ルカの福音書 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 調布 深大寺のプロテスタント教会 Sun, 29 Sep 2024 04:18:49 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.3.18 https://domei-nakahara.com/wp-content/uploads/2020/03/cropped-favicon-32x32.png ルカの福音書 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 32 32 ペテロに見る「強さ」と「弱さ」ルカ福音書5章10-11節; 22章33-34節; 60-62節嶋田浩一 https://domei-nakahara.com/2024/09/29/%e3%83%9a%e3%83%86%e3%83%ad%e3%81%ab%e8%a6%8b%e3%82%8b%e3%80%8c%e5%bc%b7%e3%81%95%e3%80%8d%e3%81%a8%e3%80%8c%e5%bc%b1%e3%81%95%e3%80%8d%e3%83%ab%e3%82%ab%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b85%e7%ab%a010/ Sun, 29 Sep 2024 04:18:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5866

*今回の奨励は録音のみで、原稿はありませんが、素晴らしい証しも含まれていますので、ぜひ録音をお聞きください。

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私を思い出してくださいルカ福音書23章32-43節岩上敬人 https://domei-nakahara.com/2024/03/24/%e7%a7%81%e3%82%92%e6%80%9d%e3%81%84%e5%87%ba%e3%81%97%e3%81%a6%e3%81%8f%e3%81%a0%e3%81%95%e3%81%84%e3%83%ab%e3%82%ab%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b823%e7%ab%a032%ef%bc%8d43%e7%af%80%e5%b2%a9%e4%b8%8a/ Sun, 24 Mar 2024 04:56:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5485 https://domei-nakahara.com/media/Remember%20me.MP3

*今回の説教は録音のみで、原稿はありません。日本福音同盟総主事の岩上敬人先生の特別メッセージです。

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心の思いが現れるルカ福音書2章1~39節 https://domei-nakahara.com/2023/12/24/%e5%bf%83%e3%81%ae%e6%80%9d%e3%81%84%e3%81%8c%e7%8f%be%e3%82%8c%e3%82%8b%e3%83%ab%e3%82%ab%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b82%e7%ab%a01%ef%bd%9e39%e7%af%80/ Sun, 24 Dec 2023 06:47:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5188 "心の思いが現れる
ルカ福音書2章1~39節" の
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1.序論

みなさま、クリスマスおめでとうございます。今日の主日礼拝では、ルカ福音書のとても有名な箇所からメッセージをさせていただきます。今日は比較的長い箇所を取り上げていますが、その中でも羊飼いたちが飼い葉おけに寝かされている幼子イエスを訪ねる場面が大変よく知られています。ページェントなどで必ず取り上げられる、心温まる場面ですね。しかし今日は、その後に登場する人物にも目を向けたいと思います。それは、シメオンとアンナという二人の男女の老人ですが、その中でも特にシメオンという人物の言葉に注目して参ります。

今日のイエス・キリストの降誕物語は、温かい雰囲気に包まれている素敵な箇所ですが、しかしその中で1か所だけ、なにか不吉な予感を感じさせる箇所があります。それが、シメオンという老人が語った預言的な言葉です。

ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。

この言葉は、他の箇所が心温まる平和な場面ばかりなので、なお一層その不吉なトーンが際立っています。イエス・キリストの到来が、ただ単におめでたい出来事ではない、人間の心の闇を照らし出すような側面もあることを告げているように思えます。シメオンの「多くの人が倒れる」とか、「剣が心さえも刺し貫く」という言葉には戦争の響きがあります。実際、イエスが十字架に架かられてから約40年後には、救世主の到来を待ち望んでいたイスラエルは大戦争により滅亡してしまうのです。そのことの意味をよく考えてみたいと思います。

ルカ福音書の降誕物語では、主イエスは全世界を照らす光であることが語られていますが、同時にある特定の民族、つまりイエス御自身がその民の一人であるユダヤ民族の救世主であることが強調されています。10節で、天使たちは「今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです」と語りますが、「この民全体」というのはユダヤ民族のことです。福音は、まずユダヤ人に対する良い知らせとして語られているのです。シメオンという人物は「イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた」と書かれています。また、やもめとなり、当時としては大変な長寿である84歳という年齢になっていた女預言者アンナは「エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々」に語りかけた、とありますが、エルサレムの贖いを待ち望んでいるのもユダヤの人々であるのは間違いありません。イエスの誕生は、このようにまずイスラエルに対して、ユダヤ民族の救いを待ち望む人々に対して福音として語られたのです。もちろん、先ほども言いましたように、福音はユダヤ人だけのものではなく、全世界のためのものです。しかし、それでもなお、救いは初めにイエス御自身がその一員であるユダヤ民族に伝えられているのは間違いありません。

しかし、先ほども申し上げたように、そのユダヤ人たちはイエスが天に昇られてから約40年後に、当時の超大国であるローマ帝国と8年にも及ぶ大戦争をし、国を失っています。当時のユダヤ人の歴史家であるヨセフスは、この戦争で亡くなったユダヤ人は100万人だと述べています。この数字は誇張されているのは間違いありませんが、いかに多くの人の命が戦争で失われたのかを伝えています。イスラエルを救うために救世主が遣わされたのに、そのすぐ後の時代にイスラエルが滅亡してしまったのは、いったいなぜなのでしょうか。

ひるがえって、イエス・キリストのご降誕から2千年が経ったユダヤ・パレスチナの地では今でも戦争が行われていて、多くの人の命が失われています。今年のクリスマスがいつもとは少し違う雰囲気なのは、ロシア・ウクライナ戦争に加えて、ユダヤ人やクリスチャンにとっての聖地であるイスラエルの地で戦争が行われているからでしょう。今日は、戦争と平和という背景から、イエスご降誕の意味を改めて考えてみたいと思います。

2.本論

まず2章の1節ですが、イエスの誕生物語は皇帝アウグストゥスの勅令から始まります。このアウグストゥスとは言うまでもないですが、ローマ帝国の初代皇帝です。彼の義理の父であるユリウス・カエサルは共和国であったローマの独裁権を握ろうとしましたが、暗殺されてしまいます。その跡目争いでローマは内戦状態になりましたが、その権力闘争を勝ち上がったオクタビアヌスはアウグストゥス、これは尊厳者という意味ですが、その称号を得て皇帝に就任します。アウグストゥスはローマの内乱を終わらせ、地中海世界に平和をもたらしたので、彼が皇帝となったことは「福音」と呼ばれました。彼は平和の君、あるいは救世主とも呼ばれ、また彼の義理の父であるユリウス・カエサルがローマの元老院から「神」であると宣言されたため、彼の子であるアウグストゥスは「神の子」と呼ばれました。つまり、初代皇帝アウグストゥスは神の子、また救世主であり、彼が世界に平和をもたらしたことは「福音」と呼ばれたのです。まさにイエス・キリストと全く同じような称号を得ていたのです。

そのアウグストゥスの勅令の下でイエス・キリストはこの世に生まれました。イエス・キリストもこの世界の真の王、平和の君としてお生まれになったのですから、アウグストゥスとイエスとの対比を考えないわけにはいきません。そして、この二人を対比させるのが福音書記者のルカの狙いだったと言ってよいでしょう。アウグストゥスは極めて有能な人物でした。軍隊を率いて戦うことにも長けていましたが、権謀術数を用いて反対者たちを懐柔したり、人を操縦するのが得意な人物でした。内乱状態だった広大なローマ帝国が安定を取り戻したのも彼個人の実力に負うところが大きかったのです。しかし、ローマの力の源泉は、単なる一人の有能な人物の功績によるのではなく、なんといってもその強大な軍事力と経済力でした。単純に言えば暴力とお金です。その二つで世界を支配していたローマの全盛期に、主イエスはお生まれになったのです。

ローマの支配が軍事力とお金によるものだったならば、イエスがもたらそうとした神の支配は何によって支えられるのでしょうか。当時のユダヤ人たちは、これから生まれる救世主はローマをも上回る強大な力を持っているだろうことを期待していました。ルカ福音書では、イエスがダビデの子孫であり、ダビデの町であるベツレヘムで生まれたことを強調しています。多くのユダヤ人にとって、伝説の王であるダビデは何にもまして優れた武人でした。彼の治世において、イスラエルは最大の版図を獲得し、周辺諸国を武力で従えて、帝国と呼べるほどの強大な国になりました。イスラエルの人々がダビデを理想の君主として仰ぐのは、その栄光の時代を取り戻したいという願望があるからでした。ですからダビデの子孫としてベツレヘムで生まれたイエスは、ダビデの再来として再びイスラエルを強大な国にするという人々の希望を集めていたのです。預言者ミカは、ベツレヘムからイスラエルの支配者が生まれると預言しましたが、その支配者についてこう書き記しています。

彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てにまで及ぶ。(ミカ書5:4)

ミカによればこの人物は、侵略する国々を武力で追い払うだろうと預言されています。このような旧約聖書の預言者たちの言葉を信じていたユダヤの人々は、来るべきメシア、新しいダビデはあのローマのアウグストゥスをも上回る圧倒的な武力で自分たちを外国の支配から解放してくれることを願っていたのでした。

しかし、そのような期待を背負って誕生したはずの幼子のイエスを最初に訪れたのは、そのようなイスラエルの大望を実現するための手助けとなるような人々ではありませんでした。英雄的な力を持った武人でもなく、優れた才覚で参謀となるような知者でもなく、また膨大な財力で活動を支えてくれる富豪でもなく、力もお金もない、社会の底辺に位置する羊飼いたちでした。もちろん、ダビデももともとは名もない羊飼いから身を起こして、立身出世してイスラエルの王にまで上り詰めた人でしたから、イエスの福音が最初に羊飼いに届けられたのも、イエスも貧しい家庭で生まれながらもダビデのように出世の階段を駆け上ってイスラエルの王となるということを暗示しているのかもしれません。しかし、その後のイエスの人生が示すように、イエスは羊飼いのような低い地位から成りあがろうとしたのではありません。むしろ彼は一貫してそのような貧しい人たちの友として生きました。それは、王となるべき人物の行動としてはふさわしくないように当時の人々の目には映ったかもしれません。「もしあなたが王となりたいのなら、有能な部下を周りに集めるべきだ」というのが常識的な考えでしょう。三国志の劉備玄徳は三顧の礼で諸葛孔明を迎えましたが、イエスも天下を狙うなら有能な部下を集めるべきだと人々は考えるものです。しかし、イエスが成ろうとしていた王は、そのような世の中の常識で量れるような王ではなかったのです。イエスはアウグストゥスとは違う道、人々を暴力とお金によって支配するのではなく、むしろ仕え合うこと、愛し合うことを通じて真の神の支配を実現しようとしたのです。神の支配とは暴力や恐怖、あるいは利益という餌で人々を操ることではありません。むしろ、自分のことはいくらか我慢しででも人の幸せを考える、このような真の王道によって実現するのです。イエスを最初に訪れたのが羊飼いだったということは、彼の目指す道がどのようなものだったのかを象徴的に示すものでした。

さて、イエスはベツレヘムで生まれてから8日目に、両親によってモーセの律法の従って契約の民のしるしである割礼を授けられ、さらにモーセの律法に従って初子を主に献げるために両親は彼をエルサレムの神殿に連れていきました。そこにはシメオンという老人がいました。彼は正しい人、直訳すれば義人でしたが、聖霊を受けた預言者でもありました。彼は幼子イエスを見て、この人こそイスラエルを救う人だということを聖霊によって知りました。しかし、驚いたことに、彼が最初に預言したのはイスラエルの救いではなく、異邦人の救いでした。救いはユダヤ人のみならず、すべての人に与えられるだろう、と述べたのです。このことは、多くのユダヤ人にとってはあまりうれしい知らせではありませんでした。救いはユダヤ人に与えられ、外国の人々はユダヤ人に仕えるようになる、というのが当時のユダヤ人の願望だったからです。後にイエスは成人してから公生涯を始められた時に、生まれ故郷のナザレで説教をして、同郷の人たちから拒絶されてしまいますが、それは彼が異邦人の救いについて語ったからです。イエスはそのときイザヤ書61章を読みましたが、イザヤ書には外国人がユダヤ人に仕えるようになると預言されています。イザヤ書61章5節と6節にはこうあります。

他国人は、あなたがたの羊の群れを飼うようになり、外国人が、あなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる。しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。あなたがたは国々の力を食い尽くし、その富を誇る。

