中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 調布 深大寺のプロテスタント教会 Sun, 30 Mar 2025 04:36:30 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.3.18 https://domei-nakahara.com/wp-content/uploads/2020/03/cropped-favicon-32x32.png 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 32 32 自由の用い方第一ペテロ2章9~17節 https://domei-nakahara.com/2025/03/30/%e8%87%aa%e7%94%b1%e3%81%ae%e7%94%a8%e3%81%84%e6%96%b9%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%83%9a%e3%83%86%e3%83%ad2%e7%ab%a09%ef%bd%9e17%e7%af%80/ Sun, 30 Mar 2025 00:32:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6269 "自由の用い方
第一ペテロ2章9~17節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。今日は2024年度の最後の礼拝です。私事になりますが、私が当教会に赴任したのが2020年の4月ですので、まるごと五年が経ったことになります。あっという間の五年間でしたが、同時に当教会には本当にいろんなことがありました。また、世界を見渡しても、2020年以降にはコロナのためのロックダウンや、ウクライナ、中東ガザでの紛争における悲惨なニュースが毎日のように飛び込んできて、心穏やかでは済まされない日々が続きました。そんな中でも、当教会がたゆまず歩んでこれたことについて、みなさまに、そして何よりも主に感謝いたします。

さて、今日も第一ペテロからメッセージをさせていただきますが、前回の箇所でペテロは私たちクリスチャンが今や神の神殿であり、そしてクリスチャンの日々の歩み、生活そのものが神への礼拝なのだということを教えました。今回の箇所は、その教えを土台としながらさらに深い内容に入っていきます。特に重要なのは以下のポイントです。すなわち、ペテロは教会が今や一つの民族、さらに大胆な言い方をすれば一つの国家なのだと主張しているのです。「聖なる国民」であるというのは、ある特定の国家に属しているということだからです。しかも、この聖なる国民というのはこれまではある一民族、つまりユダヤ人に限定されていたのですが、この新しい国家はあらゆる民族から構成される超国家とも呼ぶべきものだと言っているのです。

しかし、となると一つの問いといいますか、問題が生じます。この新しい国、聖なる国民からなる国にはあらゆる民族のクリスチャンが属しています。日本の場合でいえば、クリスチャンは日本人であると同時に、キリストの国にも属している、いわば二重国籍の人だということになります。そして日本と神の国、神の国はキリストの王国とも言えますが、この二つの国、二つの国家が同じ方向を向いていれば、クリスチャンにとって何の問題も生じません。しかし、この二つの国家が異なる方向を目指してしまった場合、そのどちらの国民でもあるクリスチャンはどうすればよいのか?という問題が生じるのです。国の命令することが神の法と衝突してしまった場合、どちらに従うべきなのかという問題です。

ここで、日本という国に置かれた教会の立場を考えてみましょう。私たちキリスト教会は、日本という国に守られ、守られているだけでなく様々な特権を受けています。その最たるものは基本的な宗教活動に関しては課税されないということです。具体的には、献金には課税されません。ただ、これは宗教に限った話ではなく、他の公益法人、学校法人のような機関も、学費のみならず金融商品からの利息などの収益にも課税されません。このように学校や宗教団体が優遇されているのは「公益性」があると広く社会から認められているからなのです。しかし、その宗教法人が公益どころか社会の害悪になる場合もあるのです。その最も生々しい事例が30年前の地下鉄サリン事件という化学兵器を用いた無差別殺戮なのですが、そういった事件を前にすると宗教というものの持つ危険性を強く感じるわけです。宗教の持つ力は実に巨大なもので、人々を犯罪行為に走らせたり、また最近解散命令が下された宗教法人の場合は年間400億円という巨大企業並みの金額を、なんと献金のみで集めるという信じがたいことが起きています。その献金が自発的なものであればまだしも、信者さんを精神的に追い込んで献金させた不法なものだったという裁判所の判決が出ています。ただ、日本の有名な宗教法人の財産は正確には分かりませんがこれどころではない強大なものだと考えられます。日本の与党の一角を支える宗教法人の献金額はさらに巨大だと言われています。私どものようなささやかな教会からすると、まるで別世界のような話ではありますが、こうした宗教団体の金満ぶりと、そのお金の使途の不透明さが、多くの日本人が宗教に向ける不信感の一因になっているものと思われます。日本という国に守られながら、日本のためになってないのではないか、という疑念を抱かれてしまうのです。ですから、宗教と国家の関係を考える大前提として、私たち宗教組織は自分たちの住む国家に良い意味で貢献できないのであれば、偉そうなことはいえないということを肝に銘じた方がよいということです。

宗教の危険性ということを申し上げましたが、宗教の持つ危険性の一番深い部分は、実は宗教の持つ魅力、つまり人々を引き付ける力と表裏一体の関係にあります。それは何かというと、「選ばれた人」と「選ばれなかった人」という二元論です。多くの宗教では、「あなたがたは神様から特別に選ばれた存在なのだ」ということを教えます。そう言われると、なんだかうれしい気持ちになりますよね。でもその反面、選ばれなかった人たちがいるということになってしまいます。そうなると、選ばれた人たちは選ばれなかった人たちに対して自ずと優越感を抱いてしまいがちになります。このような優越感が歪んだ形で肥大してしまった結果生じた最悪の事件が、地下鉄サリン事件だということになるでしょう。神に選ばれなかった人たちの命の価値を極端に低く見積もってしまうことによって、こんな残忍な事件が生じてしまうからです。日本人の場合で考えれば、「選ばれた日本人」と「選ばれなかった日本人」がいることになります。こんな風に露骨に考えるクリスチャンの方はいないでしょうが、キリスト教の教理にそのような面があるのは否めませんし、人々がキリスト教に不信感を抱く理由の一つになっているように思います。

このように、多くの宗教が持つ「選民思想」は宗教の魅力であるのと同時に、人々に宗教への警戒感を抱かせる要因にもなっています。宗教の側からも、そうした問題を乗り越えようとする試みがなされています。その一つが親鸞聖人の浄土真宗です。私は浄土真宗の専門家ではないので不正確であるかもしれませんが、その教えは一種のユニバーサリズム、つまり「すべての人が救済される」というものであると思われます。すべての人が救われるのであれば、「選ばれた人」と「選ばれなかった人」という違いはなくなります。

そしてもう一つは「選ばれた人」は「選ばれなかった人」に仕えるために選ばれた、という見方です。フランスの格言にnoblesse oblige、つまり高貴なる者は義務を負うというものがありますが、クリスチャンという聖なる人々は、その他すべての人たちの幸せを願い、その義務を負うという思想です。「選ばれた人」というのは、たとえば学級委員に比べることができるでしょう。学級委員は選ばれた人だから偉いんだ、ということではなくて、むしろ他のすべての生徒の学生生活をよりよいものにするために選ばれたのです。クリスチャンも同じ理由で選ばれたということです。このような視点がキリスト教の主流の考え方であるとまでは言えないものの、こうした見方がキリスト教思想の中にあるのは確かです。私個人も、選民思想はこのような観点から捉えるべきだと考えています。先ほどの、キリスト教の持つ二重国籍の問題、つまり日本で言えば日本人であると同時に神の国の国民であるという問題も、このような観点から考えるべきでしょう。私たちクリスチャンは、キリスト教国ではない日本という国をよりよくするために、積極的に仕え、関わっていくべきだということです。たとえこの国の目指す方向が聖書の示す道とは大きく異なっていると感じることがあったとしても、「この国はサタンのしもべだ」というように頭から否定するのではなく、むしろキリストの教えに従うことが長期的には国益にかなうということを粘り強く訴えていくべきでしょう。確かに、新約聖書ではローマ帝国をサタンに仕える獣、キリスト者が戦うべき存在として描いている「ヨハネ黙示録」のような書があります。しかし、同時に今読んでいる第一ペテロのように、国家を肯定的に捉えている書簡もあるのです。このことを踏まえたうえで、本文を読んで参りましょう。

2.本論

では9節を見てみましょう。ここでペテロは出エジプトの1節を引用しています。出エジプト記19章3節以降を読んでみましょう。

モーセは神のみもとに上って行った。主は山から彼を呼んで仰せられた。「あなたは、このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げよ。あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」

この出エジプト記の言葉は、もちろんクリスチャンに向かってではなく、キリスト教が成立する千年以上も前に、民族としてのイスラエル人に対して語られた言葉です。したがって、ユダヤ人以外の人に対して語られた言葉ではないのです。しかし、この第一ペテロ書簡の受け手はユダヤ人以外の異邦人です。ですから、ペテロは元々ユダヤ人のための神の約束、「あなたがたが私の声に聞き従い、契約を守るならば」祭司の王国になるだろうという約束が、今やユダヤ人ではない異邦人において実現したと述べているのです。これは非常に大胆な言葉であり、当時のユダヤ人はこのことを聞いたらびっくりしたことでしょう。選民はユダヤ人のみであるというユダヤ人の信仰を、自分自身がユダヤ人であるペテロが打ち砕くようなことを述べたのです。ペテロの手紙の受け手がユダヤ人ではなかったことは10節からも明らかです。「あなたがたは、以前は神の民ではなかった」ということは、つまりあなたがたは契約の民であるイスラエルの一員ではなかったということです。

しかし、契約の民ではなかった異邦人たちは、今や新しい契約の民となりました。その結果、かつての彼らの同胞だった人たちは、今度は彼らにとっての外国人、異邦人になってしまったのです。これは、クリスチャンになった日本人が同じ日本人仲間のことを「外国人」と呼ぶようなものです。12節でペテロが「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい」と述べていますが、それは「かつての仲間たちの中にあって、りっぱにふるまいなさい」というのと同じことなのです。これまで当たり前だった生き方、先祖伝来の生き方は実は「肉の欲」に従った生き方であり、そのような生き方をしている人たちはあなたがたにとっては外国人なのだとペテロは語っています。けれども、だからそのような人たちを避けなさい、軽蔑して近づかないようにしなさい、とはペテロは教えません。むしろ彼らの救いのために行動しなさいと教えているのです。具体的には、彼らにあなたがたの立派な行い、生き方を示して、「真の神に従うということは、こんなにも素晴らしいことなのか」と彼らが考えるようになるようにせよ、と教えているのです。もしあなたがたがだらしない生き方をすれば、彼らはあなたがたの神を軽蔑する、軽んじることになってしまう。そうなると、彼らは救われるチャンスを失ってしまう、だからあなたがたは、彼らの救いのために立派にふるまいなさいと教えているのです。先ほど、「選ばれた人」は「選ばれなかった人」のために行動すべきだということを申し上げましたが、具体的にはこういうことです。

そのような文脈と精神において、ペテロは「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい」と教えています。「従いなさい」という言葉からは、人の立てた制度である国家に盲目的に従いなさい、服従しなさい、というように響くかもしれません。ただ、ここで「従いなさい」と訳されている動詞は、「責任を負いなさい」や「重荷を負いなさい」、または「協調しなさい」と訳した方が良いように思います。つまり、政府の命令は何であれ黙って従いなさいというよりも、政治的な事柄や問題に積極的に関わりなさい、自分には関係ないというような態度ではなく、社会がより良い方向に向かうように進んで重荷を負いなさい、という意味だということです。そのような前向きで善意に満ちた行動、立派な生き方というのは、愚かなおしゃべりを封じます。「論より証拠」という諺通り、キリスト教が何であるのかを示すためには、誰もわからないような複雑怪奇な神学論争で人々を煙に巻くのではなく、行動で示せということです。そうすれば、「愚かな人々の無知の口を封じる」ことになるのです。そしてここで大切なのは、私たちがこの世の制度や政府に従うのは、強いられるからではなく、自由であるからこそなのです。私たちの究極の忠誠心が向けられるのは神のみです。私たちはこの世のあらゆる制度から、不法なことや悪事を強いられたとしても、それに従う必要はありません。そういう意味で、クリスチャンは究極的な自由人です。しかし、その自由は自分勝手な目的のために用いられるべきものではありません。むしろ、すべての人々の幸福のために用いられるべきものです。奴隷が主人に仕えるように、私たち神の奴隷も、神が造られたこの世界に仕える、この世界をよりよくするために働かなければならないということです。私たちが神から与えられた自由は、そのような目的のために用いなければならないということです。使徒パウロも同じことを語っています。その箇所、ガラテヤ書の5章13節と14節をお読みします。

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。

パウロもペテロと全く同じことを言っていますね。ここで隣人というのは、自分のごく親しい人には限定されないということです。むしろ主イエスの「良きサマリア人」のたとえにあるように、私たちは見ず知らずの人でさえ、良き隣人としていくことができるのです。ですから私たちが仕えるべきなのは、ごく近くの人たちのみならず、もちろん可能な範囲の中ではありますが、社会全体でもあるのです。

3.結論

まとめになります。今日の箇所ではペテロは、今やキリストの王国というユニバーサルな国家の一員となった私たちが、それまで自分たちが属してきた国家、当時のペテロの手紙の宛先の人々にとっては小アジアの国々、私たちにとっては日本ということになりますが、これら二つの国家の間でどう生きるべきかを教えていました。

ペテロの時代、ローマやギリシアといった国々はキリスト教に対して必ずしも好意的ではなく、むしろ非常に敵対的であることもしばしばでした。しかしペテロは、そのように敵意を向けてくる国家に対してでさえ、クリスチャンは背を向けたり反抗的になったりしてはいけないと教えています。むしろ積極的に関わり、自分たちに敵意を向ける人たちからでさえ好意を向けられるように立派に振舞いなさいと教えています。翻って私たち日本の教会は、国家から敵視されるどころか、多くの面で保護されています。私たちはまずこの点に深く感謝すべきでしょう。そして、行動によってその感謝の気持ちを表していきたいと願っています。その意味で、当教会の会員の方々が「ちょうふの風」や「子ども食堂」を通じて地域の方々のために貢献できていることは大変うれしいことですし、そうした働きが続けられることを心から願っています。私たちの教会は、ご近所の方々が多く、この地域に根を張った教会です。これからもこの調布や三鷹の地で、「地の塩」として歩んでいきたいと願うものです。お祈りします。

全地を創られ、その上に様々な人間の制度を創られた神様、そのお名前を賛美します。今日はペテロから、この世の制度とどのように関わるべきかを教えられました。当教会もこの地域にあって、主の喜ばれる歩みが出来るように助けてください。われらの平和の主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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生ける石第一ペテロ1章22~2章8節 https://domei-nakahara.com/2025/03/23/%e7%94%9f%e3%81%91%e3%82%8b%e7%9f%b3%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%83%9a%e3%83%86%e3%83%ad1%e7%ab%a022%ef%bd%9e%ef%bc%92%e7%ab%a08%e7%af%80/ Sun, 23 Mar 2025 04:18:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6254 "生ける石
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1.序論

みなさま、おはようございます。第一ペテロを読み始めて、今日は三度目の説教になります。前回は「聖なる者となりなさい」というみことばの意味を考えて参りました。聖なる者になるというのは神の子とされた特別な存在になることだ、ということを前回学んだのですが、ではその特別な者としてどう歩むべきなのかということを論じているのが今日の箇所です。

私たちがイエス・キリストを信じてクリスチャンとなるとき、私たちの生き方が変わることが期待されます。ペテロはクリスチャンになる前の生き方のことを「先祖伝来のむなしい生き方」と呼んでいますが、そのような生き方とは異なる、神の子としての生き方が期待されているということです。しかし、いきなり神の子として歩めと言われても、何をどうしてよいのかよく分からない、と思うのではないでしょうか?イエス様を救い主として告白し、洗礼を受けてみても、何かが劇的に変わって、別人のように清く正しい生き方ができるわけではないでしょう。そういう経験をした方もおられるかもしれませんが、しかし時間の経過とともに段々と元の生活に戻ってしまうという場合も多いのではないでしょうか。

実際、イエスを信じた後も相変わらず罪深い思いを捨てられないし、つまらないことで怒ったり嫉妬心を抱いたりして、自分はクリスチャン失格なのなのではないか、と悩んでいる方も少なくないと聞きます。クリスチャンとしての理想と現実とのギャップに悩むということは、誰にでも身に覚えがあることではないでしょうか。私たちが変わるためには、「変わりたい」という私たちの思いや願いも大切ですが、それ以上に大事なのは私たちを変えてくださる神の力です。実際、聖書を読むと、私たちが変わるために必要なものを神が供えてくださるという約束があります。そして、それには二つあります。その二つはなにかということを、まず確認していきたいと思います。

その一つは、言うまでもなく聖霊です。このことは特にパウロ書簡で強調されています。パウロは「肉の働き」と「御霊の働き」を対比させ、私たちが肉の思いではなく御霊に動かされるときに、主に喜ばれる歩みができるようになると語ります。その箇所を読んでみましょう。ガラテヤ書簡の5章19節以降です。

肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。

このように、クリスチャンとしての望ましい性質を生み出すものは聖霊なのだというのがパウロの教えです。ですから、クリスチャンらしい性格を養い育てるために私たちがすべきことは聖霊を与えてくださるように祈り願うことだということになります。ただ、では自分が聖霊を受けているかどうかを客観的に知る方法があるかといえば、なかなか難しいわけです。聖霊によって突然人格が変わってしまった、性格が別人のようになってしまったというようなことがあればよいのですが、あまりそういうことはないわけです。神学においても、「聖霊論」というのは最も難しいと言われますが、聖霊なる神はどこか捉えどころがないところがあります。

聖霊についてはまた別の機会に考えたいと思いますが、聖書は私たちが変わるために神が与えてくださるものとして、もう一つのことを語っています。そのことが、今日のペテロ書や以前に学んだヤコブ書に書かれています。そのもう一つとは、「神のことば」です。先のヤコブの手紙の1章21節にも次のようなみことばがありました。

ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植え付けられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。

ヤコブ書には聖霊という言葉が出て来ません。パウロのように、聖霊があなたがたを変える、というようには論じません。むしろ、ここにあるように「みことば」が私たちを変えると述べているのです。

これに関連してですが、さきほどパウロの「肉」と「御霊」とを対比していると言いましたが、ヤコブ書ではそれが「肉の知恵」と「上からの知恵」という対比に置き換わっているように見えます。3章15節以降をお読みします。

そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実に満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばれる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。

さきほどのパウロの教えと非常に似ていることがお分かりだと思います。「上からの知恵」を「御霊」と置き換えても、何の問題もなく意味が通じるでしょう。では、「上からの知恵」とは具体的には何を指すのでしょうか。一つの見方としてそれが神のことば、つまり聖書の言葉を指していると考えることができます。聖書のことばは神から与えられた知恵だからです。聖霊が私たちを変えてくださると言われても、どこか雲をつかむようなところがありますが、聖書のみことばが私たちを変えるというのは具体的にイメージしやすいのではないでしょうか。そのような視点から、今日の聖書箇所を読んで参りたいと思います。

2.本論

では、1章22節から見て参りましょう。ペテロは彼が手紙を送っている会衆に対し、彼らが「真理に従う」ことでたましいが清められたと述べています。ここで従順と訳されている言葉は「服従」とも訳される言葉です。真理に従うということは、つまり真理である神の言葉に従う、より具体的には神の言葉を聞いてそれを行うということです。ヤコブもそのことを明確に述べています。

また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。

このように、真理に従うとは聖書の教えを実行する、実践するということです。そうした行動、生き方の変化によってたましいが清められるのです。では、みことばを実践するとはどういうことかといえば、それは兄弟愛を実践するということです。主イエスも使徒パウロも、神の教えを要約すると「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」ということに帰結すると述べています。聖書にはたくさんの教えがあって、覚えきれない、実行できないという人がおられると思いますが、そんなに難しく考える必要はありません。神のことばが教えているのは、要は隣人を愛しなさいということなのです。

22節では、「種」という農業のたとえが突然出てきます。しかし、イエス様の種蒔きのたとえにあるように、「種」というのは神のことばを指す聖書的なメタファーです。ペテロは、クリスチャンが新しく生まれる、新生するのは朽ちない種、つまり神のことばによるのだ、と述べています。そして、その神のことばの素晴らしさを伝えるために、イザヤ書から大変有名なみことばを引用しています。これは私自身にとっての愛唱聖句でもあるのですが、イザヤ書40章7節、8節のことばです。お読みします。

人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。

ここではみことばの不変性が語られています。みことばの素晴らしさはいろいろ挙げることができますが、その一つは「変わらない」ということです。みことばの真理というものは、時代によって変わってしまう、つまりある時代においては真理だったが、別の時代になると真理ではなくなってしまう、というようなものではないのです。いつの時代にも変わらない不変の光を放つもの、それがみことばなのです。もちろん、聖書のことばの一字一句がいつの時代にも適用できるという意味ではありません。旧約聖書の律法を現代のユダヤ人あるいはクリスチャンが一字一句守っているかといえば、そうではないし、今の時代には実践できないような教えもあります。しかし、一番大事なことは変わりません。では一番大事なこととはなにか?それは、神が人類を見捨てずに、救済を約束しているということです。

25節の後半には、このイザヤ書の引用に続いてこう書かれています。「あなたがたに宣べ伝えた福音のことばがこれです」とあります。これは大事なことばです。というもの、このペテロの手紙が書かれた時代には、新約聖書はまだ完成しておらず、書かれた神のことばは旧約聖書だけでした。では、ペテロたちによって宣べ伝えられた福音のことばとは旧約聖書のことなのかと思われるかもしれませんが、そういうわけではありません。むしろ、福音とは旧約聖書のことば、約束がイエス・キリストにおいて成就されたという事実、そのことこそが福音、良き知らせなのです。では、旧約聖書の約束とは何かといえば、それもイザヤ書が明確に述べています。それが52章10節にあります。

主はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現した。地の果てもみな、私たちの神の救いを見る。

イスラエルの神の救いは、イスラエル人だけでなく、全人類に与えられる、これが旧約聖書の約束です。その約束がイエス・キリストにおいて実現した、これが福音なのです。

そのような約束が実現した今、ではクリスチャンはどう生きるべきか、ということを述べているのが2章1節と2節です。

ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。

ここでも、みことばこそが私たちを救うということが言われています。ただ、繰り返しますがみことばはただ聞くだけでは効果はありません。みことばを実行する、実践することを通じてこそ、たましいの救いが実現するのです。

そして、4節以降は、クリスチャンとはそもそもどういう存在なのか、ということが論じられています。クリスチャンは「生ける石だ」と言われているのです。これが今日の説教タイトルなのですが、そう言われて納得できるでしょうか。なんで石なの?と思われるかもしれません。それには訳があります。それはメシア、救世主のことが旧約聖書では「石」と呼ばれているのです。まず詩篇118編22節から24節までを読みましょう。

家を建てる者たちの捨てた石、それが礎の石となった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。

この一節は、ペテロが2章7節で引用している一文ですが、この「捨てられた石」というのがイエス・キリストなのです。この石が、家の礎石となった、となっています。では、ここで言われている「家」とは何のことでしょうか?それは神の家、神殿のことです。家を建てる者たちとは、イスラエルの指導者たちのことです。彼らは神殿を建てようとしますが、イエスのことは拒絶します。しかし、彼らに拒絶された石こそが、本物の神殿、つまり文字通りの石造りの神殿ではなく、霊的な神の民の共同体、つまり教会の礎になるということです。この礎となる石については、預言者イザヤも次のように語っています。イザヤ書28章16節をお読みします。

だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」

ここで言われている「かしら石」というのも、神殿で使われる石です。神殿の四隅に使われる、最も重みがかかる石のことです。その石がイエス・キリストだということです。そう考えると、メシアであるイエス様だけでなく、クリスチャン一人一人が「生ける石」と呼ばれているのか、その理由が分かるでしょう。それは、私たちも霊的な神殿、霊的な神の家、つまり教会の一部になるということです。ペテロはこう言います。

あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

このように、クリスチャンは神の神殿を構成する「石」であるだけでなく、神殿で仕える祭司であり、さらには神殿でささげられる生きたいけにえ、献げものでもあるのです。これと全く同じことを、使徒パウロも述べています。有名な一節ですが、お読みしましょう。ローマ書12章1節です。

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

このように、ペテロもパウロもクリスチャンは神の神殿であり、祭司であり、神への献げものだと述べています。こんなにいろんなことを言われると、ではクリスチャンとは何なのか?と、かえって分からなくなりますよね。ただ、ここでは難しく考えないようにしましょう。「神殿」、「祭司」、「献げもの」はみなユダヤ人の礼拝において必要不可欠なものです。クリスチャンがそれらすべてだ、ということはクリスチャンの存在自体が礼拝そのものなのだ、ということなのです。私たちの生活、神の教えに従う毎日の歩みそのものが神に喜ばれる礼拝だということなのです。

3.結論

まとめになります。ペテロの手紙の今日の箇所は、私たちを神に喜ばれるような存在に変えてくれるものは何か、ということについて書かれています。パウロならばそれは「聖霊」だというでしょうが、ペテロは「神のことば」だと言います。私たちが神のことばに従う時、実践する時に、私たちは変わります。神のことば、神の教えの要約は「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」ということです。私たちが神のことばに素直に従っていくときに、私たちのたましいは清められ、救われるのです。 また、ペテロはクリスチャンとは何であるのかについても語っています。ペテロは、クリスチャンは「生ける石」だと言います。生ける石とは何なのか、と思うかもしれませんが、それは生ける神の神殿、生ける神の礼拝共同体の一員だということです。

ペテロはこうしたことを、二千年前の小アジアのクリスチャンに伝えたのですが、それらはそのまま私たちにも当てはまります。私たちを救うのは「神のことば」であり、私たちもまた「生ける石」なのです。大事なことは、神のことばを聞くだけでなく、実践することです。日々祈りつつ、隣人を愛するということを実践することです。それが私たちを救います。聞くだけにならずに、実践することです。私はこのことを繰り返し言ってきましたが、今日もそれを強調させていただきます。そうすることで私たちも生ける石、生ける神の神殿の一部となるのです。お祈りします。

神のことばを私たちにお与え下さり、私たちを変えてくださる神様、そのお名前を賛美します。私たちがそのみことばを実践し、神の生ける神殿となることができるように、私たちを強めてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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反乱第二サムエル15章1~37節 https://domei-nakahara.com/2025/03/16/%e5%8f%8d%e4%b9%b1%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e3%82%b5%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%83%ab15%e7%ab%a01%ef%bd%9e37%e7%af%80/ Sun, 16 Mar 2025 04:42:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6242 "反乱
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1.序論

みなさま、おはようございます。今日からいよいよサムエル記の後半の最大の山場に入ります。それは、ダビデ王家の第二王子であるアブシャロムが父であるダビデ王に対して反乱を起こすという大事件です。今日はそのいきさつを見て参ります。

この説教の準備として、いくつかの注解書を読みました。すると、どの注解書を読んでも、アブシャロムが反乱を起こしたのは彼の「野心」のゆえだ、というように解説していました。アブシャロムは王になりたいという野心に突き動かされて反乱を起こしたのだと。しかし、本当にそうなのでしょうか。アブシャロムが王になりたいと願っていたとして、彼にはそうなるための手段がいくつもありました。何しろ彼は第二王子で、王位継承権者でした。ライバルはすぐ上の兄のキルアブだけです。彼は才媛のアビガイルの息子でしたが、アビガイルは非常に頭の良い女性でしたから、キルアブも優れた人物だったと思われます。ただ、彼は王になる野心はなかったようです。サムエル記の中でも、彼に言及している箇所はほとんどなく、影の薄い人物です。おそらく彼は利口な人で、王位継承権争いにかかわるとろくなことはないと、そういう争いから一貫して距離を置いていたと思われます。キルアブがそのような人物だったとするならば、アブシャロムが王になるための強力なライバルにはならなかったでしょう。アブシャロムには兄殺しという過去がありますので、普通ならば王になる可能性はそれでなくなるのですが、前回見たようにダビデは実質的に彼の罪を赦しています。ですから、彼は待っていれば機が熟して王になる可能性が最も高い人物なのです。

そう考えると、アブシャロムの最終的な目的が王になるということならば、彼は反乱、クーデターなど起こす必要はなかったのです。クーデターというのは非常に危険な手段です。伸るか反るか、一か八かのばくちです。日本の有名なクーデターは二・二六事件ですが、失敗しています。アブシャロムがダビデ王から命を狙われていて、その危険を回避するために反乱を起こしたというのなら分かりますが、そのようなことは全くなかったのです。そう考えると、アブシャロムが反乱を起こしたのは王になりたいという野心のためではなかったということになります。では、なぜ彼はこのような強硬手段に訴えたのでしょうか?

それは「復讐」です。アブシャロムは5年前に自分の兄であり、第一王子であったアムノンを殺害していますが、それはアムノンがアブシャロムの王になるという野心のための障害だったからではありません。アブシャロムは王になりたかったから、王位継承権第一位の人物を殺したわけではなかったのです。つまりクーデターではなかったということです。ではなぜそうしたのか?それは「復讐」です。アムノンはアブシャロムが非常に大切にしていた妹タマルを強姦し、タマルはそのショックで閉じこもりになってしまいました。アブシャロムが妹タマルをどれほど深く愛していたのかは、彼が自分の娘にタマルという名を付けたことからも分かります。妹をそんな悲惨な状況に追い込んだアムノンは、第一王子として何のお咎めもなく、のうのうと生きています。そしていずれは王になろうとしていうのです。アブシャロムはそれがどうしても許せませんでした。そこで、二年間も待って、仇討をすることにしました。彼はすぐにも復讐したいと思ったでしょうが、しかし当然アムノンも警戒しているので、相手が油断するのを待って二年も自重したのです。

さて、先ほど「仇討」という言葉を使いましたが、仇討と聞いて思い浮かべるのが赤穂浪士でしょう。大石内蔵助率いる四十七人が吉良上野介に仇討をした話です。しかし、実は大石が復讐したかったのは、吉良だけではなく、同時に片手落ちの裁定を下した江戸幕府そのものだったという話があります。喧嘩両成敗という武士の定めがあったのに、浅野内匠頭は即日切腹、吉良はお咎めなしというのはおかしいではないか、ということです。ですから大石たちの仇討の背景には江戸幕府への異議申し立てがあったのです。アムノンを暗殺したアブシャロムにも、同じような思いがあったでしょう。アブシャロムは妹を辱めたアムノンに激しく怒っていますが、娘のために何もしなかった父親に怒り、また王でありながら正義を行わなかったダビデに激しく怒っていたのです。ではダビデはなぜ正義を行わなかったのか?それは保身のためでした。アムノンの強姦の罪を裁くなら、同じく強姦を犯した自分の罪も蒸し返されてしまうからです。それでも、アブシャロムにも父王への期待があったものと思われます。アブシャロムはダビデに対して逆らったり、危害を与えるようなことは、この五年間一切ありませんでした。その間、アブシャロムはダビデが何をするのかをじっと見ていたのです。もしかすると、ダビデは王として正義を回復するために行動してくれるのではないかという期待があったのです。しかし、ダビデは何もしませんでした。本当に、何もしなかったのです。これはアブシャロムを心底失望させました。そして彼はついに行動を起こすのです。

2.本論

それでは、今日のテクストを見て参りましょう。アブシャロムは実質的にアムノン殺害の罪について不問に付されることになりました。アブシャロムには行動の自由が与えられたわけですが、彼が始めに行ったのが私兵団を作ることでした。戦車と馬、それに五十人の兵士でした。ボディーガードにしては、かなり大規模な私兵です。アブシャロムはすでにこの時点で来るべきダビデとの対決を決意したのでしょう。

これまで申し上げたように、アブシャロムはすでにダビデを見切っています。ダビデは王としては相応しくない、ダビデは王位から追放されるべきだと考えています。ここで強調したいのは、アブシャロムの動機は自分が王になりたいというより、ダビデを王位から追い出したいということだったということです。アブシャロムはアムノンに裁きを下しました。そして今度はダビデに裁きを下そうとしていたということです。

しかし、アブシャロムは慎重な人間でもあります。アムノン暗殺にも二年間の時間をかけました。今度はさらに強大な相手、ダビデです。彼は少しずつ自分のシンパを増やそうとしました。彼が特に標的にしたのは、「ダビデは裁き人として正しいだろうか?」という疑問を抱いている人たちでした。そもそも、アブシャロムがダビデに不満をいだくようになったのは、アムノンがタマルを強姦した罪を裁かなかったことでした。この大きな罪を放置したダビデには、裁判官、裁き人になる資格はないのではないか、というのがアブシャロムの疑念だったのです。

また当時は、多くの人が争いの仲裁を求めて王であるダビデに訴えをしていましたが、当然ダビデの仲裁に不満を持つ人もいます。ダビデに自分に有利な裁定を下して欲しかったのに、そうではなかった、がっかりしたという人たちがいたわけです。そうした人たちにアブシャロムは近づいていきました。ダビデが裁き人として正しくないとアブシャロムが言うと、それには説得力がありました。なぜなら人々はタマル事件のことを知っており、アブシャロムがダビデの裁き人としての資格に疑問を呈するのを理解できたからです。こうしてアブシャロムは段々と自分に味方する人、シンパシーを感じる人を増やしていきました。アムノン暗殺にはアブシャロムは二年かけましたが、ダビデに反旗を翻す準備をするのには二倍の四年をかけました。ここからも、アブシャロムという人が目的を達するためには非常にしっかりと準備をする人物だったことが分かります。

そして四年が経った後、アブシャロムはダビデにヘブロンに行くことを願い出ました。ヘブロンは、ダビデがエルサレムに首都を移転するまでは、ダビデが王として治めていた重要な地です。エルサレムにはまだ神殿が建っていないので、ヘブロンは未だに宗教の中心地であったのでしょう。アブシャロムは亡命先のゲシュルから帰国できたことを感謝するためにヘブロンに行きたいとダビデに願いました。ダビデは何の疑いも抱かず、アブシャロムの願いを聞き入れます。しかし、アブシャロムはそこで重大な行動を取ります。アブシャロムはイスラエルの王になると宣言したのです。ヘブロンは、エルサレムに王都が移る前に七年間も王都だったので、首都機能はすべて揃っています。有力者も多く残っていたことでしょう。また、アブシャロムはエルサレムからヘブロンに行くにあたって、二百人の有力者を連れて行きました。彼らはアブシャロムの行動について何も知らなかったので、ある意味で人質のような形になりました。アブシャロムを支持するならば良し、そうでなければ軟禁されてしまったものと思われます。

アブシャロムはさらに、軍師を呼び寄せます。軍師とは、三国志の諸葛孔明のような、すごく頭の良い人です。その軍師の名はアヒトフェルです。この人物は今後非常に重要な役割を果たすことになります。この人物について、16章23節にはこう書いてあります、「当時、アヒトフェルの進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることばのようであった。」つまりアヒトフェルは神のごとく知恵のある人だったということです。そして、より重要なのは、彼はあのバテ・シェバの祖父、おじいさんだということです。そのような人がダビデに対する反乱軍に加わったのです。しかし、今やバテ・シェバはダビデの妻です。ダビデと彼女との間に生まれたソロモンは、王位継承権を持つ者であり、アブシャロムとはライバルだということになります。アヒトフェルが自分の子孫であるソロモンをイスラエルの王にすることができれば、アヒトフェルの一門は大変栄えることになります。ではなぜ、アヒトフェルはライバルであるアブシャロムに加勢しようと思ったのでしょうか?ここからはわたしの想像なのですが、おそらくアヒトフェルはバテ・シェバの夫であるウリヤがダビデによって謀殺されたことを心底怒っていたのだと思います。彼は孫娘のバテ・シェバの夫であるウリヤの誠実な人柄を快く思っていたのでしょう。その彼が、妻をダビデに寝取られて、さらには騙されて戦死してしまったことはアヒトフェルにとっては大変ショックな出来事であったと思われます。しかも、孫娘のバテ・シェバはダビデの妻に収まってしまったのです。こんなことを許してよいのか、という怒りを抱き続けていました。そんな彼だったからこそ、アブシャロムがダビデに抱いた怒りをよく理解できたし、共感すらしたことでしょう。ですから、アヒトフェルはあえて火中の栗を拾う形で、クーデターに加勢することにしたのだと考えられます。これはダビデ陣営にとっては大変な痛手です。なにしろ、イスラエル最高のブレーンがアブシャロム陣営に加わってしまったのですから。

