中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 調布 深大寺のプロテスタント教会 Sun, 15 Dec 2024 04:02:36 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.3.18 https://domei-nakahara.com/wp-content/uploads/2020/03/cropped-favicon-32x32.png 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 32 32 苦難のしもべイザヤ52章13節~53章12節 https://domei-nakahara.com/2024/12/15/%e8%8b%a6%e9%9b%a3%e3%81%ae%e3%81%97%e3%82%82%e3%81%b9%e3%82%a4%e3%82%b6%e3%83%a452%e7%ab%a013%e7%af%80%ef%bd%9e53%e7%ab%a012%e7%af%80/ Sun, 15 Dec 2024 04:01:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6019 "苦難のしもべ
イザヤ52章13節~53章12節" の
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みなさま、おはようございます。今日はアドベント第三週になります。いよいよ次週はクリスマス礼拝になりますが、今日の聖書箇所はクリスマスを待ち望むうえで大変重要な箇所です。実際のところイザヤ書53章は、旧約聖書の中でも最も有名な箇所の一つです。

クリスマスになると、クリスマス関連の音楽が流れますが、その中でも定番と言えるものの一つがヘンデルの「メサイア」でしょう。ヘンデルは元々ドイツ人でしたが、イギリスに帰化しました。ですからメサイアも英語の歌詞が使われています。宗教曲はラテン語とかドイツ語の曲が多いですが、英語の歌詞であるメサイアは日本人にとっても馴染み深いものでしょう。そのメサイアの歌詞はみな英語の聖書からの引用なのですが、なかでも「イザヤ書」からの引用がとても多いのです。そもそも最初の歌詞である「慰めよ、慰めよ」というところはイザヤ書40章からの引用です。なぜイザヤからの引用が多いのかといえば、「メサイア」というのはメシア、つまりキリストのことですが、イザヤ書は旧約聖書の中でも最も多くのメシア預言が含まれている預言書だとされているからです。イザヤにはメシアを示すと思われる部分があまりにも多いので、イザヤ書を新約聖書の四福音書に並ぶ「第五の福音書」と呼ぶ人までいるのです。

そのイザヤ書の中でもとりわけ重要なのが、イザヤ書40章から55章にかけてです。イザヤ書は66章ありますが、大きく分けて三つに分かれていると言われていますが、その真ん中の箇所である40章から55章までは一般的に「第二イザヤ」と呼ばれる箇所で、その著者は預言者イザヤより百年以上後の時代に生きた無名の人物だとされます。無名といっても、預言者イザヤの精神を引き継いだ、イザヤの弟子たちの中の一人だということです。日本でも、たとえば浄土真宗の中で一番有名な本は教祖の親鸞の書いたものではなく、お弟子さんの唯円(ゆいえん)が書いた歎異抄(たんいしょう)だと言われています。第二イザヤもイザヤの衣鉢を継いだお弟子さんが書いたということです。そして第二イザヤは、イザヤ書全体の中でも独特な性格を持っています。第二イザヤを理解するために、その前の部分である第一イザヤと比較してみましょう。

第一イザヤと呼ばれる1章から39章までは、イスラエルの罪と背信に対する神の厳しい裁きが述べられています。預言者イザヤの召命の時のあらましは6章に書かれていますが、イザヤが神から最初に与えられたメッセージは大変厳しいものでした。その9節と10節をお読みします。

すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』この民の心を肥え太らせ、その耳を遠くし、その目を固く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」

このように、イスラエルの罪は重く、彼らには癒しではなく裁きが待っている、彼らは癒されてはならない、というのがイザヤに与えられた大変厳しい、重たいメッセージでした。イザヤは南ユダ王国が滅亡する紀元前587年の百年ほど前に活躍した預言者ですが、イザヤのメッセージはその百年後のユダ王国の滅びを予見するような厳しい内容だったのです。

それに対し、第二イザヤと呼ばれる40章以降は、国が滅びてしまい、亡国の民となったイスラエルの人々を慰めるメッセージになっています。つまり、まだ南ユダ王国が健在だった時代の人々に語られた第一イザヤとは時代背景が異なり、国を失って意気消沈した人々に語られているのが第二イザヤです。ですから第一イザヤの厳しいトーンとは打って変わり、慰めや励ましに満ちたメッセージになっています。第二イザヤの冒頭は次のような言葉で始まります。

「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き換え、二倍のものを主の手から受けよ。」(イザヤ40:1-2)

このように、国を失い、礼拝のための神殿も失い、外国で捕虜として暮らしていた亡国の民であるイスラエル人に対し、神は慰めを与え、また失った二倍のものを与えようと約束しているのです。素晴らしいメッセージですね。しかし、そんなに都合よく物事が進むのだろうか、と疑う人たちもいました。彼らは現に祖国を失ってしまったのです。帰るべき祖国はもうないのです。そんな厳しい現実を前にして、イザヤの言葉は気休めなのではないかと斜めに見る人たちがいたのです。

第二イザヤは、この神の約束、慰めと回復の約束がどのように実現するのかを示す書なのです。そして第二イザヤにはこの約束を実現してくれる二人の救世主、二人のメシアが登場します。しかし、その二人はまるで対照的な二人です。一人は、当時の世界最強の帝国であるバビロニア帝国を滅亡させた人物、アケメネス朝ペルシアの王キュロスです。私たちの使っている聖書では古い呼び方のクロスとなっていますが、一般的にはキュロスと呼ばれる人物です。彼はバビロンだけでなく、エジプトやヨーロッパのマケドニアも征服し、さらにはインドの国境沿いまでの中央アジアをすべて平定し、まさに空前絶後の世界帝国を築き上げた王でした。彼はイスラエルの人々からも深い尊敬を集めていました。実際、第二イザヤはキュロスを讃えてこう記しています。45章1節からお読みします。

主は、油そそがれたキュロスに、こう仰せられた。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。」

油注がれた者とはすなわちメシア、ギリシア語の「キリスト」です。ですからイスラエルの預言者イザヤは異教徒のペルシアの王キュロスのことを「キリスト」と呼んでいるのです。アケメネス朝の国教はゾロアスター教だったと言われていますので、キュロスはイスラエルの神の信仰者ではありませんでした。ユダヤ人以外の異教徒の王が「キリスト」と呼ばれているのはこのキュロスだけですから、ユダヤ人にとってキュロスという人物がどれほど重要だったか、分かろうというものです。実際、キュロスはユダヤ人にとっての救世主でした。キュロスによってバビロンに囚われていたユダヤ人たちはエルサレムに戻ることが許され、さらにキュロスはエルサレムに戻ったユダヤ人たちが神殿を再建するのを助け、資金援助をしています。まさにキュロスはユダヤ人の宿敵であるバビロンを滅ぼし、彼らを祖国に帰してくれた救世主だったのです。イザヤ書40章から48章までは、このキュロスによってユダヤ人たちがバビロンから解放される様子を描いています。それは「政治的」な解放であり、キュロスの軍事力によってそれは成し遂げられました。

しかし、第二イザヤでは、もう一人の救世主が登場します。その人物が成し遂げるのは、キュロスのような政治的解放ではなく、精神的または霊的な解放です。そしてその人物はキュロスのように軍事力を用いることなく、むしろその苦難を通じてイスラエルを霊的に解放するのです。その人物は「苦難のしもべ」と呼ばれますが、その名前は明かされていません。そして、その謎めいた人物が主役として登場するのは49章以降です。彼のことを描いている箇所をいくつか読んでみましょう。まず49章4節です。

しかし、私は言った。「私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある。」

また、50章4節から6節までをお読みします。

神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者にも私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。

このように、主に従うしもべは人々から受け入れられず、むしろ侮辱されたりひどい扱いを受けます。これはイスラエルの預言者の宿命とも言えるもので、先々週取り上げたエレミヤもこのような扱いを受けていました。この「苦難のしもべ」と呼ばれる人物も、イスラエルの歴代の預言者たちと同じく人々からの迫害を受けながらも主の道を宣べ伝え、人々を励まします。そして、そのようなしもべの働きを通じて「福音」がイスラエルにもたらされます。

52章7節以降には、神がシオンに戻られて救いをもたらすことが「福音」として語られています。そこをお読みします。

良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。聞け。あなたの見張り人たちが、声を張り上げ、共に喜び歌っている。彼らは、主がシオンに帰られるのを、まのあたりに見るからだ。エルサレムの廃墟よ。共に大声をあげて喜び歌え。主がその民を慰め、エルサレムを贖われたから。主はすべての国々の目の前に聖なる御腕を現した。地の果てもみな、私たちの神の救いを見る。

この一文は、「福音」とは何かを示すものです。福音とは、イスラエルの神が世界の王となられる、神ご自身がこの世界に正義と平和に基づく支配を行われる、「あなたの神が王となる」ということです。私たち福音派は、福音とは「イエス様を信じれば罪赦されて救われる、天国に行ける」ことだとついつい考えてしまいますが、実際は福音とは「神ご自身が王としてこの世界を正しく支配してくださる」ということなのです。私たち殆どすべての人は、現在の支配者に何かしらの不満を持っています。金銭的な面で不正をする政治家が嫌われるのはもちろんですが、たとえそういうことをしない清廉潔白な政治家だとしても、世界の問題を解決するには力不足なのではないか、と思われる政治家も少なくありません。そんな中で、全能の神様ご自身がそうした支配者に代わって正しい政治を行ってくださるとしたら、それは確かに素晴らしいこと、良い知らせなのではないでしょうか。

 しかし、神様がこの世界を支配するというのは具体的にはどういう意味なのでしょうか?そもそも神様は霊であり、私たち人間には見ることも聞くことも触ることもできません。神様が人間の王様のように、私たちの目の前に現れることはないのです。その見えない神様が、いったいどうやって王としてこの世界を治めるのでしょか?イザヤは、「主はすべての国々の目の前に聖なる御腕を現した。地の果てもみな、私たちの神の救いを見る」と語りますが、私たちはどのようにして見えない神様の栄光を見るのでしょうか?イザヤはその答えを私たちに与えてくれます。私たちは「苦難のしもべ」の苦しむ姿を通じて、全能の神の力強い働きを見るというのです。これはまったく理解に苦しむ、矛盾した知らせではないでしょうか?先ほどの世界帝国を作り上げたキュロス王や、あるいはローマ帝国のユリウス・カエサルやナポレオンのような偉大な王の働きの中に神の力を見るというのなら話は分かりますが、人々の無理解に悩み苦しむ人物の苦悩の中に、どうやって神の全能の力を見ることができるのでしょうか?しかし、イザヤはまさにその人にこそ、神の聖なる御腕が現れるというのです。イザヤはこう書いています。

私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたか。

イザヤは、主の御腕が世界に示されるというビッグニュースについて語りますが、誰もそれを信じられなかった、と言います。同じことは、すぐ前の52章13節と14節にも書かれています。

見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。多くの者があなたを見て驚いたように、-その顔だちは、そこなわれていて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた―そのように、彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。

ここには矛盾した内容が書かれています。しもべと呼ばれる人物は、あらゆる者の上に立つ存在として非常に高められます。まさに王の中の王となるということです。それなのに、そのしもべの姿はひどく損なわれ、見るに堪えないものだとも言われています。人々から蔑まれるような人物があらゆる人の上に立つという驚くべき知らせを前に、王たちは口をつぐむだろうということが言われています。

この不思議な「しもべ」について、イザヤ書53章は語ります。2節の途中からお読みします。

彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

こうした記述を読むと、このしもべは王の中の王どころか、私たちの目から見ても気の毒な、可哀そうな人しか思えません。では、なぜこのような人物が神によってすべての上に立つ人物にまで高められたのでしょうか?それは彼がその人生において王たる人物に相応しいあり方、王道を示したからです。そしてその王道は、世間一般の王道とは正反対のものでした。

この世では、偉い人たちは自分たちの悪事や悪行の責任を取りません。それを下の者たちに押し付けます。「私は何も知りませんでした。秘書が勝手にやりました」というセリフを私たちは何度聞いてきたでしょうか。多くの人はそれが嘘だと直感的に気付くのですが、しかしそれがこの世の在り方としてまかり通ってきました。私たちの世界では、偉くなればなるほど罪を問われないということになります。最近も某超大国の大統領が自分の息子の罪を帳消しにしました。偉くなれば罪を問われない、法律を超越した存在になれる、それが分かっているからこそ、多くの人は偉くなろうとするのです。しかし、このしもべはそれとは正反対です。彼は自ら他人の罪を背負うのです。人に自分の罪をなすりつけたりすることなく、むしろ人々の罪の重荷を背負ってくれるのです。これが神の前に正しい王としての在り方、真の王道なのです。しもべはそのようにして上に立つ者としての正しい在り方を自分の生きざま、そして死にざまを通じて世界に示しました。だからこそ、神は彼をあらゆる者の上に立つ存在としたのです。

しかし、そんな奇特な人がこの世にいるのだろうか?と思われるかもしれません。それがいたのです。それがイエス・キリストであり、その十字架なのです。イエス・キリストはそれを成し遂げたからこそ、あらゆる者の上に立つお方とされたのです。この方こそ、イザヤの示す苦難のしもべの正体なのです。

このように、主イエスは私たちの罪の重荷を担ってくださいました。私たちは、だからといって、イエス様のおかげで助かったよ、私たちはこれで苦しまずに済んだ、などと考えるべきではありません。なぜなら、「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません」(一ヨハネ2:6)とヨハネが語っているように、私たちもまた、イエスの十字架を模範として歩まなければならないからです。神の国、神の支配に参加するということは、人の上に立って王のように命令することではなく、むしろイエスのように人のしもべとなって歩むということです。人に罪をなすりつけるのではなく、むしろ自らが人の罪を背負う、それが神の国の生き方です。楽ではないのです。簡単でもありません。しかし、そのように歩まなければいつまでたってもこの世界に真の平和が訪れないのも事実です。私たちが作り上げるべき共同体、世界とは互いに仕え合う共同体、世界です。暴力や強制によって敵を打ち倒すこの世の帝国とは全く異なっています。それが神の国が天におけるように地にも到来するということです。もちろん、私たちは一朝一夕にイエスのように歩めるようになるわけではありません。すぐに神の国、神の支配がこの世に実現するのでもありません。私たちはいつもイエスを見上げ、それを目指して一歩一歩歩んでいくしかないのです。そのような思いを胸に、アドベントの最後の一週間を歩んで参りましょう。お祈りします。

王となるために僕として歩まれた平和の主よ、そのお名前を賛美します。あなたは私たちにまことの人間としての在り方、まことの王としての在り方を示してくださいました。私たちもそれに倣って歩むことができるように、上よりの助けをお与えください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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永遠の王国ダニエル7章1~28節 https://domei-nakahara.com/2024/12/08/%e6%b0%b8%e9%81%a0%e3%81%ae%e7%8e%8b%e5%9b%bd%e3%83%80%e3%83%8b%e3%82%a8%e3%83%ab7%e7%ab%a01%ef%bd%9e28%e7%af%80/ Sun, 08 Dec 2024 04:16:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6005 "永遠の王国
ダニエル7章1~28節" の
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みなさま、おはようございます。今朝はアドベント、待降節の第二主日になります。先週もお話ししましたように、アドベント期間中はこれまでのサムエル記の講解説教から離れ、アドベントにふさわしいと思われる箇所からメッセージさせていただきます。先週はエレミヤ書からのメッセージでしたが、今朝はダニエル書からのメッセージになります。

そこで、このダニエル書という文書の概要をまずお話ししたいと思います。預言者ダニエルという人物は、バビロン捕囚の民の一人だと言われています。南ユダ王国は大国バビロンに敗れ、紀元前597年と紀元前587年の二度にわたってユダ王国の主だった人々はバビロンに捕虜として連れて行かれたのですが、ダニエルはその中の一人だということです。ダニエルは連れて行かれた先のバビロンと、後にバビロンを滅ぼして中近東の覇者となったペルシアの二つの帝国の宮廷に仕えたユダヤ人だとされます。ただ、このダニエル書自体が完成したのはそれよりずっと後の時代、バビロン捕囚から三百年後の紀元前二世紀ごろだったとされています。実際、ダニエル書が完成したのは旧約聖書のすべての文書の中でも一番最後だと考えられています。つまり、ヨハネ黙示録が新約聖書の最後の書であるように、ダニエル書も旧約聖書の最後の書だということです。

そして、この二つの文書には興味深い共通点があります。それはどちらも「黙示文学」と呼ばれていて、主に終末の出来事を扱っているということです。ダニエル書には、終わりの時にすべての人、善人も悪人もあらゆる人が復活して裁きを受けるという明確な思想が表明されています。それは聖書で初めて表明されたものです。しかし、さらに重要なことは、ダニエル書がイエス・キリストの宣べ伝えた福音、つまり「神の国」の到来を予告していることです。ダニエルはそれを神の国とは呼ばずに永遠の国、永遠の王国と呼んでいます。ダニエル書の中でも特に2章と7章はその永遠の王国についての預言となっています。今日はダニエル書7章を読んでいただきましたが、そこを詳しく見ていく前に、その7章と並行関係にある2章をまず見ていきたいと思います。 

ダニエル書の2章は、バビロンの王ネブカデネザルが不思議な夢を見たというところから話が始まります。王はその夢にうなされ、心を騒がせていました。古代世界では、夢は神のお告げだとも考えられていたので、王はなんとしてもその意味を知りたいと願いました。そこでネブカデネザルはバビロン中の知者を呼び集め、自分の見た夢を解き明かすようにと命じます。しかも、自分の見た夢がどんなものかは明かさずに、まず自分の見た夢を言い当てて見よ、と命じたのです。ネブカデネザルは知者たちが自分の夢にもっともらしい解釈を施して言い逃れるのを警戒したのでしょう。しかし、そのような要求を出されたバビロンの知者たちはたまったものではありません。なんとかその夢の内容を教えて下さいと王に願います。しかしそれを聞いたネブカデネザルはむしろ怒り狂い、お前たちは皆死刑だ、と言い出します。

この状況に皆が困り果てたときに、捕囚の民の一人で神の知恵を宿すと評判だったダニエルに声がかかります。ダニエルはイスラエルの神に願い、王の見た夢の内容とその解き明かしを神から授かります。そしてダニエルはネブカデネザル王の前に出て、解き明かしを行います。ダニエルは、王が見た夢とは強大な像についてであると語ります。この像は頭が金、胸が銀、腹が銅、そして足は鉄と粘土でできていました。しかし、一つの石が人手によらず切り出され、その石が巨像を打つと、像は粉々になりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちるという、そういう不思議な夢でした。ダニエルは次いで、その意味を説明します。金・銀・銅、そして鉄と粘土はそれぞれ世界を支配する四つの帝国を指すというのです。最初の金の帝国とは、ネブカデネザルが治めるバビロニア帝国です。その後にも次々と帝国が興りますが、しかしそれらすべての帝国を打ち破るような王国を神自身が起こします。巨像を打った石は、その神がもたらす国、「神の国」を表しているのです。ダニエル自身のことばでそのことを見てみましょう。2章44節です。

この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることはなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。