このように、ここにはイスラエルは外国の力と富を我が物にするようになると書かれているように読めます。しかしイエスはむしろ、外国人は神に祝福されるだろうということを示唆しました。このときイエスは旧約聖書の中で、二人の外国人がユダヤ人に先んじて救われた故事を語りました。預言者エリシャの時代、ツァラアトという治療の難しい病に侵されたイスラエル人で治癒された人はいませんでしたが、イスラエルの敵国であるアラムの将軍は唯一の例外でした。また、預言者エリヤの時代、多くのイスラエル人が飢饉で苦しんでいる中、外国人であるシドン人のやもめだけが主の守りを受けました。イエスはこれらの故事を語り、イスラエルの神は外国人をユダヤ人の奴隷や召使にするのではなく、むしろ彼らを祝福するだろうというメッセージを伝えたのです。しかし、ローマという外国の支配者に苦しめられてきたユダヤ人にとっては、これは福音でも何でもなく、イエスはむしろ外国人に味方する者として拒絶されてしまったのでした。

話を戻しますと、幼子イエスを見たシメオン老人は、この子どもがイスラエルを外国の支配から解放するだろうという預言ではなく、むしろこの子どもが万国の民を祝福するだろうと語ったのです。しかし、繰り返しますがこのような知らせは必ずしもすべてのユダヤ人の聞きたかった良い知らせではありませんでした。当時の多くのユダヤ人は、自国中心主義、自分たちの民族は特別で、神から特別な寵愛を受けているという考えから抜け出すことができませんでした。彼らにとって外国人は、愛すべき隣人ではなく敵だったのです。ですからイエスの「敵を愛しなさい」というメッセージは、彼らの外国人に対する姿勢に根本的な方向転換、悔い改めを促すものでした。このイエスのメッセージに触れたときに、多くのユダヤ人の本当の心の姿が現れ、明らかにされました。彼らが他人の犠牲の上に自分たちの平和や繁栄を願うのか、あるいは自分を犠牲にしてでも他人の事も考えるのか、そのどちらの人間であるのかという問いを突き付けられるのです。ですからイエスに向き合うことは、必ずしも慰めに満ちたものでも喜ばしいものではないのです。むしろ人はイエスに出会うことで、自分はいったい何者なのかという根本的な問いを突き付けられます。シメオンは、多くのイスラエルの人々がこのような問いに向き合うことになることを預言して、次のように言いました。

ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。

預言の霊を与えられたシメオンは、これからイスラエルに起こることを見通していました。実に、イエスの時代にユダヤ人たちは民族の大きな岐路に立たされていました。イエスが十字架に架けられた後の40年の間、ユダヤの地では何度も暴動やテロ活動が起り、ついには先ほども言いましたようにユダヤ人はローマとの全面的な戦争を行い、その結果彼らは二千年もの間国を失うことになりました。イエスは、同胞のユダヤ人たちがそのような破局的な道をたどらないように、平和の道を伝えました。しかしそれは決して簡単な道ではありませんでした。ローマ帝国はユダヤ人を植民地支配し、高い税金で彼らの生活を苦しめました。また、何か問題があればすぐに暴力と恐怖で人々を押さえつけました。その恐怖のシンボルが十字架でした。そのような敵をも愛し、暴力によらずに善意によって彼らの圧政に立ち向かおうというイエスのチャレンジに満ちた呼びかけは単なるお花畑的な理想論か、あるいは単に敵を利するだけの無意味な行動だと人々からは思われたかもしれません。しかし、力には力で、という方法では何の解決にもならないということも大きな戦争を経験してきた私たちは直観的に良く分かっています。もちろん、圧政や暴力にただ黙って従うだけではたしかに何も変わらないし、ある意味で無責任ですらあります。しかし、暴力に対しては、暴力を用いない抵抗というのもあるのです。相手と同じ土俵に乗らずに抵抗する道もあるのです。私たちは20世紀にガンジーやマルティン・ルーサー・キングにより暴力を用いない抵抗運動の可能性を知りました。この二人ともイエスを深く尊敬していたのは決して偶然ではありません。この戦争のやまない時代、私たちは今一度イエスの平和の教えに耳を傾けるべきでしょう。

3.結論

まとめになります。今日は、イエスが誕生した時代の政治的・社会的な状況も考えながら、幼子イエスと出会った人々、特にシメオンが語った預言の言葉を考えてみました。シメオンは、イエスが人々の待望の救世主でありならが、彼の目指すものは人々の期待とは大きく異なるものになるだろう、という預言をしました。イエスは当時のユダヤ人のみならず、あらゆる民族が持っていた自国民中心主義を退け、むしろ敵国同士が和解しあう道を示そうとしました。しかし、外国に苦しめられてきたユダヤ人たちには彼のメッセージはなかなか届きませんでした。イエス誕生の際に、天使たちが「地の上に、平和が」と語ったのにもかかわらず、イエスが来られてからのユダヤ・パレスチナの地には平和は訪れませんでした。イエスは後に、エルサレムに入城する際に「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている」(ルカ19:42)と嘆きました。そして、ユダヤの人たちはイエスが最も望まなかった武器を取る道、戦争の道を選んでしまったのです。

今日の世界にも、イエスからの問いかけが同じように突き付けられています。今の世界で、キリスト教国と言われる国々が戦争の当事者となって、あるいはその当事者の背後にいて戦争を推進していることは大変残念なことです。暴力によらない抵抗や、和解の道をこのクリスマスの時に考えたいと願います。そのために、たとえ自分が不利な条件を飲まなければならないとしても、戦争によって二度と帰らぬ命がたくさん失われるよりも良いのではないでしょうか。イエスが武器を取らず、黙って十字架を受け入れたことで、彼を担いで暴動を起こそうとする人たちがローマと戦って命を失うことを阻止することができました。しかし、残念ながらその40年後に結局は多くのユダヤ人たちは戦いの道を選んでしまいました。それで失われたものはあまりにも大きかったのです。そして今日の戦争で失われるものは、二千年前の比ではありません。今日の、悪に対しては暴力で立ち向かうのもやむなしという時代の流れに逆らって、今一度イエスの平和のメッセージに耳を傾けたいものです。お祈りします。

御子イエス・キリストを平和のために遣わしてくださった父なる神様、そのお名前を讃美します。このクリスマスの時に、改めて主イエスの平和の教えを思うことができますように。争いのあるところに平和が訪れますように。われらの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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エマオの途上でルカ福音書24章13~32節 https://domei-nakahara.com/2023/04/09/%e3%82%a8%e3%83%9e%e3%82%aa%e3%81%ae%e9%80%94%e4%b8%8a%e3%81%a7%e3%83%ab%e3%82%ab%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b824%e7%ab%a013%ef%bd%9e32%e7%af%80/ Sun, 09 Apr 2023 04:16:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=4442 "エマオの途上で
ルカ福音書24章13~32節" の
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1.序論

みなさま、イースターおめでとうございます。キリスト教には三つの大きなお祝いの日があります。一つは誰でもご存じのクリスマスで、これはイエスの誕生を祝う日です。もう一つはペンテコステという日があり、これは今日のイースターから50日目の祝日です。ペンテコステの意味については、ペンテコステ礼拝の時にお話ししたいので、今日は三つのお祭りの中でも最も重要なイースター、復活祭についてのお話です。

復活祭とはイエスが死者の中からよみがえったことを祝う日ですが、その前提としては当然ながらイエスが死んだという事実があります。歴史的な事実として、キリスト教の教祖であるイエスというユダヤ人は、紀元30年あるいは紀元33年のどちらかの年に、ユダヤ教の大きなお祭りである過越祭の最中に処刑されました。十字架というのは最も残忍な刑罰であり、それは見る人に恐怖を与えるための拷問を伴う処刑方法でした。イエスは十字架に架けられて一日で絶命しましたが、人によっては何日も十字架上で飲まず食わずで苦しみながら生きながらえました。その間、当然トイレにも行けないので垂れ流すのです。十字架刑は人間の尊厳を極限まで貶めるものでした。なぜ見る人に恐怖や嫌悪感を植え付けるような形で処刑したのかといえば、「ローマ帝国に逆らうとこのような目に遭いますよ」という見せしめにするためでした。つまり、十字架というのは普通の犯罪に対する処刑方法ではなく、ローマ帝国という世界唯一の超大国に反乱を起こした者たちのみに科されるものでした。そのあまりの残忍さから、ローマ市民権を持つ者には十字架刑は適用されず、ローマでは奴隷にのみに科されるものでした。福音書には、イエスと一緒に二人の「強盗」が十字架に架けられていた、とありますが、ここでいう強盗とはいわゆる押し込み強盗のことではなく、ローマ帝国や、あるいはローマに協力するユダヤ人だけを狙ったレジスタンス目的の強盗、ローマから見ればテロリストのような人たちでした。ですからイエスと一緒に十字架に架けられた人は、今日でいうところのテロ行為で捕まった政治犯であり、十字架刑はそうした人に対する処刑方法でした。イエスの時代、ユダヤはローマの植民地でした。ユダヤ人たちは侵略者であるローマと戦うために、ゲリラ的な強盗を繰り返しましたが、ローマ兵は彼らを捕まえては十字架に付けていたのです。

イエスは一切の武力攻撃や戦争を禁止したので、そういったゲリラ的抵抗運動を行う人たちとは明らかに異なる人でしたが、ローマ帝国に協力してユダヤの地を治めていたユダヤ人指導者たちを公然と非難・告発したので、ユダヤ人指導者たちから危険視され、ローマに危険人物として引き渡されて処刑されたのです。ユダヤ人指導者たちはイエスをローマに引き渡す時、その罪状としてイエスがユダヤの王と自称したこと、またユダヤ人がローマ皇帝に税金を納めることを禁止したことを上げました。イエスが自分を神だと名乗ったとか、そういう宗教的な罪ではありませんでした。むしろユダヤの地を治めるのはローマではなくユダヤの王である自分である、と主張したかどで訴えられた政治犯だったのです。それからイエスは十字架上で絶命し、ユダヤ人の支持者の手で埋葬されました。イエスは確かに死んだのです。しかし、葬られてから三日後に、不思議な出来事が起きました。それは、イエスを埋葬した墓が空っぽになるという出来事でした。その墓は、重たい石で封印されていましたので、万が一イエスが蘇生していたとしても、そんな石をどけて外に出て行くことは不可能でした。ともかくも、忽然とイエスの遺体はなくなってしまい、そのことでイエスを信じ、その死を悼んでいた多くの支持者はパニックになりました。しかも、それからも不思議な出来事が続きました。それは、イエスを信じ、従ってきた女性たちの中でもとりわけ熱心な支持者たちの何人かが、イエスを見た、イエスに会ったというのです。それも幽霊や幻覚ではなく、本物の生きているイエスを見たと言い張るのです。それを聞いた男性の弟子たちは半信半疑でした。この女性たちは、嘘を言っているようにも思えないけれど、しかし彼女たちの話すことはとても事実だとは信じられない、と思ったのです。男性の弟子たちもイエスの墓に行って見て、そこが空になっていることを発見しました。しかし、だからといって、イエスが生き返ったとも思えませんでした。むしろこの女性たちは、イエスを愛するあまり、彼が死んだという事実が受け入れられず、自らイエスの幻覚を造り上げてイエスに会ったと信じ込んでいるに違いない、とこのように考えたのです。まあ、普通に考えればこういう話になるでしょう。しかし、不思議な出来事はそれでは終わりませんでした。今度は他の弟子たちがイエスに出会ったというのです。その顛末が書かれているのが、今日の聖書箇所です。ではそれを読んで参りましょう。

2.本論

さて、よみがえったイエスに会ったのはこれまでは女性だけでしたが、次にイエスに出会ったのは別の二人の弟子でした。しかし彼らはペテロのような有名な十二弟子ではありませんでした。一人の人物の名はクレオパといいましたが、彼と一緒に歩いていたのが男性なのか女性なのか、それも分かりません。つまり、この二人はあまり人々から知られていない弟子たちだったということです。彼らはエルサレムから十キロほど離れたエマオという村に帰る途中でした。彼らはイエスと同じガリラヤ出身だったのではなく、ユダヤ地方の人たちでした。この二人は、イエスがガリラヤからエルサレムに上京し、それから彼が処刑されて埋葬されるまでの一週間足らずの出来事について論じあっていました。イエスは最初、伝説の王であるダビデの子、つまりイスラエルの王として歓呼の中をエルサレムに入城されたのですが、ユダヤ人の指導者たちと衝突し、また弟子の一人の裏切りに遭い、志半ばで処刑されてしまいました。この二人の弟子は、他の多くの民衆と同じく、イエスが世直しをしてくださる、腐ったユダヤの権力者たちを追い出して新しい時代を始めてくださる、そのように期待していましたが、イエスの死ですべての夢は終わったとがっかりしてエルサレムを後にしたのでした。

