ネヘミヤ記 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 調布 深大寺のプロテスタント教会 Sun, 25 Jun 2023 05:19:43 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.3.20 https://domei-nakahara.com/wp-content/uploads/2020/03/cropped-favicon-32x32.png ネヘミヤ記 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 32 32 ネヘミヤの改革(2)ネヘミヤ記13章1~31節 https://domei-nakahara.com/2023/06/25/%e3%83%8d%e3%83%98%e3%83%9f%e3%83%a4%e3%81%ae%e6%94%b9%e9%9d%a9%ef%bc%882%ef%bc%89%e3%83%8d%e3%83%98%e3%83%9f%e3%83%a4%e8%a8%9813%e7%ab%a01%ef%bd%9e31%e7%af%80/ Sun, 25 Jun 2023 05:18:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=4655 "ネヘミヤの改革(2)
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1.序論

みなさま、おはようございます。1カ月前の説教では、バビロン捕囚からユダヤの人々が祖国に帰還した後の混乱の時代、富む者がますます富み、貧しい者はますます貧しくなるという格差社会になっていたユダヤ社会を改革するために奮闘したユダヤの総督ネヘミヤについて学びました。ネヘミヤは、聖書が理想として掲げる、神の前にすべての人が平等な社会の実現のために尽力しますが、彼が偉かったのは、自らが身を切る改革を行ったことです。率先垂範という言葉がありますが、まず範を垂れる、つまり模範を示したのです。ネヘミヤは貧しい人たちに貸したお金や穀物について、返済をすべて免除してあげて、さらには総督として自らの報酬を12年間も貧しい人々に寄付したのです。その彼の姿を見て、これまで貧しい人々の困窮を顧みなかったユダヤの大金持ちたちも、ネヘミヤと全く同じようにはできないものの、今までの在り方を改め、具体的には元本返済までは免除しないものの本来取るべきではない利息については返還した、ということを学びました。

これらはネヘミヤの改革の光の部分でした。しかし、ネヘミヤの改革には陰の部分、負の側面と呼ぶべきものがあったことも事実です。しかもこれはネヘミヤだけの問題というより、ユダヤ民族全体が抱え込んでいた負の側面でした。それは、外国人との交際を避けようとする動きです。バビロン捕囚以降のユダヤ社会の特徴は、極端なまでの外国人分離政策、徹底した民族の純化政策でした。ネヘミヤの活躍した時代はイエスの時代からは400年以上も前でしたが、この外国人を排除する政策はイエスの時代に至るまで続けられていました。ユダヤ人は外国人との付き合いを徹底して避けるようになったのです。その問題を打ち破ったのが、ユダヤ人も異邦人もない、あらゆる民族から構成される教会の誕生でした。

なぜユダヤ人が外国人との付き合いを避けるようになったのかと言えば、それは彼らなりに自らの祖先たちの歩みを反省したからでした。ネヘミヤはバビロンによってユダヤ民族の国家、ユダ王国と聖都エルサレムが滅んだ時代から140年ほど経った時代に活躍した人ですが、当時のユダヤ人たちは祖先が亡国の憂き目に遭った原因について考え続けました。そして明確な答えにたどり着きました。その答えとは、彼らの祖先がイスラエルの神だけではなく、外国の神々をも礼拝し、イスラエルの神と外国の神をごちゃまぜにした、八百万の神のような独特の混交宗教を造り上げてしまったからだ、というものでした。こうした混交宗教を始めたのは、なんとイスラエルの歴史の中でもダビデと並んで名君とされるソロモン王でした。ソロモン王は、その富と知恵においてあらゆる王に勝ったと言われるほどの伝説の王様でしたが、彼の外交政策には一つの大きな特徴がありました。彼の父ダビデは、若いころは有名な武人、軍人であり、戦争によって近隣諸国の領土を奪ってイスラエルを大国の地位にまで押し上げました。それに対し、息子のソロモンは戦争による近隣諸国との摩擦を嫌いました。彼は近隣諸国との武力衝突を避け、友好関係を築こうとしました。そのための重要な政策が、近隣諸国の王族の娘たちと婚姻関係を結び、近隣諸国の王様と姻戚関係になろうとしたのです。こうしてソロモンは非常に多くの妃や妾を持ったとされています。父親のダビデ王は美人には目がない、異性関係にだらしないところが最大の弱点でしたが、ソロモンの場合はむしろ国の政策として奥さんをたくさん持つことにしたのです。但し問題は、そうした外国の姫君たちもそれぞれ自分たちの神様をもっていたことです。ソロモンも、奥様方は外国の御姫様のような人たちだったので、彼女たちが熱心に信じる神々のことをむやみに「偶像礼拝だ」と言って否定するわけにもいきません。そんなことをしたら、自国の姫君が大事にされていないとの抗議を受けて、外交問題にまで発展しかねません。ですからソロモンも奥様方の機嫌を損ねないように、自国の神も他国の神も平等に礼拝しようという、混交宗教を始めたのです。

その結果、イスラエルの王室は様々な神々を拝むようになり、民衆も上に倣えということで、異教の神々を拝むようになります。その後のユダ王国の歴史では、ソロモンの偶像礼拝を改めてイスラエルの神への礼拝に戻ろうとする王と、ソロモンのように外国との関係を重視して異教の神々を礼拝するのを容認する王とが代わる代わる立つようになりました。そうするうちに、イスラエル人たちの間にも異教の神々への礼拝がすっかり根付いてしまい、バビロン捕囚の前の時代にはエルサレムの神殿の内部ですら異教の神々が礼拝されるようになったと、預言者エゼキエルは嘆いています。そのようなイスラエルの民の背信行為に神が怒られた結果がバビロン捕囚なのだ、ということが捕囚を経験したユダヤ人たちの間で確固とした確信になっていきました。ですから当時のユダヤ人たちは同じ轍を踏まないために、なんとしてもユダヤ人の間から異教の神々への礼拝、偶像礼拝を根絶しようとしました。そのための具体的な対策として、ユダヤ人たちは純血政策を徹底しようとしました。ソロモン王が偶像礼拝に落ち込んでしまったのは、外国の姫君を妻とし、彼女たちを通じてイスラエルに異教の神々が流れ込んできたのだ、と考えたのです。

ネヘミヤも、そのような確信に基づき、大胆な改革案を提示しました。それは、ユダヤ民族の人々は外国人と決して結婚してはならない、というものでした。しかしそのような改革は、先の格差社会の解消のためとは異なり、ユダヤ社会に大きな禍根や傷跡を残しかねないものでした。これは徹底した純血主義政策であり、ある面ではユダヤ人の結束を強くするものですが、しかし外国人との交流が制限されることで失われるものが非常に大きいのは、江戸時代の鎖国政策のことを思い起こせばすぐに分かることです。今日は、ネヘミヤがなぜここまで大胆な、強引ともいえる政策を行ったのか、その背景を考えて参りましょう。

2.本論

では、1節からお読みします。ネヘミヤの時代の特徴は、ユダヤ人の一般の民衆がモーセの律法について学ぶようになったことでした。それまでは、律法を学んでいたのは祭司や貴族など、上流階級の人たちでしたが、エズラやネヘミヤはイスラエルのすべての人が律法を学ぶべきだという教育改革を推し進めていました。その日も、民衆に聞こえるようにモーセの律法の書が大きな声で朗読されていました。その時に読まれていたのは、旧約聖書の五番目の書である「申命記」で、それは死期が近いことを悟ったモーセが遺言としてイスラエルの人々に与えた教えが書かれている書です。申命記23章3節には、

アモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、主の集会に、入ることはできない。

と書かれています。なぜアモン人とモアブ人がこのように敵視されているのでしょうか?モーセがアモン人をよく思わなかった理由はよく分からないのですが、モアブ人については理由がはっきりしています。それは、モアブ人とイスラエル人との間には深い因縁があったからです。モーセに率いられて荒野を旅するイスラエル人たちは、様々な異民族と出会いましたが、その一つがモアブ人でした。イスラエルの民はモアブ人の女性たちと結婚し、モアブの神々を礼拝するようになってしまいました。それが神の怒りを呼び起こし、イスラエルの民の多くの人々が死にました。こうした苦い経験があったので、モーセはイスラエル人とモアブ人との結婚を禁じました。

