第一コリント – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 調布 深大寺のプロテスタント教会 Sun, 08 Aug 2021 04:31:09 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.3.20 https://domei-nakahara.com/wp-content/uploads/2020/03/cropped-favicon-32x32.png 第一コリント – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 32 32 パウロとコリントの教会第一コリント16章5~24節 https://domei-nakahara.com/2021/08/08/%e3%83%91%e3%82%a6%e3%83%ad%e3%81%a8%e3%82%b3%e3%83%aa%e3%83%b3%e3%83%88%e3%81%ae%e6%95%99%e4%bc%9a%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%82%b3%e3%83%aa%e3%83%b3%e3%83%8816%e7%ab%a05%ef%bd%9e24%e7%af%80/ Sun, 08 Aug 2021 04:29:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=1841 "パウロとコリントの教会
第一コリント16章5~24節" の
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1.導入

みなさま、おはようございます。第一コリント書簡からの説教は今日で32回目、いよいよ最終回になります。といっても、これから引き続き第二コリント書簡の説教を続けていきますので、これで終わりということではなく、まだ道半ばといったところです。コリントというのは地中海世界の交易・交通の要衝に位置する大きな都市で、人口も50万人を超えていたと推定されます。50万というのは当時の古代世界では途方もない、大変な数です。ですからパウロはこのコリント教会に大きな期待をかけていて、自身のヨーロッパ伝道の拠点にしたいと考えていました。そこでパウロは時間をかけて、コリントの地に教会を建てあげたのです。このように、パウロとコリント教会の関係は深いものがありますが、それは愛憎愛半ばするといった感じで、いつも良好なものではありませんでした。それはこれまで読んできた第一コリントの内容からもお判りいただけると思います。これから私たちは第二コリントを学んでいきますが、そこにはパウロとコリント教会との間での生々しい葛藤が描かれています。今日の第一コリントのあとがきでも、そのことを暗示する箇所があります。その点に気を付けながら、今日の箇所を読んでいきましょう。

2.本文

さて、このあとがきを書いていた時のパウロの心理状態とはどんなものだったのでしょうか。一読すると、単なる事務連絡が書き綴られているような気もします。エルサレム教会への献金とか、自分やテモテの旅行プランとか、あるいはコリント教会の役員さんへの感謝の言葉などです。しかし、こうした記述の背後にはパウロの強い不安や懸念というものが感じ取られるのです。

パウロはここ10年ほど目覚ましい働きを続けてきました。ガラテヤ、ピリピ、テサロニケの教会、そしてコリントとエペソでの教会、こうした有力な教会群を、それぞれの教会にわずか1年から2年をかけるだけで、次々と立ち上げてきたのです。一つの教会を建て上げるだけでも大変なのに、休みなくこうした教会を一から立ち上げてきたパウロのバイタリティーには驚くべきものがあります。しかし、このような急拡大はもろさというか、脆弱さをも抱えていました。この第一コリント書簡は、コリント教会が実に様々な問題を抱えていたことを示していますが、これはコリントの人々が特別罪深かったからではありません。むしろ彼らは、パウロから十分な教育や訓練を受けられず、そのためにこうした混乱が起きたと考えた方がよいでしょう。コリントの教会に限らず、パウロは個々の教会に十分に時間を割いて、じっくりと教会員を育てるということができませんでした。なぜならパウロには時間がなかったからです。パウロは、自分が生きている間に主イエスが再び来られること、つまり再臨があると信じていました。パウロの目標は、主イエスが戻られるまでに全世界に福音を宣べ伝えることでした。全世界と言っても、私たちの知る全世界ではなく、パウロの生活圏の中での全世界です。それはちょうどローマ帝国の広大な支配領域と重なるものだったでしょう。パウロはローマの全支配地に、なるべく早くかつ効率的に福音を伝えようとしました。それで交通の要衝に位置する大都市に狙いを定めて伝道活動を行ったのです。しかし、ローマの版図は膨大であり、基本的に徒歩で移動することの多かったパウロにとっては全世界への伝道は大変困難な課題でした。ですから、個々の教会に仕える時間は長くても二年が限度でした。しかし、二年間というのは長いようで、あっという間です。旧約聖書を読んだこともないギリシア人やローマ人に、いろいろなことを教えるのには短すぎる期間であったともいえます。信徒の側に立って考えれば、伝道者であり信仰の育ての親でもあるパウロが立ち去った後、彼らは取り残されたような気持になったかもしれません。その彼らの心の隙間を突くかのように、新しい宣教団体がやってきました。しかも彼らはパウロが言っていることとは別のことを伝え始めたのです。彼らは、パウロが教えてくれなかったと思われる事柄を教えてくれました。パウロは、クリスチャンらしく生きなさい、神の子と呼ばれるのにふさわしく生きなさい、と口を酸っぱくして教会の人々に命じました。しかし、クリスチャンらしく生きるというのはどういうことなのか、具体的には何をすればいいのか、ということに関しては、パウロはあまり詳しくは話してくれませんでした。むしろ、「御霊にしたがって歩みなさい」とか、雲をつかむような指示ばかりではないか、と感じる人たちもいました。そこに、新しい宣教団がやってきました。彼らの言うことは、パウロとは違って大変具体的でした。彼らは、新しくクリスチャンとなった人たちがどのように生活すべきかについて、詳しく教えてくれました。彼らは聖書を持ち出したのです。彼らは旧約聖書の最初の五つの書、モーセ五書と呼ばれますが、それらの書に書かれている律法を示し、また日々の生活でそれらをどのように実践すべきかを教えてくれました。今までそんな話を聞いたことがなかった信徒たちは喜びました。「私たちに、もっとモーセの律法について教えてください」と。しかしこれは、パウロが掲げてきた伝道方針とは真っ向から対立するものでした。パウロは、ユダヤ人以外の異邦人信徒たちはモーセの律法を守る必要はない、いや守るべきではない、という立場でした。自分自身が徹底した律法教育を受け、かつそれを厳密に実践してきたパウロには、異邦人たちが律法を行うことがどれほど大変なのかがよく分かっていました。律法の実践とは、つまみ食い、あるいはいいとこ取りのように自分が気に入った一部の律法だけを守ればよい、というものではありません。律法は、すべての律法を守って初めてそれを行ったと言えるのです。パウロはこのことをガラテヤの教会に警告しています。ガラテヤ書5章3節です。

割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法全体を行う義務があります。

パウロにとって、律法はすべてをやるかやらないか、ゼロか十かしかありませんでした。適当にやる、というわけにはいかないものでした。それは食事のルールや清めのルール、安息日である土曜日の過ごし方など、日常の事細かな領域に及ぶものでした。パウロは異邦人信徒にとって、こうした律法の軛は重すぎると考えて、自らが立て上げた異邦人教会には律法については教えなかったのです。しかしそのパウロの立てた教会に、異なる宣教グループがやって来て、律法を守るようにと信徒たちに指導を始めました。まるでオセロゲームのように、パウロの立てた教会は異なる種類の教会へと塗り替えられていくようでした。

パウロがこのような動きを最初に知ったのは、小アジアにあるガラテヤ教会においてでした。パウロはこのことに激しく動揺し、また激怒し、あの有名なガラテヤ人への手紙を書いたのです。パウロはこの熱烈な手紙で、ガラテヤ教会の人々の心を取り戻そうとしたのですが、それは成功したようです。しかし、このパウロに敵対する伝道者たちの活動範囲は小アジアに留まりませんでした。なんとヨーロッパのギリシアにまで進出してきたのです。これが今日のみことばの背景です。

さて、16章の5節以降では、パウロはコリントの教会を再び訪れたいという希望を書き綴っています。パウロが初めてコリントに赴いて、そこで教会を立て上げたのは紀元51年の春頃と考えられます。パウロはまずギリシア北部、マケドニア地方のピリピやテサロニケに教会を立て上げますが、迫害が厳しくなってそこにはいられなくなり、ギリシアを南下していきます。それからギリシアの学問の中心であるアテネに向かいますが、そこでの伝道ははかばかしくなく、それからパウロは貿易港であり商業地であるコリントに行きます。それからパウロは一年半そこに滞在し、52年の秋ごろコリントを発っています。この第一コリントは、それから約1年半後の紀元54年ごろに書かれたものだと思われます。この1年半のあいだにコリントではいろいろなことがあり、そうした問題を解決するためにもぜひコリントの教会を再び訪れたいとパウロは考えていたのです。パウロはこの手紙を書いていた時、小アジアのエペソにいました。エペソからコリントまでは海路を船で行くのが一番の近道なのですが、パウロはわざわざ北上して陸路を伝わってマケドニアに向かい、そこから再びギリシアを南下してコリントに向かおうと考えていました。なぜ、最短距離の海路を取らずに、ぐるっと大回りしてマケドニアに向かおうとしたのか、それはマケドニアの教会、特にピリピとテサロニケ教会にも訪問する必要があったからなのです。それは、パウロが特に親しかったピリピやテサロニケの教会の人たちに会いたかったからとか、そういう個人的な思いからではありません。時間のないパウロは、私的な思いよりも常にやるべきことをするのを優先します。パウロが問題のデパートのようなコリント教会に行くよりも先にマケドニア教会に行こうとしたのは、そこに緊急性の高い問題が存在していたからに違いありません。そうです、ガラテヤ教会に現れてパウロの教会を引っ掻き回したのと同じような伝道者たちが、ピリピやテサロニケの教会にコンタクトしているという知らせをパウロはキャッチしたのです。パウロは居てもたってもいられなくなり、コリント教会よりもマケドニアの諸教会を訪問地として優先することにしました。

しかし、コリントの教会はパウロの伝道の要となる、非常に重要な教会です。パウロはコリントの信徒たちに、自分がマケドニア訪問のついでにコリントを訪れる、という風には考えてほしくありませんでした。そこで、7節に「私は、いま旅の途中に、あなたがたの顔を見たいと思っているのではありません。」と書いているのです。あなたがたは特別な教会なのですよ、ということをパウロは念を押しているのです。 

しかし同時に、パウロはただいま伝道活動を行っているエペソの教会についても心配事を抱えていました。小アジアの大都市であるエペソにも、パウロは大きな期待を持っていました。パウロはエペソにおいて二年間という、コリントの一年半よりも長い時間を伝道に用いました。これはパウロを有名にしたのと同時に、反対者をも多く作りました。そこでパウロはこう書いています。

しかし、五旬節まではエペソに滞在するつもりです。というのは、働きのための広い門が私のために開かれており、反対者も大ぜいいるからです。

このように、コリント教会のことも心配だが、エペソの教会も手が離せない、またマケドニアの教会からも火の手が上がっているという大忙しの状況で、パウロは自分の腹心であるテモテをコリント教会に送ることにします。そこでこう書いています。

テモテがそちらに行ったら、あなたがたのところで心配なく過ごせるよう心を配ってください。彼も、私と同じように、主のみわざに励んでいるからです。だれも彼を軽んじてはいけません。彼を平安のうちに送り出して、私のところに来させてください。私は、彼が兄弟たちとともに来るのを待ち望んでいます。

テモテはまだ若いので、軽く扱われる恐れがあったのでしょう。パウロはコリントの人々に、彼を主にある同労者として、自分と同じように扱うようにと依頼します。また、コリントの教会が大変問題の多い教会だったことを忘れてはなりません。パウロはコリントの人々に様々な勧告や命令を書き送っていますが、コリントの人たちがそれらを素直に受け止めるという保証はないのです。むしろ、パウロに反発して、他のリーダー、たとえばアポロを担ごうという人たちもいたでしょう。アポロがパウロの勧めにもかかわらずコリントに行こうとしなかったのは、こうした空気を察してなのかもしれません。ともかくも、こういう難しい状況の教会に若いテモテを送り込むのですから、パウロも心配だったことでしょう。くれぐれもテモテを軽んじることがないように、と書き送っています。今日の教会でも、若い牧師は若さゆえに愛されることもありますが、若く人生経験が少ないことで軽く見られることもあるかもしれません。この点は、パウロの勧告を私たちも心して受け止めたいものです。

若いテモテはパウロの宣教活動の同志でしたが、パウロは今日の教会でいうところの「一般信徒」も全く同じように同労者として見ていたことを覚えたいものです。15節以降では、そうした同労者の人たちへの感謝の言葉が書きつづられています。コリントの教会で最初に洗礼を受けたステパナとその家族の働きへの感謝の言葉が書かれています。彼はコリント教会のリーダーとして重責を担っていました。そして、お馴染みのアクラとプリスカの名前が出てきます。彼らはエペソで自宅を開放して家庭集会をしていたのが分かります。彼らは以前にコリントの教会にもいたので、この手紙の受け手であるコリントの兄弟姉妹にとっても懐かしい人たちでした。また、パウロは「アジアの諸教会がよろしくと言っています」と書いています。コリントの人たちと、エペソの教会のようなアジアの兄弟姉妹とは直接の面識はなかったでしょうが、パウロはこのようにして彼らを結び付けようとしています。キリストの教会は一つです。地理的には離れていても、同じ主にある兄弟姉妹だということを、パウロは思い起こさせようとしているのです。

そして22節以降は結びの言葉です。「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ」という言葉にショックを受けるかもしれません。パウロは、クリスチャン以外の人はみんな見捨てられよ、と言うのかと。しかし、必ずしもそうとは言えません。のろわれよという言葉の原語は「アナセマ」という名詞です。アナセマは英語になっていますが、それは「破門」という意味です。ですからここは、「主を愛さない者は、破門だ」とも訳せるのです。破門、というのはクリスチャンが教会から除名されることです。ですからパウロはここで、「主を愛さないクリスチャンは破門だ」と言っているとも取れるのです。しかし、クリスチャンで主を愛さない人なんているのでしょうか?ここで大切なことは、教会とは主のからだであり、教会を愛さないものは主のからだ、もっと言えば主ご自身を愛さないものだとも言えます。パウロは、ガラテヤの教会をかき回す自称キリスト者に対してアナセマ、つまり破門を宣告しますが、ここでも同じことを言っている可能性があります。つまり、この手紙で再三警告を受けている、コリントの教会をかき乱す人たちに対し、そうした行動を改めなければ破門だ、と警告しているともとれるのです。いずれにせよ、パウロはクリスチャンでないすべての人は呪われよ、と言っているのではないと思われます。

 そしてパウロは「主よ、来りませ(マラナ・タ)」という祈りの言葉を述べます。マラナ・タとはアラム語で、「主よ、来てください」という意味です。私たちも、パウロと心を一つにしてこのことを祈っています。主が来られ、この世界のすべての悪や不条理を正してくださること、これが私たちの切なる願いです。パウロがここで、ギリシア人をしゃべる信徒に対して唐突にアラム語を使っているということは、この「マラナ・タ」が言葉の違いを超えて、あらゆる信仰者に共通の言葉になっていたことを伺わせます。他にも「アッバ」、つまり「父よ」というアラム語がありますが、これらの言葉はアラム語を理解しない信徒たちにも馴染みのある言葉となっていたのです。ですから日本語を話す私たちも、大胆に「マラナ・タ」と声を上げたいと思います。「アーメン」、つまり御心通りになりますように、と同じように。

 最後にパウロはキリストの恵みと、パウロ自身との愛を語ります。パウロがコリントの人たちに厳しいことの数々を書き送ったのは、彼らを愛しているからです。彼らへの愛こそが、パウロを突き動かしたのです。

3.結論

さて、長きにわたった第一コリント書簡からの説教も今日で終わりです。この書簡には、実に多くのテーマが含まれていて、その中には私たちに大いに関係のあるものも少なくありません。説教は今日で終わりですが、ぜひ皆様にはこの手紙を何度も読み返していただきたいと願っています。私のつたないこれまでの説教も、原稿も録音もホームページに載っていますので、よろしければご参照なさってください。

 コリント教会は確かに問題の多い教会でしたが、この教会で起こったことは私たちの教会でも起こり得ることだということを忘れないようにしましょう。他山の石、という言葉がありますが、パウロのコリント教会へのことばを自分自身に向けられた言葉として聞くときに、何か新しい気づきや発見があると思います。それでは、これまで皆さんと第一コリントを学べたことを感謝して、主に祈りましょう。

天におられます父なる神よ。あなたが使徒パウロを通じてコリントの教会に送った手紙を時間をかけて学んで参りました。私たちは悟るのに遅く、聞いたことを実践するのにはさらに遅いものですが、どうか私たちを強め、この手紙から学んだことを日々の生活に生かすことができますように。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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エルサレム教会への献金第一コリント16章1~4節 https://domei-nakahara.com/2021/08/01/%e3%82%a8%e3%83%ab%e3%82%b5%e3%83%ac%e3%83%a0%e6%95%99%e4%bc%9a%e3%81%b8%e3%81%ae%e7%8c%ae%e9%87%91%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%82%b3%e3%83%aa%e3%83%b3%e3%83%8816%e7%ab%a01%ef%bd%9e4%e7%af%80/ Sun, 01 Aug 2021 04:47:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=1809 "エルサレム教会への献金
第一コリント16章1~4節" の
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1.導入

みなさま、おはようございます。第一コリントからの説教も、今日を含めて残すところあと二回となりました。先週までは15章で書かれている死者の復活と終末について考えていきました。その壮大なヴィジョンが終わって、今日の16章は手紙の末尾、いわばあとがきのような内容になっています。ただ、普通の本でも著者のあとがきというのは重要な内容を含んでいます。私自身もつたない物書きとして本を書かせていただいておりますが、あとがきは一生懸命書きます。ですから、この第一コリントの16章もじっくり学ぶべき価値のある章だと言えます。

16章にはいくつかのことが書かれていますが、はじめにエルサレム教会のための献金について書かれています。この第一コリントの講解説教が終わったら、続けて第二コリントの講解説教に入りますが、第二コリントにおいてはエルサレム教会への献金は大変重要なテーマになっています。ですから、第二コリントの説教の予告編のような意味でも、わずか4節の短い箇所ではありますが、今日の箇所をしっかりと見ておきたいと思います。

エルサレム教会への献金は、パウロの生涯を考えるうえで、とても大事なトピックです。使徒の働きに記されているように、パウロは身の危険をも顧みずにエルサレムに向かい、そこで逮捕されてローマに囚人として護送されます。使徒の働きはそこで終わり、その後のパウロの運命は書かれていませんが、伝承によれば、そのローマでパウロは処刑されたという説と、ローマではいったんは無罪放免となって自由になり、それからスペインまで伝道した後にローマにもどり、そこで迫害に遭って殉教したという説の二つがあります。いずれにせよ、パウロが命がけでエルサレムに上ったことで彼の人生は大きく変わります。では、なぜ身の危険を顧みずにパウロはエルサレムに向かったのかといえば、それはエルサレム教会に諸教会からの献金を届けるためでした。パウロは自分が開拓伝道したアジアやヨーロッパの諸教会を行き巡り、彼らからエルサレム教会への献金を集め、それを届けようとしたのです。エルサレム教会への献金は、パウロにとっては命を懸けるほどの意味があったものなのです。

ですから、パウロという人物のことを理解するために、エルサレム教会への献金について私たちは知っておく必要があります。なぜパウロがエルサレム教会への献金にそこまでこだわったのか、これはとても大事な問題なのです。

皆さんもよくご存じのように、パウロはイエスと会ったことがありませんでした。彼はイエスの弟子ではありませんでした。むしろ、イエスが昇天してから急速に拡大していった教会に危機感を抱き、教会を撲滅しようと走り回るような人でした。パウロは非常にまじめな人でしたから、ローマ帝国から無残に処刑された人物を救世主として拝むような宗教は怪しげなカルト宗教としか思えず、自分の使命は人々を惑わす教会を滅ぼすことだと信じていたのです。さらには、キリスト教会について、特にパウロが気に入らなかったことがありました。それは、教会の中ではユダヤ人がユダヤ人以外の外国人と親しく付き合っていたことでした。当時のユダヤ人たちは、必要最低限のこと以外ではユダヤ人以外とは付き合いませんでした。日本語のことわざに「朱に交われば赤くなる」というのがありますが、ユダヤ人たちは偶像を拝む外国人と付き合うと、彼らの偶像礼拝の習慣に染まってしまい、まことの神への信仰から逸れてしまうということを心配しました。イスラエルは過去に偶像礼拝にはまり込んで失敗したことがありましたが、それは偶像を拝む外国からの影響を受けたためでした。「羹に懲りてあえ物を吹く」、ということわざもありますが、過去の偶像礼拝を反省するあまり、外国との付き合いを控えようという、外国嫌いといってもよいようなメンタリティーになってしまったのです。さらには、当時のユダヤ人はローマ帝国の植民地になっていたという事実があります。ローマから課される高い税金に苦しみ、それに反抗すれば十字架に付けられて殺されるという暴力的な支配、それが我慢できないと考えていたユダヤ人はたくさんいましたが、それが彼らの外国人嫌いをますます強いものにしていました。

