マタイ福音書 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 調布 深大寺のプロテスタント教会 Mon, 16 Feb 2026 02:48:05 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.3.20 https://domei-nakahara.com/wp-content/uploads/2020/03/cropped-favicon-32x32.png マタイ福音書 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 32 32 十二使徒を遣わすマタイ福音書10章1~23節 https://domei-nakahara.com/2026/02/15/%e5%8d%81%e4%ba%8c%e4%bd%bf%e5%be%92%e3%82%92%e9%81%a3%e3%82%8f%e3%81%99%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b810%e7%ab%a01%ef%bd%9e23%e7%af%80/ Sat, 14 Feb 2026 23:54:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=7227 "十二使徒を遣わす
マタイ福音書10章1~23節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。マタイ福音書を読み進めてきましたが、これまでは主イエスの活躍、その教えや癒し、あるいは悪霊払いというような活躍を見て参りました。そして今回は弟子たちの活躍についての箇所です。この箇所はなかなか理解が難しい箇所だということをあらかじめ申し上げておきます。

どういうことかと言いますと、前にもお話ししたように、それにはマタイ福音書が書かれた時期と関係があります。イエスが十字架に架けられ、その後に天に昇られたのは紀元30年だと考えられていますが、そこからだいたい50年後にマタイ福音書が書かれた、というのが多くの研究者の見方です。つまり紀元80年代です。ですから、マタイ福音書はイエスの伝記であるのと同時に、イエス後の50年間の教会の歴史をも反映しているということになります。マタイはイエスが天に昇られた後の、50年にも及ぶ教会の歴史を知っているので、それは当然のことです。50年というのは半世紀ですから、かなり長い時間です。1970年代の日本と、2020年代の日本は大きく変わったように、教会もその誕生から50年の間に大きく変化していきました。今日の箇所のイエスの教えも、イエスがガリラヤで教えていた時の内容と、イエスが昇天した後の50年間の教会の状況の両方を反映しているということです。どうしてそんなことが言えるのか?その根拠を具体的に説明します。

マタイ福音書というのは、最も古い福音書であるマルコ福音書の後に書かれた福音書で、マタイはマルコ福音書の9割以上の内容を引用して自らの福音書に収録しています。マタイにとって、マルコ福音書は大変重要な情報源だったのです。今回の十二弟子の派遣の記事も、マタイはマルコ福音書から引用しています。しかしよく見るとマタイはマルコ福音書の全く違う二つの箇所から引用し、それを組み合わせているのが分かります。一つはマルコ6章で、それはイエスが十二使徒を派遣するという、マタイとまったく同じ文脈の箇所です。イエスは十二使徒を派遣し、その時に指示を与えているのですが、それがマタイ福音書の10章7節から14節までにそのまま使われています。ですからここではマタイはマルコを忠実に用いています。

しかし、マタイは全く別の箇所からも引用しています。それはどこかと言うと、イエスがガリラヤで弟子たちを派遣したときではなく、むしろイエスが十字架に架かって天に上った後、イエス亡き後に弟子たちに何が起きるのかを警告した箇所、それはマルコ13章です。先ほどの箇所がマルコ6章ですから、まったく違う場面であることがお分かりいただけると思います。マタイは、マルコ6章と13章の二つの箇所の記事を一つにしてこの10章を書いているのです。そしてマルコ13章でイエスが教えられたのはガリラヤではなく、エルサレムにおいてです。十字架にかかる直前の、エルサレムでのいわゆる「オリーブ山の講話」です。この講話では、イエスは世の終わりについて語っており、それはキリストの再臨、イエスが天から再び来られて歴史を終わらせるときの前に何が起きるのかを語っている箇所だと言われています。

このように、マタイ10章でのイエスの教えはイエスがガリラヤで宣教活動をしていた時の教えと、イエスが天に昇ってから世の終わりまでの時代についての教えが組み合わされているということになります。マタイは、イエスのガリラヤでの活動を描いただけではなく、マタイと同じ時代に生きた教会の人々に、イエスの言葉として弟子としての心得を伝えたのです。このことに注意したうえで、今日の教えを見て参りましょう。

2.本論

それでは、1節から見て参りましょう。イエスはこれまでご自身で悪霊払いをしてきましたが、今度は自らの最側近である十二使徒にも悪霊を制する権威、あるいは病をいやす権威をお与えになります。それはどうやったのか、どうすればイエスの権威を弟子たちに委譲できるのか、その詳しい仕組みというか、やり方は書かれていません。しかし、ペテロたちはイエスが天に昇られた後も癒しや悪霊払いをしていますので、こうした奇跡を行うことができたのはイエスだけではなかったというのは確かです。それはなぜか?理由は明白です。イエスが病を癒したり、悪霊を追い出すことができたのは聖霊を受けたからです。イエス様は神様だからそういうことができるのでは?と思われるかもしれませんが、少なくとも福音書ではそのように描いてはいません。その点を一番明確に描いているのがルカ福音書です。ルカ4章14節には、「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた」とありますし、イエスはイザヤ書61章を引用して、「わたしの上に主の御霊がおられる」というイザヤの預言が自分に実現したと語っています。このように、イエスは聖霊の力で癒しや悪霊払いを行ったのですから、弟子たちも同じ聖霊を受けることでこうした業を行うことができたのです。ですからイエスが弟子たちに権威を授けたとは聖霊を分かち与えたということなのです。

2節から4節までは十二弟子のリストがあります。このリストについては、今回は詳しい話をいたしません。むしろ重要なのは5節と6節です。ここでイエスは弟子たちに、異邦人、つまりユダヤ人以外の世界の諸民族のところに行くなと命じています。これは私たちからすると驚きですね。私たち日本に住む人々も異邦人です。ユダヤ人ではないので当然ですよね。ですから主イエスは日本やほかのアジアの国々の人々のところに行って伝道するな、と言っているのと同じなのです。しかし、復活した後の主イエスは弟子たちに向かって、「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と語っています。ここでは、異邦人のところに行きなさいと命じているのです。ですから教会の歴史を見ればわかるように、福音は全世界に伝えられるようになったのです。ここで注意していただきたいのは、世界に出て行って異邦人に宣べ伝えよとイエスが語ったのは、十字架に架けられて復活した後だということです。つまり、イエスは天に昇られた後に初めて異邦人伝道を命じたのです。逆に言えば、復活前、地上で宣教をしていた頃のイエスは弟子たちに異邦人のところに行くな、と指示していたということです。この5節、6節は、地上で宣教しておられていた頃のイエスの言葉を忠実に反映しています。イエスは自分の使命を、イスラエルの再建と明確に位置づけられていました。イエスは神の国、神の支配が近いことを告げ知らせていましたが、その神の支配を最初に受け入れるべき国民、すなわちユダヤ人に対してそのメッセージを届けようとしたのです。

イエスの届けようとしたメッセージとは「天の御国が近づいた」です。このメッセージの意味するところは、簡単に言えば、「世の終わりはすぐだ」ということです。世の終わりといっても、世界がなくなってしまうわけではもちろんありません。今の時代が終わり、新しい時代、神ご自身が直接世界を支配してくださる素晴らしい時代が来るということです。それがどれくらいすぐなのかといえば、23節にその答えがあります。「確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです」という言葉です。「人の子が来る」という言葉はキリストの再臨、つまり天に昇られたイエスがこの地上に帰ってこられるということです。その時にこそ、神の国、天の御国が来るのです。しかし問題はその時期です。イエスの弟子たちがイスラエルの町々を巡り終える前にキリストが再臨したのかといえば、歴史を振り返れば分かるように、そのようなことは実際には起こっていないのです。それどころか、それから約二千年も経っています。この問題はあまりにも大きく、次回の説教でもお話ししますが、それは初代教会に大変な難題を突き付けました。キリスト教の第一世代は、紀元一世紀に世の終わりが来ると信じていたのです。ですから、今日のイエスの教えもそのような信仰が前提となっています。

さて、9節以降ですが、先ほども申しましたように、9節から15節までと、16節から22節まではまったく別の教えです。なぜなら9節から15節までは、イエスがガリラヤで宣教していた頃の教えで、16節から22節までは、イエスが天に昇られた後、イエス亡き後の弟子たちに対する教えだからです。最初の方、9節から15節までのイエスの教えのポイントは、神を信頼するのと同時に、ガリラヤの民衆のことも信頼しなさい、ということでした。なにしろ旅行用品もお金も持たずに村々を渡り歩くのですから、その行った先々の人々のご厚意に頼るほかはないのです。そして村々の人々も、イエスやその弟子たちは誰にも直せなかった数々の病を癒してくれるのですから、大歓迎です。そういう人たちの支援を期待できるので、イエスは弟子たちに何も持たせずに送り出したのです。しかし、イエスやその弟子たちのことを歓迎しない人たちもいます。そういう人たちは相手にするな、というのがイエスの教えでした。なんだか冷たいではないか、粘り強く話せばわかってくれるのではないか、と思うかもしれませんが、何しろ時間がないのです。弟子たちがイスラエルの村々を巡り終わる前に世の終わりが来るのですから、ありていに言ってしまえば聞く耳を持たない人には構ってられないということです。これは反対に言えば、話を聞いてくれる人はたくさんいるのだから、そちらを優先しなさいということです。

しかし、16節以降は話が変わってきます。イエスは17節で「人々には用心しなさい」と語ります。ユダヤの人々、民衆がイエスの弟子たちに対して好意的ではなくなる時代が来るということです。それはいつか?それはイエスが十字架で犯罪者として処刑された後です。どんな組織でも、そのトップが犯罪者として処刑されれば大変な打撃を受けます。仮の話ですが、仮に私たちの教団のトップが犯罪を犯したということで死刑宣告を受けたなら、マスコミが大々的に報道し、私たちの教団は一般の人たちから見れば危険な集団という風に見られるでしょう。イエスの十字架刑はまさにユダヤの人たちにそのように映ったのです。十字架というのは、さらし者です。わざわざ目立つところに素っ裸で人を木に架けるという屈辱的な処刑方法です。しかも、頭上には「ユダヤ人の王」などという皮肉に満ちたプラカードを掲げたのです。イエスの弟子たちは、その後にイエスが復活したのを目撃したので、イエスは死にさえも打ち勝ったとその信仰を新たにしたのですが、しかしそのことを知らない一般のユダヤの人たちから見れば、イエスはみじめな失敗者であり、その彼をメシアと崇める信者たちは怪しげな集団としか映らないのです。さらに言えば、ユダヤ人にとって十字架で死んだイエスがメシアであるというメッセージは屈辱的なことでした。メシアは当時の超大国であるローマをやっつけてくれる人であるはずなのに、そのローマに殺されたイエスがメシアであるはずがないではないか、ということです。ですからそんな愚かなメッセージを広める集団は危ないから黙らせよう、迫害しようということになります。18節も、この教えがイエスが天に昇られた後のことであることを示しています。それは「異邦人たちにあかしをするためです」と書かれているからです。先ほどの5節ではイエスは「異邦人の道に行ってはいけません」と語っているのに対し、ここでは異邦人にあかししなさい、と命じています。これは、イエスの復活後に弟子たちがイスラエルだけではなく異邦人にも福音を宣べ伝えるようになった状況を示しています。そして、ユダヤ人にとっての外国人、異邦人たちの福音に対する反応は様々でした。福音を信じた人もたくさんいましたが、それ以上に反発が大きかったのです。多くの異邦人、特にローマ帝国の支配下にある人たちにとって、イエスの福音、つまりイエスは今や天に昇られて全世界の王になられたというメッセージは非常に問題のあるものでした。なぜなら、彼らにとっての世界の王とはローマ皇帝であって、そのローマによって十字架に架けられたみじめなユダヤ人であるはずがないからです。ですから多くの異邦人にとっても、イエスの弟子たちの語る福音は政治的に危険で、怪しいものとして響いたのでした。

こうしてイエスの弟子たちは、ユダヤ人にも異邦人にも迫害を受けることになります。イエスはそのような状況について、こう語っています。

いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。

イエスを信じる人は、鳩のようにすなおな人は多いのですが、蛇のように狡猾であるというのは苦手な人が多いのではないでしょうか。しかし、そのような狡猾さが必要になるほど、大変危険な状況になるということです。その厳しさについては、21節から22節にこう書かれています。

兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

このように、ものすごく大変な状況ですよね。イエスの弟子たちを支援した人たちももちろんいましたので、すべての人に憎まれるというのは誇張もあるとは思いますが、しかしイエスの弟子たちが至るところで迫害を受けたのは間違いありません。大変つらい状況ですよね。しかし救いはあります。なぜならそんな苦しい時代はそんなに長く続かないからです。弟子たちがイスラエルの町々を巡り終わる前に、イエスは戻ってこられて彼らを救ってくれるからです。前にも申しましたように、実際の歴史はそのようにはいかなかったのですが、弟子たちはそう信じて伝道に励んでいたのです。

3.結論

まとめになります。今日は、イエスがガリラヤで十二弟子を伝道旅行に派遣した記事を見て参りました。イエスは弟子たちに、何も心配しなくていい、何も持たなくていい、なぜなら人々は基本的にあなたたちを歓迎してもてなしてくれるからだ、と語ります。しかし、イエスが十字架に架かった後は状況は一変します。マタイはそのことを知ったうえで今日の箇所を書いています。イエスが天に昇られた後にはイエスの弟子たちは、歓迎されることは少なく、むしろ激しい迫害を受けるようになります。その大変厳しい状況を耐え忍びなさい、なぜなら主イエスが戻られる日は近いからだ、というのがこの箇所に込めたマタイのメッセージでした。実際には、弟子たちが生きている間にイエスが戻られることはありませんでした。ここからわかるのは、パウロの場合と同じように、主イエスがいつ来られるのか、いつ世の終わりがあるのか、ということは誰にも分からないということです。福音書記者ですら分からなかったのです。ですから、それがもうすぐだ、という人がいたとしてもそれを信じてはならないのです。とはいえ、この終末論というテーマはとても大きなものなので、今日はここらへんでやめておきます。

さて、ではこのマタイ10章の「伝道」についての教えは私たちにとってどんな意味を持つのでしょうか。「伝道」というのはクリスチャンにとって、とても大切なことですが、今日においては大変難しいものでもあります。よく、友人とは宗教と政治の話はするな、ということが言われます。政治の方は、最近はもう少し敷居が低くなったといいますか、話しやすい雰囲気になってきたように思いますが、宗教の方はむしろタブー視する傾向は強くなってきたように感じられます。統一教会問題とか、宗教二世問題とか、社会にとってよくない影響を与えるものだというイメージが強くなっているからです。ただ、別に世の中の人が宗教に全然関心がなくなってしまったという風にも思いません。むしろ、スピリチャルなものへの関心が強まっている気がします。ではなぜ宗教の話をするのが嫌われるのかといえば、これは私見ですが、宗教を信じている人は自分の信じているものが絶対だと信じていて、批判を受けつけない傾向があるからだと思います。話す相手が、自分の言っていることが絶対正しいと確信していて、何を言っても聞く耳をもってくれないとなると、もうそんな人とは話す気がなくなりますよね。逆に政治の話がしやすくなってきたというのは、政治にもいろんな意見があって、自分なりに考えてどれかの意見を選んでもいいのだ、自分の考えを述べてもいいのだ、という雰囲気が出来上がってきているからだと思います。SNSなど双方向のメディアが発達してきて、様々な立場からの情報の量が飛躍的に増えただけでなく、自分の意見が言えたり、ほかの人の考え方を聞いて自分の考えを改めたり、ということが普通にできるようになってきました。そのような状況の中で、政治の話が少し身近になってきている気がします。

それに対して宗教は、今でもあまり自由な発言が許されない雰囲気があるように思います。「正しい」教えというのがあり、それに対して疑問を抱いても、その疑問を自由に言えない空気がある、その息苦しさが人々を宗教から遠ざけてしまうのかもしれません。私は、宗教についてもっと自由に語ることができるようになれば、宗教そのものに関心を持っている人は少なくないので、宗教に対する敷居も下がるのではないかと思います。「伝道」とは、人を説得してその人にイエス様を信じさせることではありません。そんなことをすれば確実に嫌われるでしょう。むしろ、宗教とは人生についてもっと深く考えるきっかけになるものだと私は考えています。また、宗教を信じている人が常に正しい「答え」を持っていると考える必要もありません。間違えることもあるのです。初代のキリスト教徒たちは紀元一世紀に世界が終わると期待していましたが、そのようなことは起こりませんでした。だからといってキリスト教が無価値になるわけではありません。間違いがあったとしても、そこから学べばよいのです。むしろ、「私は間違っていない」とかたくなになってしまえば、そんな態度は人を遠ざけてしまうでしょう。私たちが開かれた心を持つこと、それこそが伝道の最も大きな助けになるものと信じています。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今日は主イエスの伝道についての教えを学びました。初代教会の人々もいろいろなことに悩み、また苦しんだことを学びました。私たちもそこから何かを学ぶことができるように助けてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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律法学者とパリサイ派マタイ福音書9章1~38節 https://domei-nakahara.com/2026/02/08/%e5%be%8b%e6%b3%95%e5%ad%a6%e8%80%85%e3%81%a8%e3%83%91%e3%83%aa%e3%82%b5%e3%82%a4%e6%b4%be%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b89%e7%ab%a01%ef%bd%9e38%e7%af%80/ Sun, 08 Feb 2026 01:06:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=7220 "律法学者とパリサイ派
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1.序論

みなさま、おはようございます。マタイ福音書を読み進めていますが、今日はかなり長い箇所を扱います。これまでは比較的短い箇所からメッセージしてきましたが、今日は9章丸ごとで、そこにはいくつものエピソードが含められています。

