最後の晩餐 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 調布 深大寺のプロテスタント教会 Sun, 04 Jun 2023 04:26:31 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.3.18 https://domei-nakahara.com/wp-content/uploads/2020/03/cropped-favicon-32x32.png 最後の晩餐 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 32 32 過越の食事マルコ福音書14章12~26節 https://domei-nakahara.com/2023/06/04/%e9%81%8e%e8%b6%8a%e3%81%ae%e9%a3%9f%e4%ba%8b%e3%83%9e%e3%83%ab%e3%82%b3%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b814%e7%ab%a012%ef%bd%9e26%e7%af%80/ Sun, 04 Jun 2023 04:25:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=4596 "過越の食事
マルコ福音書14章12~26節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。1年以上にわたって講解説教を続けてきましたマルコ福音書も、いよいよ山場といいますか、大詰めに近づいて参りました。今日の箇所は、イエスが逮捕されて十字架に架けられる前夜の、最後の晩餐についての記事です。イエスはご自分がこれから殺されることを予期していたのですが、弟子たちはそのことをイエスから繰り返し言われていたにもかかわらず、そんなことが起きるということが信じられないし、信じたくもないという思いでした。もしそんなことが起きるとしても、いったいどういうわけでイエスが殺されなければならないのか、その理由がまったく分かりませんでした。イエスはメシア、イスラエルの王なのだから、多くの問題を抱えたユダヤ民族のためにやるべきことがたくさんあるではないか、こんな大事な時にリーダーに死なれてしまったら、私たちはどうなってしまうのか、という思いを抱いていたのです。

そこでイエスは言葉ではなく、象徴的な行動を通じて自らの死の意味を弟子たちに伝えようとしました。私たちは言葉ではなく、行動で何かを伝えようとすることがあります。例えば家族の誰かと喧嘩をしてしまい、仲直りがしづらい、言葉では仲直りしたいという思いを伝えづらい時に、黙って喧嘩をした相手の好物の食事を用意する、それを食卓に出す、というようなことをします。そうすると、相手もその意図に気が付く、仲直りのサインとして受け止める、ということがあります。仲直りのしるしとして、相手が好きなものを笑顔で一緒に食べる、このような食事にはシンボリックな意味があります。

イエスも、自分がなぜ死ななければならないのかということを弟子たちに理解してもらうために、食事を用いることにしました。しかもただの食事ではなく、過越の食事という特別な機会を選びました。過越の食事はユダヤ人にとって特別な意味がありました。先ほど例に引いた食事が仲直りを表すシンボルだとするなら、過越の食事はユダヤ人にとって「解放」、あるいは「新しいスタート」というようなシンボリックな意味合いがありました。過越の食事とは、ユダヤ民族にとって奴隷状態から解放され、自由な民として新しいスタートを切ったことを祝う日でした。というのは、イエスの時代から千五百年ぐらい前の話になりますが、当時のイスラエル民族はエジプトで奴隷としてこき使われていました。その彼らがモーセに率いられて約束の地を目指してエジプトを脱出するのが「出エジプト」ですが、その脱出の前夜に取ったのが過越の食事だったのです。まさに解放前夜の、特別な食事だったのです。

しかし、イエスがもしこれから弟子たちと取ろうとする食事を、かつてイスラエルの民がエジプトで取った過越の食事になぞらえているとするならば、そこにはなにかそぐわないものがあるように思えてきます。なぜなら、かつてモーセたちがエジプトで取った過越の食事は、これから奴隷の身分から解放されて自由になれる、そのような喜ばしい出来事を目前に控えた食事だったのですが、イエスや弟子たちを待ち受けているのは喜ばしいことどころか、悲劇そのものだったからです。何しろイエスはこれから罪なくして死ななければならないのです。ですからその前夜の食事は、解放を祝うお祭りであるより、むしろお通夜のような食事の方が相応しいのではないでしょうか。

しかし、そうではないのだ、ということをイエスは伝えたかったのです。私はこれから死ぬことになるが、それは私たちのこれまで伝えてきた神の国の福音が失敗したということではないのだ、ということをイエスは伝えようとしました。イエスはこれまでガリラヤやユダヤの人々に、「あなたがたの生活が変わる、人生が変わる。なぜなら神があなたがたをローマ帝国や、ローマと結託しているユダヤ人の権力者たちによる暴力的で搾取的な支配が終わり、神ご自身による恵み深い支配の時代が始まるのだ」という福音を伝えてきました。そして、その良い知らせが真実であることの証拠として、多くの力ある業を実演してきました。それを見聞きした人々は、「このイエスという人こそ、私たちをローマの支配から解放してくれる人ではなかろうか」という期待をかけたのです。そのイエスがローマの手によって殺されるのならば、イエスの始めた神の国運動は失敗してしまったのだ、と人々は考えるでしょう。しかしイエスはそうではない、と弟子たちに教えようとしています。むしろ、イエスの死を通して真の解放が始まるのです。むろん、その解放は一夜にして成し遂げられるものではありません。出エジプトを成し遂げてからイスラエルの人たちが実際に約束の地に入るには、なんと40年もの歳月が必要でした。そして荒野を旅した40年も苦難の連続であり、イスラエルの人たちは指導者であるモーセを失うという悲劇まで経験しています。それでも、神はその解放の業を完成させてくださいました。多くの犠牲を払いましたが、イスラエルは約束の地にたどり着いたのです。イエスは弟子たちに、「私はこれから死ぬことになる。だが、それは神の国の到来が失敗した、夢と消えたということではない。むしろこれは終わりではなく始まりなのだ。神の王国、神の支配は何の犠牲もなく得られるものではない。私が苦しむように、あなた方も苦しむだろう。それでも、神は必ずあなたがたに神の王国、神の支配を与えてくださる。それを信じなさい。」というメッセージをこの食事を通じて与えたのです。この過越の食事こそ、新しい解放、新しい出エジプトの始まりとなるのだ、というメッセージをシンボリックな食事を通じて弟子たちに伝えたのです。では、このことを踏まえて今日のテクストを読んで参りましょう。

