マタイ福音書 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 調布 深大寺のプロテスタント教会 Mon, 12 Jan 2026 00:57:58 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.3.20 https://domei-nakahara.com/wp-content/uploads/2020/03/cropped-favicon-32x32.png マタイ福音書 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 32 32 三つの癒しマタイ福音書8章1~17節 https://domei-nakahara.com/2026/01/11/%e4%b8%89%e3%81%a4%e3%81%ae%e7%99%92%e3%81%97%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b88%e7%ab%a01%ef%bd%9e17%e7%af%80/ Sun, 11 Jan 2026 00:14:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=7184 "三つの癒し
マタイ福音書8章1~17節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。前回でイエスの山上の説教は終わり、イエスがいよいよ本格的な活動を始めるというところに入ります。これらの癒しは大変有名ですが、ではこうした癒しにどんな意味があったのか、イエスの宣教における病の癒しの意義を考えていきたいと思います。

まず初めに考えたいのが、山上の垂訓とこうした癒しとの関係です。イエスはここまで非常に長い説教を行ってきました。それらは驚きに満ちた、またチャレンジに満ちた、とてもとても深い内容のものでした。また、前回の説教でお話ししたように、イエスはこうした教えを人々が聞くだけで満足しまっては何の意味もない、むしろこうした教えは実践されてこそ意味があるのだ、ということを強調していました。ですから私たちとしては、イエスの教えを実際に人々が実践に移そうとして努力している姿が描かれていると、大変参考になるわけです。私たちにとっても山上の説教の内容を日々の生活でどのように活かすべきか、実践すべきかというのは大変関心のあるテーマですので、時代も文化も大いに異なる当時のユダヤの人たちではあっても、彼らがこうした教えをどのように実践しようとしていたのかを知ることには大きな意味があります。

しかしマタイは、イエスの話を聞いた人たちが、それからどのように行動したのかということについては触れずに、もっぱらイエスの活動に焦点を合わせています。しかも、その活動は大変印象的ではあるものの、イエスのこれまでの教えとは直接関係のないもののように思えます。イエスの山上の説教と、今回の三つの病の癒しを結びつけるものはいったい何なのでしょうか。この二つを結びつけるキーワードは「神の国」です。もっと具体的に言えば、「神の国の到来がもうすぐだ」というイエスのメッセージです。イエスの宣教の目的とは、神の国とはどんなものなのかを人々に示し、その備えをさせようというものでした。マタイ福音書におけるイエスの宣教の第一声は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」でした。「天の御国」というのはマタイ独特の言い回しで、マルコ福音書やルカ福音書では「神の国」となっています。これは日本語でも「神をも恐れぬ」と「天をも恐れぬ」というのが同じ意味であるように、マタイは「神」という言葉をみだりに用いるのを避けて「天」と言い換えたのです。それが近づいている、というのがイエスの伝えようとした福音でした。神の国とは神の支配です。神ご自身がこの世界を愛と正義によって支配する世界の到来がもうすぐ到来するということです。そのような新しい現実、新しい世界に備えなさい、というのがイエスのメッセージでした。では、その神の国に「入る」ためにはどうすればよいのかを教えるのが「山上の説教」の目的でした。私たちは新しい環境に入る場合、新しいルールや決まりを覚えなくてはいけません。新しく学校に進学したり、新たに企業に就職する場合、その学校の校則やその企業の社内ルールを守らなければなりません。それを知らなければ学校生活、企業での生活を円滑に行っていくことができません。「山上の説教」も同じです。これから実現しようとしている神の王国、神の支配の中で人々がどのように生きるべきなのかを教えたのが山上の説教でした。それは近いのですから、人々は今すぐにでも生き方を変えるべきなのです。

それに対して、今回のイエスの行った「癒し」は、神の国がほんの近くまで来ているということを示すための「徴(しるし)」でした。イエスはこうした癒しによって「天の御国が近づいている」というメッセージが本当であることを実証しようとされたのです。そのような大きな背景を考えていきながら、三つの癒しを見て参りましょう。

2.本論

では8章1節から読んでいきましょう。イエスが山上の説教を終えて山から下りてこられて初めに出会われた病の人はツァラアトという病を持つ人でした。このツァラアトというのが具体的にはどのような病だったのか、今でもよくわからない部分があります。それが皮膚の病であるのは確かなのですが、現在の私たちが知っている皮膚病のどれに相当するのか、確かなことは分かりません。ただ、そのツァラアトに罹患した人が社会的に大変厳しい状況に追い込まれてしまったことは確かです。まず一つには、このツァラアトは人に伝染すると考えられていので、ツァラアトになった方は家族から離れたところで寂しく暮らさなければなりませんでした。同時に、ツァラアトの人は宗教的な意味、聖書的な意味で「けがれた」人と見なされました。この聖書的な「けがれ」は罪ではないということは強調しておく必要があります。たとえば女性が出産すると、その女性は聖書的な意味で「けがれ」ます。聖書的な意味でけがれるとは、そのような女性はけがれると聖書に書いてあるということです。しかし、子供を産むのは祝福であって罪ではありません。にもかかわらず、その女性はけがれるのです。ですから聖書的な「けがれ」は罪とは区別する必要があります。ともかくも、ツァラアトになった人はそのような聖書的な意味での「けがれ」の状態にあり、そのようなけがれも人に伝染すると信じられていました。しかも、産後の女性の汚れは時間と共になくなりますが、ツァラアトの場合は治るまで「けがれた」状態のままです。したがって、ツァラアトの人は二重の意味で、つまり病気が伝染するとの、宗教的な意味でのけがれが伝染するのを防ぐために、人々から隔離されなければならなかったのです。しかも、当時はツァラアトに対する医療行為は確立されていませんでした。治る見込みがなかったということです。ですからツァラアトになってしまいことは、社会的な意味では死亡宣告を下されるのに等しいことでした。そして、旧約聖書を見ても、ツァラアトが癒されたという話はありません。唯一の例外は、異邦人の将軍であるナアマンの癒しでした。ナアマンはユダヤ人ではなくアラム人でしたが、彼のツァラアトは預言者エリシャによって癒されました。しかし、旧約聖書の癒しの記事はこれだけなのです。ほかにユダヤ人がこの病から癒されたという記録はありません。したがって、この病が癒されるということはイスラエルの長い歴史においても大事件なのです。イエスがこれから神の国が来ようとしているということを証明するための癒しとして、ツァラアトの癒しほどふさわしいものはありませんでした。

このツァラアトの人はイエスの前にやってきました。これは大変勇気のいる行動でした。なぜなら、聖書はツァラアトになった人が人前に出ることを禁止しているからです。レビ記13章45節、46節にはこうあります。

患部のあるそのツァラアトの者は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない。その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。

このように、聖書で明確に隔離を命じられている人が、イエスとその周りに群がる大群衆の前に出てくるというのはまさに命がけの行為なのです。人々から冷たい視線を浴びせられ、それだけでなく皆が自分の前から逃げ去るという、心が折れそうな状況だったことでしょう。それでも彼はどうしても治りたかったし、イエスならそれができると信じたのです。そこでイエスの前に身を投げ出して、「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます」とイエスに訴えました。「お心一つで」とは直訳すれば「もしあなたが願うなら」とあります。彼はもちろん治してほしいのですが、それをイエスに強いるようなことはせずに、あくまでイエスの憐みの心に委ねました。また、「治してください」ではなく「きよくしてください」という願望を伝えています。ツァラアトは単なる病ではなく、聖書的な概念では汚れた状態なので、その状態をきよい状態に戻してほしいと願ったのです。イエスもその人のまっすぐな気持ちに応えました。イエスは言葉を発する前に、まずそのツァラアトの人に触りました。これは驚くべきことでした。なぜなら聖書の教えでは、汚れた状態の人に触れると自分も汚れてしまうので、触ってはいけなかったからです。また、イエスならばその人に触れなくてもツァラアトを癒すことができたでしょう。なぜなら預言者エリシャはナアマン将軍に触れることなく彼のツァラアトを癒しているからです。しかし、イエスはあえて彼に触れました。このツァラアトの人もイエスに触れてもらってうれしかったでしょう。なぜならすべての人が彼を避けて、触ろうとはしなかったからでした。イエスは彼に触れた後、「私の心だ」と言っていますが、ここも直訳すれば「私は願う」となるでしょう。このツァラアトの人がお願いしたからではなく、イエスご自身の意思で彼のツァラアトを癒したかったということです。そしてその人はたちどころに清められました。聖書ではさらっと書いてますが、これはとんでもない大事件でした。なぜなら旧約聖書でツァラアトを患ったユダヤ人が癒されたという記事は一つもないからです。ですからこの癒しはイスラエルの歴史の中でも前代未聞の大事件だったのです。このような驚くべきことを行ったイエスですが、不思議なことに自分が彼を癒したことは誰にも言うなと命じています。とはいえ、周りにはたくさんの人がいたはずなのでこんな大事件が秘密にされることなどありえないのですが、ともかくもイエスはこの癒しをあまり広めないようにと指示したのです。しかし彼には癒されたからだを祭司に見せるように指示します。これは旧約聖書のレビ記の教えに従ったもので、ツァラアトから癒された人は祭司が「きよい」と宣言することを通じて正式にイスラエルの共同体の中に復帰することができるのです。イエスはこの人を癒してきよめただけでなく、彼がイスラエルの共同体の一員に戻ることを願っておられたということです。ここには、イエスの人々へのやさしい思いと配慮を見ることができます。イエスは彼らの病を治すだけでなく、社会生活をも回復させてあげたかったのです。

これが、マタイ福音書に記されたイエスの第一の癒しでした。次いでイエスは二度目の癒しを行いますが、今度の場合も最初の場合とは違う意味で極めて異例なケースでした。というのも、依頼に来たのはユダヤ人ではなく、ユダヤ人を支配し、高い税金を課し、時にはひどい暴力をふるうローマの兵士だったからです。多くのユダヤ人はローマの兵士をひどく嫌っていたことを忘れてはいけません。今でいえばベネゼエラ人にとってのアメリカ人、ウクライナ人にとってのロシア人のような存在だったのです。そのローマの兵士が、ユダヤの流浪の癒し人に部下の癒しを願ったのです。その病気のローマ人の部下も、ユダヤ人にひどいことをしていた可能性は否定できません。彼に対してイエスはどう対応したでしょうか?7節の訳では「行って、直してあげよう」というようにイエスが躊躇なく癒しに同意したように描かれていますが、より詳しくギリシア語を研究している研究者は、ここは「あなたは私に彼を直すために行けというのですか?」と言うように、疑問文として訳したほうがよいと主張していますし、私もそう思います。イエスはすぐに癒すことに合意したわけではないのです。なぜならイエスはその人を癒すためには異邦人の家に入らなければならないわけですが、当時のユダヤ人は異邦人の家に行くことを躊躇していたということは使徒の働きのペテロの言葉からも分かります。ですから繰り返しますが、イエスはその依頼に直ちに応じたわけではないのです。そして、イエスに依頼に来たローマ兵の隊長も、ユダヤ人が異邦人の家に入りたがらないということをわかっていました。そこで彼はイエスに、私の家に来てもらう必要はない、と言ったのです。むしろナアマン将軍を癒したエリシャのケースのように、言葉で言ってくれるだけでいい、それで私の部下は直るでしょうと言いました。イエスにはそのような「権威」があると認めているのです。これは見上げた信仰です。イエスもこの異邦人の軍人の深い信仰に感嘆し、初めの躊躇は撤回して彼の部下を言葉だけで癒しました。このように、イエスは初めに異邦人の癒しを躊躇したけれど、その異邦人の信仰が素晴らしかったので、それに応えて癒すという話の流れになっています。これはマタイ15章に出てくるカナン人の女の癒しとまったく同じパターンです。その時にもイエスは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と、けんもほろろでした。しかし、そのカナン人の女性の信仰があまりにも素晴らしかったので、「あなたの信仰はりっぱです」と褒めて、癒しを行っています。今回の百人隊長とまったく同じですね。ですからこれらはマタイが好んでいたパターンだということになります。そしてこの話には、マタイの教会人としての意図を感じます。というのも、イエスはその宣教対象をもっぱらユダヤ人に限定し、異邦人との接触を極力避けていたのですが、イエスの時代からだいたい50年後にマタイが福音書を書いていた時代には、なかなかイエスを信じようとしないユダヤ人たちをしり目に多くの異邦人がイエスを信じて救われていました。マタイはこのエピソードを記すことで、異邦人の救いの時代がこれから到来していくことになると、暗示したかったのでしょう。

そして三番目の癒しです。これがある意味で最も普通の癒しの記事だと言えるでしょう。イエスはナザレ出身ですが、ガリラヤでの拠点はカペナウムのペテロの実家でした。イエスはペテロの実家に、言い方は悪いですがいわば居候させてもらっています。そこでいつもお世話になっているペテロのしゅうとめが高い熱で苦しんでいましたので、イエスはそれを癒してあげました。この場合は持ちつ持たれつという具合で、とてもよい話だと思います。

このように、三つの癒しを見て参りましたが、もちろんイエスが癒されたのはこの三人だけではありません。ほかにもたくさんの悪霊につかれた人から悪霊を追い出したり、病の人を癒されました。悪霊を追い出すことは、人々を悪魔の支配から神の支配に取り戻すことなので、神の国、神の支配は近づいているというイエスのメッセージを確証するという意味でもとりわけ重要なものでした。マタイはまた、イエスのこうした活動が旧約聖書の預言者のことばの成就であるということを強調しています。マタイは14節で預言者イザヤのことばを引用しています。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」というのは、あの有名なイザヤ書53章の「苦難のしもべ」の歌から取られた一節です。ここからわかるのは、イザヤ書53章のしもべの「苦難」とは単に十字架だけではなく、むしろイエスの公生涯すべてを指している、ということです。イエスが私たちの苦しみを引き受けてくださったのは十字架上だけではなく、公生涯すべてにおいてだったということです。イエスは、おそらく人々を病や悪霊から解放するときに、ご自身でもそうした人々の苦しみを共有されたのでしょう。それがどういうことなのか、私にはうまく説明できませんが、おそらく相手の病をいやすときに、相手がこれまでどんな苦しみを背負ってきたのかが分かったのだと思います。そのような共感の上で、癒しの奇跡を行ったということです。ですからイエスご自身も、大変な思いをしながら癒しの業を行い続けたのです。

3.結論

まとめになります。今回は、イエスがその公生涯の初めに行った三つの癒しを見て参りました。最初はツァラアトの癒し、二つ目は異邦人の癒し、三つめはペテロのしゅうとめの癒しでした。このうちの最初の二つは、まさに神の国の到来、神の支配の到来がもうすぐだということを指し示すものでした。ツァラアトが癒されるというのは長いイスラエルの歴史でも初めてのことでした。このようなことが起きるということは、イスラエルの歴史に大きな転換点が訪れることを指し示すことでした。また、異邦人を癒したことも重要です。救いは今やユダヤ人に限定されず、広く異邦人にも及ぶということ、これが神の国の大きな特徴の一つです。そのような神の国の福音の拡大のミッションを、ペテロたちがこれから担っていくのですが、そのペテロのしゅうとめが癒されたことは、イエスがこうした働き人たちの生活のことも深く配慮してくださっていることを示すものです。

そして、こうした働きすべての背後にあるのはイエスの人々への深い愛と憐み、さらに言えば父なる神の愛です。神は人々を苦しみから救うために行動を開始したのです。このイエスの始められた神の国運動は、二千年を経た今日でも続いています。私たちにはイエス様のように人の病をいやす力はありませんが、社会の中の孤独や孤立を癒す働きはできると思います。イエスの働きを、今年も続けて参りましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神よ。そのお名前を賛美します。今日はイエスのなされた癒しの業を学びました。今日においても癒しを求める方は多くおられます。主がそうした方々を癒してくださいますように。また私たちも微力ながらそうした働きを担うことができますように。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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イエスの教えへの誤解マタイ福音書7章13~29節 https://domei-nakahara.com/2026/01/04/%e3%82%a4%e3%82%a8%e3%82%b9%e3%81%ae%e6%95%99%e3%81%88%e3%81%b8%e3%81%ae%e8%aa%a4%e8%a7%a3%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b87%e7%ab%a013%ef%bd%9e29%e7%af%80/ Sun, 04 Jan 2026 00:35:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=7173 "イエスの教えへの誤解
マタイ福音書7章13~29節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。今日が2026年の最初の説教となりますが、この箇所を今年の初めの説教として与えられたことは、何か象徴的なといいますか、大変大きな意味があることであるように思います。この箇所はキリスト教の核心的な部分に係ることだからです。

