イザヤ書 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 調布 深大寺のプロテスタント教会 Sun, 15 Dec 2024 04:02:36 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.3.18 https://domei-nakahara.com/wp-content/uploads/2020/03/cropped-favicon-32x32.png イザヤ書 – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 32 32 苦難のしもべイザヤ52章13節~53章12節 https://domei-nakahara.com/2024/12/15/%e8%8b%a6%e9%9b%a3%e3%81%ae%e3%81%97%e3%82%82%e3%81%b9%e3%82%a4%e3%82%b6%e3%83%a452%e7%ab%a013%e7%af%80%ef%bd%9e53%e7%ab%a012%e7%af%80/ Sun, 15 Dec 2024 04:01:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6019 "苦難のしもべ
イザヤ52章13節~53章12節" の
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みなさま、おはようございます。今日はアドベント第三週になります。いよいよ次週はクリスマス礼拝になりますが、今日の聖書箇所はクリスマスを待ち望むうえで大変重要な箇所です。実際のところイザヤ書53章は、旧約聖書の中でも最も有名な箇所の一つです。

クリスマスになると、クリスマス関連の音楽が流れますが、その中でも定番と言えるものの一つがヘンデルの「メサイア」でしょう。ヘンデルは元々ドイツ人でしたが、イギリスに帰化しました。ですからメサイアも英語の歌詞が使われています。宗教曲はラテン語とかドイツ語の曲が多いですが、英語の歌詞であるメサイアは日本人にとっても馴染み深いものでしょう。そのメサイアの歌詞はみな英語の聖書からの引用なのですが、なかでも「イザヤ書」からの引用がとても多いのです。そもそも最初の歌詞である「慰めよ、慰めよ」というところはイザヤ書40章からの引用です。なぜイザヤからの引用が多いのかといえば、「メサイア」というのはメシア、つまりキリストのことですが、イザヤ書は旧約聖書の中でも最も多くのメシア預言が含まれている預言書だとされているからです。イザヤにはメシアを示すと思われる部分があまりにも多いので、イザヤ書を新約聖書の四福音書に並ぶ「第五の福音書」と呼ぶ人までいるのです。

そのイザヤ書の中でもとりわけ重要なのが、イザヤ書40章から55章にかけてです。イザヤ書は66章ありますが、大きく分けて三つに分かれていると言われていますが、その真ん中の箇所である40章から55章までは一般的に「第二イザヤ」と呼ばれる箇所で、その著者は預言者イザヤより百年以上後の時代に生きた無名の人物だとされます。無名といっても、預言者イザヤの精神を引き継いだ、イザヤの弟子たちの中の一人だということです。日本でも、たとえば浄土真宗の中で一番有名な本は教祖の親鸞の書いたものではなく、お弟子さんの唯円(ゆいえん)が書いた歎異抄(たんいしょう)だと言われています。第二イザヤもイザヤの衣鉢を継いだお弟子さんが書いたということです。そして第二イザヤは、イザヤ書全体の中でも独特な性格を持っています。第二イザヤを理解するために、その前の部分である第一イザヤと比較してみましょう。

第一イザヤと呼ばれる1章から39章までは、イスラエルの罪と背信に対する神の厳しい裁きが述べられています。預言者イザヤの召命の時のあらましは6章に書かれていますが、イザヤが神から最初に与えられたメッセージは大変厳しいものでした。その9節と10節をお読みします。

すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』この民の心を肥え太らせ、その耳を遠くし、その目を固く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」

このように、イスラエルの罪は重く、彼らには癒しではなく裁きが待っている、彼らは癒されてはならない、というのがイザヤに与えられた大変厳しい、重たいメッセージでした。イザヤは南ユダ王国が滅亡する紀元前587年の百年ほど前に活躍した預言者ですが、イザヤのメッセージはその百年後のユダ王国の滅びを予見するような厳しい内容だったのです。

それに対し、第二イザヤと呼ばれる40章以降は、国が滅びてしまい、亡国の民となったイスラエルの人々を慰めるメッセージになっています。つまり、まだ南ユダ王国が健在だった時代の人々に語られた第一イザヤとは時代背景が異なり、国を失って意気消沈した人々に語られているのが第二イザヤです。ですから第一イザヤの厳しいトーンとは打って変わり、慰めや励ましに満ちたメッセージになっています。第二イザヤの冒頭は次のような言葉で始まります。

「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き換え、二倍のものを主の手から受けよ。」(イザヤ40:1-2)

このように、国を失い、礼拝のための神殿も失い、外国で捕虜として暮らしていた亡国の民であるイスラエル人に対し、神は慰めを与え、また失った二倍のものを与えようと約束しているのです。素晴らしいメッセージですね。しかし、そんなに都合よく物事が進むのだろうか、と疑う人たちもいました。彼らは現に祖国を失ってしまったのです。帰るべき祖国はもうないのです。そんな厳しい現実を前にして、イザヤの言葉は気休めなのではないかと斜めに見る人たちがいたのです。

第二イザヤは、この神の約束、慰めと回復の約束がどのように実現するのかを示す書なのです。そして第二イザヤにはこの約束を実現してくれる二人の救世主、二人のメシアが登場します。しかし、その二人はまるで対照的な二人です。一人は、当時の世界最強の帝国であるバビロニア帝国を滅亡させた人物、アケメネス朝ペルシアの王キュロスです。私たちの使っている聖書では古い呼び方のクロスとなっていますが、一般的にはキュロスと呼ばれる人物です。彼はバビロンだけでなく、エジプトやヨーロッパのマケドニアも征服し、さらにはインドの国境沿いまでの中央アジアをすべて平定し、まさに空前絶後の世界帝国を築き上げた王でした。彼はイスラエルの人々からも深い尊敬を集めていました。実際、第二イザヤはキュロスを讃えてこう記しています。45章1節からお読みします。

主は、油そそがれたキュロスに、こう仰せられた。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。」

油注がれた者とはすなわちメシア、ギリシア語の「キリスト」です。ですからイスラエルの預言者イザヤは異教徒のペルシアの王キュロスのことを「キリスト」と呼んでいるのです。アケメネス朝の国教はゾロアスター教だったと言われていますので、キュロスはイスラエルの神の信仰者ではありませんでした。ユダヤ人以外の異教徒の王が「キリスト」と呼ばれているのはこのキュロスだけですから、ユダヤ人にとってキュロスという人物がどれほど重要だったか、分かろうというものです。実際、キュロスはユダヤ人にとっての救世主でした。キュロスによってバビロンに囚われていたユダヤ人たちはエルサレムに戻ることが許され、さらにキュロスはエルサレムに戻ったユダヤ人たちが神殿を再建するのを助け、資金援助をしています。まさにキュロスはユダヤ人の宿敵であるバビロンを滅ぼし、彼らを祖国に帰してくれた救世主だったのです。イザヤ書40章から48章までは、このキュロスによってユダヤ人たちがバビロンから解放される様子を描いています。それは「政治的」な解放であり、キュロスの軍事力によってそれは成し遂げられました。

しかし、第二イザヤでは、もう一人の救世主が登場します。その人物が成し遂げるのは、キュロスのような政治的解放ではなく、精神的または霊的な解放です。そしてその人物はキュロスのように軍事力を用いることなく、むしろその苦難を通じてイスラエルを霊的に解放するのです。その人物は「苦難のしもべ」と呼ばれますが、その名前は明かされていません。そして、その謎めいた人物が主役として登場するのは49章以降です。彼のことを描いている箇所をいくつか読んでみましょう。まず49章4節です。

しかし、私は言った。「私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある。」

また、50章4節から6節までをお読みします。

神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者にも私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。

このように、主に従うしもべは人々から受け入れられず、むしろ侮辱されたりひどい扱いを受けます。これはイスラエルの預言者の宿命とも言えるもので、先々週取り上げたエレミヤもこのような扱いを受けていました。この「苦難のしもべ」と呼ばれる人物も、イスラエルの歴代の預言者たちと同じく人々からの迫害を受けながらも主の道を宣べ伝え、人々を励まします。そして、そのようなしもべの働きを通じて「福音」がイスラエルにもたらされます。

52章7節以降には、神がシオンに戻られて救いをもたらすことが「福音」として語られています。そこをお読みします。

良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。聞け。あなたの見張り人たちが、声を張り上げ、共に喜び歌っている。彼らは、主がシオンに帰られるのを、まのあたりに見るからだ。エルサレムの廃墟よ。共に大声をあげて喜び歌え。主がその民を慰め、エルサレムを贖われたから。主はすべての国々の目の前に聖なる御腕を現した。地の果てもみな、私たちの神の救いを見る。

この一文は、「福音」とは何かを示すものです。福音とは、イスラエルの神が世界の王となられる、神ご自身がこの世界に正義と平和に基づく支配を行われる、「あなたの神が王となる」ということです。私たち福音派は、福音とは「イエス様を信じれば罪赦されて救われる、天国に行ける」ことだとついつい考えてしまいますが、実際は福音とは「神ご自身が王としてこの世界を正しく支配してくださる」ということなのです。私たち殆どすべての人は、現在の支配者に何かしらの不満を持っています。金銭的な面で不正をする政治家が嫌われるのはもちろんですが、たとえそういうことをしない清廉潔白な政治家だとしても、世界の問題を解決するには力不足なのではないか、と思われる政治家も少なくありません。そんな中で、全能の神様ご自身がそうした支配者に代わって正しい政治を行ってくださるとしたら、それは確かに素晴らしいこと、良い知らせなのではないでしょうか。

 しかし、神様がこの世界を支配するというのは具体的にはどういう意味なのでしょうか?そもそも神様は霊であり、私たち人間には見ることも聞くことも触ることもできません。神様が人間の王様のように、私たちの目の前に現れることはないのです。その見えない神様が、いったいどうやって王としてこの世界を治めるのでしょか?イザヤは、「主はすべての国々の目の前に聖なる御腕を現した。地の果てもみな、私たちの神の救いを見る」と語りますが、私たちはどのようにして見えない神様の栄光を見るのでしょうか?イザヤはその答えを私たちに与えてくれます。私たちは「苦難のしもべ」の苦しむ姿を通じて、全能の神の力強い働きを見るというのです。これはまったく理解に苦しむ、矛盾した知らせではないでしょうか?先ほどの世界帝国を作り上げたキュロス王や、あるいはローマ帝国のユリウス・カエサルやナポレオンのような偉大な王の働きの中に神の力を見るというのなら話は分かりますが、人々の無理解に悩み苦しむ人物の苦悩の中に、どうやって神の全能の力を見ることができるのでしょうか?しかし、イザヤはまさにその人にこそ、神の聖なる御腕が現れるというのです。イザヤはこう書いています。

私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたか。

イザヤは、主の御腕が世界に示されるというビッグニュースについて語りますが、誰もそれを信じられなかった、と言います。同じことは、すぐ前の52章13節と14節にも書かれています。

見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。多くの者があなたを見て驚いたように、-その顔だちは、そこなわれていて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた―そのように、彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。

ここには矛盾した内容が書かれています。しもべと呼ばれる人物は、あらゆる者の上に立つ存在として非常に高められます。まさに王の中の王となるということです。それなのに、そのしもべの姿はひどく損なわれ、見るに堪えないものだとも言われています。人々から蔑まれるような人物があらゆる人の上に立つという驚くべき知らせを前に、王たちは口をつぐむだろうということが言われています。

この不思議な「しもべ」について、イザヤ書53章は語ります。2節の途中からお読みします。

彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

こうした記述を読むと、このしもべは王の中の王どころか、私たちの目から見ても気の毒な、可哀そうな人しか思えません。では、なぜこのような人物が神によってすべての上に立つ人物にまで高められたのでしょうか?それは彼がその人生において王たる人物に相応しいあり方、王道を示したからです。そしてその王道は、世間一般の王道とは正反対のものでした。

この世では、偉い人たちは自分たちの悪事や悪行の責任を取りません。それを下の者たちに押し付けます。「私は何も知りませんでした。秘書が勝手にやりました」というセリフを私たちは何度聞いてきたでしょうか。多くの人はそれが嘘だと直感的に気付くのですが、しかしそれがこの世の在り方としてまかり通ってきました。私たちの世界では、偉くなればなるほど罪を問われないということになります。最近も某超大国の大統領が自分の息子の罪を帳消しにしました。偉くなれば罪を問われない、法律を超越した存在になれる、それが分かっているからこそ、多くの人は偉くなろうとするのです。しかし、このしもべはそれとは正反対です。彼は自ら他人の罪を背負うのです。人に自分の罪をなすりつけたりすることなく、むしろ人々の罪の重荷を背負ってくれるのです。これが神の前に正しい王としての在り方、真の王道なのです。しもべはそのようにして上に立つ者としての正しい在り方を自分の生きざま、そして死にざまを通じて世界に示しました。だからこそ、神は彼をあらゆる者の上に立つ存在としたのです。

しかし、そんな奇特な人がこの世にいるのだろうか?と思われるかもしれません。それがいたのです。それがイエス・キリストであり、その十字架なのです。イエス・キリストはそれを成し遂げたからこそ、あらゆる者の上に立つお方とされたのです。この方こそ、イザヤの示す苦難のしもべの正体なのです。