今回の場面の主役はもちろんイエスですが、同時にヒール役というかイエスの敵役として登場してくる人たちがいます。それが律法学者やパリサイ派です。ただ、律法学者とパリサイ派と一言にいっても、彼らは一枚岩ではなく、様々なタイプの人たちがいました。イエスに敵対するのはなく、ひそかに支持する人もいれば、公然と支持する人もいました。福音書にも、実際にそのような人たちが登場してきます。しかし、今回の箇所に出てくる律法学者やパリサイ派はみなイエスに反対する人たちです。根拠のない誹謗中傷をする人までいます。こういう姿を見ると、当然私たちの律法学者やパリサイ派への見方は悪くなります。この人たちは曲がった人たちだ、悪い人たちだ、という見方になっていきます。しかし、ここで一歩立ち止まって考えてほしいのです。本当に律法学者やパリサイ派はそんなに悪い人たちなのでしょうか。確かに、イエスの人気を妬んで、やっかみでイエスの足を引っ張ろうとした人たちもいたでしょう。そういう理由でイエスを攻撃した人たちの肩を持つ気はまったくありません。しかし、律法学者やパリサイ派たちにも彼らなりの正義があり、その正義に基づいてイエスを批判した人たちもいたのです。その正義は何なのかということを理解しないと、私たちは単に律法学者やパリサイ派は悪なのだと、いわばレッテルを貼ることになります。しかし、それではよくないと思います。彼らは彼らなりに、イエスの行動に問題を見出したから批判したのです。その批判が的外れだったかどうかは、彼らが見出した問題について考えなければ判断できないのです。私たちはクリスチャンですから、自動的にイエス様の言うことやなさることはすべて正しく、イエスを批判する人はだれであれ悪いと考えます。しかし、一歩立ち止まって相手の立場で考えるというのも必要だということです。

そもそも律法学者やパリサイ派はどんな人たちだったのでしょうか?大事なことは、彼らはお金めあてで行動した人たちではないということです。お金がすべての現代人からみれば、むしろ彼らは本当に尊敬すべき人たちでした。なぜなら彼らはお金を取らずに、ただで貧しい民衆に律法を教えてあげたからです。今日の日本で、貧しい家庭の子供たちに無料で勉強を教えてくれる人たちがいたら、みんなから尊敬されますよね。塾や家庭教師は高額ですから、本当にありがたいことです。そして、パリサイ派や律法学者はまさにそういう人たちだったのです。ユダヤの人たちは、みな神を敬う人たちですので、神がモーセを通じてイスラエルに与えた律法を、神の御心、神のご意思として敬い、実行したいと願っていました。しかし、律法を実行するのは簡単ではありません。律法には「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」という教えがあります。しかし、安息日を聖なる日とせよというのは具体的にはどういうことなのでしょうか。聖なる日とせよとは、特別な日とせよということです。特別だから、ほかの六日間とは別の行動をする必要があるのですが、別の行動とは何でしょうか?平日は食事を作っているので、安息日は作ってはいけないのでしょうか?多くのユダヤ人はそう考え、安息日の前に食事を作り置いていて、安息日には料理をしないようにしていました。では、医療行為はどうなのか?医療行為は平日だけにすべきなのか、しかしそのために病気が悪化して死んでしまったらどうするのか?という切実な問題が生じます。一般のユダヤ人にはこういうことは判断できなかったので、律法学者たちはこれらの事柄についてガイドラインを作ってくれたのです。しかも無料で、です。これはすごいことです。ガイドラインを作るのは大変なことです。当然に報酬を得るべきものなのに、それを無料でやってくれるのです。律法学者たちは手に職をもっていましたから、彼らは大工などの仕事の傍らでこういう奉仕をしてくれたのです。すごいですよね。私のような、みなさまから謝儀をいただいて牧師をしている人からすれば、律法学者は本当にすごい人たちだと思います。イエスのお弟子さんたちは仕事をやめて、信者さんたちから援助を受けて伝道していたのですが、律法学者たちは仕事をつづけながら人々に教えてあげていたのです。この意味でも、律法学者というのは実に尊敬すべき人たちだということになります。

では、そんな立派な人たちがなぜイエスを批判したのでしょうか?そのことを今日のみ言葉から見ていきましょう。

2.本論

まずは3節です。イエスは中風の人を癒しました。この癒しの行為自体には律法学者は何の文句もありませんでした。むしろ賞賛したでしょう。しかし彼らが疑問に思ったのは、その時にイエスが語った言葉でした。それは、「あなたの罪は赦された」という言葉でした。ここで注意したいのは、イエスは「私はあなたを赦す」と言っているわけではないことです。「赦された」という受動態で語っているので、赦す主体は誰だか明記されていないということです。しかし、イエスの言葉を聞いた人たちは、「私はあなたを赦す」とイエスが語ったのではないことを理解していたでしょう。赦すのは神です。それは当たり前のことでした。イエスは、「あなたの罪は神によって赦された。だから治ったのだ」と語っているのです。イエスは自分が神だと主張したわけでもなければ、自分があなたを赦したと言っているわけでもないのです。そこには神を冒涜するものは何もありません。では、なぜ律法学者はイエスの言葉に疑問を抱いたのでしょうか?それは、人の罪が神に赦されるためには、聖書の定める正しいプロセスがあったからです。旧約聖書にはレビ記という書があり、そこにはどうすれば罪を犯した人の罪が赦されるのか、その方法が書かれています。それは神殿で犠牲を献げることを通じてです。律法学者たちは、イエスがその手続きを踏まずに、いきなり罪が赦されたと宣言したことに疑問を呈したのです。「この人は聖書の教えを無視するのか」という疑問を抱いたのです。ですからこの律法学者たちは、今日でいえば聖書を重んじて聖書に忠実であろうとする福音派の人たちだということになります。今日の福音派が聖書の権威を軽んじる人たちを激しく攻撃するように、律法学者たちもイエスが神を、神の言葉である聖書を軽んじているのではないかという疑いを持ったのです。それが彼らなりの正義です。しかし、イエスはそのような言葉に対して、罪の赦しのプロセスを定める聖書を超える権威を私は持っていると主張しました。これは律法学者には受け入れがたい主張だったでしょう。聖書が神の言葉ならば、それを超える権威などあるはずがないではないか、というのが律法学者たちの抱いた思いでした。私たちはイエスを信じていますから、彼の主張を受け入れますが、その主張を受け止めきれなかった律法学者たちの気持ちも理解はできます。これが、律法学者たちの第一の躓きでした。

そして、第二の躓きが9節以降に書かれています。今度はイエスが取税人たちと食事をしていることにパリサイ派たちが異議を唱えたのです。このことも、取税人という人たちがどういう人たちであるかを知れば理解できます。取税人は、ユダヤやガリラヤの地を支配していたローマ帝国に代わって税金を取り立てる人たちでした。しかも、ローマ帝国は彼らに手当、給料を払わなかったのです。給料もらわないのにどうやって生活したんだ、と思うかもしれませんが、それはピンハネをしたのです。つまりローマは10%の税金を取り立てるように命じるのですが、そこで12%や15%を取り立てて、その上前の2%や5%を自分のポッケに入れたのです。給料をもらえないから仕方がないですよね。そしてローマもそれは自由にやらせていたのです。税金さえしっかり集めれば、上前は好きなだけ取ってもよし、というのがローマのスタンスなのです。ですから取税人の中には、暴力団みたいな人を雇って人々から税金を力づくで集めている人もいました。ですから当然一般の人々は取税人を嫌います。そんな取税人と一緒に仲良く食事をしているイエスのことを、パリサイ派の人たちが疑いの目で見たのも無理からぬことでした。パリサイ派は、彼らなりの正義感でイエスの行動を批判したのです。もちろんイエスも、そうした取税人の在り方をよしとしていたのではなく、むしろ彼らを悔い改めさせようとしていたのですが、そういうイエスの意図が分からないパリサイ派からすれば、イエスのやっていることは良識を疑うことでした。しかし、イエスはそうした疑問に正面から向き合い、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と答えています。イエスは、取税人をありのままで問題なしとして受け入れているのではありません。彼らのことを病人と見なし、治療が必要だと語っているのです。ですから、パリサイ派が懸念したように、イエスは決して取税人を無批判に受け入れたわけではないのです。ただし、このイエスの答えを聞いたパリサイ派がそれで納得したかどうかは分かりません。実際に、イエスと食事をしたあとの取税人が、ザアカイさんのように皆が悔い改めれば、それを見たパリサイ派は納得するかもしれませんが、取税人の人たちにも生活があります。彼らはそう簡単にそれまでのビジネスのやり方、つまりピンハネをやめられなかったかもしれません。そうなると、パリサイ派たちのイエスを見る目は相変わらず厳しかったのかもしれません。

さて、次の断食についての問答は、イエスの宣教の意味を理解するうえで重要です。パリサイ派の人は、バプテスマのヨハネは断食をしていたのに、なぜイエスとその弟子は断食をしないのか、と尋ねました。この質問をしたパリサイ派の人は、イエスとバプテスマのヨハネとの関係のことを良く知っていたのでしょう。イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を授けられています。それだけ聞けば、普通に考えればイエスはヨハネの弟子なのか、と考えるでしょう。そのヨハネの弟子たちが断食しているのに、なぜイエスの弟子たちは断食をしないでパーティーばかりしているのか、という質問をパリサイ派はしたのです。この問いに対するイエスの答えはちょっと分かりづらいですね。花婿がどうとか、イエスは何を言いたいのだろうか、と思われるかもしれません。ここで考えるべきことは、断食とは何のためにするのか、ということです。断食は苦しいですよね、おなかが減っても何も食べないわけですから、当然苦しいことです。では、なんでわざわざそんな苦しいことをするのかといえば、それはそんな苦しい中で必死に神に願い求めるためです。神様に何か真剣に願うことがあるので、わざわざ自分を苦しい立場において、必死に神に願うのです。では、バプテスマのヨハネや弟子たちは何を神に願っていたのでしょうか?それは神の国が来ることです。その時が早まるようにとの願いから断食をしていました。では、なぜイエスたちは断食をせずに宴会を開いたのか。それは神の国がさらに近づいた、いや目前だと考えていたからです。神の国が来れば、その時には神の大宴会が開かれます。そうなれば、もう断食をする必要などありません。イエスは、まだ神の国は来てはいないけれど、しかしその到来はもうすぐだということを示そうとしたのです。ですから神の大宴会のいわばリハーサル、前味として人々と宴会を開いたのです。そして、神の国、新しい時代が始まるので、その新しい時代に合わせた新しい生き方、ライフスタイルが必要になります。イエスはそのことを新しい服、あるいは新しい皮袋に譬えて話しているのです。ですからこの問答から、イエスが神の国の到来が目前だったと考えていたことが分かるのです。律法学者たちからすれば、半信半疑だったかもしれません。ローマの兵士たちが威張っている状況で、本当に神の国が来るのか、どうやって来るのか、という疑問を抱いたことでしょう。

さて、これらの問答の後、イエスはさらに三つの驚くべき癒しを行っています。まず初めに、12年間も長血を患っていた女の癒しです。驚くべきことに、この女はイエスの着物のふさに触っただけでした。イエスに「癒してください」とお願いしたのではなく、むしろイエスが気が付かないようにそっとイエスに触っただけなのです。それなのに、彼女は癒されました。イエスの方には彼女を直そうという意思がなかったのに、癒されたのです。それはなぜか。それはイエスの力というよりも、その女の人が持っていた信仰の力が癒したといえるのかもしれません。イエス様がその力を彼女自身から引き出したとも言えます。イエスご自身が、「あなたの信仰があなたを直した」とおっしゃっています。私たちの信じる力というのはとても大きなものなのです。

次に、イエスはすでに死んでしまった少女をよみがえらせるという奇跡を行いました。これはものすごいことに思えるかもしれませんが、しかし実は前例のないことではなく、旧約聖書ではエリヤやエリシャが死んだ子供をよみがえらせるという奇跡を行っています。ですからイエスがこのような奇跡を行ったということは、イエスは旧約の預言者たちのように神から遣わされた方だということを示しています。ですからこのような奇跡を目の当たりにした律法学者やパリサイ派の人々は、イエスが神から遣わされた預言者だということを認めるべきでした。

さらには、イエスは三つ目の奇跡を行いました。それは盲人の目を癒すという奇跡でした。目が見えない人の目を開くという奇跡は、旧約聖書にも例がありません。まったく驚くべき奇跡です。このように、イエスは信じられないような奇跡を三つも続けて行いました。これだけのことができるのは、イエスに神の力が働いているからに違いないのです。律法学者やパリサイ派の中には、これらの驚異的なしるしを見て、イエスを信じた人もいたはずです。実際、これから後のマタイ福音書にはそういう人たちが出てきます。繰り返しますが、律法学者やパリサイ派の中にはイエスを信じた人もいるのです。

しかし、これほどの奇跡を見ても、パリサイ派や律法学者の中にはどうしてもイエスのことを認めたくない人たちがいました。ここで注意したいのは、みんながみんなイエスを拒否したのではなく、拒否した人も中にはいたということです。マタイはイエスを拒否した人たちをここで特別に取り上げているのです。彼らは自分たちこそ正しいと信じていました。自分たちこそ神に忠実な人たちだと信じていました。だから、彼らは自分たちとは違う存在を神から遣わされた方だと認めるわけにはいきませんでした。なぜなら、イエスを神から遣わされた方だと認めてしまうと、自分たちが神のしもべだという信念が揺らいでしまうからです。自分が特別な人間だという信念が揺さぶられてしまうからです。ですから彼らは何としてもイエスのことを否定しようとします。イエスはそれからさらに、悪霊どもを追い出して人々を救います。民衆はそれを見てイエスをますますほめそやします。しかし、それがどうしても認められないパリサイ派の人たちがいました。彼らは何と、イエスが神の力ではなく悪魔の王、魔王の力を使って悪霊たちを追い出しているのだというとんでもない誹謗中傷を言い出します。ここに彼らの悲劇があります。彼らは自分たちこそ正しいという思いが強すぎて、自分とは立場が違う人が、その人がどんなに素晴らしくて、どんなに偉大なことを行っても認められないのです。しかし、そのような過ちは私たちも犯してしまうかもしれないものだということを自覚したいのです。

3.結論

まとめになります。今回は、パリサイ派や律法学者たちことを考えてみました。彼らはイエスの言動に疑問を持ちました。そして、それには無理からぬ面があったことも指摘しました。別に彼らは心の曲がった人たちではなく、むしろイエスを理解できずに悪戦苦闘していた人たちだったのです。しかし、イエスの行う素晴らしい業を見て、イエスを信じた人たちもいたのです。ここは強調すべきことです。それでも、イエスが行う大胆な行動を理解できずに、そのためにイエスがどんなに素晴らしいことを行ってもそれを評価しようとせず、あろうことか悪魔の力を使っているのだとイエスを批判するようになってしまった残念な人たちもいました。みんながそうではなく、一部のパリサイ派の人がそうなってしまった、ということです。これは無茶苦茶な誹謗中傷なのですが、しかし私たちも人の振り見て我が振り直せという諺通り、こうしたパリサイ派をあざけったり非難する前に、自分にもそのような傾向がないだろうかと振り返るべきです。なぜなら、パリサイ派と同じように、クリスチャンも自分たちこそ正しいと固く信じ、自分たちと違う信仰を持っている人は悪い、悪いだけでなく悪魔だと批判することすらしてきた歴史があるからです。私たちは宗教改革を素晴らしいことだと考えています。しかし宗教改革には光と陰があります。ルターが宗教改革ののろしを上げた時から100年後、そのドイツで宗教戦争がはじまりました。カトリックとプロテスタントとの間の戦争で、その戦争は30年も続き、その結果ドイツは何と人口の三分の一を失ってしまいました。三分の一ですよ。まさに地獄絵です。同じクリスチャン同士が、どうしてそんなに恐ろしい殺し合いをしたのか。それは相手を悪魔のしもべだと信じたからです。宗教改革者たちはローマ教皇が反キリストであると信じていました。カトリックの人たちは悪魔だと信じたのです。だからカトリック教徒を殺すことに躊躇しなかったのです。カトリック側も同じです。プロテスタントは異端、神の道を捨てた者たちなので殺しても構わないと考えたのです。自分と違う信仰を持つ者を悪魔と呼ぶ姿勢、それはイエスのことを悪魔の力で悪霊を追い出していると信じ込んだパリサイ派と何が違うのでしょうか。私たちはこの聖書の記述から、また教会の歴史から、自分の信仰だけが正しいと信じ込むことの危険を学ぶべきです。私たちは、人をレッテル貼りしないようにしたいのです。それがこの分断の時代に必要なことです。主イエスもレッテル貼りをせずに、どんな人にも接しました。私たちもそのように歩んで参りましょう。お祈りします。

天におられます神様、そのお名前を賛美します。今日はイエスのことを理解できなかった、理解しようとしなかった一部のパリサイ派や律法学者の悲劇を学びました。しかし私たちもまた、そのような過ちを犯しやすい者であることも事実です。どうか私たちがそうした過ちに陥らないように守ってください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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悪霊を追い出すマタイ福音書8章28~34節 https://domei-nakahara.com/2026/02/01/%e6%82%aa%e9%9c%8a%e3%82%92%e8%bf%bd%e3%81%84%e5%87%ba%e3%81%99%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b88%e7%ab%a028%ef%bd%9e34%e7%af%80/ Sat, 31 Jan 2026 23:45:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=7210 "悪霊を追い出す
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みなさま、おはようございます。私たちはマタイ福音書を読み進めていますが、だんだんと重要なテーマが出てきます。マタイ福音書では、まずイエスの教えをまとめた「山上の垂訓」があり、次いでイエスのいくつかの重要な癒しの出来事があり、そして今回は悪霊払いです。悪霊払いがイエスの宣教活動における重要な柱の一つだったということは広く知られていますが、実はマタイ福音書では今回の箇所が最初の場面です。