マタイ福音書を読み進めていくと、「おや?」とか、「これはいったいどういう意味なのか?」と思わされるところがいくつも出てくるのですが、今日の箇所などまさに典型的なところです。なぜ「おや?」と思うのかといえば、それはイエスの教えが私たちの普段考えているキリスト教とは違うことを言っているように思えるからです。胸がざわざわするというか、落ち着かない気持ちになってくるのです。たとえばその一つは、「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです」という、マタイ22章14節にあるイエスの言葉です。「少ない」というのがキーワードになっています。「いのちの道を見出す者は少ない」とか、「選ばれる者は少ない」と聞くと、「ああ、救われる人って少ないんだな」となんだがガクッとしてしまいますよね。特に日本のように、キリスト教人口が全人口の1%未満の国で、伝道の難しさが身に染みているような国では、いくらキリスト教を熱心に伝えようとも、大した成果が上げられないのではないか、という絶望的な気持ちになってしまうかもしれません。しかし、それは日本という特殊なケースの話で、世界では救わる人は少ないどころか、大変多いという現実があります。世界の総人口の約三割がクリスチャンと言われていますが、今の人口を80億人とすると、少なくとも20億人以上の人がクリスチャンだということになりますし、国によっては3割どころか5割にも上る国もあります。こんなに多くの人が救われているのなら、とても少ないなんていえないじゃないか、と思えてくるのです。日本だって、今でこそクリスチャンの数は少ないですが、これから数百年後になれば状況は全く変わっているかもしれません。仏教だって、初めはなかなか日本に定着しませんでしたが、鎌倉仏教という一種の覚醒時代を経て、広く庶民にも根付きました。同じことがキリスト教で起きる可能性は十分にあるのです。

ただ、今日の箇所はキリスト教人口が日本の人口の1%なのか世界の人口の30%なのか、というような数字の話ではなく、むしろその30%、世界の20億人ものクリスチャンがみんな本当に救われているのか、自称クリスチャンであれば、あるいは洗礼さえ受ければ、本当にみんな救われているのだろうか、という疑問を抱かせてしまうのです。よく、文化的クリスチャンという言葉があります。日本人でも、自分は神も信じないし無宗教だと思っている人も、自分の家が代々仏教の檀家であると、「私は仏教徒です」と答えてしまうように、伝統的にキリスト教国と呼ばれる国の人々は、教会には年一回ぐらいしかず、聖書も全然読まないような人でも「私はクリスチャンです」という人が結構たくさんいます。こういうケースも、本当に「救われている」と言えるのでしょうか。あるいは、確かに信仰心は篤いのですが、「自分は信じている、救われている」という気持ちばかり強くて、他人に対しては全然親切ではない、それどころか信仰を持っていない人を「救われてない人」というぐあいに蔑むような人は、なんとなくクリスチャンらしくないといいますか、そんな人ばかりが天国にいるとすれば天国ってあまり楽しそうではないな、生きづらそうだな、などと思ってしまうかもしれません。何が言いたいかと言えば、「自分はクリスチャンだ」という自覚があれば、本当に誰でも救われているといえるのだろうか、という疑問が生じてしまうのです。たしかに、しばしば言われるような「信じる者は誰でも救われる」という言葉を聞けば、性格的に難があったり、あまり実践面で熱心とはいえないような人でも、信じさえすればみな救われているということになるのかもしれません。しかし、マタイ福音書を読んでいると、そういう見方が本当に正しいのか、疑問を抱かせるような箇所が少なからず出てきます。さきほどの「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです」というイエスの言葉もまさにそうです。これはイエスのたとえ話に出てくる言葉で、とある王さまが出てくる話ですが、この王は明らかに神を指しています。この王は立派な名士たちを王の宴会に招きますが、彼らはその宴会に来ようとはしません。そこで、おおよそその宴会にはふさわしくない人たちを通りで見つけては、彼らを宴会に招待します。こうした人々はラッキーにも王様に招かれて王宮で御馳走にありつけそうだと喜んで、いそいそと出かけていきます。ここまでは、何のたとえなのか分かりますよね。今日でも、社会で立派な人たちだとされている人がキリスト教に冷淡だったり無関心だったりするのに対し、社会から見下されているような人たちが喜んで福音に応答する、というようなことがしばしばあります。このイエスのたとえも、そのことを示しているように思えます。そういう人たちは、招きに応じさえすればみんな救われるのだ、と。しかし、なんとこうして招待された多くの人たちは、いざ宴会場に入ろうとしたときにふさわしい装いをしていないということで入場を拒否されてしまうのです。ただでごちそうにありつけると思ってやってきたのに、目の前でニンジンをぶら下げられて追い返されるという、非常に残念な結果になってしまいました。ここでの「ふさわしい装い」というのはクリスチャンにふさわしい行動、行いを指していると思われます。信じているといっても、ふさわしい行い、良い行いをしない者は結局は神の国に入れないということを教えているようなのです。マタイが言う「広い道」を通る人というのも、これはキリスト教を信じないで世の中の価値観に流されていく人ということではなく、むしろ自分はクリスチャンだと思いながらも世の中の価値観に流され、クリスチャンらしく生きない人なのではないか、と考えられるということです。しかし、そのような結論は「信じれば、ただ信じるだけで救われる」という多くの人がキリスト教に抱くイメージと衝突してしまうのです。「行いがなくても、信じるだけで救われるのがキリスト教でしょう?行いがないからといって、神の国から除外するなんて、おかしいじゃないか」という反論がありそうですよね。行いによって救われるのなら、ほかの宗教と何も変わらないじゃないか、キリスト教のすばらしさ、これはキリスト教だけでなく浄土真宗もですが、そのすばらしさは「行いによる救い」ではなく「信仰による救い」を説いていることだ、とこのように考える人がとても多いということです。

しかし、行いがなくても信じるだけで救われるなどとは、イエスは一言も言ってはいません。では誰が言っているのかといえば、パウロです。パウロ書簡には、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によるのだ、という教えが繰り返しでてきます。そしてそこから「信仰義認」、平たく言えば「信じるだけで救われる」という教えが生まれ、それこそがキリスト教の本質だと見なされるようになったのです。ただ、このような教えはよくよく慎重に考えなければなりません。いくらパウロが言ったことであろうと、それがイエスの教えと矛盾するのであれば、そこに価値はありません。私たちを救うのはパウロではなくイエスだからです。パウロが本当は何を言おうとしたのかを説明するのは今回の箇所の目的ではありませんが、それではなぜパウロの話をしたのかといえば、おそらく今日の箇所はこのパウロの教えを意識している箇所だろうと思われるからです。こういうと驚かれるかもしれません。パウロがイエスを信じるようになるのは、イエスが十字架で死なれて昇天した後であり、この山上の説教を語っている時点ではパウロはイエスのことを知りもしなかったはずだからです。パウロが活躍する前の時期に、イエスがパウロの教えを意識して何かを語るはずがないだろう、ということです。ただ、注意してほしいのは、確かにイエスの活動の時期はパウロの活動時期の前ですが、このマタイ福音書が書かれたのは、パウロが活躍した時代よりもずっと後のことだということです。マタイ福音書の執筆記事は紀元80年代だとされていますが、パウロ書簡が書かれたのは紀元50年代だと言われています。マタイ福音書は、パウロ書簡よりも30年、あるいは40年も後に書かれた福音書なのです。ということは、マタイ福音書を読んだり聞いたりした人たちは、パウロの教えについてかなり知っていた可能性が高いのです。説教者は聴衆のことをいつも考えます。自分が何を考えているかだけでなく、相手が何を考えているのかを意識しなければ、意味のあるコミュニケーションが成り立たないからです。マタイも、マタイ福音書を書いているときに、自分が記しているイエスの教えが聴衆や読者にどのように受け止められるのかを強く意識していたはずです。そして特にマタイは、パウロの教えを曲解して「行いがなくても信じればよい」などと考える信徒に対して非常に大きな危惧を抱いていたものと思われます。これはマタイ福音書におけるイエスの教えを慎重に読んでいけば分かることですが、今日の箇所はまさにその典型です。マタイは、イエスの教えの中でも行いの重要性を強調する教えに特に注目し、それらを集めて一つにまとめ、この箇所で非常に明確な形で提示しているということです。この点に注意しながら、今日のテクストを読んで参りましょう。

2.本論

では、13節からです。ここでは「いのちに至る道」と「滅びに至る道」という、二つの道が示されています。いのちに至る道は狭く、滅びに至る道は広いと言われています。このイメージは、クリスチャンには当惑させるものかもしれません。なぜなら、キリスト教神学では「狭い道」とは行いで救われようという厳しい道で、ユダヤ教的なものだと考えられてきたからです。ユダヤ人は自らの行いで救われようという厳しい道、険しい道を進もうとしてきたけれど、イエス・キリストはそのような狭すぎる道ではなく、もっと「広い道」、誰でもできる道を切り開いたというのです。すなわちイエスは人類の身代わりとして死ぬことで、良い行いはなくてもイエスを信じるだけで救われるという、もっと広い道を作ってくださったということです。しかしイエスは、救いに至る道は決してそのような安易なものではない、とくぎを刺します。では、いのちに至る狭い道とはどんなものなのか、ということをイエスはさらに示していきます。

イエスはまず、預言者たちについて語ります。預言者の良し悪しを判断する基準として、イエスは「実」で判断しなさい、と言います。では預言者の「実」とは何でしょうか?預言者ですから、預言ができることや、エリヤやモーセのように奇跡を行うことでしょうか。そう考える人に冷や水を浴びせるのが次のところです。22節と23節にはこうあります。

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け』

これはかなり厳しいことばですよね。主イエスの名によって預言したり奇跡を行った人たちですら救われないというのはいったいどういうことなのか、イエス様、いくら何でも厳しすぎませんか?という気がしてきます。しかし、このイエスの言葉を記したマタイは、おそらく彼の生きていた時代の教会のことを思い描いてこの言葉を記したのだと思います。パウロ書簡からもわかるように、原始キリスト教、つまりイエスが昇天してから数十年間、パウロが活躍していた時代は教会の歴史にとって例外的な時代でした。というのも、イエス様やパウロのような特別な人たちだけでなく、一般の信徒たちの間にも聖霊が力強く働き、彼らも預言をしたり奇跡を行うことができた時代だったということです。パウロは第一コリント書簡の12章10節で次のように記しています。

ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。

このように、コリント教会の一般の信徒たちは奇跡を行ったり預言をすることができたのです。彼らは、嫌な言い方をすればいわゆる「平信徒」で、特別な役職についている人たちではありませんでした。では、彼らは奇跡を行うくらいだから人格的にもモーセのように高潔な人たちだったかといえば、コリント書簡を読めば分かるように、全然そんなことはありませんでした。コリント教会では、問題のある行動をする人が驚くべき奇跡を行うというような、そういう特殊な状態だったのです。パウロは「正しくない者は神の国を相続できない」とはっきり語っています。主イエスの聖名によって奇跡を行う力があれば、日ごろの行いがいくらだらしなくても救われるとか、そういうことは決してないということです。マタイ福音書の今日の箇所も、このような初代教会の状況を反映しているものと思われます。奇跡を行う能力があれば救いは間違いないというような誤解を解くために、マタイはこの厳しいイエスの教えをここに書き記したのだと思われます。

また、21節には次のような主イエスの言葉があります。

わたしに向かって、『主よ、主よ』と呼ぶ者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行う者が入るのです。

これも厳しい言葉ですよね。イエスに向かって主よ、主よ、と呼ぶ人はクリスチャンしかいないわけですが、そのように主を求める人でも御国に入れない人がいるというのは衝撃的です。自分の行いに自信がある、私は神のみむねを行っていると自信をもって言い切れるクリスチャンはそんなに多くないと思うので、このイエスの言葉も私たちを不安にさせます。しかし、この言葉もある種のパウロ主義に対する誤解を解くためだとも考えられます。なぜならパウロは旧約聖書のヨエル書を引用して「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」(ロマ10:10)と言っているからです。このパウロの言葉を拡大解釈して、「主の御名さえ呼べば、誰でも救われる、行いとかクリスチャンらしい生き方とかは必要ない」という風に考える人がおそらくマタイの時代にいたのでしょう。なぜそういえるかといえば、それから二千年経った今でもそのように考える人がいるからです。マタイは、イエスの言葉としてそのような誤解、ある種のパウロ主義に反対し、口先だけではだめだ、信仰には行動が伴わなければならないということを強調したかったのでしょう。

このマタイの言わんとするところは、イエスの山上の説教の最後のたとえに端的に示されています。それは岩の上に家を建てた人と、砂の上に家を建てた人のたとえです。イエスの話を聞くだけで行わない人は、自分が持っていると信じている信仰をたやすく失うだろうと説教者マタイは警告しているのです。そのような「信仰」は砂の上に建てた家のようなもので、困難が来ると簡単に壊れてしまうというのです。

ここで誤解しないでいただきたいのですが、「行いが大事だ」、「行いが必要だ」という場合の行いとは、一切罪を犯さないこと、完璧な行いのことという意味ではないということです。行いが必要ないという人のしばしば使うロジックは、神様の求めるのは中途半端な行いではなく、完璧な行いだけれども、それは不可能なのだ。だから救いと行いとは無関係なのだ、というものです。しかし、一切の過ちを犯さない人など誰もいないということは、誰よりも神様ご自身がご存じです。神様は人類と何千年も付き合ってこられたので、そんなことが人間には不可能であることをご存じです。神様が求めているのは、私たちの力の及ぶ限り努力することです。それだけです。その行いがどんなに不完全でまずいものだったとしても、神様はそんな私たちを支えてくれます。あなたは自分の子どもや教え子が何かを一所懸命やろうとしているときに、その努力が完ぺきではないからと言って見捨てるでしょうか?そんなことはないはずです。むしろ精いっぱい手助けするでしょう。もし見捨てるとすれば、「私はやりやります。頑張ります!」と口では言いながら、何もしようとしない人、自分では指一本動かさないような子どもや教え子であれば、あなたも助ける気をなくすでしょう。神様も、この点では人間の親や指導者とそれほど大きく変わらないのです。「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません」(ヤコ1:22)というヤコブの教えは本当に真実なのです。

3.結論

まとめになります。今日は山上の垂訓の最後の教えを学びました。そこで言われていることのポイントは、「聞くだけでなく実行しなさい」ということでした。山上の説教には様々な教えがあり、チャレンジを与えるものも少なくないですが、それらの教えをただ聞いて、「イエス様ってすごい、素晴らしい教えだ!」とただ感心するのではなく、実際に自分の手足や頭を動かして実行しなさいということです。日本の伝統的な教えで中国から伝わった儒教には「知行合一」というものがあります。本当に知る、理解するためには行動が必要だということです。イエスの教えの本当の意味は、こうして私や誰かの説教を聞いているだけではだめです。それを実践して初めてその意味が分かる、そのすごさが分かるのです。私も今年の年初に何か新しいことをやろうと思って将棋入門の本を買いましたが、その本がそんなに素晴らしても、私がその本を読んで実際に練習やけいこをしないことにはその本は単なる宝の持ち腐れです。ないのと同じです。ですから私たちも聖書を読んだり聞いたりするだけでなく、それを実践しましょう。ただ、気を付けたいのは実践すると言ってもイエスの意図をちゃんと理解しないでしゃにむにそれを行おうとしてはいけないということです。「右のほほを叩かれたら左のほほを向けなさい」という教えに込められたイエスの意図を理解せずに、ただそのまま実践しようとすればかえってもっとひどいことになります。まずイエスの意図をきちんと理解して、そのうえで実行すべきなのです。ですから聖書を学ぶことはとてもとても大事です。しっかり学び、そのうえで実行する、今年もそのように歩みたいと願うものです。お祈りします。

天におられますわれらの父よ、そのお名前を賛美します。主の年2026年が始まりました。ことしもみことばを聞き、それを正しく理解し、そのうえで実行できるように私たちを導いてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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何を願うかマタイ福音書7章7~11節 https://domei-nakahara.com/2026/01/01/%e4%bd%95%e3%82%92%e9%a1%98%e3%81%86%e3%81%8b%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b87%e7%ab%a07%ef%bd%9e11%e7%af%80/ Thu, 01 Jan 2026 00:18:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=7168 "何を願うか
マタイ福音書7章7~11節" の
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みなさま、新年おめでとうございます。毎年恒例になりましたが、元日礼拝は今年の年間主題聖句を取り上げてお話しします。このマタイ福音書7章7節は昨年の講解説教で取り上げたばかりの箇所なので記憶に新しい箇所でもありますが、年初にあたって改めてこのみことばをよく考えてみたいと思います。

