第二サムエル – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 調布 深大寺のプロテスタント教会 Sun, 15 Jun 2025 04:18:50 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.3.18 https://domei-nakahara.com/wp-content/uploads/2020/03/cropped-favicon-32x32.png 第二サムエル – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 32 32 ダビデの歌第二サムエル22章1~51節 https://domei-nakahara.com/2025/06/15/%e3%83%80%e3%83%93%e3%83%87%e3%81%ae%e6%ad%8c%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e3%82%b5%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%83%ab22%e7%ab%a01%ef%bd%9e51%e7%af%80/ Sun, 15 Jun 2025 00:35:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6508 "ダビデの歌
第二サムエル22章1~51節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。約二年間に及んだサムエル記からの講解説教も今回で最終回となります。ハンナの祈りから始まったサムエル記ですが、サムエルやサウル、ダビデといった非常に個性的な登場人物が生き生きと描かれた、旧約聖書文学の最高峰と呼ぶべき非常に内容の濃い話でした。その講解説教の結びに当たり、今日は第二サムエル記の22章に収められたダビデの歌を見て参りましょう。

この歌は、詩篇18編に収録されているダビデの歌と同じものです。これは、若き日のダビデがサウル王の手から救い出されたときに歌われたものだとされています。つまり、ダビデが王となった後に奢り高ぶり、バテ・シェバ事件やウリヤ殺害を引き起こし、その結果ダビデの家が完全に崩壊していくというダビデの後半生をこれまで見てきましたが、この歌はダビデがそのようになってしまう前の時期、信仰者として最も充実していた時期のダビデの歌だということです。しかし、長々とダビデ家が崩壊していく物語を聞かされた私たちがここで突然、堕落する前の輝かしい時期のダビデの歌を聞かされると違和感を覚えるかもしれません。あれほどの罪を犯したダビデが「私は主の道を守り、私の神に対して悪を行わなかった」などと言っても、何と白々しいとかえって反発を覚えてしまいます。むしろ、アブシャロムの乱という最悪の出来事を経験した晩年のダビデの悔悛の歌を聞きたいと思うのではないでしょうか。では、サムエル記の作者はなぜこのダビデの歌を彼の人生の終わりの記述の中に置いたのでしょうか?その意味を考える前に、まずはダビデの人生全体を振り返ってきましょう。

旧約聖書には様々な人物が登場します。どの人物も、とても個性豊かなので、類型化はできないとは思いますが、あえて私なりに三類型を提示してみたいと思います。第一の類型は「ヤコブ型」です。ヤコブという人物は、最初はお世辞にも信心深いとは言えず、父親を騙すなど、本当にこんな人が神に選ばれた人なんだろうか?という疑念を読者に抱かせるような行動ばかりしています。しかし、そんな彼が神の取り扱いを受け、また自分の罪の問題にも真剣に向き合うようになり、最終的には非常に霊性の高い人間となっていくというものです。第二の類型は「エレミヤ型」です。若い時のエレミヤは、ヤコブのようにひねくれたような面があったわけではないですが、しかしどこかナイーブなところがあり、危なっかしいと感じさせることもありました。しかし、多くの苦難に直面しながら段々と強さやたくましさを身に着けていき、ついには謙虚でありながらも揺るがない心を持つ神の人へと成長していくというものです。モーセもこのような類型の人物と考えてもよいのではないでしょうか。そして第三の類型は「ダビデ型」です。若い時のダビデは神への信仰に篤く、勇敢であり、苦難の時にも神への信頼を失いません。まさに今日の「ダビデの歌」で言い表されているような信仰の持ち主です。しかし、そのダビデも絶対的な権力を手に入れると傲慢になり、次々と罪を重ねて自滅していきます。そういう残念な人生ですが、彼の前のサウル王もそのような人生を送ったと言えるかもしれません。このように言うとショッキングに響くでしょうが、ダビデやサウルの原型ともいえるのがサタンです。もともと大天使であったサタンはあまりの美しさゆえに高慢になり、神に反逆したと言われています。預言者エゼキエルは次のように記しています。「あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものにした」(エゼキエル28:17)。ダビデやサウルも、始めは神に忠実だったのに、絶対権力者である王となってからは段々と神の道から逸れて行ってしまいました。サウルはともかく、ダビデとサタンを比較するなどとんでもない、と思う人も多いでしょうが、しかしダビデの人生が転落の人生であることは確かです。

ダビデの人生は、この世における成功が信仰者にとっては罠となってしまうという警告を私たちに与えています。主イエスを信じるクリスチャンであっても、多くの人はこの世での成功や名声や財産を求めます。私たちは競争社会に生きていて、子どもの時からスポーツや芸術での勝利、あるいは学歴社会での勝利を目指すようにとけしかけられています。スポーツや勉強は自分を磨くためだ、自分との闘いだ、というようなことが言われますが、それがきれいごとにしか聞こえないほど私たちは子どものころから人に勝つこと、実績を挙げることを求められます。もちろん、努力して神から与えられた自分の才能を伸ばすことは良いことです。しかし、その成功に対する報酬が大きくなればなるほど、私たちの霊性が脅かされる可能性も高くなるということを忘れないようにしたいものです。では今日のダビデの歌そのものを見て参りましょう。

2.本論

今日のダビデの歌は詩篇18編と同じだ、ということは申し上げました。その他にも、この歌は旧約聖書の多くの箇所と関連の深い内容になっています。そこで、今回はたくさん旧約聖書の他の箇所に言及することをあらかじめ申し述べておきます。では、2節から3節をお読みしましょう。「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、わが身を避けるわが岩なる神、わが盾、わが救いの角、わがやぐら。私を暴虐から救う私の救い主、私の逃げ場」となっています。ここで注意したいのは、神がすべて防御用の物事に譬えられていることです。神が刃とか、槍とか、人を殺傷するための武器ではなく、人を攻撃から守る盾など、そういうイメージで神が語られているのです。新約聖書でも同じで、神の武具と呼ばれるものは盾とか兜とか胸当てとか、大抵は防御用のものです。その唯一の例外は「剣」ですが、これは「私たちの心を刺し貫く」というような意味合いでのみ用いられています。つまり、人間の体に危害を与えるための剣ではなく、私たちの心に深く突き刺さる「神のことば」のたとえとして剣という言葉が使われているのです。新約聖書では平和が強調されているのに対し、旧約聖書の神は好戦的な神として描かれているというようなことがしばしば言われますが、この詩篇で描かれている神は攻撃ではなく防御、ダビデを守る方として描かれているのは大変興味深いことです。

 5節から20節までは、死の谷を歩み、危機にあるダビデが神の助けを叫び求めると、天から神が救出にやって来られる様が劇的に、また詩的に描かれています。神がその民の叫びを聞かれるというテーマは、旧約聖書では最初に出エジプト記に登場します。その箇所を読んでみます。出エジプト記2章23節から25節です。

イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。

神はその民の苦しみの声、叫びを聞かれます。この詩篇においても、ダビデの声を聞かれた神が天から降りて来られる様が描かれています。もちろん神は霊ですから、このように実際に神が天から降りて来るのを人間が肉眼で捉えることはできません。それはダビデの時代も、私たちの時代も同じです。しかし、私たちの霊眼が開かれれば、神とその軍勢が私たちのために戦ってくださるのを見ることが出来るのです。そのことは、預言者エリシャが示してくれたことです。その箇所もお読みしましょう。第二列王記6章15節から17節です。

神の人の召使いが、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいでしょう」と言った。すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開いたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。

このように、私たちの肉眼では霊の世界のことは見えないし分かりませんが、この世界と霊の世界は重なり合っているのです。私たちが信仰的に落ち込んで神のことが信じられなくなるときは、霊的な意味での悪の軍勢に囲まれてとりこにされてしまっているのです。そしたときに、ますます私たちは落ち込みます。しかし、神はそのような私たちを救出すべく天から降りて来られます。ダビデは霊的な目が開かれて、その様子を見ることが許されました。その様子が10節と11節に描かれています。

主は、天を押し曲げて降りて来られた。暗やみをその足の下にして。主は、ケルブに乗って飛び、風の翼の上に現れた。

もちろん、ダビデは言い尽くせないような神の栄光を表すために、非常に劇的な描写を用いているのであって、神の姿が文字通りにこのようであったとは言えません。人間には神のみ姿を見ることは許されていませんので。しかし、このダビデのイマジネーション溢れる描写は後の時代のイスラエル人に大変大きな影響を及ぼしました。大預言者イザヤもその一人です。イザヤがダビデの表現に基づいて神の降臨を描いていると思われる箇所を見てみましょう。イザヤ書64章1節から2節です。

ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。火が柴に燃えつき、火が水を沸き立たせるように、あなたの御名はあなたの敵に知られ、国々は御前で知られるでしょう。

このように、後の預言者たちに影響を与えていることはダビデの詩人としての面目躍如といったところです。17節には、ダビデが天から降りて来られたダビデが神によって救出される様が劇的に描かれています。「主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕らえ、私を大水から引き上げられた。」この、神による救出というのはダビデにとって非常に重要なテーマであり、他の歌にも見られるものです。詩篇40編の冒頭には以下のような下りがあります。

私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は私のほうに身を傾け、私の叫びを聞き、私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。

今日の聖書箇所の17節から20節までも同じようなことが書かれています。ダビデにとって、溺れた人が救い出されるというイメージがとても大切だったのが分かります。

 そして、21節から28節までは、なぜダビデが苦境から救い出されたのか、その理由が記されています。それは、ダビデは主の前に常に清く正しく歩んだからだ、というものでした。ダビデはこう言っています。

私は主の前に全く、私の罪から身を守る。主は、私の義にしたがって、また御目の前のわたしのきよさにしたがって 私に償いをされた。

バテ・シェバ事件以降のダビデを知っている私たちからすればこれは驚くような発言ですが、しかしサウル王に追われて放浪者だったころのダビデは確かに主の前に正しく歩んでいたのです。彼はサウル王からいわれのない嫌疑をかけられてもサウル王に報復せずに、さばきを主に委ねました。サウル王も、ついにはダビデに対し、あなたは私よりも正しい、主があなたに幸いを与えるだろうと宣言するまでになりました。これはまったく皮肉なものです。理不尽な目にばかりあって、まるで神から見放されていたように見えた頃のダビデが信仰者としてはもっとも輝いていて、反対にこの世の栄耀栄華をすべて手に入れてまさに神の寵愛を一身に集めていたように見えた頃のダビデが信仰者としてはまったく堕落してしまっていたのですから。しかし、ここに重要な真理があります。先ほども申しましたが、この世における大きな成功は私たちの霊性においては大いなる罠になってしまうということです。これは難しい問題です。確かに私たちは自分たちに神から与えられた才能を生かし、伸ばすべきです。しかし、その結果としてこの世から大きな賞賛が与えられると、私たちは何か非常に大切なものを失いかねないということです。実際、この世での成功は大きな代償を伴うということを私たちはみな知っているのかもしれません。政治家が選挙で勝つため、あるいは大臣ポストを得るために自らの信念を曲げる、サラリーマンが自らの良心を殺してでも会社の利益のために行動する、というようなことがあるのを私たちは知っています。偉くならなければ、上に行かなければ何も変えられない、世の中をよくするためには出世するしかない、そして出世のために自らの理想や信念を一時的に棚上げするのは仕方のないことなのだ、ということがしばしば言われます。しかし、そうして世と折り合いをつけていくうちに、私たちは何か大事なものを失っている、代償を支払っているということも忘れてはならないのです。ダビデも、いつしか保身のために道に迷い、神の掟を破り、大変な災いを招くことになりました。ダビデはこう続けています。

あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。

この言葉はダビデにそのまま当てはまりました。ダビデがひたすら主に忠実であった時には、神は大いなる報いを彼に与え、羊飼いに過ぎなかった彼は王にまで出世しました。しかし彼の心がねじ曲がり、無実のウリヤを殺害した後は、彼の人生にはひたすら災いがありました。神はそれぞれの人に行いに応じて報いられるというのはいつの時代にも真理なのです。

そしてダビデの次の言葉は、サムエル記の冒頭にあったハンナの祈りを思い起こさせます。「あなたは、悩む民を救われますが、高ぶる者に目を向けて、これを低くされます。」ハンナもこう歌っています。「主は、貧しくし、また富ませ、低くし、また高くするのです。」サムエル記全体がまさにこのようなテーマに貫かれていると言えます。ダビデはまさにその典型でした。彼は小さな名もなき羊飼いでしたが、苦難においてさえも神に忠実だったがゆえに引き上げられて、イスラエルの王にまで昇りつめました。しかし、成功して高ぶってからは、辱められ、低くされました。このダビデの一生の中にサムエル記のテーマが凝縮されていると言えるのではないでしょうか。

3.結論

まとめになります。今日はサムエル記の結びの部分に収録されているダビデの歌を読んで参りました。この歌は、晩年のダビデの歌ではなく、むしろダビデが信仰者として最も充実していた時期、すなわちサウル王の嫉妬によってゆえなく命を狙われ、何度も命の危険を乗り越えたダビデが神に感謝して歌った歌でした。この歌が第一サムエル記の終わりに置かれているのならともかく、どうしてこの箇所に収録されているのか、不思議に思う方もおられると思います。私もそうでした。その理由を自分なりに解釈すれば、サムエル記の作者は私たちに大切な教訓を与えようとしているのだと思います。今やダビデの悲惨な後半生を知る私たちは、この青年時代のすがすがしく自信にあふれたダビデの歌を読むときに、人の人生の移ろいやすさというものを感じずにはおれません。あんなに立派だった人が、とその落差を思わざるを得ないのです。そしてそれがサムエル記の記者の狙いなのではないでしょうか。私たちの人生は、苦しい時期、ピンチだと思われる時期、将来が不安で一杯な時期の方が、神との関係でいえば実は安全なのかもしれません。なぜならこういう時期の私たちは神により頼まざるを得ないからです。苦難の時は、私たちの心は主に近く、それゆえ安全なのです。ひるがえって、ひとたびこの世の提供する安心・安全を手にしてしまうと、私たちの心は知らず知らずのうちに神から遠ざかっていきます。「私は安全だ。私を脅かすものはなにもない」という心が忍び寄ってくるのです。しかし、こういう状態が実は一番危険なのです。ダビデがまさにそうでした。外国との戦争も部下に任せて自分は安穏と王宮でうたたねをしていたときに、大きな罪がダビデの心に忍び寄りました。その後にどうなったかはよく知る通りです。私たちの人生は、ある意味で安心・安全を求めるためにあるといっても過言ではありません。私たちが必用以上にお金を貯めたり、いろいろな心配事をするのもすべては将来の不安を取り除きたいからです。しかし、それで自分が本当に安全になるのかを今一度問うてみたいと思います。主イエスは「人は、たとい全世界を手に入れても、まことの命を損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう」と語られました。この言葉は、人としての栄華を極めながらすべてを失ったダビデの生涯を思う時、一層強く胸に迫ります。私たちはまことのいのちを目指して歩んで参りましょう。お祈りします。

天におられます我らの父よ、二年間におよぶサムエル記からの講解説教を守り導いてくださったことに感謝します。本当にいろいろなことを考えさせられましたが、その一つ一つが今後の信仰生活の糧となりますように。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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反乱の後に第二サムエル19章1~30節 https://domei-nakahara.com/2025/06/01/%e5%8f%8d%e4%b9%b1%e3%81%ae%e5%be%8c%e3%81%ab%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e3%82%b5%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%83%ab19%e7%ab%a01%ef%bd%9e30%e7%af%80/ Sun, 01 Jun 2025 00:27:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6464 "反乱の後に
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1.序論

みなさま、おはようございます。2023年の7月からサムエル記の講解説教を始めましたので、この6月で二年が経ったわけですが、いよいよサムエル記の説教も今回を含めて残すところあと二回になります。サムエル記そのものはこの19章の後もまだ続いていきますが、サムエル記の主人公であるダビデの生涯という意味では、このアブシャロムの乱を一つの区切りとしてよいと考えています。ですから今日の話でアブシャロムの乱について振り返り、次回の説教ではダビデの生涯の全般を考えて、サムエル記の説教を終えるということです。

前回見てきましたように、この反乱はアブシャロムの死という悲劇的結末で幕を閉じます。これはダビデが最も望まなかった、彼にとっては最悪の結末だったわけですが、しかし皮肉にもアブシャロムの死によってダビデの家の大混乱は一旦落ち着きを見せることになります。このアブシャロムの乱とはいったい何だったのか、それをどう理解すべきか、ということですが、これまで繰り返し述べてきたように、これはバテ・シェバ事件の引き起こした結果でした。つまり神はダビデに自らの犯した罪の刈り取りを求めたのですが、その刈り取りの一つがアブシャロムの乱だということです。使徒パウロは「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ6:7)と書いていますが、ダビデは自らが蒔いた種、つまり人妻の強姦とその夫の殺害という悪の種が熟し、その刈り取りをしたということです。バテ・シェバ事件やその夫のウリヤ殺害については、神はダビデを赦したではないか?と思う方もおられるでしょう。しかし、罪が赦されるということと、罪の刈り取りをすることとは別なのです。ここは非常に大切なポイントなので、詳しくお話しします。

いきなりとんでもないたとえだと思われるかもしれませんが、あなたの大切な家族や友人が誰かに殺害されたとします。あなたはその人殺しを赦せないと思うでしょうが、しかし彼がその行為を深く反省しているのを知って、赦してあげようと思うようになりました。あなたはその殺人犯に会って、「あなたを赦します」と言うことが出来ました。その犯人もあなたのことばを涙を流して聞いていました。しかし、だからといって彼がその犯した罪の償いをしなくてもよいということになるでしょうか?すぐに刑務所から出て、何事もなかったように日常生活を送ってよいものでしょうか?そうではないでしょう。あなたも、彼を赦したとしても、彼にはきちんと罪を償ってほしいと願うでしょう。神とダビデの関係も同じです。確かに預言者ナタンは、神がダビデの罪を見過ごしてくださったと語りました。ダビデと神との関係は完全に決裂することはなかったのです。しかし、ではダビデが犯した罪とその結果は消えてなくなったのでしょうか?いいえ、それどころか実際は、ダビデがバテ・シェバ事件を起こしてからというもの、ダビデの家には忌まわしい、呪われたような事件が立て続けに起こりました。まず、ダビデの娘のタマルを、ダビデの息子のアムノンが強姦するという事件が起きました。兄妹間の近親相姦、しかも強姦という国を揺るがすようなスキャンダルが王家の中で起こってしまいました。しかし、ダビデはこの事件を黙認してしまいました。このダビデの無責任な行動に抗議するかのように、タマルの兄であるアブシャロムが妹を辱めた第一王子のアムノンを殺害します。動機は理解できますが、しかし王子を暗殺するというのは国家を揺るがす事態です。しかし、このクラウン・プリンス殺害という大事件でさえ、ダビデはうやむやにして、アブシャロムの罪を問うとはしませんでした。王の仕事、あるいは一家の大黒柱としての父親の大切な仕事の一つは「裁く」ことです。公平な裁きを執行し、国家の、あるいは家族の秩序を維持するというのが大切な役割なのです。時には厳しい、非情な判断を下さざるを得ない時もあるでしょう。三国志の諸葛孔明の「泣いて馬謖を斬る」という故事にあるように、自らの心情に反してでも違反者には厳罰を下すということが指導者には求められます。ダビデもイスラエルという国家を預かる者として、またダビデ王家の家長として、公平な裁きをする必要がありました。

しかしダビデは王としての責務、家長としての責務よりも私情を優先しました。大きな罪を犯した子供たちの一人として処罰しませんでした。その結果、一番苦しんだのは兄に強姦されて処女を奪われたタマルでした。ダビデは彼女の名誉回復のために何もしなかったのです。その結果、ダビデの家にはさらに恐ろしい惨劇が起ることになりました。そして、おそらくこちらの方がより大きなダビデの根深い問題なのですが、ダビデが息子たちの罪を裁かなかったのは、それによって自分の罪の問題が蒸し返されることを嫌った、恐れたということがあったということです。ダビデは長男アムノンの強姦の罪を裁いて、死罪とまではいかなくとも彼の王位継承権を剥奪して僻地への流罪とするというぐらいの処置をとる必要がありました。けれども、そのように厳しい処置を取ったならば、ではなぜダビデ自身の罪への処罰は何もないのか?という疑問の声が上がる可能性がありました。もちろん相手は王様ですので、表立ってダビデを糾弾する勇気のある人はいないとしても、内心そのような不満を抱く人たちは少なくなかったでしょう。今の日本のクリスチャンの間でも、誰かを故意に殺した人がいて、その人が心から悔い改めて神の前にへりくだったのだから、もうその人の罪についてとやかくいうのはやめよう、神様に赦されたのだからそれで終わりにしよう、という話にはならないでしょう。ですから、ダビデも神の前に謙虚にへりくだるのは当然のこととして、自分が治める国民に対してもしっかりと責任を取る必要がありました。しかしダビデはそのようなことを何もしなかったのです。そのダビデが自分の子どもには厳罰で報いるということになれば、片手落ちの非難は免れないでしょう。ダビデは結局自分の罪に真摯に向き合えなかったのです。そのために息子たちの罪の問題を取り扱うことができませんでした。しかし、このように罪の根本原因と向き合うことを拒んだために、さらなる問題が生じるのです。ダビデがこの負のスパイラルを止めるには、どこかで自らの罪の問題と向き合う必要がありました。神はダビデにそれを求めておられたのです。しかしダビデはそれから逃げ続けました。