そういうユダヤ人の中にあって、キリスト教の教会は多くのユダヤ人からはとても許しがたいようなことをしていました。教会の中では、ユダヤ人は外国人を「兄弟姉妹」と呼んで親しく付き合い、ともに食事をしていました。しかし、ユダヤ人にとって外国人と一緒に食事をすることは大変なスキャンダルでした。今日でもユダヤ人の人はコシャーと呼ばれる特別に調理された食事をします。モーセの律法に従って、豚肉を食べないとか、甲殻類を食べないとか、そういう戒律を厳しく守っているのです。パウロの時代のユダヤたちも、こうした食事規定をしっかりと守っていました。しかし、外国人、つまり異邦人と一緒に食事を取るとなると、このような戒律を守ることは大変難しくなります。異邦人の人々はユダヤ人の食事のルールなど知りませんので、豚肉なども平気で出すわけです。ユダヤ人の側は、「この肉は鶏肉ですか、豚肉ですか」といちいち確認しないと食べれないわけです。そういうのは面倒だから、出されたものは何でも食べます、となってしまうと、律法違反になります。こんな面倒なことになるなら、そもそも異邦人とは食事をしなければいいではないか、という話になります。

さて、この問題は教会にとっても無関係ではありませんでした。イエスを信じてクリスチャンなったユダヤ人は、それからもユダヤ人であることには変わりはないので、彼らはクリスチャンになった後もモーセの律法を守り続けようとします。他方で、教会にはユダヤ人以外の信徒がどんどん加わってきました。そこで、教会の中には律法を守るユダヤ人信徒と、律法を守らない異邦人信徒が共存することになります。この際に問題となるのが、食事をどうするのかという問題でした。以前の説教でも学んだように、当時は聖餐式は食事の後に行っていましたので、食事を取ることは、礼拝の重要な一部分でした。しかし、モーセの律法を守らない異邦人と厳格に守るユダヤ人とでは、食事の中身が違ってきます。その彼らが一緒に食事を取るためには、二つの選択肢しかありません。一つは、ユダヤ人信徒の方がモーセの律法を守ることを止めて、異邦人と同じように何でも気にせずに食べるという選択肢です。もう一つの選択肢は、反対に異邦人信徒の方がモーセの律法を守るようにし、食事に関してもモーセの律法に従ったものを食べるようにする、というものです。ですから、二つの選択肢というのはユダヤ人が異邦人のようになるか、あるいは異邦人がユダヤ人のようになるか、ということになります。

実は、この問題は初代教会においても大問題となり、初代教会のリーダーであるパウロとペテロはこの件をめぐって激しく対立したことがありました。その箇所をお読みしたいと思います。

ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。そして、ほかのユダヤ人たちも、彼といっしょに本心を偽った行動をとり、バルナバまでもその偽りの行動に引き込まれてしまいました。しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。」

この話は、シリアの首都アンテオケで異邦人信徒とそれまで仲良く食事をしていたペテロが、エルサレム教会からの人々が何人かアンテオケを訪れた際、彼らの目を気にして、異邦人信徒たちとの食事を止めてしまったのですが、そのことにパウロが怒って、彼のことを皆の面前で叱責した、というものです。エルサレム教会の人々は、キリスト教を敵視するユダヤ人たちの中で生活していました。いわば敵地にいるようなものです。周りのユダヤ人たちはイエスのことを彼らの救世主、メシアだとは認めていませんでした。エルサレム教会の人たちがユダヤ人たちの中で生活を許される最低条件は、モーセの律法をしっかりと守りユダヤ人らしく生活することでした。ですから彼らは、クリスチャンになった後も、先祖からの戒めであるモーセの律法を厳格に守って暮らしていました。12使徒のひとりだったペテロも、エルサレム教会の一員でしたから、エルサレムにいたときはモーセの律法をしっかりと守っていました。そんな彼も、異邦人信徒が多いアンテオケの教会に来た時には、異邦人信徒と親しく付き合うために、モーセの律法の厳格な順守を緩めて、異邦人に合わせたライフスタイルを送っていました。しかし、そんなところをかつての仲間であるエルサレム教会の人々に見られるのが嫌だったのでしょう。エルサレム教会から何名かの人たちがアンテオケの教会を訪問すると、ペテロはモーセの律法を守らない異邦人信徒たちと一緒に食事をするのを控えるようになりました。イエスの一番弟子であるペテロの行動の影響は大きく、アンテオケ教会の他のユダヤ人信徒たちも、ペテロに倣って異邦人信徒たちと食事をするのを控えるようになりました。そして、なんとパウロの盟友であるバルナバまで異邦人信徒との食事を控えるようになりました。こうなると、アンテオケ教会がユダヤ人信徒と異邦人信徒の二グループに分裂することになります。この状況を見過ごせなかったのがパウロでした。パウロはペテロに対し、「あなたは今まで、ユダヤ人でありながら異邦人のように、つまりユダヤ人の食事のルールを守らずに異邦人のように何でも食べていたのに、どうして急に異邦人たちにユダヤ人のように、つまりユダヤ的な食事制限を課そうとするのですか」と怒ったのです。

このパウロの怒りはもっともではありますが、しかし怒られたペテロの方も気の毒な面があります。実は、このアンテオケの出来事が起きる前に、パウロとエルサレム教会の人たちは、ある取り決めをしていました。それは、異邦人信徒たちにはモーセの律法を守ることは要求しないという取り決めでした。キリスト教は、もともとユダヤ教から生まれたものです。イエス様もユダヤ人、12使徒もユダヤ人、ペンテコステの日に聖霊を注がれたのもみなユダヤ人、ですから初代教会にはユダヤ人しかいなかったのです。彼らはユダヤ人でしたから、イエスを信じる前も、イエスを信じた後も、当然のようにモーセの律法を守っていました。しかし、異邦人の場合は全く話が違います。私たち日本人のことをかんがえてみても、イエスを信じる前にモーセの律法を守っている人などいないように、当時のギリシア人たちでモーセの律法を守っている人などいなかったのです。その彼らが、イエスを信じた後に、ユダヤ人のようにモーセの律法を守るべきか、というのは大きな問題でした。ユダヤ人信徒の一部は、モーセの律法は聖書に書かれていることだから、十戒や他の律法全般も神の戒めとして新しく信者になった異邦人にも教え込むべきだ、と主張しました。しかし、パウロたちのように異邦人たちに対して福音を伝えていたユダヤ人のクリスチャンは、600以上もあるモーセの律法を、それまでそれとは無関係に生活していた異邦人たちに守らせるのは酷だ、そんなことは必要ないと強く主張しました。そして、異邦人にはモーセの律法を守らせる必要はない、という取り決めがエルサレム教会において決定されました。

ただ、この取り決めには落とし穴がありました。異邦人信徒はモーセの律法を守る必要はない、でもユダヤ人信徒は?という問題のことは考えなかったのです。ユダヤ人信徒たちは、当然のようにこれからもモーセの律法を守るべきだと考えていました。しかし、彼らがモーセの律法を守ろうとすれば、モーセの律法を守らない異邦人信徒たちとはいっしょに食事ができないことになってしまいます。そのために、先ほどのペテロのアンテオケのような行動が生じてしまい、その結果異邦人信徒とユダヤ人使徒との間で分裂が生じることになります。ですからパウロは、教会の一致のためには、ユダヤ人信徒もモーセの律法を守ることを止めるべきだ、具体的にはユダヤ教の食事規定に従うべきではない、と主張したのです。このパウロの主張は、その意図は理解できるものの、保守的なユダヤ人クリスチャンには受け入れがたいものでした。モーセの律法はなにしろ聖書の教えです。その教えを守らなくていいとは何事か、という反感を抱いた人々もいました。ですからエルサレム教会の中にはパウロのことを快く思わない人たちがいました。

パウロもこの状況が良いとは決して思ってはいません。そこで、彼自身とエルサレム教会との和解のために、さらにはエルサレム教会を中心とするユダヤ人クリスチャンと、パウロによって建てられた、律法を守らない異邦人クリスチャンとの間の真の和解のために、異邦人使徒たちからエルサレム教会への献金プロジェクトを何としても完遂したいと願ったのです。こうしたことが、今日のみことばの背景なのです。

2.本文

さて、背景の説明が大変長くなりましたが、このことを踏まえて今日の短いみことばを見ていきましょう。まず1節ですが、「聖徒たちのための献金」とは、「エルサレム教会の人たちのための献金」ということです。エルサレムにいるユダヤ人信徒たちは、他のユダヤ人たちから好意的には見られていなかったので、生活が大変苦しかったのです。その彼らのための献金を、「聖徒たちのための献金」とパウロは言っているのです。パウロはコリントの教会だけでなく、彼が立ち上げたすべての教会に向かってエルサレム教会のために献金を集めるように命じていました。それは小アジアにあるガラテヤの教会も同じでした。興味深いことに、パウロは自分自身の宣教活動のための献金をガラテヤ教会、テサロニケ教会、ピリピの教会などから受け取っていましたが、コリントの教会からは自分個人のための献金を受け取ろうとはしませんでした。しかしパウロは、エルサレムの教会への献金についてはコリントの教会にも強く要請をしていました。このことは、パウロがエルサレム教会向けの献金をどれほど重要視していたのかをよく示すものです。次いでパウロは、どうやって献金を集めるかという方法についてまで、詳しく2節で説明しています。

私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。

パウロは非常に具体的なことを書いています。「週の初めの日」とは日曜日のことです。ユダヤ教では土曜日が安息日で、日曜日は週の初めの日なのですが、日曜日が礼拝の日になったのは、それが主イエスの復活の日だったからです。日曜日に礼拝をするのは、その日が安息日だからではなくて、主イエスが復活したことをお祝いするためだったのです。このことを忘れないようにしましょう。主イエスの復活を祝うのはイースターだけではなく、毎週日曜日なのです。その日曜日に、収入に応じて、毎週エルサレム教会のために献金を取り分けておきなさい、とパウロは指示しています。献金というのは一つの習慣なので、このように自分の中でルールを作ってその分は取り分けておく、というのは私たちにも参考になるアドバイスだと思います。

パウロはこうして集められた献金は、「あなたがたの承認を得た人々」に手紙を添えてエルサレムまで届けてもらうか、あるいはパウロ自身も届けに行くことになるかもしれない、と書いています。実際は、パウロは自らエルサレムに献金を届けることにし、そこで逮捕されることになるのですが、パウロが自分の身の危険を顧みずに献金を届けようとしたのは、なんとしてもエルサレムの人たちと真の和解を成し遂げたいというパウロの強い気持ちの表れだったのだと思われます。

3.結論

今日は、パウロはコリントの人々に、あとがきの最初のところでエルサレム教会のための献金を指示する箇所を学びました。コリントの人たちにとっては、実際にお世話になっているパウロに対しては献金をせずに、エルサレム教会の人たちのためにだけ献金をするというのは、すこし違和感があったかもしれませんし、実際に第二コリント書簡ではこの問題が浮上します。このことは、第二コリントを読んでいく中で考えていきます。

さて、今日の私たち日本の教会は、エルサレムにある教会のために特別に献金をするということはしていません。そういうことに力を入れている日本の教会もありますが、多くの教会はそうではないでしょう。しかし、私たち日本の教会が今このように福音を聞くことができるのも、さかのぼってみれば初代教会であるエルサレム教会の人たちの献身的な働きがあったからこそです。私たちの日本の教会は、主にアメリカの教会や宣教師たちから支援を受けてきたのですが、彼らの背後には彼らに福音を伝えたもっと古い宣教団体があり、それをどんどんさかのぼっていけば、いずれはエルサレム教会にたどり着くのです。そういう先人たちの努力や献身を決して忘れてはならない、私たちが直接覚えている宣教師さんたちだけではなく、その背後にいる私たちが直接知らない人々についても、常に感謝の気持ちを忘れないようにしたい、ということを今日のパウロのことばから思わされます。同時に私たちもまた、受け取った福音を他の人たちにも伝えていかなければなりません。私たちは初代教会から綿々と伝わる伝道の流れの名にあるのです。その力が与えられるように、ひと言お祈りします。

イエス・キリストの父なる神よ。そのお名前を讃美します。今朝はパウロが自分の立て上げた教会の人々に、エルサレム教会への献金を熱心に要請している箇所を学びました。私たちにも、多くの先人の努力によって福音が届けられたことを覚え、感謝します。私たちに恩返しする機会が与えられたなら、積極的にそうすることができますように。そして私たちもまた、福音を伝える者となることができますように。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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神の奥義第一コリント15章50~58節 https://domei-nakahara.com/2021/07/25/%e7%a5%9e%e3%81%ae%e5%a5%a5%e7%be%a9%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%82%b3%e3%83%aa%e3%83%b3%e3%83%8815%e7%ab%a050%ef%bd%9e58%e7%af%80/ Sun, 25 Jul 2021 00:39:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=1800 "神の奥義
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1.導入

みなさま、おはようございます。さて、第一コリントもいよいよ佳境、大詰めに入ってきました。第一コリントの手紙は、割と身近なテーマが多い書簡でした。食事のことや結婚について、または礼拝における様々な問題など、私たちにとっても関係の深い大切なテーマが次々と登場しました。しかし、この手紙の最後の箇所では、パウロは身近とはいえないテーマ、壮大なテーマを語り始めます。パウロがこうした大きな問題を語り始めるきっかけは、やはりコリント教会の側にありました。コリント教会の人々は死者のよみがえりはないと主張しました。パウロは彼らに対して、死者のよみがえりはあると力説しますが、この死者のよみがえりという出来事は終末、世界の終わりに起こる出来事です。そのためパウロは、死者のよみがえりから始まって、終末について語り始めるのです。この「終末」というのはキリスト教における非常に大きなテーマです。キリスト教でいう終末とは、破局のことではありません。つまり、終末とは世界が滅びることではないのです。聖書全体を貫く大きなテーマは、世界の回復であり和解です。神はこの世界を非常に良いものとして創造したのですが、この世界は非常に良いものとは程遠いものになってしまいました。この世界は厳しい生存競争の中、被造物同士が敵意を抱き合う、そういう世界になってしまったのです。この世界に生きる私たちは分断され、敵対しあう関係に置かれています。しかし、このバラバラにされた世界がキリストのもとに一つにされる、世界は回復され、また被造物同士、そして創造主と被造物とが和解する、それがキリスト教で言うところの終末です。そして、この終末における死者のよみがえりはとても重要なことです。我々人間が死ぬということは、この被造世界の破れと分断を象徴するものだからです。死は人と人とを分かつものです。親しい人同士、ずっと一緒にいたいと願う人同士にも、必ず別れが来ます。その最も深刻なものは死です。仲たがいしたのなら仲直りする機会がありますが、死に分かれてしまった人とはもはやそのような機会はありません。しかし、その死、そして死による分断を乗り越えさせるのが死者のよみがえりです。しかし、死人がよみがえる、しかもからだを持ってよみがえるというのはどういうことなのか?それはどのようにして起こるのか?復活のからだはどのようなものなのか?疑問はいくらでも浮かんできます。パウロはこうした問題をできるだけ丁寧に解説しますが、それがこの15章の内容です。そして、その中でも特に重要な事柄として話すのが今日の箇所です。

今日の説教タイトルは「神の奥義」です。「奥義」、という言葉を聞いて、何を連想されるでしょうか?「奥義」というと、例えば茶道や華道など、あるいは柔道などの武道における最も深い事柄、それをマスターすれば免許皆伝、道を究めたことになるというような究極の事柄を指します。しかし、パウロが今日のテクストで語っている内容、「私はあなたがたに奥義を告げましょう」ということの中身は、そのような意味ではありません。ちなみに新改訳聖書で「奥義」と訳されているのは共同訳では「神秘」、最新の聖書協会共同訳では「秘儀」と訳されています。「奥義」、「神秘」、「秘儀」と様々に訳されているこの言葉の原語のギリシャ語は「ミステリオン」という言葉で、英語のミステリーの語源となった言葉です。「ミステリー」の一般的な訳語は「神秘」でしょう。しかし、「神秘」と聞くと、神ご自身の計り知れないご性質、その偉大なる力のことを連想してしまうかもしれません。パウロはここで、神の驚くべき神秘について語っているのかと。けれども、それもこの「ミステリオン」の意味とは違うのです。ではその意味とは何か、といえば、それは「これまで明らかにされなかった事柄、教え、教理」というような意味になります。旧約聖書の時代には神の民に明かされていなかった神の教えが、今ここで明らかにされる、というのが「私はあなたがたに奥義を告げます」とパウロが語っていることの意味なのです。一つ例を挙げれば、ケネディ大統領は1963年に暗殺されましたが、その時の文書の多くは50年間以上公開されませんでしたが、54年経って公開が始まりました。パウロがここで語る神秘も、神の御心の中では既に決められていたことですが、その内容は旧約時代の預言者たちにも明かされず、パウロの時代になって初めてディスクローズされたという、そういう内容のことです。それでは、何がその時まで秘密にされていたのかといえば、それはイエスが再臨される時に生き残っている人たちのからだはどうなるのか、ということでした。その点を踏まえながら、今日与えられている聖書テクストについて考えて参りましょう。

2.本文

さて、まずは今日のテクストの置かれた文脈をおさらいしてみましょう。コリントの教会の人々の中には「復活」、つまり「死人のからだのよみがえり」などない、と言い出す人が現れました。コリントの人たちは、別にイエスの復活そのものを否定したのではありませんでした。あくまで一般論として、死んだ人間のからだがよみがえることなどあり得ない、と言っていたのです。死んだクリスチャンの魂は天国に行く。天国がゴールであり、再びからだを持ってこの世に帰ってくる、戻って来ることなどない、と主張していたのです。しかし、もし死んだ人間のからだがよみがえることがないのから、イエスも確かに人間として完全に死なれたのですから、そのからだがよみがえることはなかったはずです。ですから、一般論であっても、死人のからだのよみがえりがないと主張することは、キリストが死者の中から三日後に復活したという「福音」そのものを否定することになります。

ここで注意したいのは、コリントの人々が奇跡など、超自然的なものを全部否定する、現代で言うところのいわゆる「科学的合理主義者」や「無神論者」ではなかった、ということです。彼らは霊を信じないどころか、熱烈に信じていました。彼らは聖霊によって与えられる賜物に夢中になり、誰の賜物が一番すぐれているのかを競い合うような、そんな人たちでした。ですから彼らは、非科学的なことは信じない、と言っていたわけではないのです。むしろ、彼らは霊魂の不滅の教えならば喜んで受け入れたでしょう。それはギリシャ人の間で広く受け入れられていた考え方だからです。彼らが受付けなかったのは、死ぬと朽ち果ててしまう肉体が再びよみがえるという信仰でした。死者のからだ、朽ち果てた肉体がよみがえるということは、彼らが抱いていた世界観の中では聞いたこともない、非常に新しい考えだったのです。キリストや聖霊のことは信じられるが、そのような突飛な考えだけは受け付けない、信じられない、というような人たちがいたのです。前回のところで学んだように、彼らは問いました。「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」と。至極まっとうな問いですね。死んでしまった人、火葬や土葬でからだはなくなってしまっているのに、どうやって人はよみがえるのか、どんなからだになるのかと。それについてはこれまでの箇所で、パウロはいろいろな説明をしました。そして今日の箇所では、さらに新しいことをパウロは教えます。死者がキリストの再臨の時にからだをもってよみがえるのは分かった。では、キリストが再臨する時まで生き残っていた場合はどうなのか、それが彼らの疑問でした。これを私たち自身の問題として考えてみましょう。もしキリストがこれから半年後の2022年に再臨されるとして、その時にまだ私たちが生きていたら、わたしたちのからだは一体どうなってしまうのか?ということです。そのことについてパウロはこう答えているのです。

聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。

ここで「眠る」とパウロが言っていることの意味は、死ぬということの婉曲表現ですから、「みな眠ることになるのではなく変えられるのです」とは、「みなが死んでしまうわけではなく、ある人たちは生きたまま変えられるのです」という意味です。ですから、パウロは死なない人たちがいると言っているのです。キリストが再臨するときに生きている人は、生きたまま変えられるということです。キリストの再臨そのものが私たちにとっては大いなるミステリーなのですが、その時生きている人々に起こることも本当にミステリー、神の奥義ですね。

ここでキリストの再臨とは何か、ということを少し考えてみましょう。しばしば再臨とは、復活して40日後にエルサレムから天に昇ったイエスが、再びそのままの姿で戻って来られるということだと考えられています。しかし、よく考えてみれば、もしイエスがエルサレムに再び現れても、地球の反対側に日本にいる私たちはそれを見ることはできませんね。再臨というビッグイベントは、単なる中東だけの現象だということになります。いや、テレビで中継すれば、地球の反対側からも見れるではないか、という人がいるかもしれませんが、テレビやパソコンを持っていない人はそれを見ることができないわけです。しかし、キリストの再臨は世界中の人が分かる形で起こるはずですから、テレビがないと分からないということでは、おかしいですよね。仮に500年前に再臨が起きても、日本にいた人々はまったくそのことを知らなかったでしょうが、それでは再臨が世界を変える出来事にはならないのです。ですから、再臨とは文字通りにキリストが特定の場所に天から下って来るという意味ではなさそうです。キリストがどういう風にこの世界に再び現れるのか、それこそまさに神秘でありミステリーです。

このように、どのようにしてキリストが再び現れるのかというのは難しい問いですが、しかしキリストが現れるときには、だれもが分かるような特別の出来事が起きるとパウロは言います。それは、生きている人が生きたまま、不死のからだに変えられることです。パウロはこう続けます。

終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

ここでいう「終わりのラッパ」とは何か、というのも興味深い点ですね。これはユダヤ教でショファーと呼ばれる角笛、集会の始まりを告げる音のことを指しているのかもしれませんし、あるいは王様が登場するときのいわゆるファンファーレのようなものをイメージしているのかもしれません。なにしろこれから重要な出来事が起こることを告げる、そういう音だということです。要は、世界の王であるイエスが再び登場する、そのことを告げる音だということです。どんなふうに変えられるのか、というのも一つの神秘ですね。おそらく、変貌山でイエス様が生きたまま栄光の姿に変えられたこと、そのことがヒントになるでしょう。では、いったいどんな姿に変えられるのでしょうか?私たちの古い肉体は跡形もなく消え去って、まったく違う姿に変えられるのでしょうか?この点についてもまさに神秘とも言うべきことですが、しかしパウロがここで朽ちないものに「取り換える」のではなく、を「着る」という表現を用いていることに注意しましょう。これはあくまでイメージですが、古いからだの上から新しいからだを着る、というようなイメージです。古いからだは単に捨てられるのではなく、新しいからだに飲み込まれる、というような感じです。ここからも、私たちの現在のからだ、古いからだと、将来与えられる、朽ちないからだとの間には、連続的ではない部分と、連続している部分の両面があることがうかがわれます。

そしてそのことは、この私たちが生きる世界全体にも言えるでしょう。神はこの世界を創造された時に、それを「きわめてよかった」とまで言われ、大変喜ばれました。その極めて素晴らしい神の作品、この世界を神様はまったく見捨てて、完全に新しい世界をもう一つ造る、というのではないのです。むしろ、神はこの世界を「贖う」のです。贖うとは買い戻すということです。この世界は、死の力に捕らえられ、神の本来意図された状態とは程遠い状態になってしまいました。しかし神は、御自身の創造された世界を諦めてしまったわけではありません。むしろ、この世界を死の力から解き放ち、さらに素晴らしい世界へと造り替えてくださるのです。この新しくされる世界を受け継ぐために、私たちの復活、あるいは変容があるのです。そしてその新しいからだで、私たちは神の王国を相続するのです。パウロはこう言います。

血肉のからだでは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できないのです。

私たちにはなぜ復活のからだが必要なのかといえば、それは「神の国を相続するため」です。神の国、という言葉は福音書に100回ほど登場する非常に大事な言葉ですが、それは基本的には「神の支配」を意味します。神の支配するところ、すなわち神の国です。その意味では、神の国は今でも存在しています。神は万物を支え、また導いておられるからです。しかし、この世界は神が望んだような状態には残念ながらなっていません。この世界は、いずれ神の支配を完全に反映するような状態になる、そのような未来を「神の国が来る」という言い方で聖書は表現します。そのような「神の国」では、神のあらゆる敵が滅ぼされ、神がすべてにおいてすべてになられます。そして、倒されるべき神の最後の敵は「死」そのものです。死とは生命、いのちの反対であり、生ける神にとってもっとも好ましくないものです。この私たちの住む世界は死で溢れ、死の力に支配され、蝕まれていますが、神はその死を滅ぼされます。ここでパウロが語っている神の国とは、そのような死が滅ぼされた後の状態を指しています。そのような死の無い世界を、私たちは現在のようなからだで受け継ぐことは出来ません。私たちのからだはいずれ死ぬからだ、朽ちていくからだであり、そのようなからだは、死が存在しない世界、朽ちることのない世界、完全な神の国には相応しくないのです。ですからからだのよみがえりとは、単に今生きているからだがより良いものにバージョンアップされるというような程度の話ではなく、新しい世界に相応しいような根本的で劇的な変容を遂げたからだだということです。ですから神は、キリストが再び来られてこの世界を新天新地へと作り替えるまさにその時に、私たちに新しいからだを与えてくださるのです。

このように、神の国が完成する時、イエスが再臨する時、死者が復活する時に、「死」は完全に滅びるのです。パウロはここで、「死」に対する神の勝利が旧約時代から約束されていたことを示そうと、イザヤ書とホセア書から引用します。ここではイザヤ書からの引用について、少し詳しく見てみましょう。イザヤ書は24章から、全世界に対する神の裁きを語り、25章では神が全世界の民をそのすべての敵から救われること、そのときの感謝の歌が歌われています。素晴らしい箇所なのでその6-8節からお読みします。

万軍の主はこの山の上で万民のために、あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多いあぶらみと、よくこされたぶどう酒の宴会を催される。この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。

神は全世界を覆う悪を滅ぼし、永久に死を滅ぼす、そのことがパーティー、祝宴のイメージと共に語られています。旧約の預言者イザヤはこの素晴らしい死への勝利を預言しましたが、新約時代のパウロは、旧約聖書の預言のことばが主イエス・キリストによって実現されるということを語っているのです。そして次の56節でパウロはこう語っています。

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。

この簡潔な、格言のような言葉からはパウロが何を言っているのか、すぐには意味をつかめないかもしれません。これについてはパウロはローマ書7章で詳しく語っているのですが、ここでは簡単に説明するのに留めたいと思います。私たちは神の律法、戒めによって、何をすべきか、またすべきではないかを学びます。しかし、罪の力に囚われている人間にとって、律法を与えられることは罪の誘惑の機会となってしまうのです。「するな」と言われると、かえってそれをしたくなってしまう、罪を犯したくなってしまう、そうして罪の虜になってしまうのです。そのことをパウロは、「それは、戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです」と7章11節で書いています。そして罪の報酬は死です。わたしたちは神の掟によって、罪への誘惑に陥り、罪を犯した結果死んでしまうのです。そのような悪魔のサイクルに陥った私たちを、イエス様は贖い出してくださいました。その死によって私たちを罪から贖っただけでなく、遂には罪も死も完全に滅ぼしてしまわれるのです。そうして主イエス・キリストは私たちに罪と死に対しての勝利を与えてくださるのです。

3.結論

このようにパウロは、私たちのからだのよみがえりから始まって、イエス・キリストによる罪と死に対する完全な勝利という壮大なテーマを語ります。まさに宇宙的な、と言ってもよいほどです。そしてその最後にパウロが語っている言葉に注意しましょう。

ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

キリストが死に最終的に打ち勝つことは、主が二千年前に復活によって死の支配を打ち破ったことで確かなものとなりました。この復活の主に連なっている限り、私たちも必ずや死に完全に勝利し、神の国を朽ちない体で受け継ぐことができます。そして、今私たちがこの毎日の生活の中で主のためになしたすべてのことを、主は必ずや豊かに報いてくださいます。私たちが主のためにこの人生においてなしたことは、どんな小さなことでも主の目に留まらないものはなく、無駄になるものはなにもないのです。この素晴らしい希望を胸に、今週も主の業に励んで参りましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様。数週間かけて復活の希望について学んできました。私たちが復活する、あるいは生きたまま変えられるとき、この世界も朽ちないものに変えられることを知り、主を賛美します。どうか、みことば通りになりますように。また、私たちもこの希望にふさわしく歩むことができますように。主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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復活の体とは?第一コリント15章29~49節 https://domei-nakahara.com/2021/07/11/%e5%be%a9%e6%b4%bb%e3%81%ae%e4%bd%93%e3%81%a8%e3%81%af%ef%bc%9f%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%82%b3%e3%83%aa%e3%83%b3%e3%83%8815%e7%ab%a029%ef%bd%9e49%e7%af%80/ Sun, 11 Jul 2021 05:44:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=1723 "復活の体とは?
第一コリント15章29~49節" の
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1.導入

みなさま、おはようございます。この第一コリント書簡の学びも終盤になってきました。いつものように、これまでの手紙の内容を確認したいと思います。前回の箇所では、死者のからだのよみがえりなどない、というコリントの信徒たちがいたことを学びました。彼らは死んだ後に魂が天国に行けば十分だ、この世にふたたびからだをもってよみがえる必要などない、と考えたのでした。彼らに対し、もし死者のからだのよみがえりがないのなら、キリストもよみがえらなかったことになる、ということをパウロは指摘します。イエスは十字架に架かって確かに死にました。死者がよみがえらないのなら、キリストだってよみがえらなかっただろう、とパウロは論じたのです。そして、もしキリストが死者の中からよみがえらなかったならば、キリストはよみがえられたという福音を世界中で宣べ伝えているパウロたちはうそつきだということになります。さらには、もしキリストがよみがえらなかったのなら、私たちの罪のために死んでくださったその十字架上の死も無意味になり、私たちは今でも罪の中にいることになる、私たちには救いも希望もなくなってしまうのだ、とパウロは語っています。ですから、死者のからだのよみがえりを否定するということは、私たちの救いそのものを否定することになってしまうのです。

しかし、キリストは確かに死者の中から復活しました。パウロは、その証人は5百人を超えるという事実を指摘します。そしてキリストがからだをもってよみがえったように、キリストを信じる人たちもまた、キリストが再び来られる時にからだをもってよみがえります。そしてその時、人類の最大の敵、いや人類だけでなくすべての被造物の敵である「死」が滅ぼされる、とパウロは宣言しました。キリストが復活して死を打ち破ったということは、この被造世界全体の死を神が滅ぼすことの先駆けだったのです。

前回の説教でも少しお話ししましたが、この「死」が滅ぼされる、というこの意味はなかなか難しいですね。文字通りにとれば、この世界から死がなくなるということかと思いますが、しかし単純に死なないからだになればみんな幸せになれるかというと、そんな簡単な話であるはずがないです。みんながいがみ合って、敵対しあう状態で、しかもそんな状態が永遠に続くとしたら、そんなのは幸せでもなんでもなく、むしろ地獄の苦しみといってよいのかもしれません。ですから、死が滅ぼされるというのは単に生理現象としての死が無くなるということではなく、もっと深い意味があるように思われます。この件に関して、紀元3世紀に活躍した、古代教会における最高の聖書学者と呼ばれるオリゲネスは次のように述べています。

最後の敵の滅びについて、神によって形作られた(死という)物質が消滅するかのように理解すべきではない。むしろ神から来たものではない心と敵対的な意思とが滅ぼされるのだ。

オリゲネスはここで、「死」を物質的な死とは捉えずに、むしろ神から来たものではない人間の心、それは憎しみとか妬みとか冷淡さなどでしょうが、そうしたものを総称して「死」と呼んでいます。つまり、霊的な死とでも呼べるでしょうか。そうした心や意思が滅ぼされること、それを死が滅ぼされると言っているのです。オリゲネスは、キリストが再臨した時に、たちどころに死が消滅するのだ、とは考えませんでした。むしろ、時間をかけてゆっくりと、人間の心から悪い思いが消えていくこと、それには大変長い時間が必要ですし、このプロセスは私たちが肉体を離れた後にすら継続するのかもしれませんが、しかしこうして一歩一歩、死が滅ぼされていくのです。こういうオリゲネスの見方は私たち西側の教会の伝統を引き継ぐものにはなじみがないかもしれませんが、こうした考え方は東方正教会では正統的な見方です。今日の説教ではこれは本題ではないのでここらへんでやめておきますが、非常に興味深い見方だと言えるでしょう。

さて、本日の聖書箇所では、では私たちが復活するとき、どんなからだで復活するのか?という非常に生々しい、具体的な話が中心的なテーマになっています。私は、以前指導を受けていた先生から、次のような質問されたと聞いたことがあります。それは、「私はからだをもって復活する時、自分の鼻の形が気に入らないので、もっと高い鼻にしてほしいんです」と真面目に仰る方がいたということでした。からだとなると、だれでも一つや二つのコンプレックスや気に入らないところがあるでしょうから、これは笑い話ではない、なかなか切実な話です。しかし、復活は整形手術ではありませんし、神様は私たちがいろいろと注文を付けられるような外科医のお医者さんでもありません。では、神様は私たちにどのようなからだを与えようとしておられるのか、これは非常に興味深い問題です。今日の箇所から、その点について学んでまいりたいと思います。

2.本文

さて、今日の聖書箇所を読んで参りましょう。冒頭の29節は、教会の歴史の中で大きな謎とされてきた箇所です。パウロはここで、「死者のゆえにバプテスマを受ける人」のことについて語っています。死んでしまった人のために、いわば身代わりにバプテスマを受ける人がいた、というのです。今でいうと、死ぬ間際に信仰告白をしたものの、バプテスマを受ける時間がないままで死んでしまった人がいるとします。その人のために、残された家族が代わりにバプテスマを受ける、というそういうことです。しかし、教会の長い歴史の中で、そのようなことが行われてきた、という記録はありません。私たちの教団でも、そんなことをしようとする人がいれば、私たちはそれを止めるでしょう。そんなことをしてはいけません、と。しかし、コリントの教会ではそのようなことをしていた人がいたようなのです。おそらくそういう人は、先に死んでしまった家族の救いが確実になるように、身代わりにバプテスマを受けた方がよい、と考えたのでしょう。

ここで注意したいのは、パウロが身代わりのバプテスマ自体を認めたわけではない、ということです。パウロは単に、そのようなことをしている人がいたという事実を指摘したのです。その行動自体が良いか悪いか、ことの是非は論じていません。パウロは単に、「死者がよみがえらないのなら、何をしても無駄ですよ」と指摘したのです。

また、もし死者がよみがえらないのなら、パウロの宣教のために受けた苦しみも、みな無駄になる、とパウロは語ります。パウロはエペソで野獣と闘った、と言っていますが、これはもちろん、パウロがエペソでライオンや熊たちと闘った、という意味ではないでしょう。比喩的で、野獣のようなキリストの敵たちと闘ったということです。旧約聖書のダニエル書の7章では、神の民を迫害するこの世の帝国を、獅子や熊、ひょうなどの野獣に喩えていますが、それと同じことです。パウロが言いたいことは、私は福音のために命をかけて戦ってきたが、もし死者がよみがえらないのなら、私のこれまでの努力はみんな無駄なのだ、ということなのです。

また、死者がよみがえらないのなら、クリスチャンの生活には乱れが生じ、罪の生活を送るようになるともパウロは警告します。パウロは言います、

もし、死者が復活しないのなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」ということになるのです。

この言葉は不思議に思われるかもしれません。もし死人のよみがえりを信じないとしても、私たちには死んだ後に霊魂が天国に行けるという希望があるのですから、この地上に仮の住まいをしている間も、天国へのあこがれを抱きつつ、神を畏れて敬虔に生きることも出来るのではないかと。天国に相応しいものとなりたいという動機から、正しく生きようとするのではないかと。

しかし、こうも考えることができます。死者の復活を否定する人は、死んだ人の魂はどこか別の世界に行ってしまい、この世界とはもう縁を切ったのだと、この世界はもはや戻るべき場所ではないのだと。私たちの希望はこの世界がより良い世界になることではなく、この滅びゆく世界から逃れて別の世界に行くことにあるのだと。そうなると、究極的にはこの世界がどうなろうと知ったことではない、という話になります。この世界が環境問題で甚だしく破壊されようと、また人間の貪欲のために温暖化が進んで緑の地が砂漠になってしまったり、海に魚がいなくなってしまったとしても、またどこにも処分するところがない原発の核のゴミで一杯になってしまったとしても、この世界にはほんの短い間住むだけであり、私たちの永遠の住まいはどこか他の所にあるのだとすれば、この地球に関する問題は、究極的には大したことではない、ということになってしまわないでしょうか。むしろ、この地上のものを味わい尽くして、それで別の世界に旅立とう、ということになってしまわないでしょうか。しかし、私たちの住む世界こそ、私たち人類、また人間だけでなくすべての生物の終の棲家だとすれば、そういう風には考えないはずです。地球の問題、それは私たちが生きている間だけではなく、もっと未来のことまで含めて、それに責任を持とう、ということにはならないでしょうか。ですから、死者のよみがえりを否定すること、私たちが新しいからだを頂いてこの世界を受け継ぐという希望を否定することは、私たちの倫理的な行動にも悪い影響を及ぼしてしまうことになるのです。

このように、パウロは復活とクリスチャンの生き方そのものの密接な関係をいろいろな角度から論じます。そしてパウロはいよいよ本題に入っていきます。では、復活のからだとは一体どんなものなのか?と。これは大きな謎です。私たちが復活のからだについて知っていることといえば、福音書に記されている、復活後の主についての記述のみです。

復活の主にあった人たちは、その人物が幽霊ではなくからだを持った人間であることを認識しますが、しかしそれがイエスだとはすぐには気が付きません。これは不思議なことです。まるで覆いをかけられたかのように、彼らはすぐ近くにいる人物がイエスだとは気が付かないのです。ルカ福音書には、エマオの途上でイエスに会った二人の人物のことを次のように描いています。ルカ24章30節です。

彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。

とあります。イエスだと認識するためには、二人の目が開かれる必要があったのです。それだけではありません。イエスは突然消えてしまった、とあります。からだを持った人間が、突然いなくなってしまうというのは不思議なことですね。また、ヨハネ福音書によれば、イエスは鍵のかかっている部屋に突然現れています。このように、復活のからだというのは、確かにからだではありますが、自由に現われたり消えたりできるような、とても不思議なからだであり、私たちの持つからだとは根本的に異なっているようなのです。復活したイエスはパンを食べたり、魚をたべたりします。幽霊にはこんなことは出来ません。しかし、イエスのからだは、まるで幽霊でもあるかのように、どこにでも現われることができるからだなのです。

パウロは、私たちのからだと復活のからだの関係について、種と植物の関係を例にとって話します。種と植物とは全く異なりますが、そこには連続性もあります。種から植物が生じるからです。同じように、死すべきからだから、死ぬことのないからだが生じるのです。パウロはこう語ります。

