まだ悟らないのですか
マルコ福音書8章1~21節

1.導入

みなさま、おはようございます。段々と寒くなり、アドベントの期間らしくなって参りました。さて、今日の聖書箇所についてはデジャブといいますか、あれ、ここは前に読んだことがある、とお感じになったかもしれません。それもそのはずで、6章でもイエスがたった五つのパンと二匹の魚から五千人分の食事を作り出したという奇跡の記事があったからです。ちなみに、マルコ6章に記されている五千人の給食の記事は四福音書すべてに記されている記事です。それがわざわざ指摘するようなことなのか、と思われるかもしれませんが、四福音書すべてに登場する奇跡というのは実は非常に稀なのです。共観福音書と呼ばれるマルコ・マタイ・ルカの三福音書は互いによく似ていますが、ヨハネ福音書はとてもユニークで、共観福音書とは多くの点で異なります。ヨハネ福音書にはイエスの奇跡は七つしか記されていませんが、その多くは共福音書には登場しません。例えばカナの婚礼で水をワインに変えた奇跡や、有名なラザロの復活はヨハネ福音書だけに記されている奇跡です。このように、共観福音書に記されている奇跡と、ヨハネ福音書に書かれている奇跡とは、重なり合わないのです。しかし、そのヨハネ福音書もこの五千人の給食の記事は記しています。それだけ重要な奇跡だったということです。

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異邦人への救い
マルコ福音書7章24~37節

1.導入

みなさま、おはようございます。アドベント第二週に入り、救い主がユダヤ人のみならず、世界のあらゆる民族の人々のために来られたことを覚える季節を歩んでいますが、今日の聖書箇所はそのような時期にふさわしいものです。私たちはマルコ福音書を読み進めて参りましたが、これまでのところ主イエスの伝道の対象はガリラヤに住むユダヤ人にほぼ限定されてきました。「ほぼ」と言いましたのは、一度だけ例外があり、それは「レギオン」と呼ばれる大量の悪霊を追い払ったゲラサの地での出来事のことです。悪霊に取りつかれていたゲラサ人は異邦人、ユダヤ人から見て外国人ですので、イエスは既にユダヤ人以外の人にも救いをもたらしていたことになります。

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律法は何を教えているか
マルコ福音書7章1~23節

1.導入

みなさま、おはようございます。いよいよアドベントに入りましたが、アドベント期間中もマルコ福音書を読み進めてまいります。これまで私たちはイエスが行った十の大きな奇跡について学んできましたが、今日の箇所はそこから少し離れて、もう一つの重要なテーマについて考えて参りましょう。それは神の教え、モーセの律法についてです。律法と訳される言葉のヘブライ語の原語はトーラーですが、これは「教え」あるいは「生き方の指針」とも訳すことができます。「律法」と「生き方の指針」とでは、全然響きが違ってきます。「律法」というと法律のようなものかと私たちは考えます。法律を守らないと罰を受けるので、律法という言葉は常に刑罰を連想させます。しかし、「生き方の指針」を守らないと刑罰を受けることはないかもしれませんが、人生が豊かなものとはならない、むしろ不幸な人生を歩むことになる、そういう含みがあります。ですから、神がイスラエルに与えたトーラーとは法律なのか、指針なのかということは、私たちの受け止め方にも大きな影響を与えます。刑罰が恐ろしいから律法を守るのか、あるいはより良い人生を送るために律法を守るのか、というのは全然違うことだからです。私は、少なくともイエス様がトーラーについて語っていた場合は「法律」ではなくて「教え」、「生き方の指針」として捉えた方が良いと考えています。ですから今日の説教でも、そのような観点からお話しさせていただきます。

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五千人の給食
マルコ福音書6章30~56節

1.導入

みなさま、おはようございます。今日もマルコ福音書から、イエスのご生涯について学んで参りたいと思います。さて、これまで何度かお話ししてきたように、マルコ福音書4章35節から8章26節にかけて、イエスの10の大きな奇跡が記されています。これらの奇跡は、それまでイエスがなさってきた数々の病の癒しなどと比較しても、その規模も内容もはるかに巨大なもので、このような力ある業を行うこのイエスという人は、一体どなたなのだろう、という驚愕や疑問を人々に抱かせるものでした。そして、こうした10の奇跡の中でも今日の五番目の奇跡と六番目の奇跡はとりわけ特筆すべき、驚嘆すべきものです。といいますのも、前回見てきたような、長年どうやっても治らなかった病気が癒されるという現象は確かに驚くべきことですが、そのような癒しについては合理的な説明の余地が残されています。人間の中に本来備わっている自然治癒力が、神への強い信仰によって異常なくらい高められて病が治ったのだ、というような説明が可能です。イエスが死人をよみがえらせたという出来事でさえ、合理的な説明が可能かもしれません。なぜなら、医学的に死亡が確認された人が数時間後、場合によっては数日後に蘇生するという現象、いわゆる臨死体験はこれまで世界中で観測されてきたからです。イエスが数時間前に死んだ少女をよみがえらせたことも、そのような事象の一つなのだ、と言うことが出来るかもしれません。

