偶像礼拝 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 調布 深大寺のプロテスタント教会 Sun, 14 Feb 2021 05:53:43 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.3.18 https://domei-nakahara.com/wp-content/uploads/2020/03/cropped-favicon-32x32.png 偶像礼拝 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 32 32 偶像にささげた肉第一コリント8章1~13節 https://domei-nakahara.com/2021/02/14/%e5%81%b6%e5%83%8f%e3%81%ab%e3%81%95%e3%81%95%e3%81%92%e3%81%9f%e8%82%89%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%82%b3%e3%83%aa%e3%83%b3%e3%83%888%e7%ab%a01%ef%bd%9e13%e7%af%80/ Sun, 14 Feb 2021 05:49:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=1251 "偶像にささげた肉
第一コリント8章1~13節" の
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1.導入

みなさま、おはようございます。今週からレントに入ります。レントというのは、イースター、つまり復活祭から数えて46日前のことです。46というと中途半端な数に思えるでしょうが、日曜日を除くとちょうど40日間になります。40日といえば、公生涯に入る前のイエス様が荒野で飲まず食わずの断食を行った期間です。私たちもまた、受難を乗り越えて復活に至った主イエスの苦難を覚えて、厳かな日々を過ごしていく、それがレントの意味です。

欧米では、レントの期間中クリスチャンが何か好きなものを断念する、ということをよくします。私がイギリスで留学生活を始めて最初のレントの時、神学部の友人の女性がレントの期間は紅茶を飲まない、と私に話したので、「どうしてそんなことをするのですか?」と聞くと、レントの期間は主イエスの苦難を覚える時なので、私も自分の好きな紅茶をレントの期間は我慢するのです、と説明してくれました。日本でもレントの期間にそのようなことをされているクリスチャンの方もたくさんおられるのかもしれませんが、私はそれまで恥ずかしながらレントの期間に何かを我慢するというようなことをしたことがなかったので、その友人の話は大変新鮮に響きました。

さて、レントの期間は46日で終わりますが、ではもし皆さんが一生の間、何かを我慢する、あきらめるとしたらどうでしょうか?特に皆さんの大好物な食べ物を46日間ではなく、一生涯あきらめなければならないとしたら、どんな風に感じるでしょうか。今日の聖書箇所の最後では、パウロは今後いっさい肉を食べません、と宣言しています。すごい発言ですね。皆さんも、これから一生お肉が食べられない、とんかつも、チキンナゲットも、牛丼も、ハンバーグも食べられないとしたら、なんと悲しいことでしょうか。では、なぜパウロはそんな大胆なというか、驚くべき決断をしなければならなかったのか、そのことを考えながら今日の聖書箇所を読んでまいりたいと思います。

今日の主題は、説教題にもあるように「偶像にささげた肉」です。先週までの三週間は、主に「結婚」というテーマについて学びましたが、今週からは「食事」が大きなテーマになります。とりわけ重要なのは「お肉」の問題です。この問題を考える時に、当時の食糧事情のことを踏まえる必要があります。今の時代、私たちはさまざまな種類のお肉を比較的安い値段で買うことができます。霜降り牛とか、高級ブランドの肉でなければ、手ごろな値段の肉はスーパーでいくらでも手に入ります。私たちはスーパーで肉を買うときに、「この肉は食べてもよいのだろうか?」などと考えたり悩んだりすることはまずないでしょう。では、例えば仏壇にお供えしたまんじゅうなどを「これは仏様に捧げたまんじゅうです」と言って出されたら、それを食べることに何かためらいのようなものを感じないでしょうか?クリスチャンになる前は、そんなことは気にもしなかったかもしれませんが、偶像礼拝に気をつけなさい、と口を酸っぱくして注意されているクリスチャンの方は、仏壇とか神棚へのお供え物、と聞くと強い警戒感を持つでしょう。偶像にささげたまんじゅうを食べてよいものだろうか?と。パウロの時代のコリントのクリスチャンたちにも、お肉についてこれと同じような問題を抱えていました。というのは、当時市場で売っていたお肉は、全てとは言いませんがその多くは神殿でギリシャ・ローマの神々にささげられたものだったからです。今のような飽食の時代と違い、当時は肉は希少品、高級品でした。そんな中で、肉が日々たくさん製造される場所、それが神殿でした。ギリシャやローマの神々に供え物として毎日家畜が神殿に運ばれ、そこで牛やヤギなどの家畜は屠られ、その一部は焼かれて煙として神々にささげられ、残った肉は食用として市場に売られました。神殿は一種の食肉加工場、ブッチャーだったのです。ですから、市場で肉を買う場合、すべてとは言いませんが、その多くは異教の神々へのお供え物のお肉のお下がりだったのです。そして、当時のコリントにはありとあらゆる神々がいて、それらの神々のための神殿がありました。まず、アフロディテという愛の女神に捧げられた神殿がありました。アフロディテは英語で言えばヴィーナスです。愛の女神と言っても、その神殿には神殿娼婦がたくさんいたと言われていますので、性愛の女神といったところでしょうか。他にもギリシャ神話の主神ゼウスの息子であるアポロンや、他にもオリエントの神々などたくさんいました。そして特に重要なのは、アプロンなどの神話上の神々ではなく、生きた人間、あるいは最近死んだ人間を拝む宗教が当時大流行していたことです。生きた人間を拝むなんてことがあるのかしら、と思われるかもしれませんが、この日本だって百年前には天皇を現人神と拝んでいたことを忘れてはいけません。そうです、当時のコリントでは死んだ皇帝たちや、現職の皇帝やその家族が神々として礼拝されていたのです。ちょうどパウロが活躍していた時代、コリントのあるアカイア州は、州全体の宗教として皇帝礼拝を定めました。州全体の宗教になるということは、皇帝礼拝を維持するために市民には税金が課されるということです。アカイア州に住んでいる人はどの神様を礼拝していようと、公式宗教としての皇帝礼拝を支えるために税金を払わなければなりませんでした。そのような皇帝たちを礼拝するための神殿がありました。私もコリントに行ったことがありますが、皇帝礼拝をしていた神殿の遺跡を見たことがあります。そして、皇帝にささげられた家畜のお肉も市場で売られていました。また、宗教だけでなくスポーツ観戦にも皇帝礼拝がかかわっていました。古代のコリントでは古代オリンピックと並ぶ権威あるスポーツ大会である、イストミア大会が2年に一度、開催されていました。このスポーツ大会はローマ皇帝とその家族を讃えるために開催されたので、そこでも皇帝を礼拝するためにたくさんの動物が屠られ、その肉を食べるための大きな宴会が開催されていました。ですからスポーツ観戦と皇帝礼拝とお肉のパーティーが同時に行われるようなものです。