そして今回のアブシャロムに対してもそうです。今回のアブシャロムの乱の根本的な原因が親子の対立、息子の父親に対する怒りがあったのだとしても、これは国家を転覆させかねない大事件で、しかもその内戦の結果数多くの死傷者が出たのです。そのような大事件を引き起こしたアブシャロムは当然処刑されるべきなのですが、またもやダビデはその責任をうやむやにし、アブシャロムを助けようとしました。そのことに怒ったのが今やダビデ軍団の大黒柱、大将軍のヨアブでした。ヨアブはダビデから直接アブシャロムを助けてくれと頼まれていたにもかかわらず、それを無視してアブシャロムを殺しました。そうしないとこの内戦が終わらないからでした。今回の場面はその結果を受け止めきれなかったダビデに対してヨアブがどのような言葉をかけたのか、そこから始まります。では、さっそくその場面を見て参りましょう。

2.本論

さて、前回見てきたように、わが子アブシャロムの死を知ったダビデは、人目もはばからずに衆目環視の下で大泣きします。門の屋上に上がって泣いたとありますから、皆がそれを目撃していたのです。本来なら勝利の喜びに沸き上がるはずのダビデ陣営は、文字通りにお通夜のようになってしまいました。サムエル記の記者は端的に、「それで、この日の勝利は、すべての民の嘆きとなった」と書いています。本当は戦勝記念のお祭りが開かれるところが、民は王に遠慮して、自分の住居に戻ってしまいました。しかし、このような状況を快く思わない人たちもいました。兵士たちはダビデのために命がけで戦ったのです。ダビデが敗北すれば、彼に従った人たちもアブシャロムによって処刑されるか、あるいは赦されたとしても新体制の中で冷や飯食いに甘んじたことでしょう。ですから彼らは必死に戦って、敵の大将を討ち取ったのです。それなのに、我らが大将は自分たちの獅子奮迅の働きに感謝もせずに、むしろ敵の大将ではなく自分が死ねばよかったと泣き出す始末です。彼らからすれば、俺たちは何のために必死に戦ったのか、ということになります。そして、こうした兵士たちの気持ちを一番よく理解していたのが、彼らの先頭に立って戦ったヨアブでした。ヨアブは知っていました。自分だけがダビデを叱ることができるのだと。このままダビデが民の前で女々しく泣き続けていれば、この王国は崩壊してしまう、ここでダビデを正気に戻さなければならないと。

ヨアブはダビデを激しく叱責します。あなたはアブシャロムの代わりに自分が死ねばよかったと言うが、ではなぜアブシャロムと戦ったのか、いや自分の部下たちをアブシャロムと戦わせたのか、と。それはつまりあなたの部下がアブシャロムを殺すことより、あなたの部下がアブシャロムに殺されるほうがよかった、ということではないか。部下たちに「生きて帰って来い」と命じるのではなく、「俺の息子のために死んでくれ」と言うようなものではないか。これは命がけで戦った部下たちへの侮辱であり、こんなことをすれば国は立ち行かなくなる。そのように諭して、ヨアブは最後にこう言いました。

それで今、立って外に行き、あなたの家来たちに、ねんごろに語ってください。私は主によって誓います。あなたが外においでにならなければ、今夜、だれひとり、あなたのそばに、とどまらないでしょう。そうなれば、そのわざわいは、あなたの幼いころから今に至るまでにあなたに降りかかった、どんなわざわいよりもひどいでしょう。

ここでヨアブは主の名によって、つまり預言者として語っています。今もしダビデが兵士や民に語りかけて、彼らに感謝の気持ちを伝えなければ、国は崩壊し、これまでの災いよりもさらに酷い災いがあなたを襲うだろう、という恐るべき預言です。ここまで言われてようやくダビデは正気を取り戻し、立ち上がって民の前に出ました。ここでダビデとイスラエルの民の信頼関係が崩壊するという最悪の事態は回避できたのでした。ダビデにとってヨアブは意のままにならない目の上のたん瘤のような部下でしたし、確かに彼は何度も独断専行をするような部下でしたが、しかし彼なしにはダビデの王朝はとっくに崩壊していたでしょう。今回も、ヨアブのおかげでダビデ王朝は救われたのでした。ヨアブはまさに「汚れ役」ですが、しかしこういう人物なしには組織も立ち行かないというのがこの世の現実なのでしょう。

しかし、ダビデはヨアブのこうした貢献を正当には評価せず、どこか疎ましく思っていました。それも当然かもしれません。ヨアブはもはやダビデ王朝の最高権力者であることが、隠しきれない事実として人々の間で認識されるようになっていたからです。ダビデもヨアブの言っていることが正しいのは分かっていましたが、しかしこれ以上ヨアブが増長するのを黙って見ているわけにもいかないという思いが強くなっていました。そこでダビデは、禁じ手ともいうべきことを考え出します。それはなんと、反乱軍の親玉、アブシャロムの反乱に加担したヨアブの親戚のマアサをヨアブに代えてダビデ軍団の長として迎え入れるという提案でした。これは反乱軍を懐柔するという作戦なのかもしれませんが、しかし今やアブシャロム軍は壊滅しています。このような譲歩を行って相手を懐柔する必要などなかったのです。またヨアブからすれば、自分の顔に泥を塗られたような思いだったでしょう。なんだかんだ言っても、今回のアブシャロムの乱に勝利したことの最大の功労者はヨアブです。にもかかわらず、恩賞が与えられないどころか、自分の親類の年下の若造の部下に降格させられるのですから、腹の虫がおさまるはずがありません。実際、このマアサは後にヨアブに暗殺されます。こうなることが分かり切っているのに、このような提案をすること自体、ダビデのどこか大人になり切れないといいますか、王たる器ではないことがここでも露呈しているように思えます。

ともかくも、反乱軍はダビデに全面的に降伏してダビデをエルサレムの王城に迎え入れることを決断します。かつてエルサレムを逃げ延びようとしたダビデに呪いの言葉を投げかけたシムイという男がいました。彼はサウル家の家来で、自分の主君の家を滅ぼしたダビデを恨んでいて、ダビデに呪いの言葉を浴びせたのでした。しかし、そのダビデが勝利者として戻ってくると聞いて、手のひらを反すようにしてダビデに平謝りに誤ります。なんとも情けない話ではありますが、シムイも生き延びるために必死で、恥も外聞もないわけです。ダビデの家来の中には、このような人物は厳罰に処すべきだという意見もありましたが、そこはダビデの政治家としての顔が出てきます。ここでシムイを厳罰にしてしまうと、他の反乱軍に与した人々が自分も罰されてしまうのではないかと不安を覚えて、再びダビデに対して反旗を翻してしまうかもしれません。そこでここは寛大な顔を見せて人心を落ち着かせることを選びました。また、このように恥も外聞もないシムイは放っておいても今後の脅威にはならないという判断も働いたのでしょう。シムイに対して、あなたを殺すことはないと誓って安心させました。しかし、ダビデはシムイのことを赦してはいなかったのです。彼はソロモンに遺言してシムイを殺させているからです。ダビデもなかなか執念深い男なのです。

シムイに続いて、今度はダビデの盟友のヨナタンの忘れ形見であるメフィボシェテがダビデを迎えに出てきました。ダビデがエルサレムを逃げ延びるときに、メフィボシェテの家臣のツィバという男がやってきて、メフィボシェテはダビデを裏切ったと告げました。ダビデはその話を信じて、あるいはもしかすると信じたふりをして、メフィボシェテのすべての所領をツィバに与えるという約束をしたのでした。しかし、この話は嘘、つまり讒訴であって、ツィバは足が悪くて動けない主君のメフィボシェテを裏切ってダビデに取り入ろうとしたのでした。メフィボシェテはそのような事情をダビデに話して、自分は決してダビデを裏切ってなどいないと訴えました。こうなると、ツィバが嘘をついているか、あるいはメフィボシェテが嘘をついているのか、二つに一つです。ダビデとしては真実を明らかにすべきでした。しかし、ここでもダビデは判断を下す、さばきを下すことを回避します。そして玉虫色の解決策を提示します。ダビデはメフィボシェテになぜ言い訳ばかりするのかと叱責しながらも、彼の言い分も認めて、彼の所領をツィバと二等分せよと命じます。これもおかしなことで、ツィバが嘘をついているならメフィボシェテに全部所領を戻すべきなのですが、どっちが嘘をついているのかはまあどうでもいいじゃないか、とばかり二人に財産を二等分するように命じたのです。この一件からも、ダビデは裁き人としてはもはや機能していないことが明らかになったのでした。

3.結論

まとめになります。冒頭で申し上げたように、今回のアブシャロムの件は神がダビデに自らの罪の刈り取りをさせるという流れの中で起こった出来事でした。ダビデはその中で、自らの罪の問題に向き合いつつも、イスラエルの王として人々の罪を正しく裁くという責任も果たしていかなければなりませんでした。そしてダビデがもし裁き人として正しい行動をしていたのなら、ダビデの家に起った不幸の連鎖は途中で止まったはずでした。しかし、ダビデは自分を裁くことも他人を裁くこともできませんでした。その結果、ダビデの家の崩壊は加速していき、ついに内乱という最悪の結果をもたらしてしまったのです。この負の連鎖を止めるためにダビデはアブシャロムを裁かなければなりませんでした。しかしダビデはそれをせずに、そのためにヨアブがダビデに代わって裁きを執行しました。しかし、そのヨアブの行動をダビデは快く思わずに、ヨアブの顔に泥を塗るような人事でそれに応えました。そのために、たしかにダビデ家の崩壊という負のスパイラルは一旦ここで止まるのですが、未来にさらなる禍根を残し、ソロモンが王となる時に再び大きなお家騒動が起きることになります。ダビデはヨアブを恨み続けていて、ソロモンにヨアブを殺せと遺言するのです。ダビデ家の流血はまだ終わっていなかったのです。 

最後に、このアブシャロムの乱を通じて、聖書が私たちに何を語りかけているのか、何を教えているのかを考えてみたいと思います。この一連の出来事を読み進めて、なかなか「恵まれた」という気持ちにはならないでしょう。人間社会の浅ましい現実、信仰の勇者だと思っていたダビデの惨めな有様、しかもこれだけの悲劇を経験した後もダビデがあいかわらずご都合主義的な対応に終始しているのを見ると、なんとも救われない気持ちになります。しかし、聖書はそれだけ正直に人間のありのままの姿を描いていると言えます。なぜ私たちに宗教が必要なのか、救いが必要なのかといえば、私たちがそれだけ浅ましい本性を秘めた人間だからです。ダビデも立派な人でしたが、権力の高みに上るや否や、たちまち堕落してしまいました。私たちも、自分は良い人間だ、そんなに悪い事などしないと思っていても、もし大きな権力を振るえる立場に身を置くと、たちまち誘惑や権力の罠に堕ちてしまいかねません。ですから私たちは、大人になっても、いくつになっても自分たちを導いてくれる方が必要なのです。「自分は大丈夫だ」と過信しないことです。私たちもいつ何時、ダビデと同じような迷路に堕ちてしまうかもしれないのです。そして、私たちを導いてくださるイエス・キリストは私たちの弱さに同情しないようなお方ではありません。主も私たちと同じように人間としてのあらゆる苦しみや誘惑を経験されました。だからこそ、私たちをよく理解した上で導くことができるのです。ダビデを反面教師として、また主イエスを見上げて今週も歩んで参りましょう。お祈りします。

歴史を導かれる神様、そのお名前を賛美します。今回はアブシャロムの乱が終わった後のダビデの行動を見て参りました。責任ある地位に就いた者が、その地位に相応しく行動することの難しさを思わされた箇所でもありました。私たちも様々な責任を負う場面がありますが、そのような際にはそれにふさわしい行動ができるように力をお与えください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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アブシャロムの死第二サムエル18章1~33節 https://domei-nakahara.com/2025/05/11/%e3%82%a2%e3%83%96%e3%82%b7%e3%83%a3%e3%83%ad%e3%83%a0%e3%81%ae%e6%ad%bb%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e3%82%b5%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%83%ab18%e7%ab%a01%ef%bd%9e33%e7%af%80/ Sat, 10 May 2025 23:46:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6400 "アブシャロムの死
第二サムエル18章1~33節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。これまでサムエル記を読み進めて参りましたが、今日の箇所はサムエル記の中の一つのクライマックス、少なくとも後半の部分では最大の山場ともいえる箇所です。サムエル記の後半部分のテーマは「ダビデ家の崩壊」でした。ダビデ家といっても王朝としてのダビデ家ではなく、家族としてのダビデ家です。ダビデ王朝は存読したけれど、ダビデの家族は崩壊してしまった、そういう哀しい物語です。

さて、前回はダビデの策略、つまりトロイの木馬としてアブシャロム陣営に送り込んでいた策士フシャイと祭司長であるツァドクとエブヤタル、彼らの活躍のおかげでアブシャロムは愚かにもダビデに有利な作戦を採用してしまい、さらにはアブシャロム陣営の作戦計画はダビデに筒抜けになりました。もうこうなってしまえば、勝敗は決したようなものです。アブシャロムは入念に準備をしてクーデターを決行したのですが、しかし人心掌握術ではダビデの方が一枚も二枚も上手でした。

2.本論

では、今日の内容を見ていきましょう。相手の作戦が筒抜けとなり、敵軍の動きが手に取るように分かるようになったダビデは、いよいよ反転攻勢の準備に入ります。ダビデは自軍を三つに分けて、大将軍のヨアブとその兄弟ツェルヤの子アビシャイ、またペリシテ人、つまりイスラエルとは敵対している民族からやって来た傭兵隊長であるイタイ、この三人に任せました。その時、ダビデは意外なことを言いました。これまで見て来たように、かつては兵士たちの先頭に立って戦場で活躍していたダビデですが、王になってからは戦場のことは大将軍ヨアブに任せ、王宮で昼寝をしたり遊び暮らす毎日を送り、挙句の果ては勇敢の兵士の妻であるバテ・シェバを奪い取るということまでしてしまいました。その事件がダビデ家崩壊の始まりとなり、それから次から次へとダビデ家には災厄が降りかかり、とうとうアブシャロムの乱となってしまったのです。

このように、王となってからは戦場に立つことを止めたダビデが今度は戦場に立とうというのです。これはダビデ軍の士気をあげるためには大変有効なことでした。ダビデがいるといないのとでは、全然士気が違います。日本の歴史でも、天下分け目の戦いと言われた関ケ原の戦いで、豊臣家の当主豊臣秀頼が戦場に出るか出ないかで、その命運は分かれたとも言われています。西軍に秀頼が大将として出陣すれば、徳川方についていた豊臣恩顧の武将たちも秀頼様には弓が弾けないということで、東軍は著しく不利になっただろうと言われています。実際は秀頼は戦場に来ることはなく、その結果西軍は敗れてしまいました。このように大将が戦場に出るというのはたいへん重要なことで、今回はダビデが久々に戦場に出ようというのです。では、なぜダビデは戦場に出る決意を固めたのでしょうか?対アブシャロム戦の必勝を期しての決意だったのでしょうか。おそらくそうではないでしょう。経験豊富な司令官であり政治家であるダビデは、もう自軍の勝利を確信していました。ダビデが気にしていたのは、むしろアブシャロムの命でした。ダビデはアブシャロムのことを反乱軍のリーダーとしてではなく、反抗的だがかわいい息子として見ていたのです。ダビデは部下たちが引き留めるので、戦場に出ることは断念しますが、その代わりある指示というか、お願いのようなことを命じます。彼は三人の部隊長、ヨアブ、アビシャイ、イタイを呼んで、「私に免じて、若者アブシャロムをゆるやかに扱ってくれ」と頼んだのでした。しかもこっそりとではなく、全軍の兵士たちに知れ分かるように公然とこうしたことを口にしたのです。親としてのダビデの気持ちは誰もが理解できたでしょうが、しかしこれから命がけで戦場に向かう兵士たちにとってアブシャロムは敵の大将です。彼を倒さないことには戦争は終わらないのです。しかも相手は自分たちを殺そうとしているのです。そんな敵を相手に果たして手加減ができるのか、という疑問が当然生じます。しかし、王の命令に逆らったらどうなるか分かったものではない、という恐怖もあります。このように、ダビデの命令というか要請は、命を懸けて戦う兵士たちをとんでもないジレンマに置くことになります。敵に勝たなくてはならないのに、敵を殺してはならないというのですから。

このダビデの命令をどう考えるべきでしょうか。一つ確実に言えることは、もしダビデに反乱を起こしたのが息子のアブシャロムではなく赤の他人だったとしたら、ダビデはこのような指示は決して出さずに躊躇なく殺しただろうということです。王の命を狙い国を奪おうとするのは大罪ですから、当然のことです。ですからダビデのこの処置は身内に甘いという批判を免れないものです。実際、アブシャロム軍との戦いで命を落とす兵もいるわけですから、そうした兵士たちの遺族からすればダビデのやっていることは身びいき、えこひいきだと感じられるでしょう。ここで、ダビデの問題が再び明らかになります。ダビデのこれまでの行動の問題点は、公平な裁きができないということに尽きると言えます。公平どころか自分に甘い、身内に甘いというのがあからさまなほど目立っていました。まずバテ・シェバ事件ですが、その時にダビデは自らがバテ・シェバの夫ウリヤを殺害したことの責任を取ろうとしませんでした。神に赦されたからそれで十分とばかり、罪の償いを遺族に対してしようとはしませんでした。それどころか、結局望み通りにバテ・シェバを自分の妻としてしまい、新しく子どもを設けています。また、自分の息子アムノンが自分と同じ強姦の罪、しかもこともあろうに自分の妹であるタマルを辱めたことについてもお咎めなしでした。さらにはその第一王子であるアムノンを第三王子のアブシャロムが殺害するという、王子殺しの大罪すらも不問に付しました。国がひっくり返るような大罪を続けざまに見逃したのです。そして今度はクーデター、国家転覆の罪さえ赦しかねないということなのです。もはやダビデは王としては全く機能してはいないのですが、しかし王ですから絶対的な権力を持っていて、部下たちは彼に振り回されることになります。

このことを苦々しく思っている人物がいました。それが大将軍ヨアブです。彼は今の企業でいう総務部長のように汚れ役、上役のしりぬぐいばかりしてきたわけですが、彼にもプライドというか矜持がありました。自分は確かに汚い仕事ばかりしてきたが、それもこれもお家のため、ダビデ家存続のためだという思いがありました。ですから彼は、ダビデ家の存続のためならダビデに逆らってでも行動するという決意があったし、これまでもそのように行動してきました。ですから今度のアブシャロムを殺すな、見逃せというダビデの命令も、ダビデ王朝存続のためにプラスにならない、そういう反発心を持って聞いていました。

そのようなことがあったのですが、いよいよアブシャロム軍とダビデ軍の雌雄を決する戦いがありました。アブシャロムはフシャイの作戦にしたがって、なるべく多くの兵士をかき集めて物量作戦でダビデ軍を押しつぶそうとしましたが、ダビデたちは大軍の利点が打ち消されてしまう森の中を戦場に選びました。ゲリラ戦に慣れたダビデ軍古参の兵士たちにとって森は非常に戦いやすい場所ですが、大軍の場合は寸断されやすく、敵と味方の区別がつきづらくてかえって不利になってしまいます。大軍で押しつぶそうというアブシャロム軍の作戦を事前に知っていたダビデたちは、敵軍が不利になるような戦場を選び、敵をそこに誘い込んだのです。その作戦はてきめんでした。アブシャロム軍は神出鬼没の動きをするダビデ軍に翻弄されてしまい、瞬く間に2万人もの兵士を失ってしまいました。彼らはダビデ軍にやられたというよりも、自滅していったという方が正確でしょう。密林の中を迷ったり、同士討ちになったり、野獣と遭遇したりと、ダビデ軍と戦う以前に自壊していったのです。

アブシャロム軍は総崩れになり、大将のアブシャロムは護衛の兵士たちとも離れて単身で逃げ延びていました。しかし彼は大変な長身で、髪の毛も長かったのでそれが災いしました。なんと髪の毛が木の枝に絡まってしまい、宙ぶらりんになってしまったのです。アブシャロムは惨めな思いで一杯だったことでしょう。これではサウル王のように自害もできません。そして、そのアブシャロムをヨアブの軍団の兵士たちが見つけました。敵の大将ですから、普通であれば我先にととどめを刺しに行ったはずです。しかし、兵士たちにとってはダビデの言葉がすべてでした。敵将の首を取る手柄を挙げたとしても、それでダビデの逆鱗に触れては元も子もありません。兵士たちは遠巻きにアブシャロムを眺めるだけで、誰もとどめを刺そうとはしませんでした。そこに大将軍ヨアブが駆け付けました。彼は敵の大将を前にして黙って見ているだけの兵士を見て一喝します。大手柄だというのに、なぜ何もしないのか、と。しかし兵士たちは反論します。あなただって、ダビデ王の言葉を聞いたでしょう。ダビデの命に逆らってアブシャロムを殺したら、恩賞どころか死刑になります。その時、あなたは知らんぷりで私の命を助けてはくれないでしょう、とこのように抗議したのです。そこで、だったら俺がやる、責任は俺が取ってやる、とばかりにヨアブは手に三本の槍を持ってアブシャロムの心臓めがけて投げつけました。