2.本論

では、12節から見ていきましょう。「種なしパンの祝いの第一日」とありますが、まずこのことを説明しましょう。「過越の祭り」は「種なしパンの祭り」とセットになって祝われます。なぜなら、過越の祭りとはモーセたちが千五百年前に脱出の前夜にした過越の食事を記念するお祭りでしたが、その時に食べたのが「種なしパン」だったからです。パンは普通パンだね、つまりイーストを入れて膨らませて作るのですが、過越の夜は脱出の夜だったのでイーストを使ってパンを発酵させる時間的余裕がなく、イーストなしのひらべったいおせんべいのようなパンを食べました。ご先祖が食べたように、私たちもイーストなしのパンを8日間食べましょう、というのが「種なしパンの祭り」です。その最初の日が過越の羊を食べる祭りなので、過越の祭りと種なしパンの祭りは実質的に合体した一つの祭りとして祝われました。ですから過越の食事のメインディッシュである小羊がほふられる日から、種なしパンの祭りも始まるのです。この食事はユダヤ人にとって一年でも一番大事な食事でした。なにしろ、民族の誕生を祝う日なのですから。ですからイエスとその弟子たちという大所帯が一堂に会して食事をする場所を狭いエルサレムの市街で見つけるのは大変なことでした。多くのユダヤ人が食事の場所を確保しようと躍起になっていたからです。さらには、イエスはエルサレムの権力者たちが自分の命を狙っていることをご存じでした。ですから、彼らの目を逃れて、落ち着いたところで大人数で食事を取ることができる場所を探すのは容易ではなかったはずです。イエスはそのような事情を踏まえて、事前に入念に根回しをしていたものと思われます。つまり、あらかじめエルサレムの知り合いに過越の食事のための場所を用意しておくように頼んでおいたのです。しかもイエスは、その食事の場所を十二弟子にすら事前に知らせることはしませんでした。それは、弟子たちの中にイエスの命を狙う大祭司たちとの内通者がいることに気が付いていたからです。イエスを逮捕しようとする人々にとって、過越の食事の場は非常に都合がよいものでした。そこではぶどう酒が振舞われるので、みんな良い気分で酔っているので捕まえようとしても抵抗できないだろうからです。ですからイエスを裏切ることになるイスカリオテのユダも、イエスの過越の食事の場所を知っていたらそのことを大祭司に密告していたでしょう。しかし、イエスは何としても誰にも邪魔されずに過越の食事を弟子たちと祝いたかったのです。そこで、入念に準備をして食事に臨みました。イエスは信頼できる弟子二人をエルサレムの市内に遣わしました。そこで彼らは水がめを持っている男に会うだろう、というのです。当時水がめを運ぶのは女性の仕事でしたから、水がめを運ぶ男性は群衆の中でも目立ったことでしょう。イエスはあらかじめ、合図のためにその男性に水がめを運ぶようにと指示していたのでした。そしてイエスの弟子たちもその水がめの男を発見することができ、彼に連れられて食事の会場に向かいました。そこで準備を整えて、それからイエスと他の弟子たちをそこに連れてきました。

さて、こうして無事に過越の食事が始まりました。そしてその席上で、イエスは爆弾発言をします。それは、ここにいる十二弟子の中に裏切り者がいる、という発言でした。そんなことを初めて聞かされて弟子たちは一様に驚きましたが、中でも驚いたのは当のイスカリオテのユダだったことでしょう。自分の心はイエスに見透かされているのか、と改めてイエスの偉大な力に恐怖したことでしょう。それでも、もはやユダはイエスを裏切る計画を断念することはしませんでした。前の説教で、ひょっとするとユダは、イエスがローマに対する武装蜂起を率いてくれないことに業を煮やして、あえてイエスを追い込んでローマと戦うしかない状況にもちこみ、その上でイエスが決起するのを期待していたのではないか、ということを申し上げました。もしそうだとするならば、イエスが自分の内面を読んでいたとしてもユダは裏切りを思いとどまろうとは思わなかったでしょう。むしろ、「やはりイエス様はすごい。私の思いも読み切っている。かくなる上は、計画通りにイエスとユダヤ当局者との衝突の場面を演出し、イエス様が決起やむなしとご決断してくださる状況を作り出そう」と思ったのかもしれません。マルコ福音書には書かれていませんが、他の福音書の記述によればユダは宴席の途中で中座し、大祭司たちにイエスの居場所を知らせたのでした。

さて、過越の食事は数時間に及ぶ長いものでしたが、その途中でイエスは再び驚くべき発言をしました。それは聖餐式の制定の言葉で、私たちにはなじみ深いものですが、しかし初めて聞いた弟子たちはその意味を量りかねて面食らったものと思われます。まずイエスはパンを取り、それを裂いて弟子たちに与えて、それからこう言われました。「取りなさい。これはわたしのからだです。」この言葉は弟子たちにとってはまるで意味が分からないものでした。イエスはこれまでも何度も謎めいたたとえ話をしてこられましたが、またそうしたたとえ話なのだろうか、と考えたかもしれません。しかし、この過越の食事は何とも言えない重苦しい雰囲気の中で進められていたので、イエスの言葉もこれまでにはない、一層深い響きがあったものと思われます。裂かれたパンがイエスのからだである、ということはイエスのからだが引き裂かれることを暗示します。弟子たちは、これまで再三聞かされてきたイエスの死の予告をここで思い起こしたことでしょう。けれども、イエスのこの言葉にはそれ以上の意味合いがありました。それは、イエスが自分のからだを弟子たちに与えるということです。イエスのからだを弟子たちが食べるというと、文字通りにとればとてもグロテスクに響きます。しかし、これも象徴的な表現であることを忘れてはいけません。これは主イエスが愛する弟子たちのためならすべてを与える方だということを表す言葉なのです。この世の権力者たちは、「俺はこの国にとって、替えの利かない唯一無二の存在だ。俺が死んだらこの国はおかしくなってしまう。だから俺のために死んでくれ。俺の盾となってくれ」と言うことがよくあります。まあ、ここまで露骨な言い方はしないでしょうが、しかしお仕えする政治家のためなら秘書や官僚が泥をかぶって辞めていくというようなことは実際によくあるわけです。しかし、主イエスはそれとは正反対の方でした。むしろ主イエスの生き方とは、愛する家族や友人のためなら自分の命すら惜しくない、そういう生き方であり、イエスはご自身の人生の最期においてそのことを自ら示そうとされたのです。私たち一人一人のクリスチャンも、主イエスの与える愛によって救われ、支えられています。私たちが命を得たのも、主イエスがその命さえ与えてくださったからなのです。しかもそれは一回限りのことではありません。私たちは常に主イエスにつながり、主から命を与えられなければならないのです。食事を毎日とらなければ私たちの命は尽きてしまうように、主イエスとつながっていなければ、私たちの新しい命、永遠へとつながる命は尽きてしまうのです。私たちが聖餐式を守り続けるのも、私たちが常にイエスにつながり、イエスから命を与えてもらわなければならないことを学ぶためなのです。