このように、主イエスは私たちの罪の重荷を担ってくださいました。私たちは、だからといって、イエス様のおかげで助かったよ、私たちはこれで苦しまずに済んだ、などと考えるべきではありません。なぜなら、「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません」(一ヨハネ2:6)とヨハネが語っているように、私たちもまた、イエスの十字架を模範として歩まなければならないからです。神の国、神の支配に参加するということは、人の上に立って王のように命令することではなく、むしろイエスのように人のしもべとなって歩むということです。人に罪をなすりつけるのではなく、むしろ自らが人の罪を背負う、それが神の国の生き方です。楽ではないのです。簡単でもありません。しかし、そのように歩まなければいつまでたってもこの世界に真の平和が訪れないのも事実です。私たちが作り上げるべき共同体、世界とは互いに仕え合う共同体、世界です。暴力や強制によって敵を打ち倒すこの世の帝国とは全く異なっています。それが神の国が天におけるように地にも到来するということです。もちろん、私たちは一朝一夕にイエスのように歩めるようになるわけではありません。すぐに神の国、神の支配がこの世に実現するのでもありません。私たちはいつもイエスを見上げ、それを目指して一歩一歩歩んでいくしかないのです。そのような思いを胸に、アドベントの最後の一週間を歩んで参りましょう。お祈りします。

王となるために僕として歩まれた平和の主よ、そのお名前を賛美します。あなたは私たちにまことの人間としての在り方、まことの王としての在り方を示してくださいました。私たちもそれに倣って歩むことができるように、上よりの助けをお与えください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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主を求めよイザヤ書55章1~13節 https://domei-nakahara.com/2023/12/17/%e4%b8%bb%e3%82%92%e6%b1%82%e3%82%81%e3%82%88%e3%82%a4%e3%82%b6%e3%83%a4%e6%9b%b855%e7%ab%a01%ef%bd%9e13%e7%af%80/ Sun, 17 Dec 2023 03:17:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5166 "主を求めよ
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1.序論

みなさま、おはようございます。アドベント第三週になり、いよいよ次週はクリスマス礼拝となります。アドベント期間ということで、先週と今週はイザヤ書からメッセージを取り次がせていただきます。イザヤ書、なかでも40章から55章にかけての箇所は、第五の福音書と呼ばれるほど福音的なメッセージを含んでいるからです。

さて、今日お読みいただいた55章は「第二イザヤ」と呼ばれる40章から55章までのセクションの締めくくりの箇所です。では、この箇所には第二イザヤ全体の中でどのような意味合いがあるのか、ということをまず考えてみたいと思います。前回お話ししましたように、「第二イザヤ」と呼ばれる40章から55章にかけての預言は、バビロンによる捕囚のために遠い異国の地で暮らしている、希望を失いかけていたユダヤ人に向けてのメッセージでした。イザヤは捕囚の民に対して、希望を失ってはならない、イスラエルの神はあなたがたを見捨てたわけではない、確かにあなたがたは自らの罪の刈り取りとして、外国の地で捕虜として暮らすことを余儀なくされているが、それはいつまでも続くものではない、あなたがたは必ずユダヤの地に戻ることができる、という希望のメッセージを語ります。捕囚の民のユダヤの地への帰還、というのが第二イザヤの一つの重要なテーマでした。

しかし、イザヤのメッセージはそれだけではありません。イスラエルの人々が祖国を失い、亡国の民となってしまったのは神との関係が壊れてしまったからでした。神は罪にまみれたエルサレムを見捨て、バビロンの軍隊がエルサレムとその神殿を蹂躙し、滅ぼすことを黙認されました。しかし、神は再びイスラエルの民のところに戻って来られ、ユダヤの人々は再び神との親しい関係を取り戻すことができるというメッセージをイザヤは語りました。第二イザヤと呼ばれるイザヤ書40章から55章までは、イザヤのこれらの希望のメッセージがどのように実現していくのか、それを説明している箇所だと言えます。

さて、そのイザヤ書40章から55章ですが、それをさらに前半・後半の二つに分けることができます。前半部分は40章から48章、後半部分は49章から55章で、それぞれテーマも違いますし、主人公も違います。前半の40章から48章までのテーマは、ずばりバビロン捕囚が終わり、ユダヤの人々が祖国に帰るということです。当時、バビロンの地にはバビロニア帝国によって征服された多くの国々の人々が捕虜として連れていかれましたが、その人たちの中で祖国に帰還を許された人たちはいませんでした。ですから、捕囚の民としてバビロンにいたユダヤの人たちにとって、祖国に帰れるというイザヤの語る希望は夢物語のように聞こえたかもしれません。しかし、それを実現させてくれる救世主が現れました。しかもそれはユダヤ人ではなく、ペルシア人でした。イザヤ書45章1節には「油そそがれた者キュロス(クロス)」という名前が登場しますが、そのキュロスこそが救世主でした。油注がれた者とは、メシアのことです。メシアというのはユダヤ人の王、ギリシア語では「キリスト」のことですが、なんと外国の王であるキュロスのことをイザヤはメシア、すなわちキリストと呼んでいるのです。キュロスという名前は世界史で聞いたことがあるかもしれませんが、アレクサンダー大王やローマのカエサルと並ぶ世界史にその名を刻む大英雄ですが、アケメネス朝ペルシアという空前の大帝国を打ち立てたペルシア人です。彼は当時の超大国であるバビロンを滅ぼし、バビロニア帝国をはるかに上回る領土を持つ帝国を打ち立てました。彼は自らを解放者として世界に喧伝しました。すなわち、バビロンによって捕虜となっていた各国の人々を祖国に戻してあげるという政策を採ったのです。その中にはユダヤの民も含まれていました。イスラエルの神は、キュロスについてこう語っています。45章4節をお読みします。

わたしのしもべヤコブ、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなたをあなたの名で呼ぶ。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書を与える。

「あなたはわたしを知らないが」、とあるようにキュロス王はイスラエルの神であるヤハウェを知りませんでした。しかし、イスラエルの神はキュロスを選び、彼に諸国民の解放という使命を与えたのです。キュロスはユダヤ人たちを祖国に戻すだけでなく、彼らに資金援助をして、彼らが神殿を再建して再び神を礼拝する手助けをしました。そのために、ユダヤ人たちはこのキュロスに大変感謝をして、イザヤは彼のことを「キリスト」とまで呼んだのでした。ペルシア人とは現在のイラン人のことですが、今日ではイスラエルとイランとの関係はよくありませんが、この当時のユダヤ人とペルシア人との関係は大変良好で、ユダヤ人はペルシアの文化や宗教などから大きな影響を受けていたと言われています。このように、ペルシアの王キュロスが捕囚のユダヤの民を解放してくれる、というのがイザヤ書40章から48章の中心的なテーマでした。

それに対して、49章から55章までにはもう一人の解放者が登場します。しかしこの解放者については、名前は明かされてはおらず、彼は単に「苦難のしもべ」と呼ばれます。私たちクリスチャンは、この「苦難のしもべ」こそイエス・キリストであると信じていますが、ここではあえて「苦難のしもべ」という無名の人物として彼の歩みを見ていきましょう。第二イザヤにはこの苦難のしもべについての四つの歌が含まれていますが、49章以降にはそのうちの三つの歌が登場します。それは49章1節から12節までと、50章の4節から9節、そして最も有名なイザヤ書53章のしもべの歌です。これらを読んでいただければお分かりのように、この「苦難のしもべ」は同胞であるユダヤ人から理解されず、むしろ迫害されますが、にもかかわらず彼は挫けることなく働き続け、イスラエルの回復のために、それどころか諸国民のために大きな働きをします。しかし、そのしもべは非業の死を遂げることも預言されています。そのことが有名な53章に書かれています。しかし、しもべの死は決して無駄死にではありませんでした。「わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう」(53章11節)と預言されています。このしもべの苦難を目撃した人々は、最初はその苦しみの意味が理解できませんでしたが、後にそれが自分たちのためであったことを悟っていくのです。それだけなく、53章に続く54章と55章には、この苦難のしもべの死が何をもたらすのかが詳しく語られています。それは新しい契約、平和の契約の樹立です。しかも、その契約はユダヤ人のためだけでなく、異邦人にも開かれたものとなるのです。それが書かれているのが55章の4節と5節です。そこをお読みします。

見よ。わたしは彼を諸国の民への証人とし、諸国の民への証人とし、諸国の民の君主とし、司令官とした。見よ。あなたの知らない国民をあなたが呼び寄せると、あなたを知らなかった国民が、あなたのところに走って来る。これは、あなたの神、主のため、また、あなたを輝かせたイスラエルの聖なる方のためである。

このように、一見理不尽な死のように思えた苦難のしもべの受難は、ユダヤ人のみならず異邦人にも祝福をもたらし、それだけでなくその苦難のしもべは「諸国の民の君主」、世界の王となることが預言されています。このような驚くべき預言が書かれているのがイザヤ書55章なのですが、ではさっそくこの章を詳しく読んで参りましょう。

2.本論

55章の1節から5節までは招きのことばです。しもべの苦難によって、今や大いなる救いの道が開かれました。この救いはユダヤ人だけでなく、全世界の人たちのためのものです。そのことが、第二の「しもべの歌」である49章6節に書かれています。そこをお読みします。

主は仰せられる。「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」

このように、今や全世界の人々がイスラエルの神の与える救いに招かれています。その招きがすべての人のためであることは、「渇いている者」、つまり水さえも満足に得られない人たちや、「金のない者」、貧しい人たちが招かれていることからも明らかです。この招きは、何もない人たちにまず向けられているのです。そしてこのイザヤの言葉は、主イエスのことばを思い起こさせるものです。ルカ福音書14章13節、14節をお読みします。

祝宴を催す場合には、むしろ、貧しい者、からだの不自由な者、足のなえた者、盲人たちを招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。

主イエスは、当時のユダヤ社会で人々から見捨てられていた、「罪人」と蔑まれていた取税人や遊女たちを招き、またお金がなくて医者にかかることのできなかった病人を癒してあげました。そのような大きな恵みを受けたために、そうした人たちは普通の人たち以上にイエスに忠誠を示しました。取税人ザアカイは即座に財産の半分を貧しい人々に与えましたし、イエスに赦された遊女は年収を超えるほど高価な香油でイエスを洗いました。まさに「多く赦された者は、多く愛するようになる」のです。

このように、福音は貧しい人々や虐げられた人々にまず届けられましたが、それだけでなく、この福音は国籍や人種の違いをも乗り越えて、あらゆる人々に届けられました。神はこの時には、契約の民イスラエルだけではなく、それまで知らなかった民をも招きます。しかも、それまで真の神を知らなかった人々はこの招きに熱心に応答し、走ってくるとまで言われています。これも、主イエス・キリストの福音を、それまでイスラエルの神を知らなかった人たちが熱心に受け入れたという使徒の働きの記述を思う起こさせるものです。先週、イザヤ書における「福音」の意味とは、神ご自身が王となられて人々を治めることなのだ、というお話をしましたが、異邦人の人々は、今や人となられた神であるイエス・キリストが全世界の王となられたという福音を受け入れたのです。

しかし、残念なことに、すべての人がその招きに応じたのではありませんでした。使徒の働きには、熱心に福音を受け入れた異邦人とは対照的に、昔から真の神を知っていて、神の近くにいるはずのユダヤ人たちがかえって福音から遠ざかっていく様が語られています。 

また、この世で多くの富を持つ者は、福音を受け入れるために生じるかもしれない犠牲を恐れ、この世を愛して福音を拒絶してしまうことも語られています。一例を挙げましょう。使徒の働き24章には、当時のローマ総督であったペリクスにパウロが福音を伝えた時のことが書かれています。24節からお読みします。

数日後、ペリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスを信じる信仰について話しを聞いた。しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ペリクスは恐れを感じ、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう」と言った。

このローマ総督ペリクスが連れてきたドルシラという女性は、彼が略奪愛で奪った女性でした。つまり不貞関係だったのです。そのことを知ってか知らずが、パウロは神が「正義と節制」を求めておられ、それに従わないものには裁きを下すことを語りました。ペリクスとしては耳の痛い話を聞かされたのです。彼はパウロの言葉に真実の響きを感じて恐れを覚えたのですが、そのために福音を受け入れることはせず、かえって遠ざけてしまいました。なぜならもし彼が福音を受け入れるなら、それには悔い改め、より具体的には不貞関係を止めるという行動が伴う必要があるからです。ペリクスは自分の生き方を変える気はなかったのです。このような理由で福音を受け入れない人は残念ながら少なくありません。福音を受け入れるというのは、単に頭の中で「イエスは神だ」と信じることではありません。それには悔い改め、つまり生き方を根本的に改めることが含まれるのです。それをしたくない、もっと世を愛したいという理由で決断を先延ばしすることは、危険なことです。なぜなら、罪に留まる期間が長ければ長いほど、ますますそこから離れがたくなってしまうからです。「いつかそのうち」と思っている間に、そのいつかがあっという間に過ぎ去り、手遅れになってしまうからです。病気でも、早いうちに診察を受けて早く治療を始めれば、命にかかわる問題にはならないことが多いです。しかし、放置していくとどんどん体を蝕んでいきます。それと同じことが私たちの魂の救いについても言えます。イザヤは6節でこう語ります。

