ダニエル書 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 調布 深大寺のプロテスタント教会 Sun, 30 Nov 2025 04:13:28 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.3.20 https://domei-nakahara.com/wp-content/uploads/2020/03/cropped-favicon-32x32.png ダニエル書 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 32 32 七十週の預言ダニエル書9章1~27節 https://domei-nakahara.com/2025/11/30/%e4%b8%83%e5%8d%81%e9%80%b1%e3%81%ae%e9%a0%90%e8%a8%80%e3%83%80%e3%83%8b%e3%82%a8%e3%83%ab%e6%9b%b89%e7%ab%a01%ef%bd%9e27%e7%af%80/ Sun, 30 Nov 2025 00:59:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6932 "七十週の預言
ダニエル書9章1~27節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。いよいよ今日からアドベント、主のご降誕を待ち望む季節に入りました。このアドベント期間は通常の説教、今はマタイ福音書からの講解説教ですが、そこから離れて、主のご降誕を待ち望むのにふさわしい聖句を取り上げたいと思います。それは、旧約聖書の中で主イエスのことを預言していると解釈されてきた聖書箇所を取り上げたいと思います。

さて、旧約聖書というのは私たちキリスト教徒にとっても新約聖書と並ぶ正典、カノンなわけですが、旧約聖書というのは本来ユダヤ教の正典です。ユダヤ人が自分たちの民族の聖なる歴史、つまりアブラハムを先祖とするイスラエル民族が如何にして神に選ばれ、神によって導かれてきたのかを記しているのが旧約聖書です。あるクリスチャンの方が、旧約聖書を読んで、そこに書いてあるのはイスラエルの歴史であることを見出して、なんでこれがクリスチャンにとっても聖書なのかわからないという率直な感想を述べておられました。そのように感じたことは、多くの人にとって一度や二度ではないと思います。それでも旧約聖書がクリスチャンにとっての正典として重んじられてきたのは、そこに主イエスを預言した箇所がたくさん含まれていると信じられてきたからです。主イエスの活躍を予告した箇所が多くあるので、旧約聖書はクリスチャンにとって重要なのだと、そういうことです。

ただ、こんなことを言うと驚かれるかもしれませんが、旧約聖書の預言は実は元々の意味では主イエスの預言ではないけれど、後の時代になって主イエスの預言として理解されるようになった箇所がいくつもあります。というのも、預言というのはそもそも曖昧なもので、いかようにも解釈できる要素があるからです。また、そもそも預言というのは一つの意味だけではなく多くの意味を持ちうるものなのかもしれません。預言を語った預言者自体が知らなかった意味がその預言に含まれているということもありうるのです。そういう預言を一つ見てみましょう。新約聖書のへブル書の12章25節から27節までをお読みします。

語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われました。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天をも揺り動かす。」この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。

さて、ここでヘブル書の記者が引用している「わたしは、もう一度、地だけではなく、天をも揺り動かす。」は旧約聖書のハガイ書から引用されています。ここでは、天から降ってこられる再臨のキリストが地を揺り動かして、揺り動かされるものを取り除かれる、そのことの預言として理解しています。しかし、この言葉を語ったハガイは明らかにそのようなことを預言したのではありません。ハガイとは、バビロン捕囚が終わってユダヤの地に帰還したユダヤ人たちに、ダビデ王家の子孫でペルシアの総督だったゼルバベルと共に第二神殿を建築するように励ました人です。キリスト誕生の時代から五百年も前の時代を生きた人です。ハガイは、このゼルバベルこそバビロンによって滅ぼされたダビデ王朝を復興してくれる人だと思って預言のことばを残しました。それがハガイ書2章22節から23節までをお読みします。

ユダの総督ゼルバベルに次のように言え。わたしは天と地とを揺り動かし、もろもろの王国の王座をくつがえし、異邦の民の王国の力を滅ぼし、戦車と、それに乗る者をくつがえす。馬と騎兵は彼ら仲間同士の剣によって倒れる。その日、―万軍の主の御告げ―シュアルティエルの子、わがしもべゼルバベルよ、わたしはあなたを選び取る。―主の御告げ―わたしはあなたを印形のようにする。わたしがあなたを選んだからだ。―万軍の主の御告げ―

このように、ダビデの子孫であるゼルバベルが異邦人の国々を滅ぼしダビデ王朝を再興することを預言して「わたしは天と地とを揺り動かし」と語っているのです。では、このゼルバベルはどうなったかといえば、当時のユダヤを支配していたペルシア帝国から警戒されてしまいます。もともとは名門であるダビデ家の子孫だからユダヤの地を治めやすいだろうという政治的配慮があってペルシアがユダヤ総督として派遣したのですが、総督という地位に満足せずダビデ家の王家を再建してペルシアから独立しようとするのではないか、と警戒したのです。それでゼルバベルはペルシア総督の任を解かれ歴史の表舞台からは消えてしまいます。彼がその後どうなったのか、それについての歴史は残っていません。つまり、ずばり言いますとハガイの預言は実現しなかったのです。この実現しなかった預言をヘブル書の著者は再解釈して、キリストの再臨についての預言と見なしたのです。