この永遠の国こそ、主イエスが宣べ伝えた「神の国」なのです。

このダニエル書2章を踏まえたうえで今日のダニエル書7章を読むと、いろいろなことが見えてきます。7章はネブカデネザル王の時代ではなく、バビロニア帝国の最後の王であるベルシャツァルの時代の出来事です。今度は王ではなく、ダニエル本人が夢を見ます。そしてダニエルの見た夢は、明らかに先にネブカデネザル王が見た夢と深い関係があります。ネブカデネザルの見た夢では、バビロンから始まる四つの世界帝国はそれぞれ金・銀・銅・鉄で表されましたが、ダニエルの夢では四匹の獣として表わされています。第一の獣は翼を持つ獅子、ライオンでした。これは明らかにバビロニア帝国を表象しています。その獣には人間の心が与えられたと言われていますが、これはダニエル書4章の出来事、つまりネブカデネザル王が神によって試練を受けて、その結果神を畏れる心を与えられたことを指していると思われます。二匹目は熊です。この熊は何を指すのかについてはいろいろな意見がありますが、普通に考えればバビロンを倒して次の覇者となったキュロス王の率いるアケメネス朝ペルシアだということになるでしょう。ペルシアは中近東のみならず、東はインドとの国境まで、南はエジプトを征服し、ヨーロッパのマケドニア地方の一部まで支配するという、まさに空前絶後の大帝国でした。そしてその次の獣はひょうでした。ひょうは足の早い俊敏な動物ですので、あっという間に旧ペルシア帝国の領土を征服したアレクサンダー大王のことを指しているのかもしれません。つまり第三の獣はギリシアだということです。この獣には四つの頭があるということですが、これはディアドコイと呼ばれるアレクサンダー大王の後継者たちのことだと思われます。アレクサンダー大王は早死にし、帝国は分裂して王たちが互いに争う時代になりました。そして第四の獣ですが、これは他の獣とは違って圧倒的に強く、すべてを踏みつぶすと言われています。この第四の獣が何を指すのかいついても学者の間ではいろいろな意見がありますが、少なくともイエスの生きた紀元一世紀においては、この獣はローマ帝国を指すのだと多くのユダヤ人によって信じられていました。この第四の獣の時代に、神は永遠の王国を打ち立てるというのがダニエルの見た夢のメッセージだったのです。

実際、このダニエルの預言はイエスの時代のユダヤ人たちに大きな希望を与えました。というのも、イエスが十字架に架かってから約四十年後、ローマ帝国に支配されていたユダヤ人たちはローマに対して反乱を起こします。そして8年間も戦い続けた挙句、首都のエルサレムは破壊され、エルサレムにあった壮麗な神殿は跡形もなく壊され、ユダヤ民族は国を失ってしまいました。普通に考えれば、小さな植民地に過ぎないユダヤ民族が圧倒的な軍事力を持つローマと戦って勝てるはずがないのですが、しかしユダヤ人たちは勝てると信じて戦い続けたのです。彼らの自信は何の根拠のない自信だったのでしょうか?いえ、そうではありません。彼らは自分たちの勝利は聖書に予告されていると信じていたのです。そして彼らの根拠となったのが、このダニエル書の2章と7章の預言でした。

紀元一世紀のユダヤ人にヨセフスという人物がいます。彼は貴族の生まれで祭司であり、またローマとの戦争に加わった司令官でもあったのですが、実際にローマと戦ってみて、これは到底勝てる相手ではないということを思い知り、ローマに降って後のローマ皇帝となるウェスパシアヌスから取り立てれられ、ローマお抱えの歴史作家になった人です。彼は自分自身も従軍したこのユダヤ戦争についての歴史書を書き残していますが、そこにはなぜ同胞のユダヤ人たちがこの無謀な戦争にのめり込んでいったのか、その理由が書かれています。

しかし、他の何にも増して彼らを戦争へと駆り立てたのは、ある一つの曖昧な託宣だった。その託宣もまた、彼らの聖なる書に見いだされるものだった。それは、この時代に彼らの国から現れる者が世界の支配者になるだろうという趣旨の託宣だった。彼らはその人物が彼ら自身の民族に属する者だと理解し、そして多くの賢明な者たちがその解釈によって道を誤ってしまった。しかし、実際にその託宣が告げていたのは、ユダヤの地で皇帝であることを宣言したウェスパシアヌスの統治のことだったのだ。とは言うものの、人は自分の運命から逃れることはできない。たとえそれを予見していたとしても。それで、それらの凶兆のいくつかをユダヤ人たちは自分に都合の良いように解釈し、他のいくつかについては馬鹿にして取り合わなかった。彼らの国土と彼ら自身の破滅が、彼らに自分たちの愚かさを気づかせてくれるまでは。(「ユダヤ戦記」より引用)

ここでヨセフスが言っている、ユダヤ人の聖なる書、つまり聖書に書かれた「曖昧な託宣」とはダニエル書のことだと思われます。それは、ダニエルが幻で見た第四の帝国、つまり無敵のローマ帝国の時代に、石が巨像を打って粉々に破壊したように、一人の神に選ばれた人物が現れて永遠の王国を打ち立てるという預言のことです。ユダヤ人たちは、ローマを倒すために神がメシアと呼ばれる救世主を遣わし、自分たちを勝利に導いてくれると信じたのです。しかし、ユダヤ人のヨセフスは、なんとその石とはユダヤのメシアのことではなく、ユダヤを倒すためにローマから派遣されていたローマの将軍ウェスパシアヌスだと宣言したのです!それを聞いたウェスパシアヌスは大変喜び、ローマに抵抗したヨセフスの罪を赦して彼を従軍作家に取り立てたのでした。実際、ウェスパシアヌスは次のローマ皇帝になるのですが、彼の王国は永遠でも何でもなく、彼の王朝は僅か三代で途絶えてしまうのですが...

ともかくも、このダニエル書2章と7章はイエスの時代の多くのユダヤ人たちの愛読書であり、彼らはこの書を読んではローマ帝国を打ち倒して神の国を打ち立てることを夢見ていたのです。そして人々の中には、イエスこそこのローマを倒してくれるメシアではないか、と期待する人たちもいました。イエスが十字架刑で死んだ後、エマオへの道を歩いていた弟子たちは、「ナザレ人イエスのことです。[…]私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました」(ルカ24:19, 21)と語りましたが、イスラエルを贖うとはイスラエルをローマの支配から解放するという意味です。人々は、イエスがローマをやっつけてくれると期待していたのに、かえってローマの手で殺されてしまい、それでがっかりしていたのです。

しかし、彼らはダニエル書の預言を誤解していたのです。誤解といっても、ヨセフスの言うようにこれがローマの新しい皇帝の誕生の預言だった、ということではもちろんありません。むしろ、彼らはダニエル書に書かれた大事な一文を見落としていた、いやあえて読まないようにしていたのです。それが7章21節です。そこをお読みします。

私が見ていると、その角は、聖徒たちに戦いをいどんで、彼らに打ち勝った。

ダニエルは、神の民が第四の獣、すなわちローマと戦ってこれに勝つ、とは預言していないのです。むしろ反対に、「負ける」とはっきり書いてあるのです。ここだけではありません。25節にもはっきり書かれています。

彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。

聖徒たちは敗れ、獣の手にその命運を握られてしまうのです。しかし、その負けたはずの神の民は、天に上げられて、神の前に導かれ、そこで神から永遠の王国を授けられる、これがダニエルの預言の驚くべき内容なのです。獣に裁きを下すのは、人ではなく神です。神の民が戦争でローマに勝つのではなく、むしろ神のみがローマに裁きを下す、これがダニエルの「曖昧な託宣」なのです。そして神の民が永遠の王国、神の国を授けられる様子をダニエルは次のように記しています。13節からお読みします。

私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。

イエスは繰り返し、この幻が自らにおいて成就すると語りました。イエスは弟子たちに、あるいはイエスを滅ぼそうとする大祭司たちに、「あなたがたは人の子が雲に乗って来るのを見るだろう」と語られました。その意味は、しばしば誤解されるようにイエスが地上に再臨するのをもうすぐ見るだろうという意味ではなく、むしろ天上でイエスにすべての主権が授けられたこと、今やイエスが全世界の王とされたことを知るだろう、という意味なのです。

イエスは戦いで勝つことを通じてではなく、むしろ負けること、武器を取らずに戦わないことを通じて栄光を受けたのです。これが、まさに逆説的ですが勝利への道、神が示す十字架の道なのです。

そして大事なことは、このことはイエスの場合にのみ当てはまることではありません。イエスに従う人々にとっての勝利の道も、武器を取って戦うことではなく、むしろイエスにしたがって十字架を負うこと、敵を憎んで殺すのではなく、敵を理解しようと努め、敵を愛することなのです。そんなことをすれば敵から容赦なく殺されるだけではないか、殺される前に殺す、これが悪者に対峙する唯一の道ではないか、という人もいるでしょう。確かにそれもこの世の知恵としては正しいのです。しかし、神の知恵は人の目には愚かに見えても、むしろ敗北を受け入れるようにと私たちを諭すのです。このことをダニエル書以上にはっきりと指し示しているのが新約聖書の最後の書、ヨハネ黙示録です。とりわけその11章の「二人の証人」の幻です。しかし、今回の説教ではそこまでは触れません。

まとめになります。今日は預言者ダニエルが見た幻の意味を考えて参りました。確かにダニエルは、ローマ帝国の時代に神の国が到来すると預言しました。ですからイエスの時代の人々が、神の国の到来が差し迫っていると考えたこと自体は間違ってはいなかったのです。しかし、彼らが間違っていたのは、神の国がどのようにして来るのか、その道筋についての理解でした。彼らは暴力によって、戦争によって神の支配が実現すると考えてしまったのです。だから彼らは平和を唱えるイエスを敗北主義だと切って捨て、受け入れなかったのです。

しかし、そのような誤解はユダヤ人だけのものではありません。むしろイエスを信じているはずのキリスト教徒たちの方が、よほどイエスの教えを誤解するか、あるいは無視してきたのではないでしょうか。私たちはキリスト教の二千年の歴史を振り返って、このような悔い改めの心を持つべきではないでしょうか。宗教改革の後にドイツで起こった三十年戦争で、カトリックとプロテスタントの間での戦争のために何とドイツの人口の三分の一が死にました。福音の真理のためにはどれほどの犠牲が出ても仕方がなかったと言うべきなのでしょうか?いいえ、福音の真理のためなら、なおのこと戦うべきではなかったのです。この戦争に振り回される今日のような時代にあって、私たちは主イエスの教えに固く立つべきです。アドベントはそのような心持で歩みたいと願うものです。お祈りします。

平和の主よ。そのお名前を賛美します。今朝はダニエル書の預言を通じて神の国、永遠の王国がどのようにして到来するのかを学びました。私たちが戦争に明け暮れたキリスト教の歴史を心から反省し、福音の真理に生きることができるように強めてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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新しい契約エレミヤ31章23~34節 https://domei-nakahara.com/2024/12/01/%e6%96%b0%e3%81%97%e3%81%84%e5%a5%91%e7%b4%84%e3%82%a8%e3%83%ac%e3%83%9f%e3%83%a431%e7%ab%a023%ef%bd%9e34%e7%af%80/ Sun, 01 Dec 2024 04:12:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5986 "新しい契約
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みなさま、おはようございます。いよいよ本日から待降節、アドベントに入ります。アドベント期間中は、これまでのサムエル記からの講解説教からは離れ、アドベント、つまり主のご降誕を「待ち望む」というこの期間にふさわしいと思われる箇所からメッセージをさせていただきます。そして第一アドベントの今日はエレミヤ書からです。私が当教会に赴任して最初にさせていただいたのがエレミヤ書からの講解説教なので、久しぶりの同書からのメッセージとなります。

今日の箇所は、エレミヤ書の中でも最も希望にあふれた、前向きなメッセージを含む聖書箇所です。神とイスラエルとの特別な関係は、イスラエルの罪のゆえに壊れてしまいましたが、神はイスラエルと再び新しい契約を結ぶ、と約束しているからです。その新しい契約はイエス・キリストによって結ばれた、というのが私たちクリスチャンの信じるところです。ですからこの箇所はイエス・キリストの大切な働きを預言する、非常に重要なところなのです。

けれども、エレミヤ書においてはこのような明るい未来を展望する箇所は実は大変少ないのです。例外的とすら言えると思います。エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれていますが、エレミヤ書は確かに涙なしには読めないようなところがたくさんあります。そして、このエレミヤの苦難の預言者としての歩みは、そのまま主イエスの苦難の人生を先取りしたようなところがあります。そのような意味で、主イエスのご降誕を待ち望む時期にエレミヤ書を改めて読むことには大きな意味があると私は考えています。

では、なぜエレミヤはそんなに苦しい人生を歩まなければならなかったのでしょうか?それは、彼が人々の聞きたくない、人々を嫌な思いにさせるメッセージを語ったからです。エレミヤのメッセージは人々をイライラさせる、不愉快なメッセージだったのです。エレミヤがどんなことを語ったのか、私たち日本の歴史を振り返りながら考えてみましょう。私たち日本は、戦後は平和国家として歩んできましたが、戦前は戦争に次ぐ戦争、戦争に明け暮れる日々を送っていました。そんな時代に、人々が一番喜ぶニュースは「戦争に勝った!」というニュースでした。大国中国に勝った、ロシアに勝った、日本は今や世界の一等国だ、と人々は興奮したのです。いつしか日本は絶対負けないのだ、という根拠のない自信を人々は抱くようになりました。

しかし、そのような時代に「日本は必ず戦争に負ける」、「日本の国力の何倍もあるアメリカのような大国に勝てるはずがない。はやく降伏して命乞いしなさい」などと叫ぶ人がいたら、周囲の人たちは激怒したことでしょう。「非国民」と呼ばれて石を投げられたり、最悪の場合は命さえ危なくなったことでしょう。そして、エレミヤはまさにそのようなことをイスラエルの人々に語ったのです。そのような箇所を一つ読んでみましょう。エレミヤ書38章1節から4節です。これは、エルサレムがバビロン軍の大軍に包囲されて、籠城戦をしている時の話です。

さて、マタンの子シェファテヤと、パシュフルの子ゲダルヤと、シェレムヤの子ユカルと、マルキヤの子パシュフルは、すべての民にエレミヤが次のように告げていることばを聞いた。「主はこう仰せられる。『この町にとどまる者は、剣とききんと疫病で死ぬが、カルデヤ人のところに出て行く者は生きる。そのいのちは彼の分捕り物として彼のものとなり、彼は生きる。』主はこう仰せられる。『この町は、必ずバビロンの王の軍勢の手に渡される。彼はこれを攻め取る。』」そこで、首長たちは王に言った。「どうぞ、あの男を殺してください。彼はこのように、こんなことばをみなに語り、この町に残っている戦士や、民全体の士気をくじいているからです。あの男は、この民のために平安を求めず、かえってわざわいを求めているからです。」

このように、バビロンの猛攻に必死に耐えているイスラエルの人たちに対して、「お前たちは必ず負ける。無駄な抵抗は止めなさい。降伏すれば命だけは助かる」と叫ぶエレミヤは、裏切り者として人々からひどく嫌われました。この時エレミヤは捕まって、不衛生な牢屋に入れられて、死にかけています。

このバビロンに包囲されている時だけでなく、バビロンとの戦争が始まる前、平和な時ですら、エレミヤは盛んにバビロンに仕えろ、逆らってはならないと預言していました。ユダ王国の王様に対してですら、繰り返しそう語ってきたのです。その箇所を読んでみましょう。27章の8節から12節をお読みします。

バビロンの王ネブカデネザルに仕えず、またバビロンの王のくびきに首を差し出さない民や王国があれば、わたしはその民を剣と、ききんと、疫病で罰し ―主のみつげ― 彼らを彼の手で皆殺しにする。だから、あなたがたは、バビロンの王に仕えることはない、と言っているあなたがたの預言者、占い師、夢見る者、卜者(ぼくしゃ)、呪術者に聞くな。彼らは、あなたがたに偽りを預言しているからだ。それで、あなたがたは、あなたがたの土地から遠くに移され、わたしはあなたがたを追い散らして、あなたがたが滅びるようにする。しかし、バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える民を、わたしはその土地にいこわせる。 ―主の御告げ― こうして、その土地を耕し、その中に住む。』」ユダの王ゼデキヤにも、私はこのことばとおりに語って言った。「あなたがたはバビロンの王のくびきに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ。どうして、あなたとその民は、バビロンの王に仕えない国について主が語られたように、剣とききんと疫病で死んでよかろうか。」

このように、ユダ王国の王様に対してでさえ、その首をバビロンの王に差し出せ、と語ったのです。一度ならず、何度もです。しかし、自分たちは神に選ばれた特別な民族であり、バビロンは偶像を拝む神に背く国であると信じるイスラエル人にとって、エレミヤのいうことは到底受け入れがたいものでした。実際、過去の預言者たちも、ここまで露骨に外国に仕えろと叫んだ預言者はいませんでした。預言者イザヤは、大国エジプトに頼って彼らと同盟を結ぼうとするユダ王国の指導者たちを皮肉って、次のように言っています。

あなたがたは、こう言ったからだ。「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。たとい、にわかに水があふれ、超えて来ても、それは私たちには届かない。私たちは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから。」(イザヤ28:15)

イザヤは、繰り返しイスラエルの指導部に対し、大国に頼るな、どの国にも仕えるな、ただイスラエルの神にのみ仕えなさい、と語っていました。そのようなイザヤの言葉を覚えている人たちにとって、異教の神々を礼拝するバビロンに仕えろというエレミヤのメッセージは、異様なものとして聞こえたかもしれません。

人々の中には、バビロンに降伏しろ、仕えろとしつこく叫ぶエレミヤはバビロンのスパイなのではないかと疑う人までいました。その場面を読んでみましょう。37章の11節以降です。

カルデヤの軍勢がパロの軍勢の来るのを聞いてエルサレムから退却したとき、エレミヤは、ベニヤミンの地に行き、民の間で割り当ての地を決めるためにエルサレムから出て行った。彼がベニヤミンの門に来たとき、そこにハナヌヤの子シェレムヤの子イルイヤという名の当直の者がいて、「あなたはカルデヤ人のところへ落ちのびるのか」と言って預言者エレミヤを捕らえた。エレミヤは、「違う。私はカルデヤ人のところに落ちのびるのではない」と言ったが、イルイヤは聞かず、エレミヤを捕らえて、首長たちのところに連れて行った。

この場面は、エルサレムを包囲していたバビロン軍が、エジプトがユダ王国を助けにきたという知らせを聞いて、一旦退却したところです。エルサレムを出ようとするエレミヤのことを、退却するバビロン軍に合流しようとしていると思ったのでしょう。エレミヤが普段からエルサレムの人たちからどのように見られていたのかが分かろうというものです。つまり、エレミヤはバビロンに内通していて、エルサレムの人たちの士気を内側から無くさせようと画策していると思われたのです。

