中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 調布 深大寺のプロテスタント教会 Thu, 26 Feb 2026 00:59:57 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.3.20 https://domei-nakahara.com/wp-content/uploads/2020/03/cropped-favicon-32x32.png 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 32 32 キリストの来臨第二ペテロ1章12~21節 https://domei-nakahara.com/2026/02/22/%e3%82%ad%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88%e3%81%ae%e6%9d%a5%e8%87%a8%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e3%83%9a%e3%83%86%e3%83%ad1%e7%ab%a012%ef%bd%9e21%e7%af%80/ Sun, 22 Feb 2026 00:56:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=7241 "キリストの来臨
第二ペテロ1章12~21節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。今日は月末の主日礼拝なので、毎週のマタイ福音書からの講解説教を離れて、第二ペテロからメッセージをさせていただきます。今日のメッセージは大変重要な内容になります。

さて、今日の聖書箇所の詳しい説明に入る前に、一つ大事なお話をしたいと思います。それは「キリスト教の語る救いとは何か?」という話です。いきなり大上段の話だな、と思われるかもしれませんが、なるべく分かりやすくお話ししたいと思います。キリスト教というのは「救い」に関する宗教だ、ということは多くの方が同意することだと思います。では、その救いとは何かといえば、私たちが死んだあと、イエスを信じる人は天国に行けることなのだ、というように多くの人は考えているでしょう。しかし、正確に言えばそれは正しくない、とキリスト教をまじめに学んだ人は指摘するはずです。なぜならイエスの語った救いとは、私たちが死んだあとに天国に行くことではなく、むしろ私たちの住んでいるこの世界に天国が来ることだからです。みなさん、「主の祈り」で何と祈るか思い出してください。「み国を来たらせたまえ」ですよね。私たちが天のみ国に行けますように、ではなく、天のみ国が来ますように、と祈ってますよね。私たちが行くのではなく、むしろ御国は私たちのところに来るのです。み国は、私たちが生きているこの地上に来るのです。「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈っていますが、それは天国で神様の御心が行われているように、この地上においても神様の御心が行われますように、と祈っているのです。地上において神の御心がなされるようになること、それが「み国が来る」ということの意味なのです。

ですからキリスト教信仰の核心部分は、私たちの死後の魂がどうなるかということではなく、私たちの生きているこの世界が変わる、この世界に神のご支配が実現するということにあるのです。もちろん、私たち一人一人が救われることはとても大事ですし、私たちの関心がそこに集中するのは自然なことなのかもしれませんが、最初のクリスチャンの方々はもっと広い視野で、この世界全体が救われる、贖われることを願っていたのです。こういうと、疑問の声が上がるでしょう。「それは分かりました。しかし、そんなことがいつ実現するというのですか?イエスが来られてからもう二千年も経っているけれど、この世は何も変わっていないし、神のご支配など実現していないではないですか。この世界には相変わらず多くの苦しみがあり、不正や悪や戦争も絶えることがないではないですか」と。これは当然の疑問です。キリスト教信仰の関心事が、この世が変わるということではなく、私たちの死んだ後の魂がどうなるのか、という方向に変わっていったのは、この世に神の支配がなかなか実現しないという厳しい現実を前にして、だんだんと信仰の中身が変化していったものといえるでしょう。しかし、キリスト教第一世代は、もうすぐにも神の国が来ると信じていたのです。もっとはっきり言えば、天に昇られたイエスが戻ってこられて、すぐにも世の終わりをもたらすと信じていました。しかし、歴史を振り返れば分かるように、そうはなりませんでした。世の終わりがすぐだ、と言われると緊張感が高まり、気が引き締まるのですが、それがどうにも実現しない、起きないのです。そうなると、動揺があり、また気の緩みがあり、さまざまな面で教会にマイナスの影響が生じます。最も深刻なのは、キリストの再臨などというものはないのではないか、という疑問が広がったことです。世の終わりは来ないという考えを人々が抱くようになりました。

この第二ペテロを書いた人物は、そのような状況に危機感を持った人物でした。前回のメッセージでもお話ししたように、この無名の人物は有名な使徒ペテロの名を借りて、ペテロの遺言としてこの手紙を書いたということです。そして、教会の人々に再臨信仰に堅く立って、もう一度気を引き締めるようにと促しているのです。今日の箇所は、まさにそのような箇所です。では、テクストを詳しく見て参りましょう。

2.本論

では、12節から16節までを見ていきましょう。ここで「地上の幕屋」と言われているのは比喩であって、これは肉体のことです。ペテロを名乗るこの作者は、使徒パウロが書き残した書簡を知っていました。そしておそらく、パウロも自らの肉体のことを「幕屋」と呼んでいるのを知っていたのでしょう。この手紙で用いられているのと、パウロの用いている「幕屋」という言葉のギリシア語は少し違うのですが、しかし互いに親戚のような同根の言葉ですので、同じものとみてよいでしょう。そしてパウロが幕屋について語っているのが第二コリント書簡の5章1節から2節です。そこをお読みします。

私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。

ここでパウロの言う、「地上の幕屋がこわれる」というのは私たちの肉体が死を迎えることです。そして「天から与えられる住まい」とは復活のからだのことです。パウロのこのような表現を踏まえて、第二ペテロの著者も肉体の死のことを「幕屋を脱ぎ捨てる」と表現しているのです。先に、この手紙を書いた人は、ペテロの名を借りて手紙を書いたと申し上げましたが、そのペテロの死が目前に迫っているという状況設定で、いわば遺言としてこの手紙を書いています。なぜこの手紙の著者が自分自身の名前ではなく、ペテロの名前で書いたのかといえば、それは自分が今は亡きペテロからこの手紙の内容を託されたと信じていたからです。この著者はおそらくペテロのことを個人的に知っていて、ペテロが生前に語っていた内容をよく記憶していました。ですから、ペテロが教えていた内容を、彼の名前で書こうと思ったのです。そこで、私もこの手紙の著者のことを「ペテロ」と呼ぶことにします。なぜなら彼は、ペテロになりきって、ペテロの精神でこの手紙を書いているからです。

さてペテロは、主イエスは必ず天から戻ってこられるということについて、読者の人々に確信をもってほしいと願っています。そして、そのような確信を持つことができる根拠として二つのことを上げます。一つ目は、ペテロ自身が変貌山でイエスの栄光に輝く姿を目撃したこと、もう一つは旧約聖書がイエスの来臨を約束していることです。まず、変貌山のことを見てみましょう。この出来事のことは共観福音書に書かれています。少し長くなりますが、マルコ福音書9章2節から7節までをお読みします。

それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。また、エリヤが、モーセとともに現れ、彼らはイエスと語り合っていた。[中略] そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。

第二ペテロ1章の17節から18節で書かれているのは、この変貌山での出来事です。ペテロは、主イエスはその時に私が実際に目撃した輝く姿で必ず戻ってこられると訴えているのです。

ペテロは、イエスが再び来られることの第二の証拠として、聖書を挙げます。ペテロは19節で、「確かな預言のみことばを持ってます」と語りますが、「預言のみことば」とは旧約聖書に書かれている預言のことです。というのも、この第二ペテロが書かれた当時は新約聖書はまさに成立しつつある途上であり、どの書が正典として認められるかという問題は流動的でした。したがって、誰もが認める聖書とは旧約聖書のことでした。その聖書の中に、イエスが再臨するという確かな預言があるとペテロは語っているのです。その預言は具体的にはどこなのか、というのは難しい問題です。いくつもあるようにも思えるのですが、一つ非常に印象的な箇所があるのでそこをお読みしたいと思います。それはゼカリヤ書14章の3節から9節までです。ここも少し長いですが、全文をお読みします。

主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたは、わたしの山々の谷に逃げよう。ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう。私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。これはただ一つの日であって、これは主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる。主は地のすべての王となられる。その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる。

このように、主がイスラエルの人々を救うためにエルサレムのオリーブ山に来られるという預言があるのですが、初代のクリスチャンはここで言われている「主」とは主イエスだと理解していました。ですから、ここに描かれている様子で、主イエスがすぐにも戻って来られるとクリスチャンたちは信じていたのです。そして20節ですが、そこにはこうあります。

それには何よりも次のことを知っていなければなりません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。

実はこの訳には問題があります。「私的解釈」と訳されている言葉を直訳すると「それ自体の解釈」となりますが、では「それ自身の解釈」とは誰の解釈のことなのでしょうか。それを「(聖書を読む)私たち各人の解釈」と読めば、私的解釈の禁止という意味になるでしょう。つまり、教会が定めた権威ある解釈に従うべきで、自分勝手な解釈ではいけないという意味になります。しかし、今や多くの研究者は、このそれ自身は「預言者自身」のことであると理解しています。私の恩師のリチャード・ボウカム先生もそのように訳しておられます。ですから、この一文の訳はこうなります。

第一にこのことを知りなさい。すべての聖書の預言は、預言者自身の解釈によってもたされたのではありません。

では、預言者自身の解釈でないならだれの解釈か、と言えばそれは「聖霊の解釈」です。旧約聖書にある預言は、預言者自身の解釈や思い、考え方から生まれたものではなく、預言者が聖霊に導かれて、動かされて神からの言葉として語ったということです。そのような神の言葉がメシアの来臨を語っているのだから、キリストは確かに来られるのだ、ということをペテロは言いたいのです。

3.結論

まとめになります。今日はキリストの来臨がなかなか実現しないという現実に際して、確かに主は来られるということを伝えようとしたのが今日のテクストのポイントでした。そうはいっても、このだいにペテロ書簡が書かれてから二千年経っても主は来られませんでした。ただ、忘れないようにしたいのは、主は来られるという約束は確かにありますが、それはいつか、というのは誰も分からないということです。主イエスご自身が、

ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。(マルコ13:32)

とこのように言っておられるからです。その時期はパウロもペテロも知りませんでした。彼らはもうすぐイエスが来られると期待していました。しかしそれは彼ら自身の期待であって、神からの約束ではなかったのです。

ここから私たちも大切なことを学びたいと思います。それは、私がこれまでの説教で何度も語ってきたように、「世の終わりが近い。主の再臨が近い」という人がいても決して信じるな、ということです。パウロやペテロでさえ知らないことを、なぜその人は知っているということができるのか、ということです。いわゆるカルトと言われる集団は、常に終末論を強調します。日本で一番有名なのはオウム真理教ですが、アメリカでもブランチ・ダビディアンという暴力的なカルトがありました。このグループはセブンスデー・アドベンティストという再臨運動を重んじるプロテスタント宗派から生まれたグループです。オウム真理教もキリスト教とは何の関係もない宗教でしたが、彼らも「ハルマゲドン」などのキリスト教用語を使っています。安倍元首相の殺害事件で社会の注目を浴びるようになった統一教会も終末論を強調します。なぜ彼らは終末論を重視するのかといえば、そうすることで求心力が増すからだというのが一つの理由です。世の終わりが近いのなら、今持っているものはいずれ消えてなくなるので、全部献金していいのではないか、仕事もやめて、宗教活動に専念すべきではないか、ということになります。ですから教勢を伸ばしたいグループは「終わりが近い」ということをいわば煽って、信者を獲得してきたのです。かくいうプロテスタントも、非常に終末論を強調します。ルターはローマ教皇をアンチ・キリストつまり悪魔のしもべと呼び、今の時代はアンチ・キリストが猛威を振るう終わりの世なのだということを強調しました。また、オウム真理教が拡大していった1980年代には、日本の福音派も終末が近いということを盛んに強調していました。また、今のトランプ政権の岩盤支持層である福音派も、終末が近いということを非常に強調し、そして彼らが現にアメリカの政治や外交にさえ強い影響を及ぼしています。そして、こういった宗教的な運動は、おおむね世の中に良くない影響を与えている場合が多いのです。それはそうですよね。この世がすぐに終わるのなら、この世界をよくしようなどという気持ちにはならないでしょう。むしろ、この滅びつつある世界からどうやって逃れるのか、ということをいの一番に考えてしまいますよね。パウロやペテロの偉かったところは、世の終わりが近いことを強調しつつ、社会に対してしっかり責任を持つようにということを強く訴えたことです。世の終わりが近いからといって仕事を辞めるようなことには強く反対しましたし、納税など、国に対する責任をしっかりと果たすようにと教えていました。善き市民として、社会に対して模範となる生き方をするように信者たちを励ましました。だからこそ、彼らの期待に反して終末は来なかったけれど、キリスト教はその基盤をしっかりと整えて、それから二千年間も続く、続くだけではなく拡大していく組織を作り上げることができたのです。私たちも終末論、終末の期待を捨てる必要はありません。主が来られて、万物を刷新するという期待は持ち続けるべきです。しかし同時に、キリストの再臨がこれからさらに二千年なかったとしても存在できるような教会形成に努めるべきです。そして組織が存続できるのは実際に人々の役に立つ、人々にとって必要なものであるからです。私たちも、この世界を少しでもよい世界にするために努めて参りましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美いたします。今回は第二ペテロ書簡の終末論について考えて参りました。私たちには主イエスがいつ来られるのかは決して分かりません。それがいつなのかといらぬ心配をすることなく、むしろこの世界のために働く者とならしめてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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十二使徒を遣わすマタイ福音書10章1~23節 https://domei-nakahara.com/2026/02/15/%e5%8d%81%e4%ba%8c%e4%bd%bf%e5%be%92%e3%82%92%e9%81%a3%e3%82%8f%e3%81%99%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b810%e7%ab%a01%ef%bd%9e23%e7%af%80/ Sat, 14 Feb 2026 23:54:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=7227 "十二使徒を遣わす
マタイ福音書10章1~23節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。マタイ福音書を読み進めてきましたが、これまでは主イエスの活躍、その教えや癒し、あるいは悪霊払いというような活躍を見て参りました。そして今回は弟子たちの活躍についての箇所です。この箇所はなかなか理解が難しい箇所だということをあらかじめ申し上げておきます。

どういうことかと言いますと、前にもお話ししたように、それにはマタイ福音書が書かれた時期と関係があります。イエスが十字架に架けられ、その後に天に昇られたのは紀元30年だと考えられていますが、そこからだいたい50年後にマタイ福音書が書かれた、というのが多くの研究者の見方です。つまり紀元80年代です。ですから、マタイ福音書はイエスの伝記であるのと同時に、イエス後の50年間の教会の歴史をも反映しているということになります。マタイはイエスが天に昇られた後の、50年にも及ぶ教会の歴史を知っているので、それは当然のことです。50年というのは半世紀ですから、かなり長い時間です。1970年代の日本と、2020年代の日本は大きく変わったように、教会もその誕生から50年の間に大きく変化していきました。今日の箇所のイエスの教えも、イエスがガリラヤで教えていた時の内容と、イエスが昇天した後の50年間の教会の状況の両方を反映しているということです。どうしてそんなことが言えるのか?その根拠を具体的に説明します。

マタイ福音書というのは、最も古い福音書であるマルコ福音書の後に書かれた福音書で、マタイはマルコ福音書の9割以上の内容を引用して自らの福音書に収録しています。マタイにとって、マルコ福音書は大変重要な情報源だったのです。今回の十二弟子の派遣の記事も、マタイはマルコ福音書から引用しています。しかしよく見るとマタイはマルコ福音書の全く違う二つの箇所から引用し、それを組み合わせているのが分かります。一つはマルコ6章で、それはイエスが十二使徒を派遣するという、マタイとまったく同じ文脈の箇所です。イエスは十二使徒を派遣し、その時に指示を与えているのですが、それがマタイ福音書の10章7節から14節までにそのまま使われています。ですからここではマタイはマルコを忠実に用いています。

しかし、マタイは全く別の箇所からも引用しています。それはどこかと言うと、イエスがガリラヤで弟子たちを派遣したときではなく、むしろイエスが十字架に架かって天に上った後、イエス亡き後に弟子たちに何が起きるのかを警告した箇所、それはマルコ13章です。先ほどの箇所がマルコ6章ですから、まったく違う場面であることがお分かりいただけると思います。マタイは、マルコ6章と13章の二つの箇所の記事を一つにしてこの10章を書いているのです。そしてマルコ13章でイエスが教えられたのはガリラヤではなく、エルサレムにおいてです。十字架にかかる直前の、エルサレムでのいわゆる「オリーブ山の講話」です。この講話では、イエスは世の終わりについて語っており、それはキリストの再臨、イエスが天から再び来られて歴史を終わらせるときの前に何が起きるのかを語っている箇所だと言われています。

このように、マタイ10章でのイエスの教えはイエスがガリラヤで宣教活動をしていた時の教えと、イエスが天に昇ってから世の終わりまでの時代についての教えが組み合わされているということになります。マタイは、イエスのガリラヤでの活動を描いただけではなく、マタイと同じ時代に生きた教会の人々に、イエスの言葉として弟子としての心得を伝えたのです。このことに注意したうえで、今日の教えを見て参りましょう。

2.本論

それでは、1節から見て参りましょう。イエスはこれまでご自身で悪霊払いをしてきましたが、今度は自らの最側近である十二使徒にも悪霊を制する権威、あるいは病をいやす権威をお与えになります。それはどうやったのか、どうすればイエスの権威を弟子たちに委譲できるのか、その詳しい仕組みというか、やり方は書かれていません。しかし、ペテロたちはイエスが天に昇られた後も癒しや悪霊払いをしていますので、こうした奇跡を行うことができたのはイエスだけではなかったというのは確かです。それはなぜか?理由は明白です。イエスが病を癒したり、悪霊を追い出すことができたのは聖霊を受けたからです。イエス様は神様だからそういうことができるのでは?と思われるかもしれませんが、少なくとも福音書ではそのように描いてはいません。その点を一番明確に描いているのがルカ福音書です。ルカ4章14節には、「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた」とありますし、イエスはイザヤ書61章を引用して、「わたしの上に主の御霊がおられる」というイザヤの預言が自分に実現したと語っています。このように、イエスは聖霊の力で癒しや悪霊払いを行ったのですから、弟子たちも同じ聖霊を受けることでこうした業を行うことができたのです。ですからイエスが弟子たちに権威を授けたとは聖霊を分かち与えたということなのです。