では、あなたがコリントに住むクリスチャンだとして、このイストミア大会の晩さん会に招待されたらどうするでしょうか?質問を変えれば、そこで偶像にささげた肉が出された時、それを躊躇なく食べられるでしょうか。そもそも、クリスチャンは「偶像にささげた肉」を食べてもよいのでしょうか?聖書は何と言っているでしょうか?答えははっきりしています。食べてはいけないのです。これは、教会の会議でも一番古い会議であるエルサレム会議で決定されたことでした。エルサレム会議というのは何かといえば、最初教会のメンバーは全員ユダヤ人でした。イエス様もユダヤ人、十二使徒もユダヤ人、パウロもユダヤ人でした。ユダヤ人であれば、当然のように男性は割礼を受け、モーセの律法を守っていました。それはイエスを信じてクリスチャンになった後も変わりませんでした。では、もともとユダヤ人でない外国人、聖書では異邦人と呼ばれますが、ギリシャ人やローマ人のようにユダヤ人でない者がクリスチャンになった場合、彼らもユダヤ人のように割礼を受けて、モーセの律法を守るべきかどうか、という問題が生じました。その問題を話し合ったのがエルサレム会議でした。そこでは異邦人はモーセの律法を守る必要がないことが決議されました。そこでエルサレム教会が各地の教会に書き送った手紙を見てみましょう。使徒の働きの15章28節から29節です。

聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことに決めました。すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。

と、このようにあります。異邦人クリスチャンにとっては良い知らせです。というのも、モーセの律法は613もあるので、クリスチャンになったらこの613の戒めを全部覚えて守りなさい、と言われたらどうでしょうか。もうやってられないわけです。そこで、エルサレム教会は本当にミニマムな、必要最小限の教えだけを守るようにと教えたのです。その最小限の教えの筆頭にあるのが「偶像に供えた物」でした。これはつまり、偶像にささげた動物の肉、ということです。しかし、手に入るほとんどの肉が偶像にささげられた肉であるコリントにおいて、この戒めを真面目に守ると、肉を食べることそのものを我慢することになりかねません。肉が大好きな人に、それが耐えられるでしょうか?そして、このような問題が今日の聖書箇所の背景となっているのです。

2.本文

さて、今日の箇所は、

次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。

という、一見謎のような書き出しになっています。コリントの人たちは、「偶像にささげた肉」について、いったいどんな知識を持っていたのでしょうか。ここでの偶像とは、ギリシャ・ローマの神々と言い換えた方が意味が通じます。ですから、「我々は皆、ギリシャやローマの神々にささげた肉について知識を持っている」というような意味になります。