しかし、預言とはこういうものなのかもしれません。それを語った預言者ですら気が付かなかった意味がその預言に隠されているということです。ハガイはゼルバベルのことだと思って語った預言の言葉が実は主イエスを指し示す預言だったということです。こういう預言は、実際は旧約聖書にはいくつもあります。今日のダニエル書の七十週の預言もそうしたものの一つです。では、さっそくダニエル書9章を読んで参りましょう。

2.本論

ダニエル書からメッセージをするのは、当教会では私にとって二度目なのですが、ダニエル書は非常に難しい書です。ダニエル書には様々な解釈があることを念頭に置いたうえで、ここでは学問、学術の世界で広く認められている見解をお話しします。保守的な聖書解釈に立つ人は、まったく別の解釈をするでしょうが、ここではアカデミックな世界の代表的な見解に立ってお話しするということです。

預言者ダニエルはバビロン捕囚の時代、つまり紀元前六世紀に生きた時代の人だとされていますが、実際にこのダニエル書が書かれたのはそれから四百年後、紀元前二世紀だと考えられています。当時、ユダヤ人はユダヤを支配するシリアの王アンティオコス四世と独立戦争を戦っていました。アンティオコス四世はアンティオコス・エピファネスとも言われ、ユダヤ人にとってはあのアドルフ・ヒトラーと並ぶ反ユダヤ主義の象徴のような人物です。ある意味ではヒトラー以上にユダヤ人には嫌われている人物と言えるかもしれません。というのも、アンティオコス四世は宗教としてのユダヤ教そのものを根絶しようとした人物だからです。彼はユダヤ人にユダヤ教を捨てさせて、ユダヤ人であることをやめさせようとした人物だとされています。アンティオコス四世はユダヤ人にユダヤ教を捨てるように迫り、ユダヤ人のシンボルである割礼という儀式をやめるように強要し、子供に割礼を施した人を殺せという命令すら出しました。それだけではなく、ユダヤ人にとって最も聖なる場所、神の霊が宿るとされるエルサレムの神殿を冒涜しました。神殿で、ユダヤ人にとっては不浄な動物とされる豚を屠りました。それだけでなく、唯一神信仰のユダヤ人にとっては由々しきこと、赦されざることを行いました。それはギリシアの最高神であるゼウスの偶像を神殿に置いたことでした。主イエスが「荒らす憎むべきものが聖なる場所に立ったのを見たならば」と預言した、「荒らす憎むべきもの」の原型がこのアンティオコスの設置したゼウス像だとされています。

このような理不尽な宗教迫害を行うアンティオコスに対するユダヤ人の命がけの抵抗運動、ゲリラ戦争が始まり、そのリーダーがユダ・マカバイと呼ばれる人でした。ダニエル書で未来の出来事として預言されているのは、このアンティオコスに対するマカバイ一族の独立戦争のことなのです。つまりこういうことです。マカバイ戦争の時代である紀元前二世紀に生きていたある人物がいました。その無名の人物が四百年前の伝説の人物であるダニエルという名を借りて書いたのがダニエル書だということです。彼は、ダニエル書を書くことで、反乱を戦う同胞のユダヤ人たちを励まそうとしていたのです。いにしえの預言者ダニエルによれば、私たちは敵に打ち勝つ運命にある、だからがんばれ!とういうことです。今日の七十週の預言もまさにそのようなもので、アンティオコスによって汚されてしまった神殿を取り戻す、回復させることを預言しているということです。ですから、ダニエル書の舞台設定は紀元前六世紀なのに、書かれている内容はそこから四百年後の紀元前二世紀のマカバイ戦争という出来事なのです。なんだかとてもややこしいですが、たとえて言うならば明治維新の前の時代に生きた人物が、幕末の志士たちに対して、聖徳太子や空海のような伝説の偉人があなたがたの勝利を予言しているから頑張りなさい、と励ますような感じでしょうか。実際は、作者自身は明治維新の時代に生きていて、いま目の前で起きている出来事を語っているのですが、その語り部をはるか昔の時代に生きた伝説の人物に設定しているのです。このように、紀元前二世紀に生きていたダニエル書の著者は、今目の前で起こっている出来事を、四百年前に生きていた預言者が未来を語っているという風に描いているのです。