さて、イエスは次にぶどう酒の入った杯を取り、感謝をささげた後に、弟子たちにその杯を与えました。この時は一つの大きな杯を回し飲みしたものと思われます。私たちの聖餐式では回し飲みをすることはないので、こう聞くとびっくりされるかもしれませんが、私がイギリスに留学中に与っていた聖餐式では、一つの杯を教会員全員で回し飲みしていました。それからイエスは弟子たちに言われました。「これはわたしの契約の血です。」この意味は明確です。神と神の民との間に契約が交わされる時、つまりある人々が正式に神の民として選び分かたれる時には、血による固めの儀式が行われる必要があるのです。具体的には犠牲獣が屠られ、その血を契約の民に降り注ぐことによって契約が正式に発効するのです。かつてシナイ山でモーセが仲介役となって、神とイスラエルとの間に契約が結ばれたときも、モーセは犠牲獣の血をイスラエルの民に注ぎかけました。しかし今や、イエスはモーセの契約を新しくされるのです。イエスは自らを中心に、新たな神の民を作り出そうとしておられるのです。そしてイエスはここで、ご自身の血がその新しい契約を発効させることになる、と言われたのです。この新しい契約は、もはやユダヤ人だけのものではなく、イエスを信じるあらゆる民族の人々にも及ぶものです。主イエスはその新しい契約を発効させるためにご自身の血を流すと言っておられるのです。

古い契約、モーセを通じて結ばれた契約の場合は、エジプト脱出時の過越の食事において契約が結ばれたのではなく、その後シナイ山に行ってモーセが十戒を与えられた後に、契約が結ばれています。しかし、主イエスは過越の食事の際に契約を結んでいるように見えます。実際には新しい契約が完成するのは主イエスが十字架上で血を流された時なのですが、イエスはこれからご自身を待ち受ける十字架での死の意味を説明するために、あらかじめ新しい契約のことに触れたのです。ここが非常に重要なポイントです。なぜイエスが死ななければならないのか?それは新しい契約を結ぶためだったのです。もちろんイエスの死の意味はそれだけではありませんが、しかし非常に重要な目的は新しい契約を結んで、新しい契約の民を作り出すことでした。私たち一人一人も、その新しい契約のメンバーなのです。

新しい契約においては、私たちは神と直接の関係を持つことができます。信じる者にはすべての人に聖霊が与えられます。すべての人が神の子とされます。この素晴らしい契約が実現するためには、どうしてもイエスの死が必要だったのです。こう言われても、納得や理解ができないかもしれませんが、それが必要だったのです。なぜならイエスの死は古い時代の終わり、古い契約の終わりであり、イエスの復活は新しい時代の始まり、新しい契約の始まりだからです。このイエスの死と復活を通じ、世界そのものが新しくなったのです。ここに十字架の神秘があります。私たちはイエスの死に与り、そして復活に与ることで新しい世界、新しい契約の一員となるのです。そのことを教えるために、主イエスはぶどう酒の杯を自らの血になぞらえて弟子たちに飲ませました。そして私たちもまた、この神秘を学ぶために聖餐式で杯を飲むのです。こういうことは、言葉では十分に伝えきれないのです。ですから私たちは聖餐式に実際に加わることで、その深い意味を自らに刻んでいくのです。このように、イエスが弟子たちにパンとぶどう酒を与えたことには深い象徴的な意味がありました。その意味は、非常に言語化しづらいものです。私たちはその意味をいわばからだで覚えていくために、聖餐式を祝っているのです。

さて、イエスはその後に、さらにもう一つの大切なことを言われました。「まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」イエスはもう今の人生においてはぶどう酒を飲むことはない、つまりありていに言えば、もうすぐ死ぬと言われました。同時に、万物が新しくされ、神の国が完成する時には、ふたたびぶどう酒を飲むだろうということも言われているのです。神の王国、神の支配が完成した時の祝宴で、主イエスは再びぶどう酒を飲まれるのです。その時がいつなのか、またどこなのか、ということは私たちには分かりません。ただ分かっているのは、その時その場所は必ず来るということです。

3.結論

まとめになります。今日はイエスが最後の晩餐、過越の食事において聖餐式を制定されたことを学んでまいりました。聖餐式は、裂かれたパンを食することと、ぶどう酒を飲むことから構成されていますが、裂かれたパンを食することには主イエスが常に私たちにご自身の命を与えてくださること、そして私たちはイエスにつながっていなければこの命を保つことができないこと、そのような意味が込められています。また、イエスはぶどう酒をご自身の血になぞらえられていますが、主イエスの血が流されるのは新しい契約を締結させるためでした。新しい世界、新しい創造、新しい契約、新しい神の民は、イエスの死を通じてしか実現しなかったのです。なぜそうでなければならなかったのか、という問いは神の神秘に属するものですが、まさに主イエスの死は新しい世界が生まれるために必要だったのです。その新しい世界、神の王国は、人が人を暴力や権力で支配する世界ではなく、むしろ互いに仕え合う世界、奪い取ることより与えることを喜ぶ人々が集う世界、そのような世界なのです。そのような世界を実現するためにこそ、イエスはその命を捨てられたのです。イエスは武器を取って戦わずに、むしろ相手を赦されたのです。

イエスはこの大切な神秘、神の奥義を教えるために、弟子たちと最後の過越の食事を取られ、そこで聖餐式を制定されました。聖餐式を制定されたのは、イエスと一緒に過越の食事を取った幸いな人たちのためだけでなく、その後に続く人たちにもこの大事な事柄を教えるためでした。そして私たちもまた、今日聖餐式に与ります。このイエスのことを思い起こし、イエスの言葉をかみしめながら、聖餐式に与りましょう。お祈りします。

私たちに聖餐の恵みを通じて、イエスの教えを直に教えて下さる父なる神様、そのお名前を賛美いたします。主イエスはその命をかけて、私たちに大切な真理を教えてくださいました。その恵みを私たちが無駄にせずに、主に喜ばれる歩みができるように、私たちを強めてください。われらの平和の主、イエス・キリストの聖名を通して祈ります。アーメン