このように、エレミヤの苦難、同胞からのひどい仕打ちの原因の多くは、敵であるバビロンへの降伏を呼びかけたことによる反発だったことがわかります。

そして、こうした苦しい状況をなんとも思わないほどエレミヤは鋼のメンタルを持っていたわけではありません。それどころか、エレミヤは非常に感受性の強い人で、孤独に悩んでいました。エレミヤは故郷アナトテの人たちから命を狙われたこともあったので、親兄弟との関係は良くありませんでした。さらには結婚もしていなかったので、問題を一人で抱え込まなければならない状況にいました。エレミヤ書には、この預言者の内面の葛藤をつづった箇所が数多くあります。エレミヤの告白と呼ばれる箇所ですが、それらの箇所を二つ読んでみましょう。まず15章17節と18節です。

私は、戯れる者たちの集まりにすわったことも、こおどりして喜んだこともありません。私はあなたの御手によって、ひとりすわっていました。あなたが憤りで私を満たされたからです。なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は直らず、あなたは、私にとって、欺く者、当てにならない小川のようになられるのですか。

もう一か所お読みします。20章7節以降です。

主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。私は一日中、物笑いとなり、みなが私を嘲ります。「暴虐だ。暴虐だ」と叫ばなければなりません。私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです。私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。

このように、エレミヤは主のことを「当てにならない」とか、「私を欺いた」とまで言うほど精神的に追い込まれていました。そんな状況でも、なぜ彼は語り続けたのか。それは同胞の命を一人でも救いたかったからです。戦いで命を落としてはいけない。たとえ屈辱的であっても、敗北を受け入れて生きなさい、というのがエレミヤのメッセージでした。

しかし、これは大変勇気のいるメッセージです。人々は負けるぐらいなら、悪の力に屈服するぐらいなら、潔く死んだ方がよい、と考えてしまうものです。エレミヤの時代から、いきなり現代の問題に話題を変えてしまうのをお許しいただきたいのですが、朝日新聞の記者をしていた副島英樹さんという方は、現代は「殺すな」と言いにくい空気があると語っています。ウクライナ戦争について論じた彼の著者から引用させていただきます。

そうした中、「ウクライナが負けないように武器支援すべきだ」という「戦え一択」の主張が朝日新聞を含む日本の大手メディアでも当然のように流され、それが「ロシア憎し」の感情にとらわれた世論と共鳴し合う様相になった。憎きプーチンをたたくためなら、ウクライナ市民の多少の犠牲はやむを得ないという思考に陥ってはいないだろうか。「戦え一択」の思潮には疑問をぬぐいされない。(「ウクライナ戦争は問いかける」)

かつての日本人は、「これは正義の戦争だ」と信じ、「欲しがりません、勝つまでは」と犠牲をものともせずに戦い続け、300万人もの犠牲者を出しました。その経験から、もう武力、軍事力で問題を解決しない、勝つためには多少の犠牲が出ることはやむをえないという考え方は捨てることを誓ったはずです。しかし今の日本は急速に別の空気に覆われている気がします。そういう中で、エレミヤの「負けなさい。降伏しなさい」というメッセージは衝撃的です。しかし勝利よりも一人一人の命の方が大事だ、というのは青臭い理想論ではなく、非常に大事な主からのメッセージなのではないでしょうか。

主イエスも、エレミヤと同じような時代に生きていました。先週もお話ししましたが、ローマ帝国の植民地になってしまったユダヤの人々は、ローマの課す重税と、逆らう者への暴力に怒りをたぎらせて、暴動を繰り返し、ついには八年間に及ぶローマとの大戦争に突入してしまいました。その結果は夥しいほどの死者と、国を失うという悲劇でした。イエスは暴力による解決を求める人々を戒め、敵を愛する、つまり敵を理解して、暴力とは別の方法で事態を打開する道を示そうとしました。しかし、人々はイエスの示す平和の道を選ぼうとはしませんでした。そのことを主イエスは嘆かれました。ルカ福音書19章41節以降をお読みします。

エルサレムが近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」

主イエスが本当に神から遣わされた神の子であることを知り、彼の教えに聞き従っていれば、エルサレムは最悪の破局を免れることが出来たはずでした。しかし、エレミヤの教えを無視して破局に突き進んだイエスの時代から六百年前のエルサレムの人々のように、イエスの時代の人々も破局への道を選んでしまいました。

私たち日本人も、かつて80年ほどまえに破滅を経験しています。その記憶を忘れてはいけません。軍事に頼れば、さらに大きな軍事力によって滅ぼされます。そのような轍を二度と踏まないように、このアドベントの季節に私たちは改めてエレミヤのメッセージ、主イエスの平和のメッセージを聞くことを願うものです。

最後に、今日のテクストを見てみましょう。この箇所は、特にエレミヤの新しい契約の約束のところが有名ですが、しかし私が一番好きなのはそこではありません。私の愛唱聖句は26節です。そこをお読みします。

―ここで、私は目ざめて、見渡した。私の眠りはここちよかった。―

神から厳しいメッセージを託され、それを人々に伝えなければならなかったエレミヤはそのために人々から憎まれ、厳しい孤独な人生を送りました。眠れぬ夜も何度もあったことでしょう。そのエレミヤが、本当にここちよく眠ることが出来た夜がありました。その時、主はエレミヤに慰めのメッセージ、希望のメッセージを授け、その美しいヴィジョンをエレミヤに見せたのです。破局の先にある希望を垣間見て、エレミヤの心は満たされました。彼はぐっすりと、心から安心して眠ることができたのです。そのエレミヤの見たヴィジョンは、彼の時代から六百年後にお生まれになった主イエスによって成し遂げられました。主イエスは命をかけて、新しい契約を結ばれたのです。私たちはその新しい契約に招かれた人たちです。そのことを覚え、感謝し、私たちもまた、勇気を持って主イエスの掲げた平和への道を歩んで参りましょう。お祈りします。

エレミヤを召し、叱咤激励し、また慰められた神様、そのお名前を賛美します。今日は改めてエレミヤのメッセージを学びました。悪に勝つためには多少の犠牲も仕方がないという空気に支配されつつある今日において、エレミヤのメッセージは非常に大切な主の御心を語っています。私たちもエレミヤの、そして主イエスの教えに従って歩むことができるように、力をお与えください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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富の危険性ヤコブの手紙5章1~6節 https://domei-nakahara.com/2024/11/24/%e5%af%8c%e3%81%ae%e5%8d%b1%e9%99%ba%e6%80%a7%e3%83%a4%e3%82%b3%e3%83%96%e3%81%ae%e6%89%8b%e7%b4%995%e7%ab%a01%ef%bd%9e6%e7%af%80/ Sun, 24 Nov 2024 00:39:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5967 "富の危険性
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1.序論

みなさま、おはようございます。毎月月末は、サムエル記から離れて新約聖書のヤコブの手紙からメッセージをさせていただいております。そのヤコブの手紙も、終盤にさしかかって参りました。ヤコブの手紙ではとりわけ貧しさや富の問題がクローズアップされていますが、今日のみことばもまさにそのような内容になっています。

さて、私たち誰もが感じていることですが、ここ数年の物価の上昇は驚くべきものがあります。ずっとデフレでモノの値段は上がらない、あるいは下がるという状態に慣れてしまった私たちにとって、この物価上昇は大変きついものに感じられます。値段が上がっているものも、住宅のような一生に一度の買い物から日用品に至るまで、あらゆるモノの値段が上がっています。日本人の日々の食卓に欠かすことのできないお米は、感覚的には倍近くに値上がりしているようにすら思えますが、報道でも60%の上昇だということです。こういう時に、お金の心配がないお金持ちはいいなあ、と思うのが庶民の気持ちでしょう。しかし、今日のみことばでは、金持ちに対して非常に厳しい言葉が向けられています。読んでいると、財産を持つのは悪いことのようにすら思えてきてしまうのですが、しかしそういう単純な話でもありません。ヤコブは金持ちのどのような点を問題にしているのか、その背景をよく考えていく必要があります。

聖書を読むと、このヤコブ書に限らず神様は貧しい者の味方で、富んだ者には大変厳しいという印象を持たれるかもしれません。有名な話では、イエス様が神殿のお賽銭箱の前で、大金をポンと献金するお金持ちと、僅かな金額ながら全財産を献げた貧しいやもめをご覧になって、こう言われました。

まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費を全部投げ入れたからです。(マルコ12:43-44)

このように、主イエスはとりわけ貧しい人々の信仰心に目を留められ、称賛されました。また、ルカ福音書では、主イエスはご自身が貧しい人たちに福音を宣べ伝えている(ルカ7:22)と語り、特に福音宣教の対象として「貧しい人々」を名指ししています。さらには、マタイ福音書の「山上の垂訓」に対応するルカ福音書の「平地の説教」では、富んだ者と貧しい者がはっきりと対比されています。

貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。[…] しかし、あなたがた富む者は哀れです。慰めをすでに受けているから。いま食べ飽きているあなたがたは哀れです。やがて飢えるようになるから。(ルカ6:20-21, 24-25)

マタイ福音書では「心の貧しい者」となっていて、精神的な貧しさ、乏しさについて語っているように見えますが、ルカ福音書では明らかに経済的な貧しさ、貧困や飢えについて語っています。このように、主イエスの教えにははっきりと経済的な弱者への慰めと、経済的に富んだ者たちへの警告というメッセージが込められています。

しかし、聖書全体を見回すと、単純にお金持ちが非難されているわけではありません。むしろその反対に見えるような箇所もあります。例えば箴言10章15節には次のようなみことばがあります。

富む者の財産はその堅固な城。貧民の滅びは彼らの貧困。

このように、財産は自分を守ってくれる良いものなのだ、というような見方があります。また、いわゆる自己責任論、つまり貧困は自らの怠惰が招いたものなのだという見方もあります。有名な箇所ですが、同じく箴言6章6節以降をお読みします。

なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。蟻には首領もつかさも支配者もいないが、夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時には食糧を集める。なまけ者よ。いつまで寝ているのか。いつ目をさまして起きるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む。だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。

このように、聖書の中には私たちの貧困はだらしない生活を送ってきた私たち自身が招くものだ、というような見方も確かにあります。それも場合によっては真実でしょう。しかし、いくら頑張っても貧困から抜け出せないというような場合も確かにあるのです。そのような場合、貧困はその人のせいというより社会全体の問題、構造的な問題なのです。

そしてイエスが貧しい人たちを擁護し、富んだ人たちを糾弾したのは、個々人の生活態度についてというより、社会全体の歪んだ構造を非難していたと考えるべきです。というのも、イエスの時代の貧困者の多くは歪んだ社会の犠牲者だったからです。

イエスの時代に、人々から軽蔑されていた職業というか生き方は四つありました。「取税人」、「遊女」、「物乞い」、そして「強盗」です。それぞれ全然違う生き方のように見えますが、そこには共通点があります。それは、そうした生き方をしている人たちは好き好んでそういう生き方をしているのではなく、強いられて、あるいはやむを得ずにそういう生き方しか出来なかったということです。なぜならイエスの時代の人々の税金は大変重かったからです。日本の江戸時代には五公五民という言葉がありました。収穫の五割はお上に年貢として納めるということです。今で言うと税金50%です。五割も税金に取られたら、低所得の人は生きていけませんが、今の日本ではここまで税負担が重いのは高額所得者だけです。しかし江戸時代は貧しい農民も50%の税金を納めていました。大変な負担です。まさに「生かさず殺さず」という状態です。

しかし、イエスの時代の人々は江戸時代よりもさらに過酷な現実の中を生きていました。ユダヤ社会は逆累進課税、つまり貧しい人ほど税金が重く、お金持ちはほとんど税を納めずにますます肥え太っていくという社会だったからです。一般のユダヤ人は宗教税として収穫の2割から3割を大祭司たちに納めていましたが、他方でユダヤを植民地支配するローマ帝国にも2割から3割の税を納めていました。ですから二重課税で、ユダヤとローマに収穫の5割から6割を納めていました。税金が払えない場合は、ローマの取り立ては厳しいので借金をしてまでも税を納めますが、その借金が返済できないと担保の畑を取り上げられてしまいます。しかも、そうした貧しい農民から畑を取り上げてお金持ちになっていくのは宗教的なリーダー、大祭司たちでした。イエスの時代の大祭司は、ローマによって大地主から選ばれていたと言われているからです。ですから、なんとイエスの時代の大富豪とは宗教リーダーだったのです。

こうして畑をなくした農民は小作農となり、小作料を払わなければなりません。税に加えて小作料も、となると、なんと収穫の8割をもっていかれ、手もとに残るのはわずか二割です。日本の平均年収は四百万と言われていますが、それで考えると税で三百二十万円もっていかれて残りの八十万円で生活しろ、と言われるようなものです。でも、それでは生きてはいけないですよね。食うに困るとどうするか?今の時代の困窮した若者が闇バイトに堕ちていくように、当時のユダヤの若者は「強盗」になりました。強盗になるほどの元気のない人たちは「物乞い」になりました。他の人たちはローマに雇われて同胞のユダヤ人から税を取り立てる、嫌われ者の「取税人」になり、若い女性は自分の体を商品にする「遊女」になりました。このように、「取税人」、「遊女」、「物乞い」、そして「強盗」になる人たちは、追い詰められてそういう生き方しかできなくなってしまった人たちでした。イエスはそういう弱い立場にある人たちに寄り添い、そういう歪んだ社会を維持しようとしている金持ちたちを批判したのです。今日のヤコブの手紙も、そのような時代背景を踏まえたうえで読んでいきましょう。

2.本論

今日の聖書箇所は富の問題を扱っていますが、それは前回の箇所、特に4章13節から17節までも同じでした。そこでも、富を得ようとして商売に励む人のことが語られていました。しかし、前回の場合はヤコブが語りかけている相手は同じクリスチャンでした。主にある兄弟姉妹に対して、愛を持って諭すというような内容でした。それに対して、今回の箇所はヤコブは教会の外の人たちに向かって語りかけています。その激しい言葉は、社会的弱者を虐げる特定のグループの人たちに向けられています。その舌鋒は、社会に蔓延する不正を厳しく糾弾した預言者アモスの言葉を彷彿とさせます。アモスは、経済的繁栄の下で貧しい人たちが苦しめられている状況について、厳しい神の言葉を残した預言者です。そのアモスの言葉を一つ読んでみたいと思います。5章11節以降です。

あなたがたは貧しい者を踏みつけ、彼から小作料を取り立てている。それゆえあなたがたは、切り石の家々を建てても、その中に住めない。美しいぶどう畑を作っても、その酒を飲めない。私は、あなたがたのそむきの罪がいかに多く、あなたがたの罪がいかに重いかを知っている。あなたがたは正しい者をきらい、まいないを取り、門で貧しい者を押しのける。それゆえ、このようなときには、賢い者は沈黙を守る。それは時代が悪いからだ。

ここで「正しい者」となっていますがヘブライ語ではツァディク、つまり「義なる者」、義人となっています。貧しい人は義人だと言われているのですが、その義人を富んだ者たちが虐げているというのです。「義人」という言葉は、しばしば「義人はいない」、つまり人間は皆罪人なのだ、というような意味合いで使われますが、このように聖書はしばしば貧しい人たちのことを「義人」と呼んでいることに注意すべきです。そしてそれは今日のヤコブ書でも同じです。5章6節には、「あなたは正しい人を罪に定めて、殺しました」となっていますが、これは直訳すれば「あなたがたは義人を弾劾して、殺しました」となります。これは罪のない正しい人を冤罪に陥れて殺したというような話ではなく、もっと生々しい話、つまり凶作で小作農が払えない貧しい農民を、税を払わないと訴えて身ぐるみはがして生活を破壊する、というような話でしょう。つまり法律的には合法かもしれませんが、人間としては最低な振る舞いのことです。合法といっても、当時の慣習では、という話であり、神の律法に照らせば違法です。なぜならモーセの律法は同胞のユダヤ人に利子を取って貸しつけることを禁止しているからです。「金銭の利息であれ、食物の利息であれ、すべて利息をつけて貸すことのできるものの利息を、あなたの同胞から取ってはならない」という教えが申命記23章19節にあります。しかし当時のユダヤ社会ではいろいろ理屈をつけて利息を取らないという教えが空文化され、むしろ高利で貸して返せない場合は身ぐるみはがすというようなことが行われていたのです。そのような行動はバビロン捕囚後に行われていて、ネヘミヤはそれを厳しく叱責していますが、利子の禁止をユダヤ社会に徹底するのは非常に難しかったようです。

さて、最後の6節をまず取り上げましたが、最初に戻って1節から見て参りましょう。ヤコブは金持ちたちに「泣き叫べ」と厳しい警告を発しています。これは笑って満足している金持ちたちに、冷や水を浴びせるような言葉です。なぜ金持ちたちが泣かなければならないのか。それは、彼らの頼りにする大きな財産が、裁きの日には彼らに不利な証拠となる、不利な証言をすることになるからです。ヤコブはここで明らかに、私たちのこの世の人生を超えた、永遠の運命について語っています。ヘブル人への手紙には、「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(9:27)というみことばがありますが、ヤコブはそのことを言っています。この世で満ち足りで死んでいった金持ちたちは、それで終わりではありません。死んだ後に、私たちはどう生き方が問われるのです。その時には、地上で頼りにしていた金銀財宝は腐り、さび付き、虫に食われているというのです。あの世を待つまでもなく、この世においても財産は一瞬で失われることがあります。日本もこれから巨大地震が来ると言われていますが、その時に失われる富の巨大さは天文学的なものとなるでしょう。だから主イエスも天に宝を蓄えなさいと教えられました。その箇所をお読みします。マタイ6章19節以降です。

自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

このように、オレオレ詐欺に狙われてしまうようなこの世の富を蓄えるのではなく、天に蓄えなさいとイエスは教えます。では、どうすれば天に貯金することができるのか?それは、貧しい人たちにタダで与えことによってです。そうすれば、私たちは天に宝を積むことになりますし、その宝は詐欺被害で奪われることもありません。しかし、ヤコブが語りかける金持ちたちは、貧しい人たちに与えることをせずに、むしろ奪ってきました。正当な対価を払わずに彼らを安い賃金で働かせ、そのおかげで自分たちは金持ちになっているのです。しかし、こうした未払いの賃金もまた、終わりの日の審判に際しては、金持ちに不利な証拠となり、不利な証言をすることになります。この世ではうまく逃げきれたとしても、私たちの死後の魂さえ支配される神は、私たちに正当な裁きを下されるでしょう。

