ヘブル書 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 調布 深大寺のプロテスタント教会 Sun, 21 Dec 2025 05:49:40 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.3.20 https://domei-nakahara.com/wp-content/uploads/2020/03/cropped-favicon-32x32.png ヘブル書 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 32 32 キリストの叫びヘブル書5章1~14節 https://domei-nakahara.com/2025/12/21/%e3%82%ad%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88%e3%81%ae%e5%8f%ab%e3%81%b3%e3%83%98%e3%83%96%e3%83%ab%e6%9b%b85%e7%ab%a01%ef%bd%9e14%e7%af%80/ Sun, 21 Dec 2025 05:07:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6963 "キリストの叫び
ヘブル書5章1~14節" の
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1.序論

みなさま、クリスマスおめでとうございます。今年も様々なことがありましたが、こうして平安の内にクリスマスを迎えることができたことを心から感謝します。今日のメッセージには、クリスマスの喜ばしいイメージからはちょっとかけ離れたようにも思える、「キリストの叫び」という説教タイトルがついています。これはキリストの誕生というよりも受難のほうの話なのですが、クリスマスというおめでたい時にこのような重々しいメッセージを選んだのは、イエスがこの世界に来られた意味を改めて考えたいと思ったからです。

私たちはどんな時に叫ぶのでしょうか?うれしい時に叫ぶ、勝利の雄たけびというようなものもありますが、同時に苦しい時、助けを求めるときの切実な叫びというものもあります。今回のキリストの叫びというのは、まさにそのような苦しい場面での叫びです。救い主であるイエスがご自分の救いを求めて叫ぶ、というのはなんだかおかしなことのように思えますが、しかし今回のへブル人の手紙では確かにそのようなイエスの姿が描かれています。それは同時に、イエスご自身が救いを求めて叫ぶほどに追い詰められていた、ということでもあります。ではなぜイエスはそこまで苦しめられなければならなかったのでしょうか。イエスの受けた苦難にはどんな意味があったのでしょうか?それには様々な答えがありうるでしょう。私たちが受けるべき苦しみを代わりに担ってくださった、という見方も当然あるでしょう。しかし、理由はそれだけではありません。むしろこのヘブル書によれば、イエスが苦しまれたのは私たち人間の苦しみを理解するためだった、というころが言われているのです。この点について、今日の説教では取り上げたいと思います。

2.本論

さて、今日の説教は「へブル人への手紙」を取り上げています。この書簡は、かつては使徒パウロが書いた書簡だと考えられたこともありました。しかしいまではそのような見方は否定されています。誰が書いたのかわからない、匿名の書簡だということです。この書簡は非常に独特な神学を提示しています。それは「大祭司キリスト論」と呼ばれるものです。キリストの叫びの意味を考える前提として、まずこの大祭司キリスト論についてみていくことにしましょう。そもそも論になりますが、私たちは主イエスのことをイエス・キリストと呼びますが、キリストというのはイエスの苗字ではなく、役職を示すタイトルです。トランプ大統領という場合、大統領はトランプさんの苗字ではなく彼の職責を指しています。同様に、イエス・キリストも、キリストという役職を担っているイエス、という意味なのです。キリストというのはギリシア語ですが、それはヘブライ語の「メシア」と同じ意味です。イエス・キリストは、イエス・メシアと同じだということです。では、「メシア」とは何かというと、日本語では「救世主」というような意味合いで使われますよね。しかし、メシアの本来の意味は救世主ではありません。その言葉の意味は「油注がれた者」という意味です。どういうことかと言えば、古代イスラエルでは重要な役職に就く人には、頭から油を注がれるという儀式が行われました。ですからメシアすなわち「油注がれた者」というのは、イスラエルでは特別な地位に就く人のことを指す言葉だったのです。では、その特別な地位とは何かといえば、三つありました。王、祭司、そして預言者です。メシアとはこの三つの地位に就いた人のことを言います。イスラエルの歴史に王、祭司、預言者はたくさんいたので、そういう意味ではイスラエルの歴史にはたくさんのメシアがいたことになります。ダビデもソロモンも油注がれた王、すなわちメシアなのです。イエスもそのメシアの一人なのですが、イエスの場合は比類ないメシア、究極のメシアだというのがキリスト教信仰です。

