結婚 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 調布 深大寺のプロテスタント教会 Sun, 07 Feb 2021 07:06:12 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.3.20 https://domei-nakahara.com/wp-content/uploads/2020/03/cropped-favicon-32x32.png 結婚 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 32 32 危機の時第一コリント7章25~40節 https://domei-nakahara.com/2021/02/07/%e5%8d%b1%e6%a9%9f%e3%81%ae%e6%99%82%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%82%b3%e3%83%aa%e3%83%b3%e3%83%887%e7%ab%a025%ef%bd%9e40%e7%af%80/ Sun, 07 Feb 2021 06:56:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=1230 "危機の時
第一コリント7章25~40節" の
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1.導入

みなさま、おはようございます。第一コリント7章からの、三度目の説教になりますが、今日の箇所はその中でも最も難しい箇所です。と、いきなり皆さんを身構えさせるようなことを言ってしまいましたが、できるだけわかりやすくお話ししたいと思います。では、いったい何が難しいのかといえば、こう考えていただきたいのです。今から百年後の人たちが、今の状況下で私たちのやりとりしている手紙を読んだとします。そこには、「今の緊急事態の下では」というようなことが書かれています。私たちは「緊急事態」といえば、何の説明もなくても、「ああ、コロナのことだな」とすぐにわかります。しかし、百年後の人たちは、きちんと歴史の勉強をしないと、私たちが何のことを言っているのかわからないでしょう。そうはいっても、現代は大変な情報社会なので、百年後の人たちも今の時代の状況については有り余るほどのデータや資料があり、簡単に調べられるでしょう。それに対し、私たちは二千年前の時代に架かれた手紙を読んでいます。その時代の状況を説明してくれる文書は断片的で、数も非常に少ないのです。ですから、パウロが26節で言っている「現在の危急のとき」というのはいったい何のことなのか、確実にどうだとは言えないのです。そういう歴史上の難しさがあります。

また、ここでパウロの書いているギリシャ語もなかなか難しく、日本のいくつかの聖書を比較すると、訳がかなり違っているケースがあります。私たちが使っている新改訳の第3版の訳が必ずしも正しいとも言えませんので、私も原文のギリシャ語を確認しつつ、いったいどの訳が妥当なのかを説明しながら話していきます。ですから、今日の箇所の訳については皆様に別途プリントで私の私訳をお渡ししましたが、そちらも参考にしながら話を聞いていただきたいと思います。

さて、本日の聖書箇所である25節以降を詳しく見ていく前に、これまでの7章の箇所をざっと振り返ってみましょう。まず7章の1節から16節までは、主に既婚者に向けての勧告がなされています。既婚者と言っても、連れ合いに先立たれて一人になったケースについても書かれているのですが、基本的には結婚を一度は経験した人たちがその後の夫婦生活をどうするべきか、また再婚についてどうするべきか、それらの様々なケースについてパウロの具体的な勧告が与えられていました。そして先週の17節から24節までは、結婚の問題を離れて、人種の問題や社会的身分の違いについて、クリスチャンはどう考えるべきか、ということをパウロは書いています。

こうした様々な問題を取り扱いつつも、パウロは一貫した教えを与えてきました。それは、「召されたときの状態にとどまっていなさい」ということでした。神に召される、つまりイエス・キリストを信じるようになったときに、結婚している人は結婚したままでいなさい。配偶者がクリスチャンであってもなくても、その結婚にとどまりなさい。連れ合いに先立たれて一人になったときに信仰に入った人は、できれば一人のままでいなさい。神に召された時に奴隷だったならば、そのことを気にせずに奴隷という身分にとどまりなさい、という勧告を繰り返しています。ではなぜ召された時の状態にとどまるべきか、ということの理由について、今日の箇所では「今が危急のときだからだ」ということが強調されています。先週の箇所では、自分の社会的立場を少しでも高めようと、そういうことばかりに関心が向かってしまうと、仕え合うというキリスト者としての生き方の基本が損なわれてしまう、そのことをパウロが懸念していたのだ、ということをお話ししましたが、今日の箇所ではむしろ当時のコリント教会の人々が置かれていた状況が切迫しているからだ、ということが言われているのです。では彼らはどんな状況に置かれていたのか、そのことを考えながら今日の箇所を詳しく見ていきましょう。

2.本文

さて、今申しましたように、7章でパウロが繰り返した原則的な教えとは、「信仰を持ったときの状態にとどまりなさい」というものでした。結婚している人は結婚したままで、一人の人は一人のままで、ということです。では、婚約中の場合はどうなのか、ということについてパウロは語り始めます。婚約という状態は、結婚はしていませんが、さりとて一人でいるわけでもありません。「召された時の状態にとどまっていなさい」というパウロの教えは、この婚約中という、いわばどちらとも取れる状態の場合にはどのように適用されるべきなのか、ということが問題になっているのです。ずっと婚約中という、長すぎる春の状態を続けるわけにはいかないので、そのまま結婚すべきか、あるいは一人のままでいるべきか、どうすべきかという問題をパウロは論じているということです。 