ギリシャやローマのたくさんの神々を信じていたコリントの人たちに、パウロが福音を宣べ伝えた時に真っ先に教えたのは、「神様はたくさんいるのではなく、唯一だ」ということでした。アフロディテやアポロンなどの神々は人間の想像の産物であり、実在しないこと、またもし存在するとしても、それは神ではなく悪霊の類に過ぎないこと、またローマ皇帝もただの人間であって神ではないこと、真の神は、イエス・キリストとその父なる神のみなのだ、とパウロは教えました。この「知識」はコリントの人たちには新鮮な驚きだったでしょう。今まで神々だと信じていたものが、実は存在しないもので、空想の産物に過ぎないものである、あるいはそれらは神を装う悪霊にすぎないのだ、だからそうした神々を拝まなくてもたたりがあるとか、ばちがあたるなどということはない、ということを彼らは知識として持ったのです。

そこで彼らはさらに考えたのです。教会の教えでは、偶像、つまり偽りの神々にささげた肉は食べてはいけないことになっているが、実際はそんな神々は存在しない、そして存在しないものに捧げた肉は、ただ肉である。あるいはよしんばそれらが存在するとしても、それは神々ではなく悪霊である。悪霊にささげた肉をどうしようが、ばちが当たることはない。かえってそれらを平然と食べることこそ、唯一の神とキリストへの信仰を証しすることになるのだ、というふうに考えたのです。

彼らはそのような知識を誇り、「自分たちは自由だ。どんな肉を食べてもよいし、神々に動物をささげる神殿の儀式やスポーツ大会に参加してもよい。神々はいない、あるいは彼らは本物の神々ではないと知ったうえでそれらの神々への礼拝に参加するのは偶像礼拝には当たらない。なぜなら我々はそんな神々を信じていないからだ。」というように、自分たちの自由を主張しだしたのです。

このようなことを言いだしたコリントの人たちに、パウロはどうしたでしょうか?「いや、あなたがたは間違っている。エルサレム会議の決定に従いなさい。偶像にささげた肉は食べてはいけないのだ」とは言いませんでした。むしろ、パウロはあえて相手の土俵に乗って議論を進めます。つまりコリントの人たちの、いわばへ理屈も理屈だと認め、その上で相手の誤りを正そうとしたのです。

そこでパウロは、「確かにあなたがたは知識を持っているし、その知識は正しい」と、コリントの人々の主張を認めます。しかし、次にすかさずこう言います。

しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。

と、そのように言うのです。あなたがたの知識は、愛のために用いられていないのだ、ということを指摘したのです。

人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。

ここで「知っている」となっている動詞は完了形、つまり自分はもう完全に知っているのだ、自分の知識は完璧なのだ、と誇っているニュアンスが伝わります。しかしパウロはそのような高ぶりを戒めます。「その人は、知らねばならないことをまだ知らないのです」と。では、知らねばならないこととは一体なんでしょうか?

3節は、「しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです」というのは、どうも前の文とつながりがわるく、何を言っているのかよく分からないというように思われるかもしれません。ここでは人が神に知られているかどうかが問題なのではなく、人が何を知っているのか、知るべきなのかが問題だからです。実は、この箇所の原文のギリシャ語の写本を見ると、最も古い写本には「神を」や「神に」という言葉は含まれていません。するとどうなるかといえば、こういう訳になります。

しかし、もし人が愛するなら、その人は本当に「知っている」ということになるのです。

つまり、「知識」というものは、愛のために用いられて初めて真の知識となる、ということです。私は写本の証拠から見ても、文脈から考えても、この訳の方が正しいように思います。そのような理解に立って、パウロのいう愛に基づく真の知識とはどんなものなのかを考えていきましょう。

4節では、「私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています」とあるように、クリスチャンが持つ最初の知識とは、神は唯一であり、それ以外に神は存在しないということです。しかし、いわゆる神々というものは存在しないとしても、霊的な存在がいない、という意味ではありません。パウロはサタンの存在を信じていましたし、悪霊たちが活動していることも信じていました。そして偶像の背後には、こうした霊的な力が働いていることも信じていました。「なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが」とは、神々と呼ばれる存在は実際は存在しないか、あるいは悪霊なのだが、仮にそれらを神々と呼んだとしても、私たちには唯一の父なる神と、唯一の主であるイエス・キリストがいるだけなのだ、とパウロは言います。パウロが言うだけでなく、コリントの人々もそのような知識を持っていました。

あるクリスチャンの人たちは、このような知識に基づき、ギリシャやローマの神々への礼拝や献げものをする集会に自由に出入りをしていました。神々などはいないし、いたとしてもそれらはキリストによって滅ぼされる悪霊にすぎないのだから、それらへの礼拝に参加しても自分の心も体も汚されることはありえない、だからその時に神殿で出される偶像にささげたお肉を食べてもまったく構わないのだ、と考える人たちがいたのです。パウロはこのような人たちを「強い人」と呼びます。