では、イエスは王、祭司、そして預言者の三職のうち、どのような職責を担ったのかといえば、実は全部です。「キリストの三職」という言葉を聞いたことがあるかもしれませんが、イエスは王であり、祭司であり、預言者だというのがその意味です。ただ、その中でも「王」という意味合いが一番大きいわけです。イエスはダビデの子孫だ、ということが強調されていますが、ダビデは王であり、イエスはその血筋なのだということが言われているのです。イエスがダビデの血筋にあるメシア王だということです。同時にイエスが預言者だ、というのも重要です。イエスはいろいろな奇跡を起こしましたが、旧約の預言者であるモーセやエリヤも奇跡を起こしました。また預言者エレミヤが時の権力者、王を批判したように、イエスも彼の時代の最高権力者である大祭司を強く批判しました。このように、イエスは王として、また預言者として活躍しました。この王職、預言者職に対し、イエスが大祭司であるというのは実はあまり注目されないことでした。大祭司とは、神と民との間に立ち、仲立ちをする存在です。民を支配する王とも、民を叱責する預言者とも違います。その、イエスが大祭司であるということを非常に強調しているのがこの「へブル人の手紙」なのです。

ただ、この「大祭司」という言葉にはあまりなじみがないという方もおられると思います。日本の歴史には「大祭司」なるものがなかったからです。これは、私たちにイメージしやすい言葉で言えば「牧師」と同じです。大祭司は大牧師という感じです。プロテスタントでは教職のことを牧師と呼びますが、カトリックでは司祭と言いますよね。牧師と司祭は基本的には同じ働きをします。その司祭をひっくり返せば祭司となるのですが、ユダヤ教では司祭ではなく祭司と呼ぶのです。そしてその祭司の頂点にいるのが大祭司です。このように考えれば、「大祭司」という呼び名もそんなになじみのないものでもないと思います。

へブル人への手紙は、イエスが大祭司であることを諄々と説いているのですが、この5章では大祭司となるための要件、条件を二つ挙げています。その二つ目の理由が「キリストの叫び」という説教テーマと深い関係があるのですが、それは少し後で話すので、まずは一番目の要件、条件をお話しします。その第一の条件とは、大祭司は神が任命するものだということです。そんなのは当たり前だと思われるかもしれませんが、実はとても大事な点なのです。なぜなら、ユダヤ人の常識では大祭司というのは世襲で自動的に決まるものと信じられていたからです。つまり、大祭司にはそれにふさわしい人物がなるのではなく、父から子へといわば自動的に受け継がれると考えられていたのです。しかし、大祭司がそのように決まるとすれば、イエスは大祭司にはなれないことになってしまいます。なぜなら大祭司はレビ族の中でも、モーセの兄であるアロンの子孫が代々受け継ぐことになっていましたが、イエスはレビ族ではなく、ユダ族、それもダビデ王の家系に属していたからだす。つまりイエスは王にはなれても大祭司にはなれないということになってしまいます。へブル人への手紙の著者もそのことがよくわかっています。そのことは7章13節と14節に書かれています。

私たちが今まで論じて来たその方は、祭壇に仕える者を出したことのない別の部族に属しておられるのです。私たちの主が、ユダ族から出られたことは明らかですが、モーセは、この部族については、祭司に関することを何も述べていません。

これは何を言っているのかといえば、「今まで論じて来たその方」とはイエス様のことで、「祭壇に仕える者を出したことのない別の部族」とは、イエスが祭司の家系のレビ族ではなく、王家の家系であるユダ族だということです。

しかし、へブル人の手紙の著者は、その原則をイエスは破る存在であると主張します。なぜなら、大祭司は確かにモーセ律法によれば系図で決まるのですが、例外的に神が直接選んで任命するケースがあるからです。実はそのような先例があり、それがあのアブラハムを祝福した伝説の祭司メルキゼデクです。イエスもメルキゼデクと同じように、神から直接任命されて大祭司となられたのです。しかも、イエスは大祭司になられるのにふさわしい方なので、だからこそ神はイエスを永遠の大祭司として任命しました。では、イエスはどのような理由で永遠の大祭司になられたのでしょうか?イエスは神の子だから、当然大祭司になれるのだ、と言ってしまえば身も蓋もないのですが、実はそうではなく、大祭司になるために必要な条件というものがあるのです。それが2節に書かれていますのでお読みします。

彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。

このように、大祭司になる条件とは彼が牧する人々の弱さを理解し、思いやることができるということなのです。なぜなら、彼自身にもそのような弱さがあるからです。しかし、実はそのことがイエスが大祭司になるための障害にもなりうるのです。イエスは神です。しかし、神に弱さがあるというのは、神の定義と矛盾するように思われます。むしろ神には人間のような弱さがないのは当たり前でしょう。ですから、イエスは人間の弱さを知るために、人となる必要があったのです。弱さを知るには、それを経験するしかないからです。人々の弱さを思いやるという能力は生まれつき身についているものではなく、経験する他ないからです。昔、フランスの王妃だったマリー・アントワネットが民衆がパンがなくて飢えているという話を聞いたとき、「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」と言ったと言われています。これは本当に彼女が言ったものかどうかわからず、デマである可能性が高いとも言われていますが、ただマリー・アントワネットには本当に飢えるということがよく理解できなかったというのは本当のことだと思います。こればかりは体験しないと分からないのです。また、よく「名選手は必ずしも名コーチにはならない」ということも言われます。これも理解できることです。というのも、天才と言われるような人は、普通の人が苦労して身に着けることが簡単にできてしまうので、できない人の気持ちがわからないのです。どうやればうまくできるのかと聞かれても、「簡単だよ。ただこうすればいい」といって、普通の人には難しいことをいとも簡単にやり遂げてしまいます。しかし、そんな人に教わっても全然上達できないですよね。

イエスの場合にもこれが当てはまります。人間は脆く、弱いものなのです。神にはそのような弱さがありませんから、こうした弱さというのは頭ではわかっても、こういう言い方をするのが許されるとすれば、それを実感することはできないのでしょう。ですから罪深い人間の弱さを赦すことはできても、思いやるということはなかなかできないのかもしれません。しかし、イエスは神でありながら人間となることでそのような人間の弱さ、脆さを身をもって経験したのです。神の子であるイエスでも、何も食べなければおなかは減りますし、殴られれば痛いのです。侮辱されれば悔しい思いをするのです。イエスは人となることで、そういうことを一つずつ経験していきました。しかも王侯貴族としてではなく、社会の底辺にいる貧しい人間として生まれ育ったので、貧しさゆえの苦しみ、馬鹿にされることの悔しさも身に染みて体験したのでした。しかし、イエスはそういう不遇な状況に生まれたことを呪って社会に復讐しようとか、犯罪に走るようなことはしませんでした。そうした苦しみに耐えながら、むしろほかの人々を助けました。このように、罪を犯すことはありませんでしたが、同時にやけになって罪を犯してしまう人々の気持ちも共感したり理解できるようになりました。彼らを思いやることができるようになったのです。へブル人の手紙では、キリストが苦難を通じて従順を学び完全な者とされたということが繰り返し言われています。「完全な者」になるということは、完全になる前は不完全だったということが示唆されるわけですが、キリストが如何なる意味で不完全だったのかといえば、神であるがゆえに弱さを抱えた人間への共感という意味では足りない部分があった、ということだと私は理解しています。しかし、人間であるがゆえに苦しみをつぶさに舐めて、それどころか人間として最悪の運命である十字架という恥辱と苦難すら味わったことで、イエスはあらゆる人の苦しみを理解できるようになりました。そしてこれこそがイエスが永遠の大祭司になるために必要なことだったのです。へブル人の手紙の著者はイエスについて、

キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。

と記しています。「大きな叫び声と涙」とはゲッセマネの園での祈りのことなのか、あるいは十字架上での絶叫なのか、その両方であるかもしれません。しかし、イエスは私たちとまったく同じように人としての痛みを経験し、悩みや不安を抱き、そして救いを求めたのです。本当に辛い思いをされたのです。絶望を味わったのです。そのような中でも神を、苦難から救ってくださる神を信じ、自分では人を憎んだり復讐したり暴力を用いることはせずに、神を信頼して十字架上で絶命したのです。最後まで信仰を捨てなかったのです。そのような苦しみを通られたからこそ、イエスは弱い私たちを父なる神に執り成してくださることができるのです。このような経験をされたからこそ、イエスは永遠の大祭司、大牧者になられたのです。

3.結論

まとめになります。イエスが苦しまれたのは、このように私たちの弱さを思いやることができるようになるためでした。イエスの人生は、客観的に見れば悲惨な人生だという言い方もできるかもしれません。人のために尽くしながら、人々に見捨てられて死んだのですから。しかしだからこそ、イエスは同じように悲惨な状況におられる方々のことを心から思いやることができるのです。そしてそのことは私たちにも当てはまります。私たちも人生において様々な苦難や試練を経験します。なんで私がこんな目に遭うのか、と思うこともあるでしょう。苦難の意味には様々なものがありますが、その一つはその経験を通じて他人の痛みが本当に理解できるようになるということがあります。ずっと恵まれた環境で育った人は、たとえその人がどんなに素直で良い人だったとしても、不遇な立場にずっと置かれてきた人の気持ちはわからないのです。想像はできても、実感はできないのです。しかし、自分もそのような苦しみに遭うと、そういう立場に置かれた人の気持ちが心底わかるようになります。苦しみを受けることに肯定的な意味があるとすれば、私たちがそのような共感力を高めることができることでしょう。主イエスはまさにそのような経験をするために、自ら貧しい人として歩まれたのです。そうして私たちのためにとこしえの救いの道を拓いてくださったのです。そのことに感謝しながら、今日のクリスマスを心から祝いましょう。お祈りします。

御子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださった父なる神様、そのお名前を心から賛美します。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」というみことばにアーメンと言えるように、私たちも主イエスの苦難の生涯から多くのことを学ぶことができますように導いてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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天と地をつなぐ礼拝ヘブル書12章1~3節 https://domei-nakahara.com/2020/11/08/%e5%a4%a9%e3%81%a8%e5%9c%b0%e3%82%92%e3%81%a4%e3%81%aa%e3%81%90%e7%a4%bc%e6%8b%9d%e3%83%98%e3%83%96%e3%83%ab%e6%9b%b812%e7%ab%a01%ef%bd%9e3%e7%af%80/ Sun, 08 Nov 2020 07:06:02 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=954 "天と地をつなぐ礼拝
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みなさま、おはようございます。今日は召天者記念礼拝ですので、それにふさわしいメッセージをしたいと願って、準備してまいりました。説教には、大きく分けて二つの種類があります。一つは講解説教と呼ばれるもので、エレミヤ書や第一コリント書簡など、聖書の一つのテクストを数か月かけて、場合によっては数年かけてじっくり学んでいくという形の説教です。これは聖書テクストに沿って、聖書そのものに語ってもらおうという、そういう説教です。それに対し、もう一つの説教の種類とは「テーマ説教」と呼ばれるものです。ある一つのテーマ、主題について語る説教ですので、一つの聖書箇所にとどまらず、聖書全体を広く見渡しながら、一つのテーマについて深く考えていくのです。そして今日の説教はテーマ説教です。ですから今日お読みいただいたヘブル書12章1-3節は今日のメッセージにとってとても大事な箇所ではありますが、この箇所の以外の場所もいろいろ見ていきます。そして、今日の説教で考える中心的な問題とは、私たちここに集う礼拝者と、かつてここで共に礼拝を守っていたけれど、すでに天に召された兄弟姉妹たち、この両者の関係をどう考えるのか、ということです。今日は先に天に召された方々を思い起こす日ですが、そのことにどんな意味があるのかを考えていきたいと思います。

