像礼拝をして他の神々に走るイスラエルの人々を「姦淫の女よ」と言って非難しました。真の神を裏切って他の偽りの神々に走ったからです。ですから男性に対しても、このような場合には神の妻であるという観点から、女たちよと呼びかけているのです。たとえば預言者エレミヤは次のように言っています。

背信の女イスラエルは、姦通したというその理由で、わたしが離縁状を渡してこれを追い出したのに、裏切る女、妹のユダは恐れもせず、自分も行って、淫行を行ったのをわたしは見た。(エレミヤ3:8)

かつてのイスラエル王国は北と南に分裂していましたが、北イスラエル王国も南ユダ王国もそろって異国の神々に仕えたことを、エレミヤは姦淫行為として非難したのです。そして、南ユダ王国や北イスラエル王国が偶像礼拝をしたことは、それは単に宗教的な罪を犯したのにとどまらず、「世を愛した」ということだったことに注意が必要です。イスラエルの人々は、なぜ偶像礼拝に走ったのか?そこには宗教的な理由に留まらない理由がありました。北イスラエルも南ユダ王国も、周囲は敵対的な国々に取り囲まれていて、国の安全保障のためには大国に頼る必要がありました。このことは、今の日本の状況を考えれば分かるでしょう。中国・北朝鮮・ロシアという脅威に取り囲まれて、今の日本の頼みの綱はアメリカとの同盟、日米安保です。そんな中で、「アメリカに頼るな。それは世を愛することだ。神のみに信頼せよ」という人がいても、私たちはそんな声に耳を傾けるでしょうか?しかし、エレミヤの声はまさにそんな声だったのです。大国に頼るというのはこの世の基準では常識的な行動かもしれませんが、それは神よりもこの世の力に信頼しているということの表れなのです。これが「世を愛する」と言うことの本質です。エレミヤは国の安全保障のために大国アッシリアやエジプトの傘に頼ろうとするイスラエル人を批判してこう言っています。そこをお読みします。エレミヤ書2章36節です。

なんと、簡単に自分の道を変えることか。あなたはアッシリアによってはずかしめられたと同様に、エジプトによってもはずかしめられる。

エレミヤは、風見鶏のようにころころと態度を変えるユダ王国の外交政策を批判しています。これまでは大国アッシリアに朝貢して仕えながら、アッシリアが落ち目になったと見るや、すかさすエジプトに乗り換えようとする、そんな態度は、言い方は悪いですが尻軽女と変わらないではないか、と批判するのです。しかも、ユダ王国はアッシリアに仕えた時にはアッシリアの神々を受け入れたので、エルサレムにはアッシリアの偶像が溢れかえりしましたが、今度はエジプトに気兼ねしてエジプトの神々を受け入れました。こうしてユダ王国が大国に依存すればするほど、彼らの偶像がイスラエルに流入してくるのです。大国依存と偶像礼拝とは分かちがたく結びついていました。このように、イスラエルの神ではなく、この世の現実的な力、大国の軍事力や経済力に頼ること、これが「世を愛する」ということの本質です。これは今の日本にもそのまま当てはまることではないでしょうか。日本の場合はアメリカの宗教であるキリスト教はあまり受け入れているとは言えませんが、アメリカの物質主義、お金で成功の度合いを測ることの結果としての超格差社会などはどんどん日本の中に根を下ろしています。現代の偶像礼拝は物質主義、物欲にあると言えますから、今の日本人もユダ王国の人々を笑うことはできないのです。

ヤコブも、彼らの読者が神ではなく世を愛していることを鋭く見抜いて彼らに「姦淫の女たちよ」という厳しい言葉で呼びかけているのです。もちろん、ヤコブの読者たちはかつてのイスラエル人のように大国に依存して彼らの宗教を受け入れたわけではありません。しかし、彼らがこの世的な価値観に深く染まっていたことは、これまでのヤコブの手紙の内容を読めば分かります。彼らは経済的繁栄を何よりも重視し、貧しい人たちを見下すようなことをしました。そのような態度は当時の地中海世界では普通の事であったかもしれませんが、神の民の間ではそのようであってはならないのです。また、彼らが嫉妬や利己的な野心に突き動かされていることをヤコブが批判していることも、前回の説教で見た通りです。こういう利己心や野心も非常にこの世的なものです。彼らがこうした思いに囚われていることこそ、彼らが「世を愛している」ことの証拠です。しかし、「世を愛する」ということは神の敵になることだ、とヤコブは警告します。なぜなら神はその民に、絶対的な忠誠を求めるからです。この世にも神にもどちらにも良い顔をする、八方美人は許されないのです。これは私たちの人間関係に当てはめても分かりますよね。お付き合いしている男性がいて、その男性が自分だけではなく他の女性にも言い寄ったりべたべたしたりしたら嫌ですよね。「わたしかその人か、どちらを選びなさい」と言いたくなります。神様も同じです。神に仕えるのか、この世に仕えるのか、私たちは選択を迫られています。主イエスもこう言われました。

だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(マタイ6:24)

ヤコブは、私たちの目が他のものに向かうのを許さないほど神が私たちを深く愛しておられることの証拠として、聖書のことばを引用します。「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」というものです。しかし、旧約聖書にはこれに相当するみことばはありません。ヤコブはどの箇所から引用したのかという問題が聖書の研究者を悩ませてきましたが、ヤコブの手紙が書かれた時代には旧約聖書の正典の範囲はまだ確定していませんでした。もしかすると私たちの知らない、現存していないテクストからヤコブは引用したのかもしれません。しかし、6節の聖書の引用ははっきりしています。それは箴言の3章34節です。そこをお読みします。

あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。

この箇所は、使徒ペテロも引用している大変有名な箇所です。ペテロの手紙第一の5章5節には、まさにこの箴言の言葉が使われています。神が目を留めるのは高ぶる者、おごる者ではなく、へりくだる者です。日本の平家物語にも「奢れるもの久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂には滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ」という有名な言葉がありますが、聖書の言葉と非常に近いですね。預言者イザヤも「すべての人は草、その栄光は野の花のようだ」(イザヤ40:6)と語りましたが、人の力など神の前には無に等しいのです。その事実を知ることが、知恵の始めなのです。

そして7節では、ヤコブは神の前にへりくだることの意味を説明します。神の前にへりくだるとは、単に自分は無力です、自分は何もできませんと認めることではありません。それでは単なる卑屈です。むしろ主の前にへりくだる者とは、神に従う者、神に服従する者です。人は神の前には確かに無に等しい存在ですが、しかしその同じ神は私たちに大きな力を与えてくださいます。ですから、私たちは悪魔にすら立ち向かう力を持つことができます。神に従う者とは、神のみに従う者であり、この世のどんな力も恐れない者です。そして私たちが神に従うときに、悪魔も私たちを倒すことはできません。むしろ悪魔は逃げ去るだろうとヤコブは言います。

8節では、ヤコブは聞き手に「神に近づきなさい」と促します。しかし、神に近づくためには私たちにはすべきことがあります。神は清いお方ですから、神に近づくためには私たちは清くならなければなりません。そこでヤコブは「手を洗いなさい」と命じます。これはどういう意味なのでしょうか?イエスの時代、イスラエルの神殿に礼拝に行く人々は、必ず身を清めてから神殿に入りました。汚れた状態のままで神に近づくことは神の怒りを招く大変危険な行為だったのです。日本の神社でも参拝する時には手を洗いますが、イスラエルの神殿でも同じでした。ヤコブは、神殿に近づくときのことをイメージして「手を洗いなさい」と言っているのです。もちろん、あなたがたは神殿に行く前には手を洗いなさいということを言いたいのではなく、神殿に近づくときに身を清めるのと同じように、神の前に出て祈る時は身も心も清い状態でそのようにしなさいと教えているのです。

ヤコブは兄弟姉妹に向かって「罪人たち」と呼びかけます。私たちクリスチャンは、自分が罪びとであるという自覚が強いので、この呼びかけは当たり前のように思えるかもしれませんが、実は新約聖書の書簡、特にパウロ書簡ではパウロが読者に対して「罪人たち」と呼びかけている箇所は一つもありません。意外に思われるかもしれませんが、実際にそうなのです。パウロは常に諸教会の兄弟姉妹のことを「聖徒たち」、「聖なる人たち」と呼びかけています。ですからヤコブがここで読者に「罪人たち」と呼びかけているのは大変強い表現だということに注意してください。なぜヤコブは彼らを「罪人たち」という非常に強い言葉で呼んだのかと言えば、彼らが「二心の人たち」だったからです。彼らは神様にも、世間にも両方に対して良い顔をしようとしました。神を愛していますが、同時に世も愛しているのです。ヤコブはそのような二股状態の彼らのことを4節で「姦淫の女たち」と叱責しましたが、ここでも同じことを言っているのです。神に近づくためには、世を愛すること、世の友であること、世の中の価値観に従って生きることをやめなければならない、と命じているのです。これは非常に厳しいことばに思えます。しかし、神の民として生きるということは、やはりこの世の生き方とは一線を画すということでもあるのです。

ヤコブは9節で、「苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい」と訴えかけます。これもびっくりするようなことばに聞こえるかもしれませんが、しかしこれも預言者の伝統に立つ言葉でもあります。預言者ヨエルはこう書き記しています。

主の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられよう。「しかし、今、-主の御告げ-心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ。」あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。(ヨエル2:11-13)

悔い改めるというのは、これまでの生き方を悔いて、神の方に向き直って生き方を変えることです。単に、キリスト教の教理のいくつかを頭の中で信じることではありません。それは非常に真剣な行為です。「心を尽くして」行うことなのです。ヤコブも、世を愛するクリスチャンに真剣な悔い改めを求めています。世を愛する人たちへの神の厳粛な裁きを思う時に、もはや笑ってはいられなくなります。「あなたは余命何年しかない」と医者から宣告されれば、誰だって笑えなくなりますよね。泣きたくなります。しかしその同じ医者は名医さんで、「あなたが今、今ですよ、ライフスタイルを変えるならあなたの命は助かります。私の言うことを聞いて、私の言う通りの生き方に改めなさい」と言ってくれます。イエス様も同じです。私たちを滅びへの人生から命への人生へと救い出してくださいます。しかしそのためにはイエスを信じて、彼の言うことに従わなければなりません。聞くだけで、行わないのでは何の意味もないのです。

このように、主の声に謙虚に耳を傾けて従う人こそ、主の前にへりくだった人です。そのような人は、いずれ主から引き上げていただけるようになるのです。

3.結論

まとめになります。今日は「霊的な成熟」と題して、私たちが霊性において成長するために必要なことをヤコブ書から学びました。霊的になるためには、世的であることを止める必要があります。この世の価値観、世間の目に振り回されて、世の人々から少しでも高い評価を得ることに必死になる、そういう生き方を止めることです。そんな生き方を続ける限り、霊的な成長はないからです。むしろ自分を良く見せようとするのではなく、神の前に自らが無に等しい存在であることを認めること、へるくだること、これが霊的な成長の第一歩です。しかし、そこでとどまってはいけません。まず自分の小ささを認識した上で、成長するために神に従う必要があります。神に近づき、従うために私たちは自らを清める必要があります。この世は私たちのありとあらゆる欲望を刺激し、私たちを欲望の海の中に放り込もうとしますが、そうしたものから距離を置いて、神のみことばに耳を傾ける、そういう方向転換が必要になります。これは簡単なことではありません。しかし今までのライフスタイルを続けていれば、待っているのは死です。その恐ろしい現実を思う時、私たちは真剣にならざるを得なくなります。人生は一度きりです。後で後悔しても遅いのです。このようにへりくだって真剣に生きる者を、神は決してお見捨てにはなりません。むしろそのような人には大きな報いが待っています。私たちも栄冠を目指して頑張るアスリートたちのように、主の教えに従って真剣に歩んで参りましょう。お祈りします。