2節から4節までは十二弟子のリストがあります。このリストについては、今回は詳しい話をいたしません。むしろ重要なのは5節と6節です。ここでイエスは弟子たちに、異邦人、つまりユダヤ人以外の世界の諸民族のところに行くなと命じています。これは私たちからすると驚きですね。私たち日本に住む人々も異邦人です。ユダヤ人ではないので当然ですよね。ですから主イエスは日本やほかのアジアの国々の人々のところに行って伝道するな、と言っているのと同じなのです。しかし、復活した後の主イエスは弟子たちに向かって、「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と語っています。ここでは、異邦人のところに行きなさいと命じているのです。ですから教会の歴史を見ればわかるように、福音は全世界に伝えられるようになったのです。ここで注意していただきたいのは、世界に出て行って異邦人に宣べ伝えよとイエスが語ったのは、十字架に架けられて復活した後だということです。つまり、イエスは天に昇られた後に初めて異邦人伝道を命じたのです。逆に言えば、復活前、地上で宣教をしていた頃のイエスは弟子たちに異邦人のところに行くな、と指示していたということです。この5節、6節は、地上で宣教しておられていた頃のイエスの言葉を忠実に反映しています。イエスは自分の使命を、イスラエルの再建と明確に位置づけられていました。イエスは神の国、神の支配が近いことを告げ知らせていましたが、その神の支配を最初に受け入れるべき国民、すなわちユダヤ人に対してそのメッセージを届けようとしたのです。

イエスの届けようとしたメッセージとは「天の御国が近づいた」です。このメッセージの意味するところは、簡単に言えば、「世の終わりはすぐだ」ということです。世の終わりといっても、世界がなくなってしまうわけではもちろんありません。今の時代が終わり、新しい時代、神ご自身が直接世界を支配してくださる素晴らしい時代が来るということです。それがどれくらいすぐなのかといえば、23節にその答えがあります。「確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです」という言葉です。「人の子が来る」という言葉はキリストの再臨、つまり天に昇られたイエスがこの地上に帰ってこられるということです。その時にこそ、神の国、天の御国が来るのです。しかし問題はその時期です。イエスの弟子たちがイスラエルの町々を巡り終える前にキリストが再臨したのかといえば、歴史を振り返れば分かるように、そのようなことは実際には起こっていないのです。それどころか、それから約二千年も経っています。この問題はあまりにも大きく、次回の説教でもお話ししますが、それは初代教会に大変な難題を突き付けました。キリスト教の第一世代は、紀元一世紀に世の終わりが来ると信じていたのです。ですから、今日のイエスの教えもそのような信仰が前提となっています。

さて、9節以降ですが、先ほども申しましたように、9節から15節までと、16節から22節まではまったく別の教えです。なぜなら9節から15節までは、イエスがガリラヤで宣教していた頃の教えで、16節から22節までは、イエスが天に昇られた後、イエス亡き後の弟子たちに対する教えだからです。最初の方、9節から15節までのイエスの教えのポイントは、神を信頼するのと同時に、ガリラヤの民衆のことも信頼しなさい、ということでした。なにしろ旅行用品もお金も持たずに村々を渡り歩くのですから、その行った先々の人々のご厚意に頼るほかはないのです。そして村々の人々も、イエスやその弟子たちは誰にも直せなかった数々の病を癒してくれるのですから、大歓迎です。そういう人たちの支援を期待できるので、イエスは弟子たちに何も持たせずに送り出したのです。しかし、イエスやその弟子たちのことを歓迎しない人たちもいます。そういう人たちは相手にするな、というのがイエスの教えでした。なんだか冷たいではないか、粘り強く話せばわかってくれるのではないか、と思うかもしれませんが、何しろ時間がないのです。弟子たちがイスラエルの村々を巡り終わる前に世の終わりが来るのですから、ありていに言ってしまえば聞く耳を持たない人には構ってられないということです。これは反対に言えば、話を聞いてくれる人はたくさんいるのだから、そちらを優先しなさいということです。

しかし、16節以降は話が変わってきます。イエスは17節で「人々には用心しなさい」と語ります。ユダヤの人々、民衆がイエスの弟子たちに対して好意的ではなくなる時代が来るということです。それはいつか?それはイエスが十字架で犯罪者として処刑された後です。どんな組織でも、そのトップが犯罪者として処刑されれば大変な打撃を受けます。仮の話ですが、仮に私たちの教団のトップが犯罪を犯したということで死刑宣告を受けたなら、マスコミが大々的に報道し、私たちの教団は一般の人たちから見れば危険な集団という風に見られるでしょう。イエスの十字架刑はまさにユダヤの人たちにそのように映ったのです。十字架というのは、さらし者です。わざわざ目立つところに素っ裸で人を木に架けるという屈辱的な処刑方法です。しかも、頭上には「ユダヤ人の王」などという皮肉に満ちたプラカードを掲げたのです。イエスの弟子たちは、その後にイエスが復活したのを目撃したので、イエスは死にさえも打ち勝ったとその信仰を新たにしたのですが、しかしそのことを知らない一般のユダヤの人たちから見れば、イエスはみじめな失敗者であり、その彼をメシアと崇める信者たちは怪しげな集団としか映らないのです。さらに言えば、ユダヤ人にとって十字架で死んだイエスがメシアであるというメッセージは屈辱的なことでした。メシアは当時の超大国であるローマをやっつけてくれる人であるはずなのに、そのローマに殺されたイエスがメシアであるはずがないではないか、ということです。ですからそんな愚かなメッセージを広める集団は危ないから黙らせよう、迫害しようということになります。18節も、この教えがイエスが天に昇られた後のことであることを示しています。それは「異邦人たちにあかしをするためです」と書かれているからです。先ほどの5節ではイエスは「異邦人の道に行ってはいけません」と語っているのに対し、ここでは異邦人にあかししなさい、と命じています。これは、イエスの復活後に弟子たちがイスラエルだけではなく異邦人にも福音を宣べ伝えるようになった状況を示しています。そして、ユダヤ人にとっての外国人、異邦人たちの福音に対する反応は様々でした。福音を信じた人もたくさんいましたが、それ以上に反発が大きかったのです。多くの異邦人、特にローマ帝国の支配下にある人たちにとって、イエスの福音、つまりイエスは今や天に昇られて全世界の王になられたというメッセージは非常に問題のあるものでした。なぜなら、彼らにとっての世界の王とはローマ皇帝であって、そのローマによって十字架に架けられたみじめなユダヤ人であるはずがないからです。ですから多くの異邦人にとっても、イエスの弟子たちの語る福音は政治的に危険で、怪しいものとして響いたのでした。

こうしてイエスの弟子たちは、ユダヤ人にも異邦人にも迫害を受けることになります。イエスはそのような状況について、こう語っています。

いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。

イエスを信じる人は、鳩のようにすなおな人は多いのですが、蛇のように狡猾であるというのは苦手な人が多いのではないでしょうか。しかし、そのような狡猾さが必要になるほど、大変危険な状況になるということです。その厳しさについては、21節から22節にこう書かれています。

兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

このように、ものすごく大変な状況ですよね。イエスの弟子たちを支援した人たちももちろんいましたので、すべての人に憎まれるというのは誇張もあるとは思いますが、しかしイエスの弟子たちが至るところで迫害を受けたのは間違いありません。大変つらい状況ですよね。しかし救いはあります。なぜならそんな苦しい時代はそんなに長く続かないからです。弟子たちがイスラエルの町々を巡り終わる前に、イエスは戻ってこられて彼らを救ってくれるからです。前にも申しましたように、実際の歴史はそのようにはいかなかったのですが、弟子たちはそう信じて伝道に励んでいたのです。

3.結論

まとめになります。今日は、イエスがガリラヤで十二弟子を伝道旅行に派遣した記事を見て参りました。イエスは弟子たちに、何も心配しなくていい、何も持たなくていい、なぜなら人々は基本的にあなたたちを歓迎してもてなしてくれるからだ、と語ります。しかし、イエスが十字架に架かった後は状況は一変します。マタイはそのことを知ったうえで今日の箇所を書いています。イエスが天に昇られた後にはイエスの弟子たちは、歓迎されることは少なく、むしろ激しい迫害を受けるようになります。その大変厳しい状況を耐え忍びなさい、なぜなら主イエスが戻られる日は近いからだ、というのがこの箇所に込めたマタイのメッセージでした。実際には、弟子たちが生きている間にイエスが戻られることはありませんでした。ここからわかるのは、パウロの場合と同じように、主イエスがいつ来られるのか、いつ世の終わりがあるのか、ということは誰にも分からないということです。福音書記者ですら分からなかったのです。ですから、それがもうすぐだ、という人がいたとしてもそれを信じてはならないのです。とはいえ、この終末論というテーマはとても大きなものなので、今日はここらへんでやめておきます。

さて、ではこのマタイ10章の「伝道」についての教えは私たちにとってどんな意味を持つのでしょうか。「伝道」というのはクリスチャンにとって、とても大切なことですが、今日においては大変難しいものでもあります。よく、友人とは宗教と政治の話はするな、ということが言われます。政治の方は、最近はもう少し敷居が低くなったといいますか、話しやすい雰囲気になってきたように思いますが、宗教の方はむしろタブー視する傾向は強くなってきたように感じられます。統一教会問題とか、宗教二世問題とか、社会にとってよくない影響を与えるものだというイメージが強くなっているからです。ただ、別に世の中の人が宗教に全然関心がなくなってしまったという風にも思いません。むしろ、スピリチャルなものへの関心が強まっている気がします。ではなぜ宗教の話をするのが嫌われるのかといえば、これは私見ですが、宗教を信じている人は自分の信じているものが絶対だと信じていて、批判を受けつけない傾向があるからだと思います。話す相手が、自分の言っていることが絶対正しいと確信していて、何を言っても聞く耳をもってくれないとなると、もうそんな人とは話す気がなくなりますよね。逆に政治の話がしやすくなってきたというのは、政治にもいろんな意見があって、自分なりに考えてどれかの意見を選んでもいいのだ、自分の考えを述べてもいいのだ、という雰囲気が出来上がってきているからだと思います。SNSなど双方向のメディアが発達してきて、様々な立場からの情報の量が飛躍的に増えただけでなく、自分の意見が言えたり、ほかの人の考え方を聞いて自分の考えを改めたり、ということが普通にできるようになってきました。そのような状況の中で、政治の話が少し身近になってきている気がします。

それに対して宗教は、今でもあまり自由な発言が許されない雰囲気があるように思います。「正しい」教えというのがあり、それに対して疑問を抱いても、その疑問を自由に言えない空気がある、その息苦しさが人々を宗教から遠ざけてしまうのかもしれません。私は、宗教についてもっと自由に語ることができるようになれば、宗教そのものに関心を持っている人は少なくないので、宗教に対する敷居も下がるのではないかと思います。「伝道」とは、人を説得してその人にイエス様を信じさせることではありません。そんなことをすれば確実に嫌われるでしょう。むしろ、宗教とは人生についてもっと深く考えるきっかけになるものだと私は考えています。また、宗教を信じている人が常に正しい「答え」を持っていると考える必要もありません。間違えることもあるのです。初代のキリスト教徒たちは紀元一世紀に世界が終わると期待していましたが、そのようなことは起こりませんでした。だからといってキリスト教が無価値になるわけではありません。間違いがあったとしても、そこから学べばよいのです。むしろ、「私は間違っていない」とかたくなになってしまえば、そんな態度は人を遠ざけてしまうでしょう。私たちが開かれた心を持つこと、それこそが伝道の最も大きな助けになるものと信じています。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今日は主イエスの伝道についての教えを学びました。初代教会の人々もいろいろなことに悩み、また苦しんだことを学びました。私たちもそこから何かを学ぶことができるように助けてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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律法学者とパリサイ派マタイ福音書9章1~38節 https://domei-nakahara.com/2026/02/08/%e5%be%8b%e6%b3%95%e5%ad%a6%e8%80%85%e3%81%a8%e3%83%91%e3%83%aa%e3%82%b5%e3%82%a4%e6%b4%be%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b89%e7%ab%a01%ef%bd%9e38%e7%af%80/ Sun, 08 Feb 2026 01:06:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=7220 "律法学者とパリサイ派
マタイ福音書9章1~38節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。マタイ福音書を読み進めていますが、今日はかなり長い箇所を扱います。これまでは比較的短い箇所からメッセージしてきましたが、今日は9章丸ごとで、そこにはいくつものエピソードが含められています。

今回の場面の主役はもちろんイエスですが、同時にヒール役というかイエスの敵役として登場してくる人たちがいます。それが律法学者やパリサイ派です。ただ、律法学者とパリサイ派と一言にいっても、彼らは一枚岩ではなく、様々なタイプの人たちがいました。イエスに敵対するのはなく、ひそかに支持する人もいれば、公然と支持する人もいました。福音書にも、実際にそのような人たちが登場してきます。しかし、今回の箇所に出てくる律法学者やパリサイ派はみなイエスに反対する人たちです。根拠のない誹謗中傷をする人までいます。こういう姿を見ると、当然私たちの律法学者やパリサイ派への見方は悪くなります。この人たちは曲がった人たちだ、悪い人たちだ、という見方になっていきます。しかし、ここで一歩立ち止まって考えてほしいのです。本当に律法学者やパリサイ派はそんなに悪い人たちなのでしょうか。確かに、イエスの人気を妬んで、やっかみでイエスの足を引っ張ろうとした人たちもいたでしょう。そういう理由でイエスを攻撃した人たちの肩を持つ気はまったくありません。しかし、律法学者やパリサイ派たちにも彼らなりの正義があり、その正義に基づいてイエスを批判した人たちもいたのです。その正義は何なのかということを理解しないと、私たちは単に律法学者やパリサイ派は悪なのだと、いわばレッテルを貼ることになります。しかし、それではよくないと思います。彼らは彼らなりに、イエスの行動に問題を見出したから批判したのです。その批判が的外れだったかどうかは、彼らが見出した問題について考えなければ判断できないのです。私たちはクリスチャンですから、自動的にイエス様の言うことやなさることはすべて正しく、イエスを批判する人はだれであれ悪いと考えます。しかし、一歩立ち止まって相手の立場で考えるというのも必要だということです。

そもそも律法学者やパリサイ派はどんな人たちだったのでしょうか?大事なことは、彼らはお金めあてで行動した人たちではないということです。お金がすべての現代人からみれば、むしろ彼らは本当に尊敬すべき人たちでした。なぜなら彼らはお金を取らずに、ただで貧しい民衆に律法を教えてあげたからです。今日の日本で、貧しい家庭の子供たちに無料で勉強を教えてくれる人たちがいたら、みんなから尊敬されますよね。塾や家庭教師は高額ですから、本当にありがたいことです。そして、パリサイ派や律法学者はまさにそういう人たちだったのです。ユダヤの人たちは、みな神を敬う人たちですので、神がモーセを通じてイスラエルに与えた律法を、神の御心、神のご意思として敬い、実行したいと願っていました。しかし、律法を実行するのは簡単ではありません。律法には「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」という教えがあります。しかし、安息日を聖なる日とせよというのは具体的にはどういうことなのでしょうか。聖なる日とせよとは、特別な日とせよということです。特別だから、ほかの六日間とは別の行動をする必要があるのですが、別の行動とは何でしょうか?平日は食事を作っているので、安息日は作ってはいけないのでしょうか?多くのユダヤ人はそう考え、安息日の前に食事を作り置いていて、安息日には料理をしないようにしていました。では、医療行為はどうなのか?医療行為は平日だけにすべきなのか、しかしそのために病気が悪化して死んでしまったらどうするのか?という切実な問題が生じます。一般のユダヤ人にはこういうことは判断できなかったので、律法学者たちはこれらの事柄についてガイドラインを作ってくれたのです。しかも無料で、です。これはすごいことです。ガイドラインを作るのは大変なことです。当然に報酬を得るべきものなのに、それを無料でやってくれるのです。律法学者たちは手に職をもっていましたから、彼らは大工などの仕事の傍らでこういう奉仕をしてくれたのです。すごいですよね。私のような、みなさまから謝儀をいただいて牧師をしている人からすれば、律法学者は本当にすごい人たちだと思います。イエスのお弟子さんたちは仕事をやめて、信者さんたちから援助を受けて伝道していたのですが、律法学者たちは仕事をつづけながら人々に教えてあげていたのです。この意味でも、律法学者というのは実に尊敬すべき人たちだということになります。

では、そんな立派な人たちがなぜイエスを批判したのでしょうか?そのことを今日のみ言葉から見ていきましょう。

2.本論

まずは3節です。イエスは中風の人を癒しました。この癒しの行為自体には律法学者は何の文句もありませんでした。むしろ賞賛したでしょう。しかし彼らが疑問に思ったのは、その時にイエスが語った言葉でした。それは、「あなたの罪は赦された」という言葉でした。ここで注意したいのは、イエスは「私はあなたを赦す」と言っているわけではないことです。「赦された」という受動態で語っているので、赦す主体は誰だか明記されていないということです。しかし、イエスの言葉を聞いた人たちは、「私はあなたを赦す」とイエスが語ったのではないことを理解していたでしょう。赦すのは神です。それは当たり前のことでした。イエスは、「あなたの罪は神によって赦された。だから治ったのだ」と語っているのです。イエスは自分が神だと主張したわけでもなければ、自分があなたを赦したと言っているわけでもないのです。そこには神を冒涜するものは何もありません。では、なぜ律法学者はイエスの言葉に疑問を抱いたのでしょうか?それは、人の罪が神に赦されるためには、聖書の定める正しいプロセスがあったからです。旧約聖書にはレビ記という書があり、そこにはどうすれば罪を犯した人の罪が赦されるのか、その方法が書かれています。それは神殿で犠牲を献げることを通じてです。律法学者たちは、イエスがその手続きを踏まずに、いきなり罪が赦されたと宣言したことに疑問を呈したのです。「この人は聖書の教えを無視するのか」という疑問を抱いたのです。ですからこの律法学者たちは、今日でいえば聖書を重んじて聖書に忠実であろうとする福音派の人たちだということになります。今日の福音派が聖書の権威を軽んじる人たちを激しく攻撃するように、律法学者たちもイエスが神を、神の言葉である聖書を軽んじているのではないかという疑いを持ったのです。それが彼らなりの正義です。しかし、イエスはそのような言葉に対して、罪の赦しのプロセスを定める聖書を超える権威を私は持っていると主張しました。これは律法学者には受け入れがたい主張だったでしょう。聖書が神の言葉ならば、それを超える権威などあるはずがないではないか、というのが律法学者たちの抱いた思いでした。私たちはイエスを信じていますから、彼の主張を受け入れますが、その主張を受け止めきれなかった律法学者たちの気持ちも理解はできます。これが、律法学者たちの第一の躓きでした。