死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ…

と、このように語ります。私たちの今のからだと復活のからだにはどこか連続するものがありますが、弱いものが強くなり、卑しいものが栄光あるものになり、という具合に今のからだよりずっと良いものになると言われています。

そして44節ですが、「血肉のからだ」と「御霊のからだ」という対比がなされていますが、この訳は少し分かりにくいものです。ここで対比されているのは言語のギリシャ語を見ますとプシュケーとプニューマです。プシュケーとは英語でいうソウル、日本語の魂であり、プニューマはスピリット、日本語で言えば霊です。つまりここでは、肉体的なものと霊的なものが対比されているのではなく、魂と霊が比較されているのです。魂と霊は同じではないか、と思われるかもしれませんが、実際にパウロは魂のからだと霊のからだを比較しているのです。なんだかわけが分からないと思われると思うので、詳しく説明します。創世記2章7節は、人間の祖先アダムの創造を次のように描いています。

神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

とありますが、「生きもの」のギリシャ語は「プシュケイン・ゾーサン」、直訳すると「生ける魂」となった、というのです。プシュケーは「息」とも訳すことができますので、最初の人アダムは土に神の息が吹き入れられることで生ける魂となったのですが、最後のアダムであるイエスは生ける霊となったのです。この生ける魂も、生ける霊も、どちらもからだを持っています。しかし、生ける魂のからだは土くれから、朽ちるものから出来ていましたが、霊のからだは天的な素材から、つまり朽ちないものから成ります。その天上的な素材に、プシュケーではなくプニューマ、つまり神の霊が与えられることで生まれるのが復活のからだです。それがいったいどのようなものかは詳しくは分かりません。しかし、それが素晴らしいものであるというのは、私にもなんとなく想像できます。そして私たちの今のからだが十人十色であるように、復活のからだもさまざまであるようです。パウロは太陽の栄光を持つからだ、月の栄光を持つからだ、星々の栄光を持つからだがあると言います。この違いを生むのは、おそらく内面の違いでしょう。私たちの内面がますます神の似姿となり、キリストに似たものとなるとき、復活のからだはますます栄光を帯びたものとなるのでしょう。私たちの今の体は生まれたときから与えられたもので、自分で選ぶことはできません。けれども、復活のからだは、ある意味で私たち自身が作り上げるものです。私たちが今の世をどう生きたか、私たちが真剣に神の教えに従って歩むかどうかで、私たちの内面、霊性は大きく変わります。そして、その私たちの内面を反映するのが復活のからだ、霊のからだなのです。ですから私たちは今の世の歩みを本当に大切にしなければならないのです。そして、そのような素晴らしい体をもって、一新されたこの世界、もはや死のない、悪意や争いのない、生命に溢れた世界を相続すること、それこそがクリスチャンの希望なのです。

3.結論

さて、今日は死者がからだをもって復活するという場合、そのからだはどんなものなのかということをパウロから学びました。私たちの地上のからだはプシュケーのからだ、魂のからだと呼ばれます。神は土くれに息吹、つまりプシュケーを吹き込むことで最初の人間アダムをお造りになりました。しかし最後のアダムであるイエスの場合には、土くれではなく、天上の朽ちることのない素材を用い、そこに神ご自身の霊をお与えくださることで復活のからだをお与えになりました。それだけでなく、イエスを信じる私たちにもその復活のからだをくださるのです。この素晴らしい希望を抱いて、このことを今週も多くの方々に宣べ伝えて参りましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様。そのお名前を賛美します。今日は使徒パウロから、私たちの復活のからだはどのようなものであるのかを学びました。わたしたちにはまだわからないことが多い、神秘のようなテーマですが、どうかこの希望を私たちによりよく分からせてください。また、その希望を抱いて歩めるように強めてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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復活第一コリント15章12~28節 https://domei-nakahara.com/2021/07/04/%e5%be%a9%e6%b4%bb%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%82%b3%e3%83%aa%e3%83%b3%e3%83%8815%e7%ab%a012%ef%bd%9e28%e7%af%80/ Sun, 04 Jul 2021 05:23:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=1693 "復活
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1.導入

みなさま、こんばんは。7月に入りましたが、第一コリントからの講解説教も今回で28回目となります。ずいぶん長いこと学び続けていますが、第一コリントはいろいろなテーマ、話題を含んでいる書簡なので、こういう言い方が適切かどうかは分かりませんが、いろんな意味で飽きさせない書簡であると言えると思います。そして、私たちは今この書簡の中でも最も重要なテーマ、つまり「復活」、からだのよみがえりについて学んでいます。この復活の問題は、コリントの教会だけでなく、あらゆる教会にとって立つか倒れるかという死活的な問題なのです。

なぜ復活がそれほど大事なのかと言えば、パウロの時代でも、私たち現代においても「復活」、つまり死んだ者がからだをもって甦るということが、神を信じる人たちにとってすらも非常に信じがたいことであるからです。私たち日本人はふつう宗教で語られる救いというと、「死んだ後に魂が天国とか極楽とか呼ばれる幸福で平和な世界に行くこと」だと考えるのではないでしょうか。別にからだがよみがえらなくても、魂があの世で平安を得ることができればそれで十分だと考えるのです。これはクリスチャンとか仏教徒に限らず、一般的に日本人全体に言えることだと思います。この世は苦労も多いし大変なこともたくさんあるけれど、死んだあとは平和な世界に行きたい、苦しみのない世界に行きたいと願うわけです。日本で一番信者が多いと言われる浄土宗によれば、阿弥陀様を拝むだけでだれでも極楽浄土に行けると教えるのですが、この罪の世に生きて、なかなか聖人君主のようには歩めない凡人にとっては、立派に生きることはできなくても、信じるだけで極楽に行けるというのは本当にありがたい教えで、多くの人の心をつかんだのです。でも、信じるだけで救われる、というと、キリスト教とそっくりではないか、と思われるかもしれません。キリスト教においても、罪深い私たちは自分の行いでは救われることはできない、でもイエス様を一心に信じれば天国に行けるのだという、そのようにいわれます。こう考えると、キリスト教とは阿弥陀様をキリスト様に変えただけではないか、と思われるかもしれません。

しかし、キリスト教は本来そのような教えではありません。キリスト教は西洋版の浄土宗ではないのです。キリスト教の目指しているものは、私たちの魂が死んでから素晴らしい世界に行くことではないのです。むしろ、私たちの真の希望はこの世界にあるからです。神はこの世界を創造されたとき、この世界を「非常に良い」と言われました。そして、人間にこの世界を正しく管理させるという責任を与えました。しかし、私たちはこの責任を果たそうとせず、今やこの世界は大変なことになっています。環境破壊が進み、多くの動物が死に絶え、温暖化で夏は冷房なしにはいられなくなり、その結果ますます温暖化が進むという悪循環に陥っています。この世界がこのまま突き進むと、あと百年もすると、あるいはそれより早く50年くらいで、この地球は人間が住めなくなる世界になるのではないかと、みんな不安を感じるようになっています。私たちは、この世界を正しく管理するという神から与えられた使命について失敗し、今やそれが取り返しがつかないところまで来ている、そういう時代に生きています。しかし、キリスト教の真の希望は、このような破局にならないように、私たちが神から与えられた使命を全うすること、つまりこの世界を正しく治めることができるようになること、そこにあるのです。今の世界は、原発や核兵器や温暖化や感染症の世界的大流行など、多くは我々人類に責任がある問題のために追い詰められています。しかし、神は自らが創造された世界を決して見捨てない、この世界を回復してくださる、この世界は「非常に良い」ものとなる、これが私たちの真の希望です。そして、その回復され、新しくされた世界に生きる人間にも、新しい体が必要になります。その新しい体で、新しい世界に生き、そして世界を治めるという人間に与えられた使命を果たすことができるようになる、これがキリスト教の提示する希望なのです。

実際に、もし死んだ後に魂が天国に行くことがクリスチャンの究極の、つまり以上望むものはないという意味での最高の希望と考えるならば、それはクリスチャンの希望とは言えないのです。そのことを、紀元二世紀の有名な神学者である殉教者ユスティノスが次のように語っています。彼は『ユダヤ人トリュフォンとの対話』という有名な文書を残していますが、そこにはこう書かれています。

「クリスチャンと呼ばれる人で…死者のよみがえりなどないといい、死ねば、その魂は天国に連れて行かれるのだ、と主張する人たちがいる。彼らがクリスチャンだなどと、考えてはならない。」

とこのように書いています。なかなか厳しいことを言うな、と思われるかもしれません。しかし、使徒パウロも全く同じことを言っているのです。死人がからだをもってよみがえる、と聞くと、もしかするとゾンビなどを連想して薄気味悪く感じるかもしれません。しかし、復活のからだとはゾンビのような気持ちの悪いものではなく、私たちがぜひとも欲しいと願うような、そういう素晴らしいものなのです。そのことを今日の箇所から改めて考えて参りましょう。

2.本文

さて、先週学んだように、パウロは15章の1節から11節にかけて、「福音」とは何かを説明しました。福音の内容は以下の事柄です。

キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと

これが「福音」の中身、核心です。しかし、コリントの教会ではこの福音を実質的に否定するような人たちがいました。「実質的に」、と言ったのは、表立ってイエスの復活を否定した、という意味ではないからです。むしろ、ある人たちは「イエスが復活した、ということを文字通りに取るべきではない。むしろ、イエスの魂が天国で栄光を受けていることを示す比喩的な言い方、言葉のあやなのだ。私たちも復活すると言われているが、それは私たちの死んだ体が生き返るという意味ではない。私たちもまた、天国でイエスのように栄光を受けることを指す比喩的な言い方なのだ」というように説明したのです。そういわれると、なんとなく私たちも納得してしまうかもしれません。別に死んだ体がよみがえらなくても、魂あるいは霊が生き続けて天国に行ければいいではないか、と。しかし、パウロはそのようなことをきっぱりと拒絶しています。キリストが文字通りに死者の中からよみがえって復活しなかったのであれば、「私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです」。「実質のない」という言葉は「空っぽ」とか「空虚」などと訳すこともできますが、意味がない、無意味だということです。パウロが人生をかけて、それどころか命をかけてやっていることは無意味だ、ということになるのです。さらには、もし死人がよみがえることがないならば、パウロは自分たちが嘘つきになる、と言っています。死人がよみがえらないなら、イエスもよみがえらなかったはずです。それなのに、神がイエスを死人の中からよみがえらせたなどと、嘘を触れ回っていることになってしまう、と。このように、死者のよみがえりを否定することは、パウロの宣教も、コリントの人々の信仰も、なにもかもを無意味なもの、更に言えばパウロたちを嘘つきにしてしまうことになるのです。

そればかりか、「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです」とパウロは言います。この一文については驚かれるかもしれません。というのは、仮にイエスが死人の中からよみがえらなかったとしても、キリストが十字架で死んだという事実は残るからです。キリストはわたしの身代わりに十字架で死んでくださった、身代わりの犠牲の業は完了している、という事実は残るのです。ですから、もし万が一イエスが死者の中からよみがえらずに、その魂が天国に行かれて、そこで栄光を受けたのだとしても、身代わりの死という事実のゆえに、私たちの罪は赦されているのではないか、その事実は変わらないのではないか、と。しかし、そうではないのです。罪の問題は、死の問題を解決することなしには解決されないのです。

パウロの言っていることを理解するためには、「罪」と「死」の関係についてよく理解しなければなりません。私たちはなぜ死ぬのか?という死の問題がここにはかかわってくるのです。聖書によれば、私たちが死ぬのは罪のゆえです。22節に「アダムにあってすべての人が死んでいるように」とありますが、ここはもっと正確に言えば、「アダムの罪によってすべての人が死ぬことになった」ということになります。ここはパウロがローマ人への手紙の5章で詳しく説明している点ですが、ローマ書5章17節では「もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったのだとすれば」と書いています。神が「非常に良い」と言われた世界、創造されたばかりの世界には、もともと死は存在しなかったのです。死というのは生の反対であり、生ける神は御自分の造られた世界を蝕む「死」を嫌われます。しかし、その「死」が、アダムの罪によってこの世界に入ってきてしまったのです。アダムが神の戒めを破った時、死の無い世界に死が忍び込んできた、というのです。

これを文字通りに捉えるべきか、あるいは比喩的に捉えるべきか、ということについてはもちろん議論があります。現代の科学によれば、宇宙は死の無い世界どころか、その反対の生命の無い世界、死の世界として始まり、それが気の遠くなるような長い年月をかけて生命を生み出したとされています。宇宙はそもそも死の世界として始まったのだと。また、現在の科学によれば、人類が誕生する前の世界、例えば恐竜が闊歩していた世界にもすでに死が存在していたのであり、アダムの罪によって死が世界に入ったなどというのはナンセンスだ、と思われるかもしれません。このような現代的な世界観を受け入れて、なおかつ創造主なる神を信じる人は、神は長い年月をかけて、進化というプロセスを用いて、死の世界だった宇宙に生命を誕生させたのだと主張します。このような説明は、パウロがここで言っていることと真っ向から対立するように響くかもしれません。私たちは「科学」を信じるのか、「聖書」を信じるのか、どちらかを選ぶように迫られているのでしょうか?

しかし、そのように極端に考える必要もないでしょう。パウロの手紙の中では、しばしば「罪」とか「死」という言葉が、擬人化されて使われることがあります。「罪」とは、単に私たちが犯す過ち、という意味ではなく、それを超えて、人格的な力、私たちを罪の奴隷、あるいは罪の中毒にしてしまうような巨大な意思を持った霊的な力として描かれているのです。超人間的な人格、とでも呼びましょうか。アダムのなした違反が、このような擬人化された罪や死の力を私たちの世界に解き放った、とパウロは論じているのです。ですから、このような神話的な、あるいは神学的な言語が、果たして現代の科学と調和するのか、と考えてもあまり意味がないように思われます。

むしろ、ここでのポイントは、私たちの住む、神の造られた世界には深刻な破れがある、不調和がある、ということなのです。実際、今の世界を見て、単純に素晴らしい、何の問題もない、と思う人はいないでしょう。むしろ、スゥエ―デンの16歳の少女グレタ・トゥーンベリさんが訴えたように、人間はこの世界をひどい状態にしています。私たちの貪欲が、私たちの罪が、この世界を台無しにし、多くの生物を死に至らしめているのです。アダムに代表される人類が、この世界を死に満ちた世界に変えているのです。ですから、確かに罪によってこの世界は死に支配されることになります。私たちはまさに、罪によって死が支配する世界に生きているのです。

その傷ついた世界の歴史を変えたのが、キリストの復活なのです。この滅びに向かう世界を救い出すのがキリストの復活なのです。拷問を受け、十字架で絶命したイエスのからだ、命を失ったイエスのからだを、神が再びよみがえらせました。しかも、そのよみがえった体は死を克服したからだであり、もはや死ぬことのないからだなのです。そして、キリストのからだが死を打ち破ったことは、この世界全体、傷つき傷んだこの世界も再びまったく新しいものによみがえる、回復されることの証し、証拠なのです。神は死んだキリストのからだを、命に満ち溢れたからだ、もはや死ぬことのからだに変えられました。もし神にそのような力があるのなら、神は私たちの死すべきからだをも不死の体に変えることができるでしょうし、そればかりか、この被造世界全体をも、死を克服した新しい世界へと造り替えることができるでしょう。しかし、もしキリストの死んだからだがよみがえらなかったのだとしたら、神には死んだからだをよみがえられる力がないか、あるいは力があってもその気がない、ということになってしまいます。そうすると、私たちも救いの希望を失ってしまうことになります。もし神の子であるイエスでさえ、死の力に飲み込まれてしまったのなら、私たちが死の力から救われる希望はまったくないでしょう。

しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられたのです。そしてキリストは、私たちをも死の力から贖ってくださるでしょう。23節からパウロは、キリストの復活から世の終わりまでの歴史を簡潔に記しています。

しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。

人類の歴史において、初めて死者の中からの復活が実現したのは二千年前です。それがキリストの復活です。そして次なる復活はキリストが再び来られる時、再臨のときです。その時キリストは、主にあって死んだ者をすべてよみがえらせ、またその時にまだ生きている人たちに関しては、生きたまま新しいからだへと変えてくださいます。そのことは、この15章の51節以降でパウロが説明することです。そしてそれから世の終わりが来ます。しかし、世の終わりとは世界の滅亡のことではありません。むしろ神の敵の滅亡のとき、それを世の終わりと呼ぶのです。この世界は滅ぼされるのではなく、神の敵から救われる、贖われるのです。では、悪がどのような形で滅ぼされるのか、それはなかなか難しい問いです。ある人は、キリストが来るとき、キリストは自分を信じない者をみな滅ぼすのだ、という風に考えます。しかし、主イエスは二千年前に地上を歩まれたときに暴力を否定しました。暴力で逆らう者を皆殺しにするというようなやり方は、決して主イエスのやり方ではありません。イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも変わらない方なのですから、再び主が来られる時に、急に暴力的になるなどということはあり得ません。ですから、ここでパウロが「滅ぼす」という言葉を繰り返しているからといって、それはキリストが暴力で自分に逆らう者を皆滅ぼすことなのだ、という風に考える必要はないですし、またそうするべきでもありません。おそらく、悪は自らの悪に耐えられずに自壊していくのだと思います。キリストは最後に「死」を滅ぼす、とありますが、これは単にこの世界から死を取り除くという意味ではないでしょう。人々が憎しみ合う、生きづらい世界では、死ぬことができないというのはかえって苦痛であり、救いがないようにさえ思えます。ですから「死」が滅びるというのは、私たち人間を苦しめる冷たい関係、悪意に満ちた関係、それらが私たちに死をもたらすわけですが、そうした歪んだ関係が正され、人々が、また人間と他の生物が愛し合う、仕え合う、そういう正しい関係に戻る、そのことを指しているのだと思われます。私たちの世界は、そのような世界を目指して歩んでいるのです。そして、その始まりがキリストの復活なのです。

3.結論

さて、まとめになりますが、今日はパウロがキリストの復活の意義を語り始めた最初の部分を学びました。なぜキリストの復活がそれほど重要なのか、十字架だけでは救いは完成しないのか、ということの意味をパウロは力説しました。神の目的は、この世界全体を救うこと、この世界を死の支配から贖うこと、それが神の究極の目的なのです。キリストのからだのよみがえりは、その世界を救済するプロジェクトの始まり、あるいは先駆けなのです。キリストのからだが死からよみがえったからこそ、この死に瀕した世界もよみがえる、回復されるという希望を持つことができるのです。この素晴らしい知らせを宣べ伝え、一人でも多くの人を、神の世界救済プロジェクトに加わるように招きましょう。そして私たちの宣教に力を与えて下さるように、神に祈りましょう。 イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた神よ、その御名を賛美します。今日は復活がなぜ私たちの信仰にとってそれほど大切なのか、そのことを学びました。実にキリストはこの全世界が贖われることの先駆けであり、保証でもあります。この信仰にしっかりと立って今週も歩めますように。主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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福音第一コリント15章1~11節 https://domei-nakahara.com/2021/06/27/%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%82%b3%e3%83%aa%e3%83%b3%e3%83%8815%e7%ab%a01%ef%bd%9e11%e7%af%80/ Sun, 27 Jun 2021 03:54:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=1676 "福音
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1.導入

みなさま、おはようございます。6月も最後の主日礼拝になりました。今日から第一コリントも、いよいよ最後のテーマに入っていきます。これまでパウロは、コリントの人々からの質問に答える形で、四つのテーマを取り扱いました。7章からは結婚について、8章からは偶像に献げられた肉について、そして11章以降は礼拝に関しての様々な問題について、丁寧に指示を与えました。そして15章からは復活、からだのよみがえりの問題を扱っています。パウロはこの復活の問題を、手紙の最後で取り扱っているのです。なぜ一番最後にしたのか?といえば、それがあまり大事ではない、最後に付け足しのようにして論じればよい問題だったからではありません。反対です。これが最も大切な事柄なので、この手紙の最後の部分にとって置いたのです。なぜそんなに大切なのか?それはこの問題が「福音」にかかわる問題だからです。