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バプテスマのヨハネ
マルコ福音書6章14~29節

*今回の説教には録音がありません。ご了承ください。

1.導入

みなさま、おはようございます。だいぶ気温も下がり、秋が深まって参りました。さて、これまでイエスの活躍を見て参りましたが、今日の箇所では珍しくイエスは登場しません。イエスの噂が聞こえてくるだけです。では、今日の聖書箇所の主役は誰かと言えば、バプテスマのヨハネと、ヘロデ大王の息子でガリラヤの領主だったヘロデ・アンティパスの二人です。バプテスマのヨハネはこれまでにも登場しましたが、ヘロデ・アンティパスは今回初めての登場です。そこで、このヘロデ・アンティパスという人物の背景やヨハネとの関係についてまずお話ししたいと思います。

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故郷での拒絶
マルコ福音書6章1~13節

1.導入

みなさま、おはようございます。マルコ福音書はマタイ福音書やルカ福音書とは違い、イエスの誕生物語やイエスの少年時代の記述がありません。イエスが30歳前後の年齢に達し、伝道を始めるところから始まります。ですから、故郷でどんな少年時代を過ごしたのか、ということは分かりません。むろん、マルコ福音書でもイエスは「ナザレの人イエス」と呼ばれているので、彼がナザレ出身であることは分かりますが、イエスと故郷ナザレの人々との関係については、これまではほとんど言及されませんでした。たった一度だけ、イエスと故郷の人々との関係を垣間見せる場面がありました。それは、イエスの家族がナザレからカペナウムにいるイエスのところに会いに来るという場面でした。しかし、イエスの母や兄弟たちがやって来た目的は、イエスに伝道活動をやめさせて、故郷に連れ戻すためでした。彼らはイエスが気が違ってしまったという噂を真に受けて、イエスを止めに来たのでした。このエピソードから分かるように、イエスとその郷里の人々との関係は必ずしも良好ではありませんでした。

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さらなる二つの奇跡
マルコ福音書5章21~43節

1.導入

みなさま、おはようございます。私たちはこれまで、マルコ福音書というイエスの伝記を読み進めています。この福音書の著者であるマルコはイエスの直接の弟子ではなかったのですが、彼はイエスについてシモン・ペテロから伝え聞いていました。シモン・ペテロというのはバチカンにあるサン・ピエトロ寺院の名前の由来になった人物ですが、彼はイエスが選んだ12人の使徒のリーダーでした。ペテロは外国語が話せなかったので、外国人にイエス・キリストのことを宣べ伝える時には当時の国際語であるギリシア語を話せる通訳が必要でした。その通訳が、この福音書の著者であるマルコでした。マルコはペテロのために通訳をするかたわら、ペテロの語るイエスの教えや行動を書き留めておき、それを一つの伝記としてまとめ上げました。それがマルコ福音書なのです。

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イエスの権威
マルコ福音書4章35~5章20節

1.導入

みなさま、おはようございます。これまで、二回にわたってイエスが語られた「たとえ」について学びました。これらのたとえは、実際には「神の王国」に関するもので、イエスはご自身が宣べ伝えた神の王国、神の支配がどのように地上世界に実現していくのか、そのことを特に種蒔きというありふれた農作業の光景を題材にしながら語られたのです。神の支配は、人間の目から見ればちっぽけなイエスの活動の中ですでに始まっており、それはいずれ、だれもが無視できないような大木のように成長する、それがこれらのたとえのエッセンスでした。

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さらなる二つのたとえ
マルコ福音書4章21~34節

1.導入

みなさま、おはようございます。前回から、イエスのたとえ話について学んでいます。マルコ福音書4章には三つのイエスのたとえが収録されていますが、それらはいずれも「種」に関するものです。「種蒔きのたとえ」、「自ずと成長する種のたとえ」、そして「からし種のたとえ」です。これらはたとえなので、文字通りの農作業の描写ではなくて、何か別のことを語っているのですが、その別のことというのが「神の王国」、「神の支配」です。イエスは「神の王国の到来が近い」というメッセージと共に福音伝道を始めましたが、どのようにそのイエスの言葉が実現していくのか、それを教えるのがこれらのたとえなのです。

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種蒔きのたとえ
マルコ福音書4章1~20節

1.導入

みなさま、おはようございます。9月に入りました。早いもので、マルコ福音書からの講解説教も今日で14回目を数えることになりました。マルコ福音書は16章まであるので、まだその三分の一も終えていませんが、マルコ福音書の中でイエスのガリラヤでの活動を記録している部分に限って考えれば、今日の4章はちょうどその真ん中、ガリラヤ宣教の折り返し地点ということになります。そしてこの4章というのはマルコ福音書の中でも独特の意味合いがあります。

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