私たちを霊的な成熟へと召してくださいますイエス・キリストの父なる神、そのお名前を讃美します。今日のヤコブ書のみことばの一つ一つを胸に刻んで、歩むことができますように。私たちに恵みを施してください。われらの平和の主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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真の知恵と平和ヤコブの手紙3章13~4章3節 https://domei-nakahara.com/2024/08/25/%e7%9c%9f%e3%81%ae%e7%9f%a5%e6%81%b5%e3%81%a8%e5%b9%b3%e5%92%8c%e3%83%a4%e3%82%b3%e3%83%96%e3%81%ae%e6%89%8b%e7%b4%993%e7%ab%a013%ef%bd%9e4%e7%ab%a03%e7%af%80/ Sun, 25 Aug 2024 04:36:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5806 "真の知恵と平和
ヤコブの手紙3章13~4章3節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。毎月の月末は、新約聖書からメッセージをさせていただいておりますが、今日もヤコブの手紙からお話しさせていただきます。今日の説教タイトルは「真の知恵と平和」です。本日の聖書箇所をお読みいただければわかるように、今日の箇所では「知恵」ということが重要なテーマになっています。「私たちはどうすれば知恵ある人になれるのか」ということですね。

知恵がある、というと少し硬い響きがあるかもしれませんが、要は「頭がいい」ということです。頭がいい人、というのは今日の私たちの価値観ではうらやましがられる部類の人ですよね。子どもたちの間で人気がある人というのは、スポーツができる人、頭が良くて勉強ができる人、そしてかっこいい、もしくはかわいい人の3種類になると思いますが、大人になってもそれは変わりません。特に、頭のいい人、優秀な人は社会の中で活躍し、尊敬を集める人が多いです。とはいえ、「頭がいい人」というのはいったいどんな人なのでしょうか?学歴が高い人でしょうか?学歴が高い人の中には確率的には頭のいい人が多いのかもしれませんが、学歴が高いけど残念な人、というのもけっこうおられます。もっとはっきり言えば、学歴は高いけど「あの人頭悪いよね」と思われてしまう人がかなりいます。ですから、単に勉強ができることと、私たちの考える「頭のいい人」というのは違うということになります。今日の聖書箇所のテーマも、本当に頭のいい人、知恵のある人は誰か、というのがテーマになっています。

このヤコブの手紙が書かれた時代、二千年前のギリシアにおいても、知恵があるということは非常に重要視されることでした。使徒パウロは、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を求める」という有名な言葉を残しましたが、ギリシアで尊敬されるのは何よりも「知恵のある」人でした。ただ、自分は知恵がある、頭がいい、と考えているような人は、もっと頭のいい人の前では恥をかきますよね。「身の程を知らない」ということになります。本当に頭のいい人は、「身の程を知っている人」であると言えます。ギリシア人の中で最も知恵ある人と呼ばれた、有名な哲学者のソクラテスは、「知恵のある人とは、自分が知らないことを知っている人だ」という、無知の知と言われる有名な言葉を残しました。今日の箇所でヤコブも、本当に知恵のある人は、何よりも謙虚な人だ、ということを記しています。謙虚さを持たない人は、自分より優れた人、自分よりも賢い人がいるという現実を受け入れられません。そういう人に出会ってしまうと、相手を評価するのではなく、むしろ羨む、嫉妬するようになります。ひどい場合は、そういう人を憎むことすらあります。昔「アマデウス」という、天才音楽家モーツァルトの映画がありましたが、その映画の中ではサリエリという音楽家がモーツァルトにひどく嫉妬し、ついには毒殺してしまうことになります。このサリエリによる毒殺というのはフィクションであり、実際の歴史では本当に殺したわけではありませんが、サリエリが実在の人物だったのは確かです。サリエリというのは宮廷楽長、当時のヨーロッパの音楽界の最高の地位にいた人で、自分こそ最高の作曲家だと自負していたのに、モーツァルトの圧倒的な天才ぶりに嫉妬し、ついには殺意を抱いてしまうというお話でした。サリエリは、自分が最高だと思い込んでしまい、自分より優れた存在を認められないという人物の典型として描かれています。ヤコブから見れば、このような人物は「知者だと自惚れていて、実際には知恵がない人」なのです。知恵がない人は嫉妬心から争いを引き起こし、周りのみんなを不幸にしていきます。しかし、本当に知恵のある人は嫉妬心を抱かずに、むしろ周囲に平和をもたらす人なのだ、というのがヤコブの教えです。このことを心に留めつつ、今日のみことばを読んで参りましょう。

2.本論

では13節から見て参りましょう。ヤコブは「知恵ある者は誰か」と問います。そして自分には知恵があると誇っているような人は、ぜひ行いによってその知恵を示してください、と諭します。「行い」を重視するのはヤコブの一貫した姿勢です。ヤコブは先に、「信仰」について論じた時も同じようなことを言っています。私には良い行いはないけれど、信仰があります、信じる心は誰にも負けませんという人に対し、ヤコブは行いのない信仰などというものがあるのだろうかと問います。むしろヤコブは、私は行いによって自分の信仰を示そう、と語りました。人が何を信じているのかは、その人の行いが示す、ということです。口先で、「私はあなたを信じてます、ついて行きます」といくら語っても、実際にはその人の言うことに全然従わないような人は、本当はその人のことを信じていないのだ、ということになるでしょう。信仰は行動によって示されるのです。知恵も同じです。本当に知恵のある人は、その人の行動そのものがおのずからその人の知恵を示すのです。そして本当の知恵は、謙虚さから生まれます。「知恵にふさわしい柔和な行い」というのは直訳すれば「知恵の謙虚さにおける行い」となります。真の知恵は、謙虚さから生まれ、そのような知恵はそれにふさわしい行動を生み出すということです。ヤコブは心と行動の一致を何よりも重視します。その人の内面が行動ににじみ出る、というのが人間のあるべき姿だからです。

次の14節では、対照的に知恵のない人のことが描かれています。知恵ある人の行いは謙虚さから生まれますが、知恵のない人の行いはねたみや嫉妬から生まれます。自分が知恵ある者だと自負しながら、その行動がねたみから生じるような人は自己矛盾、自家撞着に陥っている愚かな人だということです。妬み、嫉妬の心は、他の人が自分より優れている、幸運な状態にいるということが受け入れられないから生まれるのです。つまり、本当は私のほうがあいつなんかより優れているはずなのに、という思いが根底にあるのです。これは謙虚さとは正反対の思い上がり、傲慢さから生まれる心だと言えます。また、本当の自分を知らないからこそ、膨れ上がった自意識が生まれてしまうという意味では、無知から生じているとも言えます。ここで「敵愾心」という言葉が出て来ますが、それは「自己中心的な野心」とも訳せます。自分が一番になりたいと思う人は、周りの人がみんなライバル、敵に見えてしまいます。しかし、そういう人は知恵ある人とは言えません。本当に知恵ある人とは、周囲の優れた人たちと協力し合える人だからです。

したがって、妬みや野心を心に抱く人は、間違っても自分が知恵ある者だと誇ってはいけません。それは自分を偽ることになり、真理に逆らって罪に罪を重ねることになってしまいます。とはいえ、妬みや野心に囚われている人にも知恵がないわけではありません。むしろ、非常に狡猾な悪巧みを思いつくこともできます。しかし、そのような知恵は天からのものではあり得ません。それは非常にこの世的な知恵です。「肉に属し」と訳されている言葉は実際にはプシケー、心とか魂とか訳される言葉です。魂という言葉には悪い意味がありませんが、それが霊(プニューマ)と対比されると「世的な心」という意味になります。世的な心とは、この世の富や地位を誇るような心持ちです。ベンツに乗っているとか、タワーマンションに住んでるとか、まあそれ自体は悪いことではないのですが、他の人を見下す気持ちでそういうことを誇るのが世的な心です。しかしヤコブは、それが単に世的なのではなく、悪魔的だと言います。デーモンという言葉の語源となったギリシア語がここで使われています。嫉妬や利己的な野心とは、悪魔に由来するものなのです。

そのような妬みや野心が蔓延るところには、秩序の乱れがあります。秩序の乱れは「平和」とは対極にあります。パウロは神について、神は混乱、つまり秩序の乱れの神ではなく、平和の神だと言っています(第一コリント14:33)。秩序の乱れは、権威を認めない心から生じます。あいつより俺の方が優れているのに、なんで俺があいつの下に置かれなければならないんだ、という不満から争いが生じます。もちろん、本当に実力があるのなら、正式な手続きを踏んで上に上がれるようにすればよいのですが、そうせずに何らかの(悪い)たくらみで秩序を壊そうとすると争いが生じてしまうのです。無秩序には邪悪な行いが伴います。そして平和が失われてしまうのです。 

しかし、真の知恵のあるところでは、そうではありません。上からの知恵とはどんなものなのかを、ヤコブは17節で説明します。その第一の特徴は純真、あるいは純粋さです。ピュアという英語がありますが、まさにそのようなものです。しかし、純粋であるというのはどういうことなのか、ピンとこないかもしれません。私たちは大人になるにしたがって、どんな行動にもそれなりの計算と言うか、打算が働きます。純粋な善意というのは美しいものですが、なかなかとらえどころがないと思われるかもしれません。しかし、二番目の「平和」、もっと正確に訳せば「平和を愛する心」となりますが、これは私たちがそうあろうとして目指せるものではないでしょうか。戦いではなく平和を目指す心は非常に大事です。たとえ自分のプライドや利益が多少傷つけられることがあっても、そこを飲み込んで平和を保とうという努力は、私たちの日常においても実現できることです。そして、平和を目指すというのは真の知恵ある人の証拠です。日本のことわざに「金持ち喧嘩せず」というのがあります。場合によってはあまりいい意味で使われないことわざかもしれませんが、非常に重要な真理を含んでいると思えます。喧嘩を戦争に言い換えてみましょう。戦争をしてもいいことなど一つもありません。勝ったとしても、そのために膨大なもの、かけがえのないものを失うことになるでしょう。また、戦争というのは一度始まってしまうと止めるのが大変難しいものです。日本も太平洋戦争を始めたものの、二度の原爆を落とされるまで戦争を止めることができませんでした。人間は負けを認めることが嫌なのです。負けるくらいなら、すべてを滅ぼしてしまっても、あるいはすべてが滅んでしまっても構わない、という狂気にすら至るのが人間の恐ろしさです。そのような恐ろしくも愚かな戦争を、賢い人は多少の犠牲を払ってでも避けようとします。多少の犠牲といっても、本当の戦争になってしまった時の犠牲と比較すれば微々たるものです。そして平和を目指すためには、鷹揚さが必要です。細かいことにこだわり過ぎずに、引くべきところは引くという、そのような鷹揚な態度が案外大きな争いを避けるためには大切なのです。

