預言者 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 調布 深大寺のプロテスタント教会 Sun, 02 Apr 2023 04:49:00 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.3.20 https://domei-nakahara.com/wp-content/uploads/2020/03/cropped-favicon-32x32.png 預言者 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 32 32 ユダヤ当局者たちとの対決マルコ福音書11章22節~12章12節 https://domei-nakahara.com/2023/04/02/%e3%83%a6%e3%83%80%e3%83%a4%e5%bd%93%e5%b1%80%e8%80%85%e3%81%9f%e3%81%a1%e3%81%a8%e3%81%ae%e5%af%be%e6%b1%ba%e3%83%9e%e3%83%ab%e3%82%b3%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b811%e7%ab%a022%e7%af%80%ef%bd%9e12/ Sun, 02 Apr 2023 04:47:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=4422 "ユダヤ当局者たちとの対決
マルコ福音書11章22節~12章12節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。来週はいよいよ復活主日で、今日は棕櫚の主日ですが、私たちが読み進めてきたマルコ福音書も、いよいよクライマックスに近づいて参りました。今日の箇所は、特にイエスの「預言者」としての働きに注目すべきところです。イエスが預言者であるということ、預言者としてのイエスの働きはとても重要ですが、ここで聖書のいう「預言者」の意味を改めて考えてみたいと思います。

これまでの説教でもお話してきましたが、神の言葉を預かると書く「預言」は、いわゆる「未来予知」ではありません。20××年に大地震が起こるとか、そういう未来に起こることを予知して知らせるというのは聖書の預言とはちょっと違います。確かに預言者も未来のことを語りますが、それは確定した変えられない未来ではなく、私たちの選択の結果起こり得る一つの未来の可能性なのです。お医者さんが人間ドックを受けている人に問診をする際に、「あなたは今のような生活を続けていれば2年後には死にます」と語ったとします。その人は本当に2年後に死んでしまうかもしれません、もし彼が今の生き方を変えないならば。旧約聖書の預言者たちが語る言葉も同じです。もしイスラエルが今の生き方を変えないならば、弱者を踏みにじる、不正を行う者が権勢をふるうような社会の在り方を変えようとしないならば、その時にはあなたがたは滅びる、と彼らは語りました。逆に言えば、イスラエルが悔い改めて生き方を変えるならば、裁きは撤回されます。それは預言が外れた、ということではなく、むしろ預言が本来の役割を果たしたということなのです。預言書ヨナは、ニネベが40日で滅びると預言し、ニネベの人々はその預言を聞いて悔い改めたので裁きは撤回されました。しかし、それはヨナが偽預言者であったということではなく、むしろ彼は真の預言者だったのです。

しかし、預言がその通りになるかどうかは分からない、人間の行動次第で未来が変わる可能性があるというと、「では旧約聖書にあるメシア登場の預言はどうなのか?人間の行動次第でイエス様がこの世に生まれない可能性があったのか?」と言われれば、もちろんそんなことはありません。聖書の預言は人間の意志や決断だけを問題にするのではなく、同時に神のご意思、御心について語るものでもあるからです。例えば「私は明日美術館に行く」と言って、実際私が明日美術館に行ったならば、それは預言が成就したということになるのでしょうか?もちろんそんなことはありません。私は単に私の計画を実行に移しただけです。旧約聖書の預言者たちも、神のご計画、その御心を語りました。神は預言者たちを通じて語り、そのことを実行されるのです。預言者アモスは、「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない」(アモス3:7)と語りましたが、預言の中でも神のご計画、ご意思について語るものは必ず成就します。人間が悔い改めれば裁きが撤回される可能性のある預言とは、この意味で根本的に異なります。

さて、預言者としてのイエスの働きに戻りますと、今イエスは撤回可能な裁きの預言をその行動によって伝えようとしているのでしょうか?イエスの言葉を聞いたエルサレムの人々がその行動を改めれば、それで未来は変わる、エルサレムの破壊という悲劇を免れることはできたのでしょうか?私はできただろうと考えています。もしイスラエルの人々が、侵略者であるローマに対する徹底抗戦、武器を手に取るという道を選ばずに、それが非常に困難だったとしても「敵を愛する」という道を選んだのなら、エルサレムの破滅という未来は回避できたでしょう。しかし、エルサレムの人たちはイエスが指し示す、困難な平和への道を選ばなかったのです。

同時にイエスは、神ご自身のご意思をも人々に示そうとしていました。それは、神が現在ユダヤ人を指導している人たち、大祭司たちを頂点とする権力者たちを罷免し、神自らが牧者となるという預言を今こそ実現するということでした。そのことは、特に旧約聖書に登場するバビロン捕囚の時代の預言者エゼキエルが6百年ぐらい前に預言していたことです。エゼキエルは、イスラエルの牧者たちが民のために働こうとはせず、自らの私腹を肥やすことばかりに熱心な状況を批判しました。それはまさに、イエスの時代に実現していたことで、宗教と政治、そして経済というすべての実権を握っていた大祭司は人々から取れるだけ宗教税を搾り取って肥え太っていました。ではエゼキエル書34章1節から4節までをお読みします。

次のような主のことばが私にあった。「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ、自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。

ここで言われている牧者はイエスとは正反対のこと、つまり自分たちの民を癒さずにむしろ力づくで彼らを搾取しました。イエスの時代の大祭司たちも、ローマ帝国の暴力を背景にして民から搾り取れるだけ税を取り、それでいて自分は神の代理人だという顔をしていました。神はこの状況を見て、自らが良い牧者となってイスラエルを導くことを決意するのです。エゼキエルはこう預言しています。34章15節と16節です。

わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。―神である主の御告げ― わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。

これはまさに人となられた神である主イエスのことを預言している箇所です。ここで今日特に注目したいのは、「わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす」という預言です。イエスの時代の肥えたものとはユダヤ当局者、すなわち大祭司たちでした。今日の聖書箇所では、イエスはたとえを通じてこのことをはっきりと語られたのです。

2.本論

では、さっそく今日のみことばを読んで参りましょう。今日の中心的な箇所に入る前に、まずイエスは祈りについて大事なことを教えられました。前回の終わりの場面で、弟子たちはイエスが呪ったいちじくの木が枯れているのを発見しました。前の説教でお話ししたように、いちじくの木はイスラエルを象徴していますので、イエスのこの行動はイスラエルに神の裁きが下ることを象徴的に示したものでした。そして23節ですが、祈りは山をも移すという有名なイエスの言葉が語られています。しかし、ここでの「山」とは一般的な意味での山ではなく、むしろ「シオンの山」、小高いところに位置する城壁都市であるエルサレムを指しています。イエスは前回の行動でエルサレムへの裁きを示しましたが、ここでは言葉によって、「あなたがたが祈れば、今のエルサレムの支配体制すら覆すことができる」ということを示唆しているのです。イエスがエルサレム当局を挑発するような行動をしているのを見て不安になった弟子たちを、イエスは勇気づけようとしているのです。とはいえ、祈ったからと言って必ずしもその通りにはならない、ということを私たちは日常的に経験しています。そこで24節でイエスは、祈りというものは、実に祈ったときにすでにそれが実現していることを信じなさい、とも語ります。ただ、実現するといっても、それは自分が願った通りになるということではありません。むしろ、神が良しとされることが起こるのです。神は私たちよりもずっと、私たちが本当に必要としているものをご存じです。ですから神は、私たちにとっては意外な形で祈りに応える、ということもあるのです。だから祈った通りにならないからといって、「神は私の祈りを聞いておられない」と短絡的に考えてはならない、ということです。イエスは25節で祈りについてもう一つの大切なことを教えられました。私たちの神に対する祈りが神に届くための条件として、私たちの中にあるわだかまりや敵意をまず解消すべきことが語られます。これは主の祈りや山上の垂訓でも語られていることですが、私たちが人を赦すことは、私たちが神に赦されるために必要なことなのです。

さて、それから27節ですが、ここからいよいよ今日の説教の本題に入ります。前回の箇所でイエスは宮清め、より具体的には神殿での礼拝行為を中断させるという衝撃的な行動を取りました。取りようによってはまさに暴挙と言えるほどインパクトのある行動でしたが、神殿の管理者である大祭司たちはもちろんそれについて怒りました。しかし、いきなりイエスを逮捕しようとすれば、イエスを支持する民衆が暴動を起こす可能性があります。過越祭のような人々の集まる大きな祭の際には、いつもローマの軍隊がエルサレムに駐屯していましたから、暴動が起きればすぐにローマの軍隊がそれに介入することになります。そうなると、暴動を招いたことの責任を取らされて、大祭司たちはローマから罷免されてしまう恐れがあります。当時のユダヤはローマの植民地でしたから、ローマは簡単にユダヤの指導者の首をすげ替えることができました。そんなことにならないように、大祭司たちもいきなりイエスを逮捕して問題を大きくせずに、まずは公の場で尋問をするということを選択しました。彼らはイエスに、あなたがこんなことをする権威を誰が与えたのか?一体誰のゆるしを得てこんなことをしたのか?と問います。当時ユダヤでもっとも大きな権威を持っていたのは大祭司です。しかし、大祭司はイエスにいかなる公式の立場も認めていません。そうなると、イエスに権威を与えられるのは大祭司を越えた権威、つまり神お一人だということになります。ですからイエスはここでは「私は神からその権威を与えられた」と答えるほかないのです。しかし、そうなれば大祭司たちの思うつぼです。彼らはイエスにすかさず、「あなたに神がそのような権威を与えたという証拠はあるのか?わたしたちにその証拠、しるしを示してみよ」と要求するでしょう。そしてイエスがもしそこで奇跡の一つでも見せようものなら、「この男は魔術を使った。魔術で民を惑わしている。彼を取り調べなければならない」と難癖をつけてイエスの身柄を確保しようとするでしょう。一種の異端審問を行うことができるのです。そのような入念なシナリオを描いたうえで、イエスに論戦を挑んだのです。