25節の冒頭には「処女のことについて」とありますが、この訳ですとここでは未婚の若い女性のことだけが問題にされているように思われるでしょう。しかし、処女と訳されているパルセノスという言葉は未婚の男性にも使われることばです。ですからここは、未婚の男女、特に婚約中の男女を指していると考えられます。最新の聖書役である聖書協会共同訳や、最新の新改訳である2017年版でも、ここは「未婚の人」と訳されています。ですからパウロはここで、主を信じたときに婚約中の男女については、ということを言おうとしているのです。

パウロはこの件については主イエスの明確な指示はない、ということを断っています。主イエスは、離婚することを禁じました。当時のユダヤ社会では、夫の方だけが妻を離縁できるという不平等、男尊女卑のような制度が行われており、モーセの律法もそれを容認していましたが、主イエスは男性が一方的に離縁することを禁じたのです。パウロはこの主イエスの教えに従って、10節以降で勧告しましたが、婚約中の場合については主からの指示はないので、パウロは自分自身の意見だと断った上で、この件について語り始めます。

パウロはまず、「現在の危急のときには」と言います。しかし、ここは別の訳もあり、新改訳2017では「差し迫っている危機のゆえに」となっていて、聖書協会共同訳でも「現在迫っている危機のゆえに」となっています。つまり、どちらも「これから到来するであろう危機の時が近づいている」という風に解釈しています。これは「エネステイミ」という言葉が「今既にある」とも「これからすぐに来る」とも、どちらの意味にも解せるからです。また、「危急」とか「危機」と訳されているアナグケイという言葉には、「苦難」、という意味もありますが、基本的な意味は「緊急の必要」ぐらいの意味であり、危機と訳せないこともない、というほどの意味合いです。ですからここは、「現在の緊急の必要性のために」と訳すこともできるのです。そこで26節を私なりに訳すと、「現在の緊急事態を鑑みれば、婚約中の男性はそのままで、つまり結婚しない状態にとどまる方がよいのです」ということになるでしょう。

では、ここで言われている緊急事態とは何か?といえば、一つの可能性は飢饉です。当時の文献を調べますと、コリントのあるアカイア州は当時繰り返し厳しい飢饉に苦しめられていました。大富豪の篤志家が私財を投じて人々を飢饉から救ったことへの感謝の碑文も残されています。そのような観点からは、「食うにも事欠くような厳しい食糧事情に鑑み、今は結婚を控えた方がよいでしょう」、とパウロは言っていることになります。しかし、「緊急事態」とは単に飢饉だけを指しているのではないのかもしれません。飢饉の先にある、もっと恐ろしい事態を考えていた可能性もあります。たとえば主イエスの有名な言葉を思い出してみましょう。マルコ13章では、主イエスは終わりが来る兆候として「方々で地震があり、ききんがあります」と語っています。当時の地中海世界では大きな地震がいくつかありましたので、地震とききんに直面したクリスチャンたちは、「いよいよ主イエスが語られた終わりが来るのか」と思ったのかもしれません。そうだとすると、飢饉だけでなく、これからさらに大きな苦難が来ることになるので、苦難に耐えられるように身軽な独り身がいい、と考えたということもあり得ます。しかし、マルコ13章に書かれている前兆は、世界の終わりの前兆ではなく、エルサレムとその神殿体制の終わり、エルサレムの崩壊の前兆なのです。このことは別の機会に改めてお話ししますが、マルコ13章は、少なくとも30節までに関しては、世界の終わりについての予告ではない、ということだけは言っておきます。しかし、今日でもマルコ13章は世界の終わりの予告だと考える人が少なくないように、聖書のいわゆる終末預言には、どの時代にも当てはまってしまう、どのようにでも理解できてしまう曖昧さがあります。もし世界の終わりの前兆が、地震と戦争と飢饉と疫病であるなら、パウロが生きた時代と全く同様に、私たちが生きている21世紀前半はまさに終わりの前兆を示していることになります。今日のクリスチャンの中にも、コロナ問題がヨハネ黙示録に予告された神の裁きであり、世界の終わりの前兆なのだと信じる人たちがいます。パウロの時代にも、頻発する飢饉を世の終わりの前兆、キリストの再臨の前兆として捉えた人もいたでしょう。パウロ自身もそのように考えていたのかもしれないのです。先週もお話ししましたが、世界の終わりはいつなのかは誰にも知らされていません。使徒パウロもペテロも、イエス様ですらその時がいつかは知らないのです。ですから、パウロは終末が近いと考えていて、実際には終末が来なかったとしても、それでパウロが間違えたということにはなりません。終末は盗人のように、前兆なしに突然やって来るとイエスははっきりとおっしゃっています。私たちはそれがいつかは分からなくても、それに備えなければなりません。パウロは、そのような意識が私たちよりずっと高かったのです。主イエスの再臨が近いかもしれないので、これから多くの苦難が降りかかるだろう、だから婚約中の男性は一人のままでとどまっている方が良い、それが26節の意味だと思われます。