道すがら話し合っている彼らのところに、一人の人が合流してきました。実はこの人物こそ復活したイエスなのですが、この二人はその人がイエスだとは気が付きません。16節には「ふたりの目はさえぎられていて」とありますが、これを直訳すると二人の目は強い力に押さえつけられていた、というニュアンスになります。この人がイエスであると認識させないような強い力が働いていた、ということです。実はこの二人に限らず、他の弟子たち、しかも生前のイエスのことをとてもよく知る弟子たちも、初めに復活のイエスに出会った時には彼とは気が付かなかった、という現象が共通して起きています。マグダラのマリアや、イエスの十二弟子のリーダーであるペテロも、最初イエスに会った時にはイエスだと気が付かなかったのです。彼らはイエスの事を幽霊か何かだと思ったわけではありません。普通の生きている人間であると認識しながら、しかもそれがイエスだとは気が付かない、しかし時間の経過とともに気が付く、そのような不思議な現象が続いて起こったのです。

なぜ彼らは初めにそれがイエスだと気が付かなかったのか、というのは大変興味深いテーマであり、いろいろな説明が成り立つと思います。しかし、今日のエマオの途上での弟子たちに関しては、その理由ははっきりしているように思えます。それは、彼らのイエスについての理解が妨げられていた、イエスのことが理解できていなかったということで、それを比喩的な意味で「ふたりの目はさえぎられていて」と言っているのだと私は考えています。

先ほど申しましたように、二人の弟子がイエスを認識できないような強い力が働いていた、ということがテクストでは示唆されているのですが、ではその力はどこから来たものなのでしょうか?神から来た力でしょうか?神が弟子たちに力を及ぼして、彼らがイエスを認識できないようにしていたのでしょうか?おそらくそうではないと思います。神が弟子たちにイエスを認識させないようにする理由が見当たらないからです。むしろ、弟子たちに真実を悟らせないようにする悪い力が働いていた、という可能性の方が高いでしょう。すこし意味合いは違いますが、それに類したことを、イエスを宣べ伝えた使徒パウロが第二コリント書3章14節、15節で語っています。

しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

ここでは、パウロはもちろん復活のイエスのことを人々が認識できない問題について語っているのではありません。パウロは、ユダヤ人たちがモーセの書、つまり旧約聖書を読んでもその意味を理解できていない、そこにイエスについて書かれていることに気が付かない、そういう問題を抱えていることを指摘したのです。パウロはそのことを、「彼らの心におおいが掛かっている」と表現しています。しかも4章4節では、そのおおいを掛けているのは「この世の神」、聖書で悪魔とかサタンとか呼ばれる霊的な力が彼らの心の目に目隠しをしているのだ、と語ります。

そして、実はこのエマオの途上でイエスに出会った二人の弟子たちも同じ問題を抱えていました。彼らはイエスが旧約聖書に預言されている待望の救世主、メシアではないかと期待していました。けれども、彼らのメシア理解はイエスが示そうとしたメシア像とは大きく異なっていました。彼らがイエスに期待していたことと、イエスが実際にメシアとしてなさろうとしていたこととの間には大きなずれがあったのです。そのことは、これまでのマルコ福音書の学びで何度も見てきたことです。イエスが示すリーダーとしての在り方、王としての在り方と、弟子たちが夢見る権力者像との間には絶望的なほどの溝がありました。彼らはイエスの示す「仕える王」、人のために自分の命すら与える王、という王の在り方が理解できませんでした。王というのは人々を使い、敵を武力で打ち倒す存在だという古い考えに縛られていたのです。そして、その溝はイエスが十字架上で死んだ後も埋められてはいませんでした。弟子たちが復活後のイエスに出会っても、イエスとは気が付かなかったという記述には、その溝があったということを言わば暗示的に、象徴的に示しているのではないか、と私は考えています。これは私なりの解釈・理解ですのでこれが正解というようなものではありませんが、しかしイエスの復活後に弟子たちがイエスに気が付かなかったという記述は、弟子たちのイメージしていたメシア像にイエスが当てはまらなかったので、イエスが彼らの待ち望んでいた人物だということを彼らが理解できなかったことを暗示しているように思われるのです。

では、弟子たちの誤ったメシア像、救世主像はどこから生まれてきたのでしょうか?それは、彼らにとっての聖なる書、旧約聖書から来ていました。エマオの途上で二人の弟子たちと会ったイエスは、「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに解き明かされた」とあります。これは、弟子たちのこれまでの旧約聖書の読み方を修正し、新しい視点で聖書を読み直すように促したということです。二人の弟子たちは、来るべき救世主は「イスラエルを贖ってくださるはずだ」と考え、その期待をイエスに重ね合わせていました。では、イスラエルを贖うとはどういう意味なのでしょうか?それは、神が今までユダヤ人をいじめたり搾取したりしてきた他の民族、外国の勢力に対して報復し、それらの国々を滅ぼすということです。それらの外国勢力の支配からイスラエルを解放すること、それが「贖い」です。実際、旧約聖書にはそのような未来を期待させる預言がたくさんあります。いくつかの代表的な箇所を読んでみましょう。ヨエル書3章18節から21節までをお読みします。

その日、山々には甘いぶどう酒がしたたり、丘々には乳が流れ、ユダのすべての谷川には水が流れ、主の宮から泉がわきいで、シティムの渓流を潤す。エジプトは荒れ果てた地となり、エドムは荒れ果てた荒野となる。彼らのユダの人々への暴虐のためだ。彼らが彼らの地で、罪のない血を流したためだ。だが、ユダは永遠に人の住む所となり、エルサレムは代々にわたって人の住む所となる。わたしは彼らの血の復讐をし、罰しないではおかない。主はシオンに住む。

ここでは、ユダヤ人たちの敵であったエジプトや、隣国エドムが荒廃し、他方でエルサレムは栄えるということが語られています。神はユダヤ人の敵に対して立ち上がり、彼らに復讐をするというのです。ヨエル書にはこのような諸外国への裁きの預言がたくさん書かれています。ヨエル書だけではありません。当時最も人気のあった預言書であるイザヤ書にも、同じような預言を見出だすことができます。イザヤ書61章4節から6節までをお読みします。

彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。他国人は、あなたがたの羊の群れを飼うようになり、外国人が、あなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる。しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。あなたがたは国々の富を食い尽くし、その富を誇る。

この最後の「あなたがたは国々の富を食い尽くし、その富を誇る」という記述は、世界中を植民地化して彼らの富を収奪してきたヨーロッパの帝国主義時代を連想させますが、イエスの時代のユダヤ人たちは支配者としてではなく、被支配者としてこれまで500年以上も様々な諸外国に収奪されてきたのです。そのユダヤ人たちが、いつか異邦人に復讐したいと思ったとしても不思議ではありません。実際、これらの旧約聖書の預言はまさにユダヤ人にそのような希望を抱かせたのです。イエスが救世主ではないかと期待していた人たちは、イエスがこうした預言を実現してくれる、自分たちを支配する外国勢力、特にローマ帝国を蹴散らし、イスラエルに世界中の富が集まるような未曽有の繁栄をもたらすことを期待していたのです。これは、常に強大な帝国に支配され続けてきた小国の人々が抱きがちな夢であり、そのことを非難できるような立派な国民はどこにもいないでしょう。外国から搾取されたことの恨みがどれほど深いかということは、日本人がアジアの人たちから今でも受け続けている厳しい視線からも明らかです。日本自体も、今でもアメリカの半分植民地のようなものだ、という声をよく聞きますが、しかしアメリカの支配は巧妙で、私たち日本人にそれとは気づかせないようになっていますので、露骨な植民地支配によって何百年も苦しんできた人たちの気持ちがなかなか分からないということがあるのかもしれません。ともかくも、ユダヤ人の外国人への敵意は非常に強く、イエスの時代の多くのユダヤ人は、来るべき救世主がローマ帝国を倒してくれることを期待していたのです。しかし、その期待を一身に集めたイエスは、そのローマ帝国の手によって無残に殺されてしまいました。それを見たユダヤ人たちは、「彼も私たちの待ち望んだ救世主ではなかったのだ」という結論を下したのでした。

しかしイエスは、そのような人々の期待とは全く異なるメシア像を提示しました。それはユダヤ人が外国人を支配する未来ではなく、ユダヤ人が外国人に祝福をもたらす、平和をもたらす、そういう未来でした。その救世主は、武器を手にして敵を滅ぼすよりも、むしろ武器を捨てて、甘んじて敗北すら受け止める、敵を殺すよりも敵を愛する、そのようなメシアでした。実際、そのようなメシア像も旧約聖書の中に確かに見出だすことができるのです。エマオの途上で二人の弟子に出会ったイエスは、旧約聖書をじっくりと紐解き、そのような救世主の姿を彼らに示しました。神はイスラエルの祖先であるアブラハムに、あなたの子孫は世界中の国々の人々に祝福をもたらすだろう、と預言しました。預言者ゼカリヤは、弓をへし折り、戦車を廃棄し、戦争ではなく平和をもたらすメシア像を示しました。預言者イザヤは、あらゆる民族の人々が唯一の神を礼拝するというヴィジョンを示しました。それだけでなく、人々の罪のもたらす悪を一身に引き受け、その痛みによって人々を癒す存在、そのような不思議な救世主の姿を預言しています。その人物について、イザヤはこう預言しました。イザヤ書55章4節から5節をお読みします。

見よ。わたしは彼を諸国の民への証人とし、諸国の民の君主とし、司令官とした。見よ。あなたの知らない国民をあなたが呼び寄せると、あなたを知らなかった国民が、あなたのところに走って来る。これは、あなたの神、主のため、また、あなたを輝かせたイスラエルの聖なる方のためである。

エマオの途上で、イエスは一つ一つこうした預言を引用し、その意味を解き明かしていきました。すると、段々と二人の弟子たちも帝国主義の皇帝のようなメシア像ではなく、むしろ喜んで人々に仕え、また敵のためにすら命を捨てる、そのようなメシア像へと導かれていきました。そうするうちに、段々と二人の弟子たちはイエスの生涯の意味、そしてその十字架の意味についての新しい認識へと導かれていきました。あの十字架の死は、忌まわしい敗北ではなく、むしろ敵をさえ愛するというイエスの王としての在り方を世界に示した、真の意味での勝利だったのだと。そして、その勝利を祝う神が今やイエスを死者の中からよみがえらせたのだと。まさに彼らの目から鱗が取れて、イエスのことが本当に理解できるようになったのです。そして一緒に夕食を取っていた見知らぬ同伴者が、イエスが最後の晩餐でなさったようにパンを裂いた時、彼らの目の鱗は完全に取り去られ、ありのままにイエスを見ることができるようになりました。そのとき彼らは、目の前にいる人がイエスだということに気が付きました。それだけでなく、彼らが長年待ち望んだ、聖書に預言された救世主がまさにイエスであるということに気が付きました。すると、不思議なことにイエスはその場からいなくなってしまいました。まるで目的は達成されたというように。これが、エマオの途上で起こった不思議な出会いの顛末でした。

3.結論

まとめになります。今日は、イエスの墓が空になったという事実に動揺し、途方に暮れていた弟子たちの前によみがえられた主が現れた場面を学びました。主が彼らの前に現れた理由は明らかでした。それは彼らの固く閉ざされた目を開くためでした。彼らにとって、イエスの十字架は悲劇でしかありませんでした。ローマを倒すべく世に遣わされた救世主がそのローマの手によって殺されたのですから、その死は失敗、敗北、悲劇でしかなかったのです。しかし、復活のイエスは彼らに聖書を通じて新たなメシア像を提示しました。それは、諸外国に復讐するためにユダヤ人たちを戦に駆り立てるようなメシアではなく、むしろ勇気を持って武器を捨て、その結果としての死すら受け入れるようなメシアの姿でした。二人の弟子たちにとっては、そのようなメシア像はあまりにも異質なものでしたが、イエスの生涯を目撃し、そしてイエス自身からその意味を聖書を通じて教えられた弟子たちは、その新しいメシア像を理解し、受け入れていきました。彼らがイエスをついに認識した、というのはそのことを示しています。

私たちも、主イエスがメシアであるということの意味を本当に理解しているか、改めて問い直したいと思います。私たちの主は、私たちに正義のためなら、自由と民主主義のためなら、武器を取ってどこまでも戦うべきだと命じるようなお方ではありません。もし私たちがそのように考えているとしたら、エマオの途上でイエスに出会う前の二人の弟子たちのように、私たちの目も固く閉ざされたままなのでしょう。私たちはこの幸いなイースターにおいて、復活の主は平和の主、武器を取らない主であるということを改めて思い、平和のために働くという思いを新たにしたいと願うものです。お祈りします。

平和の主、復活の主を讃美します。またその主を死者の中からよみがえらせてくださった主を讃美します。どうかこの素晴らしいイースターのメッセージが世界中の人々に届きますように。そして、私たちが改めて平和のために働くことができるように、私たちを強めてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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あなたは誰を隣人としますか?ルカ福音書10章25~37節 https://domei-nakahara.com/2022/02/20/%e3%81%82%e3%81%aa%e3%81%9f%e3%81%af%e8%aa%b0%e3%82%92%e9%9a%a3%e4%ba%ba%e3%81%a8%e3%81%97%e3%81%be%e3%81%99%e3%81%8b%ef%bc%9f%e3%83%ab%e3%82%ab%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b810%e7%ab%a025%ef%bd%9e37/ Sun, 20 Feb 2022 05:15:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=2556 "あなたは誰を隣人としますか?
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1.導入