しかし、そのように割り切って考えられない人たちがいます。かつてそれらの神々を礼拝していた他の人々は、そのような神々への礼拝に再び加わると、かつてそれらの神々を信じていた時の記憶や感情が呼び起こされてしまい、いくらそれらの神々はいないと頭では分かっていても、心の中ではそれらの神々に対する恐れや畏敬の念を感じてしまうのです。しかし、そのように思ってしまうことで、その人の良心は汚されます。そのことが7節に書かれています。

次の8節は、意味がとても難しい箇所です。ここの訳ですと、何を食べてもそれで私たちの神との関係がより親密になるわけではない、食べても食べなくてもどっちでもいい、とパウロがコリントの人たちに語っているように見えます。しかしここでの問題は、肉を食べるという行為が人の信仰のつまずきとなりかねない、ということです。ですから、食べても食べなくてもどちらでもよろしい、という話ではないはずです。この箇所の解釈として、これはパウロの言葉ではなく、偶像にささげた肉を食べている人たちが自分たちを正当化するために語っているスローガンだというのがあります。前にも、「すべてのことは許されている」という開き直ったスローガンがありましたが、それと同じだということです。ですから8節の前半は「食物が私たちに神の裁きをもたらすことはない」というコリントの人々のスローガンだと思われます。それに対して8節の後半では、パウロは「ええ、確かに食べることそれ自体は益にも損にもなりません」と、いったんコリントの人々の主張を受け入れます。しかし、「ただし」とパウロは言います。

あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。

と語ります。ここがこの8章全体のポイントです。パウロは律法を振りかざして、コリントの人たちに「あれをするな」、「これをしてはだめだ」とは言いません。むしろ、あなたがたには何でもする権利がある、ということを認めます。しかし、パウロが問うているのは、「あなたがたのすることは、愛に基づいていますか?」ということです。あなたが当然しても良いこと、する権利があることを実際に行うことで、ほかの人が傷つくとしたら、それでもあなたは自分の権利を行使しますか?とパウロは問うのです。パウロは続けて言います。

知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神にささげた肉を食べるようなことにならないでしょうか。その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。

仲間のクリスチャンが異教の神々を礼拝する神殿で美味しそうにお肉を食べているのを目撃した他のクリスチャンが、「ああ、偶像を拝む神殿に行ってもいいんだ。そこで食事してもいいんだ」と気が大きくなり、一度は捨てたはずの偶像礼拝の世界に戻っていく。そうすると、そこには恐ろしい結末が待っています。その人は、滅んでしまうかもしれないのです。「滅びてしまいます」というのは非常に強い言葉ですが、これは警告として受け止めるべき言葉です。強い人たちがその知識に基づいて自分の権利を行使した結果が、仲間の信者の滅びだというのです。このような知識は愛に基づかない知識です。自分の事ばかり考えて、自分の権利ばかり主張して、その結果他人にどのような影響を及ぼすのか、それを考えないような人は知識を、そして愛を持ってはいないのです。そこでパウロはこう締めくくります。

あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。

パウロは、人のつまずきとなることは、キリストに対して罪を犯すことだと言います。そんなことになるくらいなら、私は肉をたべてもいいという権利を捨てます、と宣言しているのです。

3.結論

さて、今日は「偶像にささげた肉」と題してお話ししました。肉を食べることは、今も昔も人間にとって大きな喜びです。キリスト教を信仰するようになったからと言って、肉を食べるのをあきらめなければならないとすれば、何とも残念だし、何と不自由な宗教なのか、と怒りすら覚える方もおられるでしょう。コリントの人たちもそのような思いを抱いていました。というのも、当時は今日のようにスーパーに行けば手頃にどんな種類の肉でも買えるような時代ではなかったのです。神殿で異教の神々にささげた肉の残りは大変貴重なお肉の供給源でした。「偶像にささげた肉は食べてはならぬ」という教会の教えに縛られてはたまらない、と彼らは「知識」を駆使して、偶像にささげた肉を食べても問題はない、という理屈を作りあげました。