次の27節も難しい箇所です。この訳ですと、「結婚している男性は妻と離婚したいと願ってはいけません。結婚していない男性は、結婚したいと思ってはいけません」というような意味になります。しかし、ここでも妻と訳されている「グネイ」は単に若い女性という意味にも解することができます。ですから必ずしもこの箇所は、すでに結婚している人のことを言っているのではありません。むしろ、「婚約の誓いに縛られている男性は、その誓いを解こうとしてはいけません。しかし、婚約の誓いに縛られていないのなら、結婚しようとしてはいけません」と訳したほうが、前後の文脈からはこの方がずっと分かりやすいのです。つまりパウロは、婚約中の男性は、その婚約の誓いの重さに応じて結婚するかどうか決めるがよい、と言っていることになります。

28節には「しかし、たといあなたが結婚したからといって、罪を犯すのではありません」とあります。これは、パウロが婚約中の男性は結婚しない方がよいとアドバイスしているのに、結婚を決意した男性がパウロに対して後ろめたさをもってしまうとしたら、それは気にしないでいいですよ、とパウロは言っているのです。しかし他方で、「ただ、それらの人々は、その身に苦難を招くでしょう」ともクギを刺します。

これを直訳すると「肉に苦難を持つでしょう」となります。この言葉は、主イエスが終わりの時を予告するマルコ13章のオリーブ山の講話で「苦難」に使っているのと同じ言葉です。そこをお読みします。19節です。

その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。

もしパウロがこのイエスの言葉を念頭に置いて話していたとするのなら、ここでは単に「結婚するといろいろ苦労するよ」というようなことを言っているのではなく、むしろ「結婚すると、ただですら大変な艱難の時がより一層耐えがたいものになりますよ」と警告していたことになります。

そして29節の言葉には、さらに厳粛な響きがあります。「兄弟たちよ。私は次のことを言いたいのです。時は縮まっています。」この「時は縮まっています」は、新共同訳では「定められた時は迫っています」となっています。「迫っている」と「縮まっている」とではだいぶ意味が違います。「迫っている」ですとこれから到来する時、という感じですが、「縮まっている」ですと、既に始まっている時が短縮されるというような意味だからです。ここでの原語は「短くされている」となっています。そして「時」とはカイロスという言葉で、単なる時間というより特別な期間、というような意味合いを持つ言葉なので、ある特別の期間が短くなっている、ということでしょう。パウロはローマ人への手紙でこう書いています。「私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです」(13:11)。ここでいう「救い」とは、主が私たちの救いのために天から戻られること、つまり再臨を指していると思われます。このローマ書の言葉からも、この29節の「時は縮まっています」というのは再臨に至るまでの終わりの時の時間は短くなっているのだ、という意味だと考えてよいでしょう。パウロは31節でも「この世の有様は過ぎ去るからです」と言っていますが、ここでは現在形が使われています。パウロは現在の世界のありようや形が、主の来臨によって過ぎ去るのがきわめて近いと信じていたのが分かります。ですからあまりこの世の事柄にこだわりすぎるな、深入りしすぎるな、というのがパウロの助言なのです。妻のある者は妻のない者のようにしろとは、新婚ほやほやの夫は妻のことばかり考えるでしょうが、しかしこの緊急時にはそればかり考えているわけにもいかないのだ、とパウロは注意しています。この世の事柄で喜んだり、悲しんだり、あるいは将来のために蓄財することは平時であれば大事なことでも、この世の終わりが近いという緊急の時にはそれらは相対的な意味しかないのだ、とパウロは訴えかけているのです。

しかし実際には、パウロの生きている間には世の終わりも主の再臨も実現しませんでした。それから二千年が経ちましたが、たしかにこの世の有様は二千年前とはまったく様変わりしているものの、主の来臨による決定的な世界の変革は起きてはいません。人々は相変わらず食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしています。主の来臨の約束はどうなったのか、と人は言うかも知れません。

しかしここに重要な教訓があります。パウロほどの人でも、主の来臨がいつなのかは分からなかったのですから、私たちにはなおのことそれが分かるわけがない、ということです。これは先週もお話ししましたが、大事な点なのでもう一度強調したいと思います。いつ主が来られるのか、いつ世界が終わるのかといろいろ憶測をするのは無駄なことだということです。これまでも、キリスト教徒と呼ばれる人たちの中ですら、何年に再臨があるとか、いつ世の終わりがくるなどと予告した人たちがたくさんいます。特に、イスラエルが1948年に再び国家として登場してからは、終末が近いと盛んに喧伝する福音派グループがあります。こういう人たちは大きな注目を集めますが、いままで当たったためしがありません。ですからそんなことをいう人たちに惑わされず、私たちはあわてず騒がず落ち着いて暮らすべきです。しかし、他方でそれがいつ起きても不思議ではない、という緊張感も持つべきです。その意味で、パウロのいうように、あまりにもこの世の事にこだわりすぎる、深入りしすぎないことも大切でしょう。この世の事柄を相対的に見るクールさが必要だということです。この世での成功とか、ステイタスを上げることばかりに血道を上げると、本当に大切なことを見失う危険があるということです。この世の有様はいずれ過ぎ去る、ということも真理なのです。つかず離れず、という言葉がありますが、私たちのこの世とのかかわりにもどこかそういうバランス感覚が必要なのではないでしょうか。

