中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 調布 深大寺のプロテスタント教会 Sun, 07 Jul 2024 04:14:03 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.3.18 https://domei-nakahara.com/wp-content/uploads/2020/03/cropped-favicon-32x32.png 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 32 32 策士ダビデ第一サムエル27章1~12節 https://domei-nakahara.com/2024/07/07/%e7%ad%96%e5%a3%ab%e3%83%80%e3%83%93%e3%83%87%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%82%b5%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%83%ab27%e7%ab%a01%ef%bd%9e12%e7%af%80/ Sun, 07 Jul 2024 04:12:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5723 "策士ダビデ
第一サムエル27章1~12節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。今日もサムエル記から、ダビデの生涯について学んで参りましょう。今日の説教タイトルは「策士ダビデ」ですが、ダビデのことを「策士」と呼ぶことに違和感を持たれるかもしれません。ダビデと言えば、巨人ゴリヤテにも小手先の策を弄さずに正々堂々と立ち向かっていくイメージがあるので、策士という呼び名はダビデにはふさわしくないと思われるかもしれません。しかし今回の聖書箇所のダビデは、非常に食えない人物であるという印象を与えるのです。

さて、前回の箇所では、ダビデとサウル王との感動的な和解のシーンを見て参りました。そして今回の箇所ではダビデはサウル王の追及を恐れて国外逃亡したという設定になっています。サウルは自分の命を救ってくれたダビデの行為に感動し、ダビデを狙うことはもうやめると言っているのに、なぜダビデはサウルのことをそんなに恐れるのだろうかと不思議に思われるかもしれません。ダビデはサウルにしつこく命を狙われ続けたので、それがトラウマになり、サウルの言うことが信じられなくなってしまったのでしょうか?そうかもしれませんが、そうすると前回の二人の和解の感動も、少し興ざめしてしまいます。ダビデももう少しサウルを信用してあげてもよいのではないか、という気もします。

しかし、サムエル記はダビデのついての様々な伝承やエピソードを集めて編集された書なので、必ずしも前後の話のつながりがスムーズでないように思える箇所がいくつもあります。何が言いたいのかといえば、今日の27章の記述は、必ずしもサウルとダビデの和解のエピソードの後に起こった出来事だと考える必要はないということです。むしろダビデがサウルに追い回されていた23章の記事の続きとして今日の27章を読むと、内容がすっきりと入ってくるように思われます。つまりサウルとの和解の事は一旦忘れて、ダビデが相変わらずサウルに追われている状況の話として今日の箇所を読むということです。ここではダビデはサウルの執拗な追及に恐れをなして、彼らか逃れるために非常に大胆な作戦を思いつきます。それはサウルが最も恐れる敵、つまりペリシテ人のところに逃げこめば、サウルといえども手が出せなくなるだろうということでした。

実は前にもダビデはペリシテ人の所に逃げ込もうとしたことがありました。21章の話ですが、ダビデはサウル王から逃れて、たった一人でペリシテ人の都市ガテの王であるアキシュのところに行きます。その時ダビデは自分の立場を隠して、一人の傭兵としてアキシュ王に雇ってもらおうと思ったのです。しかし、アキシュの部下たちはその男がダビデであることにすぐに気が付きました。あのゴリヤテを殺したダビデがいると大騒ぎになり、敵軍の将軍として捕らえられそうになったダビデは、とっさに機転を利かせて狂人のふりをしました。よだれを垂らして訳の分からないことをわめき散らす、そういう気味の悪い人物を演じたのです。アキシュ王も、そんな狂人に用はないとばかり、ダビデを捕らえることもせずに追い出しました。

このように、ダビデとアキシュ王との最初の出会いは非常に後味の悪いものでしたが、今回アキシュ王を訪れたダビデは前回とは状況が違っていました。前回はたった一人でアキシュの所に来たダビデでしたが、今回は手勢六百人を連れて来たのです。つまり今度は一部隊ごと、軍団としてアキシュに傭兵として雇ってもらおうとやって来たのです。ただ、ペリシテ人はイスラエルの最大の敵です。そこの傭兵になるということは、祖国イスラエルとも戦わなければならないことになります。そんなことになれば、イスラエルの王になるというダビデの大望は実現不可能となってしまうでしょう。そこでダビデは非常に巧妙に立ち回ります。ダビデってこんなに残酷だったのか、と驚くほどです。では、さっそく今日の箇所を詳しく見て参りましょう。

2.本論

1節では、ダビデは不安な心持を吐露しています。自分はいつかサウルに殺されてしまうだろう、とダビデは考えていたのです。これは、26章のダビデとサウルの劇的な和解の後にしては、あまりにも悲観的な見方です。ですから先ほども申しましたように、この時のダビデはサウルと和解する前の、サウルにしつこく命を狙われているという状況にあったのだと思われます。ダビデはここで、死中に活を求めることにします。イスラエルの中を逃げ回っていてもだめだ、いずれ自分は民衆の手で捕まってサウルに売り渡されてしまう。であれば、敵の敵は味方ということで、サウルの敵であるペリシテ人のところに行けば、あるいはこの袋小路を打開できるのでは、と考えたのです。今や自分もサウルとは敵対する立場に置かれていて、その情報はペリシテ人の間にも伝わっているはずだ。今ならペリシテのアキシュ王もダビデとその軍団を、イスラエルの敵対勢力として受け入れてくれるかもしれない、と考えたのです。それは危険な賭けでもありました。前回単身でアキシュ王のところに乗り込んだダビデは捕らえられそうになりました。今回は六百人の部下を従えているとはいえ、かえって危険人物と見なされて今度こそペリシテ人に捕まってしまうかもしれないのです。それでもダビデは、ペリシテ軍のところに行く決断をしました。これが神の御心だったかどうかは分かりません。ダビデは神に祈ったとか、神の御心を示されたというような記述はないからです。もちろんダビデも神に祈ったでしょうが、はっきりとペリシテ人のところに行きなさいという御心は示されていなかったのかもしれません。ダビデも追い詰められていて、迷いながら手探りで行動していたようにも思えます。

ともかくも、ダビデはペリシテ人のアキシュ王の所に、今度は堂々と自分はダビデだと名乗って訪れました。そして、ひとまずはこのダビデの作戦はうまくいきました。アキシュ王はダビデの主張、つまり自分たちはもうイスラエルには居場所がない、これからはペリシテ人のアキシュ王のために働くので雇ってほしいというダビデの言い分を信じました。どうもこのアキシュ王という人は疑り深い性格の人物ではなかったようで、それがダビデには幸いしました。同時にこの作戦は、サウルの脅威から逃れるという意味でも大成功でした。サウルはダビデがペリシテ人の王に仕官したと聞いて、これではもはやイスラエルの王位を狙うことはできなくなったと考えて、もうダビデを追うのはやめました。もちろん、強力なペリシテ軍との無用な諍いは避けたいとの思惑もありました。

こうしてうまい具合にアキシュの傭兵になったダビデですが、しかしあまりアキシュの近くにいると、イスラエルとの戦争になったときに一緒に戦ってくれと王に頼まれることになるのは目に見えています。それだけはなんとしても避けなければなりません。また、ダビデとしてはペリシテ人の宮廷内の争いに巻き込まれるのも御免でした。ペリシテには当座の間、いわば緊急避難として腰かけているだけなので、王に近い所にいて無用な権力闘争に巻き込まれたくもありませんでした。むしろ王の監視の届かない辺境にいたいというのがダビデの希望でした。そこでダビデは言葉巧みにアキシュ王に願い出ました。私のような外様の新参者が王のおそば近くにいるのは恐れ多いです、何か実績を上げるために、どこか地方の町で王国の守備に当たらせてほしいと願い出たのです。ダビデも殊勝なことをいうと、その言葉はアキシュの気に入ったようです。アキシュはダビデをツィケラグというところに遣わしました。それはイスラエル12部族の内のシメオン族の嗣業の地に隣接した土地でしたが、確かにそこは辺境の地で、ペリシテ人の都からもサウル王の王都からも離れた場所でした。そこならダビデも周りの目を気にせずにのびのびと過ごせるというものでした。

もちろんダビデもそこで遊び暮らせるわけではありません。アキシュ王の部下になったのですから、王の利益のために働かなければなりません。アキシュは、ダビデが自らの祖国であるイスラエルと戦うことを期待していました。なにしろダビデはイスラエルではお尋ね者となっているので、いまさらイスラエル人と戦うことにためらいや問題はないだろう、とアキシュは考えたのです。しかし、それはダビデにとっては大問題でした。ダビデはアキシュの信頼を損ねないために、イスラエルと戦うふりをしなければなりませんが、それはあくまでふりであり、本気で戦うつもりは毛頭ありませんでした。ダビデは、いずれイスラエルに返り咲いて王となることを目指していたのですから、ここで同族殺しなどをしてしまえば彼の大望は潰えてしまいます。イスラエルとの戦いは何としても避けなければなりません。

このような状況でダビデが当面の敵として定めていたのは、イスラエルにとっての仇敵であり、またダビデの管理するツィケラグにとっても脅威となるアマレク人でした。アマレク人というのは、サウル王がサムエルから聖絶するようにと命じられて、サウルが不徹底にしか聖絶を行わなかったことをサムエルに咎められ、王失格の烙印を押されてしまった、あのアマレク人です。アマレク人はイスラエルにとっての不俱戴天の仇とされていたので、そのアマレク人をいくら殺しても、イスラエル人は誰もダビデを咎めないし、むしろ称賛するでしょう。またアキシュ王としても、国の国境を脅かす勢力であるアマレク人やその仲間のゲシュル人、ゲゼル人をダビデが征伐することは大変ありがたいことでした。

こうしてアマレク人と戦うダビデですが、彼は情け容赦なく戦士だけでなく女性も皆殺しにしています。これは虐殺であり、神の人と呼ばれるダビデがこういうことをしているのを聞くのは、私たちにとっても動揺させられることです。いや、アマレク人は皆殺しにしろと預言者サムエルはサウルに命じているので、ダビデはその命令に忠実に従っただけだ、と思われるかもしれませんが、もしそうだとすると、別の大きな問題が発生します。なぜならサムエルはサウルに、人間だけでなく家畜一匹も残らず皆殺しにしろと命じたからです。サウルはこの家畜を殺すという命令を守らなかったので、そのことにサムエルは激怒し、そのために王失格の烙印を押されてしまいました。しかし、なんとダビデもまったく同じことをしているのです。ダビデもまた、人間は皆殺しにしたのに家畜は生け捕りにして、それらをペリシテ人のアキシュ王への贈り物にしたのです。サムエルが聞いたら何と思うでしょうか?彼はサウルに続いてダビデも王失格を宣言しないと公平を欠くということになります。そうなると、ダビデの家も終わりだということになります。幸か不幸か、サムエルはすでに世を去っていましたので、ダビデはサムエルに怒られないですんだわけですが、しかしこう考えるとサウル王が大変気の毒になってきます。ダビデはお咎めなしなのに、サウルはサムエルから王失格を宣言されたうえで絶縁されて、そのせいで精神を病んでしまったからです。