3.結論

まとめになります。今日のヤコブの手紙の内容は、貧しい人たちを虐げる金持ちについてであり、私たちには直接関係のない話のように思われたかもしれません。しかし、正当な賃金を払わないという話は現代にも大いに関係してくる話です。今日はグローバル社会だと言われています。世界中の国々が自由に結びつき、国境がなくなり、モノやカネが自由に行き来するようになりました。これは素晴らしいことだ、というようなことがよく言われます。しかし、問題も大きいのです。例えば私たちの日本では、最低の時給は千円ぐらいですよね。しかし、最低賃金が300円の国があり、しかもその国民はよく働く人たちだとします。企業の経営者としては、三分の一の賃金で働いてくれる人たちの方に仕事を回そうと考えます。しかし、そうなると日本での仕事は失われます。どんどん失われていきます。日本人は三倍も給料が高いのだから、三倍ぐらい価値のある仕事をしないといけない、そうでなければ仕事を失いますよ、というわけです。しかし、人間の能力は途上国の人も先進国の人もそんなに変わりません。同じくらいの資質・素質の人の三倍も価値のある仕事をしろと言われても、とても無理でしょう。たしかに、一部の特別優秀な人はそれくらい難なくできてしまうかもしれません。しかし、そんなことが出来る人はごく一部です。こうして、仕事を奪われた人はどんどん貧しくなり、モノが買えなくなります。企業としても、国民がどんどん貧しくなるので国内市場には見切りをつけて、海外で勝負しよう、海外で売ろうという話になります。そして海外市場で勝つためにますます安い労働力が必要になるので、ますます賃金の高い日本人は雇わなくなります。こうしてグローバル化が進めば進むほど、普通の日本人は貧しくなっていくのです。こういう現象が日本だけでなく、あらゆる先進国で起こっています。あれだけアメリカのマスメディアから激しく攻撃されたトランプ氏が大統領選で勝てたのも、こういう人たちの不満にこたえようとしているという期待を多くの人たちが抱いたからなのです。そうはいっても、グローバル経済のおかげで貧しかった国々にもチャンスが生まれ、貧しかった国々はどんどん豊かになっているではないか、という反論もあります。先進国の人の問題ばかりを見るべきではない、とも言われます。しかし、今の中国を見れば分かるように、たしかに国としては豊かになっても、その繁栄の下で苦しむ貧しい人たちもものすごい数になっています。グローバル経済に組み込まれた途上国では、むしろ富の偏在が進んでいるのです。最近の中国で凶悪事件が増えているのも、そういう経済格差の大きさゆえだということはしばしば指摘されることです。

私たちの生きる時代は、ヤコブの手紙が書かれた時代とは全く異なります。ただ、グローバル化が進んだ時代という意味では似ているところがあるようにも思います。当時はバラバラだった世界をローマ帝国が武力で統一し、自由なモノの往来を可能にする経済圏を作り上げました。しかし、その結果生じたのは富の偏在、超格差社会でした。今日ではローマ帝国ではなく、自由主義経済が世界を統合しようとしています。主役は軍隊ではなく大企業です。しかし、その結果さらに極端な富の偏在、格差社会が生じてしまいました。それをどうすればよいのか、クリスチャンとしてどんな社会を目指せばよいのか、というのは非常に大きな問題です。けれども、自分の利益を最大化するためなら何でも許されるというような価値観が聖書の価値観と対立するものであるのは間違いのないことです。私たちの信じる神は弱い者の側に立たれる神であるということを覚えつつ、これからも神の目指す社会とはどんなものなのか、聖書に学び、真剣に考えなければなりません。そのために祈り、考え、働いて参りましょう。お祈りします。

貧しい者、弱い者を愛し、彼らを助けられる神様、そのお名前を賛美します。私たちは今日、富の問題、格差の問題をいろいろな場面で考えさせられますが、神様の御心に沿う生き方を願っている者でもあります。どうか私たちに知恵と、行動する勇気をお与えください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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契約の箱第二サムエル6章1~23節 https://domei-nakahara.com/2024/11/17/%e5%a5%91%e7%b4%84%e3%81%ae%e7%ae%b1%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e3%82%b5%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%83%ab6%e7%ab%a01%ef%bd%9e23%e7%af%80/ Sun, 17 Nov 2024 00:00:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5957 "契約の箱
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1.序論

みなさま、おはようございます。第二サムエル記に入って、早いもので今回で6回目になります。前回はダビデがイスラエル全体の王となり、王都としてエルサレムを定めたことを学びました。福音派のクリスチャンの間ではエルサレムといえば未来永劫イスラエルの都だというようなイメージがありますが、それはむしろダビデの時代からだということに注意する必要があります。ダビデこそがエルサレムを奪取した王であるということです。今日は、エルサレムを首都と定めた後にダビデが行ったことを、かなり批判的にお話しします。ダビデが段々と主への信仰から離れて行ってしまうという視点からの話になります。

さて、ダビデの時代より数百年前、モーセの後継者であるヨシュアがカナンを征服したと言われていますが、その時以降もエルサレムは依然として外国人、つまりエブス人によって治められていたのです。それだけエルサレムは鉄壁の防御を誇る難攻不落の都市だったのです。ですから、ダビデがそのエルサレムを攻め落としたということは大変な偉業でした。ダビデが王になって初めて成し遂げたのがエルサレム攻略でしたから、ダビデは自分の王としての権威を高めるために、この偉業を大いに喧伝する必要がありました。そこでダビデがはじめに行ったのは、エルサレムに立派な新しい王宮を建てることでした。ダビデは王宮を伝統的なイスラエルの建物ではなく、当時の流行の最先端をゆく建物にしようとしました。そこで、富の象徴であるレバノン杉をふんだんにつかい、また外国のフェニキア人の大工や石工を招いて、フェニキア式の王宮を作りました。日本で言えば、伝統的な日本家屋ではなく、欧米風の洋館を建てた、という具合でしょうか。それをみたイスラエルの人たちも、ダビデと共に新しい時代が始まったと感じたことでしょう。

しかし、国を治めるための権威を示すためには、富を誇示するだけでは十分ではありません。イスラエルは宗教国家、契約の民であり、神のご加護がイスラエルにあることを示すことこそが、王たる者に求められました。ダビデは、この自分が勝ち取った新しい都エルサレムは神が選んだ都であるというイデオロギーを喧伝する必要があったのです。そこでダビデが目を付けたのが、忘れられていた聖なる箱でした。つまり、「契約の箱」です。そこには、あのモーセの十戒を刻んだ石板が納められていると言われていました。イスラエルにとって、十戒を刻んだ板ほど、神との特別な関係を示すうえで大きな意味を持つものは存在しないでしょう。それを治めた箱には、信仰と言ってよいほどのイスラエル人の絶大な尊崇が向けられていました。モーセも、その箱を通じて神と語らったと言われています。

けれども、その契約の箱は、実は当時のイスラエルでは厄介者扱いされていました。それはダビデが王になるよりも何十年以上も前のことですが、当時大祭司エリに率いられたイスラエルがペリシテ人と戦う時、契約の箱に備わっていると信じられていた神秘的な力を用いてペリシテ軍に打ち勝とうとしたイスラエル軍が、契約の箱を前線に運んできたことがありました。しかし、契約の箱にはイスラエル人が期待したご利益のようなものはなく、イスラエル軍はペリシテ軍に散々に打ちのめされた挙句、契約の箱まで奪われてしまいました。

契約の箱はただの箱だったのか、と落胆したイスラエル人も多かったでしょう。ところが、奪われた契約の箱は運び去られたペリシテ人の領内で恐るべき威力を発揮しました。なんと、契約の箱が置かれたペリシテ人の町では疫病が発生し、他の町に移してもそこでも疫病が発生するということで、困り果てたペリシテ人はのしを付けて契約の箱をイスラエルに返してきました。イスラエル人は、契約の箱がトロイの木馬のように敵陣に大損害を与えてくれたと大喜びでしたが、しかし戻ってきた契約の箱を見たイスラエル人がいたので神罰が下り、数多くのイスラエル人が死んでしまいました。つまり契約の箱はペリシテ人にもイスラエル人にも災厄を運んできたのです。人々はこの契約の箱を扱いかねました。ぞんざいに扱うわけにもいきませんが、かといって手もとに置いておくのも恐ろしい、ということで、キルヤテ・エアリムというあまり知られていない町に運んで、そこに二十年も放置していたのです。ダビデは、この忘れ去られていた聖なる箱のことを思い出し、それをエルサレムの権威付けのために用いようと考えました。そこで、契約の箱をエルサレムに運ぶための壮大なイベントを企画します。しかし、その行動には様々な問題が含まれていたのです。

2.本論

では、さっそくテクストを読んでいきましょう。ダビデは契約の箱が長年置かれている場所に赴いて行きました。実はその時、なんと手勢三万人も引き連れていったのです。戦争をするわけでもないのに、三万もの軍勢を引き連れるのは尋常なことではありません。それだけ、この神の箱をエルサレムに持ち運ぶというのは大変なことなのだ、重大事だと言うことを、ダビデは内外に知らしめようとしたのでしょう。それまで契約の箱は祭司のアビナダブが管理していましたが、今やその息子たちであるウザとアフヨがその任にあたっていました。契約の箱を運び出す時も、この二人の息子がその責任者になりました。

この契約の箱を中心に、三万もの大軍が行列を組んで行進するのです。ものすごく物々しいというか、壮観だったことでしょう。ただ、それは戦場に赴く軍隊の行進ではなく、むしろ戦の勝利を祝う凱旋パレードのような感じでした。今日でも、戦勝パレードなどでは吹奏楽団が威勢の良いマーチ音楽を演奏しながら大通りをパレードしますが、そんな感じだったと思われます。とはいえ、今から三千年前のことですから、今のブラスバンドとは全然違う音楽を奏でていました。楽器は、「立琴、琴、タンバリン、カスタネット、シンバル」とありますから、どんな音楽を奏でたのか興味津々ですが、残念ながら今日ではどのような音楽だったかは分かりません。三千年前の音楽というのはどんなものだったのか、とても興味をそそられますが、人類にとって音楽というものは今も昔も欠かせないものだったと言えるでしょう。ダビデも音楽の力を良く知っていて、この記念すべき出来事を祝うために音楽をフル活用したのです。

こうしてダビデは契約の箱を中心にイスラエルの町々を練り歩き、それを見守る人々もそれをワクワクして見ていたことでしょう。しかし、そのさなかに悲劇が起りました。契約の箱を運ぶ牛車が、牛がつまずいたために転倒しそうになり、契約の箱を守ろうとして手を伸ばした祭司のウザが神の怒りに触れて死んでしまったのです。まさに寝耳に水、衝撃的な事件でした。これで、お祭りモードはいっぺんに冷めてしまいました。この出来事の意味はいったい何なのでしょうか。ウザの行ったことは「不敬の罪」だとされていますが、しかしその場にいたらだれでも同じことをしたでしょう。いくら契約の箱といっても、ただの箱です。神様ではないのです。倒れそうになったら、誰かが支えるしかないでしょう。しかし、ウザはそのために死んでしまったのです。

これは私の個人的な理解ですが、これはウザの罪というより、ダビデの行動に対する神の怒りなのではないかと思います。ダビデが契約の箱を持ち出してきたのは、神への信仰心というより、この古の聖遺物を政治利用するためだったように思われるからです。すなわち、自分が新しく獲得したエルサレムの宗教的威信を高めるために、目に見えるシンボルが必要だったということです。しかしそれは、かつて祭司エリが戦争で勝つために契約の箱を戦場に運び入れて士気を高めようとしたのと同じ行動でした。こうした行動の背後には、神の力を自分の思い通りに使おうという人間側のたくらみ、思い上がりというものがあるように思います。ダビデは神に従う信仰の人、というイメージがありますが、王となった後のダビデは段々と主への信仰から離れて行きます。この出来事にも、ダビデの不信仰という問題が見え隠れしている気がします。神を都合よく利用しようという誘惑から、ダビデも逃れることができなかったように思います。神は誰にもコントロールなどされない、ということがこの契約の箱をめぐる一連の悲劇から学ぶべき教訓であるように、私には思えます。

このウザの死の悲報は直ちにダビデに伝えられました。ダビデは動揺しました。これまで契約の箱をめぐる様々なトラブルを聞いてはいましたが、もう大丈夫だろう、自分の治世においてはこうした不測の事態は起こらないだろうと思っていましたが、甘かった、とほぞをかんだことでしょう。ダビデはこの危険な箱が自分の新しい都に再び疫病などの災厄を招くことを恐れました。それで、箱をエルサレムに持ってくる計画を中止、断念しました。しかし、この箱をほおっておくわけにもいかないので、再び厄介払いすることにしました。こうして箱を押し付けられたのは、ガテ人だとされています。ガテというのはペリシテ人の都市です。そのペリシテ人の町から来たオベデ・エドムという人物がこの箱を預かることになりました。ダビデとしては、箱がさらに問題を起こしたとしても、ペリシテ人の関係者に対してならそれほど大きな問題にはならないだろうという政治的な打算がありました。しかし、契約の箱はここでも予想外の効果をもたらします。今度は災厄ではなく、祝福をこのオベデ・エドムの家にもたらしたのです。このように、ダビデの思惑とはことごとく反する効能を契約の箱は発揮します。ダビデも現金なもので、この契約の箱が祝福をもたらしているという噂を聞いて、この箱を再びエルサレムに運び入れることにしました。ここらへんからも、ダビデという人が結構ご都合主義なのではないかと思わされます。しかも、この間にダビデが主に祈ったとか、主の御心を伺ったという記事はありません。

そして、ダビデの不信仰を表す出来事がさらに続きます。ダビデは契約の箱をエルサレムに運び入れる途上で、祭司の装束である亜麻布のエポデを着て、牛をほふって神に献げました。しかし、この行動にも重大な問題が含まれています。ダビデはユダ族の出身であり、祭司になることが出来る家系であるレビ族出身ではありません。神の定めた秩序、神の律法によればダビデは決して祭司になれないし、祭司の仕事をすべきでもありませんでした。しかしダビデはこれを行いました。つまり、祭司職は王の絶対的な権限に含まれており、祭司たちは王に従わなければならないということを示そうとしたのです。ここでもダビデの増長ぶりがうかがえます。ダビデは契約の箱をエルサレムに運び入れてからも再びいけにえを献げ、さらには祭司のように民に対して祝祷を行いました。ここでも祭司の責務に対する越権行動があります。しかし、王はオールマイティーではないのです。祭司と王は補完し合いながら唯一の王である神に仕えるべき存在で、一方が他方の上に来るというような話ではないのです。しかしダビデは自分が王であるだけでなく、祭司たちの頂点に立つ教皇のような存在であることを示そうとしました。

さらにダビデは、裸になって契約の箱の前で踊り出しました。人々を盛り上げて、祝祭ムードをさらに高めようとしたのでしょう。民衆もダビデを見て喜び、お祭りムードは一層高まりました。しかしそれを冷ややかな目で見ている女性がいました。それがサウル王の娘で、最近前の夫から離縁させられダビデの妻となったミカルでした。彼女はダビデに対し、こう言いました。

イスラエルの王は、きょう、ほんとうに威厳がございましたね。ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、きょう、あなたは自分の家来のはしための目の前で裸におなりになって。

このミカルの言葉をダビデは侮辱と受け止めて、私こそサウルよりも神に選ばれた者なのだと言い返しました。このダビデの物言いは、ダビデの信仰心の表れだというように解釈されるのをしばしば聞きますが、私にはまったくそのようには思えません。むしろダビデはどこまでも自分勝手で、女性の気持ちを考えない男だな、と思います。ミカルの身になって考えて見てください。彼女はダビデの最初の妻、王女であり正妻です。しかも、父サウルを裏切ってまでダビデの命を救おうとしたこともありました。それが原因で、父サウルからダビデと無理やり離婚させられ、他の男に嫁がされました。彼女としては耐えがたかったでしょうが、しかし新しい夫は善い人で、ミカルを心から愛してくれました。こうして傷ついたミカルの心がようやく癒されて、新しい夫との充実した結婚生活を送っていたのに、再びダビデとアブネルの密談によってその夫との結婚も離縁させられました。こうして出戻りのようにダビデの家に戻ってくることになりましたが、そのダビデは自分が最初に結婚した初々しい若者とは似ても似つかない人物になっていました。昔のダビデは王女の自分を過ぎた嫁だと、下にも置かない扱いでしたが、出戻ったダビデにはもう美しい妻たちがたくさんいて、子どももたくさんいて、さらにダビデは美しい女と見れば次々に自分の妻として迎え入れます。ミカルの立場はすっかり弱いもの、自分はただサウルの娘なので、ダビデはサウルから正式に王位を受け継いだことのしるしとして、妻の一人に加えられたに過ぎないのだ、ということを思い知りました。王女としてのプライドはズタズタにされ、またこれまで何度も意に沿わぬ結婚・離婚を強いられた身としては、ダビデを恨みたくなっても当然でしょう。そして今回も、若い女たちの前でセックス・アピールをするかのように裸踊りをするダビデに皮肉の一言でも言いたくなるのは当然ではないでしょうか。そのようなミカルの気持ちを考えずに、まともに反論して怒りをあらわにするダビデは大人げない、男気のない人だと思わずにはおられません。最後に「サウルの娘ミカルには死ぬまで子どもがなかった」とありますが、ミカルは今後ダビデから無視され続け、飼い殺しにされたことを示唆しています。当時の女性は子どもが産めなければ価値がないと見なされた、そのような弱い存在でした。ミカルの肩身の狭い思いは想像に余るものがあります。ミカルという人からは、天下人織田信長の都合で翻弄されたお市の方様、あるいはその娘の淀君が思い起こされます。お市の方様は浅井長政に嫁ぎましたが、その夫は信長に滅ぼされ、次に嫁いだ柴田勝家は今度は秀吉に滅ぼされ、お市の方様は勝家と共に自害しました。母親を殺した秀吉の妻にならなければならなかった淀君の気持も想像を絶します。ミカルも、このように男たちの権力争いに翻弄された悲劇の女性でした。

3.結論

まとめになります。聞いていて驚かれたかもしれませんが、今日は王となった後のダビデの行動を非常に厳しく解説しました。今日はダビデが自らの王都エルサレムに契約の箱を運び込む話を学びました。しかし、この出来事は深い信仰心に基づくというよりも、ダビデの政治的打算に由来するものでした。「契約の箱」という神の力のシンボルをダビデは利用して自らの権威を高めようとしたのです。そうしたダビデの心を見透かすかのように、契約の箱のエルサレムへの搬入はトラブル続きでした。しかし、こうした失態を覆い隠そうとするかのように、ダビデはこの出来事を自分の権威付けに利用しました。ダビデは祭司だけがすべきことを勝手に自分で行い、まるで大祭司であるかのように振舞いました。さらには民への人気取りのためにした行動をミカルにたしなめられると、今度は逆切れしてミカルを完全に無視するようになりました。こういう一連の行動を見ると、今度のダビデ家の没落の予感があちらこちらに認められます。ダビデは確かに信仰の人でしたが、ひとたび大きな権力を手にすると、神を信じて従うよりも、神を自分の都合のために利用するようになっていったということです。

私たちは、今回のダビデの出来事に限らずサムエル記全体の「契約の箱」に関する様々なエピソードから大事な教訓を学ぶことができるでしょう。「契約の箱」は神の力のシンボルでした。イスラエルの人たちはこの箱を使って、神の力を引き出そうとしました。しかしそこに不敬虔があります。すなわち、神は私たちが思い通りにコントロールできる、自分の都合通りに動いてくれるようなお方ではないということです。イスラエルは契約の箱を使って神の力を使おうとして、ことごとく失敗しています。ダビデもその例外ではありませんでした。もちろん、私たちは神の力を必要としています。神に助けを求めて祈ることは良いことですし、大切なことです。しかし、神の力に頼ることと、神の力を利用しようとすることは似て非なるものです。私たちはどんな態度で神に向かっているのか、神に自分の思い通りに動いてもらおうなどと思っていないか、注意する必要があります。ご利益宗教の問題もそこにあります。献金を、神への感謝の気持ちとして献げるのか、あるいはお金を払って神に何かしてもらおうとして献げるのか、その違いは非常に大きいのです。