31節以降は、このような終末的な見方から、パウロは非婚のすすめをしています。婚約中で結婚するかどうか迷っている人に対し、できれば結婚しないに越したことはない、ということを書いています。なぜなら、特に新婚の夫婦の場合、彼らの日々の関心事はどうすれば妻を、また夫を喜ばせられるか、ということに集中してしまい、主を喜ばせるというキリスト者の目的がおろそかになってしまうからだ、というのです。

しかし、パウロは非常に現実的な人でもありました。主にひたすら仕えるために一人でいる方がよい、といいながら、人間の現実はそんなに簡単に割り切れるものではないことも良く知っていました。36節にはこうあります。

もし、処女である自分の娘の今期も過ぎようとしていて、そのままでは、娘に対しての扱いが正しくないと思い、またやむをえないことがあるならば、その人は、その心のままにしなさい。

とあります。これだけ読むと、結婚適齢期の娘を持つ父親への助言のように見えます。婚約中の自分の娘が婚期を逃してしまうのは可哀そうだと思うなら、娘を結婚させてあげなさい、というような助言に見えます。しかし、この訳には大きな問題があります。といいますのも、最新版の新改訳2017では、この訳を全く違うものに変えているのです。それをお読みします。

ある人が、自分の婚約者に対して品位を欠いたふるまいをしていると思ったら、また、その婚約者が婚期を過ぎようとしていて、結婚すべきだと思うなら、望んでいるとおりにしなさい。

この訳では、年頃の娘を持つ父親のことではなく、むしろ年頃の娘と婚約中の男性について話していることになります。どちらの訳が正しいかといえば、最新版の新改訳2017の方だと思われます。ですからここで言われている「自分の婚約者に対して品位を欠いたふるまいをしている」というのは、結婚までに相手の女性への思いが抑えられなくなってしまい、一線を越えることだと思われます。今の日本では「婚前交渉」などという言葉は死語になっていて、結婚前の性行為は当たり前のようになっていますが、パウロの時代のギリシャの人々はそこまでオープンではなかったのです。婚前交渉は品位を欠いたふるまいだと見なされていました。パウロは、そんなことになってしまうなら早く結婚しなさい、と非常に具体的なアドバイスをしているのです。ここにパウロの柔軟さといいますか、物分かりの良さを感じます。彼はこちこちの原理主義者ではなく、人間の現実というものをよくわきまえていたのです。しかし、この場合でも「結婚しないほうがもっとよいのです」というアドバイスを繰り返しています。

さて、パウロは12節で未信者同士の夫婦の片方が信者になった場合、その片割れが未信者だからといって離婚をするのを禁じました。しかし、未信者の配偶者が亡くなった場合は再婚してもよい、と言います。それについて39節では「ただ主にあってのみ、そうなのです」となっていますが、この意味もなんだか分かりにくいです。ここは新改訳2017では「ただし、主にある結婚に限ります」となっています。この方が分かりやすいですね。つまり、配偶者が死別して再婚する場合、相手はクリスチャンに限るということです。夫婦の片方だけがクリスチャンというのは、未信者同士の夫婦の片方が信仰に入ったと言う場合の例外的な状態であり、原則は夫婦共にクリスチャンであるべきだ、というのがパウロの教えなのです。それでも最後にパウロは、再婚せずに一人でいるほうがもっと幸いだ、とこれまでの主張を繰り返しています。

3.結論

今日は「危機の時」と題して説教をさせていただきました。ではその「危機」とは具体的には何なのか、ということをパウロは明確には語りませんが、それは主の再臨が近づく時に世界が体験するであろう「生みの苦しみ」を指すと思われます。しかし、繰り返しますが、再臨がいつなのかということは誰にも分かりません。ですからあわてず騒がず、しかし同時に緊張感を持って日々の生活を送りなさい、というのがパウロの教えです。パウロは決して結婚に否定的ではありませんが、しかし一人であろうと結婚していようと、その人の人生の目的は「ひたすら主に仕えることだ」ということを強調しています。具体的な判断は、それぞれの人の賜物による、というのがパウロの教えです。パウロによれば、一人でいることが出来るのも神の賜物であり、そのような賜物が与えられていない人は早く結婚すべきだ、という非常に具体的で現実的なアドバイスをしています。