主を求めよ。お会いできる間に、近くにおられるうちに、呼び求めよ。

イザヤは、今主にお会いしなさい、主が近くにおられるチャンスを逃してはならない、と語っています。パウロも、イザヤ書のみことばを意識しながら、「確かに、今は恵みの時、今は救いの時です」(第二コリント6:2)と語っています。逆に言えば、今という時を逃してはならないのです。イザヤは招きの言葉と同時に、悔い改めを求めています。

悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。

とはいえ、人は自分自身を変えようとは願っても、なかなかそうはできない弱い存在です。主に立ち返り、正しい道を歩もうと願っていても、自分の力ではなかなかうまくはいきません。ですから私たちを本当に変えてくださる力を持つ主を信じ、従う必要があるのです。イザヤは、主にはそのような力があることを力強く確証してくれます。有名なみことばですが、11節をお読みします。

そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところには帰って来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。

神は、私たちを変える力をお持ちです。さらには私たちだけでなく、全世界をも変える力をお持ちです。そのことが13節に書かれています。そこをお読みします。

いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。

これは創世記のある一節を思い起こさせます。それは、アダムとエバの罪のために地がのろわれてしまった、という記述です。創世記3章18節に、「土地は、あなたのためにいばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない」とあります。おどろとは、あざみとよく似たとげとげの草木ですが、イザヤは創世記でのろいのしるしとされたいばらやおどろの代わりに愛や勝利を意味するミルトスが主の記念として生えるようになると預言しています。これはまさに新しい創造を示すもので、つまり苦難のしもべは新しい民や新しい契約のみならず、新しい創造を生み出すということです。これはまさに主イエスが成し遂げられたことであり、イザヤの預言はクリスマスにお生まれになる主イエス・キリストによって成就されるのです。

3.結論

まとめになります。今日は第二イザヤの最後の章、55章を学びました。苦難のしもべの死を通じて、今や新しい救いの道が開かれた、というのが第二イザヤのメッセージです。そして、その救いは万人のためのものであり、すべての人がその救いに招かれています。私たちは本当に主を求めるならば、その救いを受けることができます。ですから、今こそその救いをしっかりと受け止めなさい、というのがイザヤのメッセージでした。同時に、救いのチャンスはいつでもあるわけではありません。私たちの人生は短く、気が付けばあっという間に時間が過ぎ去っていきます。救いを受けるのに遅すぎるということはありませんが、しかし救いを受けるべき時というのは「今」であり、「いつか」ではないというのも真実なのです。そして神からの救いを受けることは完成ではなく始まりです。救いを受け取って、それから私たちは変わる、いや変えられていくのです。その始まりは、もちろん早いほうがよいのです。ですからイザヤが勧めるように、主とお会いできる間に、主が近くにおられるうちに、私たちは主を求めましょう。すでに主の救いを受け取っている人も、続けて恵みを受けられるように主の中に留まっていましょう。そうすれば私たちは良い実を結ぶことができるのです。お祈りします。

主イエス・キリストの父なる神様。そのお名前を賛美します。今朝は、イザヤの言葉を通じて、主が私たちを招いておられること、同時に私たちも主を求めるべきことを学びました。その幸いなアドベントの期間に、私たちがますます主を求めることができるように力をお与えください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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慰めよイザヤ書40章1~31節 https://domei-nakahara.com/2023/12/10/%e6%85%b0%e3%82%81%e3%82%88%e3%82%a4%e3%82%b6%e3%83%a4%e6%9b%b840%e7%ab%a01%ef%bd%9e31%e7%af%80/ Sun, 10 Dec 2023 03:09:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5146 "慰めよ
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1.序論

みなさま、おはようございます。クリスマスを待ち望むアドベントの第二週に入りました。私たちは、いつもはサムエル記、そして月末のみは新約聖書から使徒パウロのテサロニケ書簡を読み進めていますが、このアドベントという特別な期間に鑑み、今週と来週の二回はイザヤ書からの説教とさせていただきます。

イザヤ書は旧約聖書の預言書の中でも質量ともに最大のもので、主イエスがお生まれになった時代にもユダヤ人の間では別格の扱いを受けていました。みなさんも死海文書という言葉をきいたことがあると思います。イエス様が活躍された時代のユダヤ教の文書が20世紀の中葉に死海のほとりから大量に発見されたのですが、それらの文書を死海文書と呼びます。その中には旧約聖書の写本も数多く含まれていましたが、一番多くの写本が見つかったのは詩篇で、その次がイザヤ書でした。イザヤ書については、なんと完全な形の写本が見つかっています。他の写本は一部だけなどのものが多いのですが、イザヤ書は66章すべてが含まれている写本が見つかっているのです。それほどイザヤ書は当時のユダヤ人にとって大切に扱われていた文書だったのです。

イザヤ書はユダヤ人にとってだけでなく、キリスト教徒にとっても極めて重要な書です。イザヤ書の中の、特に40章から55章までは「第二イザヤ」と呼ばれる箇所ですが、この書は第五の福音書とも言われています。新約聖書の四つの福音書に並ぶほどの福音的な内容を持つという意味ですが、それは第二イザヤには四つの「しもべの歌」が含まれていて、そのうちの第四のしもべの歌であるイザヤ書53章は、まさに主イエス・キリストの受難を預言したものとして、つとに有名だからです。わたしもいつかイザヤ書全体の講解説教をしてみたいと思っていますが、今回のアドベントでは第二イザヤの最初の章である40章と、最後の章である55章を取り上げることにしました。

さて、ここまで「第二イザヤ」という呼び名を何度か用いましたが、この呼び方になじみがない方もおられると思うので、少し説明したいと思います。イザヤ書は66章からなりますが、1章から39章までが「第一イザヤ」、40章から55章までが「第二イザヤ」、56章から66章までが「第三イザヤ」と呼ばれます。その違いは何かと言えば、それは語りかけられている聴衆が違うということです。イザヤ書1章から39章まではまだ南ユダ王国が健在だった時代、アハズ王やヒゼキヤ王が活躍した時代のイスラエル人に語られたメッセージです。それに対し、「第二イザヤ」と呼ばれる40章から55章までは時代が下り、150年以上も後の時代の人々、南ユダ王国が滅んでしまい、バビロンに捕虜として連行されて失意の中にあったユダヤ人たちに語り掛けたメッセージです。そして最後の「第三イザヤ」、56章から66章までは、バビロン捕囚が終わり、ユダヤの地に戻ってきたユダヤ人たちに語られたメッセージです。

今日は、その中でも第二イザヤ、つまり捕虜として祖国を追われて外国のバビロンの地で暮らすことを余儀なくされたイスラエルの人々に対して語られたメッセージを読んで参りましょう。

2.本論

さて、今までお話ししましたように、今日のイザヤのメッセージは希望を失った人々に対して語られたということをまずしっかりと念頭に起きましょう。このイザヤ書のメッセージが書き送られたのは、紀元前587年にバビロンによって南ユダ王国が滅亡したことを経験した世代です。彼らはバビロンによってエルサレムとその神殿が破壊されるのを目撃した人々なのですが、彼らの受けた衝撃は測り知れないものでした。私たち日本人にとっては、縁起でもないたとえかもしれませんが、たとえば京都のすべての文化遺産が破壊されてしまうような、そんな衝撃です。京都は、あの日本中がアメリカによって木っ端みじんにされた太平洋戦争においても、その高い文化的価値によって戦火から免れた都です。あの最悪の戦争においてでさえ、災いから守られたのだから、京都は不滅なのだ、というような思いが日本人にはあるのではないでしょうか。清水寺や南禅寺、金閣寺など京都には夥しい文化遺産があり、それゆえ失われることはないという安心感があるのです。バビロンによって攻め滅ぼされる前のエルサレムの人々も、エルサレムに関して同じような感情を抱いていました。エルサレムには、あの伝説の王であるソロモンが築いた壮麗なソロモン神殿があり、また立派な王宮など壮麗な建物が並んでいました。かつて世界最強のアッシリア帝国がイスラエルを攻めた時も、エルサレムだけは奇跡的に破壊を免れることができました。イスラエルの神がエルサレムを守ってくださる、なぜなら神はエルサレムの神殿をその住処とされておられるからだ、という信仰があったのです。

しかし、紀元前587年に、そのエルサレムはついにバビロニア帝国によって破壊されてしまいました。それだけではありません。祖国を失ったユダヤの民の多くは、捕虜として異国の地バビロンに連行されました。その中には預言者のダニエルやエゼキエルも含まれていました。この民族の悲劇について、預言者たちは、イスラエルの罪が大きすぎたので、イスラエルの神はエルサレムを見捨てたのだ、と語りました。それは真実かもしれませんが、祖国を失った傷心のイスラエルの人々にとっては傷口に塩を塗られるような言葉だったでしょう。また、他方でバビロンの人々は勝ち誇り、バビロンの神マルドゥクがイスラエルの神ヤハウェに勝利したのだ、と喧伝していました。イスラエルの神は世界帝国バビロンの神の前には無力なのか、とイスラエルの神への信頼を失いそうになっていた人たちもいました。

そのような人たちに、イザヤは語り掛けます。それは、第一イザヤに繰り返し現れるイスラエルの罪への裁きの宣告ではない、むしろその反対の、慰め、また励ましの言葉でした。イスラエルの民よ、あなたがたは自らが蒔いた罪の種を刈り取り、今やその報いを受けて苦しんでいるが、主なる神はあなたがたの苦しみを倍にして祝福として返してくださる、だから希望を持ちなさい、と呼びかけます。確かに、エルサレムがバビロンによって滅ぼされてしまったのは、神が罪深いエルサレムを見捨てたからでした。その結果、ユダヤの人々は捕虜としてバビロンに連行されました。しかし神は永遠にユダヤの人々やエルサレムを見捨てたのではありません。むしろそれはほんの短い間、懲らしめとしてエルサレムを捨てたのであり、神はイスラエルの民への永遠の愛を捨ててしまったわけではない、その証拠にあなたがたは祖国の地、ユダヤの地に戻ることができる、捕囚は終わるのだ、というメッセージをイザヤは語りました。それだけではありません。バビロンによってエルサレムが滅ぼされる時に、神の栄光はエルサレムを去ってしまいました。しかし、その神は再びエルサレムに戻って来られる、だからあなたがたは主が戻って来られる時に備えて道を整備しなさい、とイザヤは呼びかけます。

この神がエルサレムに戻って来られるというイザヤの預言は、究極的には主イエス・キリストにおいて実現します。神がエルサレムに戻って来られるという預言は、究極的には人となられた神であるイエスがこの世にお生まれになり、エルサレムに来られた時に成就したからです。ですから福音書記者マルコは、福音書の冒頭にこのイザヤ書40章を引用し、「預言者イザヤの書にこう書いてある。[…]『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と記したのです。

イザヤは、神が語られたこの約束は信頼に足るものを示すために、大変有名な言葉を残しています。

草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。

これは本当に素晴らしいみことばです。ぜひ暗記して、心に刻んでください。私たちが信じる多くのものは、儚いものです。自分を信じる、という人がいますが、私たち人間は事故や病、または老いなどで、衰えていきます。また、他の人、あるいはお金などの物を信じる人もいます。確かにお金は必要です。しかし、財産もまた、何かの拍子に簡単に失いかねない儚いものです。また、いくらお金があっても健康を損ねてしまったら、その使い道もなくなってしまうでしょう。このように、私たちがより頼むもので不変のものはありません。まさに諸行無常の響きあり、です。しかし、一つだけ変わらないもの、私たちが全幅の信頼を寄せてよいものがあります。それが神のことばであり、約束です。神は自らを偽ることがおできにならないので、そのことばは確かなのです。捕囚のイスラエルの民が学ぶべきことはこのことでした。あなた方の神は、あなた方を決して見捨てない、あなたがたは祖国に帰れるのだ、という約束でした。それだけではありません。神ご自身がエルサレムに戻ってこられ、そこでエルサレムに戻ってきたあなたがを治めてくださる、守ってくださるというのです。イザヤは「見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める」と、そのことを預言しています。イザヤはこのことを「良き知らせ」、つまり福音と呼んでいます。福音というのは、神ご自身が王として私たちを治めてくださる、というのがその内容なのです。もちろん、見えない神が王として人々を直接治めることはできません。ですので、人となられた神であるイエスが真の王として平和な支配を行う、それこそが「福音」のメッセージなのです。

このように、イザヤのメッセージは究極的にはイエスによって成就されます。しかし、イエスが来られたのはバビロン捕囚から500年以上も後の話です。ですから、この第二イザヤのメッセージを聞いた人々にとって、それは遠い未来の話です。バビロンに捕虜となっていた人たちにとっては、神が人となって私たちを治めてくださる、というような途方もない希望よりも、目の前の問題の方が重要でした。それはつまり、バビロンに囚われの身となっている自分たちは、果たして祖国の地、エルサレムに戻ることができるのだろうか、という問題です。イザヤの力強い言葉にもかかわらず、イスラエルの人たちは不安を感じていました。このイザヤを通じて語られた神の約束、福音は本当に信じられるのか、と思っていたのです。なぜなら、当時の古代社会で、捕囚として他国に連れていかれた人々がみな祖国に帰還できたなどという話は一つもなかったからです。バビロンは征服した多くの国々の有力者たちをバビロンに連れて来ましたが、そうした人たちの中で祖国に戻してもらえた人たちはいませんでした。ではなぜユダヤ人だけが例外だと言えるのか、そんな都合の良い話があり得るのか、と考えたのです。