ここで私たちに浮かんでくる問い、疑問の一つには、先に天に召された兄弟姉妹たちは今どうしているのだろう?という問いです。これは古今東西、世界中の人々の関心をひきつけてやまない問題です。人間には死は避けられませんが、死んだ後にどうなるのか、というのはすべての人が人生で一度は向き合う問いなのです。この問題について、私たちクリスチャンは、死んだあとは天国に行くのだ、とすぐさま言うかもしれません。でも、こういうと驚かれるかもしれませんが、聖書には、死んだ後に信仰者の霊が向かう天国、あるいはパラダイスとはどんな場所なのかということについては、あまり記述がないのです。こういうと意外に思われるかもしれません。イエスのたとえには「ラザロと金持ち」のようなものがありますが、これは死後の世界については当時のユダヤ人の間で一般的だったイメージを用いており、むしろこの話のポイントはこの人生において憐み深くあるべきだということです。でも、ヨハネ黙示録の終わりの章などに、天国についての詳しい記述があるではないか、と思われるかもしれません。しかし、私たちが天国のことだと思っている記述は、死後の世界という意味での天国のことではなく、この世のこと、もっと正確に言えばこの世界が未来にどのようになるのかを記しているのです。繰り返すと、私たちが「天国」の記述だと思っているものは、死んだ後に死者の霊が向かう世界のことではなく、「新天新地」と呼ばれる新しい世界に生まれ変わる、この世界の行く末のことなのです。

この私たちの生きている世界は、いつの日にか神によって全く新しくされる、これが聖書の中心的なテーマであり、最大の関心事だといっても過言ではありません。全く新しくされるというのは、神がこの罪と悪にまみれた世界を見捨てて、全く新しい世界を一から創り直すという意味ではなく、この世界をむしばむ悪が一掃されて、神が本来意図したような世界になる、これが「新天新地」です。そのような世界が実現するという希望を、聖書は私たちに与えてくれるのです。そして、先に天に召された兄弟姉妹は復活の体、新しい体を神から与えられ、新しくされた世界、新天新地に住まうようになるのです。先に天に召された兄弟姉妹も、私たちと同じくこの新天新地、神の約束された世界の実現を待っているのです。新天新地とパラダイスとは別々のことを指しています。「パラダイス」という言葉の元々の意味は究極の理想郷ということではなく、旅人がしばし憩うことのできる庭園、オアシスのようなところで、旅人はそこで休息を得ることができます。ユダヤ教においては、だんだんとこの言葉はエデンの園、あるいは極上の楽園を意味する言葉として使われるようになりましたが、元来の意味は究極の目的地に達するために途中で休息を得る場所なのです。ですから、先に召されてパラダイスにいる兄弟姉妹は、この世の労苦から解放されて今や主によって安息と平和を与えられてはいますが、彼らの究極の行き先はそこではないのです。彼らも、私たちと同じく神の約束が成就するのを待ち望んでいるのです。今を生きる私たちも、パラダイスにいる兄弟姉妹も、新天新地という神の約束が実現をするのを待っているのです。

もちろん、天国にいる彼らはただ待っているわけではありません。死んだ後の主にある兄弟姉妹がどのような状態にあるのか、毎日何をしているのか、詳しいことはわからないものの、一つだけ確かなことがあります。それは、彼らが礼拝をしているということです。礼拝は、この地上で日曜日に教会で献げられるだけのものではありません。むしろ、聖書によれば全宇宙が神を礼拝しているのです。私たちが生きるこの地球は、大宇宙のひとかけらにすぎません。宇宙はあまりにも巨大で、私たちの想像を超える広がりと複雑さを持っていることがだんだんとわかってきました。しかも、聖書が教えるように、神の創られた世界は目に見える世界だけではないのです。見えない世界、神や天使が住まう世界、先に天に召された人々が住まう世界があります。この目に見える世界が巨大な広がりを持つように、見えない世界、天上の世界も信じられないほどの巨大さと複雑さを持った世界であるのに違いありません。しかし、この目に見える世界と見えない世界には一つ共通するものがあります。それは、いずれの世界においてもその創造主である神が礼拝されているということです。つまり、礼拝こそ天と地をつなぐものなのです。