今日の説教タイトルは「福音」です。「福音」という言葉は、私たちクリスチャンにとっては、とても重要な言葉です。福音とはグッド・ニュース、よい知らせのことです。私たちは福音、よい知らせを聞いて、それを信じてクリスチャンになったのです。また、他の人たちにもこのよい知らせを伝えたいと願っています。では、何が良い知らせなのか?その中身は何か、と聞かれる場合、しばしば今日の聖書箇所が引用されます。パウロは2節でこう語っています。

また、あなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。

この言葉を読むと、ここでパウロがその後に書いていること、すなわちキリストが私たちの罪のために死んだこと、そして復活したこと、この二つを聞いて信じれば、それで救われると言っているように響きます。つまり救われるための条件とは、この二つの事柄を信じ、告白すればそれでよい、と言っているように響きます。しかし、このように理解してしまうと、パウロがこのコリントの手紙で延々と述べてきたことを誤解することになります。というのは、コリントの人たちの一番大きな過ちとは、彼らは自分たちは知識で救われると思い込んでいたのです。キリストに関する知識、その知識を知って受け入れさえすれば、どんな生き方をしても救われる、というような安易な考え方をしていたので、彼らの教会生活はクリスチャンとは名ばかりの、この世の人々と何ら変わりのないものとなっていたのです。しかし、知識では人は救われないのです。知ったことが、実際の自分の生活で生かされる、つまり言われたことをしっかりと実践すること、それが本当に信じるということなのです。夫が妻に、あるいは妻が夫に「あなたを信じます」と口先で言っても、妻あるいは夫のために協力しない、一緒になって人生の困難を乗り越えていかないとしたら、それは信じたことになるでしょうか。相手を信じるとは、その人に人生を賭けてついていくことです。口先だけの信仰は、その人には救いをもたらさないのです。そのことを忘れないようにして、今日のみことばを読んでいきたいと思います。

さて、ここでパウロはイエス・キリストについての福音を宣べ伝えていますが、「福音」を最初に語ったのはパウロではなくイエスです。そのイエスの語った福音を、まず振り返ってみましょう。主イエスは、宣教を始める時の第一声としてこう言われました。

時が満ち、神の王国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。

神の王国とは、神の支配と言い換えることができます。イエス様が伝えた福音とは、この地上世界に神のまことの支配が到来するというメッセージでした。イエスがもたらそうとした神の支配とは、力や暴力によって相手を強制的に押さえつける、そういう支配ではなく、隣人を愛し、敵すらも愛する、そのような平和的な道によってもたらされる支配です。主イエスは、自らが人に仕える生き方、死に至るまでも平和を求め、人を愛する生き方を示すことによって、私たちにこの世界に真の神の平和な支配が確立されるための道を示されたのです。それが主イエスの神の王国の福音でした。

ですから、神の子である主イエスがこの地上を歩まれて、私たちに平和への道を示してくださったこと、その事実そのものが福音だと言えます。パウロも今日の箇所で、福音とはイエスのご生涯そのものであると語っています。そして福音を次のようにまとめています。それは、

キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと。

ここでは、主イエスの公生涯全体というより、特にその生涯の終わりに起こった出来事、とりわけその十字架での死と、三日後の復活に焦点が当てられています。しかし、ここがよく誤解されるのですが、パウロはイエスの死と復活だけに関心があったのではありません。イエスがその公生涯において、神の王国を宣べ伝えたこと、病に苦しむ人々を癒したこと、人々を悪霊の支配から解放したこと、人として生きる道を様々な譬えを用いながら教えられたこと、そのすべてがパウロにとって重要だったのです。しかし、その中でもとりわけイエスの死と復活を強調し、それを福音として伝えたのは、その出来事がイエスの生涯の意味を最もよく伝えるものだったからです。イエスの十字架での死は、彼の公生涯の延長線上にあります。十字架をイエスの公生涯から切り離して理解してはいけません。イエスは、仕えさせるのではなく自ら仕えることで、神の支配とはいったい何であるのかを示されました。神の支配とは、「支配」という言葉が連想させるような力づくでの統治ということではありません。むしろ互いに仕えあう、愛し合うことによって実現する神の王国です。与えられるよりも与えることに喜びを見出す、そのような人たちにとって建て上げられる王国です。イエスは人々に仕える人生の極致として、自らの命さえ人々のために与えたのです。それが十字架です。それは、平和のためだといって暴力を用いる、そういうあり方を拒否した、イエスご自身のメッセージが具現化したものなのです。

しかし、そうはいっても、イエスが死なれたことは、彼に従った弟子たちにとっては衝撃でした。それはそうでしょう。彼らはイエスが長く活動を続けて、この地上世界に神の平和な支配を打ち立ててくれると信じていたのです。それが、3年にも満たないような短い期間でイエスの活動が終わってしまったなら、神の王国が来るという約束はどうなってしまうのか、と思ったことでしょう。イエスの公生涯が3年足らずというのは、考えてみれば異常な短さです。仏教の教祖ブッダの正確な没年は分かりませんが、少なくとも80歳までは生きたとされます。ブッダが悟りを開いたのが35歳だとすると、少なくとも45年間は弟子に教え続けたのです。イスラム教の教祖マホメットの場合も、40歳から布教をはじめ、60歳過ぎに死んでいますので、やはり20年ぐらいは伝道していたことになります。それに較べると、イエスの公生涯の短さは際立ちます。そして弟子たちはイエスに頼りっきりでしたから、その大切な指導者を失って、自分たちはこれからどうすればよいのか、途方に暮れたことでしょう。そして、確かにイエスが死なれたままだったなら、イエスが死んだという事実はグッド・ニュースどころかバッド・ニュースだったでしょう。とても福音などと呼べなかったはずです。しかし、イエスはよみがえられた。それですべてが変わったのです。死んだらそれで終わり、ではなかったのです。この復活があったからこそ、イエスの死に大きな意味があったことが分かったのです。この復活の福音について、これから学んでまいりたいと思います。

2.本文

さて、15章の冒頭で、これから「福音」について再確認しよう、とコリントの兄弟姉妹に呼びかけています。この福音に堅く立っていれば救われることができるという、それほど重要な「福音」です。コリントの人たちはそれをパウロから伝えられたのですが、パウロもまたそれを使徒たちから伝えられました。パウロがイエスとの邂逅後に初めてエルサレムに上った時に、15日間ペテロのところに滞在した、とガラテヤ書に書かれていますが、おそらくその時にペテロから伝えられた内容でしょう。もちろん、パウロもその内容は他のクリスチャン仲間からいろいろな場面で聞いていたでしょうが、12使徒のリーダーであるペテロから直接聞いたことには大きな重みがあったということです。15日間もいたのですから、パウロはペテロからイエスに関することをたくさん聞いたことでしょうが、とりわけ重要だったのが、先にお読みした3節の内容です。

キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと。

これが最も大切な「福音」です。主イエスの御生涯の中でも二つの特別な瞬間、つまり死と復活に焦点があてられています。「キリストは、私たちの罪のために死なれた」と非常に簡潔に書かれています。「聖書の示すとおりに」というのは旧約聖書のことですが、それは具体的にはどこの箇所を指すのか、ということが盛んに論じられてきました。パウロはそのことをはっきりとは書きませんが、おそらくイザヤ書53章でしょう。使徒ペテロも、第一ペテロ2章の24節で、イザヤ書53章を引用しながら「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」と語っています。イザヤ書53章は、旧約聖書で最も有名な箇所の一つですが、そこを4節から改めて読んでみたいと思います。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

私たちの世界に多くの問題があるのは、人間の罪のゆえです。私たちは利己的な生き方をして、互いに苦しめ合う、それが世界の現実です。イエスは、その罪がもたらす結果をすべてその身に負われました。イエスはその苦しみを通じて私たちの傷をいやされたのです。

しかし、ここでパウロが特に強調したかったのは後半のほう、つまり「復活」の方でした。なぜならコリントの信徒たちの中には、死者の復活などない、と言い出す人たちがいたからです。コリントの人たちにとって、救いとは死んだ後に魂が天国に行くことで十分でした。その素晴らしい天国を味わった後に、からだをもってこの地上世界によみがえるなどというのはナンセンスそのものでした。死人がよみがえる、と聞くと、私たちはゾンビなどの映画を思い浮かべますが、それは何とも気味が悪いものです。コリントの人たちも、天国にいる魂が、またこのわずらわしいからだを持たなくてはいけないなどとは考えたくもなかったのでしょう。

しかし、死者がよみがえることを否定することは、イエス・キリストが死者の中から復活したことをも否定することになります。イエス様も完全に死なれたのですし、死者がよみがえらないなら、イエス様の魂が天国で永遠に生き続けることがあっても、その体が再びよみがえるなどということはありえないことになります。しかし、イエスが復活したことを否定することは、まさに「福音」そのものの否定です。そして福音を否定することは、私たちの救いも否定することなのです。そういう深刻な問題を、コリントの兄弟たちよ、あなたがたは真剣に考えているのか、とパウロは問うわけです。

パウロはイエスの復活を証明するために、二つの証人を挙げます。一つは「聖書」、そしてもう一つは「復活の目撃証言者たち」です。イエスの復活を預言している箇所はどこか、というのは難しい問いですが、しかし使徒ペテロがペンテコステの日に、主イエスの復活を指して引用した聖書箇所が最も可能性が高いでしょう。使徒ペテロは使徒の働き2章27節で詩篇16篇10節から引用しています。その箇所をお読みします。

まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかれず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

神は、義なる者、聖なる者をよみに捨て置かない、と約束していますが、ここで預言された人物がイエスなのだとペテロは証言しているのです。

イエスの復活は、このように聖書に預言されていますが、その復活を実際に目撃した人たちがいました。ここではケファ、つまりペテロと12弟子が真っ先に挙げられています。福音書では女性の弟子たちこそ最初の復活を目撃した人であると記録していますが、当時は女性の社会的地位や身分が低く、女性は証人としては認められていませんでした。こういう男女差別は現在では認められませんし、パウロもそういう差別は良しとはしないでしょうが、ここではパウロは当時の社会的慣習に従って男性の証人たちを挙げたのでしょう。パウロはさらに、復活したイエスは500人もの兄弟の前に現われた、と語ります。その中には存命の人がたくさん含まれていましたので、もしイエスの復活を疑うのなら、これらの証人に直接確かめたらよい、とパウロは示唆しているのです。

それから主は、実の兄弟であるヤコブにも現われた、とパウロは語ります。これはイエスのすぐ下の弟のヤコブで、イエスが復活する前にはイエスを信じませんでしたが、復活の主に出会った後は、主を信じるようになり、ついにはエルサレム教会の指導者になりました。彼がこのように大きく変わったのも、復活の主に出会うという衝撃のゆえでしょう。そしてその後にすべての使徒たちに現われた、とパウロは言います。パウロにとっての使徒とは、イエスの公生涯に同行し、イエスの活動のすべてを目撃した人、ということではなく、イエスから派遣された者、というより広い意味で使われています。ですから生前のイエスを知らないパウロも使徒に数えられるのです。このように、様々な人たちに現われた後に、主はパウロの前にも現われました。イエスが復活後40日を地上で過ごし、その後に天に上げられたのですが、この天に上られた後に主はパウロに現れ、彼を異邦人の使徒として遣わしたのです。このように、生前のイエスを知らなかったことや、かつて教会を迫害した過去があることから、パウロは自分を「最も小さい者」と呼びます。けれども、いやだからこそ、パウロは人一倍一生懸命働きました。パウロは神の恵みを無駄にはしなかったのです。

そしてそのパウロが伝える福音を聞いて、コリントの人たちはそれを信じたのです。この福音、復活者キリストの福音から離れてはいけない、とパウロは語るのです。なぜ復活、からだのよみがえりがそれほど大切なのかといえば、クリスチャンの究極の希望は、死んだ後に霊が天国に行くことではないからです。もちろん、それも大きな希望ですが、もっと大切な希望とは、神様がこの世界を新しくされる、それを新天新地と呼びますが、その新しくされた世界を相続することこそがクリスチャンの希望だからです。新しくされた世界を楽しむためには、私たちは新しいからだ、死ぬことも老いることもない新しいからだが必要です。そしてそのような新しいからだが本当に存在する、神は私たちにそのような新しいからだを与える力を持っておられる、その保証となるのがイエス・キリストの復活のからだです。イエスがよみがえったのなら、私たちもまた、よみがえるだろう、ということです。ですからイエスの体のよみがえりを否定することは、私たち自身の希望をも否定することになるのです。パウロはそのことをローマ人への手紙で語っています。その一節を読んでみましょう。ローマ書8章11節です。

もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるのなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたの内に住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

私たちと主イエスをつなぐもの、あるいは共通点と言ってもいいですが、それは私たちは主イエスと同じ御霊を頂いているということです。その同じ御霊が主イエスをよみがえらせたように、私たちをもよみがえらせてくださる、それがキリスト者の希望なのです。

3.結論

さて、今日はパウロが死者の復活という問題を扱うこの手紙の最後の部分の冒頭を学びました。パウロはコリントの信徒たちがすべてからだのよみがえりを経験することになる、そのことを信じるように訴えたいのですが、彼らの復活について論じる前に、主イエスが死者の中からからだをもってよみがえられたことを、まずパウロは力説します。このことが信じられなければ、すべての人の復活も信じられるわけがないからです。このイエスの復活は、まさに福音の内容です。もしそれを否定するのなら、イエスが私たちの罪のために死なれたことも否定されることになります。そうすると、救いの根拠は何もなくなってしまうのです。復活を否定することはこのような恐ろしい結果を招きます。

しかし、主イエスは確かに復活されました。それは聖書と、目撃証言者たちという二つの証人によって確証されるのです。私たちも、この聖書証言と、目撃者たちの証言を重く受け止め、復活信仰が揺るがされないようにしましょう。私たちの救いはここにかかっているからです。今週も、この復活の主を大胆に宣べ伝えて参りましょう。お祈りします。

主イエス・キリストの父なる神様。私たちは第一コリント書を学び続けてまいりましたが、とうとう最後のセクションに入りました。ここでは私たちの究極の希望である復活について学んでまいります。私たちがこの希望をしっかりと掴んで離さないように、私たちの信仰を強めてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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混乱と秩序第一コリント14章26~40節 https://domei-nakahara.com/2021/06/13/%e6%b7%b7%e4%b9%b1%e3%81%a8%e7%a7%a9%e5%ba%8f%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%82%b3%e3%83%aa%e3%83%b3%e3%83%8814%e7%ab%a026%ef%bd%9e40%e7%af%80/ Sun, 13 Jun 2021 05:26:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=1615 "混乱と秩序
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1.導入

みなさま、おはようございます。6月に入って、急に暑くなってきました。このような中でもマスクを着け続けなければならない状況が続き、不便な日常が続きます。そんな中ですが、今日もみことばから励ましを受けていきたいと願っています。

さて、第一コリント書簡ですが、毎週お話ししていますように第一コリントの11章以降は、特に「礼拝」の問題を取り扱っています。礼拝の中で生じる様々な問題をパウロは一つ一つ取り扱ってきましたが、今日の箇所はこれまでのところの総括、まとめのような部分になっています。当時のコリントの教会の礼拝はどんな風に行われていたのか、というのは私たちにとって非常に興味深い問いです。紀元1世紀、キリスト教が誕生したすぐ後の時代の礼拝のスタイルは、私たちにもいろいろな示唆を与えてくれるからです。

先週も申しましたが、コリントの教会はパウロが開拓伝道で立ち上げた教会ですので、まだ生まれてから数年ほどの教会でした。ですから礼拝堂を持っていませんでした。私たちの教会も創立して間もないころ、今のこの建物を購入する前は創業者の村山家の一室を借りて礼拝をおこなっていました。コリントの教会もそのように個人の家で礼拝をおこなっていたのです。もっとも、教会員が急速に増えたので一つの家ではなく、複数の家に分かれて礼拝をおこなっていました。今日の私たちの例でいえば、家庭集会か、あるいは「家の教会」と呼ばれるものもありますが、そういった形態を思い浮かべた方がよいでしょう。「家の教会」というのは聞いたことがないかもしれませんが、積極的に伝道を行っている教会ではこの「家の教会」を大変重視しているということを聞きます。つまり、皆が大きな礼拝堂に一堂に会する礼拝だけでなく、個々人の家を開放して割と少人数で聖書を学んだり、いろいろな問題を話し合ったりする、そういう小さな集会を大事にするということです。大きな教会になると、家族的な親密さが失われがちですが、そうならないように、親密なスペースを作るということです。

その家の教会では、食事を共にするのがとても大事なことだと言われています。食事をすると、雰囲気が和んで、いろいろなことを自由に話しやすくなる、ということがあるのかもしれません。パウロの時代のコリントの教会も、家で集まって礼拝をした後、食事を取っていました。そして礼拝とその後の食事に続いて、主の晩餐、つまり聖餐式を行っていました。これだけ聞いても、当時のコリントの教会の礼拝スタイルは私たちのそれとは、だいぶん違っていたのが分かると思います。私たちの教会では、聖餐式は礼拝の後ではなく、礼拝の一部として行われています。また、礼拝スタイルという意味で私たちとコリント教会との大きな違いは、礼拝の中で異言や預言を語ることがあるかどうか、という点です。コリント教会の礼拝スタイルは、今日のカリスマ派とかペンテコステ派と呼ばれる教会の礼拝に近いものでした。どういうことかと言えば、先週もお話ししたように、礼拝中に自由に異言や預言を語る時間を持つのです。特に大事なのは、異言や預言を語るのは、牧師とか宣教師とかそういう特別な立場の人ではなく、普通の一般使徒だったということです。異言と預言の違いは先週お話しした通りです。預言の場合は私たちに分かる言語で、私たちの場合は日本語ですが、日本語で教会の内外の人々に神からのメッセージを語ることですが、異言というのは私たちには意味不明の言語、それは天国で語られる天使の言葉だと言われますが、その天使の言葉で天上におられる神を賛美する、それが異言です。当時のコリント教会では神の霊、聖霊の働きが非常に活発でした。聖霊は使徒と呼ばれる、イエスから直接遣わされた特別な人たちだけでなく、教会に集う会衆全員に何らかの御霊の賜物を与えていたようなのです。御霊の賜物といってもいろいろあります。病をいやす力を与えられていた兄弟姉妹もいました。しかし、礼拝に一番関係のある賜物は、何と言っても異言を語る賜物と預言を語る賜物でした。コリントの教会では、すべての信徒が礼拝中に自由に異言や預言を語りました。ここで今「自由に」と言いましたが、自由ならすべて良いかと言えば、そうとも言えません。私たちの教会や、今日の多くの教会では、長年守られてきた礼拝のスタイルというものがあります。司会者が式次第に則って、一つ一つの決められた内容に従って礼拝が進んでいきます。ですからこれは安定した感じがあります。しかし、その礼拝式の途中で、式次第に書かれていないのに、突然誰かが立ち上がって意味の分からない言葉で神を賛美し始めたらどうでしょうか。司会者はびっくりしてしまいますね。礼拝の秩序が損なわれて、何か非常に混乱した礼拝になってしまった、そういう風に感じる方もおられるかもしれません。今日の説教題は「混乱と秩序」ですが、今日の話のポイントは、このような自由な聖霊の働きによる異言や預言を礼拝の中で取り入れながら、それがどうすれば混乱をもたらさず、むしろ秩序ある礼拝の一部となることができるのか、そういう問題をパウロが取り扱っているのです。

今申しましたように、秩序正しい礼拝というと、式次第が完璧に出来上がっていて、その定められた手順通りに行われる礼拝というものをイメージしてしまうかもしれません。しかし、パウロの時代の礼拝のスタイルはそれとはかなり違ったものでした。むしろ、相当に自由度の高い、音楽で譬えればアドリブにあふれたような礼拝スタイルでした。しかし、そのような自由の中にも秩序が求められていました。自由と秩序の二つのバランスをどのように取るのか、ということを追求することがパウロの考えていたことなのです。そうしたことを念頭に置きながら、今日の御言葉を読んで参りましょう。