先ほども言いましたが、ヨアブはダビデから直接アブシャロムを助けてくれと頼まれた後も、なんとしてもアブシャロムは殺さなければならないと決めていました。彼にとって一番大事なのはダビデ個人の思いではなく、ダビデ王朝の存続です。これまでも、ダビデの命に逆らってでも、ダビデ家に仇なすと思われる人物は暗殺まがいのことをしてでも排除してきました。ヨアブはダビデのすぐ近くにいて彼の行動をつぶさにみてきたので、ダビデが王としてはもはや正常な判断ができなくなっていることに気が付いていました。ダビデは間違いなくアブシャロムを生かすだろう、しかも反乱の責任すらうやむやにしてしまうだろう、ということがヨアブには分かっていました。そしてそれが王国にとってどれほど大きなダメージを与えるかということも分かっていました。なにしろクーデターをしても許されるという前例を作ってしまえば、第二、第三のアブシャロムが生まれても不思議ではありません。アブシャロム自身も再びよからぬたくらみに加わる可能性もあります。さらには、今回のクーデターと戦争でダビデ側も少なくない犠牲者を出しています。犠牲となった兵士の家族たちは、この反乱の責任者の罪が赦されたと知ったら強い憤りを感じることでしょう。そんなことになれば、ダビデ王朝への人々の信頼が揺らいでしまいます。こうしたことを踏まえて、ヨアブはアブシャロムをダビデに引き渡さずに戦場で殺してしまおうと覚悟を決めていました。どうせダビデは自分に手を出せない、自分なしではダビデは王としてはやっていけないだろうという自信、あるいは奢りもあったのでしょう。

こうしてヨアブはダビデの命令を無視し、アブシャロムの息の根を止めました。ヨアブの道具持ち、親衛隊のような兵士たちも、大将がやったのだから遅れてはならないとばかり、アブシャロムに斬りかかりました。あわれアブシャロムは滅多切りにされてしまいました。ヨアブは敵の大将を倒したのだからと、全軍に攻撃停止を命じます。戦争は終わったのです。そしてアブシャロムですが、本当に無残な姿を晒していました。イスラエル一の偉丈夫とほめそやされたアブシャロムはもはや見る影もない姿になり果てました。こんな姿をダビデに見せるわけはいかないとばかり、兵士たちは彼の遺体を深い穴に投げ込み、大きな石をそこに投げ込んで誰も遺体を見ることが出来ないようにしました。ダビデの命令に逆らって彼を滅多切りにしたことがばれないように、いわば証拠隠滅でした。

こうしてアブシャロムの乱は終わりました。しかし、ヨアブ軍には厄介な問題が一つ残っていました。それはアブシャロムの事をどのようにダビデに報告するのか、という問題でした。ヨアブとその部下たちは公然とダビデの命令を無視したのですから、当然報告しづらいわけです。大勝利を喜んで報告したいのに、できないというなんとも悩ましい状況になってしまいました。彼らは、アブシャロムの悲報を知ったらダビデは何をしでかすか分からないという不安がありました。といのも、ダビデは敵であったはずのサウルの死を知らせた使者を斬首したことがあったからです。そこでヨアブはイスラエル人ではない外国の傭兵であるクシュ人にこの知らせを伝えさせることにしました。最悪の場合、このクシュ人がダビデに殺されても仕方がないと思ったのでしょう。しかし、祭司長のツァドクの息子で、ダビデにアブシャロム側の情報を伝えたアヒアマツは不満でした。こんなに大事な知らせを伝えるという大きな役目を外国人に渡してしまうのが我慢ならなかったのです。アヒアマツは、彼がダビデの逆鱗に触れてしまうことを心配したヨアブから制止されましたが、どうしてもと強く言い張ってダビデの元に向かうことにしました。しかも近道を使って、先に走っていったクシュ人を追い越しました。そして最初にダビデに勝利を知らせるという名誉を自分のものにしました。しかし、さすがにアブシャロムの事を知らせるのはためらわれたのでしょう、ダビデからアブシャロムの安否を問われると、何があったか分からないと言ってごまかしました。そうすると、次にクシュ人の伝令がやってきました。ダビデは同じことを聞きました。アブシャロムはどうなったのかと。このクシュ人の伝令も、ダビデがサウル王の死を知らせた伝令を殺したことを知っていたので、身の危険を感じましたが、しかし伝えないわけにもいかないので、回りくどい言い方をしました。「王さまの敵、あなたに立ち向かって害を加えようとする者はすべて、あの若者のようになりますように」と言ったのです。これでダビデはすべてを知りました。アブシャロムが死んだのだと。そして門の屋上に上って、皆が聞こえるような大声で泣きだしました。「わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに」と。

3.結論

まとめになります。今日はアブシャロムの死に際しての、ダビデの矛盾した行動を見て参りました。ダビデはアブシャロムの乱を鎮圧するために、権謀術数の限りを尽くしました。何人ものスパイ、つまりトロイの木馬を送り込み、アブシャロム陣営をかき乱して彼らが自滅するように仕向けました。にもかかわらず、反乱の首謀者であるアブシャロムの命は何としても救おうとし、彼が死んだことを知ると「自分が代わりに死ねばよかったのに」と皆の前で泣き出す始末です。しかし、兵士たちは命がけでダビデの命を救おうと頑張ったのです。そのダビデの命を狙う者を殺したら、「自分が代わりに死ねばよかった」などと言われてしまえば、何のために戦ったのか分からなくなってしまいます。

ここからわかるように、もうダビデは王としては機能していません。確かにアブシャロム陣営にスパイを送り込む手練手管は見事でした。しかし、自分の感情を抑えきれず、自分のために命を捨てようとする兵士たちの前で醜態をさらす姿は無様としか言いようがありません。王は自軍の兵士たちの命を何だと思っているのか、バテ・シェバの夫のウリヤのように、兵士の命など好きなように扱ってよいとでも思っているのか、と皆から思われても仕方がありません。どうしてダビデはここまで耄碌してしまったのでしょうか。

ダビデは王ですので、彼を止めることが出来る人は誰もいません。それができるのは神だけであり、神はダビデの家に大きな災いを送り込むことで、ダビデに悔い改めを促してきたのですが、ダビデはこれまでずっと悔い改めを拒んできました。悔い改めには具体的な行動が求められます。私は、ダビデは少なくとも部下殺しの罪を認めて王位を退くべきだったと考えています。責任を取るべきだったのです。神もダビデが自ら責任を取ることを望んでおられたように思います。しかしダビデはそれを拒み続け、王位にしがみつきました。その結果、ダビデは本当に醜い老人になってしまいました。地位が高い者であればあるほど、その地位には責任が伴い、自分に厳しくあらねばならないということを、ダビデの惨めな晩年を見ると思い知らされます。

日本の政治不信が続いています。その大きな原因の一つは、政治家が責任を取らなくなったことにあると思います。近年大きな金銭スキャンダルが続きましたが、みな口をそろえて「職務を全うすることで責任を取ります」というようなことを言い、決して辞任しようとはしません。その結果、政治の緊張感は失われ、ますます惨めな状態になっています。その行き就く先はどのようなものか、それはダビデの生涯が教えてくれているのではないでしょうか。聖書のメッセージは慰めばかりではありません。人間世界の厳しい現実をも教えてくれます。私たちもその厳しい教訓も心に刻んで歩んで参りましょう。お祈りします。

歴史を支配される主よ、そのお名前を讃美します。今朝はアブシャロムの乱の悲劇的な結末を学びました。ダビデの王としてはまったく矛盾に満ちた行動も見て参りました。責任を取ることの難しさを思い知らされますが、私たちはダビデの生涯から大切なことを学ぶことができますように。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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トロイの木馬第二サムエル17章1~29節 https://domei-nakahara.com/2025/05/04/%e3%83%88%e3%83%ad%e3%82%a4%e3%81%ae%e6%9c%a8%e9%a6%ac%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e3%82%b5%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%83%ab17%e7%ab%a01%ef%bd%9e29%e7%af%80/ Sun, 04 May 2025 03:38:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6383 "トロイの木馬
第二サムエル17章1~29節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。しばらくイースター関連で新約聖書からメッセージをして参りましたが、今日は久しぶりにサムエル記からのメッセージに戻ります。今日の説教タイトルは「トロイの木馬」ですが、これは古代ギリシアの故事から取られたことばで、敵にスパイを送り込んで内部から崩壊させるという話です。そして本日の聖書箇所は、まさにそのような内容になっています。

今日の世界では、戦争という現実が否が応でも私たちを取り囲んでいます。ウクライナ戦争は2022年の開始からもう三年が経過していますが、停戦はまだまだ難しいように思えます。また、ガザ紛争が始まって、早くも一年半になります。ガザの場合は、一応は停戦になっていますが、それはガラスのような脆さです。私たちは戦争そのものに反対する平和憲法の国の国民なのですが、しかしこうした世界の戦争の現実から逃れられている訳ではありません。それは、第二次世界大戦後の世界のほとんどの紛争に関与してきたアメリカ合衆国の同盟国という立場にあるからであり、アメリカはますます日本の軍事的貢献を期待しています。日本はこれまでのアメリカに守ってもらうという立場から、共に戦う同志になるようと期待されているのです。そして私たちがそれを拒否するのは大変難しいのです。なぜなら私たち日本は、食糧・エネルギー・防衛のあらゆる分野でアメリカに依存しており、アメリカに逆らっては毎日の生活すらおぼつかないからです。そのアメリカは明確に中国を仮想敵国としており、日本はその戦いの最前線に位置する国だとされています。そんなのとんでもないことだ、と多くの人は考えるでしょうが、それが現実なのです。戦後80年戦争とは無縁でやってきたこの日本が、これから80年間も平和な国でいられるかどうか、今がまさに運命の分かれ道、正念場だといえます。

聖書にも、至る所に戦争の記述があります。今日の箇所もまさにそういう記述です。不幸にも戦争が始まってしまった場合、人々はどのように行動するのか、特に信仰者はどう行動するべきなのか、ということを考えさせられる箇所です。聖書には、大きく分けて二種類の戦争があります。一つは「聖戦」、聖なる戦争というもので、神が命じる戦争、さらにいえば神ご自身が戦うという戦争です。神は平和の神ではないか、その神が自ら戦うなどということがあるのか、と思われるかもしれませんが、聖書には確かにそのような記述があります。その特徴は、戦いの主体は神であり、人間側の関与は少なければ少ないほどよい、ということです。普通戦争の場合、如何に相手よりも大きな戦力、兵隊を集めるのかということがポイントになり、兵士は多ければ多いほど良いのですが、聖戦の場合はそれは逆になり、兵士は少なければ少ないほど良いということになります。その典型が士師ギデオンの戦争です。ギデオンはミデヤン人との戦争に臨むときに、味方の兵士は三万人も集まったのですが、それでは多すぎるということで一万人にまで減らし、それでも多すぎるということで何と三百人にまで減らして戦ったのです。三万人が三百人ですから百分の一にしたわけで、普通に考えれば自殺行為ですが、しかしこれは信仰の表明、「神が私たちのために、私たちに代わって戦ってくださる」という信仰の表明なのです。

聖戦のこのような性格を考えた場合、サムエル記の中にもこれまで聖戦と呼べるような戦いがいくつかあったということが言えます。一つはサウル王の息子ヨナタンの戦いで、ヨナタンは圧倒的優位にあったペリシテ人に対してたった二人で奇襲をかけて成功し、ペリシテ軍を敗走させました。これは戦術の勝利というよりも、神は我らに勝利を下さるというヨナタンの強い信仰の勝利と言えるでしょう。そしてもう一つは、あの少年ダビデと巨人ゴリヤテとの戦いです。ボクシングで言えばヘビー級とフライ級のような圧倒的に不利な戦いに、少年ダビデは石礫だけを武器に戦いを挑みました。この時のダビデを支えたのも、神はイスラエルに勝利を下さるという強い信仰でした。そして神は、このように圧倒的に不利な状況にあるイスラエルに力を与え、勝利を賜ります。これが聖書のいう「聖戦」の姿です。

そのような観点から見れば、今回のアブシャロムとダビデとの内戦はとても聖戦とは呼べません。両軍とも、如何に大きな兵力を集めて相手を圧倒しようかという、普通の人間的な考え方で戦術を組み立てているからです。神がどちらかの側に立って戦われたというわけでもありません。たしかに、今日の14節には神がアヒトフェルの戦略を打ち壊そうとしたとありますので、神がダビデ側に加勢している印象を受けますが、しかしそもそもこのアブシャロムの乱そのものが、ダビデの罪に対する神の裁きだと考えられるので、神がダビデの側に立っているのかどうかは自明ではありません。サムエル記はダビデ王朝を擁護する立場から書かれているので、神がダビデ側に立っているという記述は多少割り引いて読む必要もあります。つまりは、アブシャロムとダビデの戦いは聖戦ではなく、人間同士の権謀術数を繰り広げた戦いだということです。その戦いのことを神はどのように見ておられたのか、神の御心はどこにあったのか、というのは判断が難しいところです。

今回の件に限らず、現代の戦争についても、「神はこちら側についておられる、正義は我々の側にある」というような主張は常に疑ってみる必要があります。本当にそう思うなら、ギデオンのように思いっきり軍備を削減して、ほとんど丸裸の状態で敵に挑めばよいのです。そのような覚悟、そのような信仰があるならばそれは「聖戦」と呼んでよいのでしょうが、そんなことをする国はどこにもありません。どの国も「もっと武器をよこせ。もっと強力な武器が必要だ」と叫んでいます。しかし、そんなことを言っているのはそれが聖戦ではない証拠なのです。したがって、神の戦いではない人間同士の戦いとして、今日のテクストを読み解いて参りましょう。

2.本論

さて、それでは1節です。ここではアブシャロムの軍師、神のごとき知恵があると謳われたアヒトフェルが登場します。前にもお話ししましたが、アヒトフェルはあのバテ・シェバのおじいさんです。つまり、ダビデとバテ・シェバの子のソロモンはアヒトフェルのひ孫になります。そしてアブシャロムはソロモンの腹違いの兄であり、王位を争うライバルです。普通に考えればソロモンが王位に就くのを助けるためにアブシャロムに敵対すべき立場です。では、なぜアブシャロムの参謀役などを買って出たのか?ここからは私の想像ですが、アヒトフェルは非常に正義感の強い人で、ダビデがバテ・シェバの夫、アヒトフェルからすれば義理の孫ですが、そのウリヤを謀殺しておきながら、何の罪にも咎められなかったことが許せなかったのでしょう。ですから彼は本気でダビデとその王朝を倒しに来ているのです。実際、彼は非常に優れた作戦を具申します。それは、ダビデ軍がまだ準備が整っていないうちに急襲し、ダビデ一人の首を取ろうというものでした。今回のアブシャロムの乱は入念に準備したものですので、最初の段階では成功しましたが、しかし人々の間のダビデへの人気や信頼は根強く、時間が経てばたつほどダビデに有利な状況に傾いていくだろうというのがアヒトフェルの読みでした。そしてその状況判断は正確だったのです。

このアヒトフェルの作戦計画は、一旦はアブシャロムやほかの長老たちに受け入れられました。しかし、ここでアブシャロムの未熟さが露呈してしまいました。リーダーたるもの、ひとたび戦略を決めたならそれをひたすら敢行すべきなのですが、若いアブシャロムには不安や迷いもあったのでしょう。アヒトフェルを信頼しきれず、本当にダビデに勝てるのかという不安に負けてしまい、セカンドオピニオンを求めてしまいます。アヒトフェルと並ぶ知者とされるフシャイの意見を聞こうとしたのです。そしてこのフシャイこそ、ダビデが送り込んだ「トロイの木馬」だったのです。戦争というものは、戦場だけで決着がつくものではありません。むしろ、戦場の外でこそ熾烈な戦いが繰り広げられているのです。この戦場の外での戦いではダビデは常にアブシャロムよりも上手で、今回もまさにそうでした。フシャイはダビデのために、アブシャロム陣営に毒を吹き込みます。それはダビデへの恐怖心です。フシャイは巧みに、かつてのダビデの勇士を人々に思い起こさせました。ダビデには、それこそ伝説ともいえるような武勇伝がいくつもあります。特に、サウル王の追及をかわしてついにはサウル王を出し抜いたゲリラ戦の名人としてのダビデの記憶はまだ人々の間には新しいものでした。そのダビデを、果たして我々は捕らえることができるだろうか、とフシャイは語るのです。実際には、このころにはダビデはすっかりふぬてけしまっていて、サウル王と渡り合った頃のような面影はないのですが、それでも人々のダビデに対するイメージは昔のままだったのです。フシャイはそれを巧みに利用して、より安全で確実だと思われる作戦を申し出ます。それは、蟻一匹逃さないような包囲陣を引いて、大軍団でダビデたちを押しつぶしてしまおうというものでした。確かに大軍で小さな相手を圧倒するというのは兵法における常道、正攻法です。しかし問題は、そんな大軍をアブシャロムが果たして集めることができるだろうか、ということなのです。アブシャロムは反乱軍であり、その正統性が今まさに問われているという、そのような状況です。そんなアブシャロムにイスラエルの人たちが無条件に従うでしょうか?いやむしろ、ダビデの方に味方するか、あるいは多くの人たちは決着がつくまで様子見をして、どちらにも肩入れしないようにするでしょう。そんな弱い立場にある以上、リスクを取ってでも敵の大将の首を狙いに行くというのがアブシャロムにとっては最善手でした。いや、そこにしか勝機はなかったのです。しかし、アブシャロムは自らの弱い立場も考えずに横綱相撲を取ろうとしました。ここで、アブシャロムの器が知れてしまいました。彼の敗北は実質的にここで決まったのです。さらにいえば、ここでアブシャロムという人物の信仰心も明らかになりました。もしこの戦いが本当に神の御心であるという確信に基づいて彼が行動していたのなら、圧倒的な武力で安全策によって敵に打ち勝とうなどとはしなかったでしょう。先ほどの「聖戦」の説明でもお話ししたように、神の戦いにおいてはむしろ圧倒的に不利な状況でこそ神の力が発揮されるのです。アブシャロムに主の御心を行うのだという強い信仰があるのなら、少ない手勢で戦う方を選んだことでしょう。しかし彼は目に見えない神よりも、現実的な力に頼ろうとしました。したがって、神も彼を助けようとはなさらなかったのです。

ここから後も、ダビデが巧妙に仕掛けておいた罠がことごとく成功していきます。ダビデはフシャイをトロイの木馬としてアブシャロムに送り込みましたが、ダビデが送ったトロイの木馬はこれだけではありませんでした。そのもう一つのトロイの木馬とは契約の箱であり、その箱を管理することのできる、大祭司になる資格のある二人の祭司ツァドクとエブヤタルでした。契約の箱は、日本で言えば三種の神器のようなものです。源平合戦もある意味では三種の神器をめぐる争いでした。なぜならそれを持つものは正統な日本の統治者であると見なされたからです。イスラエルの場合も、神とイスラエルの契約を象徴する契約の箱を持つ者こそが、イスラエルを代表する者とみなされます。アブシャロムからすれば、喉から手が出るほど欲しいものでした。これさえあれば、反逆者から卒業し、正統なイスラエルの王として認められることができるからです。その契約の箱を、祭司たちが持って来てくれました。まさに鴨が葱を背負って来るような状況です。これで、アブシャロムはコロッと騙されてしまいました。ダビデのスパイであるツァドクとエブヤタルをすっかり信用してしまったのです。そして彼らはフシャイと同じく獅子身中の虫としてアブシャロム陣営で動きます。アブシャロムがアヒトフェルの正しい献策を退け、フシャイの悪手を採用したことを、彼らの息子であるアヒマアツとヨナタンを伝令としてダビデに伝えようとしたのです。ダビデは、彼らからの情報を荒野で待つと言っていましたが、そのダビデに向けてこの二人は急いで最新情報を伝えようとしました。彼らはアブシャロムの手の者に見つかりかけましたが、ある女性が彼らを匿ってくれました。このことからも、アブシャロムへの支持は民衆の間では十分には広まっておらず、ダビデを応援している人たちが多かったことが分かります。この情報はダビデに伝わり、アブシャロム陣営の動きを知ったダビデたちは安全な地域に一旦退却します。そこで用意を整えてアブシャロムたちを迎え撃とうということです。こうして、アブシャロムは唯一の勝機を逃しました。また、自分の作戦が受け入れられなかったことを知ったアヒトフェルは静かに自害しました。彼には次に何が起きるか、もう見えていたのです。中国の歴史に項羽と劉邦という有名な二人の武将の話があり、特に「鴻門(こうもん)の会」という出来事があります。その際、項羽に劉邦を討つべきだと献策した范増(はんぞう)という軍師がいましたが、項羽はそれを退け項伯(こうはく)という人の案を受け入れて劉邦を生かしました。この劉邦が後に「漢」帝国を築いて項羽を滅ぼすことになります。范増はこの時大いに悔しがり、自分たちは必ず劉邦に滅ぼされるだろうと預言しましたが、アヒトフェルも同じ気持ちだったのでしょう。

3.結論

まとめになります。今日は、ダビデの「トロイの木馬」作戦が当たり、アブシャロムがダビデの送り込んだスパイによって翻弄され、誤った道を選択していく場面を見て参りました。アブシャロムも入念に準備をして反乱を起こしたのですが、政治家としての経験も実力も父ダビデがはるかに勝っていたことが露呈した事件でした。