さて、話を戻しますと、ダビデはアマレク人と戦い、そこで得た家畜を戦利品としてアキシュ王への贈り物としました。しかしアキシュ王には、それらがアマレク人から奪った戦利品だとは言いませんでした。むしろ、ダビデは自分の出身部族であるイスラエルのユダ族と戦ってきたといううその報告をしています。また、ユダ族と同盟を結んでいるエラフメエル人やケニ人とも戦ったという風に報告をしています。ダビデは自らの退路を断って、自分の出身部族であるユダ族とすら戦っているといって、アキシュの信頼を得ようとしたのです。しかし、繰り返しますがこれはうその報告です。そしてダビデと戦ったアマレク人の生き残りが本当のことをアキシュに告げてしまうと、ダビデのウソがばれてしまいます。ダビデはこうした危険も分かっていたので、そのための対策も打っています。つまり彼らの口封じのために、ダビデは男だけでなく非戦闘員の女性まで皆殺しにしたのです。別にサムエルから聖絶するように命じられたから皆殺しにしたのではなく、自らの身を守るために彼らを殺したのです。アキシュ王はダビデにすっかり騙されてしまい、ダビデを深く信用するようになり、こう思いました。「ダビデは進んで自分の同胞イスラエル人に忌みきらわれるようなことをしている。彼はいつまでも私のしもべになっていよう。」こうしてダビデの策略は見事に成功したのです。

こうしてみると、私たちのダビデという人物に対する印象がだいぶ変わるかもしれません。ダビデというと、信仰の人、正義の人というイメージがありますが、今回のダビデは政治的な生き残りのためには女子供でも非情にも殺すというマキャヴェリズム的なにおいがプンプンします。しかも今回のダビデの行動については、神に祈ったとか、神に命じられたという記述もありません。少なくともこの27章の記述からは冷徹で非常なダビデ像しか浮かんでこないのです。しかし、こうしたダビデ像が彼の本質なのかもしれません。ダビデは今回、ウソがばれないようにアマレク人の男女を皆殺しにしますが、王となった後のダビデも、バテ・シェバとの不倫を隠すためにうそをついてその夫ウリヤを殺しています。ウリヤというのは非常に立派な武人で、ダビデのために献身的に働いていました。その彼を、自分の罪を隠ぺいするためにうそをついて殺してしまうのです。今回のアマレク人の一件と似ていなくもありません。ダビデという人物には、こういう非常に利己的なところがあったのです。

3.結論

まとめになります。今日はサウル王からの追及を逃れるために、なんと宿敵であるペリシテ人を頼ったダビデが、そこで綱渡りのような駆け引きをしてペリシテ人の王アキシュの信頼を勝ち得ていく様子を見て参りました。ダビデは疑い深くないアキシュ王を手玉に取る策士ぶりを発揮しますが、これまでは割と一途な青年という感じだったダビデのこういう側面を見るのは驚きかもしれません。しかし、権力の階段を駆け上っていくような人物は、こういう策士的な面や非情な面も持ち合わせているものです。ダビデもそうだった、ということになるのでしょう。

ただ、信仰者としてこのようなやり方が正しかったかどうかというと、話は別になります。成功のためには手段を選んでいられない、嘘も方便、大望のためには多少の犠牲はやむを得ない…こうしたことは、この世の王たちがしばしば主張することであり、ダビデも今回はこの世のルールに従って行動しているように思えます。けれども、ダビデには別の道もあったように思えます。なにしろ、ペリシテ人はイスラエルにとっての最大の敵です。サウルの追及をかわすためとはいえ、そんな相手の軍門に降るというのが本当に神の御心だったのか、ダビデにはもう少し慎重さが必要だったように思えます。こういう無茶な作戦のため、どうしてもダビデはうそをつかなくてはいけなくなりました。うそにうそを重ねていくことがいずれ自分の首を絞めるということを、これからダビデは学んでいくことになるでしょう。

このように考えると、今回のダビデの行動は、少なくとも信仰面では私たちのお手本というよりも、反面教師の面の方が大きい気が致します。私たちはどんな場合でも、「しかり」は「しかり」、「否」は「否」と、正直でありたいと願うものです。たとえそれが馬鹿正直と言われてしまうとしても、うそをつくことには慎重であるべきです。なぜならうそというのは癖になり、小さな嘘が段々と大きな嘘、常習的な嘘へと変わっていってしまうからです。ダビデの場合も、嘘をつくという罪がウリヤ殺害という最悪の罪へと結実してしまったことを忘れるべきではありません。私たちが唇を制することができるように、主に祈って参りましょう。

私たちに讃美の唇を与えてくださった父なる神様、そのお名前を讃美します。今回はダビデの行動を通じて、神の民はどう歩むべきかを改めて考えさせられました。私たちは神の前に正直に歩むことができるように導いてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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行いによって義とされるヤコブの手紙2章14~26節 https://domei-nakahara.com/2024/06/30/%e8%a1%8c%e3%81%84%e3%81%ab%e3%82%88%e3%81%a3%e3%81%a6%e7%be%a9%e3%81%a8%e3%81%95%e3%82%8c%e3%82%8b%e3%83%a4%e3%82%b3%e3%83%96%e3%81%ae%e6%89%8b%e7%b4%992%e7%ab%a014%ef%bd%9e26%e7%af%80/ Sun, 30 Jun 2024 04:46:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5707 "行いによって義とされる
ヤコブの手紙2章14~26節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。毎月の月末はサムエル記の講解説教から離れて新約聖書からメッセージをさせていただいておりますが、今日もヤコブ書からメッセージをさせていただきます。今日の箇所は、新約聖書の中でも最も有名で、かつ議論を呼ぶ箇所の一つだとされるところです。

なぜこの箇所がそんなに有名なのかといえば、今日の説教タイトルにあるように、ヤコブが「行いによって義とされる」ということを繰り返し説いているからです。しかし、宗教改革でルターが熱心に主張したのは「信仰のみで義とされる」という信仰義認論でした。「信仰のみ」とはすなわち「行いなしで」ということであることが強調されました。あまりこの教理についての難しい議論には触れないようにしたいのですが、一つだけ強調したいのはルターも決して「行い」の重要性を否定していたわけではなかったことです。クリスチャンとしての行いは大切であり、ひとたび神様に義とされて受け入れていただいた後には、クリスチャンは善い行いに励まなければならない、とルターは強く訴えています。ただ、ルターにとっては順番がなによりも大切でした。まず「行いなしに」義とされて、それからクリスチャンとして善い行いに励むという、そういう救いの順序を重要視していたのです。そのルターにとって、行いによって義とされると明確に主張するヤコブ書は自分の信仰義認の教理を脅かす書だと感じられたのでしょう。ルターのヤコブ書への評価は極めて低く、ルターはヤコブ書を「藁の書」、つまり終末の神の裁きの前には藁のように燃えてしまう書だとさえ記しているのです。

ここでルターがなぜ「行いなし」の義認にこだわったのかを考えてみたいと思います。ルターは当時の中世の神学と戦っていました。中世のカトリック神学によれば、神は自らが神の恵みにふさわしいことを示した人に恵みを施すとされていました。つまり、まず人間が頑張る、それに対して神様がご褒美として恵みを与える、という順番でした。しかしルターは、それでは順番があべこべである、と主張しました。まず神は、神の恵みにまったくふさわしくない人に恵みを施すのです。この場合、具体的には恵みとは「聖霊」のことです。人は恵みのみ、信仰のみによって無償で「聖霊」という賜物を与えられる、そしてその聖霊によって力を受けて人は善い行いをすることができる、これがルターの重要視した「救いの順序」でした。ルターがなぜヤコブ書を酷評したのかといえば、こうした救いの順序を無視した議論を展開しているように思えたからです。ただ、ルターの時代から千五百年も前に生きていたヤコブには、こういう微妙なスコラ的神学論争は縁のないものでした。ヤコブは中世の神学と戦っていたわけではありませんし、もっと物事をシンプルに考えていました。彼の目指したものは、人々の間に広がっていたある種の誤解、その誤解はいつの時代にも生まれるようなものですが、その誤解を解くことでした。その誤解とは、人が救われるためにすべきことは信じるだけ、「行いなしに信じるだけで救われる」というものでした。この場合の「信じる」というのは、ある種の知識を知的に受けいれるということです。その知識とは、「神は存在する」とか、「イエスは神の子である」とか、「イエスは人類の罪を背負って死んだ」などの教理のことで、こういった教理を知的に受け入れさえすれば救われる、天国に行ける、このように考えてしまった人がいたということです。イエスを信じて、イエスの教えに従って新しい生き方をする、生き方を変える、それが救いには絶対に不可欠だとは考えず、むしろ信仰とは頭の問題、知識の問題だと考えてしまうのです。どうしてそう考えてしまったのかといえば、それは当時すでに有名だったパウロの言っていることを曲解してしまった結果だと思われます。パウロは「律法の行いではなく、キリストへの信仰によって義とされる」ということを強く主張しました。このパウロの教えの真意を理解することはとても大切なのですが、しかしあまりこの問題に深入りすると、ヤコブの手紙ではなくパウロ書簡についての説教になってしまうので、ここではごく簡単に解説します。パウロが言わんとしたのは、「あなたは何の行いがなくても、ただ信じるだけで救われる」ということではありませんでした。むしろパウロはすべての書簡で、行いの重要性、必要性を強く訴えています。一番有名なのは、「なぜなら、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が義と認められるからです」というローマ書2章13節のことばです。ここで言っているのは、ヤコブの手紙と全く同じですね。パウロが「律法の行いでは義とされない」と語った前提として、モーセの律法はモーセ契約を結んだユダヤ人のみに与えられたものだということを覚えておく必要があります。つまり、モーセ律法のすべての戒めを守る義務を負っているのは契約の民であるユダヤ人だけなのです。私たち日本人クリスチャンが、モーセの律法を守って「これからトンカツは一生口にしません」と誓っても、それは豚肉を食べないユダヤ人にとっては義とされる行為であっても、日本人クリスチャンがそうしたからといって、神の前に義とされることはないのです。つまり、パウロは一般的な意味での善い行いは救いには関係ないとか必要ないと言いたかったのではなく、ユダヤ人に固有の教えをいくら熱心に守っても、私たちのようなユダヤ人以外の異邦人には意味がないということを指摘したのです。 しかし、ユダヤ人と異邦人との関係を念頭に置かずにパウロの言葉を聞くと、「ああ、パウロ先生は救われるためには善い行いをする必要はない、ただ信じるだけでよいと教えておられる」というように捉えてしまいがちです。そのような誤解は現代にもありますし、ヤコブの手紙が書かれた時代、つまりキリスト教の黎明期にもあったのです。ヤコブの狙いは、そうした誤解を打ち砕くことにありました。この点を念頭に置いて、さっそくテクストを詳しく見て参りましょう。

2.本論

では14節から見ていきましょう。ヤコブは、行いの伴わない信仰が何の役に立つのか、そんな信仰が人を救うことができるのか、という問いを投げかけます。まずヤコブは、「口先だけの信仰」のむなしさを語ります。「口先だけの愛」がむなしいように、「口先だけの信仰」はむなしく、有害だとさえ言えます。