アブシャロムがヘブロンで起こした行動は、すぐさまエルサレムにいるダビデに伝えられました。その時にダビデはどうしたか?アブシャロムが王になると宣言したからといって、ダビデが直ちに窮地に陥るわけではありません。なにしろエルサレムは難攻不落の要塞都市です。ずいぶん後の時代の話ですが、超大国であるバビロンやローマですら、エルサレムを陥落させるためには何年もかかっています。ダビデには親衛隊もいますので、アブシャロム軍が攻めて来たとしても十分に応戦できるはずです。そしてダビデが断固戦うという姿勢を示せば、大多数のイスラエルの人々もダビデに従ったでしょう。何と言っても、ダビデは生ける伝説、あのゴリヤテを石礫で倒した人物です。その彼が号令をかければ、若いアブシャロムなど一ひねりだったでしょう。しかし、なんとダビデは一目散にエルサレムから逃げ出すことに決めたのです。昔はダビデは勇猛果敢な勇士でしたが、王となってからのここ数年は戦場に出ることもせずに、面倒なことは全部ヨアブに任せてきました。自分の部下たちが命がけで戦っているのに、その部下の奥さんと不倫をするようなだらしのない王になっていました。そのダビデが、この国家の危機に臨んで果敢な行動に出れるかといえば、そうもいきません。普段からぶらぶら遊んでばかりいる王様が、いきなり国家の危機に臨んで勇敢に行動できるはずがないのです。これまでもダビデは、過去に大きなトラブルがいくつもありました。アムノンによる王女タマルの強姦や、その第一王子であるアムノンの暗殺という国を揺るがす大事件が起きた時にも、何もしませんでしたが、今回もなにもせずに、王都を捨てて当てもない旅に出るということにしたのでした。

このように、ダビデは巨人ゴリヤテと勇敢に戦った若い頃とは違って、難敵に立ち向かうための気迫がありませんでした。彼は王という周りが何でもやってくれるという立場に長くいたために、きつい言い方ですが骨抜きにされてしまっていたのでした。同時に、ダビデの中にはアブシャロムと戦いたくないという気持ちが強かったように思います。後にヨアブたちがアブシャロムに対して反撃するときにも、アブシャロムを私に免じて見逃してほしいと頼んでいます。相手が自分の息子だということも、ダビデが戦うことを一顧だにせずに、すぐに逃走することを選んだ理由の一つでしょう。

そのようなダビデですが、部下たちは健気にも彼を見捨てずについて来てくれました。それもイスラエル人だけでなく、イスラエルの敵国のペリシテ人のガテ人もついて来てくれました。そのリーダーがイタイという人でした。彼らはイスラエル人ではないので、いわば傭兵のような立場なのですが、彼も部下たちと共に落ち延びるダビデに従ってくれました。しかしダビデにも、外国人に頼ることに不安を感じていたようです。あなたがたは私と一緒に来る必要はない、あの王のところにとどまりなさい、と言います。「あの王」とはアブシャロムのことです。ダビデがあたかもアブシャロムを王として認めているような言い方です。なぜこんな言い方をしたのかといえば、おそらくダビデはイタイのことを試したのだと思います。この男は信用できるのか、忠誠心はあるのか、ということを試したということです。そのダビデに対し、イタイは「生きるためにも、死ぬためにも、しもべも必ず、そこにいます」とまで言い切っています。そこでダビデも彼を信用して一緒に連れていくことにしました。この問答からも、ダビデはエルサレムを放棄したといっても、王位を諦めてしまったわけでは決してなく、チャンスを待って復権を果たそうとしていたことが分かります。ダビデは信頼のおける仲間を選んで自分の周りに置いて、反転攻勢の機会を探ろうとしていたのです。ダビデはすっかり腑抜けになってしまったわけではなく、まだしたたかさを失っていなかったのです。

ダビデのしたたかさは、次の行動からも伺えます。ダビデが逃げ延びるときに、彼に従う人たちは「契約の箱」も一緒に持ち運ぼうとしました。この契約の箱は、日本の天皇家の「三種の神器」のようなもので、王の正統性を示すシンボルのような意味を持っています。ダビデが自分こそ正統な王であるということを示すために、契約の箱はなんとしても奪われるわけにはいかないのです。しかし、なんとダビデはこの契約の箱をエルサレムに残していくことを決断します。それはなぜか?ダビデはここで、契約の箱を「トロイの木馬」のように用いようとしたのです。トロイの木馬とは、敵国への贈り物の木馬の中にスパイを忍び込ませて、敵の内側に入り込んだというギリシアの有名な話です。ダビデも、この契約の箱と同時に、契約の箱を持ち運ぶことのできる人たち、すなわちレビ人の指導者たちをスパイとしてアブシャロムの下に送り込もうとしたのです。アブシャロムも、「契約の箱」を自分の下に届けてくれたということで、彼らを信用するでしょう。自分に寝返ってくれたのか、と。それがダビデの狙いでした。ダビデは、これから大祭司の家系を担っていくツァドクとその息子たちをアブシャロムにところに送り出してこう言います、「よく覚えていてもらいたい。私は、あなたがたから知らせのことばが来るまで、荒野の草原で、しばらく待とう。」この言葉の意味は、しばらくアブシャロムの下でスパイとして働いて欲しい、そしてチャンスが来たら、私に知らせてほしいということです。

しかし、そのダビデの下に頭を抱えたくなるような知らせが届きました。それはあの神のごとき知恵者のアヒトフェルがアブシャロムの陣営に付いたという知らせでした。アブシャロムは、先ほども言いましたが諸葛孔明のような人物です。そんな人物がアブシャロムの陣営に付いてしまったのです。そこでダビデはここでも一計を案じます。アブシャロムに対抗できる知恵者、諸葛孔明に対する司馬懿仲達のような人物をアブシャロムのところにスパイとして送り込むことにしました。その人物の名はフシャイです。ダビデはフシャイに、「あなたは、私のために、アヒトフェルの助言を打ちこわすことになる」と言って彼を送り出しました。

こうしてみると、武人としてのダビデはすっかり影を潜めていますが、老練な政治家としてのダビデは面目躍如ということになるでしょう。

3.結論

まとめになります。今回はアブシャロムが謀反を起こし、それに対してダビデがどのような行動を採ったのかということを見て参りました。特に強調したのは、アブシャロムが反乱を起こしたのは、王になりたいという野心のためではなかったということでした。彼が本当に王になりたかったのなら、クーデターなどという非常に危険な行動を採る必要はありませんでした。むしろおとなしくしていたほうが、王になるチャンスは大きかったでしょう。ではなぜ彼は反乱を起こしたのか?それは、ダビデは王としてふさわしくないということを彼が見切って、彼なりにダビデに裁きを下そうとしたということでした。ダビデは王でありながら、国家を揺るがす大事件に対して何の行動もとらない、そんな人物を王に留めておいてはならないと信じたのです。 

そしてこのアブシャロムの背後には神のご意思、御心があったのは間違いないと思います。ダビデに次から次へと家族の不幸が起るのは、神がダビデに自らの罪に向き合うように促しているからだと言えます。ダビデはバテ・シェバ事件をもう終わったことにしてしまおうとしましたが、そうはいきませんでした。自らが蒔いた種を刈り取らせるというのが神の御心でした。しかしダビデが自分の罪から目をそらすたびに、新しい不幸がダビデを襲います。それがついには国を揺るがす内戦へとつながってしまったのです。

私たちもここから重要な教訓を学ぶべきでしょう。キリスト教は「罪の赦し」を強調します。では、罪の赦しとはどのように実現するのでしょうか?祈って、「神様、ごめんなさい。わたしはこんな罪を犯してしまいました」と告白すればよいのでしょうか?確かに神に赦しを求めることは重要です。しかし、それだけでは済まないということです。私たちは罪を犯した相手に対し、また自分の罪そのものに真摯に向き合う必要があります。水に流すのではなく、その結果に真摯に向き合わなければなりません。誰かに危害を加えてしまったのなら、その相手から赦してもらうのがどんなに大変でも、そのために努力しなければなりません。相手に真摯に向き合わなければなりません。神様が赦してくれたからそれで終わり、ということではないのです。その努力をしないと、ダビデのように自分の犯した罪から追いかけられる人生になってしまうでしょう。主イエスも神殿での礼拝よりも人との和解を優先しなさいと教えました。それは礼拝を軽んじてもよいという意味ではもちろんありませんが、それぐらい和解のために真剣に行動しなさいということです。そのようなことを思いめぐらしつつ、今後もサムエル記を読んで参りましょう。お祈りします。

公平な裁き主である神よ、そのお名前を賛美します。主がえこひいきせず、誰をも公平に裁かれることをダビデの生涯から学んでいます。私たちもそこから神を畏れることを学ぶことができますように。われらの救い主、平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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アブシャロム第二サムエル14章1~33節 https://domei-nakahara.com/2025/03/09/%e3%82%a2%e3%83%96%e3%82%b7%e3%83%a3%e3%83%ad%e3%83%a0%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e3%82%b5%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%83%ab14%e7%ab%a01%ef%bd%9e33%e7%af%80/ Sun, 09 Mar 2025 04:28:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6229 "アブシャロム
第二サムエル14章1~33節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。サムエル記もいよいよ終盤に入って参りました。これからのサムエル記は、ダビデ王朝の第三王子、いえ第一王子のアムノンが殺されているので今や第二王子になりますが、そのアブシャロムを中心に展開していきます。ダビデはライバルであったサウル王家を滅ぼし、周辺民族や国家も次々と征服し、今や盤石な権力を手に入れたはずだったのですが、なんと最大の敵は内側に、その家族の中から出て来たのです。ダビデにとっての最大のライバルはその息子となったのです。

次回の話になりますが、アブシャロムはこれから父であるダビデ王に対して反乱を起こします。とはいえ、アブシャロムはもともと王位継承権第三位にあり、しかも彼の二人の兄たちはとても有能とは言えない王子たちだったので、反乱など起こさなくても父ダビデと良好な関係を維持し、宮廷でうまく立ち回って廷臣たちの支持を集めていれば、兄たちに先んじておのずと王位は手に入ったでしょう。反乱などというリスクを冒さなくても、気が熟せばいずれ王の地位は手に入ったはずです。アブシャロムは外見も素晴らしかったですが、同時に実力を兼ね備え、頭もよく勇気のある人物でした。彼こそ王に相応しいと思っていた人は多かったでしょう。ではなぜアブシャロムは反乱という最もリスクの高い方法に訴えてしまったのでしょうか?その謎を解くカギがあるのが今回の記述です。

今回の話は、一読すればダビデ王とアブシャロムの和解の話であるように見えます。ダビデとアブシャロムの親子は、三年間プラス二年間、つまり五年間の音信不通の冷却期間を経て、今やイスラエル王国の実質的ナンバーワンの実力者ヨアブの仲裁によって、公式に和解したように見えます。今回の最後の一文、「王はアブシャロムに口づけした」というのはそれを象徴する行為に思えます。しかし、実際にはこの後アブシャロムはダビデ王を打倒するための準備を着々と進めていきます。つまり、アブシャロムは父と和解するどころか、激しい憎悪を募らせていったのです。では、なぜアブシャロムは父ダビデをこれほど激しく憎むようになったのでしょうか?父からひどい扱いを受けた、いわゆるチャイルド・アビューズ、父からの虐待を受けてきたからでしょうか?いいえ、そうではありません。むしろ、アブシャロムは父から愛されて育ってきました。では何が不満だったのか?それは、ダビデが何もしなかったことなのです。何もしない、王としても父としても何もしなかったのです。これが心底アブシャロムを失望させ、それがついには殺意にまで至ってしまったのでした。

前回から今回の話まで、ダビデの家には様々な大事件が起こりました。最初に起った事件は、なんと兄が妹を強姦するという、前代未聞のスキャンダルでした。しかもその兄というのは王位継承権第一位、ダビデの次に王になるべき第一王子のアムノンだったのです。日本人にとっては、次期天皇になる皇子が妹を強姦したというような話です。まさに耳を疑う大スキャンダルです。しかし、そんな大事件を聞いたダビデは何をしたでしょうか?驚くべきことに、何もしなかったのです。その話を聞いたダビデは激しく怒りましたが、にもかかわらず恐るべき罪を犯した第一王子に何の処分も下しませんでした。こんなことがあり得るでしょうか?父親が強姦された娘のために何もしないなどということがあってよいのでしょうか?しかし、ダビデは何もしませんでした。辱められたタマルは、未来にすっかり失望してしまい、家に引きこもってしまいました。他方で、強姦したアムノンはお咎めなしで、のうのうと第一王子の地位にいます。タマルの兄のアブシャロムはアムノンに激しい怒りを覚えましたが、実の娘のためになにもしてくれないダビデに対しても強い憤りを覚えていたのも間違いないでしょう。

この第一の大事件が、第二の大事件を生み出します。今度は第一王子が殺害されるという事件です。また物騒なたとえで申し訳ないのですが、日本人にとっては次期天皇陛下になられる皇太子が殺害されるというような事件です。まさに国家を揺るがす事件です。しかも、第一王子を殺したのは第三王子なのです。王であるダビデは当然、国家反逆罪を犯した第三王子のアブシャロムを処罰しなければなりません。アブシャロムは母親の実家であるゲシュルという国に逃げ込みました。アブシャロムの母はゲシュルの王の娘でしたので、アブシャロムは王の孫ということになります。さすがのダビデ王も同盟国との戦争になりかねないことから、アブシャロムの引き渡しを求めることは出来なかったのかもしれません。しかし、ヨアブの策略によって三年後にアブシャロムはエルサレムに帰ってきました。そしていくらアブシャロムは王子だといっても、第一王子を殺害した大罪人です。ダビデ王は彼に相応しい裁きをくだす必要があります。そうでなければ、国の秩序は滅茶苦茶になってしまいます。にもかかわらず、今回もダビデは何もしませんでした。むしろ厄介事を避けるかのように、アブシャロムを無視し、二年間も会おうとはしませんでした。放置され、飼い殺しのようになったアブシャロムはイライラします。イライラしただけでなく、ダビデに対する不満や怒りが一層大きくなったでしょう。

ではなぜダビデは、この国家的犯罪ともいうべき二つの大事件について何もしなかったのでしょうか?そこには、王としての深謀遠慮があったのでしょうか。いいえ、そうではないでしょう。むしろダビデは個人的な理由からこうした問題に関わることから逃げたのだというのが私の見方です。まずアムノンによるタマルの強姦ですが、実はダビデ自身も全く同じ罪を犯していました。人妻であるバテ・シェバを強姦し、あろうことか彼女の夫でありダビデに忠実な兵士であるウリヤを策略によって謀殺してしまいました。しかし、ではダビデはこの恐ろしい罪の罰を受けたでしょうか?いいえ、彼は何の罰も受けませんでした。むしろ、自分は神に赦されたのだからということで、罰を受ける必要がないと正当化していたようにすら見えます。そんなダビデが、全く同じ罪を犯した息子に対して、自分は無罪にしたのに息子は厳罰に処するなどということができたでしょうか?いえ、さすがにそれはできませんでした。息子を裁けば、「王様は自分のやったことには何の責任も取らず、ウリヤの奥さんを我が物にしたのに、息子には責任取らせるんだ。サイテー」みたいな噂が立ってしまったことでしょう。それでダビデはアムノンの大罪を不問に付しました。その結果、一番の被害者はタマルでした。強姦されたのに、暴行した側の男は何のお咎めもなしです。それを知った世間は、「タマルもその気があったんじゃないの。だからアムノンは裁かれないんじゃないの。兄と妹の禁断の愛なんて、不潔よね」というような噂が立ってしまったことでしょう。そんな噂が流れれば、結婚前の若い女性からすれば死刑宣告も同じですよね。そのために、花のように美しい、明るい未来が待っていたはずのタマルは世捨て人のように兄の家で引きこもりになってしまいました。自分がかわいがっていた妹のタマルをこんなことにさせられて怒ったのは兄のアブシャロムでした。彼は暴行魔のアムノンに復讐を誓います。

そして、前回の説教でお話ししたように、アブシャロムは二年間も我慢して、機会を待ちました。アムノンを油断させるためです。そして、アブシャロムはアムノンに裁きを下しました。しかし、王であるダビデがアムノンを正しく裁いてくれていたのなら、アブシャロムはそんなことをする必要はなかったのです。そういう意味では、アブシャロムは無責任なダビデによる被害者だということになります。しかし、そうはいってもアブシャロムはクラウン・プリンスを殺した大罪人です。この人物は国家の基盤を揺るがせたのです。そのアブシャロムをダビデがどう扱ったのか、というのが今日の箇所です。では、その顛末を詳しく見て参りましょう。

2.本論

では1節です。ここではダビデがアブシャロムに「敵意をいだいていた」とありますが、この訳は行き過ぎであると思われます。ダビデがアブシャロムを憎んでいたのなら、ヨアブはどうしてアブシャロムをわざわざダビデのところに連れて来たのでしょうか?アブシャロムを殺したかったのでしょうか?いいえ、むしろヨアブの狙いはアブシャロムの復権でした。ですから、ヨアブはダビデが実はアブシャロムと会いたがっているので、その主君の思いをおもんぱかってアブシャロムを連れ戻そうとしたのでしょう。実際、「敵意をいだいていた」と訳されている箇所を直訳すれば、「ダビデの心はアブシャロムに向かっていた」となります。別に憎んでいたという意味ではないのです。敵視していたという意味は一つの選択肢としてはあり得ます。しかし基本的な意味は、単に向いているというものです。ヨアブは、ダビデは実はアブシャロムのことを気にしているのに気が付いて、いわば忖度してダビデのためにアブシャロムを戻らせようとしたのです。実際、最新の聖書訳である聖書協会共同訳では「ツェルヤの子ヨアブは、王の心がアブシャロムに傾いているのに気付いた」となっています。私たちの使っている新改訳の最新版でも「王の心がアブシャロムに向いている」と、従来の訳を訂正しています。 