今回の話では、アブシャロムという人物の本当の姿が明らかになったように思います。これまでの彼の行動は、勇敢で思慮深い人物という印象が強かったのですが、今回の件では政治的な未熟さのみならず、信仰的な弱さも浮き彫りになったと思われます。アブシャロムが反乱を起こしたのはなぜか?それは自分が王になりたいからという野心から出たものではなく、王として、また父としての責任を果たさないダビデに対して憤りを感じ、この人物にイスラエルは任せてはおけないという彼なりの正義感から出た思いも間違いなくあったでしょう。妹タマルのためになにもしてくれなかった父、自分の行動についてもいいとも悪いとも言わず、宙ぶらりんにして責任を果たさない父王、そのダビデに対する異議申し立てという思いがあったでしょう。そしてそれは主の御心に違いないという、彼なりの信仰の確信もあったものと思われます。しかし、彼はこの戦いを主の戦いとはしようとしなかったし、できませんでした。それを端的に表していたのが、アヒトフェルの作戦に対する彼の態度です。彼はその作戦のリスクが大きすぎると感じ、フシャイにも意見を求め、そのより安易な作戦に飛びつきました。神に信頼するよりも、人間的な安全策を選んでしまったのです。それが彼の墓穴となりました。もし彼が、本当に自分が主の御心を行っているという確信があるのならば、リスクはあっても、より戦死者が敵も味方も少なかったであろうアヒトフェルの作戦を採用すべきだったのです。

私たちも人生において様々な決断が求められるときがあります。その時、人間的にはリスクが大きいと思われても、より主の御心に適っていると思える道があるのならば、その道を選ぶ勇気を持ちたい、信仰を持ちたい、そのように思わされる今日のアブシャロムのエピソードでした。そのような信仰を持つことが出来るように、祈りましょう。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今日はダビデのトロイの木馬作戦が大成功した話を学びました。ここではアブシャロムの信仰の弱さが浮かび上がりました。しかし、相対するダビデの側にも老獪な知恵はあっても、若々しい信仰は失われてしまったのだろうか、という疑問も消えません。私たちもまた、人生において様々な難しい選択を迫られるものですが、そのような時に信仰に立って決断できるように、お助け下さい。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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ダビデの信仰第二サムエル16章1~23節 https://domei-nakahara.com/2025/04/06/%e3%83%80%e3%83%93%e3%83%87%e3%81%ae%e4%bf%a1%e4%bb%b0%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e3%82%b5%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%83%ab16%e7%ab%a01%ef%bd%9e23%e7%af%80/ Sun, 06 Apr 2025 00:50:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6293 "ダビデの信仰
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1.序論

みなさま、おはようございます。本日は2025年度の最初の礼拝になります。私が当教会に遣わされて五年が経ちました。この五年間、様々な困難もありましたが、皆で力を合わせて歩んでこられたことは、主の大いなる恵みでした。そして今日もサムエル記を読んで参りましょう。

今日の説教タイトルは「ダビデの信仰」です。一般にダビデと言うと、信仰の人、信仰の勇者というイメージがあるように思います。しかし、これまでの私の説教を聞き続けてくださった方は、ダビデが単純に理想的な「信仰の人」とは言えないし、むしろもっと複雑で問題のある人ではないか、という印象を持たれたかもしれません。ダビデの場合は、王になるまでの青年時代と、王になってから後の時代を区別して考えた方がよいでしょう。何の武器も持たず、石礫だけで巨人ゴリヤテに向かっていった若きダビデと、バテ・シェバを奪いその夫ウリヤを謀殺した老獪な王であるダビデは、同一人物とは思えないほど異なった印象を与えるのです。そのようなダビデの生涯を見ていくとき、「信仰」とはいったい何なのか、ということを改めて考えさせられます。信仰とは純粋で恐れを知らない若者だけが持てるもので、世の中の辛いも甘いも味わった後では段々と失われていってしまうものなのでしょうか?そうとも言えません。例えばアブラハムや彼の孫のヤコブの場合を考えて見ると、彼らは年齢を重ねるごとにその信仰が深まっていったように思えます。ヤコブの場合は、明らかに若いころよりも老齢になったときの方が信仰者としての輝きが増しています。それはヤコブが幾多の試練の中で神と出会い、神についてより深く知るようになったからでした。

一方ダビデも、若い時から多くの試練を乗り越える中で神の恵みの大いなることを体験し、ますます信仰を深めていったということがありました。しかしそのダビデが、特にバテ・シェバ事件以降は王としても信仰者としても迷走を重ね、とても信仰の円熟を迎えたとはいえない状態に陥っています。いったいそれはどうしてなのか?そこで今日は、ダビデの信仰の本質について考えてみたいと思います。

私は、ダビデはグダグダになったこの時期においてさえ、神に対して深い信仰を持ち続けていたと考えています。それは神への深い畏れであると同時に、神は恵み深いのだという強い信頼に根差したものでした。私は、神への信仰という意味ではダビデは変わらぬものを持ち続けていたと考えています。では、ダビデの問題はどこにあったのでしょうか。それは、彼が神に対するようには、人に対して誠実ではなかったという点です。私がそのことを強く感じたのはバテ・シェバ事件においてでした。ダビデはバテ・シェバとその夫ウリヤに対して取り返しのつかない罪を犯したのですが、彼は神に対しては心からの服従と謝罪を行いましたが、人に対してはそうではありませんでした。彼は殺してしまったウリヤに何の負い目を感じていなかったかのようにさえ見えます。それは、彼の最愛の妻であったバテ・シェバを直ちに妻として迎え入れたことからも明らかであるように思えます。もしウリヤの立場に立って考えたのなら、そんなことができただろうか、と。

ダビデは、ある種の信仰的な人間の典型であるように思えます。すなわち、彼にとって大事なことは神との関係を維持することであり、それに比べて人に対する関心はずっと薄い、弱いように思えるのです。これはかなりうがった見方かもしれません。しかし、ダビデのような立場に立てば、これはあり得ることではないでしょうか。ダビデは王という、人間としては最高の地位にあります。しかも今やイスラエルは強大な国となり、周辺諸国を恐れる必要はありません。彼にとって厄介なのは、大将軍のヨアブぐらいのものでしょうが、そのヨアブもダビデに対しては絶対的な忠誠を誓っています。ダビデにとって真に恐ろしいのは王の絶大な権力でさえ何の意味も持たない神の力だけです。ダビデは神を深く信じていましたので、王となった彼にとってさえ、神は未だに恐るべき存在でした。したがって、神からの叱責には非常に敏感でした。臆病だったとさえ言えるほどです。しかし、自分の権力の下にある人々の気持ちについては驚くほど鈍感だったようにも思えるのです。神にのみ集中するというのは、宗教的な人間が陥りやすい罠かもしれません。しかし、そのような人間はどこかバランスを欠きます。主は、精神を尽くし、力を尽くして神を愛しなさいと命じましたが、それと同じくらい、隣人を愛するようにと命じられたのです。しかし、ダビデにおいてこのバランスは崩れ、第一の命令にばかり重きを置いていたように思われるのです。そのことを、今日の出来事からも感じとることが出来ます。では、今日のテクストを詳しく見て参りましょう。

2.本論

この16章は大きく二つに分けられます。一つは都を落ちのびるダビデが旧サウル王朝の人々と出会う場面であり、もう一つはエルサレムを制圧したアブシャロムが取った行動についてです。ダビデとアブシャロムという二人の主人公に焦点が当たっているということです。ではまずダビデの方を見ていきましょう。

さて、ダビデは反乱を起こしたわが子であるアブシャロムによって都を追われたのですが、そのようなダビデにとって気がかりな勢力がありました。それは、ダビデ王朝の前の王朝であるサウル家の家臣の生き残りの動向です。ダビデはサウル王朝を滅ぼした側ですから、敵の敵は味方ということで、ダビデに敵対するアブシャロムのことをサウル家の残党が応援・支援するのではないか、という恐れがあったのです。ダビデはこれまで、盟友であったヨナタンの忘れ形見で足の悪いメフィボシェテに温情を施し、彼をねんごろに扱っていましたが、それでも彼はサウル家の正統な王位継承者です。もし彼がダビデに反旗を翻したなら、サウル家の残党たちは彼に従うでしょう。ダビデにとってメフィボシェテは政治的に危険な人物でした。そのような時に、ダビデの元にメフィボシェテの家臣であるツィバがやってきました。ツィバはダビデにメフィボシェテを引き合わせた人物です。その彼が、落ちのびるダビデのためにと、大変な量の食糧を持って来たのです。おそらくは、主人であるメフィボシェテの財産を勝手に処分して得た金で調達した食糧でしょう。パン二百個というのは、ダビデにとっては願ってもない差し入れです。なしにろ、着の身着のまま逃げのびたのですから、十分な食料はなかったわけです。ダビデは彼を大歓迎しました。ところでと、ダビデはツィバに、お前の主人であるメフィボシェテはどうしたのかと尋ねます。するとツィバは、主人はダビデ様を裏切り、サウル家の再興を謀っていますと報告します。自分はそのようなメフィボシェテの裏切りを良しとはせず、あなた様にお仕えするために参上したのです、とツィバはダビデに語ります。しかし、後にメフィボシェテは、自分は裏切ってはいない、足の悪い自分を置き去りにしてツィバが去っていってしまったのだ、ということをダビデに訴えています。私にはメフィボシェテが嘘をついているとは思えませんし、むしろここではツィバの方が主人のメフィボシェテを見限って彼の財産を勝手に処分し、自分の主人については嘘の証言をしているのだと考えています。しかしダビデはツィバの言い分をそのまま受け入れます。ダビデがツィバの言うことを本当にそのまま信じたのか、あるいは薄々嘘だと気が付きながらも、このような緊急時に大事な食糧を届けてくれたということで、その嘘を大目に見たのか、どちらなのかはっきりとは分かりません。ただ、ダビデのこれまでの抜け目のない行動や鋭い洞察眼からは、おそらくダビデはツィバの嘘を見抜いていたものと思われます。にもかかわらず、彼はツィバに恩賞としてメフィボシェテの財産をすべて与えるという破格の約束をしています。これは高度な政治的駆け引きと言えるかもしれません。ダビデとしては、とにかく一人でも多くの味方を得たいのです。ツィバのように、主君を裏切るような多少問題のある人物でも良い条件で受け入れるといううわさが広まれば、ダビデに加勢する人たちも増えるかもしれません。それを見越してダビデはツィバを受け入れたのだと思われます。

しかし、ダビデは亡き盟友であるヨナタンとの契約に誠実であったかといえば、そうではなかったのです。かつてヨナタンは、サウル王から命を狙われていたダビデを身を挺して守り、その時に自分の家族のことを頼むとダビデに懇願しています。そのヨナタンの思いを考えれば、体の不自由なメフィボシェテを切り捨てるようなことはできないはずです。しかし、ダビデは自らの生き残りを最優先にしました。これは政治家としては当然のことかもしれませんが、人間としては疑問を感じさせる行動です。先にダビデは神に対する忠誠においては素晴らしいけれども、人に対する誠実さには問題があると申しましたが、この一件にもそのことが表れているように思えます。

そのダビデのところに、もう一人のサウル家の家臣がやってきました。彼の名はシムイで、彼はダビデのことを口汚く呪いました。サウル家が滅んだのはダビデのせいだ、その悪行に主が報いたのだ、とダビデを呪います。ダビデはサウル家の最後の王であるイシュ・ボシェテを直接殺したわけではありませんでした。しかしダビデはサウル家の裏切り者の家臣のアブネルと密約を結び、イシュ・ボシェテの王権を奪おうとしました。シメイはそのことを言っているものと思われます。ダビデの忠実なしもべの一人であるアビシャイはそのような主君を侮辱する言葉に怒り、その首をはねるべきだとダビデに進言します。しかしダビデは、あのシムイの言葉は主が言わせたものなのだから、彼を殺してはいけないと諫めます。私はこのダビデの言葉は、彼の本心から出たものであろうと思います。ダビデも長年主と共に歩んできた信仰者です。自らのこれまでの歩みを振り返って、そこに誤りを認めることができないほど頑なな人物ではないのです。サウル家滅亡の次第のみならず、バテ・シェバ事件から始まった一連の悲惨な出来事に自分の責任を感じないほど愚かでも鈍感でもなかったでしょう。ですからこのシムイの暴言とも思える言葉の中にも、預言者の言葉であるかのように神の裁きの言葉を感じ取り、彼に報復しようとはしなかったのです。ダビデは極度に主を恐れる人物でしたが、このシムイの言葉に対する反応にもそれが表れているように思えます。

このように、サウル家の対照的な二人の家臣、一人はダビデにおもねるツィバで、もう一人はダビデに毒づくシムイですが、その二人への対応には、ダビデの人への非情さと神への敬虔という二つの面を見ることができます。ダビデは自らの生き残りのために盟友との約束を無視するような非情さを持つ反面、自らの過ちを神の前に顧みてへりくだることもできました。人間というのは複雑な生き物で、不誠実さと敬虔さを併せ持っているのですが、まさにここでダビデのそのような複雑な性格を垣間見ることができます。

さて、話は変わって今度はアブシャロムの方です。反乱を起こしている側のアブシャロムは、自陣を強化するために一人でも多くの優秀な部下を集める必要があります。特に必要なのはブレーンとなる人、政策や作戦を立案する軍師です。すでにアブシャロムはその知恵は神のごとしと謳われたアヒトフェルを獲得しました。そして、さらにもう一人の知恵者がやってきました。フシャイです。実は彼は、ダビデからスパイとして送り込まれていた人物で、ダビデからはアヒトフェルを邪魔してアブシャロムに正しい戦略を取らせないようにしてくれと依頼されていました。とはいえ、フシャイがダビデの親しい友人であることはよく知られていましたので、アブシャロムもフシャイを信用して良いものかどうか、判断がつきかねていたようです。しかし、フシャイの見事な応答にコロッと騙されてしまい、彼を自軍に引き入れることにします。このことがアブシャロムの大きな蹉跌となり、ダビデの側から見れば大きな勝因となります。ダビデはまさにトロイの木馬を敵陣に送り込むことができたのです。

その後、軍師アヒトフェルは非常にスキャンダラスな提案をアブシャロムにします。それはなんと、白昼堂々と、皆が見ている前でダビデ王の側室の女性たちと性交をしろというものでした。サムエル記の特にバテ・シェバ事件以降は、ポルノ小説も真っ青というようなスキャンダラスな記述が続きますが、これなどもまさに教会で読むのが憚られるような内容です。しかし、この行動が預言者ナタンの預言の成就であることも思い出す必要があります。まさにこの預言があったからこそ、アヒトフェルはこのようなスキャンダラスな提案をしたものと思われます。つまり、このアブシャロムの反乱は神のご計画に沿ったもの、神の御心なのだということを内外に喧伝しようとしたのです。そのナタンの預言を見てみましょう。12章11節です。

主はこう仰せられる。「聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行おう。」

このようにナタンは預言しましたが、この預言はなんとダビデ自身の息子であるアブシャロムによって成就してしまったのです。預言者イザヤは「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰ってはこない」と語りましたが(イザヤ55:11)、まさにその通りになりました。神の裁きの厳しさを思い知らされる出来事でした。

3.結論

まとめになります。今日はアブシャロムの謀反によって追い詰められたダビデの信仰者としての在り方ということを特に注意して考えてみました。私は冒頭で、ダビデの信仰の在り方は極端なほど神に集中しているということを申し上げました。それは善い事ではないか、と思われるかもしれません。確かに私たちが信じるのは唯一の神のみであり、神をすべてに優先し、神にのみその思いを集中させるのは素晴らしいことのように思われます。しかし、それが本当に神の望まれていることなのでしょうか。詩篇51編はダビデの作だとされていますが、他の多くの詩篇がそうであるように、もしかするとダビデの名を借りた後世の作品であるかもしれません。そうだとしても、この詩篇はダビデの信仰の本質を表しているように思えます。有名な一節に次の言葉があります。

私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御前に悪であることを行いました。

私はこの一文を読む度に違和感を覚えます。確かに私たちの犯す全ての罪は神の掟を破るという意味で神に対して犯すものですが、しかし私たちの罪の直接の被害者なのです。あなたが誰かを殴りつけて、そのことを神に必死に謝ったからといって、あなたに殴られた人はあなたを赦すでしょうか。あなたは神に謝罪したから、それで十分なのでしょうか?いいえ、そうではありません。しかし、ある種の宗教的な人はそのように考えてしまいがちなのです。そして、まさにダビデはその典型でした。彼の関心事は神にばかり向いていて、周りの人々を見ていませんでした。その結果、次々と彼の周囲には不幸な出来事が続いていきます。しかし彼は、神に向き合うようには、ついに自分の家族と向き合うことはしませんでした。今日でも宗教のせいで家族が崩壊するという人が少なくありませんが、そこにも同じような問題があるように思えます。聖書の教え、イエス様の教えとは、神を愛するとは隣人を愛することなのだ、ということです。私たちの隣人は神様のように完ぺきではありません。むしろ欠点だらけです。しかし、そのような隣人を愛することこそ、神を愛することなのだということを忘れずに歩んでいきたいと願うものです。お祈りします。

天におられる父なる神様、そのお名前を賛美します。今朝はダビデの信仰について考えて参りました。その信仰の素晴らしさと欠けの両方について考えました。私たちもそこから学んで、日々の歩みに生かすことができるように導いてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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反乱第二サムエル15章1~37節 https://domei-nakahara.com/2025/03/16/%e5%8f%8d%e4%b9%b1%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e3%82%b5%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%83%ab15%e7%ab%a01%ef%bd%9e37%e7%af%80/ Sun, 16 Mar 2025 04:42:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6242 "反乱
第二サムエル15章1~37節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。今日からいよいよサムエル記の後半の最大の山場に入ります。それは、ダビデ王家の第二王子であるアブシャロムが父であるダビデ王に対して反乱を起こすという大事件です。今日はそのいきさつを見て参ります。

この説教の準備として、いくつかの注解書を読みました。すると、どの注解書を読んでも、アブシャロムが反乱を起こしたのは彼の「野心」のゆえだ、というように解説していました。アブシャロムは王になりたいという野心に突き動かされて反乱を起こしたのだと。しかし、本当にそうなのでしょうか。アブシャロムが王になりたいと願っていたとして、彼にはそうなるための手段がいくつもありました。何しろ彼は第二王子で、王位継承権者でした。ライバルはすぐ上の兄のキルアブだけです。彼は才媛のアビガイルの息子でしたが、アビガイルは非常に頭の良い女性でしたから、キルアブも優れた人物だったと思われます。ただ、彼は王になる野心はなかったようです。サムエル記の中でも、彼に言及している箇所はほとんどなく、影の薄い人物です。おそらく彼は利口な人で、王位継承権争いにかかわるとろくなことはないと、そういう争いから一貫して距離を置いていたと思われます。キルアブがそのような人物だったとするならば、アブシャロムが王になるための強力なライバルにはならなかったでしょう。アブシャロムには兄殺しという過去がありますので、普通ならば王になる可能性はそれでなくなるのですが、前回見たようにダビデは実質的に彼の罪を赦しています。ですから、彼は待っていれば機が熟して王になる可能性が最も高い人物なのです。

そう考えると、アブシャロムの最終的な目的が王になるということならば、彼は反乱、クーデターなど起こす必要はなかったのです。クーデターというのは非常に危険な手段です。伸るか反るか、一か八かのばくちです。日本の有名なクーデターは二・二六事件ですが、失敗しています。アブシャロムがダビデ王から命を狙われていて、その危険を回避するために反乱を起こしたというのなら分かりますが、そのようなことは全くなかったのです。そう考えると、アブシャロムが反乱を起こしたのは王になりたいという野心のためではなかったということになります。では、なぜ彼はこのような強硬手段に訴えたのでしょうか?