お正月といえば初詣で、多くの日本の方々は二年参りに赴いて神社仏閣で年越しを迎える方も多いと思います。初詣で何をするかと言えば願掛けであり、新しい年を迎えるにあたってお賽銭をしてお願いをするというのが多くの日本の方の行動パターンだと言えるでしょう。お願いする内容は様々で、受験生の方は合格祈願、サラリーマンの方は商売繁盛、若いカップルは子宝を授かることなど、いろいろでしょう。普段は宗教に無関心な日本人が急に信心深くなるように見えますが、日本人が神仏に祈るのは、このように何かをお願いするときだと言えるでしょう。

かくいうキリスト教の場合も、祈りとお願いには深い関係があるように思います。「求めよ、さらば与えられん」というみことばが聖書の中でも最も人気があるみことばの一つであるというのもその証拠と言えるかもしれません。ただ、このようなシンプルで力強い言葉は誤解を招きやすいものでもあります。「信じる者は救われる」という、これまたよく言われる言葉もそうですが、こういう分かりやすいことばほど、よくよく意味を考える必要があります。というのも、神様に願えば何でもかなえられると言われても、そんなはずはないということは子供でも分かるわけです。そこで、何をどう願うべきなのか、ということを聖書の他の箇所を参照しながら考えてみましょう。それは昨年の説教でも取り上げたヤコブの手紙です。この手紙はイエスの実の兄弟であるヤコブが書いたものと言われていますが、その内容はさすが兄弟というべきか、イエスの教えと非常に近いのです。そのヤコブが願うこと、求めることについて何と言っているかを見てみましょう。ヤコブ書1章5節から8節です。

あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いています。

このように、疑わずに信じて願えば与えられる、ということをヤコブは述べています。しかしヤコブはほかのところで願っても与えられないということも話しています。そこを見てみましょう。4章1節から3節です。

何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受け入れられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

このように、自分の快楽のためにというような悪い動機で神に願っても、それは叶えられることはないとはっきり語っています。先ほどのヤコブの教えと一緒に考えるならば、神は私たちにとって本当に良いこと、必要なことを願うならば与えてくださるけれど、私たちの目先の快楽のための願いは聞いてくださらないということです。これは当たり前のことですよね。自分のことで言うのも恥ずかしいのですが、私は小学生に入るか入らないかの頃に、おじいちゃんとおばあちゃんからお正月のプレゼントをもらったことがありました。私はその時、ゲームが欲しくてそれを願っていたのですが、おじいちゃんとおばあちゃんがくれたのは勉強道具でした。私はそれを貰った時に泣き出して、「こんなのいらない」と駄々をこねました。まあ、今から思えばなんてことをしたんだろうと思うわけですが、おじいちゃんとおばあちゃんは私の将来にとって一番良いものを用意してくれていたのですが、私は目先の楽しみで頭が一杯だったわけです。そして、大人になった私たちと神様との関係も、どこか子供の頃の私と祖父母との関係と似たところがあるのかもしれません。

さすがに大人になった私たちは神様に「あのゲームが欲しい、買って」と祈り求めることはないでしょうが、私たちが神に願うものは、後になって少し距離を置いて俯瞰してみて考えると、「なぜ私はあんなことを願ったのだろうか」と思うようなことが少なくないのではないでしょうか。あるいは、自分が本当にしたいことを自分ではわかっていないということもあります。いきなりなんだかエリートっぽい話になって恐縮ですが、私はサラリーマンだった時に強く願っていたことがありました。それは当時勤務していた銀行から海外の大学院に留学させてもらうことでした。私の父もかつてアメリカの一流大学に社内留学生として派遣されたことがあったので、なんとなく留学へのあこがれがあったのです。私は当時そのためにいろいろと努力し、英語力を上げたり資格を取ったりしました。しかし、いざ来年チャレンジしようとしていた時に、バブル崩壊の影響を受けていた銀行は突然留学制度を中止しました。私は目標を見失ってなんだか呆然としてしまいました。仲の良かった先輩から、国内の大学院でもいいじゃないかと言われ、当時渋谷支店に勤務していたこともあり、青山学院の夜間の社会人向けMBAコースに入学しましたが、それはやはり海外留学の代わりにはなりませんでした。

しかし、今から振り返ると、たとえアメリカの一流のMBAに入学できたとしても、自分は全然幸せではなかっただろうな、と思います。今なら分かりますが、MBAで学ぶような内容は、私が本当に学びたいことではなかったからです。またMBAに来るような人たちは非常に上昇志向の強い人たちばかりなので、せっかく海外生活を経験できたとしても、そういう人たちとの競争に明け暮れる二年間というのもあまり幸せではなかっただろうと思います。それに対して、神学の勉強のためにイギリスに留学した七年間は本当に楽しく、学ぶことも自分が心から学びたい内容でした。しかし、サラリーマンをしていた頃の自分は、自分が本当に勉強したいのが聖書学だなどとは一ミリも思っていませんでした。そんな面白い学問があることなど全然知らなかったからです。

しかし神様はそのことをご存じでした。「アメリカのビジネススクールに留学したい」という私の願いは叶いませんでしたが、私に本当の知恵を与えてくれる留学の道は神様がちゃんと用意してくださっていたのです。また、ビジネススクールに行くために英語を勉強したり論文を書いたりしたことは決して無駄になりませんでした。また、金融機関で働いていたおかげで、結構なお給料をいただいていましたから、留学のための軍資金を蓄えることができました。私は30代の半ばで留学しましたが、20代の世間のことが何もわかっていなかった時よりも、ある程度の社会経験を積んだ後のほうが神学の学びにもプラスの影響があったように思います。

と、なんだか私の証しになってしまいましたが、この話から「神は願い求めるものを与えてくださる」ということについての一つのイメージができるのではないでしょうか。神は確かに私たちの願うものを与えてくださいます。それは当初自分が願っていたものとは違うものかもしれませんが、しかしきっとそれは自分すら知らなかった私たちの本当の願いなのです。神様は良い方ですから、私たちに本当に良い物を与えてくだるでしょう。そのことを信じて今年も歩んで参りましょう。お祈りします。

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黄金律マタイ福音書7章1~12節 https://domei-nakahara.com/2025/11/16/%e9%bb%84%e9%87%91%e5%be%8b%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b87%e7%ab%a01%ef%bd%9e12%e7%af%80/ Sat, 15 Nov 2025 23:51:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6911 "黄金律
マタイ福音書7章1~12節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。マタイ福音書の「山上の垂訓」を読み続けていますが、この山上の垂訓にはイエスの非常に有名で印象的な教えがたくさんあります。今日の箇所もまさにそのような箇所で、先日教会員の総意で当教会の来年の年間主題聖句にすることが決まった一節も含まれています。

今日の箇所は、大きく分けると三つに分類できます。一つ目は1節から6節までで、裁くことについてです。7節から11節までは良い物を与えてくださる主を信頼すること、そして最後の12節は「黄金律」とよばれる重要な教えです。これらの教えを聞くにあたって大切なことは、これまで何度も申し上げてきたことですが、常識的な視点を失わないということです。具体的には、直解主義、聖書に書いてあることをなんでも「文字通り」、「字義通り」に捉えようというものです。こういう人たちはイエスの言葉の語られている文脈を無視して、あらゆるケースにこの教えを当てはめようとするのです。

今日の箇所で「さばいてはいけない」とありますが、これを直解主義でとる人は、自分の周りの人が罪を犯した場合でも、それを指摘して裁いてはいけないということを主張したりします。しばしば引用されるのはヨハネ福音書8章の姦淫の女の話で、姦通の現場で捕まった女性を裁くべきだと詰め寄る人々に対し、主イエスは「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われたところ、誰も石を投げなかったという話です。この話を聞くと、「人間で罪を犯したことのない人はいない。脛に傷のないひとなどいない。だから他人を批判したり、裁いたりしてはいけないんだ」ということになります。私も実際に、ある教会で人妻と不倫をしている教会員を批判する人に対し、別の教会員がこのヨハネ福音書の話を持ち出して、「あなたも同じ罪びとなんだから、他人をさばいてはいけない」と言ったという話を聞いたことがあります。ほかの教会員の罪を指摘して批判する人は、「律法主義者」などというレッテルを張られることもしばしばあります。

しかし、聖書ではそれとはまったく正反対のことを述べている箇所があります。使徒パウロはコリント教会への手紙で、父親の妻を自分の妻にして暮らしているというすさまじいことをしている信徒の罪やほかの罪をさばかないコリント教会の人たちを批判して、こう書き送っています。第一コリント6章2節から3節をお読みします。

あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。

さらには、5章12節と13節でこう書いています。

外部の人たちをさばくことは、私たちのすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の者たちではありませんか。外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。

とこのように、罪の中でもとりわけ教会の中にいる人たちの罪を裁きなさい、と命じています。ですから教会員の罪を指摘する人をヨハネ福音書8章を持ち出して批判する人は、主イエスと使徒パウロが正反対のことを教えていると言っているのと変わらないのです。

しかし実際は、主イエスも教会内の罪を取り扱うように指示しています。マタイ福音書18章15節から17節をお読みします。

また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。

と述べておられます。教会員の罪を責めなさい、とはっきり命じているということです。こういった主イエスやパウロの言葉を無視して、今回のイエスの言葉を持ち出して「さばくことはいけないことだ」というのは問題があるのがお分かりになると思います。では、イエスの教えの意図は何なのか、ということを考えてみたいと思います。

2.本論

では6章1節から読んでまいりましょう。ここで問題となっているのは、「さばく」ことそのものではなく、ダブルスタンダードの問題です。政治の世界でよく言われることですが、他人の罪は責めるのに自分が同じことをしている場合は大目に見る、というような行動をイエスは批判しているということです。政治資金の問題で、ほかの政党の政治家が不適切な行動をしている場合は鬼の首を取ったように批判するのに、自分が同じことをしている場合は「秘書が勝手にやったことで、私は知りませんでした」と言い逃れるようなケースです。これは笑えない話ですよね。日本のことわざでも、他人を批判する前に自分の行動を改めなさい、ということが言われます。「紺屋の白袴」、「灯台下暗し」、「人のふり見てわが身を正せ」などは基本的にみな同じことを言っています。人のことはあれこれ口うるさく批判するのに、自分のおかしな点にはまるで気づいていないような人のことです。主イエスも同じことを言われているのです。「他人の目のちりを取る前に、自分の目の中の梁を取り除けなさい」というのは、人の小さな欠点には異様に敏感なのに、自分の大きな欠点についてはまるで無頓着な人のことを言っています。ですから、繰り返しますがイエスがここで問題にしているのは裁くという行為そのものではなく、むしろ裁きにおけるダブルスタンダード、他人に厳しく自分に甘いというあり方なのです。

では、そのような文脈において6節はどんな意味を持っているのでしょうか。聖なるものを犬にやるな、真珠を豚にやるなという教えです。ことわざの「豚に真珠」のルーツになったイエスの教えですが、ここで言われている「犬」とか「豚」というのはある種の人間のたとえなのは間違いないので、イエス様が人を犬とか豚とか呼ぶことに抵抗を感じる方もおられるかもしれません。しかし、これは誇張表現であっても悪口ではないということに気を付けていただきたいと思います。では、これらのことばはどういう意味かといえば、「良薬は口に苦し」というように、人が時として必要としているのは厳しい批判であり、自分の問題点をずばりと批判してもらうことです。しかし、ある人は批判を一切受け付けずに、むしろ自分を批判する人を憎むようになります。そのような人を批判しても無駄なことだと、イエスはおっしゃりたいのです。つまり「聖なるもの」とか「真珠」というのは正しい意味での他人の批判です。イエスがどんなときにも「裁くな、批判するな」と言っているわけではないことがここからもわかるでしょう。このイエスの教えは、旧約聖書の知恵文学の系譜にあるものだと言えます。箴言にも似たような教えがありますので、そこを見てみましょう。箴言9章の7節から9節をお読みします。

あざける者を戒める者は、自分が恥を受け、悪者を責める者は、自分が傷を受ける。あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。知恵ある者を責めよ。そうすれば彼はあなたを愛するだろう。知恵ある者に与えよ。彼はますます知恵を得よう。正しい者を教えよ。彼は理解を深めよう。

このように、批判というものは聴く耳のある人にしかすべきではない、というのがイエスの教えのポイントなのです。

では、次の7節に行きましょう。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」という大変有名なみことばです。このみことばは当教会の来年の年間主題聖句ですので、これからも折に触れてお話ししたいと思いますが、今日はそのポイントをお話ししたいと思います。このみことばは非常にインパクトがあり、覚えやすいので、いろいろな意味合いで理解されるでしょうが、念のために申し上げますと、これは神様が私たちの願いをなんでもかなえてくれるという意味ではもちろんありません。むしろ、神様は私たちの欲しがるものではなく、私たちにとって本当に「良いもの」、「必要なもの」を喜んで与えてくださるということです。ですから、私たちにとって本当に良いもの、必要なものが試練であるならば、私たちがそんなものは欲しくないと思っていても、本当は必要としている、心の奥底では求めているその試練を与えるということがあるのです。親は子供に良いものを与えますが、その良いものというのはわがままな子供が欲しがるものではなく、むしろ嫌がるものであることもあるのです。なぜそんなものを与えるのかといえば、それが子供のためであると親は知っているからです。そのことを詳しく書いてあるのがヘブル人への手紙です。その手紙の12章5節から12節までを、少し長いですがお読みします。

そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生児であって、ほんとうの子ではないのです。さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちを自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときには喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。

ずいぶんと長い引用になりますが、父なる神が私たちの内なる求めに応えて与えてくだるものとは、私たちの欲望を満たすものではなく、必要を満たすものだということを覚えておきましょう。ヤコブの手紙でも同じことが言われています。4章の2節と3節をお読みします。

あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

このように、神が私たちの願いに応じて与えてくださるものとは、良いものであり、その良いものというのは私たちの成長のために良いものであり、私たちがいくら願っても私たちのためにならないものはお与えにならない、ということはしっかりと胸に刻むべきことでしょう。

そして、この次の12節に有名な黄金律が来ます。「それで、何事でも、自分にもしてもらいたいことはほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」というみことばです。「それで」、ということばは「したがって」とも訳せます。つまりこの黄金律は「求めなさい」というみ言葉の結論、帰結としてあるということです。これはつまり、神様が私たちの求めるものを与えてくださるのだから、私たちもまたほかの人たちに同じように与えてやりなさい、ということです。神様がよくしてくださったように、他人にもよくしてやりなさい、ということです。ここで注意したいのは、この教えは人が求めるものは何であれ、その人に与えてやりなさいという意味ではないことです。なぜなら神様はそんなことはなさらないからです。神様は私たちの求めに応じてなんでも与えてくださるというようなことはせずに、私たちにとって良いもの、必要なものだけをお与えになるのです。同じように、私たちも人々が求めるならなんでもそれに応えるというようなことをすべきではありません。そんなことをすれば、それは結局人間関係を壊してしまうからです。私たちはむしろ、相手にとって本当に必要なもの、良いもの、自分たちの関係を良くしてくれるものを与えるべきです。そこには知恵と愛情が必要なのです。

3.結論

まとめになります。今日はイエスの有名ないくつかの教えを学びました。これらに一貫した教えとは、相手のためになる、相手にとって本当に必要なものを与えてやりなさい、ということでした。なぜなら神がそのようにしてくださるからです。私たちは時に、相手が求めていなくても、本当に必要としているものを与える必要があります。その一つが耳の痛いアドバイス、助言です。相手が嫌がる場合でも、相手のためになることは時には言わなければならないのです。しかし、相手に助言する際に自分が同じ過ちを犯している場合は、その助言は力を持ちません。ですから私たちは人にあれこれ言う前に、まずは我が身を顧みなければなりません。そうして初めて、人に何か言うことができるのです。

神様も私たちが本当に必要とするものは、なんでも与えてくださいます。神は私たちでさえ気が付かない、私たちの内なる願いを知っておられます。そのような願いに応えてくださいます。しかし、神が与えてくだる「良いもの」は私たちの快楽を満たすものとは限りません。むしろ逆である場合のほうが多いでしょう。ですから私たちは神様が与えてくださるものが自分の期待したものとは違っていたとしても、そこに神の深い思いやりがあることを信じてそれを受け取るようにしたいものです。