天と地のいずれにおいても礼拝がなされている、ということを示す聖書箇所をいくつか見てまいりましょう。まず初めに、招詞で読んでいただいたピリピ書2章10-11節です。

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

ここで「天にあるもの」や「地の下にあるもの」とはいったい何を指しているのか、と思われるかもしれません。ここでいう「地の下にあるもの」とは、地面の下で暮らすモグラとか、そういう意味ではありません。むしろ原語のギリシャ語からは、それが死者の魂が向かうと信じられた冥府、黄泉の世界を指しているのがわかります。また、「天にあるもの」というのも空を飛ぶ鳥のことではありません。「天」という言葉は原語では複数形なので、直訳すると「諸々の天」ということになりますが、ユダヤ人は天国には第一の天、第二の天、第三の天という具合に、階層があると信じていました。つまり、「天にあるもの」や「地の下にあるもの」とは私たちが生きる世界の生物のことではなく、天上界、見えない世界の住民たちを指しているのです。ですから、ピリピ書2章10-11節が言っているのは、見える世界でも見えない世界でも、すべての被造物が主イエスを賛美しているということなのです。

天上天下のあらゆる被造物が神を礼拝するさまを描いている聖書箇所をもう一か所見てみましょう。ヨハネ黙示録5章11-14節です。

また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。

ここで描かれているように、天上で神の玉座の周りにいる天使たちから始まって、地上に生きるすべてのもの、人間だけでなく、地の上を歩む動物や海の中で生きる魚たちに至るまで、すべての被造物が礼拝をしているのです。このように、天においても地においてもすべての被造物は神とそのキリストを礼拝しています。ですから、私たちは礼拝するとき、私たちだけが礼拝をしているのではないのです。かつて共に礼拝を守り、すでに天に召された兄弟姉妹たちも、私たちと共に天で礼拝をしているということを覚えましょう。ですから、今日の召天者記念礼拝は確かに特別な日であり、先に天に召された方々のことを覚える日ですが、今日だけでなく、私たちが共に集まって礼拝するときはいつも、天においても礼拝が行われているのです。

そうはいっても、私たちは天にいる兄弟姉妹を見ることはできません。話すこともできません。天にいる兄弟姉妹と共に礼拝を献げていると言われても、なかなかそのような実感が持てないかもしれません。では、天にいる兄弟姉妹たちの方からは私たちのことを見ることができるのかといえば、それについては確たることは言えないものの、おそらく向こうからこちらの世界を見ることはできないと思います。天上界は、この世界とは空間の構造や、おそらく時間の概念や進み方も違うと思われるからです。天と地の間には、見えない厚い壁があるのです。その見えない壁が取り払われるとき、天と地が一つになって、死んだ兄弟姉妹たちと、この世界に生きる私たちとが再び一つになるとき、それが聖書の言う「新天新地」であり、私たちはその日を天と地という別々の場所で待ち望んでいるのです。

そして、こういうと皆さんは驚かれるかもしれませんが、私たちはパラダイスを一度も経験することなく、新天新地に行くこともありうるのです。イエスがこの世界に再び現れるとき、それをキリスト教用語で「再臨」と呼びますが、その時に私たちが生きていれば、私たちは死を味わうことなく、そのまま変えられるのです。そのことを使徒パウロが語っている箇所を読んでみましょう。第一コリントの15章51-52節です。

聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

ここでパウロは奥義、つまり隠されてきた、秘密にされてきた神の真理を語っています。「私たちはみな、眠ることになるのではなく」というのは、「私たちはみな、死ぬのではなく」と言っているのです。「眠る」とは「死ぬ」ことの婉曲表現だからです。終わりのラッパがなって、キリストが現れる時、死んだ兄弟姉妹たちには朽ちないからだ、復活のからだが与えられますが、生き残っている者は生きたまま変えられます。それがどんなものなのか、想像もつきませんが、これが神の奥義、神秘なのです。私たちは生きたまま、あるいは復活の時に、キリストに似た姿に変えられるのです。