それに対してパウロは、「教会会議の決定だから黙って従いなさい」というように上から目線で頭ごなしに叱ることはしませんでした。あくまで彼らの言い分を聞いたうえで、「では、あなたが振る舞うことで、教会の徳が高まるのでしょうか。その振る舞いは愛に基づいているのでしょうか」と問うのです。このような接し方には私たちも多くを学ぶことができるでしょう。そしてパウロは諭すだけでなく、愛に基づく行動とはどんなものなのかを身をもって示そうとしました。パウロは、自ら身を切る覚悟を示したのです。兄弟の為なら、自分はもう肉を食べなくてもいい、自分の当然の権利を捨てる、と言い切りました。このようなパウロの生き方を見るとき、私たちは「キリスト者の自由、権利」とは一体何なのか、ということを考えさせられます。自由とは、なんでも好きなことをする権利、という意味ではもちろんありません。むしろ、人の徳を高めるためなら喜んで自分の権利を捨てるような自由、そのような自由でした。このパウロの生き方に倣うことは私たちにとっても大きなチャレンジです。しかし、それは主イエスの生き方そのものでした。このレントの期間、私たちはそのような主の歩みを思いつつ、それに倣う生き方を願いながら歩んで参りたいと願います。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様。そのお名前を賛美します。今朝は食事について、しかも肉という私たちも大変なじみのある問題についてのパウロの教えを学びました。私たちは自由だし、どんなことでもする権利がありますが、そのように自分の権利を主張することが、果たして愛に基づくものかどうか、今一度問われました。主イエスも、神の子としてのあらゆる権利を行使せずに、むしろ仕える者として歩まれました。そのような主の歩みを覚えつつ、私たちもレントの期間を過ごすことができますように。私たちの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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イスラエルの背信エレミヤ書2章1~19節 https://domei-nakahara.com/2020/05/03/%e3%82%a4%e3%82%b9%e3%83%a9%e3%82%a8%e3%83%ab%e3%81%ae%e8%83%8c%e4%bf%a1%e3%82%a8%e3%83%ac%e3%83%9f%e3%83%a4%e6%9b%b82%e7%ab%a01%ef%bd%9e19%e7%af%80/ Sun, 03 May 2020 13:03:51 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=340 "イスラエルの背信
エレミヤ書2章1~19節" の
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https://domei-nakahara.com/media/The%20infidelity%20of%20Israel.MP3

1.導入

みなさま、おはようございます。先週からエレミヤ書を学んでいますが、今日の聖書箇所はエレミヤの40年にも及ぶ預言者としての働きの中でも、特に初期のころの預言です。その中心的なテーマは「偶像礼拝」です。この偶像礼拝の問題は、エレミヤ書に限らず、実に旧約聖書全体の一大テーマだといってよいでしょう。さらには、偶像問題は新約聖書でも大きな問題です。パウロはローマ人への手紙の冒頭で、人類の罪として

それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。(ローマ1:25)

と糾弾しています。実に人間の堕落は、真の神を神とせずに、偽りの神々を拝むことから始まりました。人間の様々な罪のルーツ、根本は「偶像礼拝」にあるのです。偶像礼拝とは、生ける真の神を捨てて、人間が自分の手で作った金銀あるいは木製の像を神として拝むということです。また、生きている者、つまり人間を神として拝むという偶像礼拝もあります。人間を神として礼拝する習慣は、特に人となられた神であるイエスが出現してから甚だしくなってきました。実際、紀元一世紀にキリスト教が地中海世界に広まるのとほぼ同じ時期に、人間であるローマ皇帝を拝む皇帝礼拝も急速に広がっていきました。悪霊は、神のなさることを真似して、神のようになろうとする存在です。ですから、皇帝礼拝とイエスの礼拝が同じ時期に広まったのも偶然ではないでしょう。聖書はこのように、真の神以外のもの、それがモノであれ人であれ、それらを拝むことを偶像礼拝として固く禁じています。

偶像礼拝の何が問題なのか、ということを考えるのはとても大きなテーマなので、今日の説教で語り尽くすことなどもちろんできません。ここではポイントを一つに絞って話したいと思います。偶像礼拝は人間を奴隷にします。それに対し、真の神を拝むことで人は自由になります。偶像から真の神に立ち返ることで人は解放され、自由になるのです。偶像礼拝の恐ろしさとは、人を奴隷化することにあります。実際、偶像礼拝が盛んなところでは、奴隷制度が栄えます。古代のエジプト文明を考えてみましょう。エジプトの王ファラオは太陽の神の子、あるいは化身でした。農業をするために絶対に必要なものは「太陽」です。太陽なしには生きていけないので、太陽を拝み、また太陽の化身を拝みます。こうして太陽の神ファラオの命令は何でも聞く、という奴隷が生まれるのです。神に近い人は身分が高い人になり、神から遠い人は身分が低く搾取されるということになり、こうして身分制度が出来上がっていきます。それに対し、イスラエルの場合は逆でした。古代イスラエルの宗教の特徴は、みんな神の前に平等だということです。みんなに平等に土地が与えられ、大きな経済格差が生じないようにしました。神様との関係も、基本的に平等です。確かに祭司はいましたが、祭司は神に代わって人々を支配するようなことはしませんでした。むしろ、祭司は神と民との執り成し役として、人々の重荷を担う役割を果たすことが期待されていました。しかし、イスラエルの歴史では実際はそうはならず、祭司階級は特権階級となり、大地主となって富と権力を独占するようになっていきます。