ネヘミヤとイスラエルの民たちは、このモーセの教えを聞きました。アモン人かモアブ人の奥さんをもらっていたユダヤ人男性は、「これはまずいことになるぞ」と恐れたかもしれません。自分たちの結婚が、律法に違反していると糾弾される可能性があるからです。この時点での戒めを聞いた人々の反応について、3節には「彼らはこの律法を聞くと、混血の者をみな、イスラエルから取り分けた」と書かれていますが、この言葉の意味ははっきりしません。ネヘミヤの前任者であるエズラが命じたように、アモン人やモアブ人の妻と離縁させた、というような過激な措置ではないと思われます。取り分けられたのは混血の者とありますが、アモン人やモアブ人の奥さんは混血ではないので彼女たちは取り分けられる対象ではないからです。おそらくユダヤ人とモアブ人の間に生まれたハーフの子供たちをイスラエルの聖なる集会、つまり礼拝に参加するのを禁止したということでしょう。ただ、それも絶対的なものではないと思われます。というのは、当時のユダヤ社会も外国人がユダヤの律法を守り、ユダヤ人になりたいと願った場合には彼らがユダヤ教徒に改宗するのを認め、彼らを仲間として受け入れていたからです。一番有名な例は、ルツ記に出て来るルツです。彼女はモアブ人でしたが、イスラエル人の男性と結婚し、夫が死んだ後も姑のナオミに仕え、イスラエル民族の一員になりました。彼女はあのダビデ王の父エッサイの祖母になります。つまりダビデ王家はイスラエル人とモアブ人の混血の家系なのです。

ネヘミヤも、ユダヤ人がすでにアモン人もしくはモアブ人の女性と結婚していた場合にはそれを容認し、彼らの間に生まれた子供については成長するまでユダヤ教の礼拝に参加するのは控えさせて、彼らが自分で判断する年齢になってユダヤ教徒として生きる決意を表明した時には、彼らをユダヤ民族の一員として正式に迎え入れた、ということであると思われます。

このように、この時点ではネヘミヤのこの件についての対応は、常識的なものであったと言えるでしょう。しかし、ネヘミヤの態度を硬化させる事件が次々に起こりました。最初は、アモン人であるトビヤという人物が、エルサレムの神殿に部屋をあてがわれていたという事件でした。エルサレムの神殿には、異邦人が立ち入ることは厳禁でした。イエスの時代には、エルサレム神殿には「聖域に入った異邦人は、死をもって罰せられる」という警告文が掲示されていました。しかもトビヤは神の集会に参加することが禁じられているアモン人です。エルサレム神殿の中に部屋を持つなどということは、とても許されないことでした。しかし、祭司エルヤシブは有力者であるトビヤのために便宜を図って、彼に部屋をあてがってあげました。このトビヤはネヘミヤとは犬猿の仲でした。それは、ネヘミヤがエルサレムの城壁を再建しようと奮闘している際に、トビヤは常にそれを妨害していたからです。ですからネヘミヤの目が光っているうちはトビヤがエルサレム神殿に部屋を持つなどあり得ないことでしたが、祭司エルヤシブはネヘミヤがペルシアの王のところに出かけている留守を狙って、トビヤに部屋を与えていたのです。トビヤはアモン人でしたが、彼の息子たちがユダヤ人女性と結婚したので彼自身はユダヤ社会に深く食い込んでいました。こうしてユダヤ社会の中で着々と地歩を固めていたアモン人トビヤは、神殿というエルサレムの心臓部に部屋を持つことで、まさにユダヤ社会の中枢に食い込んだのです。しかし、ペリシア王のもとから戻ったネヘミヤはこの事態に仰天しました。それで大慌てでその部屋からトビヤ家の私物をすべて外に投げ出して、その部屋を清めさせました。異邦人は汚れているという意識がユダヤ人にはあったので、異邦人の中でもとりわけ嫌われているアモン人が神殿を汚すなど許されない、という思いがネヘミヤにはあったのでしょう。この事件が起こったことで、ネヘミヤは改めて外国人と姻戚関係に入ることの危険を感じ取ったことでしょう。彼が国際結婚に対して強硬政策を採るようになる上で、このトビヤ事件は重要な伏線になりました。

さて、トビヤがしばらく占拠していた部屋は、もともとは穀物のささげ物が収められるはずの場所でした。人々は収穫の十分の一を神殿に奉納するはずだったからです。そこがトビヤに使われていたということは、その部屋には穀物がなかった、つまり人々は収穫物を神殿にささげていなかったということです。神殿には献金が集まらず、その経営は火の車でした。そのために、神殿で働く祭司たちには手当てが支払われず、食うに困った祭司たちは神殿でのお勤めを辞めて、おのおのの農地に帰ってそこで農業をしているという始末でした。ネヘミヤはこの神殿の惨状に憤り、代表者たちを呼び集めて、「どうして神の宮が見捨てられているのか」と詰問しました。それからユダヤの人たちに呼びかけて、穀物やぶどう酒の収穫の十分の一を神殿に奉納するように呼びかけました。こうして神殿の財政を安定させ、祭司たちを呼び戻して神殿での活動を通常のものに戻させました。

さて、ネヘミヤがユダヤ人と外国人との交際についてより厳しい措置を取る決断をさせる、もう一つの事件が起きました。それが安息日事件でした。エルサレムに住むユダヤ人たちは、安息日である土曜日に労働を休むことなく、働いたり外国人の業者たちと商売をしていました。外国人には土曜に休む安息日の制度などありませんので、彼らは土曜でもいろんな産物をエルサレムに持ち込んでいました。ユダヤ人たちも彼らに付き合って、普通に安息日にも商売を行っていたのです。この事態にネヘミヤは再び驚愕しました。彼は直ちに行動を開始し、ユダのおもだった人たちを厳しく叱責しました。それだけでなく、さらに強硬な手段に出ました。それは、ユダヤの一日は夕方から始まるのですが、安息日が始まる夕暮れ時にエルサレムの城門のとびらを閉めてしまい、外国人の商人たちが商売のためにエルサレムに入れないようにしました。こうして、エルサレムでは安息日に働く人はいなくなりました。しかし、この事件はネヘミヤに外国人との交際の危険性を改めて思い起こさせたでしょう。安息日の習慣を持たない異邦人と付き合うと、ユダヤ人も彼らに影響されて安息日に働き出してしまうからです。

こうしたことが重なり、ネヘミヤはユダヤ人と外国人との結婚により厳しい視線を向けるようになりました。そして、ネヘミヤの決意を決定的なものにする事態が生じていました。それは、アシュドデ人、アモン人、モアブ人の妻と、ユダヤ人男性との間に生まれた子どもが、ユダヤ人のことばが分からなくなっているという事態でした。これは、日本人とカナダ人との間に生まれた子どもが、日本語が分からずに英語しか話せなくなってしまった、そんな状態です。ユダヤ人のことばが分からない子どもが成人しても、当然ユダヤ人として生きていくことはできません。彼にはモーセの律法を理解することができずに、ユダヤ人として当然守るべきことが分からないからです。安息日規定も、食事規定も理解できないでしょう。アモン人やモアブ人のことばしか分からない人は、いくら彼の父親がユダヤ人だからと言って、ユダヤ人としては認められないのです。彼らはイスラエルの聖なる集会、礼拝に加わることは許されませんし、参加したとしても人々が何を話しているか分からないのです。