過去の人物の中でも、なぜダニエルを選んだのかと言えば、アンティオコスと戦っているユダヤ人たちはバビロン捕囚後に再建された神殿、それは第二神殿と呼ばれますが、アンティオコスによって汚された神殿を取りもどすために戦っているのですが、ダニエルも同様に、バビロンによって破壊された第一神殿の回復を祈っているからです。マカバイ戦争の戦士たちとダニエルは、このように同じ神殿再建のために戦っている、遠い時代に隔てられてはいますが、同志だということになります。

さて、では再度テクストに戻ります。1節を見てみましょう。伝承によれば、ダニエルはバビロン捕囚によってバビロンの王に仕え、そこで宰相にまで出世しました。しかし、そのバビロンはペルシアによって倒され、ダニエルは今度はペルシア王朝に仕えることになりました。この1節は、ダニエルがそのような境遇だったことを語っています。ダニエルはその時、故郷であるエルサレムを思っていました。エルサレムはバビロンによって破壊され、有名な第一神殿、別名ソロモン神殿とも呼ばれますが、その神殿は廃墟になっていました。遠く異国にいるダニエルは、そのエルサレムの神殿が再建されることを熱望していました。そして彼は、預言エレミヤの言葉を調べていたところ、その再建がもうすぐ実現するという希望を持ちました。その箇所を読んでみましょう。エレミヤ書25章11節と12節です。

この国は全部、廃墟となって荒れ果て、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民、―主の御告げ―またカルデヤ人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。

このように、ユダヤ人たちを滅ぼしたバビロンは滅ぼされると預言されているのです。実際、そのバビロンはペルシアによって滅ぼされました。ダニエルは、時が来たのだと思い、神に向かって、今こそエルサレムを復興し、神殿を再建してくださいと祈ります。実際の歴史はその通りになりました。ペルシアのキュロス王はバビロンに囚われていたユダヤ人を解放して祖国に帰してあげて、さらにはダレイオス王は神殿再建のための援助を行いました。神殿は紀元前587年に壊されましたが、それから約70年後の紀元前516年ごろ神殿は再建されています。こうなると、ダニエルの祈りは聞かれて、めでたく神殿は再建されたということになります。

しかし、なんとここでダニエルにその時示された神の啓示は別のことを語っていたのです。それが、少し飛びますが24節です。ここで「七十週」という言葉が出てきますが、原語のヘブライ語では「七の七十」となっています。これはどういう意味かと言えば、預言者エレミヤが語った七十年、その七倍の四百九十年という意味です。一週間は七日なので、週というのは「七」という意味でもありますが、七十年の七倍というのがここの意味です。つまり神のメッセンジャーである天使ガブリエルはダニエルに、神殿は七十年ではなくその七倍の月日を経て再建されると語っているのです。これは実際の歴史とは違うのですが、ダニエル書の著者にとって問題なのは、紀元前516年に神殿が再建されたことではありません。むしろそこから数百年後の現在、目の前でアンティオコスによって汚されている神殿がいつ再建されるのか、ということが問題なのです。そこで、七十年の七倍ということにして、今まさに起こっていることをダニエルが預言しているという風に語っているのです。

さて、細かい説明を省きますと、26節、「油注がれた者が断たれ」とありますが、これは油注がれた当時の大祭司であるオニアス三世という人物が紀元前171年にアンティコスによって殺害されたことを指すと思われます。次の「来るべき君主の民が町と聖所を破壊する」とありますが、これはアンティオコスに率いられたシリア軍がエルサレムとその神殿を蹂躙することを指しています。27節で、「彼は半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる」、とありますが、これはアンティオコスが7の半分、つまり三年半の間エルサレム神殿の正常なささげ物を止めさせたことを指します。しかし、そのアンティオコスがついには滅ぼされるというくだりで預言は終わります。このように、今神殿に狼藉を働いているアンティオコスは滅ぼされる、だからあなたがたの戦いは勝利に終わるだろう、というのがこの預言のメッセージなのです。

