復活 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 調布 深大寺のプロテスタント教会 Sun, 31 Mar 2024 04:44:16 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.3.20 https://domei-nakahara.com/wp-content/uploads/2020/03/cropped-favicon-32x32.png 復活 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 32 32 復活によって主とされた方ローマ書1章1~4節 https://domei-nakahara.com/2024/03/31/%e5%be%a9%e6%b4%bb%e3%81%ab%e3%82%88%e3%81%a3%e3%81%a6%e4%b8%bb%e3%81%a8%e3%81%95%e3%82%8c%e3%81%9f%e6%96%b9%e3%83%ad%e3%83%bc%e3%83%9e%e6%9b%b81%e7%ab%a01%ef%bd%9e4%e7%af%80/ Sun, 31 Mar 2024 04:43:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5496 "復活によって主とされた方
ローマ書1章1~4節" の
続きを読む

]]>

みなさま、イースターおめでとうございます。今日は、主イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことを祝う、キリスト教において最も大切な日です。イエスの復活ということは、キリスト教信仰の中心にあるもので、これなくしてはキリスト教そのものが存在しなかったほど重要なことです。使徒パウロは、「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです」(第一コリント15:17)と語っています。つまり、イエスの復活がなければ、あの十字架の死でさえも無意味なものになる、無駄死になると言っているのです。

それほどまでに重要なイエスの復活なのですが、同時に復活とはいったい何なのか、理解するのが容易ではないことがらでもあります。注意したいのは、復活とは「蘇生」ではないということです。医学的に死亡したと診断された人が数時間後、あるいは数日後に奇跡的に息を吹き返すという現象がごくまれにありますが、イエスの復活とはそのようなものではないということです。端的に言えば、イエスがよみがえったというのは、死ぬ前の状態に戻ったということではないのです。といいますのも、蘇生した場合でもその人はいずれは死ぬことになるわけですが、復活したイエスはもはや死ぬことがないからです。パウロも、「死はもはやキリストを支配しない」(ローマ6:9)と言っています。死なないからだによみがえったということは、イエスは死ぬ前の元の状態に戻ったのではなく、むしろ全く異なる別の存在になったということです。とはいえ、全く異なる別の存在だといっても、それは幽霊のような存在になったということでもありません。古今東西の多くの文明では、人は死ぬと肉体を離れて霊になって生き続けるということが信じられてきました。科学が発展した今日の世界でさえ、そのように考えている人はたくさんいます。そうした霊は、私たち生きている人間には見ることができないわけですが、何かの特殊な状況ではそうした霊を見ることができるという稀なケースがあり、それがいわゆる幽霊現象、お化けを見たということになります。これは実は結構あるケースでして、例えば遠く離れたところにいた身近な人が死んだときに、一瞬その人の姿を見たとか、そういう体験をしたという人は、私の知り合いの中にもおられます。虫の知らせという漠然としたもの以上の、忘れ難い経験だったという話を聞いたことがあります。しかし、イエスの復活とは、イエスの幽霊を弟子たちが目撃したということではありません。ルカ福音書が特に強調していることですが、弟子たちは復活したイエスを見ただけではなく、触ることができたのです。幽霊なら触れることは不可能です。このように、イエスの復活とは蘇生とも違う、また幽霊体験とも異なる、きわめてユニークな出来事でした。そのイエスのような復活のからだを、私たちイエスを信じる者は将来いただけるという希望があるので、イエスの復活のからだがどんなものかというのは私たちにとって大変興味深い、重要なテーマです。しかし今日はこの点ではなく、もう一つの重要なテーマについてお話ししたいと思います。

それは主イエスのステイタス、あるいは立場に関することです。何のことかといえば、復活する前と後では、イエスのからだの性質、もっと言えばイエスの存在のあり方そのものが変わったということを今お話ししましたが、変わったのは体の性質だけではなく、彼の立場も変わったのです。その点を考えるために、今日の聖書テクストであるローマ書の1章4節に注目しましょう。私たちの使っている新改訳聖書では、ここは「死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方」となっていますが、これは訳としては少し問題があります。といいますのも、この新改訳の最新版である新改訳2017ではここは「聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです」となっています。また、プロテスタントとカトリックの両方で用いられている聖書協会共同訳、これも最新版で2018年に出版されたものですが、そこでは「聖なる霊によれば死者の中からの復活によって、力ある神の子と定められました」となっています。この二つは、かなり違う訳だということにお気づきでしょうか。私たちの聖書訳では「大能によって神の御子」と訳されているところが最新訳では「力ある神の子」となっています。大能というのは父なる神の力のことですが、これはイエスの力を指していると理解したほうがよいということです。そして、ギリシア語の原文を読む限り、最新訳のほうがパウロの言わんとすることを正しく伝えています。では、「神の子」と「力ある神の子」とでは一体何が違うのか、と思われるかもしれませんが、そこには確かに違いがあります。話を分かりやすくするために、一つのたとえを話しましょう。ある国に、王子がいたとします。彼は王様の息子ですから、もちろん高い地位にあります。けれども、王様は王子がまだ若く、経験が不足しているとみなして、何の権限も役職も与えていませんでした。このような場合、王子はたとえクラウン・プリンスであっても事実上の政治権力を何も持っていないのです。もちろん、いずれは王様になるのだろうということで、周囲の人たちから敬意を払われているでしょうが、だからといって王子さまは政治的な権力や権限は何も持っていないのです、今のところは。しかし、その王子が大きな実績や功績を挙げて、周囲の人たちにその実力を示したときに、王様もよい頃合いだということで、自らの政治権力や権限をすべて若い王子に委譲したとします。そうすると、その王子はこれまでの名ばかりのプリンスという立場から、王の権限のすべてを持つ、国の最高権力者となります。父である王はまだ存命ではあるものの、実質的に王子は王様になったということです。

大雑把に言えば、イエスが復活した時に起こったことは、王が王子にすべての権力や権限を委譲するように、神の至高の権限、世界の支配者としての神の権限がすべて神の子であるイエスに委譲されたということです。イエスは復活によって、神から世界の支配権を受け継ぎました。このように聞くと意外に思われるかもしれません。イエス様は初めから神と等しい権威を持っておられたのではないか、と思う方もおられるでしょう。けれども、イエスが復活の後に至高の権威を与えられたということは、実は新約聖書のいたるとことに書かれていることなのです。この点について、マタイ福音書を見てみましょう。復活した後のイエスにガリラヤで会った弟子たちは、復活の主から驚くべきことを伝えられます。それは、「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」と語りました。イエスは神のみが持っておられる権威、つまり天国においてもこの地上世界においても、すべての権威を持つのは今や私なのだと語っているのです。ではイエスはいつそのような権威を与えられたのでしょうか。イエスは初めからそのような権威を持っていたのではなく、むしろそれは復活の時なのです。ほんとなのか、と思われるかもしれないので、さらに聖書のほかの個所を見ていきたいと思います。パウロのピリピ人への手紙を見てみましょう。2章6節からの有名なキリスト賛歌をお読みします。

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

この有名な賛歌によれば、イエスが「すべての名にまさる名」を与えられたのは果たしていつなのかといえば、それは十字架の死のあと、すなわち復活の時なのです。イエスは死に至るまでの従順を神に認められ、天においても地においてもすべてのものの上に立つ存在にまで高められたということです。

このことを明確にいい表している、もう一つの例を挙げましょう。新約聖書のへブル人への手紙です。へブル書2章9節をお読みします。

ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

ここでは、イエスは地上の生涯を歩まれた間は、御使いたち、つまり天使たちよりも低くされたのですが、十字架での死の苦しみを味わったがゆえに、栄光と誉れの冠を受けたと言われています。「故に」ということは、そこには因果関係があるのです。苦しみを味わった結果、イエスは栄光を受けたのです。ということは、やはりここでもイエスは十字架の死のあとに、復活の際に栄光と誉れの冠を受けたということが語られているのです。