ただ、悪霊払いと聞くと、なんだかおどろおどろしい感じがしますよね。アメリカ映画でずいぶん前ですが、「エクソシスト」という映画が大きな話題を呼び、その後もそれに類する映画がいくつも作られてきました。ローマ・カトリック教会には悪霊払いを主な任務とするエクソシストと呼ばれる聖職者が今でも現実に存在するのですが、そうしたエクソシストたちが人間にとりついた悪霊と戦うというのがそれらの映画の内容です。私はそういう映画が割と苦手で、まともに全部を通して見たことがないのですが、なんというかグロテスクな目をそむけたくなるような映像の映画です。こういうアメリカ映画がはやるのは、アメリカでは聖書が広く読まれていて、アメリカ国民の方々が福音書に出てくる悪霊払いの話に慣れ親しんでいるのが一つの理由なのではないかと思います。しかし、「悪霊」などというものは科学万能の現代人にとってはにわかに信じがたいものではないでしょうか。何か迷信じみた話で、悪霊が存在して人間に悪さをしているなどという話をまともに受け止めるのは難しいと考えるほうがむしろ普通なのではないでしょうか。そんな話は『鬼滅の刃』のような人気アニメと同じフィクションでしかなく、まともに考えられないと感じる人が多いということです。

しかし、福音書に出てくる悪霊という存在は、現代人にも理解できるものなのではないか、ということをここで少しお話ししたいと思います。皆さんはユングという名前を聞いたことがあるでしょうか。カール・グスタフ・ユングという人で、20世紀に活躍した有名なスイス人の精神科の医師です。精神科の医師と言いましたが、彼は心理学者としても世界的に有名で、あのフロイトのお弟子さんだった人です。フロイトやユングは心理学の中でも深層心理学という分野を確立した学者として有名です。私たちには「意識」というものがあり、意識なしには人間は人間とは言えないわけですが、「無意識」というものもありますよね。私たちは、しばしば無意識のうちに行動することがあります。夢遊病者が夜歩いているのはまさに無意識の行動です。そして無意識の状態とは意識が全くないということではなく、自分では気が付かない意識の領域があるということです。自分の心なのに、自分にはよく分からない、あるいは意識していない領域があるということです。こういう意識のことを「深層意識」とも呼びます。深い層にある意識、ということですね。そういう、いわば隠れた意識が私たちを動かすということがあるのです。深層意識の一つの例としてよく言われるのが、例えば子供の頃に非常に怖い出来事があった、あるいはとてもいやで思い出したくもない出来事があると、私たちはそれを思い出さないようにと意識の奥に閉じ込めて蓋をしてしまいます。起きたことを、なかったことのようにして自分の心の平安を保つのです。しかし、閉じ込められた意識や負の感情はそれで消えてしまうわけではありません。何かの拍子に、そうした閉じ込められた記憶が呼び起されて、私たちの精神に強い影響を及ぼし、私たちを思わぬ行動に走らせてしまうことがあります。フロイトやユングは、精神障害とされる症状のいくつかがそうした深層心理、深層意識に起因しているということを解き明かしたのです。そして患者を催眠状態にして、隠れた記憶を語らせたりしてその人の心の病の原因となっている過去のトラウマを見つけ出すというような治療行為を行っていきました。

このように、私たちが普段意識している心の領域の下にある無意識、あるいは深層意識を解明していくという研究が続けられたのですが、ユングはそのような知見にさらに新しい発見を加えました。私たちの意識は私個人の無意識だけでなく、集団の持つ無意識というものがあり、そうした集団の深層意識、集合意識ともつながっているのだ、という説を唱えたのです。どういうことかといえば、日本人一人一人は個人としての深層意識だけではなく、日本民族としての深層意識とつながっており、さらに言えば日本人とかインド人とかいう民族を超えた、全人類の集合無意識ともつながっているというのです。端的に言えば、無意識には私個人の無意識と集団としての無意識があり、私たちはそのどちらにも影響を受けているということです。なんだかとても壮大な話なのですが、ユングは実際に多くの精神病の患者を診断するうちにそのような結論に達しました。例えばある患者が、不思議なシンボルを見たと言ってそれを絵にかくのですが、その描かれたシンボルが実は古代の文書に書かれたシンボルとそっくりだというような事象がありました。そしてその患者は、まちがいなくその古代のシンボルを知りませんでした。なぜならそのシンボルはつい最近発見されたもので、世間には知られていないものだったからです。では、なぜ見たこともないシンボルを正確に描くことができたのかと言えば、それはその患者の深層意識が古代から伝わる人類の集合無意識とつながっているからだ、という説明が成り立つのです。なんだか科学というよりもオカルトのような話ですが、ユングは学者には珍しく超常現象に深い関心を寄せていた学者でした。

 さて、このユングの集合無意識がイエスの悪霊払いと何の関係があるのか、と思われるかもしれませんが、それがあるのです。この集合無意識も人間の心、それも多くの人間の心に根差したものですから、そこには愛のようなプラスの感情もあれば、負の感情、憎悪や破壊衝動のようなマイナスの感情もあります。そして人間が無意識のうちにそのような負の集合意識とつながってしまうと、その人の性格にも甚大な影響、しかも悪い影響を及ぼしてしまうのです。ユングは、その最悪のケースの一つがナチス・ドイツの時代のドイツ人の精神状態だったと論じています。少し長いですが、それを引用します。

ドイツ人を戦争へ追い立てたのには、政治的・社会的・経済的・歴史的なさまざまな理由があったことは、普通の殺人の場合と同様、言うまでもない。どんな人殺しにもそれなりの動機はあるので、さもなければ犯罪は起らないことになるだろう。だがひとたび事が起るとき、そこにはもうひとつ心的な要因がなければならない。そこで犯罪心理学というものが存在するのだ。ドイツは、ある集団精神状態に陥っていたために、必然的に犯罪へと走らなければならなかった。しかし、どんな精神状態もだしぬけに空から降ってくるわけはなく、かなり長いあいだにわたる潜在状態があるものであって、それを精神的劣等(コンプレックス)という。民族にはそれぞれの心理があるように、またそれぞれに固有の精神病理がある。それは多くの異常な特徴の集積から成っているが、なかでも際立っているのが、国民全体に蔓延した暗示性である。(『ユングの文明論』より引用)

つまりユングは、ナチス・ドイツ政権下のドイツ人は集団的な精神病に陥っていたのであり、深層無意識に圧倒されてしまったというのです。そして話は戻りますがイエスの悪霊払いの話です。この悪霊に憑かれた人たちも、集合的な深層意識によって振り回されていた可能性があるのです。それで長々とユングの話をしていたのです。

この悪霊払いの記事は、マルコ福音書の記事をマタイが用いたものです。マタイはマルコ福音書を資料として用いて福音書を書き、マルコの記事の九割以上はマタイで使われています。この記事もそうです。マルコ福音書5章1節から20節までの記事を短くしてマタイはここで用いています。しかし、詳しく比べるとマルコとマタイの記述には細かな違いがあります。まず、マルコでは悪霊に憑かれた人は一人ですが、マタイでは二人になっています。しかしこれはマタイの癖のようなもので、マルコ福音書ではイエスが一人の人を癒したとなっているのに対し、マタイでは二人を癒したと変えられているケースが複数例あります。マタイがなぜそうしたのか、学者の間でも意見が割れており、私にもその理由が分かりませんが、マタイはイエスの偉大さを強調したかったのかもしれません。また、マルコ福音書ではイエスが悪霊払いを行ったのは「ゲラサ人の地」となっていますが、マタイでは「ガダラ人の地」となっています。ゲラサもガダラもギリシア人の住むデカポリスと呼ばれる地域の町ですが、互いにかなり離れた場所にありました。ここもなぜマタイがこの地名に変えたのか、その理由は不明です。こういう細かな違いを除けば、マタイとマルコの話は全く同じです。イエスは悪霊に憑かれて墓場で暴れている人のところに行き、そこで悪霊と対決します。そこでマタイにはないマルコの記事によれば、悪霊はイエスに名前を聞かれて、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と答えています。この「レギオン」というのはローマの軍隊の名前で、数千名からなる精鋭部隊でした。ですから、この可哀そうな人物にとりついた悪霊は一人ではなく数千人にも及ぶということが示唆されているのです。この一人ではなく数千という数は、先ほどの集合無意識雄というものを連想させます。しかし、人類の集合無意識と悪霊とを結びつけるというのはあまりにも乱暴な意見ではないか、と思われるかもしれません。たしかに集合無意識は、悪霊のような悪一色のものではありません。そこには善の要素も悪の要素もあります。そのどちらが人間に影響を及ぼすのかは、その人間次第という面もあります。ここで再びユングの話を聞いてみましょう。少し難しい専門用語も出てきますが、そのままお読みします。

国家社会主義(これはナチスのことです)、これら集団心理学現象の一つであり、集合的無意識の噴出の一例であって、それについて当時私は、二十年近くも説いていた。集団心理学現象の駆動力は、元型的な性質のものである(「元型」とは人類の無意識が持つ、普遍的なイメージのことです)。元型というものはどれも、最高と最低、悪と善を併せ持っていて、だからこそ、およそ矛盾にみちた働きをするものである。したがって、それが肯定的な効果をもたらすか、否定的に動くか、あらかじめ決めることはできないのである。(『ユングの文明論』からの引用)

集合無意識は、無意識であるがゆえに、人にはコントロールできないのです。コントロールできないから、普通ではない、異常な行動になってしまうのです。集合意識の負の部分、悪の部分が人間行動に強い影響を及ぼしてしまうというのが、このレギオンにとりつかれた人の行動の一つの説明だと言えるでしょう。では、そのような病理を如何に克服できるのか。それについてユングはこう説明しています。

私は精神病医だから、無意識内容に圧倒されている患者にとって、意識と理解力を、つまり正常な人格の形成要素を、できるかぎり強化することがいかに大事であるかを知っている。それによって侵入してくる無意識内容を受け止め、意識に統合できるようになるからだ。無意識それ自体は、破壊的ではなく、アンビヴァレントなものであって、それが災禍を来たらすか、恩恵をもたらすかは、ひとえにそれを受け止める意識にかかっている。(『ユングの文明論』より引用)

つまり、集合無意識に振り回されないためには、健全な意識を強化すべきだということです。イエスが悪霊払いを行うというのは、その人の意識を高め、深層無意識の悪い影響に振り回されないような状態に戻してあげたのだ、という説明ができるのです。もちろん、それだけでこのイエスの悪霊払いを説明することはできません。悪霊はそれから豚の大群に乗り移り、その豚の大群が湖に駆け下りておぼれ死んだとありますが、人間の集合無意識が豚に乗り移ることはないからです。この点については、確かに説明はつきませんが、しかし悪霊払いの話はすべてがありのままの事実というわけではなく、劇的な演出ということもあるのかと思います。

では、このレギオンにとりつかれていた人を振り回していた負の集合無意識とは何でしょうか。それは、生活の苦しさや不安だったと思います。当時の村々の人々は、ローマ帝国から課される重税と、ローマの兵士が振るう暴力に苦しめられていました。そういう不満は、しかし表に出すことはできません。そういう感情を押し込めるわけです。不満を述べてローマに目を付けられたくないからです。しかし、人々の不満は深層心理の中にマグマのように沈殿していきます。そうした押し殺されてきたものの影響を一番受けてきたのがこのレギオンにとりつかれた人ではないか、ということです。その人に対してイエスは向き合い、彼を深層意識の悪い影響から救い出したのです。

まとめになります。今日は、マタイ福音書での最初の悪霊払いについて見て参りました。悪霊というと、なんだかおどろおどろしい、おとぎ話のようなもので、私たちの日常生活には関係ない、と思われるかもしれません。しかし、近代以降の心理学が明らかにしたように、私たちの精神や心に悪い影響を及ぼす集合無意識というものがあり、今回の「レギオン」と呼ばれる悪霊もそのようなものとして捉えることができるかもしれません。この集合無意識の影響を受けるのは一人だけであるとは限りません。むしろ、それが一人ではなく集団に影響を及ぼすようになると、ナチス・ドイツのような熱狂的な国民運動、あるいはアメリカに宣戦布告をするという、まさに自殺行為を選択した戦前の日本のようになってしまうということです。では、なぜナチス・ドイツが生まれてしまったのか。それは、第一次大戦後のドイツ人をいじめすぎたからです。ヴェルサイユ条約で、ドイツ系住民はバラバラにされ、チェコスロバキア・ポーランド・オーストリアで少数民族として扱われることになりました。また、敗戦国ドイツへの賠償金は、何と今日の価値で言えば200兆円という天文学的な額に及びました。工業基盤を失ったうえにその賠償を支払おうとして無理を重ねたドイツは二度のハイパーインフレーション、つまり1億円の価値が1円になってしまうという恐ろしい経験をしました。皆さんの貯金1億円が1円になってしまったら、どう思いますか?頭がおかしくなりますよね。そういう不満がドイツ人の深層意識を乗っ取ってしまい、その深層心理に振り回されたのが第一次大戦後のドイツだと言えます。

今日の世界にも不満が鬱積しています。アメリカでトランプという異形の大統領が生まれたのも、格差が大きくなりすぎて、没落した中産階級が多く生まれました。彼らの不満がトランプ政権を生み出したのです。日本についても同じです。対中国に対する強気な発言をする政治家が受けるのも、国民の不満を外に向けようとする力が働いている気がします。そして不満の源は生活の苦しさです。それを何とかしない限り、不満は人々の深層意識の中に蓄積していき、いつか爆発することになりかねません。私は格差を生み出しているのは行き過ぎたグローバリズムだと考えています。この説教ではあまり政治や経済の話をすることはしませんが、イエスの神の国の福音も、格差をなくして「神の下に平等」な社会を作り出そうというものだったことは強調してもよいと思います。悪霊払いの話から、大きなテーマになりましたが、このことをよく考えて、今の選挙でも日本人が適切な選択をするように祈るものです。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今日は悪霊払いの話から、格差の問題へと話が及びました。今日の日本にも多くの不満や不安がありますが、そのために私たちが愚かな行動に走らないように、どうかこの国を導いてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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イエスに従うマタイ福音書8章18~27節 https://domei-nakahara.com/2026/01/18/%e3%82%a4%e3%82%a8%e3%82%b9%e3%81%ab%e5%be%93%e3%81%86%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b88%e7%ab%a018%ef%bd%9e27%e7%af%80/ Sun, 18 Jan 2026 00:23:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=7193 "イエスに従う
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1.序論

みなさま、おはようございます。私たちはマタイ福音書を読み進めていますが、物語はまだ序盤で、主要な登場人物がまだ出そろっているわけではありません。今「物語」と言いましたが、別に福音書がフィクションだと言っているわけではありません。むしろ、福音書は起承転結という物語の作法に従って進展していくということを言いたかったのです。

物語には主人公と呼ばれる存在が必ずいます。福音書物語の主人公はもちろんイエスです。そして主人公を取り巻く人たちがいますが、大雑把に言えば「味方」と「敵」という二つのグループに分かれます。イエスに味方をする人と、反対する人たちがいるということです。イエスの最大の敵は、これまでも一度登場しましたが、それは「悪魔」です。悪魔は荒野で断食をするイエスを誘惑し、イエスがその使命に歩みだすのを妨害しようとしました。しかし、イエスは悪魔の誘惑をはねのけて宣教を始めます。イエスの敵となるのは霊的な存在である悪魔だけでなく、人間のグループとしても登場してきます。それはユダヤの最高権力者である大祭司や祭司長たち、そして彼らに協力する律法学者やパリサイ派の人たちがいます。こうしたイエスに敵対する人々の存在感がこれから高まっていきます。

主人公であるイエスの周りには敵だけでなく、もちろん味方も集まってくるのですが、これまでイエスに従った味方はシモン・ペテロとその兄弟アンデレ、そしてゼベタイの子ヤコブとヨハネの四人でした。イエスの最側近ともいえる四人です。しかし、イエスの仲間、味方はもちろん四人だけではありません。イエスは全イスラエルに、できるだけ早く神の国の福音を届けたいのです。その手助けをしてくれる仲間は多ければ多いほどよいのです。そしてそのような仲間は「弟子」と呼ばれます。イエスはできるだけ多くの弟子を得て、彼らと共に福音宣教を拡大しようとしています。しかし、誰でもイエスの弟子になれるというわけではありません。ここでいう「弟子」とは、単にイエスの福音を受け入れて、神の国の恵みに与るというだけの人ではありません。恵みを受けるというのは受け身の側ですが、弟子はむしろ恵みを伝える、与える側の人たちです。もちろん、神の恵みを受ける側も与える側もどちらも必要で、どちらか一方が優れているとか、上だということではありません。イエスの弟子たちは仕事を捨ててイエスに従っていったので、生活をしていくための稼ぎの手段を失ってしまいました。そのような彼らが伝道を続けられたのは、彼らを支えてくれるもっと多くの人たちがいたからです。彼らは福音の恵みを受ける側ですが、ただ受けるだけでなく、福音を伝える人たちの活動を支えることで、彼らにお返しをしていたのです。

というわけで、イエスの味方には、彼の伝道活動を直接手助けする比較的少数の「弟子」と呼ばれる人たちと、イエスの伝道には直接関与しないものの、間接的に弟子たちの宣教活動を支えるより多くの人たちという二つのグループがありました。今回の箇所では、この最初のグループ、つまりイエスと常に行動を共にし、苦楽を共にしていく「弟子」となるための心構えが述べられているのです。イエスと行動を共にするということには、それなりの覚悟と犠牲が伴うことを今日の箇所は強調しています。ただ、もちろんすべてのクリスチャンがこのような覚悟や犠牲を受け入れなければならないということではありません。これはイエスに直接従う、どこまでもついていくということを選んだ少数の人たちだけに要求される厳しい要件だということです。そのようなことを念頭に置いて今日の箇所を読んで参りましょう。