それは「復讐」です。アブシャロムは5年前に自分の兄であり、第一王子であったアムノンを殺害していますが、それはアムノンがアブシャロムの王になるという野心のための障害だったからではありません。アブシャロムは王になりたかったから、王位継承権第一位の人物を殺したわけではなかったのです。つまりクーデターではなかったということです。ではなぜそうしたのか?それは「復讐」です。アムノンはアブシャロムが非常に大切にしていた妹タマルを強姦し、タマルはそのショックで閉じこもりになってしまいました。アブシャロムが妹タマルをどれほど深く愛していたのかは、彼が自分の娘にタマルという名を付けたことからも分かります。妹をそんな悲惨な状況に追い込んだアムノンは、第一王子として何のお咎めもなく、のうのうと生きています。そしていずれは王になろうとしていうのです。アブシャロムはそれがどうしても許せませんでした。そこで、二年間も待って、仇討をすることにしました。彼はすぐにも復讐したいと思ったでしょうが、しかし当然アムノンも警戒しているので、相手が油断するのを待って二年も自重したのです。

さて、先ほど「仇討」という言葉を使いましたが、仇討と聞いて思い浮かべるのが赤穂浪士でしょう。大石内蔵助率いる四十七人が吉良上野介に仇討をした話です。しかし、実は大石が復讐したかったのは、吉良だけではなく、同時に片手落ちの裁定を下した江戸幕府そのものだったという話があります。喧嘩両成敗という武士の定めがあったのに、浅野内匠頭は即日切腹、吉良はお咎めなしというのはおかしいではないか、ということです。ですから大石たちの仇討の背景には江戸幕府への異議申し立てがあったのです。アムノンを暗殺したアブシャロムにも、同じような思いがあったでしょう。アブシャロムは妹を辱めたアムノンに激しく怒っていますが、娘のために何もしなかった父親に怒り、また王でありながら正義を行わなかったダビデに激しく怒っていたのです。ではダビデはなぜ正義を行わなかったのか?それは保身のためでした。アムノンの強姦の罪を裁くなら、同じく強姦を犯した自分の罪も蒸し返されてしまうからです。それでも、アブシャロムにも父王への期待があったものと思われます。アブシャロムはダビデに対して逆らったり、危害を与えるようなことは、この五年間一切ありませんでした。その間、アブシャロムはダビデが何をするのかをじっと見ていたのです。もしかすると、ダビデは王として正義を回復するために行動してくれるのではないかという期待があったのです。しかし、ダビデは何もしませんでした。本当に、何もしなかったのです。これはアブシャロムを心底失望させました。そして彼はついに行動を起こすのです。

2.本論

それでは、今日のテクストを見て参りましょう。アブシャロムは実質的にアムノン殺害の罪について不問に付されることになりました。アブシャロムには行動の自由が与えられたわけですが、彼が始めに行ったのが私兵団を作ることでした。戦車と馬、それに五十人の兵士でした。ボディーガードにしては、かなり大規模な私兵です。アブシャロムはすでにこの時点で来るべきダビデとの対決を決意したのでしょう。

これまで申し上げたように、アブシャロムはすでにダビデを見切っています。ダビデは王としては相応しくない、ダビデは王位から追放されるべきだと考えています。ここで強調したいのは、アブシャロムの動機は自分が王になりたいというより、ダビデを王位から追い出したいということだったということです。アブシャロムはアムノンに裁きを下しました。そして今度はダビデに裁きを下そうとしていたということです。

しかし、アブシャロムは慎重な人間でもあります。アムノン暗殺にも二年間の時間をかけました。今度はさらに強大な相手、ダビデです。彼は少しずつ自分のシンパを増やそうとしました。彼が特に標的にしたのは、「ダビデは裁き人として正しいだろうか?」という疑問を抱いている人たちでした。そもそも、アブシャロムがダビデに不満をいだくようになったのは、アムノンがタマルを強姦した罪を裁かなかったことでした。この大きな罪を放置したダビデには、裁判官、裁き人になる資格はないのではないか、というのがアブシャロムの疑念だったのです。

また当時は、多くの人が争いの仲裁を求めて王であるダビデに訴えをしていましたが、当然ダビデの仲裁に不満を持つ人もいます。ダビデに自分に有利な裁定を下して欲しかったのに、そうではなかった、がっかりしたという人たちがいたわけです。そうした人たちにアブシャロムは近づいていきました。ダビデが裁き人として正しくないとアブシャロムが言うと、それには説得力がありました。なぜなら人々はタマル事件のことを知っており、アブシャロムがダビデの裁き人としての資格に疑問を呈するのを理解できたからです。こうしてアブシャロムは段々と自分に味方する人、シンパシーを感じる人を増やしていきました。アムノン暗殺にはアブシャロムは二年かけましたが、ダビデに反旗を翻す準備をするのには二倍の四年をかけました。ここからも、アブシャロムという人が目的を達するためには非常にしっかりと準備をする人物だったことが分かります。

そして四年が経った後、アブシャロムはダビデにヘブロンに行くことを願い出ました。ヘブロンは、ダビデがエルサレムに首都を移転するまでは、ダビデが王として治めていた重要な地です。エルサレムにはまだ神殿が建っていないので、ヘブロンは未だに宗教の中心地であったのでしょう。アブシャロムは亡命先のゲシュルから帰国できたことを感謝するためにヘブロンに行きたいとダビデに願いました。ダビデは何の疑いも抱かず、アブシャロムの願いを聞き入れます。しかし、アブシャロムはそこで重大な行動を取ります。アブシャロムはイスラエルの王になると宣言したのです。ヘブロンは、エルサレムに王都が移る前に七年間も王都だったので、首都機能はすべて揃っています。有力者も多く残っていたことでしょう。また、アブシャロムはエルサレムからヘブロンに行くにあたって、二百人の有力者を連れて行きました。彼らはアブシャロムの行動について何も知らなかったので、ある意味で人質のような形になりました。アブシャロムを支持するならば良し、そうでなければ軟禁されてしまったものと思われます。

アブシャロムはさらに、軍師を呼び寄せます。軍師とは、三国志の諸葛孔明のような、すごく頭の良い人です。その軍師の名はアヒトフェルです。この人物は今後非常に重要な役割を果たすことになります。この人物について、16章23節にはこう書いてあります、「当時、アヒトフェルの進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることばのようであった。」つまりアヒトフェルは神のごとく知恵のある人だったということです。そして、より重要なのは、彼はあのバテ・シェバの祖父、おじいさんだということです。そのような人がダビデに対する反乱軍に加わったのです。しかし、今やバテ・シェバはダビデの妻です。ダビデと彼女との間に生まれたソロモンは、王位継承権を持つ者であり、アブシャロムとはライバルだということになります。アヒトフェルが自分の子孫であるソロモンをイスラエルの王にすることができれば、アヒトフェルの一門は大変栄えることになります。ではなぜ、アヒトフェルはライバルであるアブシャロムに加勢しようと思ったのでしょうか?ここからはわたしの想像なのですが、おそらくアヒトフェルはバテ・シェバの夫であるウリヤがダビデによって謀殺されたことを心底怒っていたのだと思います。彼は孫娘のバテ・シェバの夫であるウリヤの誠実な人柄を快く思っていたのでしょう。その彼が、妻をダビデに寝取られて、さらには騙されて戦死してしまったことはアヒトフェルにとっては大変ショックな出来事であったと思われます。しかも、孫娘のバテ・シェバはダビデの妻に収まってしまったのです。こんなことを許してよいのか、という怒りを抱き続けていました。そんな彼だったからこそ、アブシャロムがダビデに抱いた怒りをよく理解できたし、共感すらしたことでしょう。ですから、アヒトフェルはあえて火中の栗を拾う形で、クーデターに加勢することにしたのだと考えられます。これはダビデ陣営にとっては大変な痛手です。なにしろ、イスラエル最高のブレーンがアブシャロム陣営に加わってしまったのですから。

アブシャロムがヘブロンで起こした行動は、すぐさまエルサレムにいるダビデに伝えられました。その時にダビデはどうしたか?アブシャロムが王になると宣言したからといって、ダビデが直ちに窮地に陥るわけではありません。なにしろエルサレムは難攻不落の要塞都市です。ずいぶん後の時代の話ですが、超大国であるバビロンやローマですら、エルサレムを陥落させるためには何年もかかっています。ダビデには親衛隊もいますので、アブシャロム軍が攻めて来たとしても十分に応戦できるはずです。そしてダビデが断固戦うという姿勢を示せば、大多数のイスラエルの人々もダビデに従ったでしょう。何と言っても、ダビデは生ける伝説、あのゴリヤテを石礫で倒した人物です。その彼が号令をかければ、若いアブシャロムなど一ひねりだったでしょう。しかし、なんとダビデは一目散にエルサレムから逃げ出すことに決めたのです。昔はダビデは勇猛果敢な勇士でしたが、王となってからのここ数年は戦場に出ることもせずに、面倒なことは全部ヨアブに任せてきました。自分の部下たちが命がけで戦っているのに、その部下の奥さんと不倫をするようなだらしのない王になっていました。そのダビデが、この国家の危機に臨んで果敢な行動に出れるかといえば、そうもいきません。普段からぶらぶら遊んでばかりいる王様が、いきなり国家の危機に臨んで勇敢に行動できるはずがないのです。これまでもダビデは、過去に大きなトラブルがいくつもありました。アムノンによる王女タマルの強姦や、その第一王子であるアムノンの暗殺という国を揺るがす大事件が起きた時にも、何もしませんでしたが、今回もなにもせずに、王都を捨てて当てもない旅に出るということにしたのでした。

このように、ダビデは巨人ゴリヤテと勇敢に戦った若い頃とは違って、難敵に立ち向かうための気迫がありませんでした。彼は王という周りが何でもやってくれるという立場に長くいたために、きつい言い方ですが骨抜きにされてしまっていたのでした。同時に、ダビデの中にはアブシャロムと戦いたくないという気持ちが強かったように思います。後にヨアブたちがアブシャロムに対して反撃するときにも、アブシャロムを私に免じて見逃してほしいと頼んでいます。相手が自分の息子だということも、ダビデが戦うことを一顧だにせずに、すぐに逃走することを選んだ理由の一つでしょう。

そのようなダビデですが、部下たちは健気にも彼を見捨てずについて来てくれました。それもイスラエル人だけでなく、イスラエルの敵国のペリシテ人のガテ人もついて来てくれました。そのリーダーがイタイという人でした。彼らはイスラエル人ではないので、いわば傭兵のような立場なのですが、彼も部下たちと共に落ち延びるダビデに従ってくれました。しかしダビデにも、外国人に頼ることに不安を感じていたようです。あなたがたは私と一緒に来る必要はない、あの王のところにとどまりなさい、と言います。「あの王」とはアブシャロムのことです。ダビデがあたかもアブシャロムを王として認めているような言い方です。なぜこんな言い方をしたのかといえば、おそらくダビデはイタイのことを試したのだと思います。この男は信用できるのか、忠誠心はあるのか、ということを試したということです。そのダビデに対し、イタイは「生きるためにも、死ぬためにも、しもべも必ず、そこにいます」とまで言い切っています。そこでダビデも彼を信用して一緒に連れていくことにしました。この問答からも、ダビデはエルサレムを放棄したといっても、王位を諦めてしまったわけでは決してなく、チャンスを待って復権を果たそうとしていたことが分かります。ダビデは信頼のおける仲間を選んで自分の周りに置いて、反転攻勢の機会を探ろうとしていたのです。ダビデはすっかり腑抜けになってしまったわけではなく、まだしたたかさを失っていなかったのです。

ダビデのしたたかさは、次の行動からも伺えます。ダビデが逃げ延びるときに、彼に従う人たちは「契約の箱」も一緒に持ち運ぼうとしました。この契約の箱は、日本の天皇家の「三種の神器」のようなもので、王の正統性を示すシンボルのような意味を持っています。ダビデが自分こそ正統な王であるということを示すために、契約の箱はなんとしても奪われるわけにはいかないのです。しかし、なんとダビデはこの契約の箱をエルサレムに残していくことを決断します。それはなぜか?ダビデはここで、契約の箱を「トロイの木馬」のように用いようとしたのです。トロイの木馬とは、敵国への贈り物の木馬の中にスパイを忍び込ませて、敵の内側に入り込んだというギリシアの有名な話です。ダビデも、この契約の箱と同時に、契約の箱を持ち運ぶことのできる人たち、すなわちレビ人の指導者たちをスパイとしてアブシャロムの下に送り込もうとしたのです。アブシャロムも、「契約の箱」を自分の下に届けてくれたということで、彼らを信用するでしょう。自分に寝返ってくれたのか、と。それがダビデの狙いでした。ダビデは、これから大祭司の家系を担っていくツァドクとその息子たちをアブシャロムにところに送り出してこう言います、「よく覚えていてもらいたい。私は、あなたがたから知らせのことばが来るまで、荒野の草原で、しばらく待とう。」この言葉の意味は、しばらくアブシャロムの下でスパイとして働いて欲しい、そしてチャンスが来たら、私に知らせてほしいということです。

しかし、そのダビデの下に頭を抱えたくなるような知らせが届きました。それはあの神のごとき知恵者のアヒトフェルがアブシャロムの陣営に付いたという知らせでした。アブシャロムは、先ほども言いましたが諸葛孔明のような人物です。そんな人物がアブシャロムの陣営に付いてしまったのです。そこでダビデはここでも一計を案じます。アブシャロムに対抗できる知恵者、諸葛孔明に対する司馬懿仲達のような人物をアブシャロムのところにスパイとして送り込むことにしました。その人物の名はフシャイです。ダビデはフシャイに、「あなたは、私のために、アヒトフェルの助言を打ちこわすことになる」と言って彼を送り出しました。

こうしてみると、武人としてのダビデはすっかり影を潜めていますが、老練な政治家としてのダビデは面目躍如ということになるでしょう。

3.結論

まとめになります。今回はアブシャロムが謀反を起こし、それに対してダビデがどのような行動を採ったのかということを見て参りました。特に強調したのは、アブシャロムが反乱を起こしたのは、王になりたいという野心のためではなかったということでした。彼が本当に王になりたかったのなら、クーデターなどという非常に危険な行動を採る必要はありませんでした。むしろおとなしくしていたほうが、王になるチャンスは大きかったでしょう。ではなぜ彼は反乱を起こしたのか?それは、ダビデは王としてふさわしくないということを彼が見切って、彼なりにダビデに裁きを下そうとしたということでした。ダビデは王でありながら、国家を揺るがす大事件に対して何の行動もとらない、そんな人物を王に留めておいてはならないと信じたのです。 

そしてこのアブシャロムの背後には神のご意思、御心があったのは間違いないと思います。ダビデに次から次へと家族の不幸が起るのは、神がダビデに自らの罪に向き合うように促しているからだと言えます。ダビデはバテ・シェバ事件をもう終わったことにしてしまおうとしましたが、そうはいきませんでした。自らが蒔いた種を刈り取らせるというのが神の御心でした。しかしダビデが自分の罪から目をそらすたびに、新しい不幸がダビデを襲います。それがついには国を揺るがす内戦へとつながってしまったのです。

私たちもここから重要な教訓を学ぶべきでしょう。キリスト教は「罪の赦し」を強調します。では、罪の赦しとはどのように実現するのでしょうか?祈って、「神様、ごめんなさい。わたしはこんな罪を犯してしまいました」と告白すればよいのでしょうか?確かに神に赦しを求めることは重要です。しかし、それだけでは済まないということです。私たちは罪を犯した相手に対し、また自分の罪そのものに真摯に向き合う必要があります。水に流すのではなく、その結果に真摯に向き合わなければなりません。誰かに危害を加えてしまったのなら、その相手から赦してもらうのがどんなに大変でも、そのために努力しなければなりません。相手に真摯に向き合わなければなりません。神様が赦してくれたからそれで終わり、ということではないのです。その努力をしないと、ダビデのように自分の犯した罪から追いかけられる人生になってしまうでしょう。主イエスも神殿での礼拝よりも人との和解を優先しなさいと教えました。それは礼拝を軽んじてもよいという意味ではもちろんありませんが、それぐらい和解のために真剣に行動しなさいということです。そのようなことを思いめぐらしつつ、今後もサムエル記を読んで参りましょう。お祈りします。

公平な裁き主である神よ、そのお名前を賛美します。主がえこひいきせず、誰をも公平に裁かれることをダビデの生涯から学んでいます。私たちもそこから神を畏れることを学ぶことができますように。われらの救い主、平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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アブシャロム第二サムエル14章1~33節 https://domei-nakahara.com/2025/03/09/%e3%82%a2%e3%83%96%e3%82%b7%e3%83%a3%e3%83%ad%e3%83%a0%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e3%82%b5%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%83%ab14%e7%ab%a01%ef%bd%9e33%e7%af%80/ Sun, 09 Mar 2025 04:28:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6229 "アブシャロム
第二サムエル14章1~33節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。サムエル記もいよいよ終盤に入って参りました。これからのサムエル記は、ダビデ王朝の第三王子、いえ第一王子のアムノンが殺されているので今や第二王子になりますが、そのアブシャロムを中心に展開していきます。ダビデはライバルであったサウル王家を滅ぼし、周辺民族や国家も次々と征服し、今や盤石な権力を手に入れたはずだったのですが、なんと最大の敵は内側に、その家族の中から出て来たのです。ダビデにとっての最大のライバルはその息子となったのです。

次回の話になりますが、アブシャロムはこれから父であるダビデ王に対して反乱を起こします。とはいえ、アブシャロムはもともと王位継承権第三位にあり、しかも彼の二人の兄たちはとても有能とは言えない王子たちだったので、反乱など起こさなくても父ダビデと良好な関係を維持し、宮廷でうまく立ち回って廷臣たちの支持を集めていれば、兄たちに先んじておのずと王位は手に入ったでしょう。反乱などというリスクを冒さなくても、気が熟せばいずれ王の地位は手に入ったはずです。アブシャロムは外見も素晴らしかったですが、同時に実力を兼ね備え、頭もよく勇気のある人物でした。彼こそ王に相応しいと思っていた人は多かったでしょう。ではなぜアブシャロムは反乱という最もリスクの高い方法に訴えてしまったのでしょうか?その謎を解くカギがあるのが今回の記述です。

今回の話は、一読すればダビデ王とアブシャロムの和解の話であるように見えます。ダビデとアブシャロムの親子は、三年間プラス二年間、つまり五年間の音信不通の冷却期間を経て、今やイスラエル王国の実質的ナンバーワンの実力者ヨアブの仲裁によって、公式に和解したように見えます。今回の最後の一文、「王はアブシャロムに口づけした」というのはそれを象徴する行為に思えます。しかし、実際にはこの後アブシャロムはダビデ王を打倒するための準備を着々と進めていきます。つまり、アブシャロムは父と和解するどころか、激しい憎悪を募らせていったのです。では、なぜアブシャロムは父ダビデをこれほど激しく憎むようになったのでしょうか?父からひどい扱いを受けた、いわゆるチャイルド・アビューズ、父からの虐待を受けてきたからでしょうか?いいえ、そうではありません。むしろ、アブシャロムは父から愛されて育ってきました。では何が不満だったのか?それは、ダビデが何もしなかったことなのです。何もしない、王としても父としても何もしなかったのです。これが心底アブシャロムを失望させ、それがついには殺意にまで至ってしまったのでした。

前回から今回の話まで、ダビデの家には様々な大事件が起こりました。最初に起った事件は、なんと兄が妹を強姦するという、前代未聞のスキャンダルでした。しかもその兄というのは王位継承権第一位、ダビデの次に王になるべき第一王子のアムノンだったのです。日本人にとっては、次期天皇になる皇子が妹を強姦したというような話です。まさに耳を疑う大スキャンダルです。しかし、そんな大事件を聞いたダビデは何をしたでしょうか?驚くべきことに、何もしなかったのです。その話を聞いたダビデは激しく怒りましたが、にもかかわらず恐るべき罪を犯した第一王子に何の処分も下しませんでした。こんなことがあり得るでしょうか?父親が強姦された娘のために何もしないなどということがあってよいのでしょうか?しかし、ダビデは何もしませんでした。辱められたタマルは、未来にすっかり失望してしまい、家に引きこもってしまいました。他方で、強姦したアムノンはお咎めなしで、のうのうと第一王子の地位にいます。タマルの兄のアブシャロムはアムノンに激しい怒りを覚えましたが、実の娘のためになにもしてくれないダビデに対しても強い憤りを覚えていたのも間違いないでしょう。

この第一の大事件が、第二の大事件を生み出します。今度は第一王子が殺害されるという事件です。また物騒なたとえで申し訳ないのですが、日本人にとっては次期天皇陛下になられる皇太子が殺害されるというような事件です。まさに国家を揺るがす事件です。しかも、第一王子を殺したのは第三王子なのです。王であるダビデは当然、国家反逆罪を犯した第三王子のアブシャロムを処罰しなければなりません。アブシャロムは母親の実家であるゲシュルという国に逃げ込みました。アブシャロムの母はゲシュルの王の娘でしたので、アブシャロムは王の孫ということになります。さすがのダビデ王も同盟国との戦争になりかねないことから、アブシャロムの引き渡しを求めることは出来なかったのかもしれません。しかし、ヨアブの策略によって三年後にアブシャロムはエルサレムに帰ってきました。そしていくらアブシャロムは王子だといっても、第一王子を殺害した大罪人です。ダビデ王は彼に相応しい裁きをくだす必要があります。そうでなければ、国の秩序は滅茶苦茶になってしまいます。にもかかわらず、今回もダビデは何もしませんでした。むしろ厄介事を避けるかのように、アブシャロムを無視し、二年間も会おうとはしませんでした。放置され、飼い殺しのようになったアブシャロムはイライラします。イライラしただけでなく、ダビデに対する不満や怒りが一層大きくなったでしょう。

ではなぜダビデは、この国家的犯罪ともいうべき二つの大事件について何もしなかったのでしょうか?そこには、王としての深謀遠慮があったのでしょうか。いいえ、そうではないでしょう。むしろダビデは個人的な理由からこうした問題に関わることから逃げたのだというのが私の見方です。まずアムノンによるタマルの強姦ですが、実はダビデ自身も全く同じ罪を犯していました。人妻であるバテ・シェバを強姦し、あろうことか彼女の夫でありダビデに忠実な兵士であるウリヤを策略によって謀殺してしまいました。しかし、ではダビデはこの恐ろしい罪の罰を受けたでしょうか?いいえ、彼は何の罰も受けませんでした。むしろ、自分は神に赦されたのだからということで、罰を受ける必要がないと正当化していたようにすら見えます。そんなダビデが、全く同じ罪を犯した息子に対して、自分は無罪にしたのに息子は厳罰に処するなどということができたでしょうか?いえ、さすがにそれはできませんでした。息子を裁けば、「王様は自分のやったことには何の責任も取らず、ウリヤの奥さんを我が物にしたのに、息子には責任取らせるんだ。サイテー」みたいな噂が立ってしまったことでしょう。それでダビデはアムノンの大罪を不問に付しました。その結果、一番の被害者はタマルでした。強姦されたのに、暴行した側の男は何のお咎めもなしです。それを知った世間は、「タマルもその気があったんじゃないの。だからアムノンは裁かれないんじゃないの。兄と妹の禁断の愛なんて、不潔よね」というような噂が立ってしまったことでしょう。そんな噂が流れれば、結婚前の若い女性からすれば死刑宣告も同じですよね。そのために、花のように美しい、明るい未来が待っていたはずのタマルは世捨て人のように兄の家で引きこもりになってしまいました。自分がかわいがっていた妹のタマルをこんなことにさせられて怒ったのは兄のアブシャロムでした。彼は暴行魔のアムノンに復讐を誓います。