しかし、キリスト教の最初の世代の人々は、この七十週の預言をこのようには読みませんでした。むしろ、まさに彼らの生きていた時代の預言だと解釈したのです。もう実現してしまった預言など意味がない、私たちが知りたいのはこれから起こることなのだ、というのが我々人間の思いなのですが、最初のクリスチャンたちもまさにそう思ったのです。それで、この七十週の預言を彼らの生きた紀元一世紀の予言として再解釈しました。彼らは26節の「油注がれた者が断たれ」というのを、紀元前二世紀の油注がれた大祭司ではなく、むしろ紀元一世紀の油注がれたメシア、イエスのことだと考えたのです。つまり、「油注がれたイエス・キリストが断たれた、十字架で死なれた」と理解しました。そして、その後の「来るべき君主の民が町と聖所を破壊する」という箇所を、紀元前二世紀に神殿を荒らしたアンティオコスではなく、紀元一世紀にユダヤ人と戦争をして神殿を破壊したローマの将軍、ティトスだと理解しました。実際、キリストが十字架にかけられた四十年後にエルサレムとその神殿はローマ帝国の将軍ティトスによって破壊されています。さらには、27節で、「彼は半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる」というところを、アンティオコスが神殿のささげものを中止させたことではなく、むしろイエス・キリストが自らを最後のいけにえとしてささげることで、神殿の犠牲制度そのものを一時的にではなく永遠に終わらせた、という意味に解しました。このように、オリジナルな意味とは全く違う解釈をこの七十年の預言に施したのです。この解釈が正しいかどうか、私にはわかりません。正しいのかもしれません。つまり、ダニエル書の著者は自分では気づかないうちに、キリストのことを預言していたのかもしれない、ということです。その可能性もありますし、だからこそ預言の解釈は難しいのです。

しかし、話はここでは終わりません。なんと、現代のキリスト教徒たち、なかでも原理主義的キリスト教と呼ばれる人たちは、この七十週の預言にさらに別の解釈を施しているのです。彼らによれば、この七十週の預言は紀元前二世紀のマカバイ戦争のことでも、紀元一世紀のキリストの預言でもなく、むしろ未来の預言だというのです。彼らはこの預言が過去に成就したという解釈に満足できずに、さらに未来の預言として再解釈しているのです。彼らは26節の「油注がれた者が断たれ」というのを、「油注がれたイエス・キリストが断たれ」と理解する古代のキリスト教徒たちの解釈は受け入れました。しかし、そこで預言の実現は止まり、最後の一周、つまり最後の七年間だけは未来に起きるのだと主張しているのです。その後の「来るべき君主の民が町と聖所を破壊する」という箇所は、二千年前のローマ将軍ティトスのことではなく、未来に現れる反キリストと呼ばれる悪魔的な人物がエルサレムとそこにある神殿を破壊することだというのです。彼は、「彼は半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる」、つまりエルサレム神殿でのささげものを中止する人物でもあるというのです。でも、現在のエルサレムにはユダヤ人のための神殿はなく、むしろ破壊されてしまった神殿跡には今はイスラム教の寺院が立っています。ここはイスラム教の三大聖地の一つになっています。先ほど述べた解釈に立つ人は、そのイスラム教の寺院はいずれ壊されてそこにユダヤの第三神殿が建てられ、そこに反キリストが現れるというのです。でも、イスラム教の寺院に代えてユダヤの神殿を建てようものなら、世界中のイスラム教の人々が激怒し、それこそ第三次世界大戦になってしまうでしょう。しかし、原理主義の人たちはそれでもいいのだ、それがハルマゲドンの戦いで、それが終わるとキリストが再臨して平和な時代が来るのだ、というようなことを語ります。つまり、平和なキリストの王国を作るために悲惨なハルマゲドンの戦いをしなければならない、というのです。私はこういう話を聞いていると、あのオウム真理教を思い出してしまいます。世界を変えるために大混乱が起きることは必要なことなのだ、というのは非常に危険な考えで、主イエスの願いとも違うと思うのです。イエスはローマを倒すために立ちあがってくれ、私たちのために武器を取って戦ってくれと叫ぶ民衆の声を聞かずに、むしろご自身が十字架にかかることで反乱や暴動が起きないようにし、自らを犠牲にして人々を救った、つまり戦争を回避したからです。

3.結論

まとめになります。今回はとても難しい内容になりました。一度聞いただけではよく理解できなかった、という方もおられると思います。しかし、話のポイントはこうです。つまり、旧約聖書でキリストの預言だとされている箇所は、本当にそう言えるのかという判断が難しいということです。皆さんは「だまし絵」というのを見たことがあると思います。ある絵が見方によっては老婆に見えたり、少女に見えたりする絵のことです。同じように、今日の「七十週」の預言においても、それがキリストを指していると解釈する人もいれば、反対にそれが反キリストを預言していると見る人もいるのです。ですから、旧約聖書を読んでいて、「あっ、これはイエス様のことだ」と思える箇所があったとしても、その判断が本当に正しいのか、よくよく吟味したほうがよいということです。

では、アドベント第一週という大事な日に、なぜこんな難しいメッセージをしたのかといえば、それは聖書の取り扱いについてくれぐれも注意すべきだからです。私たちは聖書の中に、自分の見たいもの、読みたいものを見出してしまうことが多いということです。本当の意味はそうではないのに、自分の願望を聖書に投影して違う意味に解釈してしまうのです。こういうのを日本の言い方では「我田引水」と言います。七十週の預言のようなあいまいな預言はどうにでも解釈できてしまうことは先に述べたとおりです。そのあいまいさを利用して、好き勝手な解釈を施して、政治的な目的で利用してはいけないということです。