そして、第二の躓きが9節以降に書かれています。今度はイエスが取税人たちと食事をしていることにパリサイ派たちが異議を唱えたのです。このことも、取税人という人たちがどういう人たちであるかを知れば理解できます。取税人は、ユダヤやガリラヤの地を支配していたローマ帝国に代わって税金を取り立てる人たちでした。しかも、ローマ帝国は彼らに手当、給料を払わなかったのです。給料もらわないのにどうやって生活したんだ、と思うかもしれませんが、それはピンハネをしたのです。つまりローマは10%の税金を取り立てるように命じるのですが、そこで12%や15%を取り立てて、その上前の2%や5%を自分のポッケに入れたのです。給料をもらえないから仕方がないですよね。そしてローマもそれは自由にやらせていたのです。税金さえしっかり集めれば、上前は好きなだけ取ってもよし、というのがローマのスタンスなのです。ですから取税人の中には、暴力団みたいな人を雇って人々から税金を力づくで集めている人もいました。ですから当然一般の人々は取税人を嫌います。そんな取税人と一緒に仲良く食事をしているイエスのことを、パリサイ派の人たちが疑いの目で見たのも無理からぬことでした。パリサイ派は、彼らなりの正義感でイエスの行動を批判したのです。もちろんイエスも、そうした取税人の在り方をよしとしていたのではなく、むしろ彼らを悔い改めさせようとしていたのですが、そういうイエスの意図が分からないパリサイ派からすれば、イエスのやっていることは良識を疑うことでした。しかし、イエスはそうした疑問に正面から向き合い、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と答えています。イエスは、取税人をありのままで問題なしとして受け入れているのではありません。彼らのことを病人と見なし、治療が必要だと語っているのです。ですから、パリサイ派が懸念したように、イエスは決して取税人を無批判に受け入れたわけではないのです。ただし、このイエスの答えを聞いたパリサイ派がそれで納得したかどうかは分かりません。実際に、イエスと食事をしたあとの取税人が、ザアカイさんのように皆が悔い改めれば、それを見たパリサイ派は納得するかもしれませんが、取税人の人たちにも生活があります。彼らはそう簡単にそれまでのビジネスのやり方、つまりピンハネをやめられなかったかもしれません。そうなると、パリサイ派たちのイエスを見る目は相変わらず厳しかったのかもしれません。

さて、次の断食についての問答は、イエスの宣教の意味を理解するうえで重要です。パリサイ派の人は、バプテスマのヨハネは断食をしていたのに、なぜイエスとその弟子は断食をしないのか、と尋ねました。この質問をしたパリサイ派の人は、イエスとバプテスマのヨハネとの関係のことを良く知っていたのでしょう。イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を授けられています。それだけ聞けば、普通に考えればイエスはヨハネの弟子なのか、と考えるでしょう。そのヨハネの弟子たちが断食しているのに、なぜイエスの弟子たちは断食をしないでパーティーばかりしているのか、という質問をパリサイ派はしたのです。この問いに対するイエスの答えはちょっと分かりづらいですね。花婿がどうとか、イエスは何を言いたいのだろうか、と思われるかもしれません。ここで考えるべきことは、断食とは何のためにするのか、ということです。断食は苦しいですよね、おなかが減っても何も食べないわけですから、当然苦しいことです。では、なんでわざわざそんな苦しいことをするのかといえば、それはそんな苦しい中で必死に神に願い求めるためです。神様に何か真剣に願うことがあるので、わざわざ自分を苦しい立場において、必死に神に願うのです。では、バプテスマのヨハネや弟子たちは何を神に願っていたのでしょうか?それは神の国が来ることです。その時が早まるようにとの願いから断食をしていました。では、なぜイエスたちは断食をせずに宴会を開いたのか。それは神の国がさらに近づいた、いや目前だと考えていたからです。神の国が来れば、その時には神の大宴会が開かれます。そうなれば、もう断食をする必要などありません。イエスは、まだ神の国は来てはいないけれど、しかしその到来はもうすぐだということを示そうとしたのです。ですから神の大宴会のいわばリハーサル、前味として人々と宴会を開いたのです。そして、神の国、新しい時代が始まるので、その新しい時代に合わせた新しい生き方、ライフスタイルが必要になります。イエスはそのことを新しい服、あるいは新しい皮袋に譬えて話しているのです。ですからこの問答から、イエスが神の国の到来が目前だったと考えていたことが分かるのです。律法学者たちからすれば、半信半疑だったかもしれません。ローマの兵士たちが威張っている状況で、本当に神の国が来るのか、どうやって来るのか、という疑問を抱いたことでしょう。

さて、これらの問答の後、イエスはさらに三つの驚くべき癒しを行っています。まず初めに、12年間も長血を患っていた女の癒しです。驚くべきことに、この女はイエスの着物のふさに触っただけでした。イエスに「癒してください」とお願いしたのではなく、むしろイエスが気が付かないようにそっとイエスに触っただけなのです。それなのに、彼女は癒されました。イエスの方には彼女を直そうという意思がなかったのに、癒されたのです。それはなぜか。それはイエスの力というよりも、その女の人が持っていた信仰の力が癒したといえるのかもしれません。イエス様がその力を彼女自身から引き出したとも言えます。イエスご自身が、「あなたの信仰があなたを直した」とおっしゃっています。私たちの信じる力というのはとても大きなものなのです。

次に、イエスはすでに死んでしまった少女をよみがえらせるという奇跡を行いました。これはものすごいことに思えるかもしれませんが、しかし実は前例のないことではなく、旧約聖書ではエリヤやエリシャが死んだ子供をよみがえらせるという奇跡を行っています。ですからイエスがこのような奇跡を行ったということは、イエスは旧約の預言者たちのように神から遣わされた方だということを示しています。ですからこのような奇跡を目の当たりにした律法学者やパリサイ派の人々は、イエスが神から遣わされた預言者だということを認めるべきでした。

さらには、イエスは三つ目の奇跡を行いました。それは盲人の目を癒すという奇跡でした。目が見えない人の目を開くという奇跡は、旧約聖書にも例がありません。まったく驚くべき奇跡です。このように、イエスは信じられないような奇跡を三つも続けて行いました。これだけのことができるのは、イエスに神の力が働いているからに違いないのです。律法学者やパリサイ派の中には、これらの驚異的なしるしを見て、イエスを信じた人もいたはずです。実際、これから後のマタイ福音書にはそういう人たちが出てきます。繰り返しますが、律法学者やパリサイ派の中にはイエスを信じた人もいるのです。

しかし、これほどの奇跡を見ても、パリサイ派や律法学者の中にはどうしてもイエスのことを認めたくない人たちがいました。ここで注意したいのは、みんながみんなイエスを拒否したのではなく、拒否した人も中にはいたということです。マタイはイエスを拒否した人たちをここで特別に取り上げているのです。彼らは自分たちこそ正しいと信じていました。自分たちこそ神に忠実な人たちだと信じていました。だから、彼らは自分たちとは違う存在を神から遣わされた方だと認めるわけにはいきませんでした。なぜなら、イエスを神から遣わされた方だと認めてしまうと、自分たちが神のしもべだという信念が揺らいでしまうからです。自分が特別な人間だという信念が揺さぶられてしまうからです。ですから彼らは何としてもイエスのことを否定しようとします。イエスはそれからさらに、悪霊どもを追い出して人々を救います。民衆はそれを見てイエスをますますほめそやします。しかし、それがどうしても認められないパリサイ派の人たちがいました。彼らは何と、イエスが神の力ではなく悪魔の王、魔王の力を使って悪霊たちを追い出しているのだというとんでもない誹謗中傷を言い出します。ここに彼らの悲劇があります。彼らは自分たちこそ正しいという思いが強すぎて、自分とは立場が違う人が、その人がどんなに素晴らしくて、どんなに偉大なことを行っても認められないのです。しかし、そのような過ちは私たちも犯してしまうかもしれないものだということを自覚したいのです。

3.結論

まとめになります。今回は、パリサイ派や律法学者たちことを考えてみました。彼らはイエスの言動に疑問を持ちました。そして、それには無理からぬ面があったことも指摘しました。別に彼らは心の曲がった人たちではなく、むしろイエスを理解できずに悪戦苦闘していた人たちだったのです。しかし、イエスの行う素晴らしい業を見て、イエスを信じた人たちもいたのです。ここは強調すべきことです。それでも、イエスが行う大胆な行動を理解できずに、そのためにイエスがどんなに素晴らしいことを行ってもそれを評価しようとせず、あろうことか悪魔の力を使っているのだとイエスを批判するようになってしまった残念な人たちもいました。みんながそうではなく、一部のパリサイ派の人がそうなってしまった、ということです。これは無茶苦茶な誹謗中傷なのですが、しかし私たちも人の振り見て我が振り直せという諺通り、こうしたパリサイ派をあざけったり非難する前に、自分にもそのような傾向がないだろうかと振り返るべきです。なぜなら、パリサイ派と同じように、クリスチャンも自分たちこそ正しいと固く信じ、自分たちと違う信仰を持っている人は悪い、悪いだけでなく悪魔だと批判することすらしてきた歴史があるからです。私たちは宗教改革を素晴らしいことだと考えています。しかし宗教改革には光と陰があります。ルターが宗教改革ののろしを上げた時から100年後、そのドイツで宗教戦争がはじまりました。カトリックとプロテスタントとの間の戦争で、その戦争は30年も続き、その結果ドイツは何と人口の三分の一を失ってしまいました。三分の一ですよ。まさに地獄絵です。同じクリスチャン同士が、どうしてそんなに恐ろしい殺し合いをしたのか。それは相手を悪魔のしもべだと信じたからです。宗教改革者たちはローマ教皇が反キリストであると信じていました。カトリックの人たちは悪魔だと信じたのです。だからカトリック教徒を殺すことに躊躇しなかったのです。カトリック側も同じです。プロテスタントは異端、神の道を捨てた者たちなので殺しても構わないと考えたのです。自分と違う信仰を持つ者を悪魔と呼ぶ姿勢、それはイエスのことを悪魔の力で悪霊を追い出していると信じ込んだパリサイ派と何が違うのでしょうか。私たちはこの聖書の記述から、また教会の歴史から、自分の信仰だけが正しいと信じ込むことの危険を学ぶべきです。私たちは、人をレッテル貼りしないようにしたいのです。それがこの分断の時代に必要なことです。主イエスもレッテル貼りをせずに、どんな人にも接しました。私たちもそのように歩んで参りましょう。お祈りします。

天におられます神様、そのお名前を賛美します。今日はイエスのことを理解できなかった、理解しようとしなかった一部のパリサイ派や律法学者の悲劇を学びました。しかし私たちもまた、そのような過ちを犯しやすい者であることも事実です。どうか私たちがそうした過ちに陥らないように守ってください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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悪霊を追い出すマタイ福音書8章28~34節 https://domei-nakahara.com/2026/02/01/%e6%82%aa%e9%9c%8a%e3%82%92%e8%bf%bd%e3%81%84%e5%87%ba%e3%81%99%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b88%e7%ab%a028%ef%bd%9e34%e7%af%80/ Sat, 31 Jan 2026 23:45:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=7210 "悪霊を追い出す
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みなさま、おはようございます。私たちはマタイ福音書を読み進めていますが、だんだんと重要なテーマが出てきます。マタイ福音書では、まずイエスの教えをまとめた「山上の垂訓」があり、次いでイエスのいくつかの重要な癒しの出来事があり、そして今回は悪霊払いです。悪霊払いがイエスの宣教活動における重要な柱の一つだったということは広く知られていますが、実はマタイ福音書では今回の箇所が最初の場面です。

ただ、悪霊払いと聞くと、なんだかおどろおどろしい感じがしますよね。アメリカ映画でずいぶん前ですが、「エクソシスト」という映画が大きな話題を呼び、その後もそれに類する映画がいくつも作られてきました。ローマ・カトリック教会には悪霊払いを主な任務とするエクソシストと呼ばれる聖職者が今でも現実に存在するのですが、そうしたエクソシストたちが人間にとりついた悪霊と戦うというのがそれらの映画の内容です。私はそういう映画が割と苦手で、まともに全部を通して見たことがないのですが、なんというかグロテスクな目をそむけたくなるような映像の映画です。こういうアメリカ映画がはやるのは、アメリカでは聖書が広く読まれていて、アメリカ国民の方々が福音書に出てくる悪霊払いの話に慣れ親しんでいるのが一つの理由なのではないかと思います。しかし、「悪霊」などというものは科学万能の現代人にとってはにわかに信じがたいものではないでしょうか。何か迷信じみた話で、悪霊が存在して人間に悪さをしているなどという話をまともに受け止めるのは難しいと考えるほうがむしろ普通なのではないでしょうか。そんな話は『鬼滅の刃』のような人気アニメと同じフィクションでしかなく、まともに考えられないと感じる人が多いということです。

しかし、福音書に出てくる悪霊という存在は、現代人にも理解できるものなのではないか、ということをここで少しお話ししたいと思います。皆さんはユングという名前を聞いたことがあるでしょうか。カール・グスタフ・ユングという人で、20世紀に活躍した有名なスイス人の精神科の医師です。精神科の医師と言いましたが、彼は心理学者としても世界的に有名で、あのフロイトのお弟子さんだった人です。フロイトやユングは心理学の中でも深層心理学という分野を確立した学者として有名です。私たちには「意識」というものがあり、意識なしには人間は人間とは言えないわけですが、「無意識」というものもありますよね。私たちは、しばしば無意識のうちに行動することがあります。夢遊病者が夜歩いているのはまさに無意識の行動です。そして無意識の状態とは意識が全くないということではなく、自分では気が付かない意識の領域があるということです。自分の心なのに、自分にはよく分からない、あるいは意識していない領域があるということです。こういう意識のことを「深層意識」とも呼びます。深い層にある意識、ということですね。そういう、いわば隠れた意識が私たちを動かすということがあるのです。深層意識の一つの例としてよく言われるのが、例えば子供の頃に非常に怖い出来事があった、あるいはとてもいやで思い出したくもない出来事があると、私たちはそれを思い出さないようにと意識の奥に閉じ込めて蓋をしてしまいます。起きたことを、なかったことのようにして自分の心の平安を保つのです。しかし、閉じ込められた意識や負の感情はそれで消えてしまうわけではありません。何かの拍子に、そうした閉じ込められた記憶が呼び起されて、私たちの精神に強い影響を及ぼし、私たちを思わぬ行動に走らせてしまうことがあります。フロイトやユングは、精神障害とされる症状のいくつかがそうした深層心理、深層意識に起因しているということを解き明かしたのです。そして患者を催眠状態にして、隠れた記憶を語らせたりしてその人の心の病の原因となっている過去のトラウマを見つけ出すというような治療行為を行っていきました。

このように、私たちが普段意識している心の領域の下にある無意識、あるいは深層意識を解明していくという研究が続けられたのですが、ユングはそのような知見にさらに新しい発見を加えました。私たちの意識は私個人の無意識だけでなく、集団の持つ無意識というものがあり、そうした集団の深層意識、集合意識ともつながっているのだ、という説を唱えたのです。どういうことかといえば、日本人一人一人は個人としての深層意識だけではなく、日本民族としての深層意識とつながっており、さらに言えば日本人とかインド人とかいう民族を超えた、全人類の集合無意識ともつながっているというのです。端的に言えば、無意識には私個人の無意識と集団としての無意識があり、私たちはそのどちらにも影響を受けているということです。なんだかとても壮大な話なのですが、ユングは実際に多くの精神病の患者を診断するうちにそのような結論に達しました。例えばある患者が、不思議なシンボルを見たと言ってそれを絵にかくのですが、その描かれたシンボルが実は古代の文書に書かれたシンボルとそっくりだというような事象がありました。そしてその患者は、まちがいなくその古代のシンボルを知りませんでした。なぜならそのシンボルはつい最近発見されたもので、世間には知られていないものだったからです。では、なぜ見たこともないシンボルを正確に描くことができたのかと言えば、それはその患者の深層意識が古代から伝わる人類の集合無意識とつながっているからだ、という説明が成り立つのです。なんだか科学というよりもオカルトのような話ですが、ユングは学者には珍しく超常現象に深い関心を寄せていた学者でした。

 さて、このユングの集合無意識がイエスの悪霊払いと何の関係があるのか、と思われるかもしれませんが、それがあるのです。この集合無意識も人間の心、それも多くの人間の心に根差したものですから、そこには愛のようなプラスの感情もあれば、負の感情、憎悪や破壊衝動のようなマイナスの感情もあります。そして人間が無意識のうちにそのような負の集合意識とつながってしまうと、その人の性格にも甚大な影響、しかも悪い影響を及ぼしてしまうのです。ユングは、その最悪のケースの一つがナチス・ドイツの時代のドイツ人の精神状態だったと論じています。少し長いですが、それを引用します。