しかし、イエスの方も彼らの意図をすでに見破っていました。彼らの仕掛けた罠にはまらずに、むしろボールを投げ返して彼らの方が守勢に回るようにします。実は、イエスに権威を与えることのできる人物が、大祭司のほかにもう一人いました。それがバプテスマのヨハネです。実に、イエスの公生涯において、イエスに権威を与えたといえるのはバプテスマのヨハネただ一人でした。彼はイエスにバプテスマを授けているからです。そのヨハネに権威を与えたのが神であるならば、イエスに権威を与えたのも神だということになります。ですからイエスは彼らに「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい」と言いました。この逆質問によって、大祭司たちは窮地に追い込まれます。もしバプテスマのヨハネを神の人だと認めてしまえば、イエスのことも神の人だと認めてしまうことにつながります。そうなると、質問をしたことがかえってやぶへびになってしまいます。ですから何としてもそれを認めたくはありません。しかし、では「彼は神の人ではない。自分勝手にバプテスマを授けていたのだ」と言ってしまえば、群衆から大きな反発を受ける恐れがありました。バプテスマのヨハネはガリラヤだけでなく、ユダヤやエルサレムでも大変有名な人物で、彼のことを神の預言者だと信じている人もたくさんいました。そんな人たちの前でバプテスマのヨハネを否定すれば、怒った群衆が暴動を起こしかねません。それも大祭司たちは絶対に防がなければならないことでした。そこで彼らはイエスの問いに対して「わかりません」と逃げを打ちます。彼らが逃げたのを見て、イエスの方も彼らの挑発に乗る必要はなくなりました。そこでイエスも彼らの問いには答えませんでした。

ここで、イエスは反撃に転じます。イエスはあるたとえを語りますが、それは有名な「不正な農夫たちのたとえ」です。イエスのこのたとえの中で、ぶどう園の主人は神で、ぶどう園そのものは神の民であるイスラエル、そして農夫とは神からイスラエルの人々の世話をすることを委ねられている牧者たち、大祭司たちのことを指しています。大祭司というのは、今でいえばローマ教皇のような宗教界の権威です。そのような尊敬すべき人が「不正な農夫」である、というのは驚きかもしれません。しかし、イエスの時代の大祭司は、現在のローマ教皇よりもむしろ日本の総理大臣に近い人だったといえるかもしれません。宗教家というより政治家だったという意味です。そのことを説明しましょう。

大祭司というのは、イスラエルの歴史上最大の預言者であるモーセ、そのモーセのお兄さんがアロンという人だったのですが、そのアロンの子孫しかなれないはずでした。日本でも、いくら優秀な人がいても決して天皇にはなれないように、ユダヤの大祭司になる資格は何よりも家系、血統でした。しかし、イエスの時代の大祭司たちはそのような血統の力ではなく、むしろお金の力、財力で選ばれていました。イエスの時代の大祭司はアロンの子孫ではなかったのです。大祭司は、宗主国であるローマ帝国とうまくやれる人が就任していました。実際、当時は誰がユダヤの大祭司になるのかをローマ帝国が決めていたのですが、ローマはユダヤ社会の中でも最も金持ちの四つの家族を選び、そこから大祭司を決めていたのです。日本でいえばソフトバンクの孫さんとか、そういう天文学的な金持ち家族から大祭司を任命しました。しかし、大祭司とはそもそも金持ちがなるものではないし、モーセの律法によれば金持ちになれるはずもなかったのです。なぜなら祭司の一族であるレビ族は、土地を持つことが禁じられていたからです。彼らには自分の財産がなかったので、他のユダヤ人たちの献金によって彼らの生活と宗教活動が支えられていました。けれども、当時のユダヤ人祭司たちは、祭司が土地を持ってはいけないというモーセの律法の解釈を変えてしまいました。日本の平和憲法では日本は軍隊を持てないはずですが、実際には世界有数の軍事力を持っています。日本の政治家は憲法を変えずに、その解釈を変えたのです。それと同じで、当時のユダヤ人たちも神の言葉であるモーセの律法の文言は変えずに、解釈を変えました。それは、祭司は土地を持ってはいけないのではなく、土地で農民として肉体労働をしてはいけない、というように解釈を変えたのです。地主になって年貢を取り立てることはよいけれど、自ら農夫となって労働してはいけない、ということにしてしまったのです。それから大祭司たちは、貧しい農民に大きな宗教税を課して、その税金が払えなくなると彼らの土地を取り上げて、彼らを小作農として働かせました。貧しい農民は、酷いときは収穫の7割を税金や小作料で搾り取られました。ですから彼らはどんどん貧乏になり、彼らを助けて養うべきはずの大祭司たちがどんどん金持ちになっていくという、非常にゆがんだ状態になりました。大祭司たちはローマ帝国と結託し、異教徒であるローマの武力を用いて貧しい人々の不満を押さえつけました。ローマ帝国にとっては、大祭司が信仰心に篤い人かどうかというのはどうでもよいことでした。ローマにとっての良い大祭司とは、ローマのために民衆からきっちり税金を集めてくれて、また民衆のローマに対する暴動を抑え込む手腕がある人でした。ですから大祭司たちも、神ではなくローマの顔色ばかりをうかがうようになっていったのです。したがってイエスと対決していた大祭司は、ユダヤで一番の大富豪であり、同時に総理大臣の権力も併せ持つ、そんな人物でした。神はもちろん神に仕える祭司たちがそんな状態であるのを喜ばれません。そこで彼らに反省を促すために、これまで多くの預言者を遣わしてきました。しかし、歴代の大祭司たちは自分たちを批判する神の預言者たちを次々に迫害し、あるいは殺し、ついには神の子であるイエスさえも殺そうとしている、そのことをイエスはたとえを通じて語り、大祭司たちを公然と告発したのです。

このたとえを語り終えた後、イエスはさらに、詩篇からの一節を引用します。それは、イエスがろばに乗ってエルサレムに入城した時に、彼を讃美した人たちが引用した詩篇と同じ詩篇118篇からでした。イエスがエルサレムに入場した時に、人々は詩篇118篇26節を歌いました。

主の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。主は神であられ。私たちに光を与えられた。

この詩篇は、このように救い主を待ち望む詩篇でした。しかし、この同じ詩篇には、次のような不思議な預言も含まれていました。それが詩篇118篇の22節、23節です。そこをお読みします。

家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石となった。これは主がなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。

家を建てる者たちとは、壮大なエルサレム神殿を建ててそれを管理している大祭司たちのことでした。彼らが捨てた石ころとは、すなわちイエスです。イエスは神殿の管理者である大祭司から不要なものとして投げ捨てられる運命にあります。しかし、このイエスこそ神の神殿の礎、礎石となるのです。これは人間の目にはまことに不思議なことでした。

さて、これまでイエスの話を聞いていたユダヤの当局者たち、大祭司たちは聖書をよく知っている賢い人たちでしたから、この「不正な農夫」や「家を建てる者たち」が自分たちのことを指していることにすぐ気が付きました。彼らは怒りに燃えてイエスを捕えようとしましたが、やはり群衆を恐れました。この時点では、群衆は自分たちよりイエスの方に魅了されていることを見て取ったからです。ここで無理をすれば、群衆の暴動を招きかねません。ですからここでもイエスの逮捕を諦めて、次のチャンスを待つことにしました。

3.結論

まとめになります。今日はイエスが預言者としてイスラエルの牧者たち、指導者たちに引導を渡し、彼らへの神の裁きが不可避であることを宣告する場面を学びました。いつの時代も、神の民の群れを預かる指導者の責任は重いのです。宗教の指導者は、神という絶対的な権威に基づいて語りますから、非常に強い力を持ちえますが、彼らがその権威を悪用すると、とんでもないことになるということです。特に、今日は様々な新興宗教、お金儲けや人々の心を支配することばかりに関心があるように見える宗教のせいで、宗教全体の信頼が大きく揺らいでいます。これは大変深刻な、不幸な状態です。宗教に関わる全ての人は、その責任の大きさを自覚しなければなりません。

私たちは小さな群れですし、富と権力を独占したユダヤの大祭司のような人たちとは程遠い存在です。それでも、私たちもまた、神から大事な農園を預かっている農夫であることを忘れてはいけません。すべての教会は、私たち教会員のものである以上に、神のものであり、私たちはそれをお預かりしている管理人に過ぎないということを忘れないようにしたいと思います。そのことは、特に牧師である私が胆に銘じるべきことです。私たちが忠実で善良な管理人として主からお褒めに与ることができるように、祈り、励んで参りましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を讃美します。今朝は、主イエスがユダヤの当局者たちを不正な管理人として糾弾する場面を学びました。私たちもこのことを他山の石として、自分自身を戒めるために謙虚に受け止めることができますように。同時に、この小さな群れを主ご自身が牧者として愛し、導いてくださっている幸いに感謝いたします。どうか復活主日に続くこの一週間の私たちの信仰の歩みを強めてください。われらの救い主、平和の主であるイエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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ハナヌヤエレミヤ書28章1~17節 https://domei-nakahara.com/2020/08/09/%e3%83%8f%e3%83%8a%e3%83%8c%e3%83%a4%e3%82%a8%e3%83%ac%e3%83%9f%e3%83%a4%e6%9b%b828%e7%ab%a01%ef%bd%9e17%e7%af%80/ Sun, 09 Aug 2020 07:16:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=587 "ハナヌヤ
エレミヤ書28章1~17節" の
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1.導入