そこで12節以降で、イザヤはなぜこの神の約束が信頼に足るのかということを、イスラエルの人々に力説します。イスラエルの神は、バビロンの神に勝っているというのではなくて、そもそもイスラエルの神は唯一の神であり、他の神々と呼ばれるものは神でも何でもなく、人間が作り上げた偶像に過ぎないのだ、とイザヤは宣言します。また、地上の王たちはいかに権勢を誇っていようとも、神の前にはわらに過ぎないのだ、とも指摘します。それが23節と24節に書かれています。

君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものとされる。彼らが、やっと植えられ、やっと蒔かれ、やっと地に根を張ろうとするとき、主がそれに風を吹きつけ、彼らは枯れる。

ここには8節のことばがこだましています。地の王たちは、草や花に過ぎない。しかし、主のことばは永遠に立つのだと。神の偉大なる力は、この世界を見れば認めることができます。私たちの現代の科学は、宇宙が如何に果てしのないものであるのかを明らかにしています。しかし、宇宙のみならず、私たちのからだも、まさに小宇宙というほど神秘に満ちたものであることが明らかになっています。人の身体には、なんと60兆もの細胞があり、しかもその一個の細胞のDNAの中には、それぞれ30億といわれる数の膨大な情報が含まれています。私たちが何気なく使っているこの身体は、まさに神秘としか呼べない複雑さを持っています。そうした想像もできないほど複雑なものがなぜ存在しているのか、なぜここにあるのか、その背後には神の測り知れない知恵があるのです。そのような神を、一体何と比較するというのか、とイザヤは問いかけます。

しかし、神がそのように偉大だとしても、その神が私たちちっぽけな一人一人の人間のことなど果たして気にかけてくれるのだろうか?神は本当に私たちのことを見守ってくれるのだろうか、という問いが生じるでしょう。捕囚の民であるイスラエルの人々も、まさにそのような不安に駆られていました。「私の歩む道は、神の前に隠れている」とあるイスラエル人はつぶやきました。「神は私の小さな訴えなど聞いて下さらない。神は私の問題を見過ごしておられる」と不満を覚える人たちもいました。これは、私たちもしばしば考えることかもしれません。私たちは危機に陥ると、神を信頼するよりも神に失望することの方が多いのではないでしょうか。神は私たちの小さな心配事など、気にして下さらないのではないかと。外国の地での捕囚という、希望のない先の見えないトンネルの中にいたようなイスラエル人は、まさにそのような心理状態にありました。そのようなイスラエルの人たちに、イザヤは慰めと励ましに満ちた神のことばを贈っています。素晴らしいみことばなので、少し長くなりますが28節から31節までをお読みします。

あなたがたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気づける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

イスラエルが聞くべきことばがここに与えられています。彼らは疲れ果てたように感じていました。もう前を向いて歩けない、そんな気持ちになっていました。しかし神は彼らに新しい力を与えることができます。鳥のように、翼を広げて飛ぶことすらできるのです。イザヤ書40章は素晴らしいみことばの宝庫ですが、この最後の一節もまさにそうです。『炎のランナー』という映画で、主人公のエリック・リデルがパリの教会でこの箇所を朗読している場面があります。素敵なシーンですので、ぜひご覧になってください。

3.結論

まとめになります。今日は、アドベントということで、旧約聖書の中でも最も福音的なメッセージを含む「第二イザヤ」の冒頭場面、40章を取り上げました。興味深いことに、聖書は66巻ですが、イザヤ書も66章。旧約聖書は39巻ですが、第一イザヤも39章です。それに対して、新約聖書は27巻ですが、バビロン捕囚以降の福音的メッセージを含む「第二イザヤ」と「第三イザヤ」は合わせて27章です。偶然の一致にしては出来過ぎです。イザヤ書を現在の形に66章に分けた人々は、おそらくこのことを意識していたのではないかと思います。第二イザヤの冒頭の40章が、四福音書の中で最初に書かれたマルコ福音書に引用されているも、第二イザヤとイエス・キリストの福音との強い関係性が初代教会によって意識されていたことの表われです。

この第二イザヤのメッセージは、直接的にはバビロンで捕囚の憂き目に遭っていた人々に語られました。しかしその同じメッセージは、それから500年以上も時代が下った、ローマ帝国の圧政に苦しんでいた紀元1世紀のユダヤ人に対しても、希望のメッセージとして語られました。そして最初のキリスト教徒たちは、このイザヤのメッセージがイエス・キリストにおいて完全に成就したのだと信じたのでした。しかし、このメッセージによって鼓舞されたのは紀元前6世紀のユダヤ人や紀元1世紀のクリスチャンだけではありません。このイザヤのメッセージは、2,500年以上の時を超えて、現在に生きる私たちにも希望を与えるものなのです。私たちの時代は、バビロン捕囚の時代やイエスがお生まれになった時代とは状況が大きく異なりますが、大きな問題、大きすぎる問題を抱え込んでいる時代です。私たちは環境問題や戦争、貧困問題など、地球規模の問題に直面し、希望を失いそうになっています。こんな途方もない問題は、誰にも解決できないだろうと。しかし、そんな今こそイザヤのメッセージを聞くときでしょう。イザヤのメッセージは一貫しています。どんなときにも神への信頼を失ってはならないというのがそのメッセージです。神にはできないことはないのです。どんな大きな問題も、神に信頼することで解決の道を見いだすことができます。もちろん私たちは何でも神頼みで自分たちはなにもしなくてもよいということではありません。むしろ神は、小さな私たちの働きを通じてこうした問題を解決することを望んでおられます。ですから神に信頼し、私たちはどんな小さなことでも自分たちに与えられた課題としてしっかり取り組んで参りましょう。特に平和づくりのために働いて参りましょう。お祈りします。

平和の主であるイエス・キリストを遣わされた父なる神様、そのお名前を賛美します。今朝はイザヤの力強いメッセージを聞きました。絶望していたバビロンのユダヤ人々に勇気を与えたそのメッセージは、大きすぎる問題に直面して途方に暮れる私たちをも勇気づけるものです。どうか私たちも主に信頼し、行動においてその信頼を示すことができますように。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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ヒゼキヤ王の信仰イザヤ書38章1節~39章8節 https://domei-nakahara.com/2023/04/30/%e3%83%92%e3%82%bc%e3%82%ad%e3%83%a4%e7%8e%8b%e3%81%ae%e4%bf%a1%e4%bb%b0%e3%82%a4%e3%82%b6%e3%83%a4%e6%9b%b838%e7%ab%a01%e7%af%80%ef%bd%9e39%e7%ab%a08%e7%af%80/ Sun, 30 Apr 2023 04:22:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=4497 "ヒゼキヤ王の信仰
イザヤ書38章1節~39章8節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。今年に入ってから、毎月末は旧約聖書からメッセージをさせていただいています。今日はイザヤ書から、預言者イザヤの時代に活躍した名君だとされるヒゼキヤ王の信仰について見て参りたいと思います。

みなさんはヒゼキヤ王と聞くと、どんなイメージを持たれるでしょうか。伝説の王であるダビデ、あるいは世界一の知恵者と謳われ、栄華を極めたソロモン、こうした誰もが知る有名な王たちと比べると、地味な印象を持たれるかもしれません。聖書にあまり親しみのない方はヒゼキヤと聞いても、「誰だそれは?」ぐらいにしか思わないかもしれません。しかし、聖書の中では彼は非常に高く評価されている王です。第二列王記18章5節と6節を読んでみましょう。

彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。

ここにありますように、ヒゼキヤは信仰において「彼ほどの者はだれもいなかった」と讃えられるほどの王様でした。このヒゼキヤに匹敵する王は、彼の子孫で宗教改革を断行した16代の王であるヨシヤぐらいなものです。列王記は、ヨシヤについてこう書いています。

ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った王は、彼の先にもいなかった。彼の後にも彼のような者は、ひとりも起こらなかった。

こうありますように、南ユダ王国には20人の王がいましたが、その中でもヒゼキヤとヨシヤは例外的と言えるほどに信仰心の篤い立派な王だとされています。しかし、そのヒゼキヤの信仰に疑問を感じさせるような記述があります。それが今日の聖書箇所です。では、今日の聖書箇所の背景から考えて参りましょう。

2.本論

イザヤ書38章と39章は、第二列王記20章とほぼ同じ内容です。イザヤ書の方がヒゼキヤの祈りが含まれていることなど、多少の違いがありますが、基本的には同じことが書かれています。イザヤ書38章はヒゼキヤ王が大病をしたというところから始まりますが、イザヤ書や列王記の話の流れからすると、ヒゼキヤは大病をする前に別の大きな危機を乗り越えていたということになります。なぜなら36章と37章では、紀元前705年に王位に就いたアッシリアの王セナケリブがユダ王国に猛攻撃を仕掛け、ユダヤの各都市は次々に陥落し、紀元前701年には聖都エルサレムもアッシリアの大軍に包囲されて風前の灯になったとされているからです。ところがヒゼキヤは、その絶体絶命のピンチから神の介入によって奇跡的に救い出されています。そのことが今日の箇所のすぐ前のイザヤ書37章36節に書かれています。

主の使いが出て行って、アッシリアの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。

アッシリア軍の大軍に包囲されて陥落のピンチにあったエルサレムは、一夜にして解放されたのです。イザヤ書を素直に読めば、まさにこの奇跡的な救出劇の後に、ヒゼキヤは大病をした、という風に読めます。ヒゼキヤとしては一難去ってまた一難、という具合です。しかし、実際にはどうもそうではないようなのです。むしろ、アッシリアのセナケリブによるユダ王国への猛攻撃の前に、ヒゼキヤの大病と奇跡的な治癒があったということです。つまりイザヤ書を実際の歴史の流れ通りに読むならば、38章、39章と読んで、それから36章、37章と続けて読むのが正しいということです。なぜそう言えるかと言えば、根拠は二つあります。一つは、病のヒゼキヤに神がある約束をしていることです。それは、「わたしはアッシリアの王の手から、あなたとこの町を救い出し、この町を守る」という約束です。しかし、37章から続けて読むならば、神はエルサレムをアッシリアから守ったばかりなのです。そしてアッシリア王はこの敗北に懲りてエルサレムを二度と攻めようとはしませんでした。ですから、この約束がアッシリアによるエルサレム攻略作戦の失敗の後にヒゼキヤに与えられたと考えるのは筋が通りません。

もう一つの根拠は、バビロンの王メロダク・バルアダンがヒゼキヤの快癒を祝って使節を送っていることです。このメロダク・バルアダン王は紀元前702年、つまりアッシリアによるエルサレムの包囲の前年に世を去っています。ですから、ヒゼキヤに使節を遣わしたのがアッシリアによるエルサレム包囲の後であるはずがないのです。この二つの根拠から、イザヤ書38章と39章の出来事は36章と37章に書かれている出来事、すなわちセナケリブ王によるエルサレム包囲に先立つ出来事だということになります。順番がひっくりかえっているのです。そのことを頭に入れながら、今日の箇所を読んでいく必要があります。

では、ヒゼキヤに使節を送ったメロダク・バルアダンというバビロンの王はどんな人物だったのでしょうか。当時のバビロンは超大国であるアッシリア帝国と比較すれば小国に過ぎませんでしたが、なんとかアッシリアの支配から脱して独立しようと悪戦苦闘しているところでした。メロダク・バルアダンは一度はアッシリアに敗れて亡命していたのですが、アッシリア王サルゴンが紀元前705年に死んでアッシリアの政情が不安定になると、再びアッシリアからの独立を目指して活発に外交活動を始めました。諸外国と同盟を結んで、アッシリアのくびきから脱しようとしたのです。ですから、彼が病の癒えたユダ王国のヒゼキヤ王にお祝いの使節を送ったのは単なる社交辞令的なものではなく、むしろ反アッシリア同盟に加わるように持ちかけるためだったのです。こうした大きな国際情勢のうねりの中で、今日のみことばを考えていかなければなりません。

では、38章1節から読んで参りましょう。病の床にあったヒゼキヤ王に、預言者イザヤが非情とも思える預言の言葉を与えるところから場面は始まります。イザヤはこう言います。

主はこう仰せられます。「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。」

つまり、イザヤは王に「終活をせよ。あなたは不治の病なのだ」、という神の託宣を伝えたのです。今の時代も、不治の病にある人に告知するかどうかというのは非常に繊細な問題なのですが、イザヤは容赦なくはっきりと王に告知しました。その言葉を聞いたヒゼキヤは泣き崩れ、必死に神に祈りました。彼はこう言いました。

ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行ってきたことを。

ヒゼキヤは、確かに主に熱心な王でした。彼の父アハズが異国の神々への礼拝をイスラエルに広めましたが、ヒゼキヤはそれを撤回してイスラエルの神への信仰を回復させるために努めてきました。神もその姿を見てこられました。そして神は涙にくれるヒゼキヤを憐み、死の宣告を撤回すると決められました。これは驚くべきことです。神が一度決められたことを、撤回することがあるのかと。しかし神は憐み深いお方です。一度決められたことを変えてくださるというのはあり得ることなのです。