ドイツ人を戦争へ追い立てたのには、政治的・社会的・経済的・歴史的なさまざまな理由があったことは、普通の殺人の場合と同様、言うまでもない。どんな人殺しにもそれなりの動機はあるので、さもなければ犯罪は起らないことになるだろう。だがひとたび事が起るとき、そこにはもうひとつ心的な要因がなければならない。そこで犯罪心理学というものが存在するのだ。ドイツは、ある集団精神状態に陥っていたために、必然的に犯罪へと走らなければならなかった。しかし、どんな精神状態もだしぬけに空から降ってくるわけはなく、かなり長いあいだにわたる潜在状態があるものであって、それを精神的劣等(コンプレックス)という。民族にはそれぞれの心理があるように、またそれぞれに固有の精神病理がある。それは多くの異常な特徴の集積から成っているが、なかでも際立っているのが、国民全体に蔓延した暗示性である。(『ユングの文明論』より引用)

つまりユングは、ナチス・ドイツ政権下のドイツ人は集団的な精神病に陥っていたのであり、深層無意識に圧倒されてしまったというのです。そして話は戻りますがイエスの悪霊払いの話です。この悪霊に憑かれた人たちも、集合的な深層意識によって振り回されていた可能性があるのです。それで長々とユングの話をしていたのです。

この悪霊払いの記事は、マルコ福音書の記事をマタイが用いたものです。マタイはマルコ福音書を資料として用いて福音書を書き、マルコの記事の九割以上はマタイで使われています。この記事もそうです。マルコ福音書5章1節から20節までの記事を短くしてマタイはここで用いています。しかし、詳しく比べるとマルコとマタイの記述には細かな違いがあります。まず、マルコでは悪霊に憑かれた人は一人ですが、マタイでは二人になっています。しかしこれはマタイの癖のようなもので、マルコ福音書ではイエスが一人の人を癒したとなっているのに対し、マタイでは二人を癒したと変えられているケースが複数例あります。マタイがなぜそうしたのか、学者の間でも意見が割れており、私にもその理由が分かりませんが、マタイはイエスの偉大さを強調したかったのかもしれません。また、マルコ福音書ではイエスが悪霊払いを行ったのは「ゲラサ人の地」となっていますが、マタイでは「ガダラ人の地」となっています。ゲラサもガダラもギリシア人の住むデカポリスと呼ばれる地域の町ですが、互いにかなり離れた場所にありました。ここもなぜマタイがこの地名に変えたのか、その理由は不明です。こういう細かな違いを除けば、マタイとマルコの話は全く同じです。イエスは悪霊に憑かれて墓場で暴れている人のところに行き、そこで悪霊と対決します。そこでマタイにはないマルコの記事によれば、悪霊はイエスに名前を聞かれて、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と答えています。この「レギオン」というのはローマの軍隊の名前で、数千名からなる精鋭部隊でした。ですから、この可哀そうな人物にとりついた悪霊は一人ではなく数千人にも及ぶということが示唆されているのです。この一人ではなく数千という数は、先ほどの集合無意識雄というものを連想させます。しかし、人類の集合無意識と悪霊とを結びつけるというのはあまりにも乱暴な意見ではないか、と思われるかもしれません。たしかに集合無意識は、悪霊のような悪一色のものではありません。そこには善の要素も悪の要素もあります。そのどちらが人間に影響を及ぼすのかは、その人間次第という面もあります。ここで再びユングの話を聞いてみましょう。少し難しい専門用語も出てきますが、そのままお読みします。

国家社会主義(これはナチスのことです)、これら集団心理学現象の一つであり、集合的無意識の噴出の一例であって、それについて当時私は、二十年近くも説いていた。集団心理学現象の駆動力は、元型的な性質のものである(「元型」とは人類の無意識が持つ、普遍的なイメージのことです)。元型というものはどれも、最高と最低、悪と善を併せ持っていて、だからこそ、およそ矛盾にみちた働きをするものである。したがって、それが肯定的な効果をもたらすか、否定的に動くか、あらかじめ決めることはできないのである。(『ユングの文明論』からの引用)

集合無意識は、無意識であるがゆえに、人にはコントロールできないのです。コントロールできないから、普通ではない、異常な行動になってしまうのです。集合意識の負の部分、悪の部分が人間行動に強い影響を及ぼしてしまうというのが、このレギオンにとりつかれた人の行動の一つの説明だと言えるでしょう。では、そのような病理を如何に克服できるのか。それについてユングはこう説明しています。

私は精神病医だから、無意識内容に圧倒されている患者にとって、意識と理解力を、つまり正常な人格の形成要素を、できるかぎり強化することがいかに大事であるかを知っている。それによって侵入してくる無意識内容を受け止め、意識に統合できるようになるからだ。無意識それ自体は、破壊的ではなく、アンビヴァレントなものであって、それが災禍を来たらすか、恩恵をもたらすかは、ひとえにそれを受け止める意識にかかっている。(『ユングの文明論』より引用)

つまり、集合無意識に振り回されないためには、健全な意識を強化すべきだということです。イエスが悪霊払いを行うというのは、その人の意識を高め、深層無意識の悪い影響に振り回されないような状態に戻してあげたのだ、という説明ができるのです。もちろん、それだけでこのイエスの悪霊払いを説明することはできません。悪霊はそれから豚の大群に乗り移り、その豚の大群が湖に駆け下りておぼれ死んだとありますが、人間の集合無意識が豚に乗り移ることはないからです。この点については、確かに説明はつきませんが、しかし悪霊払いの話はすべてがありのままの事実というわけではなく、劇的な演出ということもあるのかと思います。

では、このレギオンにとりつかれていた人を振り回していた負の集合無意識とは何でしょうか。それは、生活の苦しさや不安だったと思います。当時の村々の人々は、ローマ帝国から課される重税と、ローマの兵士が振るう暴力に苦しめられていました。そういう不満は、しかし表に出すことはできません。そういう感情を押し込めるわけです。不満を述べてローマに目を付けられたくないからです。しかし、人々の不満は深層心理の中にマグマのように沈殿していきます。そうした押し殺されてきたものの影響を一番受けてきたのがこのレギオンにとりつかれた人ではないか、ということです。その人に対してイエスは向き合い、彼を深層意識の悪い影響から救い出したのです。

まとめになります。今日は、マタイ福音書での最初の悪霊払いについて見て参りました。悪霊というと、なんだかおどろおどろしい、おとぎ話のようなもので、私たちの日常生活には関係ない、と思われるかもしれません。しかし、近代以降の心理学が明らかにしたように、私たちの精神や心に悪い影響を及ぼす集合無意識というものがあり、今回の「レギオン」と呼ばれる悪霊もそのようなものとして捉えることができるかもしれません。この集合無意識の影響を受けるのは一人だけであるとは限りません。むしろ、それが一人ではなく集団に影響を及ぼすようになると、ナチス・ドイツのような熱狂的な国民運動、あるいはアメリカに宣戦布告をするという、まさに自殺行為を選択した戦前の日本のようになってしまうということです。では、なぜナチス・ドイツが生まれてしまったのか。それは、第一次大戦後のドイツ人をいじめすぎたからです。ヴェルサイユ条約で、ドイツ系住民はバラバラにされ、チェコスロバキア・ポーランド・オーストリアで少数民族として扱われることになりました。また、敗戦国ドイツへの賠償金は、何と今日の価値で言えば200兆円という天文学的な額に及びました。工業基盤を失ったうえにその賠償を支払おうとして無理を重ねたドイツは二度のハイパーインフレーション、つまり1億円の価値が1円になってしまうという恐ろしい経験をしました。皆さんの貯金1億円が1円になってしまったら、どう思いますか?頭がおかしくなりますよね。そういう不満がドイツ人の深層意識を乗っ取ってしまい、その深層心理に振り回されたのが第一次大戦後のドイツだと言えます。

今日の世界にも不満が鬱積しています。アメリカでトランプという異形の大統領が生まれたのも、格差が大きくなりすぎて、没落した中産階級が多く生まれました。彼らの不満がトランプ政権を生み出したのです。日本についても同じです。対中国に対する強気な発言をする政治家が受けるのも、国民の不満を外に向けようとする力が働いている気がします。そして不満の源は生活の苦しさです。それを何とかしない限り、不満は人々の深層意識の中に蓄積していき、いつか爆発することになりかねません。私は格差を生み出しているのは行き過ぎたグローバリズムだと考えています。この説教ではあまり政治や経済の話をすることはしませんが、イエスの神の国の福音も、格差をなくして「神の下に平等」な社会を作り出そうというものだったことは強調してもよいと思います。悪霊払いの話から、大きなテーマになりましたが、このことをよく考えて、今の選挙でも日本人が適切な選択をするように祈るものです。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今日は悪霊払いの話から、格差の問題へと話が及びました。今日の日本にも多くの不満や不安がありますが、そのために私たちが愚かな行動に走らないように、どうかこの国を導いてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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ますます熱心に第二ペテロ1章1~11節 https://domei-nakahara.com/2026/01/25/%e3%81%be%e3%81%99%e3%81%be%e3%81%99%e7%86%b1%e5%bf%83%e3%81%ab%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e3%83%9a%e3%83%86%e3%83%ad1%e7%ab%a01%ef%bd%9e11%e7%af%80/ Sun, 25 Jan 2026 00:21:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=7202 "ますます熱心に
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1.序論

みなさま、おはようございます。今、私たちはマタイ福音書を読み進めていますが、これまで毎月の月末だけは別のところから説教をしてきました。昨年11月のアドベントの前に第一ペテロの説教が終わったので、今回からは第二ペテロを取り上げて参ります。

ただ、ここで注意したいのは、第一ペテロと第二ペテロを続けて読むと、これらの書簡が同一人物によって、つまりイエスの十二使徒のリーダーであるシモン・ペテロによって書かれたのは当然だと思ってしまうかもしれませんが、実際には多くの研究者はそのようには考えていないということです。もちろん、教会の伝統ではこれら二つの書簡はイエスの弟子であるケファ、つまりペテロによって書かれたとされてきました。しかし、近代以降になって聖書が客観的なアプローチによって研究されるようになってからは、こうした伝統も無批判に受け入れられるようにはならなくなりました。今や、多くの学者は第一ペテロと第二ペテロの著者は別人だという見解に立っています。もちろん、これは学説であって必ずしも事実とは言えないので、そのような見方は私の信仰にはなじまない、聞く必要はないと考えても構いません。学説というのは時代と共に変わるものですので、今の学説が100年後にはまったく変わっているということもありうるのです。このような学問的アプローチの限界を踏まえたうえで、ではなぜ多くの研究者が第一ペテロと第二ペテロの著者が違うと考えているのかといえば、大きくいえば二つの理由があります。一つは「ユダの手紙」との類似性です。みなさんはユダの手紙と聞いて、すぐにその内容を思い浮かべることができるでしょうか?それはヨハネ黙示録の前に置かれている非常に短い手紙ですが、れっきとした正典の公同書簡の一つです。その内容が、この第二ペテロと非常に似ていて、一方が他方の内容を借用したのではないかと考えられるということです。そして、ユダの手紙が書かれた時期はおそらく紀元二世紀だとされているので、第二ペテロもそうだろうということです。紀元二世紀にはシモン・ペテロはすでに世を去っているので、この手紙がペテロによって書かれることはあり得ないということになります。

そしてもう一つ、これが最も根本的な問題ですが、この書簡の扱っている内容そのものが紀元二世紀の教会の状況を強く反映していると思われることです。それは「再臨遅延問題」です。パウロ書簡を読めば分かりますように、パウロは自分が生きている間に、つまり紀元一世紀の内にキリストの再臨があるという強い確信をもっていました。パウロだけではありません。マタイ福音書には、イエスの「確かなことをあなたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなた方は決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです」(10:23)という言葉が収録されています。つまりこの言葉を福音書に含めたマタイは、イエスの弟子たちが熱心にイスラエルで伝道をしていた紀元一世紀の間に「人の子」つまりイエスが再臨すると考えていたということです。紀元一世紀の教会の大きな特徴は、キリストの再臨とそれに伴う世の終わりが近いと信じていたことでした。彼らが非常に熱心に、それこそ寝る間を惜しんで伝道活動に励んだのは、彼らに残された時間は少ない、世の終わりはもうすぐだと信じていたからでした。

しかし、そう信じていたのになかなか再臨が起きない、それどころか熱心に伝道に励んでいた使徒たちや長老たちはみな世を去ってしまった、そういう事態になってしまいました。そうすると、いろいろな動揺や反動が起きます。再臨なんてないのではないか、作り話ではないかと言い出す人たちや、信仰を捨てるまではいかなくても、それまでの緊張感のある引き締まった生活をやめて、だらけた生活を送るようになる人たちが現れました。そのような人たちを教会は厳しく注意しなければならないのですが、まさにそのような内容がこの第二ペテロに書かれているのです。つまりこの第二ペテロの書かれた時代背景が、ペテロの生きていた紀元一世紀よりも紀元二世紀の方に良くあてはまるということです。

こうした理由から、この第二ペテロ書簡は、紀元二世紀にペテロの名前で誰かほかの人が書いたものだろうと多くの研究者は考えるようになりました。それが事実かどうかは分かりません。しかしこの第二ペテロは教会が二千年もの間正典として受け継いできたものです。ですからそのような大切な聖書の一部として読んでいきましょう。この手紙の著者が誰であろうとも、教会はそれをペテロによって書かれたものとして受け継いできました。そこで私もこの著者のことをペテロと呼んで説教をさせていただきます。

2.本論

今日は冒頭の1節から11節までを扱います。ここで語られている内容を一言でまとめるならば、それは「ますます熱心に」ということです。この11節の中には、「ますます豊かにされますように」、「ますます豊かになるなら」、「ますます熱心に」など、「ますます」という言葉が繰り返されています。慶應義塾大学の創設者の福沢諭吉は「進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む」という名言を残しています。前進しない者は必ず後退し、後退しない者は必ず前に進むということです。このことは、とりわけキリスト者の信仰の歩みに当てはまる、というのがペテロの主張なのです。初代のクリスチャンの間には、主の日、すなわちキリストの再臨が近いという緊張感があり、人々は主にお会いする日に備えて霊的な高みを目指そうという強いモチベーションがありました。しかし、再臨が近い将来にはないのではないかという観測が人々の間に広まると、熱意は冷めて、弛緩した状態に陥っていきました。そんなに無理をしなくても、今のままでいいじゃないかという気持ちになっていきました。信仰そのものを捨てたわけではなくても、そこから前進しようとしない、前に行こうとはしない状態です。しかし、本人は現状維持をしていると思っていても、実はそれは後退なのだということをペテロは指摘します。

ペテロは読者の人々に、初めて救われたときのことを思い起こすように促しています。彼らは何から救われたのか、というのは大事なポイントです。ペテロは4節で「世にある欲のもたらす滅び」と記しています。これはどういう意味なのでしょうか。「世にある欲」の欲は「貪り」と訳すこともできます。人間である以上、食べるものや着るもの、すなわち快適な生活というものを求めます。そうしたものを欲すること自体には何も悪いことはありません。私たちは常により良い生活を目指し、それが頑張る原動力にもなります。聖書はそういう欲求をすべて否定しているのではありません。では、「貪り」の罪とは何でしょうか。それは他人の物を奪ってまでも、自分の快適さを求める行為です。自分と同じように、周囲の人も快適な生活を求めます。しかし、この世にあるものは無限ではありません。限りがあります。私たちはそれを分け合わなければなりません。しかしそれを独り占めする、独占しようとすると、それは他人のものを奪うことになります。他人のものを奪ってでも、自分の欲望を優先すること、これが貪りです。また、自分にとってはどうしても必要ではないのに、他人が持っているから、うらやましいからという理由で自分もそれを欲しがる、そうした行動も貪りと言えます。私たちは「足ることを知る」べきなのです。神様は私たちに必要なものを与えてくださるし、備えてくださいます。しかし、それで満足せずに、「もっと、もっと」という気持ちに突き動かされると、争いが生じます。私たちが欲望の奴隷となるとき、必ずいさかいや争いが生まれてしまうのです。その行きつく先が「滅び」です。「世にある欲のもたらす滅び」とはそういうことです。そのような滅びから免れ、私たちは「神のご性質に与る」者となるべきなのです。与る者という言葉のギリシア語はコイノノスで、コイノニアと同じ語源の言葉です。コイノニアというのはキリスト教の世界ではよく聞く言葉ですが、「交わり」という意味です。「共同体」とか「参与、参加」という意味もあります。ですから「神のご性質に与る」というのは「神のご性質に参与する」ということです。もっとわかりやすく言えば、神のご性質を身に着けるということです。では、神のご性質とは何でしょうか。私たちは神と聞くと、なんでもできる、なんでも知っている方ということを思い浮かべるかもしれません。全知全能ということですね。しかし、ペテロのいう「神の性質に与る」というのは私たち人間が神のように全知全能の存在になるという意味ではありません。私たちは人間ですから、そんなことは無理なのです。では、ペテロはどういう意味でこのようなことを言っているのでしょうか。私たちが神の性質に与るというのは、神の御姿である主イエスのようになるということです。主イエスは、ピリピ人への手紙にあるように、神と等しい方であるのに、それに固執せずに、自らを無にして仕える者となられました。「神のご性質に与る」とは、そのようなイエスの生き方をまねる、自らも身に着けるということです。ペテロはそのことを具体的に教えてくれています。彼はキリスト者が身に着けるべき徳目をいくつか語り、その究極のものとして「敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」と結んでいます。つまり私たちが努力して身に着けるべきものの最大のものを「愛」と呼んでいます。ここで兄弟愛と訳されているこの言葉のギリシア語は「フィラデルフィア」で、「愛」と訳されている言葉は「アガペー」です。フィラデルフィアとは自分にとって大切な人たち、家族や親友など、そういう人たちのために進んで自らを捧げること、そのような愛を指します。それに対してアガペーは、自分にとっての距離の近さとか、自分にとって大切な人とか、そういう「自分」を基準にせずに、むしろ自分から遠い人とか、自分にとっては無価値に思える人にも及ぶ愛です。家族とはある意味で自分自身の延長ですから家族を愛するというのは自分を愛することでもあるのですが、そのような自己愛の延長としての愛ではなく、むしろ自分にとって異質な人にも及ぶ愛がアガペーです。それが、主イエスがその公生涯で示した愛でした。もちろん、自分にとって近しい人への愛は大切です。家族のことをほおっておいて、見知らぬ人のお世話ばかりしているというようなケースには、どこかおかしなところがあります。自分自身のことや家族のことをきちんと面倒を見ることができずに、本当に他人のお世話ができるのかというと、それは難しいと思います。ですからここはバランスが必要です。自分のことしか考えないという極端な状態から私たちは成長しなければなりません。自分のことしか考えられないのは赤子の状態だからです。しかし、自分のことを考えないというのもそれはある種の病と言えるでしょう。私たちはまず自分自身の面倒を見なければならないし、それができない人には他人の世話もできないからです。では、どうすればそのようなバランスをとることができるのか?それは先ほど述べたように「足ることを知る」ことを通じてです。私たちには生きていくために必要なものがあります。それを求めるのは当然のことです。しかし、それは私たちの欲望とは違うものです。欲望は無限ですが、必要は有限です。ですから自分に必要なものがあるならばそれで満足し、それ以上のものは他人に喜んで与える、それが「アガペー」の愛です。私たちはクリスチャンとして、そのような愛を育てていくべきなのです。そのような愛にますます豊かになる、それがクリスチャンとしての歩みなのです。