最後にもう一つだけ、今度は旧約聖書から、イエスが世界の支配権を与えられたのはいつなのか、ということを考えてみたいと思います。福音書で、イエスが自分のことを「人の子」と呼んでいるのは皆さんもご存じだと思いますが、この「人の子」という呼び名はダニエル書から来ています。そしてこの「人の子」が苦しみを受けた後に栄光を受けるだろうということがダニエル書で予告されているのです。その重要な個所を読んでみましょう。ダニエル書7章13節から14節です。

私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。

ここで言われている「年を経た方」とは父なる神のことです。そして、ここで言われている「人の子のような方」こそがイエスのことなのです。イエスは父なる神から全世界の支配権を授けられることが預言されていて、それが「人の子が来る」という有名なイエスの言葉の意味なのですが、人の子が栄光を受けるのは神に逆らう勢力によって苦しみを受けた後、受難の後なのです。

このように、イエスが死者の中から復活したということは、単に一度死んだ人がよみがえったというような話ではなく、むしろイエスが苦難を受けた後に全宇宙のあらゆる権威を授けられたということ、イエスが世界の真の支配者となられた出来事だということです。そして、ここで強調したいのは、イエスが世界の支配者となったということは、イエスがクリスチャンにとっての王となったということには留まらないということです。むしろ、イエスのことを信じようと信じまいと、イエスに従おうと逆らおうと、その人がイエスについてどんな考えを持とうとも、イエスはあらゆる人の上に立たれるお方だということです。日本の総理大臣であろうと世界一の大富豪であろうとも、すべての人はイエスの権威の下にいるということです。このように考えると、キリスト教はとんでもない主張をしているということがお分かりになると思います。宗教に関心があろうとなかろうと、すべての人はイエスとは無関係ではいられないのです。アメリカ人であれば、大統領のことが好きでも嫌いでも大統領の権威を認めなくてはなりません。同じように、人間であればイエスのことを好きでも嫌いでも、イエスの権威を認めなくてはならないということです。そしてイエスがそのような権威を持っているという証拠がイエスの復活なのです。パウロはこのことを、使途の働きの中でこう宣言しています。使途の働きの17章31節をお読みいたします。

なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくために、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、そのことの確証をすべての人にお与えになったのです。

このように、イエスは人類のすべての人をさばくという特別な役割を神から与えられており、その証拠がイエスの復活だというのがパウロの主張なのです。ですから、もしイエスが復活しなかったのなら、このキリスト教の途方もない主張はすべて崩壊してしまいます。キリスト教が立つのも倒れるのも、すべてイエスの復活次第だということがお分かりいただけると思います。

これまでの話でしっかりお伝え出来たと思いますが、イエスの復活は、十字架以上に重要な出来事です。キリスト教のシンボルは十字架ですが、復活なしには十字架ですら無意味なものとなってしまいます。私たちが福音を宣べ伝えるということは、イエスが世界の真の支配者であり、すべての人を裁く方だということを人々に教えるということであり、その途方もない主張の根拠が、神がイエスを死者の中からよみがえらせたという事実なのです。「事実」と今申し上げましたが、そんなことが事実であるはずがないだろう、何の証拠もないのだから、と思われる方がたくさんおられると思います。たしかに、死人が死なない人間によみがえるなどという出来事は先にも後にも聞いたことがない出来事であり、それがあり得るということを科学的に証明することなど不可能です。しかし、イエスの復活については何の証拠もないとも言えないのです。なぜなら、私たちが歴史上の出来事を事実だと信じるのは科学的な証拠があるからではなく、そのことが起きたと信じるに足る、信頼できる証言があるからなのです。源平合戦の壇ノ浦の戦いが確かに起こったということを私たちは科学的に証明できませんが、しかしそれが起こったという当時の出来事を記録した文献や証言があるので、私たちはその戦いがあったことを事実として認めています。イエスという人間が2千年前に生きていたこと、また十字架で死んだことを疑う歴史家はいませんが、それは科学的な証拠があるからではなく、信頼できる証言があるから事実として認められているのです。確かにイエスの復活というのは科学的には不可解な出来事ですが、しかしいくら今日の科学において説明不能だからと言って、しっかりとした証言に基づく過去の歴史上の出来事を否定することはできません。科学では説明できないことは起きうるし、科学は決して万能ではないのです。そうはいっても、イエスの復活を目撃したというのはイエスを信じる人たちだけなのだから、そういう偏った証言によってイエスの復活を事実と認めることはできないだろうという方もおられると思います。しかし、イエスの復活を目撃したのはイエスを信じる人たちだけではなかった、ということを改めて強調したいと思います。むしろイエスを信じていなかったのに、復活を目撃してしまったことでイエスを信じるようになった人たちがいたのです。彼らのような人々の存在こそ、イエスの復活を否定できない強力な根拠であり、そしてそのような人の典型がこのローマ書を書いたパウロなのです。パウロは生前のイエスに会ったこともないし、イエスがよみがえったなどという荒唐無稽な話を信じてもいませんでした。パウロはそのようなウソ、あるいは世迷い事を広めて人々を惑わすキリスト教をむしろ滅ぼそうとしたのです。そのパウロがなぜミイラ取りがミイラになってしまったのか、なぜ突然最も強力なキリスト教のスポークスマンになってしまったのか?パウロによれば、理由は一つだけです。すなわち復活の主を目撃したからです。そしてパウロは、自分の全存在をかけて、イエスの復活が事実であることを証しています。パウロはこう言っています。

そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。(第一コリント15:14-15)

このようにパウロは、もしキリストの復活がなかったのなら私は単なるペテン師だ、と言っているのです。しかし、パウロのように誇り高く誠実な人物がペテン師だというのは私にはとても信じられません。このようなパウロの証言を、私たちは重く受け止める必要があります。パウロだけではありません。もう一人、とても重要な人物がいます。彼もまた、イエスを信じていませんでしたが、復活の主を目撃した後に考えを改めて、キリスト教の最も重要な指導者になった人物です。それは、主イエスの実の弟であるヤコブです。私たちが毎月学んでいる「ヤコブの手紙」の著者とされる義人ヤコブです。彼もまた、イエスの生前には自分の実の兄がメシアだとは信じられず、気が違ってしまったものと考えて、イエスをナザレの実家に連れ戻そうとしたこともありました。そのヤコブは、イエスの復活の後はエルサレム教会の指導者となり、ペテロやパウロさえ一目置く、最も権威のある指導者になりました。しかし、繰り返しますが、ヤコブもまたイエスのことを信じていませんでした。イエスの復活を目撃したことが、彼の人生を根本から変えてしまったのです。

まとめになります。今日はイエスの復活の意味を、イエスの立場、ステイタスの変化という観点から考えていきました。イエスが復活したということは、単に死んだ人が不思議なことに生き返った、というような話ではありません。むしろもっともっと大きなこと、ずっとずっと重大なことが起きたのです。それはイエスが復活によって全世界を統治する方、また全世界を裁く人物として神によって任命されたということなのです。世界中の人々は、認めようと認めまいと、すべての人がイエスの支配される世界に生きているのであり、また私たち一人ひとりがどのように生きたのか、その全生涯をいずれイエスによって評価される日が来るということです。普通の人が聞いたら、頭がおかしいのではないかと言われるようなことをキリスト教は主張しているのですが、その途方もない主張の根拠がイエスの復活なのです。ですからキリスト教を否定したければ、イエスの復活を否定すればよいのです。それほどまでに重要なのがイエスの復活です。

そして私たちはそのイエスの復活を信じていると告白します。喜びをもって告白します。そして、イエスのような素晴らしい方、真の愛を持つ方、私たちの弱さを思いやり、私たちの苦しみを共に担ってくださる方、そのような方が世界の支配者であるということを神に感謝します。イエスがこのように素晴らしい方であるからこそ、私たちは苦しみを背負って生きている多くの人々に、喜んでイエスのことを宣べ伝えるのです。このイースターという佳き日に、改めてその思いを新たにしたいと願うものです。ともに祈りましょう。

イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神様、そのお名前を賛美します。私たちは今日、その復活を喜び、祝うためにここに集いました。主イエスは素晴らしい方で、すべての人を助け導きたいと願っておられます。そのイエスを、一人でも多くの人たちに紹介できるように、私たちを強め、整えてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

ダウンロード

]]>
神の奥義第一コリント15章50~58節 https://domei-nakahara.com/2021/07/25/%e7%a5%9e%e3%81%ae%e5%a5%a5%e7%be%a9%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%82%b3%e3%83%aa%e3%83%b3%e3%83%8815%e7%ab%a050%ef%bd%9e58%e7%af%80/ Sun, 25 Jul 2021 00:39:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=1800 "神の奥義
第一コリント15章50~58節" の
続きを読む

]]>
https://domei-nakahara.com/media/Mystery%20of%20God.MP3

1.導入

みなさま、おはようございます。さて、第一コリントもいよいよ佳境、大詰めに入ってきました。第一コリントの手紙は、割と身近なテーマが多い書簡でした。食事のことや結婚について、または礼拝における様々な問題など、私たちにとっても関係の深い大切なテーマが次々と登場しました。しかし、この手紙の最後の箇所では、パウロは身近とはいえないテーマ、壮大なテーマを語り始めます。パウロがこうした大きな問題を語り始めるきっかけは、やはりコリント教会の側にありました。コリント教会の人々は死者のよみがえりはないと主張しました。パウロは彼らに対して、死者のよみがえりはあると力説しますが、この死者のよみがえりという出来事は終末、世界の終わりに起こる出来事です。そのためパウロは、死者のよみがえりから始まって、終末について語り始めるのです。この「終末」というのはキリスト教における非常に大きなテーマです。キリスト教でいう終末とは、破局のことではありません。つまり、終末とは世界が滅びることではないのです。聖書全体を貫く大きなテーマは、世界の回復であり和解です。神はこの世界を非常に良いものとして創造したのですが、この世界は非常に良いものとは程遠いものになってしまいました。この世界は厳しい生存競争の中、被造物同士が敵意を抱き合う、そういう世界になってしまったのです。この世界に生きる私たちは分断され、敵対しあう関係に置かれています。しかし、このバラバラにされた世界がキリストのもとに一つにされる、世界は回復され、また被造物同士、そして創造主と被造物とが和解する、それがキリスト教で言うところの終末です。そして、この終末における死者のよみがえりはとても重要なことです。我々人間が死ぬということは、この被造世界の破れと分断を象徴するものだからです。死は人と人とを分かつものです。親しい人同士、ずっと一緒にいたいと願う人同士にも、必ず別れが来ます。その最も深刻なものは死です。仲たがいしたのなら仲直りする機会がありますが、死に分かれてしまった人とはもはやそのような機会はありません。しかし、その死、そして死による分断を乗り越えさせるのが死者のよみがえりです。しかし、死人がよみがえる、しかもからだを持ってよみがえるというのはどういうことなのか?それはどのようにして起こるのか?復活のからだはどのようなものなのか?疑問はいくらでも浮かんできます。パウロはこうした問題をできるだけ丁寧に解説しますが、それがこの15章の内容です。そして、その中でも特に重要な事柄として話すのが今日の箇所です。

今日の説教タイトルは「神の奥義」です。「奥義」、という言葉を聞いて、何を連想されるでしょうか?「奥義」というと、例えば茶道や華道など、あるいは柔道などの武道における最も深い事柄、それをマスターすれば免許皆伝、道を究めたことになるというような究極の事柄を指します。しかし、パウロが今日のテクストで語っている内容、「私はあなたがたに奥義を告げましょう」ということの中身は、そのような意味ではありません。ちなみに新改訳聖書で「奥義」と訳されているのは共同訳では「神秘」、最新の聖書協会共同訳では「秘儀」と訳されています。「奥義」、「神秘」、「秘儀」と様々に訳されているこの言葉の原語のギリシャ語は「ミステリオン」という言葉で、英語のミステリーの語源となった言葉です。「ミステリー」の一般的な訳語は「神秘」でしょう。しかし、「神秘」と聞くと、神ご自身の計り知れないご性質、その偉大なる力のことを連想してしまうかもしれません。パウロはここで、神の驚くべき神秘について語っているのかと。けれども、それもこの「ミステリオン」の意味とは違うのです。ではその意味とは何か、といえば、それは「これまで明らかにされなかった事柄、教え、教理」というような意味になります。旧約聖書の時代には神の民に明かされていなかった神の教えが、今ここで明らかにされる、というのが「私はあなたがたに奥義を告げます」とパウロが語っていることの意味なのです。一つ例を挙げれば、ケネディ大統領は1963年に暗殺されましたが、その時の文書の多くは50年間以上公開されませんでしたが、54年経って公開が始まりました。パウロがここで語る神秘も、神の御心の中では既に決められていたことですが、その内容は旧約時代の預言者たちにも明かされず、パウロの時代になって初めてディスクローズされたという、そういう内容のことです。それでは、何がその時まで秘密にされていたのかといえば、それはイエスが再臨される時に生き残っている人たちのからだはどうなるのか、ということでした。その点を踏まえながら、今日与えられている聖書テクストについて考えて参りましょう。

2.本文

さて、まずは今日のテクストの置かれた文脈をおさらいしてみましょう。コリントの教会の人々の中には「復活」、つまり「死人のからだのよみがえり」などない、と言い出す人が現れました。コリントの人たちは、別にイエスの復活そのものを否定したのではありませんでした。あくまで一般論として、死んだ人間のからだがよみがえることなどあり得ない、と言っていたのです。死んだクリスチャンの魂は天国に行く。天国がゴールであり、再びからだを持ってこの世に帰ってくる、戻って来ることなどない、と主張していたのです。しかし、もし死んだ人間のからだがよみがえることがないのから、イエスも確かに人間として完全に死なれたのですから、そのからだがよみがえることはなかったはずです。ですから、一般論であっても、死人のからだのよみがえりがないと主張することは、キリストが死者の中から三日後に復活したという「福音」そのものを否定することになります。

ここで注意したいのは、コリントの人々が奇跡など、超自然的なものを全部否定する、現代で言うところのいわゆる「科学的合理主義者」や「無神論者」ではなかった、ということです。彼らは霊を信じないどころか、熱烈に信じていました。彼らは聖霊によって与えられる賜物に夢中になり、誰の賜物が一番すぐれているのかを競い合うような、そんな人たちでした。ですから彼らは、非科学的なことは信じない、と言っていたわけではないのです。むしろ、彼らは霊魂の不滅の教えならば喜んで受け入れたでしょう。それはギリシャ人の間で広く受け入れられていた考え方だからです。彼らが受付けなかったのは、死ぬと朽ち果ててしまう肉体が再びよみがえるという信仰でした。死者のからだ、朽ち果てた肉体がよみがえるということは、彼らが抱いていた世界観の中では聞いたこともない、非常に新しい考えだったのです。キリストや聖霊のことは信じられるが、そのような突飛な考えだけは受け付けない、信じられない、というような人たちがいたのです。前回のところで学んだように、彼らは問いました。「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」と。至極まっとうな問いですね。死んでしまった人、火葬や土葬でからだはなくなってしまっているのに、どうやって人はよみがえるのか、どんなからだになるのかと。それについてはこれまでの箇所で、パウロはいろいろな説明をしました。そして今日の箇所では、さらに新しいことをパウロは教えます。死者がキリストの再臨の時にからだをもってよみがえるのは分かった。では、キリストが再臨する時まで生き残っていた場合はどうなのか、それが彼らの疑問でした。これを私たち自身の問題として考えてみましょう。もしキリストがこれから半年後の2022年に再臨されるとして、その時にまだ私たちが生きていたら、わたしたちのからだは一体どうなってしまうのか?ということです。そのことについてパウロはこう答えているのです。

聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。

ここで「眠る」とパウロが言っていることの意味は、死ぬということの婉曲表現ですから、「みな眠ることになるのではなく変えられるのです」とは、「みなが死んでしまうわけではなく、ある人たちは生きたまま変えられるのです」という意味です。ですから、パウロは死なない人たちがいると言っているのです。キリストが再臨するときに生きている人は、生きたまま変えられるということです。キリストの再臨そのものが私たちにとっては大いなるミステリーなのですが、その時生きている人々に起こることも本当にミステリー、神の奥義ですね。

ここでキリストの再臨とは何か、ということを少し考えてみましょう。しばしば再臨とは、復活して40日後にエルサレムから天に昇ったイエスが、再びそのままの姿で戻って来られるということだと考えられています。しかし、よく考えてみれば、もしイエスがエルサレムに再び現れても、地球の反対側に日本にいる私たちはそれを見ることはできませんね。再臨というビッグイベントは、単なる中東だけの現象だということになります。いや、テレビで中継すれば、地球の反対側からも見れるではないか、という人がいるかもしれませんが、テレビやパソコンを持っていない人はそれを見ることができないわけです。しかし、キリストの再臨は世界中の人が分かる形で起こるはずですから、テレビがないと分からないということでは、おかしいですよね。仮に500年前に再臨が起きても、日本にいた人々はまったくそのことを知らなかったでしょうが、それでは再臨が世界を変える出来事にはならないのです。ですから、再臨とは文字通りにキリストが特定の場所に天から下って来るという意味ではなさそうです。キリストがどういう風にこの世界に再び現れるのか、それこそまさに神秘でありミステリーです。

このように、どのようにしてキリストが再び現れるのかというのは難しい問いですが、しかしキリストが現れるときには、だれもが分かるような特別の出来事が起きるとパウロは言います。それは、生きている人が生きたまま、不死のからだに変えられることです。パウロはこう続けます。

終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

ここでいう「終わりのラッパ」とは何か、というのも興味深い点ですね。これはユダヤ教でショファーと呼ばれる角笛、集会の始まりを告げる音のことを指しているのかもしれませんし、あるいは王様が登場するときのいわゆるファンファーレのようなものをイメージしているのかもしれません。なにしろこれから重要な出来事が起こることを告げる、そういう音だということです。要は、世界の王であるイエスが再び登場する、そのことを告げる音だということです。どんなふうに変えられるのか、というのも一つの神秘ですね。おそらく、変貌山でイエス様が生きたまま栄光の姿に変えられたこと、そのことがヒントになるでしょう。では、いったいどんな姿に変えられるのでしょうか?私たちの古い肉体は跡形もなく消え去って、まったく違う姿に変えられるのでしょうか?この点についてもまさに神秘とも言うべきことですが、しかしパウロがここで朽ちないものに「取り換える」のではなく、を「着る」という表現を用いていることに注意しましょう。これはあくまでイメージですが、古いからだの上から新しいからだを着る、というようなイメージです。古いからだは単に捨てられるのではなく、新しいからだに飲み込まれる、というような感じです。ここからも、私たちの現在のからだ、古いからだと、将来与えられる、朽ちないからだとの間には、連続的ではない部分と、連続している部分の両面があることがうかがわれます。

そしてそのことは、この私たちが生きる世界全体にも言えるでしょう。神はこの世界を創造された時に、それを「きわめてよかった」とまで言われ、大変喜ばれました。その極めて素晴らしい神の作品、この世界を神様はまったく見捨てて、完全に新しい世界をもう一つ造る、というのではないのです。むしろ、神はこの世界を「贖う」のです。贖うとは買い戻すということです。この世界は、死の力に捕らえられ、神の本来意図された状態とは程遠い状態になってしまいました。しかし神は、御自身の創造された世界を諦めてしまったわけではありません。むしろ、この世界を死の力から解き放ち、さらに素晴らしい世界へと造り替えてくださるのです。この新しくされる世界を受け継ぐために、私たちの復活、あるいは変容があるのです。そしてその新しいからだで、私たちは神の王国を相続するのです。パウロはこう言います。

血肉のからだでは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できないのです。

私たちにはなぜ復活のからだが必要なのかといえば、それは「神の国を相続するため」です。神の国、という言葉は福音書に100回ほど登場する非常に大事な言葉ですが、それは基本的には「神の支配」を意味します。神の支配するところ、すなわち神の国です。その意味では、神の国は今でも存在しています。神は万物を支え、また導いておられるからです。しかし、この世界は神が望んだような状態には残念ながらなっていません。この世界は、いずれ神の支配を完全に反映するような状態になる、そのような未来を「神の国が来る」という言い方で聖書は表現します。そのような「神の国」では、神のあらゆる敵が滅ぼされ、神がすべてにおいてすべてになられます。そして、倒されるべき神の最後の敵は「死」そのものです。死とは生命、いのちの反対であり、生ける神にとってもっとも好ましくないものです。この私たちの住む世界は死で溢れ、死の力に支配され、蝕まれていますが、神はその死を滅ぼされます。ここでパウロが語っている神の国とは、そのような死が滅ぼされた後の状態を指しています。そのような死の無い世界を、私たちは現在のようなからだで受け継ぐことは出来ません。私たちのからだはいずれ死ぬからだ、朽ちていくからだであり、そのようなからだは、死が存在しない世界、朽ちることのない世界、完全な神の国には相応しくないのです。ですからからだのよみがえりとは、単に今生きているからだがより良いものにバージョンアップされるというような程度の話ではなく、新しい世界に相応しいような根本的で劇的な変容を遂げたからだだということです。ですから神は、キリストが再び来られてこの世界を新天新地へと作り替えるまさにその時に、私たちに新しいからだを与えてくださるのです。

このように、神の国が完成する時、イエスが再臨する時、死者が復活する時に、「死」は完全に滅びるのです。パウロはここで、「死」に対する神の勝利が旧約時代から約束されていたことを示そうと、イザヤ書とホセア書から引用します。ここではイザヤ書からの引用について、少し詳しく見てみましょう。イザヤ書は24章から、全世界に対する神の裁きを語り、25章では神が全世界の民をそのすべての敵から救われること、そのときの感謝の歌が歌われています。素晴らしい箇所なのでその6-8節からお読みします。

万軍の主はこの山の上で万民のために、あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多いあぶらみと、よくこされたぶどう酒の宴会を催される。この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。

神は全世界を覆う悪を滅ぼし、永久に死を滅ぼす、そのことがパーティー、祝宴のイメージと共に語られています。旧約の預言者イザヤはこの素晴らしい死への勝利を預言しましたが、新約時代のパウロは、旧約聖書の預言のことばが主イエス・キリストによって実現されるということを語っているのです。そして次の56節でパウロはこう語っています。

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。

この簡潔な、格言のような言葉からはパウロが何を言っているのか、すぐには意味をつかめないかもしれません。これについてはパウロはローマ書7章で詳しく語っているのですが、ここでは簡単に説明するのに留めたいと思います。私たちは神の律法、戒めによって、何をすべきか、またすべきではないかを学びます。しかし、罪の力に囚われている人間にとって、律法を与えられることは罪の誘惑の機会となってしまうのです。「するな」と言われると、かえってそれをしたくなってしまう、罪を犯したくなってしまう、そうして罪の虜になってしまうのです。そのことをパウロは、「それは、戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです」と7章11節で書いています。そして罪の報酬は死です。わたしたちは神の掟によって、罪への誘惑に陥り、罪を犯した結果死んでしまうのです。そのような悪魔のサイクルに陥った私たちを、イエス様は贖い出してくださいました。その死によって私たちを罪から贖っただけでなく、遂には罪も死も完全に滅ぼしてしまわれるのです。そうして主イエス・キリストは私たちに罪と死に対しての勝利を与えてくださるのです。