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イエスの祈りヨハネ福音書17章6-19節 https://domei-nakahara.com/2020/04/12/%e3%82%a4%e3%82%a8%e3%82%b9%e3%81%ae%e7%a5%88%e3%82%8a%e3%83%a8%e3%83%8f%e3%83%8d%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b817%e7%ab%a06%ef%bc%8d19%e7%af%80/ Sun, 12 Apr 2020 10:46:05 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=306 "イエスの祈り
ヨハネ福音書17章6-19節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。イースターおめでとうございます。言うまでもないですが、昨今の緊迫した状況の中でこのように礼拝を守れること自体、感謝すべきことです。同時に私も、こんな情勢の中で礼拝をしてもいいのだろうか、中止すべきではないか、と日々心が揺れました。こういう時に、神様が「続けなさい」とか、「やめなさい」と指示してくださればありがたいと思いますが、しかし主は私たちがそれぞれ深く祈って、個々人で判断することを求めておられるように思いました。ローマ書の14章5節の、

ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。

というみことばが与えられました。イースターだから、特別な日だから、今日はなんとしても礼拝を守りたい、という方もおられます。また、たとえどんな日であろうと、神様からいただいた命を大切にすべきだ、だから断腸の思いで自重しよう、と信じる方もおられます。どちらも信仰に基づく確信ならば、正しいのです。私もそこで、今日説教壇に立つように召された者として、確信に基づいて話したいと思います。日々不安を感じる中で生活している私たちですが、今日は復活の主、イエスの祈りから慰めと励ましを得たいと思います。

今日お読みいただいた箇所はヨハネ福音書17章から取られたものですが、ヨハネ17章全体が、最後の晩餐でイエスが祈られた祈りなのです。先週学んだように、主イエスは渡される夜、弟子たちを招いて深夜に過越の食事をしました。それが最後の晩餐と言われる食事です。そこで真っ先に、イエスは弟子たちの足を洗いました。その意味については先週の礼拝で考えました。そして、その晩餐が終わる時、最後に祈られたのがこの祈りです。イエスはこの最後の晩餐を、弟子たちの訓練の最後の場として、その一瞬一瞬を大切に用いられました。この最後の晩餐の、主イエスの一つ一つの動作、その一言一言にはすべてとても大きな意味があります。イエスが特に懸念していたのは、自身が世を去った後の弟子たちのことでした。ヨハネ13章から始まる、イエスの長い講話の中には、ご自身が天に帰られた後に弟子たちを待ち受ける苦難や試練のことが多く語られています。弟子たちは、これからとても大きな働きを担うことになります。それと同時に、大きな苦難やチャレンジにも直面することになります。14章12節でイエスはこう言われました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。

弟子たちがイエスよりもさらに大きなわざを行う!?びっくりするような言葉ですね。しかし、これは弟子たちが、イエスがなさった奇跡よりもさらにすごい奇跡を行う、という意味ではもちろんありません。むしろ、「わたしが父のもとに行くからです」というイエスの言葉に注目しましょう。イエスが死を打ち破って復活し、天の父のもとに戻って栄光を受けられる。栄光の主であるイエスが力を与えるがゆえに、弟子たちは非常に大きなわざを行えるようになるのです。弟子たちの力はすべてイエスから来るからです。ですから、イエスが天に帰って栄光を受けられた後、弟子たちは目覚ましい働きをするようになります。実際、歴史はそのように動いていきました。ペンテコステの後、見違えるように大胆になった弟子たちは世界中に福音を伝えていきます。しかし、それと同時に、弟子たちは非常に厳しい試練にも直面することになります。15章20節では、イエスはこう言われました。

しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。

弟子たちはイエスの大いなる働きを継続していきますが、同時にイエスが歩んだ苦難の道をも歩むのです。イエスと弟子たちは一つだからです。しかし、彼らはただ自分たちだけで悩み苦しむのではありません。強力な援軍が与えられます。それが聖霊です。聖霊は苦難に耐える弟子たちを励ましてくれるのです。14章27節では、主はこう言われました。

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がせてはなりません。恐れてはなりません。

イエスを信じる者には、苦難の中でも平和と安心が与えられるのです。それは世の中が与えるようなものではありません。この世は本当の意味で私たちに安心を与えてはくれません。私は数か月前に、人類は伝染病との戦いに勝ったというような記事を読みましたが、そのような人間の奢りは脆くも崩れ去ってしまったのを私たちは今目撃しています。本当の平安を与えることができるのは神だけなのです。

さて、このようにイエスは最後の晩餐で、ご自分が去られた後弟子たちの働きとそれに伴う苦難、そして彼らに与えられる上よりの助けを切々と語ってこられました。そして、その締めくくりとしてこの17章のイエスの祈りがあるのです。そのような背景を踏まえながら、今日与えられたみことばを読んで参りましょう。

2.本文

ヨハネ17章は、大きく分けて三つの部分に分けられます。初めは1節から5節まで。そこでイエスはご自身のことを祈っています。次が6節から19節で、ここではイエスと苦楽を共にした12弟子の為に祈っておられます。そして20節から26節までは、私たちを含む全世界の教会のための祈りです。今日は、その中でも中心的な部分である弟子たちのための祈り、6節から19節までに着目します。

6節で、イエスは「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました」と語っています。イエスの弟子たちは、神が世から選び出してイエスに与えてくださった人たちでした。その彼らに、イエスは御名、神の名前を明らかにした、と語っています。御名を明らかにするとは、イエスが弟子たちに神の秘密の名前や神秘的な呼び名を教えた、という意味ではありません。神の御名を明らかにするとは、神ご自身を弟子たちに示したということです。最後の晩餐で、ピリポはイエスに、父なる神を見せてください、そうすれば私たちは満足します、と願いました。するとイエスは、あなたはわたしとずっと一緒にいたのに、わたしのことを理解していないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ、とおっしゃいました。弟子たちは、イエスと共に生活をする中で、その姿の中に父なる神を見たのです。神とはどんな方なのか、それはイエスを見れば分かるのです。その弟子たちについて、イエスは6節の最後で「彼らは、あなたのみことばを守りました」と言いました。「守った」というのは完了形です。つまりイエスはこれまで弟子たちがしてきたことを言っておられます。イエスは弟子たちが神のみことばを守った、と褒めているのです。しかし、この最後の晩餐の直後にイエスを見捨てて散り散りに逃げ惑う弟子たちについて、これは過大な評価、褒め言葉なのではないか、と思われるかもしれません。確かにそこだけを見ればそうです。しかし、ヨハネ福音書の前半を読めば分かるように、この最後の晩餐の時に至るまでに多くの弟子たちがイエスを見捨てて離れていきましたが、この12弟子はイエスを離れなかったのです。6章の66節以降にはこのような会話がありました。

こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩まなかった。そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちはだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」

実に立派な告白です。最後の晩餐でイエスと食事を共にした弟子たちは、多くの仲間が脱落する中でも、イエスに従い続けた人たちだったのです。たしかに、この直後のイエスの逮捕、受難という究極の場面で彼らはひるんでしまいました。しかしイエスは彼らのこれまでの献身、すべてを捨てて自分に従ってくれたことを決して忘れることはなかったのです。イエスは人のマイナス面ばかり見るような方ではありません。良いところをしっかり評価してくださるのです。ですから、私たちも主イエスとの関係を考える時に、自分の失敗ばかりに目を向ける必要はありません。確かに、私たちはイエスを信じて救われた後も完璧にはほど遠い者です。多くの失敗を犯し、イエスをがっかりさせることもあるでしょう。しかし主イエスは、そんな弱い私たちが一生懸命イエスのためになしたこと、小さな献身をしっかりご覧になり、覚えて下さり、それを喜んでくださるのです。

さらに10節では、「わたしは彼らによって栄光を受けました」とイエスは言っておられます。これはなんとすごい言葉でしょうか。父なる神が主イエスによって栄光を受ける、というのは分かりますが、主イエスが弟子たちによって栄光を受けた、というのはまったく驚くべきことです。しかも、ここでも完了形が使われています。ですから主イエスは寛大にも、この最後の晩餐の時に至るまでの、弟子たちがなした小さな良い業、頼りない献身をすべて覚えていてくださったのです。そのような彼らの業が主イエスに栄光をもたらした、と言われるのです。ですから、たとえ弟子たちの奉仕や献身が完璧なものでなくても、それどころか欠けだらけでも、そうした小さな良き業はイエスに栄光をもたらしたのだ、とイエスは確かにおっしゃったのです。十二弟子だけではありません。主イエスは、私たちの日々の小さな良き業も喜んでくださいます。私たちの小さな良き業も、主イエスに栄光をもたらすのです。ですから私たちも、本当に喜びを持って主の業に励みたいと願わされます。

さて、11節以降を読みましょう。11節以降のテーマは、「弟子たちが迫害を受ける」ことと、「弟子たちが聖め分けられる」、という二つのテーマです。「聖め分ける」というのはあまり使わない日本語ですが、新改訳2017ではここは「聖別」と訳されています。この方が分かりやすいので、ここでは「聖別」という言葉を使いたいと思います。ですから、11節以降のテーマは迫害と聖別、ということになります。この一見何も関係のないような二つのテーマには密接な関係があります。主イエスは、ここで「聖なる父」と呼びかけます。神に対して「聖なる」という呼び名がヨハネ福音書で用いられているのはここだけです。「聖」という言葉は、ここからのイエスの祈りのキーワードになっています。ここで、「聖なる」の「聖」という言葉の意味を、「清い」ということとの関係で考えてみましょう。清いは清潔の「清」で、聖であるは聖書の「聖」です。この二つには深い関係がありますが、同じではありません。先週のイエスの足洗いでは、弟子たちが「清くなる」、「清められる」ことがテーマとなっていました。イエスの受難の大きな目的の一つは、弟子たちを罪から清めることでした。では、なぜ弟子たちが罪から清められる必要があるのかといえば、それは彼らが聖別され、神のものとなるためです。聖なる者、神のものとされる前提として、人は清められる必要があるのです。日本の伝統的な宗教文化においても、聖なる空間とされる神社仏閣に入る前に身を清めます。手を洗ったり、全身を沐浴します。同様に、神との親しい交わりに入り、聖なる神のものとされるために、人は清められる必要があるのです。罪からの清め、というのは聖書の重要なテーマですが、「聖別」される前提として、人は罪から清められる必要があるのです。最後の晩餐で、イエスがまず弟子たちを清め、それから聖別について語ったのはそのような理由なのです。

さて、イエスの祈りに戻りますが、ここでは「聖別」という言葉が繰り返し出てきます。17節では、「真理によって、彼らを聖別してください」と主イエスは祈ります。そして19節では、「わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します」とイエスは語ります。それは「彼ら自身も真理によって、聖別されるためです。」ですから11節以降のテーマとは、聖なる神、そしてご自身を聖別されたイエスによって、弟子たちも聖別される、ということなのです。では、主イエスがご自身を聖別する、というのはどういう意味なのでしょうか?神の子であるイエスは初めから聖なる方なので、聖別される必要はないのではないでしょうか?ここでは、主イエスがこの世界に神によって派遣されたという事実、「派遣」というテーマが重要になります。ヨハネ福音書10章36節で、イエスはご自身について「父が、聖であることを示して世に遣わした者」と言っていますが、ここで「聖であることを示す」と訳されている言葉は、「父が聖別して世に遣わした者」と訳せます。このように、イエスが聖別されるとは、イエスご自身が世に遣わされる、世の罪を取り除くために世に遣わされるという「派遣」と密接に係わっているのです。ですから、人が神によって聖なる者とされるというのは、その人が神によってこの世界に派遣される、という目的と密接に係わります。イエスの弟子たちが聖別されたのは、この世の汚れから逃れて、彼らだけ清い世界に生きるようになるためではないのです。むしろ、聖なる者、神の者とされた彼らは、その神によって神に逆らう世界に派遣されるのです。ですから彼らは必然的に迫害を経験します。神のものではないこの世は、異質な存在を嫌うからです。11節以降で、弟子たちへの迫害と、弟子たちが聖別される、というテーマが同時に出てくるのは、そういう理由なのです。