多くの宗教には、神の力を人間のために利用しようという動機があります。しかし、利用されるべきは神ではなく私たちなのです。私たちは神の主人なのではなく、しもべです。そのことを忘れると、宗教はまさに本末転倒、倒錯したものになってしまいます。そのことをダビデの生涯から学び、私たちは神の前にへりくだって歩みたいと願うものです。お祈りします。

天地万物を支配される神よ、そのお名前を賛美します。私たちはしばしば思いあがって、その神の力を自分の都合のために用いようとするようなこざかしい者であります。そうした傲慢から私たちを守り、謙虚に御前を歩ませてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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千年王国ヨハネ黙示録20章1~6節 https://domei-nakahara.com/2024/11/10/%e5%8d%83%e5%b9%b4%e7%8e%8b%e5%9b%bd%e3%83%a8%e3%83%8f%e3%83%8d%e9%bb%99%e7%a4%ba%e9%8c%b220%e7%ab%a01%ef%bd%9e6%e7%af%80/ Sun, 10 Nov 2024 04:41:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5941 "千年王国
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1.序論

みなさま、おはようございます。本日は召天者記念礼拝となります。そこで今日は、サムエル記の講解説教から離れて、特別な聖書箇所からメッセージをさせていただきます。すなわち、ヨハネ黙示録からのメッセージです。

ヨハネ黙示録というのは、聖書全体の最後に置かれた書ですが、難解なことで大変有名な書です。牧師さんの中では、黙示録はいろいろ分からないことが多すぎて誤解を生みやすいので、そこからメッセージはしないと決めている人すらいるようです。私自身も、まだヨハネ黙示録から連続講解説教をするほどの自信はないのですが、しかし重要な書だということは認識していますし、自分自身かなり研究してきた書でもあります。ではなぜ昇天者記念礼拝でそんな難しい黙示録を取り上げるのかといえば、それは今日の聖書箇所が先に天に召された先輩の信仰者たちの魂が今どうしているのかを語ってくれる、数少ない箇所の一つだからです。

意外に思われるかもしれませんが、聖書には人が死んだ後どうなるのか、ということについての記述はあまり多くありません。また、時代と共に、死者の魂の運命についての聖書の記述が変わっていっているのが分かります。聖書の最初の書、創世記では、人は死ぬと「よみ」というところに行くと言われています。創世記37章35節には、わが子ヨセフが死んでしまったと思った族長ヤコブが嘆き悲しむ場面が描かれています。

彼の息子、娘たちがみな、来て、父を慰めたが、彼は慰められるのを拒み、「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい」と言った。こうして父は、その子のために泣いた。

ここで「よみ」と訳されている言葉のヘブライ語はシェオールです。人は死ぬとシェオールと呼ばれる世界に行く、というのが創世記の世界観でした。では、シェオールとはいったいどんな世界なのでしょうか。そのことについて詩篇115編17節には、次のような記述があります。

死人は主をほめたたえることがない。沈黙に下る者もそうだ。

この記述が示すように、死者の世界であるシェオールとは沈黙、静寂の世界だという認識がありました。なんだかあまり希望のない話ですね。

しかし、神はその沈黙の世界にいる死者の霊すらもよみがえらせることができるという信仰が、預言者たちによって語られるようになりました。イザヤ書には次のような記述があります。26章の14節と19節を続けてお読みします。

死人は生き返りません。死者の霊はよみがえりません。それゆえ、あなたは彼らを罰して滅ぼし、彼らについてのすべての記憶を消し去られました。[…] あなたの死人は生き返り、私のなきがらはよみがえります。さめよ、喜び歌え。ちりに住む者よ。あなたの露は光の露。地は死者の霊を生き返らせます。

14節では、死者の霊はよみがえらないという常識的なことが語られますが、その後の19節では驚くべきことが語られます。神は死者の霊にすらも新しい命を与えることができるのだという信仰が語られているのです。このような信仰がさらに明確に表明されるのが、旧約聖書の中でも最後に完成された書、新約聖書のヨハネ黙示録に相当する書であるダニエル書です。12章2節にはこう書かれています。

地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。

神は善良な者たちには永遠のいのちを、悪い者たちには永遠の恥辱を与えるということが旧約聖書の最後の書であるダニエル書には明確に語られています。創世記の記述からは、大きな変化があるのが分かるでしょう。

このように旧約聖書を読んでいくと、時代が下って行く中で段々と明確な死後の魂の行方が浮かび上がってきます。すなわち、人の魂は死んだ後に沈黙と静寂の世界であるシェオールにいくと考えられてきたのが、神に従って歩んだ善良な死者の魂は神によって永遠のいのちを与えられるのだ、と信じられるようになったということです。そして、新約聖書の時代になると、そのような信仰はますます明確になっていきます。本日のヨハネ黙示録は、まさにそのような箇所なのです。では、そのテクストを詳しく見て参りましょう。

2.本論

さて、今日の説教は「千年王国」です。千年王国という言葉は聞いたことがない、という方もおられるかもしれません。そして聖書66巻の中でも、千年王国について書かれている箇所はこのヨハネの黙示録20章だけです。この箇所によれば、神は人間を惑わして悪に誘う霊的な存在であるサタンを千年の間縛ることになっています。また、イエスのために死んだ人たちは生き返って、イエスと共に千年間王になる、と言われています。つまり千年王国とは、サタンが縛られ、そしてキリストのために死んだ聖徒たちが千年間王として治める、そのような王国だということです。こう聞くと、非常に漠然としていますよね。本当にそんなことがあるのだろうか、と思われるかもしれません。

そして、この千年王国をめぐっては、いろいろな解釈があり、クリスチャンの間でも正反対ともいえるほどに多様な意見があります。この問題に取り組むためには、黙示録全体をしっかり理解しておく必要があるのですが、今日の短い説教ではとうてい黙示録全体のことをお話しすることはできません。ですから結論から申し上げることになります。千年王国については、大きく分けると二つの見方があります。

一つは、千年王国は未来に到来するという見方です。私たちの今生きている時代はサタンが暗躍する悪い時代であり、そのサタンの働きを滅ぼすためにイエス・キリストはいつの日か天から下ってきて、ハルマゲドンの戦いにおいてサタンと彼に従う悪の軍隊を滅ぼして、そののちエルサレムで地上に千年間の平和な王国を作ります。その時にこれまでのキリスト教の長い歴史の中で死んでいった殉教者たちは次々に復活してキリストと共に王として地上を治める、というものです。にわかに信じがたい話かもしれませんが、アメリカの福音派の中では大変人気のある見方で、テロとの戦いを主導したジョージ・ブッシュ・ジュニア大統領を応援していたアメリカの福音派の牧師たちは、こうした見方に基づいてアメリカのイスラエル政策を支持していたのです。このように、千年王国についての見方は超大国であるアメリカの政治を動かすほどの重要性を秘めているのです。また、古代教父の中でも殉教者ユスティノスやエイレナイオスはこのような千年王国の見方をしていました。

しかし、これは私の意見だということを断ったうえで断言しますが、このような見方は間違っています。もう一度言いますが、このような見方は間違っています。なぜなら、「千年王国」とはイエスが宣べ伝えた「神の国」と全く同じものだからです。イエスの宣べ伝えた神の国は未来にしか到来しないものでしょうか?いいえ、そんなことはあり得ません。イエスははっきりと、「時は満ち、神の国は近づいた」と言われました。イエスは神の国の到来はもうすぐだ、と言われたのに、それが二千年たってもこないということになると、イエスは嘘を言ったということになってしまいます。しかし、私にはそのようなことは信じられません。神の国は、イエスの宣教と共に始まっています。だからイエスは、「わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです」と言われたのです。イエスと共に神の国が始まっている一方、「千年王国」は未来にしか来ないというのなら、イエスの語った「神の国」と「千年王国」は別々の王国だということになります。しかし、そんなことはあり得ません。なぜならイエスが始めた神の国は永遠の王国であり、他の王国に取って代わられるものではないからです。イエスのもたらす神の国を預言した預言者ダニエルは、こう言っています。

この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。(ダニエル2:44)

このダニエルが預言した永遠の国こそ、主イエスが始められた「神の国」です。その神の国とは異なる千年王国が未来に現れるなどということはあり得ません。したがって、イエスの宣べ伝えた神の国、イエスと共に始まった神の国こそ永遠の王国であり、「千年王国」なのです。

このような見方は、私が勝手に言っている説ではありません。むしろ古代の最大の教父であるアウグスティヌス以来、キリスト教の正統な教理であり続けているのです。そこでこれからアウグスティヌスの説を紹介しながら、さらに「千年王国」についてお話ししていきます。アウグスティヌスは、私たちは既にキリストの支配する「千年王国」の時代を生きているのだ、と力強く論じています。そもそも「千年」という数字も文字通りのものではなく、完全数である10の三乗という、究極の完全数という象徴的なものなのです。アウグスティヌスは彼の主著『神の国』の中でこのことを明確に述べています。その『神の国』からアウグスティヌス自身の見解を引用します。

ヨハネは、この世の年数の全体の代わりに「千年」を用いたのである。それは、完全な数によって時の充満があらわされるためである。じっさい、千という数は十の立方体をくくるのだからである。[中略] まして、千という数は、十の平方が立方体であるとき、これが全体を表わすものとして用いられるであろう。(服部英次郎・藤本雄三訳『神の国』:以下同じ)

このように、アウグスティヌスは「千年」とはすべての時代、具体的にはキリストが最初に来られてから再び来られるまでの全時代を示すのだと断言しています。

ところで、一千年間、悪魔が拘禁されているのであるが、そのしばらくのあいだ、聖徒たちはキリストと共にこの一千年間支配する。それは、同じ意味において、そして、同じ時―すなわちキリストの最初の到来によって現実にはじまった時―を示すものとして解されるべきである。

アウグスティヌスは明確に、千年王国はキリストが二度目ではなく、最初に来られた時から始まっていると行っています。

では、黙示録に書かれている第一の復活とはいったい何のことなのでしょうか?キリストが最初に来られた時から千年王国が始まっているのであれば、キリストが最初に来られた時に第一の復活も起きているはずです。しかし、イエスの時代に復活したのはイエスただ一人であり、他の十二使徒たちやイエスの弟子たちが復活したなどという話は聞いたことがありません。第一の復活がまだ起こっていないなら、千年王国も始まっているはずがないではないか、という疑問が生まれるでしょう。

この問題について、アウグスティヌスは、第一の復活とは肉体の復活のことではないと説明します。神を信じない人たちは、神の目には霊的に死んでいるのです。そのような人たちが福音を聞いて、神を信じるようになる時に、霊的に死んでいた人は霊的によみがえるようになる、それが第一の復活です。アウグスティヌス自身はヨハネ福音書を引用しながら、こう解説しています

さらにイエスはつづけていわれる。「よくよくあなたがたにいっておく。死んだ人たちが神の子の声をきくときがくる。いますでに来ている。そして、きく人は生きるであろう。父がご自身のうちに生命をお持ちになっているのと同様に、子もまた、自分のうちに生命を持つことをゆるされたからである。」[ヨハネ福音書5:25-26] かれは、第二の復活、すなわち世の終わりにくるであろうところの身体の復活を語っておられるのではなく、いまおこる第一の復活について語っておられるのである。じつに、「ときがくる。いますでに来ている」といっておられるのは、それらを区別するためである。しかし、この復活は身体の復活ではなく、魂のそれである。というのは、魂も不信仰や罪においてそれ自身の死をもつからである。

ここで言われているように、第一の復活とは私たちが生きているときに、イエスの福音を信じたまさにその時に起きるのです。そして、福音を聞くことでよみがえった魂は、肉体が死んでも滅びることはありません。主イエスは、「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」(ヨハネ福音書11:25-26)と言われましたが、これは第一の復活の命のことなのです。したがって、確かにイエスがはじめに来られた時から第一の復活は起こっているのです。

しかし、なおも疑問を持たれる方もおられるでしょう。サタンが縛られたというのに、なぜこの世界には悪の力が強力に働いているのか?恐ろしい犯罪も、残忍な戦争も、イエスが来られた後も相変わらず起こっているではないか。どうしてこんな世界が「至福千年」、「ミレニアム」などと呼ぶことがきるのか、という疑問、反論が生まれます。やはり、天から戻られるイエスがサタンを滅ぼすまでは、千年王国など来ないはずだ、と考える人も多いのです。しかし、ではイエスが最初に来られた時に、イエスは本当にサタンに打ち勝ってはいないのでしょうか?いいえ、聖書ははっきりと、イエスが二度目に来られるときではなく、最初に来られた時にサタンの業を滅ぼしたのだと語っています。ヨハネの第一の手紙3章8節にはこうあります。「その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子は現れました。」神の御子イエス・キリストは悪魔のわざを打ち破るために地上に来られ、実際に打ち破ったのです。主イエスご自身が、そのことをはっきり証言しておられます。

主イエスは、その宣教活動の中で多くの悪霊を追い払いましたが、イエスを批判する人たちは、イエスは悪霊の頭、すなわちサタンの力を使って悪霊を追い払っているのだという、とんでもない中傷をする者が現れました。それに対して主イエスはこう言われました。

サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。家が内輪もめをしたら、家は立ちゆきません。サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まず強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。(マルコ3:24-26)

ここでイエスの言う「強い人」とはサタンのことであり、「強い人の家」とは、サタンの家、サタンに支配された世界のことです。そして、家財とはサタンに支配されている人、具体的には悪霊に取りつかれてしまった可哀そうな人のことです。主イエスはサタンに支配された人を奪い返すべく、悪霊払いをしています。しかし悪霊を追い出すためにはまず悪霊の親玉であるサタンを縛らなければなりません。ですから「強い人を縛り上げる」というのはイエスがサタンを縛り上げることです。まずサタンを縛ってから、彼の部下である悪霊たちを追い出すのです。イエスがもう悪霊を追い出していますから、その前にサタンのことを縛り上げているのです。したがって、イエスは二千年も前にサタンを縛り上げているのです。今日の黙示録の「千年の間サタンを縛る」ということは、もうお分かりのようにイエスが二千年前に来られてから再び来られるまでサタンを縛り上げているということなのです。

しかし、とても今の世界を見るとサタンが縛られているようには見えない、むしろいろんなところで暗躍しているのではないか、と感じられるかもしれません。ここで注意したいのは、サタンを縛るとは、サタンが何もできなくなってしまうということではありません。サタンを縛るというのは、サタンの人間に対する影響力をイエスが押しとどめてくれるということです。その結果、私たちは福音を受け入れることができるようになるのです。サタンの働きは、何も悪霊に取りつかれた人だけに及んでいるのではありません。むしろ、普通の人、何の異常もないように見える人もサタンの影響を受けて、その結果福音に目を閉ざしてしまうのです。パウロはコリント教会への手紙で、

その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。(第二コリント4:4)

と書いていますが、サタンの影響力にある人は福音が見えなくなってしまいます。しかし、イエスがサタンを縛った結果、多くの人が福音を受け入れられるようになりました。イエスの時代以降、キリスト教は爆発的に全世界に広まりましたが、それはイエスがサタンを縛っている、その影響力を制限しているからなのです。

このように千年王国とはイエスが二千年前に来られてから現在にまで続く私たちの世界そのものなのです。今の世界の支配者、王は、人々がそれを受け入れようと入れまいと、主イエス・キリストなのだ、というのが私たちの信仰です。そして、主にあって死んでいった私たちの兄弟姉妹、先輩の信徒たちは今天国でキリストと共にこの支配の一翼を担っておられるのです。先輩たちは天国で眠ったり、ご馳走ばかり食べているわけではなく、イエス様のお手伝いをしてこの世界にキリストの支配を広めようと日夜働いておられるのです。

3.結論

まとめになります。今日は「千年王国」について学びました。千年王国とは主イエスが宣べ伝えた神の国、神の王国そのものです。主イエスは二千年前の地上の宣教において神の王国、神の支配を始められました。その支配は今日まで続いており、私たちはその神の支配を全世界に広めるという使命が与えられています。しかし、地上にいる私たちだけでなく、先に天国に行かれた先輩の信者のみなさまも、今もイエスの王としての働きに参与して、一緒に働いておられるのです。ですから私たちは生きていても、死んだ後も基本的にやるべきことは一緒なのです。私たちは生きても死んでもキリストのために生き、働くのです。私たちはこれからも、先に天に行かれた先輩たちとともに、神の支配、キリストの平和な王国を広げるために働いて参りましょう。お祈りします。

使徒パウロは「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です」と語りました。主にあって生きる私たちも、主にあって死んでいった先輩方も、同じようにキリストのために働いています。どうか主よ、私たちがこの使命を最後まで果たして、先輩たちのひそみにならうことができるように力をお与えください。われらの主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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ダビデ、エルサレムを王都とする第二サムエル5章1~25節 https://domei-nakahara.com/2024/11/03/%e3%83%80%e3%83%93%e3%83%87%e3%80%81%e3%82%a8%e3%83%ab%e3%82%b5%e3%83%ac%e3%83%a0%e3%82%92%e7%8e%8b%e9%83%bd%e3%81%a8%e3%81%99%e3%82%8b%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e3%82%b5%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%83%ab5%e7%ab%a01/ Sun, 03 Nov 2024 04:21:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5927 "ダビデ、エルサレムを王都とする
第二サムエル5章1~25節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。サムエル記を読み進めて参りましたが、今日は一つの区切りとなる箇所です。これまでダビデは苦労に苦労を重ねながらイスラエルの王となることを目指してきたのですが、その目標がとうとう実現するというのが今日の場面です。さらには、ダビデが王となったということももちろん大事ですが、では王になったダビデが最初にしたことは何か、ということに注目したいと思います。

ダビデが王になった後に行ったことは、エルサレムを奪取したことでした。私たちは、イスラエルの首都はずっとエルサレムだと、当然のように考えていますが、決してそうではありません。むしろ、ヨシュアが約束の地を征服した後の士師の時代を通じて、数百年もの間エルサレムは外国人が住んでいた場所でした。その異邦人の都市をダビデが攻め落としてイスラエルの首都にしたのです。これは、よくよく考えるとなかなか意味深な行動です。なぜダビデは、長い間イスラエル人が住んできた馴染み深い都市ではなく、見ず知らずの外国人が住んできた都市を自分のための都にしようとしたのでしょうか?