ある人が貧しくて食べるものがなくて空腹に苦しんでいる時に、食糧を十分に持っているその人の友人が、「たいへんですね。あなたのことを心から心配していますよ。あなたの空腹が満たされるように、お祈りしますね」と言いながら、その人に自分の食事のわずかな分さえ与えるのを惜しんだとします。では、その人の貧しい友人への同情心が本物だと思えるでしょうか。いいえ、それは口先だけの、見せかけの同情心に過ぎないのです。ずいぶん昔のテレビドラマで「同情するなら金をくれ」という有名なセリフがありました。ここまであけすけに言うと身も蓋もないですが、しかし本当に同情して心配してくれるなら必要なものを買うためのお金を提供してほしい、というのはもっともな願いでもあります。ですから本当の同情心は口だけでなく行動を通じて表わすべきものなのです。全く同じことが信仰についても言えます。いくら口先で「イエス様、あなたを信じています。あなたについて行きます!」と言ったところで、その人が生活においてイエスの教えを無視し、自分の判断で好きなように生きているとしたら、その人のイエスへの信仰は本物と言えるでしょうか。いいえ、そんなものは口先だけの信仰に過ぎないのです。言われてみれば当たり前の事なのですが、私たちはこのように考えてしまう罠に陥りやすいのです。

18節では、ヤコブは信仰についてのもう一つの誤解を取り扱っています。それは信仰を知識の問題として捉えてしまうこと、信仰を神についての教理を知的に受け入れることだと考えてしまう誤りについて指摘しています。ある人が、「私には立派な行いはないし、私の生き方は褒められたものではありませんが、しかし神様がおられて、神様が私の罪を赦してくださることは誰よりも強く信じています。この信仰の強さについては、誰にも負けません」と言ったとします。では、このような信仰は神の求める信仰なのでしょうか。ヤコブは、あなたの言う意味での信仰についてなら、悪霊の方があなたより強い信仰を持っているという事実を指摘します。神についての正しい知識なら、私たち人間よりも霊的存在である悪霊のほうがずっと優れた知識を持っているからです。ですから神が存歳するという教理を信じる度合いは、私たちよりも悪霊の方がずっと強いのです。では、そのような信仰によって悪霊は神に喜ばれ、救われることができるのでしょうか。いいえ、そんなことはありえないし、神はそのような信仰を求めてはおられないのです。この具体例から分かるように、信仰とはただ頭の中で考えたり信じたりすることではないのです。

そしてヤコブは信仰とは何であるのかを示すために、最後に旧約聖書で最も有名な人物を例に引きます。そう、「信仰の父」アブラハムです。ここで注意したいのは、アブラハムの信仰といっても、アブラハムの生涯のどの部分を切り取ってくるのかでその「信仰」についての印象もずいぶん変わってしまうということです。それを端的に示しているのがパウロとヤコブのアブラハムの描き方です。パウロは信仰義認論を論じる時に、常に創世記15章のエピソードを引用します。創世記15章のエピソードとは、子どもを与えてくださるという神の約束を信じてカルデヤからカナンの地にまで旅してきたアブラハムですが、もう80歳を超えても子どもは授かりませんでした。もうあの神の約束は無効になってしまったのかと弱音を吐くアブラハムに対し、神はかならず子どもを授けること、それどころか彼の子孫は空の星のように夥しい数になることを改めて約束します。アブラハムはこの神の約束を信じ、それが義とされたと書かれています。ここでアブラハムは何か立派な行いをしたとか、神の命令に従ったとか、そういうことは何もありません。ただシンプルに神の約束を信頼した、そのことが神に認められ、義とされたのです。このエピソードからは、確かに「行いなしに、信じるだけで、神に義と認めていただける」という結論が導けるかもしれません。ただ、忘れてはいけないのはこの出来事でアブラハムの信仰の旅路は完結したわけではなかったということです。また、神はこの時のアブラハムの受け身の信仰で完全に満足した、というわけでもありませんでした。もしそうなら、神は後にアブラハムの信仰をテストする必要などなかったからです。

本物の信仰というのは、人生のある時期に、一度でも神を信じればよいというものではないのです。むしろ、信仰とは人生全体に及ぶものです。これは愛の場合を考えても同じでしょう。ある人を一度は愛したけれど、その愛が時間と共に醒めてしまった、というのでは、その愛ははしかのようなもので、本物ではなかったということになるのではないでしょうか。信仰も同じです。神様を一度は信じた、信頼したければ、人生においていろいろと苦難が降りかかるともはや神を信じられなくなった、神がいるとは思えなくなった、というのではその信仰は本物ではなかったということになります。信仰は、人生の荒波や試練のただ中でも失われなかった場合にこそ、それが本物だと認められるのです。そしてアブラハムにとっての最大の信仰の危機は、いうまでもなく神にわが子イサクを献げなさいと命じられたときでした。これほど残酷な命令はありません。そもそも75歳という高齢になってまで、アブラハムが神の命令に従って生まれ故郷を離れて旅立ったのは、「子どもを与える」という神の約束を信じたからでした。アブラハムが神に求め続けたもの、それは子どもだったのです。その約束の子どもが、約束の時から25年も後になってやっと与えられ、そしてその子が順調に育ってきた、これでアブラハムもやっと安心してこの世を去ることができると思えたその時に、そのたった一人の子どものイサクを屠りなさいと神に命じられたのです。悪い冗談ではないか、と思えたことでしょう。そしてその神の命令が本気の命令だとわかったときに、アブラハムの心に神への不信感がまったく生まれなかったとは言えないでしょう。いったい神は何を考えておられるのか。私の人生を弄んでいるのではないか、という不信が全くなかったとはいえないでしょう。しかしアブラハムは、神と共にもう30年以上も共に歩んできました。神が自分を弄ぶとか、そんなことをする方ではないことは良く分かっていました。神は常に私にとっての最善を願っておられるという強い信頼が、その長い歩みを通じてアブラハムの心に生じていたのです。だからアブラハムはイサクを献げようと思ったのです。それはブラインド・フェイス、つまり盲目的な信仰ではありません。むしろその信仰は、長い人生経験に裏打ちされていました。これまでの人生の苦楽を共にしてきた信頼できるパートナーとしての神への全幅の信頼です。なぜ神がイサクを献げろと言われるのか、その真意は分からないけれど、神が私の信頼を裏切るようなことを命じるはずがない、という本物の信頼があったのです。そしてアブラハムの神への信頼は、行動を通じてでしか、行いを通じてでしか表すことができないものだったのです。アブラハムは神への信頼の証しとして、神の命令に従いました。そして、そのような神への全き信頼が神に喜ばれたのです。アブラハムはこの試練を通じて、なんと「神の友」とさえ呼ばれるようになりました。そしてこの時、アブラハムの子孫、つまりイエス様が全人類の祝福の基になることが確定しました。アブラハムの信仰に心を動かされた神が、ご自身に賭けてそのことを誓われたからです。私たちがイエス・キリストという救い主を得ることができたのは、アブラハムが神への信頼を全うしてくれたおかげなのです。ですから私たちはアブラハムに心から感謝するとともに、その彼の信仰に倣う者でありたいと願うものです。そして、繰り返しますがアブラハムの信仰とはその行動を通じてでしか表せないものでした。ですから信仰と行いとは決して切り離すことはできないのです。それが、次のヤコブの言葉の真意です。

人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。

この言葉はパウロの信仰義認の否定ではありません。むしろパウロの信仰義認への誤った理解を正してくれるみことばなのです。

3.結論

まとめになります。今日は新約聖書の中でも最も有名で、また最も議論を呼ぶ箇所の一つを読んで参りました。ヤコブの議論は具体的で分かりやすく、心に残るものでした。それは「信じるだけで救われる」という、非常に誤解を招きやすいものの、しばしばキリスト教のエッセンスのように語られるスローガンを正すためのものでした。

当たり前のことですが、誰かを信じるということは、それが神に対してであれ人に対してであれ、口先だけのものであってはならないのです。むしろ誰かを本当に信じているかどうかは、その行動を通じてでしか確かめることができないということがヤコブの第一のポイントでした。

ヤコブの第二のポイントは、信じるということは単なる知識の問題ではない、ということでした。誰かを信じるということは、それが神についてであれ人についてであれ、単にその人についての知識を受け入れることではありません。皆さんがスポーツクラブに所属しているとします。そこに優れた実績のコーチが新たに就任します。けれども、このコーチがどれほど優れているのかを知っていたとしても、それで皆さんが上達できるわけではありません。このコーチを信じて、その指導に従ってしっかり練習する、実践することを通じて初めて皆さんは上達できるのです。イエス様も私たちにとっての最高の霊的な指導者ですが、イエスが優れた教師であることを知るだけで私たちは霊的に成長するのではありません。イエスの教えに実際に従って初めて私たちは本当にイエスを信じたことになり、また成長できるようになるのです。つまり頭だけでなく、行動そのものでイエスへの信頼を表していかなければ私たちはいつまでたっても霊的に成長することはないのです。聞くだけでなく、実践すること、これが本物の信仰です。

三つ目のポイントとして、ヤコブはアブラハムを例に引きます。アブラハムの信仰は、一時期だけのものではありません。それは30年もの間、それどころか彼の人生の終わりまで持続するものでした。アブラハムは年をとっても、信仰面ではダイナミックに成長し続けました。このように、本物の信仰とは一時的なものではなく持続的なもので、なおかつ成長を止めないものでもあります。信仰の父であるアブラハムはまさにそのような信仰を体現した人だったのです。私たちを救うのは、そのような信仰です。そうした信仰を持ち続けることができるように、祈って参りましょう。

アブラハムの信仰の成長を見守り続けた神様、そのお名前を賛美いたします。私たちもアブラハムのような本物の信仰を持ちたいと願うものです。どうか私たちの信仰の歩みをも、守り導いてくださいますように、お願いいたします。われらの救い主、平和の主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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報復するは、神にあり第一サムエル26章1~25節 https://domei-nakahara.com/2024/06/23/%e5%a0%b1%e5%be%a9%e3%81%99%e3%82%8b%e3%81%af%e3%80%81%e7%a5%9e%e3%81%ab%e3%81%82%e3%82%8a%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%82%b5%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%83%ab26%e7%ab%a01%ef%bd%9e25%e7%af%80/ Sun, 23 Jun 2024 04:31:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5693 "報復するは、神にあり
第一サムエル26章1~25節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。私たちはサムエル記を読み進めていますが、この物語もいよいよ前半の山場を迎えます。第一サムエル記の二人の主役は初代の王サウルと二代目の王ダビデです。主役と言っても、サウルの方は悪役、ヒールのような役回りをしていますが、この二人の神から油注がれた者たちの間の対立にどのように決着が付くのか、それが第一サムエル記の大きな関心事、テーマでした。

とはいえ皆さんもご承知の通り、サウルとダビデの確執は2章前の24章で解消したことになっています。サウルとダビデはそこで仲直りしたはずなのに、なぜサウルはダビデを相変わらず追い回しているのか、と疑問に思われるかもしれません。その理由としては、26章と24章の出来事はおそらく同じ出来事なのだろう、ということは前にもお話ししました。つまり、今回の話は24章の話の語り直しだということです。細かい部分はいろいろと違いますが、基本的な粗筋は同じだからです。では、なぜ同じ話が二度繰り返さなければいけないのかといえば、それは強調点が違うからです。今回の場合は、ダビデは報復は自分のすることではない、それは神がなさることだ、ということが強調されています。これは24章にはなかった点です。ダビデはこのことを、前回のナバルの一件から学んでいます。ダビデはそこから得た教訓を、今回のサウルとの一件で生かしているということです。