また、聖書の預言というのは「未来予知」ではない、というのも大事なポイントです。聖書の預言は、お医者さんによる診断に似ています。医者は私たちの体をチェックし、また私たちの生活習慣を聞いて、「あなたはこんな生活を続けて入れば、一年後に死にますよ」という診断を下します。本当に一年後にその人が死んでしまったら、お医者さんの預言は成就したということになるのでしょうか?いいえ、お医者様はそんなことを願っていなかったのです。むしろ生活習慣を改めて、長生きしてもらうことが医者の願いでした。私たちの心がけ次第で未来は変えられるのです。聖書の預言もそれと同じです。神様は私たちの生活習慣だけでなく、霊的な状態をご覧になっています。私たちの心が憎しみや妬みで一杯で、人のことを考えずに自分のことばかり考える状態であれば、私たちの未来には必ず不幸が生じます。争いや不和が生じるからです。ですから神様は「あなたがたが悔い改めなければ死ぬ」とおっしゃるのです。もちろん神様は私たちが予言通りに死ぬことを願っておられません。生活を変えることを願っておられます。そういう警告を発するために神は何人もの預言者をこの世に送り、最後に主イエス・キリストを遣わしたのです。主イエスはこの世に滅びと裁きをもたらすために世に来られたのではありません。むしろ、私たちが主イエスの言葉を聞き入れて、平和に生きることを願っておられるのです。そうすれば私たちの文明はノアの大洪水のような破局を迎えることなく、長く繁栄を続けることができます。「聖書は世の終わりを預言している」というようなことがいる人がいますが、聖書が本当に未来について何を語っているのかというのは判断が難しいのは、今日の「七十週」の預言からも明らかです。そしてもし聖書が本当に未来の破局について語っているとしても、それは変えることのできる未来だということを強調したいと思います。未来は決まっているのではなく、私たちの心がけ次第で変えることができます。聖書は決定論や宿命論、つまり未来は変えることができないというような見方を拒否しています。預言者ヨナは神の言葉としてニネベの破局を予告しましたが、ニネベの人々が悔い改めたので、その未来は回避されました。同じように、私たちが変わることで未来の破局を避けること、それこそが神がこの世に主イエスを遣わした目的なのです。人類の未来は、確かに予断を許さない状態にあります。人類は恐ろしい兵器を作り出し、そして戦争を捨てることができません。ますます恐ろしい武器さえ作り出そうとしています。こうしてみると、未来は暗いように感じられるかもしれません。しかし、私たちはそのような暗い未来を明るい未来に変えることができます。そのために主イエスの平和の教えに聞き従う必要があるのです。そのことを思いながら、アドベントを歩んで参りましょう。

平和の主よ、そのお名前を賛美します。私たちはあなたがこの世に来られた意味を深く考える時期を歩んでおります。どうか私たちに平和の道を示し、またそれを実践する勇気をお与えください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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永遠の王国ダニエル7章1~28節 https://domei-nakahara.com/2024/12/08/%e6%b0%b8%e9%81%a0%e3%81%ae%e7%8e%8b%e5%9b%bd%e3%83%80%e3%83%8b%e3%82%a8%e3%83%ab7%e7%ab%a01%ef%bd%9e28%e7%af%80/ Sun, 08 Dec 2024 04:16:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6005 "永遠の王国
ダニエル7章1~28節" の
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みなさま、おはようございます。今朝はアドベント、待降節の第二主日になります。先週もお話ししましたように、アドベント期間中はこれまでのサムエル記の講解説教から離れ、アドベントにふさわしいと思われる箇所からメッセージさせていただきます。先週はエレミヤ書からのメッセージでしたが、今朝はダニエル書からのメッセージになります。

そこで、このダニエル書という文書の概要をまずお話ししたいと思います。預言者ダニエルという人物は、バビロン捕囚の民の一人だと言われています。南ユダ王国は大国バビロンに敗れ、紀元前597年と紀元前587年の二度にわたってユダ王国の主だった人々はバビロンに捕虜として連れて行かれたのですが、ダニエルはその中の一人だということです。ダニエルは連れて行かれた先のバビロンと、後にバビロンを滅ぼして中近東の覇者となったペルシアの二つの帝国の宮廷に仕えたユダヤ人だとされます。ただ、このダニエル書自体が完成したのはそれよりずっと後の時代、バビロン捕囚から三百年後の紀元前二世紀ごろだったとされています。実際、ダニエル書が完成したのは旧約聖書のすべての文書の中でも一番最後だと考えられています。つまり、ヨハネ黙示録が新約聖書の最後の書であるように、ダニエル書も旧約聖書の最後の書だということです。