神はヒゼキヤの下に再び預言者イザヤを遣わし、二つのことを約束されます。一つは、ヒゼキヤにあと15年の寿命が与えられること、もう一つは主が必ずアッシリアからエルサレムを守るという約束でした。しかも二つ目の約束はヒゼキヤの願いに応えたものではなく、神からの全くの恵みとして与えられた約束でした。南ユダ王国の兄弟国である北イスラエル王国は紀元前722年にアッシリアによって滅ぼされており、南ユダ王国も大国アッシリアへの不安におののいていました。その脅威からかならずあなたとあなたの国を守ると神は約束されたのです。

イザヤから神の言葉を聞いたヒゼキヤはその言葉が確かであることのしるしを求めました。そのことはイザヤ書では癒しがなされた後の22節にヒゼキヤがしるしを求めたと書かれていますが、列王記では順序が違っていて、しるしを求めるヒゼキヤの願いに応える形で日時計の奇跡があったということになっています。おそらく列王記の方が順序としては正しいのでしょう。つまり、22節を7節の前に持って来るとよく意味が通じるということです。ここで神のしるしを求めたヒゼキヤの態度は、彼の父アハズとは対照的でした。

かつてアハズ王は、周りの国々から包囲されて攻められるという危機に際して恐れおののきましたが、そのアハズに対してイザヤから主を信頼しなさい、主が外敵からあなたとあなたの国を守ると言いました。イザヤは信仰の大切さを強調してこう言いました。「もし、あなたが信じなければ、長く立つことはできない」と(7:9)。さらにイザヤは。神の約束が確かであることの証しとして、神にしるしを求めなさい、とアハズ王に言います。けれどもアハズ王はそれを拒否しました。彼は口では「主を試みません」と言いましたがそれは本心ではなく、むしろ彼は神を信頼したくなかったのです。彼は見えない神よりも、目に見えるアッシリア帝国を信頼することを選び、アッシリアの王に「わたしを救ってください」と願い出て、アッシリア王の力で外敵から守ってもらいました。その結果、ユダ王国はアッシリアの属国となり、アハズ王がアッシリアの宗教を取り入れることを決めたのでユダ王国にはアッシリアの宗教が流行るようになってしまいました。その状況を逆転させることに心血を注いできたのが息子のヒゼキヤだったのです。そしてヒゼキヤは父アハズとは異なり、神のことばが確かであることのしるしを求めました。するとその時、聖書の中でも最も驚くべき奇跡の一つが起きました。それは日時計が逆の方向に十度戻る、つまり太陽が逆の方向に動くという奇跡でした。もちろん太陽の周りを地球が回っているのであってその逆ではないので、太陽が逆方向に動いたように見えるということは地球が逆の方向へ動いたということなのでしょう。または別の説明もあり得るとは思います。いずれにせよ天の運行が変えられたと思わせるほどのとんでもない奇跡が起こったのです。

ここで神がヒゼキヤに与えたものの大きさは本当に驚くべきものです。神はヒゼキヤに寿命の延長を与え、彼の王国の安全を保障し、さらには天の運行を変えるという奇跡さえ与えたのです。それらの大きな恵みに感動し、ヒゼキヤは神への賛歌を歌います。その内容が10節から20節までです。

さて、ここまでは素晴らしく感動的な話なのですが、39章に入ると様相が一変します。ヒゼキヤが死ぬほどの大病から奇跡的に助かったという話を聞いたバビロンの王メロダク・バルアダンは、ヒゼキヤに手紙と贈り物を送りました。この手紙というのは通り一遍の挨拶状ではなく、ユダ王国に反アッシリア連合に加わるように促す秘密文書であったことは間違いないものと思われます。かつてヒゼキヤの父であるアハズ王は、兄弟国の北イスラエル王国などから反アッシリア連合に加わるようにとの圧力を受けましたがそれを拒否し、むしろアッシリアに頼ることに決めました。しかし、その子であるヒゼキヤは父とは正反対の決断をしたものと思われます。つまり、ヒゼキヤは、バビロンからの反アッシリア同盟に加わるようにとの依頼を受諾したということです。彼はバビロンへの信頼の証し、同盟の誓いの証しとして自らの手の内をさらすという行動に出ました。彼はユダ王国にはどれほどの武器や軍資金があるのかを、同盟国となるバビロンに示したのです。

そのことを知ったイザヤは落胆し、また怒りました。ヒゼキヤは何も学んでいないのか、と。ヒゼキヤは、すでに神からあなたの国を守るという約束を受けていました。それなのに、なぜ他国の力を当てにする必要があるのでしょうか。神の約束だけでは十分ではないとでもいうのでしょうか。この行動はヒゼキヤの不信仰の表れでした。実はヒゼキヤはかつて同じ過ちを犯したことがあったのです。父アハズから国を引き継いだばかりの頃のヒゼキヤは、アッシリアの支配から逃れたいと強く願っていました。しかし、その時彼がより頼んだのは神ではなくエジプトだったのです。そのことをイザヤは、30章1節から2節でこう言っています。

ああ、反逆の子ら。―主の御告げ-彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を増し加えるばかりだ。彼らはエジプトに下って行こうとするが、わたしの指示をあおごうともしない。パロの保護のもとに身を避け、エジプトの陰に隠れようとする。

イザヤ書31章1節にも、同様のことが書かれています。

ああ。助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬にたより、多数の馬車と、非常に強い騎兵隊とに拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。

イザヤはヒゼキヤの父アハズ王に、近隣の大国に頼るのではなく神に頼りなさいと口を酸っぱく警告しましたが、アハズはその忠告を聞かずにアッシリアに走ってユダ王国をアッシリアの奴隷にしてしまいました。その奴隷状態からの解放をヒゼキヤは求めたのですが、その彼も神ではなくエジプトに走りました。それを見ていたイザヤは深く失望したことでしょう。しかし、いざパレスチナの国々がアッシリアに反旗を翻して戦った時にはエジプトは様子見を決め込み、それらの国の一つのアシュドデ王が破れてエジプトに逃げ込むと、エジプトはなんとその王をアッシリアに差し出すことすらしました。エジプトは全く頼りにならない同盟国であり、エジプトとの同盟はまさに「よみとの同盟」(28:15)だったのです。

ヒゼキヤはこの苦い失敗に懲りて、今度こそ神のみに信頼すべきでした。しかも彼は神から「わたしはアッシリア王の手から、あなたとこの町を救い出し、この町を守る」という約束の言葉を与えられ、さらにはその約束が真実であることの証として信じられないようなしるしも与えられていたのです。それなのに、彼は神よりもバビロンとの同盟を選んでしまいました。イザヤと、そしてイザヤを遣わした神はその態度に激しく怒り、最大限の厳しい言葉で叱責し、最悪の未来を示しました。イザヤは言いました。

万軍の主のことばを聞きなさい。見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンに運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と主は仰せられます。また、あなたの生む、あなた自身の息子たちのうち、捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者があろう。

これは最悪の未来図でした。普通ならこんなことを聞いたら真っ青になるところです。しかしヒゼキヤは平然とこう言い切りました。

あなたが告げてくれた主のことばはありがたい。

なんという鉄面皮な答えでしょうか。反省するどころか、それがどうした、というような態度です。しかもそのような答えをした理由がさらに恐ろしいものでした。ヒゼキヤは「自分が生きている間は、平和で安全だろう」と思ったというのです。自分が生きている間さえよければそれでよい、後は野となれ山となれだ、という恐るべき態度です。こんな王がどうして「彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった」と列王記の記者から評価されたのか理解に苦しむところです。これはきっと皮肉なのだろう、と思ってしまいます。イザヤが彼に厳しい評価を下していたのは、イザヤ書がヒゼキヤについての一連の話をアッシリアからの奇跡的な救出ではなく、この木で鼻をくくったようなヒゼキヤの言葉で結んでいることからも明らかなように思えます。しかも、神はこのような無礼者であるヒゼキヤに対しても誠実であり続けました。その後ヒゼキヤはどうなったかといえば、バビロンと同盟を結んだことがアッシリアの逆鱗に触れることになり、ユダ王国はアッシリアの新しい王であるセナケリブの猛攻を受けることになります。ユダの主要都市が次々に陥落し、エルサレムも絶体絶命のピンチに陥ったとき、神はヒゼキヤに与えた約束通りに彼とエルサレムを救い出しました。しかし、実際は神はヒゼキヤの祈りに応えたのではなく、彼の父祖であるダビデとの約束のためにそうされたのかもしれません。イザヤ書37章35節にこうあるからです。

わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。

神はヒゼキヤの為ではなく、ダビデのためにエルサレムを救うと言われました。神は、遠い昔にダビデと交わした約束を果たすために、今回はエルサレムを守ってくださったのです。こうしてみると、ヒゼキヤの物語から浮かび上がってくるのは神の誠実さと人間の不誠実とのコントラストなのだ、と言えるのではないでしょうか。信仰の人と称えられたヒゼキヤも、イザヤの目から見れば不誠実な王だったということです。

3.結論

まとめになります。ユダ王国の中でも例外的なほど敬虔な王だとされているヒゼキヤが実際にはどのような人物だったのか、ということを学んできました。確かに彼は父王であるアハズの過ちを正すために努力をしましたし、神もそれを認めておられました。しかし彼は肝心なところではアハズの過ちを繰り返してしまいました。つまり神ではなく、人の力に頼ろうとしたことです。神に信頼せず、むしろ同盟国の力を利用して自分の野心を遂げようとしました。ここに彼の信仰の弱さが如実に表れています。

私たちもこのヒゼキヤの行動からいくつかの教訓を得ることができるでしょう。私たち日本も、ある意味で当時の南ユダ王国のような国際環境にあります。ユダ王国はアッシリア、エジプトという大国に挟まれ、また新興国であるバビロンからの影響も受けていました。日本もアメリカと中国という大国に挟まれ、しかも北朝鮮やロシアという、友好的とは言い難い国々に囲まれています。そんな中で今の日本が取ろうとしている戦略は平和憲法を捨ててアメリカにひたすら追従しようというものです。今や日本はとうとう武器輸出三原則を変えて、他国の紛争に介入しようとしています。いずれはアメリカ軍の一部となって、中国に対峙していこうという勢いです。しかし、日本はいわゆるキリスト教国ではありませんが、日本の平和憲法は世界でもイエスの教えに最も近い憲法なのです。そのイエスの教えを捨てて、ヒゼキヤが近隣の大国に走ったようにアメリカに走ることが果たして本当に良いことなのか、この国のクリスチャンは真剣に考える必要があります。

また、イザヤから告げられた裁きの言葉を、自分とは関係のない遠い未来の話だからと、柳に風と受け流したヒゼキヤの態度は今の日本とも重なって移ります。例えば原発の問題です。今日のエネルギー危機に際して、原発再稼働やむなしという機運が強まっています。しかし、原発から生まれる膨大な核のゴミをどうするのかという問題は全然解決されていません。未来の人たちがなんとかしてくれるだろうという、要は付け回しをしているだけです。しかも核のゴミが安全になるには10万年が必要だとされています。人類が存続しているかもわからない遠い未来の話です。いま膨大な数の核のゴミのガラス固化体が青森の六ケ所村に備蓄されていますが、青森県は最終処分場になることを決して認めていません。未だに宙ぶらりんの状態で、だれも責任を取ろうとはしません。そんな危険な核のゴミを押し付けられる私たちの子孫の苦労について、もう少し真剣に考えるべきではないかと思うのです。また、日本の場合は国の借金の問題があります。今や日本の借金は1200兆円で、一年間の税収の20倍以上という天文学的な数字になっています。毎年の税収を全部借金返済に充てても、20年以上かかる計算になります。しかもその国債の半分を日銀が保有しているのです。もう民間では支えきれないので、国の借金を国の中央銀行が買い取るという悲惨な状態になっているのです。しかし、いつまでもこんなことを続けてはいられません。この国債返済の重荷も、私たちの次の世代の責任になります。彼らは自分がしたわけでもない借金の返済に苦しまなければならないのです。しかも、その刻限は刻一刻と狭まっているのです。

こういう大きな問題を話しても、「私たちにはどうしようもないじゃないか。そんなことを心配しても仕方がない」という答えが返ってきます。しかし、核のゴミも国の借金も私たちが無視すれば消えてなくなるわけではなく、確実に子孫に負の遺産として受け継がれていきます。ユダ王国の人々がそれから後に亡国というつけを払ったように、日本においても次の世代の人たちがこのつけを払うことになります。そのような無責任な話にしないためにも、私たちはヒゼキヤのように開き直ることなく、真摯にこうした問題に向き合いたいと願うものです。私たちが日本においてキリストの福音を宣べ伝える必要があるのは、こうした問題に無感覚になってしまった日本の人々を目覚めさせる、神から被造物をお預かりしていることの責任の重大さを自覚させるためでもあります。このために、一層福音伝道に励んで参りましょう。お祈りします。

天地万物の創造主であり、歴史を導かれる神様、そのお名前を讃美します。今朝はイザヤ書から、名君と謳われたヒゼキヤ王の信仰を学びました。しかし彼もまた、神への完全な信仰に生きたと言うには程遠い人物でありました。私たちも彼を笑うことは出来ません。私たちもまた、神よりも目に見える力に頼ろうとしているからです。どうか、私たちに勇気を与え、イエスの教えに従って歩む力をお与えください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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イザヤ書における王イザヤ書42:1-9森田俊隆 https://domei-nakahara.com/2022/09/18/%e3%82%a4%e3%82%b6%e3%83%a4%e6%9b%b8%e3%81%ab%e3%81%8a%e3%81%91%e3%82%8b%e7%8e%8b%e3%82%a4%e3%82%b6%e3%83%a4%e6%9b%b8421-9%e6%a3%ae%e7%94%b0%e4%bf%8a%e9%9a%86/ Sat, 17 Sep 2022 23:53:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=3800 "イザヤ書における王
イザヤ書42:1-9
森田俊隆
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* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