ここで少し考えてみたいのは、赦しと報復とは違うということです。ダビデは確かにサウルの命を奪うことはしませんでしたが、それは罪もない自分の命を狙って付け回してきたサウルの罪を赦してあげたから、というのではありませんでした。むしろダビデは、「主が必ず彼を打たれる」という信念の下で、サウルを討つことはしなかったのです。ダビデはサウルを赦したのではなく、サウルを神の裁きに委ねたのです。復讐は神のすること、というのは旧約・新約に共通する大きなテーマです。今回の「報復するは、神にあり」という説教タイトルも、パウロの書簡であるローマ人への手紙から取ったものです。そこをお読みします。ローマ書12章19節以降です。

愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。

ここでパウロは箴言25章を引用し、敵に塩を送りなさいと教えています。しかし、それは相手を赦すからではなく、むしろ相手の頭に炭火を積む、苦痛を与えることになるからだ、というのです。この点は私たちを困惑させるかもしれません。イエス様の教えのように、敵を愛し、敵を赦すべきではないか、敵に塩を送りながらも、結局は敵の不幸を願うのは違うのではないか、と思われるかもしれません。主イエスは復讐心そのものを捨てるようにと教えているのではないでしょうか。自分では復讐をせずに神が復讐してくださるのを待つというのでは、結局相手を赦すことができずに復讐心に囚われてしまっているのではないかと思えるかもしれません。

これはなかなか難しい問題です。ただ言えることは、相手を赦すためにはその相手が本当に悔い改めて、悪から離れるということが条件になるということです。相手が一向に悔い改めずに悪を行い続けている場合、その相手を赦してしまうならば、かえって悪を助長することになってしまいます。ですからそのような場合に神に裁き、あるいは報復を委ねるのです。そして、神が復讐するという場合、やられたことをやりかえすというような、私たちの考える復讐とは次元が異なり、正義の回復、秩序の回復という目的があることを忘れてはいけません。神の復讐というのは相手が憎くて仕返しをすることではありません。私たちが自分で復讐をせずに神に任せるべきだということの一つの大きな理由は、私たちが自分自身で復讐する場合、どうしても自分の感情、相手を赦せないという気持ち、怒りや憎しみという感情がにじみ出てしまうからです。そのような復讐心から出た行動はさらなる報復という、報復の連鎖を生み出してしまいます。ですから公平な方である神に復讐を委ねるべきだという教えが大切なのです。神の復讐の目的は正しい秩序の回復にあるからです。詩篇94篇はそのことを言い表しています。1節から3節まで、それと16節から17節までをお読みします。

復讐の神、主よ。復讐の神よ。光を放ってください。地をさばく方よ。立ち上がってください。高ぶる者に報復してください。主よ。悪者どもはいつまで、いつまで、悪者どもは勝ち誇るのでしょう。[…] だれが、私のために、悪を行う者に向かって立ち上がるのでしょう。だれが、私のために、不法を行う者に向かって堅く立つのでしょうか。もしも主が私の助けでなかったなら、私のたましいはただちに沈黙のうちに住んだことでしょう。

ここでは、復讐が向けられるのは悪を行う人に対してです。悪を止めるために神が立ち上がるのです。神は悪者の悪のゆえに、彼らを滅ぼすとこの詩篇は結んでいます。

今回の26章においては、サウルは自分の非を認めて悔い改めています。ですからダビデも、最後にはサウルへの報復を神に願うことはせずに、サウルと和解した上で自分の道を歩み出しました。ダビデがサウルに対する復讐を願わなかったことは強調したいと思います。それではテクストを詳しく見て参りましょう。

2.本論

さて、では1節から見て行きましょう。ジフ人というのは23章19節にも登場しましたが、ダビデと同じユダ族の人々です。いわば同族であるダビデをサウル王に密告して売り飛ばそうとした人々なわけですが、ここでも彼らはサウルにダビデの居場所を教えています。すぐさまサウルは三千人の精鋭を連れてダビデを捕らえようとします。ダビデの方も、ほどなくサウルの動向を掴みます。そこでダビデは斥候を送り、サウル軍の動向を探らせます。サウルの軍には、大将軍アブネルもいました。アブネルを連れて来たというところに、サウル王の本気度が表れています。ダビデは斥候の報告で、サウルたちが野営している場所を突き止めました。

この時点で、ダビデの側にはこのサウルの追撃軍をどうすべきか、明確なプランはなかったように思います。ここに隠れ潜んでサウルの軍をやり過ごすか、あるいはダビデの方がサウルの手の届かないところに逃げのびるか、決めかねていたようです。そこでサウル軍を偵察し、今後の方針を決めようとしたのでした。ダビデは、有能な武人であり、また親族でもあるアビシャイを連れて行きました。アビシャイはダビデの家来の中でも三本の指に入るほどの勇猛果敢な人物です。サウルの側にはアブネル、ダビデにはアビシャイがいます。非常に重要な人物が集まっていたことになります。これは24章の場合とは異なる点です。

ダビデとアビシャイは夜陰に紛れてサウルの宿営に近づいていきました。しかし、夜といっても王の陣営です。簡単に近づけるはずがないのですが、どういうわけかダビデたちはサウルの眠っている幕営まで誰にも気が付かずに近づくことができました。これは明らかに普通の話ではありません。12節にあるように、神の超自然的な力がサウルの陣営に働いていて、サウル軍の兵士たちは皆眠りこけてしまっていたのです。つまり神はダビデに、誰にも知られずにサウルの所に近づくチャンスを与えたということになります。神はダビデがサウルをどうするか見ておられた、試したといえるでしょう。

そしてダビデとアビシャイは、自分たちの命を狙うサウル王の命を簡単に奪うことができる機会を得たのです。まさに千載一遇のチャンスです。ダビデと共にサウルに近づいたアビシャイは、これは神が与えたチャンスである、神が私たちにサウルを討つように命じておられるのだと考え、ダビデにサウルを打ち殺す許可を求めます。しかしダビデの判断は違いました。ダビデはアビシャイに、サウルを殺すことを禁じます。その理由は二つありました。まず、サウルは神ご自身がお選びになり、油を注がれた人物だという厳然たる事実です。たしかに今のサウルのやっていることは滅茶苦茶です。無実の、それもサウルと同じく神に選ばれたダビデの命を狙って追い回しているのです。しかし、それでもサウルが神に選ばれた人であるという事実は変わりません。ダビデはそのことを改めて強調します。

しかし、ダビデにはサウルを殺さないもう一つの理由がありました。それは、サウルは神ご自身が打たれると、ダビデが確信していたからです。サウルの罪は神がご存じである、神はご自身の選ばれたサウルを、ご自身で打たれるだろう、それがどのような形になるのかは分からないが、しかしサウルへの裁きは神に委ねるべきことだ、とダビデはアビシャイに諭します。ダビデは報復は自分のすることではない、神に任せるべきだということを、先のナバルの一件で学んでいたのです。とはいえダビデは、何もしないままサウルの下を去ったのではありませんでした。自分がその気になれば、確かにサウルの命を奪うことができたのだ、という証拠の品を持ち去りました。それはサウルがダビデの命を奪おうと何度も投げつけた槍と、水差しでした。この二つがあれば、確かにダビデがサウルの枕元に立っていたことが証明できます。サウル軍の兵士たちは相変わらず眠りこけていたので、ダビデとアビシャイは悠々とサウルの陣営を立ち去ることができました。

さて、ダビデはサウルの陣を離れて、サウルの陣営を見下ろせる小高い山に上りました。そこから大声で叫べばサウルの陣営にも声が届くような距離でした。ダビデはまず、サウル軍の中でも最も有能な武将であるアブネルに呼びかけました。ダビデはアブネルに対し、職務怠慢を咎めます。お前はイスラエル一の武将であるはずなのに、サウル王を守らないでどうする、と叱責します。このようにアブネルに呼びかけたのは、自分にはサウル王の命を狙いつもりがないということの証人となってもらうためでした。最初はダビデの呼びかけに反発したアブネルも、サウル王の枕元にあるはずの槍と水差しがあるかどうか確かめてみろとダビデに言われて、慌てたことでしょう。

さて、当のサウル王ですが、にわかに周囲が慌ただしくなってきたので、起こされてしまいました。そしてダビデとアブネルのやりとりが聞こえてきました。自分の枕元に槍と水差しがないことに気が付いたので、ダビデがアブネルに言ことに間違いがないことはすぐにわかりました。そしてサウルは、おそらくその時に瞬時にダビデの意図を悟ったのです。ダビデには自分を害するつもりがないのだと。そのためでしょうか、この時のサウルの反応は、驚くほど穏やかなものでした。なんと、「わが子ダビデよ」と呼びかけたのです。執念深くダビデの命を狙っていた人物の言葉とは思えないものです。神はサウルに、この時には平安な気持ちを与えていたのでしょう。サウルにはダビデの言葉を受け入れる心のゆとりが生まれていたようなのです。ダビデもサウルがこのように温かく呼びかけてくれたことに勇気を得て、サウルに直接呼びかけます。

ダビデはサウルに、なぜ自分の命を狙っておられるのかと直接尋ねます。以前はサウルの息子であり、また無二の親友でもあるヨナタンに、なぜサウルが自分の命を狙うのか、そのわけを尋ねたのですが、今回は直接本人に疑問をぶつけます。あなたが私の命を狙うのは、主が命じられたからなのか、あるいは誰かがあなたを唆したのか、それを教えて欲しいと訴えます。さらにはダビデは、自分は王にとっては蚤のようなちっぽけな存在にすぎない、そんな私の命を取ったところで、王には何の益もない、とサウルに語り掛けました。

このダビデの言葉はサウルの心に響きました。そしてサウルは自らの罪を告白します。自分は愚かだった、まちがいを犯してきたと率直に認めたのです。王であるサウルが、家来たちの前で自らの誤りを認めるというのは大変勇気のいることです。ここでサウルは本心から言っているのは間違いないでしょう。24章ではサウルは大泣きしたとあり、26章にはそのような記述はありませんが、おそらくサウルは涙を流してダビデに語り掛けていたものと思われます。そしてサウルはダビデに自分の所に帰って来てほしいとまで言います。

ダビデも、サウルの言葉に偽りがないことは分かったでしょうが、しかしここで帰るわけにはいかないということも分かっていました。サウルもダビデも王の器です。両雄並び立たず、という言葉があるように、今ダビデがサウルの宮廷に戻ってしまえば、必ずこの二人をめぐって王国に分裂が生まれてしまうことが分かっていました。今やダビデの側にも、早く彼に王になって欲しいと願う部下たちが大勢います。そんなダビデたちの一行がサウルの軍団にすんなりと合流できないことは、これまで辛酸をなめて世間を学んできた今のダビデには十分分かることだったのです。そしてダビデはサウルに、若い者をよこしてあなたの槍を引き取ってください、と申し出ます。そしてダビデは最後に、神がそれぞれをその行いに応じて報いてくださるように、と語ります。それはダビデが神に油注がれたサウルの命を大切にしたように、ダビデ自身の命も神が大切に扱ってくださいますように、という祈りでした。サウルもその言葉を受けて、ダビデの祝福を祈りました。もはや共に歩むことは叶わない二人でしたが、互いを認め合い、それぞれの道を行くことにしたのです。