ネヘミヤはこの由々しき事態を発見した時、我を忘れてひどく暴力的な行為に訴えてしまいました。数人を打ち叩き、髪の毛を引っ張って、のろいのことばを浴びせました。あの献身的な総督であるネヘミヤがこんなことをするのか、と驚かされてしまいますが、激高のあまり自分が抑えられなくなってしまったのでしょう。こうした行動は決して許されるものではありませんが、ネヘミヤのユダヤ民族の行く末を思う気持ちが強すぎたためとも言えます。こうした一時の激高から覚めた後のネヘミヤの決断は、大変重いものでした。それは、今後ユダヤ人は自分もその子どもたちも異邦人と結婚してはならない、というものでした。この決断は、ネヘミヤの先駆者である律法学者エズラが下した指示よりは、いくらか軽いものでした。というのは、エズラの場合は既に結婚しているユダヤ人と異邦人の夫婦を離婚させるという、非常に厳しい措置を取ったからです。こうした夫婦には子どもがいるケースまでありましたが、それでも夫婦を離婚させたのです。ここまでいくとやりすぎというか、非人間的な気すらしますが、ネヘミヤはさすがにすでに結婚している夫婦に離婚を命じるということまではしませんでした。それでも、今後ユダヤ人はユダヤ人以外とは結婚してはならないというルールを作ったというのは大変重いことです。しかも彼はペルシア帝国から派遣されたユダヤ総督という非常に高い身分にある人物です。一介の律法学者であるエズラとはその言葉の重みが違ったことも忘れてはならないでしょう。

ネヘミヤは改革の総仕上げとして、ユダヤの宗教界のトップである大祭司エルヤシブの孫をエルサレムから追放するという重い決断をします。それは、その孫がホロン人サヌバラテの婿になっていたからです。この「ホロン人」というのはどういう民族なのか、いくつかの説がありますが、彼はアモン人トビヤたちと共に、ネヘミヤの城壁再建計画を妨害してきた人物なので、異邦人であるのは間違いないでしょう。大祭司の家系はレビ族ですから、とりわけ血統を重んじる家系です。そんな一門の者が、異邦人の、それもネヘミヤに反対する一族から嫁をもらうということはネヘミヤには許しがたいことでした。しかし、そうは言っても相手は名門の大祭司一族です。その一門の者を追放すると言うのは政治的には重い決断でした。しかしネヘミヤはそれを断行しました。異教徒との結婚を禁止するルールに例外はなく、大祭司一門といえどもその責を免れないということを鮮明にしたのです。

3.結論

まとめになります。今日はバビロン捕囚後のユダヤ社会の改革者、ネヘミヤの働きについて学びました。前回は格差社会是正のための改革でしたが、今回はユダヤ民族が他の民族と交わることで、ユダヤ人たちが律法に違反することがないようにという思いから採用した政策について学びました。一つはユダヤ人が外国人と結婚することを禁止するというもので、もう一つは安息日規定の順守のために、土曜には城門を閉ざすという政策でした。こうした安息日規定はその後もずっと続けられ、イエスの時代にはユダヤ人のトレードマークのような慣習になっていました。主イエスが安息日についてしばしば他のユダヤ人たちと論争したのも、この安息日規定の順守があまりにも厳しくなりすぎて、人を休ませるよりもむしろ縛るものとなっていたからでした。しかし、そもそも安息日規定が厳格化したのは、安息日に外国と商売をするのを禁止するためだったのです。

さて、外国人との結婚を禁止するというルールもその後ユダヤ社会では厳格に守られていきました。しかしこれはユダヤ人にとって本当に良いことだったのかどうかは難しい問題です。確かにユダヤ人たちに律法を守らせるという目的のためにはよかったでしょうが、同時にこれはユダヤ人を周辺の諸外国から孤立させる原因ともなりました。ユダヤ人の使命の一つは、異邦人たちに真の神を告げ知らせ、彼らに祝福を及ぼすことにあったので、このように外国人との距離が大きくなりすぎることは、その使命の達成を困難にしました。 いずれにせよ、神に選ばれた民族であるユダヤ人は、他の諸民族とどのように付き合っていくのかという問題で、ずっと苦労してきたのです。

今日お話ししたテーマは、宗教の本質にかかわる大事なテーマを含んでいます。ある宗教グループには、外部の人との付き合いを極端に嫌う傾向があります。それは、外部の人たちに影響されて信仰から離れていく、あるいは信仰心が薄れていくことへの警戒感があるからでしょう。今問題となっている「宗教二世」と呼ばれる方々は、子どもの頃から外部との付き合いを厳しく制限されてきた人たちです。外の人たちは「サタン」のしもべだから付き合ってはいけない、というようなことを言われてきたのです。これはいわゆるカルト宗教だけの問題ではなく、キリスト教や仏教などの主流な宗教においても、熱心だと言われる教派ほどそのようになる傾向がある気がします。また、「信仰を守る」という名目で、自らの宗教グループに不利になる情報や批判等は一切信者の耳に入れないようにして囲い込むというような傾向もあります。たとえば、「聖書学を学ぶと信仰を失うから学ぶな」というようなことがしばしば言われることがあると聞きます。学問が身について聖書の知識が増すと、聖書の記述にも間違いが含まれているのでは疑いを抱くようになり、やがて信仰がぐらつく、そんなことになるくらいなら学問などしなくてもよい、というのです。しかし、自分の信じている内容が客観的な検証にも耐えられないのなら、そんなものは信じるに値するのだろうか、という反論も当然あるでしょう。聖書学を教えている私が言うと我田引水に聞こえるかもしれませんが、むしろ学問的な検証がない信仰は独りよがりになりがちで、危険の方が大きいと思います。

ともかくも、子どものころからある種の価値観を叩きこまれ、それ以外のものは悪だと教えられてきてしまった場合、素直な子どもほど「疑問を持ってはいけない」と考えて、そうした教えに順応していきます。そうして異論・反論を許さない小さなグループが出来上がっていき、そこから抜け出そうとすると「サタンの手に落ちる」などと脅されるのです。確かに、新約聖書にも「世全体は悪い者の支配下にある」(第一ヨハネ5:19)など、二元論的にこの世界を理解させるような記述があります。しかし、より開かれた見方もあります。主イエスは、信者でもないのにイエスの名によって悪霊を追い出す人たちについて、「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です」(マルコ9:40)と言われました。こう考えると、味方の定義がものすごく広がりますよね。別にクリスチャンでなくても、キリスト教に反対しない人ならみんな味方だ、仲間だ、ということです。こう考えると、外部の人たちとも、とても付き合いやすくなると思います。主イエスは、この世を善人と悪人、あるいは救われた人と滅びる人、のように分けることはされませんでした。むしろ、悪人と言われる人こそ神の恵みを受けるにふさわしい人だと、彼らにご自身の方から近づいていかれました。私たちもそのようにしたいと願うものです。ただ気を付けたいのは、「自分たちは救われた人だ」という上から目線でそうした人たちに近づいてしまうことです。自分が本当に救われているかどうかをご存じなのは神様だけです。この当たり前のことを常に思い返せば、私も謙虚になれるのではないでしょうか。そのうえで、主イエスを宣べ伝えて参りましょう。お祈りします。

それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。あらゆる民族の民の父にして神である主よ、そのお名前を讃美します。今日は、ネヘミヤがユダヤ社会が律法を遵守するために、外国人との結婚を禁じる政策を打ち出したことを学びました。しかしその政策は、イエス・キリストの教会によって打ち破られるものとなりました。私たちも、開かれた教会、開かれた日本とするために働いていくことができますように。われらの救い主、主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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ネヘミヤの改革(1)ネヘミヤ記5章1~19節 https://domei-nakahara.com/2023/05/21/%e3%83%8d%e3%83%98%e3%83%9f%e3%83%a4%e3%81%ae%e6%94%b9%e9%9d%a9%ef%bc%88%ef%bc%91%ef%bc%89%e3%83%8d%e3%83%98%e3%83%9f%e3%83%a4%e8%a8%985%e7%ab%a01%ef%bd%9e19%e7%af%80/ Sun, 21 May 2023 05:33:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=4555 "ネヘミヤの改革(1)
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1.序論