みなさま、おはようございます。今日は午後から教会総会がありますので、いつものパウロの第二コリント書簡からの講解説教をお休みして、福音書からメッセージをさせていただきます。今年の元日礼拝でも福音書からメッセージをしましたが、その理由は聖書全体の中でも四つの福音書は特別な重要性を持っているからです。使徒パウロは新約聖書の約半分の文書を書いた大変重要な人物で、彼の書簡からは教会について大切なことをたくさん学べます。しかしあえて言うならば、パウロ書簡を含めて考えても、聖書全体の中で最も大切なのはイエスの生涯について語る福音書であるのは間違いないことです。私たちの信仰は、常にイエスを見上げ、イエスに倣うことで形成されていきます。ですからこれからも特別な機会には福音書に帰り、福音書からメッセージをしていきます。

さて、いうまでもないことですが、福音書は一つだけでなく四つあります。その四つの内のマルコ、マタイ、ルカ福音書はお互いによく似ているので共観福音書と呼ばれます。しかし、よく似てはいますが、良く調べるとそれぞれに特徴があり、イエス様の描き方にも違いがあります。ルカ福音書の描くイエス像は、とりわけそのやさしさ、憐み深さが強調されています。イエス様のたとえ話の中でも最も有名なものは「良きサマリヤ人」と「放蕩息子の話」ですが、この二つはルカ福音書にのみ収録されています。これは注目すべきことです。この二つの譬えは、見捨てられた人、失われた人に対する神の強い愛を私たちに教えてくれますが、これはルカ福音書全体が大変強調している点でもあります。失われた人の救いという意味では、あのザアカイさんの話もルカ福音書にだけ収録されています。今日は、このように非常にルカ福音書らしい話である「良きサマリヤ人」の話をみなさんとじっくり読んでいきたいと思います。

この「良きサマリヤ人」、この話は一度聞いたら忘れないようなインパクトを持っています。それはこのサマリヤ人の行動が、普通の人にはとてもまねのできない、人類愛の理想のような行動であるように思えるからでしょう。それに引き替え、半殺しにあった人を見て見ぬふりをする祭司とレビ人のなんと冷たいことか、宗教家のくせに、人助けをしないとは、なんて人たちだ、と義憤さえ感じることもあるでしょう。このたとえ話が強烈なインパクトをもっているのは、宗教人である祭司たちと一般人の良きサマリヤ人の行動があまりにも対照的であるからでしょう。しかし、祭司とレビ人は偽善者の宗教家、ユダヤ教の悪い見本で、良きサマリヤ人は愛に溢れる素晴らしいクリスチャンの模範だ、というような読み方はかなり的を外しているのです。この話の時代背景や、旧約聖書の教えをよくよく考えると、祭司やレビ人は間違ったことをしていた、とは必ずしも言えないのです。こういうと驚かれるかもしれませんが、聖書的には祭司たちは正しい行動を取ったとすら言えるのです。ですから、祭司たちを悪者のように見るべきではありません。むしろ注目すべきは、隣国のユダヤ人とは不倶戴天の敵であったサマリヤ人の行動です。私たちの例でいえば、今隣国同士の日韓関係は悪化していますが、当時のユダヤ人とサマリヤ人の仲の悪さ、険悪さはその比ではありません。しかしそのサマリヤ人は、敵であるはずのユダヤ人を隣人にした、友人にした、そこにこのたとえ話のポイントがあります。この良きサマリヤ人のたとえで問われているのは、「あなたの隣人とは誰なのか」、もっと言えば「あなたは誰を自分の隣人として選ぶのか」ということなのです。

2.本文

では、さっそく今日のみことばを詳しく見ていきましょう。イエスと律法学者の間で交わされた会話で問題となったのは二つの問いです。一つは、「何をすれば永遠のいのちを得ることが出来るのか?」、二つ目は、「私の隣人とはいったい誰のことか?」です。ここで大事なことは、第一の問いについてはイエスと律法学者の意見は一致していたということです。むしろ、問題となったのは、「隣人」の定義なのです。誰が隣人なのか、律法学者はこの点についてはイエス様には落ち度がある、責められるべきことがあると思ってイエス様に論争を挑んできたのです。そしてイエスは彼の疑問に答えるために「良きサマリヤ人」のたとえを語りだしたのです。

繰り返しますが、第一の問い、「何をすれば永遠のいのちを得られるのか」については、イエスと律法学者の間には意見の相違はありません。この会話は、律法学者の「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるのでしょうか」という問いから始まります。この同じ問いを、どこか別のところで聞いたことがある、と思われないでしょうか?そうです、あの富める青年との会話です。ルカ福音書のもう少し後の方、18章の18節で、この律法学者とは別人物の、富める青年が全く同じ質問をイエスに問うています。そこをお読みします。

またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるのでしょうか。」

この富める青年は、非常にまじめな意図でイエスに質問をしました。律法学者の場合はイエスを試そうという狙いがありましたが、この若い青年は真剣に純粋な思いからイエス様に救いの道を尋ねたのでした。

ここで忘れてはならないのは、どちらの人も「永遠のいのちを受けるためには何をすればよいのでしょうか?」と尋ねたことです。「何を信じれば」ではなく、「何をすれば」と尋ねました。それに対しイエス様は、「何をすれば救われるか、というのは質問自体が間違っています。なぜなら人は行いではなく、信じるだけで救われるからです」とは決しておっしゃらなかったのです。むしろどちらの場合でも、律法に書いてあることを行いなさい、そうすれば永遠のいのちを得ます、とはっきりと語られました。この点で、いわゆるパウロ神学の「律法の行いではなく、信仰で救われる」という教えに慣れている人は違和感を覚えるかもしれません。行いがなくても、ただ信じるだけでいいのだ、それが信仰義認だ、というように理解されている方は、このイエス様の言葉につまずいてしまう、ということをしばしば耳にします。

パウロの信仰義認の教えの真意について話し出すと、今日の説教のポイントから逸脱するので今日は詳しく話すのは控えますが、一つだけ確認したいのは、イエス様の教えのどこをとっても、「救いのために行いは不要だ。信じるだけでいいのだ」とおっしゃっている箇所はないということです。行いは重要なのです。信じることとその行動が一致すること、「知行一致(ちこういっち)」という言葉がありますが、主イエスの教えはその点では一貫しています。イエスは「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」(マタイ7章21節)と言われましたが、信仰と行動が一致すること、行いを生み出すような信仰を持つこと、それが永遠のいのちへの道だというのがイエスの教えなのです。俗に言われる「信じるだけ、行いはいらない」というのは本物の信仰ではないということです。今日の箇所でも、イエスははっきりとこう言われました。

イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

このように、モーセの律法の要約である二つの教え、神を愛することと隣人を愛すること、その二つを「実行しなさい」、それがいのちに至る道である、と教えているのです。これがイエス様の教えなのです。

さて、このように「どうすれば永遠のいのちを得られるのか」という点について律法学者もイエス様の教えに全く異論はなかったのです。神を愛し、隣人を愛する、この二つを実行することが、永遠のいのちへの道です。律法学者がイエス様に問いただしたかったのは、「誰が私の隣人か」という点でした。御存じのように、イエス様は当時の人々から「罪人」だと思われるような人たちとばかり付き合っていました。今の教会で言えば、牧師が売春婦や前科者ばかりを呼んできて、教会がそういう人たちでいっぱいになってしまうというような状況です。教会にいる敬虔な信者さんは「牧師先生、こんなに世間から白い目で見られている人ばかりを教会に連れてこられても困ります。教会の評判が落ちてしまうではないですか」と苦情を言うかもしれません。この常識人である律法学者もイエス様に同じような思いを抱いていました。神の民であるユダヤ人の中でも、売春婦や、ローマ帝国の手先となって働く売国奴の徴税人、こんな連中とばかり親しく付き合うイエス様はイスラエルの清さ、聖性を損なう危険な行動をしていると見ていたのです。そこで、この点では自分の方が正しいと主張しようと、

「では、わたしの隣人とはだれですか。」

と、律法学者はイエス様に問うのです。わたしにもあなたのように、売春婦や取税人ばかりと付き合え、彼らと隣人として親しく付き合いなさいというのですか、と。

そこでイエスは「良きサマリヤ人」のたとえを話し始めるのです。それは、「あなたの隣人とはいったい誰なのか」ということを律法学者に示すためでした。ここでまず強調したいのは、祭司やレビ人を冷血漢として見るべきではない、ということです。たとえばこう考えて下さい。みなさんは日曜日に、礼拝が始まるのを心を静めて待っています。ところが、礼拝時間の10時半になっているのに、牧師がいつまでたっても礼拝堂に現われないのです。そうして1時間が経ち、結局礼拝できずにお昼になってしまいました。皆さん途方に暮れてしまいました。実は牧師は、道端に倒れている人がいたのでその人を看病しようと、その人に付き添って救急病院に行っていたのでした。教会の皆さんも後でそのことを聞いて、「そういうことなら仕方がない」と納得しました。しかし、そういうことが、一度ならず何度もあったらどうでしょうか。受け入れがたいのではないでしょうか。もちろん、このような人助けの行動自体は賞賛されるべきものですが、しかし何度も礼拝に穴をあけるのは、それはそれで大問題ですよね。私自身がその場に居合わせたとしても、よほどのことがないかぎり礼拝を優先してしまうのではないかと思います。周りに誰かがいれば、その人に人助けをお願いして、ともかく礼拝を守ろうと、そういう行動を選択してしまう可能性の方が高いというのが正直なところです。

そして、この「良きサマリヤ人」のたとえに登場する祭司やレビ人も、実は同じようなジレンマに陥っていたのです。もちろん彼らも困った同胞のユダヤ人を何とか助けてやりたい。聖書にそう書いてあるし、自分たちはいつもそのように教えてきました。しかし、もしこの半殺しに遭った人がもう死んでしまっていたら、その人に触れただけで祭司は汚れた存在となってしまいます。それが聖書の教えだからです。レビ記に次のような教えがあります。

どんな死体のところにも、行ってはならない。自分の父のためにも母のためにも、自分の身を汚してはならない。聖所から出て行って、神の聖所を汚してはならない。(レビ記21:11-12)

このように、たとえ親族の死体でも触れた場合には汚れてしまい、神殿での奉仕が出来なくなってしまうのです。死体に触れてしまった祭司やレビ人は、神殿に入ってはいけなくなります。そうして神殿で祭司の到着を待っている礼拝者たちは、待ちぼうけとなってしまうのです。彼らが勝手に神殿での祭儀を行うことは出来ないからです。このように、祭司たるもの、清さを保って汚れを避けるために死体に触れることはご法度だったのです。ですから、死にかけている人を見た祭司も、気の毒に思いつつも自らの神様へのお務めを果たすために、やむなく彼を避けて通ったのです。レビ人もそうです。彼は祭司ではありませんが、神殿で祭司を助ける仕事をしていましたので、今でいえば神学生のような立場です。彼も道端で倒れた人が気の毒でしたが、しかし、祭司様も礼拝者の方々も神殿で待っているので、そこで死人に触って身を汚すわけにはいかなかったのです。道端で倒れていたユダヤ人にはまことに気の毒ですが、しかし祭司もレビ人も自分の神様のための務めを真剣に考えていればいるほど、その人を助けるわけにはいかなかったのです。

朦朧とした状態で祭司やレビ人が通り過ぎているのを見ていたユダヤ人が次に目にしたのは、なんとサマリヤ人でした。その瞬間、このユダヤ人は絶望しました。というのも、紀元前2世紀ごろにユダヤにはハスモン王朝という強力な王家がありましたが、このハスモン家はサマリヤ人に本当にひどいことをしました。紀元前100年ごろ、ユダヤ人はサマリヤという都市に急流を流し込み、町ごと水没させて消滅させようとしました。まさに大虐殺です。ハスモン王朝はサマリヤ人にとって最も大切な神殿を破壊することもしました。イエス様が活躍したのは、このような悲惨な記憶が鮮明だった時代です。半殺しの目に遭っていたユダヤ人は、サマリヤ人を見て、「ああ、俺はもうだめだ。あいつに復讐される」と覚悟を決めたことでしょう。つまり、当時のユダヤ人にとってのサマリヤ人は、隣人どころか敵でした。歴史的にユダヤ人に虐げられてきたサマリヤ人には、復讐するための十分な動機があったのです。

しかし、驚いたことに、このサマリヤ人はそのユダヤ人に復讐したり、見殺しにすることなく、それどころか、親身になって介抱してくれて、宿屋に連れて行って寝かせてくれました。しかも宿屋の主人にお金を託して、もっと費用がかかれば帰りがけにお金を払う、と約束して立ち去っていきました。