そして、この二つの文書には興味深い共通点があります。それはどちらも「黙示文学」と呼ばれていて、主に終末の出来事を扱っているということです。ダニエル書には、終わりの時にすべての人、善人も悪人もあらゆる人が復活して裁きを受けるという明確な思想が表明されています。それは聖書で初めて表明されたものです。しかし、さらに重要なことは、ダニエル書がイエス・キリストの宣べ伝えた福音、つまり「神の国」の到来を予告していることです。ダニエルはそれを神の国とは呼ばずに永遠の国、永遠の王国と呼んでいます。ダニエル書の中でも特に2章と7章はその永遠の王国についての預言となっています。今日はダニエル書7章を読んでいただきましたが、そこを詳しく見ていく前に、その7章と並行関係にある2章をまず見ていきたいと思います。 

ダニエル書の2章は、バビロンの王ネブカデネザルが不思議な夢を見たというところから話が始まります。王はその夢にうなされ、心を騒がせていました。古代世界では、夢は神のお告げだとも考えられていたので、王はなんとしてもその意味を知りたいと願いました。そこでネブカデネザルはバビロン中の知者を呼び集め、自分の見た夢を解き明かすようにと命じます。しかも、自分の見た夢がどんなものかは明かさずに、まず自分の見た夢を言い当てて見よ、と命じたのです。ネブカデネザルは知者たちが自分の夢にもっともらしい解釈を施して言い逃れるのを警戒したのでしょう。しかし、そのような要求を出されたバビロンの知者たちはたまったものではありません。なんとかその夢の内容を教えて下さいと王に願います。しかしそれを聞いたネブカデネザルはむしろ怒り狂い、お前たちは皆死刑だ、と言い出します。

この状況に皆が困り果てたときに、捕囚の民の一人で神の知恵を宿すと評判だったダニエルに声がかかります。ダニエルはイスラエルの神に願い、王の見た夢の内容とその解き明かしを神から授かります。そしてダニエルはネブカデネザル王の前に出て、解き明かしを行います。ダニエルは、王が見た夢とは強大な像についてであると語ります。この像は頭が金、胸が銀、腹が銅、そして足は鉄と粘土でできていました。しかし、一つの石が人手によらず切り出され、その石が巨像を打つと、像は粉々になりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちるという、そういう不思議な夢でした。ダニエルは次いで、その意味を説明します。金・銀・銅、そして鉄と粘土はそれぞれ世界を支配する四つの帝国を指すというのです。最初の金の帝国とは、ネブカデネザルが治めるバビロニア帝国です。その後にも次々と帝国が興りますが、しかしそれらすべての帝国を打ち破るような王国を神自身が起こします。巨像を打った石は、その神がもたらす国、「神の国」を表しているのです。ダニエル自身のことばでそのことを見てみましょう。2章44節です。

この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることはなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。

この永遠の国こそ、主イエスが宣べ伝えた「神の国」なのです。

このダニエル書2章を踏まえたうえで今日のダニエル書7章を読むと、いろいろなことが見えてきます。7章はネブカデネザル王の時代ではなく、バビロニア帝国の最後の王であるベルシャツァルの時代の出来事です。今度は王ではなく、ダニエル本人が夢を見ます。そしてダニエルの見た夢は、明らかに先にネブカデネザル王が見た夢と深い関係があります。ネブカデネザルの見た夢では、バビロンから始まる四つの世界帝国はそれぞれ金・銀・銅・鉄で表されましたが、ダニエルの夢では四匹の獣として表わされています。第一の獣は翼を持つ獅子、ライオンでした。これは明らかにバビロニア帝国を表象しています。その獣には人間の心が与えられたと言われていますが、これはダニエル書4章の出来事、つまりネブカデネザル王が神によって試練を受けて、その結果神を畏れる心を与えられたことを指していると思われます。二匹目は熊です。この熊は何を指すのかについてはいろいろな意見がありますが、普通に考えればバビロンを倒して次の覇者となったキュロス王の率いるアケメネス朝ペルシアだということになるでしょう。ペルシアは中近東のみならず、東はインドとの国境まで、南はエジプトを征服し、ヨーロッパのマケドニア地方の一部まで支配するという、まさに空前絶後の大帝国でした。そしてその次の獣はひょうでした。ひょうは足の早い俊敏な動物ですので、あっという間に旧ペルシア帝国の領土を征服したアレクサンダー大王のことを指しているのかもしれません。つまり第三の獣はギリシアだということです。この獣には四つの頭があるということですが、これはディアドコイと呼ばれるアレクサンダー大王の後継者たちのことだと思われます。アレクサンダー大王は早死にし、帝国は分裂して王たちが互いに争う時代になりました。そして第四の獣ですが、これは他の獣とは違って圧倒的に強く、すべてを踏みつぶすと言われています。この第四の獣が何を指すのかいついても学者の間ではいろいろな意見がありますが、少なくともイエスの生きた紀元一世紀においては、この獣はローマ帝国を指すのだと多くのユダヤ人によって信じられていました。この第四の獣の時代に、神は永遠の王国を打ち立てるというのがダニエルの見た夢のメッセージだったのです。