みなさま、おはようございます。今年から、毎月月末は旧約聖書からメッセージをさせていただいておりますが、今月は翌週がペンテコステ礼拝なので、第三週に旧約聖書からのメッセージをさせていただきます。本日取り上げるのはネヘミヤ記ですが、ネヘミヤはよくエズラとセットで、エズラ・ネヘミヤ記と呼ばれることがあります。この二人の人物の共通点は、いずれもペルシア帝国の統治下で活躍をしたユダヤ人だということです。このペルシア時代の状況を知ることがネヘミヤの働きを知る上で重要なので、まずはその話をさせて頂きたいと思います。

これまで何度もお話ししているように、イスラエルの歴史においては「バビロン捕囚」がとても大きな意味を持っています。主イエスが活躍された時代から約600年前、当時のダビデ王朝である南ユダ王国はバビロンによって滅ぼされ、エルサレムの主だった人々、王や貴族や祭司たちはバビロンに捕虜として連行されました。しかし、そのバビロンも次なる超大国であるアケメネス朝ペルシア、現在のイランに相当する国ですが、そのペルシアによって紀元前539年に滅ぼされました。ペルシアの王キュロスは、バビロンによって捕虜となっていた各国の人々を祖国に帰してあげました。その中にはユダヤ民族も含まれていました。キュロス王は各民族が祖国に帰って、先祖伝来の宗教に基づく国づくりをするのを支援しました。ユダヤ人にとっては大変ありがたい政策を行ったわけです。ですからイザヤ書ではペルシアの王であるキュロスは油注がれた者、つまりキリストとまで呼ばれています。外国人の王をメシアまたはキリストと呼ぶのは極めて異例なことです。それほどユダヤ人にとってペルシアの王はありがたい存在だったのです。

しかし、祖国に帰ってきたユダヤ人の生活は順風満帆(まんぱん)というにはほど遠いものでした。かつてのイスラエルは北イスラエル王国と南ユダ王国の南北に分裂していたものの、広大な領域を支配する大きな王国でした。しかし、帰還したユダヤ人に割り当てられたのはエルサレムの回りの非常に狭いエリアであり、かつての広大な領土と比べればすずめの涙でした。しかも国土のまわりはユダヤ人とはあまり良い関係ではないサマリア人、エドム人、モアブ人、アンモン人などにぐるりと取り囲まれていました。つまり国土は貧しく、近隣諸国は敵対的だったのです。日本の歴史でいえば、大日本帝国の時代は日本は朝鮮、台湾、満州などを植民地にしていたのに、戦争で負けた後は東京を中心とする関東地方だけの小国になってしまった、そんな感じでしょうか。かつての大国だった時代を知っている人々からすれば、自分たちはなんと落ちぶれてしまったものかと、そういう屈辱を感じないではおられない状況でした。

また、バビロン捕囚が終わってユダヤ人が帰って来るまでの間、ユダの地を実質的に支配していたのはサマリア人でした。サマリアはかつての北イスラエル王国の首都でしたので、ユダヤ人とはまさに血を分けた兄弟のはずでしたが、しかしサマリア人は実際は混血の人々でした。というのも、北イスラエル王国を滅ぼしたアッシリア帝国は、サマリア地方に多くの外国人を入植させてイスラエル人と混血にしたのです。つまりハーフが中心になってできていた国がサマリアだったのです。バビロン捕囚から戻ってきたユダヤ人たちは極端ともいえるほどの純血主義を取り、ハーフを自分たちの仲間とは決して認めませんでした。それで、エルサレムに戻ってきたユダヤ人たちがペルシア帝国の支援で神殿を再建しようとしたときに、サマリアの人たちが「我々も同じ神さまを礼拝するイスラエル人だから、神殿の建築を手伝わせてください」と申し出たのに対し、「いや、私たちは混血の君たちを同じイスラエル人とは認めない。手伝わせるわけにはいかない、お引き取り願おう」と拒絶しました。それでユダヤ人とサマリア人とは犬猿の仲になってしまい、サマリア人はエルサレムの神殿建築をことあるごとに妨害するようになってしまいました。それでもなんとか神殿建築が完成したのが紀元前516年のことでした。

エルサレム神殿の再建から約70年後、紀元前445年に、今回の主人公であるネヘミヤがエルサレムにやってきました。ネヘミヤは、ユダヤを支配するペルシア帝国から派遣された「総督」という立場でエルサレムにやってきました。主イエスの時代にユダヤを治めていたのはローマの総督であるポンテオ・ピラトでしたが、それと同じような立場です。もっとも外国人のローマ人であるピラトと、同じユダヤ人であるネヘミヤとが総督であるのとは、統治される側のユダヤ人からすれば全然違うわけです。ユダヤとは縁もゆかりもないのに総督としてやってきたピラトとは違い、ネヘミヤは本国ペルシアで高い地位に就いていたのに、その地位を捨てて同胞であるユダヤ人を助けるために自ら総督に志願してエルサレムにやって来たのです。ユダヤ人からすれば、願ってもない人が総督として来てくれたと、大歓迎だったことでしょう。そのように高い志を持ってやってきた政治家でありペルシアの官僚でもあるネヘミヤがユダヤの地で行った改革、そのことをこれから2回に分けて学んで参りたいと思います。

2.本論

さて、今日のテーマは「改革」です。日本も、かつて小泉元首相が「改革なくして成長なし」というスローガンを掲げて旋風を巻き起こしたことを覚えておられる方も多いと思います。ネヘミヤも、ユダヤ人の間に改革をもたらそうとしたわけですが、その方向性は小泉改革とは真逆のものでした。小泉改革の目玉はなんといっても郵政民政化でしたが、それ以上に日本社会に大きな影響を及ぼしたのが非正規雇用の拡大でした。正規雇用よりも様々な面で待遇の劣る非正規雇用が増えると、生活が苦しい、安定しないという人が増えます。小泉改革以降、非正規雇用者は右肩上がりで増加して、その結果、日本では格差社会が深刻化しています。しかし、ネヘミヤが目指したのはその反対の、格差社会の解消でした。むろん、格差を完全になくそうというのは現実的ではありませんが、それがあまりにも大きくなってしまわないように改革を実施したのです。

バビロン捕囚から帰還した人々が移り住んだユダヤの地は、敗戦後の日本のように混乱した状態にありました。その混乱の中でユダヤ社会の中では格差がどんどん拡大していきました。しかし終戦後の日本は、格差という意味ではバビロン捕囚後のユダヤとは異なるところがありました。日本でも戦後の混乱の中でかなり強引な手段で金持ちになり上がっていく人々もいましたが、同時に戦後の日本では戦前の反省から格差を解消しようという動きがあったからです。それは残念ながら日本人自身の手で成し遂げられたものではありませんでしたが、占領軍司令部による農地改革が行われたのです。農地問題は、戦前の日本では大地主の反対で手が付けられなかった問題でしたが、アメリカの占領軍の圧倒的な権限の下で実現した改革でした。戦前は、貧しい農民は税金を払うことができないときにはお金を借りて税を払っていましたが、お金が返せないと農地を取り上げられて小作人に転落しました。そして農家に占める小作農の割合は大変大きくなりました。小作人は奴隷とは違いますが、実際にはそれに近いものがありました。貧しい小作農の家では女子が売られていくということが当たり前のように行われていました。日本が軍国主義に向かってしまったのも、貧しい農家出身の兵士たちが実家の貧困に憤り、格差社会を助長する腐敗した支配者層を排除しようとして2.26事件などのクーデターを繰り返したためにエリート層が軍部の暗殺を恐れて軍部をコントロールできなくなってしまったからだと言われます。つまり超格差社会が軍国主義を招いたということです。GHPはその反省から、戦前では不可能と思われていた小作制度の改革に乗り出したのです。土地を失った小作人に土地を返してあげたのです。これは占領軍の政策の中で最も成功したものの一つで、後の「1億総中流時代」と呼ばれる平等な社会の基礎を作った改革でした。このように、戦後の日本は極端な格差社会にならないように運営されていましたが、それに対してバビロン捕囚が終わったユダヤ社会はどんどん格差が広がる、そういう社会になっていきました。貧しい農民は借金し、それが返せないので土地を失って小作人になるという、まさに戦前の日本のような状況になっていったのです。そんな状況に危機感を感じていたのがネヘミヤでした。なぜなら、かつてユダヤ人が国を失いバビロン捕囚の憂き目に遭ったのは、その格差拡大が原因だったからです。