神様が私たちをそのように気遣い、与えてくださるように、私たちも隣人に対して同じようにしましょう。それは相手が求めるものになんでも応じるということではありません。むしろ、本当に相手のためになることを進んでしてあげるべきなのです。そのような知恵と愛を持てるように、神に祈りましょう。

私たちを愛し、私たちが本当に求めるものを与えてくださる父なる神様。そのお名前を賛美します。あなたがわたしたちにそのようにしてくださるように、私たちもほかの人たちにすることができるように、力をお与えください。われらの平和の主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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神に信頼するマタイ福音書6章19~34節 https://domei-nakahara.com/2025/11/09/%e7%a5%9e%e3%81%ab%e4%bf%a1%e9%a0%bc%e3%81%99%e3%82%8b%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b86%e7%ab%a019%ef%bd%9e34%e7%af%80/ Sun, 09 Nov 2025 03:18:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6902 "神に信頼する
マタイ福音書6章19~34節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。私たちはイエスの教えをまとめた箇所である「山上の垂訓」を学び続けています。そこには大変有名な教えが数多く含まれていますが、今日のみことばも非常によく知られている、キリスト教のエッセンスとも言われる箇所です。そこには私たちの日々の生活に直接かかわること、私たちに安心安全を与えてくれるものは何なのか、という根本的な問いかけが含まれています。私たちに安心を与えてくれるのはお金なのか、神様なのか、という問いです。

人生百年時代と言われるようになり、老後に備えて貯蓄するべきだ、あるいは投資すべきだと政府が盛んに喧伝しています。仕事を辞めて、働かない、働けない期間が数十年にも及ぶかもしれないということで、年金だけに頼れないのだということが言われています。そういう不安な時代に、少しでも多く貯蓄をしておこうと考える方にとって、今日の主イエスのみことばは、励ましというよりも耳に痛いと感じられるかもしれません。自分は神様ではなくお金に信頼しているのではないか、頼っているのではないかと考え、老後の心配ばかりしている自分は不信仰なのではと、そのように思ってしまうかもしれません。主イエスも、「だから、あすのための心配は不要です」とか、「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」とおっしゃっているではないですか。私たちも、明日のことは全部神様に任せて、取り越し苦労をしないで主を信頼して歩むのが信仰者としての正しい在り方なのだ、とそのように思えるかもしれません。

しかし、私はあえてそのような見方とは違う話を今日の説教でさせていただきます。私たちが将来のことを心配して、将来のために行動するのはよいことです。野のけものを見なさい。あのクマだって、長い冬に備えて動けるうちに必死に食糧を集めようとしているではないですか。そのために人間界は大変な迷惑を被っていますが、クマも必死なのです。ですから人間が将来に備えて蓄えるのは当然のことです。主イエスの教えについては、それがどのような状況の人に対して語られたのかをよく考える必要があります。今日の箇所のイエスの教え、特に後半部分の教えは、これから長い老後に備えて貯蓄に励んでいる21世紀の現役世代に対して語られたことばではありません。むしろ、イエスの直接のお弟子さんたちに対して語られた言葉です。イエスは彼らを伝道旅行に送り出しますが、その際にこのように言われました。マタイ福音書10章9節と10節をお読みします。

銅巻に金貨や銀貨を入れてはいけません。旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。

いわば一文無しで伝道旅行に送り出された彼らは、大変心細かったと思いますが、そのような弟子たちに徹底的に神に信頼することを教えているのがこの箇所なのです。しかし、イエスは別の機会、すなわちご自身が天に帰られる前にはこう言っています。ルカ福音書22章35節と36節です。

それから、弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ、何もありませんでした。」そこで言われた。「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。」

とこのように言われ、将来の困難に備えていろいろ準備するようにおっしゃっています。神様が守ってくれるから何も心配はいらない、準備する必要はない、とはおっしゃっていないのです。ですから、今日の箇所のイエスの教えをあらゆる状況に当てはまる普遍的な教えと考える必要はありません。ある場合には、これらの教えはとても大切ですが、別の場合には、この言葉通りに実行することはむしろ危険なことにもなりえます。聖書の言葉はまさに諸刃の剣です。使い方を誤ると、かえって自分で自分を傷つけてしまうことにもなりかねません。聖書を読む際は、そのことを常に注意する必要があります。

2.本論

では、さっそく今日のみことばを詳しく見て参りましょう。ここでは「天に宝を積みなさい」と言われていますが、それをさらにわかりやすく言うならば「天に貯金をしなさい」ということになるでしょう。私たちは将来に備えて銀行に預金をするわけですが、天国にも銀行のようなものがある、ということをイエスがおっしゃっているように思えます。そうだとすると、この世だけでなくあの世にも預金のたくさんある金持ちと預金のない貧乏人がいるというということになり、げんなりするかもしれません。貧富の格差はこの世だけにしておいてほしい、と考える方も多いでしょう。しかし、来世、あるいは来るべき世において、私たちが受ける報いには差がある、というのは聖書が繰り返し教えている内容です。使徒パウロはコリント教会への手紙でこう述べています。第二コリント5章10節をお読みします。

なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れ、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

ここで言われている、肉体において善を行うことによって受ける報いのことをイエスは「天に積んだ宝」と呼んでいるのです。つまり神様は、私たちが地上の生涯においてなしたよき業に必ず報いを下さるということです。では、そのよき業とは具体的にはどんなことかと言えば、主イエスがこう言われました。

まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。

このように、貧しい人たち、小さな人たちに行ったことに対して、主は必ず報いをお与えになると約束しています。これが「天に宝を積む」ということです。私たちは退職した後の20年、30年の人生のために一生懸命貯金をします。20年ほどの期間のためにそうするのであれば、私たちの死後の時間は永遠ですので、その永遠にそなえてなお一層貯蓄すべきではないでしょうか。私たちもたゆまず、できる範囲で困った人たちを支えていきたいと願うものです。そうすれば、私たちは天国に貯蓄できるようになるのですから。

ただ、ここで注意したいのは、この世の自分自身の将来や老後に備えて貯蓄することそのものは悪いことでもなんでもなく、むしろ必要なのだということです。イエス様の教えは、聞き手にインパクトを与えるために割と大げさなところがあります。「あなたの手が罪を犯すなら、その手を切り落としなさい」などの教えが典型的ですが、それを文字通りに実行したら大変なことになります。ですから、この世で貯蓄する、蓄えることを一切悪だと考えるような、そういう極端に走らないことは大切です。聖書を読むうえで、常識的な感覚を持って読むのは大事なことなのです。私たちはこの世における老後のためにも、またこの世での人生を終えた後の来世での人生のためにも、その両方のために備えておきなさい、というのがポイントなのです。

さて、次に出てくる「目」の話は、なんだか前後の文脈にそぐわないように思われるかもしれません。私たちに本当の安心安全を与えてくれるのは天の宝、天国での貯金なのだから、善い行いに励みなさいと教えておられるイエスが突然、「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身は明るいが、もし目が悪ければ、あなたの全身は暗いでしょう」と語るのは、いったいどうしたわけでしょうか。天に宝を積むことと、目がよいこととの間にどんな関係があるというのでしょうか。実はここで「目が健全だ」と言っているのは、私たちが貧しい人たちに気前が良いことのたとえなのです。どうしてそういう話になるのか、訳が分からないと思われるかもしれませんが、ここでは少し専門的な話が必要になります。この箇所を理解するためには、マタイ福音書の書かれたギリシア語にさかのぼって考えてみる必要があります。ここで「健全」と訳されているギリシア語はホプロウスという言葉で、その言葉には「純粋な」、あるいは「一途な」という意味合いもあります。そしてこの形容詞の名詞形であるホプロテイスという単語の意味は「気前が良い」、「物惜しみしない」という意味なのです。どうも福音書記者のマタイはこのようなギリシア語の意味を知っていて、この単語を用いたようなのです。つまり、目が良い、目が健全な人というのは気前の良い個人を意味していて、その人が物惜しみしないと、体、つまり周囲の人たちや社会全体が明るくなる、というような意味合いを込めているものと思われます。一種のごろ合わせをしているのであり、ギリシア語を知らないとこの下りの意味合いがつかめないとも言えます。ともかくも、この「目」の話も、貧しい人に気前良くして天に宝を積みなさいという先の教えの続きなのです。

次の24節はとても重要な教えですが、誤解をしないようにしたいみことばでもあります。「だれでも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」ここで誤解しないでいただきたいのは、イエスは私たちに富や財産を一切持つな、とおっしゃっているのではありません。さらにいえば、お金を稼ぐために働くことが悪いと言っているわけではありません。お金が何か汚らわしいものだと言っているのでもありません。むしろ、働く目的をはっきりとさせなさい、ということです。つまり、神のために、神の国の建設のために働くということをすればしっかりと給料もついてくるので、お金のことは心配せずに自分の天職、与えられた仕事や責任をしっかりと果たしなさいということです。お金は良い働きをすればついてくるものですが、お金を得るための行為がすべて良いものとは限りません。仕事の内容が明らかに神の御心に沿わない、人をだましたり傷つけたりするものだとわかっているのに、それがお金が儲かるからという理由でその仕事に手を染めるならば、その人は神様ではなくお金に仕えることになります。私たちが仕えるのは神おひとりです。そして神に仕えるというのは何も特別なことをしなければならないわけではありません。別に牧師にならなくても神様に仕えることはできます。世の中の役に立つ仕事であれば何であれ、それに一生懸命打ち込む人は、神にお仕えしているのです。

さて、それでは25節から34節までを読んでまいりましょう。今日の箇所の中でも中心的な箇所です。ここで主イエスは、野生動物にも神様は十分な食料を与えてくださっている。人間は動物よりも神様によってよほど大事な存在なのだから、なおさら十分な衣食住を提供してくださるだろう、というのが基本的なメッセージの内容です。しかし、冒頭でお話ししたクマの場合のように、野生動物に十分な食糧が備えられているのかといえば、そうともいえないケースも少なくありません。また、クリスチャンでも日々の糧を得られずに苦しんでいる人々も多くいます。パレスチナ、特にガザの住民の人々は衣食住のすべてを奪われて苦しんでいますが、あの地域の住民の中にはかなりの数のクリスチャンがいると言われています。そういう厳しい現実を見ると、イエスの言葉はあまりにも楽観的なのではないか、理想主義的なのではないか、と思えてくるかもしれません。明日のことを心配するな、という教えも厳しすぎるようにも思えます。私たちは将来について心配するものです。たとえば35年ものの住宅ローンを組んでいる人は、将来にわたってちゃんとローンを返済できるのかと、未来について心配するわけですが、そのような心配は理解できるものですし、悪いことではないはずです。

ですから、このイエスの教えを無理に21世紀の近代社会に生きる私たちの生活に当てはめる必要はありません。むしろ、これらの言葉をイエスが誰に語ったのかについて、注意が必要です。先ほど申しましたように、これらの言葉は仕事を捨ててイエスに従い、イエスと一緒に旅をしていた十二使徒をはじめとするイエスの直接の弟子たちに向かって語られた言葉です。彼らは財布も持たずに身一つでイエスから伝道旅行に送り出された人々です。ですから、どんな人も明日のことを心配すべきではない、というように一般化して受け止めるべきではありません。

むしろ、いちばん大事で、誰にでも当てはまるイエスの言葉は33節です。イエスは「神の国とその義をまず第一に求めなさい」と教えておられますが、これは異邦人たちが良い服や良い食事、つまり良い生活を第一に求めることと明らかに対比されています。イエスに従って歩む私たちの人生の目的は、人より良い生活を送ることではありません。それは世の中の人たちが一番に求めるものであっても、イエスの弟子たちはそうではなかったし、それは現代に生きる私たちにとっても同様です。私たちの人生の目的は、イエスが成し遂げようとしていること、つまりこの地上世界に神の支配をもたらすことを実現することです。そのように神の国建設のために一生懸命働く者のために、父なる神は必要なものを必ず備えてくださる、そういう人々に日々の糧も老後の貯えも与えてくださる、だからそれを信じ、神に信頼しなさい、というのがイエスの教えだったのです。

3.結論

まとめになります。今日は私たち皆が切に求めるもの、すなわち安全や安心を得るために、私たちがそのように考え、行動すべきかをイエスが教えている箇所を学びました。イエスの教えをさっと読むと、私たちが安心安全のために頼りにするもの、すなわちお金を信頼してはいけない、神だけを信頼しなさいと教えておられるように思えるかもしれません。しかし、イエスが「あれかこれか」、お金か神様かの二者択一を迫っている、というふうにとらえるべきではありません。なぜなら私たちが生きていく上ではお金は必要不可欠なものであり、そして神様はあらゆるものを私たちに提供してくださる方なので、もちろん私たちは神様なしに生きてはいけないのです。端的に言えば、どちらも必要なのです。将来への不安に備えて、貯蓄をするということは悪いことではないのです。ただ、忘れてはいけないのは、「将来」というのは私たちの地上の生涯、近年では長い方では100年ぐらいですが、その期間だけ無事に暮らせればよい、ということではないのです。私たちにはその100年の先の人生もあるのです。ですから、この世での将来の生活に備えるのと同時に、その先の人生についても備えなさい、それが「天に宝を積みなさい」というイエス様の教えの真意なのです。

また、特に25節以上のみことばにも注意が必要です。私たちは毎日、「何を着ていこうか、何を食べようか」ということに気を使います。イエス様はそういう私たちの日常的な行動を批判しているのではありません。また、将来私たちの人生に起きるかもしれない様々なリスクを心配し、備えるという行動を批判しているのでもありません。むしろ、これらの教えは財布も持たずに伝道旅行に送り出された弟子たちに向けられたものだということです。もちろん、神が私たちの日々の糧を心配してくださって、それらを提供してくださっているというのは本当です。しかし、私たちは2千年前と比べて非常に複雑な世界に生きています。平均寿命も驚くほど伸びました。ですから、このような時代を生き抜くために様々な備えをすることは、神に信頼することと矛盾しないどころか、必要なことなのです。主イエスの教えを自分に適用する際には、イエスが誰に、どんな状況で語られたのかをきちんと理解しなければなりません。そのうえで、主イエスの教えのエッセンスを私たちは日々の生活に生かすべきなのです。お祈りします。

私たちに日々の糧を備えてくださる父なる神様、そのお名前を賛美します。私たちは主に信頼し、同時に私たちに与えられた能力を生かして、今日を生き、明日に備えることができますように。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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三つの宗教実践マタイ福音書6章1~18節 https://domei-nakahara.com/2025/11/02/%e4%b8%89%e3%81%a4%e3%81%ae%e5%ae%97%e6%95%99%e5%ae%9f%e8%b7%b5%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b86%e7%ab%a01%ef%bd%9e18%e7%af%80/ Sun, 02 Nov 2025 00:55:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6895 "三つの宗教実践
マタイ福音書6章1~18節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。私たちは主イエスの「山上の垂訓」を学んでいます。前回までは、六つの「モーセはこう言うが、わたしはこう言う」という一連の教えを学びました。モーセは旧約聖書の律法を象徴していますので、イエスは旧約聖書の神の教えをさらに深める、律法の中身を前進させるということをなさったのです。

そして今回の箇所も、旧約聖書に基づく宗教であるユダヤ教の重要な三つの宗教実践、すなわち貧しい人への施し、祈り、断食の三つを扱っています。あらゆる宗教には、柱となるような宗教実践があります。キリスト教の場合は、毎週日曜の礼拝への参加、日々の聖書通読、祈りが三つの柱となる宗教実践だといわれています。ではユダヤ教とキリスト教とでは宗教実践の在り方が違うのかといえば、そうではありません。ユダヤ人ももちろん神殿での礼拝や、聖書の学びを重視していました。またキリスト教においてもカトリック教徒は貧しい人への施しを非常に強調します。主イエスは、貧しい人たち、小さな人たちにしたことは私にしたことなのだ、ということを教えられました。その教えを重視して、カトリックでは「貧しい人たちの日」という日が設けられていて、前教皇のフランシスは「貧しい人たちの存在は問題ではありません。福音の本質を受け入れ、それを生きるための財産なのです」と教えておられました。私も以前イタリアに旅行に行ったときに、カトリックの信者さんたちが教会の前にいる貧しい物乞いの人たちに穏やかに施しを行っていたのを思い出します。また、カトリックではイエスが荒野で四十日間断食したという故事に倣い、定期的に断食を行う習慣があります。このように、ユダヤ教とキリスト教の宗教実践は多くの部分で重なります。キリスト教はユダヤ教から枝分かれした宗教なので、これは当然のことだといえるのですが、そのユダヤ教の宗教実践の柱に関するイエスの教えが今日の箇所なのです。