みなさま、おはようございます。私たちの教会では、これまで旧約聖書の学びを熱心に続けています。この主日礼拝ではエレミヤ書、親子礼拝では創世記、祈祷会ではサムエル書を読み、森田役員のメッセージも旧約聖書からの講解です。私は以前奉仕していた教会でも、旧約ばかりを取り上げるので、「先生のご専門は旧約ですか?」と尋ねられることがよくありました。でも、私は新約学者の端くれでして、論文を書いたのはパウロについて、神学校でも新約学を教えています。ですから正直を申しますと、説教も新約聖書からの方がずっと準備しやすいのです。それでも、教会での説教で旧約聖書を大変重視しているのは、旧約聖書こそが新約聖書の土台だからです。家を建てる時は、まずしっかりとした土台を据えることが肝要です。土台もしっかりしないのに、いくら見栄えの良い上物を立てても、その家は固く立つことはないでしょう。新約聖書も同じことです。旧約聖書をよく知らずに、新約聖書ばかり読んでも、その内容を半分も理解できないでしょう。主イエス・キリストの宣教についても、旧約をよく知らずには十分には理解できないのです。理解できないどころか、それを誤解したり、曲解したりする恐れすらあります。なぜなら、旧約聖書という土台の代わりに、自分勝手な土台を据えてしまう恐れがあるからです。

旧約聖書は確かに難しいです。エレミヤ書を読んでみてお分かりのように、まずその歴史的背景をよく知らないと意味が分からない部分がたくさんあります。また、神学的に難しい問いも数多く出てきます。神様は平和の神なのに、戦争を命じている場面を読むと、私たちは困惑します。また、なぜ神はイスラエルばかりをえこひいきするのか、私たち異邦人の救いが新約になってやっと登場するのはどういうわけか、などなど、多くの疑問がわいてきます。しかし、こういう疑問を正面から受け止めてこそ、新約聖書の真の意味、そしてイエス・キリストの生涯の意味がよくわかってくるのです。ですから、私はもちろん新約聖書からもしっかりとメッセージをしていきますが、割合としてはこれからも旧約聖書の方が多くなると考えてください。しかし、それは究極的にはイエス・キリストをより深く知るためだ、ということを忘れないでください。

2.本文

さて、では今日のエレミヤ書の内容を見てまいりましょう。今回の聖書箇所は前回の続きです。これまでの流れを復習しましょう。第18代のユダ王国の王エホヤキムはバビロンに謀反を起こしたのでバビロンに攻撃され、その戦いのさなかで戦死しました。その息子エホヤキンが跡を継いで19代の王になりますが、在位わずか3か月でバビロンによって退位させられ、バビロンに捕虜として連行されました。その後、バビロンによってヨシヤ王の三人目の息子、バビロンに捕虜として連れていかれたエホヤキンからは叔父にあたるゼデキヤが第20代のユダ王国の王となりますが、ゼデキヤはユダ王国最後の王となる運命にありました。

そのゼデキヤのもとに、ユダ王国の近隣諸国の外交官たちが訪れます。彼らはパレスチナ地区で反バビロン連合を結成しようとしており、その中にユダ王国も加わるように、と言ってきたのです。ゼデキヤはバビロンのおかげで王になれたので、バビロンを裏切るわけにはいきませんが、さりとて周辺諸国すべてを敵に回すのも避けたいところです。どうしたものかと思案しているところに預言者エレミヤが現れました。エレミヤは異様な格好で登場しました。なんと、自分の首に木製のかせをはめて、まるで囚人であるかのような格好で登場したのです。この異様ないでたちそのものがエレミヤのメッセージでした。すなわち、周辺諸国の王たちと、自らの祖国であるユダ王国に対し、バビロンに首を差し出して仕えなさい、バビロンのくびきを負いなさい、神がバビロンを世界の覇者にしたのだから、バビロンに逆らってはならない、というメッセージを伝えたのです。

しかし、このようなメッセージは間違いなく人々に不人気だったでしょう。イスラエルには、バビロンに非常に強い嫌悪感を持っている人たちがいました。先週もお話しした、エレミヤと同じ時期に活躍したハバククは、神がバビロンを用いてイスラエルを罰しようとしておられることを知っていました。しかし彼にはそれが不満でした。ハバククも、イスラエルの罪をよく知っていましたが、バビロンはイスラエルよりもずっと悪い残虐な民であることも知っていました。神はイスラエルの罪は厳しく取り扱うのに、もっとはなはだしいバビロンの罪は見逃すのか、大目に見るのか、それは正しいのでしょうか?と神に抗議したのです。しかしエレミヤは、そのバビロンに仕えるのが神の御心なのだと主張しました。イスラエルの歴史の中でも、外国の、しかも真の神ではなく偶像を礼拝する帝国に仕えよ、などという預言を公然としたのはエレミヤが初めてでした。エレミヤの語る言葉を聞いた人たちは、エレミヤはこれまで偶像礼拝を厳しく非難していたのに、その偶像を拝む国に仕えよとは、いったいどういうつもりなのかとショックを受けたことでしょう。イスラエルの過去の預言者は、偶像礼拝をする大国にイスラエルが仕えることに一貫して反対してきました。なぜなら、偶像礼拝をする国の属国になると、仕える国の神々、つまり偶像を拝まなければならないことになるからです。預言者イザヤの時代にアハズ王は北の大国アッシリアに助けをもとめてアッシリアの属国になりましたが、その結果南ユダ王国はアッシリアの神々、すなわち偶像も受け入れなければならなくなり、その結果ユダ王国では偶像礼拝が盛んになりました。こういう事情から、イスラエルの預言者たちは異教の帝国に仕えることに反対してきたのですが、エレミヤはここで大転換を促していたのです。バビロンの王が神を信じようと信じまいと、イスラエルの神は彼を選んで王としたのだ、だから彼に仕えなさい、というのです。イスラエルは今や、異教徒の支配の下で、自らの信仰を守り抜かなければならなくなったのです。

しかし、そのエレミヤとは正反対のことを語る預言者が登場しました。それがハナヌヤでした。ハナヌヤという名前の意味は、「主は憐み深い」というものです。そして、ハナヌヤのメッセージは「主は今やイスラエルに憐みをかけてくださる、主はユダ王国をバビロンから救ってくださる」というものでした。ハナヌヤによれば、主はバビロン捕囚をあと2年で終わらせてくださるというのです。この時点で、バビロン捕囚が始まってから4年目に入っていましたから、バビロン捕囚は6年余りで終わるということになります。エレミヤは、バビロン捕囚は70年続き、イスラエルの人々は三代にわたってバビロンに仕えることになる、という主の預言を語っていましたので、エレミヤの預言とハナヌヤの預言とは、真っ向から対立することになります。つまり、エレミヤもハナヌヤも、どちらも主の言葉を語っているというのはあり得ないことなのです。先月、「偽預言者」という説教をしましたが、偽預言者とは主の言葉だといいながら、実は自分の思いや考え、あるいは人々の願望を語る人だということをお話ししました。ですから、エレミヤとハナヌヤのいずれかが自分の思いを語っているということになるのです。

では、当のエレミヤはハナヌヤの語る言葉をどのように聞いたのでしょうか。もしハナヌヤが正しいのだとしたら、それと正反対のことを語るエレミヤは偽預言者だということになってしまいます。自らの預言者としての信認が疑われるようなことになりかねません。ですからエレミヤは、「ハナヌヤよ、偽りを言うな。主がそんなことを言われるはずはないではないか」と真っ向から反論してもおかしくはないところです。しかし、ハナヌヤの言葉を聞いたエレミヤはこう言いました。

「アーメン。そのとおりに主がしてくださるように。あなたが預言したことばを主が成就させ、主の宮の器と、すべての捕囚の民がバビロンからこの所に帰ってくるように。」

ハナヌヤの言葉に「アーメン」と言ったのです。アーメンとは「本当にそうです」という意味です。エレミヤは、自分のこれまでの預言を撤回して、本当にバビロン捕囚があと2年で終わり、捕囚の民や神殿の宝物が帰ってくると思ったのでしょうか。この言葉はエレミヤの皮肉だ、という見方があります。つまり、「ハナヌヤよ、お前の言うことはしょせん虚しい望みで、実現することはないが、まあせいぜい頑張ってくれ」と小ばかにして言ったのだという解釈です。しかし、おそらくそうではないでしょう。エレミヤ自身は、これまでイスラエルの人々に災いや破滅の預言ばかり語ってきましたが、それは彼の思いや願いではありませんでした。エレミヤは神から伝えられたことをそのまま忠実に語っただけで、彼自身はそんなことが自分の祖国に起こることを全然望んではいなかったのです。むしろエレミヤは神に、イスラエルを憐れんでくださいと祈ってきました。そんなエレミヤに対し、神はイスラエルのために執り成しの祈りをすることを禁じていたのです。エレミヤ書7章16節には次のような言葉があります。

あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげてはならない。わたしにとりなしをしてはならない。わたしはあなたの願いを聞かないからだ。

このような、エレミヤにとりなしをすることを禁じる命令はたびたび登場します。逆に言えば、エレミヤは禁じられても何度も何度もイスラエルのために神に祈ったのでしょう。神様も、粘り強く一生懸命祈られるとそれを聞かないわけにはいきませんが、さりとてイスラエルの積もり積もった罪は非常に大きかったので、裁きを下すという決定を撤回することもできません。そこでエレミヤに、もうこれ以上祈らないでくれ、私を困らせないでくれ、と命じたのです。そして、私はたとえ大預言者モーセやサムエルがとりなしてもそれを聞かない、この災いの決定が覆ることはない、とまで神はおっしゃられました。神にそこまで言われてしまったので、エレミヤも内心の願いをぐっと押し殺したのです。それでも、エレミヤの本心、内なる願いは、実はハナヌヤが語った通りだったのです。早くバビロン捕囚が終わって、神の憐みが豊かにイスラエルに注がれることを願っていたのです。そのために、ハナヌヤの言葉を聞いたエレミヤは、思わず「アーメン、その通りになりますように」と言ってしまったのでしょう。

さらに言えば、エレミヤはハナヌヤが本当に神の言葉を語っているのかもしれないと考えたのかもしれません。エレミヤはとても謙遜な人でした。エレミヤは、決して自分だけが特別だ、自分だけが主の預言者、スポークスマンだとは思っていませんでした。神様が自分以外の人を選んで、その人に新しいメッセージを託すということも受け入れていました。実際、エレミヤの時代には偽預言者もたくさんいましたが、本物の神の預言者はほかにもいたのです。一番有名なのはエゼキエルで、彼はちょうどこの出来事から1年後に預言者としての働きを始めています。また、ハバククという預言者もエレミヤと同じころに活躍し、バビロンの台頭を預言していました。また、エレミヤ書26章にはエレミヤと同じような預言をして、それがエホヤキム王の怒りを買って殺されてしまったウリヤという預言者もいました。ですから、神がイスラエルへの裁きを思い直し、そのメッセージを新しい預言者に託すということもあり得ることでした。エレミヤも、ですから自分とは全く違うことを語るハナヌヤを偽預言者だとは決めつけずに、彼も神の言葉を預かったのかもしれない、と思ったというのは十分考えられるのです。ここにエレミヤの謙虚さと、神への畏れを見る思いがしますし、それらはまさに預言者にとって大事な資質でした。

しかし他方で、エレミヤはこれまでたくさんの偽預言者も見てきました。エレミヤ書14章13節には次のようなエレミヤの言葉があります。

私は言った。「ああ、神、主よ。預言者たちは、『あなたがたは剣を見ず、ききんもあなたがたには起こらない。かえって、わたしはこの所でまことの平安をあなたがたに与える』と人々に言っているではありませんか。」

このエレミヤの訴えに対し、神はこれらの預言者たちは実際には預言者ではなく、自分の思いを語っているだけなのだ、と説明しました。このような、偽りの平和を唱える偽預言者を見てきたエレミヤは、ハナヌヤもそのような偽預言者であるかもしれない、と指摘しました。そこで7節以降の言葉を続けて語りました。

しかし、私があなたの耳と、すべての民の耳に語っているこのことばを聞きなさい。昔から、私と、あなたの先に出た預言者たちは、多くの国と大きな王国について、戦いとわざわいと疫病とを預言した。平和を預言する預言者については、その預言者のことばが成就して初めて、ほんとうに主が遣わされた預言者だ、と知られるのだ。

エレミヤは、自分だけではなく、イスラエルのたくさんの預言者たちがわざわいを預言してきたという事実を指摘します。例えば大預言者イザヤは、神から召命を受けた時、「町々は荒れ果て、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果てる」というなんとも寒々とした神のことばを受けています。せっかく神のメッセンジャーになって人々に語ろうとするときに、こんな荒涼としたメッセージを語らなくてはならないとは、イザヤも胸がつぶれる思いだったでしょう。しかしイザヤだけではありません。旧約聖書の預言書を読めば、これでもか、というくらいに破滅や滅亡の預言があります。もちろん希望のメッセージもあるわけですが、それはこうした厳しい苦難をくぐり抜けた後にやっと与えられるものなのです。エレミヤも、今後の説教でお話しするように素晴らしい希望のメッセージを残しています。しかしそれは壊滅的と思えるような裁きをくぐり抜けた後のメッセージなのです。ハナヌヤの言うように、あっという間に終わってしまうような苦難ではなかったのです。ですから、歴代のイスラエルの預言者たちとは異なることを語る以上、ハナヌヤが真の預言者として認められるためには、彼の語ることが成就しなければなりません。神も、本物の預言者と偽物の預言者とを区別する方法として、その語った言葉が成就するかどうかを判断基準として設けています。申命記18章21節にはこうあります。

あなたが心の中で、「私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか」と言うような場合は、預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。

もちろん、これだけが偽預言者を判別する基準だということではありません。破滅の預言を聞いた人々が心から悔い改めたのなら、破滅の原因である神への不従順がなくなったわけですから、神は裁きを下すことを思い直し、破滅は起こらないでしょう。この場合は預言者が語ったことは実現しないことになりますが、それでも彼は偽預言者ではありません。しかし、人々が心から悔い改めてもいないのに、神が裁きを撤回して憐れみを下さるというのは、普通ではありえないことです。ですからそのような預言を語る者が本物かどうかは、実際にそうした平和の預言が成就して初めて確かめられるのです。エレミヤはそのことを端的にハナヌヤに語りました。

しかし、ハナヌヤは自分の語る言葉に疑いが投げかけられるのが面白くなかったのでしょう。エレミヤの語る言葉に怒りを覚えたようです。そしてさらに大胆な行動に出ます。エレミヤは、バビロンに仕えなさいという自分のメッセージを分かり易く伝えるために象徴行動をとりました。それは、自分の首にかせをはめることですが、このことはバビロンのくびきを負うということを意味しました。しかしハナヌヤは、エレミヤの首からかせを取り外して、それを木っ端みじんに砕いてしまったのです。そして自分の行動の意味を説明するように、こう言います。

主はこう仰せられる。「このとおり、わたしは二年のうちに、バビロンの王ネブカデネザルのくびきを、すべての国の首から砕く。」

バビロンの天下は二年もたたないうちに終わる。そうして南ユダ王国も、またその近隣諸国も、バビロンの支配から解放されるのだ、と宣言したのです。これを聞いたユダ王国の人々は大喜びしたでしょう。そして捕虜としてバビロンに連れていかれた人たちも直ぐ帰ってくると、希望に胸を躍らせたことでしょう。しかし、エレミヤはここでは何も言わずに黙って立ち去りました。ここにもエレミヤの偉大さが現れていると思います。多くの人々の面前で自分の言葉を真っ向から否定された、いわば恥をかかされたわけですから、何か言い返したいという思いはあったでしょう。並の人間なら激怒してもおかしくありません。しかし、エレミヤは自分が神の僕に過ぎないということがよくわかっていました。もし本当に神がハナヌヤにことばを託したのならば、彼に反論することは神に逆らうことになる、ということまで考えていました。ですからハナヌヤについて早まった判断はせず、神からはっきりとした御心が示されるまで待とうと思ったのです。ですからエレミヤは、いろいろ言いたいことはあったでしょうが、この場は静かに立ち去ったのでした。

ほどなくして、エレミヤに神のことばが与えられました。それからエレミヤはハナヌヤのところに言って、こう言いました。

ハナヌヤ。聞きなさい。主は、あなたを遣わされなかった。あなたはこの民を偽りに依り頼ませた。

このように、ハナヌヤのことばは神のことばではない、とはっきり伝えました。また、エレミヤは「主はこう仰せられる。あなたは木のかせを砕いたが、その代わりに、鉄のかせを作ることになる」とも言いました。もうハナヌヤには砕くこともできない、より強力な鉄のかせがイスラエルの人々に科せられることになるのです。そしてとどめとして、偽りの預言を語ったハナヌヤはことし死ぬ、とエレミヤは宣言しました。

この強烈な言葉を聞いたハナヌヤがどう反応したのかは書かれていません。ハナヌヤもかなり気性の激しい人物のようですから、エレミヤのことばに激しく反発したのかもしれません。あるいは、神のことばを語るエレミヤの迫力に圧倒されて、何も反論できなかったのかもしれません。しかし、実際はどうだったのかは分かりません。ただ単に、ハナヌヤはこの出来事の2か月後に死んだ、とだけ書かれています。なぜハナヌヤが死んだのか、その理由は分かりませんが、エレミヤの予告通りにハナヌヤが死んだわけですから、エレミヤの方が正しかったのだ、ということが実証されたことになります。しかし、実はハナヌヤの残したメッセージはユダ王国の人たちに強い印象を残したようです。人々はエレミヤよりも、むしろハナヌヤの言うことを信じてしまったようなのです。なぜならそれから数年後にはゼデキヤはバビロンに反乱を起こし、南ユダ王国を滅亡へと導いてしまうことになるからです。解放を告げるハナヌヤの語った言葉の方が、人々には受け入れやすかったのでしょうが、受け入れやすいから神のことばだ、ということにはならないのです。