日本の過去の歴史で考えてみると、日本の王になろうとする人は、それまで日本の中心だった場所、つまり京都を目指しますよね。そこには天皇がいるので、天皇を守護するという役割を引き受けることで日本の王、あるいは将軍になるのです。だから戦乱の世の武士たちは上洛することを目指したのです。しかし、上洛した後に京都に留まり続けると、そこには天皇と将軍という、二つの最高権力が併存することになります。将軍といえども、形式的には天皇の臣下ですから自由な行動が制限されます。そこで、より自由な国づくりを目指す場合は京都以外の場所を拠点にしようとします。そこで源頼朝は鎌倉に幕府を開き、徳川家康は江戸に幕府を開きました。戦国時代、江戸は開発の進んでいない遅れた土地でしたが、家康は自由な国づくりをするために、あえて未開の地を選んで開発していったのです。

ダビデの場合も、ユダ一部族の王から、イスラエル全体の王になったときに、それまで王都であったヘブロン、あるいは他の既存の大きなイスラエルの町を首都に定めてもよかったのに、まったく新しい土地、イスラエル人ではなく外国人が住んでいる都市を征服してそこを首都に定めようとしました。ダビデとしては、これまでの様々なしがらみを断ち切り、まったく新しい国づくりをしようとしたのでしょう。異国の地を王都にするのですから、すべてを一から作り上げる必要があります。それは大変な面もあったでしょうが、メリットも大きかったはずです。なにしろ、過去の伝統に囚われずにすべてを自分の思い通りに進められるのですから。エルサレムが「イスラエルの町」や「アブラハムの町」ではなく、「ダビデの町」と呼ばれたのは、その都にダビデの意向が強く反映していたからでした。

では、なぜダビデは様々な選択肢の中からエルサレムを王都に選んだのでしょうか?その理由はとても分かりやすいと思います。それは、エルサレムが天然の要害だったということです。高台に位置した、守りに強い都市でした。有能な武人だったダビデらしい選択だったといえるでしょう。実際、エルサレムは難攻不落の都市でした。イスラエルの長い歴史の中で、エルサレムは二度攻め落とされています。バビロンとローマによって攻略されたのですが、この二つの国は当時世界最強の軍隊を誇る帝国でした。しかし、その彼らにとってもエルサレム攻略は大変な難事業で、数年間にも及ぶ包囲戦の末に、やっとのことで攻略することができたのです。ダビデの慧眼通り、エルサレムは防衛には最適な都だったのです。実際、ダビデ王朝はその後400年もの間エルサレムに王都を置き続けることになります。400年というのは徳川幕府よりずっと長い期間です。古代の中近東のように、栄枯盛衰が激しい土地の中で400年もの間王朝が続くというのはなかなかないことです。北イスラエル王国など、約200年の間に10の王朝が乱立したほどです。ダビデ王朝がそれほど長く続いたのも、エルサレムという非常に堅牢な要塞都市が都だったからなのです。今日は、そのエルサレム奪取の顛末を中心に、ダビデの王としての活躍を見て参りましょう。

2.本論

では、1節から読んで参りましょう。これまでダビデはユダ一部族だけの王でしたが、残りの11部族もダビデに王になってほしいと願うようになりました。それは、これまでイスラエルを治めていたサウル王家が実質的に途絶えてしまったからでした。サウル王、その王子であるヨナタン、サウル家最強の武将であるアブネル、また二代目の王であるイシュ・ボシェテはみな死んでしまいました。もうイスラエルの人々は祖国防衛のためにサウル家に頼ることはできないのです。しかし、隣国のペリシテ人は隙あらばいつでもイスラエルを襲おうとしています。

そこでイスラエルの全部族はダビデに次の王になって欲しいと願いました。これは、まさにダビデが待ち望んでいたことでした。ダビデの目標は初めから全イスラエルの王となることでしたが、彼は内戦だけはなんとしても避けようとしてきました。イスラエルは強大なペリシテ人の脅威にさらされていますので、内輪で争っている余裕はないのです。ですからダビデはサウル家と正面切って争うことはせずに、時期をじっと待っていました。そしてついにその時が来たのです。こちらから王になろうとするのではなく、向こうから王になってくれと頼んできたのですから。

イスラエルの人々は、サウルが王にいた時でさえ、イスラエルを動かしていたのはあなただ、とダビデに言います。これはお世辞ではないでしょう。最初の頃はサウルにとって、ダビデはなくてはならない人材、自分のために戦ってくれる心強い存在でした。ただ、その存在があまりにも大きくなりすぎたために自分の地位が脅かされると感じてダビデの命を狙おうとしたわけですが、それだけダビデの存在感が巨大だったからでした。さらにはイスラエルの長老たちは、主がダビデを王に選んだのだと言いました。神がダビデを選んだことは、当初こそ主の命令でダビデに油を注いだ預言者サムエルと、ダビデだけの秘密でしたが、人の口に戸は立てられぬということでしょうか、今やそのことはイスラエル中が知る所となっていたのです。

それから、ダビデはイスラエルの全長老と「契約」を結んだ、とあります。ユダ族がダビデを王としたときには、「契約」を結んだ、という記述はありませんでしたので、これは注目すべきことです。しかも、ここでの「契約」の目的は、ダビデの王権に制限をかけるためのものだったと思われます。立憲君主制の国であるイギリスは、マグナカルタなどの法律で王様の権限を制限してきましたが、ここでイスラエルの長老たちとダビデが結んだ契約も、ダビデに無制限の権限を与えないためのブレーキとしての意味合いがあったものと思われます。今日でも、ユダヤ人の大富豪は結婚する当日に、離婚した場合の財産分与などの権利関係についての詳細を定めた「契約」を結ぶと言われていますが、イスラエルの長老たちも、ダビデが暴走した場合はユダ族以外のイスラエルの諸部族はあなたを王とは認めない、という趣旨の契約を交わしたものと思われます。実際、ダビデの孫であるレハブアムが暴走した時、イスラエルの十部族はこの契約を発動して、彼の統治を否定して北イスラエル王国を築きました。無制限にダビデ家に忠誠を誓うユダ族と、他の部族との違いがここに表れています。ダビデはこの時37歳でした。ユダ族の王として7年務めた後、全イスラエルの王となったのです。まずは小さな範囲で王としての実績を積んで、それから多くの部族を束ねる王となるという、ある意味で理想的なキャリアと言えます。

全イスラエルの王となったダビデは自分のために都を定めたいと願いましたが、しかしダビデが最初に行ったのはエルサレム攻略ではないと思われます。なぜなら、エルサレムを攻めている時に背後からペリシテ人に攻められると挟み撃ちなり、全滅しかねないからです。ですから、まず後顧の憂いを絶つためにペリシテ人を討つ必要がありました。5章では、エルサレムを攻めた後にペリシテ人と戦ったことになっていますが、実際は17節以降のペリシテ人との戦いが最初で、その後にエルサレムを攻めたものと思われます。5章では出来事の順番がひっくり返っているということです。

そして、首尾よくペリシテ人に打ち勝ち、彼らの侵攻の心配がなくなった後にダビデはエルサレムを攻めて自分のための都にしようとします。エルサレムは難攻不落の都市で、過去の長い間、イスラエル人にとっては誰も攻略できなかった都市です。その不可能とも思える事業にダビデは果敢に挑みます。ダビデは、放浪時代から自分に従ってきた精鋭たちを引き連れてエルサレムに向かいました。ダビデには秘策がありました。おそらくダビデは事前にスパイを送り込んで、エルサレムの弱点を探っていたのでしょう。エルサレム唯一の弱点、アキレス腱を見つけ出していました。エルサレムは乾燥した地にあり、しかも高台なので、水の確保がなによりも死活問題でした。そのためエルサレムには、現地の人しか知らない水汲み用の地下トンネルがありました。ダビデはそこの防備が手薄であることを知り、そこに勝機を見いだしたのです。その地下トンネルに精鋭部隊を潜り込ませ、油断しているエブス人のいるエルサレム市外に突入したのです。

8節にはダビデが目の見えない者、足のなえた者を憎んだ、とありますが、これはダビデが障害を持った人を差別したとか、もちろんそんな意味ではありません。むしろ6節でのエブス人たちの心ないヤジ、つまりダビデたちの軍隊など目の見えない者、足のなえた者でも追い返せるというヤジへの返答として読めるということです。お前たちエブス人は目の見えない者、足のなえた者であり、お前たちエブス人をダビデは憎むという意味でしょう。ともかくも、ダビデは地下水路を通っての奇襲作戦を成功させ、見事にエルサレム攻略を成功させました。ダビデはエルサレムを攻め取った後、内側に城壁を建てました。また、自分たちが奇襲に用いた水路の防衛もしっかりと行ったことでしょう。こうして、ただでさえ堅固なエルサレムの防備はより一層強力なものとなりました。

そのダビデのもとに、ツロの王ヒラムがやってきました。ツロとは、今日のレバノンに位置するティルスのことで、レバノン杉で有名な、大変豊かな交易都市でした。ツロの住民はフェニキア人と呼ばれる、貿易が得意な民族です。その王であるヒラムがダビデの元に同盟を申し込みにやってきました。彼らは商人国家なので、ダビデが新しく王都を定めたことで、様々なビジネスチャンスがあると思ってやってきたのでしょう。実際、ダビデは王宮などたくさんの建物を建てる必要があったので、富と繁栄のシンボルであるレバノン杉を供給してくれるツロの王や商人たちは願ってもない来訪者でした。彼らは資材を提供するだけでなく、大工や石工を送り込んで、ダビデのために王宮を建てて上げました。彼らは後に、ソロモン王の時代にあの有名なソロモン神殿も建てることになります。ダビデはこうして、異国風の非常に立派な王宮に住むことになります。

さらにダビデは、ますます多くの妻やそばめを抱えます。これまでも、5人の妻を持ち、さらにはサウル家からミカルを取り戻していたので6人の妻を持っていたダビデですが、さらに多くの妻たちを迎えました。ダビデという人物は美人には目がない人だったようで、次々と美しい女性を見つけては妻にしていきます。たくさんの妻を持ったことで、王宮に加えて大きな後宮も必要になったことでしょう。おそらくツロの人々がここでも大活躍したものと思われます。しかし、多くの妻とその子供たちがいたために、ダビデの家には大きな争いの種が蒔かれていきます...

このように、ダビデは王都を構え、そこに王宮を作り、また妻たちのための大きな後宮を作っていきました。ただ、心配なのは段々ダビデが神への信仰から離れていってしまうように見えることです。17節以降のペリシテ人との戦いに際しては、ダビデは戦いに行く前には常に主にお伺いを立てました。そして主の言葉を聞いてからそれに従って戦いに赴き、そして勝利を収めています。しかし、ペリシテ人の脅威が去って、いよいよダビデが自分の思う通りの国づくりをしようとする段になると、ダビデはもはや行動の度に神にお伺いを立てることがなくなってしまいました。外国の都市であったエルサレムの攻略、異国人のフェニキア人のヒラム王との取引と異国風の立派な王宮の建設、さらにはますます多くの妻を迎えること、こういうことについてダビデは神にお伺いを立てることなく、自分の思いのままに行動しているように見えます。やることなすことうまくいくので、段々と神に頼らずに自分の考えや野心に突き動かされて行動をするようになったということです。しかし、それはダビデにとって非常に危険なことでした。問題はすぐには出てくることはなく、しばらくの間は万事うまくいっているように見えるのですが、段々とそうではなくなっていくということです。

3.結論

まとめになります。今日は、全イスラエルの王になったダビデが、自らのための王都としてエルサレムを選んでそこを攻め取り、そこに立派な王宮や後宮を建てたことなどを見て参りました。ダビデとしては、まさにこの世の春が訪れたという気持ちだったことでしょう。しかし、そういう調子のよい時こそより謙虚になる必要があることも確かです。私たちの成功は、もちろん私たち自身が努力しなければ成し得ないものではありますが、その背後には神様の様々な配慮、私たちの気が付かないところで神が色々な形で助けてくださっているからこそ成し遂げられたものなのです。そういう感謝の気持ちを忘れてしまうと、そこに大きな落とし穴が生まれます。実るほど頭が下がる稲穂かな、ということわざがありますが、私たちはうまくいっている時こそ、主の前にへりくだって感謝をして歩むようにしたいものです。

また、エルサレムがはじめからイスラエル人のための都ではなかったということも注意したいと思います。エルサレムはアブラハム、イサク、ヤコブの都ではなく、武人であるダビデが攻め取った要塞都市です。そしてエルサレムは平和の都という名前とはうらはらに、戦乱の続く都であり続けました。それは今日まで続いています。どうすればパレスチナの地に、そしてエルサレムに平和が訪れるのか、というのは今や全世界にとっての重要な課題です。エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教という三大宗教の信者だけでなく、すべての人のための都だからです。その平和のために、私たちは自分たちの思いや願いではなく、主の御心を求めるということが何よりも大切です。そして私たちの主イエスは、エルサレムの平和のために涙を流された方です。その思いを私たちの思いとし、平和のために祈り、行動して参りたいと思います。お祈りします。

平和の主であるイエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今日は、エルサレムがどのようにしてイスラエルの首都となったのかを学びました。ダビデ以来、戦禍の絶えることがないエルサレムですが、その上に平和が訪れますように。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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イエスとヤコブヤコブの手紙4章11~17節 https://domei-nakahara.com/2024/10/27/%e3%82%a4%e3%82%a8%e3%82%b9%e3%81%a8%e3%83%a4%e3%82%b3%e3%83%96%e3%83%a4%e3%82%b3%e3%83%96%e3%81%ae%e6%89%8b%e7%b4%994%e7%ab%a011%ef%bd%9e17%e7%af%80/ Sun, 27 Oct 2024 03:17:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5914 "イエスとヤコブ
ヤコブの手紙4章11~17節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。毎月の月末はヤコブの手紙からメッセージさせていただいております。今日の説教タイトルは「イエスとヤコブ」ですが、このタイトルからお察しのとおりに、今日のヤコブ書のみことばは主イエス・キリストの教えと非常に強いつながりがあります。

ヤコブの手紙の著者はイエスの実の弟のヤコブだと、伝統的には言われてきました。十二使徒の一人、ゼべタイの子ヤコブではなく、主イエスの兄弟、義人ヤコブです。もっとも、ヤコブ本人がギリシア語で書簡を書くことはできなかったと思われます。イエスの時代の人々の識字率は、大都市でも10%にもならなかったと言われています。ガリラヤの小さな村出身のイエスの兄弟たちは、自分たちの話ことばであるアラム語ならまだしも、外国語のギリシア語の読み書きは出来なかったでしょう。私たち義務教育で英語を習っている日本人でも、流ちょうな英語で手紙を書くのは相当に難しいのですから、イエスの時代の義務教育も何も受けていないユダヤ人が外国語で書簡を書くというのはとてつもなく困難なことでした。しかも、古代ギリシア語は、現代の英語よりも文法的にはるかに複雑で難しい言語です。パウロの場合は、もともと外国生まれでしかも非常に高度な教育を受けていたのでギリシア語で手紙が書けたのですが、彼のような人は例外中の例外です。ですからヤコブの手紙は、ヤコブに近い人物でギリシア語に堪能な人が、ヤコブの教えをギリシア語に翻訳した上で記したものではないかと推定されます。ともかくも、ヤコブの手紙はイエスに非常に近い人物の思想が色濃く反映した書簡だということです。

今日の箇所も、イエスの教えと非常に近い内容です。とはいえ、ヤコブは初めから兄イエスをイスラエルのメシアとして信じていたわけではありませんでした。むしろヤコブ自身は、兄であるイエスがメシアだとは初めはなかなか信じられなかったようです。マルコ福音書3章21節にはこうあります。

イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ」と言う人たちがいたからである。

ヤコブとしては、父ヨセフが亡くなった後の一家の大黒柱だった兄のイエスが、いくら神様の御用のためとはいえ、いわば家を見捨てる形で旅立ってしまったことがなかなか受け入れられなかったのでしょう。しかし、そのヤコブも復活した兄イエスを目撃することで、兄イエスへの認識を改めました。使徒パウロはこう記しています。

また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。(第一コリント15:4-7)

復活したキリストは十二使徒すべての前に現れ、それから五百人以上の兄弟たちの前に現れました。その後にパウロは「ヤコブに現れ」と、わざわざヤコブについて特別に言及しています。それはヤコブが初代教会にとって非常に重要な人物だったからです。主の兄弟ヤコブは、復活前には兄イエスがメシアだとは信じていませんでしたが、復活したイエスに出会ってからは一変し、イエスを信じる群れに加わりそのリーダーになりました。

復活のイエスを目撃してから百八十度生き方が変わったという意味では、主の兄弟ヤコブは異邦人の使徒であるパウロとよく似ています。パウロは教会の迫害者でしたが、復活の主を目撃した後は、最も熱心な伝道者の一人になりました。主の兄弟ヤコブも、以前は兄イエスが気が狂ったとまで考えていたのに、今やその兄こそ約束のメシアだと信じるようになったのです。それどころか、ヤコブはあの十二使徒ペテロをさえ上回る権威を持つ初代教会全体のリーダーになりました。あの誇り高いパウロさえ一目置く存在となったのです。これほどの劇的な方向転換をヤコブにもたらしたのは、復活したイエスを目撃するという体験でした。イエスの復活などない、死んだ人がよみがえるなどということはあり得ないと考える人は、パウロとヤコブの劇的な変化をもたらしたものは何だったのかを真剣に考える必要があるでしょう。いくら現代人には信じがたくとも、彼らの劇的な変化はイエスの復活を目撃したからではないのかということを、真剣に考えてみるのは大いに意味のあることでしょう。

ともかくも、ヤコブは今や初代教会のリーダーとなりました。そして、血は争えないというべきか、彼の教えは兄イエスと非常に近いものでした。ヤコブの手紙には、他の書簡、たとえばパウロの手紙にはない特徴、つまり分かりやすく簡潔な内容ながら、人の心を打つ権威がありますが、それはまさにイエスの教えと通じるものです。今日はヤコブの教えをイエスの教えと並べながら考えていきたいと思います。

2.本論

それでは11節から読んで参りましょう。

兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪行を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪行を言い、律法をさばいているのです。

このヤコブの言葉は、イエスの教えを思い起こさせます。山上の垂訓には似たような教えがあります。そこをお読みします。

しかし、あなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の上に置いたままにし、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。(マタイ5:22-24)

このイエスの有名な教えは、しばしば誤解されてしまうことがあります。それは、イエス様は私たちがちょっとでも兄弟姉妹に腹を立てたり、あるいは悪口を言えば、それだけで地獄に落ちるよ、と警告しているのだというような誤解です。しかし、兄弟に腹を立てたことがない人なんていないですよね。そうなると、人類全部が地獄に落ちるという話になってしまいますが、イエス様はそんなむごいことを言いたいわけではないのです。