また、真の知恵のある人は人を偏り見ることをしません。能力のある人、お金のある人、容姿の良い人、地位の高い人、そういう人ばかりを尊重してしまうと、人間関係はぎくしゃくします。真の知恵ある人は、そういう表面的なことばかりではなく、その人の真の人間性、つまり人の立場になって考えられるか、人のために行動できる人なのか、そういうところに着目します。そういう態度で人に接するならば、そこには平和が生まれるのです。私たちが生み出すべき「義の実」とは、そのような平和を求める行動から生まれるものなのです。

ヤコブは4章1節から、平和とは反対のもの、つまり「争い」が生じる原因について論じます。ヤコブは、争いは外からではなく、実は私たちの内側で始まるのだと教えています。私たちの心の中にある欲望こそ、争いの原因なのです。私たちの心に育つ欲望は、押さえないと留まるところを知りません。争いとは何も外部だけのことではありません。私たちの心の中にも争いがあります。「あれが欲しい、これが欲しい」という欲望は、飼いならさなければならない猛獣です。自由に暴れさせてはいけないのです。ここで心の中の戦いが起こります。しかし、その猛獣の制御に失敗すると、恐ろしいことになります。そのことを書いているのが2節です。私たちは自分が欲しいと思っているものを他人が持っているのを見ると、心が穏やかではなくなります。なぜあの人は、私が欲しいものを持っているのかと。その思いが高じると、しまいにはそのものをその人から奪ってしまいたくなります。しかし、そのものが相手の人にとって大切なものであれば、相手は当然抵抗します。そのために争いとなり、しまいには相手の人を殺してしまいます。このような恐ろしい事態にならないために、私たちはまず自分自身の心の中での戦い、「欲望」という猛獣との戦いに勝つ必要があるのです。

さきほど賢い人は、「身の程を知っている」人だということを申しましたが、さらに言えば賢い人とは「足ることを知る」人です。人間は生きていくために、実はそんなに多くのものを必要とはしません。今日の資本主義社会は次々と新しい製品を作り出し、あれがないと生きていけない、これがないと生きていけないと私たちに思い込ませようとしています。しかし、ほんの20年前まではスマホなど誰ももっていなかったし、それで誰も困らなかったのです。世の中に振り回されて、欲望に振り回されてしまう人生、そういう人生が争いを生み出してしまいます。

では、私たちはどうすればよいのでしょうか?どうすればこの欲望の泥沼から抜け出すことができるのでしょうか。欲望との戦いに、どうすれば勝てるのでしょうか。ヤコブは、私たちが欲望に振り回されてしまうのは、願わないからだ、と言います。では、何を願うべきなのでしょうか?それが、私たちの欲しがっている欲望の対象ではないことは確かです。ヤコブが私たちに願うべきだといっているものとは、「上からの知恵」です。これはヤコブが1章5節で語ったことです。そこをお読みします。

あなたがたの中に知恵に欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすれば、きっと与えられます。

キリスト教で言う、「求めよ、さらば与えられん」という言葉は、神様にお願いすればなんでも欲しいものをもらえるという意味ではもちろんなくて、私たちがその時々に本当に必要としている神からの助けが与えられるという意味です。欲望のままに願っても、神が聞き入れてくださらないのは明らかです。私たちも、自分の子どもが欲しがるからといって、その子供に有害なものを何でも与えるでしょうか?そんなことをするはずがありません。神様も同じです。私たちが本当に必要とするものは喜んで与えてくださいますが、私たちの自堕落な願いは聞き入れてはくださいません。そして、それは私たちにとって良いことなのです。

3.結論

まとめになります。今日はヤコブの手紙から、真の知恵と平和について学んで参りました。真の知恵とは、知識の多さのことではありません。知識を多く得ると人は慢心しますが、そのような慢心こそ、私たちを真の知恵から遠ざけます。伝道者の書に、「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す」(1:18)という格言がありますが、言い得て妙です。使徒パウロも、「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます」(第一コリント8:2)と語っています。このように、知恵があるというのと、知識が多いというのは別物です。この世的には知識が多いことが尊ばれますが、神が尊ぶ真の知恵は謙虚さから生まれます。自分の小ささを知り、それを認め、神の前にへりくだる、これこそが真の知恵です。そのような謙虚さから生まれる知恵は、善い行いを生み出し、そして平和を生み出します。しかし、その平和にとっての一番の脅威は、私たちの限度のない欲望です。欲しがる心が争いを生み出します。そのような自分の欲望と戦うために、私たちは神の助け、神の知恵を必要としています。そしてそのような知恵を、神は喜んで私たちに与えてくださいます。そのような真の知恵に基づいて今週も歩むことができるように、共に祈りましょう。

私たちに真の知恵と、平和を与えてくださいます父なる神様、そのお名前を賛美いたします。この争いの多い世にあって、私たちは真の平和、主にある平安を求めております。どうかそのような平和と、平和を造り出すための知恵をお与えください。われらの平和の主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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舌を制するヤコブの手紙3章1~12節 https://domei-nakahara.com/2024/07/28/%e8%88%8c%e3%82%92%e5%88%b6%e3%81%99%e3%82%8b%e3%83%a4%e3%82%b3%e3%83%96%e3%81%ae%e6%89%8b%e7%b4%993%e7%ab%a01%ef%bd%9e12%e7%af%80/ Sun, 28 Jul 2024 03:16:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5765 "舌を制する
ヤコブの手紙3章1~12節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。毎月末の日曜日は、サムエル記から離れて新約聖書からメッセージさせていただいております。というわけで、今日もヤコブ書からみことばを取り次がせていただきます。

これまで繰り返しお話ししてきたように、ヤコブの手紙の特徴の一つは「行い」の重要性を訴えていることです。よくキリスト教では「信じるだけで救われる」というようなことが言われますが、これは大変誤解を招く言葉です。「信じる」という言葉の意味をどう理解するのかにもよりますが、聖書は単に神が存在するとか、イエスが人類の救い主であるとか、そういういくつかの教理を頭で理解して受け入れれば、それだけで救われるとは教えていません。むしろ信じた者としてその信仰にふさわしく歩まなければならない、信じることとその行いが一致すること、それが大切だということです。中国の古い教えでは知行合一(ちこうごういつ)というのがあり、行動を伴わない知識には意味がないという意味ですが、キリスト教信仰においても行いを伴わない信仰、あるいは行いと一致しない信仰には意味がないのです。ヤコブの手紙はそのことを強く訴えます。

では、その行いとは具体的にはどんなものなのか?意外なことに、ヤコブは正しい行いとは正しい言葉なのだ、ということを言うのです。これにはちょっと驚さかれることかもしれません。なぜなら私たちは「口先だけで」行動が伴わない人のことを批判するからです。不言実行という言葉があるように、うだうだ言わずに黙って実行するのがよい、という価値観があります。しかしヤコブは、正しい行いの具体例として真っ先に「舌を制する」ことを挙げます。これは私たちにとっては盲点かもしれません。正しい行いは、正しく言葉を用いる、舌を制することと深い関係がある、正しい行いは正しい言葉から始まる、というのが今日のヤコブの教えのポイントです。

確かに言葉は大切です。「口は災いの元」ということわざが示すように、人間関係におけるあらゆるトラブルの元は私たちが考えもなしに口にすることであったりします。余計な一言が良好な人間関係を一瞬のうちに破壊してしまうこともあります。旧約聖書の箴言も、口が災いを招くことに警鐘を鳴らしています。箴言18章6節と7節をお読みします。

愚かな者のくちびるは争いを起こし、その口はむち打つ者を呼び寄せる。愚かな者の口は自分の滅びとなり、そのくちびるは自分のたましいのわなとなる。

このように、余計なことを言ってトラブルを起こすぐらいなら、いっそのこと黙っているほうがよい、ということになるかもしれません。実際、そのことにも箴言は触れています。箴言17章28節をお読みします。

愚か者でも、黙っていれば、知恵ある者と思われ、そのくちびるを閉じていれば、悟りのある者と思われる。

なるほど、と思わせるような聖書の言葉ですね。ただ、ヤコブは何も、自分を賢く見せるために余計なことは言わないようにしようという意味で「舌を制する」べきだと言っているのではありません。むしろ、人は積極的に舌を用いるべきだ、言葉を活用すべきだということをヤコブは言っているのです。なぜなら人の舌は神のことばを伝えたり、神を讃美したり、そういう素晴らしい目的で用いられるべきものだからです。ですから、ヤコブはなるべく黙っていなさいというような意味で「舌を制御しなさい」と言っているのではないのです。むしろヤコブが警告を発しているのは「二枚舌」の問題、あるいは「二心」の問題なのです。

つまり、言っていることとやっていることが一致しないということがないように、ということです。口では立派なことを言っていても、その人の生き方そのものが自分の言っていることを裏切ってしまっているという残念なケースはよくあります。男女同権を訴えている偉い先生が、自分の家では奥さんをメイドか女中のように扱うなどいうことがよくあったそうですが、そういう人は信用されません。さらには、言っていることそのものが矛盾していることがあります。ある人の前ではおべっかを使って調子のよいことばかり言っておきながら、他の場面ではその人の陰口をたたくというような場合です。そういう人も、信用されないでしょう。しかしヤコブはさらに深刻な問題を語ります。それは、同じ人の唇が、ある時には神を賛美しながら、その神のイメージに造られた人間を呪う、そのようなことがあってはならないとヤコブは訴えているのです。ヤコブ書のテーマは実に「一致」です。言っていることとやっていることが一致すること、また言っていることがその時々、状況次第で変わってしまうことがないようにすること、そして特に神を信じる人は神を賛美するための唇を人を呪うために用いることがないように、つまり生き方が一貫しているようにと教えているのです。

では、なぜ人はある時は素晴らしいことを語りながらも、他の場面では酷いことを言ってしまうのでしょうか。それは、人間の語ることは究極的にはその人の本質を反映してしまうからです。心に悪意を抱く人は、どんなに気を付けていても、つい本音を漏らしてしまうものです。しかし、言い繕った言葉ではなく、ついうっかり漏らしてしまうような本音こそがその人の本質を表してしまうということがしばしばあります。良い木が悪い実をならせることはできないし、悪い木が良い実をならせることはできない、と主イエスは言われました。同じように、人は思ってもいないことを言うことはできないのです。つい漏らしてしまう本音とは、その人がいつも心に抱いていることだからこそ、何かの拍子にあふれ出てしまう、表に出てしまうのです。

では、どうすればよいのでしょうか。どうすれば、いわゆる「失言」をしなくてすむのでしょうか。それは、心に抱いていることそのものを変えればよいのです。心に良いものを抱いていれば、その人の漏らす本音もよいものとなるはずだからです。良い実を実らすには良い木になるより他ないように、よい言葉を語るためには良い人間になるほかないのです。ですから「舌を制する」というのは単なる処世術ではなく、むしろ良き人間となれ、という教えでもあるのです。そのことを念頭に置きながら今日のみことばを読んで参りましょう。