3.結論

さて、これまでの説教では総論として偽の預言、偽預言者について語ってきましたが、今日は具体的な人物であるハナヌヤという人物を見てまいりました。この人は真剣な思いで預言をしていたのだと思われます。神を信じ、イスラエルの神が偶像を拝む帝国が神の民を支配することを許すはずがない、かならず打ち破ってくださるという神学的な確信を持っていたのでしょう。

しかし、イスラエルの積年の罪は重く、もはや裁きは避けられないものとなっていました。バビロンへの服従は屈辱であっても、神の御心として受け止めるべきだったのです。バビロンに逆らうことは、神の裁きを耐えがたいほど重いものにしてしまうという結果になります。歴史にもしはありませんが、もしゼデキヤ王やユダ王国の人々がエレミヤの言うことに従っていれば、バビロンへの服従という辛い状況は続いたとしても、エルサレムの陥落と王国の消滅という最悪の事態は避けられたことでしょう。

エレミヤ書を読んでいると、なんとも気が重くなってきます。イスラエルに救いはないのか、という思いが沸き上がってきます。バビロンに仕えることはつらいし、かといって反逆すればもっとひどい目に遭うとは。しかし、エレミヤ書はただ暗いだけの書ではありません。苦難の先には驚くほどの希望のメッセージが含まれているのです。この出口の見えない、八方ふさがりの苦難の果てに、素晴らしい未来があるのです。これからの説教でそのことを見てまいりたいと思いますが、苦難が重ければ重いほど、その先の希望は大きくなるのです。そのような状況は、どこか今日私たちが置かれた状況と重なるものがあります。私たちもまた出口の見えない困難な状況に置かれてはいますが、神を信じる者にはその苦難の先には素晴らしい約束があるのです。目の前の現実に押しつぶされて、その希望を決して見失ってはいけません。神を信じ、また神の与えてくださる素晴らしい希望を信じて、今週も歩んでまいりましょう。お祈りします。

万物を統べ治め、歴史を導かれる神よ。その御名を賛美します。私たちはおろかで、しばしば自分の思いや願いを神の御心だと信じ込んでしまうような存在です。どうか主の御心を知る知恵と、それをまっすぐに受け止める素直な気持ちをお与えください。また、困難な状況の先には、希望の光があることを私たちにいつも思い起こさせてください。暑い8月が続きますが、そんな中でも私たちの今週の歩みが守られますように。私たちの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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偽りの預言エレミヤ書23章23~32節 https://domei-nakahara.com/2020/07/12/%e5%81%bd%e3%82%8a%e3%81%ae%e9%a0%90%e8%a8%80%e3%82%a8%e3%83%ac%e3%83%9f%e3%83%a4%e6%9b%b823%e7%ab%a023%ef%bd%9e32%e7%af%80/ Sun, 12 Jul 2020 06:56:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=503 "偽りの預言
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1.導入

みなさま、おはようございます。ここ数回の説教は、エレミヤ書の歴史的背景についてかなり詳しくお話しました。エレミヤが活躍した時代の状況や背景が皆さんもだんだんと掴めてきたことと思います。今日は歴史というよりも、聖書全体を通じての重要な神学的テーマである「預言」について、またその対極にある「偽りの預言」、「偽預言者」について、エレミヤ書から学んでまいりたいと思います。まず、預かる言葉と書く「預言」という文字そのものについて確認したいのですが、これは予め語ると書く「予言」、未来予告のことではないということです。「今から3年後に大戦争が起きる」ですとか、「今から1年以内に大地震が起きる」と語って、それが起きなかったらその人の予言は信用されなくなるでしょうが、だからといってその人が聖書のいう「偽預言者」かというと、直ちにそうはならないのです。つまり、聖書の言う偽預言者とは、未来の出来事を予告してそれが外れた人のことではないのです。

むしろ、「神はこう言われる」、「神は私に、あなたがたにこのことを告げるようにと命じられた」と神の名によって語りながら、実は自分の思いを語っている人、そのような人を偽預言者というのです。実際、語った内容が起きるか起きないかでその人が本物の預言者かどうかを判断するということになれば、おかしなことになります。例えば預言者のヨナ、彼は正真正銘の預言者、神から語るべきことを託された人物ですが、彼は「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」との預言の言葉を語りましたが、四十日経っても、そのようなことは起きませんでした。では、彼が偽預言者かというと、その反対です。神の御心は、この警告によってニネベの人々が悔い改め、生き方を変えることでした。そしてニネベの人たちは、ヨナの言葉を神の言葉として受け入れ、悔い改めました。ヨナは立派に役目を果たしたのです。この一例からも、預言とは未来を正確に予測することではなく、むしろ人々に警告して悔い改めを促すことで、悲惨な未来を回避させるためのことであるのがわかるでしょう。

ここからもう一つ大事なことがわかります。神はあらかじめ未来の出来事をすべて決めているわけではないということです。もちろん、世界や人々を良い方向に導こうとか、そういう大きな方針は定めておられますが、しかし人間を機械仕掛けの操り人形のように用いて、寸分の狂いもなくあらかじめ決められていた通りに歴史を動かしていく、というようなことを神はなさらないのです。神は思い直される神です。たとえ破滅を宣告したとしても、人間が心から立ち返れば、それを撤回する自由をも神は持っておられます。ですから、未来とはもう変えようのない行程表のようなものではなく、神や私たちの行動如何によって変わりうるものなのです。

このように考えると、「西暦何年何月に、これこれの出来事が起きる」というような予告は、神の預言ではないということになります。神の預言とは、あらかじめ決められた未来を語るのではなく、むしろ未来を変えること、人々の行動が変わることで悪い未来を良い未来に変えることを目的としているからです。

今日でも偽りの預言、偽預言者の問題はあります。あと何年すると世界が滅びる、というような預言は人々に強いインパクトを与えます。そして人々の関心が宗教に向かうのは、人々が現状に満足しきっている時よりも、未来に漠然とした不安を持っている時のほうが多いのです。オウム真理教には多くの高学歴のエリートたちが入信していて世間を驚かせましたが、彼らのコメントを読むと、「未来に危機感を抱いていた」ということを語っていました。また、アメリカでも20世紀の終わりにフレンチ・ダビディアン事件という多くの死者を出した事件がありましたが、これも終末が近いという預言を信じた人々が起こしたものでした。また、19世紀以降に急速に信者を獲得したグループでは、聖書研究の結果、1874年にキリストの再臨があるとか、あるいは1914年にあるとかの預言を繰り返し、外れるごとに新たな預言をする、というようなことがありました。こういう預言には気を付けなければなりません。イエス様は、自分も終わりがいつなのかは知らない、とおっしゃいました。イエス様ですらわからないことを、私たちがわかるはずがないのです。ですから、未来を知りたい、将来が不安だからこれから何が起こるのかを知りたい、というような動機から、いわゆる聖書の預言に興味を持つのは大変危険なことだと申し上げておきます。預言とは、神が人々を救うために、悔い改めて神に立ち返らせるために語るためのものであって、未来に起きる破局がいつのことなのかを私たちにこっそり教えるためのものではないのです。

このように、破滅の預言というのは人々の注目を集めやすいのですが、他方で人々に偽りの安心を与える預言というものもあります。本当は危機が目の前にあるのに、危険がない、破滅は起きない、大丈夫だ、というようなことを語ることです。こうした類の預言も、人々から支持を集めやすいのです。人間にはありのままの現実を見ようとしない、自分の見たいように現実を見ようとする、そういう傾向があり、それを自己欺瞞といいます。自分で自分をだますのです。偽りの預言は、こうした自己欺瞞にお墨付きを与えるので、人々から喜ばれるのです。エレミヤが悩まされたのは、このような類の偽預言者たちでした。

2.本文

では、エレミヤ書23章を読んでみましょう。16節以下にこうあります。

万軍の主はこう仰せられる。「あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたをむなしいものにしようとしている。主の口からではなく、自分の心の幻を語っている。彼らは、わたしを侮る者に向かって、『主はあなたに平安があると告げられた』としきりに言っており、また、かたくなな心のままに歩むすべての者に向かって、『あなたがたにはわざわいが来ない』と言っている。」

偽預言者とは、自分の思い、自分自身の考えを神のことばとして語る人なのです。また、人々の願望が何であるのかを敏感に感じ取り、彼らが喜ぶことを言って、逆に人々が嫌がること、耳の痛いことを言わないのです。「何も問題はない」ですとか、「あなたたちには災いは来ない。大丈夫です、神様はあなたに恵みを与えてくださいます」などと、耳障りの良いことだけを言うのです。もちろん、それが本当ならそれでいいのですが、もし私たちに問題があるのに、何も問題がないというのならば、どうなるでしょうか。問題はないのだと信じれば、問題はなくなってしまうのでしょうか?この問題を考える時、私はいつも20世紀後半のバブル崩壊のことを思い起こします。