むしろ、この教えのポイントは後半部分にあります。それは手遅れにならないうちに、一刻も早く和解しなさいということです。それがイエスの教えの要点なのです。人が怒ったままでいる、怒りを貯めたままでいると、恐ろしい事態になりかねません。人類最初の殺人事件は兄弟殺し、兄カインによる弟アベルの殺害でした。カインは弟アベルの方が神に愛されていると嫉妬し、逆恨みしてアベルを殺してしまいました。カインは神様から怒りを鎮めなさいと忠告されましたが、それをせずにむしろ怒りを膨らませてしまい、凶行に及びました。この場合、もちろんカインの方が悪いのですが、アベルの側にも不注意な行動があったのかもしれません。聖書には書かれていませんが、もしかするとアベルはカインの気に障るようなこと、イラっとさせることを気づかないうちにやってしまっていたのかもしれません。喧嘩というのは、両方の側に多かれ少なかれ原因があります。自分だけが正しい、相手だけが悪いと考えてしまうと、仲直りをするのが難しくなり、ひたすら相手を裁き合うという事態になりかねません。ですから、喧嘩になりそうなときは、相手だけではなく自分の問題も冷静に見つめる必要があるのです。

似たようなことは族長ヤコブの息子ヨセフにも言えます。ヨセフは、父親から偏愛されていたために兄たちから恨まれ半殺しの目に遭いました。もちろんヨセフが悪いわけではないものの、彼の態度にも兄たちをイラっとさせるような無神経なところがあったのも否定できないでしょう。父からもらった上着を兄たちの前で無邪気に喜んで着たりしましたが、そのような贈り物を父からもらっていない兄たちがそれをどう思うか、少し考えれば分かるようなものです。そういう小さなわだかまりが積もり積もると爆発してしまうのです。そのような恐ろしいことになる前に、たとえ小さなことであっても兄弟姉妹の間のわだかまりはすぐに取り除いたほうがよい、それがイエス様の教えのポイントです。気が付いた時に、すぐに仲直りのための行動を取りなさい、それが手遅れにならないうちに、ということです。

イエスは大胆にも、神様のための礼拝があったとしても、それよりも和解の方を優先しなさいとおっしゃっています。神様への供え物を途中で祭壇の上に置いたままにしてでも、和解のために行けというのです。そんなのは神様に失礼ではないか、と考える方もおられるでしょうが、その神様ご自身が私たちに何よりも仲直りを優先するようにと勧めてくださっているのです。これは本当にありがたいことです。神様は私たちがお互いに仲良く過ごすことを、ご自身への礼拝よりも大切に思ってくださっているのです。

ヤコブも同じことを言っています。兄弟姉妹と仲良くしなさい、兄弟姉妹とのむつまじい関係を壊すような悪口を言い合うことは避けなさい、と言っているのです。ヤコブは、悪口をいう人は律法を裁いているのだ、といいます。律法をさばくとは、つまり律法を否定している、律法を拒絶しているということです。実際、律法は悪口をいいふらすことを厳しく戒めています。レビ記19章16節以降にはこうあります。

人びとの間を歩き回って、人を中傷してはならない。あなたの隣人の血を流そうとしてはならない。わたしは主である。心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。

「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という教えはイエスが最も大切な黄金律として教えられたものですが、そのすぐ前に隣人の悪口を言ってはならないと書かれていることは示唆に富んでいます。ですから、ゆえなく友や隣人の悪口を言うような人は、律法全体を裁く、拒否していることになるのです。

 ヤコブは「隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか」と私たちが神のように人を裁くことを戒めています。ただ、誤解しないようにすべきですが、私たちは友や隣人が明らかな罪を犯しているのに、それを見て見ぬふりをすべきだとか、そういうことではないのです。人の罪を戒めることと、悪口を言うことは全然別のことです。むしろ私たちは隣人の罪を指摘し、戒めなければなりません。先ほどのレビ記にも、「あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない」とあるように、隣人を悪の道から救い出すことは私たちの義務なのです。

 では、次のテーマについての13節以降を読みましょう。ヤコブは、今後はこれこれのことをして金儲けをしようとする人たちに対し、あなたがたは明日の命さえ分からないのだから、主を差し置いて自分であれこれ計画を立てるのを止めなさい、と戒めています。むしろ、「主のみこころなら、私たちは生きて、このことを、または、あのことをしよう」と言いなさいと勧めています。これも、主イエスの教えと非常に近いですね。ルカ福音書12章16節から21節をお読みします。

それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

このように、私たちは自分の明日の命のことさえ分からないのですから、今日という日に生かされていることに感謝し、一日一日を主のみこころに適うように誠実に歩むべきなのです。箴言にも次のような言葉があります。「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」(箴言27:1)ただ、ここでも誤解しないようにしたいのですが、イエス様もヤコブも将来のための計画を立てるな、と言っているわけではないことです。箴言にも、「あなたのしようとすることを主に委ねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない」(箴言16:3)とあるように、ポイントは主にあって計画を立てるということです。自分の欲望のままに、あるいは自分の利益ばかりを考えてあれこれ計画を立てるな、というのがここでの要点です。そこでヤコブは、自分のことばかり考えずに、他人の必要のことも覚えなさいという意味で、次の有名な言葉を書き記しました。

こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。

ヨハネの手紙第一にも同じような言葉があります。

世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。(第一ヨハネ3:17)

箴言にも次のような言葉があります。

捕らえられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。もしあなたが、「私たちはそのことを知らなかった」と言っても、人の心を評価する方はそれを見抜いておられないだろうか。この方はおのおの、人の行いに応じて報いないだろうか。(箴言24:11-12)

私たちは生活のいろんな場面で見て見ぬふりをします。見てしまうと、何もしない自分のことを心が咎めるので、見ようとしないのです。例を一つ上げましょう。福島原発が大事故を起こしたことがありました。それまで私たちは、原発の危険性を警告する人たちの声を聞きながら無視していました。あの人たちは極端なことを言っているだけだ、大げさなことを言っているだけだと。しかし、事故は実際に起こってしまいました。原発の恐ろしさは誰もが知るところとなりました。しかし、原発再稼働に対する反対運動は盛り上がりませんでした。目先の経済的な利益を最優先したのです。私は、こんなことでいいのだろうかと、知人の方々に問いかけたことがありました。しかし、「私は明日の仕事のことで精いっぱいだ。会社のために数字を上げなければならない。原発のことなんて考える暇ないよ」という返事が返ってきました。原発も、処理水の問題も、地球温暖化も、アフリカの飢餓や貧困問題も、皆同じです。分かってはいるけれど、そんなことに割く時間はない、私たちは忙しいのだ、というのです。そうして問題は先送りされ、私たちの次の世代はさらに苦しむことになるでしょう。しかし、このようにすべきことを知りながら何もしないのは罪だとヤコブはずばりと指摘します。このことを、心して聞くべきでしょう。

3.結論

まとめになります。今日は、イエスの教えと非常に近いヤコブの教えを見て参りました。一つは悪口の問題です。ヤコブは舌を制しなさい、神を賛美するその同じ舌で、神のかたちに造られた人を呪ってはならない、と教えました。舌を制することはとても大切です。大きな争いは、心ない一言から始まるからです。小さな火が、森林全体を燃やし尽くすように、私たちの言葉は大きな戦争さえもたらしてしまうのです。そのような悪い言葉は、心の中にあるわだかまりや憤り、嫉妬から生まれます。主イエスは、そのような争いの根となるものを早く取り除きなさい、一刻も早く和解のために行動しなさい、と教えられました。イエスの教えに日々従いたいと願うものです。

もう一つは、私たちは計画を立てる際に自分のことばかり考えずに、主のみこころを求めるべきだということでした。そして主のみこころとは、私たちが困った人たちに手を差し伸べることです。イエスは「最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」と語られました。

また、私たちは私たちの社会全体を蝕む様々な問題を薄々知りながらも、自分を偽ってみようとしないことがあります。そんなことよりも、今の自分の目先の問題の方が大事なのだ、そういう大きな問題は誰か暇な人がやればよいのだ、自分は関係ないと思ってしまいます。しかし、そういう人が社会の大多数を形成するので問題が一向に解決しないのです。私たちは大きな問題から目をそらすべきではありません。そのことも、ヤコブに教えられます。こうした様々なヤコブの教え、イエスの教えを胸に刻んで、今週も歩んで参りましょう。お祈りします。

私たちのすべてを御覧になっておられる神様、そのお名前を讃美します。私たちは自分を欺いて、物事を自分に都合の良いように解釈しようとする者ですが、しかし常に主のみこころを求めてそうしたわがままな思いを制御することが出来るように私たちをお助け下さい。われらの救い主、平和の主であるイエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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讃美詩篇150篇1~6節 https://domei-nakahara.com/2024/10/20/%e8%ae%83%e7%be%8e%e8%a9%a9%e7%af%87150%e7%af%871%ef%bd%9e6%e7%af%80/ Sun, 20 Oct 2024 06:31:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5902 "讃美
詩篇150篇1~6節" の
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みなさま、おはようございます。本日は当教会にとって一年に一度の大切な日です。それは、礼拝後の午後に「音楽の集い」が開催される日です。この日を楽しみにしてくださっている方もおられると思います。そこで、本日の説教もいつもとは違うスタイルでさせていただきます。

私の毎週の説教は「講解説教」といいまして、聖書に書かれている内容を解き明かしていくことを目的とするものです。今はサムエル記とヤコブの手紙を読んでいますが、こうした文書の中身を1年間あるいはそれ以上の時間をかけて詳しく解説しながら、現代に生きる私たちへのメッセージを考えていくというものです。

それに対し、もう一つの種類の説教があり、それは「テーマ説教」と呼ばれるものです。これは聖書の特定のテクストの解き明かしではなく、あるテーマ、例えば「祈り」とか「戦争と平和」とか、ある特定のテーマを選んでそれについて語るというものです。この場合にも、もちろん聖書を参照しますが、より自由にいろいろな角度からそのテーマについて語ることになります。そして、今日の説教はこのテーマ説教です。ですから単に詩篇150編の解き明かしをするということではない、ということです。

今日の説教のタイトルは「讃美」ですが、そのテーマはさらに大きく、「キリスト教と音楽」についてです。私たちの礼拝にとって音楽、そして讃美はなくてはならないものです。教会の礼拝とは聖書を読むこと、讃美をすること、そして祈ることから成り立っています。教会に通うようになる動機やきっかけは様々ですが、その一つは讃美歌に惹かれた、また讃美歌を歌いたくなったから、というものではないでしょうか。説教で言われていることはさっぱり分からないけれど、讃美歌がよかったからまた教会に行こうと思った、という方もおられると思います。それだけ、教会で歌われる讃美歌には名曲、佳曲が多いのです。このように、私たちの礼拝、またキリスト教そのものが音楽に支えられていると言えます。同時に音楽、特に西洋の音楽を育ててきたのがキリスト教だとも言えます。

もちろん、西洋文明が生まれるずっと前の時代にも、音楽は礼拝と深くかかわっていました。今日の詩篇150編をお読みいただければお分かりのように、旧約聖書の時代、まだイエス・キリストが誕生する時代より千年も昔のイスラエルにおいて、礼拝に音楽は欠かせないものでした。詩篇の作者の一人だとされるダビデは立琴の名手だったと言われています。ダビデがいったいどんな音楽を奏でたのか、大変興味があるところですが、録音はおろか楽譜も残されていませんので、残念ながらどんなものなのかは分かりません。しかし、旧約聖書の時代から、礼拝と音楽との間には切っても切れない関係があったのです。

そして、イエス・キリストの誕生後に新約の時代が始まり、キリスト教が西洋に普及するにつれて、教会音楽は飛躍的な進歩を遂げていきました。みなさんはポリフォニーという言葉を聞いたことがあると思います。これはギリシア語からきた言葉で、ギリシア語で「音」とはフォネイという言葉で、「たくさんの」はポロスです。ポロスとフォネイが組み合わさったのがポリフォニーなのですが、日本語では多声音楽です。二つ以上の異なる旋律が組み合わさって音楽を形成していくというものですが、これを大きく発展させたのがルネッサンス時代の教会音楽です。そしてそこから西洋文化の精華ともいうべきクラシック音楽が生まれました。クラシック音楽というと、交響曲とかオペラが中心だと考えるかもしれませんが、その中心には宗教曲があると言っても過言ではないと思います。音楽の父と呼ばれるヨハン・セバスチャン・バッハの代表曲はほとんどが宗教曲です。

今日は、この宗教音楽が何にもまして「神学」というものを表現しうるものだというお話をしたいと思います。「神学」というと、何か非常に難しいものに思えるかもしれません。「神学論争」というのが、誰にも意味が分からない抽象的な議論という意味で用いられるようになっていることからも、何だかとっても難しいもの、というように響きがありますね。そしてそれはある意味で正しいのです。神学とは神についての学問ですが、「神」という超越者について人間が分かるはずがないのです。科学の実験のように、神について実験することなどできません。神学とは、ある意味で分かるはずのない神についてああだ、こうだと論じることなのですから、難しかったり抽象的だったりするのもある意味で当然です。ただ、そのような神が、ではまったく理解不能なのかといえば、そうではありません。なぜなら神ご自身が私たち人間と係わりを持とうと、ご自身を私たちに現してくださるからです。神の方から私たちに近づいてくださるのです。そのような不思議な経験を通じて私たちは神の一端に触れます。そのような不思議な体験を何とか言葉にしよう、人に伝えることができる文章にしよう、というのが神学の試みであり、また聖書そのものもそのような試みの典型だと言ってよいでしょう。聖書記者たちは神との遭遇という筆舌に尽くしがたい体験を、何とか必死に文章にしようとしたのです。

しかし、神について言い表すのは文章だけではありません。むしろ、音楽こそ神について、神がどんな方なのかについて、私たちに雄弁に、非常に重要なメッセージを与えてくれるものだとも言えます。今日は、三つの大変有名な曲についてお話ししたいと思います。これからお話しする曲はいずれも大変有名な曲なので、ユーチューブで検索すればすぐにたくさんの演奏を聴くことができますので、ぜひ聴いていただきたいと思います。

最初の二つは「レクイエム」からのものです。レクイエムとは葬送曲、つまりお葬式の時に奏でる音楽です。クラシック音楽には三大レクイエムというものがあり、その一つは誰もが知る天才モーツァルトの白鳥の歌、絶筆となったレクイエムです。これは鳥肌が立つほどの名曲ですが、この偉大な曲については今回はお話ししません。むしろ他の二つのレクイエムについてお話ししたいと思います。それはイタリアのオペラの巨匠ヴェルディ作曲のレクイエムと、フランスの作曲家ガブリエル・フォーレのレクイエムです。フォーレは初めて聞いたという方もおられるかもしれません。フランス音楽というとドビュッシーがすぐ挙げられるかもしれませんが、私はフォーレが一番だと思っています。この二人の作曲家によるレクイエムはまさに対照的な曲調ですが、その背後にある「神学」も大きく違うなあ、という印象を受けます。

レクイエムというのは教会音楽ですから、そこには式文というか、決まったスタイルがあります。例えばレクイエムの構成曲の中には「キリエ」、これはギリシア語でいえばキュリオス、つまり「主よ」という意味の言葉ですが、そのキリエや、「サンクトス」、これはラテン語の「聖なる」、Holyという意味ですね、それらが含まれています。また、アニュス・デイ、これは「神の小羊」という意味ですが、キリストを表すこのアニュス・デイもレクイエムの重要なパートです。

ただ、先ほどの三大レクイエムはそれぞれ独自の式文を使っていて、神の審判を表す「怒りの日」がモーツァルトとヴェルディのレクイエムにはありますが、フォーレにはありません。モーツァルトの「怒りの日」には悲哀のこもった美しさがありますが、ヴェルディの「怒りの日」は恐ろしいというか、恐怖を感じさせる響きがあります。ユーチューブでヴェルディの「怒りの日」をぜひ聴いてみてください。私の言いたいことが分かると思います。なぜ葬式の音楽にこんな恐ろしい曲が含まれるのかといえば、それは人間はみんな死んだら神の恐るべき審判を受けなければならないのですよ、だから生き残っている私たちはその恐るべき日のことを思いながら真面目に残りの地上の生涯を過ごしましょうというような、ある意味では伝道的なメッセージが込められているのです。

しかしフォーレのレクイエムには、神の恐るべき審判を描く「怒りの日」がないのです。反対に、最後曲である「イン・パラディスム」これは「天国の中へ」という意味ですが、この通常のレクイエムには含まれないとても静かで美しい曲があります。

この二つのレクイエムを説教にたとえるならば、ヴェルディのレクイエムは最後の審判、神の裁きの恐ろしさを強調して、だから今神さまを信じてこのような恐ろしい裁きから救われましょうというような、どちらかと言えば福音派に多いメッセージだといえるでしょう。それに対してフォーレは、地獄とか神の裁きとか、そういう人間の恐怖心を掻き立てる内容は語らずに、神の憐み深さや神の愛、天国の平安のすばらしさを強調して人を神への信仰に導こうというスタイルの説教に通じるものがある気がします。

ただ、神の怒りを含めないフォーレのレクイエムは公演当初は、キリスト教的ではない、異教的ななどと批判されたことがありました。今日の説教でも「神の怒り」について語らない説教は福音的ではないなどと批判されることもありますが、フォーレも同じような批判を受けたのです。そのような批判に対し、フォーレはこう反論しています。

私の『レクイエム』は死に対する恐怖感を表現したものではないと言われており、中にはこの曲を死の子守歌と呼んだ人もいた。しかし、私には死はそのように感じられるのであり、それは苦しみというよりもむしろ永遠の至福と喜びに満ちた解放感にほかならない。グノーの音楽が人間的優しさに傾き過ぎていると非難されても、彼の本性がそのような感性を導いたのであり、そこには固有の宗教的感動が作られている。芸術家には自己の本性を容認することが許されているのではないだろうか。私の『レクイエム』について言うならば、恐らく本能的に慣習から逃れようと試みたのであり、長い間画一的な葬儀のオルガン伴奏をつとめた結果がここに現れている。私はうんざりして何かほかのことをしてみたかったのだ。(ネクトゥー著『ガブリエル・フォーレ』より)

このように、フォーレは因習的なレクイエムのスタイルにあえて挑戦したのです。このレクイエムはどこをとっても素晴らしいですが、特にアニュス・デイ、「神の小羊」が本当に美しいです。歌詞は、神の小羊よ、彼らに永遠の安息をお与えください、永遠の光で彼らを照らしてください、というようなものですが、本当に優しい、平安に満ちた音楽です。そしてこの音楽を聴いていると、フォーレの信じた神がどのようなお方なのか、ということが良く伝わってきます。それをフォーレの「神学」と呼んでいいと思います。ヴェルディの「怒りの日」が伝える怒れる神とは違う、何かすべてを包み込んでくださるような愛の神が伝わってくるのです。

私は何も、神には怒りがないと言いたいわけではありません。聖書にも「神の怒り」についての記述が溢れていますし、神は不正や悪を憎み、それらに怒りを向けるお方であるのは間違いないことです。ただ、神様のイメージを思い浮かべる時に、雷おじさんのような怖い神様をイメージするのか、優しい母親のような神をイメージするのかで、だいぶ私たちの信仰も変わってくるのも確かです。ユダヤ教・キリスト教の神のイメージは厳しい父親のイメージだと言われることが多いですが、フォーレの音楽を聴いていると、何かそれとは非常に違う神のイメージが感じられますし、それも真実なのだと思わされます。このように、音楽は私たちに直観的に理解できる神学を伝える非常に優れたコミュニケーション手段だと言えます。