この出来事は、この半殺しに遭った不幸なユダヤ人にとっては衝撃でした。自分が万事休す、という状況に陥り、自分を助けてくれると思った同胞の人々、今の日本でいえば僧侶や神父様は自分を見捨てていったのに、かつて日本が侵略して虐殺を働いたと噂される見ず知らずのアジアの人が自分を助けてくれたのです。どう考えても自分を助けるはずがないと思った敵国人が、驚くべき親切さと愛情を示してくれたのです。こんな体験をすれば、いくら彼が以前にはサマリヤ人に偏見や嫌悪感を抱いていたとしても、このサマリヤ人への見方を根本から改めさせられたでしょう。今まで隣国でありながらも敵だとしか見ていなかった人を、本物の隣人、いや友人として認識するようになったでしょう。それはこのサマリヤ人が、これまでの過去のいきさつや民族的な恨みを超えて、この見ず知らずの惨めなユダヤ人の隣人になると決めたからです。彼も親兄弟から、ユダヤ人の過去の悪逆非道な行動を聞かされていて、ユダヤ人が大嫌いだったかもしれません。口もききたくないと思っていたかもしれません。しかし、そのような思いがあっても、今目の前にいる人の苦境を救いたいという気持ちが止められなかったのです。どんなに憎くても、今目の前にいる人の苦しみを見過ごせなかったのです。そこでこのサマリヤ人は、このユダヤ人の隣人になることを決めました。憎しみを乗り越えて、彼を助けるという行動を選んだのです。そしてこのサマリヤ人は、新たに隣人を得たのです。今まで敵同士だと思っていたユダヤ人とサマリヤ人は、こうして互いに隣人になったのです。今までユダヤ人にとっての隣人にはサマリヤ人は含まれませんでした。逆もまた真です。しかし、このサマリヤ人の行動は、そのような民族の壁を打ち破りました。そしてイエスは、また神は、私たちがそのような行動を選ぶことを望んでおられるのです。

イエスは律法学者にこのことを伝えたかったのです。「あなたは、わたしが罪人とばかり付き合うことを不審に思ったかもしれない。こんな人たちと隣人となる必要があるのか、と私の行動を批判的に見ていることも知っています。しかし、彼らは病人なのです。彼らは助けを求めているのです。私は彼らを助けたいし、それだけではなく彼らの隣人になりたいのだ。彼らも私も隣人となってくれるでしょう。あなたにも、そうなってもらいたい。壁を壊し、敵ですら隣人とするような行動を選び取ってもらいたい。誰を自分の隣人とするのか、それはあなたの選択にかかっています。あなたが隣人とは思わないような人たちも、あなたの隣人になり得るのです。あなたもこのサマリヤ人のように行動しなさい。霊的に死にかけている人たちのところに行って、彼らの隣人になりなさい。彼らもあなたの隣人になってくれるでしょう。」イエスはこのように言いたかったのです。

3.結論

このように、「良きサマリヤ人」のたとえでイエス様が本当に伝えようとしたことは、隣人についての狭い考えを捨てなさい、ということでした。この律法学者は立派な人だったのですが、自分と同じように立派な人としか付き合いませんでした。自分が聖なる民、神に選ばれた民であることを誇りにし、それに相応しい人とだけ付き合おうとしました。彼にとっての隣人とは、このように非常に限られた人たちだけでした。しかし、イエス様はそのような彼の固定概念を揺さぶります。あなたの隣人とは、本当にそれだけに限定されてしまうのだろうかと。あなたは本当は、「罪人」と軽蔑する人たちと隣人になれるのではないか、と。

私たちクリスチャンにも同じような傾向があるかも知れません。自分たちは神から選ばれて愛されている者なので、悪い人とは付き合ってはいけない、と思うかもしれません。しかし、イエスの愛を本当に求めているのはそういう「悪い人たち」なのではないでしょうか。「あなたも行って同じようにしなさい」というイエスのお言葉は、私たちにも与えられているのです。また、私たちも良きサマリヤ人のように、敵だと思われている民族の人たちへも助けの手を差し伸べることが出来るのではないでしょうか。残念ながら日本は隣国との関係が良くありませんが、お互いにこのサマリヤ人のように行動すれば、この状況を変えられるのではないでしょうか。イエス様は永遠のいのちへ至る道として、「隣人を愛する」という教えを実践しなさい、と言われました。そして、隣人とは自分の周りにいる、似たような人たち、気の合う人たちのことだけではなく、自分から積極的に作るものだ、敵すらも隣人に変えることが出来るのだと教えてくださいました。私たちも、そのように実行していきましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様。その御名を讃美します。教会総会の日に、今日は主イエスの教えに耳を傾けました。どうか聞くだけでなく、それを実行する者となることができるように、私たちを強めてください。主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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失われた人を求めてルカ福音書19章1~10節 https://domei-nakahara.com/2022/01/02/%e5%a4%b1%e3%82%8f%e3%82%8c%e3%81%9f%e4%ba%ba%e3%82%92%e6%b1%82%e3%82%81%e3%81%a6%e3%83%ab%e3%82%ab%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b819%e7%ab%a01%ef%bd%9e10%e7%af%80/ Sun, 02 Jan 2022 04:33:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=2392 "失われた人を求めて
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1.導入

みなさま、新年おめでとうございます。私は昨年からずっと、パウロの手紙である第一、第二コリント書簡の連続説教をしてきました。しかし今日は今年最初の礼拝メッセージということで、パウロの自叙伝的色合いの濃い第二コリント書簡をいったんお休みし、新年にふさわしい箇所からメッセージをさせていただきたいと考えました。そこで今日は、ルカ福音書を通じて改めて主イエスの福音宣教について考えてまいりたいと思います。

今日の箇所は大変有名な箇所で、教会に長らく通っている方なら何度も読んだり聞いたりした箇所だと思います。ザアカイという人は、とても印象的な、インパクトの強い人なので、この話を一度聞いたらおそらく忘れることができない、そういう人物です。今日は、このザアカイさんだけでなく、その前に出て来る盲人の物乞い、マルコ福音書によればその物乞いの名はバルテマイですが、バルテマイとザアカイという対照的な二人、さらにはその前のルカ18章に登場する金持ちの青年、これらの人物たちを対比しながら、主イエスの伝道の目的を考えていきたいと思います。

2.本文

さて、今日の箇所は、イエスのガリラヤからの旅がいよいよ終わろうとし、イエスが最後の一週間を過ごすためにエルサレムに入城する、その直前の頃の出来事です。イエスはエルサレムに入る前に、エリコという有名な町を訪れました。エリコは、旧約聖書によればモーセの後継者であるヨシュアによって征服された都市ですが、イエスの時代には非常に裕福な都市として知られていました。冬の間も温暖であるために、ユダヤ人の裕福な人たちはここにセカンドハウスを持っていました。つまりお金持ちの別荘地だったのです。このエリコで、イエスは二人の人物と出会っています。それがエリコの城外で物乞いをしていた盲目のバルテマイと、エリコの街中で出会った取税人のかしらだったザアカイです。この二人は全く対照的な人物だと思われるでしょうが、当時のユダヤ人から見ればある共通点を持った二人でした。それは何かといえば、彼らは神から捨てられた人、救われることはないだろうと思われていた人だということでした。当時のユダヤ人は、目が見えない人に対してある種の偏見を持っていました。それは、先週もお話ししましたが、ヨハネ福音書の記事から明らかです。ヨハネ福音書9章1-2節をお読みします。

またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」

イエスの弟子たちは、目が見えない人は何か罪を犯したので、その罰としてそのような状態になってしまったのだ、というような偏見を抱いていました。ですから、このエリコで乞食をしていたバルテマイも、神から捨てられた人という目で人々から見られていたというのも想像に難くありません。

他方でザアカイですが、彼は大変なお金持ちでした。当時のユダヤ人は、お金持ちであることは神様から祝福されている証拠だと思われていたのですが、しかしお金持ちなら何でもよいというわけではありません。不正な手段でお金持ちになったとみられるような人は当然人々から軽蔑されていました。そして、この時代の不正な手段で金持ちになった人の典型が取税人でした。取税人とは税金を取り立てるのを仕事にしていた人たちのことです。彼らは民衆から非常に嫌われていましたが、それには二つの理由がありました。その理由の一つは、彼らがローマ帝国の代理人として働いていたということです。当時のユダヤは、ローマ帝国の植民地でした。支配者であるローマは人口調査をして、ユダヤ人一人一人から税を取り立てていたのですが、税の徴収を直接せずに、ユダヤ人を雇って税金を取り立てさせたのです。ユダヤ人は、自分たちの王は神だけなので、本当ならばローマ人に税など収める必要はないと信じていました。税金は、神様にお献げする神殿税だけで十分だと思っていたのです。しかも、ローマ人たちはイスラエルの神に十分な敬意を払わず、ユダヤ人から見れば神を冒瀆するような行動を平気で行いました。ですからユダヤ人たちは、神はキリストと呼ばれる救世主を遣わしてこのにっくきローマ人たちをユダヤの地から追い払ってくれる、その時にはローマに協力していた取税人たちもローマともども滅ぼされると信じていたのです。

取税人たちがユダヤ人から嫌われている理由はもう一つありました。それは、取税人の全てとは言いませんが、その多くが不正を働いていたためでした。当時のローマからの税の取り立ては、大体収穫の2割ほどだったと思われますが、取税人たちは民衆から3割、多い時は4割を取り立てました。そしてローマの税の差額の1割や2割は自分のポッケに入れてしまっていたのです。ローマ帝国側もそういう取税人の行為は役得として多めに見ていました。民衆の側は、そういう事情を知っていたので、同じユダヤ人でありながら不正な手段で自分たちから財産を奪う泥棒のような存在として取税人を見ていたのです。

そしてここに登場するザアカイさんは、後で自ら告白するように、不正に手を染めて巨万の富を築いたような人でした。民衆は、彼のような人物は神から見捨てられている、死んだら地獄に行くに違いないと信じていました。

このように、盲目の物乞いのバルテマイと金持ちのザアカイは、全然違う理由からですが、いずれも神から見捨てられた人だと思われていたのです。その失われた人々に、イエスは自ら進んで近づいていかれたのです。

ではザアカイさんとイエスの出会いを見てみましょう。今日の話はイエスがエリコに入ったところから始まります。もうそのころには、イエスがエリコの外側でバルテマイという物乞いの盲目を癒したといううわさでもちきりだったでしょう。マルコ福音書によれば、目を癒されたバルテマイはそのままイエスに従っていき、イエスの弟子になりました。ですからエリコに入ったイエスの傍らには、バルテマイが奇跡の生き証人としていたのです。その噂を聞いたザアカイも、そのイエスという人物に非常に強い関心を持ちました。しかし人だかりができていてイエスに近づくどころか、見ることすらできません。そこでザアカイは、木に登ってそこからイエスを見ようとしました。ザアカイはいちじく桑の木に登りましたが、いちじく桑は葉っぱが大きいので、ザアカイはその陰に隠れて、人から見つからないようにしてイエスをこっそり見ていたのでしょう。実際、ザアカイは人々に見つけられたくなかったのです。ザアカイは金持ちでエリコでは有名でしたが、人々からはひどく嫌われていたからです。とても人々の目の前で、堂々とイエスの前に進み出ることなどできませんでした。ルカ福音書18章に出て来る金持ちの青年のように、「先生。永遠の命を得るにはどうしたらよいのでしょう。私は子どもの頃から神の戒めを守ってきたのですが」と真正面からは、とてもイエスに話しかけることは出来ないと思っていました。そんなことをすれば、人々から、「イエス様。こいつはあくどい取り立てで私たち貧しい民衆を虐げて、肥え太っています。こいつは神様から見捨てられた人です。こんな人と話す必要はありませんよ」と非難ごうごうとなることがよく分かっていたのです。

ザアカイがどんな経緯から取税人となったのか、その経緯は分かりませんが、彼も、はじめから好きで取税人になったのではないだろうということは言えるでしょう。取税人は人気のない職業でしたから、自分から進んでこのような仕事に就きたいと思う人はおそらくいなかったでしょう。ザアカイも重い税金に苦しんで生活に困り、貧しい家族を助けようと、ローマの犬となるのかと蔑まれながらも、生きていくためには仕方がないとローマの徴税人の仕事を始めたのかもしれません。しかし、そんな自分を冷たい目で見る人々に対してだんだんと敵意を持つようになり、どうせ嫌われているんだからと、彼らからさらに厳しい税の取り立てをして、そうして金持ちになっていったのでしょう。そうやって金持ちになっても、人々は自分のことを尊敬してはくれずに、むしろ孤独になっていったのでした。そんなザアカイでしたので、今や民衆の尊敬と期待を一心に集めるイエスに話しかけようなどとは夢にも思いませんでした。