実際、このダニエルの預言はイエスの時代のユダヤ人たちに大きな希望を与えました。というのも、イエスが十字架に架かってから約四十年後、ローマ帝国に支配されていたユダヤ人たちはローマに対して反乱を起こします。そして8年間も戦い続けた挙句、首都のエルサレムは破壊され、エルサレムにあった壮麗な神殿は跡形もなく壊され、ユダヤ民族は国を失ってしまいました。普通に考えれば、小さな植民地に過ぎないユダヤ民族が圧倒的な軍事力を持つローマと戦って勝てるはずがないのですが、しかしユダヤ人たちは勝てると信じて戦い続けたのです。彼らの自信は何の根拠のない自信だったのでしょうか?いえ、そうではありません。彼らは自分たちの勝利は聖書に予告されていると信じていたのです。そして彼らの根拠となったのが、このダニエル書の2章と7章の預言でした。

紀元一世紀のユダヤ人にヨセフスという人物がいます。彼は貴族の生まれで祭司であり、またローマとの戦争に加わった司令官でもあったのですが、実際にローマと戦ってみて、これは到底勝てる相手ではないということを思い知り、ローマに降って後のローマ皇帝となるウェスパシアヌスから取り立てれられ、ローマお抱えの歴史作家になった人です。彼は自分自身も従軍したこのユダヤ戦争についての歴史書を書き残していますが、そこにはなぜ同胞のユダヤ人たちがこの無謀な戦争にのめり込んでいったのか、その理由が書かれています。

しかし、他の何にも増して彼らを戦争へと駆り立てたのは、ある一つの曖昧な託宣だった。その託宣もまた、彼らの聖なる書に見いだされるものだった。それは、この時代に彼らの国から現れる者が世界の支配者になるだろうという趣旨の託宣だった。彼らはその人物が彼ら自身の民族に属する者だと理解し、そして多くの賢明な者たちがその解釈によって道を誤ってしまった。しかし、実際にその託宣が告げていたのは、ユダヤの地で皇帝であることを宣言したウェスパシアヌスの統治のことだったのだ。とは言うものの、人は自分の運命から逃れることはできない。たとえそれを予見していたとしても。それで、それらの凶兆のいくつかをユダヤ人たちは自分に都合の良いように解釈し、他のいくつかについては馬鹿にして取り合わなかった。彼らの国土と彼ら自身の破滅が、彼らに自分たちの愚かさを気づかせてくれるまでは。(「ユダヤ戦記」より引用)

ここでヨセフスが言っている、ユダヤ人の聖なる書、つまり聖書に書かれた「曖昧な託宣」とはダニエル書のことだと思われます。それは、ダニエルが幻で見た第四の帝国、つまり無敵のローマ帝国の時代に、石が巨像を打って粉々に破壊したように、一人の神に選ばれた人物が現れて永遠の王国を打ち立てるという預言のことです。ユダヤ人たちは、ローマを倒すために神がメシアと呼ばれる救世主を遣わし、自分たちを勝利に導いてくれると信じたのです。しかし、ユダヤ人のヨセフスは、なんとその石とはユダヤのメシアのことではなく、ユダヤを倒すためにローマから派遣されていたローマの将軍ウェスパシアヌスだと宣言したのです!それを聞いたウェスパシアヌスは大変喜び、ローマに抵抗したヨセフスの罪を赦して彼を従軍作家に取り立てたのでした。実際、ウェスパシアヌスは次のローマ皇帝になるのですが、彼の王国は永遠でも何でもなく、彼の王朝は僅か三代で途絶えてしまうのですが...