かつての南北のイスラエル王国は、アッシリアやバビロンという超大国によって滅ぼされたのですが、その主な原因の一つはイスラエルが超格差社会になってしまったことだったのです。格差が拡大すると国の中に分断が進み、「自分たちは同じ民族の一員なのだ」という意識が薄れていきます。分裂した国は脆くなります。人々が足の引っ張り合いをしだすからです。預言者たちも、そのような格差社会を批判し、悔い改めて改革をするように促しますが、エリートたちはそういう声を無視してきました。北イスラエルが崩壊することを警告した預言者アモスはこう言っています。

主はこう仰せられる。「イスラエルの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼らが金と引き換えに正しい者を売り、一足のくつのために貧しい者を売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げ、父と子が同じ女のところに通って、わたしの聖なる名を汚している。」(アモス2:6-7)

アモスの時代、北イスラエル王国は空前の好景気、バブル経済のような状態にありました。しかし、それから数十年も経たないうちに北イスラエル王国は滅亡してしまいます。空前の好景気といっても、それで潤っていたのは一部の貴族や金持ちだけで、民衆は疲弊し、国力は落ちていったのでした。その背後には極端な格差という現実がありました。

北イスラエルが滅んで一人残された南ユダ王国も、国家滅亡の危機に瀕して格差の解消を行おうとしたことがありました。それはバビロニア帝国の大軍にエルサレムを包囲されていた時のことでした。ユダ王国の貴族たちは、その時同胞のユダヤ人で借金のために奴隷になっていた人々の解放を宣言したのです。それは、ユダヤ人奴隷を解放せよという聖書の教えを無視してきた国の在り方を改め、神の憐みを乞うためでもあり、同時に奴隷のユダヤ人たちを解放して彼らの愛国心を高め、イスラエル防衛のために働いてもらおうという狙いもあったと思われます。しかし、バビロニア軍は内政の問題もあり、一時的にエルサレム包囲を解き、自国に引き返していったことがありました。それを見たユダの王たちは奴隷解放宣言を撤回してしまったのです。エレミヤ書34章7節以降をお読みします。

そのとき、バビロンの王の軍勢は、エルサレムとユダの残されたすべての町、ラキシュとアゼカを攻めていた。これらがユダの町々で城壁のある町として残っていたからである。ゼデキヤ王がエルサレムにいるすべての民と契約を結んで、彼らに奴隷の解放を宣言して後、主からエレミヤにあったみことば。―それは各自が、ヘブル人である自分の奴隷や女奴隷を自由にし、同胞のユダヤ人を奴隷にしないという契約であった。契約に加入したすべての首長、すべての民は、それぞれ、自分の奴隷や女奴隷を自由の身にして、二度と彼らを奴隷にしないことに同意し、同意してから彼らを去らせた。しかし、そのあとで心を翻した。そして、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻して、彼らを奴隷や女奴隷として使役した。―

かつて南ユダ王国は、バビロンの前の超大国であるアッシリアにエルサレムを包囲されたことがありましたが、神の奇跡によって間一髪で救われたことがありました。その後アッシリアは二度とエルサレムを攻めることがなく、かえってバビロンによって滅ぼされました。今回も同じことが起きたのだ、とエルサレムの人たちはぬか喜びをしたのです。喜んだだけでなく、急に解放した奴隷のことが惜しくなって契約を破って彼らを再び奴隷にすることにしたのです。そのことをご覧になった神は怒られ、エレミヤを通じて次の裁きの言葉を伝えました。

わたしはまた、ユダの王ゼデキヤとそのつかさたちを敵の手、いのちをねらう者たちの手、あなたがたのところから退却したバビロンの王の軍勢の手に渡す。見よ。わたしは命じ、―主の御告げ―彼らをこの町に引き返させる。彼らはこの町を攻め、これを取り、火で焼く。わたしはユダの町を、住む者もいない荒れ果てた地とする。(エレミヤ34:21-22)

こうして南ユダ王国とダビデの王朝は、奴隷解放を撤回した罪によって滅んだのでした。

バビロン捕囚を経験したユダヤの人たちは、先祖たちが犯した過ちから学ぶべきでした。ユダヤ人とは、そもそも奴隷から解放された民です。彼らはエジプトで奴隷として苦しめられていたところを、神によって救われて自由の身となったのです。その神の救いの業に感謝するのならば、あなたもまた奴隷を解放しなければならない、同胞を奴隷にしてはならない、ということを神は教えられました。ですから神はモーセの律法を通じてそのことを教えられました。ただ、ここでは奴隷制度そのものは否定していないことに注意が必要です。古代世界の奴隷制度は、近現代の奴隷制度、アメリカの黒人奴隷とは全く別物です。アメリカの奴隷制度は、黒人への人種差別に基づくものであり、また奴隷の子は奴隷となるように定められた固定的・因習的なものでした。つまり奴隷として生まれてしまうと、自由になるチャンスはなかったのです。それに対してイスラエルの奴隷制度は、借金をして返せなくなった場合に、しばらくの期間労働奉仕をすることでその借金に相当する労働を提供しようというものでした。神もこの制度自体を認めましたが、奴隷という身分が固定化しないように制限を設けられたのです。それがモーセの律法の趣旨でした。出エジプト記21章2節にはこうあります。

あなたがヘブル人の奴隷を買う場合、彼は六年間、仕え、七年目には自由の身として無償で去ることができる。

ここには絶妙のバランスがあります。借金をして、返せない場合はもう返さなくてもよい、ということではありません。もしそこまでやってしまうと、借りたことの責任というものがなくなり、モラルが失われていきます。しかし、だからといって、その人をいつまでも奴隷として使ってもよいということにはなりません。返せないようなお金を貸した方にも責任があるわけで、ですから奴隷として働かせることができるのは6年までと制約を設けるのです。イスラエル人の主人は神だけであり、人の奴隷になってはならないのです。しかし、この奴隷解放についての神の戒めはイスラエルの中では実践されることがなく、空文化していきました。奴隷主人の方は、ただで仕える労働力を手放したくなかったので、いろいろと理屈をつけて奴隷を解放しようとしなかったのです。しかし、この彼らの自分勝手な行動は神の怒りを招き、ユダ王国は亡国の憂き目に遭ったのです。

そして、捕囚後のユダヤ人社会において、再びこの問題が浮かび上がってきました。それが今日のネヘミヤ記のテーマです。捕囚後にエルサレムの地に戻ってきた人々、特に農夫たちは様々な理由で借金をしなければなりませんでした。不作、凶作になると食べるものがなく、外国から買い求める必要がありますが、そのためにはお金が必要です。しかし、お金を持たない貧しいユダヤ人の農民は豊かなユダヤ人からお金を借りなければなりませんでした。また、当時のユダヤはペルシア帝国の植民地でしたから、ユダヤの農夫たちは毎年ペルシアに税を納めなければなりませんでした。しかし、十分な収穫がなかったり、あるいは収穫物を売ってお金を作ることができないと、税金を納めることができません。とはいえ、不作だから納税できないなどという言い訳はペルシアには通用しません。借金してでも税金を納めろ、さもなければ逮捕する、という話になってしまいます。そこでこの場合も貧しいユダヤ人は、裕福なユダヤ人からお金を借りなければならなくなったのです。そしてお金を貸す方も、返済を確実にするために担保を取ります。お金が返せない場合は農地を取り上げられ、それでも足りない場合は息子や娘を奴隷として差し出すということになります。こうしてユダヤ社会は一部の大地主と、多くの貧しい小作人というひどく歪んだ状態、格差社会となっていきました。しかし、モーセの律法は担保を取ることには非常に慎重でなければならないと教えています。申命記24章10節以降をお読みします。