3.結論

まとめになります。今日はサウルとダビデの確執についに決着がつくという場面を読んで参りました。ダビデをゆえなく追い回すサウルに、ダビデが復讐する機会を神が与えてくれました。ただこの機会は、ダビデにサウルを殺させるためのものではありませんでした。神はダビデが、ナバルの時に学んだように、報復を神に委ねることを望んでおられたのだと思います。ダビデも、このような神の期待に応える行動を取りました。サウルの寝込みを襲うようなことはせずに、自分たちが確かにここに来たという証拠の品だけを持って去っていったのです。ダビデは、サウルの罪については神にすべてをお委ねするという信仰を、行動を通じて表わしたのです。

このダビデの行動は、劇的な効果をサウルの心にもたらしました。このダビデの行動から、ダビデには自分を害するつもりがないことを悟ったのです。サウルはこれまでの自分の行動を恥じて、また悔いて、ダビデに和解を呼びかけました。ダビデの方もサウルの気持ちは受け取りましたが、しかし覆水盆に返らずで、サウルとダビデが再び王宮で共に過ごすことはできない相談でした。たとえサウルとダビデがそれで良くても、周りの家来たちはそうはいかないからです。それでも、ダビデにしてみればサウルの誤解が解けたことは本当に感謝すべきことでした。

歴史にもし、はありませんが、もしダビデがここでサウルを殺めるようなことがあればどうなったでしょうか。それですんなりダビデがサウルに代わって王になる、というような展開にはならなかったでしょう。ダビデが王になるためには、人々から王として認められ、また王になることを求められる必要がありました。実際にダビデはそのようにして王となっていくのですが、そのためにはもっと多くの時間と、正しい順序が必要でした。それなのに、先代の王を殺して自分がそれに成り代わろうというのではダビデの正統性に大きな疑問符がつくことになります。ですからダビデがサウルを殺さなかったことは、信仰面のみならず政治的にも正しい判断でした。

私たちの人生にも、自分がどのように行動するのか神に試されていると思えるような場面があるかもしれません。私たちは弱い人間ですから、つい目先の安易な道を選んでしまおうとするかもしれません。ダビデも、ここでサウルと別れても、相変わらず辛い逃亡生活、亡命生活が待っているだけです。そんな先の見えない道を進むなら、一思いに最大の障害物を取り除いてしまえ、と考えても不思議ではなかったのです。しかしダビデは遠回りでも正しい道を選びました。自分で早急に問題を解決しようとはせずに、神の動かれるのを待ったのです。この「待つ」ということが信仰にとって一番大切なことです。アブラハムも、神が約束の子どもを与えてくれるという約束を待つことができずに、若い妾に子供を産ませることで問題を解決しようとしました。その結果、アブラハムにはイシュマエルとイサクという二人の子どもが生まれてしまい、その子供たちの子孫はそれぞれアラブ人とイスラエル人になり、今日に続くまで争い続けています。もしアブラハムがもし信仰を持って待つことができれば、このような争いは起きなかったかもしれないと思うと複雑な思いがします。しかし、それほど信仰を持って待つということは難しいことなのです。私たちも、もし自分が神様に試されているのではないかと思う局面に立つことがあったなら、慌てて行動することはせずに、少し冷静に考えてみる、祈ってみる、そして待つ、ということが必要になるでしょう。そのような信仰の人生を歩む力をお与えくださるように、祈りましょう。

サウルとダビデを和解に導いてくださった神様、そのお名前を讃美します。サウルがダビデの行動に心を動かされて悔い改めに至ったことは素晴らしいことでした。私たちも、目の前にある問題を手っ取り早い方法で片付けてしまおうという誘惑にかられることがあります。特に、相手が悪いという確信がある場合には、自らの手でその悪を取り除いてしまおうと考えてしまうこともあります。しかし、そのようなときにも神に委ねるという気持ちを忘れることがないように、私たちを導いてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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愚かな夫と賢い妻第一サムエル25章1~44節 https://domei-nakahara.com/2024/06/16/%e6%84%9a%e3%81%8b%e3%81%aa%e5%a4%ab%e3%81%a8%e8%b3%a2%e3%81%84%e5%a6%bb%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%82%b5%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%83%ab25%e7%ab%a01%ef%bd%9e44%e7%af%80/ Sun, 16 Jun 2024 04:44:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5681 "愚かな夫と賢い妻
第一サムエル25章1~44節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。前回は、サウルの命を簡単に奪う機会があったのにもかかわらず、見逃したダビデの行動に心を動かされたサウルが、ついにダビデを認め、あなたこそイスラエルの王にふさわしいと語る感動的な場面を学びました。しかし、今回の箇所は前回の話とは直接関係のない話になっています。むしろ、今日のエピソードは次の26章の話の重要な伏線になっています。先週もお話ししましたように、来週取り上げる26章は24章の話と非常によく似ています。細かい点は違うものの、ダビデが絶好の機会があったにもかかわらずサウルの命を奪わずに、そのことがダビデとサウルの和解につながるという基本的なプロットは全く同じです。そして、24章と26章とは、おそらく同じ出来事についての異なる二つの伝承だろうということもお話ししました。この件の説明は繰り返しませんが、ではなぜ同じ話を二度繰り返す必要があったのかといえば、今日の25章の話の上に26章のサウルとダビデの和解の話が成り立つからです。ですから今週と来週の話は、一つの長いエピソードの前編と後編というような意味合いで聞いていただきたいと思います。

さて、今日の説教タイトルは「愚かな夫と賢い妻」、つまりナバルとアビガイルのことです。しかし、この説教題をつけた私が言うのも何なのですが、この二人の関係をこのように言い表すのはいかがなものか、と思わないでもありません。というのも、ナバルの取った行動は単に愚かなものとは言い難いからです。今回ダビデがナバルにやろうとしたことは、暴力団まがいの乱暴な行動だと言えます。ダビデはナバルの雇っている羊飼いを外敵から守ってやりました。その対価として何らかの報酬を求めましたが、それを拒まれると彼らを一族郎党皆殺しにしようとします。でもこれと、いわゆる暴力団のみかじめ料と何が違うのでしょうか。みかじめ料とは要は用心棒代のことであり、ある地域で商売をする人を暴力団が守ってあげるかわりに、その代価として金品を要求するというものです。日本ではこのような行為は法律で禁止されています。しかしダビデを暴力団と比較するのはいくらなんでもひどいではないかと思われるかもしれません。でも、ナバルの立場から見れば、そうとも言えなくもないのです。当時のダビデたちは、いわれのない理由とはいえ、王であるサウルから反逆者として追われているお尋ね者の身です。ですからダビデの周りに集まったグループは、いわば反政府的組織ということになります。その彼らが裕福な商人であるナバルの羊飼いたちを守ってあげて、その見返りに物資を要求しているわけです。ナバルとしては、頼んだわけでもない、また政府の警察や役人でもないダビデたちの行為に対して、どうして保護料などを払う必要があるのか。むしろそんなことをしたら、お尋ね者のダビデを助けて殺された祭司アヒメレクのように、サウルの目を付けられてどんな目に遭うか分からない、そうナバルが考えても不思議ではないわけです。そうしてナバルはダビデの要求を拒否しますが、それにダビデは怒って、ナバルたちを殺そうとします。これなど、みかじめ料を払わない人にお礼参りに行く暴力団と何が違うのか、ということになりはしないでしょうか。もちろん、ダビデは聖書の中でもとても有名な英雄ですから私たちは普通はそのようには考えないのですが、よくよく当時の状況を考えるとこういう見方もできるということです。

ただ、そういうことを考慮に入れたとしても、この時のナバルの取った行動は、彼が愚かな人物であることを示しています。「金持ち喧嘩せず」といいますが、ナバルはここでわざわざダビデを侮辱するようなことを言って挑発し、自分の身に災いを招いているとも言えます。ナバルは「このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている」と言っていますが、これはつまりダビデが主人のサウルのところから逃げ出した奴隷だと仄めかしているのです。しかしダビデは暴力団どころか、何度もイスラエルの危機を救って来た大将軍です。確かに今はサウル王と対立関係にありますが、もしナバルが自分で調査してこの対立の背後に何があるのかを知っていたのなら、ここまでダビデに無礼なことは言わないでしょう。さらにいえば、頼んでもいないとはいえ、彼に雇われている羊飼いたちは、確かにダビデたちに守ってもらったわけです。ですからサウルを刺激しないような形で、ダビデに何らかのお礼をするのが賢い人の取るべき行動だったはずです。

そのような夫ナバルの思慮のない行動に危機感を持ったのが、妻のアビガイルでした。アビガイルはいろいろな意味で非常に賢い、有能な女性でした。まず彼女は部下たちや召使たちから非常に慕われていました。ダビデとナバルの間のいざこざも、ナバルの手下の若者がいち早くアビガイルに報告したことで、彼女は今の状況を正確につかむことが出来ました。ナバルの部下が、危機の時にいち早く奥方のアビガイルに報告するということは、いかに彼女がナバルの家の人から信頼されていたかを伺わせます。さらには、彼女は行動力も抜群でした。彼女は一刻の猶予もないことがよく分かっていました。ダビデによって、一族が根絶やしにされてしまう危険を理解していたのです。そこで、主人のナバルに相談することなく行動を起こしました。もしもナバルに話したら大反対されて、行動を邪魔されることは目に見えていたからです。今はそんな内輪もめをしている時ではない、一刻も早く事態を打開しなければ、という判断を下し、行動する力がアビガイルにはあったのです。ここから見ても、アビガイルの器の方がナバルよりもずっと大きかったのが分かります。もっと言えば、彼女はダビデについてもかなり正確な情報を掴んでいたようです。「主が、あなたについて約束されたすべての良いことを、ご主人さまに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられたとき」とダビデに話していますが、これはサウルによるダビデの追跡は王の嫉妬によるものであり、大義はダビデにあるということを理解していたからこそ言える言葉です。

このように、アビガイルは非常に賢い妻だったのが分かります。では、そんなに賢い女性が、どうしてナバルのようなつまらない男と結婚したのか、という疑問を持たれるかもしれません。しかし、当時の女性には配偶者を選ぶ権利はありませんでした。おそらくアビガイルの両親が、金持ちのナバルとの結婚は良縁だとして、娘の意志も聞かずに結婚させたのでしょう。アビガイルは結婚してから主人のナバルの愚かさに何度も失望していたのでしょう。今回ナバルに何ら相談することなく行動していますが、これは非常に大胆な行動です。なぜなら当時は夫の立場の方が圧倒的に強かったからです。ここからアビガイルは賢いだけでなく、非常に気の強い女性だったことも伺わせます。さて、では今日のみことばを詳しく見て参りましょう。

2.本論

さて、今日の25章のうち、最初の1節だけは孤立したといいますか、残りの25章とは分けて考えた方がよい部分です。というのも、この1節はむしろ前の24章の結末として読むべきものだからです。ここではサムエルが死んだことが書かれていますが、それは先の24章の結末部分でサウルとダビデの和解が成ったこととの関係で理解すべきだということです。すなわち、サウルとダビデの二人の王に油を注いだサムエルが、その二人が和解したことを見届けて安心して死んでいったという、そういう流れだからです。