ただ、ダビデも対面というものがあります。大罪を犯したアブシャロムのことを赦して帰国させるということは、王である自分からは言い出せないことです。王様は自分の子どもだけえこひいきしていると言われてしまうからです。そこでヨアブは、ダビデがアブシャロムを赦すと言わざるを得ない状況を作ってあげようとしたのです。ヨアブは、先にダビデの罪を暴き出した預言者ナタンのやり方を真似ることにしました。ナタンは、金持ちの男が自分の多くの家畜の一匹を屠ることを惜しんで、貧しい人のたった一匹の羊の奪い取った話をしました。ダビデはその話を聞いて怒り、そんなひどいことをした金持ちの男は死刑だ、と宣言しました。しかし、実はこの金持ち男はダビデだったという落ちがきます。

ヨアブはそれとまったく同じことをしました。ダビデのもとに、テコアというダビデの出身地であるベツレヘムからほど近い村からやってきた女性がいました。彼女はダビデの前で身の上話を始めます。彼女の夫は死んで、ふたりの息子が残りました。しかし、このふたりの息子が喧嘩をして、なんと一人がもう一人を殺してしまうという事件が起きてしまいました。この哀れな女性は夫と息子を相次いで失くしてしまったことになります。当時は女性は一人では生きていけない時代ですから、今やこの女性の最後の頼みの綱は、残された息子だということになります。しかし、この息子はもう一人の息子を殺した殺人者です。ですから親族全体はこの息子を殺せと母親に詰め寄ります。この女性は困り果てて、なんとかこの息子を救ってほしいとダビデに願い出たという、このような話でした。

ダビデはこの女を哀れに思い、王命として彼女の息子の恩赦を命じました。そして、自分の裁定に文句をいう人がいたら、その者を自分の所に連れてこいと命じました。ここで注意していただきたいのは、ダビデはここで兄弟殺しの罪を恩赦するという前例を作ったということです。実際は、この女性の話は作り話だったので、この恩赦も実際には意味のないものではあるのですが、それでも事実としてダビデは兄弟殺しの罪を赦すという前例をここで作ったのです。そこで、ヨアブの意を受けたこの知恵のある女はこの機会を見逃しませんでした。あなたは兄弟を殺した私の息子を赦した、それではなぜあなた自身の子どもを赦さないのか、と。ここでこの女はナタンと全く同じことをしたのです。つまり、あなたが赦すと語った息子は、あなた自身の息子なのだと。

ダビデは非常に頭の良い人ですから、ここですべてのカラクリに気が付きました。つまりこの女の話はすべて作り話であり、自分にアブシャロムへの恩赦を与えるように促すために仕組まれたものだと。そして、こんな大胆な仕掛けを王であるダビデに行えることができるのは一人しかいないと。それはヨアブです。今や王であるダビデすら、コントロールできない人物がヨアブです。そのヨアブが、この女を遣わしたのだとすぐに見破りました。そして女にそのことを問いただすと、女も白状しました。これはすべてヨアブの指図でやったのだと。そこでダビデはヨアブを呼んで、彼の願い通りアブシャロムを連れ戻してもよいといいます。ヨアブも喜び、すぐにゲシュルに向かってアブシャロムを迎えに行きました。

さあこれでめでたし、めでたし、となりそうなものですが、そうはいきませんでした。なぜならせっかくアブシャロムが戻ってきたのに、ダビデは彼に謹慎を命じて会おうとはしなかったからです。ダビデとしては、ここでアブシャロムに会うと彼の第一王子暗殺の件を追求せざるを得なくなる、そうして彼を裁くことになってしまうので、それは避けたいというある種の親心があったものと思われます。彼は決してアブシャロムを憎んではいなかったのですから。しかし、アブシャロムの方はそうは受け止めませんでした。三年も亡命して、やっと祖国に帰ってきたのです。しかし、そこでは自由を奪われ飼い殺しのような状態です。彼も第一王子を殺した以上、何らかの処罰は免れないという覚悟はあったでしょう。しかし、このようなどっちつかずの状態にとどめ置かれるということは予想していませんでした。こんなことなら、ゲシュルに留まっておればよかった、そこでは行動の自由もあったのだから、という気持ちになってきました。そして私が思うに、ダビデ王に対する決定的な敵意が生まれたのはこの期間ではないかと思います。つまり、ダビデは父としてだけでなく王としても失格だと。彼には決断ができない、面倒なことから逃げようとしている、そういう客観的な目で、もっと言えば冷徹な目でダビデを見るようになったものと思われます。五年という期間は大変長い期間です。もう怒りや激情に任せて、ということではなく、冷静にダビデを切る覚悟が出来て来たように思います。そこで彼は行動を再び起こします。ヨアブを無理やり動かして、王ダビデとの再会を迫ったのです。

こうして五年ぶりにダビデとアブシャロムとの再会が叶いました、ダビデとしては、万感の思いがあったでしょう。彼はずっとわが子アブシャロムのことを慕っていたのですから。ダビデがアブシャロムに口づけしたというのはもちろん本心から出た行動でしょう。しかしアブシャロムの心は冷え切っていました。妹タマルの名誉回復のためにはなにもせず、自分自身のことについてもヨアブにせっつかれるまでは何もしないダメな父王、無能な王だという侮蔑の思いすらあったように思います。

3.結論

まとめになります。今回はダビデとアブシャロムが一見すると和解したように見える場面に至るまでの、ダビデとアブシャロムの親子の心の動きを考えながら見て参りました。ダビデはまったく主体性に欠けた人物として描かれています。次々と起きる家族の悲劇的状況を傍観するだけの王です。そんなダビデに愛想を尽かせてしまったのがアブシャロムでした。彼はついにはダビデに対して殺意すら抱くようになってしまったのです。

この悲劇的結末に向かっていく事態を、どうすればよかったのでしょうか?ダビデはどこで間違えたのでしょうか。私には、問題は明らかであるように思えます。たとえば皆さんが会社に勤めているサラリーマンだとします。その社長がワンマン社長で、誰も逆らえないような人物であり、なんとその社長が部下の奥さんを凌辱し、その恥ずべき行為がばれないようにその部下を戦争が行われている非常に危険な国の駐在員にして、そこで紛争に巻きこまれて死ぬように画策したとします。しかしその一連の悪事が暴露された後、その社長は熱心なクリスチャンで、教会で自らの罪を涙ながらに懺悔し、教会も彼の罪を赦してくれたということでその社長の座に留まり、殺した部下の奥さんを愛人として囲っていたとします。そんな社長のいる会社で、あなたはこれからも働き続けたいと思いますか?ダビデはまさにそんな社長だったのです。いくら神に赦されたといっても、何の責任も取らない社長というのはあり得ないでしょう。せめて辞任して、殺してしまった部下への償いとして残りの生涯は社会奉仕をするとか、そういうことでもしなければ誰も納得しないでしょう。ですから、こんなことを言う牧師はいないかもしれないでしょうが、私はダビデは少なくとも退位すべきだったと思います。バテ・シェバを妻にするべきではなかったとも思います。ダビデが厳しく自分自身を律していれば、アムノンが同じような罪を犯したときに彼を厳しく罰することも出来たでしょうし、そうすればアブシャロムによる兄殺しの罪も起こらずに済んだのです。ですからすべてはダビデが自分に甘すぎた、神の赦しという大義名分に安住して自分の罪に向き合わなかったことから起きたことだと言えます。

教会は、キリスト教は確かに赦しの宗教です。大きな失敗をしてしまった人をただ切り捨てるのは教会としての正しい姿とは言えないでしょう。しかし、同時に赦しというものを安易に考えたり、あまつさえ悪用してもならないのです。たとえ神に赦していただいたとしても、罪を犯してしまった相手に真摯に向き合う、その人に対してできる限りの謝罪を行動によって示していかない限り、真の和解は成立せず、むしろ人間関係も社会も崩壊してしまうということがあるのです。今日の教会は、教会戒規というものを非常に嫌います。教会戒規とは、大きな罪を犯した教会員に対し、公の司法の場ではなく、教会として何らかの罰則を科すことです。しかし、今日では教会戒規は有名無実化していく傾向があります。たとえば不倫などの罪を教会員が犯したことが判明した場合でも、「イエス様も姦淫の女を裁かなかったじゃないか」というような話を持ち出してうやむやにしてしまう傾向があるのではないでしょうか。しかし、裏切られた配偶者のことはどうなのか、また崩壊した家族で絶望し途方に暮れる子どもの気持ちはどうなのか、ということを考えると、そういう問題を教会が「赦し」ということで曖昧にしてよいものか、という問題意識を私は持っています。先ほどのイエス様の姦淫の女の話も、あれはイエスを陥れようとした罠であって、一般化すべき事例ではないことも申し添えておきます。確かに私たちは弱い存在であり、完璧な人などいません。実際に、いろいろな過ちを日々犯してしまうものです。自分がそうした罪深い存在であるということは決して忘れてはならないことです。それでも、他の人の人生を狂わしてしまうような性質の罪、しかもそういう罪を故意に犯すということは見逃すことはできないということも言うべきでしょう。私たちは自分の行動が他の人に及ぼす影響の責任を取らなければならないのです。今の世の中は不倫などに寛容でもあるので、厳しいことを言うと嫌われてしまうことを恐れてしまいがちです。しかし、こうしたことを曖昧にしてしまった結果どうなるのか、ということを、これからのダビデの生涯から学んで参りたいと思います。お祈りします。

歴史を統べ治める神様、そのお名前を賛美します。今朝はダビデとアブシャロムとの破局に向かう親子関係から、私たちが罪にどう向き合うべきかを考えて参りました。そこから正しい教訓を得られるように私たちに知恵をお与えください。われらの平和の主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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自分を低くするということ-レビ(マタイ)とザアカイの回心からルカ福音書5章27-32節; 18章9-14節; 19章1-10節嶋田浩一 https://domei-nakahara.com/2025/03/02/%e8%87%aa%e5%88%86%e3%82%92%e4%bd%8e%e3%81%8f%e3%81%99%e3%82%8b%e3%81%a8%e3%81%84%e3%81%86%e3%81%93%e3%81%a8%ef%bc%8d%e3%83%ac%e3%83%93%ef%bc%88%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%ef%bc%89%e3%81%a8%e3%82%b6/ Sun, 02 Mar 2025 04:40:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6214 https://domei-nakahara.com/media/Lower%20oneself.MP3

*今回の奨励は録音のみで、原稿はありませんが、ぜひ録音をお聞きください。

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聖なるもの第一ペテロ1章13~21節 https://domei-nakahara.com/2025/02/23/%e8%81%96%e3%81%aa%e3%82%8b%e3%82%82%e3%81%ae%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%83%9a%e3%83%86%e3%83%ad1%e7%ab%a013%ef%bd%9e21%e7%af%80/ Sun, 23 Feb 2025 04:11:30 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6198 "聖なるもの
第一ペテロ1章13~21節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。前回から第一ペテロの説教を始めましたが、今回が二回目になります。前回はこの書簡の導入部分でした。挨拶のような内容です。しかし挨拶とはいえ、そこでは非常に大事なことが言われていました。それはどんなことかと言えば、ペテロは彼が手紙を書き送った人々が直面している困難は、彼らを浄化するための試練であり、その先には大きな報いが待っているのだ、ということでした。

そして今回です。今回の箇所の大きな特徴は、「命令形」で語られているということです。これまでは、「あなたがたは何々なのです」という、いわゆる直接法で語られました。それに対して、今回の箇所では「あなたがたはこうしなさい、何々をしなさい」という命令形で語られています。あなたがたは神に選ばれた者であり、現在直面している試練を乗り越えた先には大きな栄光が待ち受けているということが前回語られていたのですが、では現在進行中の試練の中を歩む彼らは具体的にはどうすべきなのか、どう生きるべきなのかということが今回のテーマだということなのです。

そして、今回の箇所を理解する上で非常に重要なのは「聖」ということです。聖とは、英語でいうholyです。有名な讃美歌で、「聖なる、聖なる、聖なるかな」というのがありますが、英語では、「ホーリー、ホーリー、ホーリー」となっていますね。その聖なるものになりなさい、というのがペテロの命じていることだからです。特に、あらゆる行いにおいて聖なるものであれ、と言われています。なんだかすごく崇高な話ですよね。でも、聖なるものになれって、どういうことなんでしょうか?聖人とか、聖者というのは自分とは関係のない存在、マザー・テレサとかほんの一部の人たちだけなんだと考えるクリスチャンの方も多いのではないでしょうか。その私たちが「聖なるものになれ」と言われても、具体的にどうすればよいのか困ってしまうのではないでしょうか。

そこで、この「聖」、ホーリーということについてよく考えてみたいと思います。ペテロの手紙はギリシア語で書かれていますが、そのギリシア語原語では、「聖なる」とはハギオスという言葉で、それはさらに旧約聖書の言語であるヘブライ語を訳したものです。そしてハギオスに対応するヘブライ語はカドーシュです。このカドーシュという言葉の意味を理解することで、「聖なるもの」になるというのはどういうことなのかがイメージしやすくなるでしょう。みなさんは、「聖なる」の反対の言葉は何だと思いますか?たぶん、「汚れている」とか「俗っぽい」とか、かなり否定的な言葉を連想されると思います。聖俗二元論なんて言い方をしますが、「俗物」というのは非常に否定的な言葉です。汚れというのも悪い言葉です。ダーティーということばは否な響きがありますよね。俗という言葉は、このダーティーという意味合いで使われます。しかし、実は「聖」という言葉の反対語には、否定的な意味はないのです。こういうと、驚かれるかもしれません。

みなさんは、英語で「コモン」という言葉をご存じですよね。「コモン・センス」という言葉がありますが、それは「常識」という意味です。アメリカのトランプ大統領は先の就任演説で「私は常識の革命を行う」ということをおっしゃっていました。どういうことかと言えば、近年のアメリカでは人間には男と女という二つの性別以外に、「X」、つまりその二つに区分できない性別があるのだと言われてきました。実際、先のバイデン政権時代の話ですが、アメリカのパスポートには男女二つの性別区分以外に、第三の性別として「X」という欄が設けられていました。これはアメリカだけでなく、ドイツも同じです。2018年からドイツでは、パスポートに男女以外の第三の性別を認めるようになりました。では、男女以外の性別っていったい何なのかと、私たち日本人は驚いてしまうかもしれませんが、欧米の先進諸国ではこれが新しいグローバルスタンダードになりつつあったのです。トランプ大統領は大統領演説で、「性別は男と女しかない」と述べましたが、彼はこっちのほうが常識的な考え方ではないか、ということを言いたかったのです。男女以外の新しい性別を認めるのが多様性を認める「進歩的」な考え方なのだ、という意見に対して、より伝統的な見方を述べたのだということです。

少し脱線しましたが、常識という意味のコモン・センスの「コモン」には、わりと良い響きがあります。少なくとも否定的な意味合いはないですよね。「コモン」を日本語に訳せば「普通」または「一般」となります。「あの人は普通の人だ」、というのは日本では誉め言葉として使われますよね。むしろ「変わった人だ」、「特殊な人だ」と言われないように気を付けるというのが日本人の感覚であろうと思います。そして、先ほど述べた「聖」、ホーリーの反対語はこの「コモン」なのです。これには驚かれるかもしれません。しかし、本当なのです。それを示す聖書箇所を見てみたいと思います。覚えやすい箇所なので、みなさんも暗唱聖句にしてもよいでしょう。それはレビ記10章10節です。10の10ですから、覚えやすいでしょう。こうあります。

それはまた、あなたがたが、聖なるものと俗なるもの、また汚れたものときよいものを区別するため

とあり、このように聖と俗とを対比しています。それに対して英語訳はどうかと言えば、

You are to distinguish between the holy and the common, and between the unclean and clean.