さて、話を戻しますが、偶像礼拝とは人を支配するために非常に都合のよいシステムなのです。偶像の神は、ある特定のご利益に結びついていることが多いのです。実際、日本でもいろいろな神様がいます。「商売繁盛の神様」、「安産の神様」、「学業の神様」など、人々が望むことの数だけ神様もいるような感じです。人々はこうした神々に自分の望むものを与えてくれるように拝み、お賽銭を捧げ、挙句の果ては神様の命じることは何でもするようになります。けれども、こういう人の信心を利用して、よからぬことをする人々は多いのです。政治権力者や新興宗教の教祖は、こういう人々の信仰心を悪用して彼らを支配します。「私は神の代理人だ、神はこう言っておられる」と言って人々を奴隷のように使おうとするのです。しかし、真の神は人々を奴隷のようにこき使おうとしているのではありません。神は人々が自由になることを願っておられるのです。奉仕とは奴隷の業ではなく自由な人間のすることなのです。さて、前置きはここまでにして、今日与えられたエレミヤ書のみことばを読んでまいりましょう。

2.本文

エレミヤは2章でイスラエルの偶像礼拝について告発します。そこには二つの中心的な問題がありました。一つは他の神々との関係、もう一つは周辺の超大国との関係です。イスラエルの人々にとってはバアルという神との関係が大問題でした。バアルとは「主人」、または「主」という意味です。私たちが「主よ」と祈るように、人々は「バアルよ」と祈ったのです。このバアル礼拝は、エレミヤのいた南ユダ王国、またそれより100年ほど前に滅びた北イスラエル王国でも大いに広まっていた宗教でした。有名なのは、何といっても北イスラエルの預言者エリヤがバアルの預言者たちとカルメル山で雨乞いの儀式をして戦ったことでしょう。ここで雨乞いを巡ってエリヤとバアルの預言者たちが戦ったことには大きな意味があります。なぜならバアルとは農業の神様、収穫の神様であり、太陽を昇らせ雨を降らせて人々に豊かな収穫を与える神だと信じられていたからです。ですから日照りで雨が降らない時こそバアルの神様の出番だったはずなのでした。そもそもイスラエルの人々がバアルに惹かれたのも、バアルが収穫の神だったからです。イスラエルの人々が真の神の偉大な力を知ったのは、出エジプトの時でした。神はイスラエルをエジプトの奴隷の家、奴隷状態から救い出し、自由を与えました。イスラエルの神は、エジプトの神々との戦いに勝ち、長い砂漠の旅路の中でイスラエルの人々を守り、約束の地に導き入れました。イスラエルの人々も、その恩を忘れたわけではありませんでした。しかし彼らが砂漠を離れ、農耕生活に入った時に、彼らは不安を感じました。イスラエルの神は砂漠の神だ。荒野を彷徨う時にはこの神に従っていればよかった。だが、今の関心事は農業で豊かな収穫が得られるかどうかだ。それはイスラエルの神にとっては専門外の領域、得意ではない分野ではないだろうか。だから、イスラエルの神に加えて、カナンの地の氏神である農業の神様であるバアルも一緒に拝もう。神様は一人より二人の方が心強い、とこのように考えたのです。

イスラエルの偶像礼拝の問題とは、混合宗教の問題でした。「あれか、これか」ではなく「あれも、これも」と、イスラエルの神と一緒に、他の神様にも祈ろうという、こういう姿勢です。八百万の神々を信じる日本人と非常に近い姿勢ですね。唯一の神などと言い出すと、排他的になる、どんな神様も仲良く一緒に拝めば争いもなくなり、みんなうまくいくという、こういう理屈です。しかし、これはおかしいと、聖書の神は仰せられます。考えてみてください。恋人同士、あるいは夫婦の関係で考えてみましょう。たとえば皆さんが恋人あるいは配偶者から、「私はお前を心から愛している。でも、私の愛はとっても広くて大きいのだ。私はお前と同じように、BさんもCさんも深く愛している。私の愛は、三人とも同じように深く愛せるぐらい、広くて大きいんだ。私は博愛主義者なのだ。私はみんなを幸せにしたいのだ」などと言われて納得するでしょうか?いいえ、「この人は愛とは何であるのかを全くわかっていない」と怒るか、あきれるかするでしょう。愛とは選択です。世の中には男も女もたくさんいます。魅力的な人や好みの人も、一人だけとは限らないでしょう。しかし、その中から一人を選び、その人に人生を賭けるわけです。映画を見る時はAさん、高級レストランに行くときにはBさん、ドライブに行くときはCさんと付き合いましょう、などとやっていたら、みんなから愛想をつかされるでしょう。神とイスラエル、または神と私たちとの関係も同じことです。神が私たちに求めておられるのは人格的な関係です。神を信頼し、神にすべてを委ね、共に歩んでいく、そういう人を神は求めておられるのです。ある時にはイスラエルの神にお願いし、他の場合にはバアルの神様を拝む、そのような関係を神は嫌われるのです。神はエレミヤを通じてこう言われました。