ですから25章の実質的なスタートは、2節からということになります。ここでナバルとアビガイルの夫婦のことが紹介されていますが、アビガイルが才色兼備の妻だったのに対し、ナバルは大金持ちではあるものの、頑迷で行状が悪かったとされています。金持ちになったのも自分の才覚ではなく、親から遺産を受け継いだだけのドラ息子だったのでしょう。そういう苦労知らずの人物にはありがちなのですが、ナバルという男は傲慢で、思い込みの激しい男だったようです。勇猛果敢な将軍としてのダビデの名声はすでにイスラエル中に鳴り響いていたはずですが、ナバルは気に留めず、ダビデのことをサウル王から追われている負け犬ぐらいにしか思っていなかったのです。そのダビデが、ナバルの羊飼いたちのことを守ってやっていたことを聞いても、なんとも思わなかったようです。ナバルが独自の情報網をもって、ダビデの事を調べていたら、既にダビデが多くの配下を従えて一大勢力になっていたことを知り得たでしょうが、そんな情報集めはしていなかったようです。ダビデを単なるお尋ね者ぐらいにしか思わず、そのダビデからの非常に丁寧な申し出、つまりあなたの羊飼いを守ったことの見返りとして、何らかの物資を提供してほしいという依頼をけんもほろろに突き返しました。そのことを聞いたダビデは激怒しました。求めていた物資を得られなかったことだけでなく、ナバルの無礼な物言いに、ひどくプライドを傷つけられたのです。この侮辱に対し、断固報復することを神に誓います。ナバルだけでなく、こわっぱ一人に至るまで皆殺しだというのです。

ただ、このダビデの反応も決して褒められたものではありませんし、正当化もできないでしょう。ダビデの部下たちがナバルの羊飼いを助けたのは確かですが、しかし頼まれたわけでもないわけです。いわば、勝手に助けたわけで、そのお礼がないからといって相手を一族郎党皆殺しにするというのでは、ギャングか暴力団と何も変わらないと言われても仕方がありません。ダビデもこのころは追い詰められていて相当気が立っていたのでしょう。しかし、もしダビデが本当にナバルの一族を、小さな子供に至るまで皆殺しにしてしまったら、イスラエルの人々の間にダビデについての悪評が後々まで語り継がれていたことでしょう。そういう意味では、ダビデは非常に危ない橋を渡ろうとしたのです。

ですから、アビガイルの行動はそもそもナバル一門の命を救うための行動であったのですが、ダビデのことも末代まで語り継がれたであろう悪評から救うことになる、極めて重要な行動だったと言えます。そのアビガイルですが、まずは急いでダビデたち一行の胃袋を満たすほどの十分な食事を用意します。ダビデの一行には大の男が四百人もいて、お腹をすかせて気が立っています。人は空腹のときには怒りっぽくなるものです。反対に、満幅の時にはそんなにカリカリすることはありません。それをアビガイルはよく承知していて、ダビデを説得するためにと、まず膨大な食事を急いで用意します。この手際の良さも、アビガイルという女性が機転の利くことを示しています。そしてアビガイルはダビデのところに駆けつけ、初対面のダビデを前にして、見事な演説をぶちます。

まずアビガイルは、夫ナバルは取るに足らない男であり、ダビデが手を汚す価値もない人間であることを訴えます。ここまで夫の事をくそみそに言うのもどうかと思いますが、本音半分、ダビデをなだめるためも半分だったでしょう。それからアビガイルは、非常に大切なことを諄々と語ります。それは25章、26章を貫くテーマなのですが、「復讐」は神に属することがらである、ということです。神を信じる者は、不当な扱いを受けた場合に自分でその報復をしてはならないという大事な原則を、アビガイルはダビデに訴えたのです。アビガイルは決して夫ナバルや一門の人々の命乞いをしたわけではないことに注意してください。夫ナバルの行動に悪い点や不正があるならば、それは裁かれるべきだということは認めているのです。しかし、実際にその裁き、報復を下すのは神であり、ダビデのような神の人は急いで自分の手を汚すことはせずに、むしろ自重して神の裁きを待つべきだと訴えたのです。

これは非常に大切な真理です。私たちはまるで自分を神、あるいは神の代理人であるかのように考え、正義のために報復を行なうことを良しとします。現在の国際政治を見ても、戦争の動機の一つは、悪い国を神に代わって成敗する、ということであるのがしばしばです。自分を世界の警察官であるかのように考えて、いつも他国の戦争に介入する国があります。しかし、私たちは神ではありません。神のように物事の全体が見えているわけではありませんし、自分が正義だと思っていることも、別の角度から見ればまったく違っているということもよくあることなのです。また、報復というのは常にやりすぎの危険が伴います。20世紀の戦争を見れば分かるように、正義の戦争などといいながらも敵国の民間人を何十万人も殺すようなことがありました。これは明らかに報復の限界を超えています。しかし、愚かで感情的な人間はしばしばそのようなことをしてしまうし、実際にダビデもそのように行動しそうになったのです。ですから報復は神に委ねるべきだ、という聖書の原則があるのです。神を信じない人にとっては無責任極まりないことのように響くかもしれません。何もしなければ、どうやって正義が回復されるのか、と。確かに不正に対して何もしないということは無責任だし、問題です。悪は悪として糾弾し、名指しすべきです。しかし、悪を非難することと、悪に対して暴力で報復することは次元の違う話なのです。人の血を流すというのは、本来的には完全に公正な方である神のみに許されることなのです。ダビデには、ナバルの恩知らずの行動を非難する正当な理由がありました。しかしそのことと、ナバルの一門を子供に至るまで皆殺しにすることとは全然違うことなのです。ナバルの非については、神がきっと裁いてくださる、自分が血を流すことはしない、それは神に委ねるべきことだ、そのように信じるのが神の人にふさわしいふるまいですと、アビガイルはダビデに訴えます。このアビガイルの言葉は、ダビデの胸に深く響きました。ダビデは即座に自分の非を認め、自分で報復しようとしたことは間違いであったとアビガイルに言います。この潔さが、このころのダビデの魅力の一つでした。ダビデはアビガイルねんごろに労い、立ち去っていきました。

その後、アビガイルは酔っぱらってご機嫌になっている夫ナバルのところに向かいました。アビガイルは酔っぱらっているナバルには何も話さずに、彼がしらふになるのを待ちました。そして朝になって洗いざらいを話しました。ナバルは昨夜のうちに死んでいてもおかしくなかったのだと。その話はナバルにとってはよほどの衝撃だったようです。彼は恐怖で気を失ってしまいました。そして十日後にナバルはあっけなく死んでしまいました。その話を伝え聞いたダビデはつくづく思ったことでしょう。「復讐と報いとは、わたしのもの」だという申命記32章35節のみことばは真理なのだと。そしてダビデは、自分にこの大切な真理を教えてくれたアビガイルを妻として迎えようとします。アビガイルの方も、喜んでその申し出を受け入れました。

そして最後の44節には、残念なことが書かれています。命がけでダビデの命を救ったサウルの娘ミカルは、本人の意思に反して父サウルによってダビデと別れさせられ、別の男にとつがされていました。ミカルというのはつくづく薄幸な女性だと思います。

3.結論

まとめになります。今回は、冒頭でもお話ししたように、次回の26章の出来事に続く内容の話でした。それはつまり、「復讐」、「報復」の問題です。日本でも「倍返し」という言葉が流行り言葉になったように、人間の基本的な行動原理の一つは「やられたらやり返す」、「侮辱には報復で答える」というものです。ダビデは自分が侮辱された、親切にしてやったのに無視された、その報復としてナバル一族を皆殺しにしようとしたという、そういう話です。羊飼いを助けてあげたお礼をもらえなかったからといって、その本人のみならず一族すべてを殺そうなどというのはとんでもない蛮行で、そんなことをすればダビデの評判は地に堕ちてしまったでしょう。また、信仰者としても、復讐は神のなさること、という大原則を破る不信仰な行いになってしまいます。ダビデは危うくそのような危険な道を進みそうになっていました。それを止めたのがアビガイルで、彼女は賢いだけでなく、信仰的にも非常に優れた女性でした。そのアビガイルの真摯な忠告を聞き入れたダビデも、この時点ではまだ真っすぐな信仰を持っていたと言えるでしょう。

今回の話は次回の話の前提になるものですが、私たちにも非常に大切なことを教えてくれます。現在は戦争の時代であり、私たちは既に二つの大きな戦争が行われているのを目撃しています。どちらの戦争も報復合戦です。自分たちの受けた被害、屈辱は決して忘れずに、倍返し、三倍返しともいうような感じで、やられたらやりかえすという精神が燃え盛っています。そのために出口の見えない戦争になってしまっています。そんな時に、「敵を愛しなさい」という主イエスの教えは空しく響きます。そんなきれいごとでは悪は止められない、悪を野放しにすればこの世は真っ暗だ、だから力には力で報復するしかないのだ、という声が圧倒的に優勢です。その結果、より多くの人が死ぬとしても、悪を倒すための代価として受け入れなければならない、ということが言われています。しかし私たち神を信じるものは、一歩下がって考えてみるべきでしょう。復讐を完全に否定はしませんが、しかしそれは私たちがすることではなく、神のなさることだ、というのが聖書の教えだからです。まどろっこしく感じるかもしれません。神が動かれるのを待つ、というのは私たちには辛抱のいることです。しかし、そのような時こそ私たちの信仰が本物かどうかが試されている時だとも言えます。今日のみことばを胸に留めて今週も歩んで参りましょう。お祈りします。

復讐心にかられたダビデにアビガイルを遣わし、大切なことを教えてくださった神様、そのお名前を讃美します。私たちもつい復讐心に囚われてしまうことがありますが、そのようなときは私たちにもアビガイルをお遣わし下さい。今週も平和のために歩む勇気と力をお与えください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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あなたは私より義だ第一サムエル24章1~24節 https://domei-nakahara.com/2024/06/09/%e3%81%82%e3%81%aa%e3%81%9f%e3%81%af%e7%a7%81%e3%82%88%e3%82%8a%e7%be%a9%e3%81%a0%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%82%b5%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%83%ab24%e7%ab%a01%ef%bd%9e24%e7%af%80/ Sun, 09 Jun 2024 04:27:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5666 "あなたは私より義だ
第一サムエル24章1~24節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。私たちは今、サウル王に命を狙われたダビデが、彼の追求から逃げ回っているという場面を読み進めています。しかしここで一つの疑問が生まれてきます。「攻撃は最大の防御」という言葉が示すように、ただ追っ手から逃げ回るだけでは仕方がないのではないか、反撃をすべきではないかということです。しかも、ダビデは全くの無実なのにサウル王から命を狙われるという理不尽な状況にあります。サウルに反撃を仕掛けても道義的には何の問題もないようにも思われます。そしてそのような千載一遇のチャンスが巡ってきた、というのが今日の場面です。その時ダビデはどのように行動したのか、またそれはなぜなのか、ということを考えて参りたいと思います。

ところで、サムエル記を通読したことのある方ならお気づきのように、今日の24章と少し先の26章は内容がとてもよく似ています。どちらの章でも、ダビデは偶然にも簡単にサウルの命を奪える機会を得るのですが、それでもサウルの命を奪うことはせずにそのままにしました。後でそのことを知ったサウルは恥じ入り、サウルはダビデの徳の高さを褒めたたえます。そして、どちらの場合にもサウルはダビデを祝福して送り出すという場面で話が終わります。しかし、考えて見ればサウルは何と言っても王様です。いつも部下たちに守られているわけです。そんな王の命を狙えるチャンスがそう都合よく何度もやって来るのだろうか、という気がします。また、今回の場面ではサウルは自分の非を認めて、ダビデこそ王にふさわしいと認めています。もうダビデの命を狙うことは止めると言っているようなものです。その同じサウルが、舌の根も乾かないうちに26章では再びダビデの命を狙って追い回しています。サウルはそこまで節操なしの男だったのだろうか、という疑問も浮かんできます。