しかし、そのようにして隠れるようにイエスの様子をうかがっていたザアカイをイエス様は見つけ出し、なんと彼の方から声を掛けたのです。そして言われました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい」というのです。「急いで」と、強調してまで降りて来るように言ったイエスの言葉に、民衆は驚いたことでしょう。そして、イエスはザアカイのことを叱責するどころか、なんと彼の家に泊まるとまで言い出したのです。民衆は訳の分からない展開にびっくり仰天だったでしょう。なんであんな奴のところに!イエス様、あの男は神に呪われた男ですよ、彼の財産は汚れた金です、そんな奴からぜいたくな食事を振舞われて、いったい何のつもりですか、と人々は考えたことでしょう。

しかし、一番驚いたのは当のザアカイだったことでしょう。まさか自分みたいな悪人に、こんな立派な先生が口をきいてくれるとは思っていなかったのに、向こうの方から自分を見つけてくれて、しかもまるで友であるかのように自分の家に泊まってくれると言ってくれたからです。その様子をルカは、「ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた」と記しています。ザアカイは感動しました。この神の人は自分を軽蔑してはいない、自分の気持ちが分かってくれる人なんだ、見捨てられた自分を神様のところに導いてくれる人なんだと。ザアカイも、実は自分のことが嫌で仕方なかったのです。そして、そんな自分を理解して、救ってくれる人が現れるのを心の底では願っていました。ちょうどルカ18章のイエスのたとえ話に出て来る取税人のように。18章13節には自信満々のパリサイ派に対し、神に顔を向けることもできずにうなだれる、ある取税人の様子が描かれています。

ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人をあわれんでください。』

この名もなき取税人は、まさにザアカイその人だったのかもしれません。ザアカイは、自分は神に見捨てられた罪人なんだと自覚していました。それで、なおのことお金にこだわって、生きている間はせいぜい贅沢にくらしてやろう、みんなからうらやましがられるような生活をしてやろうと思ったのでしょう。しかし、イエスとの出会いはすべてを変えてしまいました。イエスを家に招いて、一晩中寝る間も惜しんでイエスと親しく語り合い、よく分かったのです。自分は神に見捨てられてなどいなかったのだと。今からでも自分は生き方を変えられるし、神様はそんな自分を喜んで迎え入れてくださるのだと。もしかすると、イエス様はエゼキエル書の次の一節を引用し、神の御心が何であるのかをザアカイに告げたのかもしれません。それはエゼキエル書18章21節から23節です。

しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行うなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。彼が犯したすべてのそむきの罪は覚えられることはなく、彼が行った正しいことのために、彼は生きる。わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。―神である主の御告げ―彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。

神は、たとえザアカイがこれまであくどいことをしてお金を儲けてきたとしても、そのような生き方の自業自得として滅んでしまうことを決して望んではおられないのです。むしろ、彼が悪を離れて神に立ち返るように、神の方から手を差し伸べてくださる、そのことをイエスとの出会いからはっきり分かるようになりました。イエスのまっすぐで、しかも自分の心の底にあるものをしっかりと受け止めてくれる視線を感じて、ああ、神様はこのイエス様のような方なのだ、そう気が付いたのです。それからのザアカイの行動は早かったのです。彼は即座に神に立ち返ることを決意しました。ザアカイは、イエス様から何か指示される前に、自ら進んでこう言いました。

主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。

ザアカイは取税人という職業そのものを捨てることはしませんでした。いくら民衆から卑しい仕事と思われていても、誰かがこの仕事をしなければならない、そう考えたのでしょう。しかし、その仕事に対する態度はこれまでとは全く違うものになりました。彼はもう、自分のお金儲けのためにその仕事をしようとは思いませんでした。むしろ、困った人たちを助けるためにこの仕事を続けようと考えたのです。彼は今までため込んだお金の半分を、税金もまともに払えずに、自分の田畑を得るかあるいは身売りするしかない人を助けるために使うことをイエスに宣言しました。しかも、残りの半分は自分のものだ、というのでもありませんでした。なぜなら今まで不正に取り立てた税を四倍にして返すともイエスに約束したからです。おそらくザアカイは何十年も不正に手を染めてきたので、この償いの額は大変な金額になったことだろうと思います。それを残りの半分の財産で賄おうというのです。ここまでやればほとんど財産は残らなかったでしょう。しかし、これを喜んで、自ら進んでやると言っているのです。

この彼の態度は、この前の18章に出て来る富める青年とは対照的でした。18章に出て来る青年は、ザアカイとは違って自信満々でした。彼はユダヤ人の指導者だとされていますので、おそらくシナゴーグと呼ばれる会堂、私たちの言葉で言えば教会の指導者でした。彼はイエスに、何をしたら永遠のいのちを得られるのかと尋ねました。そう尋ねた青年の心には、イエスがどんなことを求めてもそれを実行できるという自信がありました。彼は今まで律法をしっかり守ってきたし、イエスもそんな自分を褒めて、認めてくれるだろうと思ったのです。まさに、18章のイエスの譬えに登場するパリサイ人のようでした。しかし、イエスの言葉は彼の予想を裏切り、彼の自信を打ち砕くものでした。イエスは彼に、財産をすべて売り払って、貧しい人に分け与え、そのうえでバルテマイのように私に付いて来なさいと命じたのです。しかし、彼にとっては膨大な財産がつまずきとなってしまいました。イエスに従うよりも、現在の地位と財産を守ることを選んでしまったのです。イエスはこれを見て言われました。

金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。

この言葉を聞いてイエスの弟子たちは驚愕しました。あんなに神に祝福されている人、神の戒めを守り、大きな財産を持っている人でも救われないなら、いったい誰が救われるのか、と。しかしイエスは、大きな財産を持つ人でも救われることを、ザアカイさんを通じて示されたのです。全財産を売り払って誰かに与えるなどということは誰もできないと思っていたのに、なんとあの呪われたザアカイさんがそれを自発的に行ったのです。ザアカイさんは、富める青年とは正反対で、神の戒めを守らず、それでいて大金を稼ぐという、神よりも悪魔に魂を売ったような人でした。そんな人が救われるはずがないではないか、と多くの人が思いました。しかし、「人にはできないことが、神にはできるのです。」こんなザアカイさんを、神は、イエスは、まったく新しい人に変えて、全財産さえ売り払うことを躊躇しないような、そんな驚くべき人物に造り変えてしまったのです。イエスはそんなザアカイさんを見て、喜びの声を上げました。

きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。

滅んで当然の人などいないのです。神は悪人さえも、いや悪人こそが救われることを望んでいます。今の世界には、自分は悪人で、神様などと縁がないと思っている人が少なくないかもしれません。しかし、神はそんな人にこそ手を差し伸べ、しかもその人を全く新しい人に変える力を持っておられることを、ザアカイさんは教えてくれるのです。

3.結論

今日は、主イエスの伝道を、ザアカイ、バルテマイ、富める青年の三人を通じて学びました。彼らの中で、ザアカイとバルテマイはいわゆる「失われた人」、滅びに向かって歩んでいる人だと思われ、富める青年は宗教的にも社会的にも文句のない人で、天国はこのような人のためだと思われていました。しかし、イエスとの出会いを通じてまったく逆の現実が露になりました。なんとこの三人の中で天国から最も遠いのがこの富める青年で、地獄に一番近いと思われていた悪徳徴税人のザアカイと、呪われた者と思われていたバルテマイが確かに救われたのです。イエスの伝道は、当時の社会の常識をひっくり返しました。そして、神は高慢な者を遠ざけ、砕かれた人を近づけることを示しました。私たちもまた、この新年に際し、砕かれた心、へりくだった心をもって歩んでいきたいと思います。この人は救われた人、この人はそうではないなどとは考えずに、すべての人が神の子である、むしろ「失われた人」だと皆が思うような人こそ、神が捜し求めている人などだということを今一度覚えて、今年も伝道に励みたいと思います。そして、今一度昨年の年間主題聖句を思い出したいと思います。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」(第一テモテ2章4節)お祈りします。

ザアカイさんを招かれ、全く新しい人に変えられたイエス様の父なる神様、そのお名前を讃美します。今年もまた、愛する兄弟姉妹とこの主日聖餐礼拝をもって新年を始められることを感謝いたします。主が失われた者を探し求められたように、私たち教会も、主が探し求めておられる方々に神の愛と真理を少しでも伝えられるように私たちを強めてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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イエス誕生の知らせルカ福音書1章26~56節 https://domei-nakahara.com/2021/12/19/%e3%82%a4%e3%82%a8%e3%82%b9%e8%aa%95%e7%94%9f%e3%81%ae%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%81%9b%e3%83%ab%e3%82%ab%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b81%e7%ab%a026%ef%bd%9e56%e7%af%80/ Sun, 19 Dec 2021 00:37:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=2350 "イエス誕生の知らせ
ルカ福音書1章26~56節" の
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1.導入

みなさま、クリスマスおめでとうございます。今年もいろいろ大変なことがありましたが、今日この良き日を皆さんと一緒に祝える幸いを感謝します。今日の説教箇所は、「受胎告知」と呼ばれる場面を描いたところです。これからイエスの母となる少女マリヤに、イエスの誕生の知らせが伝えられる場面です。かのナポレオン・ボナパルトは「子供の将来は母親が決める」という名言を残していますが、歴史に名を遺すような大人物には立派な母親がいるというのは確かに言えることだろうと思います。子どもが生まれてから最初に深い人間関係を築くというか、完全に依存するのが母親なわけですが、この母親が私たちの人格にどれほど深い影響を及ぼすのか、そのことをナポレオンは適切に言い表しています。

クリスマスというイエスの誕生日はクリスチャンであろうとなかろうと世界中の人々が祝う日であり、また私たちの使う西暦2021年とは、イエスが誕生してから2021年目ということですから、このイエスという人物の後世に残した影響力がいかに大きなものであるかということが伺えます。少なくとも知名度という意味では、イエスというユダヤ人は世界の歴史上もっとも有名な人物だと言うことはキリスト教徒ではなくても広く受け入れられている事実でしょう。そのイエスの母であるマリヤは、ナポレオンの言葉によればイエスの運命を決定づけた女性です。ですから、歴史上もっとも有名な母親と呼んでもよい女性であり、そしてマリヤを題材にした名画や彫刻、あるいは音楽はダビンチやミケランジェロ、またはモーツァルトのような天才たちによって創作されてきました。では、マリヤとはどんな女性だったのでしょうか。

マリヤがこの受胎告知を受けたとき、彼女は何歳だったでしょうか。マリヤの受胎告知の有名な絵画を見ると、マリヤは少女というより成人した大人の女性だという印象を受けるかもしれません。しかし、当時のユダヤ社会では女性が婚約するのは12歳頃で、実際に結婚するのはそれからだいたい1年後でした。ですから、マリヤは今の日本で言えば小学校6年生ぐらいで婚約して、中学1年生の頃には結婚していたということになります。実際、マリヤが天使たちからイエス懐妊の知らせを受けたときには13歳ぐらいだったでしょう。今の日本でいえば、まだまだ子どもですよね。そんな少女が、これから世界で一番有名になる人物、そういう運命の子を宿すことになる、しかもその父親は人間ではなく神様だという、そんな子を宿すということを告げられたのです。こんなことを告げられたショック、衝撃というのはちょっと想像もできないものではないでしょうか。しかも、マリヤは自分が特別な人間だとは全く思っていませんでした。彼女がマリー・アントワネットのような王女として生まれたのなら、自分の子どもが世界の王になるだろうと考えたかもしれませんが、マリヤは平凡な、というよりも社会の底辺に生きていたような人でした。彼女はガリラヤ地方という、首都エルサレムから見れば北のはずれのような地方に住んでいて、そのガリラヤの中でも誰も知らないような人口わずか数十人という小さなナザレという村に住んでいました。華やかな世界とは縁遠い、貧しい暮らしをしていたのです。自分の子どもが特別な子供になるなどとは、考えたこともなかったでしょう。そのような少女に告げられた驚くべき知らせ、それがイエス誕生の知らせでした。

2.本文

さて、では今日の聖書箇所を詳しく見ていきましょう。26節に、「ところで、その六か月目に」とあります。何から六か月かというと、イエスの道備えをする人物となるバプテスマのヨハネ誕生の知らせがゼカリヤという歳を取った祭司に与えられてから六か月ということです。このゼカリヤはガブリエルと呼ばれる天使からヨハネ誕生の知らせを聞いたのですが、しかし妻のエリザベツが子どもを産める年齢を過ぎていたので、これを信じませんでした。ゼカリヤも、100歳近い族長アブラハムとその妻サラがイサクという子どもを産んだ話はもちろん知っていましたが、まさかそのことが自分の身に起きるということが信じられなかったのです。