わたしは、あなたの若かったころの誠実、
婚約時代の愛、
荒野の種も蒔かれていない地での
わたしへの従順を覚えている。

神とイスラエルとのかつての関係が、婚約時代の男女の関係にたとえられています。出会ったばかりのころ、恋に落ちたばかりのころの関係は初々しく、また熱烈なものです。この人しかいない、この人についていこう、とこのような思いを持って二人は一緒になるのです。しかし、だんだんと月日が経つうちに初めの思いは消えて、不満や幻滅の方が多くなっていくかもしれません。人生にはいろんな困難があるからです。私たちの信仰生活も同じかもしれません。初めて神を知り、自分が神に愛されている、神のものになったのだということを信じられないこととして喜びます。けれでも、人生は神様を信じたからといって、それで人生に問題がなくなるものではありません。かえって大きな試練に遭うこともあります。「私は神様を信じているのにどうして?」と思うことも一度や二度ではありません。そんな中で、神への信頼を見失っていく、「初めの愛から離れてしまう」のです。しかし、本当の愛とは試練の中で試されるように、私たちの神への信仰が本物かどうかは、試練の中でこそ明らかになるのです。「私が弱いときこそ、強い」と使徒パウロは言いましたが(Ⅱコリント12:10)、困難な状況の中でこそ神の恵みが現れます。私たちも今困難な状況に置かれています。礼拝に集まることに何の不自由もなかった時と違い、今は毎週毎週無事に礼拝が守れますようにと必死に祈っています。でも、本来なら平時の時でも礼拝が守れるということがどんなに大きな恵みなのかを知るべきだったのだな、と思わされています。私が江戸時代や、あるいは軍国主義の日本に生まれていたら、普通に礼拝をすること自体、本当に大変なことだったわけですから。ですから私のような鈍感な人間は、こういう困難な状況に直面することで、神に信頼すること、また神の恵みに心から感謝することを学ばせていただいている、と思わされています。

エレミヤの時代のイスラエルの人たちにも、当然ながら多くの困難や心配事がありました。伝染病のような悪い流行り病の心配もありましたが、繰り返される日照りや旱魃(かんばつ)、あるいは洪水などの自然災害は大きな脅威でした。彼らはあらゆる対策を取ろうとしました。その対策の一つが、農業に強い神様を拝むことだったのです。エレミヤは13節で皮肉交じりにこう言います。

わたしの民は二つの悪を行った。
湧き水であるわたしを捨てて、
多くの水ためを水を
たくわえることのできない、こわれた水ためを、
自分たちのために掘ったのだ。

当時は水をためるために、大きな水ためを掘っていました。今後迫害を受けるエレミヤは、ぬかるんだ水ための中に閉じ込められることになるのですが、とにかくエルサレムやユダの村々には日照りに備えていくつもの水ためが掘られていました。水ためを掘ることそれ自体はもちろん悪いことではありません。しかし、もし彼らが本当の生ける水を与えてくださる神を忘れてしまうのなら、そして自分で自分を救おうとひたすら水ためを掘るのなら、そのような行動は罪深く、また滑稽ですらあるのです。私たちも生活の不安は常にあります。このような緊急時ではなおのことそうです。しかし、そういう時にこそ、神に信頼するという基本的な姿勢を忘れないようにしたいのです。そうしないと、イスラエルの人たちのことを笑えなくなります。私たちはみな、同じような弱さを抱えているのです。

さて、バアル礼拝の罪に加えて、当時の南ユダ王国はもう一つの罪を犯していました。それは真の神に頼らずに、周辺の超大国の力に頼ろうとすることでした。この罪も根が深く、エレミヤより100年ほど前に活躍した預言者イザヤも何度も警告したものでした。エレミヤ書の2章全体は、古代における裁判の告発を思い起こさせます。それは王が、反乱を起こした家臣に対し、その罪を告発するという形の告発文です。この場合、王とは神であり、家臣とはイスラエルのことです。では、イスラエルがどんな罪を犯したのか。イスラエルは世界中の中で唯一真の神に選ばれた民です。彼らは主に献げられたもの、聖なる民、収穫の初穂、主の花嫁でした。しかし、彼らは主を信頼し抜くことができませんでした。むしろピンチになると、真の神ではなく、この世の権力に頼ろうとしました。これは私たちにもよくわかることではないでしょうか。日本は今、政治的にはむずかしい状況におかれています。中国が急速に軍事力を強化し、周辺諸国に有形無形の圧力をかけています。また、北朝鮮もミサイルを頻繁に発射しています。そのような中で日本はどうしたでしょうか。日本の現在の政治方針はまことに分かりやすいものです。ひらすらアメリカに頼ろうとしています。卑屈とも思えるほどにアメリカに従属し、外敵から守ってもらおうとしています。エレミヤの時代の南ユダ王国もそうでした。彼らは外敵の脅威に晒されると、神ではなく、真の神を知らない近隣の超大国に救いを求めたのです。そのことが17節以降に書かれています。