私たちにはそのような歩みが可能です。なぜなら私たちは主によってそのような生き方と召され、選ばれた者だからです。神様は私たちがそのような歩みができるようにと、召してくださり、それまでの欲にまみれた生き方から清めてくださっているのです。私たちはすでに清められている、というのは新約聖書で繰り返される重要なテーマであり、クリスチャンが覚えておくべき真理です。せっかくきれいにしていただいたのですから、汚れを避けるべきです。そして「汚れ」とは世の欲望です。ただここで繰り返しますが、必要と欲望とは別物です。キリスト教は禁欲主義、つまり人間にとって必要なものを欲する気持ちを否定する宗教ではありません。そうではなく、行き過ぎた欲望、人からモノを奪ってでも自分を満足させようというような欲望から距離を置くべきだということです。現代世界は私たちの欲望を煽ります。必要以上のものを欲しがらせ、買わせようとします。ですからこの時代にあって欲望を抑えることは、聖書の時代よりも難しいかもしれません。しかし、行き過ぎた欲望は自分自身も、周りの人たちも不幸にします。私たちは神の助けを借りながら、そのような欲望に抗っていかなければならない、それが第二ペテロの重要なメッセージなのです。

3.結論

まとめになります。今日から第二ペテロを学び始めました。今日の箇所のメッセージは「ますます熱心に」ということでした。では、何に対して熱心であるべきかというと、愛において、それも兄弟愛であるフィラデルフィアだけでなく、自分にとっては遠い人たちにさえ及ぶ愛、アガペーの愛において成長することにますます熱心でありなさいということでした。

ただ、「自分にとって遠い人」といっても漠然として難しいですよね。私たちのところには世界中から報道が入ってきます。広い世界では、本当に多くの人たちが様々な理由で苦しんでいます。けれども私たちは万能の神様ではないので、それらすべての人たちに救いの手を差し伸べることはできません。この点では私たちは自分自身の限界をわきまえるべきです。では、誰から、あるいはどこから救いの手を差し伸べるべきなのでしょうか。この点でも、あまり極端にならないほうが良いと思います。全く知らない人に手を差し伸べようとしても難しいので、まず自分の住んでいる地域の困った人たちのことを考えるほうがよいでしょう。そういう人は物理的にも近いところにいるので、事情がよく分かるからです。外国に支援をしようとしても、中抜きされたりして、本当に支援が届いているのか不安になることもあります。あまり気持ちの良い話ではありませんが、ウクライナへの外国からの支援が政府高官によって中抜きされているという報道が最近になって連日のようになされていて、しかもそれはフェイクニュースではありませんでした。こういう話を聞くと、海外援助の難しさを実感します。遠くに何かを届けようとすると、その間にいろんな人が介在してしまうからです。ですから私たちは人を助ける時にも、よく考えて、よく調べてから行動すべきです。私たちが与えられるものにも限りがあるのですから。今日は同盟教団の「国内宣教デー」ですが、今日の献金は日本各地で開拓伝道をしている教会を支援するために献げられます。これは、私たちにとっても分かりやすい、明確な支援先だと言えるでしょう。福音伝道を見知らぬ地で推進することの大変さは私たちにも想像できることです。そうした人たちのことを覚え、祈り、またできる範囲で財政的な支援を行っていきましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今日から第二ペテロを読み進めて参りますが、私たちがそのみ言葉を聞いて理解し、また聞くだけでなく実践できるものとなるように助けてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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イエスに従うマタイ福音書8章18~27節 https://domei-nakahara.com/2026/01/18/%e3%82%a4%e3%82%a8%e3%82%b9%e3%81%ab%e5%be%93%e3%81%86%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b88%e7%ab%a018%ef%bd%9e27%e7%af%80/ Sun, 18 Jan 2026 00:23:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=7193 "イエスに従う
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1.序論

みなさま、おはようございます。私たちはマタイ福音書を読み進めていますが、物語はまだ序盤で、主要な登場人物がまだ出そろっているわけではありません。今「物語」と言いましたが、別に福音書がフィクションだと言っているわけではありません。むしろ、福音書は起承転結という物語の作法に従って進展していくということを言いたかったのです。

物語には主人公と呼ばれる存在が必ずいます。福音書物語の主人公はもちろんイエスです。そして主人公を取り巻く人たちがいますが、大雑把に言えば「味方」と「敵」という二つのグループに分かれます。イエスに味方をする人と、反対する人たちがいるということです。イエスの最大の敵は、これまでも一度登場しましたが、それは「悪魔」です。悪魔は荒野で断食をするイエスを誘惑し、イエスがその使命に歩みだすのを妨害しようとしました。しかし、イエスは悪魔の誘惑をはねのけて宣教を始めます。イエスの敵となるのは霊的な存在である悪魔だけでなく、人間のグループとしても登場してきます。それはユダヤの最高権力者である大祭司や祭司長たち、そして彼らに協力する律法学者やパリサイ派の人たちがいます。こうしたイエスに敵対する人々の存在感がこれから高まっていきます。

主人公であるイエスの周りには敵だけでなく、もちろん味方も集まってくるのですが、これまでイエスに従った味方はシモン・ペテロとその兄弟アンデレ、そしてゼベタイの子ヤコブとヨハネの四人でした。イエスの最側近ともいえる四人です。しかし、イエスの仲間、味方はもちろん四人だけではありません。イエスは全イスラエルに、できるだけ早く神の国の福音を届けたいのです。その手助けをしてくれる仲間は多ければ多いほどよいのです。そしてそのような仲間は「弟子」と呼ばれます。イエスはできるだけ多くの弟子を得て、彼らと共に福音宣教を拡大しようとしています。しかし、誰でもイエスの弟子になれるというわけではありません。ここでいう「弟子」とは、単にイエスの福音を受け入れて、神の国の恵みに与るというだけの人ではありません。恵みを受けるというのは受け身の側ですが、弟子はむしろ恵みを伝える、与える側の人たちです。もちろん、神の恵みを受ける側も与える側もどちらも必要で、どちらか一方が優れているとか、上だということではありません。イエスの弟子たちは仕事を捨ててイエスに従っていったので、生活をしていくための稼ぎの手段を失ってしまいました。そのような彼らが伝道を続けられたのは、彼らを支えてくれるもっと多くの人たちがいたからです。彼らは福音の恵みを受ける側ですが、ただ受けるだけでなく、福音を伝える人たちの活動を支えることで、彼らにお返しをしていたのです。

というわけで、イエスの味方には、彼の伝道活動を直接手助けする比較的少数の「弟子」と呼ばれる人たちと、イエスの伝道には直接関与しないものの、間接的に弟子たちの宣教活動を支えるより多くの人たちという二つのグループがありました。今回の箇所では、この最初のグループ、つまりイエスと常に行動を共にし、苦楽を共にしていく「弟子」となるための心構えが述べられているのです。イエスと行動を共にするということには、それなりの覚悟と犠牲が伴うことを今日の箇所は強調しています。ただ、もちろんすべてのクリスチャンがこのような覚悟や犠牲を受け入れなければならないということではありません。これはイエスに直接従う、どこまでもついていくということを選んだ少数の人たちだけに要求される厳しい要件だということです。そのようなことを念頭に置いて今日の箇所を読んで参りましょう。

2.本論

では、8章18節から読んでいきましょう。ここではイエスの弟子となることを願う二人の人物が登場します。一人は「律法学者」です。律法学者と言うのはモーセの律法の専門家で、人々に具体的に律法をどのように日々の生活で守るべきかを教えていました。律法学者は、福音書ではイエスとは対立する立場の人たちが多いのですが、みんながみんなイエスに敵対したわけではなく、イエスに心酔し、イエスに従おうとした律法学者もいたのです。しかし多くの律法学者は、イエスが自分たちとは異なる律法の解釈をして、それを人々に教えていたのでイエスに腹を立てていました。今でいえば、大学の教授が学生に教えている内容とは違う内容のことをユーチューブで教えている人がいて、学生たちが自分ではなくそのユーチューバーのことを信じるようになってしまったという、そんな感じでしょうか。大学教授は面目をつぶされて怒るでしょうが、イエスに腹を立てた律法学者たちもそんな感じでした。イエスなんて、どこの馬の骨かもわからないやつが自分の教えを否定していると感じて、なんとかこの生意気なやつをつぶしてやりたいと思ったのでした。それでも、すべての律法学者がそんなに心が狭かったわけではありません。なかにはオープンな心持の人もいて、偏見なしにイエスの教えを聞いて、またイエスがなさる驚くべき癒しの業も目撃し、このイエスこそイスラエルが待ち望んでいた救世主に違いないと確信する人もいたのです。ここで登場する律法学者もまさにそのような人でした。彼はイエスにこう語りました。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」これは、ものすごく大胆な発言ですね。この律法学者にも、今まで世話になってきた先生や先輩がいたでしょうし、また当時の律法学者は人々に律法を教えて月謝を貰っていたわけではなく、自分自身で手に職を持っている人がほとんどでした。今の時代の大学教授や、あるいは塾や予備校の先生は教えることで報酬を得ることができますが、イエスの時代の律法学者は「律法教室」みたいな会を開いて給与を得ていたわけではなく、職人のように何かを作ったりしてそれで生計を立てていたのです。律法については、無償で人々に教えていました。もちろん、食べ物とか、何らかのお礼をもらってはいたとは思われますが、それを主な収入源とはしていなかったのです。この律法学者がイエスにどこまでもついていくということになると、自分の仕事を辞めなければならないし、また今まで律法を共に学んできた同僚や先輩がイエスに反対している場合、彼らとも決別しなければならなくなります。つまり彼は仕事も人間関係も捨ててイエスについていくと宣言しているのです。今でいえば、安定した収入がある公務員かサラリーマンが仕事を辞めて、放浪の旅を続ける不思議な人物についていくようなものです。皆さんがその人の家族なら大反対するでしょうね。それほどの覚悟を持って、この律法学者はイエスについていくと宣言したのです。その彼に対し、イエスはこう言われました。

狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。

ここでイエスは自分のことを「人の子」と呼んでいますが、これはマタイ福音書では初めてのことです。イエスは、動物にすら寝床があるのに自分には枕する所もない、とぼやきのようなことを語っています。実際には、当時のイエスはカペナウムのペテロの実家に居候させてもらっていたので、衣食住には不自由していませんでした。それどころか癒し人として大変な人気がありましたので、我が家に泊まってくださいと申し出る人もたくさんいたことでしょう。では、なぜイエスがここでこんなことを言ったのかといえば、イエスについていくということは、そのような非常に困難な場面に遭遇することもありえますよ、あなたにはその覚悟がありますか?と問うているのです。実際、イエスの人気が上がるにつれ、イエスに激しく敵対する人も増えていきます。夜逃げ同然で迫害を逃れるような状況もありうるのです。イエスは自分についていきたいという律法学者に対し、慎重に考えなさい、それだけの犠牲を払って私についてくる覚悟が本当にあるのか、自分に問うてみなさいと言っているのです。

さて、21節には別の人物が登場します。この人物は「弟子」とはっきり呼ばれていますし、イエスのことを「先生」ではなく「主よ」と呼んでいますので、先の律法学者と比べても、イエスとの関係性はもっと近い人物だと言ってよいでしょう。つまり、もうイエスに従っていくということを決めていて、すでにイエスと行動を共にしている人だろうということです。その人が、イエスにいわば「忌引き」を願い出ます。それは父を葬る時間が欲しいというものでした。ここで現在の日本と古代の中近東の文化の違いに気を付けてください。今の日本では結婚も葬式も大体一日で終わりますが、当時の中近東では近親者の結婚あるいは葬儀は一週間ぐらいかけて行っていました。それだけ大変なイベントだったのです。ですから、このイエスの弟子も、イエスに一週間ぐらい宣教活動を離れて家に戻らせてほしいと願ったのです。これは至極普通のことでした。当時のユダヤ人の間では、親の葬儀を立派に行うというのは何にもまして優先されるべき家族の義務でした。十戒にも両親を敬えとありますが、親のためにきちんと葬儀を行うこともその戒めの一部だと考えられていました。ですからイエスにしばしお暇させてほしいと願い出た弟子も、何も無理なお願いをしているという意識はなかったことでしょう。しかし、それに対するイエスの答えは非常に厳しいものでした。

わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。

イエスの言葉には、たまに理解が非常に困難なものがありますが、この言葉もまさにそのようなものの一つです。休暇を認めない、とイエスが言っているのは分かります。でも、死人に死人を葬らせるとはいったいどういう意味なのでしょうか。葬儀をする人たちはもちろん生きていますし、生きていないと葬儀はできません。その人たちを死人と呼ぶのはいくらイエス様でもあんまりではないですか、と言いたくなってしまいます。私は正直に申し上げて、特にこのイエスの言葉の後半の意味を捉えかねています。しかし、ポイントは「わたしについて来なさい」のほうにあります。この言葉が、次の嵐鎮めの話の伏線になっているからです。ともかくも、イエスの要求は大変厳しいものでした。イエスはこれからも、家族の問題よりも神の国を優先しなさいと繰り返し述べています。それだけイエスに従うということは生易しいことではない、ということを伝えようとしているのだと思われます。すべてを犠牲にして、家族との絆を断ち切ってでも私に従う覚悟があるのかと、ここでもイエスは問うているのでしょう。今日でも、イエスに従うというのは容易なことではありません。牧師になると言ったら親から勘当されたという先生の話を聞いたことがあります。その先生は超有名大学を卒業して将来を嘱望されていた方でしたが、親からすれば牧師にするためなんかにいい学校に行かせてやったわけではない、という気持ちだったのでしょう。今や新卒の初任給が30万円を軽く超える時代ですから、安月給の牧師など割に合わないというのが普通の感覚かもしれません。しかし、神に従うことで受ける報いはもっと大きいとイエスは約束しています。ただ、気を付けたいのは、親の世話をするというのは聖書の非常に重要な教えだということです。パウロは第一テモテの5章8節で次のように述べています。

もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。

親兄弟を顧みないことは、信仰を捨てることだとパウロは明言しています。ですから、イエスももちろん家族のことを顧みなくてよいなどと教えているわけではありません。イエスが十字架上でも母マリアの老後のことを心配していたことを忘れてはいけません。むしろイエスは弟子となることの困難さ、代価をあらためて伝えようとしているのです。中途半端な覚悟でイエスについていくことはできないのです。

さて、この二人の人物との対話の後に有名な嵐鎮めのエピソードが来ます。この話はその直前の弟子たちとの会話とは関係がなさそうに見えますが、実際にはあるのです。マタイ福音書はマルコ福音書をベースに書かれていて、マルコ福音書に登場するエピソードをマタイはほとんどそのまま借用しています。実にマルコ福音書の9割以上がマタイ福音書に収録しています。しかし、マタイとマルコを比較すると、マタイはマルコ福音書の記述を少し変えているのが分かります。今回の嵐鎮めもまさにそのような箇所です。では、どこを変えているのか見てみましょう。マルコ4章36節では、「そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした」となっていますが、マタイ8章23節では「イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った」となっています。お判りでしょうか?マルコでは弟子がイエスをお連れしたとなっているのに対し、マタイでは弟子がイエスに従った、となっているのです。これは小さな違いのように思えるかもしれませんが、マタイは明確な意図をもってそこを変えたものと思われます。なぜかと言えば、先ほどの22節の「わたしについて来なさい」というイエスの命令は、「私に従いなさい」とも訳せますが、それと対応するかのように「弟子たちも従った」となっているということです。実際、この二つの文ではアコロウセオーという同じ動詞が使われています。つまりマタイは、この嵐鎮めの話を弟子の道という文脈で提示しようとしているのです。これから弟子たちが向かう船旅を、この世の荒波に譬えているということです。弟子たちはこれからイエスの神の国の福音を携えて、世間という嵐の中を進んでいかなければなりません。死んでしまうのではないか、と思われるほど困難な状況に直面するかもしれません。しかしそんな時でも、彼らは一人ではない、イエスがいつも共におられてこの世の荒波すら克服する力を与えてくれる、そのような堅い信仰をもって歩みなさいというメッセージを込めて、マタイはイエスの嵐鎮めのエピソードを語っているのです。弟子の道は確かに大変です。イエスからの要求もとんでもなく厳しく大きいです。同時に世間からの風当たりも非常に厳しいものがあります。しかし、イエスは彼らにその困難さをも乗り越える力を与えてくださる、だから勇気を出して歩みなさいということをイエスは伝えようとしているのです。