ともかくも、このダニエル書2章と7章はイエスの時代の多くのユダヤ人たちの愛読書であり、彼らはこの書を読んではローマ帝国を打ち倒して神の国を打ち立てることを夢見ていたのです。そして人々の中には、イエスこそこのローマを倒してくれるメシアではないか、と期待する人たちもいました。イエスが十字架刑で死んだ後、エマオへの道を歩いていた弟子たちは、「ナザレ人イエスのことです。[…]私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました」(ルカ24:19, 21)と語りましたが、イスラエルを贖うとはイスラエルをローマの支配から解放するという意味です。人々は、イエスがローマをやっつけてくれると期待していたのに、かえってローマの手で殺されてしまい、それでがっかりしていたのです。

しかし、彼らはダニエル書の預言を誤解していたのです。誤解といっても、ヨセフスの言うようにこれがローマの新しい皇帝の誕生の預言だった、ということではもちろんありません。むしろ、彼らはダニエル書に書かれた大事な一文を見落としていた、いやあえて読まないようにしていたのです。それが7章21節です。そこをお読みします。

私が見ていると、その角は、聖徒たちに戦いをいどんで、彼らに打ち勝った。

ダニエルは、神の民が第四の獣、すなわちローマと戦ってこれに勝つ、とは預言していないのです。むしろ反対に、「負ける」とはっきり書いてあるのです。ここだけではありません。25節にもはっきり書かれています。

彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。

聖徒たちは敗れ、獣の手にその命運を握られてしまうのです。しかし、その負けたはずの神の民は、天に上げられて、神の前に導かれ、そこで神から永遠の王国を授けられる、これがダニエルの預言の驚くべき内容なのです。獣に裁きを下すのは、人ではなく神です。神の民が戦争でローマに勝つのではなく、むしろ神のみがローマに裁きを下す、これがダニエルの「曖昧な託宣」なのです。そして神の民が永遠の王国、神の国を授けられる様子をダニエルは次のように記しています。13節からお読みします。

私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。

イエスは繰り返し、この幻が自らにおいて成就すると語りました。イエスは弟子たちに、あるいはイエスを滅ぼそうとする大祭司たちに、「あなたがたは人の子が雲に乗って来るのを見るだろう」と語られました。その意味は、しばしば誤解されるようにイエスが地上に再臨するのをもうすぐ見るだろうという意味ではなく、むしろ天上でイエスにすべての主権が授けられたこと、今やイエスが全世界の王とされたことを知るだろう、という意味なのです。

イエスは戦いで勝つことを通じてではなく、むしろ負けること、武器を取らずに戦わないことを通じて栄光を受けたのです。これが、まさに逆説的ですが勝利への道、神が示す十字架の道なのです。

そして大事なことは、このことはイエスの場合にのみ当てはまることではありません。イエスに従う人々にとっての勝利の道も、武器を取って戦うことではなく、むしろイエスにしたがって十字架を負うこと、敵を憎んで殺すのではなく、敵を理解しようと努め、敵を愛することなのです。そんなことをすれば敵から容赦なく殺されるだけではないか、殺される前に殺す、これが悪者に対峙する唯一の道ではないか、という人もいるでしょう。確かにそれもこの世の知恵としては正しいのです。しかし、神の知恵は人の目には愚かに見えても、むしろ敗北を受け入れるようにと私たちを諭すのです。このことをダニエル書以上にはっきりと指し示しているのが新約聖書の最後の書、ヨハネ黙示録です。とりわけその11章の「二人の証人」の幻です。しかし、今回の説教ではそこまでは触れません。

まとめになります。今日は預言者ダニエルが見た幻の意味を考えて参りました。確かにダニエルは、ローマ帝国の時代に神の国が到来すると預言しました。ですからイエスの時代の人々が、神の国の到来が差し迫っていると考えたこと自体は間違ってはいなかったのです。しかし、彼らが間違っていたのは、神の国がどのようにして来るのか、その道筋についての理解でした。彼らは暴力によって、戦争によって神の支配が実現すると考えてしまったのです。だから彼らは平和を唱えるイエスを敗北主義だと切って捨て、受け入れなかったのです。

しかし、そのような誤解はユダヤ人だけのものではありません。むしろイエスを信じているはずのキリスト教徒たちの方が、よほどイエスの教えを誤解するか、あるいは無視してきたのではないでしょうか。私たちはキリスト教の二千年の歴史を振り返って、このような悔い改めの心を持つべきではないでしょうか。宗教改革の後にドイツで起こった三十年戦争で、カトリックとプロテスタントの間での戦争のために何とドイツの人口の三分の一が死にました。福音の真理のためにはどれほどの犠牲が出ても仕方がなかったと言うべきなのでしょうか?いいえ、福音の真理のためなら、なおのこと戦うべきではなかったのです。この戦争に振り回される今日のような時代にあって、私たちは主イエスの教えに固く立つべきです。アドベントはそのような心持で歩みたいと願うものです。お祈りします。

平和の主よ。そのお名前を賛美します。今朝はダニエル書の預言を通じて神の国、永遠の王国がどのようにして到来するのかを学びました。私たちが戦争に明け暮れたキリスト教の歴史を心から反省し、福音の真理に生きることができるように強めてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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