ただ、素晴らしい「アニュス・デイ」を残したのはフォーレだけではありません。ここで、ヴェルディ、フォーレに続く三番目の曲をご紹介したいと思います。その作曲者は、モーツァルトと同じく西洋音楽の代名詞になっている人物、すなわちベートーヴェンです。このベートーヴェンも素晴らしいアニュス・デイを書いています。それはベートーヴェンの荘厳ミサ曲という大作に含まれています。荘厳ミサ曲は、あの有名な『第九』と同じ時期に書かれたベートーヴェンの晩年の傑作です。一般的にはこの曲は第九ほど有名ではないかもしれませんが、ベートーヴェン自身は第九とこの荘厳ミサ曲を同時に楽譜の出版社に持ち込むとき、なんとあの『第九』の十倍の値段を付けたと言われています。それほどベートーヴェンにとって重要な曲だったのです。この曲は演奏が非常に難しく、あまりよくない演奏だとそれほど感動できないのですが、素晴らしい演奏を聴くと、それこそ得も言われぬ感動があり、特にクライマックスに置かれたアニュス・デイは感動的です。この曲をフォーレの曲と聴き比べると、ここでもまた異なる「神学」が伝わってきます。ベートーヴェンが伝えようとした神は、平安に満ちた慈愛の神というより、人類と共に苦しむ神、この世の不条理の中でのたうち回りながらも、それでも平和を求めてやまない、そのような苦難を哀れな人類と共に担う神のイメージです。この曲は「ミゼレーレ」、神よ憐みたまえという呻きのような言葉から始まります。非常に暗い、重苦しい音楽です。それが途中で転調して、「われらに平安を与えたまえ」という世にも美しい、天上の調べと呼びたくなる祈りのような曲へと変わっていきます。しかし、そのような美しい調べの中にも戦争の響きが入り混じり、私たちが求める平和はこの世界ではどれほど得難いものなのかという現実も突き付けられます。しかし、その戦いの響きの中でも「アニュス・デイ」、神の小羊に救いを求める叫びのような歌声が響きます。そして最後は平安を求める歌声が戦争の響きをかき消すほど力強く歌われて、この曲が結ばれます。フォーレのアニュス・デイは私たちに天国を垣間見せてくれますが、ベートーヴェンのアニュス・デイはこの世の悲惨な状況の中で必死に天国を願う私たちの祈りを形にしてくれたのだと思えます。

このように、宗教音楽は私たちに本物の「神学」を語ってくれるものです。音楽は私たちの信仰を養い育てるために、なくてはならないものです。今日の「音楽の集い」を通じて、私たちは音楽を楽しむだけでなく、神を賛美すること、そして私たちの賛美する神様とはいったいどんなお方なのか、そんなことを感じられれば素晴らしいと思います。お祈りします。

私たち人類に音楽を与えてくださった神様、そのお名前を讃美します。今日は特に音楽と私たちの信仰について考える日です。午後の演奏者の方々を特に祝福してください。音楽が私たちの信仰を豊かなものにしてくれますように。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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惨劇第二サムエル4章1~12節 https://domei-nakahara.com/2024/10/13/%e6%83%a8%e5%8a%87%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e3%82%b5%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%83%ab4%e7%ab%a01%ef%bd%9e12%e7%af%80/ Sun, 13 Oct 2024 04:40:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5891 "惨劇
第二サムエル4章1~12節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。さて、今日の説教題は秋のすがすがしい朝の空気に反して、「惨劇」という物々しいタイトルです。文字通り、悲惨な出来事についてのお話です。せっかくの主日礼拝なので、心が高揚する話や、心が温まる話を聞きたいと思われるでしょうし、私もできればそうしたいのですが、しかし講解説教ですので、この箇所は飛ばしてとか、そういうことはできません。そもそも、サムエル記の説教でこういう悲惨な場面を除いてしまうと、あとは何も残らないのではないかと思うほど、悲劇的な箇所が多いのです。悲劇といっても、地震などの自然災害のためではありません。むしろ人間同士の裏切りとか、騙し合いとか、そういうことが理由で起こる悲劇です。このサムエル記には、そういうドロドロした話がとても多いです。なぜそうなのかといえば、そこには権力闘争が絡むからです。王という至高の権力を求める話を描いているサムエル記は、まさにこの文書全体が惨劇の書だと言っても過言ではありません。

では、このような惨劇は権力を求める人間の醜い思いからのみ生じるものなのでしょうか。そこには神の御心が働いているのでしょうか。聖書が他の文学と大きく異なっているのは、私たち人類の歴史を動かしているのは、人間の欲望とか野心とか、そういうものだけでなく、神が歴史の中に常に働いていて、神の御心なしに起る出来事はなにもないのだ、という世界観が前提になっていることです。あらゆる出来事の背後に神の御心がある、ということです。ただこれは、神が操り人形のように各人物を思いのままに操って歴史を動かしているということではありません。人間は自由な存在であり、自分の意志で行動しています。今回の箇所でも、各登場人物は神の命令で暗殺を行ったわけではありません。彼らは自分たちが神の御心の執行者だと、ダビデを王にするという神の御心を実現するために行動しているのだと主張します。前回のアブネルもそうです。しかし彼らは神を言い訳にして、いわば神をダシにして、自分の利益のために行動しているのに過ぎないのです。彼らは自分の意志で、自分たちの利益のためにそうしているのです。人間の一番嫌らしい罪は、自分のために行動しているのに、それをもっともらしく神の御心にすり替えてしまうことです。神の名のもとになされる正義が、単なる自分の利己的な行動の隠れ蓑にすぎないということは、現代でも起きていることなのです。

では、あらゆる出来事の背後に神の御心が働いている、というのはいったいどういう意味なのでしょうか。それは、神はすべての出来事を御覧になっていて、人間のすべての行動を見ているということです。それだけでなく、神はそれぞれの人にその仕業に応じて報いるということです。サムエル記を読んでいて、強く思わされるのはこのことです。神は実に人々のことをよく見ています。人々の行動だけでなく、隠れた動機まで見ておられます。そして、それぞれにその仕業、行いに応じて報いを与えられます。サムエル記を読むうえでの大事なポイントはそのことです。

今回の話では、悪役は王を殺した二人のベニヤミン族だということになります。彼らの行動には、ダビデを通じて厳しい報いがもたらされることになります。では、今回は裁きの執行者となったダビデは、罪から免れた、神のような公平な立場にいる人物なのでしょうか?そうではありません。それどころか、ダビデは中立な立場にいるのではなく、正に利害関係人なのです。前回の話ではサウル王家の猛将アブネルが謀殺され、今回はサウル王家の二代目の、また最後の王であるイシュ・ボシェテが惨殺されます。彼ら二人の死によって、ダビデと王権を争っていたサウル王家の没落は決定的なものとなりました。いわば、彼らの死によってダビデの王権は確立されたのです。ダビデは彼らの死によって大きな利益を得たのです。それでも彼らの死に自分は何の責任もないということをダビデは強く訴えています。前回も、今回も、ダビデのしたことといえば自分の潔白の証明でした。ダビデが全イスラエルの王となったのは、敵対するサウル王朝がいなくなったためですが、サウル家の滅亡に関してダビデには何の責任もないということがダビデにとっても、またおそらくはサムエル記の著者にとっても非常に大切なことでした。しかし、ダビデは本当に責任がなかったといえるのでしょうか?

今回のイシュ・ボシェテの死の原因は、アブネルとダビデの密談によって、いわば定められていた、既定路線の出来事だったといえます。イシュ・ボシェテは自分の意志とは関係なく、キングメーカーであるアブネルによって勝手に退位させられることになり、そのアブネルの案にダビデが乗っかったために、彼が王位を失うことが決定したのです。この時点でイシュ・ボシェテはレームダックになってしまいました。ですからイシュ・ボシェテに政治的にとどめを刺したのはダビデだと言えるのです。しかしダビデはその事実を認めようとせず、むしろ大仰な行動によってその事実を覆い隠そうとします。あるいは、そうした行動によって、自分には罪がないと自分で自分に言い聞かせているかのようです。ダビデの行動は自己欺瞞に満ちたものなのです。しかも、ダビデのこういう行動はこれからも繰り返されます。ダビデの、自らの罪を認めようとしない姿勢、自分の罪の結果に向き合おうとしない姿勢のことを、私はダビデ・シンドロームと名付けたくなります。この自己欺瞞はいずれダビデの身に大いなる災いをもたらします。神はダビデのこと、ダビデの行動やその隠された動機を見抜いておられ、それに対する報いを与えられるということです。ダビデの後半生があんなにも真っ暗になってしまったのは、神がダビデのことを実に良く御覧になっているからだと思わされます。たしかにこの時点では万事うまくいっているように見えます。しかし、破滅の種はここでも確実に蒔かれているのです。このことを念頭に置きながら、今日のテクストを読んで参りましょう。

2.本論

さて、前回はサウル家のキングメーカーであり、今度はダビデ家のキングメーカーに成り代わろうという野心を持ってダビデにすり寄ってきたアブネルを、ダビデ家のキングメーカーたろうという野心を持つダビデの甥ヨアブが謀殺するという場面を見て参りました。ここで強調したいのは、この謀殺を行ったヨアブに対しては、ダビデはいかなる刑罰をも与えなかったことです。今日の箇所で、イシュ・ボシェテを謀殺した者たちを直ちに極刑に処したこととは対照的です。

このアブネルの死は、直ちにサウル王家に伝えられました。これまでアブネルに頭を押さえつけられ、不満を抱いたこともあるイシュ・ボシェト王ですが、それでもアブネルは自分を王の位に就けてくれた、いわば後見人です。その後見人、後ろ盾を失ってしまったイシュ・ボシェテの動揺と不安は非常に大きなものでした。しかし、動揺したのはイシュ・ボシェテだけではありませんでした。サウル家の家臣たち、家来たちも自分たちが仕える王朝が滅びる運命にあることを明確に悟ったことでしょう。いつの時代にも目ざとい人たちは、次に何が起きるのかを考えてすぐさま行動を起こします。これからはダビデの時代だ、ということを理解したサウルの家来たちは、さっそく勝ち馬に乗ろうとサウル家を見限ってダビデに乗り換えようとします。しかし、昨日まで敵だった自分たちが寝返っても、高い地位が約束されるわけではありません。そこでダビデにお土産を持参した上で寝返ろうとした人々がいたのです。今日はまさにそれを実行した二人の人物の話です。彼らはサウル軍の中でも「隊長」という高い地位にありました。しかも彼らはベニヤミン族ですので、サウルの一族とは同族に当たります。しかしその彼らがサウル家の王を裏切るのです。ダビデは詩篇の中で、

私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、わたしにそむいて、かかとを上げた。(詩篇41:9)

と記していますが、イシュ・ボシェテ王もまったく同じ気持ちだったはずです。預言者エレミヤも、同じようなことを記しています。

あなたの兄弟や、父の家の者でさえ、彼らさえ、あなたを裏切り、彼らさえ、あなたのあとから大声で呼ばわるのだから。彼らがあなたに親切そうに語りかけても、彼らを信じてはならない。(エレミヤ12:6)

自分の利益や身の安全のためなら親兄弟さえ裏切るという、人間の悲しい現実を聖書は描いています。今回のサウル軍の隊長たちも、恩のあるサウル家を自分たちの保身や立身出世のために平気で踏み台にしようとしているのです。彼らの名はバアナとレカブでした。

さて、イシュ・ボシェテの暗殺の記述の間に、サウル王家のもう一人の人物のことが唐突に紹介されています。それはヨナタンの息子のことでした。ヨナタンの弟であるイシュ・ボシェテから見れば甥にあたる人物で、その名をメフィボシェテと言いました。このヨナタンの息子は、足の不自由な人物でした。もっとも彼は生まれつき足が不自由なのではなく、幼少期の事故のせいでそうなってしまったのです。というのは、サウル王とヨナタンが戦死した時、その知らせを受けたうばがこのヨナタンの子を安全な所に隠そうと急いで逃げたのですが、その時に五歳のメフィボシェテを落としてしまい、その時のケガで足が不自由になってしまったのでした。では、なぜ突然この少年の話が出て来たのかといえば、これからイシュ・ボシェテが死んでしまうとサウル王家の人は皆死んでしまったことになり、そうするとダビデがヨナタンとかつて交わした約束がどうなってしまうのか、という問題が生じるからです。その約束とは、ヨナタンが死んだ場合、サウル家の面倒を見るとダビデが約束したことです。この約束をダビデが忘れたわけではないことを読者に知らせるために、ここでヨナタンの子であるメフィボシェトのことが語られているのです。

しかし、今回の箇所の主役はメフィボシェテではありません。ですから話はすぐにイシュ・ボシェトへと戻ります。イシュ・ボシェテの家とは、おそらくは王宮のことでしょうが、そこでイシュ・ボシェテは昼寝をしていました。王宮は厳重に警備されているので、普通は王様の寝ているところに自由に入っていけるはずもないのですが、バアナとレカブはサウル軍の隊長なので、王と謁見することも珍しくなかったのでしょう、怪しまれることなく王の部屋に向かうことができました。そして、なんと寝ている王を惨殺したのです。哀れなイシュ・ボシェテ王は起きる間もなく、寝込みを襲われて死んでしまったのです。これが敵国のスパイの手にかかったのならまだしも、自分の信頼していた部下に殺されてしまったのです。その無念さはいかばかりだったでしょうか。

バアナとレカブの行動はこれだけでも十分に人非人ですが、彼らはなんとその王の首をはねました。恐ろしいことですが、ダビデに証拠の品を提示したかったのでしょう。王の首を抱えたまま、彼らは夜通しヘブロンにいるダビデの元に向かったのです。まるでホラー映画の一シーンのようです。彼らはダビデのもとに来ると、イシュ・ボシェテ王の首を差し出します。しかも彼らは、主が、神がこれをなさったのだとダビデに言います。たしかにダビデは、サウルがダビデに対して行った数々の罪の報いは神がなさるだろう、復讐は神のなさることだ、と言っていました。サウル王家に次々と悲劇が降りかかるのは、神がダビデのために復讐を行っているのだ、というように思えなくもありません。しかし、ではバアナとレカブは純粋に神の御心を行っているのでしょうか?そうではありません。彼らは単に自分たちの立身出世のために王殺しを行い、それを神の御心だとうそぶいているのです。神は彼らにイシュ・ボシェテを暗殺しろなどとは命じてはいないのです。彼らはイシュ・ボシェテを騙しただけではなく、神すら騙そうとしています。しかし神は侮られるようなお方ではありません。

ダビデもすぐにそのことを見抜きました。そして、直ちにこの二人の裏切り者の処刑を命じます。このダビデの行動自体は正しいものでした。しかし、それは公平なものとは言えませんでした。それはなぜか?バアナとレカブの王殺しが罪ならば、アブネルのやったことも同じです。アブネルは王殺しはしませんでしたが、しかし主君を政治的に抹殺しようとしたのです。それが神の御心だ、ダビデを王にするのは神の御心だから、自分はそれをするのだと、アブネルは今回のバアナとレカブとまったく同じことを言っています。自分のためにしているのに、それを神のせいにしているのです。しかしダビデはそのことを知りながら、アブネルと協力する道を選びました。いわばアブネルの主君殺しに加担しているのです。しかしダビデは、弱い立場のバアナとレカブの罪はすぐに裁くのに、強い立場のアブネルの罪は不問に付し、彼にむしろおもねりました。

また、バアナとレカブの卑怯な暗殺が罪なら、ヨアブによるアブネルの卑怯な暗殺は罪ではないのでしょうか?アブネルは裏切り者とはいえ、ダビデは彼を全権大使として迎え、国と国との密約を交わしたのです。そのような重要人物をだまし討ちにするなど、あってはならないことです。それなのにダビデはヨアブの罪を知りながら、ぶつぶつ不満を述べるだけでなにもしませんでした。それはなぜか?ダビデがヨアブの力を恐れたからです。ダビデはもはやヨアブなしでは王の職務を全うする自信がありませんでした。戦場で戦うのは今やダビデではなくヨアブです。ダビデは嫌な仕事をみんな彼に押し付けてきたので、彼なしでは今後やっていく自信がなかったのです。そこで彼はヨアブには何もしませんでした。ヨアブが強いので、彼をコントロールする自信がなかったのです。しかし、こうなるとユダの実質的な王はダビデではなくヨアブだということになってしまいます。

こうしてみると、今回のバアナとレカブの処刑について、ダビデは一件立派なことをしたように見えますが、それは実は自分のことは棚に上げて人のあら捜しをするという、非常に卑怯な行動だったということになります。しかも、ダビデはそのことに全く気が付かずに、自分は正義を行ったと誇らしげに思っているようですらあります。

3.結論

まとめになります。今日はダビデの王権を確立させるための重大な出来事、サウル王朝の最後の王であるイシュ・ボシェテの死について見て参りました。それは、サウル王家内部の卑劣な裏切りによって起こったことでした。確かにダビデを全イスラエルの王とすることは神の御心でした。ですからサウル王家を滅亡させた人たちは、神の御心を行っているように見えます、少なくとも表面的には。しかし、彼らの卑劣な行動が神の望まれることではなかったのは明らかでした。彼らは自分たちが神の御心を行っていると主張しましたが、それはただの言い訳です。彼らは自分たちの出世、あるいは保身のために行動したのに過ぎないのです。自分の利益のために神を持ち出すことは最も大きな罪の一つです。

キリスト教の歴史においても、神の名における戦争が何度も何度も起こされてきました。自分たちは神の御心を行っていると彼らは言います。しかしそれは単に侵略を正当化するため、または自分の利益のための行動を正当化するための方便に過ぎませんでした。世俗化が進んだ現代では、神の名を持ち出さなくても、「正義」のためとか「国際秩序」のためとか、「法の支配を守るため」というような言葉がよく使われますが、それは自分たちにとっての正義、自分に都合の良い秩序のため、自分は免責されるが相手は裁くという法律のため、というのがほとんどではないでしょうか。実際、「正義」を声高に主張する人たちほど怪しいという思いを、私たちは抱くようになっています。

今回は、ダビデが正義の執行者のような役回りになっていますが、彼もまた自分の利益のために行動していたと思わざるを得ません。ダビデの罪はここではまだ隠されていますが、それは段々と隠せないほど大きなものへと成長していってしまうのです。私たちも、自分たちが神の御心を行っていると考える時、よくよく自分の動機を吟味する必要があります。私たちは本当に神のために行動しているのでしょうか?私たちは自分で自分を騙して、神のために行動していると思いながらも結局は自分のために行動している、ということにならないようにしたいものです。「神の名をみだりに唱えてはならない」という教えは確かに真理なのです。今週も、神の前に謙虚に歩んで参りましょう。お祈りします。

歴史を導き、私たち各々の心の隠れた動機を探られる神様、そのお名前を讃美します。私たちは自分で自分を騙し、神の御心の名のもとに自分の利益を追求する卑劣な者です。そのような罪を犯すことがないように私たちを導いてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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