隣人に何か貸すときに、担保を取るため、その人の家に入ってはならない。あなたは外に立っていなければならない。あなたが貸そうとするその人が、外にいるあなたのところに、担保を持って出て来なければならない。もしその人が貧しい人である場合は、その担保を取ったままで寝てはならない。日没のころには、その担保を必ず返さなければならない。彼は、自分の着物を着て寝るなら、あなたを祝福するであろう。また、それはあなたの神、主の前に、あなたの義となる。

このように、貧しい人は上着を担保に取られると、夜布団もなくて凍えることになるので上着を返してあげなさい、と教えています。このような貧しい人に配慮する律法の精神を重んじるならば、貧しい農民にお金を貸す時に彼の唯一の生計の手段である土地を担保に取ることは控えるべきだと考えられますが、捕囚前のユダヤ人社会でも、捕囚後のユダヤ人社会でも土地を担保に取り、お金が返せない場合は土地を取り上げたり、あるいはその農夫を小作人として使うということが行われていました。その結果、多くの自作農が小作人の地位に転落してしまいました。

また、さらに大きな問題は、ユダヤ人たちが同胞のユダヤ人たちから利子を取っていたことです。私たち日本人は超低金利時代が長く続いたので、金利と聞いてもそれほど大きな負担とは感じないかもしれません。しかし、当時のペルシア統治下では金利は低くても20%ほどあったと言われています。いわゆるサラ金並みの金利です。ユダヤ人同士の貸し出しの場合はこれよりはいくらか金利が安かったようですが、それでも年利10%は優に超える金利だったようです。これでは利子を返すだけで精いっぱいだという人が多かったことでしょう。そしてこの金利を払えなければ、担保の土地を召し上げられたり、あるいは娘や息子を奴隷として差し出さなければならなかったのです。このような状況が、ユダヤ人社会の連帯意識や仲間意識を大いに損なったことは想像に難くありません。しかも、ユダヤ人同士の貸し借りでは決して利子を取ってはいけないという教えはモーセの律法の中に何度も出て来ます。一つだけお読みしますと、レビ記25章35節以下には次のように書かれています。

もし、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、あなたは彼を在留異国人として扶養し、あなたのもとで彼が生活できるようにしなさい。彼から利息も利得も取らないようにしなさい。そうすればあなたの兄弟があなたのもとで生活できるようになる。あなたは彼に金を貸して利息を取ってはならない。また食物を与えて利得を得てはならない。

このように、モーセの律法では外国人にお金を貸して利息を取ることは容認しますが、同じユダヤ人にお金を貸して利息を取ることは禁止していたのです。それなのに、ネヘミヤがユダヤの総督だった頃は、ユダヤ人はユダヤ人から利子を取っていました。その結果、多くの人が貧しくなり、自分の息子や娘を同じユダヤ人仲間に奴隷として差し出すということが行われていたのです。

ネヘミヤはこの事態を重く見て、なんとかしようとしました。そしてネヘミヤの偉かったところは自ら率先して身を切って改革を行ったことです。日本の政治家は、身を切る改革をしようとしません。前から言われている議員数削減の約束も反故になりましたし、領収書なしの毎月100万円の経費の問題も、うやむやにされてしまいました。私たち国民もそういう状況に慣れてきてしまいましたが、政治家への不信感は消えません。それに対してネヘミヤは違いました。彼は、自分が貧しい人にお金や穀物を貸してあげていたのをすべて帳消しにしました。猶予ではなく、帳消しにしたのです。それから彼の統治するユダヤの富裕層に対し、自分のように貧しい人への借金を帳消しにしろとまでは言わないから、せめて利子を返してあげて欲しい、せめてモーセの律法に従って利子を取るのは止めてほしいと訴えました。中国のことわざで『先ず隗(かい)より始めよ』とありますが、それを実践したのです。このように言われては、ユダヤの有力者たちも恥じ入るほかありません。彼の言うことに従い、いままで取ってきた利息を返しました。また、ネヘミヤのさらにすごいところは彼がペルシアの総督として働いていた12年間、その総督の仕事への手当てを、自分の分も自分の親類の分も受け取らなかったのです。手当自体は本国のペルシアの王から送られてくるので、さすがに受け取りを拒むことはしなかったでしょうから、おそらくその全額をユダヤの貧しい人たちのために寄付したものと思われます。それが出来たのも、ネヘミヤが相当な資産家だったからでしょうが、それにしても10年以上もそれを続けるというのは見上げたものです。このような総督だからこそ、ユダヤの人たちも彼に従って、エルサレムの城壁の再建など、インフラ整備のための重い労働も文句を言わずに協力したのでしょう。彼なくしては、エルサレムの再建はありませんでした。指導者の姿勢がいかに重要かということを思わされます。

3.結論

まとめになります。今日は、ペルシア帝国の統治下で混迷を深めていたユダヤ社会に安定を取り戻すために粉骨砕身した総督ネヘミヤの改革を学びました。彼の行った改革は、ここ数十年日本で言われてきた改革、成長のためには格差が拡大してもやむを得ないというような改革ではなく、むしろ戦後のGHPが行った改革、格差を解消しようという改革でした。しかもその改革は、モーセの律法の精神に則った改革、神の御心に沿う改革でした。しかし、こういう改革は既得権を持っているお金持ちの強い反対に遭います。GHPの場合は占領軍という強い立場を使って改革を断行したのですが、ネヘミヤは自らが率先垂範することで改革を成功させました。つまり彼自らが貧しい人たちに貸したお金や穀物をすべて免除してあげて、さらには自分の手当ても全額貧しい人たちのために与えたのです。この清廉潔白な態度がユダヤの人たちに強い印象を与え、ユダヤの人たちは富んだ者も貧しい者も彼に従うようになりました。富んだ人たちは貧しい人たちを助けようとするようになり、貧しい人たちもエルサレムのインフラ工事のために労働を買って出たのです。こうしてユダヤ社会には、段々と一致と団結が生まれてきました。

振り返って今の日本はどうでしょうか?アメリカほどではありませんが、段々と格差と分断が大きくなり、かつての安全神話も失われようとしています。私たちにも、本当にネヘミヤのような指導者がいてくれたら、と願わずにはおられません。私たちは普段あまり政治に関心を持つことがないかもしれませんが、このネヘミヤのような人物がいたら、応援したいものです。そして、ネヘミヤ以上に自らを犠牲にしてまで民を救おうとした主イエスのことを人々に宣べ伝えたいと願うものです。お祈りします。

ネヘミヤの神であるわれらの主よ、そのお名前を讃美します。今日は混迷のただ中にあるユダヤ社会の中で、聖書の掲げる平等な社会建設を目指して働いたネヘミヤのことを学びました。私たちも彼のような指導者・政治家を必要としています。どうかそのようなリーダーをお与えください。また、聖書の示す平等な社会建設のために教会が働けるように、私たちを強めてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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エズラ・ネヘミヤによるユダヤ教ネヘミヤ記13:1-9森田俊隆 https://domei-nakahara.com/2021/12/12/%e3%82%a8%e3%82%ba%e3%83%a9%e3%83%bb%e3%83%8d%e3%83%98%e3%83%9f%e3%83%a4%e3%81%ab%e3%82%88%e3%82%8b%e3%83%a6%e3%83%80%e3%83%a4%e6%95%99%e3%83%8d%e3%83%98%e3%83%9f%e3%83%a4%e8%a8%98131-9%e6%a3%ae/ Sun, 12 Dec 2021 05:52:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=2326 "エズラ・ネヘミヤによるユダヤ教
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森田俊隆
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今日はネヘミヤ記です。先月はエズラ記でしたが、今日のネヘミヤ記はエズラ記と一体のものであり、エズラはユダヤ教の骨格を打ち立てた学者であり、ネヘミヤは政治指導者として、そのユダヤ教を民族の宗教としてユダヤ人に実行せしめた、と言う関係にあります。このエズラ、ネヘミヤが確立した宗教が本来の意味でのユダヤ教と言ってよいでしょう。後期ユダヤ教と言います。これ以前は、ユダ王国の宗教が存在しましたが、国家祭儀としてのユダヤ教です。後期ユダヤ教は国家なき宗教であり、ユダヤ教の信仰者共同体がユダヤ民族である、という世界でも稀に見る民族を誕生させたのです。通常、民族と言うのは基本的には人種から形成されるものです。その民族が共通の言語を持ち、共通の宗教を持つようになって、民族が形成されていくのです。ユダヤ人は人種的な出発点こそ、セミ族の一つと見られますが、雑多な部族の混血によりなっており、人種的に共通性がある訳ではありません。ユダヤ人とはユダヤ教を信ずる人、ということであり、宗教共同体が民族となった、民族です。この民族は、よく言えば波乱万丈の歴史を経験し、苦難の歴史の中で宗教のみが共通点というユダヤ人が生まれたのです