と、このように「俗」と訳されている部分はコモンということになります。

なぜ長々とこんな話をしたのかといえば、それは聖書的な意味で「聖」という言葉がどういう意味かということを理解する上でこのことが非常に重要だからです。コモン、すなわち普通の反対とは何でしょうか?それは「特別」ということです。ですから聖なるものとは、「特別なもの」という意味になるのです。「聖なるものであれ」とは「特別であれ」ということです。「特別である」ということの一つの意味は、「みんなとは違う」ということです。私たち日本人は人と違うということを恐れるとよく言われます。みんなと同じがいい、その方が安心する、ということです。ですから「聖なるものであれ」ということの一つの意味は、「人と違うように振舞うことを恐れるな」ということでもあります。私たちはよく、聖なるものになれというのは「誰もが尊敬するような立派な生き方をせよ」という意味だと考えて、自分には無理そうだな、と思ってしまうことがないでしょうか。そういう意味もないわけではないのですが、しかし「聖なるものになれ」ということの意味を、他の人たち、みんなと違う生き方をすることを恐れるな、という意味で理解するならば、そこから励ましを受けないでしょうか。そのようなことを考えながら、今日のみことばを読んで参りたいと思います。

2.本論

今日の箇所の中でも、とりわけ重要なのは17節でペテロが神のことを「人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方」と呼んでいることです。これはどういうことかと言えば、単刀直入に言えば神様はクリスチャンであろうとなかろうと、人をえこひいきすることなく、人をそれぞれその行いに応じて公平に裁くということです。ですから、だらしのない生活をしているクリスチャンよりも、違う宗教やあるいは無宗教の人であっても、世のため人のために一生懸命に生きている人の方を神様は好意的に見られるということになります。しかし、こう言うと「そんなはずはない」と思われる方もおられるでしょう。他の宗教はいざ知らず、キリスト教の神は人を行いに応じて裁くのではない、神は人を信仰によって評価するのだ、と考える方がおられるからです。人間の行いは、たとえどんな立派な人でも神の要求する高みに達することは決してできない。つまり行いでは誰も救われない。だから神は私たちでもできる方法、つまり「信じるだけ」で救われるという恵みを、キリストを通して与えてくださったのだ、とそのように考える方が多いということです。これがパウロの唱えた「信仰義認」であると。したがって、たとえあるクリスチャンの行いがクリスチャンではない人の行いと比べて明らかに悪い場合でも、救われるのはクリスチャンの方なのだ、という見方につながっていくわけです。では、実際にはそのパウロはどのように言っているでしょうか?驚かれるかもしれませんが、そうではないのです。その証拠として、ローマ書2章6節から11節までをお読みします。

神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、悪を行うすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、善を行うすべての者の上にあります。神にはえこひいきなどはないからです。

ここでパウロがペテロとまったく同じことを言っているのに注目してください。すなわち、神はひとりひとり、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、あるいは他のどの民族であろうと、それぞれを行いに応じて裁くということです。パウロがそんなことを言っているなんて信じられない、パウロは信仰によって義とされると言っているではないか、と思うかもしれませんが、パウロの言う「信仰」とは「ただ信じること」ではなく、忠実であること、キリストが神に従順であったように、私たちも神に従順である、忠実であるということです。いわゆる「ただ信じる」ということではないのです。今日はパウロの手紙の説教ではないのでここらへんでやめておきますが、大事なポイントはパウロもペテロも神は公平に、その人がユダヤ人であろうとクリスチャンであろうと、他の人たちと同じ基準で公平に裁くということです。

神がそのような方であるからこそ、ペテロは「心を引き締めなさい」、「身を慎みなさい」、「従順な子どもとなりなさい」、「恐れかしこんで過ごしなさい」と何度も念を押して勧告しているのです。

ただ、誤解してほしくないのは、神がクリスチャンであろうとなかろうと、同じ基準で裁くとしても、では神とクリスチャンとの関係には何も特別なことはないのか、というと、決してそうではありません。むしろその反対です。それはどういうことかと言えば、たとえばあなたが通っている学校の先生があなたの父親、または母親だったとします。その先生が、あなたのことをえこひいきして、あなたが悪いことをしても見過ごすのに、他の学生が悪いことをするとその場合には厳罰を科す、ということになれば、その学校は崩壊してしまうでしょう。そんなえこひいきをする先生には従っていられない、と苦情が殺到することでしょう。したがって、あなたの親である先生は、自分の子どもであろうとなかろうと、公平に評価するように努めるでしょう。しかし、そうはいってもあなたは先生の子ともであり、特別な立場にあるのも間違いありません。家に帰れば、親から親子として特別な指導を受けられるというものすごい特権を持っているのも間違いないのです。

神とクリスチャンとの関係も、そのように考えなければならないということです。「聖なるものであれ」というのは、「あなたの特別な立場をよく考えなさい」ということなのです。クリスチャンにとって神は父であり、私たちクリスチャンは神の子なのです。そのことの重さや責任をかみしめて、クリスチャンではない人々の前で恥ずかしくない歩みをしなさいというのがペテロのメッセージです。ただ、ここでも誤解しないようにしていただきたいのですが、恥ずかしくないというのは、先の学校のたとえで言えば、先生の子どもなのだから他の学生と比べて成績優秀でなければいけないとか、そういう話ではないということです。むしろ、「赤信号みんなで渡れば怖くない」というように、周りの人たちが安易に周囲に流されて正しくない方向に向かおうとするときでも、「私はそうしません」と言って、他の学生たちとは違う行動をすることを恐れないということです。神はこのような特別さを私たちに期待しておられるということです。

そして19節からは、私たちが神の子どもとされるために、どんなに大きな犠牲が払われたのか、ということが語られています。ここで「贖い」という言葉が使われていますが、この言葉の基本的な意味は「買い戻す」ということです。たとえば、今の日本ではあり得ない想定ですが、あなたが戦争捕虜になってしまったとします。そのような際に、あなたを自由にするために国や誰かがお金を払ってくれたとします。それが「贖う」ということの意味です。ペテロが手紙を書き送った異邦人クリスチャンたちは、「先祖伝来のむなしい生き方」という状態に、いわばとりこになっていた、捕虜になっていたのです。その状態から異邦人たちを救い出すために、何が支払われたのかといえば金銀などの金銭ではなく、なんとキリストの尊い血、尊い命が身代金として払われたということなのです。キリストは自らの命を代価として支払って、私たちを罪の世から贖い出してくださったのです。そのような高価な、あまりにも高価な代価が支払われたということを覚えて、私たちはより一層身を慎んで歩むべきなのです。しかし、自ら私たちのために命を捨てられたキリストを、神は死者の中から復活させてくださいました。このキリストの復活によって示された神の力こそ、私たちの希望の根拠であるのです。ですから、もしキリストが死者の中からよみがえらなかったとしたら、私たちの信仰は全く無意味になります。復活とはそれほどまでに重要なものなのです。

3.結論

まとめになります。今日は特に、「聖なるものになる」、「聖なるものとして生きる」というのはいったいどういうことなのかを考えて参りました。特に強調したのは、「聖」の反対は「俗」ではなく、コモン、つまり普通だということでした。そして普通の反対は「特別」です。聖なるものとは、特別なものだということです。ではどのように特別なのかといえば、クリスチャンは神の子である、という意味で特別なのです。神との特別な関係にあるということです。イエスはご自身の命を代価として、私たちを罪の世から贖い、神の子にしてくださったのです。ただ、神の子であるということは、神からえこひいきしてもらえるということではないのです。神は公平な方ですから、神の子であっても、そうでなくても同じ基準、つまり行いに応じて公平に裁かれます。私たちが神の子だからと言って油断しきっていると、最後の審判の際に思わぬ裁きを言い渡される恐れがあります。ですからここは勘違いしないようにしましょう。クリスチャンはむしろ、神との特別な関係にある者として、そうでない人たちに対して神に従う生き方を示す責任を負っているのです。

このペテロの手紙の内容は、二千年前の小アジアの人たちだけでなく、現代に生きる私たちに対して向けられたものでもあります。私たちも聖なるもの、特別なもの、神の子とされた者です。そして13節で言われている「イエス・キリストの現れのとき」は、この手紙が書かれた時よりも確実に近づいています。それがどういうことなのかは私たちにははっきりとは分かりませんが、キリストが現れるときは私たちが栄光を受ける時であると同時に、裁き、あるいは評価の時だということもこの手紙では強調されています。つまり私たちが神の子として、キリスト者としてどう生きたのかということについてキリストから評価を受ける時でもあるということです。そう考えると、本当に身が引き締まります。私たちが神の期待に応えられるように、上よりの助けを求めて参りましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。私たちは聖なるもの、神の子とされました。この特権に相応しく歩むことができるように私たちを導き、また強めてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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信仰と救い第一ペテロ1章1~12節 https://domei-nakahara.com/2025/02/16/%e4%bf%a1%e4%bb%b0%e3%81%a8%e6%95%91%e3%81%84%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%83%9a%e3%83%86%e3%83%ad1%e7%ab%a01%ef%bd%9e12%e7%af%80/ Sun, 16 Feb 2025 05:00:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6177 "信仰と救い
第一ペテロ1章1~12節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。これまで毎月の月末はヤコブの手紙を学んで参りましたが、その講解説教も終わりましたので、これからはペテロの手紙第一を読み進めて参ります。今日は月末ではなく、第三週ですが、本書簡に親しむためにも、今月だけは二回連続して本書簡から説教させていただくことにしました。

この手紙の著者は、冒頭にあるように「使徒ペテロ」だと明記されています。つまり、イエスの十二使徒筆頭のシモン・ペテロだということです。しかし、ヤコブの手紙と同じく、このことについて研究者たちは疑問視しています。なぜかといえば、主の兄弟ヤコブの場合と同様に、無学の漁師だったシモン・ペテロがギリシア語の読み書きが出来たとはとても考えられないからです。また、この手紙の冒頭で「使徒ペテロ」よりと書いていますが、ペテロというのは本名ではなくあだ名です。マタイ福音書によれば、主イエスはペテロに対し、あなたは岩だ、あなたの上に教会を建てると言われたのですが、この岩はアラム語で「ケファ」といいます。イエスはシモンのことを名前ではなく「ケファ」というニックネームで呼んでいたのです。そして「ケファ」をギリシア語に翻訳すると「ペテロ」になります。つまりペテロとは日本語で言えば「岩」というあだ名なのです。例えば吉田さんという方が「石頭」というあだ名で呼ばれているとします。その方が真面目な手紙を書くときに、「イエスの僕である石頭から」などと書くかというと、ちょっと考えられないですよね。ですから本書簡の書き手が自分のことを使徒シモンではなくペテロと名乗っているのは、かなり不自然なことなのです。

ただ、ペテロにはマルコのような通訳がついていましたし、当時の手紙というのは本人ではなく書記が書くということが広く行われていましたので、本書簡のギリシア語を直接ペテロが書いたとは考えられないものの、彼と非常に親しいギリシア語に堪能な弟子が、ペテロの指示で彼の語るアラム語を翻訳して書簡にしたということはあり得ることです。私の個人的な考えでは、おそらくペテロが天に召された後に、彼の弟子の一人がペテロの教えに基づいて書いたのがこの書簡ではないかと思います。「ペテロ」というあだ名を使ったのは、それが彼の呼び名として一番有名だったからでしょう。ただ、どういう経緯で書かれたにせよ、本書簡は正典に相応しい内容を備えた優れた書簡です。じっくりと読み進めていきたいと考えています。

ヤコブの手紙の最初の説教タイトルは「信仰と忍耐」で、本書簡の最初の説教は「信仰と救い」です。どちらも信仰ということを非常に大切な事柄として取り上げています。そして、この二つの書簡のテーマもお互いとてもよく似ています。それは、ヤコブもペテロも「試練を乗り越える忍耐強い信仰が救いをもたらす」ということを語っているからです。ですから、この説教メッセージもヤコブの手紙と同じく「信仰と忍耐」にしてもよかったくらいです。このことは、ヤコブの手紙もこの第一ペテロも同じような問題に直面していた共同体に書かれたということを示しています。彼らの直面していた問題を端的に言えば、困難や迫害に直面していたということです。ペテロもヤコブも、この困難な状況を「試練」だと捉えて忍耐強くあるようにと読者に促しています。彼らがイエスを信じるようになった動機は様々でしょう。しかし、彼らはイエスについて語られていることが真実だと信じ、そしてイエスを信じるようになったのです。しかし、そのために彼らと周囲の人々との間に軋轢が生じました。周囲の人々の無理解や敵意に直面して、本当にこの信仰を持ってよかったのだろうかという動揺や不安が生じるのはごく自然なことです。そうした人たちを励まし、力づけるためにヤコブやペテロは手紙を書いたということです。

他方で、ヤコブの手紙と第一ペテロとの間には明確な違いがあります。それは、ヤコブの手紙がユダヤ人キリスト者に向かって書かれたのに対し、この第一ペロ書簡は明らかに異邦人に対して書かれているということです。ヤコブの手紙と第一ペテロの手紙の宛名は一見すると似ていますが、実際には大きく異なるということです。ヤコブは「国外に散っている十二部族」に対して手紙を送っています。十二部族とはイスラエルの十二部族のことで、ユダヤの地以外で暮らすイスラエル人はディアスポラと呼ばれていました。ディアスポラとは離散の民、あるいは移民という意味です。ヤコブは世界各地に散らばっていた同胞のユダヤ人に対して手紙を書いたということです。

それに対してペテロはというと、小アジア、現在のトルコに当たる地域ですが、そこに「散って寄留している」人々に手紙を書いています。ギリシア語の原文ではまさに「ディアスポラ」という言葉が使われていますが、そのような離散の民が宛名になっています。しかし、ペテロが手紙を書いている相手は離散したユダヤ人ではあり得ないのです。なぜそう言えるかといえば、2章10節にこう書かれているからです。

あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。

ここでペテロは手紙の宛先人について「以前は神の民でなかった」と書いています。つまり、彼らは以前からずっと神の民であったユダヤ人とは違う人々、異邦人だということです。

これに関連してもう一つ大事なことは、ペテロが手紙を送ったのは文字通りの意味でのディアスポラ、移民ではなかったという点です。ペテロはここではディアスポラという言葉を比喩的な意味で用いています。つまり、実際に祖国を離れて外国に行って移民となった人々ではなく、同じ土地に留まりながらも、周囲の人たちからはまるで外国人であるかのように扱われるようになってしまった人たちだということです。どういうことかと言えば、彼らは今まで周囲の多くのギリシア・ローマ世界の人たちと同じように、ローマ皇帝や様々な神々を拝んでいたのに、イエスを信じるようになってからはこれらの礼拝行為を偶像礼拝として止めてしまったからです。日本でも、先祖代々伝わってきた宗教やお祭りを拒否すれば、家族や一族と大変な軋轢が生じ、酷い場合は村八分になってしまいますが、彼らもそうした状況に置かれてしまったということです。彼らは周囲の共同体の人々から、移民である外国人のように扱われるようになってしまったということです。そのような辛い立場に置かれた小アジアにいる異邦人信徒に書かれた手紙がこの第一ペテロなのです。では、さっそくこの手紙を読んで参りましょう。

2.本論

まず1節ですが、ペテロはこの手紙をポント、ガラテヤ、カッパドキア、アジア、ビテニアの人々に送っています。これらはすべて小アジアの地名です。あの異邦人の使徒パウロがガラテヤの教会を建て上げた地域ですね。使徒パウロはガラテヤの人々に対して有名な「ガラテヤ人への手紙」を書き送っていますが、ペテロの手紙の受け手の一部もそれとは重なり合う人たちだと思われます。ペテロは彼らのことを寄留者と呼んでいますが、これは文字通りの寄留者という意味ではありません。その意味は、ヘブル人への手紙の著者が言うように、彼らは「地上では旅人であり寄留者である」(ヘブル11:13)ということなのです。クリスチャンとなった人々は、天国を目指して歩む旅人、地上世界に一時的にとどまる寄留者だということです。クリスチャンとなった彼らは寄留者という不安定な立場にありますが、しかし同時に彼らは神から「選ばれた」人たちでもあります。彼らは神の予知によって選ばれたとペテロは記しています。この「予知」という言葉はギリシア語のプログノーシス、文字通りには「前から知る」という意味ですが、彼らは神からあらかじめ知られていた人たちだということです。つまり彼らが神を見つけて選んだのではなく、神の方が彼らをあらかじめ知っていて選んだということです。

神はあらかじめ知っていた人たちをご自身の者とされるために、聖霊と御子イエス・キリストを彼らに遣わします。「聖霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように」という言葉は何を言っているのは非常に分かりづらい表現ですが、ギリシア語の原文を読めばよく分かります。原文を直訳すると「聖霊の聖別によって従順へと」となっています。聖別と従順がキーワードです。聖別とは、区別される、取り分けられるという意味ですから、神に選ばれた人たちは、他の人たちから取り分けられた人たち、聖別された人たちだということです。そして彼らが他の人たちと区別されるのは、聖霊を受けることによってです。ですからここの「聖霊の聖め」とは、「聖霊を受けることで他の人たちとは区別される」というような意味です。

では、なぜ彼らは他の人たちから取り分けられたのか?それは従順であるため、神に従うためです。神に選ばれたエリートだから偉いんだ、というような話ではなく、むしろ神に選ばれることで神に従う義務を負った人たちだということです。使徒パウロも自らの使命を異邦人を「信仰の従順」に導くことだと言いました。単に神を信じるだけでなく、神に従うこと、これが信仰の従順の意味です。私たちは神から選ばれたと喜ぶ際に、神に従う義務を同時に負っているということを忘れないようにしたいものです。

そして私たちが神の者とされるためには、私たちは清められる必要があります。清いというのはHolyではなくCleanのほうです。この違いについては来週詳しくお話ししますが、神様は清い方なので、私たちが神様の所有とされるためには私たちは罪の汚れから清められる必要があるのです。そこで私たちに必要なのが「イエス・キリストの血の注ぎかけ」です。これも一体何を言っているのか訳が分からないと思います。汚れから清められたい人が、他の人の血を振りかけられたら、ますます汚れてしまうではないか、というのが普通の感覚ですよね。しかし、ここはユダヤ教、旧約聖書の知識が必要になります。旧約聖書では、神殿など聖なるものを清めるために、屠られた動物の血を降り注ぐということをします。動物の血には、清めの効果があると信じられていたからです。クリスチャンは、生ける神殿であるというのが聖書の教えです。神殿とは神様の家ということであり、クリスチャンの体は神である聖霊の住まわれる家です。私たちの心身を聖霊なる神の家とするために、キリストの血は私たちを罪の汚れから清めてくださるのです。

ペテロは、そのように神に選ばれた異邦人たちの恵みと平安を祈ります。使徒パウロもその書簡の中で異邦人信徒たちのために常に「恵み」と「平安」を祈りますが、初代教会の使徒たちにとってこの二つの言葉が非常に大切だったのが分かります。

3節にも、とても大切なことが書かれています。それは、私たちが新しく生まれるために、神はキリストを死者の中からよみがえらせてくださったということです。つまり私たちの新生と、キリストの復活との間には深い関係があるということです。しかし、私たちが新しく生まれることと、イエスの復活との間にどんな関係があるというのでしょうか?ここで改めて「新生」という言葉の意味を考えてみましょう。これは、よくよく考えるとすごい言葉ですね。というのは、私たちが新しく生まれるためには、一度死ななければならないからです。生きたままでは、もう一度生まれることはできないからです。新生のためには「死」が必要だということです。ですから新生しなさいというのは、過激な言い方をすれば一度死になさいということでもあるのです。キリストが死んでよみがえったように、私たちもキリストと共に死んで、共によみがえらなければならないのです。このことは、ペテロ以上にパウロが強く主張していたことです。ローマ書6章4節をお読みします。

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

とはいえ、キリストと一緒に死ぬとはどういうことなのか?と思われるかもしれません。パウロはここでバプテスマの儀式がキリストと共に死ぬことを示す儀式だと言っていますが、洗礼だけでなく十字架のイメージも用います。すなわち、私たちはキリストと共に十字架で死んだのだ、とも言います。これは、新生するというのは何か認識や考え方を改めるとか、そういう程度の話ではなく、これまでの人生と根本的に決別し、まったく新しい人生を歩み出すということを示しています。キリストを信じるということは、単に頭の中でイエスが救い主だと認めることではなく、「死んでよみがえる」とか表現しようがないほどに、人生そのものをまったく新しい方向に劇的に変更することなのです。