さて、このゼカリヤとマリヤに遣わされたガブリエルという天使は大変有名な天使です。他にも有名な天使はイスラエルの守護天使であるミカエルがいますが、このガブリエルは旧約聖書で預言者ダニエルに有名な預言を授けた天使です。ダニエルが生きていたバビロン・ペルシアの時代はイエスの時代よりも500年以上も前のことです。ですからこのガブリエルは500年以上も生きていることになります。文字通り不老不死の存在なのです。そしてこのガブリエルは500年以上も前に、預言者ダニエルに救世主の到来を告げています。その方が来れば、「そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐ」(ダニエル9:24)だろうと言われます。このことはダニエル書9章に書かれていますが、その内容は大変難解でいろんな解釈があります。しかし、この人物は永遠の義をもたらし、罪を終わらせる方だということは分かります。500年以上前に預言者ダニエルにこの救世主到来を告げたガブリエルは、500年以上後の時代の小さな村の全く無名の少女マリヤに、あなたの子がその約束の救世主だと告げたのです。ガブリエルはマリヤにこう言いました、

ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。

さあ、こんなことを言われたマリヤはさぞびっくりしたと思います。「いと高き方」というのは神様のことですから、あなたの子どもは神様の子どもなのだと言われたのです。さらには、あなたの子は王様になる、しかもダビデ王の位に就くと言われたのです。このことにはマリヤもびっくりしたことでしょう。この時の正確な年数は分かりませんが、仮に紀元前4年とすると、ダビデ王朝はその600年近く前に滅んでいたからです。有名なバビロン捕囚の時、それは紀元前587年ですが、その時にダビデ王朝は断絶され、ダビデ家からの王様はそれ以降一人もいなかったのです。マリヤは自分のいいなずけのヨセフがダビデの子孫だということは知っていましたが、ダビデとは何しろ千年以上も前の伝説の王様です。ダビデは子だくさんでしたし、その子孫たちが千年間の間増え拡がったわけですから、この時代にはダビデの子孫などそれこそ星の数ほどいたことでしょう。ダビデの血筋と言っても、ごく普通の大工に過ぎなかったヨセフの子どもが六百年ぶりにダビデ家を再興させるのだと言われても、あまりのことにぴんと来なかったことでしょう。しかも、この時点ではマリヤとヨセフはいいなずけというだけで、結婚していなかったのです。ですから自分が妊娠などするはずがないではないですかと、こうマリヤは素朴な疑問をガブリエルに伝えました。しかし、このマリヤのもっともな疑問に、天使のガブリエルは丁寧に答えました。

聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類エリザベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。

聖霊があなたの上に臨む、という言葉は創世記の天地創造を思い起こさせます。天地創造の時にも、神の霊が地の上を覆い、創造の業を始められました。神はこの創造の業を、マリヤの上に起こすと宣言されたのです。現代科学においても、生命誕生は全くの謎であり、どのようにして地球上に生命が生まれたのか、そのプロセスは全く分からない、お手上げ状態といっていいものであり、まさに奇跡としか言いようがないことなのですが、その奇跡をマリヤの上に再び起こすのだと神は言っているのです。まだ男を知らないマリヤが子どもを産むということは、創造主である神にしかできないことです。ガブリエルは、そのような神の力を示す一例として、もう閉経していて子どもが生まれるはずがないエリザベツが今や妊娠六カ月になっているという事実を告げました。

このガブリエルの説明を聞いたマリヤの応答は注目に値します。聖書の中で、神の驚くべき約束を聞いた人々はなかなかそれが信じられませんでした。信仰の父と呼ばれるイスラエル民族の祖であるアブラハムは、100歳近い自分に子どもが与えられると聞いて、思わず笑いをこらえることができませんでした。その妻サラも、この神の約束を聞いても信じられず笑ってしまいました。つい最近では、バプテスマのヨハネの父となるゼカリヤ、彼は「神の御前に正しい人」であったと言われるような義人でしたが、その彼さえも、子どもが与えられるという神の約束が信じられず、神によって口がきけない状態にさせられてしまいました。このように並外れた信仰の持ち主たちでさえ信じられなかった神の約束を、この13歳になるかならないかの少女は素直に信じたのです。マリヤはこう言いました。

ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。

マリヤは自分のことを「主のはしため」と言っていますが、直訳すると「主の奴隷です」となります。パウロもよく自分のことをそう呼んでいますが、マリヤも自分が神に仕える者だと宣言し、その御心通りになりますようにと述べたのです。マリヤは、このことが自分の身に大きな問題を引き起こすこともよく理解していたことでしょう。まだ結婚もしていない自分が子どもを宿すということ、しかもそれが神の聖霊による奇跡などだということを人々が素直に信じるとは思えません。律法には、不貞を働いた者は石打にしなさいという規定があるので、いのちすら失うことにもなりかねません。神の御心を受け入れるとは、このような様々な問題や人々の無理解をも引き受けるということです。ですからマリヤのこの言葉は、神への深い信仰や従順だけではなく、自己犠牲をもいとわない大きな献身を表したものでもあります。さすがイエス様の母親になる人物、とても立派な態度だと感動すら覚えます。わずか13歳の少女がそこまで考えているのかとも思われるかもしれません。しかし、あの将棋の藤井聡太さんもわずか14歳でプロ棋士になり、デビュー以来29連勝という大記録を成し遂げています。その時の受け答えの実に立派なことに感動しましたが、マリヤも同じように、若くして実に立派な信仰を持っていました。そのような信仰の人にイエス様が育てられたことに、神の深い配慮を見ることができます。御使いガブリエルは、先に神のことばを信じなかったゼカリヤには裁きを下しましたが、今度のマリヤの言葉には深く満足したのでしょう。そのままこの場を離れています。

さて、マリヤはこれからどうしたでしょうか。いきなり自分が妊娠しましたと言っても、誰も信じてくれず、かえって村八分になってしまいます。そうすると彼女だけでなく、神様から授かった大事な子、イエスのいのちさえ危うくなります。そこで彼女は非常に賢明な行動を取りました。それは、この身に起こった奇跡を一番よく理解してくれる人、また同時に信仰の大先輩として自分を導いてくれる人、その人の所に身を寄せようというのです。それは、六か月前に同じく神の奇跡によって高齢の身でありながら子供を授かったゼカリヤの妻エリザベツのところでした。マリヤにとって、これ以上の理解者はいません。マリヤが住んでいたのはガリラヤ地方で、エリザベツはユダヤ地方でしたから、たどり着くまでには最低三日はかかります。マリヤは急いでエリザベツのところに向かいました。若い女性の一人旅は危険ですが、まだ若くて元気なこともあったのでしょう。マリヤはすぐさま旅立ちました。なかなか行動的な女性です。エリザベツはマリヤに会うと、聖霊に満たされ、何がマリヤの身に起こったのかすぐに理解しました。そしてそのことをマリヤに告げました。マリヤは本当にその言葉を聞いてうれしく思い、また安心したことでしょう。あのガブリエルの言葉は夢ではなかったのだ、本当に神様が私を選んでくださったのだという確信が生まれたことでしょう。そこでマリヤは有名な賛歌を歌います。このマリヤの歌は、彼女から千年以上も前に生きた有名な預言者サムエルの母ハンナの歌を思い起こさせます。預言者サムエルとは、ダビデを王様に任命した、非常に有名な預言者です。マリヤも小さい時からよく聖書を勉強していて、ハンナの歌も暗記していたのかもしれません。ハンナの歌にはこういう下りがあります。第一サムエル記の2章8節をお読みします。

主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人を、あくたから引き上げ、高貴な者とともに、すわらせ、彼らに栄光の位を継がせます。

主は強きをくじき、弱きを助ける方であるとハンナは告白しますが、マリヤもほぼ同じことを言っています。マリヤは、本当に誰も気に留めないような平凡な女の子でした。当時のユダヤの女性の名前の半分がマリヤかサロメだったと言われているので、名前も平凡、生まれも貧しい女性でした。そのような女性に神が目を留めてくださり、世界の運命を変えるような男の子を授けてくださる、その神様に感謝せずにはいられなかったのでしょう。しかし、マリヤはまだこの時知らなかったかもしれません。その子は確かに世界の王になられるかたでしたが、しかしその王は玉座の上に座ることなく、かえって人々のために十字架に架かる運命にあるということを。けれども、今はまだそれを知る時ではなかったのです。今のマリヤは、母となる喜びを、しかもダビデ王の位に就くだろうと約束された栄光に満ちたわが子の未来を夢見たのかもしれません。

けれども、実際のわが子イエスの生涯は、まだ幼かった母マリヤの夢見た生涯とは大きく異なっていました。マリヤには自分の子として成長していくイエスの考えていることがよく分からなかったのです。後に、家族を捨てて伝道の旅に出たイエスのことをマリヤやイエスの兄弟たちは頭がおかしくなってしまったと思い、呼び戻しに行ったことがありました。それでも、イエスがエルサレムに向かった時には、とうとう「父ダビデを王位をお与えになる」という神の約束が実現するのかと、期待したことでしょう。それが期待に反して、十字架で処刑されてしまった時には胸のつぶれるような思いをしたことでしょう。しかし、マリヤはその後、イエスがどんな人物であるのかを理解し、彼を信仰するようになります。教会に聖霊が降ったペンテコステの日、マリヤはエルサレムにいました。彼女はイエスの約束を信じ、もう故郷のガリラヤには戻らずにエルサレムで他の信徒たちと生活をしていたのです。このイエスの母マリヤの信仰の旅路は、非常に私たちの関心を惹きつけるものです。自分にとって一番身近な、自分の一部のような気がしていたわが子イエスを、どのようにして礼拝の対象として信じるようになったのか、その道のりには何が起きたのか、聖書は詳しくは述べていません。しかし、この救世主イエスは少女マリヤ「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」というシンプルな、しかし力強い信仰によってこの世に生を受けることになった、このことをクリスマスの機会に今一度覚えたいと思います。

3.結論

まとめになります。今日は救世主イエスの誕生が、世界で最初に伝えられた人物のことを学びました。その人物とはイエスの母マリヤでした。彼女こそ、イエスの生みの母であるだけでなく、信仰の母となった人でした。彼女のまっすぐな神への信仰を、イエス様も確かに受け継がれたのです。マリヤの、神への信仰のためには犠牲をいとわないという態度は、確かにそのイエスによって受け継がれています。私たちも人生において、マリヤほどの大きな役割を与えられることはないでしょうが、しかし私たち一人ひとりにも神様は確かに何かの役割を期待しておられます。それは大きなことだったり小さなことだったりするでしょう。しかし事の大小は問題ではありません。問題は、私たちがそのことに忠実であるかどうかです。マリヤはイエスの母になるという役目を立派に果たしました。私たちもまた、このクリスマスに自らの役割に忠実でありたいという願いを新たにしたいと願うものです。お祈りします。

イエス・キリストを母マリヤを通じてこの世にお送りくださった父なる神様、そのお名前を讃美します。私たちも、この世に生かされている限り、神様から何らかの役割を与えられています。それに忠実に歩むことができますように。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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貧しい人たちのための王国ルカ福音書6章20節ワールド・ビジョン・ジャパン・デボーション https://domei-nakahara.com/2020/10/13/%e8%b2%a7%e3%81%97%e3%81%84%e4%ba%ba%e3%81%9f%e3%81%a1%e3%81%ae%e3%81%9f%e3%82%81%e3%81%ae%e7%8e%8b%e5%9b%bd%e3%83%ab%e3%82%ab%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b86%e7%ab%a020%e7%af%80%e3%83%af%e3%83%bc/ Tue, 13 Oct 2020 05:21:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=843 "貧しい人たちのための王国
ルカ福音書6章20節
ワールド・ビジョン・ジャパン・デボーション
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みなさん、おはようございます。今日みなさんとのデボーションに招かれたことを心より感謝いたします。また、みなさんの平素からの貴いお働きに心から敬意を表します。

さて、ワールド・ビジョン・ジャパンの10月からの1年間のテーマと聖句が「神の国をまず求めなさい」であるということをお聞きしました。そこで今日は、短い時間ではありますが、この年間テーマで言われている「神の国」とはどんなものなのかを考えてまいりたいと思います。「神の国」、あるいは「天の国」と言われることもありますが、この言葉はイエスの伝記である福音書に100回ほど、イエスの言葉として登場します。イエスの言葉として、こんなに多く使われている言葉は他にはありませんので、まさにイエスという人物、またその働きを理解する上でのキーワードだと言えます。けれども、イエスは神の国とはこれこれこういうものです、ということを事細かには説明しませんでした。むしろ、「神の国とはなになにのようなものです」、というように、たとえ話を用いて、どこかつかみどころのないものとして話すほうがずっと多かったのです。イエスの話は聞く人に、「神の国」とはどんなものなのか、自分自身で思いめぐらすように、また深く考えるようにと促していました。もっと言えば、イエスの地上での生涯そのものが、私たちに「神の国とは何なのか?」と鋭く問いかけるものでもありました。

イエスは神の国について、いろんな形で教え、語りましたが、その中でも最も有名なのは「山上の教え」と呼ばれるイエスの教えです。その教えはマタイという人が書いた福音書の5章から7章に詳しく書かれていますが、今日お読みしたルカの書いた福音書6章20節以降にもその内容がコンパクトにまとめられています。その時にイエスが真っ先に言われたのは、「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです」という有名な言葉でした。これはまさに私たちの常識に挑戦する、すぐには受け入れられない言葉ではないでしょうか。貧しい人が幸いだなどと、どうして言うことができるのでしょうか。私たちの社会はみなが豊かであることを願います。貧しくなることを恐れ、そうならないように努力します。日本の中で、あるいは世界の貧しい人たちを助けようとする様々な働きは、貧しさそのものを決して良しとはしていません。むしろ人々を貧しさの中から引き上げよう、たとえ引き上げるのが無理だとしても、貧しさの惨めさ、辛さを少しでも和らげようとするものです。貧しさそのものが幸いだ、などという考えは私たちにはありません。では、イエスはどうして「貧しい人たちは幸いです」などと語ったのでしょうか。また、貧しい人たちが幸いだと言われる、神の国とはいかなるものなのでしょうか?