そして、前回の説教でお話ししたように、アブシャロムは二年間も我慢して、機会を待ちました。アムノンを油断させるためです。そして、アブシャロムはアムノンに裁きを下しました。しかし、王であるダビデがアムノンを正しく裁いてくれていたのなら、アブシャロムはそんなことをする必要はなかったのです。そういう意味では、アブシャロムは無責任なダビデによる被害者だということになります。しかし、そうはいってもアブシャロムはクラウン・プリンスを殺した大罪人です。この人物は国家の基盤を揺るがせたのです。そのアブシャロムをダビデがどう扱ったのか、というのが今日の箇所です。では、その顛末を詳しく見て参りましょう。

2.本論

では1節です。ここではダビデがアブシャロムに「敵意をいだいていた」とありますが、この訳は行き過ぎであると思われます。ダビデがアブシャロムを憎んでいたのなら、ヨアブはどうしてアブシャロムをわざわざダビデのところに連れて来たのでしょうか?アブシャロムを殺したかったのでしょうか?いいえ、むしろヨアブの狙いはアブシャロムの復権でした。ですから、ヨアブはダビデが実はアブシャロムと会いたがっているので、その主君の思いをおもんぱかってアブシャロムを連れ戻そうとしたのでしょう。実際、「敵意をいだいていた」と訳されている箇所を直訳すれば、「ダビデの心はアブシャロムに向かっていた」となります。別に憎んでいたという意味ではないのです。敵視していたという意味は一つの選択肢としてはあり得ます。しかし基本的な意味は、単に向いているというものです。ヨアブは、ダビデは実はアブシャロムのことを気にしているのに気が付いて、いわば忖度してダビデのためにアブシャロムを戻らせようとしたのです。実際、最新の聖書訳である聖書協会共同訳では「ツェルヤの子ヨアブは、王の心がアブシャロムに傾いているのに気付いた」となっています。私たちの使っている新改訳の最新版でも「王の心がアブシャロムに向いている」と、従来の訳を訂正しています。 

ただ、ダビデも対面というものがあります。大罪を犯したアブシャロムのことを赦して帰国させるということは、王である自分からは言い出せないことです。王様は自分の子どもだけえこひいきしていると言われてしまうからです。そこでヨアブは、ダビデがアブシャロムを赦すと言わざるを得ない状況を作ってあげようとしたのです。ヨアブは、先にダビデの罪を暴き出した預言者ナタンのやり方を真似ることにしました。ナタンは、金持ちの男が自分の多くの家畜の一匹を屠ることを惜しんで、貧しい人のたった一匹の羊の奪い取った話をしました。ダビデはその話を聞いて怒り、そんなひどいことをした金持ちの男は死刑だ、と宣言しました。しかし、実はこの金持ち男はダビデだったという落ちがきます。

ヨアブはそれとまったく同じことをしました。ダビデのもとに、テコアというダビデの出身地であるベツレヘムからほど近い村からやってきた女性がいました。彼女はダビデの前で身の上話を始めます。彼女の夫は死んで、ふたりの息子が残りました。しかし、このふたりの息子が喧嘩をして、なんと一人がもう一人を殺してしまうという事件が起きてしまいました。この哀れな女性は夫と息子を相次いで失くしてしまったことになります。当時は女性は一人では生きていけない時代ですから、今やこの女性の最後の頼みの綱は、残された息子だということになります。しかし、この息子はもう一人の息子を殺した殺人者です。ですから親族全体はこの息子を殺せと母親に詰め寄ります。この女性は困り果てて、なんとかこの息子を救ってほしいとダビデに願い出たという、このような話でした。

ダビデはこの女を哀れに思い、王命として彼女の息子の恩赦を命じました。そして、自分の裁定に文句をいう人がいたら、その者を自分の所に連れてこいと命じました。ここで注意していただきたいのは、ダビデはここで兄弟殺しの罪を恩赦するという前例を作ったということです。実際は、この女性の話は作り話だったので、この恩赦も実際には意味のないものではあるのですが、それでも事実としてダビデは兄弟殺しの罪を赦すという前例をここで作ったのです。そこで、ヨアブの意を受けたこの知恵のある女はこの機会を見逃しませんでした。あなたは兄弟を殺した私の息子を赦した、それではなぜあなた自身の子どもを赦さないのか、と。ここでこの女はナタンと全く同じことをしたのです。つまり、あなたが赦すと語った息子は、あなた自身の息子なのだと。

ダビデは非常に頭の良い人ですから、ここですべてのカラクリに気が付きました。つまりこの女の話はすべて作り話であり、自分にアブシャロムへの恩赦を与えるように促すために仕組まれたものだと。そして、こんな大胆な仕掛けを王であるダビデに行えることができるのは一人しかいないと。それはヨアブです。今や王であるダビデすら、コントロールできない人物がヨアブです。そのヨアブが、この女を遣わしたのだとすぐに見破りました。そして女にそのことを問いただすと、女も白状しました。これはすべてヨアブの指図でやったのだと。そこでダビデはヨアブを呼んで、彼の願い通りアブシャロムを連れ戻してもよいといいます。ヨアブも喜び、すぐにゲシュルに向かってアブシャロムを迎えに行きました。

さあこれでめでたし、めでたし、となりそうなものですが、そうはいきませんでした。なぜならせっかくアブシャロムが戻ってきたのに、ダビデは彼に謹慎を命じて会おうとはしなかったからです。ダビデとしては、ここでアブシャロムに会うと彼の第一王子暗殺の件を追求せざるを得なくなる、そうして彼を裁くことになってしまうので、それは避けたいというある種の親心があったものと思われます。彼は決してアブシャロムを憎んではいなかったのですから。しかし、アブシャロムの方はそうは受け止めませんでした。三年も亡命して、やっと祖国に帰ってきたのです。しかし、そこでは自由を奪われ飼い殺しのような状態です。彼も第一王子を殺した以上、何らかの処罰は免れないという覚悟はあったでしょう。しかし、このようなどっちつかずの状態にとどめ置かれるということは予想していませんでした。こんなことなら、ゲシュルに留まっておればよかった、そこでは行動の自由もあったのだから、という気持ちになってきました。そして私が思うに、ダビデ王に対する決定的な敵意が生まれたのはこの期間ではないかと思います。つまり、ダビデは父としてだけでなく王としても失格だと。彼には決断ができない、面倒なことから逃げようとしている、そういう客観的な目で、もっと言えば冷徹な目でダビデを見るようになったものと思われます。五年という期間は大変長い期間です。もう怒りや激情に任せて、ということではなく、冷静にダビデを切る覚悟が出来て来たように思います。そこで彼は行動を再び起こします。ヨアブを無理やり動かして、王ダビデとの再会を迫ったのです。

こうして五年ぶりにダビデとアブシャロムとの再会が叶いました、ダビデとしては、万感の思いがあったでしょう。彼はずっとわが子アブシャロムのことを慕っていたのですから。ダビデがアブシャロムに口づけしたというのはもちろん本心から出た行動でしょう。しかしアブシャロムの心は冷え切っていました。妹タマルの名誉回復のためにはなにもせず、自分自身のことについてもヨアブにせっつかれるまでは何もしないダメな父王、無能な王だという侮蔑の思いすらあったように思います。

3.結論

まとめになります。今回はダビデとアブシャロムが一見すると和解したように見える場面に至るまでの、ダビデとアブシャロムの親子の心の動きを考えながら見て参りました。ダビデはまったく主体性に欠けた人物として描かれています。次々と起きる家族の悲劇的状況を傍観するだけの王です。そんなダビデに愛想を尽かせてしまったのがアブシャロムでした。彼はついにはダビデに対して殺意すら抱くようになってしまったのです。

この悲劇的結末に向かっていく事態を、どうすればよかったのでしょうか?ダビデはどこで間違えたのでしょうか。私には、問題は明らかであるように思えます。たとえば皆さんが会社に勤めているサラリーマンだとします。その社長がワンマン社長で、誰も逆らえないような人物であり、なんとその社長が部下の奥さんを凌辱し、その恥ずべき行為がばれないようにその部下を戦争が行われている非常に危険な国の駐在員にして、そこで紛争に巻きこまれて死ぬように画策したとします。しかしその一連の悪事が暴露された後、その社長は熱心なクリスチャンで、教会で自らの罪を涙ながらに懺悔し、教会も彼の罪を赦してくれたということでその社長の座に留まり、殺した部下の奥さんを愛人として囲っていたとします。そんな社長のいる会社で、あなたはこれからも働き続けたいと思いますか?ダビデはまさにそんな社長だったのです。いくら神に赦されたといっても、何の責任も取らない社長というのはあり得ないでしょう。せめて辞任して、殺してしまった部下への償いとして残りの生涯は社会奉仕をするとか、そういうことでもしなければ誰も納得しないでしょう。ですから、こんなことを言う牧師はいないかもしれないでしょうが、私はダビデは少なくとも退位すべきだったと思います。バテ・シェバを妻にするべきではなかったとも思います。ダビデが厳しく自分自身を律していれば、アムノンが同じような罪を犯したときに彼を厳しく罰することも出来たでしょうし、そうすればアブシャロムによる兄殺しの罪も起こらずに済んだのです。ですからすべてはダビデが自分に甘すぎた、神の赦しという大義名分に安住して自分の罪に向き合わなかったことから起きたことだと言えます。

教会は、キリスト教は確かに赦しの宗教です。大きな失敗をしてしまった人をただ切り捨てるのは教会としての正しい姿とは言えないでしょう。しかし、同時に赦しというものを安易に考えたり、あまつさえ悪用してもならないのです。たとえ神に赦していただいたとしても、罪を犯してしまった相手に真摯に向き合う、その人に対してできる限りの謝罪を行動によって示していかない限り、真の和解は成立せず、むしろ人間関係も社会も崩壊してしまうということがあるのです。今日の教会は、教会戒規というものを非常に嫌います。教会戒規とは、大きな罪を犯した教会員に対し、公の司法の場ではなく、教会として何らかの罰則を科すことです。しかし、今日では教会戒規は有名無実化していく傾向があります。たとえば不倫などの罪を教会員が犯したことが判明した場合でも、「イエス様も姦淫の女を裁かなかったじゃないか」というような話を持ち出してうやむやにしてしまう傾向があるのではないでしょうか。しかし、裏切られた配偶者のことはどうなのか、また崩壊した家族で絶望し途方に暮れる子どもの気持ちはどうなのか、ということを考えると、そういう問題を教会が「赦し」ということで曖昧にしてよいものか、という問題意識を私は持っています。先ほどのイエス様の姦淫の女の話も、あれはイエスを陥れようとした罠であって、一般化すべき事例ではないことも申し添えておきます。確かに私たちは弱い存在であり、完璧な人などいません。実際に、いろいろな過ちを日々犯してしまうものです。自分がそうした罪深い存在であるということは決して忘れてはならないことです。それでも、他の人の人生を狂わしてしまうような性質の罪、しかもそういう罪を故意に犯すということは見逃すことはできないということも言うべきでしょう。私たちは自分の行動が他の人に及ぼす影響の責任を取らなければならないのです。今の世の中は不倫などに寛容でもあるので、厳しいことを言うと嫌われてしまうことを恐れてしまいがちです。しかし、こうしたことを曖昧にしてしまった結果どうなるのか、ということを、これからのダビデの生涯から学んで参りたいと思います。お祈りします。

歴史を統べ治める神様、そのお名前を賛美します。今朝はダビデとアブシャロムとの破局に向かう親子関係から、私たちが罪にどう向き合うべきかを考えて参りました。そこから正しい教訓を得られるように私たちに知恵をお与えください。われらの平和の主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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惨劇と悲劇第二サムエル13章1~39節 https://domei-nakahara.com/2025/02/09/%e6%83%a8%e5%8a%87%e3%81%a8%e6%82%b2%e5%8a%87%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e3%82%b5%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%83%ab13%e7%ab%a01%ef%bd%9e39%e7%af%80/ Sun, 09 Feb 2025 04:48:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6172 "惨劇と悲劇
第二サムエル13章1~39節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。前回の説教で、私は二つの問いを提起しました。それは、ダビデがバテ・シェバ事件のことを本当に悔い改めていたのかという問いと、神はダビデのすべての罪を赦したのか、また赦したとするならば、その赦しとはいかなるものなのか、ということです。どういうことかと言えば、例えばある生徒が学校の大事な掃除道具を壊してしまったとします。その際に先生は、「もういいよ。このことは一切忘れてあげる」というかもしれないし、あるいは「あなたのしたことは赦してあげます。ただし、その掃除道具が壊れてしまったせいで他の生徒さんたちが不自由しているので、あなたはこれから一週間放課後に残って教室の掃除をしてくださいね」というかもしれません。どちらも赦したことには違いはないですが、その中身はだいぶ違いますよね。

今日の箇所は、この二つの問いに答えを与えてくれる箇所だと私は考えています。というのも、今日の箇所でダビデ家を襲った二つの悲惨な出来事は、ダビデが犯してしまった罪と深い関係があるからです。今回の最初の悲劇的な出来事、すなわち兄が妹を辱めてしまうという恐るべき醜聞は、明らかにダビデが人妻であるバテ・シェバを辱めたことと深い係わりがあります。聖書を読むと、神が人の罪を取り扱う場合、その罪について直接叱責するのではなく、自分が人に対して犯した罪を、今度は自分が被害者となって受けることにより、罪の重さを身をもって体験させるということをなさいます。その典型が族長ヤコブの場合です。ヤコブという人は大変頭の良い人で、それに対して双子の兄エサウは単純な人でいま風に言えば脳筋という感じでしょうか、ヤコブはそんな兄エサウを子馬鹿にしているところがありました。そしてついに、ヤコブは兄だけでなく父イサクまで騙して兄に与えられるはずの長子のための祝福を奪い取ったことがありました。しかし神様はこのヤコブの卑劣な行いを責めることはせずに、むしろ叔父ラバンの下に逃げ延びるヤコブの道中の安全を約束します。これなどを読むと、神様はヤコブを偏愛、えこひいきしていて、ヤコブの行った騙しごとすらも容認しているのではないか、と思われるかもしれません。しかし、そうではないのです。ヤコブはそれから先、叔父のラバンに何度も騙されます。騙す者が、今度は騙される者になったのです。ラバンはヤコブそっくりの、映し鏡のような人物でした。ヤコブは叔父に騙されることを通じて、人に騙されることでどんな気持ちになるのか、今まで自分が騙してきた兄や父はどんな思いで自分に騙されたのかを理解するようになります。こうしてヤコブは自らの過去の行いを深く顧みることになります。これは神のヤコブに対する裁きだと言えますが、それは教育的な裁き、ヤコブが人間的に成長するための裁きでした。ダビデ自身の子どもであるタマルとアムノンの事件も、ダビデに自らがバテ・シェバに対して行ったことを思い起こさせるために神が与えた試練だと言えるのではないでしょうか。

しかしこう言うと、それではあまりにタマルが不憫ではないかと思われるでしょう。父親のせいで、何の罪もないのに恐ろしい出来事に見舞われてしまったからです。実際に、タマルは本当に気の毒です。聖書全体を読んでも、これほどの悲劇に見舞われた女性はいないのではないか、と思えてきます。聡明で正しい心を持ち、美しい王女であった彼女の明るい未来は、この出来事のために永遠に閉ざされてしまいました。しかも、この悲劇をさらに暗いものとしているのは彼女の父ダビデが彼女の名誉や幸せのために何もしなかったことでした。ダビデはこの陰鬱な事件にかかわることを拒否し、明らかな加害者であるアムノンに対して何ら責任を問いませんでした。単に放置したのです。それは、この出来事が自分自身をしでかしたことを思い起こさせるものであり、もしアムノンを裁くならば、自分自身の過去の罪が蒸し返されてしまうことを恐れたのではないかと思われます。ダビデはもう自分の暗い過去を思い出したくなかったのです。しかしそのために、タマルの兄の怒りは収まらず、それが恐ろしい惨劇へとつながっていきます。ダビデが王としての責任、父親としての責任を放棄したために、さらなる悲劇がダビデ家を襲うことになるのです。そのようなダビデの姿を見ていると、彼は本当に自らの行動を悔い改めていたのか、自らの罪に向き合っていたのか、ということに大いに疑問符が付きます。彼は自分の罪から逃げることで、自分の最も愛する子供たちに恐るべき重荷を負わせてしまったのです。では、今日のテクストを詳しく見ていきましょう。

2.本論

ダビデには美しい奥さんが何人もいましたので、彼女たちとダビデの間の子どもたちは異母兄弟ということになります。アムノンというのは第一王子ですから、ダビデ王の後継者としては第一の候補になります。サウル王にとってのヨナタンのような存在です。彼の母はイズレエル人アヒノアムでした。ダビデの三人目の妻は、ゲシュルの王タイマルの娘マアカでしたが、そのマアカの娘がタマルでした。ゲシュルというのはヨルダン川上流の小国でしたが、マアカはその王女だったわけで、位の高い女性でした。タマルはその娘ですから、まさにお嬢様です。彼女の兄アブシャロムはダビデ家の第三王子でした。

このタマルという女性はよほど魅力的な女性だったのでしょう。第一王子のアムノンは、兄妹でありながら、そのタマルを恋するようになってしまいました。しかし、それが禁断の愛であることはもちろんアムノンも分かっていますから、悶々としていたのでした。ところが、そこにヨナダブという、頭は良いけれど道徳心に欠けた危険な人物が登場します。彼はアムノンがなにか悩みを抱えているのを見てとって、自分に打ち明けるように促します。そこでアムノンは自分が自分の妹への禁忌の愛に焦がれていることを打ち明けました。まともな人なら、なんとかそれを思いとどまらせ、別の女性に目を向けさせようとするのでしょうが、なんとヨナタブは、アムノンの無理筋な恋の手助けをしようというのです。彼はアムノンに入れ智慧をして、アムノンとタマルが二人きりになる状況を作り出そうとします。その作戦はなんと父王であるダビデを騙し、仮病のアムノンの介抱のためにタマルを寄こすようにさせるというものでした。ダビデ王の命令ならタマルも絶対に断れないからという、酷い作戦でした。アムノンも、さすがに王である父を騙すようなことをしては後で大変なことになると普通は考えそうなものですが、恋は盲目といいます、また自分は第一王子だという自惚れもあったのでしょう。父を騙すことさえしてしまうのです。バテ・シェバ事件のことはすでに宮廷内では知れ渡っていたでしょうから、アムノンも色恋沙汰では父ダビデも偉そうなことはいえないだろうと、ダビデを侮る気持ちがあったかもしれません。父親が浮気しているのに、その親が子どもの素行を注意しても、「どの口が言うのか」ということになりかねないからです。

ともかくも、ダビデはアムノンの嘘を信じて、娘のタマルをアムノンの介抱に行かせます。タマルも全く疑うことなく、お兄さんのためにと喜んで出かけていきました。アムノンは人払いをして、タマルに対して自分に食事を食べさせて欲しいと頼み、彼女を自分の寝室に呼びます。タマルもこのあたりから、何か変だと思い始めたかもしれませんが、相手は兄、しかも第一王子ですから、大丈夫だと自分に言い聞かせて兄のところに向かいました。すると、病気のはずの兄が床から起き出して、自分をつかまえるのです。この時タマルは初めて怖くなったのでしょう。いったい何が起こっているのかと、パニックになったかもしれません。そして兄アムノンの口から信じられない言葉を聞きました。「妹よ。さあ、私と寝ておくれ」と言われたのです。しかし、兄と妹です。レビ記18章9節で、妹を犯すことは禁じられています。そもそも聖書を持ち出さなくても、近親相姦は人類全体のタブーです。そんなことはできるはずがないと、タマルは必死に抵抗します。これは愚かなことだと。こんなことをしてしまえば、私たちは国中の笑いもの、面汚しになってしまいますと、兄アムノンに訴えます。それでも強引に迫ってくるアムノンに対し、せめて父ダビデに話を通してほしいと願います。父ダビデなら、何か良い考えで私たちのことも解決してくれるだろう、あなたは第一王子なのですから、父もあなたの願いをむげにはしないだろうと訴えます。それでも情欲に狂ったアムノンは力づくでタマルを辱めました。ダビデとバテ・シェバの場合にはこういう暴力的な記述はなく、単にダビデは彼女と寝た、となっていますが、タマルの件では「力ずくで」ということが強調されています。まさに女性の気持ちを完全に無視した強姦です。