3.結論

このようにパウロは、私たちのからだのよみがえりから始まって、イエス・キリストによる罪と死に対する完全な勝利という壮大なテーマを語ります。まさに宇宙的な、と言ってもよいほどです。そしてその最後にパウロが語っている言葉に注意しましょう。

ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

キリストが死に最終的に打ち勝つことは、主が二千年前に復活によって死の支配を打ち破ったことで確かなものとなりました。この復活の主に連なっている限り、私たちも必ずや死に完全に勝利し、神の国を朽ちない体で受け継ぐことができます。そして、今私たちがこの毎日の生活の中で主のためになしたすべてのことを、主は必ずや豊かに報いてくださいます。私たちが主のためにこの人生においてなしたことは、どんな小さなことでも主の目に留まらないものはなく、無駄になるものはなにもないのです。この素晴らしい希望を胸に、今週も主の業に励んで参りましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様。数週間かけて復活の希望について学んできました。私たちが復活する、あるいは生きたまま変えられるとき、この世界も朽ちないものに変えられることを知り、主を賛美します。どうか、みことば通りになりますように。また、私たちもこの希望にふさわしく歩むことができますように。主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

ダウンロード

]]>
復活の体とは?第一コリント15章29~49節 https://domei-nakahara.com/2021/07/11/%e5%be%a9%e6%b4%bb%e3%81%ae%e4%bd%93%e3%81%a8%e3%81%af%ef%bc%9f%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%82%b3%e3%83%aa%e3%83%b3%e3%83%8815%e7%ab%a029%ef%bd%9e49%e7%af%80/ Sun, 11 Jul 2021 05:44:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=1723 "復活の体とは?
第一コリント15章29~49節" の
続きを読む

]]>
https://domei-nakahara.com/media/What%20is%20a%20resurrected%20body.MP3

1.導入

みなさま、おはようございます。この第一コリント書簡の学びも終盤になってきました。いつものように、これまでの手紙の内容を確認したいと思います。前回の箇所では、死者のからだのよみがえりなどない、というコリントの信徒たちがいたことを学びました。彼らは死んだ後に魂が天国に行けば十分だ、この世にふたたびからだをもってよみがえる必要などない、と考えたのでした。彼らに対し、もし死者のからだのよみがえりがないのなら、キリストもよみがえらなかったことになる、ということをパウロは指摘します。イエスは十字架に架かって確かに死にました。死者がよみがえらないのなら、キリストだってよみがえらなかっただろう、とパウロは論じたのです。そして、もしキリストが死者の中からよみがえらなかったならば、キリストはよみがえられたという福音を世界中で宣べ伝えているパウロたちはうそつきだということになります。さらには、もしキリストがよみがえらなかったのなら、私たちの罪のために死んでくださったその十字架上の死も無意味になり、私たちは今でも罪の中にいることになる、私たちには救いも希望もなくなってしまうのだ、とパウロは語っています。ですから、死者のからだのよみがえりを否定するということは、私たちの救いそのものを否定することになってしまうのです。

しかし、キリストは確かに死者の中から復活しました。パウロは、その証人は5百人を超えるという事実を指摘します。そしてキリストがからだをもってよみがえったように、キリストを信じる人たちもまた、キリストが再び来られる時にからだをもってよみがえります。そしてその時、人類の最大の敵、いや人類だけでなくすべての被造物の敵である「死」が滅ぼされる、とパウロは宣言しました。キリストが復活して死を打ち破ったということは、この被造世界全体の死を神が滅ぼすことの先駆けだったのです。

前回の説教でも少しお話ししましたが、この「死」が滅ぼされる、というこの意味はなかなか難しいですね。文字通りにとれば、この世界から死がなくなるということかと思いますが、しかし単純に死なないからだになればみんな幸せになれるかというと、そんな簡単な話であるはずがないです。みんながいがみ合って、敵対しあう状態で、しかもそんな状態が永遠に続くとしたら、そんなのは幸せでもなんでもなく、むしろ地獄の苦しみといってよいのかもしれません。ですから、死が滅ぼされるというのは単に生理現象としての死が無くなるということではなく、もっと深い意味があるように思われます。この件に関して、紀元3世紀に活躍した、古代教会における最高の聖書学者と呼ばれるオリゲネスは次のように述べています。

最後の敵の滅びについて、神によって形作られた(死という)物質が消滅するかのように理解すべきではない。むしろ神から来たものではない心と敵対的な意思とが滅ぼされるのだ。

オリゲネスはここで、「死」を物質的な死とは捉えずに、むしろ神から来たものではない人間の心、それは憎しみとか妬みとか冷淡さなどでしょうが、そうしたものを総称して「死」と呼んでいます。つまり、霊的な死とでも呼べるでしょうか。そうした心や意思が滅ぼされること、それを死が滅ぼされると言っているのです。オリゲネスは、キリストが再臨した時に、たちどころに死が消滅するのだ、とは考えませんでした。むしろ、時間をかけてゆっくりと、人間の心から悪い思いが消えていくこと、それには大変長い時間が必要ですし、このプロセスは私たちが肉体を離れた後にすら継続するのかもしれませんが、しかしこうして一歩一歩、死が滅ぼされていくのです。こういうオリゲネスの見方は私たち西側の教会の伝統を引き継ぐものにはなじみがないかもしれませんが、こうした考え方は東方正教会では正統的な見方です。今日の説教ではこれは本題ではないのでここらへんでやめておきますが、非常に興味深い見方だと言えるでしょう。

さて、本日の聖書箇所では、では私たちが復活するとき、どんなからだで復活するのか?という非常に生々しい、具体的な話が中心的なテーマになっています。私は、以前指導を受けていた先生から、次のような質問されたと聞いたことがあります。それは、「私はからだをもって復活する時、自分の鼻の形が気に入らないので、もっと高い鼻にしてほしいんです」と真面目に仰る方がいたということでした。からだとなると、だれでも一つや二つのコンプレックスや気に入らないところがあるでしょうから、これは笑い話ではない、なかなか切実な話です。しかし、復活は整形手術ではありませんし、神様は私たちがいろいろと注文を付けられるような外科医のお医者さんでもありません。では、神様は私たちにどのようなからだを与えようとしておられるのか、これは非常に興味深い問題です。今日の箇所から、その点について学んでまいりたいと思います。

2.本文

さて、今日の聖書箇所を読んで参りましょう。冒頭の29節は、教会の歴史の中で大きな謎とされてきた箇所です。パウロはここで、「死者のゆえにバプテスマを受ける人」のことについて語っています。死んでしまった人のために、いわば身代わりにバプテスマを受ける人がいた、というのです。今でいうと、死ぬ間際に信仰告白をしたものの、バプテスマを受ける時間がないままで死んでしまった人がいるとします。その人のために、残された家族が代わりにバプテスマを受ける、というそういうことです。しかし、教会の長い歴史の中で、そのようなことが行われてきた、という記録はありません。私たちの教団でも、そんなことをしようとする人がいれば、私たちはそれを止めるでしょう。そんなことをしてはいけません、と。しかし、コリントの教会ではそのようなことをしていた人がいたようなのです。おそらくそういう人は、先に死んでしまった家族の救いが確実になるように、身代わりにバプテスマを受けた方がよい、と考えたのでしょう。

ここで注意したいのは、パウロが身代わりのバプテスマ自体を認めたわけではない、ということです。パウロは単に、そのようなことをしている人がいたという事実を指摘したのです。その行動自体が良いか悪いか、ことの是非は論じていません。パウロは単に、「死者がよみがえらないのなら、何をしても無駄ですよ」と指摘したのです。