そこでイエスは、この世に遣わされる彼らを守ってください、と神に祈ります。そこをお読みします。

彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。

主イエスは、弟子たちをこの悪い世から取り去って、清い天国に連れて行ってくださいと祈っているのではありません。むしろこの世において、その務めを全うさせてください、と祈っているのです。また、ここでイエスが言われた「悪い者」というのは、単に世の中にいる「悪人たち」という意味ではありません。もちろん、この世にはオレオレ詐欺をしたり、私たちを騙そうとする人が少なくないわけですが、ここではそうした人たちのことではなく、その背後にいるもっと恐るべき存在のことを言っているのです。ヨハネ第一の手紙の5章19節にはこうあります。

私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。

ここで言われている「悪い者」とは、蛇とかサタンとか言われる悪の霊的力の首領のことです。この全宇宙の支配者は神お一人ですが、しかしサタンはその世界に一定の影響力を持ち、いや持つことが許されている、と言った方がよいでしょうが、サタンは神に属さない者たちをコントロールする力を持っているのです。サタンという存在がよく理解できない、ということでしたら、この世を支配する悪い空気、と呼んでもよいかもしれません。私たちの社会は、時として非常に残忍になったり、冷酷になったりすることがあります。例えば戦争中に、ある特定の人々を排斥したり、極端な場合は虐殺したりすることがあります。普段はいい人たちなのに、なぜそんな恐ろしいことをしたのだろう、と驚くようなことがあるのです。程度の差こそあれ、私たちの社会は常にそうした悪の力の影響力に晒されていると言えるでしょう。そのような世界に、神のものとされた弟子たちは送り込まれました。狼の群れに羊を送り込むようなものです。神のものである弟子たちは、神のものではないこの世界においては異分子なのです。ですから摩擦や軋轢があって当然なのです。そんな彼らが守られるようにと、主イエスは強く父なる神に祈り、願っておられるのです。

そんな悪の支配する世の中で、信仰者はどのように「聖なる者」であり続けることが出来るのでしょうか。それはみことばによってです。17節でイエスはこう祈られました。

真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。

私たちは真理によって聖なる者とされますが、真理はみことばの中にあります。ですから、私たちは聖なるものではない世の中で聖なる者であり続けるために、みことばに堅く立つ、みことばにとどまる必要があるのです。

3.結論

今日は、最後の晩餐で主イエスが祈られた祈りを学んでまいりました。この祈りは非常に内容の濃い、また多くの事柄が含まれた祈りでした。しかし、その中心は、世を去っていくイエスの、世に残る弟子たちへの深い配慮と愛でした。イエスが世におられた間は、イエスが彼らを悪い者から守ってくださいました。けれども、イエスがいなくなってしまえば、彼らはどうなってしまうのでしょうか。その時イエスは、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」と約束して下さいました。イエスは聖霊を彼らに与え、また真理のみことばを与えてくださいました。そのみことばによって弟子たちは聖なる者とされ、この世に遣わされたのです。それは世の人々に真理を伝え、永遠の命を得させるためです。イエスもご自身を聖別され、神によって世に遣わされました。弟子たちはイエスによって世に遣わされました。

そしてイエスは、ここに集う私たちをも聖別して下さり、この世に派遣するのです。この世は、今不安でいっぱいです。私たちが当たり前に思っていたものが、どれほど脆いのかを嫌と言うほど思わされる毎日です。たとえこのコロナ問題が収束しても、これからの世界が平穏無事になるとはとても思えません。温暖化問題、原発問題など、まだ多くの問題が山積みです。そんな中で、人々に真の希望を伝えるべく、私たちは世に遣わされるのです。そして、苦難の中にある私たちのために主イエスは今日この時も祈ってくださっているのです。私たちも、主イエスとこころを合わせて、祈りましょう。

死に打ち勝ち、また私たちにも死に打ち勝つ力を与えてくださる復活の主よ。あなたこそが私たちの希望です。私たちの社会は、今死の恐怖でどうしてよいのか分からない状態にあります。このような時こそ、あなたを見上げます。あなたは私たちのために祈ってくださっています。どうか私たちを聖別し、あなたの御心を行わせてください。これからの1週間も、私たちとその家族とを守り給え。主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン。

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僕(しもべ)となられた王ヨハネ福音書13章1-17節 https://domei-nakahara.com/2020/04/05/%e5%83%95%ef%bc%88%e3%81%97%e3%82%82%e3%81%b9%ef%bc%89%e3%81%a8%e3%81%aa%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%9f%e7%8e%8b%e3%83%a8%e3%83%8f%e3%83%8d%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b813%e7%ab%a01%ef%bc%8d17%e7%af%80/ Sun, 05 Apr 2020 14:09:09 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=293 "僕(しもべ)となられた王
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1. 序論

みなさま、おはようございます。当教会に就任して初めての説教が、主イエスのエルサレム入城を記念する棕櫚(シュロ)の主日となったことに、感慨深いものがあります。棕櫚の主日というのは、イエスがエルサレムに入城した時に、人々が棕櫚の枝を振ってイエスの入城を歓迎した出来事を記念する日です。シュロとはヤシの一種で、ほうきにも使われる丈夫な枝をならせます。その枝を振ることには、勝利者である王様を迎えるという意味がありました。しかし、それからわずか6日目にはイエスは逮捕され、十字架に架けられて死ぬことになります。その当時のエルサレムはものすごい数の人々で溢れかえっていました。今年の夏の東京オリンピックは延期になりましたが、もしこの夏に開かれていたら、この東京は世界中の人々で溢れかえっていたでしょう。イエスが最後の1週間を過ごされたエルサレムも、まさにそんな状況でした。なぜなら、その時にはエルサレムでは過越の祭りが祝われていたからです。過越の祭りというのは、イエスの時代からさらに千数百年ほど前に、エジプトで奴隷にされていたイスラエルの人々を、神がモーセを遣わすことで解放したことを記念するお祭りです。神は、イスラエルの人々を自由にしなさい、とエジプトの王ファラオに命じますが、ファラオはそれを拒否します。そこで神は10の災いをエジプトの地に下し、そして最後の10番目の災いが下ると、ファラオもとうとう降参して、イスラエル人を自由にします。その時のことを記念するのが過越の祭りでした。その祭りは夜祝われますが、その日には、各家庭は子羊を屠り、夜中に過越の食事をとるのです。