今日は先月に続きイザヤ書からのお話です。イザヤ書に示されている王というのはどのような王なのかを見てみたいと思います。主イエスには、キリストとしての三つの職務がある、と言ったのは宗教改革者カルヴァンです。三つの職務と言っているのは「預言者、祭司、王」の三つです。預言者としての役割、祭司の役割はわかりやすいのですが「王」の役割は具体的にはイメージできません。主イエスの十字架上での死は世にいう「王」とは似ても似つかない、みじめなものであったからです。そのため、王であるのを示されたのは十字架によるのではなく、復活によるのである、とか、王の役割・職務が十全に示されるのは将来に予定されている主イエスの再臨、最後の審判の時、である、とか、正直なところ言い訳がましい説が言われます。王たる主イエスのいわば原型がイスラエルの歴史にあるとすれば、イザヤ書に示された王がその理解を助けるものになるのではないか、ということで、「イザヤ書における王」というものを見てみたい、と思うのです。

まず、基本的なこととして理解しておいていただきたいのは、旧約聖書は社会的な制度としての王制には極めて懐疑的だ、ということです。サウルが王になる前に、イスラエルの民が、王が必要だと預言者サムエルに言ったとき、主なる神の言葉はNegativeなものでした。サムエル記上8:9「今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ」という言葉が記されています。王を定めると、王が民を支配し、イスラエルの主はヤハウェのみである、ということがおろそかにされ、王の方も指導者がいつの間にか支配者になり、神のみむねから離れていく、というのがその理由です。詩編145: 1では「私の神、王よ。私はあなたをあがめます。あなたの御名を世々限りなく、ほめたたえます。」とあり、神と王を同一視しています。したがって、旧約聖書で「王」と言う時は、イスラエルの主なる神を指しているのか、地上の王を指しているのかの区別をする必要があります。この結果、イスラエルの歴史記述において現実の王はほとんど良く言われず、ヤハウェ信仰を確立するよう努めた数人に賛辞が送られているのみです。後に、べたぼめされるようになったダビデについても部下の妻を奪うようなことをした彼の悪行を明白にしるしています。この行為はダビデが、単なる指導者ではなく部下に対し横暴な支配者としてのふるまいを見せたことを意味しています。ダビデ王朝は既に、主なる神のイスラエルの直接支配の考え方から離れてしまっていたことを暗示しています。他方で、エジプトをはじめとして、地上の王は神の代理人、乃至は神そのものとしてふるまっている国がむしろ、通常であり、この考え方がイスラエルにも入り込んでいたことも事実です。

イザヤは当初は宮廷預言者であったと想像されています。宮廷預言者であれば通常は王の意向を忖度し、神の言葉を預かる者としての預言者の機能が融和的になりがちなのですが、イザヤはそのような人物ではなく、主なる神の言葉を忠実に、王に、貴族に、民に語ったようです。時の王アハズ、ヒゼキヤに手厳しいことも多数言っています。伝承によれば、イザヤはこの後の王マナセによってのこぎりで惨殺された、と言われています。これらのことから、イザヤは王制に懐疑的なイスラエル信仰の伝統を受け継いでいたのではないか、と推測します。

イザヤ書における王の関連個所としてまず見たいと思うのは本日の聖書箇所42:1-9です。この個所はイザヤ書で有名な五つの「僕の歌」のうち、第一のものです。僕(しもべ)と言っているのは主なる神ヤハウェの僕の意味です。この僕というのは具体的には何を、だれを指して言っているのか、という点については2千年以上にわたってユダヤ教、キリスト教で議論になっており、いまだ決着はついておりません。キリスト教ではこの第四の僕の歌「苦難の僕」が主イエスの予型であるということがすぐ言われますが、旧約の文脈の中ではどのような意味なのかについて、定説はありません。イスラエルの民のこと、そのうちの信仰者「残りの者」のこと、イスラエルの王のこと、預言者イザヤ自身のこと、預言者集団とか祭司集団のこと、というような説があります。ユダヤ教の神学者のなかに、ヘブル語では一つの言葉が、共同体を全体として指すと同時にその代表者としての個人を合わせ意味する場合がある、という理解があります。そうすると、この「僕の歌」Iでの「わたしのしもべ」はイスラエルという信仰共同体とそのイスラエルの指導的立場にある王の意味を併せ持っている、と解釈することができます。ここではそのうち、イスラエルの指導者である王に着目します。

国々に公義をもたらすものとしてのイスラエルの王、の部分は良いにしても、2-3節「彼は叫ばず、声をあげず、 ちまたにその声を聞かせない。/彼はいたんだ葦を折ることもなく、 くすぶる燈心を消すこともなく、 まことをもって公義をもたらす。」とあり、通常の王のイメージとは大きく異なります。極めて控えめ、謙虚な態度を示している王です。「いたんだ葦を折ることもなく」大切に扱い、「くすぶる燈心」を手で囲み、風をよけ、消えないようにしている方です。地上の王として、支配者としての王とは逆のイメージです。イスラエルの王であれば民を鼓舞するために「叫び、声をあげる」のが当然ですし、「いたんだ葦」には水を、「くすぶる燈心」には油を与え、元気になるようにするのが当然の役割ですが、「残っている命」をいつくしむように大切にする、というのです。ここにはイスラエルの信仰者「残りの者」を大切に思う主なる神の心が写されています。イスラエルの民を大切にする王の姿、ということができると思います。その王であればこそ「公義をもたらす」ことができるのです。民に仕える王と言えるかもしれません。

ここで「公義」ということに注目してみます。公(おおやけ)の義(ぎ)という漢字であり、普通の日本語にはありません。社会正義というような意味と思います。第一の僕の歌42:1では「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、 わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。 わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす」と言っています。これの前のイザヤ書11:4-5には「正義をもって寄るべのない者をさばき、 公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。正義はその腰の帯となり、 真実はその胴の帯となる」とあります。「正義と公正」が、イスラエルの共同体、更には他の国々にも行き渡ることが主なる神の期待であり、それを地上で実現するために力を尽くすことが指導者たる王に求められています。その役割は、「貧しい者のために判決を下し」、「くちびるの息で悪者を殺す」ことです。このような王の役割についてはBC18cの「ハムラビ法典」に示されています。人間社会は野放図にしておくと、強者が弱者を支配する社会になってしまうのだから、王はむしろ、その弱者に手を差し伸べる態度を示さなければならない、という考え方です。王がそのような態度を示していないから暴動、そしてそれを、てこにして、革命がおきるのです。革命後の混乱の後、また別の支配と、被支配が確立します。一時的には別として、いつまでたっても、弱者のための国にはならないのが歴史的事実です。

では理想の王とされている、弱者の味方が助けるべき人々はどのような人々でしょうか。イザヤ書1:23では逆に迫害されている人々はだれか、という見地から、「おまえのつかさたちは反逆者、盗人の仲間。 みな、わいろを愛し、報酬を追い求める。 みなしごのために正しいさばきをせず、 やもめの訴えも彼らは取り上げない」と言われています。旧約聖書では弱者の代表として「やもめとみなしご」という表現がしばしば出てきます。どちらも主な原因は戦争です。夫が戦死した妻が、夫の家を追い出されたのが「やもめ」であり、家族が戦争で死んでしまい、孤児となったのが「みなしご」です。王、指導的役割の人間の役割の最大のことは、このような人々が大量に発生することを避けることです。正義の実現のために命を捨てて戦え、というのは理想の王のやることではありません。地上の王が、民を横暴に支配する者になってしまっているのであれば外国の支配の方がよほどまし、という事態も起こり得るのです。私は、敗戦直後の一時期はアメリカの占領軍の支配の方が、軍国主義で突っ走った天皇制政府よりずっとましだった、と思います。支配国が謙虚な態度を保っている間はこのような時期があります。

この弱者である民のための王、という考え方は、イザヤ書49:23に示されています。「王たちはあなたの世話をする者となり、 王妃たちはあなたのうばとなる。 彼らは顔を地につけて、あなたを伏し拝み、あなたの足のちりをなめる。 あなたは、わたしが主であることを知る。 わたしを待ち望む者は恥を見ることがない」とあります。ここは「しもべイスラエルとシオンへの励まし」とタイトルがつけられている49章のうち「シオンの回復」と小タイトルがつけられているところです。王があなた達、回復されたイスラエルの民の世話をするもので、王妃は赤ん坊のめんどうをみる乳母となる、というのです。これがイザヤのイメージしている王と王妃の究極的な姿です。この部分は49:7「イスラエルを贖う、その聖なる方、主は、 人にさげすまれている者、 民に忌みきらわれている者、 支配者たちの奴隷に向かってこう仰せられる。 「王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。 主が真実であり、 イスラエルの聖なる方が あなたを選んだからである。」と言われていることの成就です。「人にさげすまれている者、 民に忌みきらわれている者、 支配者たちの奴隷」であるイスラエルの民よ、いまや、その王たちがあなたとその周りの人々の面倒を見てくれるようになる、それが主なる神の約束だ、というのです。これは民に仕える王の典型です。信じられないような王の姿です。

この部分で一点注意していただき点があります。この民に仕える王は外国の王が念頭にある表現になっています。このイスラエルの回復のところではイスラエル民族の王なのか、外国の王なのかはいまやその区別はない、という社会がイメージされているのですが、イザヤが述べた時期と照らし合わせると、重大なことを意味しているということです。イザヤ書のこの部分についてはイザヤの述べたことだという説と第二イザヤと称せられる、イザヤの弟子集団が述べ、書いたものだという説があります。イザヤ書の内容・言葉の統一性からして一人の人物イザヤの言葉と見るべきだという意見も傾聴に値しますが、偉大な人物の名によって語る、というのは通常のこととしてあったという、当時の実情からして、弟子集団の言葉として解する第二イザヤ説を私は支持しています。こんなことよりもっと重大なことは、預言者の語る神の言葉では外国の王とか、自国の王とかはほとんど無意味なものとして扱われていることです。主なる神ヤハウェを信仰している王かどうかは重大なこととされていない、ということです。44:28「わたし(主)はクロスに向かっては、『わたしの牧者、 わたしの望む事をみな成し遂げる』と言う。 エルサレムに向かっては、『再建される。 神殿は、その基が据えられる』と言う」とあります。クロスというのはペルシャ王クロスのことを言っている、と解釈するのは自然です。ヤハウェはクロスをイスラエルの牧者として扱う、と言っているのです。これはクロスが「主の僕」とみなされる、ということです。更に45:1では「主は、油そそがれた者クロスに、 こう仰せられた。 「わたしは彼の右手を握り、 彼の前に諸国を下らせ、 王たちの腰の帯を解き、 彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする」とあります。この部分はクロス預言と言われます。しかし、クロスは捕囚のユダヤ人の帰国を許し、神殿再建をなさしめた王ですからヤハウェ信仰者ではなくても「主の僕」扱いされるのは不思議ではないのかもしれません。

しかし、エレミヤに至ってはそうとも言えません。なお第二イザヤ説によればエレミヤ書は時間的に、このクロス預言の前のことだということになります。エレミヤ書43.10では「 彼ら(イスラエルの民)に言え。 イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。見よ。わたしは人を送り、わたしのしもべ、バビロンの王ネブカデレザルを連れて来て、彼の王座を、わたしが隠したこれらの石の上に据える。彼はその石の上に本営を張ろう」と言われています。これは衝撃的です。ネブカドネザルはユダ王国を武力で滅ぼし、ユダヤの指導者たちをバビロンに捕囚した張本人です。そのような人物、王をヤハウェは「わたしのしもべ」と呼んでいるのです。侵略者カルデヤ人の王を主なる神は僕扱いしているということです。この個所は私にとって衝撃的でした。ユダ王国に史上最大の悲劇を招いた人物を僕として扱う神とはいかなる神なのでしょう。エレミヤは外国の王か、自国の王か、の区別を無意味と考えるイスラエル預言者の伝統に従っており、それをイスラエルの民に災厄を齎した王にまでひろげているのです。ユダ王国の最後の王ゼデキヤはエジプトを頼りとしてバビロニアに反旗を翻した人物ですが、それにしてもこのユダ王国を滅ぼした「にっくき」ネブカデネザルをたたえるとはいかなることでしょうか。主なる神の大きな救済史の流れの中で、ユダ王国も新バビロニアもそれぞれの役割を果たすように導かれる、ということです。このような信仰は、他では見られません。民族を守ってくれるのが神の最大の役割ですが、預言者の預かった神の言葉は、そのようなことを超越したところに存在します。異国の乱暴な王も一時的にはヤハウェの僕の役割を果たすこともある、ということです。もちろん、その役割を終えると、そのような王は神が滅ぼされます。このような見方は現実の戦争の場面に直面した時に、王、乃至は国民の指導者はどうあるべきかに関する重大なメッセージを伝えています。戦争に勝つか負けるかはどうでもよいことなのです。民が平和に、日常の生活を大切にし、命をつないでいくことこそが選びの民の指導者が指し示すべき道です。現代における戦争は、民が死に、指導者は生き残る、という根本矛盾を抱えています。戦争を始めた指導者が最初に死ぬ、と決まっていれば戦争は起きないでしょう。