結婚に限らず、クリスチャンとしてどう生きるのかを考えるとき、自分にはどのような賜物が与えられているのかをしっかり捉えることは非常に大切です。「善かつ忠なる僕よ」と終わりの日に主からお褒めをいただけるように、今週も各人の賜物を活かして主と共に歩んで参りましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様。これまで三回にわたって、第一コリントの7章を学んでまいりました。「あなたがたは召されたときの状態にとどまっていなさい」というのがパウロの原則的な教えでした。パウロの生きた時代と、私たちの現在の世界とは大きく異なっていますが、どうかこの学びで得たことを私たちの日々の生活に生かす知恵をお与えください。私たちの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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結婚について第一コリント7章1~16節 https://domei-nakahara.com/2021/01/24/%e7%b5%90%e5%a9%9a%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%82%b3%e3%83%aa%e3%83%b3%e3%83%887%e7%ab%a01%ef%bd%9e16%e7%af%80/ Sun, 24 Jan 2021 00:12:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=1182 "結婚について
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1.導入

みなさま、おはようございます。早いもので、第一コリントからの説教も11回目になります。今日の箇所から、パウロは新しい問題を取り扱います。7章の冒頭に、「あなたがたの手紙に書いてあったことについてですが」とありますが、パウロはここから、コリントの人たちがパウロに手紙を送って尋ねてきたいろいろな質問に対して答え始めます。これは逆に言えば、この第一コリントの1章から6章までにパウロが取り扱ってきた問題は、コリントの人々がパウロに尋ねてこなかった内容、むしろパウロに隠しておきたかった内容だ、ということになります。それはそうですね。自分たちが派閥を作って内部抗争を繰り返しているとか、教会員の中で、自分の義理の母親と性的関係を持ってしまった人がいるとか、はたまた売春宿に通っている教会員がいるとか、そんなことがパウロの耳に入れれば、パウロが怒るに決まっています。ですから彼らはそれらをパウロの耳に入れたくなかったのです。またパウロは当時、アジアの大都市エペソにいましたから、パウロに手紙を送るとその内容がエペソの教会の人々にも伝わってしまい、自分たちコリント教会の恥が白日の下にさらされ、彼らからは軽蔑されてしまうだろうという不安を抱いたのです。ですから彼らはパウロに手紙を送ったとき、こうした内容には蓋をして、7章以降に書かれている、もう少しまともなというか、穏便な質問だけを書き送ったのです。

しかし、彼らのそのような隠れた意図を、パウロはお見通しでした。パウロはこのコリントの教会への手紙を書くときに、彼らがいろいろ質問してきたことについて、この7章になってようやく答えを書き始めます。そして、私たちがこれまで読んできたその前の箇所、つまり1章から6章までは、彼らの質問に対してではなく、彼らが隠そうとしていた問題を取り扱ったのです。ここからパウロがかなり怒っているのがわかります。なんで隠すのですか?私はお見通しなんですよ、と子供が悪事を隠そうとしているのを怒る親のような気持だったでしょう。そしてコリント教会がこの手紙を受け取って、文字の読める人がみんなの前でパウロの手紙を大声で読み上げたときに、聞いていた教会の人たちはさぞばつの悪い思いをしたことでしょう。前にも言いましたが、当時のギリシャ社会では字が読める人は1割もいなかったでしょうから、手紙というのは読むというより聞くもの、文字が読める人が朗読するのを聞くというのが普通のことだったのです。「パウロ先生はみんなご存じだったんだな、やっぱり隠し事はいけないなあ」、と思ったことでしょう。

このように、パウロは1章から6章まで、彼らの隠れた罪について、厳しく叱責しました。それからやっと、彼らが聞いてきた内容について指示を与えています。彼らが手紙でどんなことを聞いてきたのかは、7章以降を読めばだいたいのことは分かります。彼らが聞いてきた内容は、私たち21世紀に生きるクリスチャンにとっても非常に関心の高いものばかりです。彼らの聞いてきた内容は、「離婚についてどう考えるべきか?」、「クリスチャンではない夫婦で、その一人がクリスチャンになった場合、その結婚関係を続けるべきか?」、「独身の信者は結婚についてどう考えるべきか?」、「再婚についてはどうか?」、そして「偶像に献げた肉を食べてもよいのか?」などです。このうちの最後の質問、偶像に献げた肉の問題は、当時の社会について知っておかないと何を言っているのかよくわかりません。しかし、結婚や性的な問題についての事柄は、今日の私たちにも大いに関係のある、ある意味で時代を超えた普遍的な問題だと言えます。特に今日の聖書箇所は、非常に具体的で、生々しいとすらいえる内容ですが、同時に分かりづらい、難しい箇所でもあります。そこで今日はこの手紙が書かれた時代背景にも十分注意しながら、じっくりと読んで参りたいと思います。