2.本文

では、今日の箇所を見ていきましょう。まずパウロはこう語ります。

あなたがたは集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。

と言っています。これを聞くと、コリントの教会の礼拝がどのようであったのかが、少し見えてくるようです。まず礼拝で「賛美したり」とありますが、新共同訳などではここは「詩編の歌を歌い」となっています。当時の讃美歌は、詩篇に歌をつけるというのが一般的だったのです。これはユダヤ教から引き継いだものです。私たちも交読文では詩篇を読みかわしますが、讃美については讃美歌を用います。しかし、当時の教会には私たちのような讃美歌集はなかったのです。それから教えがあります。これが説教に当たるものだと思われます。説教といっても、いくつかの家の教会に分かれて礼拝を守っていたコリント教会でしたから、どの教会にもパウロやアポロのようなプロフェッショナルの使徒や説教者がいたわけではありません。ですから、信徒の中でもリーダー格の人、私たちの教会でいえば役員さんが説教を行っていたと思われます。

しかし、私たちの教会の礼拝と異なるのは次のところです。「黙示を話したり」とありますが、黙示とはアポカルプスィスで、啓示などとも訳されますが、神がこれまで隠されてきたことを私たちに明かしてくださる、というような意味です。ヨハネの黙示録では預言者ヨハネがイエス・キリストから啓示を受けるのですが、そのような啓示が通常の礼拝でも起こっていた、という驚くべきことが書かれているのです。ただ、黙示とか啓示とかいうと難しい感じですが、分かりやすく言えば「預言を語る」ということです。そして異言が来ます。異言の原語はグローサで、直訳すれば「舌」という意味ですが、これは「言葉」と訳すことも可能です。そして、前回の説教で学んだように、パウロは礼拝中に語られる異言には必ず解釈が伴わなければならないと指示しています。異言とは人間の言語ではないので、話している人以外には意味が分かりません。ですから異言は人間の言語に翻訳される必要があります。異言とその解釈、解き明かしとはセットなのです。それらすべての礼拝での行為は、すべて教会を造り上げる、徳を高めるためのものだ、ということをパウロは強調します。

興味深いのは、預言を語ったり、異言を語るのは、教会の教師の専管事項ではなかった、ということです。「教える」という役目は決められた人、教師や役員の務めだったと思われますが、そのあとの預言や異言はそれを神から与えられた人が自由に語るのです。ですから、コリントの教会は文字通りの全員参加型の礼拝でした。しかし、それは同時に礼拝の秩序を保つのが難しいということでもあります。なぜなら、司会者が礼拝の流れをコントロールできるわけでなく、教会員が自発的に、また予期せぬことを語り始めるかもしれないからです。

そこでパウロは、礼拝中の秩序を保つために、次のような指示を与えます。

もし異言を話すならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。

どういうことかと言えば、異言を語りたい人がたくさんいたとしても、皆が一斉に語り出せば収拾がつかなくなります。そこで、異言を語るのは二人か多くても三人に限定し、しかも異言を語る場合には自分でその意味を解説する、もしくは他に解釈者がいなければならない、という基準を定めたのです。先週、異言を語る人は自ら解釈も語るべきだとパウロが教えたところを見ましたが、自分以外にも、異言を解釈できる賜物を与えられた人がいたのです。しかし、自分でも異言を普通の言葉に解釈できず、また他に適当な解釈者がいない場合は、その場合は黙っているようにとパウロは指示します。28節にはこうあります。

もし解き明かす人がだれもいなければ、教会では黙っていなさい。自分だけで、神に向かって話しなさい。

異言とは「天使の言葉」とも呼ばれるように、天上の言葉で神を賛美することです。しかし、そのような素晴らしい言葉であっても、語っている人以外には分からないような言葉であれば、礼拝の場では相応しくないのです。ですから、解釈できない異言は、公共の場である礼拝ではなく、家に帰った後で自分だけで神に対して語りなさい、というアドバイスをパウロは与えているのです。

次いでパウロは預言について語ります。預言とは、先ほどの「黙示」と同じような意味だと考えてよいでしょう。先週も学んだように、異言は神に向かって語られますが、預言の場合は神からの言葉が人に向かって語られるのです。ですからパウロも、礼拝においては異言よりも預言の賜物を求めなさいと語っているのです。しかしその預言すらも、たくさんの人が礼拝中に語り出せば礼拝は無秩序化してしまいます。ですからパウロは、預言の場合でも語る者は二人か多くて三人にしなさい、と命じています。そんなことをいっても、神から啓示を与えられれば黙っているわけにはいかないではないか、と思う人もいるでしょう。昨年学んだように、預言者エレミヤも、エレミヤ書20章9節で次のように語っています。

私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。」

とまで告白しています。預言者エレミヤは、神からの言葉を預かっているので、それを自分の中に留めておくことはできないのだ、と。ですから、礼拝の中で神の霊によって預言の言葉を与えられた人たちも、それを語らずにはおられなかったでしょう。しかしパウロは、礼拝の秩序の方を重んじ、たとえ多くの人に預言が与えられたとしても、語る者は二人か多くても三人にしなさいと語ります。その根拠として、パウロは、預言者の霊は預言者に服従する、預言の霊に圧倒されて語らないではおられない、ということにはならないと言っています。預言の霊は、預言者に従うのです。ですから預言者が黙っておこうと決めたなら、たとえ預言が与えられても黙っていることは可能なはずだ、とパウロは言うのです。

さて、少し戻って29節には「ほかの者は預言を吟味しなさい」とあります。異言の場合は、他の人がそれを解き明かすのですが、皆が分かる言語で話す預言の場合は解き明かしは必要ないものの、それを吟味する必要はあるのです。つまりは、預言が本当に神からのものか、それとも人の思いなのかをチェックしなさい、ということです。パウロはテサロニケの第一の手紙でも同じようなことを語っています。5章19節からお読みします。

御霊を消してはなりません。預言をないがしろにしてはいけません。しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。

パウロは預言を大事にしなさいと言いながら、すべてのものを見分けるようにとも言っています。預言の霊だからといって全て良い霊だとは限りません。ですから、霊が本当に神からのものなのか、信徒同士で相互チェックしなさい、とパウロは指示しています。ヨハネ第一の手紙でも同じことが言われています。4章1節にはこうあります。

愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。

では、どうやって確かめるのかといえば、神から来た霊は、神の子であるイエス・キリストが人となって来られたと公に言い表すかどうか、これが判断基準となる、と語っています。当時はイエスは本当は人ではなく、人に見えただけで本当は霊なる神だったのだ、というようなことが言われていたので、そのようにイエスについて間違った理解をもたらすような霊は神からのものではない、と言われたのです。もちろんこれだけが判断基準だ、ということではありません。これはその当時の問題を反映した一つの基準にすぎないのですが、これも一つの非常に大事な基準ではあります。

さて、31節ではパウロはこう語ります。

あなたがたは、みながかわるがわる預言できるのであって、すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができるのです。

と言っています。つまり、何人かの預言の賜物を持った人だけが預言をするのではなく、会衆全体が預言できるし、またそうしなさい、と言っているのです。すべての信徒が聖霊を受けている以上、すべての人が預言できるはずなのです。さてここで、その「すべての人」に女性が含まれるのか、という疑問が生じます。なぜなら34節と35節にはこう書かれているからです。

教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されてはいません。律法も言うように、服従しなさい。もし何かを学びたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、妻にとってはふさわしくないことです。

こんな風に言われてしまうと、預言の霊を与えられた女性は礼拝中は黙っていなければならないことになります。しかし、パウロは11章5節で「女が、祈りや預言をするとき」と書いているように、女性も礼拝中に預言をするのは当然だと考えていたようです。これはどうなのでしょうか?パウロは矛盾したことを言っているのでしょうか?この点については、本文批評という学問が役に立ちます。私たちの持っている聖書の最初に書かれた状態、つまりパウロの手紙の原本は見つかっていません。私たちはそれを書き写したコピーだけを持っています。しかし印刷機の無かった時代、手書きで写した場合、いくつかの違うバージョンのコピー、写本が生まれます。そのどれが原本に近いのかを研究するのが本文批評なのですが、この研究によれば34節と35節はオリジナルの原稿にはなかった可能性があります。つまり、パウロの原稿を写した写字生と呼ばれる人が、パウロの原稿に書き加えて、それが私たちに伝わっているということです。確かに、33節から36節へと続けて読んだ方が意味がよく通じるのです。ですから、女性の方は礼拝中に黙っていなさい、とパウロが教えたとは言えないと私は思います。

さて、これまで数週間かけて礼拝中の異言や預言についてのパウロの教えを学んできました。私たちの教会のように異言や預言を礼拝中に語ることのない教会にとって、パウロの教えは関係のないものなのでしょうか?そうとは言えません。特に今日の箇所はそうだといえます。パウロは礼拝というのは、式次第で決まった通りにやるべきだとは言っていません。むしろ礼拝中に、神の御霊に動かされた人ならば誰でも自由に発言してよいのだ、と語っています。もちろんその場合にも秩序を保つことは重要ですが、それでもかなり自由な礼拝のスタイルを考えていたと言えます。私たちの教会でも、示された人が自由に祈りの言葉を語ることができるような、そんなフリータイムのような時をもってもいいのではないか、そんなことを私も思わされました。

3.結論

さて、今日のまとめとして、この部分の締めくくりとしてパウロが39節以降で語ったことに注目したいと思います。

それゆえ、私の兄弟たち。預言することを熱心に求めなさい。異言を話すことも禁じてはいけません。ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい。

これがまさにパウロの言いたい事です。パウロは御霊の働きの実である預言や異言が礼拝中になされることを大変良いことだと考えていました。同時に、皆が一斉に預言をして、礼拝の秩序が失われることは良くないと考えました。これは、新しく教会に来られた方のことを考えればなおさらそうだと言えます。皆がばらばらに、あるいは滅茶苦茶に語っている礼拝を見た人は、「この宗教はなんだ、一体彼らはどんな神を信じているのか?」と不審に思うでしょう。しかし、神は無秩序の神ではなく、平和の神です。このような神を世間の人たちに証しするのが礼拝です。礼拝は自分たちのものだけでなく、世の中の人から注目される公共的なものだということを忘れてはいけません。私たちも、常に礼拝をより良いものにしたいと願う者ですが、今日のパウロの教えからも色々と学ぶべきことがあります。神様に献げる、そして世への証しとなるような礼拝を行っていくことができるように、神に祈りましょう。

聖霊なる神様、そのお名前を賛美します。これまで数週間かけて、御霊の礼拝における働きを学んでまいりました。私たちも常に御霊に導かれる礼拝を望むものです。どうか私たちの礼拝を祝し、新しい試みにも開かれた心を持てるようにしてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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おとなとして第一コリント14章1~25節 https://domei-nakahara.com/2021/06/06/%e3%81%8a%e3%81%a8%e3%81%aa%e3%81%a8%e3%81%97%e3%81%a6%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%82%b3%e3%83%aa%e3%83%b3%e3%83%8814%e7%ab%a01%ef%bd%9e25%e7%af%80/ Sun, 06 Jun 2021 06:36:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=1589 "おとなとして
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1.導入

みなさま、おはようございます。6月に入りました。6月は、ジューン・ブライドという言葉があるように梅雨さえなければ、花の咲き誇る、一年でももっとも過ごしやすい時期であるのかもしれません。とはいえ、今この東京は緊急事態宣言下にあり、気の抜けるような状況ではありません。この6月も主の守りの中を歩めるように、ともに祈ってまいりましょう。

さて、いつものように、このコリント第一の手紙のこれまでの内容について振り返ってみましょう。コリントの教会は、パウロが1年以上開拓伝道をして立ち上げた教会です。1年半というのは、一か所での滞在期間としてはパウロにとって非常に長いものでした。それだけ異文化や新しいものを受け入れる気風のあるコリントという都市の可能性を、パウロは高く評価していたのです。パウロはコリントを離れた後も忙しく地中海の諸都市を巡り、次々に新しい教会を立ちあげていました。しかし、パウロがいなくなってしまった後のコリントの教会には、実に様々な問題が勃発しました。1年半というのはパウロには相当長い期間でしたが、ユダヤ人のようにもともと旧約聖書に親しんでいたわけでもない異邦人中心のコリント教会にとって、1年半という期間はキリスト教のことを深く理解し、実践していくには短すぎたとも言えます。パウロが去ってからすぐに新しい指導者が与えられたわけではなく、アポロという別の指導者が来るまでの間、コリント教会はリーダー不在の状況になってしまいました。その空白期間、コリント教会では内部分裂というか、いくつかのグループが出来てしまい、それらが互いに対立している有様でした。ほかにも様々な問題が勃発し、コリントの教会はまさに問題のデパートという様相を示していました。

パウロはこの第一コリントの手紙で、そうした問題を一つ一つ取り扱います。パウロはコリントの教会からの報告や質問に対し、丁寧に回答していきます。特に11章以降は、「礼拝」にまつわる問題を扱っています。当時のコリントには今日のような大きな礼拝堂があったわけではなく、何名かの信者さんの個人のお宅で分かれて開く家庭集会、家の教会があったのですが、そこでの礼拝の中で様々な疑問や問題が生じました。まず礼拝中における女性の髪形、ヘアー・スタイルをどうするべきかという問題が生じました。また主の晩餐、つまり聖餐式についても深刻な問題が持ち上がりました。当時の聖餐式は、礼拝後にまず食事会をして、その後に聖餐式という流れだったのですが、食事会の際にお金持ちは腹いっぱい食べて酔っぱらってしまう人までいたのに、貧しい人たちは食べる物ものなく、お金持ちの信徒たちの食事が終わるまで廊下で待っているという有様でした。パウロは、このような貧しい信徒を辱めるような行為は許されないこと、そのような態度で臨む聖餐式は聖餐式ではないことを指摘しました。そして12章からは礼拝中の聖霊の働き、特に異言語りの賜物について語ります。13章では有名な愛の讃歌がありましたが、14章からはパウロは再び異言について語っているのです。このように、12章と14章は同じ異言というテーマについて語っていて、その間に13章の有名な「愛の賛歌」が挟まれる格好になっています。ですから、先週学んだパウロの愛の賛歌と、異言語りの問題とには密接な関係があるのです。今日の説教題は「おとなとして」ですが、このおとなとして行動する、判断する、ということと、愛を自分の行動原理として生きる、ということの間には深い関係があります。そのことを踏まえたうえで、本日の異言についてのパウロの勧告をよく読んでまいりたいと思います。

繰り返しますが、今日の説教題は、「おとなとして」となっています。パウロはコリントの信徒に対し、主にあって大人の判断をしなさい、という趣旨のことをこの手紙の中で繰り返し言います。子供のようであってはいけないと。そこで、この場合の大人と子供というのはどういう意味で対比されているのか?という疑問が浮かんできます。主イエスは「子どものようにならなければ神の王国を相続できない」とも言われましたので、子どものもつ特性の全部が悪いと言っているわけではもちろんありません。子供にも、大人が見習うべきもの、または大人が失ってしまった良いところがいくつもあります。しかし他方で、子どもにも欠点というか、克服すべき点があります。その一つは周りが見えずに何でも自分中心に考えてしまうという点です。子供は、自分がしていることが、他の人にどういう影響を与えるのか、ということの認識が成熟した大人に比べて弱い、ということは言えるでしょう。子供には、自分と全然違うタイプの人について、その人の身になって考えるとか、そういうことが難しいのです。それは経験が少なくて、他人の立場に立って考えることができないからです。そして愛のない行動というのも、実は子供っぽい行動だと言えます。愛とは、他人の必要を感じ取り、それに共感し、他人の必要のために行動したいという、そういうものです。他人のことを考えずに、ただただ自分の考えや善意を押し付けてもそれは愛の行動とはなりません。そんな行動は独りよがりの、子供っぽい行動だと見なされます。ですから、パウロが13章で語った「愛を追い求めなさい」という勧告と、ここでの「おとなになりなさい、おとなとして行動しなさい」という助言とは、実は同じものなのです。コリントの信仰者たちも、自分のことに夢中になるあまり、自分たちの振る舞いが他人にどういう影響を与えるのかを充分に考えませんでした。パウロは彼らのそういった面をたしなめているのです。この点を踏まえながら、今日の御言葉を読んでいきましょう。

2.本文

さて、先ほども言いましたが、前回の13章は「愛の讃歌」でした。聖霊が私たちに与えて下さるいろいろな賜物を私たちはどのように用いるべきか、ということについてパウロは「愛」という根本的な動機の重要性を強調しました。どんな素晴らしい聖霊の賜物も、それが愛によって生かされなければ台無しになってしまう恐れがある、ということを語ったのです。愛こそが、私たちに与えられる聖霊の賜物を活かす力なのです。そこで14章のまず冒頭では「愛を追い求めなさい」という言葉を13章の要約として語ります。そしてそれから具体的な内容に入っていきます。

パウロは聖霊の賜物の中でも、特に「預言」の賜物を求めなさいと語ります。パウロはここで、異言と対比する形で預言を強調しています。なぜならコリントの人々は、預言よりもむしろ異言の賜物を求めていたからです。しかしパウロは、異言よりも預言の賜物の重要性を訴えます。それはなぜか、ということがこれから語られていきます。皆さんは「異言」と言われても、何のことだか分からないかもしれません。私も実は異言語りをする教会の礼拝には参加したことはないのですが、しかし身近に知っているケースがあります。私の父は九州出身なのですが、父の両親が亡くなって空き家になった家を、ある教会が礼拝堂として購入してくれました。その教会は外国人宣教師が牧会している教会なのですが、それがペンテコステ派の教会、つまり神の霊である聖霊の働きを強調する教会で、礼拝中にも普通に異言語りがあるのです。礼拝中に祈祷の時間があるのですが、その時各人は各々自分の席で祈ります。その時に聖霊が働いて異言を語るように促された信徒の方は立ち上がって異言を語り始めます。しかし、その言葉は理解不明の言葉なので、その方が異言を語り終わった後、別の信徒の方が立ち上がって、その異言の意味を解釈するのです。慣れていない人には甚だ不思議な情景でしょうが、しかしこういう異言語りは今日の教会においてもなされている、ということを忘れないようにしたいものです。

さてパウロの手紙に戻りますと、パウロはまず、異言には「神に向かって」語られるという面があることを指摘します。異言は天使の言語とも呼ばれるように、神のおられる天上界、天国で語られる言葉であり、異言を語る人は神に対して、天国の言葉で賛美を捧げているのです。これは確かに素晴らしいことです。異言を語り人たちは、天国にいる天使たちと共に、天上の言葉で神に賛美を捧げるのです。しかし、そこには問題もあります。地上で生きる私たち、天上の言語を知らない私たちには、異言を語る人が何を言っているのか全く分からないのです。それに対し、預言は「人に向かって」語られます。神からの言葉を、地上に生きる私たちが理解できる言語で語るのが「預言」です。注意したいのは、「預言」というのは、ノストラダムスの大予言のような未来の予告のことではないことです。預言とは、神の言葉を預かるという意味です。神様は私たち人類に、罪を捨てて神に立ち返るようにと呼びかけていますし、その他さまざまなことがらを私たちの必要に応じて語られます。その神の言葉を語るのが預言者です。旧約時代には、イザヤとかエレミヤといった大預言者が神の民イスラエルに向かって神のメッセージを語りました。しかし、イエスが到来した後には、この預言の役割を担うことができる人は大きく拡大しました。なぜなら、ペンテコステの日の後には、聖霊はバプテスマのヨハネやイエスなどの特別な人物だけにではなく、あらゆる信徒に注がれるようになったからです。ですから、パウロの立てたコリント教会においては、パウロやアポロのような使徒、教師ばかりではなく、一般の信徒も預言をすることができるようになりました。その預言の言葉は、皆が分かる言葉、つまり当時一番よく用いられていたギリシャ語でした。私たちの今日の教会で預言が語られるとすれば、その言語は日本語になるでしょう。ですから、異言の場合と違って、その意味を明らかにする通訳は必要ないのです。異言の最大の問題は、それを解釈する人がいないと、異言語りする人は自分だけが忘我状態に陥り、ほかの人が目に入らなくなり、その結果自分だけが恵まれる、ということになりかねないことでした。それでパウロは、