イザヤが描いている地上の王のあるべき姿は実に仰天です。支配者としての王とはまるで異なるのです。民に尽くす、仕える王であるということです。それは自国の王か外国の王かも関係ありません。また悲惨な結果を引き起こす王が神の僕としての王である場合もあるというのです。主なる神がなぜそのようなことを選びの民に強いるのか、わかりません。理屈としてはいろいろいうことができるでしょう。伝統的にイスラエル信仰は、これを「神の試み」と解釈しようとしてきました。私は、そんな不遜なことを言うことはできません。あのナチスのホロコーストの実情を前にして「神の試みだ」などと言えるでしょうか。黙る方がよほど誠実です。逆に罪滅ぼしとして現在のイスラエル国家の残虐行為を容認する態度も問題です。イスラエルの地にあって、和解のために必死に祈り、裏切者と言われても活動を続けている人々と祈りを共にしたい、と思います。キリスト教にもユダヤ教にもそのような人がいます。

最後に新約との関連を申し上げます。イザヤが示した、弱き民に仕える王、というイメージは、全能の支配者としての王なる神を否定するものではありません。むしろ全能者の神が民に仕える王でもある、という点を知らねばなりません。ある意味では神はこの矛盾して見える両面を併せ持っている、ということです。主イエスと主なる神の関係です。選びの民の指導的立場にある人は、民に仕える者として行動すべきで、その結果、命を落とすようなことが起きても、神が復活の力をお与えくださる、ということです。復活は結果です。主イエスは最後の時まで、民に仕える者としてこの地上で生きてくださり、我々に範を示してくださいました。支配者の王の役割は主なる神、自らが、適当な時に、適当な方法でお示しになります。地上の王の役割ではありません。主イエスの弟子たちの足を洗った洗足の行為は仕える王を象徴することです。主イエスの三職の内、王の職務はここに示されているのであって、再臨の時を待たねばならない、ものではありません。既に主イエスの言動のなかに示されています。それは預言者イザヤが示した仕える王の姿です。その王が死後どのように扱われるのかは主権者であり全能の支配者、神のなす業であり、我々は、信じて委ねるだけです。祈ります。

(ご在天の父なる御神様、今日の礼拝、賛美の時を感謝いたします。今日はイザヤ書の最初の「僕の歌」からイザヤ書の示している王のあるべき姿を見ました。戦争に敗北することは神の前に恥とすることではありません。悪が一時的に支配することはあることですから。むしろ、多くの民が苦難に直面し、命を奪われていくことこそ、主が嘆かれることです。自らの命と引き換えに、民の命を救うことこそ指導者に課せられた最大の使命です。イザヤが示し、エレミヤが示した、仕える王の心が、政治指導者を覆ってくださいますように。主イエスがここにいらっしゃったら、どう命じられるでしょうか。常にそれを行動の指針とするよう、我々に勇気ある信仰をお与えくださるよう切に祈ります。主イエスの御名により祈ります。)

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大国の狭間でのイスラエル信仰イザヤ書7:14-25森田俊隆 https://domei-nakahara.com/2022/08/21/%e5%a4%a7%e5%9b%bd%e3%81%ae%e7%8b%ad%e9%96%93%e3%81%a7%e3%81%ae%e3%82%a4%e3%82%b9%e3%83%a9%e3%82%a8%e3%83%ab%e4%bf%a1%e4%bb%b0%e3%82%a4%e3%82%b6%e3%83%a4%e6%9b%b8714-25%e6%a3%ae%e7%94%b0%e4%bf%8a/ Sat, 20 Aug 2022 23:53:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=3648 "大国の狭間でのイスラエル信仰
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* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

今日と来月はイザヤ書からお話させていただきたい、と思います。イザヤ書は言わずと知れた、聖書における最大の預言書です。66章ありますが、これがちょうど新旧約聖書の文書総数66と一致していて、イザヤ書を39章までと40章以降に分けると、それが旧約聖書と新約聖書の文書数にも一致します。実はイザヤ書は39章までと40章以降では成立年代が相違していることがほぼ明らかであり、39章までの著者を第一イザヤ、40章以降を第二、第三イザヤと称しています。39章までは預言者イザヤが預言を述べ伝えた時期の歴史に密着した話です。もちろん歴史叙述そのものではありませんが、預言者イザヤが当時の複雑な国際情勢にあって王やイスラエル特にユダ王国の民に向かっていかなる言葉を語ったかが記されています。それはイザヤが主なる神より預かった言葉でした。

イザヤが述べたのは、①ユダ王国はいずれの他国とも軍事的同盟はせず、中立であるべきである。ただ主なる神の力のみを頼りとすべきである、②当時の世界帝国アッシリアは狂暴であるが、それは神の裁きの手段であるのでこれを受忍すべきであること、です。このアプローチは約120年後のエレミヤに継承されます。エレミヤもアッシリアを滅ぼしたバビロニアの王ネブカデネザルを「神の僕」とし、ユダ王国は狂暴なバビロニアの支配を受容すべき、と主張したのです。イスラエルを選びの民として主なる神が外国の圧政者を手足に使い、イスラエルに裁きを行う、という思想です。ここには、民族的守護神としての主なる神から、世界大の主なる神への転換が見られます。これは世界の宗教の中でも異色の特徴です。自らの選びの民を、外国人勢力を使い、裁きの結果として、破滅的状況に追い込み、離散の民とし、その中でも主なる神への信仰を貫く人々(それを「残りの者」といいますが)を通して、神の国、という信仰共同体を復活させる、というのです。なぜ、選びの民はそのような悲惨な目に合わねばならないのでしょうか。いかなる、罪を犯したのでしょうか。他の国民以上にひどい罪を犯したのでしょうか。そんなはずはありません。選びの民であるが故の苦難であり、主なる神は選びの民が世界の罪を贖い、人間のみならず世界の救いを証し(あかし)するものとなることを望まれている、ということであろう、と思います。私たちも、主イエスを「主」と告白したところでこの選びの民にされたのです。「新しきイスラエル」です。このイザヤにより基が据えられ、エレミヤが具体的に示した、選びの民の使命はイスラエル信仰の行きつく先を指し示しています。私たち、キリスト者にとっては決定的に重要なことが述べられています。

イザヤの言っていることを具体的に理解するためには、当時の国際政治状況において基本的なことを理解しておく必要があります。北王国イスラエルの王はヤラベアムII世、南王国はアザリヤ(別名ウジヤ)の時代から始めるのが妥当です。BC8cの前半です。ヨーロッパではギリシャ文明の曙の時代であり、神話におけるローマ建国の時代です。中国では春秋戦国時代の初め、です。当時、イスラエルを取り巻く情勢は大国の勢力が内紛により衰え、イスラエルを含むカナンの地には世界帝国による圧迫はなく、自由な経済活動が行われた時代です。エジプト、アッシリア、イラン、中国とつながる経済活動、文化的広がりにおいてカナン地方は貿易の中継拠点として繁栄いたしました。一般の歴史では南北イスラエル王国の黄金時代と言われています。繁栄はその実(じつ)格差の拡大です。小規模農耕業者は没落し、大土地所有者と小作農という関係になり、更に小作農は農奴的状況に陥る人々が多数でました。また外国貿易によって富を蓄えた商業資本は漸次力をつけてきていました。この勢力はその後、肥大化し、数百年後には大国の徴税権の代行者となり、その富の急拡大を手にすることになります。古典的なイスラエル信仰は生きたものとして働かなくなっていました。イスラエル信仰の基本は「主なる神によるイスラエルの民の直接支配」であり、強固な平等意識が根底にあったため、格差社会はその意識を破壊していったのです。

しかし、北の大国アッシリアはBC745、ティグラト・ピレセルIII世ブルが王に即位して後、軍制の大改革を行い、中央集権的体制を敷き、常備軍による軍に切り替え、周囲の地域を統合し始めました。戦車も新式のものを導入し、周囲の国の及びもつかない強力な軍事国家を形成しました。まずバビロニア地域を平定し、次いで、西方進出し、カルケミシュ、アレッポ、そして南方に向かい、ダマスコを支配下に入れ、更にカナンの地を狙う気配でした。この王は、占領すると征服民の民族的同一性を解体し、直轄的支配を行いました。その手段として住民の入替を行ったことが知られています。占領地の住民を遠方の新しい地に移住させるとともに、他の地域から大量の植民者を受け入れる、というやり方です。これは、後のイスラエルに対する捕囚の先駆けである、と言えます。現代になってからもスターリン体制のソ連において行われました。民族の破壊です。

その当時、北イスラエル王国ではヤフー王朝最後の王ゼカルヤがクーデタで死んだBC745以降、内部的権力争いが頻発し、王の暗殺が度々起き、不安定な政情となりました。ユダ王国の方は病にあったウジヤ王の子のヨタムが摂政となり、そのヨタムが死んでからはその子のアハズが王位を継ぎました。ダビデ家系が維持されています。ティグラトピレセルIII世はBC738頃、シリア・パレスチナ方面に遠征しますが、この時は、ダマスコ、ツロ、カルケミシュ、更にはアラビアも恭順の意を表し、事なきを得たようです。ユダ王国の朝貢はなかったようです。北イスラエルの王メナヘムとその子のペカヒヤは親アッシリア政策を採用しますが、これを不服に思ったグループはクーデタを起こし、ペカを王とします。ペカはダマスコのアラム王レツインと手を組んで反アッシリア同盟を形成し、ユダ王国にも同調を呼びかけます。ユダ王国の王アハズは参加を躊躇します。このため、業を煮やした北イスラエル/アラム連合軍がユダ王国に侵入することになりました。これがシリア・エフライム戦争と呼ばれるものです。これに乗じ、ユダ王国の支配下にあった死海南方のエドムが独立し、西方のペリシテ人が、ユダ王国の影響下にあったネゲブ地方や、ユダ王国とペリシテの境界である丘陵地帯を侵略したようです。預言者イザヤは軽挙妄動を慎み主なる神の助けを信頼せよと言ったようですが、王はアッシリアに助力を求める行動に出ました。この時の、イザヤが述べた主なる神の示す希望が、先ほどお読みいただいた「インマヌエル預言」と推測されています。イザヤは、北王国はそもそもはイスラエルの民だから彼らの支配下に入っても、ユダ王国の信仰は守られるのではないか、と思っていたのではないでしょうか。アッシリアについてはいずれアッシリアの支配下に入らざるを得ない時がくることを予見していたと思います。それを早める必要性はない、とかんがえていたでしょう。エドム支配については、執着の必要性はない、と考えていたと想像できます。インマヌエル預言は、その全過程は主なる神の意志において行われていることであるから、人為的な抵抗、戦争は行うべきではなく、その先の「希望」に信頼を置くべきだ、ということだと考えられます。「希望」に対する確信は現在における力です。忍耐の力であるのみならず、現在の歴史の中に主なる神の力の現れを見て、喜びを得て、希望への確信を更に強めていくことができるのです。

BC734年にユダ王アハズがアッシリアに朝貢したことが確認されています。エドム、モアブ、アンモンも朝貢し、アッシリアの報復を逃れています。ティグラトピレセルはBC733に北王国を襲い、ガリラヤ、ギレアド、メギド、ドルを占領、再編しました。北王国はサマリヤと周辺の都市国家に近い状態になってしまいました。そして、またしてもクーデタが起き、ホセアがペカを殺し、王となります。ティグラトピレセルに降伏し、朝貢します。翌年にはティグラトピレセルは、ダマスコを襲いアラム王レツィンを処刑し、住民を捕らえ移しました。ユダ王アハズはアッシリアに恭順の態度を示し、ダマスコでみた祭壇とそっくりの祭壇をつくり、エルサレム神殿に置き、ヤハウェの祭壇は片隅に追いやられた、と言われています。アッシリアの属国となり、王国の形だけは維持できました。BC729年、アハズが死に息子のヒゼキヤが即位しました。BC727年ティグラトピレセルIII世大王ブルは死にそのあとをシャルマネセルが継ぎます。

北王国の王ホセアは大王が死ぬとエジプトの王と結んで、貢納を中止し、アッシリアからの独立を企てます。時のエジプト王朝はリビア系の第24王朝と推測されています。まだまだエジプトは混乱の中にあり、とてもアッシリアの敵ではありませんでした。ホセアはシャルマネセルV世に打ち破られ、アッシリアに送られました。そのあともサマリヤは抵抗をつづけましたが、BC721年ついに陥落しました。時の王はシャルマネセルの後のサルゴンII世です。彼は、サマリヤの指導層をアッシリア国内各地に強制移住させ、代わりに複数の異民族を入植させました。その結果、サマリヤ地方は人種的に、宗教的に混交の結果となりました。これを称して「失われた十部族」と言われています。のちに、ユダ王国が経験する捕囚と同様の仕打ちです。この時、北王国から南王国に逃れた人々もかなりおり、北王国での伝承が南に持ち込まれ、その後。旧約聖書の一部をなすことになったと推測されています。エロヒーム系の伝承です。