このように、先に天に召された兄弟姉妹も、私たちもみな「待っている」のです。その日が来るのを待っているのです。それでも、私たちが召天者たちのことを思い起こす特別の日を持つことはとても大切なことです。ここから、今日お読みいただいたヘブル書に目を向けたいと思います。このヘブル人への手紙というのは、非常に難しい書簡です。おそらく新約聖書で一、二を争う難しさだと思います。へブル人とはつまりイスラエル人のことで、この手紙はユダヤ人クリスチャンに対して書かれたものです。異邦人の使徒パウロが書いた手紙の多くは、ユダヤ人以外の異邦人信徒に向けて書かれたものなのですが、それらの手紙と比較すると、このヘブル書はユダヤ的な性格が大変強いのです。それもそのはずです。異邦人信徒、つまり私たち日本人のようにユダヤ人ではない人々は、クリスチャン・ホームで育ったのでもない限り、旧約聖書をしっかり読んだことのある人はまずいません。旧約聖書のモーセの律法も、十戒ぐらいは聞いたことがあるかもしれませんが、それ以外はほとんど何も知らないでしょう。しかし、このヘブル書は旧約聖書の引用や神殿での儀式についての教えが満載です。この手紙の受け手がユダヤ人なので、彼らが旧約聖書のことを非常によく知っているという前提で書かれています。そのため、旧約聖書に熟知していないと、このヘブル書は大変難しく感じられるのです。

しかし、この書簡の書かれた目的そのものは非常にわかりやすいものがあります。この書簡は、厳しい迫害に遭い、ユダヤ人社会の中でのけ者にされて希望を失い、今にもキリストへの信仰を捨ててユダヤ人社会に戻ってしまおうとする信徒たちを叱咤激励し、励ますものだったということです。今日では、キリスト教は世界最大の宗教で、世界の人口の三人に一人はクリスチャンだとされます。しかし、日本のクリスチャン人口は1%未満で、世界で最もキリスト教が普及していない国の一つです。では、ほかではどんな国でキリスト教が普及していないのかといえば、その一つがイスラエルです。イエス・キリストを生んだイスラエルでなぜキリスト教が全然普及しないのかといえば、その一つの理由は数千年におよぶキリスト教徒によるユダヤ人迫害の歴史があるからで、彼らにとってはキリスト教徒になるということは親の敵に寝返ること、祖国を裏切るのに等しいことなのです。実際、今のイスラエルが誕生した理由の一つは、キリスト教国のナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺を逃れるためだったということがあります。ですから今日のユダヤの人々がクリスチャンになるということは、親兄弟から親族の縁を切られたり、迫害を受けることすらありうるという、大変覚悟のいることなのです。

そして実はヘブル人への手紙が書かれた二千年前のユダヤ人キリスト教徒も、同じような状況に置かれていました。イエス様はユダヤ人当局者によって弾劾され、犯罪者として処刑された人物です。使徒の働きにあるように、そのようなイエスをイスラエルの救世主、メシアだと信じる人々は同胞のユダヤ人から激しく迫害されていました。彼らはユダヤ人たちがローマと戦争するときに協力せず、むしろエルサレムから逃げました。イエスの教えに従ったからなのですが、それもユダヤの人々からは裏切り者の行為として映ったでしょう。彼らはそのような、同胞から白眼視される厳しい状況にじっと耐えてきたのですが、いよいよその我慢も限界に近づいたときに書かれたのがこの書簡だったのです。そして、このヘブル書の著者が、苦難の中を歩む仲間の信徒たちを励ますためにしたことの一つが、彼らの目を先輩の信仰者たち、先に天に召された信仰者たちに向けさせることでした。ヘブル書11章からは、著者は旧約聖書の信仰の英雄たちのことを延々と述べています。しかし、これは単に旧約聖書のサマリーを提示しようというのではありません。この人々は、ユダヤ人たちにとっては血を分けた同胞、同じ民族の信仰の父であり、母である人たちなのです。そしてイエス・キリストも、肉においてはユダヤ人として生まれたのです。つまりここでヘブル書の著者は、召天者記念礼拝のようなことを行っているのです。ヘブル書の著者は、読者に信仰の先輩たちの信仰の歩み、特に彼らの忍耐を思い起こすように説きます。彼らの地上での歩みは、神と共に歩む祝福されたものであるのと同時に、決して平たんなものではありませんでした。例えばイスラエル民族の父、族長アブラハム。彼は神から祝福され、大きな富を得て、待望の跡継ぎイサクも与えられました。しかし、彼はカナンの地を与えるという神の約束が果たされるのを見ることなく死にました。使徒の働きでステパノは「ここでは、足の踏み場となるものさえも、相続財産として彼にお与えになりませんでした」とアブラハムのことを記しています。そしてアブラハムと並ぶ、ユダヤ人にとっての最も大事な存在であるモーセ、彼もまた、神の約束を見ることなく死んでいきました。彼はうなじの怖い、反抗的な民を率いて、幾多の試練を乗り越えて40年もの間荒野を旅しました。しかし、その旅の果てに彼は約束のものを得ることなく死にました。その神に忠実な生涯にもかかわらず、約束の地、カナンの地に足を踏み入れることなく死んでいったのです。彼らについて、11章39節ではこう書かれています。