しかし、このような劇的な生き方の変化は自分だけでなく、当然他の人たちにも強い印象を及ぼします。「いったいお前はどうしちゃったんだ?熱にでも浮かされているのか」と、周囲の人たちはあなたに戸惑うでしょう。そうした人たちの態度を、ペテロは4章4節でこう記しています。

彼らは、あなたが自分たちといっしょに度を越した放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。

このように、周囲の人たちはあなたの変化に最初は驚き、そして段々とあなたの変化を快く思わなくなり、あなたを悪く言うようになるというのです。「いったいどうしたんだ?これまで一緒に楽しくやってきたのに、急に真面目ぶるなよな」と怒りだす人もいるでしょう。これが、ペテロの言う「試練」です。人から良く思われない、悪口を言われてしまうのは辛いことです。しかし、そういう試練には私たちから汚れや不純物を落とす作用があるとペテロは言います。金塊から純金を取り出すためには、金塊を高温で熱して、金と不純物を分離する必要があります。私たちもまた、これまでの人生で身に着いてしまった不純な生き方や習慣、思いを断ち切るためには試練という火で精錬される必要があるのだ、とペテロは教えています。たしかに、当座の間はそういう試練は気持ちの良いものではありませんが、それを通り抜けると、そうした試練も大切だったのだと振り返ることができるようになります。スポーツでも、辛いトレーニングをするのは大変ですが、それをやり終えるとぜい肉をそぎ落としてパワーアップした自分を発見できますよね。

それだけでなく、そうした試練の先には大変大きな報いが待っています。ペテロはそれを、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」と呼んでいます。そうした資産は今天に蓄えられていますが、私たちはこの世の旅路、試練を乗り越えた時にそれを相続できるのです。しかし、本当にそんなものがあるのだろうか、誰も見たことのないお宝を目指して歩めと言われても、そんな話が信じられるものか、と疑う人もいるでしょうし、そういう疑いを抱くのは健全なことです。世の中にはそういううまい話で人々を洗脳し、人々を搾取する悪い宗教がたくさんあるからです。では、キリスト教の約束するこうした天の宝を保証してくれるものは何か?それがイエス・キリストです。彼の存在にこそ、すべてがかかっています。このイエスという人物が本物であれば、彼の指し示す天の宝も本物だということです。

ペテロの手紙を受け取った異邦人たちは、生前のイエスに会ったことがありません。イエスはユダヤとガリラヤで主にユダヤ人を相手に宣教していたからです。そういう意味では、私たちと全く同じです。彼らはイエスのことをペテロたち使徒たちから聞いて、彼のことを信じるようになりました。つまり彼らの信仰の根拠とは、イエスのことを直接知っているペテロたちの証言です。ペテロはイエスの公生涯のほぼすべてを目撃した、もっとも信頼できる目撃証言者です。彼らが自分たちの安定した職業を捨てて、命がけで十字架で死んだ哀れなユダヤ人男性のことを宣べ伝えているのはなぜなのか。もしイエスの話が作り話やでたらめなら、そんなもののために誰が命を懸けるだろうか、ということになります。彼らの人生を賭けたイエスへの献身こそ、イエスが本物の聖者であるということの証明なのです。

そして、彼らの証言に加えて、もう一つ極めて重要な証言があります。それは旧約聖書の証言です。旧約聖書というのは何百年もの時間をかけて、数多くの著者や編集者、編纂者の手に拠って作り上げられた大変複雑な書物で、そこには様々な思想や、古代世界の文明世界の多くの影響を認めることができます。しかし、いかに批判的な研究者でも、否定できないような不思議な預言が数多く含まれている書でもあります。この預言者はいったい誰のことを話しているのか、と不思議に感じられるような記述が含まれているのです。ペテロは、その旧約聖書の中にシルエットのように漠然と描かれている人物こそイエス・キリストであり、また預言者たちにその不思議な人物の幻を与えたのは受肉前のイエス・キリストの霊なのだと主張します。つまりイエスご自身の霊が、旧約聖書の預言者たちに、ご自身が受肉した後にどのような生涯を送るのかということについてのヴィジョンを示したというのです。これは気の遠くなるほど遠大な話ですが、これもまたイエスが神の聖者であることを示す確かな証拠なのです。

3.結論

まとめになります。今日から第一ペテロを読み進めていくのですが、その冒頭のテーマは信仰と救いでした。私たちを救いに導く信仰とはどのようなものか。それは忍耐を伴う信仰です。それは単に頭の中で、イエスについていくつかのことを信じれば終わるというようなものではありません。それは一度死んでよみがえるという表現でしか言い表せないほどの、根本的、全面的な人生の方向転換なのです。そのような根本的な変化は、周囲の人々の注目を嫌でも集めます。しかもそれは好意的な反応よりも、否定的な反応を招きがちです。そのような反応には当然がっかりさせられますが、ペテロはそれを「試練」として捉えなさいと語ります。その試練は、あなたを神の民に相応しい人格に作り変えるための、ある種のトレーニングなのです。しかもその試練の先には素晴らしい報いが待っています。

私たちの信仰生活も、良い時もあれば辛い時もあります。特に、親しい人たち、家族や友人たちが私たちの信仰を理解してくれずに非難するようなことがあれば、大変気落ちしてしまいます。幸い今日の日本では、キリスト教を信仰したからといって、人々から非難されるようなことはないでしょう。昔のように、「耶蘇教」などと後ろ指さされることはないのです。むしろ、「あの人はクリスチャンなのに、あんなことしてる」というように耳の痛い指摘をされることの方が辛いでしょう。しかしこれは、クリスチャンについて良いイメージが定着していることの証拠でもあります。人々を信仰に導くために一番効果的な伝道方法は、キリスト教が真理だと証明する立派な議論や解説ではありません。下手にそんなことをすると、かえって墓穴を掘ってしまうかもしれません。知識だけなら、クリスチャンよりキリスト教のことを知っている人たちはたくさんいるからです。むしろ、私たちは日々の行動や生き方で、キリスト教の何たるかを人々に示していく必要があります。それが一番効果的な伝道なのです。それがどんな生き方なのかを、第一ペテロの学びを通じて考えて参りましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様。そのお名前を賛美します。今朝から第一ペテロを読み始めました。どうか私たちにみことばを理解する知恵と、それに従う柔らかな心をお与えください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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惨劇と悲劇第二サムエル13章1~39節 https://domei-nakahara.com/2025/02/09/%e6%83%a8%e5%8a%87%e3%81%a8%e6%82%b2%e5%8a%87%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e3%82%b5%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%83%ab13%e7%ab%a01%ef%bd%9e39%e7%af%80/ Sun, 09 Feb 2025 04:48:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6172 "惨劇と悲劇
第二サムエル13章1~39節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。前回の説教で、私は二つの問いを提起しました。それは、ダビデがバテ・シェバ事件のことを本当に悔い改めていたのかという問いと、神はダビデのすべての罪を赦したのか、また赦したとするならば、その赦しとはいかなるものなのか、ということです。どういうことかと言えば、例えばある生徒が学校の大事な掃除道具を壊してしまったとします。その際に先生は、「もういいよ。このことは一切忘れてあげる」というかもしれないし、あるいは「あなたのしたことは赦してあげます。ただし、その掃除道具が壊れてしまったせいで他の生徒さんたちが不自由しているので、あなたはこれから一週間放課後に残って教室の掃除をしてくださいね」というかもしれません。どちらも赦したことには違いはないですが、その中身はだいぶ違いますよね。

今日の箇所は、この二つの問いに答えを与えてくれる箇所だと私は考えています。というのも、今日の箇所でダビデ家を襲った二つの悲惨な出来事は、ダビデが犯してしまった罪と深い関係があるからです。今回の最初の悲劇的な出来事、すなわち兄が妹を辱めてしまうという恐るべき醜聞は、明らかにダビデが人妻であるバテ・シェバを辱めたことと深い係わりがあります。聖書を読むと、神が人の罪を取り扱う場合、その罪について直接叱責するのではなく、自分が人に対して犯した罪を、今度は自分が被害者となって受けることにより、罪の重さを身をもって体験させるということをなさいます。その典型が族長ヤコブの場合です。ヤコブという人は大変頭の良い人で、それに対して双子の兄エサウは単純な人でいま風に言えば脳筋という感じでしょうか、ヤコブはそんな兄エサウを子馬鹿にしているところがありました。そしてついに、ヤコブは兄だけでなく父イサクまで騙して兄に与えられるはずの長子のための祝福を奪い取ったことがありました。しかし神様はこのヤコブの卑劣な行いを責めることはせずに、むしろ叔父ラバンの下に逃げ延びるヤコブの道中の安全を約束します。これなどを読むと、神様はヤコブを偏愛、えこひいきしていて、ヤコブの行った騙しごとすらも容認しているのではないか、と思われるかもしれません。しかし、そうではないのです。ヤコブはそれから先、叔父のラバンに何度も騙されます。騙す者が、今度は騙される者になったのです。ラバンはヤコブそっくりの、映し鏡のような人物でした。ヤコブは叔父に騙されることを通じて、人に騙されることでどんな気持ちになるのか、今まで自分が騙してきた兄や父はどんな思いで自分に騙されたのかを理解するようになります。こうしてヤコブは自らの過去の行いを深く顧みることになります。これは神のヤコブに対する裁きだと言えますが、それは教育的な裁き、ヤコブが人間的に成長するための裁きでした。ダビデ自身の子どもであるタマルとアムノンの事件も、ダビデに自らがバテ・シェバに対して行ったことを思い起こさせるために神が与えた試練だと言えるのではないでしょうか。

しかしこう言うと、それではあまりにタマルが不憫ではないかと思われるでしょう。父親のせいで、何の罪もないのに恐ろしい出来事に見舞われてしまったからです。実際に、タマルは本当に気の毒です。聖書全体を読んでも、これほどの悲劇に見舞われた女性はいないのではないか、と思えてきます。聡明で正しい心を持ち、美しい王女であった彼女の明るい未来は、この出来事のために永遠に閉ざされてしまいました。しかも、この悲劇をさらに暗いものとしているのは彼女の父ダビデが彼女の名誉や幸せのために何もしなかったことでした。ダビデはこの陰鬱な事件にかかわることを拒否し、明らかな加害者であるアムノンに対して何ら責任を問いませんでした。単に放置したのです。それは、この出来事が自分自身をしでかしたことを思い起こさせるものであり、もしアムノンを裁くならば、自分自身の過去の罪が蒸し返されてしまうことを恐れたのではないかと思われます。ダビデはもう自分の暗い過去を思い出したくなかったのです。しかしそのために、タマルの兄の怒りは収まらず、それが恐ろしい惨劇へとつながっていきます。ダビデが王としての責任、父親としての責任を放棄したために、さらなる悲劇がダビデ家を襲うことになるのです。そのようなダビデの姿を見ていると、彼は本当に自らの行動を悔い改めていたのか、自らの罪に向き合っていたのか、ということに大いに疑問符が付きます。彼は自分の罪から逃げることで、自分の最も愛する子供たちに恐るべき重荷を負わせてしまったのです。では、今日のテクストを詳しく見ていきましょう。

2.本論

ダビデには美しい奥さんが何人もいましたので、彼女たちとダビデの間の子どもたちは異母兄弟ということになります。アムノンというのは第一王子ですから、ダビデ王の後継者としては第一の候補になります。サウル王にとってのヨナタンのような存在です。彼の母はイズレエル人アヒノアムでした。ダビデの三人目の妻は、ゲシュルの王タイマルの娘マアカでしたが、そのマアカの娘がタマルでした。ゲシュルというのはヨルダン川上流の小国でしたが、マアカはその王女だったわけで、位の高い女性でした。タマルはその娘ですから、まさにお嬢様です。彼女の兄アブシャロムはダビデ家の第三王子でした。

このタマルという女性はよほど魅力的な女性だったのでしょう。第一王子のアムノンは、兄妹でありながら、そのタマルを恋するようになってしまいました。しかし、それが禁断の愛であることはもちろんアムノンも分かっていますから、悶々としていたのでした。ところが、そこにヨナダブという、頭は良いけれど道徳心に欠けた危険な人物が登場します。彼はアムノンがなにか悩みを抱えているのを見てとって、自分に打ち明けるように促します。そこでアムノンは自分が自分の妹への禁忌の愛に焦がれていることを打ち明けました。まともな人なら、なんとかそれを思いとどまらせ、別の女性に目を向けさせようとするのでしょうが、なんとヨナタブは、アムノンの無理筋な恋の手助けをしようというのです。彼はアムノンに入れ智慧をして、アムノンとタマルが二人きりになる状況を作り出そうとします。その作戦はなんと父王であるダビデを騙し、仮病のアムノンの介抱のためにタマルを寄こすようにさせるというものでした。ダビデ王の命令ならタマルも絶対に断れないからという、酷い作戦でした。アムノンも、さすがに王である父を騙すようなことをしては後で大変なことになると普通は考えそうなものですが、恋は盲目といいます、また自分は第一王子だという自惚れもあったのでしょう。父を騙すことさえしてしまうのです。バテ・シェバ事件のことはすでに宮廷内では知れ渡っていたでしょうから、アムノンも色恋沙汰では父ダビデも偉そうなことはいえないだろうと、ダビデを侮る気持ちがあったかもしれません。父親が浮気しているのに、その親が子どもの素行を注意しても、「どの口が言うのか」ということになりかねないからです。

ともかくも、ダビデはアムノンの嘘を信じて、娘のタマルをアムノンの介抱に行かせます。タマルも全く疑うことなく、お兄さんのためにと喜んで出かけていきました。アムノンは人払いをして、タマルに対して自分に食事を食べさせて欲しいと頼み、彼女を自分の寝室に呼びます。タマルもこのあたりから、何か変だと思い始めたかもしれませんが、相手は兄、しかも第一王子ですから、大丈夫だと自分に言い聞かせて兄のところに向かいました。すると、病気のはずの兄が床から起き出して、自分をつかまえるのです。この時タマルは初めて怖くなったのでしょう。いったい何が起こっているのかと、パニックになったかもしれません。そして兄アムノンの口から信じられない言葉を聞きました。「妹よ。さあ、私と寝ておくれ」と言われたのです。しかし、兄と妹です。レビ記18章9節で、妹を犯すことは禁じられています。そもそも聖書を持ち出さなくても、近親相姦は人類全体のタブーです。そんなことはできるはずがないと、タマルは必死に抵抗します。これは愚かなことだと。こんなことをしてしまえば、私たちは国中の笑いもの、面汚しになってしまいますと、兄アムノンに訴えます。それでも強引に迫ってくるアムノンに対し、せめて父ダビデに話を通してほしいと願います。父ダビデなら、何か良い考えで私たちのことも解決してくれるだろう、あなたは第一王子なのですから、父もあなたの願いをむげにはしないだろうと訴えます。それでも情欲に狂ったアムノンは力づくでタマルを辱めました。ダビデとバテ・シェバの場合にはこういう暴力的な記述はなく、単にダビデは彼女と寝た、となっていますが、タマルの件では「力ずくで」ということが強調されています。まさに女性の気持ちを完全に無視した強姦です。

しかも、さらに恐ろしいことに、タマルを辱めたアムノンは、その後に彼女を激しく憎むようになったというのです。まるでどうしても欲しかったおもちゃを手に入れたら、期待していたほど良くもなかったのでポイっと捨ててしまうわがままな子どものようです。旧約聖書では、族長ヤコブの娘ディナが異邦人の王子シェケムに辱められるという事件がありましたが、その後シェケムは平謝りに誤ってどうかディナを嫁に欲しいと願い出ています。強姦そのものは決して赦されませんが、責任を取ろうという態度はまともだといえますが、アムノンは自分のやったことが他人に与えた影響を全く考えようとしません。むしろ、衝動的な行動をした後に、自分のしたことの恐ろしさに気が付き、「この女がいたせいで、俺はこんなバカなことをしてしまったんだ。俺が悪いんじゃない、この女が俺を誘惑したんだ」というような、まったく無責任な責任転嫁を考え出してしまうのです。

このような人物がダビデ王家の第一王子であるということに衝撃を禁じ得ないのですが、こんなバカ息子を育ててしまったダビデにも親として大きな責任があるでしょう。そして、この愚かな人物のせいですべてを台無しにされたのがタマルでした。こんな愚かな兄に貞操を奪われ、さらには追い出されるという屈辱的な扱いを受けました。タマルも必死に抗議します。「それはなりません。私を追い出すなど、あなたが私にしたことより、なおいっそう、悪い事です」と訴えかけます。しかしアムノンはまるで下女でも追い出すかのように、召し使いを使って彼女を外に追い出して戸を閉めてしまいました。

タマルは頭に灰をかぶり、着ていたそれつきの長服を裂き、手を頭に置いて、歩きながら声をあげて泣いていた。

明るい未来を一瞬で奪われたタマルでした。生きているのも嫌になったでしょうが、そんな彼女を慰めてくれたのは実の兄のアブシャロムでした。いや、とうてい慰められることはなかったでしょうが、それでも絶望の淵での唯一の救いは兄の存在でした。兄は妹を慰めつつ、長兄アムノンへの復讐を心ひそかに誓ったのでした。

ダビデはこの事件を聞いて激しく怒りましたが、しかしアムノンを裁くことをしませんでした。ここにダビデの大きな問題がありました。王である自分の罪は不問に付したのに、第一王子の罪だけ厳しくさばけば、まさに片手落ちになってしまいます。自分の罪に厳しく向き合えなかったダビデは、自分の分身ともいえる第一王子の罪にも向き合うことができませんでした。それがタマルやアブシャロムに大きな失望を与えたのは想像に難くありません。ダビデはタマルの名誉と尊厳を回復するために、あらゆる手段を尽くすべきでしたが、それをしなかったのです。このダビデの不作為が、さらなる惨劇を招くことになります。