今回、イエスが問題にしているのは、特に「律法学者」とよばれる教師たちの宗教実践でした。彼らは指導者でしたから、一般のユダヤ人の模範となるべき人々でしたが、彼らの宗教実践をイエスは問題視したのです。今日の教会で言えば、信徒ではなく牧師たちの態度や宗教実践を問題視した、ということです。なんとイエスは、これらのユダヤ人の教師たちが神様のことではなく、人の目ばかり気にしていると指摘したのです。今日の例でいえば、信徒たちに向かって「あなたがたが先生と呼ぶ牧師たちの本当の姿はこうなのだ。彼らは神ではなく、あなたがた信徒から褒められようとしていろんなことをしているのだ」と言うようなものです。当然、ものすごく衝撃的なことで、このようなことを言えばイエスが律法学者たちから深く恨まれたことは想像に難くありません。イエスは律法学者、あるいはパリサイ派たちの宗教実践の背後にあるもの、彼らがどのような意図でこうした宗教実践を行っていたのかを容赦なく暴き出しています。イエスによれば、彼らの関心事は神ではなく他人の目でした。人から褒められたいという動機で宗教実践を行っていたというのです。しかしイエスはそれが的外れなことだと厳しく指摘します。これは教師たちだけでなく、信徒たちにとっても耳が痛いことではないでしょうか。私たちも、教会生活を送る中でつい人の目を気にしてしまいます。人々から「あの人は熱心に奉仕してくれている。たくさん献金してくれている。祈りが素晴らしい」などと人から褒められたいという気持ちがないとはいえないのではないでしょうか。しかし、宗教実践は第一に人ではなく神に向けられたものでなければならない、というのがイエスの教えのポイントです。このことを念頭に置いて、イエスの教えを詳しく見てまいりましょう。

2.本論

まずイエスは1節で、一連の教えの大前提を話します。人から褒められるために善行を行うな、ということです。今日「承認欲求」という言葉がよく語られます。みなさんも聞いたことがあるのではないでしょうか。人から褒められたい、評価してほしいという願望です。失礼ながら、ノーベル平和賞を求めるアメリカのトランプ大統領は承認欲求の強い方なのではないかと思えます。人から認められたいというのは、人間のだれもが持つ自然な欲求なのですが、しかしそれにこだわりすぎるのも危険なことなのです。

皆さんはアドラーという心理学者の名前を聞いたことがあるでしょうか。フロイトやユングと並ぶ、今日非常に注目されている心理学者ですが、アドラーはこの承認欲求の問題点を指摘し、特に子供をあまり褒めないほうがよいということを教えました。子供は褒められて育つともいわれるので、これは一見不思議な教えに思えるかもしれません。しかしアドラーは重要なことを指摘しました。確かに褒められると人はうれしい気持ちになります。そして子供は褒められると、もっと褒められたいと願い、人から褒めてもらうような行動をするようになります。しかし、これは裏を返せば他人の評価に依存しているということです。自分が本当にしたいことではなく、人が褒めてくれることをするようになるというのは、その人にとって本当によいことなのでしょうか。

こういう人の目を気にする子供が成長して大人になると、さらに世間体を気にするようになります。行動の動機が「他人からどう見られるか」、「人からどう評価されるか」ということになってしまい、自分というものがなくなっていくのです。今回イエスが問題視する律法学者もまさにそのような承認欲求の塊で、常に人の目を気にして人から褒められそうなことばかりに熱心なのです。確かに律法学者は人々から尊敬される必要があります。そうでないと、人々が彼の教えや言うことを聞いてくれないからです。しかし、だからといって人から褒められるために善行をするというのは本末転倒なわけです。律法学者は人から褒められようがけなされようが、神の教えに従うべきだからです。でも、神に仕えるはずの律法学者が神ではなく人の目ばかり気にするようになってしまうのはどうしたわけでしょうか。それは、彼らが善行を行っても、それを神様が確かにご覧になっていて褒めてくださっているという実感が持てなかったからでしょう。それよりも、彼らはすぐに得られるもの、もっと具体的で確かなものを求めたのです。それが周囲の人々からの賞賛です。人々が自分に期待すること、良いと思われることをすればみんなが褒めてくれる、だからそういうことをする、ということです。律法学者たちの問題は、承認欲求が強いことなのではなく、むしろ不信仰でした。さらに言えば、律法学者たちの行動の背後にあったのは、貧しい人たちへの憐みや共感でもなかったことになります。「あの人、おなかがすいて大変だな、かわいそうだな。少し私の分を分けてあげよう」という自然な同情の念から出た行動でもなかったのです。むしろ、自分の行動が自分の評価を上げるという、非常に利己的な動機から行動しているのです。これも大変残念なことですよね。律法学者たちは、神のためでもなく、人のためでもなく、自分のために行動していたからです。 

イエスは次に祈りについて教えます。祈りとはまさに神と人との間のパーソナルな関係を築くためのものなので、人の目など気にする必要などまったくないように思われることなのですが、律法学者はここでも人の目を気にします。人から「ああ、あの人はなんて敬虔な人なのだ」と思われたいから熱心に祈るというのです。ここにも律法学者の不信仰が見え隠れします。彼らが人からの承認を得ることに熱心なのは、裏を返せば神から承認されているということについて自信、確信がないからです。「自分が時間を割いてこれほど熱心に祈っても、神は本当に聞いておられるのだろうか。ただの独り言になっているのではないか」という不安にとらわれると、それを補うために人からの承認を求めるようになるのです。しかし、このような不信仰を神は当然ながら喜ばれません。しかも、祈りとは自分の内面の何もかもを神の前にさらけ出すことです。私たちは自分の悪い思いや醜い部分を大声で人前で話したいなどと思わないでしょう。ですから、神に対するそのような非常にパーソナルな祈りを人目に付くところでするというのはそもそもおかしなことなのです。だから隠れたところで祈るというのはごく自然なふるまいなのです。

イエスはさらに異邦人の祈りについても語ります。異邦人は同じ言葉を呪文のように繰り返します。それは、祈りが多ければ神を動かすことができると彼らが信じていたためです。しかし、これは非常に問題のある行動です。異邦人が神を礼拝する目的は、神を自分の願い通りに動かすことにありました。人々は自分の願い、商売繁盛とか家族安寧とかのために神に動いてもらう、そのために神に献げものをする、祈りをささげるということをするのです。しかし、そのような考え方はイスラエルの神が厭うものでもあります。神は人間の都合で動かされるようなお方ではなく、むしろ人間が神の御心に従って行動すべきだからです。イエスがここで「主の祈り」を教えられたのは、主の祈りが私たちに主の御心を第一に願い、主の御心を行うようにと教える内容だからです。「主の祈り」について詳しく話し出すと、それだけで1時間ぐらいかかってしまうので、今日の説教では主の祈りを詳しく解説することはしません。それは別の機会にと思います。ただ、14節と15節についてだけはお話ししたいと思います。主イエスは主の祈りの中でも、「われらに罪を赦す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」の部分を特に取り上げて説明されています。この祈りの意味とは、私たちが神に赦されたいと願うのなら、私たちもまた自分の周りの人たちを赦さなければならないということです。確かに私たちの小さな心は、人を赦すことを拒むことがあります。いろいろ理由をつけて、人を赦そうとはしないのです。しかし、もし私たちがもしそのようであるなら、神も私たちを赦してくださらないのです。それはなぜか?主イエスは非常にわかりやすいたとえでそのことを説明しています。マタイ福音書18章の有名なたとえがそれです。一万タラントン、現代の金額で言えば40億円という途方もない金額を王様に借金していた人がその金額を免除してもらったのに、自分の仲間に貸していた百デナリ、これは約一か月分の日当ですので数十万円でしょうが、それを返済できないからといってその仲間を牢に投げ込んでしまうという話があります。この王様は神様を表していて、神様は私たちの途方もない罪を赦してくださいますが、もし私たちが仲間によってなされた小さな罪を赦さないなら、神様も私たちを赦そうとは思わないでしょう。私たちが寛大な心を持つためには、自分自身が神様からどれほど寛大に扱われたのかをよく考えないといけないということです。ここでも信仰、赦しの神への信仰が必要になります。

さて、貧しい人への施しと祈りと並んでユダヤ人たちが熱心に行っていたのが断食です。ユダヤ人たちが断食の習慣を始めるようになったのは、バビロン捕囚の頃からだと言われています。実は、モーセの律法には断食をしなさいという教えはないのです。では、なぜ彼らが断食を始めるようになったのかといえば、バビロンによってエルサレムと神殿を破壊されたときに、このような悲劇が彼らを襲ったのは自分たちが神に対して犯した罪の故なのだと気づいたからでした。彼らの罪の故に、神は聖都エルサレムを異邦人であるバビロンの手に引き渡し、それを破壊されたのだと。ですからユダヤ人はその罪を悔い改めるために断食を始めました。過去の失敗に学んで自らを戒めるために、また神の前にへりくだるためにユダヤ人たちは断食を始めたのです。しかし、だんだんと時が経つにつれ、断食は祈りと同じように自分がいかに敬虔で宗教熱心であるのかをアピールするための手段となっていきました。つまり神の前にへりくだるためでなく、ほかの人から褒められるために断食をするようになったのです。ここでも、問題は人々が神ではなく人々の目を気にしてしまっていること、つまり不信仰です。ユダヤ人、とりわけユダヤ人の教師たちは人々から認められたいという承認欲求のために、神との対話の手段であるはずの祈りや断食を、人々にひけらかすための宗教実践に変えてしまったのです。ですからイエスは、自分が断食をしていることを人に知られないようにしなさい、と教えます。そうすることで、断食をしている人の関心が人の目ではなく神の目に向かうからです。イエスのこれらの教えのすべてに共通しているのは、人ではなく神に目を向けなさいという、当たり前ではあるもののなかなかに難しいことなのです。イエスの時代に、一番宗教心が篤いはずの律法学者たちの問題が、実は不信仰だったというのは衝撃的なことです。しかし、私たちは今日においてもこの主イエスの指摘を重く受け止める必要があります。教師と言われる人ほど、このイエスの教えに深く耳を傾ける必要があるのです。

3.結論

まとめになります。今日はイエスが当時のユダヤ人たちの宗教実践、具体的には貧しい人への施しと祈りと断食ですが、これらの行動を批判したことを学びました。これらの実践は、それ自体ではもちろん素晴らしいことなのですが、しかし当時の少なくとも一部のユダヤ人は、こうした行為が神の御心だから、あるいは自分が心からこうした行為をしたいから、という理由ではなく、人から褒められたいから、人から良く思われたいから、という理由で行っていました。そのような動機をイエスは批判しました。もちろん、人間であればだれでも人の目を気にしますし、人から良く見られたいと願うのは当然のことです。しかし、人の目、世間の目が自分の行動の最大の動機になってしまうと、だんだん自分が本当にしたいことが分からなくなり、人の意見や評価にふるまわされる、非常に窮屈な生き方になっていきます。また、自分が本当にしたいことや正しいと思うことではなく、世間が正しいとみなすことをするというのは危険な面もあります。世間というのはしばしば間違えるものだからです。人の意見に振り回されずに、しっかりと自分を保つために必要なこと、それは神様の御心を求め、それを実行しようという思いを持つことです。主イエスは私たちがそのように行動することを願っておられます。そのことを胸に、今週も歩んでまいりましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今日は宗教実践とその動機について学びました。私たちはしばしば神の御心よりも人の目を気にして行動してしまうものでありますが、どうか今日の主イエスの教えを胸に止めて行動できますように。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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わたしは言う(2)マタイ福音書5章38~48節 https://domei-nakahara.com/2025/10/26/%e3%82%8f%e3%81%9f%e3%81%97%e3%81%af%e8%a8%80%e3%81%86%ef%bc%882%ef%bc%89%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b85%e7%ab%a038%ef%bd%9e48%e7%af%80/ Sun, 26 Oct 2025 00:33:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6886 "わたしは言う(2)
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1.序論

みなさま、おはようございます。今朝は、前回に続いてマタイ福音書において主イエスが「モーセはこう語ったが、わたしはこう言う」というスタイルでのイエスの六つの教えのうち、後半の二つを学んでまいります。

前回と今回の二度に分けたのには理由がありまして、今日取り上げる二つの教えは、前半の四つとは大きくテーマが異なるからです。前半の四つは、それを文字通りにとると大変誤解を生む箇所でもありました。文字通りにとるというのは、主イエスは私たちが心の中で腹を立てるだけで、それは殺人の罪を犯したのと同じだとして、罪の基準を思いっきり厳しくしたというようなものです。心で怒っただけで殺人と同じだということになれば、怒ったことのない人はいないでしょうから、すべての人は殺人の罪を犯したということになります。だから、人類はみな人殺しなんだ、ということを主イエスはおっしゃりたかったのではもちろんありません。むしろ、心の中の怒りを放置して、その怒りの原因に向き合わないでいると、まるでボヤが大火事に発展してしまうように、私たちがその怒りに飲み込まれてしまい、人間関係を破壊するような危険な行動に走ってしまいかねない。そうならないために、早くアクションを起こしなさい、まだボヤである段階のうちに自分の心と向き合い、怒るという負の感情と向き合いなさい、そして相手と和解しなさいという、私たちに行動を起こすように促すのがイエスの意図でした。

しかし、今日の二つの教えは、前半の教えよりもはるかに難しい要素を含んでいます。というのも、前半の四つの教えは基本的には「兄弟」と呼ぶような親しい間柄にある人たちの関係、あるいは最も親密な関係である結婚関係を良好に保つための教えであるのに対し、この後半の関係は「敵」と呼ぶような対立状態にある人たちとの関係を論じたものだからです。ずばりいえば、イエスがここで念頭に置いていた「敵」とはローマ帝国です。イエスの時代のユダヤの人々は、ローマ帝国に植民地として支配されていました。ローマに支配される前のユダヤはハスモン王朝という王家に支配されていたパレスチナの強国だったのですが、内部の権力闘争に関してローマの介入を招き、紀元前63年からユダヤはローマの支配を受けるようになります。ローマの支配はユダヤ人の生活を大変苦しいものにしました。ローマの支配によって一番影響を受けたのが庶民の暮らしです。私たちの例で考えれば、いきなり消費税が今の10%から30%に引き上げられる、そんな感じだったと思います。ローマの課した税金には様々な種類がありましたが、ローマがユダヤ人に課した税は収入のざっと2割程度だったといわれていますから、この消費税のたとえは当たらずとも遠からずだと思います。皆さんも10,000円の買い物をして、支払いが11,000円であるのと13,000円であるのは負担感が全く違いますよね。ユダヤ人はローマの支配下にあることで、このような状態に置かれたのです。そして次にあるのは暴力の恐怖です。ローマの支配はその圧倒的な軍事力に支えられていました。歯向かうものには容赦なく暴力が振るわれ、その最悪のものが十字架刑でした。ユダヤの人々はローマ兵による常習的な暴力におびえながら暮らしていました。そしてさらにユダヤ人の心を重苦しくしたことは、ローマがユダヤの地に持ち込む偶像礼拝でした。ローマ人もユダヤ人が唯一の神のみを礼拝し、偶像を忌避していたことは理解していましたが、ローマにもローマ人が信じる神々がいます。ユダヤの地に駐屯したローマの軍は、時には慎重に、時には大胆に、ローマの神々を礼拝するための偶像やシンボルをユダヤの地に持ち込もうとしました。そのたびにユダヤ人との間に一触即発の対立が生まれそうになります。実際、小さな小競り合いは何度も生じています。ローマの側もユダヤ人の宗教心に配慮していましたが、彼らがそうした配慮を欠く行動をするたびに、ユダヤの暴動を招きそうになったのです。

このように、イエスの時代のユダヤには常に不穏な空気が流れていました。ローマとユダヤの関係は、今日のパレスチナにおけるイスラエルとパレスチナの人々との関係に似ているといえるかもしれません。現代ではユダヤ人のほうが圧倒的な強者ですが、当時はユダヤ人のほうが今のパレスチナ人のような弱い立場に置かれていて、ローマ人を怒らせるとすぐさま暴力で報復されてしまうような状態にありました。そんな中でユダヤ人は敵であるローマ人にどう向き合うべきなのかという非常に重たいテーマが今日のイエスの教えの背景にあります。そのことを頭に入れながら、今日のみことばを読んでまいりましょう。