日本の文化財の修繕を請け負う会社の代表取締役であり、日本に外国人観光客を増やすための政府のアドバイザーになっているデービッド・アトキンソンというイギリス人がいますが、彼はバブル経済とその崩壊の時期にはゴールドマン・サックスという投資銀行で経済アナリストをしていました。アトキンソンはこのゴールドマン・サックスでバブル崩壊後ほどなくして、日本の銀行業界についてのレポートを書き、「日本の銀行の不良債権は100兆円に達する」ですとか、「日本の銀行業界の淘汰は進み、3行に統合される」というようなレポートを書きました。それを読んだ日本の大蔵省や日本の大手銀行の幹部は激怒し、「何を根拠にこんなレポートを書くのか」とクレームをつけてきて、しまいには日本の右翼の宣伝カーが彼の勤務するビルに乗り付けてきたそうです。彼は身の危険を感じて隠れなければならなかったそうです。彼の不吉な予言が人々を激怒させたわけですが、「いや、そんなに問題は深刻ではない。大丈夫だ、日本の銀行システムは健全で、すぐに問題は回復するだろう」と言っていたアナリストも大勢いたのです。つまり、日本の銀行システムについて、まったく逆の現状分析と未来予想をしたアナリストたちがいたのです。アトキンソンはまさに「荒れ野で呼ばわる者」という感じの、みんなから嫌われる、孤独な予言者だったわけですが、しかし彼が正しかったことはその後の歴史が証明しています。私も1993年のバブル崩壊後に日本の銀行に入りましたが、それから7年ほどは不良債権問題の後始末ばかりしていた記憶があります。銀行も彼の予告通り、13行あった都市銀行の多くは三つのメガバンクに集約されてしまいました。

このように正確な未来を予想できたアトキンソンには、別に超能力があったわけではありません。ただ正確に、先入観なく日本の銀行の状態をしっかりと直視したからこそ、その将来を予見できたのです。しかし、厳しい現実を直視せずに、それを放置してしまったらますます傷は深くなり、もっと恐ろしい危機を招くことになります。

それは聖書の預言者たちにも当てはまります。神は預言者たちに、未来の出来事がいつ起きるのかを正確に知る超能力を与えた訳ではありません。しかし、彼らの預言は、それが語られた当時は圧倒的な少数意見で、それを聞く人たちを怒らせたり、あるいは人々から嘲られたりしたのですが、それでも多くの場合、彼らの語ったことは実現してしまいました。後の人々が彼らの言葉を神からの言葉として認めたのは、それが実際に実現していったのを目撃したからでした。なぜ彼らは多くの人には見えない未来を見通すことができたのでしょうか?それは、預言者たちが現状をありのままに見て、適切な現状分析をすることができたからです。しかもそれは経済分析ではなく、人々の、イスラエル民族の霊的な状態をしっかりとありのままに分析したのです。神は預言者に、神の民の霊的状態がどのようなものであるのかを見通す眼力を与えたのです。その診断に基づき、もしこのまま何もせずに現状を放置していたら何が起きるのかを人々に語ったのです。

偽預言者たちは現状をありのままには見ません。現状よりも、人々が喜ぶことは何か、それを目ざとく見つけます。そして人々を安心させようと、「心配ないですよ」と語って回るのです。しかし、彼らは「あなたは心配ないどころか、大変危険な状態にあるのだ」という神の言葉を伝えなければならないのです。ガンの患者に向かって、医者は「あなたは大丈夫だ、何も問題はない、安心しなさい」と言えば、その時はその人に喜ばれるかもしれませんが、後で必ず恨まれるでしょう。ガンも今や治る病気ですから、それを放置したせいで治るものも治らなかったといって、遺族から訴えられることすらあるでしょう。偽預言者は偽りの預言を語ったことで、彼らを信じたばかりに命を失った人々の命の責任をも問われることになるでしょう。

医者は、患者自身でも気が付いていないような病気を検査や診断で見抜くことができます。神も、私たち以上に私たちを知っておられ、私たちの行いや霊的な状態をよくご存じです。主イエスはヨハネ黙示録2章23節で、「こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる」と言われました。私たちのどんなことも、主の前に隠しおおせるものはありません。その私たちの真の状態を知らせる任務を持っているのが預言者です。私たちに本当に罪がなく、愛と信仰に溢れていれば預言者からの言葉は褒め言葉ばかりになるかもしれません。しかしもしそうでないならば、預言者の言葉が厳しくなるのは当然なのです。それは私たちの霊的状況を正確に反映しているからです。私たち神を信じる者でも、神に逆らった歩みを続け、その心が曲がっていたり冷えていたりしたら、そしてそのような現状を放置するなら、大変深刻な結果を招くでしょう。そのような結末を回避するためには、気休めではなく現状を正しく告げる真摯な言葉に耳を傾ける必要があるのです。

さて、エレミヤ書のテクストに戻りましょう。21節以降をお読みします。

わたしはこのような預言者たちを遣わさなかったのに、彼らは走り続け、わたしは彼らに語らなかったのに、彼らは預言している。もし彼らがわたしの会議に連なったのなら、彼らはわたしの民にわたしのことばを聞かせ、民をその悪の道から、その悪い行いから立ち返らせたであろうに。

偽預言者たちも一生懸命なのです。彼らは走り回り、「神がこう言われた」と語ります。しかし神は彼らに語りかけてはいないのです。では彼らがまるっきり嘘を言っているのかといえば、そうとも言えないのです。おそらく彼らは、本当に神から語りかけられたと信じていたのでしょう。今日の招詞で、第一ヨハネ4章から読んでいただきましたが、それをもう一度読んでみましょう。

愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうか、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。

このように、私たちに語りかける声、霊の世界からの声は、神からのものとは限らないのです。霊の世界にも、この世と同じように良い霊と悪い霊、神からの霊とそうではない霊が存在しています。偽預言者たちも、何らかの霊的な体験をしたのかも知れませんが、彼らに語りかけたのは悪い霊、だます霊だったのです。では、良い霊と悪い霊をどう区別すればよいのでしょうか。良い霊、神の霊にははっきりとした目的があります。「民をその悪の道から、その悪い行いから立ち返らせる」、これが神の霊の目的です。反対に、民が悪の道を歩むのを放置したり、それを容認したりするのは悪い霊の働きだということです。ヨハネも、「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか」と語っています。神の霊は、私たちを正しい行いに向かわせるのです。ですから、私たちの行いが悪い時には、神からの言葉も厳しくなるはずです。私たちの行いが悪いのに、それを容認するような預言は、神からのものではないのです。これは預言に限らず、みことばの解き明かし、つまり説教についてもそのまま当てはまることだと私は考えています。

25節以下でも、偽預言者に対する神の厳しい言葉が続きます。預言者たちは「私は夢を見た。夢を見た」と言います。夢を通じて神の御心を知る、というのは聖書的な方法で、例えば創世記ではヨセフが夢を見て、またそれを解き明かすことで未来を告げることが出来ました。しかし、夢であるなら皆神からの啓示である、ということはもちろんありません。近年の深層心理学が明らかにしているように、夢とは私たちの潜在意識における願望や不安を映し出しているだけかもしれないのです。夢とはなにかはかない、つかみどころがないものです。それが無意味だとは言いませんが、そこに神の御心を求めようとするのは大変危ういことです。それに対し、神の言葉には明確な方向性と目的があります。それは一貫して私たちを悔い改めさせ、正しい行いをするようにと促すのです。主はエレミヤにこういわれました。

夢を見る預言者は夢を述べるがよい。しかし、わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。

ここでいう、夢を語る者とは自分の思いや願望を語る人のことです。そういう人は好きなだけ自分の思いを語ればよいのです。しかし、預言者に求められるのは「忠実」であることです。人から預かったものを預けられた人は好き勝手にはできないように、神から預けられた言葉も好きなようにいじくりまわしてはいけません。ここはいいけれど、あそこは嫌だ、聞きたくないからもっと耳にやさしい言葉にしよう、というのではいけないのです。預かったものである以上、そのままの形で届けなければなりません。確かに神の言葉はそのまま聞くには厳しいものです。「わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか」と主は言われました。主の言葉は私たちの心にストレートに突き刺さるものです。それは燃える火のように激しく、岩をも砕く槌のように強力です。私たちの頑なな心を打ち壊し、罪をはっきりと示し、悔い改めに導く、そういう強さが神の言葉にはあります。夢のような曖昧なもの、どうとでも解釈できるものとは違うのです。

神は自分の考えや思いをまるで神の言葉にように語る預言者たちを盗人だと非難し、彼らに立ち向かう、と言われます。偽預言者は神を敵に回すことになるのです。32節にはこうあります。

見よ。わたしは偽りの夢を預言する者たちの敵となる。—主の御告げ— 彼らは、偽りと自慢話をわたしの民に述べて惑わしている。わたしは彼らを遣わさず、彼らに命じもしなかった。彼らはこの民にとって、何の役にも立ちはしない。—主の御告げ—

とあります。ここには重要な一言があります。「彼らはこの民にとって、何の役にも立ちはしない。」偽預言者がなぜ駄目なのか、人々に心地よいことばかりを語る自称神の遣いはなぜ問題なのかといえば、彼らは人々に何の益ももたらさないからです。確かに彼らの甘い言葉は、当座は人を喜ばす、心地よいものです。しかし、その甘い言葉のために人々は現実を直視すること、自らの問題、罪の問題と直面しなくなります。当面はこれで良くても、彼らは悔い改めのチャンスを逃してしまうので、いずれ大きなツケを払うことになります。ですから偽預言者は、神が人々を悔い改めに導き、救おうとしておられることを妨害する者だということになるのです。偽預言者に対する神からの厳しい叱責が36節にあります。