また、もし死者がよみがえらないのなら、パウロの宣教のために受けた苦しみも、みな無駄になる、とパウロは語ります。パウロはエペソで野獣と闘った、と言っていますが、これはもちろん、パウロがエペソでライオンや熊たちと闘った、という意味ではないでしょう。比喩的で、野獣のようなキリストの敵たちと闘ったということです。旧約聖書のダニエル書の7章では、神の民を迫害するこの世の帝国を、獅子や熊、ひょうなどの野獣に喩えていますが、それと同じことです。パウロが言いたいことは、私は福音のために命をかけて戦ってきたが、もし死者がよみがえらないのなら、私のこれまでの努力はみんな無駄なのだ、ということなのです。

また、死者がよみがえらないのなら、クリスチャンの生活には乱れが生じ、罪の生活を送るようになるともパウロは警告します。パウロは言います、

もし、死者が復活しないのなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」ということになるのです。

この言葉は不思議に思われるかもしれません。もし死人のよみがえりを信じないとしても、私たちには死んだ後に霊魂が天国に行けるという希望があるのですから、この地上に仮の住まいをしている間も、天国へのあこがれを抱きつつ、神を畏れて敬虔に生きることも出来るのではないかと。天国に相応しいものとなりたいという動機から、正しく生きようとするのではないかと。

しかし、こうも考えることができます。死者の復活を否定する人は、死んだ人の魂はどこか別の世界に行ってしまい、この世界とはもう縁を切ったのだと、この世界はもはや戻るべき場所ではないのだと。私たちの希望はこの世界がより良い世界になることではなく、この滅びゆく世界から逃れて別の世界に行くことにあるのだと。そうなると、究極的にはこの世界がどうなろうと知ったことではない、という話になります。この世界が環境問題で甚だしく破壊されようと、また人間の貪欲のために温暖化が進んで緑の地が砂漠になってしまったり、海に魚がいなくなってしまったとしても、またどこにも処分するところがない原発の核のゴミで一杯になってしまったとしても、この世界にはほんの短い間住むだけであり、私たちの永遠の住まいはどこか他の所にあるのだとすれば、この地球に関する問題は、究極的には大したことではない、ということになってしまわないでしょうか。むしろ、この地上のものを味わい尽くして、それで別の世界に旅立とう、ということになってしまわないでしょうか。しかし、私たちの住む世界こそ、私たち人類、また人間だけでなくすべての生物の終の棲家だとすれば、そういう風には考えないはずです。地球の問題、それは私たちが生きている間だけではなく、もっと未来のことまで含めて、それに責任を持とう、ということにはならないでしょうか。ですから、死者のよみがえりを否定すること、私たちが新しいからだを頂いてこの世界を受け継ぐという希望を否定することは、私たちの倫理的な行動にも悪い影響を及ぼしてしまうことになるのです。

このように、パウロは復活とクリスチャンの生き方そのものの密接な関係をいろいろな角度から論じます。そしてパウロはいよいよ本題に入っていきます。では、復活のからだとは一体どんなものなのか?と。これは大きな謎です。私たちが復活のからだについて知っていることといえば、福音書に記されている、復活後の主についての記述のみです。

復活の主にあった人たちは、その人物が幽霊ではなくからだを持った人間であることを認識しますが、しかしそれがイエスだとはすぐには気が付きません。これは不思議なことです。まるで覆いをかけられたかのように、彼らはすぐ近くにいる人物がイエスだとは気が付かないのです。ルカ福音書には、エマオの途上でイエスに会った二人の人物のことを次のように描いています。ルカ24章30節です。

彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。

とあります。イエスだと認識するためには、二人の目が開かれる必要があったのです。それだけではありません。イエスは突然消えてしまった、とあります。からだを持った人間が、突然いなくなってしまうというのは不思議なことですね。また、ヨハネ福音書によれば、イエスは鍵のかかっている部屋に突然現れています。このように、復活のからだというのは、確かにからだではありますが、自由に現われたり消えたりできるような、とても不思議なからだであり、私たちの持つからだとは根本的に異なっているようなのです。復活したイエスはパンを食べたり、魚をたべたりします。幽霊にはこんなことは出来ません。しかし、イエスのからだは、まるで幽霊でもあるかのように、どこにでも現われることができるからだなのです。

パウロは、私たちのからだと復活のからだの関係について、種と植物の関係を例にとって話します。種と植物とは全く異なりますが、そこには連続性もあります。種から植物が生じるからです。同じように、死すべきからだから、死ぬことのないからだが生じるのです。パウロはこう語ります。

死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ…

と、このように語ります。私たちの今のからだと復活のからだにはどこか連続するものがありますが、弱いものが強くなり、卑しいものが栄光あるものになり、という具合に今のからだよりずっと良いものになると言われています。

そして44節ですが、「血肉のからだ」と「御霊のからだ」という対比がなされていますが、この訳は少し分かりにくいものです。ここで対比されているのは言語のギリシャ語を見ますとプシュケーとプニューマです。プシュケーとは英語でいうソウル、日本語の魂であり、プニューマはスピリット、日本語で言えば霊です。つまりここでは、肉体的なものと霊的なものが対比されているのではなく、魂と霊が比較されているのです。魂と霊は同じではないか、と思われるかもしれませんが、実際にパウロは魂のからだと霊のからだを比較しているのです。なんだかわけが分からないと思われると思うので、詳しく説明します。創世記2章7節は、人間の祖先アダムの創造を次のように描いています。

神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

とありますが、「生きもの」のギリシャ語は「プシュケイン・ゾーサン」、直訳すると「生ける魂」となった、というのです。プシュケーは「息」とも訳すことができますので、最初の人アダムは土に神の息が吹き入れられることで生ける魂となったのですが、最後のアダムであるイエスは生ける霊となったのです。この生ける魂も、生ける霊も、どちらもからだを持っています。しかし、生ける魂のからだは土くれから、朽ちるものから出来ていましたが、霊のからだは天的な素材から、つまり朽ちないものから成ります。その天上的な素材に、プシュケーではなくプニューマ、つまり神の霊が与えられることで生まれるのが復活のからだです。それがいったいどのようなものかは詳しくは分かりません。しかし、それが素晴らしいものであるというのは、私にもなんとなく想像できます。そして私たちの今のからだが十人十色であるように、復活のからだもさまざまであるようです。パウロは太陽の栄光を持つからだ、月の栄光を持つからだ、星々の栄光を持つからだがあると言います。この違いを生むのは、おそらく内面の違いでしょう。私たちの内面がますます神の似姿となり、キリストに似たものとなるとき、復活のからだはますます栄光を帯びたものとなるのでしょう。私たちの今の体は生まれたときから与えられたもので、自分で選ぶことはできません。けれども、復活のからだは、ある意味で私たち自身が作り上げるものです。私たちが今の世をどう生きたか、私たちが真剣に神の教えに従って歩むかどうかで、私たちの内面、霊性は大きく変わります。そして、その私たちの内面を反映するのが復活のからだ、霊のからだなのです。ですから私たちは今の世の歩みを本当に大切にしなければならないのです。そして、そのような素晴らしい体をもって、一新されたこの世界、もはや死のない、悪意や争いのない、生命に溢れた世界を相続すること、それこそがクリスチャンの希望なのです。

3.結論

さて、今日は死者がからだをもって復活するという場合、そのからだはどんなものなのかということをパウロから学びました。私たちの地上のからだはプシュケーのからだ、魂のからだと呼ばれます。神は土くれに息吹、つまりプシュケーを吹き込むことで最初の人間アダムをお造りになりました。しかし最後のアダムであるイエスの場合には、土くれではなく、天上の朽ちることのない素材を用い、そこに神ご自身の霊をお与えくださることで復活のからだをお与えになりました。それだけでなく、イエスを信じる私たちにもその復活のからだをくださるのです。この素晴らしい希望を抱いて、このことを今週も多くの方々に宣べ伝えて参りましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様。そのお名前を賛美します。今日は使徒パウロから、私たちの復活のからだはどのようなものであるのかを学びました。わたしたちにはまだわからないことが多い、神秘のようなテーマですが、どうかこの希望を私たちによりよく分からせてください。また、その希望を抱いて歩めるように強めてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