ユダヤ教の背景は独自に解釈されたイスラエル信仰です。私たちキリスト者は「新しきイスラエル」と呼ばれ、本来のイスラエル信仰の正当な継承者である、と自負しています。もちろん、当初のイスラエル信仰に対する一定の解釈に基礎を置いた宗教であり、ユダヤ教徒とは兄弟関係にある宗教です。神の子イエスの教えに従う、という点に中心があります。後に、7cになりイスラム教が勃興します。この宗教も古来のイスラエル信仰の正当な継承者と称しています。最後の預言者ムハンマドを崇敬している宗教で戒律に従うことにより神の恵みがもたらされる、とする点でユダヤ教と共通しています。このように、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3宗教はイスラエル信仰に基礎を置くものです。そのうちのユダヤ教が今日のテーマです。もちろん、ユダヤ教は変遷をたどっており、エズラ、ネヘミヤのユダヤ教が現在のユダヤ教の主流ではありません。ユダヤ人最大の人口を有する国は現在では、アメリカです。

アブラハムからサムエルまでをイスラエル信仰の時代、サウル王からユダ王国滅亡までを前期ユダヤ教の時代、バビロン捕囚からAD70年のエルサレム陥落までを後期ユダヤ教の時代、それ以降、現在までを離散の民のユダヤ教の時代、と大づかみに分けることができるでしょう。離散の民のユダヤ教は、後期ユダヤ教の最後の方に生まれた、サドカイ派とパリサイ派のうち、パリサイ派だけが生き残り、その系譜の中にあるユダヤ教です。現代のユダヤ教内の最大の対立点は現に存在する国家としてのイスラエルをどう見るかです。主流派はイスラエル国家の成立を神の摂理のもとにある、と認めますが、拡張主義的な態度には反対です。少数派ではありますが、前期・後期ユダヤ教の民族主義的伝統を重んじる正統派はダビデ王朝の再興を主張し、イスラエル国家の拡大強化を図るべき、としています。今や、アメリカのユダヤ人の中では少数派がイスラエル国内では多数派を形成しています。その中心になっているのはロシヤからの移民です。

具体的に、「エズラ、ネヘミヤによるユダヤ教」の中身に入る前に、ユダ王国滅亡によるバビロン捕囚のところから歴史を年表に添って、概観いたします。ユダ王国が新バビロニヤによって滅亡させられたのはBC587年ですが、その時、ユダ王国の枢要な人々がバビロニヤに連れていかれ、奴隷の身となるのはその前のBC597年から始まっています。その後、新バビロニヤはイランで勃興したアケメネス朝ペルシャに滅ぼされ、捕囚のユダヤ人の支配者が変わります。ペルシャのクロス王は宗教的寛容策を採用し、伝統的なユダヤ教の復活を認めます。その結果、捕囚のユダヤ人はエルサレムへの帰還が許されました。その時の帰還の民の指導者は、ゼルバベルでした。総督と呼ばれています。その時、一緒に帰還した祭司はヨシュアでした。BC539年のことです。第一次バビロン捕囚から58年、約60年後(のち)のことです。ゼルバベルはその後、ユダヤ教のメシヤのモデルになった人物ではないか、と推測されている人物ですが謎の人物です。

ゼルバベル、ヨシュアは神殿再建に着手しますがサマリヤ人らの抵抗もありうまくいきません。BC520年頃、ハガイ、ゼカリヤという預言者が現れ、ユダヤ教の復興を後押しします。BC515年に至って、曲がりなりにも神殿再建が完了いたします。しかし、神殿礼拝をおこなうには、まだまだの状態でした。また、エルサレムが町として再興するには城壁を築かなければなりません。その間にバビロニヤでは残ったユダヤ人指導者たちはモーセ五書をまとめていった、と推測されます。中でも、レビ記、申命記を中心とする祭司法典はこの時、文字にされたと考えられます。神殿再建から57年後、学者エズラがモーセ五書とともに帰還し、イスラエル信仰の基本はこれだ、と述べ伝えようとしますが、地場信仰に慣れ切った民の耳には伝わりません。一応、ユダヤ教共同体はこの時、形成された、ということになっています。その時、バビロニヤにいたネヘミヤがエルサレムの栄光が復活していないのに心を痛め、ペルシャ王に願い出て、エルサレムに帰還致します。BC445年のことです。実に第一次捕囚から152年後です。ネヘミヤ書にはエズラが登場致しますが、エズラ帰還とネヘミヤ帰還の時期は、実は逆なのではないか、という説もあります。この部分は、聖書解釈の上で興味ある事柄ですが、割愛致します。

では、ネヘミヤ書の記述に入ります。先ほどお読みいただいたネヘミヤ記13章は「エズラ、ネヘミヤによるユダヤ教」の要約のような個所です。これを手掛かりに、後期ユダヤ教の特徴を見ていきたいと、思います。まず、エルサレム神殿中心の宗教だと言うことです。神殿中心のユダヤ教は後期ユダヤ教になってから始まったのではありません。前期ユダヤ教の時代、とくにユダ王国における宗教改革を通して確立していったものです。ユダ王国16代王のヨシヤがその完成者と見られています。エルサレム以外の祭壇を禁止し、エルサレム神殿における国家的祭儀に限定する、というのが柱です。ここに来ることができない人は原則家庭と地域での礼拝ということになります。そこでは、いけにえを捧げるような祭儀は認められません。エルサレム神殿の祭司、神殿職員はそれで良いでしょうが地方祭司は非常に苦しい立場となり不満を持つようになります。ネヘミヤ記13:10-13のところでは、そのエルサレム神殿においてさえ、神殿職員であるレビ人が生活を保障されないので農業に戻ってしまっていた、と語られています。おそらく、ネヘミヤ帰還の頃はエルサレム神殿さえ、その祭儀は貧弱なものであったと思われます。ネヘミヤは、ユダヤの民に神殿のために捧げものをするように勧め、レビ人を呼び戻し、エルサレム神殿での祭儀を定め通りにやるようにしました。神殿中心主義の復活です。このエルサレム神殿はこの後、ユダヤ教の中心的な場所になります。これはAD70年のローマによるエルサレム神殿破壊まで続きます。ユダヤの政治は大祭司を中心として、エルサレム神殿の側(そば)にある議会(サンヘドリン)が担います。主イエスはこのエルサレム神殿中心主義を強く批判し、信仰の本来の在り方は神殿という建物に依存するものではない、ことを説きます。主イエスは後期ユダヤ教の中心点の一つであるエルサレム神殿の権威を否定しています。主イエスの十字架の40年後にその神殿は現実に、完全に破壊されることになります。