しかし「主の宣告」ということを二度と述べてはならない。主のことばが人の重荷となり、あなたがたが、生ける神、私たちの神のことばを曲げるからだ。

「主の宣告」というのは、「私は神に代わって話しているのだ」というのと同じです。しかし、皆さんもほかのだれかが自分の言葉でもないものを、「これはだれだれさんの言葉だ」などと言って吹聴されたら怒りますよね。ですから、神の言葉を語る者は、預言者であれ説教者であれ、自分の思いを語るのではなく、神の語られた言葉を忠実に語らなければならないのです。

3.結論

今日は、エレミヤ書の中で、そして聖書全体においても重要な位置を占める、偽預言者の問題と、彼らへの糾弾、告発を学んでまいりました。良薬は口に苦し、と言いますが、神の言葉も苦いのです。ヨハネ黙示録の著者も、預言の巻物を咀嚼すると、「私の腹は苦くなった」と記しています。私たちは神の言葉の中でも優しい響きのもの、慰めてくれたり励ましてくれたりするものを好みます。しかし、私たちの霊的状態がそれを許さない、ということもあるのです。ヨハネの黙示録の冒頭には、七つの教会に宛てられた主イエスからの預言の言葉があります。そのうち、主に忠実な教会への手紙は、慰めと励ましに満ちています。しかし、厳しい言葉ばかり与えられている教会もあります。では、そのような主から厳しいことばかり言われた教会は、恵みを受けなかったのかといえば、そうではないのです。それは、彼らに自分たちの真の姿がどのようであるかを見せてくれるものだからです。現実を直視しなければ、反省や悔い改めも生じようがないのです。ですから、私たちの痛いところを突いてくるみことば、私たちの耳に痛いみことばとは、私たちの霊的な健康のためにはなくてはならない良薬なのだと知りましょう。私たちがみことばをまっすぐに受け止めることができるように、祈りましょう。

天の父なる神様。説教は神のことばだと言われます。しかし、神の御心から離れて自分の思いを語ったり、神のみことばを捻じ曲げる時に説教者は偽預言者となります。どうかこの教会の講壇に立つもの、また日本の諸教会の講壇に立つものを強め、神のみことばを忠実に語る者とならしめてください。また、聞く者一人一人が、たとえ厳しい言葉であっても、主からのことばとして受け止めることが出来ますように。私たちの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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嘲られる預言者エレミヤ書17章5~18節 https://domei-nakahara.com/2020/05/10/%e5%98%b2%e3%82%89%e3%82%8c%e3%82%8b%e9%a0%90%e8%a8%80%e8%80%85%e3%82%a8%e3%83%ac%e3%83%9f%e3%83%a4%e6%9b%b817%e7%ab%a05%ef%bd%9e18%e7%af%80/ Sun, 10 May 2020 04:25:40 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=354 "嘲られる預言者
エレミヤ書17章5~18節" の
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1.導入

みなさま、おはようございます。エレミヤ書からの説教は今日で三回目になりますが、第一回は1章から、第二回は2章からだったのに、今日はいきなり17章にまで飛んでしまうのか、と驚かれたかもしれません。そこで、この点について少しお話させていただきたいと思います。エレミヤ書は、預言者エレミヤの40年にも及ぶ活動を記録していますが、エレミヤ書は年代順に書かれているのではありません。例えばエレミヤ書の7章には、エレミヤがだいたい40歳のころの有名な『神殿での説教』が収録されていますが、その話の続きはいきなり26章にまで飛んでしまうのです。そして7章と26章の間には、いろいろな場面の様々な預言が含まれています。どうしてそうなのかと言えば、エレミヤ書とは、エレミヤが自分で書いたものではないからです。エレミヤが死んだ後に、彼のお弟子さんたちが師匠の預言の言葉を集めて、それを一つの書にまとめたのです。そしてお弟子さんたちはエレミヤの言葉を年代順には並べませんでした。エレミヤの若いころの言葉と、様々な経験を経て熟練の預言者となった時の言葉とを、一緒にしている場合が多いのです。ですからエレミヤ書を深く理解するためには、エレミヤのそれぞれの言葉がどんな状況において語られたのかを知る必要があるのです。

今日はエレミヤ書17章のみことばを朗読していただきましたが、この部分はもっと前半の部分の預言と併せて読むことで意味が分かってまいります。そのようなわけで、今日の説教は17章だけではなく、エレミヤ書1章など、ほかの関連する部分と併せて読んでまいります。

2.本文

前にもお話ししましたが、エレミヤは彼の祖国ユダ王国と、その首都エルサレムが滅びる時代に生きた預言者でした。ですから彼の預言には滅亡を予告するようなものが少なくありません。しかし、エレミヤのことを、滅亡を予告してその通りに的中したのだから、彼は神によって未来を予知する力を与えられたすごい預言者なのだ、と考えるのだとしたら、正しくはありません。それは聖書の「預言」を誤解しています。

いつの時代にも、滅亡予言というのは人々の注目を集めます。私が子どものころは、「ノストラダムスの大予言」というのが流行りました。その予言によると、1999年に人類は滅亡するというのです。しかもノストラダムスの予言の的中率は、99.9%だと書かれていました。そうなると、自分が30歳になる前に人類は滅亡してしまうのか、と子ども心に恐ろしかったのを覚えています。しかし、1999年は何事もなく過ぎていきました。今ではノストラダムスのことなど、誰も言わなくなってしまいました。

けれどもエレミヤの預言は、こういう破滅予言とは根本的に異なるものなのです。確かにエレミヤの預言にも、破滅を告げているようなものがあります。エレミヤが初めに神から与えられた預言とは、ユダ王国に向かって北の方から恐ろしい敵が襲ってくる、というものでした。その部分を読んでみましょう。エレミヤ書の1章の13節です。

再び、私に次のような主のことばがあった。「何を見ているのか。」そこで私は言った。「煮え立っているかまを見ています。それは北のほうからこちらに傾いています。」
すると主は私に仰せられた。
「わざわいが、北からこの地の全住民の上に、降りかかる。今、わたしは北のすべての王国の民に呼びかけているからだ。-主の御告げ-
彼らは来て、エルサレムの門の入口と、周囲のすべての城壁と、ユダのすべての町に向かって、それぞれの王座を設ける。」

神がエレミヤに示した幻、それは「煮え立っているかま」でした。煮えたぎるかまが北から傾いきて、その熱湯が今にもユダ王国の人々の上に吹きこぼれてきそうなのです。ぞっとする、禍々しいイメージです。この煮え立ったかまとは、北から襲ってくる外国の軍隊を表しています。人々にやけどを負わすような外国の軍隊が北の方角から来るということです。当時の南ユダ王国の人々は、北と聞けばただちにアッシリア帝国を思い浮かべました。南ユダ王国の北に位置するアッシリアは、今で言えばアメリカのような超大国であり、南ユダ王国は過去に何度もアッシリアに痛めつけられてきました。そのアッシリアが攻めて来ると、エレミヤが予告していると人々は思ったのです。

しかし、エレミヤが預言を始めたちょうどそのころから、アッシリアの力は急に弱くなりました。むしろアッシリアは外国の軍隊に攻められたり、あるいは自国の領土内で反乱が起きたりして、ユダ王国を攻めるどころではなくなっていきました。そうすると、初めにエレミヤの預言を聞いて怖がった人たちは、逆に「なんだ、あいつの言っていることは全然実現しないじゃないか。北からの脅威なんてどこにあるのだ。アッシリアは今にも滅んでしまいそうだ。エレミヤは偽預言者に違いない」と思うようになったのです。

このために、エレミヤは苦しい立場に追い込まれることになります。見張りの人が、「敵が来るぞ、来るぞ」と叫んで人々に警告しながら、結局その敵が襲ってこなかった場合、見張りの人は信用を失います。いわゆる「オオカミ少年」になってしまうのです。エレミヤの場合もそうでした。そこで人々は、災いの言葉を語る若き預言者を嘲るようになります。今日お読みいただいた、エレミヤ書17章15節にはそのことが書かれています。

ああ、彼らは私に言っています。
「主のことばはどこへ行ったのか。さあ、それを来させよ。」

人々はエレミヤに「北からの脅威とやらはどこにあるのか。さあ、その北からの敵とやらを連れて来るがよい。そうすればお前のことを神の預言者だと認めてやろう。」と言ってからかいました。しかし、そのようにはやし立てるイスラエルの人々は、そもそも「神の預言」とは何であるのかを理解していなかったのです。

ここで、「預言」とは一体何か、考えてみましょう。聖書の預言とは、「未来予知」のことではありません。これは非常に大事なことです。未来予知というのは、1年後の何月何日に大地震が起こるとか、あるいは2年後に何月に戦争が起きるなど、未来の出来事を前もって語る、予知することです。一種の超能力です。私には人間にそのような力があるのかどうか、分かりませんが、聖書に登場する預言者たちがそのような超能力集団のことではなかったのは明らかです。なぜなら、神の預言とは、人々に二つの道を示すことだからです。神の預言とは、あらかじめ決められている未来のことを予告することではありません。むしろ、神に従う道と、神に逆らう道、それぞれの道を選んだ場合の行く末を示すのが預言なのです。神に逆らい続けると、最後には破局が待っています。預言者たちが示す破局のヴィジョンとは、「もし、あなたが神に逆らい続けるのなら、こうなる」という一つの可能性を示すものです。他方で、そうならない可能性も残されているのです。ですから、預言者たちの語ることは、未来予知という意味では百発百中ではありません。例えば預言者ヨナは、神から「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」という預言を与えられましたが、それは実現しませんでした。しかしこれは神の予告が外れた、成就しなかったというのではもちろんありません。神の預言には、常に「もし」、イフという条件が付いています。もし悔い改めず、もし神に背を向け続けるなら、このようなことが起きる、けれども、もしあなたが神に立ち返るなら、そのことは起きない、という別の未来も示されているのです。ですから、神は私たちの思いや行動を無視して、何もかも未来をあらかじめ決めているのではありません。むしろ、私たちが悔い改めて、神に従う道、神と共に歩む道を選んでほしいと願っておられるのです。そのためにこそ、預言者が遣わされるのです。