2.本論

では、8章18節から読んでいきましょう。ここではイエスの弟子となることを願う二人の人物が登場します。一人は「律法学者」です。律法学者と言うのはモーセの律法の専門家で、人々に具体的に律法をどのように日々の生活で守るべきかを教えていました。律法学者は、福音書ではイエスとは対立する立場の人たちが多いのですが、みんながみんなイエスに敵対したわけではなく、イエスに心酔し、イエスに従おうとした律法学者もいたのです。しかし多くの律法学者は、イエスが自分たちとは異なる律法の解釈をして、それを人々に教えていたのでイエスに腹を立てていました。今でいえば、大学の教授が学生に教えている内容とは違う内容のことをユーチューブで教えている人がいて、学生たちが自分ではなくそのユーチューバーのことを信じるようになってしまったという、そんな感じでしょうか。大学教授は面目をつぶされて怒るでしょうが、イエスに腹を立てた律法学者たちもそんな感じでした。イエスなんて、どこの馬の骨かもわからないやつが自分の教えを否定していると感じて、なんとかこの生意気なやつをつぶしてやりたいと思ったのでした。それでも、すべての律法学者がそんなに心が狭かったわけではありません。なかにはオープンな心持の人もいて、偏見なしにイエスの教えを聞いて、またイエスがなさる驚くべき癒しの業も目撃し、このイエスこそイスラエルが待ち望んでいた救世主に違いないと確信する人もいたのです。ここで登場する律法学者もまさにそのような人でした。彼はイエスにこう語りました。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」これは、ものすごく大胆な発言ですね。この律法学者にも、今まで世話になってきた先生や先輩がいたでしょうし、また当時の律法学者は人々に律法を教えて月謝を貰っていたわけではなく、自分自身で手に職を持っている人がほとんどでした。今の時代の大学教授や、あるいは塾や予備校の先生は教えることで報酬を得ることができますが、イエスの時代の律法学者は「律法教室」みたいな会を開いて給与を得ていたわけではなく、職人のように何かを作ったりしてそれで生計を立てていたのです。律法については、無償で人々に教えていました。もちろん、食べ物とか、何らかのお礼をもらってはいたとは思われますが、それを主な収入源とはしていなかったのです。この律法学者がイエスにどこまでもついていくということになると、自分の仕事を辞めなければならないし、また今まで律法を共に学んできた同僚や先輩がイエスに反対している場合、彼らとも決別しなければならなくなります。つまり彼は仕事も人間関係も捨ててイエスについていくと宣言しているのです。今でいえば、安定した収入がある公務員かサラリーマンが仕事を辞めて、放浪の旅を続ける不思議な人物についていくようなものです。皆さんがその人の家族なら大反対するでしょうね。それほどの覚悟を持って、この律法学者はイエスについていくと宣言したのです。その彼に対し、イエスはこう言われました。

狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。

ここでイエスは自分のことを「人の子」と呼んでいますが、これはマタイ福音書では初めてのことです。イエスは、動物にすら寝床があるのに自分には枕する所もない、とぼやきのようなことを語っています。実際には、当時のイエスはカペナウムのペテロの実家に居候させてもらっていたので、衣食住には不自由していませんでした。それどころか癒し人として大変な人気がありましたので、我が家に泊まってくださいと申し出る人もたくさんいたことでしょう。では、なぜイエスがここでこんなことを言ったのかといえば、イエスについていくということは、そのような非常に困難な場面に遭遇することもありえますよ、あなたにはその覚悟がありますか?と問うているのです。実際、イエスの人気が上がるにつれ、イエスに激しく敵対する人も増えていきます。夜逃げ同然で迫害を逃れるような状況もありうるのです。イエスは自分についていきたいという律法学者に対し、慎重に考えなさい、それだけの犠牲を払って私についてくる覚悟が本当にあるのか、自分に問うてみなさいと言っているのです。

さて、21節には別の人物が登場します。この人物は「弟子」とはっきり呼ばれていますし、イエスのことを「先生」ではなく「主よ」と呼んでいますので、先の律法学者と比べても、イエスとの関係性はもっと近い人物だと言ってよいでしょう。つまり、もうイエスに従っていくということを決めていて、すでにイエスと行動を共にしている人だろうということです。その人が、イエスにいわば「忌引き」を願い出ます。それは父を葬る時間が欲しいというものでした。ここで現在の日本と古代の中近東の文化の違いに気を付けてください。今の日本では結婚も葬式も大体一日で終わりますが、当時の中近東では近親者の結婚あるいは葬儀は一週間ぐらいかけて行っていました。それだけ大変なイベントだったのです。ですから、このイエスの弟子も、イエスに一週間ぐらい宣教活動を離れて家に戻らせてほしいと願ったのです。これは至極普通のことでした。当時のユダヤ人の間では、親の葬儀を立派に行うというのは何にもまして優先されるべき家族の義務でした。十戒にも両親を敬えとありますが、親のためにきちんと葬儀を行うこともその戒めの一部だと考えられていました。ですからイエスにしばしお暇させてほしいと願い出た弟子も、何も無理なお願いをしているという意識はなかったことでしょう。しかし、それに対するイエスの答えは非常に厳しいものでした。

わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。

イエスの言葉には、たまに理解が非常に困難なものがありますが、この言葉もまさにそのようなものの一つです。休暇を認めない、とイエスが言っているのは分かります。でも、死人に死人を葬らせるとはいったいどういう意味なのでしょうか。葬儀をする人たちはもちろん生きていますし、生きていないと葬儀はできません。その人たちを死人と呼ぶのはいくらイエス様でもあんまりではないですか、と言いたくなってしまいます。私は正直に申し上げて、特にこのイエスの言葉の後半の意味を捉えかねています。しかし、ポイントは「わたしについて来なさい」のほうにあります。この言葉が、次の嵐鎮めの話の伏線になっているからです。ともかくも、イエスの要求は大変厳しいものでした。イエスはこれからも、家族の問題よりも神の国を優先しなさいと繰り返し述べています。それだけイエスに従うということは生易しいことではない、ということを伝えようとしているのだと思われます。すべてを犠牲にして、家族との絆を断ち切ってでも私に従う覚悟があるのかと、ここでもイエスは問うているのでしょう。今日でも、イエスに従うというのは容易なことではありません。牧師になると言ったら親から勘当されたという先生の話を聞いたことがあります。その先生は超有名大学を卒業して将来を嘱望されていた方でしたが、親からすれば牧師にするためなんかにいい学校に行かせてやったわけではない、という気持ちだったのでしょう。今や新卒の初任給が30万円を軽く超える時代ですから、安月給の牧師など割に合わないというのが普通の感覚かもしれません。しかし、神に従うことで受ける報いはもっと大きいとイエスは約束しています。ただ、気を付けたいのは、親の世話をするというのは聖書の非常に重要な教えだということです。パウロは第一テモテの5章8節で次のように述べています。

もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。

親兄弟を顧みないことは、信仰を捨てることだとパウロは明言しています。ですから、イエスももちろん家族のことを顧みなくてよいなどと教えているわけではありません。イエスが十字架上でも母マリアの老後のことを心配していたことを忘れてはいけません。むしろイエスは弟子となることの困難さ、代価をあらためて伝えようとしているのです。中途半端な覚悟でイエスについていくことはできないのです。

さて、この二人の人物との対話の後に有名な嵐鎮めのエピソードが来ます。この話はその直前の弟子たちとの会話とは関係がなさそうに見えますが、実際にはあるのです。マタイ福音書はマルコ福音書をベースに書かれていて、マルコ福音書に登場するエピソードをマタイはほとんどそのまま借用しています。実にマルコ福音書の9割以上がマタイ福音書に収録しています。しかし、マタイとマルコを比較すると、マタイはマルコ福音書の記述を少し変えているのが分かります。今回の嵐鎮めもまさにそのような箇所です。では、どこを変えているのか見てみましょう。マルコ4章36節では、「そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした」となっていますが、マタイ8章23節では「イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った」となっています。お判りでしょうか?マルコでは弟子がイエスをお連れしたとなっているのに対し、マタイでは弟子がイエスに従った、となっているのです。これは小さな違いのように思えるかもしれませんが、マタイは明確な意図をもってそこを変えたものと思われます。なぜかと言えば、先ほどの22節の「わたしについて来なさい」というイエスの命令は、「私に従いなさい」とも訳せますが、それと対応するかのように「弟子たちも従った」となっているということです。実際、この二つの文ではアコロウセオーという同じ動詞が使われています。つまりマタイは、この嵐鎮めの話を弟子の道という文脈で提示しようとしているのです。これから弟子たちが向かう船旅を、この世の荒波に譬えているということです。弟子たちはこれからイエスの神の国の福音を携えて、世間という嵐の中を進んでいかなければなりません。死んでしまうのではないか、と思われるほど困難な状況に直面するかもしれません。しかしそんな時でも、彼らは一人ではない、イエスがいつも共におられてこの世の荒波すら克服する力を与えてくれる、そのような堅い信仰をもって歩みなさいというメッセージを込めて、マタイはイエスの嵐鎮めのエピソードを語っているのです。弟子の道は確かに大変です。イエスからの要求もとんでもなく厳しく大きいです。同時に世間からの風当たりも非常に厳しいものがあります。しかし、イエスは彼らにその困難さをも乗り越える力を与えてくださる、だから勇気を出して歩みなさいということをイエスは伝えようとしているのです。

3.結論

まとめになります。今日はイエスの弟子となるために必要な心構えや覚悟をイエスが教えたところを学びました。私たちのすべてがこのことを求められているわけではない、ということを最初に申し上げましたが、しかし今日の世界でも宣教の最前線に立ち人たちはこのような心構えが求められています。自分がそのような立場になるのか、あるいはそういう人達をサポートする立場になるのか、というのは私たちそれぞれが神様との間で考えていくべきことです。ただ、どちらがより尊いとか偉いとか、そういう優劣はありません。どちらも必要なのです。どちらも必要ですが、イエスに直接従うと決めた人に求められる要求は大変大きいのです。でも、大変なだけではありません。イエスはそのような人と常にともにおられて助けてくれるということを嵐鎮めのエピソードは教えています。同時に、神の国のためにそれまでの人間関係や仕事を捨てた人には百倍の報いがあるともイエスは約束しています。そんなこと本当にあるのかと思われるかもしれませんが、私自身がそのようなことを身をもって体験しています。私も、当時としては最高水準の給与の企業に勤めていて、その会社を辞めて聖書を学ぶためにイギリスに行くことにしたのですが、周囲の人たちからは「大丈夫なのか」ととても心配されました。また、海外に行って学ぶのですから当然お金もかかります。それまで働いて貯めたお金のほとんどをつぎ込んだので、経済的にも決して楽ではありませんでした。しかし、そこから得たものはお金には換算できませんが、それこそ何十倍でした。神様は誠実な方です。約束は必ず守ってくださいます。ですから私たちも堅い信仰をもって歩んで参りましょう。お祈りします。

天におられますイエス・キリストの父なる神様。そのお名前を賛美します。今日は弟子となることのコストと、同時にサポートについて学びました。私たちの召命はさまざまですが、それぞれが与えられた使命を果たせるように力をお与えください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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三つの癒しマタイ福音書8章1~17節 https://domei-nakahara.com/2026/01/11/%e4%b8%89%e3%81%a4%e3%81%ae%e7%99%92%e3%81%97%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b88%e7%ab%a01%ef%bd%9e17%e7%af%80/ Sun, 11 Jan 2026 00:14:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=7184 "三つの癒し
マタイ福音書8章1~17節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。前回でイエスの山上の説教は終わり、イエスがいよいよ本格的な活動を始めるというところに入ります。これらの癒しは大変有名ですが、ではこうした癒しにどんな意味があったのか、イエスの宣教における病の癒しの意義を考えていきたいと思います。

まず初めに考えたいのが、山上の垂訓とこうした癒しとの関係です。イエスはここまで非常に長い説教を行ってきました。それらは驚きに満ちた、またチャレンジに満ちた、とてもとても深い内容のものでした。また、前回の説教でお話ししたように、イエスはこうした教えを人々が聞くだけで満足しまっては何の意味もない、むしろこうした教えは実践されてこそ意味があるのだ、ということを強調していました。ですから私たちとしては、イエスの教えを実際に人々が実践に移そうとして努力している姿が描かれていると、大変参考になるわけです。私たちにとっても山上の説教の内容を日々の生活でどのように活かすべきか、実践すべきかというのは大変関心のあるテーマですので、時代も文化も大いに異なる当時のユダヤの人たちではあっても、彼らがこうした教えをどのように実践しようとしていたのかを知ることには大きな意味があります。

しかしマタイは、イエスの話を聞いた人たちが、それからどのように行動したのかということについては触れずに、もっぱらイエスの活動に焦点を合わせています。しかも、その活動は大変印象的ではあるものの、イエスのこれまでの教えとは直接関係のないもののように思えます。イエスの山上の説教と、今回の三つの病の癒しを結びつけるものはいったい何なのでしょうか。この二つを結びつけるキーワードは「神の国」です。もっと具体的に言えば、「神の国の到来がもうすぐだ」というイエスのメッセージです。イエスの宣教の目的とは、神の国とはどんなものなのかを人々に示し、その備えをさせようというものでした。マタイ福音書におけるイエスの宣教の第一声は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」でした。「天の御国」というのはマタイ独特の言い回しで、マルコ福音書やルカ福音書では「神の国」となっています。これは日本語でも「神をも恐れぬ」と「天をも恐れぬ」というのが同じ意味であるように、マタイは「神」という言葉をみだりに用いるのを避けて「天」と言い換えたのです。それが近づいている、というのがイエスの伝えようとした福音でした。神の国とは神の支配です。神ご自身がこの世界を愛と正義によって支配する世界の到来がもうすぐ到来するということです。そのような新しい現実、新しい世界に備えなさい、というのがイエスのメッセージでした。では、その神の国に「入る」ためにはどうすればよいのかを教えるのが「山上の説教」の目的でした。私たちは新しい環境に入る場合、新しいルールや決まりを覚えなくてはいけません。新しく学校に進学したり、新たに企業に就職する場合、その学校の校則やその企業の社内ルールを守らなければなりません。それを知らなければ学校生活、企業での生活を円滑に行っていくことができません。「山上の説教」も同じです。これから実現しようとしている神の王国、神の支配の中で人々がどのように生きるべきなのかを教えたのが山上の説教でした。それは近いのですから、人々は今すぐにでも生き方を変えるべきなのです。

それに対して、今回のイエスの行った「癒し」は、神の国がほんの近くまで来ているということを示すための「徴(しるし)」でした。イエスはこうした癒しによって「天の御国が近づいている」というメッセージが本当であることを実証しようとされたのです。そのような大きな背景を考えていきながら、三つの癒しを見て参りましょう。

2.本論

では8章1節から読んでいきましょう。イエスが山上の説教を終えて山から下りてこられて初めに出会われた病の人はツァラアトという病を持つ人でした。このツァラアトというのが具体的にはどのような病だったのか、今でもよくわからない部分があります。それが皮膚の病であるのは確かなのですが、現在の私たちが知っている皮膚病のどれに相当するのか、確かなことは分かりません。ただ、そのツァラアトに罹患した人が社会的に大変厳しい状況に追い込まれてしまったことは確かです。まず一つには、このツァラアトは人に伝染すると考えられていので、ツァラアトになった方は家族から離れたところで寂しく暮らさなければなりませんでした。同時に、ツァラアトの人は宗教的な意味、聖書的な意味で「けがれた」人と見なされました。この聖書的な「けがれ」は罪ではないということは強調しておく必要があります。たとえば女性が出産すると、その女性は聖書的な意味で「けがれ」ます。聖書的な意味でけがれるとは、そのような女性はけがれると聖書に書いてあるということです。しかし、子供を産むのは祝福であって罪ではありません。にもかかわらず、その女性はけがれるのです。ですから聖書的な「けがれ」は罪とは区別する必要があります。ともかくも、ツァラアトになった人はそのような聖書的な意味での「けがれ」の状態にあり、そのようなけがれも人に伝染すると信じられていました。しかも、産後の女性の汚れは時間と共になくなりますが、ツァラアトの場合は治るまで「けがれた」状態のままです。したがって、ツァラアトの人は二重の意味で、つまり病気が伝染するとの、宗教的な意味でのけがれが伝染するのを防ぐために、人々から隔離されなければならなかったのです。しかも、当時はツァラアトに対する医療行為は確立されていませんでした。治る見込みがなかったということです。ですからツァラアトになってしまいことは、社会的な意味では死亡宣告を下されるのに等しいことでした。そして、旧約聖書を見ても、ツァラアトが癒されたという話はありません。唯一の例外は、異邦人の将軍であるナアマンの癒しでした。ナアマンはユダヤ人ではなくアラム人でしたが、彼のツァラアトは預言者エリシャによって癒されました。しかし、旧約聖書の癒しの記事はこれだけなのです。ほかにユダヤ人がこの病から癒されたという記録はありません。したがって、この病が癒されるということはイスラエルの長い歴史においても大事件なのです。イエスがこれから神の国が来ようとしているということを証明するための癒しとして、ツァラアトの癒しほどふさわしいものはありませんでした。

このツァラアトの人はイエスの前にやってきました。これは大変勇気のいる行動でした。なぜなら、聖書はツァラアトになった人が人前に出ることを禁止しているからです。レビ記13章45節、46節にはこうあります。

患部のあるそのツァラアトの者は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない。その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。