後期ユダヤ教の特徴の第二は「律法順守」とりわけ安息日規定の順守です。律法の中でも安息日が特別なものとされ順守を強く求めたのは、安息日順守が十戒のなかの一つになっているからです。当時の、安息日順守の状況についてはネヘミヤ書13:15-22に記述があります。安息日に麦束を運ぶなど農業をやったり、ぶどう酒の売買をやったり、世俗の営みを行い、安息日を汚している、と非難しています。安息日は神に捧げる日なので、祈りと、聖書の学びに費やす日だ、と言うのです。ネヘミヤはユダヤの人々に、先祖たちが安息日を汚すようなことをしたので、神の怒りが我々に下された、と言い、律法に立ち返るよう求めます。安息日が終わるまで、エルサレムの町のとびらを締めさせ、外との交流をできないようにしました。門の守りを固め、規則を守らない人々を取り締まりました。安息日は金曜の日没から土曜の日没までです。後期ユダヤ教の時代以降に、安息日にやってはならないことのリストが精緻化されていきます。この規定は39の労働を禁止するようになり、更にこれが各項目6つの小項目に細分化され、結局234の禁止項目にまでなっていきます。安息日に歩く距離の制限とか、明かりをつけることを禁止する、とかです。異常と言わざるを得ません。ネヘミヤの時代から270年後くらいのセレウコス朝シリヤ支配下にあったころ、戦争で安息日に戦うことをしなかったために全員死亡した、という話さえ伝えられています。主イエスの時代にもこの安息日規定は当然、生きていました。「安息日の主は人の子」である、ということでこの規定を相対的なものとして扱われたように見受けられます。キリスト教では安息日はなくなり、代わりに、主イエスの復活を記念する主の日が日曜日と定められ、共同の礼拝を持つ日、とされました。なおイスラム教にも安息日はあり、金曜日で、成人男子はモスクでの共同の礼拝が義務とされています。「エズラ、ネヘミヤによるユダヤ教」は安息日規定が詳細化される出発点になっています。

後期ユダヤ教の第三の特徴は異民族との婚姻禁止です。異民族にユダヤ人の娘を嫁がせてはならず、異民族の娘をユダヤ人は娶ってはならない、というものです。申命記7:3には「また、彼らと互いに縁を結んではならない。あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。彼の娘をあなたの息子にめとってはならない。」とありますが、エズラ、ネヘミヤが帰還する前まではあまり守られていない規定だったようです。ネヘミヤは13:23-31でこの混血の現実を嘆いています。ユダヤ人のなかにペリシテ人やアモン人、モアブ人の女をめとり子供が異国の言葉を話し、ユダヤ人の言葉がわからなくなっている、と言っています。彼らはソロモンが多数の異教の娘を妻とし、それによって、ソロモンは罪に陥るようになった、と言っています。ソロモンの妻たちがイスラエルにおける宗教混交の原因をなしていたことは事実です。ネヘミヤは外国人の妻を強制的に離婚させることもしたようです。当時の大祭司エリヤシブの子エホヤダの子の一人がサマリヤ総督サヌバラテの婿であったので、エルサレムから追放した、と言っています。サマリヤ人は異教徒扱いだったのです。これは申命記史書に共通している排外的民族主義の流れの極致とも言うべき政策です。もちろん、旧約聖書にはヤハウェー信仰に立つ異邦人もたくさん登場します。サマリヤ人の女の話に見られるように、主イエスは異邦人に対しても同様に神の愛が注がれていることを述べられ、旧約聖書の国際主義的流れの頂点に位置する、と言って差し支えないでしょう。後期ユダヤ教とキリスト教の最も大きな差がこの点にある、と思います。

ネヘミヤ記13章には明確に示されてはいませんが、後期ユダヤ教の第四の特徴は、割礼とか、食物規定のようなユダヤ人の独自性を外形的に明確に示す特徴を厳格に守ることです。律法順守の一環ですが、ユダヤ人の独自性を示す点に重点がある規定です。一種の民族主義です。割礼はエジプト、エチオピアが発祥のようですが、イスラエルのように民族の徴(しるし)と確立したのはユダヤ教において初めてだと思われます。その後、イスラム圏にも広がり、今や、かなりの広がりを持った慣習となっています。キリスト教の一部にはこの割礼の伝統を守っている宗派がありますし、一般のキリスト教徒で、男の子には割礼を施す人々も多数おります。ユダヤ教にはないですが、アフリカの一部では女性への割礼も行われており、人体に危険がある、と言われ、これを禁止すべき、という運動があります。キリスト教伝道者パウロは異邦人キリスト者に割礼を強制するな、と主張し、事実上、割礼規定を無意味なものとしました。信仰とは無関係な民族的伝統としたのです。

もう一つの食物規定は偶像への供え物を食べないこと、と律法において禁止されている動物の肉を食べない、というような食物に関するタブーのことです。ユダヤ教ではコーシェルと言い、この証明がある食物しか食べてはならない、ということで制度化されています。イスラムにおいてもこれと同様の規定が制度化されています。ハラールと言っています。佛教の僧侶にはこれ以上の菜食主義の伝統が強くあります。むしろ、中国や日本のように一般の人々に食物に関するタブーがない文化の方が稀である、とさえいえるかもしれません。キリスト教伝道者パウロはこの食物規定へのこだわりをも無意味化しました。要するにキリスト教は宗教規定としての割礼や食物規定から人々を自由にしたのです。主イエスはこの二つについて明確な言葉を語られていませんが、おそらく、パウロと同様、信仰の基準とは考えておられなかったと思われます。

ネヘミヤ記13章にはこの後期ユダヤ教とは関係のない一つの事件のことが書かれています。13:4-9のトビヤ事件と称せられる話です。これはヨルダン川東岸を基盤としていた有力者トビヤに時の大祭司エルヤシブがえこひいきして神殿内に部屋を与えた、という事件です。このことはネヘミヤがバビロンに一時帰国していた時に起こりました。エルサレムに返ってきたネヘミヤはこの収賄事件に怒り、トビヤ家の器具を放り出し、その後、清めの儀式を行った、ということです。このトビヤの家系はその後、どんどん経済的力を蓄え、アレキサンダー大王のあとのエジプトの寛容支配の時代には徴税権を獲得し政商的立場になっていきました。いわばユダヤ人社会における世俗的貴族階級の代表です。エズラ、ネヘミヤの時代から経済的な階級社会ができてくる気配が感じられます。これが主イエスの時代にサンヘドリンというユダヤ人議会の一部となっていく地主階級です。国の経済的発展は放置すると貧富の差が拡大し、主なる神の義に反する事態になります。後期ユダヤ教の場合、これを正すのは、ツェダカーと称する施しの義務です。言葉の本来の意味は「正義」です。施しによって経済的公平を回復するのが「正義の実践」だということです。しかし、十分な施しはなされないのが通常であり、どこかで爆発し、革命になる、というのが人間の歴史です。イスラムにおいてはこの施しの義務が強く残っています。医療をはじめとする社会福祉は、この施しによって支えられている、と言っても過言ではありません。

以上、後期ユダヤ教の特徴として、神殿中心主義、安息日規定順守、異教徒との婚姻禁止、割礼・食物規定の順守、という四つの特徴を見てきました。現在のユダヤ教の正統派は今もこれを守っています。もっとも神殿中心主義は将来の課題と言う形ではありますが。このように後期ユダヤ教は、ユダヤ教をユダヤ教たらしめたもの、ということができます。宗教による民族としてのユダヤ人の基本的特徴はここが出発点です。ある意味でキリスト教はこれを乗り越えることによって成立した、と言えるでしょう。しかし、キリスト教の神学的枠組みはこのユダヤ教の伝統に依存しています。祈ります。

(ご在天の父なる御神様、今日の共同の礼拝の時を感謝しています。私たちキリスト教の形式はユダヤ教の歴史に大きく依存しています。しかし、内容は、ユダヤ教の出発点であったイスラエル信仰の基本に立ち返るものです。イスラエル信仰のなかで生まれ、ユダヤ教の社会において培われた「神の国」のイメージは私たちキリスト教も共通のものとしています。どうか、「主よ、来たりませ。マラナタ」の願いが実現しますように。主イエスの御名により、祈ります。アーメン)

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