この点については、これが絶対確実な話だというわけではないことをお断りした上で申し上げますが、多くの学者は24章と26章の出来事はおそらく同じ事件のことを言っているのだろうと考えています。つまり、ダビデがサウルの命を奪うことなく救ったという出来事は確かにあったのですが、その出来事について人々が語り継ぐ時に、二つのヴァージョンの話が出来上がったということです。新約聖書にもイエス・キリストの生涯を記した福音書が四つありますが、それらの福音書の中で同じ出来事について書かれているのに、たとえばマルコとヨハネでは微妙に話が食い違っているというようなことがしばしばあります。有名な話では、最後の晩餐の記述はマルコ福音書とヨハネ福音書では大きく違います。マルコでは主イエスは聖餐式を制定しますがヨハネにはその記述はなく、しかしヨハネにはイエスが弟子たちの足を洗うという印象的な出来事が描かれています。四つの福音書はすべてイエスの死後百年以内に書かれていますが、これだけ短い期間に書かれた福音書同士でも話が食い違うことがあるのです。ましてやサムエル記は、ダビデの死後500年ほど経ってから完成した文書だとされていますので、その長い期間の間に、ダビデの生涯に起こった出来事の言い伝えに二つのヴァージョンが出来上がるというのはむしろ当然だとさえ言えます。ですからおそらく24章と26章とは、同じ出来事についての二つの異なる伝承であり、サムエル記を編纂した記者もそれを知ってか知らずか、その二つの言い伝えの両方ともをサムエル記の中に組み込んだと考えられます。特に次の25章に書かれているナバルとアビガイルのエピソードと26章の話の間には強いテーマ的なつながりがあるので、サムエル記の記者はよく考えたうえで、このような順序で二つの似たような記事を組み入れたのだとも考えられます。24章と26章との間の違いについては26章の時に再度お話ししますので、今回は24章のみに集中してお話ししていきます。

2.本論

では本日の聖書テクストを読んで参りましょう。前回は、サウルがダビデたちをあと一歩というところまで追い詰めながら、ペリシテ軍がイスラエル領内に侵入したという知らせを受け取ったサウルがダビデ捕獲を諦めて引き返していったという場面で終わりました。そのサウルが、ペリシテ軍との戦いを終えるとすぐに引き返して、精鋭三千人を連れて再びダビデたちを狙ってやってきました。ここから、サウルがいかにダビデを脅威と見なしていたかが分かります。

その時に、思わぬ瞬間が訪れました。ダビデたちはサウルたちの目を逃れて洞穴に潜んでいたのですが、そんなことはつゆ知らないサウル王が、なんと用をたしに一人で洞穴の中に入ってきたのです。それがサウルだということが分かったダビデたちは驚き、興奮します。ダビデの部下たちは、これは神が自分たちに与えてくださった好機に違いないと色めき立ちます。部下たちはダビデに、神が『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ』という託宣が今こそ実現したのです、と言ってダビデにサウルを討つようにと促します。このような託宣がダビデにいつ与えられたのか、サムエル記には記されていませんが、おそらく預言者を通じてそのような主の言葉がダビデに与えられていたのでしょう。しかし、注意したいのは、神は敵をダビデの手に渡すと言われただけで、その敵を殺せとは命じてはおられないことです。むしろ『あなたがよいと思うようにせよ』と、まるでダビデがその時どのように判断するのかを試すような言い方になっていることです。しかし、ダビデの部下たちはそこまで深くは考えずに、ともかくまたとないチャンスなのでこの機を逃してはいけませんとダビデに強く行動を促します。ダビデもこの時に、自分がどうするべきかまだ判断が付きかねていたようです。部下たちに背中を押されてサウルの方に忍び寄って行きますが、そこでサウルを殺すことはせずに、サウルの上着のすそを、こっそりと切り取るだけでした。もしかするとダビデはこの時本当はサウルを刺し殺そうとしていたのかもしれません。しかし、サウルを目の前にしてすんでのところで思いとどまったように思われます。ダビデ自身も、突然巡って来た好機に、最初どうしてよいのかわからず、部下たちに言われるがままにサウルを殺してしまいそうになったということです。しかし、サウルを目の前にして、そうすることができず、彼が降り降ろした刃は空を切りました。しかしその時偶然に上着のすそを少しだけ切り落としてしまったものと思われます。ダビデの中に、ここでサウルを殺してはいけないという強い思いが生じたのでしょう。ですからダビデがサウルの上着のすそを切り取ったのも、少なくともこの時点では、あなたの命を奪うことは簡単にできたのですよ、ということを誇示するための証拠として切り取ったのではなく、むしろダビデの側に一度はサウルを殺そうという意思が芽生えていたことの表れだったのだと思います。だからこそ、ダビデはサウルの上着のすそを切ってしまったことに深く心を痛めたのです。

そしてこの時ダビデは我に返ります。ここで、まるで暗殺するかのようにサウルの命を奪うのは神の御心には沿わないという確信が彼の心に生じました。確かに今サウルのやっていることは滅茶苦茶です。無実のダビデに勝手に謀反の意志ありと決めつけ、追い回して命を狙っているのですから。その誤りは正されなければなりません。しかし、もしダビデがここでサウルを殺してしまえば、やっぱりサウルの言うように、ダビデにはサウル王にあだなすつもりがあったのだということを証明してしまうことになります。ダビデは自らの身の潔白を証明するためには、ここでいわば泥縄式にサウルを殺すようなことはすべきではないのです。サウルに誤りがあったとしても、彼は神に選ばれ、王として油注がれた人物です。彼の誤りを指摘する手段はもっと正々堂々と、公然と行うべきものです。そうであってこそ、ダビデが次の王にふさわしいと誰もが納得するようになるでしょう。こうしてダビデはサウルを討つことはせず、部下たちにもサウルに手を出すことは禁じました。

それからダビデは、偶然にも切り取ってしまったサウルの上着のすそを、自らの身の潔白を証明する証しとして用いることにしました。ダビデは大胆にもサウルの前に自らの身をさらし、一世一代の演説をぶちます。サウルだけでなく、サウルの部下たちにも、またダビデの部下たちにも聞こえるように、大声で語り始めます。

まずダビデは、サウルに恭順の意を表します。地にひれ伏して話し始めたのです。そして、自分に謀反の意志ありといううわさは事実ではないと強く訴えます。そしてその証拠として、先ほど切り取った王の上着のすそを示します。私にはあなたの命を奪うことができたのだと。もし私がサウルを殺して王位を奪おうとしていたのなら、当然この機会を逃すはずがなかったはずです。しかし私はそうしなかった、なぜなら王に背くつもりがはじめからなかったからです、と。さらにダビデは、この件の裁きを神に委ねます。ダビデが提示した証拠、ダビデが語っている内容が真実かどうかは、この世の裁判ではなく、神ご自身が裁いてください、とダビデはサウルに対し、また周囲の人々に対して語り掛けます。

ここでダビデは謙遜して、自分は死んだ犬、一匹の蚤のような存在に過ぎない、あなたが恐れるような人物ではないのだ、とサウルに訴えます。

このダビデの話を聞いて、これまで狂ったようにダビデを追いまわしていたサウルの心の中に、大きな変化が生じました。憑き物が落ちる、という言い方がありますが、まさにそんな状態だったのでしょう。今までダビデは自分を殺そうとしている、王位を奪おうとしている、だからやられるまえにやらなければ、と思い込んでいたサウルでしたが、ダビデにそんなつもりがないことがこの瞬間に分かりました。自分の後見人として頼りにしていた預言者サムエルから、理不尽とも思える仕方で王失格の烙印を押され、神が新しい王を選ぶだろうと宣言されてから、サウルには心の平安がありませんでした。このやり場のない怒りを、いわばダビデに八つ当たりのようにぶつけていたのですが、サウル自身もずっと苦しかったのでしょう。ダビデの言葉を聞いて、そんな状態から解放されたのです。

その時、なんとサウルは泣きだしました。泣く、ということには心理学的に非常に大きな効果があることが分かっています。泣くことにはストレスを軽減させ、心を解放させる効果があるとされます。サウルも、これまでは自分でもどこかおかしいという気持ちがありながらも、ともかくダビデを殺さなければならないという一種の強迫観念に囚われていました。しかし今や、そんな心の檻から解放されました。ダビデは実に立派な人物であったし、自分を害するつもりなどなかったのだ、ということがはっきりと分かったのです。思いっきり泣いて、サウルの心に平安が訪れました。そしてサウルは、先にダビデが神に裁いて欲しいと訴えたこと、つまりサウルと自分とどちらが正しいのかという問いに自ら答えました。「あなたは私より義だ」と。「義である」というのは、信仰義認という教理からもわかるように、聖書では非常に重要な概念です。聖書における「義」という言葉、ヘブライ語のツァディクという言葉は、難しい言い方をすれば関係概念であると言われています。どういうことかといえば、神の前に義である人というのは神が定めたルール、つまり律法をしっかり守る人という意味もありますが、それよりももっと大事なポイントは神との関係を大切にする人、という意味です。人間関係を何よりも大切にする人、という言い方をしますが、義なる人は神との関係、人との関係を何よりも大切にする人だということです。人間関係を大事にする人は、大切な友人との約束は決して破らないし、その友達が困っている時には他の事よりも優先してその人を助けようとします。もちろん、たまには間違いを犯すこともありますが、その時にも誠実にその非を認めて良好な関係を維持しようと努める人、そういう人を義人と言います。つまり聖書のいう「義なる人」とは「誠実な人」と言い換えることができます。ですからサウルはここでダビデのことを、自分よりも誠実な人だと認めたのです。なぜならサウルはダビデに誠実ではなかったのに、ダビデはどこまでも自分に誠実であったからです。自分を殺そうとしている人が目の前にいて、簡単に殺すことが出来るのに黙って見逃してあげるような人がいるだろうか。あなたは私よりも義人だ。神があなたの誠意に報いてくださるように、と祝福の言葉を口にします。 さらにはサウルはこの時初めて、ダビデこそ王にふさわしいと認めます。彼の息子ヨナタンがダビデに語ったように、サウルも内心では薄々そう感じていたのでしょうが、今こそ神がダビデを選び、イスラエルに王国を確立する御心であることを確信しました。そしてサウルはダビデに対し、あなたが王になった後に、サウルの一族を根絶やしにするようなことはしないで欲しいと願います。このサウルの願いは驚くべきものですが、真剣なものでもありました。実際、後のイスラエルの王国ではクーデターが起り王権が違う人に移るたびに、先の王の一族は根絶やしにされるということが起きていたからです。ダビデも、このサウルの願いを受け入れ、神に誓いました。こうしてサウルとダビデは分かれて別々の道を行きました。