2.本文

まず1節を読みましょう。1節の前半については、書いてあるとおりですが、その後半の部分、「男が女に触れないのは良いことです」という言葉の意味によく注意しなければなりません。ここをさっと読むと、これはパウロが言っている言葉なのかと思われるかもしれません。たしかに、6章では売春宿に通いながらも、「これは罪ではない」と豪語する倒錯したクリスチャンに対してパウロが叱責していたので、この「男が女に触れないのは良いことです」という言葉もふしだらな男女関係を戒めたものと読めないこともありません。しかしこの言葉は、むしろ逆の極端な立場、つまり売春宿に行くのは全く問題ないと考える人とは正反対の、性的な事柄はすべてよくないと考える人たち、夫婦間の性的な営みさえやめるべきだと考える極端な人たちが言っている言葉をパウロが引用したと考えるべきでしょう。

前回の説教でも言いましたが、第一コリントではパウロはコリント教会の人々が言っているスローガンを、まるで自分の言葉であるかもように引用している部分が少なくありません。例えば何をしてもよいのだと勘違いしていたコリント教会の人々、道徳的な束縛を嫌い、やりたい放題に生きたいコリントのクリスチャンが語っていたスローガン、「すべてのことが私には許されたことです」という言葉をパウロは6章12節で引用しています。それと同じように、極端な禁欲主義者のコリント教会の人のことば、「男が女に触れないのは良いことです」というスローガンをパウロはこの1節で引用しているのです。

こういう極端な禁欲思想、性的な行為を一切禁止する思想はキリスト教の長い歴史の中で何度も現れました。例えばヨーロッパでは11世紀ごろにカタリ派と呼ばれる人たちがいました。「カタリ派」とは「清浄なる者、清らかな者」という意味で、物質的、生理的な欲求、例えば食欲や性欲などを汚れたものと見做す人たちでした。このような人たちの思想的な背景はプラトン主義やグノーシス主義の霊肉二元論で、霊的なものは良いが、肉的なものは悪い、汚れている、と考えたのです。パウロの時代には、まだグノーシス主義は登場していませんでしたが、その萌芽といいますか、さきがけのような考え方に染まっている人たちがいました。彼らは6章11節でパウロが語った、「しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです」という言葉を霊肉二元論的に捉え、自分たちは聖なる、清い者だから、性的なことによって汚されてはならない、だから「男が女に触れないのは良いことです」ということを言い出したのです。

しかし、パウロはもちろんこうした霊肉二元論的な見方に同意してはいません。次の2節の訳は、おそらく誤解を招くものだと思います。「不品行」という言葉のギリシャ語はポルネイアで、ポルノという言葉の語源となったものですが、この訳ですと、ポルノを避けるために独身男性は結婚しなさい、未婚の女性も結婚しなさい、と結婚のすすめを語っているような印象を受けます。しかしここでの意味は、そうではありません。ここで「持つ」と訳されている動詞は、5章1節で「父の妻を妻にしている」と訳されているのと同じ動詞です。ありていに言えば、「持つ」とは「肉体関係を持つ、セックスをする」という意味の婉曲的な言い方なのです。ですからパウロがここで言っているのは、「男は自分の妻と肉体関係を持ちなさい、妻は自分の夫と肉体関係を持ちなさい」というほどの意味なのです。しかし、私たちにとってこれは何とも不思議なアドバイスです。なんでこんな当たり前のことをパウロは言っているのかと。その背景には、先ほど言いましたように極端な禁欲主義がありました。今まで普通に夫婦生活を営んでいたのに、夫あるいは妻がクリスチャンになり、夫婦の営みまで汚れたものだと思うようになり、夫あるいは妻と夜の営みをするのをやめてしまう人がいたのです。そうなると、もう一方は当然不満が溜まります。妻から拒否された夫は売春宿に通い始めたり、あるいは夫から拒否された妻は「金妻」のように不倫に走ったりしてしまうわけです。このような乱れが生じるのを懸念したパウロは、実にリアルなアドバイスをここでしているわけです。そこで3節で、「夫は自分の妻に対して義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい」と言っているのです。ここでの「義務」とは夜の営みをしっかりしなさいということです。

そしてパウロは4節で非常に注目すべきことを語っています。それは、夫は妻の体を自由にする権利を持ち、妻は夫の体を自由にする権利を持つ、と言っているのです。男女同権の時代に生きる私たちからすれば当たり前のことを言っているだけのように思われるかもしれませんが、古代の地中海社会では圧倒的に夫の権利が強く、妻は夫の所有物のように見なされていたことを忘れてはなりません。そのような時代に、妻は夫の体を意のままにする権利を持つ、というのはびっくりするような、革命的なことでした。使徒パウロは決して男尊女卑の保守反動的な人ではなく、今日の男女平等の思想的な基礎を作った人だとさえ言えます。