この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束のものは得ませんでした。

彼らは約束のものは得られなかったものの、それをいつか必ず得ることができる、与えられるのだという信仰と希望を失わずに死んでいったのです。彼らだけではありません。私たち中原キリスト教会の先輩方も、必ずしも生きている間にその希望が叶えられてから天に召されたわけではありません。この中原キリスト教会がどのようになっていくのか、どんな風に発展していくのか、まだ見ぬ未来のヴィジョンを抱きつつ天に召された方がおられるでしょう。教会のことだけではありません。個人としての夢や希望、そうしたことが叶えられることなく天に召された方もおられるでしょう。しかしそれでも、人生の最期の一歩に至るまで、神を信頼し、神がまだ見ぬ約束を必ず実現してくださるという希望を抱き続けたのです。そのような彼らの歩みは、今なお私たちに雄弁に語りかけてくれています。私たちを励ましてくれます。信仰生活を続けていく、しかも生涯にわたって続けていくというのは簡単なことではありません。もちろん、神を信じ、神と共に歩む人生は祝福された、喜ばしいものです。それでも、人生において様々な苦難や不条理な体験をするとき、ことさらキリスト教信仰のゆえに困難に直面したとき、私たちは信仰生活をこれ以上続けられない、と思うことがあるかもしれません。しかし、そんなときにこそ、私たちの身近にいた信仰の先輩方を思い起こしたいのです。その歩みから、勇気と励ましを得たいのです。身近な先輩だけではありません。聖書に記された多くの人たちも、私たちの信仰の父であり、母であり、先輩なのです。

そして、私たちが最も強く目を注ぐべき方、それがイエス・キリストです。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」この言葉を胸に刻みましょう、私たちにとっての最も大切な信仰の先輩、お手本は、まさにイエス・キリストなのです。イエスは大変な苦しみの中でも、決して父なる神への信頼を失わずに、その使命を全うされ、今や天において王として、また永遠の大祭司として私たちを導き、また私たちのために祈ってくださっています。かつてシモン・ペテロがイエスの受難の時につまずいたときに、主イエスはこう言われました。「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」イエスを三度も否んだペテロのために、主イエスは祈ってくださったのです。そしてイエスは今も、私たちの信仰が生涯にわたって全うされるように祈ってくださっています。このような素晴らしい方が天におられるのです。そして先に召された兄弟姉妹もそこにいます。ですから、私たちも励ましあって、信仰の旅路を完走しましょう。お祈りします。

天と地のあらゆるものを統べ治められる神よ、その御名を賛美します。今朝は、信仰の生涯を歩み通し、先に天に召された兄弟姉妹のことを覚えて礼拝を献げています。私たちと同じく、天において彼らの礼拝が献げられていることを覚えます。私たちと彼らは死によって分かたれましたが、主イエスが再び来られるとき、私たちは再びからだをもって相まみえるという希望が与えられていることに感謝します。私たちも主イエスを、そして信仰の先輩方を見習って、この信仰の旅路を全うできますようにと願います。我らの救い主、信仰の創始者であり完成者であるイエス・キリストの聖名を通して祈ります。アーメン

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