南王国ではヒゼキヤがエルサレム神殿中心の国家宗教への宗教改革を進めつつ、アッシリアからの独立の機会を伺っていました。BC713年にペリシテのアシュドドで反アッシリア派の反乱が起きました。背後ではエジプトが援助をしていたようです。当初は、ユダ、エドム、モアブ及びキプロスが反乱に加わりましたが、2年間の反アッシリア戦争の中で、ユダ等の応援国は、最終的には手を引き、アシュドドはサルゴンII世に容易に占領されることとなりました。エジプトに亡命したアシュドドの王はエジプト王シャバカによってサルゴンに引き渡されるという結果になりました。この時のエジプトの王はクシュ(エチオピア)系の第25王朝です。多数の国の期待を担ってアッシリアに戦いを挑みましたが、どのような理由かは不明ですが、それらの国が支援を打ち切り、エジプト亡命する結果になったが、その亡命先の国によって敵国に引き渡されるという人間的思いからすると、腹が煮えくり返るような現実を見せつけられます。これを見たイザヤは悲しみの中で三年間、裸足で歩くという象徴行動を行います。ペリシテの住民はあきらめ気味に「アッシリアの王の手から救ってもらおうと、助けを求めて逃げてきた私たちの拠り所は、この始末だ。私たちはどうしてのがれることができようか」と嘆く。この反乱を支援することに反対であったと思われるイザヤも言葉を失うような出来事であったろうと思われます。今も、類似のことがこの世に起きていることを想起すると、主なる神の意志はなへんにあるのか考えさせられてしまいます。

ヒゼキヤの改革はどのようなものであったかはわかっていませんが、シロアの地下水路を開設したのはエルサレムに籠城した時のため、という軍事的目的もあったものと推察されます。父アハズがアッシリアに媚を売るように導入したダマスコの祭壇はおそらく撤去されたと考えられます。これらのことを考慮すると、ヒゼキヤの宗教改革は反アッシリアという政治的意図も含んでいたと考えるのが自然です。歴代誌下30-31章にはエルサレム長らく中断していた過越祭が復活されたと言われていますが、この歴史性については議論があるようです。いずれにしても、ヒゼキヤによる宗教改革はヤハウェ信仰を復活させることによりアッシリアからの独立を図る、という政治的意図をも持ったものと考えられます。

そしてユダ王国はBC705年、サルゴンの死を機会に反乱を起こします。エジプトと同盟しました。今回、アシュドド、ガザは反乱に加わらなかったが、シドンとペリシテのアシュケロンの王は行動を共にしました。またペリシテとの境界に近いエクロンでは反アッシリア勢力のクーデタが成功し、反アッシリア同盟に加わりました。また、バビロニアではメロダク・バルアダンが反乱を起こしました。サルゴンのあとを継いだセンナケリブはまずバビロニアの反乱を鎮圧し、BC701年、シリア/パレスチナに遠征し、シドン、アシュケロン、エクロンを征服し、ペリシテ北部のエルテケでエジプトの援軍を撃退しました。ヒゼキヤはエルサレムに閉じ込められ、ラキシュをはじめとするユダ側のほとんどが占領され、結局、ヒゼキヤは全面降伏やむなきに至ります。そしてエルサレム以外の地域は、反乱に加わらなかったアシュドド、ガザ、そしてセンナケリブにより復権されたバディのエクロンに分割されました。しかし、本国における異変によることか、自軍に疫病が発生したためか、エルサレムの破壊、占領をせずに自国に撤退しました。

列王記下19章には、このあと二十数年後にもう一度、アッシリアのエルサレム侵攻があったように書かれています。ヒゼキヤが再度アッシリアへの反乱を試み、センナケリプがエルサレムに侵攻したという話です。そして、イザヤの主なる神に信頼せよ、との忠告、そしてとりなしの祈りによって、主の使いがアッシリア軍の多くの兵士を殺し、軍は本国に撤退したというのです。エジプト王ティルハカの侵入によりアッシリア軍は撤退したと解釈できる個所もあります。これは、センナケリプによる再侵攻なのか、先の侵攻に関連した付属的出来事か、について時代的混乱があり記述されたのか、が争われています。私は、セナンケリプの再侵攻というシナリオはあまりにも不自然であり、これらの記述は、セナンケリプの701年の侵攻時のことを書いたものであろう、と考えています。一度か二度か、いずれにしろ、ダビデの町エルサレムは不滅であるとの神話的物語が形成されていった、ことは事実です。病気になったヒゼキヤがイザヤによるとりなしの祈りによって、15年の命を長らえた奇跡的物語も書かれています。

ヒゼキヤはBC687年死に、子のマナセが後を継ぎます。徹底的なアッシリアの僕になります。聖書ではくそみそに書かれていますが、イスラエルにおける最長政権であり国が経済的繁栄を享受した時期であることは否定できません。イザヤ自身はどうなったかについて聖書は何も語っていませんが、伝承では、マナセ王の時代に異教の神礼拝を批判し、最後はのこぎりで挽き殺さて殉教したと言われています。

これらの、アッシリアの圧迫の中で、ユダ王国はその政治的独立を守るために他国の助力によりそれを成し遂げようとしましたが、結局は、南北イスラエルともアッシリアの支配下に入らざるを得ませんでした。北王国は国が滅び、南王国はエルサレムを除き、アッシリアの支配下に置かれることとなりました。王朝そのものは残ります。このような歴史の中で、ユダ王国の王に忠告する立場にあったイザヤは「主なる神のみ、により頼み、他国の力を当てにすることはするな」と言い続けます。そしてそのことは、具体的にはアッシリアはイスラエルを支配することになり、イスラエルの民はそれを甘受せよ、と言っていることになります。アッシリアはこの局面では神の裁きの手足だからです。民族の独立を確保するために、英雄的に戦え、というようなことは一切言っていません。このような一種の敗北主義はどのような考えからくるのでしょうか。

イスラエルの「聖戦(聖なる戦争)」の考え方は、「主の戦い」という考えに基礎をおいています。それは主なる神が戦われるのであるから、イスラエルの民は主なる神のあとをついていけば良いのであって、自らの力を頼りにしてはならない。それは主なる神への不信仰の現れに過ぎない、という考えです。それがヨシュア記、士師記に示されている「聖戦」です。それは、戦争は「神々の戦争」であり主なる神ヤハウェはイスラエルの民の神である、という前提での考え方です。しかし、主なる神が全世界を統治する唯一の神である、という考え方に拡大されていくと、イスラエルと戦う国の一部は主なる神の意図からくるものであり、イスラエルは、それを甘受しなければならない、という考えになります。その主なる神の手足となってイスラエルに侵略してくるのがアッシリアだという解釈です。もちろん、すべての敵が神の手足ではありません。しかし、その神の手足となっている国に反逆するために、他国の助力を頼んだり、同盟を組んだりするのは、神の意志に反する行いであり、大きな罪である、と言うことになります。主なる神の手足であるかどうかを見極めるのは預言者が神の言葉により判断することですが、イザヤ、エレミヤの例によってみると、世界帝国を築いた大国を指している、と言えます。結局、事大主義を正当化しているだけのことではないか、という皮肉な見方もできますが、イザヤ、エレミヤはそうではなく、これだけの世界帝国を築いているという現実は、これ即ち、基本的には神の意志が働いている、と考えるのは合理的である、という見方と思います。その後のローマ帝政についても類似のことが言えるでしょう。しかし、その預言者はその大国も滅びに運命づけられており、その大国に対する裁きはすさまじいものになる、といいます。それは被支配者の方から見れば救いであり、神の国到来の希望でもあります。イザヤ書7章の「インマヌエル預言」、イザヤ書24~27章の「イザヤの黙示」のところはイスラエルの歴史の先にある「希望」について語っている、と理解すべきです。

でも主なる神のみにより頼む、というのが政治的・軍事的には中立を意味することは理解できるにしても、実際に侵略に直面したら、どうするのか、という疑問は消える訳ではありません。無抵抗で侵略を受け入れるのかどうかです。私自身、今、明快な回答はありません。また「主による勝利」とは具体的にはどういうことか、ということでしょうか。旧約聖書の例を挙げると、それには①奇襲攻撃による敵の軍隊の混乱に乗じての戦いにおける勝利、②敵の将軍等の暗殺による敵軍の指揮系統の破壊による敵軍との戦いへの勝利、③敵軍の自国におけるゆゆしい事件が起きることにより、敵軍が撤退せざるを得なくなること、④自然災害や天変地異の発生によって敵軍が崩壊するとか、撤兵せざるを得なくなること、⑤第三の他国が敵軍の国に戦争を仕掛け、その国が敗北するとか、敵軍が撤退せざるを得なくなる、というような事態です。強大な帝国の支配下にあって、小さな抵抗を続けていると、これらのどれかの項目の事態が発生し、敵国の軍は目の前からいなくなる日が必ず来る、ということは歴史的に言えそうです。小さな抵抗の継続は、どれかの項目の事態を必ず導きます。「時が満ちて」どれかが起きます。しかし、それは長い期間を要することもあります。しかし、無謀な戦争を行い、民族の消滅に近いことを惹起するよりは、ずっと犠牲は少なくて済むであろうと思います。主なる神は、離散の民になろうが、敵前逃亡であろうが、屈辱に耐える忍従の時であろうが、「生き永らえる」ことが選びの民に与える最大の使命である、というのが今のところの私の見方です。

もう一点、述べるべき点があります。罪と裁きの関係です。ヨシュア記、士師記等に示されたイスラエルの罪と神の裁きの関係は、①イスラエルの民が異国の神即ち偶像への礼拝を始める、②それに対し、神は異民族によるイスラエル支配という裁きを齎します、③イスラエルはそこで悔い改め、偶像礼拝をやめ、ヤハウェ信仰に立ち返ります、④すると神はイスラエルに平和と繁栄をもたらします。これが申命記神学と言われる初期ユダヤ教の基本的な考え方です。しかし、イザヤの罪と裁きの関係の焦点はここから変化しているように思われます。イザヤ書1:4では「ああ。罪を犯す国、咎重き民、 悪を行う者どもの子孫、堕落した子ら。 彼らは主を捨て、 イスラエルの聖なる方を侮り、 背を向けて離れ去った。」と言われていますが、その罪の内容は不明です。異教の偶像のような話は全くありません。これに対し、1:16-17では「洗え。身をきよめよ。 わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。 悪事を働くのをやめよ。/善をなすことを習い、 公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、 やもめのために弁護せよ。」と言われております。すなわち「善をなすことを習い、公正を求める」ことをしないのがイスラエルの罪である、と言っているようです。そしてその具体的行動としてはやもめ、とみなしご、を助けることだと言っているのです。

イザヤ書ではこのような考えが繰り返し現れます。11:4の「正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。」の部分が一般的表現として適切な部分だと思われます。「正義と公平」に背いていることがイスラエルの罪である、というのです。「正義と公平」は「神の義」のこの世における表現ですから、これを実践していないことは「神の義」に反すること即ち罪だ、ということです。「正義と公平」はイスラエル信仰の根底にある「イスラエルの民の支配者は主なる神のみ」という考え方の反映で、人間による人間の支配を否定する考え方を示しています。「神の前での平等」が徹底されている状態です。先に述べたようにイスラエル社会は経済的繁栄の裏で、どんどん格差社会化していき「神の義」「正義と公平」ではない社会になってきていたのです。それをイザヤ書は「イスラエルの罪」として告発している、と理解できます。今、イスラエルに下されようとしている苦難はその罪に対する裁きの現れだという訳です。イザヤは、これが悔い改められ「神の義」の支配する「神の国」の到来の希望も繰り返し述べています。「神の国」の具体的証(あかし)は「やもめとみなしご」が顧みられる社会です。それが判定基準になります。預言者が考えている「イスラエルの罪」はこのようなものであり、申命記史家が考える偶像礼拝=「イスラエルの罪」と言うのからの転換が見られます。もっとも「正義と公平」が壊されている社会は、ある種の偶像礼拝に陥っている社会です。その偶像は「お金と国家」です。経済的側面では「お金、資本」であり、政治的側面では「国家、権力」という得体のしれないものです。共通なのは「人による人の支配」です。

イザヤ書のメッセージは人間社会における、どうしようもなく大きな罪の指摘とそれへの裁きですが、それは同時に神の約束に対する希望の表現を伴っています。インマヌエルの神が、我々の苦難を共に背負ってくださる、ということです。ここには、共同体としての悔い改めとはどういうことか、ということが示されており、「貧しきものは幸いなり」の在り方が示されています。祈ります。

(ご在天の父なる御神様、本日はイザヤ書の中から、アッシリア、エジプトという二大大国に挟まれたイスラエルの南北両王国の選んだ道を見ました。北王国イスラエルは軍事同盟によってアッシリアに対抗し、滅びました。南王国ユダ王国はイザヤの忠告にも拘らず、アッシリアを頼りにし、後にはエジプトを頼りとし、結局エレミヤの時代に国家滅亡に至りました。アメリカとロシアの対立の中でアメリカを頼りにしたウクライナが悲惨な状況になっています。アメリカと中国の対立状況の中でアメリカの、言うがまま、の日本は危機的状況に直面しかねません。どうぞ、「主なる神の力」のみを信ずるということはどういうことなのか私たちにお示しください。主イエスの弟子として私たちキリスト者が判断することができますよう、知恵と力をお与えください。主イエス・キリストの御名により祈ります。アーメン)

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