主イエスは、十字架の運命が待つエルサレムでの最後の一週間を過ごすためにガリラヤからエルサレムに上京してきたのですが、エルサレムはその週から始まる過越の祭りに参加するために、先ほども言いましたが、世界中から集まってきたユダヤ人でごった返していました。イスラエルの地に住んでいないユダヤ人、つまり日本で言えば、外国に住んでいる日本人のことですが、そういう人をディアスポラと言います。当時そのようなユダヤ人は、だいたい500万人ほどいたと言われています。有名な使徒パウロも、そうしたディアスポラの一人でした。その500万人の全部ではないですが、多くの人が過越の祭りを祝おうと、狭いエルサレムに世界中から押し寄せてくるわけです。大変な喧噪なのですが、その中の一人としてイエスもエルサレムに入って来られたのです。イエスがエルサレムに来られたのが日曜日でした。当時のユダヤ教では安息日は土曜日ですから、当時の日曜というのは私たちにとっての月曜日の感覚ですね。週の初めの日曜日にエルサレムに来られたイエスは、そこでユダヤ人の指導者である祭司たちと対決し、論争を繰り返し、彼らから危険人物として命を狙われます。エルサレムに来られてから5日目の晩、つまり木曜の晩、いよいよご自身の死ぬ時が近づいたことを知ったイエスは、弟子たちを招いて最後の晩餐を催します。それは最後の晩餐であるのと同時に、先に申し上げた過越の祭りの食事でもありました。過越の食事は夜中に行われるのですが、イエスの最後の晩餐も夜中に行われました。過越の祭りは、かつて彼らの先祖たちがエジプトの奴隷だった状態から解放されたことを祝う日でした。しかしイエスは、これからご自分に従う人たちは、エジプトではなく罪、罪の奴隷という状態から解放されることになる、ということを伝えようとしました。そこで過越の食事として最後の晩餐を祝われたのです。この最後の晩餐において、いくつかの大変重要な出来事がありました。その一つが、今日お読みいただいた聖句である足洗いです。今週の木曜日はキリスト教の暦では洗足の木曜日と言われますが、それは最後の晩餐で主イエスが弟子たちの足を洗ったことを記念する日なのです。

もう一つの最後の晩餐における重要な出来事とは、いうまでもなく聖餐式の制定です。私たちが行っている聖餐式の起源もここにあります。この聖餐式の意味はとても大切なのですが、今日はこの点には触れずに、イエスが弟子たちの足を洗われたことの意味を深く考えて参りたいと思います。

2. 本論

さて、四つの福音書の中で、イエスが弟子たちの足を洗ったことを記録しているのはヨハネ福音書だけです。反対に、ヨハネ福音書では、マタイ・マルコ・ルカのようには聖餐式の制定の記事はありません。このようにヨハネ福音書では、最後の晩餐においてイエスが弟子たちの足を洗ったことを強調しているのです。イエスがなされる行動は、一つ一つ考え抜かれたものです。イエスは急に思いついて、弟子たちの足を洗おうとされたのではありません。むしろ、ご自分の行動の意味をよく分かっていました。イエスは弟子たちに、大切なことを伝えようと、言葉だけではなく、行動を通じて彼らに教えられたのです。

この、弟子たちの足を洗うという行為には、三つの大切な意味が込められています。一つは、イエスはご自分がどんな方なのか、ということをその行動によって示されました。二つめは、イエスはこの足洗いによって、弟子たちの足や体が清められるだけでなく、イエスによって罪から完全に清められることを示しました。三つめは、イエスは弟子たちに、これから彼らがどのように生きるべきか、どのように振る舞うべきかについての模範を示したのです。この三つの内、罪から完全に清められることについては次週にお話ししますので、今日は特に一番目と三番目について話していきたいと思います。

では、最初の点です。イエスは弟子たちの足を洗うことによって、ご自分がどんな方なのかを示されました。まず、「足を洗う」ということの意味を考えてみましょう。「足を洗う」ことは、当時のユダヤ社会では家に入る時に、特に他の人の家に客として入る場合には、必ずする必要があるものでした。当時は、今の私たちのような立派な靴はありません。土埃の舞う地面を長い時間サンダルのようなものを履いて歩いていました。そのような状態で長いこと歩けば、足は誇りまみれ、泥まみれになってしまいます。他の人の家に食事に呼ばれた時に、サンダルを脱いで汚いはだしでその人の家に入ったら、その家の主人から嫌な顔をされるでしょう。ですから、その人の家に入る時に、まず始めにすべきことは足を洗うことなのです。では、誰がどのようにして足を洗うのでしょうか?それは食事を主宰する主人の奴隷がするか、奴隷がいない場合はゲストの各人が自分で自分の足を洗うかのいずれかでした。食事の主催者、ホストがお客の足を洗うということは、当時の習慣ではあり得ないことでした。さて、この最後の晩餐において、食事の主催者、主人はイエスその人でした。イエスが弟子たちを食事に招いたのですから、イエスが弟子たちの足を洗うというのはあり得ないことでした。イエスが弟子たちの足を洗った、ということは、私はあなたがたの奴隷です、と宣言するのに等しい行動でした。ですから弟子たちはビックリしたのです。そんなことはなさらないでください、とイエスに頼みました。

では、なぜイエスはこんなことをされたのでしょうか?それは、弟子たちがイエスのことを誤解していたからです。弟子たちは、イエス様は王様なのだから、奴隷の仕事をするべきではない、と思っていました。当時のユダヤの地はローマ帝国の植民地でした。ユダヤの人々はローマに高い税金を払ったり、暴力を振るわれたりしていたので、このローマによる支配が早く終わって、神様が直接イスラエルを治めてくださることを期待していました。直接、と言っても、神様は見えないお方ですから、神様が選んだ王様、それをメシアと呼びますが、そのメシアによってローマを追い払い、人々が望むような平和な国を神様が造ってくれる、そのようなことを期待していました。そしてイエスはそのような国をもたらす王様に違いないと弟子たちは期待していました。では、「王様」と聞くとどんな人をイメージするでしょうか?王様というと、部下を奴隷のようにあごで使い、また戦争をして敵を追い払う、そういう人物をイメージするのではないでしょうか。イエスの弟子たちも、まさにイエスをそのような王様だとひそかに思っていました。ですから、イエスが、「いや、私はあなたがたの救いのために死ぬのだ」と言われても、何のことだかさっぱり分かりませんでした。イエスはご自分のことを「人の子」と呼びましたが、御自身の使命についてこう言われました。マルコ福音書10章45節からお読みします。