イエス自身が子供の時から読んでいたイスラエルの人々に伝わってきた聖なる書、旧約聖書には、貧しい人が幸いだという思想はありません。貧しさについて旧約聖書がどう見ているのか、それを簡潔にまとめている箇所があります。旧約聖書には「箴言」と呼ばれる書がありますが、これは知恵の書とも呼ばれ、人生を生きていく上で必要な教訓、処世術、生きる知恵が書かれた書で、クリスチャンではない方にも読みやすい本だと言えるでしょう。後でお時間があるときにぜひ読んでいただきたいのですが、その30章7-9節には次のような言葉があります。

二つのことをあなたにお願いします。
私が死なないうちに、それをかなえてください。
むなしいことと偽りのことばを、
私から遠ざけてください。
貧しさも富も私に与えず、
ただ、私に定められた分の食物で、
私を養ってください。
私が満腹してあなたを否み、
「主とはだれだ」と言わないように。
また、私が貧しくなって盗みをし、
私の神の御名を汚すことのないように。

ここでは、「貧しさも富も私に与えないでください」と言っています。これが、イスラエル人の生き方の理想であると言えるでしょう。イスラエルの人々が望んだのは、豊かになりすぎて神をも恐れないような傲慢な人になることなく、かといって貧しすぎて卑屈になることもない、中庸な生き方だったのです。これは個人だけの理想ではありませんでした。むしろイスラエル民族全体の理想だとも言えます。つまり、格差社会にならないように、平等な社会を作ろう、神の下に人はみな平等なのだという理念のもとに歩むのがイスラエルという民族だったのです。ですからイスラエルの法には、貧富の差、格差が大きくなりすぎないようにするための掟が含まれていました。その最たるものがヨベルの年でした。みなさんは、ジュビリー2000という運動を覚えておられると思います。これは2000年に、最貧国が抱える膨大な負債を帳消しにしようという世界的な運動でしたが、このジュビリーとは旧約聖書に出てくるヘブル語のヨベルからきた言葉です。ヨベルの年とは、50年に一度、すべての債務を免除し、すべての奴隷を解放する、負債のために手放さざるを得なかった土地も元に戻されるという、画期的な制度でした。50年に一度、格差は解消されるのです。しかし、聖書の法に守ることにかけては誰よりも熱心だったユダヤ人たちは、この教えを一度も実施したことがないと言われています。いつの時代にも、豊かな人がその富を手放すのがどんなに難しいか、そのことを思わされる話でもあります。

さて、このように、イスラエル民族の聖なる書、旧約聖書において、貧しさは決して良いものでも美徳でもなく、むしろ理想とする平等な社会を作るために克服するべきものだったと言えるでしょう。ユダヤ人であったイエスも、旧約聖書を子供の時からよく学んでいたので、このような聖書の目指す社会の在り方をよく知っていたはずです。そのイエスが、なぜ「貧しい人たちは幸いです」と語ったのでしょうか。

その一つの答えは、イエスの話を聞いていた聴衆が実際に貧しい人たちだったからです。ですからイエスは彼らに対し、「あなたがたは幸いです」と語ったのです。このことを理解するためには、イエスが生きた時代のイスラエルの人々がどのような暮らしをしていたのかを知る必要があります。イエスの時代には、いわゆる中流と呼べる人たちほとんどいませんでした。一部の大変な金持ちと、その他大勢の人たちは生きていくのがやっと、むしろ社会の底辺にいとも簡単に落ちてしまうような人たちでした。この時代はあまりにも税金が重かったのです。ローマ帝国の植民地となっていたユダヤの地では、イスラエルの宗教税とローマの税金を合わせると収穫の約半分は税として納める必要がありました。しかも、凶作で年貢が納められないと借金のために土地を奪われることが日常茶飯事でした。小作人になると、さらに税負担が2割ほど増し、結果として収穫の7割も税でもっていかれる計算になります。収穫の3割しか手元に残らないのです。現代でいえば、薄給なのに給料の7割を税金でもっていかれるサラリーマンのようなものです。そんな困窮した人々のところに、イエスは赴いていたのです。

このような人々の救世主になるために、イエスがすべきことはなにか。「神の国」と呼ばれる理想的な世界、人々が神の愛と正義の支配の下で生きることができるような社会にするために、イエスはどうすればよかったのでしょうか。一つの道は、人々にパンを、十分なパンを与えてやることでした。「衣食足りて礼節を知る」というように、人々が品位をもって生きるためには、まずは生きるために必要なパンを与えること、これこそが古今東西のあらゆる政治のリーダーに求められてきたことです。イエスが本当に救世主であるならば、彼は何よりも人々にパンを与える必要があるでしょう。このことが、イエスが荒野での誘惑の際に、悪魔によって示された神の国への道でした。荒野での誘惑とは、イエスが宣教の業に入る前に、四十日四十夜の断食という荒行を通じて、自らの使命が何なのかという問いに向き合った時のことです。空腹で息も絶え絶えのイエスに対し、サタンは「あなたが神の子なら、この石に、パンになるように命じなさい」とささやきます。この空腹状態のイエスは、そのまま彼の属するイスラエル民族の姿でした。彼らは重税で搾り取られ、乾ききっていました。彼らに今、何よりも必要なものはパンでした。イエスには彼らにパンを与える力がある、それを用いなさい、そうすれば人々はあなたを救世主として敬うでしょう、あなたは彼らにパンの心配のない神の国を与えられるのだ、とこうサタンはささやくのです。しかし、イエスにはサタンの示す道の落とし穴が見えていました。「人はパンだけで生きるのではない」とイエスは答えました。たしかにパンは必要です。イエスも「パンだけで生きるのではない」と言っているように、パンが必要であることは当然認めていました。でも、パンがあれば十分ではないのです。なぜなら、人々に十分なパンが与えられても、彼らはそれを独り占めにしようとして奪い合い、挙句の果ては殺しあうことになるからです。多くの人々が飢えに苦しんでいる今日のアフリカの地でも、一部の人々は先進国の人たちが想像もできないほど豊かな暮らしをしています。どうしてこうなるのか。それは、適切な分配がなされず、一部の人が富を独占してしまうからです。イエスの時代も、多くの人が生存ギリギリの状態で暮らしていましたが、それでも巨大な富を持つ一部のエリートは存在していました。極貧の人々も、あれほどの税負担がなければもっとまともな暮らしができたはずです。貧困の背景には、このような貪欲という問題がありました。この人々の心の問題が解決されないまま、イエスが人々にたくさんのパンを与えても、それを独り占めしようと人々が争ってしまえば、状態はもっとひどいものになります。いままで貧しかった時はパンを分け合っていた人たちが、急にお金持ちになると、それを独り占めしようとしてむしろ仲が悪くなってしまう、ということは実際に頻繁に起きることなのです。先ほどお話しした箴言の17章1節に、次のようなことばがあります。

乾いたパンが一切れあって平穏なのは、
ごちそうと争いに満ちた家にまさる。

たしかに、貧しいのは惨めなことですが、豊かであっても平和がないのはもっと惨めなことになります。ですから、パンよりも先に、人々の心が変わる必要があるのです。イエスが「あなたがたは幸いです」と語ったとき、なぜ貧しい人たちが幸いなのかと言えば、彼らこそ新しい心を受け入れる用意のある人たちだったからです。彼らこそ、イエスが示そうとしている神の国にふさわしい心、ふさわしい生き方を受け入れる用意のある人たちだったからです。競争によってどうやって相手を出し抜くか、どうやって人より多くの者を手に入れるか、そういうマインドの持ち主は神の国には入れないからです。

サタンは、人々にパンを与えなさいと誘惑しますが、イエスが乗ってこないのを見ると、別の誘惑をします。イエスの時代、何人もの人が民衆に「神の国」をもたらそうとしました。それは、力づくで富の分配をしようというものでした。彼らは人々に、自分が神の遣いだと信じさせ、自分に従って暴動を起こさせ、富める者から財産を奪おうとしたのです。彼らは強盗と呼ばれましたが、彼らは金持ちから財産を奪って貧しい人たちに施しました。ですから強盗とはいっても、民衆には人気があったのです。イエスの裁判の時に、総督ピラトは強盗バラバとイエスのどちらかを助けてやると民衆に問い、人々はバラバと答えました。それはバラバがこのような義賊で、民衆の味方だと思われていたからでした。そこでサタンはイエスに「石をパンに変えなさい」と誘惑した後に、「人々に奇跡を見せなさい」と誘惑しました。人々はあなたの奇跡をみれば、あなたを救世主だと信じてあなたに従うだろう、その人たちを扇動して武力によって悪い特権階級を倒し、神の国を作ればいいではないか、と誘惑したのです。今日でいうところの革命です。実際、イエスの時代には何人かの人々が奇跡を見せてやるといって人々を惑わし、ローマ帝国への反乱を企てたユダヤ人たちがいました。パンと奇跡、この二つがあれば人々は何でもあなたのいうことを聞くようになる、そうすればあなたの目指す神の国を作れるではないか、これが悪魔からのイエスへの提案だったのです。

しかし、イエスは悪魔の提案を拒絶しました。そのような人々のルサンチマンと欲望に訴えて出来上がるような神の国はろくなものにはならないということは、世界の歴史が証明しています。むしろイエスは全く別の道を人々に示しました、自らの生き方を通じて。イエスは人より偉くなろうとする弟子たちに対し、こう言っています。

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。(マタイ10章42-44節)

イエスのもたらす神の国、神の支配する世界においては、王である神が真っ先にしもべとして仕えるのです。このような心構えを持った人たちの間にあっては、物質的な豊かさは、それが人々の奪い合いの原因となる呪いとはならず、むしろ祝福となるのです。ですから、あれも欲しい、これも必要だ、と求める前に「まず神の国と神の義を求めなさい」とイエスは教えたのです。神の義とは、神の正しさとは、神自らがしもべとなって仕えることを喜ぶ、そういう姿勢のことです。神の義を求めるとは、私たちもそのような神の姿勢、生き方に倣うということです。

ワールド・ビジョン・ジャパンの働きは誠に貴いものです。あなたがたの助けようとしておられる方々は、私たち日本の生活水準からすれば、大変貧しい人たちであると思います。しかし、そのような人々をイエスが幸いだといったこと、神の国は彼らのものだと言ったこと、そのことを忘れないようにしたいと思います。私の父も、実は定年より少し早く退職し、母と共に3年間中米の途上国に行ってボランティアとして働いていました。そこで両親は、貧しいと思っていた現地の人々に対する見方を根本から変えられた、と言っていました。たしかに彼らは大変貧しかったけれども、その眼は幸せそうに輝いていたと。そこには日本では失われてしまった豊かさがあったと。そこはキリスト教が熱心な国だったので、両親も現地の教会に通っていましたが、そこでは本当に助け合う人々の姿があり、両親もキリスト教とは何か、教会とは何か、ということを改めて教えられたと言っていました。私たちは支援する側の人間であったとしても、支援される側の人々がイエスから幸いだと言われた人たちであるならば、彼らから学べることはたくさんあるのではないかと思います。

皆様の働きがますます用いられ、支援する側、される側がお互いに豊かにされるようになることを願っております。ひと言お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様。そのお名前を賛美いたします。今日はワールド・ビジョン・ジャパンのデボーションで皆様とイエスの神の国について考えるひと時を持てたことを感謝いたします。どうか皆様の働きを豊かに祝し、イエスが語られた神の国が皆様の働きを通じてこの世界に現わされますように。私たちの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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