異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。

と語るのです。異言を語る人は神を賛美しているのですから、それによって自分の徳を高めますが、それが適切に翻訳されない限りは、他人の徳を高めることは出来ません。なにしろ、他の人たちには何を言っているのか分からないのですから。それに対し預言は、他人を造り上げ、ひいては教会を造り上げるのです。愛を追い求める者、他人の必要のために行動する者は、ですから異言よりも預言の賜物を追い求めるべきなのです。ただし、パウロは異言を否定しているわけではありません。5節では「もし異言を話す者がその解き明かしをして教会の徳を高めるのでないなら」という条件をつけています。異言の問題点は、それを語っている本人以外には意味が分からないことです。しかし、語っている内容そのものは素晴らしい神への賛美ですから、その意味を分かるように解釈すれば、他の人たちへの益となるのです。ですから、異言を語る場合、その人は可能であればその解釈まで含めて異言を語るようにしなさい、それが出来ない場合は適切な解釈者を求めなさい、とパウロは勧めています。

先ほども私の父の実家の例でお話ししたように、ペンテコステ派と呼ばれる教会では、ある人が異言を語り、また別の人がその解き明かしをする、というようなことがありますが、パウロはここでは異言を語ったまさにその人が解き明かしまですることが望ましい、と語っていることに注意したいと思います。

さて、パウロは異言がどのようなものかについて更に説明を加えます。7節では、まず楽器を例に引きます。ここでは笛や竪琴に言及されていますが、もっと身近なものとしてピアノを考えてみましょう。ピアノをまったく習ったことのない子どもが、めちゃくちゃに鍵盤をたたいても、そこにはハーモニーもメロディーも何もありませんので、聞いている人にはただの雑音にしか聞こえません。異言もその意味が分からない人にはそうした雑音に聞こえる、とパウロは語ります。

また、当時は戦の時にはラッパを吹いて兵隊を招集しましたが、ラッパも訓練をしないとちゃんとした音が出ません。気の抜けたようなラッパの音を聞いても、兵隊は奮い立つどころか戦意を失ってしまうでしょう。パウロは、周りの人たちにとって異言がそのような気の抜けたラッパの音のようなものだと語ります。異言を語る人は神に向かって語っているのですが、はたから見ると空に向かって話しているようにしか見えないのです。

また、パウロは第三のアナロジーとして、異言を意味の分からない外国語に譬えます。これは分かりやすいですね。たとえば私たちが講壇に、ブラジルからポルトガル語を話す世界的な伝道者をお招きしたと仮定しましょう。そのメッセージは霊的に深く力強く、聴衆の魂を熱く揺さぶります、もし聴衆がポルトガル語を理解できれば、の話ですが。しかし、ポルトガル語が全然分からない聴衆には、いくらその内容が霊的に素晴らしいものであっても、まったく益はなく、すこしも感動を与えません。メッセンジャーは自分の語る素晴らしい言葉に悦に入るかもしれませんが、聞いている人はぽかんと口をあけているしかないのです。異言もまさにこのようなものなのです。ですからパウロは「異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい」と勧めているのです。パウロは15節で

ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。

と語ります。「知性」と訳されたギリシャ語はノウスという言葉で、単に「心」と訳すことも出来ます。しかしパウロはここで霊と知性、あるいは霊と心とを対比したのではありません。ここでの「霊」とは異言の事です。異言は霊である神に向かって語られる霊的な言葉ですが、しかし地上の他の人には分かりません。それに対し、知性や心で賛美するとは、その霊的な言葉である異言を、普通の人が理性を持って理解できるような地上の言語に翻訳することです。ですから「霊で祈り、知性においても賛美する」とは、「異言を語り、それをみんなが分かるような普通の言葉でも語りましょう」というような意味なのです。異言がそのようは言葉に訳されて初めて、教会に来始めて、日の浅い人も心から「アーメン」と言うことができるのです。ですからパウロは1万語の異言を語るより、その中の5つでもいいから普通の言葉に翻訳して話しなさい、それが教会を建て上げることになるのだ、と語ります。

私たちは物の判断については大人でなければなりません。それは、私たちのすることが他の人にどういう影響を与えるのか、よく考えなければならないという意味です。確かに、礼拝において教会員のみんなが異言を語り、天使の言葉で神を賛美できれば、それはその人本人にとっては、本当に素晴らしい経験でしょう。しかし、わたしたちがみなばらばらに異言を語り、恍惚状態になっているところを、教会に初めて来た人が見たならば、なんと思うでしょうか。私たちを怪しげなカルト集会か、あるいはなにか危ないクスリを使っている集団と間違えないでしょうか。そんな印象を持たれてしまえば、その人を主のもとに導くことはほぼ絶望的でしょう。あるいは、そういう危険なことや不思議なことを求めているような人ばかりを引き寄せてしまうかもしれません。ですから、いくら異言がその人本人の霊性にとって素晴らしいものであっても、大人としての判断をするならば、そのことにあまり力を注ぐわけにはいかないのです。

このように、異言語りは、それがもし正しく解釈されないのなら、未信者や求道者を主に導くことは出来ません。むしろ彼らは、教会とは何と訳の分からないところだろう、と驚いて教会を立ち去るでしょう。しかし、誰にでも意味の分かる預言の言葉は違います。預言の言葉、つまり神から託された言葉は、その言葉を聞く人の心を貫き通し、その人が自らの内に抱えている罪の問題を認識させ、神の前にその罪を告白させる力を持つのです。ですから、私たちは主にある大人として、預言の賜物を熱心に求める必要があるのです。

さて、最後に一言加えたいのですが、私たちの今日の教会では、異言や預言を語る教会と、それらを全く語らない教会とがあります。しかし、注意したいのはお互いに裁き合わないようにすべきだということです。預言や異言が今日でも語られうることを否定する教会があります。異言や預言は初代教会のみの時代に起こった特殊な現象なのだ、という人がいますが、そのように言う聖書的根拠はないように思われます。今日でも預言や異言はあり得ると私は考えています。しかし、だからと言って預言や異言の賜物がない教会がある教会よりも劣っているということは決してありません。パウロが宣べているように、聖霊がどの教会に異言の賜物を与え、また与えないかというのは、信徒たちの側の問題ではなく、聖霊の自由な判断によるからです。ですから、たとえ預言の賜物が与えられていなくても、そのことを卑下する必要はないですし、むしろ自分たちに与えられた他の賜物を喜ぶべきなのです。

3.結論

今日は、パウロがなぜ異言ではなく預言の賜物を求めるように勧めているのかを考えて参りました。異言を求める人は、自分が霊的に恵まれることばかりを追い求める人に譬えられるかもしれません。そういう人は、自分の霊的成長のためにはあらゆる努力を惜しみませんが、他の人が霊的に成長することにはあまり関心を示しません。それに対し、預言の賜物を求める人は、自分ばかりではなく他人のことに配慮します。他人とは同じクリスチャン仲間だけではなく、教会の外にいる人たちをも含みます。預言の言葉は教会を立て上げるだけでなく、教会の人にいる人たちにも自らの抱え込んでいる霊的な問題への自覚を促し、彼らを主の教会へと導く力を持つからです。ですから私たちも預言の賜物を熱心に求めましょう。旧約の時代には、預言の賜物は大預言者と呼ばれるイザヤやエレミヤなど、ごく一部の人たちにのみ与えられました。しかし、主イエス・キリストは今やすべての信仰者に豊かに聖霊を注いでくださいます。私たちが聖霊を与えられているように、預言の賜物も与えられるのです。ですから愛を追い求める者としては、異言よりも預言の方が勝っているのです。私たちも、与えられた賜物を愛のため、他人のために用いることができるように、祈りましょう。

聖霊なる神様。そのお名前を賛美します。今日は預言や異言について、これらを大人として、愛に基づいて用いるべきことを学びました。私たちの教会にもいろいろな賜物が与えられていますが、それらを愛のために用いることができますように。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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信仰、希望、愛第一コリント12章31~13章13節 https://domei-nakahara.com/2021/05/30/%e4%bf%a1%e4%bb%b0%e3%80%81%e5%b8%8c%e6%9c%9b%e3%80%81%e6%84%9b%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%82%b3%e3%83%aa%e3%83%b3%e3%83%8812%e7%ab%a031%ef%bd%9e13%e7%ab%a013%e7%af%80/ Sun, 30 May 2021 06:38:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=1566 "信仰、希望、愛
第一コリント12章31~13章13節" の
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1.導入

みなさま、おはようございます。5月も終わろうとしていますが、初夏を思わせるような日が続きますね。これから梅雨の季節が続くと思うと少し気が重いですが、新しい階段のおかげで、雨が降っても安心して教会に来られるようになったことは大変大きな恵みです。

 さて、今日の箇所はパウロの第一コリント書簡の中でも最も有名な、いやおそらくは聖書全体の中でも最も有名な箇所だとすらいえるかもしれません。キリスト教は「愛の宗教」だと言われますが、ではその愛とは何かについて最も簡潔に力強く語っている箇所だからでしょう。今日の説教タイトルは「信仰、希望、愛」となっていますが、今日の話は信仰、希望、愛の三つについて等しく語ろうというのではありません。むしろ、キリスト教信仰においてきわめて大切なものだとされる信仰や希望よりも、なぜ愛がさらに大いなるものだと言えるのか、そのことを考えてみたいのです。

キリスト教における「信仰」の大切さは言うまでもありません。「信仰義認」という教理によれば、私たちが救われるのは私たちの信仰のゆえであり、誤解をおそれずにいえば、私たちの愛のゆえに救われるのではありません。私たちが神を、そしてキリストを信じる信仰によって私たちは救われるのであり、私たちが隣人を愛するその愛のゆえに私たちが救われるのではありません。むしろ、「神様、この愛のないわたしを救ってください」と祈ることの方が多いのではないでしょうか。救われる条件として、「愛すること」が条件になってしまうと、ではどの程度愛すればよいのか、また誰を愛すればよいのか、というなかなか難しい神学的問題が生じてきてしまいます。もし完全な愛が救いの条件だとすれば、マザー・テレサのようなごく少数の聖人以外、誰も救われなくなってしまいます。それゆえ、どうすれば救われるのかということが問われた宗教改革の時に強調されたのは「信仰」であって「愛」ではありませんでした。

 そして、「希望」も「信仰」と並んでキリスト教においては極めて大切なものです。20世紀後半のキリスト教の神学は、しばしば「希望の神学」と呼ばれます。20世紀後半は、二度の世界大戦や核戦争の脅威などによって未来に希望が持ちづらい時代でした。19世紀には、人類の科学文明がどんどん進歩して、いつかユートピア的な世界が実現するだろう、というようなことが語られていました。しかし、ホロコーストや原爆投下など、それまでの人類が経験してこなかった空前の規模の破壊と狂気を目のあたりにして、そんな楽観的な展望が吹っ飛んでしまったのです。そんな時に、キリスト教信仰の根本は未来への希望にある、未来において神が悪に完全に勝利されるという終末論的希望、それこそがキリスト教信仰の中核なのだ、ということが叫ばれるようになりました。そのために、20世紀後半の神学は「希望の神学」だ、と言われてきたのです。

 このように、信仰や希望は極めて大切なもので、パウロもこの二つを「いつまでも残るもの」と呼んでいます。しかし、しばしば教会では信仰や希望の大切さの陰に隠れて、愛の問題がおろそかになってしまうことがありました。この愛は「愛されること」、つまり神様が罪びとの私たちを愛してくださるという受け身の愛のことではなく、私たちが他の人々を積極的に「愛すること」、そのような能動的で利他的な愛です。なぜ愛がしばしば教会の中で軽視されてしまうのかといえば、それが「行い」と結び付けられてしまうからかもしれません。キリスト教の愛とは、好きな人に好意を抱くというような常識的な愛を超えて、敵をも愛するような積極性、また行動を伴う愛のことを指します。しかし、このように人間側の積極性を強調すると、恵みのみで救われるという、プロテスタント教会が強調してきた受け身の姿勢、絶対他力の姿勢が弱まってしまうのではないか、という心配が生じてしまうのです。しかし、この「受け身」の姿勢、神の側の一方的な恵みを強調するあまり、愛の実践がおろそかになる、これがプロテスタントの一番弱い部分なのかもしれません。そのような自省をこめて、今日のパウロの言葉としっかり向き合ってみたいと思います。

2.本文

さて、まず今日のテクストを読むにあたって、これまでの文脈を振り返ってみたいと思います。コリント人への手紙全体を通じて取り扱われている問題は、「教会の分裂」という問題でした。コリントの教会には、いくつかの派閥に割れてしまっているという根本的な問題があり、その上に様々な問題が生じました。教会員が世俗の裁判所で互いに訴えあったり、お金持ちの教会員が貧しい教会員を辱めたり、あるいは偶像にささげられた肉に関係して「偶像礼拝」の問題を巡って教会員の中で意見が割れたりなど、様々な問題が出てきたのです。これらの問題の根底にあるのは、愛の欠如でした。

パウロは12章からまた新しい問題を取り扱います。それは「霊的な賜物」、特に異言語りの問題でした。コリントの教会員は、自分が他の教会員よりも優れていることを示すのに熱心でした。彼らは知恵において自分は優れていると、互いに誇りあい、競い合っていたのですが、そのような競争意識をいたく刺激したのが、誰が最も「霊的な賜物」を持っているのか、ということでした。聖霊の働きというと、私たちは特別なカリスマを持った人にだけ与えられるもの、特殊なものだと考えがちですが、初代教会の時代には、聖霊の働きがきわめて強力であり、使徒と呼ばれる特別な人々ではない、一般の信徒にも、多くの御霊の賜物が与えられていました。ペンテコステの日に、使徒たちは習ったこともない外国の言葉で福音を語り始めた、という奇跡が語られていますが、そのような外国語よりもさらに高度な言語として、「天使たちの語る言語」というものがあったようなのです。これが異言語りです。この天使の言葉を語って、自分は特別に霊的な存在なのだということを周りの人たちに示そう、誇ろうとした人たちがいたのです。

そんな彼らに対し、パウロは御霊の賜物には優劣はない、と諭します。聖霊は御自身の自由な主権と判断によって、ある人には異言の賜物を与えますが、他の人には教える賜物、他の人には管理する賜物、また他の人には病気を癒す賜物を与えます。それらはすべて神の教会を建て上げるためであり、体がすべて眼や足だけで出来ているのではなく、様々な肢体によって構成されるように、教会もまた、様々な賜物を持った人々によって構成されているのだ、と論じます。そして最後にこう語るのです。

あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。

この手紙をここまで聞いていたコリントの教会の人々は、ではその「よりすぐれた賜物」とは何なのか、と思ったことでしょう。自分もそんな偉大な賜物が欲しい、と思ったことでしょう。そしてパウロは有名な「愛の讃歌」を語り始めます。そうすると、「よりすぐれた賜物」とは「愛」のことなのか、と思われるかもしれません。しかし、そうではありません。むしろ、「愛」とは、聖霊から私たちに与えられる賜物をどのように用いるべきなのか、その用い方に関わるものでした。パウロは13章1節から3節まで、様々な御霊の賜物について語ります。「異言の賜物」、「預言の賜物」、「あらゆる奥義」や「あらゆる知識」、あるいは「山を動かすほどの完全な信仰の賜物」です。これらの賜物は、コリントの人々が熱心に追い求めていたものでした。パウロも、もちろんこれらの御霊の賜物の高い価値を認めています。コリントの人々に、それらを熱心に追い求めなさい、とも言っています。しかし、パウロが問題にしたのは、何のために、またどのようにそれらの賜物を用いるのか、ということでした。自分が他のクリスチャンより優れていることを示すために、そうやって誇るために、そうした賜物を用いるのだとしたら、それには何の価値もない、ということをパウロは語っているのです。そのことを最も端的に示しているのは次の一節です。

また、たとい私が持っている物を全部貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

愛のため以外に、持っている物を貧しい人に与えるなんてことがあるだろうか、と思われるかもしれませんが、ある人は自分が立派な人であることを他の人に示すために貧しい人に物を与えるというようなことがあったようなのです。使徒の働きによれば、エルサレムの初代教会では貧しい人を助けるために、教会員は自分の家を売ってその代金を共有財産にして、互いに支え合ったということが書かれていますが、アナニヤとサッピラという夫婦は家を売った代金を一部自分の手元に残しておきながら、使徒たちには家の代金の全部ですという嘘の申告をして、神の裁きを招いたという話が使徒の働き4章に記録されています。この夫婦がなぜそんな嘘をついたのかと言えば、それは自分が立派な人物だと見せるため、いわば見栄を張るためにそういうことをしたのです。パウロによれば、もしアナニヤとサッピラが嘘をつかずに全額を教会にささげたとしても、それが仲間を支えようという兄弟愛のためではなく自分をよく見せたいという見栄のためなら、それは無意味だ、ということになります。また、「自分のからだを焼かれるために差し出す」とはどんなことかと言えば、実際初代教会では信仰のためにからだを焼かれた人がいたのです。キリスト教の歴史の最初期の大迫害は、ローマ皇帝ネロによる迫害で、それは紀元64年にローマで大火災があったとき、皇帝ネロが自分の放火を疑われたのでキリスト教徒に罪をなすりつけたという事件です。その時に使徒ペテロやパウロが殉教したと言い伝えられています。キリスト教徒は松明の代わりに生きたまま燃やされたと言われています。もちろん教会の人々は大きなショックを受けたわけですが、だんだんとこういう殉教者が英雄視されるようになります。カトリック教会では、信仰のために殉教した人は「聖人」として人々から大きな尊敬、場合によっては信仰さえ集める場合があります。あの人の信仰は素晴らしい、死をも恐れぬすごい信仰だ、と褒められるのです。しかし、パウロはそのような名誉を得たいという動機で殉教をするのは無意味だ、と言います。イエス様も人から比類のない全き信仰を褒められたいから、讃えられたいから十字架に架かられたのではありません。むしろ、他人のために、他の人たちの益となるために、十字架に架かられたのです。まさに私たちへの愛のために死なれたのです。もちろん、死をも恐れぬ信仰は立派なものです。迫害を恐れて、自らの信仰を隠したり、否定したりすることを主が喜ばれないことを聖書は再三語っています。私たちは臆病であってはならないのです。しかし、そのような強い信仰も、愛のために用いられなければ意味がないのです。主への愛の為、また他の人々への愛のためにこそ、死をも恐れぬ信仰は発揮されるべきなのです。さらにはこのような強靭な信仰そのものが御霊の賜物であることを忘れてはなりません。私たちは信仰によって救われますが、その信仰そのものが神からの賜物です。ですから私たちは自分の信仰を誇ることは出来ません。そして、信仰とは自分のものではなく賜物であり、そして信仰は愛のためにこそ用いられるものなのです。

 それからパウロは愛について、さらに詳しく論じます。まず、パウロは愛が神のご性質そのものであることを指摘します。神は愛です。愛は忍耐強く、情け深いものです。パウロはローマ書2章4節で、神が豊かな慈愛と寛容と忍耐を持った方だと語っていますが、それとそっくり同じ言葉が今日の第一コリントの4節でも語られます。ですからパウロが愛は寛容であるとか、愛は情け深い、あるいは愛は忍耐をする、という場合、「愛」を「神」と言い換えて、神は寛容であり、情け深く、忍耐をされる方だと言ってもそのまま意味が通ります。パウロが私たちに愛を持ちなさい、というとき、つまり私たちに神のようになりなさい、神の愛のご性質に倣いなさい、学びなさい、と言っているのです。そして神をイエスと言い換えることもできます。イエスは寛容で、情け深く、忍耐をする方であるように、あなたがたも寛容で、情け深く、忍耐をする者でありなさい、と言っているのです。