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

イエスはメシア、つまりイスラエルの王です。王ですから、人々に仕えられるべき存在です。しかし、イエスは自分が来たのは仕えるためなのだ、と言われました。イエスは、王様と言えば人を奴隷のようにこき使う、そういうイメージを人々が抱いていたわけですが、そのような見方を完全に打ち砕いたのです。まったく新しい王の在り方、しもべのように人々に仕える王、という姿を示されたのです。

念のために言いますと、イエスは弟子たちの足を洗うことで、私はあなたがたの奴隷です、と言おうとしたのではありません。むしろ、私は正真正銘の王、メシアだけれども、あなたがたが想像しているような王ではない、僕のように仕える王なのだ、と宣言されたのです。イエスが宣べ伝えた「神の国」、より正確に訳すと「神の王国」となりますが、その神の王国においては、一番偉い王様が率先して人々に仕えるのです、神の国とはそういう国なのです。イエスはこれまでも、そのことを弟子たちに繰り返し教えてきました。しかし、弟子たちはそのことが理解できずに、かえって弟子たちの中で誰が一番偉いのかと言い争うようなありさまでした。最後の晩餐の時、主イエスはご自分の死が近いことを知っておられました。その後に復活して天に昇るのですが、そうなると、もはや弟子たちを直接教えることが出来なくなります。もう時間があまりないのです。そこで、弟子たちが間違えようのない明確なメッセージを、その行動を通じて伝えることにしたのです。彼らの足を洗うという奴隷の仕事を自らがすること、その衝撃的な行動を通じて、イエスが仕える王であること、しもべとして、もっと言えば奴隷として仕える王であること、また神の国においては、王とはそのような存在であることを教えられたのです。

そしてイエスは、神の国に入ろうとする弟子たちもまた、ご自分のように振る舞わなければならないことを教えました。この点も、イエスがこれまで何度も弟子たちに教えて来たのですが、彼らにはなかなか理解できないことでした。ガリラヤからエルサレムに向かう途上で、イエスは初めてご自身に待ち受ける運命、エルサレムで殺されるという運命を弟子たちに打ち明けます。しかし、弟子たちはその意味がまったく分かりません。むしろ弟子たちは、イエスはこれから首都エルサレムに上ってそこで王として即位される、その暁には側近である自分たちは政府の主要ポスト、今の日本で言えば大臣になれるのだと期待していました。そこでイエスの12弟子の中でも側近であったヤコブとヨハネは、イエスにこうお願いします。

「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」
イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」

昔の日本で言えば、私たちを右大臣と左大臣にしてください、という願いでした。そして、彼らがイメージしていた大臣というのは、仕える僕のような大臣ではなく、むしろ取り巻きに囲まれて威張っている、そういういわゆる権力者のイメージだったのです。そこでイエスは彼らに教えて言われました。

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間ではそうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。

ここにポイントがあります。私たちは偉い人というのは、権力をふるって周囲の人々を自分の意のままに動かせる人、というイメージを持ちます。会社でも偉くなれば部下も増えて、彼らを自分の思いのままに動かせる、だから出世したいと皆願うわけです。しかしイエスは、「しかし、あなたがたの間ではそうではありません。」と言われました。神の民の間では、世の中の習いとは違うルール、原理があるのです。神の民、すなわち教会においては、偉い人とは仕える人なのです。そして教会の頭であるイエスその人が率先して人に仕えたのですから、その弟子たちもまた、仕える者、仕えあう者であるべきなのです。イエスはそのことを何度も弟子たちに教えてきました。そして、弟子たちを教えるための最後のチャンス、最後の晩餐において、イエスはまさに目に見える形、誰でも分る具体的な行動として、弟子たちの足を洗いました。それはしもべとして仕える王の姿を見せることで、弟子たちに模範を示そうとされたのです。今日お読みいただいたヨハネ福音書13章14-15節をもう一度お読みします。

それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合いなさい。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。

この互いに仕えあう事、いわゆる偉い人が率先して人に仕えること、これが神の国、神の王国のルールであり、生き方なのです。このことを理解しないと、神の国は私たちのところに来ないのです。神の国はどこか遠いところにあるのではありません。むしろ、私たちがイエスに従い、その示された模範に心から倣う時に、神の国は来るのです。そして、私たちが主イエスの模範に倣う時に、私たちは祝福を受けます。主イエスは17節で、こう言われました。

あなたがたが、これらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。

これは非常に大事な点です。私たちはただ知るだけでは十分ではありません。教わって知ったことを行うとき、実践するときに、私たちは祝福されるのです。主イエスは「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます」と言われました。聞いて行うことで私たちは祝福されます。ただ聞くだけの人になってはいけないのです。

3. 結論

今日は、主イエスが最後の晩餐において真っ先にされたこと、つまり弟子たちの足を洗われたことの意味を学んでまいりました。主イエスにとって、最後の晩餐は弟子たちを教える最後の機会でした。これまで何度も教えてきたことを、よりはっきりと、印象的な行動によってイエスは弟子たちに伝えました。ゲストの足を洗うという、奴隷の仕事を自らが引き受けることで、イエスはご自分がどんな王なのか、を示されたのです。イエスは王の中の王、キング・オブ・キングスなのですが、その王はしもべとして仕える王だったのです。しかも、十字架の死という、当時の社会では人間のクズだけが受けるような屈辱にも甘んじて、人々に仕えるそういう王だったのです。

そしてイエスは、ご自分の王国に入りたいと願う弟子たちに、この王国の指導者としての相応しい在り方を示されました。それはご自身のように仕える指導者、しもべとなる指導者の姿でした。そして、私たちもまた、神に召された者として、その模範に倣う者でありたいと願うものです。私たちは罪深い、小さな者ですが、そのような私たちを愛していのちまで与えて下さった主のことを覚え、今週1週間は身を慎んで歩んで参りましょう。お祈りします。

天地万物の創造主にして、天地万物の贖い主であるイエス・キリストの父なる神よ、その御名を賛美します。今日はイエスはエルサレムで最後の一週間を過ごされた時の、最も印象深い時の一つ、弟子たちの足を洗われたことを学びました。その姿によって、主イエスはご自身がどんな王であるのか、またその弟子たちがどのように振る舞うべきかを示されました。現代に生きるあなたの弟子であるわたしたちもそのように行うことができるように、豊かに聖霊をお注ぎください。御子イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン。

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