アブシャロムは一緒にいてわびしく暮らしている妹のタマルが不憫でなりませんでした。これから幸せな人生が待っているはずなのに、貞操を奪われ、その加害者には何のお咎めもありません。嫌な言い方ですが、傷物にされてしまったわけで、嫁の貰い手もいなくなってしまいました。それなのに、アムノンはのうのうと生きている、そのことが許せませんでした。とはいえ、相手は第一王子、ダビデ王に次ぐ権力者です。そのアムノンを討つとなると、自分の命さえ捨てる覚悟が必要です。それでもアブシャロムはタマルのために仇討をすることにしました。彼は二年間も機会を待ちました。大石内蔵助のような辛抱強さです。アムノンも自分を警戒しているだろうから、彼をどうやって自分の家に招くことができるか、それがアブシャロムにとっての問題でした。そこでアブシャロムは一計を案じました。まず王であるダビデを祝宴に招いて、しかもダビデが断らざるを得ないような状況を作り、ダビデの代わりにクラウン・プリンスであるアムノンを招くというものでした。これならアムノンも自分の招待に応じないわけにはいきません。

アブシャロムは、招待に応じないダビデに対し、それではあなたの代わりに第一王子のアムノンを招いて欲しいと願い出ます。ダビデも、なぜアムノンを招くのかと問いただして警戒しますが、アブシャロムが丁寧に懇願し、しかも他の王子たちも一緒だということで、まあいいだろう、王子同士で親睦を深めるのもよかろう、ということで承諾します。アムノンも、王命とあらばアブシャロムの招きに応じないわけにはいきません。しかも、王のダビデがいない以上、長兄の自分は主賓ということになります。彼の胸にも一抹の不安はあったでしょうが、ここは自分の威厳を示すためにも行くことにしました。

アブシャロムはこの千歳一遇のチャンスを逃しませんでした。彼は自分の部下たちに、アムノンが酔った時に彼を討てと命じます。とはいえ、相手は第一王子です。このようなだまし討ちで殺したとなれば、彼らも当然ただではすみません。決死の覚悟でことを成さなければなりませんが、驚くべきことにアブシャロムの部下たちはその命令に従いました。それは、不憫な王女であるタマルのために、仇を命に代えても取りたいという彼らの熱い思いがあったものと思います。また、彼らに命令を聞かせるアブシャロムのカリスマ性も大したものでした。そして、アムノンの殺害は計画通りに決行されました。

他の王子たちは恐ろしくなって一目散に逃げ去りました。アブシャロムが殺したのはアムノンただ一人でしたが、この知らせに尾ひれがついてしまい、なんとダビデの王子たち全員が殺されたという一報がダビデに届きました。ダビデも家来たちも衝撃を受けましたが、しかし、あのアムノンに要らぬ知恵を付けた危険な人物、ヨナダブは正確な情報を収集していて、殺されたのはアムノンだけだとダビデに報告しました。ヨナダブがタマルの事件のことをどう思っていたのかは分かりませんが、彼なりに責任を感じていたのかもしれません。ここまでの大事になるとは思っていなかったのでしょう。そして、ヨナダブの言う通り、他の王子たちは無事でした。とりあえず、最悪の事態だけは避けられたのでした。

アブシャロムは母マアカの実家であるゲシュル王のところに逃れました。おそらくアブシャロムは、この復讐劇を準備する段階で逃げ延びる算段も立てていたのでしょう。ゲシュル王も、事の次第を聞いて、たとえダビデ王と対立することになろうともアブシャロムを匿うことを決めていたのでした。

こうして、惨劇は終わりました。ダビデは王として、この第一王子暗殺という国家の一大事に対処しなければなりませんでした。日本でも、万が一天皇のクラウン・プリンスが暗殺されるなどということがあれば、国家の威信に架けてどんなことがあっても犯人を捕まえるでしょう。しかし、ダビデはこの時も全く動くことはしませんでした。もしアブシャロムの罪を問うならば、その原因となったアムノンによるタマル強姦の罪を裁かなければなりません。しかし、アムノンを裁くならば同じ罪を犯した父ダビデの罪をも問わなければなりません。結局自分の所に帰ってきてしまうのです。それでダビデは今回も何もしませんでした。しかし、このダビデの責任放棄が、ダビデの家族にも、またイスラエル王国にもさらに深刻な亀裂をもたらしてしまうのでした。

3.結論

まとめにあります。今回はタマルという聡明な女性を襲った悲劇、そしてダビデ家の家族の中での兄弟殺しという惨劇を通じて、二つの問題を考えてみました。それはダビデが本当に自分の罪を悔い改めていたのか、また神はダビデの罪を無条件で赦し、忘れ去ったのか、という問いでした。そして、答えはいずれも「否」ということにあると、結論付けざるを得ませんでした。

神は確かにダビデに直接罰を下すことはしませんでした。しかし、こともあろうに自分が行ったのと全く同じことを自分の長男が行うという現実に直面させられました。しかも毒牙に架かったのは人妻ではなく、まだ男を知らない自分の娘だったのです。この恐ろしい現実を前にしてダビデは何をしたでしょうか。彼は目を閉ざしたのです。自分の罪を思い起こすのを避けるかのように、この息子の罪をも直視しませんでした。そのため、タマルは貞操だけでなく、名誉も、また未来も失ってしまいました。この妹の絶望的な状況を怒ったのは兄アブシャロムでした。彼はきっと、兄アムノンだけでなく、妹の名誉回復のために何の行動も起こさなかった父ダビデのことも深く憤っていたのでしょう。そうして彼は二年待って、妹のための復讐を遂げました。ただ、もしダビデが正しくアムノンを裁いていて、少なくとも廃嫡にするとか、断固たる処置を取っていればこの惨劇は起こらずに済んだでしょう。したがって、ダビデの罪は誠に重かったと言わざるを得ません。ダビデの悔い改めのなさが招いた悲劇だったのです。

さらにいえば、私たちは神の裁きの厳しさに戦慄すら覚えます。神は不正を黙って見逃すようなお方ではありません。蒔いた者を刈り取らせる、というのが神が人の取り扱う上での原則です。彼はダビデに、ウリヤ殺しの罪の重さを恐ろしいほど厳しい手段で直面するように迫ります。しかしダビデはそれから逃げ続け、さらなる悲劇を自らに招いていくことになるのです。

私たちも、このダビデの転落の人生から多くのことを学ばされます。「罪の赦し」というのは簡単なものではありません。私たちが罪に直面することから逃げると、それはどこまでも私たちを追いかけるのです。神は私たちの罪を赦す前提として、徹底的な悔い改めを求めておられるということを忘れてはいけません。神の前に、また人の前に、謙虚に歩んで参りましょう。お祈りします。

憐み深い主よ。あなたは私たちを赦されます。しかし同時に徹底的な悔い改めをも求めておられます。そのことをダビデの生涯から学ぶことができますように。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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ダビデは悔い改めたか第二サムエル12章1~31節 https://domei-nakahara.com/2025/02/02/%e3%83%80%e3%83%93%e3%83%87%e3%81%af%e6%82%94%e3%81%84%e6%94%b9%e3%82%81%e3%81%9f%e3%81%8b%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e3%82%b5%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%83%ab12%e7%ab%a01%ef%bd%9e31%e7%af%80/ Sun, 02 Feb 2025 03:59:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6140 "ダビデは悔い改めたか
第二サムエル12章1~31節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。第二サムエル記を読み進めて参りましたが、前回はサムエル記全体の中でも重大な分岐点となる箇所でした。それは、ダビデが途方もない罪を積み重ねていく場面でした。彼は自分のために命がけで戦っている兵士の妻を寝取ってしまい、その罪を隠すためその勇敢な兵士を戦場で謀略によって殺します。罪を隠すためにさらなる罪を重ねていく、そのような泥沼にはまっていくダビデの行状を見て参りました。

驚くべきことに、その間、ダビデは神のことをすっかり忘れてしまっていたようでした。少なくとも、ダビデは神がすべてを見ているという意識を失っていました。今やダビデは絶対権力者として、まるで神のごとくなんでも好きなように振舞えると思っているかのようでした。そして、自らの罪を暴く恐れのある人を排除した後は、何食わぬ顔をして日常生活に戻っていきました。もちろん、ヨアブのような人物はすべてお見通しだったでしょうが、ダビデはヨアブが自分を裏切ることはないと確信していたようです。しかし、ダビデは預言者によって、神にはすべてがお見通しであることを再び気づかされることになります。今日はダビデが自らの罪に直面させられて、どのように行動したのかを考えて参ります。

ダビデは当時の基準でも、また21世紀の現代の基準でも、到底赦されない、非常に重大な罪を犯したのですが、にもかかわらず多くのクリスチャンはダビデに同情的な方が多いように思います。人間はみな罪人ではないか。ダビデも人間だったのだ。ダビデは悔い改めたではないか、その姿勢は信仰者の鑑ではないか、と考える方も少なくないと思います。今日の場面で確かにダビデは「私は主に対して罪を犯した」と告白しています。神もそれを見逃してくださった、と預言者ナタンも言っていますので、ダビデの悔い改めは神も認めた本物の悔い改めではないか、と私たちはダビデに同情、あるいは共感さえするかもしれません。そしてこんな大きな罪でさえ、神は赦してくださるのか、という安心感を覚えるかもしれません。

ダビデの悔い改めが本物だと思える大きな理由の一つは詩篇の存在でしょう。詩篇51編はバテ・シェバ事件の後にダビデが歌ったものだとされていますが、その胸を打つ悔い改めの言葉を聞いて、ダビデこそ本物の信仰者、神の人ではないかと私たちは思うのです。しかし、しばしば言われているように詩篇のダビデの作と言われているものは、実際には後世の人々がダビデを偲んで詠んだもの、あるいはダビデの気持ちになって詠んだものだとされています。したがって、それはダビデの作ではない可能性の方が高いのです。そして、もしそれがダビデの手によるものだったとしても、この歌を詠んだからダビデの悔い改めは本物だったとは必ずしも言えないように思います。なぜなら、悔い改めは言葉ではなく行動によってこそ示されるべきものだからです。今後のダビデの物語を見ていくと、彼は自分自身の罪に向き合うのを避け続け、そのために彼の家族はバラバラになっていくのが分かります。そうした姿を見ていると、ダビデの悔い改めとは何なのか、と考えさせられてしまいます。

そもそも、悔い改めとは誰に対してするべきものなのでしょうか?詩篇51編を読みますと、ダビデの罪は神に対して、神のみに対してなされたものだということが強調されています。ダビデも、自分は神に対して罪を犯したと告白しています。しかし、ダビデが罪を犯したのはバテ・シェバであり、さらには彼女の無実の夫であるウリヤに対してだったのではないのでしょうか?サムエル記を読み進めても、ダビデが死んでしまった、いや彼自身が殺してしまったウリヤに対して詫びる気持ちが少しも表されていないのはどういうことなのでしょうか?この問題について、私も印象深い思い出があります。私が英国に留学中、熱心なクリスチャンの韓国の友人がいました。彼と罪の赦しの問題を話し合っているときに、彼はある有名な韓国の映画の話をしてくれました。それは「シークレット・サンシャイン」という映画です。恥ずかしながら私は未だにこの映画を見たことはないのですが、あらすじはだいたい聞きました。それは、息子を殺されたシングルマザーが、絶望の中で悩み苦しんでキリスト教に出会うという話です。彼女はそうして信仰を持つようになります。そして、自分は神に赦されたのだから、息子を殺した犯人のことも赦さなければならないと思うようになり、意を決して殺人犯に面会に行きます。そして、その殺人犯の相手に「私はあなたを赦します」と言おうとした矢先に、その男が彼女に「私は赦されている!」と告げるのです。もちろん、私は神に赦されている、という意味です。彼は平安に満ちた顔をして、私は神に赦されている、あなたのことも祈っていますよ、と告げるのです。私が赦していないのに、どうしてあなたが赦されるのか?彼女は衝撃を受けて気を失ってしまいます。その後のストーリー展開の詳しいことは知りませんが、大体想像は尽きます。私の韓国の友人も、この映画を見て「罪の赦しとは何か?」と考えてしまったそうです。

ダビデの話に戻ると、このサムエル記の物語の展開では、ダビデは神に対しては罪を認めて赦しを乞いますが、自分が直接過ちを犯した人に対して償いや悔い改めをしているようには見えないのです。すべてを神と自分の間の問題に還元しようとしているように思われます。私がダビデの悔い改めに疑問を抱くのはそのためです。「罪」の一つの定義は神の掟を破ることです。ですからあらゆる罪は神に対して犯されると言えます。しかし、姦淫や強姦、詐欺や殺人で直接的な被害に遭うのは神ではなく人です。ですから、神を冒涜するような言葉を口にするというような罪は神に謝罪すべきですが、人に対して犯した罪はその相手に対して謝罪する必要があります。ダビデの場合は、殺してしまったウリヤに対してはもはや詫びることができませんので、補償すべき対象は遺族のバテ・シェバということになりますが、しかしそのバテ・シェバはダビデの欲望の対象でもあります。ダビデはバテ・シェバを手に入れ、彼女もそれを受け入れているように見えます。しかし、ではウリヤはどうなってしまうのか、彼のことは忘れ去ってよいのか、という疑問が生まれます。しかし、神はウリヤのことを忘れてはいませんでした。神がウリヤのことを大切に思っておられるのは、これから見ていくナタンのたとえを見れば分かります。また、ナタンは神がダビデを赦したとは言っていないことに注意しましょう。神は見過ごした、とだけ言っています。本来なら罰するべきダビデの罪を罰しない、見過ごすということです。それはダビデを赦したというより、むしろ先にダビデと結んだ契約、つまり罪を犯したからといってダビデの王位を取り去ることはしないという約束を守ったということです。そのためにダビデは死刑になることも、退位させられることもありませんでした。しかし、それでも神はダビデに罪の刈り取りを要求し、ダビデはその後の人生でまさに罪の果実を刈り取ることになるのです。それでは、今日のテクストを読んで参りましょう

2.本論

では12章の1節からです。サムエル記の記述では久しぶりに「主」が登場します。もちろん、主・神はいつでもどこでもおられるのですが、ダビデの意識から主のことが忘れ去られていたので、こんなに久しぶりの登場になるのです。神はダビデのしていることを黙ってご覧になっていたのですが、ダビデがウリヤ殺害をなかったもののようにして普通の生活に戻ろうとしているのをご覧になって、もはや黙ってはいられなくなったのでしょう。預言者ナタンをダビデのところに遣わします。しかし、ナタンはいきなりダビデのことを責めるわけではありません。むしろ、全然関係のない話を始めたように見えます。それは、ある気の毒な貧しい人の話でした。この貧しい人は小さな子羊を大切に育てていたのですが、もう一人の金持ちの男がいて、彼は羊と牛をたくさん持っていたにもかかわらず、羊を屠る必要があったときに自分の家畜を惜しみ、たった一匹の子羊しかもっていなかった貧しい男からその子羊を取り上げてそれを屠ってしまったという話でした。

読者の方々は、この貧しい男がウリヤで、金持ちがダビデその人だとすぐに気が付くでしょうが、驚くべきことに当のダビデはまったくそれに気が付いていません。ここからも、ダビデはどうもウリヤのことで良心の呵責に苦しみ続けていたとは思えないのです。自分の行いを心の中で密かに悔やんでいたとしたら、ナタンが自分のことを仄めかしているのだとすぐに気が付いたでしょう。しかしダビデはナタンの話を聞いても、それが自分のことだとは全く思わなかったのです。ダビデは愚かな男ではありません。それどころか大変賢い男です。それゆえ、この時の彼の鈍感さには驚くべきものがあります。それどころか、ダビデはナタンのたとえ話を本当の話だと思い込み、この金持ちの男の非道な行いに立腹します。そして、貧しい人から子羊を奪った男に死刑を宣告し、さらに貧しい男に四倍にして償いをすべきだと命じます。モーセの律法に照らすならば、羊を盗んだ人が死刑だというのは重すぎる罰であるかもしれませんが、四倍にして償うというのは律法の教え通りです。ダビデはこの羊泥棒の金持ちに重すぎる刑罰を科していることになりますが、この男が実はダビデだと分かっている人には、ダビデの命じた罰が実は律法通りだということは明らかでした。モーセの律法によれば両者が同意の上で姦通した場合は男女とも死刑、強姦の場合は男だけが死刑になるべきだからです。ダビデとバテ・シェバの場合にはダビデが一方的に襲ったのか、あるいはバテ・シェバの方にもある程度その気があったのかというのは正直よくわかりません。聖書テクストからは、どちらの解釈からもあり得るように思います。しかし、いずれにせよダビデは死刑に当たる罪を犯していたのです。ですから、ダビデは図らずも自らの犯した罪に対して正しい裁きの宣告を下していたのです。

ダビデがそのような裁きの宣告をした後、預言者ナタンは爆弾発言をします。ダビデに向かい、「あなたがその男です」と宣告したのです。ナタンはダビデの罪を白日の下に暴き出し、こう宣告します。

「今や剣は、いつまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしをさげずみ、ヘテ人ウリヤの妻を取り、自分の妻にしたからである。」主はこう仰せられる。「聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の下で、このことを行おう。」

これが神の裁きの言葉でした。注意していただきたいのは、その後にナタンが神はダビデの罪を見逃してくださったと言ったにもかかわらず、神がここで語った裁きがすべてダビデの身に起きるということです。文字通りに、「その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる」という預言はそのまま成就することになります。このことから見ても、神はダビデの悔い改めの言葉にもかかわらず、ダビデを単純に赦したわけではないのが分かります。

ともかくも、ダビデもこのナタンの言葉にハッとし、「私は主に対して罪を犯した」と告白します。ナタンはその言葉を受け入れますが、しかしダビデとバテ・シェバの不義の子は死ぬだろうと宣言します。ダビデはその子の命が助かるようにと神に懇願し、断食をします。しかし、その甲斐なくダビデとバテ・シェバの最初の子どもは死んでしまいます。とはいえ、ダビデはその後はさばさばとしたもので、子どもを失って悲しんでいるバテ・シェバのところに行き、そして二人目の子どもが生まれます。その子こそ、あのソロモンです。

それから再びヨアブが登場します。ヨアブはダビデに代わってアモン人討伐を進めていましたが、一番最後の手柄をダビデのためにとっておきました。ここらへんもヨアブは抜かりがないというか、したたかです。上司というのはあまり部下が手柄を立てると部下を煙たがるものです。その典型がサウル王とダビデの関係で、サウルも若き武将のダビデの武勲を妬み、ダビデを殺そうとしました。ヨアブはそこら辺をよく心得ていたので、一番おいしいい手柄をダビデに与えて主人のご機嫌を取っていたのです。ここからも、ダビデがヨアブの手の中で転がされていたのが分かります。