しかし、パウロはここで一つの条件を持ち出します。「ただし、祈りに専心するために、合意の上でしばらく離れていて、また再びいっしょになるというのならかまいません」と言います。つまり、両者が納得したときには、夫婦双方は夜の営みについての責任から解放されるということです。6節では、パウロはこれらのことをコリントの教会の人たちに積極的に勧めているのではない、と断ります。7節では、もし可能ならパウロのように独身でいるのは良いことだといいます。しかし、一人でいることでかえって情欲で身を焦がすようなことになり、サタンから誘惑されてはいけないともいいます。パウロのように自制できる場合はともかく、そうでないならば普通に結婚して性生活も普通に送るべきだと言います。このように、非常にリアルな、現実的な勧告をしているのです。

今日のカトリック教会で大問題になっているのは、神父たちの性的な不祥事や性的虐待です。アメリカで数百人という数を聞くと、アメリカの神父はみんなこんな不祥事を犯していると思われるかもしれませんが、世界にはカトリックの司祭は40万人以上いて、北米にも2万人以上の司祭がいると思われますから、二百人というと1%くらいです。しかし、それでもこれだけの数の不祥事が起きると言うことは、すべての神父が終生独身でいるというのには無理があるように思われます。もちろん私はここで、カトリックの長い歴史を持つ伝統を批判しているわけではありません。司祭が独身であることのメリットも当然あるのですから。しかし、パウロのように独身者として生きることが出来る賜物を与えられた人がいる一方、それがそもそも無理な人もいるのです。ですから絶対独身でいなければならないとか、また反対に絶対に結婚しなければならないとか、そういうものではないのです。結婚についても、各人が与えられた召しと賜物に従って決めるべきことです。

さて、8節以降では未婚者、既婚者などの様々な場合についての具体的なアドバイスをしています。未婚者、あるいは配偶者と死別したやもめに関しては、一人でいるのは良いけれど、自制できないようなら結婚すべきだ、とここでも先の場合と同じ原則を繰り返しています。

そして既婚者については明確に離婚を禁じます。それはパウロの命令ではなく、イエス・キリストご自身の命令としてパウロは語っています。ユダヤ社会では、夫の方だけが離婚をする権利があるという不平等な状態でしたが、主イエスは夫であろうと妻であろうと、不貞、つまり片方が不倫に走った場合以外は離婚をしてはいけないと命じておられます。しかし、11節ではパウロは、実際の具体的な状況に対応するために、キリストの命令ではない、パウロ独自の勧告を伝えます。それは、何らかの理由で、既に離婚してしまっている場合です。そのように離婚してしまった場合には、そのまま独身であり続けることは認めますが、他の人と結婚するのは禁じています。しかし、別れた人と、よりを戻すことだけは認めています。このように、非常に具体的なアドバイスが続きます。

13節からは、信者と未信者との結婚関係について語ります。ユダヤ人の場合は、夫婦ともに神の契約の民ですから、信者と未信者の結婚というのは原則としてあり得ません。しかし、異邦人の場合は二人ともクリスチャンではない夫婦の片方が信者になる、ということが実際にありました。それまで未信者同士の夫婦の片方が信者になるのです。この場合、もしかすると信者になった人は未信者の配偶者と別れて、クリスチャンの人と再婚したいと願うようになるかもしれません。しかしパウロはそのことをきっぱりと禁じています。未信者の配偶者が結婚関係に留まりたいと願うのならば、結婚生活を続けるべきだと言うのです。その理由として、パウロはこう説明します。

なぜなら、信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです。

これは驚くべき発言です。パウロの時代のユダヤ人たち、キリストを信じていない多くのユダヤ人たちはユダヤ人以外の人々、つまり異邦人たちとの接触を避けようとしました。異邦人だけでなく、ユダヤ人の中でも罪びとと呼ばれる人たち、徴税人や売春をしているような人たちとはかかわろうとしませんでした。彼らに触れると自分が汚されてしまう、と思っていたからです。現代でも人々が風邪とかインフルエンザとかコロナ感染者の人に近づこうとしないのは、彼らからうつされてしまうのを心配してのことです。あまり適切な比喩ではないかもしれませんが、当時のユダヤ人たちが罪びとに近づこうとしなかったのは、それに近い感覚、つまり彼らの汚れをうつされてしまうという、そういう懸念を抱いていたからなのです。

けれどもイエス様はこうした罪びとに積極的にかかわり、彼らに触れました。イエス様が彼らの汚れで汚されてしまうのではなく、むしろ罪びとの方がイエス様の清さによって清くされたのです。これは、当時のユダヤ人たちにとっては衝撃的なことでした。パウロはここで、そのことをクリスチャンにも当てはめています。つまり、信者が未信者の配偶者と共に暮らしても、未信者の汚れによって信者が汚されることはなく、かえって信者の聖性によって未信者の夫、妻、あるいは子供が聖なる者とされる、と言っているのです。キリストの聖さに与るクリスチャンの聖性とは、他の人をも聖なる者とするほどの力があるのです。