あなたの神、主が、あなたを道に進ませたとき、
あなたは主を捨てたので、
このことがあなたに起こるのではないか。
今、ナイル川の水を飲みに
エジプトの道に向かうとは、
いったいどうしたことか。
ユーフラテス川の水を飲みに
アッシリヤの道に向かうとは、
いったいどうしたことか。
あなたの悪が、あなたを懲らし、
あなたの背信が、あなたを責める。
だから、知り、見きわめよ。
あなたが、あなたの神、主を捨てて、
わたしを恐れないのは、
どんなに悪く、苦々しいことかを。
-万軍の神、主の御告げ-

これまでもイスラエルの人々は、不安になると神ではなく他のものに頼ろうとする傾向がありました。かつて、エジプトから脱出した時も、モーセが長い間シナイ山にいっていると、もうモーセは死んでしまったと思い、金の仔牛を作ってそれに助けてもらおうとしました。今回も同じです。アッシリヤが恐ろしいとエジプトを頼り、エジプトが怖くなると今度はアッシリヤに頼るという、右往左往を繰り返すのです。今の日本で言えば、中国が恐ろしいとアメリカに頼り、アメリカとの関係がおかしくなると中国に頼るようなものです。しかし、イスラエルは神から選ばれた民です。神にこそ信仰を持ち続け頼るべきです。そうはいっても、神は見ることができないし話すこともできないので、目に見えるものに頼ろうとするのです。そうした弱さは、私たちにもあることを覚えたいと思います。こういう弱さを克服するために、習慣というのも大切です。日曜礼拝はもとより、私たちは神に祈り、日々の備えに感謝するとともに、悩みや苦しみを主に打ち明ける時を、毎日持ちたいものです。長い時間である必要はありませんが、一日の内でどこかの時間を聖別し、主との交わりの時を持っていきましょう。

3.結論

さて、今日からいよいよ預言者エレミヤの預言の内容そのものを学んできました。エレミヤ書の最初の部分は、イスラエルの背信、真の神に背を向けて他の神々や、あるいは周辺の超大国に頼ったこと、つまり偶像礼拝の問題が取り扱われました。偶像礼拝とは、必ずしも宗教的なことには限定されません。真の神ではない他のもの、他の神々ですとか、他の力の強そうなグループや国々、あるいはお金、そうした神ならぬものを神よりもあてにする、頼りにする、そういう心の在り方そのものが偶像礼拝なのです。そういう意味では、私たちは常に偶像礼拝の誘惑に晒されていると言えるでしょう。

最後に、神に頼るということの意味を改めて考えてみたいと思います。神に頼るということは、自分では何の努力もしない、ということではありません。私たちが合理的な努力をして、人生の困難の立ち向かおうとするのはとても大切なことです。病気になっても病院に行かず、神様を信頼してひたすら祈るというような行動は、信仰心の現れとは言えないでしょう。私たちは神に病の癒しを願うことはできても、強制することはできないのです。神は私たちが自分たちに出来ることをしっかりと行うことを望んでおられます。神は私たちがただ受け身で、何もしないことを望んでいるのではありません。しかし同時に、私たちが自分でなしたすべての努力の背後に神が働いておられることを忘れないようにと、願っておられます。このバランスは大事です。私たちは自分たちの最善を尽くすべきです。同時に、私たちにそのような力を与えてくださるのは神なのです。すべてのことを神様にやっていただこう、自分は何もしなくてもいい、というのではなく、全部自分でやろう、自分しか頼る者はない、というのでもなく、常に神とともに歩むということです。偶像礼拝を避けるには、この信仰者としての態度を常に持ち続けていく必要があるのです。お祈りします。

万軍の主よ。
なんと幸いなことでしょう。
あなたに信頼するその人は。
(詩篇84:12)

イエス・キリストの父なる神。その御名を賛美いたします。今日はエレミヤ書を通じて、あなたに信頼し、信頼し続けることの大切さを学びました。この世には多くの困難があり、私たちは日々不安の中を生きています。そのような中で、あなたに心から信頼し、あなたを見つめ、あなたとともに歩む心を持ち続けることができるように、私たちをお支え下さい。今週の私たちの歩みにおいても、災いや感染症からお守りください。私たちの主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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