このように、聖書で明確に隔離を命じられている人が、イエスとその周りに群がる大群衆の前に出てくるというのはまさに命がけの行為なのです。人々から冷たい視線を浴びせられ、それだけでなく皆が自分の前から逃げ去るという、心が折れそうな状況だったことでしょう。それでも彼はどうしても治りたかったし、イエスならそれができると信じたのです。そこでイエスの前に身を投げ出して、「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます」とイエスに訴えました。「お心一つで」とは直訳すれば「もしあなたが願うなら」とあります。彼はもちろん治してほしいのですが、それをイエスに強いるようなことはせずに、あくまでイエスの憐みの心に委ねました。また、「治してください」ではなく「きよくしてください」という願望を伝えています。ツァラアトは単なる病ではなく、聖書的な概念では汚れた状態なので、その状態をきよい状態に戻してほしいと願ったのです。イエスもその人のまっすぐな気持ちに応えました。イエスは言葉を発する前に、まずそのツァラアトの人に触りました。これは驚くべきことでした。なぜなら聖書の教えでは、汚れた状態の人に触れると自分も汚れてしまうので、触ってはいけなかったからです。また、イエスならばその人に触れなくてもツァラアトを癒すことができたでしょう。なぜなら預言者エリシャはナアマン将軍に触れることなく彼のツァラアトを癒しているからです。しかし、イエスはあえて彼に触れました。このツァラアトの人もイエスに触れてもらってうれしかったでしょう。なぜならすべての人が彼を避けて、触ろうとはしなかったからでした。イエスは彼に触れた後、「私の心だ」と言っていますが、ここも直訳すれば「私は願う」となるでしょう。このツァラアトの人がお願いしたからではなく、イエスご自身の意思で彼のツァラアトを癒したかったということです。そしてその人はたちどころに清められました。聖書ではさらっと書いてますが、これはとんでもない大事件でした。なぜなら旧約聖書でツァラアトを患ったユダヤ人が癒されたという記事は一つもないからです。ですからこの癒しはイスラエルの歴史の中でも前代未聞の大事件だったのです。このような驚くべきことを行ったイエスですが、不思議なことに自分が彼を癒したことは誰にも言うなと命じています。とはいえ、周りにはたくさんの人がいたはずなのでこんな大事件が秘密にされることなどありえないのですが、ともかくもイエスはこの癒しをあまり広めないようにと指示したのです。しかし彼には癒されたからだを祭司に見せるように指示します。これは旧約聖書のレビ記の教えに従ったもので、ツァラアトから癒された人は祭司が「きよい」と宣言することを通じて正式にイスラエルの共同体の中に復帰することができるのです。イエスはこの人を癒してきよめただけでなく、彼がイスラエルの共同体の一員に戻ることを願っておられたということです。ここには、イエスの人々へのやさしい思いと配慮を見ることができます。イエスは彼らの病を治すだけでなく、社会生活をも回復させてあげたかったのです。

これが、マタイ福音書に記されたイエスの第一の癒しでした。次いでイエスは二度目の癒しを行いますが、今度の場合も最初の場合とは違う意味で極めて異例なケースでした。というのも、依頼に来たのはユダヤ人ではなく、ユダヤ人を支配し、高い税金を課し、時にはひどい暴力をふるうローマの兵士だったからです。多くのユダヤ人はローマの兵士をひどく嫌っていたことを忘れてはいけません。今でいえばベネゼエラ人にとってのアメリカ人、ウクライナ人にとってのロシア人のような存在だったのです。そのローマの兵士が、ユダヤの流浪の癒し人に部下の癒しを願ったのです。その病気のローマ人の部下も、ユダヤ人にひどいことをしていた可能性は否定できません。彼に対してイエスはどう対応したでしょうか?7節の訳では「行って、直してあげよう」というようにイエスが躊躇なく癒しに同意したように描かれていますが、より詳しくギリシア語を研究している研究者は、ここは「あなたは私に彼を直すために行けというのですか?」と言うように、疑問文として訳したほうがよいと主張していますし、私もそう思います。イエスはすぐに癒すことに合意したわけではないのです。なぜならイエスはその人を癒すためには異邦人の家に入らなければならないわけですが、当時のユダヤ人は異邦人の家に行くことを躊躇していたということは使徒の働きのペテロの言葉からも分かります。ですから繰り返しますが、イエスはその依頼に直ちに応じたわけではないのです。そして、イエスに依頼に来たローマ兵の隊長も、ユダヤ人が異邦人の家に入りたがらないということをわかっていました。そこで彼はイエスに、私の家に来てもらう必要はない、と言ったのです。むしろナアマン将軍を癒したエリシャのケースのように、言葉で言ってくれるだけでいい、それで私の部下は直るでしょうと言いました。イエスにはそのような「権威」があると認めているのです。これは見上げた信仰です。イエスもこの異邦人の軍人の深い信仰に感嘆し、初めの躊躇は撤回して彼の部下を言葉だけで癒しました。このように、イエスは初めに異邦人の癒しを躊躇したけれど、その異邦人の信仰が素晴らしかったので、それに応えて癒すという話の流れになっています。これはマタイ15章に出てくるカナン人の女の癒しとまったく同じパターンです。その時にもイエスは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と、けんもほろろでした。しかし、そのカナン人の女性の信仰があまりにも素晴らしかったので、「あなたの信仰はりっぱです」と褒めて、癒しを行っています。今回の百人隊長とまったく同じですね。ですからこれらはマタイが好んでいたパターンだということになります。そしてこの話には、マタイの教会人としての意図を感じます。というのも、イエスはその宣教対象をもっぱらユダヤ人に限定し、異邦人との接触を極力避けていたのですが、イエスの時代からだいたい50年後にマタイが福音書を書いていた時代には、なかなかイエスを信じようとしないユダヤ人たちをしり目に多くの異邦人がイエスを信じて救われていました。マタイはこのエピソードを記すことで、異邦人の救いの時代がこれから到来していくことになると、暗示したかったのでしょう。

そして三番目の癒しです。これがある意味で最も普通の癒しの記事だと言えるでしょう。イエスはナザレ出身ですが、ガリラヤでの拠点はカペナウムのペテロの実家でした。イエスはペテロの実家に、言い方は悪いですがいわば居候させてもらっています。そこでいつもお世話になっているペテロのしゅうとめが高い熱で苦しんでいましたので、イエスはそれを癒してあげました。この場合は持ちつ持たれつという具合で、とてもよい話だと思います。

このように、三つの癒しを見て参りましたが、もちろんイエスが癒されたのはこの三人だけではありません。ほかにもたくさんの悪霊につかれた人から悪霊を追い出したり、病の人を癒されました。悪霊を追い出すことは、人々を悪魔の支配から神の支配に取り戻すことなので、神の国、神の支配は近づいているというイエスのメッセージを確証するという意味でもとりわけ重要なものでした。マタイはまた、イエスのこうした活動が旧約聖書の預言者のことばの成就であるということを強調しています。マタイは14節で預言者イザヤのことばを引用しています。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」というのは、あの有名なイザヤ書53章の「苦難のしもべ」の歌から取られた一節です。ここからわかるのは、イザヤ書53章のしもべの「苦難」とは単に十字架だけではなく、むしろイエスの公生涯すべてを指している、ということです。イエスが私たちの苦しみを引き受けてくださったのは十字架上だけではなく、公生涯すべてにおいてだったということです。イエスは、おそらく人々を病や悪霊から解放するときに、ご自身でもそうした人々の苦しみを共有されたのでしょう。それがどういうことなのか、私にはうまく説明できませんが、おそらく相手の病をいやすときに、相手がこれまでどんな苦しみを背負ってきたのかが分かったのだと思います。そのような共感の上で、癒しの奇跡を行ったということです。ですからイエスご自身も、大変な思いをしながら癒しの業を行い続けたのです。

3.結論

まとめになります。今回は、イエスがその公生涯の初めに行った三つの癒しを見て参りました。最初はツァラアトの癒し、二つ目は異邦人の癒し、三つめはペテロのしゅうとめの癒しでした。このうちの最初の二つは、まさに神の国の到来、神の支配の到来がもうすぐだということを指し示すものでした。ツァラアトが癒されるというのは長いイスラエルの歴史でも初めてのことでした。このようなことが起きるということは、イスラエルの歴史に大きな転換点が訪れることを指し示すことでした。また、異邦人を癒したことも重要です。救いは今やユダヤ人に限定されず、広く異邦人にも及ぶということ、これが神の国の大きな特徴の一つです。そのような神の国の福音の拡大のミッションを、ペテロたちがこれから担っていくのですが、そのペテロのしゅうとめが癒されたことは、イエスがこうした働き人たちの生活のことも深く配慮してくださっていることを示すものです。

そして、こうした働きすべての背後にあるのはイエスの人々への深い愛と憐み、さらに言えば父なる神の愛です。神は人々を苦しみから救うために行動を開始したのです。このイエスの始められた神の国運動は、二千年を経た今日でも続いています。私たちにはイエス様のように人の病をいやす力はありませんが、社会の中の孤独や孤立を癒す働きはできると思います。イエスの働きを、今年も続けて参りましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神よ。そのお名前を賛美します。今日はイエスのなされた癒しの業を学びました。今日においても癒しを求める方は多くおられます。主がそうした方々を癒してくださいますように。また私たちも微力ながらそうした働きを担うことができますように。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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イエスの教えへの誤解マタイ福音書7章13~29節 https://domei-nakahara.com/2026/01/04/%e3%82%a4%e3%82%a8%e3%82%b9%e3%81%ae%e6%95%99%e3%81%88%e3%81%b8%e3%81%ae%e8%aa%a4%e8%a7%a3%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b87%e7%ab%a013%ef%bd%9e29%e7%af%80/ Sun, 04 Jan 2026 00:35:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=7173 "イエスの教えへの誤解
マタイ福音書7章13~29節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。今日が2026年の最初の説教となりますが、この箇所を今年の初めの説教として与えられたことは、何か象徴的なといいますか、大変大きな意味があることであるように思います。この箇所はキリスト教の核心的な部分に係ることだからです。

マタイ福音書を読み進めていくと、「おや?」とか、「これはいったいどういう意味なのか?」と思わされるところがいくつも出てくるのですが、今日の箇所などまさに典型的なところです。なぜ「おや?」と思うのかといえば、それはイエスの教えが私たちの普段考えているキリスト教とは違うことを言っているように思えるからです。胸がざわざわするというか、落ち着かない気持ちになってくるのです。たとえばその一つは、「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです」という、マタイ22章14節にあるイエスの言葉です。「少ない」というのがキーワードになっています。「いのちの道を見出す者は少ない」とか、「選ばれる者は少ない」と聞くと、「ああ、救われる人って少ないんだな」となんだがガクッとしてしまいますよね。特に日本のように、キリスト教人口が全人口の1%未満の国で、伝道の難しさが身に染みているような国では、いくらキリスト教を熱心に伝えようとも、大した成果が上げられないのではないか、という絶望的な気持ちになってしまうかもしれません。しかし、それは日本という特殊なケースの話で、世界では救わる人は少ないどころか、大変多いという現実があります。世界の総人口の約三割がクリスチャンと言われていますが、今の人口を80億人とすると、少なくとも20億人以上の人がクリスチャンだということになりますし、国によっては3割どころか5割にも上る国もあります。こんなに多くの人が救われているのなら、とても少ないなんていえないじゃないか、と思えてくるのです。日本だって、今でこそクリスチャンの数は少ないですが、これから数百年後になれば状況は全く変わっているかもしれません。仏教だって、初めはなかなか日本に定着しませんでしたが、鎌倉仏教という一種の覚醒時代を経て、広く庶民にも根付きました。同じことがキリスト教で起きる可能性は十分にあるのです。

ただ、今日の箇所はキリスト教人口が日本の人口の1%なのか世界の人口の30%なのか、というような数字の話ではなく、むしろその30%、世界の20億人ものクリスチャンがみんな本当に救われているのか、自称クリスチャンであれば、あるいは洗礼さえ受ければ、本当にみんな救われているのだろうか、という疑問を抱かせてしまうのです。よく、文化的クリスチャンという言葉があります。日本人でも、自分は神も信じないし無宗教だと思っている人も、自分の家が代々仏教の檀家であると、「私は仏教徒です」と答えてしまうように、伝統的にキリスト教国と呼ばれる国の人々は、教会には年一回ぐらいしかず、聖書も全然読まないような人でも「私はクリスチャンです」という人が結構たくさんいます。こういうケースも、本当に「救われている」と言えるのでしょうか。あるいは、確かに信仰心は篤いのですが、「自分は信じている、救われている」という気持ちばかり強くて、他人に対しては全然親切ではない、それどころか信仰を持っていない人を「救われてない人」というぐあいに蔑むような人は、なんとなくクリスチャンらしくないといいますか、そんな人ばかりが天国にいるとすれば天国ってあまり楽しそうではないな、生きづらそうだな、などと思ってしまうかもしれません。何が言いたいかと言えば、「自分はクリスチャンだ」という自覚があれば、本当に誰でも救われているといえるのだろうか、という疑問が生じてしまうのです。たしかに、しばしば言われるような「信じる者は誰でも救われる」という言葉を聞けば、性格的に難があったり、あまり実践面で熱心とはいえないような人でも、信じさえすればみな救われているということになるのかもしれません。しかし、マタイ福音書を読んでいると、そういう見方が本当に正しいのか、疑問を抱かせるような箇所が少なからず出てきます。さきほどの「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです」というイエスの言葉もまさにそうです。これはイエスのたとえ話に出てくる言葉で、とある王さまが出てくる話ですが、この王は明らかに神を指しています。この王は立派な名士たちを王の宴会に招きますが、彼らはその宴会に来ようとはしません。そこで、おおよそその宴会にはふさわしくない人たちを通りで見つけては、彼らを宴会に招待します。こうした人々はラッキーにも王様に招かれて王宮で御馳走にありつけそうだと喜んで、いそいそと出かけていきます。ここまでは、何のたとえなのか分かりますよね。今日でも、社会で立派な人たちだとされている人がキリスト教に冷淡だったり無関心だったりするのに対し、社会から見下されているような人たちが喜んで福音に応答する、というようなことがしばしばあります。このイエスのたとえも、そのことを示しているように思えます。そういう人たちは、招きに応じさえすればみんな救われるのだ、と。しかし、なんとこうして招待された多くの人たちは、いざ宴会場に入ろうとしたときにふさわしい装いをしていないということで入場を拒否されてしまうのです。ただでごちそうにありつけると思ってやってきたのに、目の前でニンジンをぶら下げられて追い返されるという、非常に残念な結果になってしまいました。ここでの「ふさわしい装い」というのはクリスチャンにふさわしい行動、行いを指していると思われます。信じているといっても、ふさわしい行い、良い行いをしない者は結局は神の国に入れないということを教えているようなのです。マタイが言う「広い道」を通る人というのも、これはキリスト教を信じないで世の中の価値観に流されていく人ということではなく、むしろ自分はクリスチャンだと思いながらも世の中の価値観に流され、クリスチャンらしく生きない人なのではないか、と考えられるということです。しかし、そのような結論は「信じれば、ただ信じるだけで救われる」という多くの人がキリスト教に抱くイメージと衝突してしまうのです。「行いがなくても、信じるだけで救われるのがキリスト教でしょう?行いがないからといって、神の国から除外するなんて、おかしいじゃないか」という反論がありそうですよね。行いによって救われるのなら、ほかの宗教と何も変わらないじゃないか、キリスト教のすばらしさ、これはキリスト教だけでなく浄土真宗もですが、そのすばらしさは「行いによる救い」ではなく「信仰による救い」を説いていることだ、とこのように考える人がとても多いということです。

しかし、行いがなくても信じるだけで救われるなどとは、イエスは一言も言ってはいません。では誰が言っているのかといえば、パウロです。パウロ書簡には、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によるのだ、という教えが繰り返しでてきます。そしてそこから「信仰義認」、平たく言えば「信じるだけで救われる」という教えが生まれ、それこそがキリスト教の本質だと見なされるようになったのです。ただ、このような教えはよくよく慎重に考えなければなりません。いくらパウロが言ったことであろうと、それがイエスの教えと矛盾するのであれば、そこに価値はありません。私たちを救うのはパウロではなくイエスだからです。パウロが本当は何を言おうとしたのかを説明するのは今回の箇所の目的ではありませんが、それではなぜパウロの話をしたのかといえば、おそらく今日の箇所はこのパウロの教えを意識している箇所だろうと思われるからです。こういうと驚かれるかもしれません。パウロがイエスを信じるようになるのは、イエスが十字架で死なれて昇天した後であり、この山上の説教を語っている時点ではパウロはイエスのことを知りもしなかったはずだからです。パウロが活躍する前の時期に、イエスがパウロの教えを意識して何かを語るはずがないだろう、ということです。ただ、注意してほしいのは、確かにイエスの活動の時期はパウロの活動時期の前ですが、このマタイ福音書が書かれたのは、パウロが活躍した時代よりもずっと後のことだということです。マタイ福音書の執筆記事は紀元80年代だとされていますが、パウロ書簡が書かれたのは紀元50年代だと言われています。マタイ福音書は、パウロ書簡よりも30年、あるいは40年も後に書かれた福音書なのです。ということは、マタイ福音書を読んだり聞いたりした人たちは、パウロの教えについてかなり知っていた可能性が高いのです。説教者は聴衆のことをいつも考えます。自分が何を考えているかだけでなく、相手が何を考えているのかを意識しなければ、意味のあるコミュニケーションが成り立たないからです。マタイも、マタイ福音書を書いているときに、自分が記しているイエスの教えが聴衆や読者にどのように受け止められるのかを強く意識していたはずです。そして特にマタイは、パウロの教えを曲解して「行いがなくても信じればよい」などと考える信徒に対して非常に大きな危惧を抱いていたものと思われます。これはマタイ福音書におけるイエスの教えを慎重に読んでいけば分かることですが、今日の箇所はまさにその典型です。マタイは、イエスの教えの中でも行いの重要性を強調する教えに特に注目し、それらを集めて一つにまとめ、この箇所で非常に明確な形で提示しているということです。この点に注意しながら、今日のテクストを読んで参りましょう。