2.本論

ではまず1節を見てみましょう。ここでは、教師になることへの警告が語られています。今の時代、学校の教師というのはあまり割の良い仕事だと見なされません。それどころか非常にハードワークを要求されるきつい仕事で、敬遠されることも多いと聞きます。しかし、新約聖書の時代には教師というのは尊敬される職業で、教師になるだけで社会的なステイタスが上がると考えられていました。それは教会内でも同じで、教師になることで教会内での地位が上がるとみられていました。そんなわけで、教会の教師になりたいという人が少なくなかったのです。しかしヤコブは、そのような人たちに注意を促します。教師になるということは、格段に厳しい神のさばきを受けることになるということです。

今の日本では、地位が上がれば上がるほど守られる、責任を取らされることがないという傾向があります。いわゆるトカゲのしっぽ切りということで、組織の長ではなく末端に責任を取らせるという傾向があるのです。しかし、聖書では上に行けば行くほどその責任が重くなります。その代表例がモーセです。モーセはうなじの怖いイスラエルの民を大変忍耐強く導いた素晴らしいリーダーで、荒野をさまよった四十年もの間これといって大きな罪を犯したことはなかったのですが、しかし民全体の罪の責任を取る形で、約束の地に入ることを許されませんでした。モーセ個人にとっては残酷ともいえるような結末を迎えてしまったのです。このように、神の民の教師になるということには重い責任が伴います。ですからヤコブは、「多くの者が教師になってはいけません」と語ります。これは親心とも呼ぶべき助言でしょう。

それでも教師になる人は、ことばで失敗しないように特に心がけるべきです。そして、もしそれができるなら、その人はからだ全体を制御できるとヤコブは語ります。ここでいう「からだ」とはおそらくメタファー、つまりキリストのからだである教会のことを指すものと思われます。ことばを正しく制御できる人は、教会を立派に制御できるだろうとヤコブは語っているものと思われます。

教会と教師という問題に冒頭で触れて、ヤコブは本題、「舌を制する」という問題について語ります。口というのは人間の体全体から見ればごく小さな器官かもしれませんが、実際は体全体を振り回してしまうような驚くべき力を持っていることを、ヤコブは比喩的な例をいくつか挙げながら説明します。馬というのは大変な馬力を持つ動物ですが、その馬もくつわ一つでうまくコントロールできます。さらにヤコブは、口を船のかじに譬えます。小さなかじが大きな船を自在に操ることができるように、人間の口もその人全体の方向性を決定してしまうほどの力を持っています。

しかし、そのような大きな力を持つ人間の舌は、非常に危険な面も持っています。「大言壮語」という言葉がありますが、人は身の丈以上に自分を大きく見せようとする時に、大口をたたいてしまいます。大口をたたくぐらいならまだよいのですが、言葉というのはどんな凶器よりも深く人の心を傷つけることがあります。言葉というものは恐ろしい力を秘めているのです。それが人を生かしたり癒したりすることもあれば、人をどん底に叩き落すこともあります。ほんの小さな一言が、大きな団体や組織を崩壊に導いてしまうこともあります。ヤコブはこのことを、ほんの小さな火種が大きな森全体を焼き尽くしてしまうことを例に引いて説明します。そして、私たち人間はしばしば舌を制御できません。それはつまり、私たちが感情を制御できず、自分の感情が舌を通じてあふれ出てしまうということなのですが、私たちの感情がどす黒い場合、舌から出て来る言葉もゲヘナ、つまり地獄の業火のように恐るべきものとなります。ヤコブはそのことを恐ろしいほど鮮やかな言語でこう表現します。6節をお読みします。

舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。

ヤコブはさらに、舌は死の毒に満ちているともいいます。もちろん、舌は悪そのものであるわけではありません。舌はその人の心を反映するものなのです。心が悪いから、言葉も悪くなるのです。旧約聖書の箴言も、そのことを語っています。箴言26章の23節以下を読んでみましょう。

燃えるくちびるも、心が悪いと、銀の上薬を塗った土の器のようだ。憎む者は、くちびるで身を装い、心のうちで欺きを図っている。声を和らげて語りかけても、それを信じるな。その心には七つの忌みきらわれるものがあるから。憎しみは、うまくごまかし隠せても、その悪は集会の中に現れる。穴を掘る者は、自分がその穴に陥り、石をころがす者は、自分の上にそれをころがす。偽りの舌は、真理を憎み、へつらう口は滅びを招く。

日本のことわざにも、「人を呪わば穴二つ」というものがありますが、聖書にも同じような格言があるのが興味深いですね。そしてこの箴言のみことばも、ヤコブと同じように二心の問題、つまり言っていることと心の中で思っていることが一致しない問題を指摘しています。

このように舌はその人だけでなく、教会全体、あるいは社会全体に悪影響を及ぼすような恐ろしいものにもなり得るものですが、用い方によってはとても素晴らしいものです。箴言には次のような言葉もあります。18章4節をお読みします。

人の口のことばは深い水のようだ。知恵の泉はわいて流れる川のようだ。

このように、人の口からは素晴らしい知恵の言葉が流れ出て来ます。それだけではありません。ヤコブが言うように、私たちは舌をもって主であり父である神を褒めたたえます。しかし問題は、その同じ口から「神にかたどって造られた人」を呪う言葉が飛び出してしまうことです。ヤコブは主にある兄弟姉妹に対し、「このようなことは、あってはなりません」と語ります。同じ口から神への賛美と神への呪いが出てくるようなことは、自然の理に反しているとヤコブは言います。彼はこう言っています。

泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。

自然の摂理に拠れば、同じ泉からは同じ種類の水が出て来るはずなのです。しかし、人の口という穴からは、まったく違う種類の言葉が出て来ます。それはなぜか?それは人間が二心を持つ生物だからです。それは、表面的な見せかけの態度と、心に隠している思いとが異なっているということです。しかし、それはよくないことです。悪い心を持ち、口にすることも悪いことばかりの人の方が、悪い心を持ちながらも、口ではなめらかで快いことばかり語る人よりも危険性が少ないと言えます。なぜなら、そういう人の方が人を騙す危険性が少ないからです。もちろん、悪い心ではなく、善い心を持ち、語ることもよいというのが一番良いのは言うまでもありません。ヤコブは12節でそのことを語っています。

私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりすることは、できることでしょうか。塩水が甘い水を出すこともできないことです。

悪い木が良い実をならせることはないし、苦い水の泉が甘い水を出すこともありません。人間の場合は悪い心が良い言葉を語らせるという欺瞞、騙しごとがありますが、しかしその場合でも、そのような悪い心はいずれは悪い言葉を紡ぎ出してしまうものなのです。そうならないために、私たちは良い人間になる必要があります。ここでは、何か循環論法のようになってしまいますが、私たちは良い人間となるために、常に良い言葉、神への感謝、人への感謝を言い表していくべきなのです。

3.結論

まとめになります。今日は善い行いと良い言葉の関係、そして良い言葉と良い心の関係についてヤコブの手紙を通じて考えて参りました。卵が先か鶏が先かの議論ではありませんが、良い言葉が良い心を形作っていくのか、あるいは良い心が良い言葉を生み出していくのか、どちらも本当だと言えるしょう。しかし大事なことは、その人の心の思いとその人が語る言葉とが一致していることです。また、その人の語ることが状況次第でいかようにも変わってしまう、そのようにならないことが大切です。心と言葉と行動が一致すること、しかも良い方向に一致すること、それがキリスト者が目指す生き方です。そのような生き方は、私たちがイエスを心から信頼し、主イエスの教えに従って歩むときに実現し始めます。そのような人には聖霊が働いてくださり、神が私たちを良き者へと変えてくださるからです。そしてこのように歩んでいくために、非常に具体的で現実的な問題として、私たちは自分が語ることに常に注意を払う必要があります。言葉を軽んじてはいけません。私たちの語る一言一言が、私たちの人格を形作っていくのだということを意識しながら、日々の生活を全うしていきましょう。お祈りします。

私たちに主を讃美する舌を与えてくださった神様、そのお名前を讃美します。私たちがこの唇を尊く用い、悪いことに用いることがないように私たちを助け導いてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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行いによって義とされるヤコブの手紙2章14~26節 https://domei-nakahara.com/2024/06/30/%e8%a1%8c%e3%81%84%e3%81%ab%e3%82%88%e3%81%a3%e3%81%a6%e7%be%a9%e3%81%a8%e3%81%95%e3%82%8c%e3%82%8b%e3%83%a4%e3%82%b3%e3%83%96%e3%81%ae%e6%89%8b%e7%b4%992%e7%ab%a014%ef%bd%9e26%e7%af%80/ Sun, 30 Jun 2024 04:46:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5707 "行いによって義とされる
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1.序論

みなさま、おはようございます。毎月の月末はサムエル記の講解説教から離れて新約聖書からメッセージをさせていただいておりますが、今日もヤコブ書からメッセージをさせていただきます。今日の箇所は、新約聖書の中でも最も有名で、かつ議論を呼ぶ箇所の一つだとされるところです。

なぜこの箇所がそんなに有名なのかといえば、今日の説教タイトルにあるように、ヤコブが「行いによって義とされる」ということを繰り返し説いているからです。しかし、宗教改革でルターが熱心に主張したのは「信仰のみで義とされる」という信仰義認論でした。「信仰のみ」とはすなわち「行いなしで」ということであることが強調されました。あまりこの教理についての難しい議論には触れないようにしたいのですが、一つだけ強調したいのはルターも決して「行い」の重要性を否定していたわけではなかったことです。クリスチャンとしての行いは大切であり、ひとたび神様に義とされて受け入れていただいた後には、クリスチャンは善い行いに励まなければならない、とルターは強く訴えています。ただ、ルターにとっては順番がなによりも大切でした。まず「行いなしに」義とされて、それからクリスチャンとして善い行いに励むという、そういう救いの順序を重要視していたのです。そのルターにとって、行いによって義とされると明確に主張するヤコブ書は自分の信仰義認の教理を脅かす書だと感じられたのでしょう。ルターのヤコブ書への評価は極めて低く、ルターはヤコブ書を「藁の書」、つまり終末の神の裁きの前には藁のように燃えてしまう書だとさえ記しているのです。