2.本論

では、38節、39節を読んでいきましょう。このイエスの教え、すなわち「右のほほを打たれたら、左のほほを差し出しなさい」は、イエスの教えの中でもおそらく一番有名なものではないでしょうか。ただ有名であるだけでなく、激しく誤解されている教えでもあります。この教えは、無抵抗主義の教えのように見えます。つまり、友達からいじめを受けている子どもに対して、「なぐられたらもっとなぐらせてあげなさい。千円カツアゲされそうになったら、思い切って1万円渡してやりなさい」と教えているように理解されてきたということです。しかし、もしいじめられている子にこんなアドバイスをする人がいれば、私は許せないと感じるでしょう。それはその子の抱えている深刻な問題を何も解決せずに、むしろもっと悪化させてしまうからです。また、悪いことをしている人をますます調子に乗せてしまうでしょう。「俺悪いことしてないよ。だってあいつが1万円くれるっていったんだから」などと言い出すのは目に見えています。ですから、主イエスともあろう方がこんな愚かなアドバイスをするはずがないのです。では、無抵抗主義ではないのなら、このイエスの教えの真意はどこにあるのでしょうか。

ここで皆さんに考えてほしいのですが、仮に隣に座っている方の右のほほを、右の手で打とうとするとします。その場合、皆さんは右手のてのひらで相手の右のほほを打つことはできませんよね。手の甲を使わないと、右のほほを打つことはできません。つまり、こういうしぐさになります。このように相手を打つことは、古代社会では相手を侮辱することを意味しました。自分と相手とは同格ではないという場合、つまり主人と奴隷とか、また古代社会は男尊女卑でしたので夫と妻のような、明確な上下関係にある人々の上の立場の人が下の立場の人にするのが、この手の甲でほほを打つというしぐさなのです。そしてイエスがここで念頭においていたのは征服民であるローマ人と、被征服民であるユダヤ人のことであったと考えられます。ローマ人はユダヤ人を殴る場合、ユダヤ人は支配される側なので、相手を軽蔑する意図を示すためにわざわざ手の甲で打ったということです。そのようなふるまいをされた場合にどうするべきか、というのがイエスの教えのポイントでした。

この点を踏まえたうえで、ではイエスの「左のほほを差し出せ」という教えの真意はどこにあるのでしょうか。右のほほをてのひらで打つことができないように、左のほほを手の甲で打つことはできません。つまり左のほほを打つには、手のひらを使わざるを得ないのです。そして、手のひらで打つ相手というのは格下ではなく、対等の相手なのです。イエスは手の甲で侮蔑的にユダヤ人を打つローマ人に対し、やり返せとはいいませんでした。そんなことをすればローマ兵は逆上し、さらに激しい暴力をユダヤ人に振るってくるでしょう。そうなると、ユダヤ人も命がけで抵抗し、この二人は殺しあうところまでいってしまうでしょう。しかし、ローマ兵に対して暴力で反撃するのではなく、左のほほを差し出して、手の甲ではなく手のひらで打つように促すことで、そのユダヤ人はローマ兵に対し、「私もあなたと同じ人間だ。私を奴隷か何かのようではなく、対等な人間として扱ってほしい」という意思表示をすることができるのです。イエスは、「目には目を」、「暴力には暴力を」というやり方を認めません。反対に、やられてもただ我慢しなさい、相手に対して卑屈になって、なんでも差し出すので許してください、というような態度も是認しません。むしろイエスは第三の道、暴力を用いずに、しかも相手に卑屈にもならずに、自らの尊厳を主張する道を示そうとしました。暴力を用いずに、しかも暴力に屈しないというのは大変難しいことです。そこには知恵と勇気が必要です。

イエスは、「あなたに一ミリオン行くように強いる者とは、二ミリオン行きなさい」とも言われました。この言葉もローマ帝国による支配を背景にして考えなければなりません。当時ユダヤの支配していたローマには、「徴用」という制度がありました。徴用とは何かといえば、ローマ兵は被支配民であるユダヤ人を一定期間ただで働かせることができるという、とんでもない制度でした。たとえばローマ兵はユダヤ人をつかまえて、「この荷物を一ミリオン運べ」と命じることができました。一ミリオンとは約1500メートルですので、結構な長さです。皆さんも学生時代に1500メートル走をしたことがあるでしょう。新約聖書で最も有名な具体例は、イエスの十字架をローマ兵の命令で運ばされたクレネ人シモンです。彼もいきなりローマ兵に命令されて、荷物を運ぶようにと命じられたのです。しかし、ローマ側もこの制度を乱用すると、ユダヤ人の怒りが爆発するだろうということも理解していました。そこで、ユダヤ人を徴用するとしても一マイルまでだという制限を設けました。そして一マイル以上ユダヤ人を徴用すれば、罰則が科されることになりました。そのような規制に縛られているローマ兵に対し、荷物を運んでいるユダヤ人が「一マイルといわず、二マイル行きましょう」と申し出た場合、どうなってしまうでしょうか。ローマ兵は、上官からの処罰が怖いので、「いや、もういい、これ以上いかないでくれ。荷物をそこにおいてくれ」と言わざるをえないでしょう。ローマ兵としてはばつの悪い、なんだかもっともない姿ですよね。そのような経験をすれば、ローマ兵のユダヤ人を見る目も変わるでしょう。これまでは都合の良い道具のように見なしていたユダヤ人を、明確な意思を持った対等の相手、侮れない相手であるとみなすようになるのです。

ここまででおわかりのように、「左のほほを向ける」や「二マイル行く」というイエスの指示は、無抵抗主義ではなく、むしろ一種の自己主張、自分を見下す相手に対し、暴力を用いずに自らの尊厳を主張する方法、しかも非常にクリエイティブな方法だといえます。このような行動を実際に行った有名な人物がいます。それはイギリスの植民地支配に対して暴力を用いない抵抗を行ってインド独立を勝ち取ったマハトマ・ガンジーです。ガンジーはクリスチャンではありませんが、イエスの教えの意図をよく理解し、実践に移した偉大な指導者でした。私たちは侵略や暴力に対して、暴力で対抗しようとします。しかし、今日のように破壊的な武器が戦場で用いられる場合に、「目には目を」で対抗していくことはおそろしい結果を招くことになります。だからといって、無抵抗で我慢するのもよくありません。それは何の解決ももたらしません。イエスは、まったく新しい方法を示しました。イエスは、その行動を通じて自分を見下す相手を驚かせ、相手に自分も意思と誇りを持つ人間であることを示し、それによって相手との対話のきっかけを作り出そうとするように教えているのです。それが相互理解、和解への道だからです。

「和解」というのがこのイエスの教えのキーワードです。敵を敵とみなす限り、いつまでも対立状態は解消されません。目には目を、は果てしない報復の連鎖を招き、一方が決定的なダメージを受けるまで戦いは終わりません。実は無抵抗主義にも同じ問題があります。人間はいつまでも我慢できるものではありません。あまりにも理不尽な要求をされれば、窮鼠猫を噛むということで、最後は捨て身の反撃を招くでしょう。この場合も破滅的な戦いという結果に終わるのです。そうならないために、敵との対話の機会を作り、互いに相手を理解し、よりよい関係へと変換を図るべきなのです。イエスは「敵を愛しなさい」と教えました。これは感情の問題ではありません。自分に害をなそうとする人を好きになれるはずはありません。ですから、「愛しなさい」というのは感情のことではなく、行動のことです。つまり敵に対しても、「私はあなたの敵ではない、あなたと理解し合いたい」というメッセージを、行動を通じて送ること、示すことなのです。そのためには、いやな相手を、「こいつは敵だ、悪い奴だ」と決めつけずに、相手も神が創造した人物であり、神の愛の対象なのだと認識しなければなりません。そのような、敵を敵としてではなく、リスペクトすべき相手だと認識することで、対話の糸口、平和への道、和解への道が拓かれるのです。イエスのこれらの教えのポイントは「平和づくり」です。

3.結論

まとめになります。二回にわたって、イエスの「モーセはこういうが、私はこういう」という一連の教えを学びました。今回は特に後半の二つの教えを学びましたが、これらは誤解を生みやすい教えでもあります。イエスは悪者の理不尽な行動に対してひたすら我慢しなさい、何をされても無抵抗でいなさいと教えたわけではありません。ただ我慢しても、それは問題の解決にはなりません。だからといって、「敵を憎んで、相手を滅ぼすまで戦い続ける」、「やられたらやりかえす」というのも破滅的な道です。とくに、今日のような破壊的な武器を人類が持つようになってしまった現状では、こうした道は勝者なき戦い、自滅への道でしかないのです。

それに対し、イエスはそのような敵との対話を促すような行動を示しました。暴力は用いませんが、それでも相手をはっとさせる、驚かせるような行動をとることで、相手の自分を見る目を変えさせて、対話につながるようにするのです。そのためには当然知恵が必要です。特に相手が圧倒的な武力を持っている場合、イエスの時代はローマがまさにそうでしたが、そのような相手と対峙するためには、相当な知恵と勇気、そして命を懸けるほどの覚悟が必要です。私たちの時代には、先ほども申しましたようにガンジーのような人がいました。しかも、ガンジーは非暴力でしたが、他方で武器を持って戦ったチャンドラ・ボースのような人もいて、ある意味でガンジーの行動を補完しました。ですから、何が何でも武器を持ってはいけないということでは必ずしもないのです。それは現実主義ではなく原理主義です。イエスは柔軟な方で、原理主義者ではありませんでした。それでも、イエスご自身は最後まで武器を取ることをせず、むしろ十字架の道を選びました。私たちはそのことを重く受け止めなければなりません。

大事なことは、武器を持っていいのか、いけないのか、というような抽象的な議論ではなく、平和を作り出そうとする意思です。そのためには妥協すら必要でしょう。知恵も必要です。今日のような戦争の泥沼にはまっている時代、大事なことは一方的な正義を振りかざして「敵」を敵として憎むのではなく、むしろ相手を理解し、和解の道を探ることです。そのために、私たちはイエスの教えに真摯に耳を傾ける必要があるのです。お祈りします。

平和の主であるイエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。どうか戦争のやまない今日、私たちが平和づくりのために祈り、行動することができますように、力をお与えください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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満ちあふれる神の恵みマタイ福音書20章1節~16節 https://domei-nakahara.com/2025/10/12/%e6%ba%80%e3%81%a1%e3%81%82%e3%81%b5%e3%82%8c%e3%82%8b%e7%a5%9e%e3%81%ae%e6%81%b5%e3%81%bf%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b820%e7%ab%a01%e7%af%80%ef%bd%9e16%e7%af%80/ Sun, 12 Oct 2025 01:10:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6865 "満ちあふれる神の恵み
マタイ福音書20章1節~16節" の
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平井里永子

この度は、奨励の機会をいただき、心より感謝申し上げます。「奨励」という言葉の意味を調べたのですが、「ある行動や考え方を積極的にすすめること。つまり、「これをやるといいですよ」「ぜひやってみてください」と、他人に対して何かを勧めたり、励ましたりすること。 とありました。これを調べて正直ですね、あ~、お話をすると言わなければ良かったかな?なんて思ったんです。そんな事出来る立場ではないですからね。

ただ、いつも山口先生を通して聖書について多くの学びを得ておりますが、学んだことを受け止めて、発信していくことも、理解を深めるうえで非常に重要だと感じてはいました。全く素人の私が皆様の前でお話しするのは大変恐縮ではありますが、失礼を承知の上で、今日は少しお時間をいただければと思います。もし何か間違っていた話があれば、後日山口先生の行うこの箇所の説教で正して頂けたらと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。

さて、私たちが聖書を読んでいると、イエス様が語られた多くのたとえ話に出会います。その中には、何となく意図が理解できるものもあれば、予想とはまったく逆の内容だったり、想像もしなかったような話があり、皆さんも驚かされることも多いのではないでしょうか。

今回の箇所は、私にとって特に驚いたものでした。驚いたというより、実際のところ、納得がいくまで少々お時間を要した箇所です。今日はこの聖書箇所について、奨励というよりは、私自身が感じたことを皆様と分かち合えればと思っております。それで皆様も、今日の話を聞いてどう思ったか考えてみてはどうかと思っています。

マタイによる福音書20章では、特に「ぶどう園の労働者のたとえ話(20:1–16)」が中心となっています。このたとえ話では、朝早くから働いた人も、夕方に来た人も、同じ報酬(1デナリ)を受け取るという内容が語られており、神の国における公平さと恵みの概念が示されているとされています。

皆さんはもう十分にご存知だと思いますが、一応、当時の時代背景について少し触れたいと思います。時代は紀元1世紀、ユダヤ地方はローマ帝国の属州として支配されていました。経済の中心は農業で、ぶどう園は一般的な農地の一つでした。労働者は日雇いで働くことが多く、1デナリは当時の標準的な日当でした。宗教的にはご存知のように、ユダヤ教の律法主義が強く、「律法の行いによって報酬=神の祝福を得る」という考え方が一般的でした。「日雇い労働者」と聞いて、どのような姿を思い浮かべるでしょうか。イエス様の時代、日雇い労働者は社会的に非常に弱い立場にありました。彼らは毎朝、市場や広場に出て、その日の仕事を探すのが日常でした。6節「主人が午後5時ごろ出て行き、別の人が立っているのを見つけた。」とあります。主人はそれで彼らに言います。もう5時ですから1日終わる頃ですね。「なんで1日何もしないでここに立っているのですか」と心配そうに聞いたんじゃないかと思います。7節「だれも雇ってくれないからです。」この、「最後に来た者」は、実際には仕事が見つからずに困っていた人々を象徴しているとも言われています。多くの人々は土地を持たず、地主のもとで日雇い労働者として働いていました。1デナリは家族が1日生活するのにギリギリの額であり、交渉の余地もなく、雇い主の言い値で働くしかなかったようです。仕事内容は主に農作業や建設、漁業、荷運びなどの肉体労働で、日の出から日没まで働き、休憩も少なく、過酷な環境でした。大体、朝6時から夕方5時ぐらいまで働いたようです。11時間です。住居は簡素な家屋や共同住宅で、衛生環境も悪く、水や食料の確保も困難でした。

社会的には、日雇い労働者は最下層に位置づけられ、尊敬されることはほとんどなく、宗教的にも「清くない者」と見なされ、神殿や宗教儀式への参加が制限されることもありました。女性や子どもも同様に弱い立場にあり、法的権利も制限されていました。このような日雇い労働者生活は、人間として扱われているとは言えないほど過酷なものでした。イエス様は、こうした社会的に弱い立場の人々に対して、特に深い共感を示されました。

このたとえ話の中で、イエス様は神をぶどう園の主人として描いています。そして、この話が語られた相手は、自分が社会の上層に位置し、財産や地位、名誉を持っていることから「神に祝福されている」と考え、他者より優れていると思っていた人々でした。また、イエス様と長く時間を共にしてきたことで、自分は特別な存在だと感じていた人々でもありました。

さて、現代の日本では、日雇い労働といえば、日給が決まっていて、労働時間も何時から何時までと明確に定められているのが一般的です。日雇いと言えば、決まった時間労働して初めて日給が支給されます。例えば午前8時から午後5時までの労働と決まっていたとします。その場合、もし午後4時に来た人が、朝8時から働いた人と同じ日給を受け取るとしたら、多くの人が朝から来ず、午後4時に来て1時間だけ働こうとするのではないでしょうか。つまり、経済活動は成り立たないですね。これを世の常識として考えている私にとっては、この例え話を読んだ時、最初は理解が出来なかったのです。

たとえ話に出てくる、朝から働いている人に焦点を当てて見ましょう。この労働者からすると、このたとえ話は不満が残るのはお分かりですよね。ちゃんと朝から来たのに、夕方から来てチョロっとだけ働いた人も1デナリを受け取るのですから。日当でなく、時給計算だと、ちゃんと朝から来た人が損をしていますからね。でもどうでしょう。雇い主はちゃんと約束した1デナリを払っています。約束した事を実行したまでです。でももやもやしますね。私もこの朝から働いている人に同情していました。ずっとこの箇所についてはもやもやしていました。でもですね、ここで13節を見てみましょう。

20:13‐しかし、主人はその一人に答えた。「友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、1デナリで同意したではありませんか。」