2.本論

では、13節からです。ここでは「いのちに至る道」と「滅びに至る道」という、二つの道が示されています。いのちに至る道は狭く、滅びに至る道は広いと言われています。このイメージは、クリスチャンには当惑させるものかもしれません。なぜなら、キリスト教神学では「狭い道」とは行いで救われようという厳しい道で、ユダヤ教的なものだと考えられてきたからです。ユダヤ人は自らの行いで救われようという厳しい道、険しい道を進もうとしてきたけれど、イエス・キリストはそのような狭すぎる道ではなく、もっと「広い道」、誰でもできる道を切り開いたというのです。すなわちイエスは人類の身代わりとして死ぬことで、良い行いはなくてもイエスを信じるだけで救われるという、もっと広い道を作ってくださったということです。しかしイエスは、救いに至る道は決してそのような安易なものではない、とくぎを刺します。では、いのちに至る狭い道とはどんなものなのか、ということをイエスはさらに示していきます。

イエスはまず、預言者たちについて語ります。預言者の良し悪しを判断する基準として、イエスは「実」で判断しなさい、と言います。では預言者の「実」とは何でしょうか?預言者ですから、預言ができることや、エリヤやモーセのように奇跡を行うことでしょうか。そう考える人に冷や水を浴びせるのが次のところです。22節と23節にはこうあります。

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け』

これはかなり厳しいことばですよね。主イエスの名によって預言したり奇跡を行った人たちですら救われないというのはいったいどういうことなのか、イエス様、いくら何でも厳しすぎませんか?という気がしてきます。しかし、このイエスの言葉を記したマタイは、おそらく彼の生きていた時代の教会のことを思い描いてこの言葉を記したのだと思います。パウロ書簡からもわかるように、原始キリスト教、つまりイエスが昇天してから数十年間、パウロが活躍していた時代は教会の歴史にとって例外的な時代でした。というのも、イエス様やパウロのような特別な人たちだけでなく、一般の信徒たちの間にも聖霊が力強く働き、彼らも預言をしたり奇跡を行うことができた時代だったということです。パウロは第一コリント書簡の12章10節で次のように記しています。

ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。

このように、コリント教会の一般の信徒たちは奇跡を行ったり預言をすることができたのです。彼らは、嫌な言い方をすればいわゆる「平信徒」で、特別な役職についている人たちではありませんでした。では、彼らは奇跡を行うくらいだから人格的にもモーセのように高潔な人たちだったかといえば、コリント書簡を読めば分かるように、全然そんなことはありませんでした。コリント教会では、問題のある行動をする人が驚くべき奇跡を行うというような、そういう特殊な状態だったのです。パウロは「正しくない者は神の国を相続できない」とはっきり語っています。主イエスの聖名によって奇跡を行う力があれば、日ごろの行いがいくらだらしなくても救われるとか、そういうことは決してないということです。マタイ福音書の今日の箇所も、このような初代教会の状況を反映しているものと思われます。奇跡を行う能力があれば救いは間違いないというような誤解を解くために、マタイはこの厳しいイエスの教えをここに書き記したのだと思われます。

また、21節には次のような主イエスの言葉があります。

わたしに向かって、『主よ、主よ』と呼ぶ者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行う者が入るのです。

これも厳しい言葉ですよね。イエスに向かって主よ、主よ、と呼ぶ人はクリスチャンしかいないわけですが、そのように主を求める人でも御国に入れない人がいるというのは衝撃的です。自分の行いに自信がある、私は神のみむねを行っていると自信をもって言い切れるクリスチャンはそんなに多くないと思うので、このイエスの言葉も私たちを不安にさせます。しかし、この言葉もある種のパウロ主義に対する誤解を解くためだとも考えられます。なぜならパウロは旧約聖書のヨエル書を引用して「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」(ロマ10:10)と言っているからです。このパウロの言葉を拡大解釈して、「主の御名さえ呼べば、誰でも救われる、行いとかクリスチャンらしい生き方とかは必要ない」という風に考える人がおそらくマタイの時代にいたのでしょう。なぜそういえるかといえば、それから二千年経った今でもそのように考える人がいるからです。マタイは、イエスの言葉としてそのような誤解、ある種のパウロ主義に反対し、口先だけではだめだ、信仰には行動が伴わなければならないということを強調したかったのでしょう。

このマタイの言わんとするところは、イエスの山上の説教の最後のたとえに端的に示されています。それは岩の上に家を建てた人と、砂の上に家を建てた人のたとえです。イエスの話を聞くだけで行わない人は、自分が持っていると信じている信仰をたやすく失うだろうと説教者マタイは警告しているのです。そのような「信仰」は砂の上に建てた家のようなもので、困難が来ると簡単に壊れてしまうというのです。

ここで誤解しないでいただきたいのですが、「行いが大事だ」、「行いが必要だ」という場合の行いとは、一切罪を犯さないこと、完璧な行いのことという意味ではないということです。行いが必要ないという人のしばしば使うロジックは、神様の求めるのは中途半端な行いではなく、完璧な行いだけれども、それは不可能なのだ。だから救いと行いとは無関係なのだ、というものです。しかし、一切の過ちを犯さない人など誰もいないということは、誰よりも神様ご自身がご存じです。神様は人類と何千年も付き合ってこられたので、そんなことが人間には不可能であることをご存じです。神様が求めているのは、私たちの力の及ぶ限り努力することです。それだけです。その行いがどんなに不完全でまずいものだったとしても、神様はそんな私たちを支えてくれます。あなたは自分の子どもや教え子が何かを一所懸命やろうとしているときに、その努力が完ぺきではないからと言って見捨てるでしょうか?そんなことはないはずです。むしろ精いっぱい手助けするでしょう。もし見捨てるとすれば、「私はやりやります。頑張ります!」と口では言いながら、何もしようとしない人、自分では指一本動かさないような子どもや教え子であれば、あなたも助ける気をなくすでしょう。神様も、この点では人間の親や指導者とそれほど大きく変わらないのです。「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません」(ヤコ1:22)というヤコブの教えは本当に真実なのです。

3.結論

まとめになります。今日は山上の垂訓の最後の教えを学びました。そこで言われていることのポイントは、「聞くだけでなく実行しなさい」ということでした。山上の説教には様々な教えがあり、チャレンジを与えるものも少なくないですが、それらの教えをただ聞いて、「イエス様ってすごい、素晴らしい教えだ!」とただ感心するのではなく、実際に自分の手足や頭を動かして実行しなさいということです。日本の伝統的な教えで中国から伝わった儒教には「知行合一」というものがあります。本当に知る、理解するためには行動が必要だということです。イエスの教えの本当の意味は、こうして私や誰かの説教を聞いているだけではだめです。それを実践して初めてその意味が分かる、そのすごさが分かるのです。私も今年の年初に何か新しいことをやろうと思って将棋入門の本を買いましたが、その本がそんなに素晴らしても、私がその本を読んで実際に練習やけいこをしないことにはその本は単なる宝の持ち腐れです。ないのと同じです。ですから私たちも聖書を読んだり聞いたりするだけでなく、それを実践しましょう。ただ、気を付けたいのは実践すると言ってもイエスの意図をちゃんと理解しないでしゃにむにそれを行おうとしてはいけないということです。「右のほほを叩かれたら左のほほを向けなさい」という教えに込められたイエスの意図を理解せずに、ただそのまま実践しようとすればかえってもっとひどいことになります。まずイエスの意図をきちんと理解して、そのうえで実行すべきなのです。ですから聖書を学ぶことはとてもとても大事です。しっかり学び、そのうえで実行する、今年もそのように歩みたいと願うものです。お祈りします。

天におられますわれらの父よ、そのお名前を賛美します。主の年2026年が始まりました。ことしもみことばを聞き、それを正しく理解し、そのうえで実行できるように私たちを導いてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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何を願うかマタイ福音書7章7~11節 https://domei-nakahara.com/2026/01/01/%e4%bd%95%e3%82%92%e9%a1%98%e3%81%86%e3%81%8b%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b87%e7%ab%a07%ef%bd%9e11%e7%af%80/ Thu, 01 Jan 2026 00:18:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=7168 "何を願うか
マタイ福音書7章7~11節" の
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みなさま、新年おめでとうございます。毎年恒例になりましたが、元日礼拝は今年の年間主題聖句を取り上げてお話しします。このマタイ福音書7章7節は昨年の講解説教で取り上げたばかりの箇所なので記憶に新しい箇所でもありますが、年初にあたって改めてこのみことばをよく考えてみたいと思います。

お正月といえば初詣で、多くの日本の方々は二年参りに赴いて神社仏閣で年越しを迎える方も多いと思います。初詣で何をするかと言えば願掛けであり、新しい年を迎えるにあたってお賽銭をしてお願いをするというのが多くの日本の方の行動パターンだと言えるでしょう。お願いする内容は様々で、受験生の方は合格祈願、サラリーマンの方は商売繁盛、若いカップルは子宝を授かることなど、いろいろでしょう。普段は宗教に無関心な日本人が急に信心深くなるように見えますが、日本人が神仏に祈るのは、このように何かをお願いするときだと言えるでしょう。

かくいうキリスト教の場合も、祈りとお願いには深い関係があるように思います。「求めよ、さらば与えられん」というみことばが聖書の中でも最も人気があるみことばの一つであるというのもその証拠と言えるかもしれません。ただ、このようなシンプルで力強い言葉は誤解を招きやすいものでもあります。「信じる者は救われる」という、これまたよく言われる言葉もそうですが、こういう分かりやすいことばほど、よくよく意味を考える必要があります。というのも、神様に願えば何でもかなえられると言われても、そんなはずはないということは子供でも分かるわけです。そこで、何をどう願うべきなのか、ということを聖書の他の箇所を参照しながら考えてみましょう。それは昨年の説教でも取り上げたヤコブの手紙です。この手紙はイエスの実の兄弟であるヤコブが書いたものと言われていますが、その内容はさすが兄弟というべきか、イエスの教えと非常に近いのです。そのヤコブが願うこと、求めることについて何と言っているかを見てみましょう。ヤコブ書1章5節から8節です。

あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いています。

このように、疑わずに信じて願えば与えられる、ということをヤコブは述べています。しかしヤコブはほかのところで願っても与えられないということも話しています。そこを見てみましょう。4章1節から3節です。

何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受け入れられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

このように、自分の快楽のためにというような悪い動機で神に願っても、それは叶えられることはないとはっきり語っています。先ほどのヤコブの教えと一緒に考えるならば、神は私たちにとって本当に良いこと、必要なことを願うならば与えてくださるけれど、私たちの目先の快楽のための願いは聞いてくださらないということです。これは当たり前のことですよね。自分のことで言うのも恥ずかしいのですが、私は小学生に入るか入らないかの頃に、おじいちゃんとおばあちゃんからお正月のプレゼントをもらったことがありました。私はその時、ゲームが欲しくてそれを願っていたのですが、おじいちゃんとおばあちゃんがくれたのは勉強道具でした。私はそれを貰った時に泣き出して、「こんなのいらない」と駄々をこねました。まあ、今から思えばなんてことをしたんだろうと思うわけですが、おじいちゃんとおばあちゃんは私の将来にとって一番良いものを用意してくれていたのですが、私は目先の楽しみで頭が一杯だったわけです。そして、大人になった私たちと神様との関係も、どこか子供の頃の私と祖父母との関係と似たところがあるのかもしれません。

さすがに大人になった私たちは神様に「あのゲームが欲しい、買って」と祈り求めることはないでしょうが、私たちが神に願うものは、後になって少し距離を置いて俯瞰してみて考えると、「なぜ私はあんなことを願ったのだろうか」と思うようなことが少なくないのではないでしょうか。あるいは、自分が本当にしたいことを自分ではわかっていないということもあります。いきなりなんだかエリートっぽい話になって恐縮ですが、私はサラリーマンだった時に強く願っていたことがありました。それは当時勤務していた銀行から海外の大学院に留学させてもらうことでした。私の父もかつてアメリカの一流大学に社内留学生として派遣されたことがあったので、なんとなく留学へのあこがれがあったのです。私は当時そのためにいろいろと努力し、英語力を上げたり資格を取ったりしました。しかし、いざ来年チャレンジしようとしていた時に、バブル崩壊の影響を受けていた銀行は突然留学制度を中止しました。私は目標を見失ってなんだか呆然としてしまいました。仲の良かった先輩から、国内の大学院でもいいじゃないかと言われ、当時渋谷支店に勤務していたこともあり、青山学院の夜間の社会人向けMBAコースに入学しましたが、それはやはり海外留学の代わりにはなりませんでした。

しかし、今から振り返ると、たとえアメリカの一流のMBAに入学できたとしても、自分は全然幸せではなかっただろうな、と思います。今なら分かりますが、MBAで学ぶような内容は、私が本当に学びたいことではなかったからです。またMBAに来るような人たちは非常に上昇志向の強い人たちばかりなので、せっかく海外生活を経験できたとしても、そういう人たちとの競争に明け暮れる二年間というのもあまり幸せではなかっただろうと思います。それに対して、神学の勉強のためにイギリスに留学した七年間は本当に楽しく、学ぶことも自分が心から学びたい内容でした。しかし、サラリーマンをしていた頃の自分は、自分が本当に勉強したいのが聖書学だなどとは一ミリも思っていませんでした。そんな面白い学問があることなど全然知らなかったからです。

しかし神様はそのことをご存じでした。「アメリカのビジネススクールに留学したい」という私の願いは叶いませんでしたが、私に本当の知恵を与えてくれる留学の道は神様がちゃんと用意してくださっていたのです。また、ビジネススクールに行くために英語を勉強したり論文を書いたりしたことは決して無駄になりませんでした。また、金融機関で働いていたおかげで、結構なお給料をいただいていましたから、留学のための軍資金を蓄えることができました。私は30代の半ばで留学しましたが、20代の世間のことが何もわかっていなかった時よりも、ある程度の社会経験を積んだ後のほうが神学の学びにもプラスの影響があったように思います。

と、なんだか私の証しになってしまいましたが、この話から「神は願い求めるものを与えてくださる」ということについての一つのイメージができるのではないでしょうか。神は確かに私たちの願うものを与えてくださいます。それは当初自分が願っていたものとは違うものかもしれませんが、しかしきっとそれは自分すら知らなかった私たちの本当の願いなのです。神様は良い方ですから、私たちに本当に良い物を与えてくだるでしょう。そのことを信じて今年も歩んで参りましょう。お祈りします。

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黄金律マタイ福音書7章1~12節 https://domei-nakahara.com/2025/11/16/%e9%bb%84%e9%87%91%e5%be%8b%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b87%e7%ab%a01%ef%bd%9e12%e7%af%80/ Sat, 15 Nov 2025 23:51:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6911 "黄金律
マタイ福音書7章1~12節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。マタイ福音書の「山上の垂訓」を読み続けていますが、この山上の垂訓にはイエスの非常に有名で印象的な教えがたくさんあります。今日の箇所もまさにそのような箇所で、先日教会員の総意で当教会の来年の年間主題聖句にすることが決まった一節も含まれています。

今日の箇所は、大きく分けると三つに分類できます。一つ目は1節から6節までで、裁くことについてです。7節から11節までは良い物を与えてくださる主を信頼すること、そして最後の12節は「黄金律」とよばれる重要な教えです。これらの教えを聞くにあたって大切なことは、これまで何度も申し上げてきたことですが、常識的な視点を失わないということです。具体的には、直解主義、聖書に書いてあることをなんでも「文字通り」、「字義通り」に捉えようというものです。こういう人たちはイエスの言葉の語られている文脈を無視して、あらゆるケースにこの教えを当てはめようとするのです。

今日の箇所で「さばいてはいけない」とありますが、これを直解主義でとる人は、自分の周りの人が罪を犯した場合でも、それを指摘して裁いてはいけないということを主張したりします。しばしば引用されるのはヨハネ福音書8章の姦淫の女の話で、姦通の現場で捕まった女性を裁くべきだと詰め寄る人々に対し、主イエスは「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われたところ、誰も石を投げなかったという話です。この話を聞くと、「人間で罪を犯したことのない人はいない。脛に傷のないひとなどいない。だから他人を批判したり、裁いたりしてはいけないんだ」ということになります。私も実際に、ある教会で人妻と不倫をしている教会員を批判する人に対し、別の教会員がこのヨハネ福音書の話を持ち出して、「あなたも同じ罪びとなんだから、他人をさばいてはいけない」と言ったという話を聞いたことがあります。ほかの教会員の罪を指摘して批判する人は、「律法主義者」などというレッテルを張られることもしばしばあります。

しかし、聖書ではそれとはまったく正反対のことを述べている箇所があります。使徒パウロはコリント教会への手紙で、父親の妻を自分の妻にして暮らしているというすさまじいことをしている信徒の罪やほかの罪をさばかないコリント教会の人たちを批判して、こう書き送っています。第一コリント6章2節から3節をお読みします。

あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。

さらには、5章12節と13節でこう書いています。

外部の人たちをさばくことは、私たちのすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の者たちではありませんか。外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。

とこのように、罪の中でもとりわけ教会の中にいる人たちの罪を裁きなさい、と命じています。ですから教会員の罪を指摘する人をヨハネ福音書8章を持ち出して批判する人は、主イエスと使徒パウロが正反対のことを教えていると言っているのと変わらないのです。