ダウンロード

]]>
復活第一コリント15章12~28節 https://domei-nakahara.com/2021/07/04/%e5%be%a9%e6%b4%bb%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%82%b3%e3%83%aa%e3%83%b3%e3%83%8815%e7%ab%a012%ef%bd%9e28%e7%af%80/ Sun, 04 Jul 2021 05:23:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=1693 "復活
第一コリント15章12~28節" の
続きを読む

]]>
https://domei-nakahara.com/media/Resurrection.MP3

1.導入

みなさま、こんばんは。7月に入りましたが、第一コリントからの講解説教も今回で28回目となります。ずいぶん長いこと学び続けていますが、第一コリントはいろいろなテーマ、話題を含んでいる書簡なので、こういう言い方が適切かどうかは分かりませんが、いろんな意味で飽きさせない書簡であると言えると思います。そして、私たちは今この書簡の中でも最も重要なテーマ、つまり「復活」、からだのよみがえりについて学んでいます。この復活の問題は、コリントの教会だけでなく、あらゆる教会にとって立つか倒れるかという死活的な問題なのです。

なぜ復活がそれほど大事なのかと言えば、パウロの時代でも、私たち現代においても「復活」、つまり死んだ者がからだをもって甦るということが、神を信じる人たちにとってすらも非常に信じがたいことであるからです。私たち日本人はふつう宗教で語られる救いというと、「死んだ後に魂が天国とか極楽とか呼ばれる幸福で平和な世界に行くこと」だと考えるのではないでしょうか。別にからだがよみがえらなくても、魂があの世で平安を得ることができればそれで十分だと考えるのです。これはクリスチャンとか仏教徒に限らず、一般的に日本人全体に言えることだと思います。この世は苦労も多いし大変なこともたくさんあるけれど、死んだあとは平和な世界に行きたい、苦しみのない世界に行きたいと願うわけです。日本で一番信者が多いと言われる浄土宗によれば、阿弥陀様を拝むだけでだれでも極楽浄土に行けると教えるのですが、この罪の世に生きて、なかなか聖人君主のようには歩めない凡人にとっては、立派に生きることはできなくても、信じるだけで極楽に行けるというのは本当にありがたい教えで、多くの人の心をつかんだのです。でも、信じるだけで救われる、というと、キリスト教とそっくりではないか、と思われるかもしれません。キリスト教においても、罪深い私たちは自分の行いでは救われることはできない、でもイエス様を一心に信じれば天国に行けるのだという、そのようにいわれます。こう考えると、キリスト教とは阿弥陀様をキリスト様に変えただけではないか、と思われるかもしれません。

しかし、キリスト教は本来そのような教えではありません。キリスト教は西洋版の浄土宗ではないのです。キリスト教の目指しているものは、私たちの魂が死んでから素晴らしい世界に行くことではないのです。むしろ、私たちの真の希望はこの世界にあるからです。神はこの世界を創造されたとき、この世界を「非常に良い」と言われました。そして、人間にこの世界を正しく管理させるという責任を与えました。しかし、私たちはこの責任を果たそうとせず、今やこの世界は大変なことになっています。環境破壊が進み、多くの動物が死に絶え、温暖化で夏は冷房なしにはいられなくなり、その結果ますます温暖化が進むという悪循環に陥っています。この世界がこのまま突き進むと、あと百年もすると、あるいはそれより早く50年くらいで、この地球は人間が住めなくなる世界になるのではないかと、みんな不安を感じるようになっています。私たちは、この世界を正しく管理するという神から与えられた使命について失敗し、今やそれが取り返しがつかないところまで来ている、そういう時代に生きています。しかし、キリスト教の真の希望は、このような破局にならないように、私たちが神から与えられた使命を全うすること、つまりこの世界を正しく治めることができるようになること、そこにあるのです。今の世界は、原発や核兵器や温暖化や感染症の世界的大流行など、多くは我々人類に責任がある問題のために追い詰められています。しかし、神は自らが創造された世界を決して見捨てない、この世界を回復してくださる、この世界は「非常に良い」ものとなる、これが私たちの真の希望です。そして、その回復され、新しくされた世界に生きる人間にも、新しい体が必要になります。その新しい体で、新しい世界に生き、そして世界を治めるという人間に与えられた使命を果たすことができるようになる、これがキリスト教の提示する希望なのです。

実際に、もし死んだ後に魂が天国に行くことがクリスチャンの究極の、つまり以上望むものはないという意味での最高の希望と考えるならば、それはクリスチャンの希望とは言えないのです。そのことを、紀元二世紀の有名な神学者である殉教者ユスティノスが次のように語っています。彼は『ユダヤ人トリュフォンとの対話』という有名な文書を残していますが、そこにはこう書かれています。

「クリスチャンと呼ばれる人で…死者のよみがえりなどないといい、死ねば、その魂は天国に連れて行かれるのだ、と主張する人たちがいる。彼らがクリスチャンだなどと、考えてはならない。」

とこのように書いています。なかなか厳しいことを言うな、と思われるかもしれません。しかし、使徒パウロも全く同じことを言っているのです。死人がからだをもってよみがえる、と聞くと、もしかするとゾンビなどを連想して薄気味悪く感じるかもしれません。しかし、復活のからだとはゾンビのような気持ちの悪いものではなく、私たちがぜひとも欲しいと願うような、そういう素晴らしいものなのです。そのことを今日の箇所から改めて考えて参りましょう。

2.本文

さて、先週学んだように、パウロは15章の1節から11節にかけて、「福音」とは何かを説明しました。福音の内容は以下の事柄です。

キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと

これが「福音」の中身、核心です。しかし、コリントの教会ではこの福音を実質的に否定するような人たちがいました。「実質的に」、と言ったのは、表立ってイエスの復活を否定した、という意味ではないからです。むしろ、ある人たちは「イエスが復活した、ということを文字通りに取るべきではない。むしろ、イエスの魂が天国で栄光を受けていることを示す比喩的な言い方、言葉のあやなのだ。私たちも復活すると言われているが、それは私たちの死んだ体が生き返るという意味ではない。私たちもまた、天国でイエスのように栄光を受けることを指す比喩的な言い方なのだ」というように説明したのです。そういわれると、なんとなく私たちも納得してしまうかもしれません。別に死んだ体がよみがえらなくても、魂あるいは霊が生き続けて天国に行ければいいではないか、と。しかし、パウロはそのようなことをきっぱりと拒絶しています。キリストが文字通りに死者の中からよみがえって復活しなかったのであれば、「私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです」。「実質のない」という言葉は「空っぽ」とか「空虚」などと訳すこともできますが、意味がない、無意味だということです。パウロが人生をかけて、それどころか命をかけてやっていることは無意味だ、ということになるのです。さらには、もし死人がよみがえることがないならば、パウロは自分たちが嘘つきになる、と言っています。死人がよみがえらないなら、イエスもよみがえらなかったはずです。それなのに、神がイエスを死人の中からよみがえらせたなどと、嘘を触れ回っていることになってしまう、と。このように、死者のよみがえりを否定することは、パウロの宣教も、コリントの人々の信仰も、なにもかもを無意味なもの、更に言えばパウロたちを嘘つきにしてしまうことになるのです。

そればかりか、「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです」とパウロは言います。この一文については驚かれるかもしれません。というのは、仮にイエスが死人の中からよみがえらなかったとしても、キリストが十字架で死んだという事実は残るからです。キリストはわたしの身代わりに十字架で死んでくださった、身代わりの犠牲の業は完了している、という事実は残るのです。ですから、もし万が一イエスが死者の中からよみがえらずに、その魂が天国に行かれて、そこで栄光を受けたのだとしても、身代わりの死という事実のゆえに、私たちの罪は赦されているのではないか、その事実は変わらないのではないか、と。しかし、そうではないのです。罪の問題は、死の問題を解決することなしには解決されないのです。