ここで主人は労働者に対し、「友よ」と呼び方を変えています。私はこの「友よ」という呼びかけに、神様の愛の深さと公平さを感じたんです。では、1日なにもしないで立っていた人、午後5時ごろ主人が出ていき、見つけられて雇われた人について見てみましょう。最初にお伝えしたように、1デナリは当時の標準的な日当でした。また1デナリは家族が生活出来るギリギリの額でした。もし家族が多い家庭は、きっと足りない額だったでしょう。雇い主の計らいで、夕方から来た労働者もギリギリの額、1デナリを貰えたのです。雇い主はそうでないと、この日雇い労働者の今日の1日が成り立たない事を知っていたからです。神は約束した事を守り、人々の必要を知っており、それぞれにおいて必要なものを与えられるのだと気付いたのです。皆さんどうでしょうか。私はこの箇所を読んでいると、「私の恵みはあなたには十分である」は、「コリント人への第二の手紙」12章9節を思い出しました。またこんな箇所もあります。「主は正義と公正を愛される。主の恵みで地は満ちている」詩篇33:5。

この世の中で、多くの人を苦しめているものは何でしょうか。
それは、自分を他者と比べることによって生まれる優越感や劣等感、つまり、比較から生じる様々な苦しみです。こういう感情って、どうでしょうか?どうしても抱いたしまうものですよね。抱かない人がいるとすれば、それは人ではない神様だけですよね。でも、神様はこう言っているんです。「あれ?僕は君に、1日働いたら日当の1デナリをあげるって約束したよね。ちゃんと約束通り君にあげてるよ。君には今日は1デナリあげれば君にとってはそれは十分だよね。」と。

神を信じているのに、神を信じていないように見える人の方が、人生がうまくいっているように見える事もあります。でも良く考えてみると、私はその人の何を知っているのでしょうか。ただ表面に見えることしか分からないのではないでしょうか。その人がどんな人生を歩んでいて、何を望み、何を欲しているのか、よっぽど近い人だとしても、その人の心の中まで見ることなんで出来ませんよね。私には分からない事ですし、そんな事考えるより、自分の事を考えないといけないと思うのです。

人が人の価値を判断することほど、おこがましく、無意味なことはないと思うのです。なぜなら、最後に来た日雇い労働者を心よく迎え、同じように報酬を与える神ならば、皆を平等に愛する神ならば、人の間に優越を作る事は間違っているのだと仰るのではないでしょうか。逆に言えば、私もあなたも、あの人もその人も、神は平等に愛し、その人の必要を満たし、恵みを与えたいと思っているんじゃないでしょうか。

私たちは、自分が神から与えられているもの、癒された経験、祝福された瞬間、イエス様との関係について、他者と比較してはならないのだと、強く感じます。私たちは多くの事を神様から与えられているのに、それが見えなくなり、これもない、あれもないって、あらゆる事柄に執着してないでしょうか。神様は十分あなたの事も、私の事も、時には友達のように近く愛してくれ、いろいろな事柄や人を通して私たちに十分は恵みを与えてくれていないでしょうか。むしろ、私たちは神の恵みに目を向け、イエス様が苦しむ人々に寄り添い、愛されたように、私たちもごくごく身近な周囲の人々に同じように接す事を神は望まれているのではないでしょうか。私のその人への愛がが、またその人からその人のその人へ伝わり、そうやって小さい小さい愛の輪が、ここにも、あちらにも、そこにも出来て、それが少しずつ平和を作り出すのではないでしょうか。気の長い話かもしれません。でも諦めずに励まないといけない事なのではないでしょうか。


地位や肩書きや、努力に費やした時間ではなく、お金があるとかないとかではなく、周囲のその人の心を見て、変わらぬ愛をもって行動し、その人が悩む時に、苦しむ時に、力を失う時に、助けを求める声に耳を傾け、忍耐強く励まし、支える存在となること、それこそが、私たちに求められている姿ではないでしょうか。

でも、このように生きる事は本当に難しい事が多いです。大きな試練を経験することもあるでしょう。試される事も多いでしょう。裏切られる事もあるでしょう。良くない人に出会う事もあります。上手くいかなくて、諦めて不貞腐れて寝る事もあります。でもどうでしょうか。あなたと話し、あなたと居る時、あなたと共に仕事をする時、あなたと楽しむ時、私の心は励まされ、癒やされ、力を得るのだと、自分の生きる人生で、たった1人でもそのように感じてくれる人がいるのなら、私たちは小さいな愛の輪を作る事にならないでしょうか。私は、誰かのそのような存在になりたいと思うのです。その方がこの世を去る時、私がこの世を去る時、私のその人への深い愛を通して、神の深い愛を感じる人がどれだけ居るのだろうか、その事に集中したいと、そう願い祈るばかりです。

14節‐自分の賃金をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にも、あなたと同様に払ってやりたいのだ

私はこの箇所を読むたびに、神様が私たち一人ひとりを、深く覚えてくださり、愛してくださっているのだと感じずにはいられません。イエスは、「報酬は努力に比例するべき」という当時の常識に対して、「神の国では、恵みは平等に与えられる」と語られました。
これは、律法主義や社会的格差に対する強いメッセージであり、当時の人々にとっては衝撃的な内容だったことでしょう。

この話は、すべての人に公平に無償で与えられている「神の恵み」や「神の好意」についてのたとえであり、神の愛は、努力や地位に関係なく、すべての人に惜しみなく与えられているということを力強く語っています。

詩篇77:12には、「私はあなたのなさったすべての事を思い巡らし、あなたのみわざを静かに考えます」

神から頂いている多くの恵みを感謝し、この主人のような行動が出来るよう、神様に祈っていきたいと思います。

(祈り)

神様、どうぞ私たちがいつもこの世に溢れるあなたからの恵みに感謝し、あなたが最後の人にも平等に愛を示された事を覚え、そのように行動していける者とさせてください。今週も皆様の上に、神様の愛と祝福がありますよう、イエス様の御名によってお祈りいたします。

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わたしは言う(1)マタイ福音書5章21~37節 https://domei-nakahara.com/2025/10/05/%e3%82%8f%e3%81%9f%e3%81%97%e3%81%af%e8%a8%80%e3%81%86%ef%bc%88%ef%bc%91%ef%bc%89%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b85%e7%ab%a021%ef%bd%9e37%e7%af%80/ Sun, 05 Oct 2025 01:04:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6848 "わたしは言う(1)
マタイ福音書5章21~37節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。私たちはマタイ福音書に収録されているイエスの「山上の垂訓」を読み進めています。新約聖書全体の中でも、最も有名な箇所と言えるこの一連の教えにはとても有名な箇所が多いのですが、今日お読みした箇所もまさにそのようなところです。しかし、同時にこの箇所は最も誤解を招きやすい箇所だとも言えます。

イエスは、モーセの教え、律法によればこう言われているが、私はこう言う、ということを六つ語っています。今回はそのうちの四つを、次回の説教では残りの二つを取り上げます。いうまでもなく、モーセというのは旧約聖書における最大・最高の預言者です。彼は神と語り合ったとされる預言者であって、彼の言葉はまさに神の言葉だと信じられていました。そのモーセを向こうに回して、「モーセはこう言ったが、わたしはこう言う」というイエスはいったい何者なのか、と当時のユダヤ人たちは思ったことでしょう。イエスがモーセを上回る権威を主張しているのだとしたら、イエスはまさにイスラエルの歴史を塗り替えようとしているということになります。モーセ以上の預言者が現れるということは、まさにイスラエルの歴史の転換点だからです。とはいえ、モーセを通じて語られた神の教えは、あくまでも神の教えです。もしイエスがモーセの教えを否定しているのだとしたら、イエスは神の教えを否定していることになります。たとえイエスが神だとしても、つまりかつてモーセに語りかけたのが実は受肉前の神であるイエスだったとしても、神が一度語ったことを後から否定したり、あるいは変えてしまうというのはいろいろ問題があります。神も気が変わるのだ、ということになれば、ここで語られているイエスの言葉もまた後で変えられるということになってしまわないでしょうか?しかし、そうなると「神のことばはとこしえに立つ」と信じている私たちは困ってしまいます。ですから、イエスがモーセの言葉を否定した、というような理解には大きな神学的問題があるのです。このイエスの教えには誤解があると申しましたが、その誤解の一つはイエスがモーセの教えを単純に否定した、というような理解です。

別の誤解もあります。それは、イエスがモーセの教えをさらに厳しくした、ハードルを上げてさらに厳格化したというような理解です。すなわち、モーセは殺人を禁止したけれど、イエスは心の中で怒るということを罪とした、心で怒るだけでそれは殺人と同じ罪なのだと、罪の定義を変えた、厳格化したというような理解です。実際、このような理解がキリスト教の神学の歴史に甚大な影響を及ぼしてきました。実際に行動に移さなくても、心の中で良からぬことを思っただけでアウトだ、それは罪なのだ、となれば、どんな人も罪を犯さないわけにはいかなくなります。どんな人間にも、ふっと悪い考えが思い浮かぶことがあります。しかし、普通はそういう悪い考えを振り払って罪を犯さないわけで、そういう人は別に何も悪くないように思えるのですが、そういう場合まで「それは罪だ」となってしまうと、もう逃げ場がなくなってしまいます。そのような考えに囚われていたのが宗教改革者のマルティン・ルターでした。ルターは宗教改革を始める前、非常に熱心な修道士でした。彼の行いは完ぺきで、だれもが認める立派な修道士でしたが、彼自身はまったくそのようには思えなかったのです。というのも、ルターにとっては単に正しく行動するだけでは十分ではなく、動機においても完全ではなければならないと考えていたのです。つまり、神様から怒られるのが怖いとか、あるいは神様から褒められて報いを受けたいと考えるのはアウトなのです。なぜならそれらの動機は不純だからです。ではどのような動機ならよいかと言えば、それは神への純粋な愛です。神への純粋な愛に基づいて良い行動をすること、それ以外は罪だ、というのがルターの考えでした。しかし、これでは苦しすぎますよね。ルターは自分の内面を見つめ、そこに常に不純な思いがあるのを見て取りました。彼は繰り返し悔悛、罪の告白をしますが、しかしいくらやってもきりがありません。心とは移ろいやすいもので、内面を見つめれば見つめるほど「自分は悪い思いを抱いているのではないか」と不安になってしまうのです。そうしているうちにルターは、このような無理難題を人間に課す神を憎むようになってしまったと書き残しています。しかし、人は行動のみならず、行動の動機においても完全でなければならないなどという教えは聖書の中にあるのでしょうか?ルターは、今日のイエスの教えの中にそのような神の要求を読み取ったようなのです。したがってルターは、イエスの山上の説教を実現可能なものとは思わず、むしろこうした教えは人間に自らの罪深さ、無力さを徹底的に示し、人は神の恵みに頼るしかないのだという結論に導くためのものだと見なしました。これがいわゆるルターの「律法の第二用法」と呼ばれるものです。しかし、このようにイエスの教えを実行できないもの、実現不可能なものと見なすことこそ、イエスの意図を甚だしく誤解するものなのです。イエスは誰にもできないような無理難題を教えたのではなく、むしろ彼の意図はこうした教えを行うことで人々が平和に、幸せに暮らすことだったからです。では、イエスの意図とは何なのか、そのことを見て参りましょう。

2.本論

イエスの最初の教えは、腹を立てることについてです。ここで気を付けなくてはならないのは、兄弟にむかって「ばか」と言っただけで、だれもが地獄の火で焼かれなくてはならないと理解するような直解主義、つまりイエスの誇張表現を文字通りの意味でとってしまうことです。家族や友達に「ばか」と言ったことがない人なんてほとんどいないと思いますので、このイエスの言葉を文字通りに取るとほとんどの人が地獄行きという話になってしまいます。しかし、イエスは腹を立てること自体が罪だと言っているのではありません。人間であれば、怒らない人なんていませんし、一日に一回ぐらいはムカッとするのは普通のことです。それをやめろというのは、人間をやめろというような話になってしまいます。むしろイエスのポイントは、人への怒りを放置しておくと、その怒りがどんどん大きくなり大きな火のように大きくなってその人を怒りで飲み尽くし、ついには最悪の殺人という結果すら生みかねないということなのです。創世記で、兄弟アベルに嫉妬して怒ったカインに対して、神はこう言われました。

なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。

カインはアベルに対し、激しい怒りを抱いてしまいました。カインはこの怒りに向き合って、その怒りの原因は何なのか、それを深く顧みるべきでした。そして必要ならばアベルともよく話し合い、心のわだかまりを解消すべきでした。カインに必要なのは、怒りに呑み込まれないように適切な行動を採ることでした。しかし、そうしなかったためにカインにとってもアベルにとっても最悪の結果を招いてしまいました。イエスがおっしゃったのは、まさにそのことなのです。怒りが大きくなりすぎないように、直ちに行動を起こしなさいというのがイエスの教えです。イエスはなんと、神への礼拝よりも兄弟との仲直りを優先しなさいとまで教えておられるのです。教会で献金をしようとしていた時に、友達との喧嘩を思い出したら、献金はひとまず後回しにして、すぐにその友達のところに飛んでいきなさい、と教えているのです。これが良いスパイラル、良い方向に一歩進むことです。しかし、何もしないで怒りを心にため込むのは悪いスパイラル、悪の方向に進むことです。その怒りは最悪の場合人殺しに発展しかねません。そうならないように、正しい方向に歩み出せ、ということです。ここで注意したいのは、イエスは「人を殺してはいけない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」というモーセの教えそのものを否定したわけでは決してないということです。むしろ、このモーセの教えを守るためには具体的にはどうすれば良いのか、どのようなアクションを起こすべきなのかを丁寧に教えているのです。

第二の教えも同じです。女性をいやらしい目で見てはいけない、もし見てしまったら地獄に落ちるから、そんなことになるくらいなら目を抉り出せ、という教えを文字通りに取ると、とんでもない話になります。現代は性的な情報で溢れかえっています。テレビを見てもインターネットを見ても、雑誌を見ても性的な刺激が氾濫しています。そして人間である以上、男は裸の若い女性の写真を見せられても何も感じないというわけにはいかないのです。もしそんなことになってしまったら、それはそれで逆に大問題です。男性が若い女性のセックスアピールに何も感じなくなってしまったら、人類は子孫を残せなくなってしまうでしょう。ですからイエスも、若い魅力的な女性をも見ても何も感じるな、感じるくらいなら目を抉り出せ、というような滅茶苦茶なことを教えているのではないのです。これはイエスの教えの特徴である誇張した表現なのです。むしろここでも先ほどの怒りの場合と同じで、女性に邪な思いを抱いてしまったのなら、その思いに向き合って、それが最悪の行動、つまり不倫や、もっとひどい場合は痴漢行為などに発展してしまわないように適切な行動を採りなさいということです。では適切な方法とは何かといえば、一番確実なのはパートナーをしっかり持って、他の女性によそ見しないようにするということでしょう。独身であってももちろん構わないのですが、自分の性的な欲求が抑えられないなら結婚しなさいということを使徒パウロも教えています。もちろん結婚とは別に性的な不品行に走らないためにするものではありませんが、それも理由の一つだというのが聖書の教えなのです。

そして次のイエスの教えが、その結婚についての教えです。イエスの離婚に関する教えは非常に厳しいです。現在の日本では3組に1組は離婚している、つまり結婚している人の3人に1人は離婚しているということになりますが、イエスは不貞以外の理由で離婚した女性と結婚する者は姦淫の罪を犯すことになる、と語ります。現在の日本で最も多い理由の一つである「性格の不一致」による離婚ではダメだということです。これは厳しすぎる教えのように思えますし、またこのイエスの教えを文字通りに受け止めると自分は大きな罪を犯しているのか、と苦しい思いになってしまうクリスチャンの方もおられるのではないかと思います。しかしここでもイエスは「これをすれば罪です」と人々を責め立てたいのではなく、むしろ事態が悪い方向に行かないように早く行動を採りなさいと勧めているのです。結婚とは好き合った同士がするものですから、結婚する時には離婚するなどとは思わないわけです。それが、顔も見たくないというような状態にまで至ってしまうまでには、様々な危険を示すシグナルがあるはずです。そのようなシグナルをやり過ごすのではなく、早めに動いて関係の修復、和解に努めなさというのがイエスの真意なのです。