これは、6章でパウロが語っていたことと矛盾するように聞こえるかもしれません。「遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか」と16節で書いていますが、この理屈でいくと、信者ではない配偶者が、何か非常に深刻な隠れた罪、それも偶像礼拝のように、本人は悪いとは思っていなくてもクリスチャンとしては受け入れられない罪を犯している場合に、その配偶者と夫婦の営みをすることでその穢れを身に受けてしまうのではないか、と思うかもしれません。確かにそういう可能性も否定できません。それでもパウロは、もし未信者の配偶者が願うのなら、結婚に留まりなさい、と命じます。ここにパウロの牧会者としての知恵と配慮があるように思います。信者と未信者がつりあわないくびきを負うことに反対するパウロですが、しかし結婚とは神が定めた制度であり、それがたとえ信者と未信者とのつりあわないくびきの上に成り立っているとしても、それを重んじるべきだ、ということです。このことは結婚だけでなく、私たちの様々な社会生活において未信者の方々と共に働く際に大いに示唆に富んでいることだと思われます。とはいえ、パウロは次のようにも言います。

しかし、もし信者でないほうの者が離れて行くのであれば、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとしてあなたがたを召されたのです。

パウロは、未信者の相手が望むならば結婚を続けるように命じますが、未信者の相手が離れたいなら、そうさせなさい、と言います。そのような場合は、結婚の誓いに縛られることはない、と言っているのです。これは、たとえ神が定めた結婚という制度の下であっても、信者と未信者との関係はつりあわないくびきであり続ける、という別の真理から導かれることです。そのような関係はもろい土台の上に立っているのです。ですから、その関係が壊れるなら、壊れるままにしなさい、とパウロは一見非情にも聞こえる言葉を書いています。そして理由も、なかなか厳しいものです。

なぜなら、妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。

これは、未信者の配偶者を持つ信者の方には大変厳しく響く言葉でしょう。未信者の配偶者の救いのために祈らない人はおられないでしょう。その人が救えるかどうか、あなたには分からないのだ、というのはひどく突き放した言葉に聞こえます。むろん、神もあなたの配偶者が救われることを望んでおられます。私たちの今年の年間主題聖句である「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」とある通りです。これは神の願いなのですから、私たちは救われていない家族のために熱心に祈るべきです。しかし同時に、その人が救われるかどうかは分からないのです。誰が救われるか、というのは神のみがご存知の隠された神秘に属することであり、私たちはその分を犯してはいけません。謙虚になるべきです。信者と未信者との関係でいえば、その家族関係は、神の家族関係の絆の強さに優るものではない、とパウロは言っているのです。

3.結論

今日はパウロの結婚についての教えを学んできました。この教えはまだ続きますので、今日は第一回目ということになります。まず感銘を受けるのが、パウロの教えは当時の男尊女卑のギリシャ・ローマ、あるいはユダヤ的な考え方を完全に乗り越えていることです。当時は夫の権利ばかりが圧倒的に強く、妻は夫の所有物のようにみなされていましたが、パウロは二人がまったく同権であると教えています。また、夜の夫婦生活についても積極的にその意義を認め、禁欲主義とは無縁でした。その一方で、主に仕えるために一人でいると決め、またそれが出来る人はそうすればよい、と教えるように結婚至上主義でもありませんでした。

さらに注目されるのは、未信者同士の夫婦の一方が信仰に入った場合でも、その夫婦生活は続けられるべきだ、と教えたことです。これは神が定めた結婚という制度を重んじる、現実的な教えです。しかし他方で、未信者がその関係を続けるのを望まないなら、それを続ける必要がないとも言います。このように、非常に細心の注意を払った、具体的な教えを書き綴っています。私たち日本においても、信者と未信者との結婚関係をどう考えるかというのは重要な問題であり続けています。注意したいのは、ここでパウロが書いている指示をすべて文字通りに守ろうとすることには無理があるということです。パウロの時代と私たちの時代とは多くの面で異なっています。特に日本では信者と未信者が結婚しているケースが非常に多いですが、それを否定的に考えるよりも、伝道のためのチャンスとして積極的にとらえるべきですし、同時に未信者は信者の配偶者によって聖められている、という言葉も肯定的に受け止めるべきでしょう。私たちは、パウロが具体的な指示を与える上での聖書的な前提というものは何かをよく考えて、それを今日の問題に適用すべきだということです。この複雑な21世紀という時代において、神の御心を行っていくには知恵が必要なのです。そのような知恵を与えてくださるように、共に祈りましょう。

天地を創造し、男女を創造し、また結婚という制度を定められた神よ。そのお名前を賛美します。今日はパウロがコリントの人々から尋ねられた様々な問いに対し、非常に注意深い、牧会的な指示を与えているところを学びました。私たち日本のキリスト者は社会の圧倒的な少数者であり、未信者との関係に常に心を砕いています。どうか私たちに具体的な問題を取り扱っていく知恵をお与えください。私たちの主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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