しかし実際は、主イエスも教会内の罪を取り扱うように指示しています。マタイ福音書18章15節から17節をお読みします。

また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。

と述べておられます。教会員の罪を責めなさい、とはっきり命じているということです。こういった主イエスやパウロの言葉を無視して、今回のイエスの言葉を持ち出して「さばくことはいけないことだ」というのは問題があるのがお分かりになると思います。では、イエスの教えの意図は何なのか、ということを考えてみたいと思います。

2.本論

では6章1節から読んでまいりましょう。ここで問題となっているのは、「さばく」ことそのものではなく、ダブルスタンダードの問題です。政治の世界でよく言われることですが、他人の罪は責めるのに自分が同じことをしている場合は大目に見る、というような行動をイエスは批判しているということです。政治資金の問題で、ほかの政党の政治家が不適切な行動をしている場合は鬼の首を取ったように批判するのに、自分が同じことをしている場合は「秘書が勝手にやったことで、私は知りませんでした」と言い逃れるようなケースです。これは笑えない話ですよね。日本のことわざでも、他人を批判する前に自分の行動を改めなさい、ということが言われます。「紺屋の白袴」、「灯台下暗し」、「人のふり見てわが身を正せ」などは基本的にみな同じことを言っています。人のことはあれこれ口うるさく批判するのに、自分のおかしな点にはまるで気づいていないような人のことです。主イエスも同じことを言われているのです。「他人の目のちりを取る前に、自分の目の中の梁を取り除けなさい」というのは、人の小さな欠点には異様に敏感なのに、自分の大きな欠点についてはまるで無頓着な人のことを言っています。ですから、繰り返しますがイエスがここで問題にしているのは裁くという行為そのものではなく、むしろ裁きにおけるダブルスタンダード、他人に厳しく自分に甘いというあり方なのです。

では、そのような文脈において6節はどんな意味を持っているのでしょうか。聖なるものを犬にやるな、真珠を豚にやるなという教えです。ことわざの「豚に真珠」のルーツになったイエスの教えですが、ここで言われている「犬」とか「豚」というのはある種の人間のたとえなのは間違いないので、イエス様が人を犬とか豚とか呼ぶことに抵抗を感じる方もおられるかもしれません。しかし、これは誇張表現であっても悪口ではないということに気を付けていただきたいと思います。では、これらのことばはどういう意味かといえば、「良薬は口に苦し」というように、人が時として必要としているのは厳しい批判であり、自分の問題点をずばりと批判してもらうことです。しかし、ある人は批判を一切受け付けずに、むしろ自分を批判する人を憎むようになります。そのような人を批判しても無駄なことだと、イエスはおっしゃりたいのです。つまり「聖なるもの」とか「真珠」というのは正しい意味での他人の批判です。イエスがどんなときにも「裁くな、批判するな」と言っているわけではないことがここからもわかるでしょう。このイエスの教えは、旧約聖書の知恵文学の系譜にあるものだと言えます。箴言にも似たような教えがありますので、そこを見てみましょう。箴言9章の7節から9節をお読みします。

あざける者を戒める者は、自分が恥を受け、悪者を責める者は、自分が傷を受ける。あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。知恵ある者を責めよ。そうすれば彼はあなたを愛するだろう。知恵ある者に与えよ。彼はますます知恵を得よう。正しい者を教えよ。彼は理解を深めよう。

このように、批判というものは聴く耳のある人にしかすべきではない、というのがイエスの教えのポイントなのです。

では、次の7節に行きましょう。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」という大変有名なみことばです。このみことばは当教会の来年の年間主題聖句ですので、これからも折に触れてお話ししたいと思いますが、今日はそのポイントをお話ししたいと思います。このみことばは非常にインパクトがあり、覚えやすいので、いろいろな意味合いで理解されるでしょうが、念のために申し上げますと、これは神様が私たちの願いをなんでもかなえてくれるという意味ではもちろんありません。むしろ、神様は私たちの欲しがるものではなく、私たちにとって本当に「良いもの」、「必要なもの」を喜んで与えてくださるということです。ですから、私たちにとって本当に良いもの、必要なものが試練であるならば、私たちがそんなものは欲しくないと思っていても、本当は必要としている、心の奥底では求めているその試練を与えるということがあるのです。親は子供に良いものを与えますが、その良いものというのはわがままな子供が欲しがるものではなく、むしろ嫌がるものであることもあるのです。なぜそんなものを与えるのかといえば、それが子供のためであると親は知っているからです。そのことを詳しく書いてあるのがヘブル人への手紙です。その手紙の12章5節から12節までを、少し長いですがお読みします。

そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生児であって、ほんとうの子ではないのです。さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちを自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときには喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。

ずいぶんと長い引用になりますが、父なる神が私たちの内なる求めに応えて与えてくだるものとは、私たちの欲望を満たすものではなく、必要を満たすものだということを覚えておきましょう。ヤコブの手紙でも同じことが言われています。4章の2節と3節をお読みします。

あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

このように、神が私たちの願いに応じて与えてくださるものとは、良いものであり、その良いものというのは私たちの成長のために良いものであり、私たちがいくら願っても私たちのためにならないものはお与えにならない、ということはしっかりと胸に刻むべきことでしょう。

そして、この次の12節に有名な黄金律が来ます。「それで、何事でも、自分にもしてもらいたいことはほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」というみことばです。「それで」、ということばは「したがって」とも訳せます。つまりこの黄金律は「求めなさい」というみ言葉の結論、帰結としてあるということです。これはつまり、神様が私たちの求めるものを与えてくださるのだから、私たちもまたほかの人たちに同じように与えてやりなさい、ということです。神様がよくしてくださったように、他人にもよくしてやりなさい、ということです。ここで注意したいのは、この教えは人が求めるものは何であれ、その人に与えてやりなさいという意味ではないことです。なぜなら神様はそんなことはなさらないからです。神様は私たちの求めに応じてなんでも与えてくださるというようなことはせずに、私たちにとって良いもの、必要なものだけをお与えになるのです。同じように、私たちも人々が求めるならなんでもそれに応えるというようなことをすべきではありません。そんなことをすれば、それは結局人間関係を壊してしまうからです。私たちはむしろ、相手にとって本当に必要なもの、良いもの、自分たちの関係を良くしてくれるものを与えるべきです。そこには知恵と愛情が必要なのです。

3.結論

まとめになります。今日はイエスの有名ないくつかの教えを学びました。これらに一貫した教えとは、相手のためになる、相手にとって本当に必要なものを与えてやりなさい、ということでした。なぜなら神がそのようにしてくださるからです。私たちは時に、相手が求めていなくても、本当に必要としているものを与える必要があります。その一つが耳の痛いアドバイス、助言です。相手が嫌がる場合でも、相手のためになることは時には言わなければならないのです。しかし、相手に助言する際に自分が同じ過ちを犯している場合は、その助言は力を持ちません。ですから私たちは人にあれこれ言う前に、まずは我が身を顧みなければなりません。そうして初めて、人に何か言うことができるのです。

神様も私たちが本当に必要とするものは、なんでも与えてくださいます。神は私たちでさえ気が付かない、私たちの内なる願いを知っておられます。そのような願いに応えてくださいます。しかし、神が与えてくだる「良いもの」は私たちの快楽を満たすものとは限りません。むしろ逆である場合のほうが多いでしょう。ですから私たちは神様が与えてくださるものが自分の期待したものとは違っていたとしても、そこに神の深い思いやりがあることを信じてそれを受け取るようにしたいものです。

神様が私たちをそのように気遣い、与えてくださるように、私たちも隣人に対して同じようにしましょう。それは相手が求めるものになんでも応じるということではありません。むしろ、本当に相手のためになることを進んでしてあげるべきなのです。そのような知恵と愛を持てるように、神に祈りましょう。

私たちを愛し、私たちが本当に求めるものを与えてくださる父なる神様。そのお名前を賛美します。あなたがわたしたちにそのようにしてくださるように、私たちもほかの人たちにすることができるように、力をお与えください。われらの平和の主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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神に信頼するマタイ福音書6章19~34節 https://domei-nakahara.com/2025/11/09/%e7%a5%9e%e3%81%ab%e4%bf%a1%e9%a0%bc%e3%81%99%e3%82%8b%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b86%e7%ab%a019%ef%bd%9e34%e7%af%80/ Sun, 09 Nov 2025 03:18:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6902 "神に信頼する
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1.序論

みなさま、おはようございます。私たちはイエスの教えをまとめた箇所である「山上の垂訓」を学び続けています。そこには大変有名な教えが数多く含まれていますが、今日のみことばも非常によく知られている、キリスト教のエッセンスとも言われる箇所です。そこには私たちの日々の生活に直接かかわること、私たちに安心安全を与えてくれるものは何なのか、という根本的な問いかけが含まれています。私たちに安心を与えてくれるのはお金なのか、神様なのか、という問いです。

人生百年時代と言われるようになり、老後に備えて貯蓄するべきだ、あるいは投資すべきだと政府が盛んに喧伝しています。仕事を辞めて、働かない、働けない期間が数十年にも及ぶかもしれないということで、年金だけに頼れないのだということが言われています。そういう不安な時代に、少しでも多く貯蓄をしておこうと考える方にとって、今日の主イエスのみことばは、励ましというよりも耳に痛いと感じられるかもしれません。自分は神様ではなくお金に信頼しているのではないか、頼っているのではないかと考え、老後の心配ばかりしている自分は不信仰なのではと、そのように思ってしまうかもしれません。主イエスも、「だから、あすのための心配は不要です」とか、「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」とおっしゃっているではないですか。私たちも、明日のことは全部神様に任せて、取り越し苦労をしないで主を信頼して歩むのが信仰者としての正しい在り方なのだ、とそのように思えるかもしれません。

しかし、私はあえてそのような見方とは違う話を今日の説教でさせていただきます。私たちが将来のことを心配して、将来のために行動するのはよいことです。野のけものを見なさい。あのクマだって、長い冬に備えて動けるうちに必死に食糧を集めようとしているではないですか。そのために人間界は大変な迷惑を被っていますが、クマも必死なのです。ですから人間が将来に備えて蓄えるのは当然のことです。主イエスの教えについては、それがどのような状況の人に対して語られたのかをよく考える必要があります。今日の箇所のイエスの教え、特に後半部分の教えは、これから長い老後に備えて貯蓄に励んでいる21世紀の現役世代に対して語られたことばではありません。むしろ、イエスの直接のお弟子さんたちに対して語られた言葉です。イエスは彼らを伝道旅行に送り出しますが、その際にこのように言われました。マタイ福音書10章9節と10節をお読みします。

銅巻に金貨や銀貨を入れてはいけません。旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。

いわば一文無しで伝道旅行に送り出された彼らは、大変心細かったと思いますが、そのような弟子たちに徹底的に神に信頼することを教えているのがこの箇所なのです。しかし、イエスは別の機会、すなわちご自身が天に帰られる前にはこう言っています。ルカ福音書22章35節と36節です。

それから、弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ、何もありませんでした。」そこで言われた。「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。」

とこのように言われ、将来の困難に備えていろいろ準備するようにおっしゃっています。神様が守ってくれるから何も心配はいらない、準備する必要はない、とはおっしゃっていないのです。ですから、今日の箇所のイエスの教えをあらゆる状況に当てはまる普遍的な教えと考える必要はありません。ある場合には、これらの教えはとても大切ですが、別の場合には、この言葉通りに実行することはむしろ危険なことにもなりえます。聖書の言葉はまさに諸刃の剣です。使い方を誤ると、かえって自分で自分を傷つけてしまうことにもなりかねません。聖書を読む際は、そのことを常に注意する必要があります。

2.本論

では、さっそく今日のみことばを詳しく見て参りましょう。ここでは「天に宝を積みなさい」と言われていますが、それをさらにわかりやすく言うならば「天に貯金をしなさい」ということになるでしょう。私たちは将来に備えて銀行に預金をするわけですが、天国にも銀行のようなものがある、ということをイエスがおっしゃっているように思えます。そうだとすると、この世だけでなくあの世にも預金のたくさんある金持ちと預金のない貧乏人がいるというということになり、げんなりするかもしれません。貧富の格差はこの世だけにしておいてほしい、と考える方も多いでしょう。しかし、来世、あるいは来るべき世において、私たちが受ける報いには差がある、というのは聖書が繰り返し教えている内容です。使徒パウロはコリント教会への手紙でこう述べています。第二コリント5章10節をお読みします。

なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れ、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

ここで言われている、肉体において善を行うことによって受ける報いのことをイエスは「天に積んだ宝」と呼んでいるのです。つまり神様は、私たちが地上の生涯においてなしたよき業に必ず報いを下さるということです。では、そのよき業とは具体的にはどんなことかと言えば、主イエスがこう言われました。

まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。

このように、貧しい人たち、小さな人たちに行ったことに対して、主は必ず報いをお与えになると約束しています。これが「天に宝を積む」ということです。私たちは退職した後の20年、30年の人生のために一生懸命貯金をします。20年ほどの期間のためにそうするのであれば、私たちの死後の時間は永遠ですので、その永遠にそなえてなお一層貯蓄すべきではないでしょうか。私たちもたゆまず、できる範囲で困った人たちを支えていきたいと願うものです。そうすれば、私たちは天国に貯蓄できるようになるのですから。

ただ、ここで注意したいのは、この世の自分自身の将来や老後に備えて貯蓄することそのものは悪いことでもなんでもなく、むしろ必要なのだということです。イエス様の教えは、聞き手にインパクトを与えるために割と大げさなところがあります。「あなたの手が罪を犯すなら、その手を切り落としなさい」などの教えが典型的ですが、それを文字通りに実行したら大変なことになります。ですから、この世で貯蓄する、蓄えることを一切悪だと考えるような、そういう極端に走らないことは大切です。聖書を読むうえで、常識的な感覚を持って読むのは大事なことなのです。私たちはこの世における老後のためにも、またこの世での人生を終えた後の来世での人生のためにも、その両方のために備えておきなさい、というのがポイントなのです。

さて、次に出てくる「目」の話は、なんだか前後の文脈にそぐわないように思われるかもしれません。私たちに本当の安心安全を与えてくれるのは天の宝、天国での貯金なのだから、善い行いに励みなさいと教えておられるイエスが突然、「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身は明るいが、もし目が悪ければ、あなたの全身は暗いでしょう」と語るのは、いったいどうしたわけでしょうか。天に宝を積むことと、目がよいこととの間にどんな関係があるというのでしょうか。実はここで「目が健全だ」と言っているのは、私たちが貧しい人たちに気前が良いことのたとえなのです。どうしてそういう話になるのか、訳が分からないと思われるかもしれませんが、ここでは少し専門的な話が必要になります。この箇所を理解するためには、マタイ福音書の書かれたギリシア語にさかのぼって考えてみる必要があります。ここで「健全」と訳されているギリシア語はホプロウスという言葉で、その言葉には「純粋な」、あるいは「一途な」という意味合いもあります。そしてこの形容詞の名詞形であるホプロテイスという単語の意味は「気前が良い」、「物惜しみしない」という意味なのです。どうも福音書記者のマタイはこのようなギリシア語の意味を知っていて、この単語を用いたようなのです。つまり、目が良い、目が健全な人というのは気前の良い個人を意味していて、その人が物惜しみしないと、体、つまり周囲の人たちや社会全体が明るくなる、というような意味合いを込めているものと思われます。一種のごろ合わせをしているのであり、ギリシア語を知らないとこの下りの意味合いがつかめないとも言えます。ともかくも、この「目」の話も、貧しい人に気前良くして天に宝を積みなさいという先の教えの続きなのです。

次の24節はとても重要な教えですが、誤解をしないようにしたいみことばでもあります。「だれでも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」ここで誤解しないでいただきたいのは、イエスは私たちに富や財産を一切持つな、とおっしゃっているのではありません。さらにいえば、お金を稼ぐために働くことが悪いと言っているわけではありません。お金が何か汚らわしいものだと言っているのでもありません。むしろ、働く目的をはっきりとさせなさい、ということです。つまり、神のために、神の国の建設のために働くということをすればしっかりと給料もついてくるので、お金のことは心配せずに自分の天職、与えられた仕事や責任をしっかりと果たしなさいということです。お金は良い働きをすればついてくるものですが、お金を得るための行為がすべて良いものとは限りません。仕事の内容が明らかに神の御心に沿わない、人をだましたり傷つけたりするものだとわかっているのに、それがお金が儲かるからという理由でその仕事に手を染めるならば、その人は神様ではなくお金に仕えることになります。私たちが仕えるのは神おひとりです。そして神に仕えるというのは何も特別なことをしなければならないわけではありません。別に牧師にならなくても神様に仕えることはできます。世の中の役に立つ仕事であれば何であれ、それに一生懸命打ち込む人は、神にお仕えしているのです。

さて、それでは25節から34節までを読んでまいりましょう。今日の箇所の中でも中心的な箇所です。ここで主イエスは、野生動物にも神様は十分な食料を与えてくださっている。人間は動物よりも神様によってよほど大事な存在なのだから、なおさら十分な衣食住を提供してくださるだろう、というのが基本的なメッセージの内容です。しかし、冒頭でお話ししたクマの場合のように、野生動物に十分な食糧が備えられているのかといえば、そうともいえないケースも少なくありません。また、クリスチャンでも日々の糧を得られずに苦しんでいる人々も多くいます。パレスチナ、特にガザの住民の人々は衣食住のすべてを奪われて苦しんでいますが、あの地域の住民の中にはかなりの数のクリスチャンがいると言われています。そういう厳しい現実を見ると、イエスの言葉はあまりにも楽観的なのではないか、理想主義的なのではないか、と思えてくるかもしれません。明日のことを心配するな、という教えも厳しすぎるようにも思えます。私たちは将来について心配するものです。たとえば35年ものの住宅ローンを組んでいる人は、将来にわたってちゃんとローンを返済できるのかと、未来について心配するわけですが、そのような心配は理解できるものですし、悪いことではないはずです。