そして最後の四つ目の教えが「誓い」についての教えです。この教えも文字通りに捉えてしまうと、自分を非常に窮屈な生き方に追いやることになります。いくつかのキリスト教の教派は「誓ってはならない」ということを「宣誓してはならない」という意味に解して、宣誓しないために裁判官など司法関係の仕事には就くべきではないと教えています。他の教派を批判するのはよくないとは思いますが、しかしこのイエスの教えも文字通りに取るべきではないというのが私の考えです。むしろイエスは、誓いなど不要になるようなしっかりとした人間関係を築きなさいと教えているのです。「誓い」が必要になるのは、語る人の言葉に信用がないからです。この人はウソをついているかもしれないと思うから、「あなたはそれを神にかけて誓えますか?」と念を押すのです。誓いを破れば神に裁かれることになるので、それを恐れて約束を守ってくれるだろう、という思惑が「誓う」という行動の背後にはあるのです。しかし、ある人の言うことが常に信頼できるもので、あの人が「はい」と言ったことは「はい」で、「いいえ」と言ったことは「いいえ」に違いないという信頼関係があれば誓いなど不要になるはずです。イエスはそのような信頼関係を築くために、誓いなど不要になるような信頼のおける言動を行いなさいと教えているのです。これも、円満な人間関係を築くためにとても大切な心構えなのです。

3.結論

まとめになります。今日は「律法ではこう言われてきたが、わたしはこう言う」というスタイルの一連のイエスの教えの中で、最初の四つについて学んで参りました。冒頭でも申し上げたように、イエスは人間には到底守れないような厳しい教え、つまり心の中だけでも邪な思いを抱いてはいけないとか、離婚は絶対禁止だとか、どんな場合でも誓ってはいけないとか、そういうことを教えているのではないのです。それはイエスのことばを直解主義的に受け止めてしまうときに陥る誤解・誤りです。

むしろイエスの真意は、私たちが負のスパイラルに陥らないように、早め早めに適切なアクションを起こせということなのです。殺人や姦淫という大きな罪に陥るまでには、様々な段階があります。そこまで事態を悪化させないためにできることはいくつもあるのです。そのような機会を見逃さずに迅速に行動しなさい、和解のために行動しなさいというのがイエスの教えの意図なのです。

私たちはつい意地を張ったり、あるいは面倒くさいと思って今すぐにすべき行動を先延ばししてしまうことがあります。しかし、今すべきこと、今できることを放置すると事態は確実に悪い方向に向かっていきます。そうならないように、すぐに和解のための行動を取りなさい、それが平和への道だというのがイエスの言おうとしていることなのです。

このイエスの教えは当たり前のようで、なかなか実践に移せないものです。しかしヤコブが言うように、「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません」ということは非常に大切なことなのです。イエスの教えを聞くだけでなく、実行していくこと、それこそが平和を築くための道なのです。お祈りします。

私たちに平和への道を教えられたイエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今日はイエスの非常に具体的な教えを学びました。私たちは「聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそい」者であるべきですが、そのように行動できるように助けてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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律法を成就するマタイ福音書5章17~20節 https://domei-nakahara.com/2025/09/21/%e5%be%8b%e6%b3%95%e3%82%92%e6%88%90%e5%b0%b1%e3%81%99%e3%82%8b%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b85%e7%ab%a017%ef%bd%9e20%e7%af%80/ Sun, 21 Sep 2025 00:25:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6813 "律法を成就する
マタイ福音書5章17~20節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。今私たちは、マタイ福音書の「山上の垂訓」を学んでいます。そこには様々な教えがあり、私たちを驚かせるような教えや、胸を打つような教えもあれば、それをどう捉えればよいのか、悩んでしまうようなものもあります。今回の部分も、なかなかとらえどころがないような印象を受けるかもしれません。それは「律法」という大きなテーマを含んでいるからです。

今日の箇所の説明に入る前に、前回の説教で少し補足すべきところがありましたので、まず初めにその点について触れさせてください。前回の説教では「異端になることを恐れるな」というような内容を語らせていただきましたが、「異端」というのは非常に強い言葉なのでその意味を少し補足説明したいと思います。初めに断っておきたいのは、「異端」と「カルト」は違うということです。カルト的な広い意味でのキリスト教の一派があり、そうしたグループはしばしば「異端」とも言われますが、私はそういう意味で異端という言葉を使ってはいません。異端というのは、主流の考え方とは違う、反主流的な考え方のことです。今風に言えばみんなとは違う、「空気を読まない」考え方と言えるかもしれません。どの時代にも、人々の大多数が当たり前だと思っている考え方がありますが、そういう考え方や見方に抗うのが「異端」だということです。その最も有名な例は「地動説」です。太陽が地球の周りを回っているのではなく、地球が太陽の周りを回っているという見方を地動説と呼び、それは今日では当たり前のことですが、かつてはそのような見方が「異端」だとされたことがありました。ガリレオの宗教裁判が有名ですが、かつてのキリスト教はこの「地動説」を異端として否定しようとしました。しかし、結局はそれが正しいことが証明されました。このことはキリスト教の歴史の中でも大きな汚点となっています。今日の世界でも多くの「異端」的な考え方があります。主流の学者たち、あるいは権威を持つ人たちが正しいとする見方に疑問を挟むと「異端」扱いされることが少なくありません。それを恐れて口をつぐんでしまうこともあります。しかし、私も学界の端くれの人間として言わせていただければ、「通説」というものが見事にひっくり返ることは少なくなく、あと50年したら新約聖書学界の風景もまったく変わったものとなるでしょう。ですから、主流の見方と違うからといって、「異端」扱いすることには十分注意したほうがよい、ということを語らせていただきました。 

それに対して、「カルト」というのは全く違う性質のものです。異端とは正反対と言ってもよいです。カルトの特徴は異論・反論を一切認めないことです。つまり、私の言っていることはすべて正しく、それに反することはすべて「異端だ」というようなことを言っている人は限りなくカルトに近いということです。カルトは異端だとしばしば言われますが、カルトほど異端、つまり自らとは異なる意見を徹底的に排除しようとするものはないというのは皮肉なものです。よくキリスト教の信仰者の方々でも、「私の話以外は聞いてはいけない」、「他の説教や、キリスト教の本を読んではいけない、危険だから」と言われたことがあるという話を聞きますが、その手の話にはカルト的なにおいがします。確かにキリスト教には様々な考え方や教派があり、その中には明らかにおかしいと思われるようなものも含まれていますが、だからといって他の見方をすべて遮断したり否定したりすることは非常に危ういものがあります。危険な教えに触れさせないようにするために情報を遮断するのではなく、多くの情報の中から何が正しいのか、何が間違っているのかを識別する力を養うようにするのが教会の使命なのです。カルトの問題点は、信徒に何も考えさせないようにし、頭の中身を支配しようとすることです。信徒を育て、成長させて、自分で何でも判断できるようにさせるのではなく、なんでも自分の言うことを聞く依存的な人間、言うことを黙って聞く従順な駒を作ろうとするのがカルトです。

カルトは宗教だけではありません。政府やメディアにもカルト的になり得るのです。つまり、自分の頭で「批判的に」考える国民よりも、政府の言うことが正しいと素直に信じる国民を作ろうとするということです。しばしば使われるようになった「オールドメディア」という言葉がありますが、それは大手新聞やテレビ局を指す言葉です。情報が限られていた時代は、私たちはテレビや新聞が言っていることが真実だと単純に信じていましたが、インターネットで様々な情報や異なる見方に触れるようになると、人々はこれまで「正しい」と思ってきたことに疑問を感じるようになります。新聞やテレビは世論を誘導できなくなっており、それは最近の選挙結果を見れば明らかです。たしかにインターネットには誤情報も含まれていますし、正反対の意見も多くて混乱させられることもありますが、主流メディアの流す情報であればすべて正しいというような見方もあまりにもナイーブです(ただ、主流メディアはなかなか自分の誤りを認めようとしませんが...)。私たちはこうした時代に自分自身で情報の真偽を判断する力を養う必要があります。これはキリスト教信仰でも同じことです。キリスト教についても様々な教えが氾濫する中で、何が本当に主イエスの教えなのか、よい意味で「批判的に」学んでいく必要があります。なんでも無批判に信じるのではなく、「蛇のようにさとく」なくてはならないのです。

さて、脱線しましたが、本論に入ろうと思います。今回は「律法」についてのイエスの教えです。イエスは律法について非常に肯定的なことを語りますが、それがなかなか私たちにはなじめないということです。なぜなら、プロテスタントの伝統においては律法はマイナスのイメージで語られることが多いからです。宗教改革者のマルティン・ルターは「律法と福音とは、二つの、全く対立する教えである」と記しています。ルターによれば、律法とは我々人間に何かをしなさいと要求するのに対し、福音は我々にただで受け取りなさい、空っぽの手で恵みをもらいなさいと語るというのです。このように福音をひたすら受け身のものとして捉えることには大きな問題があると思いますが、ルターの影響力は非常に大きく、プロテスタントの一つの伝統的な考え方として収まっています。ただ、注意したいのはルターはこういう見方、考え方をイエスから学んだわけではなく、パウロの手紙、特にローマ書やガラテヤ書から学んだということです。ルターが福音書から学んでいたのなら、決して律法と福音を対立するものとは考えなかったでしょう。さらにいえば、パウロ自身も律法と福音を対立的に捉えていたわけではありません。そのように読める箇所も彼も書簡の中には確かにありますが、しかしパウロはこうも言っています。ローマ書3章の31節にはこうあります。

それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。

今日はパウロの律法論がテーマではないのでここらへんでやめておきますが、律法と福音が相容れないというような考え方は脇に置いて今日の話を聞いていただきたいと思います。

2.本論

では17節です。イエスはまず、自分は「律法や預言者」を廃棄しようとしているのではないと明言しています。「律法や預言者」というのはすなわち旧約聖書全体のことです。イエスは旧約聖書の教えや預言は必要ないなどとは決しておっしゃらないということです。むしろ自分が来たのはそれらを「成就」するのだと言っています。では、成就するとはどんな意味なのか?預言を成就する、ということの意味は分かりやすいです。マタイは福音書の中で、「これは預言者たちを通して言われたことが成就するためであった」と繰り返し述べていますが、これは預言者たちが語ったことがイエスの生涯において実現したということです。

では、律法を「成就する」とはどういう意味なのでしょうか?それがまさにこの山上の垂訓のテーマなのです。これは単に、イエスがモーセの律法を完璧に実践する、実行するというような意味ではありません。ここでイエスが語っている「成就する」とは、単にそれを誤りなく行うということではなく、さらに前進させる、より深い意味を明らかにするということです。イエスは山上の説教で、「モーセはこう言ったが、私はこう言う」という言い方をします。これはちょっと聞くとモーセの律法を否定しているように聞こえるかもしれませんが、そうではなくモーセの教えの本当の意味や意図を明らかにするということです。たとえば、モーセは結婚している男女では、男の方だけが離婚を申し渡すことができると語りました。ジェンダー平等の現代から見ればおそろしく男尊女卑の教えに見えますが、ではこれが神の真の意図なのかといえばそうではありません。イエスは、当時のイスラエル人の心が頑なだったので、モーセは人々が受け入れられるような教えをいわば妥協して教えたのだ、と語っています。モーセの律法は確かに神の教えですが、生身の人間に対する教えなので、相手が受け入れてくれるようにという配慮も含まれていたのです。イエスが律法を「成就する」と言ったのは、こうしたモーセ律法の限界を突破して、神の本当に意図したことを私は伝えると言っているのです。

律法の限界についてもう少し考えてみましょう。モーセ律法の教えは、主としてイスラエル共同体に適用されるもので、イスラエルと対立する敵国には適用されるものではありませんでした。イエスは『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われてきたと語っていますが、モーセ律法には『敵を憎みなさい』という明文はありません。しかし、モーセの『隣人を愛しなさい』という教えが適用されるのがイスラエル共同体の中だけならば、その外にいる外国人は憎んでもいい、憎みなさいということになります。イエスはそのような解釈は律法の本来意図すること、つまり神の御心ではないということを明らかにします。なぜなら神はイスラエルの神であるのみならず、イスラエルの敵にとっての神でもあるからです。神は万人の神なので万人を愛します。ですから神の民も、自分たちの仲間だけでなく、信仰を共有しない人たちをも愛しなさい、それが神の御心なのだとイエスは教えます。このように、イエスはモーセ律法を単に否定しようとするのではなく、むしろその教えの背後にある神の真の意図を明らかにし、それを行うようにと人々に教えたのです。その「真の意図」についてはイエスがこれから詳しく語っていきます。

18節では、「律法の一点一画も決してすたれることがない」と言われています。ここで特に誤解しないようにしたいのですが、主イエスはここで我々クリスチャンに語っているのではなく、ユダヤ人に対して語っているということです。モーセの律法の難しさは、それがモーセを通じて結ばれた契約の民、つまりユダヤ人のためのものだということです。もちろん我々ユダヤ人以外の民族、異邦人にとっても律法は有益であり、私たちも十戒を唱えたり、『あなた自身のようにあなたの隣人を愛しなさい』といった律法の掟を実践しようとします。しかし、ユダヤ人なら必ず受ける儀式である割礼もモーセ律法の一部ですが私たちはそれを行いません。また、豚肉を食べてはいけないといった食事規定もモーセ律法の一部ですが、私たちはそれを守っていません。イエスの言われた「律法の一点一画」にはこれらの割礼や食事規定も含まれるわけですが、私たちはイエスの言いつけにもかかわらずそれを行っていません。これをどう考えるべきでしょうか?ここで、初めて異邦人の使徒パウロが登場します。パウロは繰り返し、「私たちは律法の下にいるのではなく、恵みの下にいます」と語りましたが、ここでいう「私たち」とは主として異邦人を指しているということです。もちろん、語っているパウロは異邦人ではなくユダヤ人ですので、「私たち」の中にパウロが含まれるのならそこにユダヤ人も含まれるはずではないか、という理屈も成り立ちます。しかしパウロは異邦人の使徒として常に異邦人に対して語りかけているのです。それを忘れてはいけません。パウロは、モーセ律法はユダヤ人に対して与えられたものなので異邦人は守る必要はないと考えていました。もちろん律法のエッセンス、つまり神を愛し、隣人を愛するという教えは異邦人にとっても大切なことですが、それは律法の細かな規定を守ることを通じてではなく、聖霊に導かれて歩むことで実現できると教えたのです。このように、異邦人は律法の下にいないというのがパウロの教えでしたが、ユダヤ人は話が違います。今でもユダヤ人は割礼を受けますし、豚肉を食べません。これは契約の民としてのユダヤ人の特殊性です。彼らは今でもモーセ律法を守っているのです。そのようなユダヤ人に対し、イエスは「律法の一点一画も決してすたれることがない」と言われたのです。ですからここの部分に関しては、我々異邦人は「そういうものなのか」と、いわば他人事のように聞くしかない部分があります。「戒めのうち最も小さいものの一つでも破ったならば」と言われても、私たち日本に暮らす人々は豚肉も甲殻類も普通に食べていますから、困ってしまうわけですが、しかしこれはユダヤ人に対して語られた言葉なのです。

とはいえ、イエスの山上の垂訓の教えはモーセ律法とは異なり、私たち異邦人のクリスチャンも守るべきものだということは忘れてはいけません。イエスの教えはモーセ律法の限界、つまり民族宗教としての律法を超えて、あらゆる民族に向けられた普遍的なものだからです。イエスの教えはモーセ律法に基づくものですが、それを超えたものです。それはモーセ律法の持つ歴史的・民族的限界を乗り越えたものです。そのようなイエスの教えを守る人は、モーセ律法を墨守するパリサイ派やサドカイ派の義に勝る義を持つのです。ですから私たちはイエスの山上の教えを心して聞かなくてはなりません。

3.結論

まとめになります。今日はイエスがモーセ律法について語ったところを学びました。私たち異邦人信徒は、異邦人の使徒であるパウロの教えに強い影響を受けています。そしてパウロは、異邦人信徒にモーセ律法全体を守らせようとする試みに断固反対しました。その教えを受けている私たちは、律法の一点一画に至るまでのすべての戒めを守る必要はありません。

それに対し、イエスはこの山上の垂訓をユダヤ人に対して教えました。ユダヤ人に対しては、イエスはモーセ律法のすべてを守ることを要求したのです。それは、モーセ律法とはそもそもユダヤ人に対して与えられたものだからです。同時にイエスは、モーセ律法のより本質的な部分、ユダヤ人のみならず人類全体が守るべき本質的な教え、神の意図をも明らかにされました。そのような教えに私たち異邦人も耳を傾け、従う必要があります。そのことを心に留めて、イエスの教えを今後もさらに学んで参りましょう。お祈りします。

モーセを通じてユダヤ民族に律法を与えてくださった天の父なる神様、そのお名前を賛美します。あなたは御子イエスを通じてさらに勝った教え、「山上の垂訓」を教えて下さいました。私たちに聖霊を与え、どうかそれらの教えを守り行わせてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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