3.結論

まとめになります。今日はイエスの弟子となるために必要な心構えや覚悟をイエスが教えたところを学びました。私たちのすべてがこのことを求められているわけではない、ということを最初に申し上げましたが、しかし今日の世界でも宣教の最前線に立ち人たちはこのような心構えが求められています。自分がそのような立場になるのか、あるいはそういう人達をサポートする立場になるのか、というのは私たちそれぞれが神様との間で考えていくべきことです。ただ、どちらがより尊いとか偉いとか、そういう優劣はありません。どちらも必要なのです。どちらも必要ですが、イエスに直接従うと決めた人に求められる要求は大変大きいのです。でも、大変なだけではありません。イエスはそのような人と常にともにおられて助けてくれるということを嵐鎮めのエピソードは教えています。同時に、神の国のためにそれまでの人間関係や仕事を捨てた人には百倍の報いがあるともイエスは約束しています。そんなこと本当にあるのかと思われるかもしれませんが、私自身がそのようなことを身をもって体験しています。私も、当時としては最高水準の給与の企業に勤めていて、その会社を辞めて聖書を学ぶためにイギリスに行くことにしたのですが、周囲の人たちからは「大丈夫なのか」ととても心配されました。また、海外に行って学ぶのですから当然お金もかかります。それまで働いて貯めたお金のほとんどをつぎ込んだので、経済的にも決して楽ではありませんでした。しかし、そこから得たものはお金には換算できませんが、それこそ何十倍でした。神様は誠実な方です。約束は必ず守ってくださいます。ですから私たちも堅い信仰をもって歩んで参りましょう。お祈りします。

天におられますイエス・キリストの父なる神様。そのお名前を賛美します。今日は弟子となることのコストと、同時にサポートについて学びました。私たちの召命はさまざまですが、それぞれが与えられた使命を果たせるように力をお与えください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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三つの癒しマタイ福音書8章1~17節 https://domei-nakahara.com/2026/01/11/%e4%b8%89%e3%81%a4%e3%81%ae%e7%99%92%e3%81%97%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b88%e7%ab%a01%ef%bd%9e17%e7%af%80/ Sun, 11 Jan 2026 00:14:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=7184 "三つの癒し
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1.序論

みなさま、おはようございます。前回でイエスの山上の説教は終わり、イエスがいよいよ本格的な活動を始めるというところに入ります。これらの癒しは大変有名ですが、ではこうした癒しにどんな意味があったのか、イエスの宣教における病の癒しの意義を考えていきたいと思います。

まず初めに考えたいのが、山上の垂訓とこうした癒しとの関係です。イエスはここまで非常に長い説教を行ってきました。それらは驚きに満ちた、またチャレンジに満ちた、とてもとても深い内容のものでした。また、前回の説教でお話ししたように、イエスはこうした教えを人々が聞くだけで満足しまっては何の意味もない、むしろこうした教えは実践されてこそ意味があるのだ、ということを強調していました。ですから私たちとしては、イエスの教えを実際に人々が実践に移そうとして努力している姿が描かれていると、大変参考になるわけです。私たちにとっても山上の説教の内容を日々の生活でどのように活かすべきか、実践すべきかというのは大変関心のあるテーマですので、時代も文化も大いに異なる当時のユダヤの人たちではあっても、彼らがこうした教えをどのように実践しようとしていたのかを知ることには大きな意味があります。

しかしマタイは、イエスの話を聞いた人たちが、それからどのように行動したのかということについては触れずに、もっぱらイエスの活動に焦点を合わせています。しかも、その活動は大変印象的ではあるものの、イエスのこれまでの教えとは直接関係のないもののように思えます。イエスの山上の説教と、今回の三つの病の癒しを結びつけるものはいったい何なのでしょうか。この二つを結びつけるキーワードは「神の国」です。もっと具体的に言えば、「神の国の到来がもうすぐだ」というイエスのメッセージです。イエスの宣教の目的とは、神の国とはどんなものなのかを人々に示し、その備えをさせようというものでした。マタイ福音書におけるイエスの宣教の第一声は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」でした。「天の御国」というのはマタイ独特の言い回しで、マルコ福音書やルカ福音書では「神の国」となっています。これは日本語でも「神をも恐れぬ」と「天をも恐れぬ」というのが同じ意味であるように、マタイは「神」という言葉をみだりに用いるのを避けて「天」と言い換えたのです。それが近づいている、というのがイエスの伝えようとした福音でした。神の国とは神の支配です。神ご自身がこの世界を愛と正義によって支配する世界の到来がもうすぐ到来するということです。そのような新しい現実、新しい世界に備えなさい、というのがイエスのメッセージでした。では、その神の国に「入る」ためにはどうすればよいのかを教えるのが「山上の説教」の目的でした。私たちは新しい環境に入る場合、新しいルールや決まりを覚えなくてはいけません。新しく学校に進学したり、新たに企業に就職する場合、その学校の校則やその企業の社内ルールを守らなければなりません。それを知らなければ学校生活、企業での生活を円滑に行っていくことができません。「山上の説教」も同じです。これから実現しようとしている神の王国、神の支配の中で人々がどのように生きるべきなのかを教えたのが山上の説教でした。それは近いのですから、人々は今すぐにでも生き方を変えるべきなのです。

それに対して、今回のイエスの行った「癒し」は、神の国がほんの近くまで来ているということを示すための「徴(しるし)」でした。イエスはこうした癒しによって「天の御国が近づいている」というメッセージが本当であることを実証しようとされたのです。そのような大きな背景を考えていきながら、三つの癒しを見て参りましょう。

2.本論

では8章1節から読んでいきましょう。イエスが山上の説教を終えて山から下りてこられて初めに出会われた病の人はツァラアトという病を持つ人でした。このツァラアトというのが具体的にはどのような病だったのか、今でもよくわからない部分があります。それが皮膚の病であるのは確かなのですが、現在の私たちが知っている皮膚病のどれに相当するのか、確かなことは分かりません。ただ、そのツァラアトに罹患した人が社会的に大変厳しい状況に追い込まれてしまったことは確かです。まず一つには、このツァラアトは人に伝染すると考えられていので、ツァラアトになった方は家族から離れたところで寂しく暮らさなければなりませんでした。同時に、ツァラアトの人は宗教的な意味、聖書的な意味で「けがれた」人と見なされました。この聖書的な「けがれ」は罪ではないということは強調しておく必要があります。たとえば女性が出産すると、その女性は聖書的な意味で「けがれ」ます。聖書的な意味でけがれるとは、そのような女性はけがれると聖書に書いてあるということです。しかし、子供を産むのは祝福であって罪ではありません。にもかかわらず、その女性はけがれるのです。ですから聖書的な「けがれ」は罪とは区別する必要があります。ともかくも、ツァラアトになった人はそのような聖書的な意味での「けがれ」の状態にあり、そのようなけがれも人に伝染すると信じられていました。しかも、産後の女性の汚れは時間と共になくなりますが、ツァラアトの場合は治るまで「けがれた」状態のままです。したがって、ツァラアトの人は二重の意味で、つまり病気が伝染するとの、宗教的な意味でのけがれが伝染するのを防ぐために、人々から隔離されなければならなかったのです。しかも、当時はツァラアトに対する医療行為は確立されていませんでした。治る見込みがなかったということです。ですからツァラアトになってしまいことは、社会的な意味では死亡宣告を下されるのに等しいことでした。そして、旧約聖書を見ても、ツァラアトが癒されたという話はありません。唯一の例外は、異邦人の将軍であるナアマンの癒しでした。ナアマンはユダヤ人ではなくアラム人でしたが、彼のツァラアトは預言者エリシャによって癒されました。しかし、旧約聖書の癒しの記事はこれだけなのです。ほかにユダヤ人がこの病から癒されたという記録はありません。したがって、この病が癒されるということはイスラエルの長い歴史においても大事件なのです。イエスがこれから神の国が来ようとしているということを証明するための癒しとして、ツァラアトの癒しほどふさわしいものはありませんでした。

このツァラアトの人はイエスの前にやってきました。これは大変勇気のいる行動でした。なぜなら、聖書はツァラアトになった人が人前に出ることを禁止しているからです。レビ記13章45節、46節にはこうあります。

患部のあるそのツァラアトの者は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない。その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。

このように、聖書で明確に隔離を命じられている人が、イエスとその周りに群がる大群衆の前に出てくるというのはまさに命がけの行為なのです。人々から冷たい視線を浴びせられ、それだけでなく皆が自分の前から逃げ去るという、心が折れそうな状況だったことでしょう。それでも彼はどうしても治りたかったし、イエスならそれができると信じたのです。そこでイエスの前に身を投げ出して、「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます」とイエスに訴えました。「お心一つで」とは直訳すれば「もしあなたが願うなら」とあります。彼はもちろん治してほしいのですが、それをイエスに強いるようなことはせずに、あくまでイエスの憐みの心に委ねました。また、「治してください」ではなく「きよくしてください」という願望を伝えています。ツァラアトは単なる病ではなく、聖書的な概念では汚れた状態なので、その状態をきよい状態に戻してほしいと願ったのです。イエスもその人のまっすぐな気持ちに応えました。イエスは言葉を発する前に、まずそのツァラアトの人に触りました。これは驚くべきことでした。なぜなら聖書の教えでは、汚れた状態の人に触れると自分も汚れてしまうので、触ってはいけなかったからです。また、イエスならばその人に触れなくてもツァラアトを癒すことができたでしょう。なぜなら預言者エリシャはナアマン将軍に触れることなく彼のツァラアトを癒しているからです。しかし、イエスはあえて彼に触れました。このツァラアトの人もイエスに触れてもらってうれしかったでしょう。なぜならすべての人が彼を避けて、触ろうとはしなかったからでした。イエスは彼に触れた後、「私の心だ」と言っていますが、ここも直訳すれば「私は願う」となるでしょう。このツァラアトの人がお願いしたからではなく、イエスご自身の意思で彼のツァラアトを癒したかったということです。そしてその人はたちどころに清められました。聖書ではさらっと書いてますが、これはとんでもない大事件でした。なぜなら旧約聖書でツァラアトを患ったユダヤ人が癒されたという記事は一つもないからです。ですからこの癒しはイスラエルの歴史の中でも前代未聞の大事件だったのです。このような驚くべきことを行ったイエスですが、不思議なことに自分が彼を癒したことは誰にも言うなと命じています。とはいえ、周りにはたくさんの人がいたはずなのでこんな大事件が秘密にされることなどありえないのですが、ともかくもイエスはこの癒しをあまり広めないようにと指示したのです。しかし彼には癒されたからだを祭司に見せるように指示します。これは旧約聖書のレビ記の教えに従ったもので、ツァラアトから癒された人は祭司が「きよい」と宣言することを通じて正式にイスラエルの共同体の中に復帰することができるのです。イエスはこの人を癒してきよめただけでなく、彼がイスラエルの共同体の一員に戻ることを願っておられたということです。ここには、イエスの人々へのやさしい思いと配慮を見ることができます。イエスは彼らの病を治すだけでなく、社会生活をも回復させてあげたかったのです。

これが、マタイ福音書に記されたイエスの第一の癒しでした。次いでイエスは二度目の癒しを行いますが、今度の場合も最初の場合とは違う意味で極めて異例なケースでした。というのも、依頼に来たのはユダヤ人ではなく、ユダヤ人を支配し、高い税金を課し、時にはひどい暴力をふるうローマの兵士だったからです。多くのユダヤ人はローマの兵士をひどく嫌っていたことを忘れてはいけません。今でいえばベネゼエラ人にとってのアメリカ人、ウクライナ人にとってのロシア人のような存在だったのです。そのローマの兵士が、ユダヤの流浪の癒し人に部下の癒しを願ったのです。その病気のローマ人の部下も、ユダヤ人にひどいことをしていた可能性は否定できません。彼に対してイエスはどう対応したでしょうか?7節の訳では「行って、直してあげよう」というようにイエスが躊躇なく癒しに同意したように描かれていますが、より詳しくギリシア語を研究している研究者は、ここは「あなたは私に彼を直すために行けというのですか?」と言うように、疑問文として訳したほうがよいと主張していますし、私もそう思います。イエスはすぐに癒すことに合意したわけではないのです。なぜならイエスはその人を癒すためには異邦人の家に入らなければならないわけですが、当時のユダヤ人は異邦人の家に行くことを躊躇していたということは使徒の働きのペテロの言葉からも分かります。ですから繰り返しますが、イエスはその依頼に直ちに応じたわけではないのです。そして、イエスに依頼に来たローマ兵の隊長も、ユダヤ人が異邦人の家に入りたがらないということをわかっていました。そこで彼はイエスに、私の家に来てもらう必要はない、と言ったのです。むしろナアマン将軍を癒したエリシャのケースのように、言葉で言ってくれるだけでいい、それで私の部下は直るでしょうと言いました。イエスにはそのような「権威」があると認めているのです。これは見上げた信仰です。イエスもこの異邦人の軍人の深い信仰に感嘆し、初めの躊躇は撤回して彼の部下を言葉だけで癒しました。このように、イエスは初めに異邦人の癒しを躊躇したけれど、その異邦人の信仰が素晴らしかったので、それに応えて癒すという話の流れになっています。これはマタイ15章に出てくるカナン人の女の癒しとまったく同じパターンです。その時にもイエスは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と、けんもほろろでした。しかし、そのカナン人の女性の信仰があまりにも素晴らしかったので、「あなたの信仰はりっぱです」と褒めて、癒しを行っています。今回の百人隊長とまったく同じですね。ですからこれらはマタイが好んでいたパターンだということになります。そしてこの話には、マタイの教会人としての意図を感じます。というのも、イエスはその宣教対象をもっぱらユダヤ人に限定し、異邦人との接触を極力避けていたのですが、イエスの時代からだいたい50年後にマタイが福音書を書いていた時代には、なかなかイエスを信じようとしないユダヤ人たちをしり目に多くの異邦人がイエスを信じて救われていました。マタイはこのエピソードを記すことで、異邦人の救いの時代がこれから到来していくことになると、暗示したかったのでしょう。

そして三番目の癒しです。これがある意味で最も普通の癒しの記事だと言えるでしょう。イエスはナザレ出身ですが、ガリラヤでの拠点はカペナウムのペテロの実家でした。イエスはペテロの実家に、言い方は悪いですがいわば居候させてもらっています。そこでいつもお世話になっているペテロのしゅうとめが高い熱で苦しんでいましたので、イエスはそれを癒してあげました。この場合は持ちつ持たれつという具合で、とてもよい話だと思います。

このように、三つの癒しを見て参りましたが、もちろんイエスが癒されたのはこの三人だけではありません。ほかにもたくさんの悪霊につかれた人から悪霊を追い出したり、病の人を癒されました。悪霊を追い出すことは、人々を悪魔の支配から神の支配に取り戻すことなので、神の国、神の支配は近づいているというイエスのメッセージを確証するという意味でもとりわけ重要なものでした。マタイはまた、イエスのこうした活動が旧約聖書の預言者のことばの成就であるということを強調しています。マタイは14節で預言者イザヤのことばを引用しています。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」というのは、あの有名なイザヤ書53章の「苦難のしもべ」の歌から取られた一節です。ここからわかるのは、イザヤ書53章のしもべの「苦難」とは単に十字架だけではなく、むしろイエスの公生涯すべてを指している、ということです。イエスが私たちの苦しみを引き受けてくださったのは十字架上だけではなく、公生涯すべてにおいてだったということです。イエスは、おそらく人々を病や悪霊から解放するときに、ご自身でもそうした人々の苦しみを共有されたのでしょう。それがどういうことなのか、私にはうまく説明できませんが、おそらく相手の病をいやすときに、相手がこれまでどんな苦しみを背負ってきたのかが分かったのだと思います。そのような共感の上で、癒しの奇跡を行ったということです。ですからイエスご自身も、大変な思いをしながら癒しの業を行い続けたのです。

3.結論

まとめになります。今回は、イエスがその公生涯の初めに行った三つの癒しを見て参りました。最初はツァラアトの癒し、二つ目は異邦人の癒し、三つめはペテロのしゅうとめの癒しでした。このうちの最初の二つは、まさに神の国の到来、神の支配の到来がもうすぐだということを指し示すものでした。ツァラアトが癒されるというのは長いイスラエルの歴史でも初めてのことでした。このようなことが起きるということは、イスラエルの歴史に大きな転換点が訪れることを指し示すことでした。また、異邦人を癒したことも重要です。救いは今やユダヤ人に限定されず、広く異邦人にも及ぶということ、これが神の国の大きな特徴の一つです。そのような神の国の福音の拡大のミッションを、ペテロたちがこれから担っていくのですが、そのペテロのしゅうとめが癒されたことは、イエスがこうした働き人たちの生活のことも深く配慮してくださっていることを示すものです。

そして、こうした働きすべての背後にあるのはイエスの人々への深い愛と憐み、さらに言えば父なる神の愛です。神は人々を苦しみから救うために行動を開始したのです。このイエスの始められた神の国運動は、二千年を経た今日でも続いています。私たちにはイエス様のように人の病をいやす力はありませんが、社会の中の孤独や孤立を癒す働きはできると思います。イエスの働きを、今年も続けて参りましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神よ。そのお名前を賛美します。今日はイエスのなされた癒しの業を学びました。今日においても癒しを求める方は多くおられます。主がそうした方々を癒してくださいますように。また私たちも微力ながらそうした働きを担うことができますように。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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イエスの教えへの誤解マタイ福音書7章13~29節 https://domei-nakahara.com/2026/01/04/%e3%82%a4%e3%82%a8%e3%82%b9%e3%81%ae%e6%95%99%e3%81%88%e3%81%b8%e3%81%ae%e8%aa%a4%e8%a7%a3%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b87%e7%ab%a013%ef%bd%9e29%e7%af%80/ Sun, 04 Jan 2026 00:35:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=7173 "イエスの教えへの誤解
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1.序論