パウロの言っていることを理解するためには、「罪」と「死」の関係についてよく理解しなければなりません。私たちはなぜ死ぬのか?という死の問題がここにはかかわってくるのです。聖書によれば、私たちが死ぬのは罪のゆえです。22節に「アダムにあってすべての人が死んでいるように」とありますが、ここはもっと正確に言えば、「アダムの罪によってすべての人が死ぬことになった」ということになります。ここはパウロがローマ人への手紙の5章で詳しく説明している点ですが、ローマ書5章17節では「もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったのだとすれば」と書いています。神が「非常に良い」と言われた世界、創造されたばかりの世界には、もともと死は存在しなかったのです。死というのは生の反対であり、生ける神は御自分の造られた世界を蝕む「死」を嫌われます。しかし、その「死」が、アダムの罪によってこの世界に入ってきてしまったのです。アダムが神の戒めを破った時、死の無い世界に死が忍び込んできた、というのです。

これを文字通りに捉えるべきか、あるいは比喩的に捉えるべきか、ということについてはもちろん議論があります。現代の科学によれば、宇宙は死の無い世界どころか、その反対の生命の無い世界、死の世界として始まり、それが気の遠くなるような長い年月をかけて生命を生み出したとされています。宇宙はそもそも死の世界として始まったのだと。また、現在の科学によれば、人類が誕生する前の世界、例えば恐竜が闊歩していた世界にもすでに死が存在していたのであり、アダムの罪によって死が世界に入ったなどというのはナンセンスだ、と思われるかもしれません。このような現代的な世界観を受け入れて、なおかつ創造主なる神を信じる人は、神は長い年月をかけて、進化というプロセスを用いて、死の世界だった宇宙に生命を誕生させたのだと主張します。このような説明は、パウロがここで言っていることと真っ向から対立するように響くかもしれません。私たちは「科学」を信じるのか、「聖書」を信じるのか、どちらかを選ぶように迫られているのでしょうか?

しかし、そのように極端に考える必要もないでしょう。パウロの手紙の中では、しばしば「罪」とか「死」という言葉が、擬人化されて使われることがあります。「罪」とは、単に私たちが犯す過ち、という意味ではなく、それを超えて、人格的な力、私たちを罪の奴隷、あるいは罪の中毒にしてしまうような巨大な意思を持った霊的な力として描かれているのです。超人間的な人格、とでも呼びましょうか。アダムのなした違反が、このような擬人化された罪や死の力を私たちの世界に解き放った、とパウロは論じているのです。ですから、このような神話的な、あるいは神学的な言語が、果たして現代の科学と調和するのか、と考えてもあまり意味がないように思われます。

むしろ、ここでのポイントは、私たちの住む、神の造られた世界には深刻な破れがある、不調和がある、ということなのです。実際、今の世界を見て、単純に素晴らしい、何の問題もない、と思う人はいないでしょう。むしろ、スゥエ―デンの16歳の少女グレタ・トゥーンベリさんが訴えたように、人間はこの世界をひどい状態にしています。私たちの貪欲が、私たちの罪が、この世界を台無しにし、多くの生物を死に至らしめているのです。アダムに代表される人類が、この世界を死に満ちた世界に変えているのです。ですから、確かに罪によってこの世界は死に支配されることになります。私たちはまさに、罪によって死が支配する世界に生きているのです。

その傷ついた世界の歴史を変えたのが、キリストの復活なのです。この滅びに向かう世界を救い出すのがキリストの復活なのです。拷問を受け、十字架で絶命したイエスのからだ、命を失ったイエスのからだを、神が再びよみがえらせました。しかも、そのよみがえった体は死を克服したからだであり、もはや死ぬことのないからだなのです。そして、キリストのからだが死を打ち破ったことは、この世界全体、傷つき傷んだこの世界も再びまったく新しいものによみがえる、回復されることの証し、証拠なのです。神は死んだキリストのからだを、命に満ち溢れたからだ、もはや死ぬことのからだに変えられました。もし神にそのような力があるのなら、神は私たちの死すべきからだをも不死の体に変えることができるでしょうし、そればかりか、この被造世界全体をも、死を克服した新しい世界へと造り替えることができるでしょう。しかし、もしキリストの死んだからだがよみがえらなかったのだとしたら、神には死んだからだをよみがえられる力がないか、あるいは力があってもその気がない、ということになってしまいます。そうすると、私たちも救いの希望を失ってしまうことになります。もし神の子であるイエスでさえ、死の力に飲み込まれてしまったのなら、私たちが死の力から救われる希望はまったくないでしょう。

しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられたのです。そしてキリストは、私たちをも死の力から贖ってくださるでしょう。23節からパウロは、キリストの復活から世の終わりまでの歴史を簡潔に記しています。

しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。

人類の歴史において、初めて死者の中からの復活が実現したのは二千年前です。それがキリストの復活です。そして次なる復活はキリストが再び来られる時、再臨のときです。その時キリストは、主にあって死んだ者をすべてよみがえらせ、またその時にまだ生きている人たちに関しては、生きたまま新しいからだへと変えてくださいます。そのことは、この15章の51節以降でパウロが説明することです。そしてそれから世の終わりが来ます。しかし、世の終わりとは世界の滅亡のことではありません。むしろ神の敵の滅亡のとき、それを世の終わりと呼ぶのです。この世界は滅ぼされるのではなく、神の敵から救われる、贖われるのです。では、悪がどのような形で滅ぼされるのか、それはなかなか難しい問いです。ある人は、キリストが来るとき、キリストは自分を信じない者をみな滅ぼすのだ、という風に考えます。しかし、主イエスは二千年前に地上を歩まれたときに暴力を否定しました。暴力で逆らう者を皆殺しにするというようなやり方は、決して主イエスのやり方ではありません。イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも変わらない方なのですから、再び主が来られる時に、急に暴力的になるなどということはあり得ません。ですから、ここでパウロが「滅ぼす」という言葉を繰り返しているからといって、それはキリストが暴力で自分に逆らう者を皆滅ぼすことなのだ、という風に考える必要はないですし、またそうするべきでもありません。おそらく、悪は自らの悪に耐えられずに自壊していくのだと思います。キリストは最後に「死」を滅ぼす、とありますが、これは単にこの世界から死を取り除くという意味ではないでしょう。人々が憎しみ合う、生きづらい世界では、死ぬことができないというのはかえって苦痛であり、救いがないようにさえ思えます。ですから「死」が滅びるというのは、私たち人間を苦しめる冷たい関係、悪意に満ちた関係、それらが私たちに死をもたらすわけですが、そうした歪んだ関係が正され、人々が、また人間と他の生物が愛し合う、仕え合う、そういう正しい関係に戻る、そのことを指しているのだと思われます。私たちの世界は、そのような世界を目指して歩んでいるのです。そして、その始まりがキリストの復活なのです。

3.結論

さて、まとめになりますが、今日はパウロがキリストの復活の意義を語り始めた最初の部分を学びました。なぜキリストの復活がそれほど重要なのか、十字架だけでは救いは完成しないのか、ということの意味をパウロは力説しました。神の目的は、この世界全体を救うこと、この世界を死の支配から贖うこと、それが神の究極の目的なのです。キリストのからだのよみがえりは、その世界を救済するプロジェクトの始まり、あるいは先駆けなのです。キリストのからだが死からよみがえったからこそ、この死に瀕した世界もよみがえる、回復されるという希望を持つことができるのです。この素晴らしい知らせを宣べ伝え、一人でも多くの人を、神の世界救済プロジェクトに加わるように招きましょう。そして私たちの宣教に力を与えて下さるように、神に祈りましょう。 イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた神よ、その御名を賛美します。今日は復活がなぜ私たちの信仰にとってそれほど大切なのか、そのことを学びました。実にキリストはこの全世界が贖われることの先駆けであり、保証でもあります。この信仰にしっかりと立って今週も歩めますように。主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

ダウンロード

]]>