ここでルターがなぜ「行いなし」の義認にこだわったのかを考えてみたいと思います。ルターは当時の中世の神学と戦っていました。中世のカトリック神学によれば、神は自らが神の恵みにふさわしいことを示した人に恵みを施すとされていました。つまり、まず人間が頑張る、それに対して神様がご褒美として恵みを与える、という順番でした。しかしルターは、それでは順番があべこべである、と主張しました。まず神は、神の恵みにまったくふさわしくない人に恵みを施すのです。この場合、具体的には恵みとは「聖霊」のことです。人は恵みのみ、信仰のみによって無償で「聖霊」という賜物を与えられる、そしてその聖霊によって力を受けて人は善い行いをすることができる、これがルターの重要視した「救いの順序」でした。ルターがなぜヤコブ書を酷評したのかといえば、こうした救いの順序を無視した議論を展開しているように思えたからです。ただ、ルターの時代から千五百年も前に生きていたヤコブには、こういう微妙なスコラ的神学論争は縁のないものでした。ヤコブは中世の神学と戦っていたわけではありませんし、もっと物事をシンプルに考えていました。彼の目指したものは、人々の間に広がっていたある種の誤解、その誤解はいつの時代にも生まれるようなものですが、その誤解を解くことでした。その誤解とは、人が救われるためにすべきことは信じるだけ、「行いなしに信じるだけで救われる」というものでした。この場合の「信じる」というのは、ある種の知識を知的に受けいれるということです。その知識とは、「神は存在する」とか、「イエスは神の子である」とか、「イエスは人類の罪を背負って死んだ」などの教理のことで、こういった教理を知的に受け入れさえすれば救われる、天国に行ける、このように考えてしまった人がいたということです。イエスを信じて、イエスの教えに従って新しい生き方をする、生き方を変える、それが救いには絶対に不可欠だとは考えず、むしろ信仰とは頭の問題、知識の問題だと考えてしまうのです。どうしてそう考えてしまったのかといえば、それは当時すでに有名だったパウロの言っていることを曲解してしまった結果だと思われます。パウロは「律法の行いではなく、キリストへの信仰によって義とされる」ということを強く主張しました。このパウロの教えの真意を理解することはとても大切なのですが、しかしあまりこの問題に深入りすると、ヤコブの手紙ではなくパウロ書簡についての説教になってしまうので、ここではごく簡単に解説します。パウロが言わんとしたのは、「あなたは何の行いがなくても、ただ信じるだけで救われる」ということではありませんでした。むしろパウロはすべての書簡で、行いの重要性、必要性を強く訴えています。一番有名なのは、「なぜなら、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が義と認められるからです」というローマ書2章13節のことばです。ここで言っているのは、ヤコブの手紙と全く同じですね。パウロが「律法の行いでは義とされない」と語った前提として、モーセの律法はモーセ契約を結んだユダヤ人のみに与えられたものだということを覚えておく必要があります。つまり、モーセ律法のすべての戒めを守る義務を負っているのは契約の民であるユダヤ人だけなのです。私たち日本人クリスチャンが、モーセの律法を守って「これからトンカツは一生口にしません」と誓っても、それは豚肉を食べないユダヤ人にとっては義とされる行為であっても、日本人クリスチャンがそうしたからといって、神の前に義とされることはないのです。つまり、パウロは一般的な意味での善い行いは救いには関係ないとか必要ないと言いたかったのではなく、ユダヤ人に固有の教えをいくら熱心に守っても、私たちのようなユダヤ人以外の異邦人には意味がないということを指摘したのです。 しかし、ユダヤ人と異邦人との関係を念頭に置かずにパウロの言葉を聞くと、「ああ、パウロ先生は救われるためには善い行いをする必要はない、ただ信じるだけでよいと教えておられる」というように捉えてしまいがちです。そのような誤解は現代にもありますし、ヤコブの手紙が書かれた時代、つまりキリスト教の黎明期にもあったのです。ヤコブの狙いは、そうした誤解を打ち砕くことにありました。この点を念頭に置いて、さっそくテクストを詳しく見て参りましょう。

2.本論

では14節から見ていきましょう。ヤコブは、行いの伴わない信仰が何の役に立つのか、そんな信仰が人を救うことができるのか、という問いを投げかけます。まずヤコブは、「口先だけの信仰」のむなしさを語ります。「口先だけの愛」がむなしいように、「口先だけの信仰」はむなしく、有害だとさえ言えます。

ある人が貧しくて食べるものがなくて空腹に苦しんでいる時に、食糧を十分に持っているその人の友人が、「たいへんですね。あなたのことを心から心配していますよ。あなたの空腹が満たされるように、お祈りしますね」と言いながら、その人に自分の食事のわずかな分さえ与えるのを惜しんだとします。では、その人の貧しい友人への同情心が本物だと思えるでしょうか。いいえ、それは口先だけの、見せかけの同情心に過ぎないのです。ずいぶん昔のテレビドラマで「同情するなら金をくれ」という有名なセリフがありました。ここまであけすけに言うと身も蓋もないですが、しかし本当に同情して心配してくれるなら必要なものを買うためのお金を提供してほしい、というのはもっともな願いでもあります。ですから本当の同情心は口だけでなく行動を通じて表わすべきものなのです。全く同じことが信仰についても言えます。いくら口先で「イエス様、あなたを信じています。あなたについて行きます!」と言ったところで、その人が生活においてイエスの教えを無視し、自分の判断で好きなように生きているとしたら、その人のイエスへの信仰は本物と言えるでしょうか。いいえ、そんなものは口先だけの信仰に過ぎないのです。言われてみれば当たり前の事なのですが、私たちはこのように考えてしまう罠に陥りやすいのです。

18節では、ヤコブは信仰についてのもう一つの誤解を取り扱っています。それは信仰を知識の問題として捉えてしまうこと、信仰を神についての教理を知的に受け入れることだと考えてしまう誤りについて指摘しています。ある人が、「私には立派な行いはないし、私の生き方は褒められたものではありませんが、しかし神様がおられて、神様が私の罪を赦してくださることは誰よりも強く信じています。この信仰の強さについては、誰にも負けません」と言ったとします。では、このような信仰は神の求める信仰なのでしょうか。ヤコブは、あなたの言う意味での信仰についてなら、悪霊の方があなたより強い信仰を持っているという事実を指摘します。神についての正しい知識なら、私たち人間よりも霊的存在である悪霊のほうがずっと優れた知識を持っているからです。ですから神が存歳するという教理を信じる度合いは、私たちよりも悪霊の方がずっと強いのです。では、そのような信仰によって悪霊は神に喜ばれ、救われることができるのでしょうか。いいえ、そんなことはありえないし、神はそのような信仰を求めてはおられないのです。この具体例から分かるように、信仰とはただ頭の中で考えたり信じたりすることではないのです。

そしてヤコブは信仰とは何であるのかを示すために、最後に旧約聖書で最も有名な人物を例に引きます。そう、「信仰の父」アブラハムです。ここで注意したいのは、アブラハムの信仰といっても、アブラハムの生涯のどの部分を切り取ってくるのかでその「信仰」についての印象もずいぶん変わってしまうということです。それを端的に示しているのがパウロとヤコブのアブラハムの描き方です。パウロは信仰義認論を論じる時に、常に創世記15章のエピソードを引用します。創世記15章のエピソードとは、子どもを与えてくださるという神の約束を信じてカルデヤからカナンの地にまで旅してきたアブラハムですが、もう80歳を超えても子どもは授かりませんでした。もうあの神の約束は無効になってしまったのかと弱音を吐くアブラハムに対し、神はかならず子どもを授けること、それどころか彼の子孫は空の星のように夥しい数になることを改めて約束します。アブラハムはこの神の約束を信じ、それが義とされたと書かれています。ここでアブラハムは何か立派な行いをしたとか、神の命令に従ったとか、そういうことは何もありません。ただシンプルに神の約束を信頼した、そのことが神に認められ、義とされたのです。このエピソードからは、確かに「行いなしに、信じるだけで、神に義と認めていただける」という結論が導けるかもしれません。ただ、忘れてはいけないのはこの出来事でアブラハムの信仰の旅路は完結したわけではなかったということです。また、神はこの時のアブラハムの受け身の信仰で完全に満足した、というわけでもありませんでした。もしそうなら、神は後にアブラハムの信仰をテストする必要などなかったからです。

本物の信仰というのは、人生のある時期に、一度でも神を信じればよいというものではないのです。むしろ、信仰とは人生全体に及ぶものです。これは愛の場合を考えても同じでしょう。ある人を一度は愛したけれど、その愛が時間と共に醒めてしまった、というのでは、その愛ははしかのようなもので、本物ではなかったということになるのではないでしょうか。信仰も同じです。神様を一度は信じた、信頼したければ、人生においていろいろと苦難が降りかかるともはや神を信じられなくなった、神がいるとは思えなくなった、というのではその信仰は本物ではなかったということになります。信仰は、人生の荒波や試練のただ中でも失われなかった場合にこそ、それが本物だと認められるのです。そしてアブラハムにとっての最大の信仰の危機は、いうまでもなく神にわが子イサクを献げなさいと命じられたときでした。これほど残酷な命令はありません。そもそも75歳という高齢になってまで、アブラハムが神の命令に従って生まれ故郷を離れて旅立ったのは、「子どもを与える」という神の約束を信じたからでした。アブラハムが神に求め続けたもの、それは子どもだったのです。その約束の子どもが、約束の時から25年も後になってやっと与えられ、そしてその子が順調に育ってきた、これでアブラハムもやっと安心してこの世を去ることができると思えたその時に、そのたった一人の子どものイサクを屠りなさいと神に命じられたのです。悪い冗談ではないか、と思えたことでしょう。そしてその神の命令が本気の命令だとわかったときに、アブラハムの心に神への不信感がまったく生まれなかったとは言えないでしょう。いったい神は何を考えておられるのか。私の人生を弄んでいるのではないか、という不信が全くなかったとはいえないでしょう。しかしアブラハムは、神と共にもう30年以上も共に歩んできました。神が自分を弄ぶとか、そんなことをする方ではないことは良く分かっていました。神は常に私にとっての最善を願っておられるという強い信頼が、その長い歩みを通じてアブラハムの心に生じていたのです。だからアブラハムはイサクを献げようと思ったのです。それはブラインド・フェイス、つまり盲目的な信仰ではありません。むしろその信仰は、長い人生経験に裏打ちされていました。これまでの人生の苦楽を共にしてきた信頼できるパートナーとしての神への全幅の信頼です。なぜ神がイサクを献げろと言われるのか、その真意は分からないけれど、神が私の信頼を裏切るようなことを命じるはずがない、という本物の信頼があったのです。そしてアブラハムの神への信頼は、行動を通じてでしか、行いを通じてでしか表すことができないものだったのです。アブラハムは神への信頼の証しとして、神の命令に従いました。そして、そのような神への全き信頼が神に喜ばれたのです。アブラハムはこの試練を通じて、なんと「神の友」とさえ呼ばれるようになりました。そしてこの時、アブラハムの子孫、つまりイエス様が全人類の祝福の基になることが確定しました。アブラハムの信仰に心を動かされた神が、ご自身に賭けてそのことを誓われたからです。私たちがイエス・キリストという救い主を得ることができたのは、アブラハムが神への信頼を全うしてくれたおかげなのです。ですから私たちはアブラハムに心から感謝するとともに、その彼の信仰に倣う者でありたいと願うものです。そして、繰り返しますがアブラハムの信仰とはその行動を通じてでしか表せないものでした。ですから信仰と行いとは決して切り離すことはできないのです。それが、次のヤコブの言葉の真意です。

人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。

この言葉はパウロの信仰義認の否定ではありません。むしろパウロの信仰義認への誤った理解を正してくれるみことばなのです。

3.結論

まとめになります。今日は新約聖書の中でも最も有名で、また最も議論を呼ぶ箇所の一つを読んで参りました。ヤコブの議論は具体的で分かりやすく、心に残るものでした。それは「信じるだけで救われる」という、非常に誤解を招きやすいものの、しばしばキリスト教のエッセンスのように語られるスローガンを正すためのものでした。

当たり前のことですが、誰かを信じるということは、それが神に対してであれ人に対してであれ、口先だけのものであってはならないのです。むしろ誰かを本当に信じているかどうかは、その行動を通じてでしか確かめることができないということがヤコブの第一のポイントでした。