みなさま、おはようございます。今日が2026年の最初の説教となりますが、この箇所を今年の初めの説教として与えられたことは、何か象徴的なといいますか、大変大きな意味があることであるように思います。この箇所はキリスト教の核心的な部分に係ることだからです。

マタイ福音書を読み進めていくと、「おや?」とか、「これはいったいどういう意味なのか?」と思わされるところがいくつも出てくるのですが、今日の箇所などまさに典型的なところです。なぜ「おや?」と思うのかといえば、それはイエスの教えが私たちの普段考えているキリスト教とは違うことを言っているように思えるからです。胸がざわざわするというか、落ち着かない気持ちになってくるのです。たとえばその一つは、「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです」という、マタイ22章14節にあるイエスの言葉です。「少ない」というのがキーワードになっています。「いのちの道を見出す者は少ない」とか、「選ばれる者は少ない」と聞くと、「ああ、救われる人って少ないんだな」となんだがガクッとしてしまいますよね。特に日本のように、キリスト教人口が全人口の1%未満の国で、伝道の難しさが身に染みているような国では、いくらキリスト教を熱心に伝えようとも、大した成果が上げられないのではないか、という絶望的な気持ちになってしまうかもしれません。しかし、それは日本という特殊なケースの話で、世界では救わる人は少ないどころか、大変多いという現実があります。世界の総人口の約三割がクリスチャンと言われていますが、今の人口を80億人とすると、少なくとも20億人以上の人がクリスチャンだということになりますし、国によっては3割どころか5割にも上る国もあります。こんなに多くの人が救われているのなら、とても少ないなんていえないじゃないか、と思えてくるのです。日本だって、今でこそクリスチャンの数は少ないですが、これから数百年後になれば状況は全く変わっているかもしれません。仏教だって、初めはなかなか日本に定着しませんでしたが、鎌倉仏教という一種の覚醒時代を経て、広く庶民にも根付きました。同じことがキリスト教で起きる可能性は十分にあるのです。

ただ、今日の箇所はキリスト教人口が日本の人口の1%なのか世界の人口の30%なのか、というような数字の話ではなく、むしろその30%、世界の20億人ものクリスチャンがみんな本当に救われているのか、自称クリスチャンであれば、あるいは洗礼さえ受ければ、本当にみんな救われているのだろうか、という疑問を抱かせてしまうのです。よく、文化的クリスチャンという言葉があります。日本人でも、自分は神も信じないし無宗教だと思っている人も、自分の家が代々仏教の檀家であると、「私は仏教徒です」と答えてしまうように、伝統的にキリスト教国と呼ばれる国の人々は、教会には年一回ぐらいしかず、聖書も全然読まないような人でも「私はクリスチャンです」という人が結構たくさんいます。こういうケースも、本当に「救われている」と言えるのでしょうか。あるいは、確かに信仰心は篤いのですが、「自分は信じている、救われている」という気持ちばかり強くて、他人に対しては全然親切ではない、それどころか信仰を持っていない人を「救われてない人」というぐあいに蔑むような人は、なんとなくクリスチャンらしくないといいますか、そんな人ばかりが天国にいるとすれば天国ってあまり楽しそうではないな、生きづらそうだな、などと思ってしまうかもしれません。何が言いたいかと言えば、「自分はクリスチャンだ」という自覚があれば、本当に誰でも救われているといえるのだろうか、という疑問が生じてしまうのです。たしかに、しばしば言われるような「信じる者は誰でも救われる」という言葉を聞けば、性格的に難があったり、あまり実践面で熱心とはいえないような人でも、信じさえすればみな救われているということになるのかもしれません。しかし、マタイ福音書を読んでいると、そういう見方が本当に正しいのか、疑問を抱かせるような箇所が少なからず出てきます。さきほどの「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです」というイエスの言葉もまさにそうです。これはイエスのたとえ話に出てくる言葉で、とある王さまが出てくる話ですが、この王は明らかに神を指しています。この王は立派な名士たちを王の宴会に招きますが、彼らはその宴会に来ようとはしません。そこで、おおよそその宴会にはふさわしくない人たちを通りで見つけては、彼らを宴会に招待します。こうした人々はラッキーにも王様に招かれて王宮で御馳走にありつけそうだと喜んで、いそいそと出かけていきます。ここまでは、何のたとえなのか分かりますよね。今日でも、社会で立派な人たちだとされている人がキリスト教に冷淡だったり無関心だったりするのに対し、社会から見下されているような人たちが喜んで福音に応答する、というようなことがしばしばあります。このイエスのたとえも、そのことを示しているように思えます。そういう人たちは、招きに応じさえすればみんな救われるのだ、と。しかし、なんとこうして招待された多くの人たちは、いざ宴会場に入ろうとしたときにふさわしい装いをしていないということで入場を拒否されてしまうのです。ただでごちそうにありつけると思ってやってきたのに、目の前でニンジンをぶら下げられて追い返されるという、非常に残念な結果になってしまいました。ここでの「ふさわしい装い」というのはクリスチャンにふさわしい行動、行いを指していると思われます。信じているといっても、ふさわしい行い、良い行いをしない者は結局は神の国に入れないということを教えているようなのです。マタイが言う「広い道」を通る人というのも、これはキリスト教を信じないで世の中の価値観に流されていく人ということではなく、むしろ自分はクリスチャンだと思いながらも世の中の価値観に流され、クリスチャンらしく生きない人なのではないか、と考えられるということです。しかし、そのような結論は「信じれば、ただ信じるだけで救われる」という多くの人がキリスト教に抱くイメージと衝突してしまうのです。「行いがなくても、信じるだけで救われるのがキリスト教でしょう?行いがないからといって、神の国から除外するなんて、おかしいじゃないか」という反論がありそうですよね。行いによって救われるのなら、ほかの宗教と何も変わらないじゃないか、キリスト教のすばらしさ、これはキリスト教だけでなく浄土真宗もですが、そのすばらしさは「行いによる救い」ではなく「信仰による救い」を説いていることだ、とこのように考える人がとても多いということです。

しかし、行いがなくても信じるだけで救われるなどとは、イエスは一言も言ってはいません。では誰が言っているのかといえば、パウロです。パウロ書簡には、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によるのだ、という教えが繰り返しでてきます。そしてそこから「信仰義認」、平たく言えば「信じるだけで救われる」という教えが生まれ、それこそがキリスト教の本質だと見なされるようになったのです。ただ、このような教えはよくよく慎重に考えなければなりません。いくらパウロが言ったことであろうと、それがイエスの教えと矛盾するのであれば、そこに価値はありません。私たちを救うのはパウロではなくイエスだからです。パウロが本当は何を言おうとしたのかを説明するのは今回の箇所の目的ではありませんが、それではなぜパウロの話をしたのかといえば、おそらく今日の箇所はこのパウロの教えを意識している箇所だろうと思われるからです。こういうと驚かれるかもしれません。パウロがイエスを信じるようになるのは、イエスが十字架で死なれて昇天した後であり、この山上の説教を語っている時点ではパウロはイエスのことを知りもしなかったはずだからです。パウロが活躍する前の時期に、イエスがパウロの教えを意識して何かを語るはずがないだろう、ということです。ただ、注意してほしいのは、確かにイエスの活動の時期はパウロの活動時期の前ですが、このマタイ福音書が書かれたのは、パウロが活躍した時代よりもずっと後のことだということです。マタイ福音書の執筆記事は紀元80年代だとされていますが、パウロ書簡が書かれたのは紀元50年代だと言われています。マタイ福音書は、パウロ書簡よりも30年、あるいは40年も後に書かれた福音書なのです。ということは、マタイ福音書を読んだり聞いたりした人たちは、パウロの教えについてかなり知っていた可能性が高いのです。説教者は聴衆のことをいつも考えます。自分が何を考えているかだけでなく、相手が何を考えているのかを意識しなければ、意味のあるコミュニケーションが成り立たないからです。マタイも、マタイ福音書を書いているときに、自分が記しているイエスの教えが聴衆や読者にどのように受け止められるのかを強く意識していたはずです。そして特にマタイは、パウロの教えを曲解して「行いがなくても信じればよい」などと考える信徒に対して非常に大きな危惧を抱いていたものと思われます。これはマタイ福音書におけるイエスの教えを慎重に読んでいけば分かることですが、今日の箇所はまさにその典型です。マタイは、イエスの教えの中でも行いの重要性を強調する教えに特に注目し、それらを集めて一つにまとめ、この箇所で非常に明確な形で提示しているということです。この点に注意しながら、今日のテクストを読んで参りましょう。

2.本論

では、13節からです。ここでは「いのちに至る道」と「滅びに至る道」という、二つの道が示されています。いのちに至る道は狭く、滅びに至る道は広いと言われています。このイメージは、クリスチャンには当惑させるものかもしれません。なぜなら、キリスト教神学では「狭い道」とは行いで救われようという厳しい道で、ユダヤ教的なものだと考えられてきたからです。ユダヤ人は自らの行いで救われようという厳しい道、険しい道を進もうとしてきたけれど、イエス・キリストはそのような狭すぎる道ではなく、もっと「広い道」、誰でもできる道を切り開いたというのです。すなわちイエスは人類の身代わりとして死ぬことで、良い行いはなくてもイエスを信じるだけで救われるという、もっと広い道を作ってくださったということです。しかしイエスは、救いに至る道は決してそのような安易なものではない、とくぎを刺します。では、いのちに至る狭い道とはどんなものなのか、ということをイエスはさらに示していきます。

イエスはまず、預言者たちについて語ります。預言者の良し悪しを判断する基準として、イエスは「実」で判断しなさい、と言います。では預言者の「実」とは何でしょうか?預言者ですから、預言ができることや、エリヤやモーセのように奇跡を行うことでしょうか。そう考える人に冷や水を浴びせるのが次のところです。22節と23節にはこうあります。

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け』

これはかなり厳しいことばですよね。主イエスの名によって預言したり奇跡を行った人たちですら救われないというのはいったいどういうことなのか、イエス様、いくら何でも厳しすぎませんか?という気がしてきます。しかし、このイエスの言葉を記したマタイは、おそらく彼の生きていた時代の教会のことを思い描いてこの言葉を記したのだと思います。パウロ書簡からもわかるように、原始キリスト教、つまりイエスが昇天してから数十年間、パウロが活躍していた時代は教会の歴史にとって例外的な時代でした。というのも、イエス様やパウロのような特別な人たちだけでなく、一般の信徒たちの間にも聖霊が力強く働き、彼らも預言をしたり奇跡を行うことができた時代だったということです。パウロは第一コリント書簡の12章10節で次のように記しています。

ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。

このように、コリント教会の一般の信徒たちは奇跡を行ったり預言をすることができたのです。彼らは、嫌な言い方をすればいわゆる「平信徒」で、特別な役職についている人たちではありませんでした。では、彼らは奇跡を行うくらいだから人格的にもモーセのように高潔な人たちだったかといえば、コリント書簡を読めば分かるように、全然そんなことはありませんでした。コリント教会では、問題のある行動をする人が驚くべき奇跡を行うというような、そういう特殊な状態だったのです。パウロは「正しくない者は神の国を相続できない」とはっきり語っています。主イエスの聖名によって奇跡を行う力があれば、日ごろの行いがいくらだらしなくても救われるとか、そういうことは決してないということです。マタイ福音書の今日の箇所も、このような初代教会の状況を反映しているものと思われます。奇跡を行う能力があれば救いは間違いないというような誤解を解くために、マタイはこの厳しいイエスの教えをここに書き記したのだと思われます。

また、21節には次のような主イエスの言葉があります。

わたしに向かって、『主よ、主よ』と呼ぶ者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行う者が入るのです。

これも厳しい言葉ですよね。イエスに向かって主よ、主よ、と呼ぶ人はクリスチャンしかいないわけですが、そのように主を求める人でも御国に入れない人がいるというのは衝撃的です。自分の行いに自信がある、私は神のみむねを行っていると自信をもって言い切れるクリスチャンはそんなに多くないと思うので、このイエスの言葉も私たちを不安にさせます。しかし、この言葉もある種のパウロ主義に対する誤解を解くためだとも考えられます。なぜならパウロは旧約聖書のヨエル書を引用して「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」(ロマ10:10)と言っているからです。このパウロの言葉を拡大解釈して、「主の御名さえ呼べば、誰でも救われる、行いとかクリスチャンらしい生き方とかは必要ない」という風に考える人がおそらくマタイの時代にいたのでしょう。なぜそういえるかといえば、それから二千年経った今でもそのように考える人がいるからです。マタイは、イエスの言葉としてそのような誤解、ある種のパウロ主義に反対し、口先だけではだめだ、信仰には行動が伴わなければならないということを強調したかったのでしょう。

このマタイの言わんとするところは、イエスの山上の説教の最後のたとえに端的に示されています。それは岩の上に家を建てた人と、砂の上に家を建てた人のたとえです。イエスの話を聞くだけで行わない人は、自分が持っていると信じている信仰をたやすく失うだろうと説教者マタイは警告しているのです。そのような「信仰」は砂の上に建てた家のようなもので、困難が来ると簡単に壊れてしまうというのです。

ここで誤解しないでいただきたいのですが、「行いが大事だ」、「行いが必要だ」という場合の行いとは、一切罪を犯さないこと、完璧な行いのことという意味ではないということです。行いが必要ないという人のしばしば使うロジックは、神様の求めるのは中途半端な行いではなく、完璧な行いだけれども、それは不可能なのだ。だから救いと行いとは無関係なのだ、というものです。しかし、一切の過ちを犯さない人など誰もいないということは、誰よりも神様ご自身がご存じです。神様は人類と何千年も付き合ってこられたので、そんなことが人間には不可能であることをご存じです。神様が求めているのは、私たちの力の及ぶ限り努力することです。それだけです。その行いがどんなに不完全でまずいものだったとしても、神様はそんな私たちを支えてくれます。あなたは自分の子どもや教え子が何かを一所懸命やろうとしているときに、その努力が完ぺきではないからと言って見捨てるでしょうか?そんなことはないはずです。むしろ精いっぱい手助けするでしょう。もし見捨てるとすれば、「私はやりやります。頑張ります!」と口では言いながら、何もしようとしない人、自分では指一本動かさないような子どもや教え子であれば、あなたも助ける気をなくすでしょう。神様も、この点では人間の親や指導者とそれほど大きく変わらないのです。「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません」(ヤコ1:22)というヤコブの教えは本当に真実なのです。

3.結論

まとめになります。今日は山上の垂訓の最後の教えを学びました。そこで言われていることのポイントは、「聞くだけでなく実行しなさい」ということでした。山上の説教には様々な教えがあり、チャレンジを与えるものも少なくないですが、それらの教えをただ聞いて、「イエス様ってすごい、素晴らしい教えだ!」とただ感心するのではなく、実際に自分の手足や頭を動かして実行しなさいということです。日本の伝統的な教えで中国から伝わった儒教には「知行合一」というものがあります。本当に知る、理解するためには行動が必要だということです。イエスの教えの本当の意味は、こうして私や誰かの説教を聞いているだけではだめです。それを実践して初めてその意味が分かる、そのすごさが分かるのです。私も今年の年初に何か新しいことをやろうと思って将棋入門の本を買いましたが、その本がそんなに素晴らしても、私がその本を読んで実際に練習やけいこをしないことにはその本は単なる宝の持ち腐れです。ないのと同じです。ですから私たちも聖書を読んだり聞いたりするだけでなく、それを実践しましょう。ただ、気を付けたいのは実践すると言ってもイエスの意図をちゃんと理解しないでしゃにむにそれを行おうとしてはいけないということです。「右のほほを叩かれたら左のほほを向けなさい」という教えに込められたイエスの意図を理解せずに、ただそのまま実践しようとすればかえってもっとひどいことになります。まずイエスの意図をきちんと理解して、そのうえで実行すべきなのです。ですから聖書を学ぶことはとてもとても大事です。しっかり学び、そのうえで実行する、今年もそのように歩みたいと願うものです。お祈りします。

天におられますわれらの父よ、そのお名前を賛美します。主の年2026年が始まりました。ことしもみことばを聞き、それを正しく理解し、そのうえで実行できるように私たちを導いてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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何を願うかマタイ福音書7章7~11節 https://domei-nakahara.com/2026/01/01/%e4%bd%95%e3%82%92%e9%a1%98%e3%81%86%e3%81%8b%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b87%e7%ab%a07%ef%bd%9e11%e7%af%80/ Thu, 01 Jan 2026 00:18:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=7168 "何を願うか
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みなさま、新年おめでとうございます。毎年恒例になりましたが、元日礼拝は今年の年間主題聖句を取り上げてお話しします。このマタイ福音書7章7節は昨年の講解説教で取り上げたばかりの箇所なので記憶に新しい箇所でもありますが、年初にあたって改めてこのみことばをよく考えてみたいと思います。

お正月といえば初詣で、多くの日本の方々は二年参りに赴いて神社仏閣で年越しを迎える方も多いと思います。初詣で何をするかと言えば願掛けであり、新しい年を迎えるにあたってお賽銭をしてお願いをするというのが多くの日本の方の行動パターンだと言えるでしょう。お願いする内容は様々で、受験生の方は合格祈願、サラリーマンの方は商売繁盛、若いカップルは子宝を授かることなど、いろいろでしょう。普段は宗教に無関心な日本人が急に信心深くなるように見えますが、日本人が神仏に祈るのは、このように何かをお願いするときだと言えるでしょう。