しかも、さらに恐ろしいことに、タマルを辱めたアムノンは、その後に彼女を激しく憎むようになったというのです。まるでどうしても欲しかったおもちゃを手に入れたら、期待していたほど良くもなかったのでポイっと捨ててしまうわがままな子どものようです。旧約聖書では、族長ヤコブの娘ディナが異邦人の王子シェケムに辱められるという事件がありましたが、その後シェケムは平謝りに誤ってどうかディナを嫁に欲しいと願い出ています。強姦そのものは決して赦されませんが、責任を取ろうという態度はまともだといえますが、アムノンは自分のやったことが他人に与えた影響を全く考えようとしません。むしろ、衝動的な行動をした後に、自分のしたことの恐ろしさに気が付き、「この女がいたせいで、俺はこんなバカなことをしてしまったんだ。俺が悪いんじゃない、この女が俺を誘惑したんだ」というような、まったく無責任な責任転嫁を考え出してしまうのです。

このような人物がダビデ王家の第一王子であるということに衝撃を禁じ得ないのですが、こんなバカ息子を育ててしまったダビデにも親として大きな責任があるでしょう。そして、この愚かな人物のせいですべてを台無しにされたのがタマルでした。こんな愚かな兄に貞操を奪われ、さらには追い出されるという屈辱的な扱いを受けました。タマルも必死に抗議します。「それはなりません。私を追い出すなど、あなたが私にしたことより、なおいっそう、悪い事です」と訴えかけます。しかしアムノンはまるで下女でも追い出すかのように、召し使いを使って彼女を外に追い出して戸を閉めてしまいました。

タマルは頭に灰をかぶり、着ていたそれつきの長服を裂き、手を頭に置いて、歩きながら声をあげて泣いていた。

明るい未来を一瞬で奪われたタマルでした。生きているのも嫌になったでしょうが、そんな彼女を慰めてくれたのは実の兄のアブシャロムでした。いや、とうてい慰められることはなかったでしょうが、それでも絶望の淵での唯一の救いは兄の存在でした。兄は妹を慰めつつ、長兄アムノンへの復讐を心ひそかに誓ったのでした。

ダビデはこの事件を聞いて激しく怒りましたが、しかしアムノンを裁くことをしませんでした。ここにダビデの大きな問題がありました。王である自分の罪は不問に付したのに、第一王子の罪だけ厳しくさばけば、まさに片手落ちになってしまいます。自分の罪に厳しく向き合えなかったダビデは、自分の分身ともいえる第一王子の罪にも向き合うことができませんでした。それがタマルやアブシャロムに大きな失望を与えたのは想像に難くありません。ダビデはタマルの名誉と尊厳を回復するために、あらゆる手段を尽くすべきでしたが、それをしなかったのです。このダビデの不作為が、さらなる惨劇を招くことになります。

アブシャロムは一緒にいてわびしく暮らしている妹のタマルが不憫でなりませんでした。これから幸せな人生が待っているはずなのに、貞操を奪われ、その加害者には何のお咎めもありません。嫌な言い方ですが、傷物にされてしまったわけで、嫁の貰い手もいなくなってしまいました。それなのに、アムノンはのうのうと生きている、そのことが許せませんでした。とはいえ、相手は第一王子、ダビデ王に次ぐ権力者です。そのアムノンを討つとなると、自分の命さえ捨てる覚悟が必要です。それでもアブシャロムはタマルのために仇討をすることにしました。彼は二年間も機会を待ちました。大石内蔵助のような辛抱強さです。アムノンも自分を警戒しているだろうから、彼をどうやって自分の家に招くことができるか、それがアブシャロムにとっての問題でした。そこでアブシャロムは一計を案じました。まず王であるダビデを祝宴に招いて、しかもダビデが断らざるを得ないような状況を作り、ダビデの代わりにクラウン・プリンスであるアムノンを招くというものでした。これならアムノンも自分の招待に応じないわけにはいきません。

アブシャロムは、招待に応じないダビデに対し、それではあなたの代わりに第一王子のアムノンを招いて欲しいと願い出ます。ダビデも、なぜアムノンを招くのかと問いただして警戒しますが、アブシャロムが丁寧に懇願し、しかも他の王子たちも一緒だということで、まあいいだろう、王子同士で親睦を深めるのもよかろう、ということで承諾します。アムノンも、王命とあらばアブシャロムの招きに応じないわけにはいきません。しかも、王のダビデがいない以上、長兄の自分は主賓ということになります。彼の胸にも一抹の不安はあったでしょうが、ここは自分の威厳を示すためにも行くことにしました。

アブシャロムはこの千歳一遇のチャンスを逃しませんでした。彼は自分の部下たちに、アムノンが酔った時に彼を討てと命じます。とはいえ、相手は第一王子です。このようなだまし討ちで殺したとなれば、彼らも当然ただではすみません。決死の覚悟でことを成さなければなりませんが、驚くべきことにアブシャロムの部下たちはその命令に従いました。それは、不憫な王女であるタマルのために、仇を命に代えても取りたいという彼らの熱い思いがあったものと思います。また、彼らに命令を聞かせるアブシャロムのカリスマ性も大したものでした。そして、アムノンの殺害は計画通りに決行されました。

他の王子たちは恐ろしくなって一目散に逃げ去りました。アブシャロムが殺したのはアムノンただ一人でしたが、この知らせに尾ひれがついてしまい、なんとダビデの王子たち全員が殺されたという一報がダビデに届きました。ダビデも家来たちも衝撃を受けましたが、しかし、あのアムノンに要らぬ知恵を付けた危険な人物、ヨナダブは正確な情報を収集していて、殺されたのはアムノンだけだとダビデに報告しました。ヨナダブがタマルの事件のことをどう思っていたのかは分かりませんが、彼なりに責任を感じていたのかもしれません。ここまでの大事になるとは思っていなかったのでしょう。そして、ヨナダブの言う通り、他の王子たちは無事でした。とりあえず、最悪の事態だけは避けられたのでした。

アブシャロムは母マアカの実家であるゲシュル王のところに逃れました。おそらくアブシャロムは、この復讐劇を準備する段階で逃げ延びる算段も立てていたのでしょう。ゲシュル王も、事の次第を聞いて、たとえダビデ王と対立することになろうともアブシャロムを匿うことを決めていたのでした。

こうして、惨劇は終わりました。ダビデは王として、この第一王子暗殺という国家の一大事に対処しなければなりませんでした。日本でも、万が一天皇のクラウン・プリンスが暗殺されるなどということがあれば、国家の威信に架けてどんなことがあっても犯人を捕まえるでしょう。しかし、ダビデはこの時も全く動くことはしませんでした。もしアブシャロムの罪を問うならば、その原因となったアムノンによるタマル強姦の罪を裁かなければなりません。しかし、アムノンを裁くならば同じ罪を犯した父ダビデの罪をも問わなければなりません。結局自分の所に帰ってきてしまうのです。それでダビデは今回も何もしませんでした。しかし、このダビデの責任放棄が、ダビデの家族にも、またイスラエル王国にもさらに深刻な亀裂をもたらしてしまうのでした。

3.結論

まとめにあります。今回はタマルという聡明な女性を襲った悲劇、そしてダビデ家の家族の中での兄弟殺しという惨劇を通じて、二つの問題を考えてみました。それはダビデが本当に自分の罪を悔い改めていたのか、また神はダビデの罪を無条件で赦し、忘れ去ったのか、という問いでした。そして、答えはいずれも「否」ということにあると、結論付けざるを得ませんでした。

神は確かにダビデに直接罰を下すことはしませんでした。しかし、こともあろうに自分が行ったのと全く同じことを自分の長男が行うという現実に直面させられました。しかも毒牙に架かったのは人妻ではなく、まだ男を知らない自分の娘だったのです。この恐ろしい現実を前にしてダビデは何をしたでしょうか。彼は目を閉ざしたのです。自分の罪を思い起こすのを避けるかのように、この息子の罪をも直視しませんでした。そのため、タマルは貞操だけでなく、名誉も、また未来も失ってしまいました。この妹の絶望的な状況を怒ったのは兄アブシャロムでした。彼はきっと、兄アムノンだけでなく、妹の名誉回復のために何の行動も起こさなかった父ダビデのことも深く憤っていたのでしょう。そうして彼は二年待って、妹のための復讐を遂げました。ただ、もしダビデが正しくアムノンを裁いていて、少なくとも廃嫡にするとか、断固たる処置を取っていればこの惨劇は起こらずに済んだでしょう。したがって、ダビデの罪は誠に重かったと言わざるを得ません。ダビデの悔い改めのなさが招いた悲劇だったのです。

さらにいえば、私たちは神の裁きの厳しさに戦慄すら覚えます。神は不正を黙って見逃すようなお方ではありません。蒔いた者を刈り取らせる、というのが神が人の取り扱う上での原則です。彼はダビデに、ウリヤ殺しの罪の重さを恐ろしいほど厳しい手段で直面するように迫ります。しかしダビデはそれから逃げ続け、さらなる悲劇を自らに招いていくことになるのです。

私たちも、このダビデの転落の人生から多くのことを学ばされます。「罪の赦し」というのは簡単なものではありません。私たちが罪に直面することから逃げると、それはどこまでも私たちを追いかけるのです。神は私たちの罪を赦す前提として、徹底的な悔い改めを求めておられるということを忘れてはいけません。神の前に、また人の前に、謙虚に歩んで参りましょう。お祈りします。

憐み深い主よ。あなたは私たちを赦されます。しかし同時に徹底的な悔い改めをも求めておられます。そのことをダビデの生涯から学ぶことができますように。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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ダビデは悔い改めたか第二サムエル12章1~31節 https://domei-nakahara.com/2025/02/02/%e3%83%80%e3%83%93%e3%83%87%e3%81%af%e6%82%94%e3%81%84%e6%94%b9%e3%82%81%e3%81%9f%e3%81%8b%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e3%82%b5%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%83%ab12%e7%ab%a01%ef%bd%9e31%e7%af%80/ Sun, 02 Feb 2025 03:59:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6140 "ダビデは悔い改めたか
第二サムエル12章1~31節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。第二サムエル記を読み進めて参りましたが、前回はサムエル記全体の中でも重大な分岐点となる箇所でした。それは、ダビデが途方もない罪を積み重ねていく場面でした。彼は自分のために命がけで戦っている兵士の妻を寝取ってしまい、その罪を隠すためその勇敢な兵士を戦場で謀略によって殺します。罪を隠すためにさらなる罪を重ねていく、そのような泥沼にはまっていくダビデの行状を見て参りました。

驚くべきことに、その間、ダビデは神のことをすっかり忘れてしまっていたようでした。少なくとも、ダビデは神がすべてを見ているという意識を失っていました。今やダビデは絶対権力者として、まるで神のごとくなんでも好きなように振舞えると思っているかのようでした。そして、自らの罪を暴く恐れのある人を排除した後は、何食わぬ顔をして日常生活に戻っていきました。もちろん、ヨアブのような人物はすべてお見通しだったでしょうが、ダビデはヨアブが自分を裏切ることはないと確信していたようです。しかし、ダビデは預言者によって、神にはすべてがお見通しであることを再び気づかされることになります。今日はダビデが自らの罪に直面させられて、どのように行動したのかを考えて参ります。

ダビデは当時の基準でも、また21世紀の現代の基準でも、到底赦されない、非常に重大な罪を犯したのですが、にもかかわらず多くのクリスチャンはダビデに同情的な方が多いように思います。人間はみな罪人ではないか。ダビデも人間だったのだ。ダビデは悔い改めたではないか、その姿勢は信仰者の鑑ではないか、と考える方も少なくないと思います。今日の場面で確かにダビデは「私は主に対して罪を犯した」と告白しています。神もそれを見逃してくださった、と預言者ナタンも言っていますので、ダビデの悔い改めは神も認めた本物の悔い改めではないか、と私たちはダビデに同情、あるいは共感さえするかもしれません。そしてこんな大きな罪でさえ、神は赦してくださるのか、という安心感を覚えるかもしれません。

ダビデの悔い改めが本物だと思える大きな理由の一つは詩篇の存在でしょう。詩篇51編はバテ・シェバ事件の後にダビデが歌ったものだとされていますが、その胸を打つ悔い改めの言葉を聞いて、ダビデこそ本物の信仰者、神の人ではないかと私たちは思うのです。しかし、しばしば言われているように詩篇のダビデの作と言われているものは、実際には後世の人々がダビデを偲んで詠んだもの、あるいはダビデの気持ちになって詠んだものだとされています。したがって、それはダビデの作ではない可能性の方が高いのです。そして、もしそれがダビデの手によるものだったとしても、この歌を詠んだからダビデの悔い改めは本物だったとは必ずしも言えないように思います。なぜなら、悔い改めは言葉ではなく行動によってこそ示されるべきものだからです。今後のダビデの物語を見ていくと、彼は自分自身の罪に向き合うのを避け続け、そのために彼の家族はバラバラになっていくのが分かります。そうした姿を見ていると、ダビデの悔い改めとは何なのか、と考えさせられてしまいます。

そもそも、悔い改めとは誰に対してするべきものなのでしょうか?詩篇51編を読みますと、ダビデの罪は神に対して、神のみに対してなされたものだということが強調されています。ダビデも、自分は神に対して罪を犯したと告白しています。しかし、ダビデが罪を犯したのはバテ・シェバであり、さらには彼女の無実の夫であるウリヤに対してだったのではないのでしょうか?サムエル記を読み進めても、ダビデが死んでしまった、いや彼自身が殺してしまったウリヤに対して詫びる気持ちが少しも表されていないのはどういうことなのでしょうか?この問題について、私も印象深い思い出があります。私が英国に留学中、熱心なクリスチャンの韓国の友人がいました。彼と罪の赦しの問題を話し合っているときに、彼はある有名な韓国の映画の話をしてくれました。それは「シークレット・サンシャイン」という映画です。恥ずかしながら私は未だにこの映画を見たことはないのですが、あらすじはだいたい聞きました。それは、息子を殺されたシングルマザーが、絶望の中で悩み苦しんでキリスト教に出会うという話です。彼女はそうして信仰を持つようになります。そして、自分は神に赦されたのだから、息子を殺した犯人のことも赦さなければならないと思うようになり、意を決して殺人犯に面会に行きます。そして、その殺人犯の相手に「私はあなたを赦します」と言おうとした矢先に、その男が彼女に「私は赦されている!」と告げるのです。もちろん、私は神に赦されている、という意味です。彼は平安に満ちた顔をして、私は神に赦されている、あなたのことも祈っていますよ、と告げるのです。私が赦していないのに、どうしてあなたが赦されるのか?彼女は衝撃を受けて気を失ってしまいます。その後のストーリー展開の詳しいことは知りませんが、大体想像は尽きます。私の韓国の友人も、この映画を見て「罪の赦しとは何か?」と考えてしまったそうです。

ダビデの話に戻ると、このサムエル記の物語の展開では、ダビデは神に対しては罪を認めて赦しを乞いますが、自分が直接過ちを犯した人に対して償いや悔い改めをしているようには見えないのです。すべてを神と自分の間の問題に還元しようとしているように思われます。私がダビデの悔い改めに疑問を抱くのはそのためです。「罪」の一つの定義は神の掟を破ることです。ですからあらゆる罪は神に対して犯されると言えます。しかし、姦淫や強姦、詐欺や殺人で直接的な被害に遭うのは神ではなく人です。ですから、神を冒涜するような言葉を口にするというような罪は神に謝罪すべきですが、人に対して犯した罪はその相手に対して謝罪する必要があります。ダビデの場合は、殺してしまったウリヤに対してはもはや詫びることができませんので、補償すべき対象は遺族のバテ・シェバということになりますが、しかしそのバテ・シェバはダビデの欲望の対象でもあります。ダビデはバテ・シェバを手に入れ、彼女もそれを受け入れているように見えます。しかし、ではウリヤはどうなってしまうのか、彼のことは忘れ去ってよいのか、という疑問が生まれます。しかし、神はウリヤのことを忘れてはいませんでした。神がウリヤのことを大切に思っておられるのは、これから見ていくナタンのたとえを見れば分かります。また、ナタンは神がダビデを赦したとは言っていないことに注意しましょう。神は見過ごした、とだけ言っています。本来なら罰するべきダビデの罪を罰しない、見過ごすということです。それはダビデを赦したというより、むしろ先にダビデと結んだ契約、つまり罪を犯したからといってダビデの王位を取り去ることはしないという約束を守ったということです。そのためにダビデは死刑になることも、退位させられることもありませんでした。しかし、それでも神はダビデに罪の刈り取りを要求し、ダビデはその後の人生でまさに罪の果実を刈り取ることになるのです。それでは、今日のテクストを読んで参りましょう

2.本論

では12章の1節からです。サムエル記の記述では久しぶりに「主」が登場します。もちろん、主・神はいつでもどこでもおられるのですが、ダビデの意識から主のことが忘れ去られていたので、こんなに久しぶりの登場になるのです。神はダビデのしていることを黙ってご覧になっていたのですが、ダビデがウリヤ殺害をなかったもののようにして普通の生活に戻ろうとしているのをご覧になって、もはや黙ってはいられなくなったのでしょう。預言者ナタンをダビデのところに遣わします。しかし、ナタンはいきなりダビデのことを責めるわけではありません。むしろ、全然関係のない話を始めたように見えます。それは、ある気の毒な貧しい人の話でした。この貧しい人は小さな子羊を大切に育てていたのですが、もう一人の金持ちの男がいて、彼は羊と牛をたくさん持っていたにもかかわらず、羊を屠る必要があったときに自分の家畜を惜しみ、たった一匹の子羊しかもっていなかった貧しい男からその子羊を取り上げてそれを屠ってしまったという話でした。

読者の方々は、この貧しい男がウリヤで、金持ちがダビデその人だとすぐに気が付くでしょうが、驚くべきことに当のダビデはまったくそれに気が付いていません。ここからも、ダビデはどうもウリヤのことで良心の呵責に苦しみ続けていたとは思えないのです。自分の行いを心の中で密かに悔やんでいたとしたら、ナタンが自分のことを仄めかしているのだとすぐに気が付いたでしょう。しかしダビデはナタンの話を聞いても、それが自分のことだとは全く思わなかったのです。ダビデは愚かな男ではありません。それどころか大変賢い男です。それゆえ、この時の彼の鈍感さには驚くべきものがあります。それどころか、ダビデはナタンのたとえ話を本当の話だと思い込み、この金持ちの男の非道な行いに立腹します。そして、貧しい人から子羊を奪った男に死刑を宣告し、さらに貧しい男に四倍にして償いをすべきだと命じます。モーセの律法に照らすならば、羊を盗んだ人が死刑だというのは重すぎる罰であるかもしれませんが、四倍にして償うというのは律法の教え通りです。ダビデはこの羊泥棒の金持ちに重すぎる刑罰を科していることになりますが、この男が実はダビデだと分かっている人には、ダビデの命じた罰が実は律法通りだということは明らかでした。モーセの律法によれば両者が同意の上で姦通した場合は男女とも死刑、強姦の場合は男だけが死刑になるべきだからです。ダビデとバテ・シェバの場合にはダビデが一方的に襲ったのか、あるいはバテ・シェバの方にもある程度その気があったのかというのは正直よくわかりません。聖書テクストからは、どちらの解釈からもあり得るように思います。しかし、いずれにせよダビデは死刑に当たる罪を犯していたのです。ですから、ダビデは図らずも自らの犯した罪に対して正しい裁きの宣告を下していたのです。

ダビデがそのような裁きの宣告をした後、預言者ナタンは爆弾発言をします。ダビデに向かい、「あなたがその男です」と宣告したのです。ナタンはダビデの罪を白日の下に暴き出し、こう宣告します。

「今や剣は、いつまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしをさげずみ、ヘテ人ウリヤの妻を取り、自分の妻にしたからである。」主はこう仰せられる。「聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の下で、このことを行おう。」

これが神の裁きの言葉でした。注意していただきたいのは、その後にナタンが神はダビデの罪を見逃してくださったと言ったにもかかわらず、神がここで語った裁きがすべてダビデの身に起きるということです。文字通りに、「その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる」という預言はそのまま成就することになります。このことから見ても、神はダビデの悔い改めの言葉にもかかわらず、ダビデを単純に赦したわけではないのが分かります。

ともかくも、ダビデもこのナタンの言葉にハッとし、「私は主に対して罪を犯した」と告白します。ナタンはその言葉を受け入れますが、しかしダビデとバテ・シェバの不義の子は死ぬだろうと宣言します。ダビデはその子の命が助かるようにと神に懇願し、断食をします。しかし、その甲斐なくダビデとバテ・シェバの最初の子どもは死んでしまいます。とはいえ、ダビデはその後はさばさばとしたもので、子どもを失って悲しんでいるバテ・シェバのところに行き、そして二人目の子どもが生まれます。その子こそ、あのソロモンです。

それから再びヨアブが登場します。ヨアブはダビデに代わってアモン人討伐を進めていましたが、一番最後の手柄をダビデのためにとっておきました。ここらへんもヨアブは抜かりがないというか、したたかです。上司というのはあまり部下が手柄を立てると部下を煙たがるものです。その典型がサウル王とダビデの関係で、サウルも若き武将のダビデの武勲を妬み、ダビデを殺そうとしました。ヨアブはそこら辺をよく心得ていたので、一番おいしいい手柄をダビデに与えて主人のご機嫌を取っていたのです。ここからも、ダビデがヨアブの手の中で転がされていたのが分かります。