またパウロのこの一連の愛の教えが、第一コリントの他の内容と密接に結びついていることに注意しましょう。パウロは、「愛はなになにではない」という反対命題の形で愛について語ります。「愛はねたまない」という言葉は、第一コリント3章3節の

あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間のねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。

という勧告と響きあっています。コリントの人たちが互いに妬みあっているのは、彼らに愛が欠けている何よりも証拠なのです。

また、次の「愛は自慢せず、高慢になりません」という言葉は、8章1節の

しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。

というパウロの言葉を思い起こさせるものです。コリントの人々は自分たちの知識を誇りあって競争していましたが、誇りは人を高ぶらせます。しかし愛は人を謙虚にさせ、また人と人とを結びつけるのです。

さらに、「愛は自分の利益を求めない」という一文は、この書簡の10章24節の言葉を思い起こさせます。

だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。

コリントの人たちは自分たちの利益を追い求めて互いに争っていましたが、これも愛の欠けている証拠でした。「愛は不正を喜ばない」、という言葉もパウロのこれまでの勧告を思い起こさせます。この手紙の6章7節では、互いに訴えあうコリントの人たちに向けて語ったパウロの言葉を思い起こさせます。パウロはこう言いました。

そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。

不正を喜ばないというのは、不正な相手を訴えなさい、ということではありません。むしろ不正を理由に相手を訴えるよりも、むしろそのような不正を甘んじて受けなさい、とパウロは大胆に語りました。愛は不正を喜びませんが、そのために争うことはせず、むしろ不正に耐える力を与えてくれるのです。

このように、パウロの13章の愛の讃歌は、まさに第一コリントで語られてきた様々な内容を凝縮し、まとめたもの、総集編だとすら言えます。コリントの教会が問題のデパートと呼びたいほどに様々な問題に苦しんできたのは、一言でいえば「愛がなかった」ためなのだ、ということなのです。

パウロは愛が「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」と言います。ここに「信じる」、また「希望を持つ」という二つの動詞が使われていることに注意しましょう。私たちの信仰や希望も、愛に基づいているのです。未来への希望も、愛に基づかなければ無意味です。自分だけの利益を求める人が思い浮かべる未来とはどんなものでしょうか?自分の願いが何でも叶うような未来でしょうか。しかし、自分だけが幸せになって他の人は幸せになれない未来があるとしたら、そんなものが素晴らしい未来でしょうか?そんな世界を私たちは心から楽しむことができるでしょうか。ですから、希望も、愛に基づかなければ無意味なのです。私だけではなく、あなたの、また他の人にとっても素晴らしい未来を願うこと、これこそがキリスト者の希望なのです。そしてパウロはこう語ります。

愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。

これはどういう意味かといえば、預言や異言や知識はみな素晴らしい御霊の賜物ですが、しかしこれらの賜物が必要とされるのは、神の国の完成、新しい天と新しい地が完全に実現する時までの中間的な時代、キリストが再臨されるまでの今の時代までだということです。その時が来れば、私たちは神と顔と顔を合わせてお会いすることができます。天使たちの語る天上の言葉を誰もが話せるようになるでしょう。また、今では隠されている多くのことについても、完全な知識を得ることができるでしょう。今の私たちは幼子のようなもので、神とその世界についての多くのことについて子供のような知識しか持ち合わせていませんが、その時になれば大人としてそれらを知るようになるでしょう。しかし、そのような終末における完成の時でさえ、ますます必要とされ、その輝きが衰えないのが「」です。私たちが新天新地の時代に生きるとき、私たちの新しい命の根本原理となるのが「愛」なのです。そして教会とは、その素晴らしい時代の前味を味わうところです。ですから、教会のすべてのわざは愛に基づいている必要があるのです。

3.結論

今日は、「信仰、希望、愛」と題して、愛という観点から信仰や希望、そしてキリスト者としての歩み、また神の教会の歩みはどうあるべきか、ということを教えられました。私たちは主から恵みによって召された者として、神から様々な賜物を与えられています。私たちは教会に仕え、またこの世に仕えていくために、こうした賜物、タラントを積極的に活用していく必要があります。そして、その賜物を用いる目的また目標が「愛」である、ということを学びました。愛とは、簡単に言えば他人の幸せとその成長を喜ぶ心です。自分のことばかり考え、自分の利益に囚われてしまうという状態から抜け出して、自分と同じように他人の必要について考えられる状態です。神は私たちがそのような者となるようにと、私たちを召して下さいました。私たちはこれからも、豊かな賜物を神に願っていきましょう。そして、それにもまして、その賜物を愛をもって用いることができるように祈って参りましょう。お祈りします。

天におられますわれらの父よ。今日は使徒パウロの素晴らしい愛の賛歌を通じ、私たちがどう生きるべきか、またあなたから頂いている様々な賜物をどのように用いるべきかを学びました。愛こそがもっとも大切なことを改めて学びました。私たちが愛をもって歩めるように強めてください。われらの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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からだは一つ、御霊は一つ第一コリント12章12~30節 https://domei-nakahara.com/2021/05/23/%e3%81%8b%e3%82%89%e3%81%a0%e3%81%af%e4%b8%80%e3%81%a4%e3%80%81%e5%be%a1%e9%9c%8a%e3%81%af%e4%b8%80%e3%81%a4%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%82%b3%e3%83%aa%e3%83%b3%e3%83%8812%e7%ab%a012%ef%bd%9e30%e7%af%80/ Sun, 23 May 2021 05:35:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=1539 "からだは一つ、御霊は一つ
第一コリント12章12~30節" の
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1.導入

みなさま、ペンテコステおめでとうございます。ペンテコステというのは、イースター、クリスマスと並ぶキリスト教の三大聖日の一つですが、クリスマスは主イエスの誕生を祝う日、イースターは主イエスが死者の中から復活したのを祝う日であるように、いずれもイエス・キリストの生涯にかかわるものですが、ペンテコステは三位一体の父・子・聖霊の中でも特に聖霊に関係する日です。ペンテコステというギリシャ語の言葉の意味は、50番目という意味なのです。では何から数えて50番目なのかといえば、ユダヤ教のお祭りの一つである初穂の祭りから数えて50日目ということです。初穂の祭りというのは、収穫の初穂を神に感謝してお献げする日ですが、人類の中で初めて死者の中から復活したイエス・キリストを比喩的に言えば人類の初穂です。ですから、初穂の祭りとはそのままイエスの復活の日を指し示すものなのですが、それから50日後に教会に聖霊が降ったので、その日がペンテコステの主日となったのです。

ではペンテコステとはどんな日なのか、その日にはどんな意味があったのか?といえば、それは教会が実質的に主イエスの働きを引き継ぐための力を与えられた日、ということになるでしょう。主イエスご自身はその公生涯において驚くべき業を数多く行いましたが、それは聖霊の力を受けることで可能になったのです。そのことがルカ福音書に書かれています。

さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。

聖霊を受けられた後、主イエスは聖霊の力によって様々な奇跡など、驚くべき業をなされたのです。しかし、その主イエスが天に昇られ、教会は取り残されてしまいました。イエス様がいない教会が、どうすれば主イエスの働きを引き継ぐことができるのか、その答えがペンテコステだったのです。つまり、主イエスに下ったのと同じ御霊が、エルサレムの教会の人々に下ったのです。主イエスは最後の晩餐のときに、こう言われました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います(ヨハネ14:12)

イエスの弟子たちが、イエス様より大きなわざを行うというのです。どうしてそんなことが可能なのかと言えば、それはイエス様に大きなわざを行う力を与えたその同じ御霊が、弟子たちにも同じ力を与えるからなのです。そして、その大いなる力を与える御霊が弟子たちに下ったのが主イエスの復活から数えて50日後、ペンテコステの日だったのです。

今日の私たちの教会では、初代教会のような圧倒的な聖霊の働きを体験することはないかもしれません。しかし、キリスト教黎明期の教会であるコリント教会では、驚くほどの聖霊の働きがありました。しかもそれはパウロとかペテロとか、使徒や伝道者という特別な人たちだけでなく、一般の信徒たちの間でも聖霊の力が働いていたのです。今まで普通に暮らしていた人が、突然天使の言葉と言われる異言を語りだす、あるいは病を癒す力が与えられる、こういうことが起こったのです。こんなことが皆さんにも起こったら、どうなってしまうか想像してみてください。よくSF映画やアニメなどで、普通の少年が突然超能力を使えるようになる、という話がありますね。そのようなことが起こると、最初その少年は戸惑います。しかし、だんだん自分の新しい能力に慣れてくると、その力を良からぬ目的、非常に利己的な目的で使い始めてしまいます。それでも、経験を重ねるうちにだんだんとその誤りに気が付いて、自分の力はもっと大きな目的、人助けのために用いるべきものだと気が付いていく、これが超能力少年の話をめぐるお決まりのストーリー展開ではないでしょうか。

いきなり何の話をするのかと思われるかもしれませんが、今日のコリント教会の話も、ある意味で同じような話なのです。コリント教会の人たちは、主イエスを信じたことで突然聖霊による不思議な力や賜物が与えられるようになりました。しかし彼らは、自分たちになぜそんな力が与えられたのか、よくわかっていませんでした。そして彼らは、そうした賜物を自分が他人より優れていることの証明だと見なすようになってしまいました。コリント教会にはもともとそういう傾向というか、問題がありました。彼らは教会の他の信徒たちを仲間というよりライバル、誰が一番優れているのかを競う競争相手のように見ていました。そんな彼らでしたから、聖霊の賜物をいただくと、では誰が一番素晴らしい聖霊の賜物を持っているのかと競い合うようになってしまいました。

この状況を伝え聞いて危機感を抱いたパウロは、ここで聖霊の与えられた目的はなんであるのかを説明します。パウロの伝えようとしたことを一言でいえば、「一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために」ということになるでしょう。これはラグビーでよく使われる合言葉であるOne for all, all for oneを訳したものです。この言葉はもともとフランスのアレクサンドル・デュマの『三銃士』という小説に登場する合言葉ですが、ラグビーでも使われるようになりました。この言葉はしばしば「一人はみんなのために、みんなは一人のために」と訳されてきました。一人は全員のために奉仕しますが、全員もまた一人を助けるためにあるんだ、という美しい友情の言葉として理解されてきたのです。むかし、山下真司主演の『スクール・ウォーズ』という熱血スポコン・ドラマがありましたが、そこでも出てきました。しかし、そのスクール・ウォーズの登場人物のモデルとなり、残念ながら故人になられたかつての日本のラグビーのスーパースター平尾誠二さんによれば、これは大変な誤訳なのです。One for allの方はそのままなのですが、all for oneのoneは一人ではなく、一つの目的、つまり勝利のためだ、ということです。ですから、この合言葉は単にお互いに助け合いましょう、支え合いましょうという意味のみならず、それぞれ異なった、違う個性や賜物を持った人々が、心を一つにして一つの目的のために一致して進んで行こう、という意味なのです。

そしてこの言葉は、そのまま教会でも使うことができると思います。「一人がみんなのために」というのは確かに大事ですが、同時に「みんが一つの目的のために」ということです。この一つの目的と言うのは、勝利のことではありません。教会は勝つことが目的の団体ではないのです。むしろ一つの目的とは、神の愛と正義がその世界を覆うようになることです。今の世界にはいろいろと複雑な問題があり、人類の未来は決して明るいとはいえないでしょう。人類だけでなく、環境問題の影響で他の動物や生物も、今や危機に瀕しているものが少なくありません。しかし神は、ご自分が創造されたこの世界を深く愛し、その未来を深く憂慮されています。神は私たちに、この世界を善い方向に導く働きに加わってほしいと願っておられます。神の目的、ヴィジョンとは、繰り返せばこの世界が神の愛と正義に包まれることです。この目的のために、私たちは働くように召されています。そして、それを成し遂げるために私たちには聖霊が与えられるのです。そのことを忘れないようにしながら、今日の御言葉を読んで参りたいと思います。

2.本文

まずこれまでの議論の流れを復習しましょう。パウロは11章から、礼拝の問題について語り始めます。頭のかぶりものの問題、次いで主の晩餐の問題、それから礼拝中の異言語りについて取り扱います。12章1節から12節までは、パウロはクリスチャンに与えられる様々な御霊の賜物について語りました。コリントの教会の大きな問題の一つは、自分が他の人より優れていることを示そうと競い合い、そのために教会内で分裂や不和が起こってしまったことでした。自分はあの人より優れた御霊の賜物を持っている、知恵において優れていると互いに競い合い、地味な目立たない賜物を持った人たちを見下すようなことが起きてしまっていたのです。そこでパウロは、神がそれぞれに御霊の賜物を与えたのは、個々人の益となるためでなく、教会全体のためなのだ、ということを強調しました。前の説教でお話しした6節、7節にはこうあります。

働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。

教会員にはそれぞれ異なった賜物が与えられていますが、それらはすべてお一人の御霊の働きであって、また誰にどの賜物を与えるのかは聖霊の自由な主権による、ということを強調しています。誰々さんが優れた人だから聖霊が優れた賜物を与えた、というのではないのです。むしろ、同じ一つの御霊が相応しい賜物を各人に与えるのは、全体の益のため、つまり教会を建て上げ、また力強く福音伝道の業を遂行していくためです。自分のためではなく、皆の益のため、教会のため、さらには世界のためなのです。

そのようなことを強調した上で、今日の聖書箇所である12節でパウロは大切なことを書いています。

ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

ここで注目すべきなのは、パウロが「からだ」という時にキリストのからだである教会を念頭においているのは明らかなので、最後の部分は「からだはいろんな部分から成っているが、そのいろいろな部分すべてが一つであるように、教会もいろいろな個性や賜物を持った人たちから成っていますが、教会の場合も同様に一つなのです」となりそうなものですが、パウロは「教会もそれと同様です」とは言わずに「キリストもそれと同様です」というのです。つまり、キリストと教会とがほとんど同じもののように語られているのです。これは私たちに畏れを抱かせないでしょうか。私たち教会は単なる人間の集まりではないのです。キリストの血によって清められ、聖霊によって力を与えられた、キリストと一つにされた特別な存在です。しかも一人一人が皆そうなのです。あの人はキリストのからだで、この人はそうではない、ということはありません。すべての人がキリストのものであり、そこに優劣はありません。パウロは次にこう言います。

なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。

つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです。この言葉は、パウロの別な有名な言葉を思い起こさせます。そう、ガラテヤ書の一節です。パウロは3章27節、28節でこう言っています。

バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。

しかし、コリントの今日の箇所では「男も女もありません」という一文が除かれています。これはおそらく、11章の礼拝中の女性のかぶり物についての教えの中で、男と女の区別を曖昧にするような礼拝中の行動について反対することを述べていたことが関係しているのかもしれません。今日の箇所でのパウロの関心事は、むしろ教会の中で「奴隷と自由な身分の者」という社会的には身分が異なる人たちについて、教会の中にもそのまま社会での身分制度を持ち込むことに反対することにありました。といいますのも、古代社会ではある組織や集団を「からだ」に譬えることがしばしばありましたが、その場合にはからだのいろいろな部分が平等であることを示すためではなく、むしろ身分の違いを強調するためにこうした比喩的表現が使われていたからです。例えば「頭」や「目」などは社会的な身分の高い人を表わし、手足で表されている人たちは「誰々さんの手足となって働く」という表現があるように、「頭」に譬えられている、司令塔と目されている人に従わなければならない、というような用いられ方をしたのです。つまり権力者側に都合がいいように「からだ」の譬えが使われていたのです。しかし、パウロはそのようには「からだ」のアナロジーを用いませんでした。むしろ、からだのあらゆる部分は人間が生きていく上で不可欠な部分であり、その間には優劣がない、ということを強調します。たしかに、人間は「頭」だけでは生きていけませんし、また逆に「足」だけでも生きていけません。そのどちらもが協調して一緒に働くことで、人間らしい生き方ができるのです。からだが全部頭だったとしたら、その人はもはや人間とは言えないでしょう。パウロは19節で「もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう」と語っているのはこのことです。

先ほども言ったように、コリントの教会の一番の問題は、教会の各メンバーが、自分が他の人より優れていることを示そうと、御霊の賜物を誇ったり、知恵を誇ったり、またこの世の財産や地位を誇ったりすることにありました。このような自慢や誇りは、キリストのからだである教会が全体としてうまく機能して、福音伝道に励んだり、また世の光として教会の外の人たちから尊敬を集めるようになるためには百害あって一利なし、というものでした。

からだのアナロジーで言えば、私たちのからだでは、あまり目立たない部分こそが私たちの活動に重要だということがあります。私たちのからだの中には多くの内臓器官があり、それは人の目には入りませんが、それらの活動なしには私たちは生きていくことが出来ません。教会でも「縁の下の力持ち」というように、人知れず奉仕に励む人たちの存在があって初めて活動を維持することが出来ます。また、教会には強い人ばかりではなく、病気になったり、体調を崩したりして教会活動に加われない人たちもいますが、そういう人たちも大切なからだの一部であり、からだの一部分の器官が損なわれていたのが回復すると、体の機能全体がずっと改善するように、教会の中で様々な理由で苦しんでいる人が元気になれば、教会全体が大きな力を得るのです。まさに、「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

ですから、教会においてはまさに「一人はみんなのために」あるのです。そして、みんなは心を一つにし、一つの御霊から力を受け、教会を建て上げること、そして福音を宣べ伝えて世界を平和に導くという一つの目標、目的のために邁進していくのです。神はいろいろな人を教会の中に立てます。パウロの時代には使徒と呼ばれる特別の人々がいました。今の時代は、福音が十分に伝わっていない地で働く宣教師や伝道者たちがいます。しかし、宣教師や伝道者たちだけでは教会は建て上げられません。パウロの時代には、新約聖書はまだ書かれていなかったので、神様の言葉を直接預かる「預言者」と呼ばれる人々がいました。今の時代にもそういう預言の賜物をいただく人々はいるでしょうが、同時に与えられた聖書の御言葉を解き明かす御言葉への奉仕者、教師が立てられます。しかし、預言者や教師だけでも教会は立ち行きません。病気の癒しの賜物を持つ人、教会の管理に長けた人、様々な形で援助する人、こうした様々な働きがあってこそ、教会は教会として歩んでいけるのです。そして、そのすべての働きの背後には聖霊なる神様がおられるのです。

3.結論

今日のペンテコステ礼拝では、「からだは一つ、御霊は一つ」と題して説教をさせていただきました。聖霊の賜る働きや力には実に豊かな多様性があります。ある人の御霊の働きは、ひときわ人々の注目を集めたり、偉大な業に見えることもあるでしょう。しかし、だからといってそのような働きが、ほかのもっと地味な聖霊の賜物よりも優れているというわけではありません。パウロは、誰がより優れた御霊の賜物を持っているのかを競い合い、教会内の力のない者や貧しいものを侮る傾向があったコリントの教会の人たちに対し、からだの各部分は互いに競い合ったり、相手をばかにしたりはしないこと、むしろ全体が協力し合って体の働きが保たれることを例に引きながら、キリストのからだである教会も、その各人が互いに助け合いながら、福音宣教という神から与えられた使命に励むべきことを教えました。

私たち中原キリスト教会も、信徒や教師一人一人がそれぞれに与えられた務めや役目を精一杯果たすことで、この地に建てられた使命を果たしていくことが出来ます。どんな仕事も貴いのです。教会では、みことばの奉仕をする教師の働きを強調する傾向がありますが、もし全員がみことばの奉仕になってしまったら教会は成り立ちません。また、全員が奏楽者になっても礼拝は出来ません。みんながそれぞれの持ち場を責任をもって担っていくことで、教会が成り立つのです。そのような多くの聖霊の賜物が教会に与えられていることを主に感謝しつつ、ペンテコステを祝い、今週も歩んで参りましょう。お祈りします。

聖霊なる神様、そのお名前を賛美します。主イエスの公生涯に力を与え、初代教会に力を与えたその同じ御霊が、今私たちの教会にも働いていることを感謝します。どうかそれぞれの賜物を、教会のため、福音伝道のため、また神のために用いることができますように。われらの主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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