かくいうキリスト教の場合も、祈りとお願いには深い関係があるように思います。「求めよ、さらば与えられん」というみことばが聖書の中でも最も人気があるみことばの一つであるというのもその証拠と言えるかもしれません。ただ、このようなシンプルで力強い言葉は誤解を招きやすいものでもあります。「信じる者は救われる」という、これまたよく言われる言葉もそうですが、こういう分かりやすいことばほど、よくよく意味を考える必要があります。というのも、神様に願えば何でもかなえられると言われても、そんなはずはないということは子供でも分かるわけです。そこで、何をどう願うべきなのか、ということを聖書の他の箇所を参照しながら考えてみましょう。それは昨年の説教でも取り上げたヤコブの手紙です。この手紙はイエスの実の兄弟であるヤコブが書いたものと言われていますが、その内容はさすが兄弟というべきか、イエスの教えと非常に近いのです。そのヤコブが願うこと、求めることについて何と言っているかを見てみましょう。ヤコブ書1章5節から8節です。

あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いています。

このように、疑わずに信じて願えば与えられる、ということをヤコブは述べています。しかしヤコブはほかのところで願っても与えられないということも話しています。そこを見てみましょう。4章1節から3節です。

何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受け入れられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

このように、自分の快楽のためにというような悪い動機で神に願っても、それは叶えられることはないとはっきり語っています。先ほどのヤコブの教えと一緒に考えるならば、神は私たちにとって本当に良いこと、必要なことを願うならば与えてくださるけれど、私たちの目先の快楽のための願いは聞いてくださらないということです。これは当たり前のことですよね。自分のことで言うのも恥ずかしいのですが、私は小学生に入るか入らないかの頃に、おじいちゃんとおばあちゃんからお正月のプレゼントをもらったことがありました。私はその時、ゲームが欲しくてそれを願っていたのですが、おじいちゃんとおばあちゃんがくれたのは勉強道具でした。私はそれを貰った時に泣き出して、「こんなのいらない」と駄々をこねました。まあ、今から思えばなんてことをしたんだろうと思うわけですが、おじいちゃんとおばあちゃんは私の将来にとって一番良いものを用意してくれていたのですが、私は目先の楽しみで頭が一杯だったわけです。そして、大人になった私たちと神様との関係も、どこか子供の頃の私と祖父母との関係と似たところがあるのかもしれません。

さすがに大人になった私たちは神様に「あのゲームが欲しい、買って」と祈り求めることはないでしょうが、私たちが神に願うものは、後になって少し距離を置いて俯瞰してみて考えると、「なぜ私はあんなことを願ったのだろうか」と思うようなことが少なくないのではないでしょうか。あるいは、自分が本当にしたいことを自分ではわかっていないということもあります。いきなりなんだかエリートっぽい話になって恐縮ですが、私はサラリーマンだった時に強く願っていたことがありました。それは当時勤務していた銀行から海外の大学院に留学させてもらうことでした。私の父もかつてアメリカの一流大学に社内留学生として派遣されたことがあったので、なんとなく留学へのあこがれがあったのです。私は当時そのためにいろいろと努力し、英語力を上げたり資格を取ったりしました。しかし、いざ来年チャレンジしようとしていた時に、バブル崩壊の影響を受けていた銀行は突然留学制度を中止しました。私は目標を見失ってなんだか呆然としてしまいました。仲の良かった先輩から、国内の大学院でもいいじゃないかと言われ、当時渋谷支店に勤務していたこともあり、青山学院の夜間の社会人向けMBAコースに入学しましたが、それはやはり海外留学の代わりにはなりませんでした。

しかし、今から振り返ると、たとえアメリカの一流のMBAに入学できたとしても、自分は全然幸せではなかっただろうな、と思います。今なら分かりますが、MBAで学ぶような内容は、私が本当に学びたいことではなかったからです。またMBAに来るような人たちは非常に上昇志向の強い人たちばかりなので、せっかく海外生活を経験できたとしても、そういう人たちとの競争に明け暮れる二年間というのもあまり幸せではなかっただろうと思います。それに対して、神学の勉強のためにイギリスに留学した七年間は本当に楽しく、学ぶことも自分が心から学びたい内容でした。しかし、サラリーマンをしていた頃の自分は、自分が本当に勉強したいのが聖書学だなどとは一ミリも思っていませんでした。そんな面白い学問があることなど全然知らなかったからです。

しかし神様はそのことをご存じでした。「アメリカのビジネススクールに留学したい」という私の願いは叶いませんでしたが、私に本当の知恵を与えてくれる留学の道は神様がちゃんと用意してくださっていたのです。また、ビジネススクールに行くために英語を勉強したり論文を書いたりしたことは決して無駄になりませんでした。また、金融機関で働いていたおかげで、結構なお給料をいただいていましたから、留学のための軍資金を蓄えることができました。私は30代の半ばで留学しましたが、20代の世間のことが何もわかっていなかった時よりも、ある程度の社会経験を積んだ後のほうが神学の学びにもプラスの影響があったように思います。

と、なんだか私の証しになってしまいましたが、この話から「神は願い求めるものを与えてくださる」ということについての一つのイメージができるのではないでしょうか。神は確かに私たちの願うものを与えてくださいます。それは当初自分が願っていたものとは違うものかもしれませんが、しかしきっとそれは自分すら知らなかった私たちの本当の願いなのです。神様は良い方ですから、私たちに本当に良い物を与えてくだるでしょう。そのことを信じて今年も歩んで参りましょう。お祈りします。

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キリストにあって一つにエペソ書2章1~22節 https://domei-nakahara.com/2025/12/28/%e3%82%ad%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88%e3%81%ab%e3%81%82%e3%81%a3%e3%81%a6%e4%b8%80%e3%81%a4%e3%81%ab%e3%82%a8%e3%83%9a%e3%82%bd%e6%9b%b82%e7%ab%a01%ef%bd%9e22%e7%af%80/ Sat, 27 Dec 2025 23:54:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6973 "キリストにあって一つに
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みなさま、おはようございます。本日は2025年最後の主日礼拝になります。この一年かもみなさまのおかげで礼拝を続けていくことができました。ありがとうございます。今日は、これまで取り上げたことのない書簡であるエペソ書からメッセージをさせていただきます。

さて、今年一年を振り返ると様々なことがありましたが、一つの重要なテーマとして浮上していたのが「分断」ということでした。トランプ氏がアメリカの大統領になってから、いや実はその前からアメリカは真っ二つに分裂しているということが言われてきました。アメリカがどのような意味で分裂しているのか、ということについてはいろいろな分析がなされてきました。マスコミに登場する多くの論客はトランプ氏のことを反知性主義、人種差別主義者などと徹底的に批判し、アメリカに分断をもたらしているのはトランプ氏だと批判します。しかし、実際は少なくともアメリカの国民の半分以上がトランプ氏を支持しているので彼は大統領になれたわけです。私は、個人的にはこの分断の背景として最も重要な要素は経済問題、とくに経済格差なのではないかと思います。アメリカ国民を二分するテーマとして、移民を無制限に受け入れるのか、あるいは不法移民を厳しく取り締まるのかということが大きな争点になっていて、不法移民を厳しく取り締まろうとするトランプ氏は差別主義者だとよく言われます。ですが、実際にはこの背後には経済の問題があります。西側先進国では移民を大量に受け入れる国が多いですが、それを支持しているのは主として産業界です。なぜなら人手不足の中、移民は安価な労働力となるからです。人件費の安い海外に工場を移転するということがこれまで行われてしましたが、海外に移転しなくても海外の安い労働力を大量に受け入れれば似たような経済効果が生まれるからです。アメリカも、生産拠点を海外に移すのと同時に大量に移民を受け入れてきましたが、その結果アメリカの工場労働者の賃金は上がらずに、中産階級が没落していきました。アメリカはモノを作らなくなり、もっぱら金融で儲ける国になっていきました。アメリカでは株や債券など金融商品から生み出される利益はなんと500兆円にも上ると言われています。日本のGDP、国民総生産に匹敵する利益が、金融商品だけから生み出されているのです。しかしそのような金融商品からの利益を受け取る人が限られてしまっていることが大きな問題なのです。アメリカ人の約半分は株などの金融商品を保有していないと言われています。反対に、上位1%の人の資産のアメリカの全資産に占める割合は何と30%に達しているとも言われています。このように、アメリカは持てる者と持てない者とに二分され、持てない人たちの不満がトランプ氏を押し上げたということになります。こういうトランプ支持の人々は、経済エリートたちから見れば学歴が高くない人たちなので、彼らに支持されるトランプ氏が「反知性主義」というレッテルを張られてしまうのです。しかし、個人的にはトランプ氏は非常に頭のいい人だと思います。

さて、このように今日でも分断の問題が大きなテーマになっていますが、イエスやパウロが生きた時代にも分断というのは大きなテーマでした。イエスの宣教の大きなテーマの一つは、「義人」と「罪人」という分断でした。ここで間違えないようにしたいのは、私たちはパウロがローマ書簡で「義人はいない。ひとりもいない」と書いていることを思い浮かべて、この世に生きる人はすべて罪人なのだ、と考えてしまいます。しかし福音書で「イエスは罪人の友となった」と言われる場合の「罪人」とは、特定の職業に就いている人々を指す言葉でした。イエスが親しくした「罪人」とは具体的には「取税人と遊女」でした。イエスは当時のイスラエルのエリートたちに対して、「取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです」と語りましたが、この「取税人」や「遊女」たちが「罪人」たちだったのに対し、イエスを糾弾する祭司や律法学者たちは律法をきちんと守る「義人」たちでした。ここで注意したいのは、「祭司や律法学者」というグループと「取税人や遊女」というグループは、そのまま「金持ち」と「貧乏人」という二つのグループだったということです。この二つのグループの違いは道徳よりも、経済力だったということです。取税人というと、あのザアカイさんのようなお金持ちを連想するかもしれませんが、取税人になる人はもともとは貧乏だったのに、取税人という仕事を通じて金持ちになったということに注意してください。取税人と聞くと、今日の税務署の職員のような人たちを連想するかもしれませんが、全然違います。税務署の職員は国家公務員であり、安定した職業ですが、取税人はまったくそのような人たちではありませんでした。彼らは当時ユダヤを支配していたローマ帝国によって雇われた人たちでしたが、彼らに対してローマ帝国は賃金や給料を払わなかったのです。えっ、そんなことがありうるのか、と思うかもしれませんが、本当です。では、彼らはどうやって生活していたのかといえば、彼らは例えばローマから10%の税金を集めろと命じられた場合には、実際には12%とか15%の税金を徴収し、差額の2%とか5%を自分の給料としていたのです。いわばピンハネのようなことをしていましたし、ローマもそれを認めていました。そして、自分の取り分として何パーセントを乗っけるのかというのは取税人の裁量に任されていたのです。悪質な取税人になると、暴力団のような人たちを雇って厳しい税の取り立てをしていました。取税人で金持ちの人たちはこうした不正な取り立てによって貧乏人から成りあがっていったのです。当然人々からは毛虫のように嫌われていました。では、なぜこのような人々から嫌われる仕事を選んだのかといえば、それはそうする以外に生きていく手段がないほど追い詰められていたからでした。今の日本の国民負担率、つまり所得税や住民税、消費税と社会保険料の合計は46%にも達すると言われ、給料の半分は税負担になると言われていて大きな政治テーマになっていますが、しかし当時のユダヤ人の国民負担率は70%から80%にまで達し、しかも逆累進課税で貧しい人ほど税負担が大きかったのです。この恐るべき状況の中で、お金のない人の選べる道はわずかしかありませんでした。若い女性の場合は、戦前の日本の貧しい農家のように、遊女として売られていきました。男性の場合は、人々から「罪人」として後ろ指さされることを覚悟のうえで取税人になっていったのです。このように、イエスが親しく付き合った罪人の取税人や遊女は、道徳的に非常に行いの悪かった人たちではなく、貧困の故に「罪人」とされる職業を選ばざるを得なかった人たちでした。そうした彼らを、義人と呼ばれる人たちは軽蔑しました。ここでいう「義人」とは一度も罪を犯したことのない完璧な人、という意味ではありません。むしろここでは「神との契約の中にいる人」という意味です。ユダヤ社会の中で立派な職業に就いている人たちは契約共同体の一員でしたから、彼らは義人だったのです。こうした社会状況の中で、イエスは罪人たちの友となることで、イスラエル社会の深刻な分断、「義人」と「罪人」との間の垣根を取り除き、イスラエルの民に一体感を取り戻そうとしたのです。

このように、イエスの宣教の目的の一つはイスラエルの分断を解消することにありました。それに対し、「異邦人の使徒」であるパウロは別の形の社会の分断に取り組みました。イエスはユダヤ人の中の分断を問題にしましたが、パウロはユダヤ人とユダヤ人以外の人々の分断を問題にしました。先ほど、ユダヤ社会の中で「罪人」とされていたのは取税人や遊女など経済的な困難にいた人々だと申しましたが、ユダヤ人にとってもう一つの「罪人」のカテゴリーがありました。それはユダヤ人にとっての外人、外国人、いわゆる異邦人でした。ユダヤ人は外人をひとまとめに「罪人」と呼んでいたのです。パウロはガラテヤ書2章15節でこう述べています。

私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。

と、このように、ユダヤ人と異邦人はそれぞれ「義人」と「罪人」として対比されていたのです。先ほども述べたように、「義人」とは何の罪を犯したことのない完全な人、ということではありません。先ほどと同様に「神との契約の中にいる人」という意味です。イスラエルは神との契約の中にいるので、イスラエルのメンバーはよほどひどい罪を犯さない限りは「義人」なのです。パウロは、イエスがユダヤ社会内部の分断を取り払おうとしたように、ユダヤ社会の外の人々との分断を取り払おうとしました。なぜなら、パウロはメシアの使命がイスラエルの救いのみならず異邦人の救いでもあると信じていたからです。パウロは異邦人の救いを「福音」と呼んでいます。その箇所を見てみましょう。ガラテヤ書3章8節です。

聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福を受ける」と前もって福音を告げたのです。

とあります。「アブラハムによって」とありますが、創世記では「アブラハムとその子孫によって」すべての国民が祝福を受けるとなっています。そしてそのアブラハムの子孫がイエス・キリストだ、というのがパウロの福音です。イエスはユダヤ人と異邦人との壁を打ちこわし、異邦人を神の民、神の契約へと導き入れてくださったというのがパウロの福音なのです。

そして今日のエペソ書です。エペソ書はパウロが書いた書簡だとされていますが、実際にはパウロの弟子の一人とされる人物によって書かれた書簡だと多くの研究者は考えています。パウロが死んだあとに、パウロの思想を正しく伝えようとしたお弟子さんが書いたということです。また、「エペソ書」ということで小アジアのエペソ教会への書簡とされていますが、この書簡の古い写本にはエペソ教会のことは書かれておらず、おそらくのちの時代に追加されたものだと思われます。つまり、パウロの弟子が特定の教会ではなく、広くパウロの流れを汲む教会すべてに書き送った「公同書簡」的な色合いが強い文書だということです。

そして、この書簡が特に強調しているポイントが、キリストがユダヤ人と異邦人との間の隔ての壁を打ち壊したということです。この2章など、まさにそのようなテーマが語られています。2章1節の「あなたがた」とは異邦人クリスチャンのことです。彼ら異邦人はかつて「自分の罪過と罪の中で死んでいた者」だった、というのがこの書簡の著者の抱く異邦人理解でした。11節と12節に、そのことがさらに詳しく書かれています。

ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人でした。

このように、異邦人であるということは契約の民であるユダヤ人から見れば神に見放されたような、将来についてまったく希望のない状態だったのです。しかし、そのような異邦人に希望と未来を与えてくれるのがイエス・キリストの到来、とりわけその十字架での死だった、というのがこのエペソ書の著者の主張なのです。そのことが書かれているのが13節以降ですが、そこを改めて読んでみましょう。

しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

このように、キリストの十字架の意味とは異邦人とユダヤ人の隔ての壁を打ち壊すためだった、とこの著者は主張しているのです。そして、その隔ての壁とはユダヤ人と異邦人の交際を厳しく制限する律法なのだ、というのがこの著者の考えです。ここで注意したいのは、イエス様は十字架上で死なれるときに、「私の死によって、ユダヤ人と異邦人との隔ての壁が壊される」と考えていたのではないだろうということです。イエスは自らの死によって新しい契約が結ばれると信じていましたが、その新しい契約とはイスラエルの全家と結ばれるものだからです。新しい契約を預言したエレミヤも、「わたしがイスラエルの家と結ぶ契約」と言っていますので、この契約は神とイスラエルとの新しい契約だということができるでしょう。イエスは自らの民であるイスラエルの救いのために死んでいったのです。では、イエスの死がユダヤ人と異邦人との間の壁を壊すためのものだったというパウロの解釈、あるいはパウロの弟子の解釈が誤りだったのかといえば、そうではありません。むしろ、彼らはイエスの宣教の目的の一つである「義人」と「罪人」との垣根を壊すという働きを正しく拡張して、ユダヤ人のみならず全人類の問題としてとらえなおしたのです。「義人」と「罪人」との間の壁の問題をユダヤ内部の問題としてではなく、全世界の問題としてとらえなおしたということです。これはイエスがはじめられたことを正しい方向で拡大したということなのです。

これは21世紀に生きる私たちにとっても大事なことです。イエスの生きた時代は私たちの時代とは様々な意味で異なります。イエスのなさったことを私たちがそのまま継続しようとしたり、繰り返そうとしてもうまくいきません。なぜなら私たちの時代とイエスの時代とは大きく異なるからです。しかし、イエスのなさったことのエッセンスを正しく理解し、それを私たちの時代に当てはめることはできます。イエスの働きの本質とは、人々を分断するもの、バラバラにするものをうち壊して、人々を自らのもとで一つにすることでした。私たちの時代にも様々な分断が存在し、それが社会を不安定化させます。私たちはそういう問題を正しく見抜いて、分断を解消するために働くべきです。そうすることで、私たちはイエスの働きを21世紀においても継続できるのです。新しい一年も、この目的のために歩んで参りましょう。お祈りします。 イエス・キリストの父なる神様。そのお名前を賛美します。今年一年間も当教会を守り導いてくださったことに心から感謝いたします。新しい一年も主イエスの歩まれたように歩むことができますように。特に、人々の間にある壁を取り払う働きができますように。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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