ヤコブの第二のポイントは、信じるということは単なる知識の問題ではない、ということでした。誰かを信じるということは、それが神についてであれ人についてであれ、単にその人についての知識を受け入れることではありません。皆さんがスポーツクラブに所属しているとします。そこに優れた実績のコーチが新たに就任します。けれども、このコーチがどれほど優れているのかを知っていたとしても、それで皆さんが上達できるわけではありません。このコーチを信じて、その指導に従ってしっかり練習する、実践することを通じて初めて皆さんは上達できるのです。イエス様も私たちにとっての最高の霊的な指導者ですが、イエスが優れた教師であることを知るだけで私たちは霊的に成長するのではありません。イエスの教えに実際に従って初めて私たちは本当にイエスを信じたことになり、また成長できるようになるのです。つまり頭だけでなく、行動そのものでイエスへの信頼を表していかなければ私たちはいつまでたっても霊的に成長することはないのです。聞くだけでなく、実践すること、これが本物の信仰です。

三つ目のポイントとして、ヤコブはアブラハムを例に引きます。アブラハムの信仰は、一時期だけのものではありません。それは30年もの間、それどころか彼の人生の終わりまで持続するものでした。アブラハムは年をとっても、信仰面ではダイナミックに成長し続けました。このように、本物の信仰とは一時的なものではなく持続的なもので、なおかつ成長を止めないものでもあります。信仰の父であるアブラハムはまさにそのような信仰を体現した人だったのです。私たちを救うのは、そのような信仰です。そうした信仰を持ち続けることができるように、祈って参りましょう。

アブラハムの信仰の成長を見守り続けた神様、そのお名前を賛美いたします。私たちもアブラハムのような本物の信仰を持ちたいと願うものです。どうか私たちの信仰の歩みをも、守り導いてくださいますように、お願いいたします。われらの救い主、平和の主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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貧しい人への態度ヤコブの手紙2章1~13節 https://domei-nakahara.com/2024/05/26/%e8%b2%a7%e3%81%97%e3%81%84%e4%ba%ba%e3%81%b8%e3%81%ae%e6%85%8b%e5%ba%a6%e3%83%a4%e3%82%b3%e3%83%96%e3%81%ae%e6%89%8b%e7%b4%992%e7%ab%a01%ef%bd%9e13%e7%af%80/ Sun, 26 May 2024 03:42:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5631 "貧しい人への態度
ヤコブの手紙2章1~13節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。今日は月末ですので、通例通り新約聖書の「ヤコブの手紙」からメッセージをさせていただきます。ヤコブの手紙には、行いの重要性の強調や、試練に対する心構えなど、いくつかの重要なテーマがありますが、今日の箇所もそうした柱となるテーマの一つ、「貧しさ」についてです。それも霊的、精神的な貧しさということではなく、経済的な貧困の問題です。

「貧しさ」というのは、今日の日本では切実な問題になってきています。かつては経済大国と言われ、また一億総中流社会とも言われた日本では、もちろん貧しい人たちは常にいたわけですが、社会全体が貧しさを感じるということは少なかったように思います。しかし、今の日本では、6人に1人が相対的な意味では貧困状態にあるという調査結果があります。6人に1人というのは相当な割合だと言えます。特に、最近の物価の上昇や急激な円安などはエンゲル係数の高い貧困層の人々を直撃しています。さらには、地震などの自然災害のせいで生活の基盤を失ってしまう人たちも少なくありません。日本という国全体が貧しさ、貧困という問題に正面から向き合わなければならない時代に私たちは生きていると言えるでしょう。

聖書でも、貧しさというのはとても重大な問題です。まず、イスラエルの神は常に貧しい人々、社会的に弱い立場にある人々を思いやり、寄り添う神であるということがこのテーマを考える上での根底にある事実です。そのことをはっきりと教えている箇所の一つを読んでみましょう。申命記15章7節から11節までです。

あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。あなたは心に邪念をいだき、「第七年、免除の年が近づいた」と言って、貧しい兄弟に物惜しみして、これに何も与えないことのないように気をつけなさい。その人があなたのことで主に訴えるなら、あなたは有罪となる。必ず彼に与えなさい。また与えるときに、心に未練を持ってはならない。このことのために、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださる。貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。」

このように、貧しい人を思いやる神を礼拝する人々は、神に倣って貧しい人に思いやるべきだ、というのが聖書の教えです。イスラエル民族というのは、もともとはエジプトで奴隷として働かされていた人々でしたから、最初は貧富の差などなく、みな貧しく弱い人たちでした。しかし、彼らがカナンの地、今のパレスチナの地を征服し、そこで農耕生活を始めると段々と格差が大きくなっていきました。イスラエルにサウル、ダビデによる王朝が出来る前の士師の時代には、イスラエル人の持つ土地の面積は、だいたい同じだったということが考古学者の発掘によって分かっています。みんな中流だったのです。それが、王制が始まると政治的な力だけでなく経済的な力も一部の人に集中するようになり、イスラエルはほんの一部の大地主とその他大勢の零細農家や小作農からなる格差社会へと変貌していきました。律法は、そのような格差社会にならないように、7年に一度は奴隷を解放したり債務を免除したりするように教え、またヨベルの年と呼ばれる49年に一度の年にもすべての負債の免除を命じています。しかし、律法を守ることにあれほど熱心だったユダヤ人たちは、こうした債務免除の教えだけはいろいろと理屈をつけて守らなかったり、あるいは骨抜きにしていました。ですから律法を守っていればイスラエル社会は格差社会にならないはずだったのですが、実際には超格差社会になっていきます。このことは北イスラエル王国が滅亡する預言者アモスの時代、南ユダ王国が滅亡する預言者エレミヤの時代、そしてイエス・キリストが宣教された当時のユダヤ社会、それらすべての時代に当てはまることなのです。預言者たちは繰り返し、貧しい人々を顧みなさいと警告しましたが、イスラエル人の有力者や富豪たちたちはその警告に耳を閉ざし、その結果国が滅んでいきました。

そして、現在にもこの問題は重くのしかかっています。世界中で一番キリスト教に熱心だといわれるアメリカ合衆国は、もし国民の7割とも言われるクリスチャンが聖書の教えを守っていれば世界で最も平等な社会になっているはずです。しかし、今日のアメリカほど貧富の差が甚だしい社会はありません。その格差の巨大さは、私たちには想像もできないほどです。10年間の年棒総額が一千億円に及ぶ大谷翔平選手は大きな話題を呼びましたが、アメリカではこの大谷選手でさえスーパーリッチとは呼べないほど、けた外れのお金持ちがかなりの数います。なぜなら一番のお金持ちは20兆円を超える資産を持っているからです。しかもそうしたお金持ちには聖書の民であるクリスチャンやユダヤ人が圧倒的に多いのです。アメリカ人は莫大な寄付をしているから社会のバランスが取れるのだとも言われますが、財団は節税目的の場合が多く、アメリカの大富豪は様々な制度を使って巧妙に資産を守っていると言われています。私も日本の富豪にお仕えするプライベート・バンクというところで働いたことがありますが、財産を守るための方法を頭のいい人たちが必死で考えるわけですから、金持ちがますます金持ちになっていくのは当然とも言えるでしょう。

私たちの日本は、かつては一億総中流と呼ばれる比較的に格差の少ない、平等な社会だと言われてきましたが、あらゆる面でアメリカを模倣する日本も段々と格差の非常に大きな社会になってきました。東京23区ではここ10年でマンション価格が2倍になったと言われています。新築がみんな億ションになってしまったのです。年収1千万ぐらいの、かなりの高給取りのサラリーマンでさえ手が出せないような、そんな状況です。そんな中で、この東京では貧困がかつてないほど広い範囲に広がってきています。そういう時代に生きる私たちであるからこそ、今日のヤコブ書のみことばを心して聞きたいと思うのです。

2.本論

さて、では1節から見て参りましょう。ヤコブは信者たちに、「あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません」と呼びかけます。えこひいきという言葉のギリシア語には、人を外見で判断するというようなニュアンスがあります。人を偏り見る、というような意味合いです。神は背が高くてイケメンのダビデの兄ではなく、少年ダビデを神の器として選ばれた時、「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」(第一サムエル16:7)と言われました。えこひいきをしないとは、つまり人をうわべで見ないということです。そして2節と3節には、人をうわべだけで判断することの具体的な事例が描かれています。この場面を読んで、次のような状況を想像されるかもしれません。ある教会の礼拝堂で、座席以上の数の礼拝者の方々が来られた場合、席に座れない人が出て来てしまうことになります。その際、アッシャーといって来会者を席に誘導する係りの人が、いかにもお金持ちそうな人に席を優先的にあてがい、いかにも貧しそうな人には礼拝中は立っていなさい、と言うようなケースです。さすがにそこまで露骨なことをする教会はないでしょうが、教会といえども世間一般と同じようにお金持ちを優遇するということがあり、その問題をヤコブが指摘しているのではないか、ということです。ただ、聖書注解者たちの意見によれば、この場面は礼拝中の出来事ではなく、むしろ教会員同士の間で争いがあった場合、教会がその問題を裁こうというケース、つまり教会内裁判のような情景である可能性が高いということです。その場合、教会の指導者は争いの仲裁をするわけですが、初めからお金持ちの教会員の方に有利な判決を下そうとする、そのような偏見に満ちた姿勢をヤコブは批判しているということです。私たちは教会内裁判などというものは見たことがないので想像しにくいかもしれませんが、使徒パウロはコリント教会の教会員の間で争いごとが生じたときに、外部の裁判所ではなく、教会の中で問題を解決しなさいと勧めています。そこを読んでみましょう。第一コリント6章の1節と2節です。

あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるでしょうか。あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。

パウロは、聖徒たち、つまりクリスチャンは、終末の先に主イエス・キリストが全人類をおのおのの行いに応じて裁くときに、そのお手伝いをするようになる、そういう大きな役目を期待されているのだから、目の前にある教会の小さな問題さえさばけないでどうするのですか、と問うているのです。このように、初代教会では信徒の間のもめ事を裁く教会内裁判が奨励されていました。ヤコブの手紙の2章2節と3節も、そのような裁きの場を描いていて、りっぱな服装をした人とみすぼらしい服装をした人とは、その裁判を傍聴しに来た人たちだと考えられます。この場合、もし金持ちと見られる傍聴人を教会が優遇したとしたらどうでしょうか。そのような態度の教会は、実際の裁判においてお金持ちの教会員と貧しい教会員が争った場合にも、金持ちの方を優先し、貧しい人の権利を軽んじないでしょうか。実際、お金持ちは献金や寄付などで教会に大きく貢献してくれているのだから、有利に取り扱ってもいいじゃないか、というのは世間一般で考えそうなものです。イエスやパウロの時代の地中海世界の裁判でも、お金持ちが裁判官に賄賂を送って判決を有利に進めたということがありました。今日の裁判では、さすがに賄賂はないものの、お金持ちは多額の報酬を支払って優秀な弁護士を雇うことができるので、お金持ちの方が有利になるのは間違いありません。しかし聖書は、裁判においてはそのような金持ち優遇があってはならないと教えます。同時に、貧しい人を守るべきだからといって、裁判の正義を曲げてまでも貧しい人を助けようとするのも誤りだと教えています。レビ記19章15節は次のように教えています。