3.結論

まとめになります。今日はダビデがどのようにして自らの犯した罪と向き合ったのか、ということを考えて参りました。確かにダビデは、ナタンに自らが犯した罪を指摘された時にすぐにそれを認め、神の前に罪を告白しました。また、ダビデはサウル王のように王失格を宣告されることもありませんでした。しかし、ダビデが本当に悔い改めていたのか、また神がダビデのすべての罪を赦したのか、というのはこの時点ではまだ明らかになっていないというべきでしょう。なぜなら、悔い改めとはその行動を通じて表わされるべきものだからです。ダビデが自らの罪に真剣に悔い改めて、生き方を改めようとしていたのかどうかは、その後のダビデの歩みが明らかにするでしょう。

また、罪の赦しの問題もそう簡単ではありません。クリスチャンは、罪の赦しとは神が人を赦すことだと考えます。しかし、このダビデの一件から明らかなように、私たちが犯す罪とは他の人間に対して犯す罪がほとんどです。神を侮辱する言葉を吐く場合は、神が直接の被害者になるのでしょうが、私たちの行う詐欺や暴行、殺人や性的犯罪は人間を相手に犯すものです。罪の赦しは、こうした相手に赦されて初めて実現するものではないでしょうか。しかし、実際に自分が被害を与えた相手に赦してもらうことは大変に難しいことです。どんなに誤っても赦してもらえなかった、という経験をしたことは私たちも人生において一度や二度ではないでしょう。だから、相手に赦してもらうことは置いておいて、何でも赦してくれる神の赦しを受けることで満足する、というような心根がクリスチャンにないだろうか、と思わずにはおられないのです。もちろん、あらゆる罪は神の法を犯すことですから神に赦される必要があります。しかし、それに安住して自分が罪を犯した、損害を与えた相手からの赦しの問題を無視してはならないとも思います。相手に赦してもらうためには言葉だけでは足りません。誠心誠意の行動が必要です。償いきれないような罪でさえも、できるだけのことはすべきだということです。

ダビデの場合、彼が本当にウリヤに悪いと思っているのなら、彼が深く愛していたバテ・シェバをどうして自分の妻にできたのか、と私などは思ってしまいます。もちろん未亡人になったバテ・シェバが生活に困らないようにすべきなのは当然のことです。しかしそれと彼女を自分の妻にしてしまうこととは違うのではないでしょうか。ダビデは神に赦されたと思ってそれで満足してしまい、それ以上のことはしなかったように思えるのです。

私たちクリスチャンにとって、罪の赦しとは非常に大切な事柄です。そして、神は実際に私たちの罪を赦してくださいます。しかし、神の赦しだけを求めて、自分が罪を犯した直接の相手に向き合うことを拒むなら、それは本当の意味での悔い改めではないように思います。これは大きなテーマですので、これからサムエル記を読み進める上で、いつも念頭に置いておきたいことでもあります。ちょっと尻切れトンボに思われるかもしれませんが、この件について語るのは今日はここで留めておきたいと思います。お祈りします。

私たちを赦してくださる神様、そのお名前を賛美します。しかし、同時に私たちは自分が直接罪を犯してしまった相手に向き合う必要もあります。この問題は非常に深刻な問題でもありますが、そのことに向き合う力もお与えください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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ダビデ家崩壊の始まり第二サムエル11章1~27節 https://domei-nakahara.com/2025/01/19/%e3%83%80%e3%83%93%e3%83%87%e3%81%ae%e8%aa%a0%e6%84%8f%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e3%82%b5%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%83%ab11%e7%ab%a01%ef%bd%9e27%e7%af%80/ Sun, 19 Jan 2025 03:20:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6111 "ダビデ家崩壊の始まり
第二サムエル11章1~27節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。今日はサムエル記の中でも、いやおそらくは聖書全体の中でも、最も衝撃的な箇所の一つを読んでいます。それは、我らが英雄であったはずのダビデが決定的な、また致命的な過ちを犯す場面です。それも悲劇的、宿命的な過ち、つまり避けようのない過ちではなく、ただひたすら浅ましく、不愉快な過ちです。しかも、たった一度の過ちではなく、罪の上に罪を積み重ねていくという、泥沼にはまりこむような過ちなのです。そして、この出来事を契機としてダビデ家はボロボロになっていきます。

このバテ・シェバ事件として知られる出来事をどう理解すべきか、というのが今日の説教の大きなテーマです。ここで申し上げたいのは、ダビデはたった一度の過ちで、ほんの出来心のせいで人生の後半を棒に振ってしまったということではないということです。むしろ、このような深刻な罪をおかしてしまうような前兆、あるいは伏線があったということです。私のこれまでの説教について、ダビデの悪い面を殊更に取り上げているのではないか、という印象を持たれたかもしれません。ダビデに良い印象を持たれている方には、私の説教はダビデの悪い面ばかりを強調する、偏ったものに思えたかもしれません。しかしそれは、この一連のバテ・シェバ事件を起こしてしまうような問題がダビデの中に既にあったということを示したいためでした。「ハインリッヒの法則」と呼ばれるものがあります。これはアメリカの安全技師のハインリッヒさんが考案した法則なのですが、1件の重大事故の背後には29件の軽い自己、さらにその背後には300件の一歩間違えれば事故につながりかねなかったヒヤリとする出来事がある、という法則です。私たちが一番よく知っている事例は原発事故でしょう。福島原発の事故は、たった一度の例外的な大事故ではありません。それまでも、日本の原発はあわやと思われる事故やアクシデントを繰り返し起こしてきました。運が良かった、ということで済ませてきた出来事が多くあり、それらの出来事について国民のほとんどは知りません。しかし、ついに運が悪かったでは済まされない重大事故が起きてしまったのです。

ダビデの今回の出来事にも、同じようなことが言えます。これまでのダビデの行動にはあからさまな罪と呼べるものはほとんどなかったという印象を持たれるかもしれません。しかし、ダビデの一つ一つの行動を見ていくと、その動機には何か不純なものがあるのではないか、と思わせるものがいくつもありました。その一つが、サウル家の有力な武将であるアブネル殺害に至る様々な出来事でした。ダビデは、主君であるサウル家の王のイシュ・ボシェテを裏切ろうとしたアブネル、この奸臣ともいうべきアブネルと手を結ぼうとしました。しかし、結果としてアブネルもイシュ・ボシェテも暗殺されてしまいました。ダビデはこの二人の死に直接は手を下してはいませんが、しかし彼らの死はダビデの王権確立には非常に都合の良い出来事でした。この二人の死によって、サウル王家が実質的に崩壊したからです。けれども、ダビデは本当に彼らの死に責任がなかったのでしょうか?彼らを殺した人たちは、ダビデのためにそうしたのだと言えます。ダビデにとっての邪魔者を殺せばダビデに喜んでもらえる、取り入ることができると考えて行動したのです。それに対してダビデは有難迷惑だとばかりに、そうした行動を非難します。非難はしますが、アブネルを殺したヨアブの罪は不問に付します。不問にするどころか、ダビデはますますヨアブを頼るようになります。そして、自分の手を汚したくないときには決まってヨアブに汚れ役をやらせます。ヨアブもそれを引き受けますが、そのためにヨアブのダビデに対する影響力はますます大きくなっていきます。今回のバテ・シェバ事件はまさにその典型です。

このように、人が大きな罪を犯してしまうのは、たった一度の出来心というよりも、そこに至るまでの多くの小さな罪、あるいは見えない罪の積み重ねがあってのことなのです。私たちが小さな罪についても十分気を付けるべきなのは、そのためです。主イエスが「腹を立てるな、そういう人はさばきを受けることになる」と言われたのは、神様はあなたのどんな小さな罪も見逃しませんよ、心の中で怒っただけでも地獄に落とされますよ、と脅したかったためではありません。神様はそんなに残酷なお方ではありません。むしろ、小さな怒りの感情にも気を付けなさいということです。そういう小さな感情も、ボヤが森全体を燃やしてしまうように、放置していくと暴力や最悪の場合には殺人にすらつながりかねない、ということなのです。ですから自分の中の負の感情に気が付いた時にはすぐにそれと向き合い、対処しなさいということなのです。罪も同じです。これくらいはいいや、と放置せずに、真剣にそれと向き合っていくことが、私たちを大きな罪から守ってくれるのです。怒ったら、そのままにしないですぐにその人と仲直りをする努力をしなさい、これが主イエスの教えなのです。ダビデはそうしたことをしてきませんでした。そうした霊的怠慢が、このような重大な罪として結実してしまいました。では、今日のテクストを読んで参りましょう。

2.本論

さて、11章からの話は、前の10章の話の続きとなっています。ダビデは残虐非道な王であるアモン人の王ナハシュと同盟関係にありましたが、ナハシュが死んでハヌンが跡を継ぐと、今度はそのハヌンと同盟関係を維持しようとしました。しかしハヌンはダビデが近隣諸国を次々と征服していることを警戒し、次は自分たちを攻めるのではないかと考えてダビデとの対決姿勢をあらわにします。挑発を受けた格好になったダビデは、アモン人との戦いを決意します。しかし、問題はダビデはもはや王としてイスラエルを率いて戦おうとはしなくなっていたことでした。これまでの戦いもヨアブに丸投げで、今回の11章でも再びヨアブを戦場に行かせて、自分はエルサレムに留まっています。あのナポレオン・ボナパルトも、若い時は部下が止めるのも振り切って戦場では先頭に立って全軍を鼓舞していたと言われますが、皇帝になった後はいつも軍隊の一番後ろの安全な場所に留まって姿を表そうとしなかったと言われています。また、私の友人でフランスで研究をしていた人から聞いた話ですが、フランスの大学の教員は教授職を得るまでは研究などを必死に頑張って業績を上げようとしますが、ひとたび教授になってしまうと後はのんびりしているのさ、ということでした。人間は、ある地位までたどり着くと、もうあえて危険を冒そうとせず、その地位から得られる果実を楽しもうとしてしまうのかもしれません。まさにダビデがそうでした。若い時はあれほど勇敢に戦ったダビデですが、今や部下たちが戦っている最中にも安眠をむさぼっていたのです。

しかも、その怠慢たるや甚だしいものでした。部下たちが戦場で必死に戦っている時にもダビデは昼寝をしていて、やっと夕方になって起きてきました。しかも、それから仕事をするのではなく、見晴らしの良い屋上に行って散歩を楽しんでいたのです。するとダビデは裸の女性が水浴びをしているのを発見しました。しかし、いくら古代世界といってもこんな状況はあり得るのでしょうか?

日本の有名なクリスチャンの女性作家は、バテ・シェバはダビデがいつも屋上で散歩するのを知っていて、彼に見えるように自分の裸をさらしたのだ、つまりは誘惑したのだ、ということを書いています。これが本当かどうかは分かりません。サムエル記はバテ・シェバという女性の内面について何も記していないからです。しかし、後にわが子ソロモンが王位継承権を争っている時のバテ・シェバの行動を見るならば、結構食えない女性だったのではないかという気がします。単なる哀れな被害者とは思えないということです。バテ・シェバはそれなりに裕福な家庭の人ですから、そういう人が外から見えるような場所で裸になって体を洗うというような行動をしたのはにわかに信じがたい気もします。しかし、もしダテ・シェバの行動にいくらか疑問が残るとしても、ダビデの罪が減じるわけではありません。痴漢に遭った人がセクシーな服を着ていたから、痴漢をした人の罪が減るなんてことは絶対にないように、ダビデの罪もダビデの問題なのです。ダビデ自身が行動して罪に突き進んでいったからです。

ダビデはバテ・シェバのことをすぐに調べさせます。だれが調べたのか、隠密のようなお側用人がいたのかもしれません。こんなふざけた調査依頼は公務としては頼めませんから、ダビデには何でも彼の言うことを聞く召使がいたのでしょう。その人物は密かに調査をしてダビデにその女性の素性を知らせます。その女性はエリアムの娘でした。エルアムというのはアヒトフェルの子で、このアヒトフェルの言うことには誤りがない、神のごとき知恵のある人物と言われていました。三国志の諸葛孔明のような人です。そのような人の孫娘ですから、バト・シェバも深窓の令嬢ともいうべきお嬢様でした。それだけでなく、彼女は人妻でした。これだけの情報を聞けば、普通はそんな女性に手出しをしようなどとは考えないでしょう。相手は国家参謀の孫、そして勇敢な戦士の妻です。しかしダビデは血迷っていて、王である自分にできないことはないと思いあがっていたようです。また、自分の欲望を全くコントロールできないようになっていました。彼はすぐさまバテ・シェバを呼び寄せます。しかも、王の謁見の間のような公共の場ではなく、彼個人の部屋、おそらく寝室に呼び寄せたものだと思われます。バテ・シェバは王からの呼び出しということで逆らえなかったのでしょう、あるいはひょっとすると彼女自身もどこかで何かを期待していたのかもしれませんが、言われるままにダビデの寝室に向かいます。そして、いきなりことに及んでしまいました。バテ・シェバが必死に抵抗したのか、怖くて何も言えなかったのか、あるいはあっさりと受け入れてしまったのか、分かりません。彼女は生理直後だったようで、一般的には妊娠がしやすい時だと言われています。そして、たった一度の情事でバテ・シェバはダビデの子を宿しました。妊娠に気が付くのはどんなに早くても二週間後と言われているので、おそらくそのころでしょう、妊娠に気が付いたバテ・シェバはそれをダビデに知らせます。バテ・シェバの夫ウリヤは戦場にいますので、もちろん相談はできませんが、彼女の場合は有力な父や祖父がいます。しかし彼らには相談しなかったようです。私は女性の心理が分かりませんので不用意なことは言えませんが、バテ・シェバが意に反してダビデに犯されたのなら、こんな風にすぐに自分にひどいことをしたダビデに相談できるものだろうか、という気もします。ひどいショックを受けて、恐怖や嫌悪感を覚えないのだろうか、ということです。

さて、バテ・シェバから妊娠を知らされたダビデは、ここで初めて事の重大さに気が付きます。彼は、命がけで戦場で戦っている部下の妻を寝取ってしまったのです。これは大スキャンダルです。バテ・シェバの子がウリヤの子であると言い張るのは不可能です。なぜなら彼はずっと戦場にいるのですから。バテ・シェバが普通の町の女性ならばなんとか言い逃れも出来たでしょうが、彼は名家の子女であり、夫以外の男性の子を宿すはずもないのです。ダビデは慌てました。さすがにこれは拙いと。そこで一計を案じます。彼女の夫ウリヤを呼び寄せて、バテ・シェバと一夜を共にさせればそれで一件落着ではないかと。彼女のお腹の子もウリヤの子だと、言い逃れできると。もちろん、この計画には当然バテ・シェバも協力しなければなりません。彼女が両親の咎めを感じて夫にダビデとの過ちを告白でもしようものなら、すべてが水泡に帰します。しかし、ダビデはバテ・シェバが当然協力するものと思っていたようです。ここからも、どうも二人の間には共謀関係があったような気がしてなりません。歴史にイフはありませんが、もしこのままダビデの策がうまくいって、子どもがウリヤの子だとなった場合には、バテ・シェバは夫を騙してダビデの子を彼の子だと偽って育てたのでしょうか。

ともかくも、ダビデはウリヤを戦場から呼び戻します。ダビデはウリヤに戦場での様子を報告させ、労をねぎらって家に戻ってゆっくりと休むようにと話します。しかしウリヤは謹厳実直な人物でした。神の箱、つまり契約の箱も主人のヨアブも同僚たちもみんな戦場で頑張っているのに、自分だけ安穏としていられようか、というのです。まさしくダビデとはえらい違いで、ダビデの浅ましさや罪深さが引き立つ行動です。困ったダビデはさらに一計を案じ、今度は自分との宴に招き、そこで酔わせてそのまま彼の家に送り返し、そこでバテ・シェバと一夜を過ごさせようとします。しかし、酔った後もウリヤは家には戻らず野宿のようなことをします。どうしようもないと悟ったダビデはさらに恐ろしい計画を立てます。なんとウリヤを戦場で見殺しにするように命令を出します。そして今回も汚れ役をヨアブに引き受けさせます。ダビデはヨアブに、ウリヤを危険な戦場に送り出し、しかも味方の兵士たちを立ち退かせて孤立させ、そこで戦死させるようにとの密命を送ります。しかもその密命を、命を狙われているウリヤその人に持たせたのです。もうこうなると最悪ですね。自分の忠実な部下を、何の罪もない部下を、自分の不倫をもみ消すために殺そうというのです。しかも自分は一切手を汚さず、訳の分からない命令を出すことでそうしようというのです。これほどの罪が赦されてよいのでしょうか。

しかし、何も知らないウリヤはその手紙を上官のヨアブに渡し、今回もヨアブはダビデの命令に黙って従います。まさにダビデのための汚れ役です。哀れなウリヤは真面目に戦闘に赴き、そこで命を落とします。ヨアブの命令はウリヤ以外の兵士たちにも伝えられたでしょうが、彼らはこの訳の分からない命令にひどく混乱したはずです。そんな理不尽な命令は聞けません、といった兵士もいたようです。しかし上官の命令は絶対です。逆らうわけにはいきません。しかし、せめてもの反抗として、ウリヤ一人を残して撤退せよとの命令には他の兵士たちも従わなかったようです。彼らは激戦地にウリヤと共に残り、ウリヤと共に戦死したのでした。こうしてダビデは、自分の優秀で忠実な兵士たちを相当数失ったものと思われます。今回は負け戦になりました。ヨアブもこのことを報告しなければなりませんでしたが、伝令の者に、もしダビデ王が無様な敗戦に怒ったならば、「あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました」と付け加えるようにと命じました。ウリヤのことを「私の家来」ではなく、「あなたの家来」と呼ばせたことにヨアブの精一杯の皮肉を見る思いがします。それに対してダビデも、「このことで心配するな」と伝えます。敗戦の責任は感じなくてもよい、ということです。当然ですよね。ダビデの滅茶苦茶な命令のせいでヨアブは優秀な部下をたくさん失ったわけですから、ダビデがヨアブを非難できるはずがありません。そしてダビデはこう言います。「勝ったり負けたりするのは戦の常だから気にするな。それよりさらに頑張って敵を全滅させよ。」ほんとうにひどい命令ですね。ヨアブもこのあたりでは主君ダビデのことを完全になめ切ったのではないでしょうか。この馬鹿殿様には俺がついてやらなければならないと、という具合に。

さて、夫ウリヤの死はバテ・シェバに知らされました。もちろん彼女は悲しみますが、しかし喪も明けないうちにダビデに嫁いでいます。しかし、愛する夫を失い、しかもその夫を殺したであろうと思われる人物とすぐに結婚などできるのでしょうか?ハムレットではありませんが、「弱き者、汝の名は女!」と言いたくなってしまいます。このあたりも、バテ・シェバという人になんとなく不信感を覚えてしまうところです。そして問題のダビデは、なんとあまり良心の痛みを感じていないようです。いろいろあったけど、何とか丸く収まった、とでも思っているかのようです。しかし、そうはいかなかったのです。ここで物語の隠れた主役が登場します。そう、もちろん神様です。そのことは次回見ていくことにします。

3.結論

まとめになります。今回はダビデが次々と恐ろしい罪を積み重ねていくところを学びました。モーセの律法によれば、夫のある妻を無理やり犯した場合は石打の刑で死刑になります。ですからダビデは死罪に当たる罪を犯し、それを隠ぺいするために無実の人を殺すという罪を重ねていきます。神が公平な方ならば、神はダビデを裁くべきではないか、サウル王がダビデより軽い罪で王位を追われたのなら、ダビデも少なくとも王位を追われるべきではないか、と私たちは考えます。しかしダビデの罪は赦され、王位にも留まりました。神は公平な方ではないのか、と私たちはこれから疑問を抱くかもしれません。しかし、神はダビデと契約を結んでいました。ダビデやその子孫はいくら罪を犯そうと、王位を取り去られることはない、という契約です。神は契約を守る方ですので、ダビデを王位から退けることはなさいませんでした。しかし、では神はダビデの罪を本当に見逃したのかといえば、そうではありません。

今回のダビデの行動で驚くべきことは、ダビデの頭の中から神の存在がすっぽりと抜け落ちていることです。ダビデは危機に際して神に祈るどころか、思い出すことすらしていません。ひたすら自分で考えて、自分の思うように行動しています。「神が見ている」という意識が欠落しているのです。これは私たち現代人にはよくわかることかもしれませんが、ダビデのように信仰心が篤いと思われていた人物には本当に驚くべきことです。神はいわばこのドラマの中では忘れられた存在であるかのようです。しかし、神は黙っておられても、いつも見ておられるのです。神はダビデの行動をもちろん見ておられました。そして、罪が熟しきったときに、裁きを始めます。神はダビデを赦したのではないか、と思われるかもしれません。確かに神は律法の教えを曲げてでも、ダビデに恩赦を与えます。ある意味で、神ご自身もご自分が結ばれた契約に縛られているからです。しかし、神はダビデに死刑よりも苦しい報いを与えたのも確かです。これからこの物語の手には神の見えざる手が働き、ダビデを追い込んでいきます。ダビデはどんどん窮地に追い込まれ、そこから助け出される時でさえ、必ず大切なものを失っていきます。神は侮られるような方ではないのです。蒔いた種は刈り取らなければなりません。私たちもこれからのダビデの物語を読み進めながら、神を畏れることを学びたいものです。お祈りします。

歴史のすべてを支配しておられる神よ、その名を畏れ、賛美します。今回はダビデの恐るべき罪を学びました。私たちもこのような大きな罪に陥らないように、小さな罪に向き合っていくことが出来るように助けてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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