3.結論

まとめになります。今日はダビデがどのようにして自らの犯した罪と向き合ったのか、ということを考えて参りました。確かにダビデは、ナタンに自らが犯した罪を指摘された時にすぐにそれを認め、神の前に罪を告白しました。また、ダビデはサウル王のように王失格を宣告されることもありませんでした。しかし、ダビデが本当に悔い改めていたのか、また神がダビデのすべての罪を赦したのか、というのはこの時点ではまだ明らかになっていないというべきでしょう。なぜなら、悔い改めとはその行動を通じて表わされるべきものだからです。ダビデが自らの罪に真剣に悔い改めて、生き方を改めようとしていたのかどうかは、その後のダビデの歩みが明らかにするでしょう。

また、罪の赦しの問題もそう簡単ではありません。クリスチャンは、罪の赦しとは神が人を赦すことだと考えます。しかし、このダビデの一件から明らかなように、私たちが犯す罪とは他の人間に対して犯す罪がほとんどです。神を侮辱する言葉を吐く場合は、神が直接の被害者になるのでしょうが、私たちの行う詐欺や暴行、殺人や性的犯罪は人間を相手に犯すものです。罪の赦しは、こうした相手に赦されて初めて実現するものではないでしょうか。しかし、実際に自分が被害を与えた相手に赦してもらうことは大変に難しいことです。どんなに誤っても赦してもらえなかった、という経験をしたことは私たちも人生において一度や二度ではないでしょう。だから、相手に赦してもらうことは置いておいて、何でも赦してくれる神の赦しを受けることで満足する、というような心根がクリスチャンにないだろうか、と思わずにはおられないのです。もちろん、あらゆる罪は神の法を犯すことですから神に赦される必要があります。しかし、それに安住して自分が罪を犯した、損害を与えた相手からの赦しの問題を無視してはならないとも思います。相手に赦してもらうためには言葉だけでは足りません。誠心誠意の行動が必要です。償いきれないような罪でさえも、できるだけのことはすべきだということです。

ダビデの場合、彼が本当にウリヤに悪いと思っているのなら、彼が深く愛していたバテ・シェバをどうして自分の妻にできたのか、と私などは思ってしまいます。もちろん未亡人になったバテ・シェバが生活に困らないようにすべきなのは当然のことです。しかしそれと彼女を自分の妻にしてしまうこととは違うのではないでしょうか。ダビデは神に赦されたと思ってそれで満足してしまい、それ以上のことはしなかったように思えるのです。

私たちクリスチャンにとって、罪の赦しとは非常に大切な事柄です。そして、神は実際に私たちの罪を赦してくださいます。しかし、神の赦しだけを求めて、自分が罪を犯した直接の相手に向き合うことを拒むなら、それは本当の意味での悔い改めではないように思います。これは大きなテーマですので、これからサムエル記を読み進める上で、いつも念頭に置いておきたいことでもあります。ちょっと尻切れトンボに思われるかもしれませんが、この件について語るのは今日はここで留めておきたいと思います。お祈りします。

私たちを赦してくださる神様、そのお名前を賛美します。しかし、同時に私たちは自分が直接罪を犯してしまった相手に向き合う必要もあります。この問題は非常に深刻な問題でもありますが、そのことに向き合う力もお与えください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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ヤコブの勧告ヤコブの手紙5章12節~20節 https://domei-nakahara.com/2025/01/26/%e3%83%a4%e3%82%b3%e3%83%96%e3%81%ae%e5%8b%a7%e5%91%8a%e3%83%a4%e3%82%b3%e3%83%96%e3%81%ae%e6%89%8b%e7%b4%995%e7%ab%a012%e7%af%80%ef%bd%9e20%e7%af%80/ Sun, 26 Jan 2025 03:24:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6123 "ヤコブの勧告
ヤコブの手紙5章12節~20節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。昨年から毎月の月末にはヤコブの手紙を学んで参りましたが、いよいよ今回で最終回になります。そこで今日は、ヤコブの手紙全般を振り返りながら今日のみことばを読み解いていきたいと思います。

ヤコブの手紙は、行動、実践をとても重視する書簡です。「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです」という言葉が端的に示すように、中身のない信仰、行動の伴わない信仰というものを信仰とは見なしません。そのために、この手紙を読み進めると「信仰のみで救われる」というプロテスタントの教えの意味を再度問い直されていきます。信じるだけ、ということは行いが不要だという意味ではないのです。むしろ、信じることと行うこと、信仰と行いが一致するとき、はじめて私たちには信仰があるといえるのだ、というのがヤコブ書の大切なメッセージでした。信じるだけで救われるというのは、信じることと行うこととが一致する場合にのみ言えることなのだ、ということがヤコブの繰り返し語っていたことでした。

ヤコブ書の最後の箇所である今日のみことばにおいても、ヤコブは私たちの語ることと私たちの行うこととが一致するようにということを強く勧めています。では、さっそく今日のテクストを読んで参りましょう。

2. 本論

では、まず12節からです。「誓い」についてのヤコブの教えです。誓いというのは私たちにはあまり馴染みのないものに思えるかもしれません。裁判所にでも行かない限り、私たちは何かに誓うことなど日常生活ではほとんど起こらないでしょう。けれども、約束をすることは私たちの日常でもよくあることです。誓いというのは、あえて言うならば約束の上位版、重みをもった約束だと考えてみてください。

また、ヤコブの教えには、イエスの教えと響き合うものがとても多いですが、この「誓い」についての教えもイエスの教えを思い起こさせるものです。ヤコブとイエスの教えを並べて読んでみましょう。まずヤコブからです。

私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい」を「はい」、「いいえ」を「いいえ」としなさい。それは、あなたがたがさばきに会わないためです。

次いで、イエスの山上の垂訓からのことばをお読みします。マタイ福音書5章33節から37節です。

さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。あなたは頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことばは悪いことです。

このように、イエスとヤコブのことばはとても似ていることに気が付かれるでしょう。ヤコブはイエスのことばを短くまとめていると言ってよいでしょう。ただ、注意したいのは聖書は「誓い」そのものは禁じていないことです。神様ご自身がアブラハムに対して誓われたこともありますし、旧約聖書も誓いを認めています。具体的な例として、レビ記19章12節を読んでみましょう。

あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。

とありますように、誓い自体ではなく、偽って誓うことを禁止しています。では、なぜイエスやヤコブがそこからさらに一歩進んで、誓うことを禁止しているのかといえば、それは「誓い」が乱用されていたという歴史的な背景があるからです。

イスラエルの文化において誓いというのは、それを破れば私は神の呪いを受けてもよいと誓うことなのです。日本でも「嘘ついたら針千本飲ます」という言い方がありますが、よく考えると針千本飲むなんて恐ろしいことですよね。これは、私は約束を破ったら呪いを受けるよ、と自ら宣言していることなのですが、イスラエルにおける誓いは文字通りそのような非常に重大な行為だったのです。つまり、誓いは呪いとセットになっており、簡単に破ることができない重大なものです。ですから誓いのことばにはそれなりの信用が伴います。

しかし、それを逆手にとって、人に自分の言葉を信じてもらうために誓いを連発するような人が不届きモノが現れたのです。七十人訳聖書というギリシア語の聖書があり、そこには私たちが用いている聖書66巻には含まれない文書も収められていますが、その一つに「シラ書」というものがあります。そこにはこう書かれています。

むやみに誓いを口にしたり 聖なる方の御名をみだりに呼んだりするな。いつも問いただされている召し使いに鞭の生傷が絶えないように むやみやたらに誓いを立てたり御名を呼ぶ者も罪から清められることはない。(シラ23:9-10)

このように、誓いを乱用する人がいたのです。誓いというのは重大な、神聖なものと言ってよいほどの思いを持つものだったのに、あまりにも頻繁に使われるうちにその重みがなくなってしまったのです。日本語の「針千本飲ます」と言っても本当に飲ませる人なんていないですよね。イスラエルにおいても、誓いの重大さがそれが乱用されるうちに失われていったのです。

こうした、律法の本来の意図からは著しく逸脱した誓いの乱用という現実を前にして、主イエスは誓いを禁止したのです。ただ、イエスは誓いそのものが悪いと言っているのではなく、むしろあなたがたの間では誓いなど不要になるようにしなさい、と教えておられたのです。誓いが必要なのは、人の言ったことが信用できない場合です。ある人が何かの約束をした場合、「それは本当ですか?誓えますか」と問われて、「はい、誓います」と答えるということがあります。このように、誓いとは自分の言葉に十分な信用を与えられない人がそれを補完するためにするものです。逆に言えば、十分に信頼されている人のことばであれば、「はい」と「いいえ」だけで十分だということです。しっかりとした信頼関係が築かれていれば、もはや誓いは不要になります。イエスの「誓うな」という教えは誓いそのものを禁止したものではなく、むしろ誓いなど必要ないような、信頼のおける人間になりなさいということなのです。ですから、クリスチャンの中ではイエスの教えを文字通りに守るために一切誓いをしない、宣誓が要求される裁判にも参加しないという方がおられますが、そのような解釈は行き過ぎたものだと私は考えています。このように、誓いはある人の言うことと行うことが一致している場合、言行一致の場合には不要なものです。言行不一致という残念な現実があるから誓いが必要になってしまいます。イエスとヤコブは、この残念な現実を乗り越えなさいと教えているのです。

 さて、それでは次のテーマに行きたいと思います。それは祈りについて、特に病の癒しを願う祈りについてです。これは言行一致の話とは少し違いますが、これも非常に大きなテーマですね。私たちの人生における大きな困難の一つは病です。今日の社会では立派な医療制度が確立していますが、それでも直らない病というものがあります。ましてや、医療が整っていないイエスの時代には、人生における病の治療は大問題であり、病を癒せる人がいればその人は大変な人気を集めたことでしょう。実際、主イエスが大変有名になったのはその癒しの力のゆえでした。しかし、とはいえこのヤコブの手紙に書かれているような内容は、今日の教会にむしろ困惑を与えるものかもしれません。というのも、ここでは教会の「長老」と呼ばれる人たちに癒しの力があるということが前提となっているからです。しかし、私たちの教会にも他の教会にも病を癒せる人なんていませんよね。

しかし、今日の教会でも「神癒」と呼ばれる癒しの力を強調するグループがあり、それは主にホーリネス系のグループだと言われています。ホーリネスは日本最大の教派である日本キリスト教団においても、私たち同盟教団においても大切な母体となったグループの一つですので重要なグループの一つですが、そのホーリネスのクリスチャンの中ですら、本当に神癒と呼ばれるものが現代においてもあるのだろうかと懐疑的な方もおられます。イエス様や最初の使徒たちには確かにそういう力があったのだろうけれど、今日にはそういう力はないのではないか、と思う方の方が多いかもしれません。

しかし、20世紀においてもインドの聖者、使徒パウロの再来とまで言われたサンダー・シングという人は神癒を行ったそうです。とはいえ彼は、そのために人々の信仰がイエスではなく自分に向けられてしまうことを恐れて、一度それを行った後はその癒しの力を封印したそうです。他方で、アメリカのいわゆるテレビ伝道師は、テレビの中でいわばショーでも行うかのように様々な病の癒しを毎週実演していることがありますが、それはやらせではないかと思う人が多いようです。私も詳しくそういう番組を見たわけではないので、あまり正確なことは申し上げられませんが、その手の番組ご覧になった方の中にはそのような印象を持たれる方が多いということです。私個人の考えでは、今日でも例外的にそのような癒しの賜物を与えられている人はいるとは思うのですが、それはとうてい一般的なことではない、つまり誰でもできるようなものではない、というものです。また、癒しの賜物を与えられている人でさえ、いつもそれができるかと言えば決してそうではないとも思います。あのパウロでさえ、癒しを求めて神に三度祈りましたが、聞き入れられなかった、と書いています。ですから、癒しというものはそういう力がある人が祈ればいつでもどこでも叶うというような、そんな便利なものではなく、むしろ神の選ばれた時に、神がなそうとされた時のみに起きるもので、私たちの祈りとはそうした神の力が実現するために必要な要因の一つだと考えています。神は私たちの祈りに応えて癒しを行うということを望まれているので、私たちは祈るべきだということです。同時に、祈ったからといって自動的にそれが叶うとも考えてはいけないでしょう。あくまでこの件についての主権は神にあるのです。人間が立派な祈りを捧げたから、神は必ずそれに応えなければならないとか、そのように考えてはならないのです。神は私たちが祈ったからといって動かせるようなお方ではないからです。

ではそうした癒しの賜物が与えられていない人にはこのヤコブの言葉は何の意味がないのかといえば、そうではありません。ヤコブはここで、もう一つ非常に大切なことを述べているからです。それは罪の赦しの問題です。みなさんは、「信仰による祈りは、病む人を回復させます」という教えと、「また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます」という教えが並べられていることが奇妙に思われるかもしれません。病気の癒しと罪の赦しは全然別ものではないか、という疑問が生じるということです。現代の医学の常識から考えれば、罪を犯すと病気になるなどといえば、とんでもないことを言うと非難されるでしょう。ただでさえ病気で苦しんでいる人に、「あなたの病は自分の罪のせいだ、自業自得だ」などと言えば傷口に塩を塗るようなもので、相手をさらに苦しめることになるでしょう。

しかし、すべての病がそうだということではもちろんありませんが、罪と関係のある病というものも存在するようなのです。これは心理学者のフロイトらが発見したことですが、体調に不調を覚える人がある種のカウンセリング、セラピーを受けることによって治ったということがありました。どんな場合かといえば、過去のトラウマになった出来事があり、そのことを忘れていた場合にそれを思い起こすことで体の不調が直るというような事象は確かにあります。そのトラウマになった出来事が罪の意識を結びついていることが多く、そのことを思い出し、そしてその罪がもう赦されている、あるいは自分が思っていたような罪ではなかったことを自覚することで、音が聞こえないというような体の障害や不調が直ってしまうというようなことがあるのです。ですから、罪を告白してその罪に向き合い、その罪の赦しを願うことで癒しが起きるということは、素人考えながら心理学的にも実証された効用があるものと思われます。カトリックには神父に罪を告白する告解と呼ばれる秘蹟がありますが、プロテスタントにおいても信頼のおける兄弟姉妹同士で罪を告白しあうということは非常に意味のあることだということを、このヤコブの教えは示しています。心の重荷は担い合うべきだということです。

そして19節と20節にはヤコブの最後のお勧めがあります。それは真理から迷い出た兄弟姉妹に関することばです。そういう人を救い出すことができれば、その人自身のたましいを救うだけでなく、自分の多くの罪をもおおうことになる、自他ともに益を受けるということをヤコブは語っています。これも大切な教えですね。日本の教会では、洗礼を受けるまでは一生懸命世話をするのだけれども、その後のフォローアップが十分でないので洗礼を受けた後に教会を離れてしまう人が多いという話を聞きます。確かに大きな教会になると、なかなか一人一人の信徒に目を配ることができないという現実もあるのでしょう。キリスト教信仰というものは、一度信じたら終わりというものではなく、生涯をかけて変化し、成長していくものだと私は考えています。私自身の信仰を振り返っても、大きな変遷といいますか、大きく変わっていった過程があったと、今振り返ると強く思います。今思い返してみて幸いだったのは、信仰の成長の節目・節目に相応しい導き手のような方々と出会えたことでした。もしそういう出会いがなかったならば、私も信仰から離れてしまっていたかもしれません。ですから、私はそういう出会いに感謝し、私を導いてくださった方々だけでなく、そういう出会いを与えてくださった神に感謝しています。私たちも、自分の救いと同時に、信仰に迷う人たちを導けるような、そういう人になりたいと強く願うものです。そのためには私たち自身が成長していく必要があります。このように、信仰というものは一人で育てるものではなく、共同体の中で育まれていくものなのです。

3.結論

まとめになります。これまで一年間にわたってヤコブの手紙を学んで参りました。本当に大切な教えが数多く含まれる、みことばの宝石箱のような書簡でした。ヤコブの手紙の大きなテーマは「一致」でした。言葉と行動が一致すること、今日の教えにもあったように、自分の語ることと行うことが一致していることです。また信仰と行動が一致することの大切さも繰り返し語られました。よく、救いには行いが必要なのか、信仰だけでよいのかと聞かれることがありますが、そのような問い自体がおかしいのです。人間は本当に信じているものに従って行動します。私たちが何かを信じていれば、それは必ずその人の行動に影響を及ぼします。私たちは本当に信頼している人からのアドバイスであれば、それが多少難しそうに思えても実行します。実行しないのは、その人のことを心からは信頼していないためなのかもしれません。同じように、神を心から信頼していれば、おのずとその教えに従おうという気持ちになるでしょう。もちろんすべてをすぐさまできるようになることはありえません。それでも、神様を心から信頼しているのなら、私たちは自然にその教えに沿った生き方をしていくようになるのです。

また、教会の兄弟姉妹の間で信仰の一致があること、そうしたことの重要性を訴える書簡でもありました。信仰は、神様と私たち一人一人の間だけの問題ではありません。兄弟姉妹同士の間の信頼関係も同様に重要です。私たちが神様を信頼して歩むように、兄弟姉妹のことも信頼して歩む、助け合い、支え合って歩むことの重要性が、特に今日のみことばで語られていました。私たちは自分一人が神様とそれぞれ勝手につながっていれば救われるのではありません。横のつながり、兄弟姉妹のつながりなしには私たちの信仰は育たないのです。ですから教会は尊いのです。信仰とは仲間と共に育てるものだからです。

このように、様々な「一致」を教えるヤコブの手紙を、これからも折に触れて読み返し、朗読し、実践して参りましょう。お祈りします。

ヤコブの手紙を私たちにお与えくださった神様、そのお名前を賛美します。これらのヤコブの素晴らしい教えや勧めを胸に留めて今後も歩むことができるように私たちをお導き下さい。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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