不正な裁判をしてはならない。弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない。

このように、神は裁判が公平であることを求めておられます。しかし、実際の裁判では貧しい人の方が不利になる、というのは隠すことのできない事実であるし、教会内裁判においてですらそのような危険があるということをヤコブは指摘しています。

しかし、そのような態度は神に喜ばれません。なぜなら神は、むしろ貧しい人たちにこそ優先的に福音を届けてこられたからです。そのことをヤコブは5節で書いていますが、イエスもそうおっしゃっています。ルカ福音書6章20節、21節には「貧しい人は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから」という有名なイエスの言葉があります。パウロも同じことを記しています。第一コリント1章26節から28節までをお読みします。

兄弟たち。あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足らない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

このように、神はイエス・キリストの福音を貧しい人たち、社会的に追いやられた人たちに最初に届けられました。そのような神に選ばれた人たちを軽蔑することは、神に敵対する行為です。

ヤコブは貧しい人を侮り、富んだ人におもねる人々をこう言って厳しく咎めます。

それなのに、あなたがたは貧しい人を軽蔑したのです。あなたがたをしいたげるのは富んだ人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名をけがすのも彼らではありませんか。

ここで言われている富んだ人たちとは、当時の大地主階級の人たちのことでしょう。当時の地中海世界では、ごく一部の大地主とその他大勢の零細農家あるいは小作農という二極化が進んでいました。イエスを信じるキリスト者の多くは貧しい小作農たちでしたが、彼らにお金を貸し付けて、返せないと裁判所に引っぱっていってみぐるみを剥いだのがこうした富める大地主たちでした。そのような人たちに教会がおもねるということは、自分自身を虐げる者におもねることではないか、とヤコブは指摘するのです。

さらにヤコブは、貧しい人を侮ることは、律法の最も大切な教えを破ることになると警告します。律法の中で最も大切な教え、律法全体を要約する教えとは、8節にあるように「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」です。主イエスもそう教えられましたし、パウロも「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです」(ガラテヤ5:14)と書いています。そして、この隣人には当然ながら金持ちだけでなく貧しい人も含まれます。いやむしろ、貧しい人こそあなたの真の隣人なのだ、というのがイエスの教えです。主イエスは、「まことに、あなたがたに告げます。これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)と言われました。ですから人が、いくら他の律法全体を完璧に守ったとしても、貧しい人を自分自身のように愛しなさいという教えに躓くならば、その人は律法の違反者となってしまうのです。このヤコブの教えは、福音書にある有名な富める青年のエピソードを思い起こさせます。主イエスに、永遠のいのちへの道を尋ねた青年は、自分は幼いころから律法を皆持ってきましたとイエスに言いました。しかし、そのあり余る財産を貧しい人たちに分け与えて、イエスの弟子たちの群れに加わりなさいというイエスの言葉には従えませんでした。厳しい見方かもしれませんが、もし彼が貧しい人たちを自分と同じように愛していたのなら、イエスの呼びかけに応えることができたでしょう。そうすれば天に大きな財産を積むことができるし、地上においては主にある多くの兄弟姉妹を得ることが出来たのです。しかも、富める青年自体は自分は不正な手段で富を得たのではない、と思っていたかもしれませんが、彼がほぼ間違いなく大地主だったと思われるので、ということは7年ごとに負債を免除しなさいという律法の教えについてはほかの大地主と同じく守っていなかったのでしょう。この一つの点、たった一つかもしれませんが、しかし最も大事な点でつまずいてしまうなら、律法全体を犯したことになる、とヤコブは指摘します。富める青年がここまで大金持ちではなく、ペテロのようにつつましい財産しかもっていなかったのなら、この点につまずくことはなかったでしょう。ペテロのように、喜んで主にお仕えできたかもしれません。あまりにも大きな財産は神の国に入るための妨げになってしまうというイエスの教えは本当だったのです。

そして今日の箇所の最後の一節、13節を見てみましょう。私たちはもし人をさばくことがあるのならば、その時には憐みを持って、つまり相手の立場に立ってよくよく考えた上で裁きを下すべきだということです。なぜなら私たちはみな、主イエス・キリストの裁きの座の前に立たなければならないからです。主イエスが私たちを裁く基準の一つが、私たち自身がどのように他人を裁いてきたのか、その態度そのものだということです。主イエスも「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」(マタイ7:2)と語っておられる通りです。

3.結論

まとめになります。今日は、「貧しさ」という聖書の大きなテーマの一つについてヤコブの教えを通じて考えて参りました。私たちは普通、貧しさを嫌い、もし貧しい境遇にあるのなら何とかそこから抜け出そうとします。戦後の日本があれほど急速に成長できたのは、敗戦でみなが貧しくなり、なんとかそこから抜け出そうとみなで頑張ったからでした。その結果、貧富の差がないとはいいませんが、比較的格差の少ない社会を作り上げることができました。しかし、そのような平等な社会では満足できない人たちもいました。アメリカでは日本とは比較にならないような大金持ちがいて、とんでもない豪邸に住んでこの世を謳歌しています。そんなアメリカで生活して、日本もそうあるべきだ、と考える人たちが増えてきました。また、バブル崩壊後の日本では、正社員の給与を抑えたり、あるいは正社員を非正規社員に置き換えることで企業業績を維持してきました。その結果、大企業の内部留保は天文学的な額にまで積み上がったものの、国民間の格差は広がる一方だったという現実があります。そうした現実の中で、日本には貧しい人たちが確実に増えてきました。

聖書は、人間社会の中である程度の貧富の差が生じるのは認めています。一生懸命働いた人と、怠けた人の間で差が生じるのは自然なことです。しかし、その格差がどこまでも広がっていいともいいません。それに限度を設け、また格差が永久に固定化されないように、リセットするための教えを設けています。その代表的なものが「ヨベルの年」でした。しかし、残念なことにそうした聖書の教えは聖書の民の間で守られてこなかったのです。

このような日本の現実、また聖書の教えを踏まえたうえで、私たちは何ができるでしょうか。私たちは小さな者ですので、日本全体を聖書の教えに従った国に造り変えるというような大それたことが出来ないでしょう。しかし、身の回りの小さなことならばやれることはあるはずです。嶋田さんたちが子ども食堂に熱心に取り組まれています。これは小さなことどころか大きな働きですが、そういったボランティアに参加したり、あるいは少額でも毎月ユニセフなどに献金するなど、いろいろと私たちにもできることがあるように思います。そして何よりも、間違っても貧しい人に対して偏見を持つべきではないというのが今日のヤコブの教えの大事なポイントでした。なぜなら神は、そのような貧しい人に寄り添う神であり、貧しい人を侮ることは神を侮ることになるからです。ヤコブの教えを日々の生活で生かすことができるように、祈りましょう。

やもめやみなしごを憐れまれ、彼らに寄り添われる神様、その御名を讃美します。今日はヤコブの手紙から貧しさの問題について学びました。私たちの生きる社会の現実は、聖書の理想とは程遠い状態にありますが、諦めることなく身近な努力を続ける力を私たちにお与えください。また、特に被災された方々をお助け下さい。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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みことばを行いなさいヤコブの手紙1章18~27節 https://domei-nakahara.com/2024/04/28/%e3%81%bf%e3%81%93%e3%81%a8%e3%81%b0%e3%82%92%e8%a1%8c%e3%81%84%e3%81%aa%e3%81%95%e3%81%84%e3%83%a4%e3%82%b3%e3%83%96%e3%81%ae%e6%89%8b%e7%b4%991%e7%ab%a018%ef%bd%9e27%e7%af%80/ Sun, 28 Apr 2024 05:24:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5565 "みことばを行いなさい
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1.序論

みなさま、おはようございます。毎月の月末はサムエル記から離れて新約聖書からメッセージさせていただいております。今日もヤコブの手紙から主のみ教えを学んで参りましょう。ヤコブの手紙からの説教はこれで三回目になりますが、いよいよ本書簡の中心的なメッセージが示されています。

ヤコブ書というのは、新約聖書の中でも最も具体的で、分かりやすい書簡だと言われています。第二ペテロ書簡では、パウロの手紙は「理解しにくいところがある」(3:16)と言われています。それに比べてヤコブの手紙は単刀直入でややこしい議論はほとんどありません。にもかかわらず、特にプロテスタントの教師の間ではヤコブの手紙はしばしば難しいと言われています。しかも、難しいというのは語られている内容が難しいということではなく、語られている内容を受け入れるのが難しいという意味なのです。どういうことかといえば、ヤコブの手紙は「行い」の重要性を繰り返し説きます。その行いの強調が、プロテスタントの信仰者たちにとってつまずきとなってしまうのです。なぜなら、プロテスタントで最も重要だとされる教理は「信仰義認」で、信仰義認とは「行いなしで、信じるだけで救われる」ということだとしばしば理解されているからです。私たち人間は、生まれながらに原罪を抱えているので、善い行いをすることができない、罪深い存在なのだ。そんな私たちのためにイエス様が人類の罪を背負って死んでくださった。そのことを信じるだけで、行いがなくても救われるのだ、というようなことがしばしば語られます。ここまで露骨な言い方ではなくても、プロテスタントではしばしば「信仰」と「行い」が対立するものであるかにように、つまり信仰とはすべてを神様にお委ねして自分では頑張らないという受け身の姿勢のことで、行いとは自分の力で自分を救おうとする虚しい、あるいは傲慢な努力なのだというように、信仰と行いが相容れないもののように理解されることがあるのです。

しかし、そのように信仰を捉えるとするならば、それはペテロの手紙で言われているようにパウロの意図を曲解、あるいは誤解していることになります。確かにパウロの展開する「律法の行いと信仰」ついての議論は、ところどころ非常に難しいですが、パウロ自身は行いの伴わないような信仰を信仰とは認めていません。それどころか、「なぜなら、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が義と認められるからです」(ローマ2:13)とはっきり語っています。そもそも、信じることと行うことは一致するべきものです。一つ例を語ってみましょう。みなさんが高校生で、部活に打ち込んでいるとします。運動部でも、あるいは音楽などの文化部でも構いません。自分たちには全国大会出場など縁がない、と思っているみなさんの部に素晴らしい指導者が赴任しました。彼はとても有名な指導者で、これまでも弱小高校の部活を鍛え上げて全国大会に何度も導いたという実績があります。みなさんも期待して、この新しいコーチを信じて、ついていこうという気持ちになります。しかし、コーチを信じるとは具体的にはどういうことなのでしょうか。そのコーチのことをどれほど熱烈に信じていても、彼の指導や指示に従わなければ、みなさんの実力は伸びずに、全国大会など夢また夢でしょう。新しいコーチを信じるということは、口先だけの問題ではなく、むしろ高校生活のすべてをかけてこのコーチに言われたことを実行していくことです。栄養や食べ物についての指導があればそれに従い、朝練が必要だと言われれば早起きをして、練習もきついメニューを文句を言わずにこなし、そして大会本番ではコーチの指導や作戦通りに行う、こういうことをすべて行って初めて「コーチを信じている」ということになるのです。「イエスを信じる」というのもそれと同じことです。口先だけでいくら「イエス様、信じてます!」と言っても意味がないことは、主イエスご自身がおっしゃっていることです。イエスは、

わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。(マタイ7:21)

と言われました。さらにはこうも言われました。

だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。(マタイ7:24-27)

と、このように言われました。確かにイエスの教えられたことを実行するのは簡単なことではありません。「敵を愛しなさい」とか、「何度でも赦してあげなさい」などの教えには「そんなの無理!」と思うかもしれません。しかし、イエスを信じてイエスの教えを実行していけば、私たちは必ずやクリスチャンとして成長することができます。けれども聞いただけで行わないならば、私たちはクリスチャンとして成長するどころか、クリスチャンでいることすらできなくなるかもしれません。もちろん主イエスは私たちにできもしない無理難題ばかり押し付ける方ではありません。弱い私たちがその教えを実行できるように、私たちに助け手を送ってくださいます。それが聖霊です。私たちは求めれば聖霊が与えられ、その聖霊の力でイエスのみことばを行うことができるのです。聖霊は弱い私たちと共に働いてくださって、私たちを少しずつ変えてくださるのです。そのような主イエスの教えを思い起こしながら、今日のヤコブの教えを読んで参りましょう。

2.本論

では、18節を見てみましょう。「父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。」真理のことばの「ことば」はロゴスというギリシア語です。ヨハネ福音書で、「ことばは肉となった」という大変有名な一節で使われているのと同じロゴスです。ヨハネ福音書ではロゴスはイエスを指しますが、ヤコブがここでいう「真理のことば」も福音のことば、あるいはイエスの教えという意味であるとも考えられますが、ここではイエスご自身を指していると考えてもよいように思います。父なる神は主イエスによって私たちを生んだ、つまり新しい命、新生を与えてくださったということです。誰でもイエスにあるならば、新しい創造、新しい命なのです。そして新生したクリスチャンは全被造物の初穂です。これはどういうことかといえば、神はいずれ全被造物、人間だけでなく動物や植物も、滅びの縄目から救い出されます。そうした全被造物の救いの先駆けとして、クリスチャンが滅びから贖われたということです。

19節と20節では非常に具体的で大切なことが教えられています。まず「聞くには早く、語るにはおそく」というのはユダヤ教の知恵文学にしばしば登場する教えです。旧約聖書続編に『シラ書』という知恵文学がありますが、その5章11節には「人の言葉には、速やかに耳を傾け、答えるときは、ゆっくり時間をかけよ」という教えがあります。私たちは焦って何か言おうとすると、何かとんでもないことを言ってしまったり、あるいは人の言うことをよく聞かないと、それをひどく誤解してしまったりということがしばしばあります。そして、このように慌てて話したりしないために大切なことは感情をコントロールすることです。私たちの舌を制するには、まず感情を制する必要があります。そしてとりわけ怒りをコントロールする必要があります。「アンガーマネジメント」という言葉が心理学者によって語られますが、怒りとは二次感情だと言われます。つまり、不安とか不快感とか、そういう思いがあって、その思いを人に伝えるために怒りという表現方法を選ぶということです。怒りはコントロールできると言われます。例えば喫茶店で、コーヒーを店員にこぼされて、怒りが爆発してその店員をがみがみ起こっているときに、あなたが大好きな人がやってきてあなたに声をかけると、すぐ怒りを忘れてニコニコその人と話し始めるというようなことがあります。このように、怒りとは実はどうしても制御できないようなものではないのです。では、心が怒りで満たされた時にどうしたらよいか?心理学者はアドバイスとしてその場を立ち去ったほうがよいと言います。立ち去れない場合では、黙っているほうがよいでしょう。怒りを爆発させて何かしゃべってしまうととんでもないことを言いかねません。ですから怒りで一杯でも、ともかく話すのを我慢する、「語るにはおそく」する必要があります。そして、できればなぜ自分が怒っているのか、怒りの感情の根底にあるのは疲れなのか、不安なのか、ストレスなのか、自分の状態をなるべく客観的に見て、怒りの原因を突き止めることです。そのためには「祈り」が非常に効果的です。私たちは祈るときに、自分の本当の苦しみを神に訴えることができます。怒りの原因となる思いを神の前にさらけだすことで、私たちの不安は和らぎ、少し冷静になることができるでしょう。ですから怒る時には一歩下がって祈りましょう。

そして21節を見てみましょう。私たちの心の中にある悪い思いを捨てて、そこにみことばを植えるのです。悪い思いに囚われそうになった時には、みことばが私たちを救ってくれます。怒りそうになった時には、「聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい」というみことばを思い出しましょう。また、どうしようもない壁にぶつかったと思える時には、「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(第一コリント10:13)。こうしたみことばは、わたしたちのたましいを救うことができます。ですから私たちはしっかりとみことばを聞き、心に刻み込む必要があります。

しかし、みことばは聞くだけでは十分ではありません。みことばはそれを実行しないと、自分のものとはならないのです。みなさんがスポーツや音楽を習っているとしましょう。上達のための、優れたトレーニング方法が書かれた本を読んだり、ゴルフの正しいスイングの仕方がきれいなイラストで説明されている本を見て、「なるほど」と納得すれば、それでそこに書かれていることが身に着くでしょうか?いいえ、それでは身に付きません。むしろ、書いてあることをすぐ忘れてしまい、自分の元のやり方に戻ってしまうでしょう。みことばも同じです。みことばを読んで、「ああ、素晴らしい。本当にその通りだ」というだけではだめなのです。「敵を愛する」というみことばは美しいし、私たちを感動させます。しかし、私たちは日々の生活でそんなことはすぐに忘れて、自分にとって嫌な人、不利益をもたらしそうな人のことを敵視したり無視したりします。しかしそれではみことばは私たちの身に付きません。それをやってみて、初めてその難しさが分かり、そしてどうすればそれを実行できるようになるのかを考えるようになります。そういう試行錯誤を重ねて行って、やっとそのみことばが自分のものになっていくのです。ヤコブはこう言います。

また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。

この言葉は、聖書の中でも最も重要なみことばの一つでしょう。私たちはあまりにもしばしば、ただ聞くだけの者、ただ読むだけの者になってしまいます。しかし聞くだけ、またや読むだけではそのみことばは身に付かないし、むしろ日常生活の忙しさの中で私たちはそうしたみことばを簡単に忘れてしまうのです。そんな人のことをヤコブは、自分の顔を鏡で見ていて、鏡から離れるとどんな顔だったのか忘れてしまう人のようなものだと言っています。これは何が言いたいのかと言えば、入念にお化粧している最中の人ならいざ知らず、私たちは普通は自分の顔を注意して見続けることはありません。自分の顔なんて、見飽きているのでそんなに熱心に見ないわけです。しかし、みことばに向き合う姿勢はそうであってはいけないということです。聖書の言葉はよく知っている、何度も聞いたことがあるから、というような姿勢ではなく、いつも新鮮な気持ちで向き合い、さらには聞くだけではなくそれを実行しようとする人は、その行いによって祝福されるだろうとヤコブは語ります。

聖書の素晴らしい教えを聞くのは大好きで、聞くたびに心洗われるような気持ちになるけれど、それを実行しようとはしない人、イエス様の教えは本当に素晴らしい、アーメンというけれど、自分の生活の中でその教えを実行しない人、そんな人の宗教は空しいとヤコブは言います。そして残念ながら、プロテスタントの場合にはそうなってしまう危険性があります。たとえば、イエス様の教えの中でも最も有名なのは山上の説教ですが、プロテスタントのある宗派では、これを行うことは無理なのだ、不可能なのだというように教えていると、しばしば耳にします。でも、実行するのが不可能ならば、山上の説教が与えられた目的とは一体何かといえば、山上の説教を守ろうとすればするほど、それが実行できない弱く罪深い自分を見いだします。しかしそれは良いことなのだと。なぜならそのような経験を通じて、私たちは自分は行いでは救われないということを痛感させられるというのです。そうして行いではなく、信仰だけで救われるという信仰義認の教えにたどり着くというのです。しかし、そのような教えは、冒頭で引用した主イエスの教えとは全く相容れないものです。イエス様はそんなことは教えていません。むしろ、山上の説教で教えたことを実行しなさい、実行しない人は砂の上に家を建てるような人で、そんな人は神の裁きに耐えられないと警告しています。むろん、初めから山上の説教の教えを完璧にできる人なんていません。実行しようとすれば、いろいろな疑問や困難にぶつかるでしょう。しかし、そうした困難にぶつかりながらも実行し続けることで、私たちは初めて主イエスの教えられたことの本当の意味を理解し始めるのです。そうして私たちは段々変わっていくのです。変えられていくのです。これはスポーツでも音楽でも同じです。初めから完璧にできる人なんていません。しかしそれで諦めてしまえば、何の上達もないのです。私たちはクリスチャンとして成長していくために、ともかく一歩一歩、試行錯誤しながら主イエスの教えを行っていくべきなのです。

3.結論

まとめになります。ヤコブの手紙も、段々と中心的な内容に入って参りました。ヤコブのメッセージは単純明快です。いくら聖書を読むのが大好きで、聖書のメッセージを聞くのに熱心でも、それを私たちの実生活で実行しようとしなければ、私たちはそのメッセージをすぐに忘れてしまい、それが身に付かないということです。みことばを聞くことはとても大切です。それがすべてのスタートです。しかしそこで止まってはいけないのです。

このことは私たちの日常生活に当てはまることですが、もっと大きなスケールの話にも当てはまります。たとえば戦争の問題があります。いきなり話が飛躍しているように思われるかもしれませんが、今や私たち一人一人が戦争について真剣に考えなければならない時代に入っていると私は考えています。戦争をするかしないか、軍備を増強するかしないかを決めるのは国を動かす政治家の仕事で私たちには関係ない、と思う人もいるかもしれません。そして今の日本の失望させられる政治状況ではそんな風に諦めてしまうことも無理もないという気もします。しかし日本は主権在民の国、つまり私たち一人一人に主権があるのです。政治家を選ぶのも私たちなのです。そういう日本の国民として、戦争の問題、軍備の問題について、イエスはどう教えているのかを真剣に考える必要があります。私の理解では主イエスは無抵抗主義者ではありませんでしたが、たとえ相手が武力を用いる場合でも、目には目をということで武力で対抗する、暴力で問題を解決するということも、認めてはいませんでした。主イエスの指し示す道とは、非暴力的な抵抗、暴力や武力を用いないで正義を行おうとするという道です。20世紀にガンジーやマルティン・ルーサー・キングなどが実践した道です。私たちが主イエスを信じると言うならば、イエスが指し示した平和への道も信じるべきです。信じるならば、そのように行動し発言すべきです。今の日本の状況は、平和憲法に根差す平和主義がどんどん力を失っています。しかし、私たち一人一人が本当に祈って、そして行動するならば、この状況を変えることは可能なのだと私は信じています。このように、聞くだけでなく、みことばを行い人になりなさいという教えを、あらゆる場面で実践して参りたいと願うものです。お祈りします。

平和の主であるイエス・キリストの父なる神様。私たちはあまりにも、みことばを聞くだけで満足してしまい、それを実行に移すことにとてもおそい者であります。しかし、今日のヤコブの教えのように、みことばを行う者となることを願っています。どうかそのような力をお与えください。御霊をお与えください。われらの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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