預言者の役割とは、何年後の何日に、外国から敵が襲ってくる、などと未来予知をすることではありません。むしろ預言者は、そのような不幸な事態が起きないように、今悔い改めなさい、今直ちに行動を起こしなさい、と人々に促しているのです。正しい行動、神に立ち返るという正しいアクションを今起こすように、人々を説得するために、あえて厳しい未来のヴィジョンを示すのです。エレミヤもそうでした。エレミヤは医者のようなものです。医者は、不養生な生活を続けている人に、「そんな生活を続けていたら、病気になるよ」と警告します。果たしてその人が病気になってしまった場合、その医者の予言が当たった、ともいえるでしょうが、それは私たちが普通考える「予言の成就」とは意味が違うでしょう。エレミヤは、神からイスラエルの人々の霊的な状態を正しく診断する洞察力を与えられていました。このような霊的な病、罪の状態を放置すれば、とんでもないことが起きると、そのように警告するのが彼の役目でした。ですから、いつ、何時間分に、どの方角から、どのような民族が襲って来るのかを言い当てるのが彼の役目ではないですし、ましてやエレミヤはそのような不幸な出来事が起こるのを望んでもいなかったのです。エレミヤ書の17章16節には「私は、いやされない日を望んだこともありません」とありますが、これを読むとエレミヤが自分自身について癒されない日を望んだことがない、というように読めます。しかしこの文の意味は、新共同訳の方が正しく捉えているように思います。新共同訳では「わたしは、災いが速やかに来るようあなたに求めたことはありません。痛手の日を望んだこともありません」となっています。つまりエレミヤは、自分が語った破滅の預言が人々の上に早く成就して、自分が本当の預言者であることが人々に認められるようになる、そんなことを望んだことはありません、と言っているのです。エレミヤの願いとは、彼の預言を聞く人々が救われることだったからです。エレミヤが災いの預言をしたのは、人々が不幸になることを予知したわけでも、求めたわけでもなく、人々を救うために神からの警告の言葉を伝えたのです。それなのに、間抜けな偽預言者であるかのように人々からあざけられ、エレミヤはどれほど深く傷ついたことでしょうか。二十歳そこらで預言を始めた、感受性の強い若きエレミヤにとって、そのようなあざけりは耐えがたいものだったことでしょう。エレミヤは苦悩しました。しだいに彼の人々を見る目も厳しくなっていきます。9節では「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」とまで語ります。人間の心はねじ曲がっていて、神のまっすぐな言葉を受けいれられないのだと。そして、18節では「彼らの上にわざわいの日を来たらせ、破れを倍にして、彼らを打ち破ってください」と嘆願しています。先に人々に災いが降り注ぐことを望まないと語ったエレミヤですが、今や神に、「彼らに倍返しにしてください」とまで願うほどにまで追い込まれていたのです。特に若いころのエレミヤには、このような人間臭さといいますか、自分の中に沸き上がる感情を押さえられないようなところがあります。またこうした正直さ、率直さというのがエレミヤの魅力でもあるのですが、ともかくも、預言者も生身の人間なのです。人々の心ない中傷に耐えられなかったのです。

神も、エレミヤの苦悩をよくご存じでした。しかし、エレミヤの預言が正しいことを実証するために、裁きを速やかに実行するようなことはなさいませんでした。むしろエレミヤに預言を与えた後も、何十年もの間は待っておられました。神も、御自身の破滅の予告が成就せずに、むしろ人々が悔い改めてご自分に立ち戻ることを願っていたからです。しかし、エレミヤの預言は遂に実現していくことになります。彼が預言を始めてからちょうど40年後の紀元前587年に、エレミヤの預言通りにエルサレムは北からの脅威、つまりバビロニア帝国によって徹底的に破壊され、壮麗なソロモン神殿は灰燼に帰したのです。40年と言うのはずいぶん長い期間です。しかも、この預言が実現した時に、エレミヤは預言者としての役目を終えました。彼は自分の預言が実現したことで、少しも喜びませんでした。これで偽預言者などと、馬鹿にされることもなくなる、それ見たことか!などとは決して思わなかったのです。むしろ彼は自分の預言が成就してしまったことを心から悲しんでいたのです。

そして40年というのも、神の忍耐の時でもありました。神は、イスラエルの人々が悔い改めるかもしれないと、辛抱強く待っておられたのです。実際、イスラエルの人々には破局を逃れるチャンスはあったのです。神はこの40年間の間、何度もエレミヤを通じて救いの道を伝え続けましたが、人々は従おうとはしませんでした。そしてついに、エレミヤの預言者としての40年の活動の最後の年に、預言は実現したのでした。

3.結論

さて、今日はエレミヤの北からの脅威の預言について、歴史的な背景を踏まえて考えて参りました。ここから、今日に生きる私たちが受け取るべき教訓について考えてみたいと思います。

まず学ぶべきことは、神の預言とは、変えようのない未来の告知でも、未来の予知でもないということです。預言とは二つの可能性を示すことです。神に従って命を得るのか、神に背を向けて滅びに向かうのか、そのどちらかです。人々にはそのどちらを選ぶ可能性も残されています。神は人々がどちらの道を選ぶのかを見守り、そして人々が正しい道を選ぶようにと熱心に促します。しかし、それでも人々が背を向け続ける時に初めて、その破滅の預言が現実のものとなっていくのです。けれども、その預言が成就しないという可能性も残されています。人々が神に立ち返れば、神は思い直されるのです。これは私たちにとっても教訓を与えます。新約聖書にも、ヨハネ黙示録などに恐ろしい滅びの描写がたくさんあります。今回のコロナ問題や、あるいは現在大量発生しているバッタの大群などの恐ろしいニュースを聞くと、ヨハネ黙示録の預言が実現しているのではないか、と心配される方もいます。そうかもしれないし、そうでないかもしれません。しかし、私たちが悔い改めれば、聖書の恐ろしいヴィジョンも実現しないという未来もあるのです。聖書の預言が曖昧で、どうにでも解釈できる部分があるのは、それが未来予知ではなく警告だからです。私たちがその警告を真剣に受け止めれば、破局は回避できるのです。

また今日の箇所から、預言者という責務の困難さを学びました。預言者は決して人々が破滅することなど望んでいません。人々が幸いを見出す、正しい道を歩んでくれることを望んでいます。預言者の言葉が厳しいのは、人々に不幸が降りかかってほしくないからです。預言者は、人々が間違った道を選んだ結果について語らずにはいられません。たとえ、その言葉が人々を苛立たせたり、あるいは人々からの嘲りを招くとしても、語らなくてはならないのです。それは救いの可能性が残されているからです。キリスト教の福音を語る場合にも、同じ問題があります。福音とはグッド・ニュース、良い知らせですが、それを拒む人にはバッド・ニュースになってしまいます。福音も、人々に二つの道、神と共に歩むのか、神に背を向けて歩むのか、その二つの道を示すものだからです。ですから福音を語る、というのは簡単なことではありません。神を受け入れても、拒んでも、どっちでもいいよ、好きな方を選べばいいんだ、というような安易な話ではないからです。福音を聞いた人は、選択を、決断を迫られるのですが、それはあまり気持ちのよいものではないのです。何か重大なことを自分で決めなければならない、というのは楽ではないからです。誰かに決めてもらったほうが楽なのです。しかし、福音を受け入れるか拒むかは、まさに個人の決断です。他の人に決めてもらうわけにはいきません。ですから、福音を語る側も真剣に語らなければなりません。私たちは語るだけでなく、生き方によって「神と共に歩む」とはどういうことなのかを示さなければなりません。こう考えると、私たちの生き方そのものが福音伝道なのだと思わされます。人々は、私たちが語ること以上に、私たちが実際にどう行動するのかを見ているからです。行動の伴わない言葉は力を持ちません。ある人に、「愛しているよ」と100回言っても、その人のために何もしなければ、人はその愛を疑うでしょう。信仰も同じです。私たちの神への信仰は、行動によって初めて本物となるのです。そしてそれが人々への伝道、証しになるのです。この困難な時代にあって、神の証し人として生きる力が与えられるように祈ります。

私たちに命と滅びの二つの道を示し、命の道へと招いてくださる神よ。あなたを賛美します。今朝は、預言者エレミヤの言葉と生き方を通じて、預言とは何であるのか、また預言の言葉を担う預言者の貴くも困難な務めについて学びました。私たちも神から召された者として、人々に福音を伝える務めを頂いております。どうか私たちがその生き方によって、神と共に歩むということの意味を人々に伝えられるように、力を与えてください。今週も困難な状況の中での歩みが続きますが、どうか私たちを守り、強めてください。我らの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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