ですから、このイエスの教えを無理に21世紀の近代社会に生きる私たちの生活に当てはめる必要はありません。むしろ、これらの言葉をイエスが誰に語ったのかについて、注意が必要です。先ほど申しましたように、これらの言葉は仕事を捨ててイエスに従い、イエスと一緒に旅をしていた十二使徒をはじめとするイエスの直接の弟子たちに向かって語られた言葉です。彼らは財布も持たずに身一つでイエスから伝道旅行に送り出された人々です。ですから、どんな人も明日のことを心配すべきではない、というように一般化して受け止めるべきではありません。

むしろ、いちばん大事で、誰にでも当てはまるイエスの言葉は33節です。イエスは「神の国とその義をまず第一に求めなさい」と教えておられますが、これは異邦人たちが良い服や良い食事、つまり良い生活を第一に求めることと明らかに対比されています。イエスに従って歩む私たちの人生の目的は、人より良い生活を送ることではありません。それは世の中の人たちが一番に求めるものであっても、イエスの弟子たちはそうではなかったし、それは現代に生きる私たちにとっても同様です。私たちの人生の目的は、イエスが成し遂げようとしていること、つまりこの地上世界に神の支配をもたらすことを実現することです。そのように神の国建設のために一生懸命働く者のために、父なる神は必要なものを必ず備えてくださる、そういう人々に日々の糧も老後の貯えも与えてくださる、だからそれを信じ、神に信頼しなさい、というのがイエスの教えだったのです。

3.結論

まとめになります。今日は私たち皆が切に求めるもの、すなわち安全や安心を得るために、私たちがそのように考え、行動すべきかをイエスが教えている箇所を学びました。イエスの教えをさっと読むと、私たちが安心安全のために頼りにするもの、すなわちお金を信頼してはいけない、神だけを信頼しなさいと教えておられるように思えるかもしれません。しかし、イエスが「あれかこれか」、お金か神様かの二者択一を迫っている、というふうにとらえるべきではありません。なぜなら私たちが生きていく上ではお金は必要不可欠なものであり、そして神様はあらゆるものを私たちに提供してくださる方なので、もちろん私たちは神様なしに生きてはいけないのです。端的に言えば、どちらも必要なのです。将来への不安に備えて、貯蓄をするということは悪いことではないのです。ただ、忘れてはいけないのは、「将来」というのは私たちの地上の生涯、近年では長い方では100年ぐらいですが、その期間だけ無事に暮らせればよい、ということではないのです。私たちにはその100年の先の人生もあるのです。ですから、この世での将来の生活に備えるのと同時に、その先の人生についても備えなさい、それが「天に宝を積みなさい」というイエス様の教えの真意なのです。

また、特に25節以上のみことばにも注意が必要です。私たちは毎日、「何を着ていこうか、何を食べようか」ということに気を使います。イエス様はそういう私たちの日常的な行動を批判しているのではありません。また、将来私たちの人生に起きるかもしれない様々なリスクを心配し、備えるという行動を批判しているのでもありません。むしろ、これらの教えは財布も持たずに伝道旅行に送り出された弟子たちに向けられたものだということです。もちろん、神が私たちの日々の糧を心配してくださって、それらを提供してくださっているというのは本当です。しかし、私たちは2千年前と比べて非常に複雑な世界に生きています。平均寿命も驚くほど伸びました。ですから、このような時代を生き抜くために様々な備えをすることは、神に信頼することと矛盾しないどころか、必要なことなのです。主イエスの教えを自分に適用する際には、イエスが誰に、どんな状況で語られたのかをきちんと理解しなければなりません。そのうえで、主イエスの教えのエッセンスを私たちは日々の生活に生かすべきなのです。お祈りします。

私たちに日々の糧を備えてくださる父なる神様、そのお名前を賛美します。私たちは主に信頼し、同時に私たちに与えられた能力を生かして、今日を生き、明日に備えることができますように。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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三つの宗教実践マタイ福音書6章1~18節 https://domei-nakahara.com/2025/11/02/%e4%b8%89%e3%81%a4%e3%81%ae%e5%ae%97%e6%95%99%e5%ae%9f%e8%b7%b5%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b86%e7%ab%a01%ef%bd%9e18%e7%af%80/ Sun, 02 Nov 2025 00:55:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6895 "三つの宗教実践
マタイ福音書6章1~18節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。私たちは主イエスの「山上の垂訓」を学んでいます。前回までは、六つの「モーセはこう言うが、わたしはこう言う」という一連の教えを学びました。モーセは旧約聖書の律法を象徴していますので、イエスは旧約聖書の神の教えをさらに深める、律法の中身を前進させるということをなさったのです。

そして今回の箇所も、旧約聖書に基づく宗教であるユダヤ教の重要な三つの宗教実践、すなわち貧しい人への施し、祈り、断食の三つを扱っています。あらゆる宗教には、柱となるような宗教実践があります。キリスト教の場合は、毎週日曜の礼拝への参加、日々の聖書通読、祈りが三つの柱となる宗教実践だといわれています。ではユダヤ教とキリスト教とでは宗教実践の在り方が違うのかといえば、そうではありません。ユダヤ人ももちろん神殿での礼拝や、聖書の学びを重視していました。またキリスト教においてもカトリック教徒は貧しい人への施しを非常に強調します。主イエスは、貧しい人たち、小さな人たちにしたことは私にしたことなのだ、ということを教えられました。その教えを重視して、カトリックでは「貧しい人たちの日」という日が設けられていて、前教皇のフランシスは「貧しい人たちの存在は問題ではありません。福音の本質を受け入れ、それを生きるための財産なのです」と教えておられました。私も以前イタリアに旅行に行ったときに、カトリックの信者さんたちが教会の前にいる貧しい物乞いの人たちに穏やかに施しを行っていたのを思い出します。また、カトリックではイエスが荒野で四十日間断食したという故事に倣い、定期的に断食を行う習慣があります。このように、ユダヤ教とキリスト教の宗教実践は多くの部分で重なります。キリスト教はユダヤ教から枝分かれした宗教なので、これは当然のことだといえるのですが、そのユダヤ教の宗教実践の柱に関するイエスの教えが今日の箇所なのです。

今回、イエスが問題にしているのは、特に「律法学者」とよばれる教師たちの宗教実践でした。彼らは指導者でしたから、一般のユダヤ人の模範となるべき人々でしたが、彼らの宗教実践をイエスは問題視したのです。今日の教会で言えば、信徒ではなく牧師たちの態度や宗教実践を問題視した、ということです。なんとイエスは、これらのユダヤ人の教師たちが神様のことではなく、人の目ばかり気にしていると指摘したのです。今日の例でいえば、信徒たちに向かって「あなたがたが先生と呼ぶ牧師たちの本当の姿はこうなのだ。彼らは神ではなく、あなたがた信徒から褒められようとしていろんなことをしているのだ」と言うようなものです。当然、ものすごく衝撃的なことで、このようなことを言えばイエスが律法学者たちから深く恨まれたことは想像に難くありません。イエスは律法学者、あるいはパリサイ派たちの宗教実践の背後にあるもの、彼らがどのような意図でこうした宗教実践を行っていたのかを容赦なく暴き出しています。イエスによれば、彼らの関心事は神ではなく他人の目でした。人から褒められたいという動機で宗教実践を行っていたというのです。しかしイエスはそれが的外れなことだと厳しく指摘します。これは教師たちだけでなく、信徒たちにとっても耳が痛いことではないでしょうか。私たちも、教会生活を送る中でつい人の目を気にしてしまいます。人々から「あの人は熱心に奉仕してくれている。たくさん献金してくれている。祈りが素晴らしい」などと人から褒められたいという気持ちがないとはいえないのではないでしょうか。しかし、宗教実践は第一に人ではなく神に向けられたものでなければならない、というのがイエスの教えのポイントです。このことを念頭に置いて、イエスの教えを詳しく見てまいりましょう。

2.本論

まずイエスは1節で、一連の教えの大前提を話します。人から褒められるために善行を行うな、ということです。今日「承認欲求」という言葉がよく語られます。みなさんも聞いたことがあるのではないでしょうか。人から褒められたい、評価してほしいという願望です。失礼ながら、ノーベル平和賞を求めるアメリカのトランプ大統領は承認欲求の強い方なのではないかと思えます。人から認められたいというのは、人間のだれもが持つ自然な欲求なのですが、しかしそれにこだわりすぎるのも危険なことなのです。

皆さんはアドラーという心理学者の名前を聞いたことがあるでしょうか。フロイトやユングと並ぶ、今日非常に注目されている心理学者ですが、アドラーはこの承認欲求の問題点を指摘し、特に子供をあまり褒めないほうがよいということを教えました。子供は褒められて育つともいわれるので、これは一見不思議な教えに思えるかもしれません。しかしアドラーは重要なことを指摘しました。確かに褒められると人はうれしい気持ちになります。そして子供は褒められると、もっと褒められたいと願い、人から褒めてもらうような行動をするようになります。しかし、これは裏を返せば他人の評価に依存しているということです。自分が本当にしたいことではなく、人が褒めてくれることをするようになるというのは、その人にとって本当によいことなのでしょうか。

こういう人の目を気にする子供が成長して大人になると、さらに世間体を気にするようになります。行動の動機が「他人からどう見られるか」、「人からどう評価されるか」ということになってしまい、自分というものがなくなっていくのです。今回イエスが問題視する律法学者もまさにそのような承認欲求の塊で、常に人の目を気にして人から褒められそうなことばかりに熱心なのです。確かに律法学者は人々から尊敬される必要があります。そうでないと、人々が彼の教えや言うことを聞いてくれないからです。しかし、だからといって人から褒められるために善行をするというのは本末転倒なわけです。律法学者は人から褒められようがけなされようが、神の教えに従うべきだからです。でも、神に仕えるはずの律法学者が神ではなく人の目ばかり気にするようになってしまうのはどうしたわけでしょうか。それは、彼らが善行を行っても、それを神様が確かにご覧になっていて褒めてくださっているという実感が持てなかったからでしょう。それよりも、彼らはすぐに得られるもの、もっと具体的で確かなものを求めたのです。それが周囲の人々からの賞賛です。人々が自分に期待すること、良いと思われることをすればみんなが褒めてくれる、だからそういうことをする、ということです。律法学者たちの問題は、承認欲求が強いことなのではなく、むしろ不信仰でした。さらに言えば、律法学者たちの行動の背後にあったのは、貧しい人たちへの憐みや共感でもなかったことになります。「あの人、おなかがすいて大変だな、かわいそうだな。少し私の分を分けてあげよう」という自然な同情の念から出た行動でもなかったのです。むしろ、自分の行動が自分の評価を上げるという、非常に利己的な動機から行動しているのです。これも大変残念なことですよね。律法学者たちは、神のためでもなく、人のためでもなく、自分のために行動していたからです。 

イエスは次に祈りについて教えます。祈りとはまさに神と人との間のパーソナルな関係を築くためのものなので、人の目など気にする必要などまったくないように思われることなのですが、律法学者はここでも人の目を気にします。人から「ああ、あの人はなんて敬虔な人なのだ」と思われたいから熱心に祈るというのです。ここにも律法学者の不信仰が見え隠れします。彼らが人からの承認を得ることに熱心なのは、裏を返せば神から承認されているということについて自信、確信がないからです。「自分が時間を割いてこれほど熱心に祈っても、神は本当に聞いておられるのだろうか。ただの独り言になっているのではないか」という不安にとらわれると、それを補うために人からの承認を求めるようになるのです。しかし、このような不信仰を神は当然ながら喜ばれません。しかも、祈りとは自分の内面の何もかもを神の前にさらけ出すことです。私たちは自分の悪い思いや醜い部分を大声で人前で話したいなどと思わないでしょう。ですから、神に対するそのような非常にパーソナルな祈りを人目に付くところでするというのはそもそもおかしなことなのです。だから隠れたところで祈るというのはごく自然なふるまいなのです。

イエスはさらに異邦人の祈りについても語ります。異邦人は同じ言葉を呪文のように繰り返します。それは、祈りが多ければ神を動かすことができると彼らが信じていたためです。しかし、これは非常に問題のある行動です。異邦人が神を礼拝する目的は、神を自分の願い通りに動かすことにありました。人々は自分の願い、商売繁盛とか家族安寧とかのために神に動いてもらう、そのために神に献げものをする、祈りをささげるということをするのです。しかし、そのような考え方はイスラエルの神が厭うものでもあります。神は人間の都合で動かされるようなお方ではなく、むしろ人間が神の御心に従って行動すべきだからです。イエスがここで「主の祈り」を教えられたのは、主の祈りが私たちに主の御心を第一に願い、主の御心を行うようにと教える内容だからです。「主の祈り」について詳しく話し出すと、それだけで1時間ぐらいかかってしまうので、今日の説教では主の祈りを詳しく解説することはしません。それは別の機会にと思います。ただ、14節と15節についてだけはお話ししたいと思います。主イエスは主の祈りの中でも、「われらに罪を赦す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」の部分を特に取り上げて説明されています。この祈りの意味とは、私たちが神に赦されたいと願うのなら、私たちもまた自分の周りの人たちを赦さなければならないということです。確かに私たちの小さな心は、人を赦すことを拒むことがあります。いろいろ理由をつけて、人を赦そうとはしないのです。しかし、もし私たちがもしそのようであるなら、神も私たちを赦してくださらないのです。それはなぜか?主イエスは非常にわかりやすいたとえでそのことを説明しています。マタイ福音書18章の有名なたとえがそれです。一万タラントン、現代の金額で言えば40億円という途方もない金額を王様に借金していた人がその金額を免除してもらったのに、自分の仲間に貸していた百デナリ、これは約一か月分の日当ですので数十万円でしょうが、それを返済できないからといってその仲間を牢に投げ込んでしまうという話があります。この王様は神様を表していて、神様は私たちの途方もない罪を赦してくださいますが、もし私たちが仲間によってなされた小さな罪を赦さないなら、神様も私たちを赦そうとは思わないでしょう。私たちが寛大な心を持つためには、自分自身が神様からどれほど寛大に扱われたのかをよく考えないといけないということです。ここでも信仰、赦しの神への信仰が必要になります。

さて、貧しい人への施しと祈りと並んでユダヤ人たちが熱心に行っていたのが断食です。ユダヤ人たちが断食の習慣を始めるようになったのは、バビロン捕囚の頃からだと言われています。実は、モーセの律法には断食をしなさいという教えはないのです。では、なぜ彼らが断食を始めるようになったのかといえば、バビロンによってエルサレムと神殿を破壊されたときに、このような悲劇が彼らを襲ったのは自分たちが神に対して犯した罪の故なのだと気づいたからでした。彼らの罪の故に、神は聖都エルサレムを異邦人であるバビロンの手に引き渡し、それを破壊されたのだと。ですからユダヤ人はその罪を悔い改めるために断食を始めました。過去の失敗に学んで自らを戒めるために、また神の前にへりくだるためにユダヤ人たちは断食を始めたのです。しかし、だんだんと時が経つにつれ、断食は祈りと同じように自分がいかに敬虔で宗教熱心であるのかをアピールするための手段となっていきました。つまり神の前にへりくだるためでなく、ほかの人から褒められるために断食をするようになったのです。ここでも、問題は人々が神ではなく人々の目を気にしてしまっていること、つまり不信仰です。ユダヤ人、とりわけユダヤ人の教師たちは人々から認められたいという承認欲求のために、神との対話の手段であるはずの祈りや断食を、人々にひけらかすための宗教実践に変えてしまったのです。ですからイエスは、自分が断食をしていることを人に知られないようにしなさい、と教えます。そうすることで、断食をしている人の関心が人の目ではなく神の目に向かうからです。イエスのこれらの教えのすべてに共通しているのは、人ではなく神に目を向けなさいという、当たり前ではあるもののなかなかに難しいことなのです。イエスの時代に、一番宗教心が篤いはずの律法学者たちの問題が、実は不信仰だったというのは衝撃的なことです。しかし、私たちは今日においてもこの主イエスの指摘を重く受け止める必要があります。教師と言われる人ほど、このイエスの教えに深く耳を傾ける必要があるのです。

3.結論

まとめになります。今日はイエスが当時のユダヤ人たちの宗教実践、具体的には貧しい人への施しと祈りと断食ですが、これらの行動を批判したことを学びました。これらの実践は、それ自体ではもちろん素晴らしいことなのですが、しかし当時の少なくとも一部のユダヤ人は、こうした行為が神の御心だから、あるいは自分が心からこうした行為をしたいから、という理由ではなく、人から褒められたいから、人から良く思われたいから、という理由で行っていました。そのような動機をイエスは批判しました。もちろん、人間であればだれでも人の目を気にしますし、人から良く見られたいと願うのは当然のことです。しかし、人の目、世間の目が自分の行動の最大の動機になってしまうと、だんだん自分が本当にしたいことが分からなくなり、人の意見や評価にふるまわされる、非常に窮屈な生き方になっていきます。また、自分が本当にしたいことや正しいと思うことではなく、世間が正しいとみなすことをするというのは危険な面もあります。世間というのはしばしば間違えるものだからです。人の意見に振り回されずに、しっかりと自分を保つために必要なこと、それは神様の御心を求め、それを実行しようという思いを持つことです。主イエスは私たちがそのように行動することを願っておられます。そのことを胸に、今週も歩んでまいりましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今日は宗教実践とその動機について学びました。私たちはしばしば神の御心よりも人の目を気にして行動してしまうものでありますが、どうか今日の主イエスの教えを胸に止めて行動できますように。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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