3.結論

まとめになります。さて、みなさんは今日の話を聞いてどう思われたでしょうか。サウルを殺さないと言うダビデの決断は、今回の場合は最高の結果を生みました。それはサウルに悔い改めを促し、サウルはダビデを殺さなくてはならないという強迫観念から解放されました。そしてサウルはダビデを新しい王として認めることすらしました。しかし、世の中そうそう話はうまく転ばないことのほうが多いのです。今回の場合は、ダビデはサウルの心に残っている良心に訴えかけて、サウルもそれに応えたわけですが、しかし今回のサウルのようにではなく、むしろ恩を仇で返す、つまりダビデに命を救われたことを感謝もせず、むしろこれ幸いと状況が変わればダビデを殺そうとするような人も少なくないのではないでしょうか。相手がそのように救いようのない人物であるならば、情けは無用でいっそ殺してしまったほうがよいのではないか、とそのように思われるかもしれません。そう考えれば、ダビデの取った行動は、かなりリスクのあるものだったと言えるかもしれません。だからこそ、実際の歴史においては政敵を容赦なく殺すと言うことの方が多いのでしょう。

しかし、神を信じる者としては、たとえ相手が悔い改めるチャンスが少ないとしても、非合法的な手段で相手を亡き者にするということはすべきではありません。なぜなら、正義を回復する責任を負っているのは究極的には神だからです。自分が手を下さなくても、神が正しいことをなさる、それを待とうということです。ダビデも、サウルを殺しはしませんでしたが、しかしサウルに問題なしとしたわけでもありません。むしろダビデは、神が自分とサウルとの間を正しくさばいてくださるだろうと、この問題を神に預けているのです。自分の身の潔白は神が証明してくださる、だから自分の潔白について人々に疑問を抱かせるような行動はとらない、そのような軽はずみな行動はしない、というのがダビデの姿勢です。こうしたダビデの信仰の姿勢こそ、私たちも学び、倣いたいものです。この世界には不正がたくさんありますし、私たちはそうした不正を黙認せずに正す必要がありますが、しかし正すといってもやり方を選ばなければなりません。まるで法を超越した神にでもなったかのように、法を無視した非合法的なやり方で問題を解決しようとしたり、あるいは暴力を用いて問題を解決しようとしてはならないということです。特に今の時代においては、悪い国は罰しなければならない、暴力には暴力で、力には力で、というような風潮が非常に強いですが、しかし本当にそれが神の前に正しい行動なのかということをよくよく考えてみる必要があります。神を信じるということは、ある場合には私たちに強い自制を要求します。早まって力づくで物事を解決しようとはせずに、神が問題を解決してくださることを辛抱強く待つ必要があるのです。ここに信仰が必要とされます。そのような信仰に生きることができるように、祈って参りましょう。

サウルとダビデを王として選ばれた神様、そのお名前を讃美します。ダビデは先の王であるサウルとの間に生じた問題を解決するために非合法的な手段を取ることはせずに、むしろ問題の決着を神に委ねました。私たちもそのような信仰に生きるものとならしめてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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神の御心に従う第一サムエル23章1~29節 https://domei-nakahara.com/2024/06/02/%e7%a5%9e%e3%81%ae%e5%be%a1%e5%bf%83%e3%81%ab%e5%be%93%e3%81%86%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%82%b5%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%83%ab23%e7%ab%a01%ef%bd%9e29%e7%af%80/ Sun, 02 Jun 2024 04:25:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5649 "神の御心に従う
第一サムエル23章1~29節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。今日もサムエル記から、みことばを聞いていきましょう。私たちは、ダビデがサウル王に命を狙われているために、あてのない逃避行をしているところを読み進めています。しかしダビデはその苦しみの中で多くのものを得ていきます。まず、彼は多くの仲間を得ました。危機や苦難の中をダビデと共に歩んだ人々は、ダビデにとって信頼できる部下たちになっていきます。またダビデは目には見えないけれど、非常に大切なことを得ていきます。彼が学んだことの一つが、神に信頼することの大切さ、信仰の大切さでした。ダビデはこの苦難の旅を通じて、神への本物の信仰を身に付けていきます。今日の聖書箇所でも、ダビデはいくつかの出来事を通じて本物の信仰の重要性を学んでいくのです。

では、本物の信仰と、偽物とまで言うのは言い過ぎですが、不十分な信仰、その違いはどこにあるのか、ということを考えていきたいと思います。端的に言って、ある人の信仰が本物かどうかは、その人の行動を通じで明らかにされます。神を信じるだけでなく、実際に神の御声に従ってこそ、その人の信仰は本物だということが分かるのです。そのような信仰を示した人たちの典型がアブラハムでありダビデなのですが、ここでは反面教師と言いますか、信仰の悪い見本のような人物について考えてみたいと思います。その人物とは、ダビデ王朝最後の王であるゼデキヤです。ダビデはもちろんダビデ王朝の最初の王ですが、その子孫であるゼデキヤの代で、ダビデ王朝は終焉してしまいます。彼は悲劇の王だと言えますが、彼に足りなかったのは本物の信仰でした。今日は、ダビデの話を見ていく前に、少しこのゼデキヤについて考えていきます。

私が当教会で最初にした講解説教は、エレミヤ書からでした。エレミヤはユダ王国が滅亡する時代に活躍した預言者でしたが、そのユダ王国はバビロンによって滅ぼされ、エルサレムは陥落し、神殿は破壊されました。その滅亡するユダ王国の最後の王がゼデキヤでした。このゼデキヤ王は神を信じ、また神が遣わした預言者エレミヤを信じていました。ここは強調すべき点ですが、彼は決して神を否定したり、預言者を拒否するような意味での不信仰な人物ではありませんでした。ただ、問題は彼の信仰には行動が伴わなかったことでした。伴わなかったというより、中途半端だったのです。

このゼデキヤという王は、非常に弱い権力基盤しか持たない王でした。ゼデキヤはあの名君ヨシヤ王の息子でしたが、ヨシヤの後を継いだのは兄のエホヤキムであり、彼には王になるチャンスはなさそうでした。しかしその兄が戦死し、次いで即位した兄の息子エホヤキンがバビロンに捕虜として連れて行かれた後に、ゼデキヤは征服者のバビロンによってユダ王国の王に据えられました。つまり彼はバビロニア帝国のパペット、操り人形となることが期待された王でした。ゼデキヤも、自分の後ろ盾がバビロンであることはよく分かっていました。しかしエルサレムの有力貴族たちは、そんなゼデキヤ王の軟弱な姿勢に不満を抱いていました。新興勢力であるバビロンの言うなりになるのを潔しとせず、南の大国エジプトの力を借りで、バビロンの支配から脱するべきだ、独立を勝ち取るべきだという強硬派の人々が多かったのです。ゼデキヤは板挟みになりました。自分を王にしてくれたバビロンの王ネブカドネツァルに忠誠を尽くすべきだけれども、ユダヤの有力貴族たちのバビロン何するものぞという突き上げも怖い、どうしていいのか分からないという状態がしばらく続きました。しかし、とうとう貴族たちの圧力に負けて、エジプトと同盟を結んでバビロンと対決することになりました。それを知ったバビロンの王は、飼い犬に手を嚙まれたということで激しく怒り、エルサレムに向けて進軍してきました。エルサレムを包囲したバビロニアの軍とユダ王国は2年にも及ぶ攻城戦を繰り広げます。しかし、そのような最中にも預言者エレミヤはエルサレムの城内で、「我々は必ずバビロンに負ける。命が惜しければ直ちにバビロンに投降せよ」と叫び続けます。周りで兵士たちが命がけで戦っているのに、そのただ中で「お前たちは負けるから、戦うな」とエレミヤは叫ぶのです。当然ユダ王国の人々は怒り、エレミヤを裏切り者、バビロンへの内通者だと見なし、彼を逮捕して穴倉に閉じ込めます。しかも食糧も水も与えないので、このままではエレミヤが餓死してしまいます。そのエレミヤを、有力貴族たちの目を盗んでゼデキヤ王は救出します。反バビロンの貴族たちとは対立しないようにしていたゼデキヤにとって、これは非常に勇気のある行動です。ここからも、ゼデキヤが不信仰な人ではなかったことが分かります。そのゼデキヤ王に、エレミヤはバビロンに投降することを勧めます。そうすれば、あなたの命は助かるだろうとエレミヤは重ねて王に促します。しかしゼデキヤはエレミヤの忠告に従いませんでした。なぜなら、今バビロンに投降すれば、既にバビロンに降伏していた親バビロン派の貴族たちが自分を殺すだろうと考えて、それを恐れたのです。このように、ゼデキヤは神への信仰を持った人で、実際にエレミヤの命を救いましたが、しかしエレミヤを通じて語られた神の言葉には従いませんでした。そしてその代償は非常に高くつきました。ゼデキヤはその後バビロンに敗れて捕らえられた後、目の前で子どもたちを殺され、その後に両目をえぐられてバビロンに連行されてしまったのです。もし彼がエレミヤを信じて、彼の忠告に従っていれば避けられた運命でした。ここから得られるのは、いくら神を信じても、神の御心に、神のみことばに従わなければ救いは確かなものとはならないという厳しい教訓です。私たちクリスチャンも、神を信じ、イエス様を信じていても、その御心、みことばに従うことは躊躇してしまうということが多いのではないでしょうか。イエス様の指し示す険しい道よりも、この世の常識的なやり方、安全そうに見える道を選んでしまうということがあるのではないでしょうか。私たちにはそういう弱さがあります。しかし、今回のダビデは神に従い、あえて厳しい道、リスクのある道を選び、その結果命を救うことになります。それも自分の命だけでなく、多くの人の命を救うことになるのです。私たちもこのダビデのように、行動を伴う信仰を持ちたいと願うものです。そのような思いで、今日のみことばを読んで参りましょう。

2.本論

さて、サウル王の追及を逃れながらも段々と仲間を増やしていったダビデでしたが、その彼のもとに同じユダ族の人々がペリシテ軍に攻められているという報告が入りました。ケイラという町の人たちがペリシテ軍の攻撃を受けていたのです。ダビデとしては、仲間を救いに駆け付けたいところですが、行動を起こす前にダビデはまず神にお伺いを立てます。どのようにダビデが神とコミュニケーションを取ったのか、その具体的な方法は書かれていませんが、神が直接ダビデに語り掛けたのか、あるいは預言者を通じて語られたのでしょう。神はダビデに、ケイラの人たちを救えと命じます。しかし、ダビデの部下たちはこれに反対します。今ケイラ救出に動けば、ダビデの居場所を探しているサウルに「自分たちはここにいる」と知らせるようなものです、それは自殺行為です、とダビデを諫めます。そこでダビデはもう一度神にお伺いを立てます。ここはさりげなく書かれていますが、神が既に明確に命令を出しているのに、もう一度神にお伺いを立てるというのは、神への不信仰、不忠実の表れとも捉えられかねない危険な行動だと言えます。ダビデ自身も、神の言葉への信頼と、現実の不安との板挟みになっていたことが分かります。ダビデも人の子、信仰深いダビデといえども神の言葉に不安を覚えてしまうことがあったのです。そのダビデに、神は重ねてケイラ出兵を命じます。しかも今回は、あなたはペリシテ人に打ち勝つことができる、というより力強い約束を与えました。神から二度も力強い言葉を与えられ、ダビデも意を決してケイラに赴きます。ここにダビデの信仰があります。彼の信仰は行動を伴うもの、すなわち本物でした。そして見事にペリシテ軍を打ち破り、ケイラの人たちを救います。

しかし、このダビデたちの行動はすぐにサウルのところに報告されました。ケイラにいるダビデたちをサウルは包囲して、殲滅しようとします。そのようなサウルの動きを知ったダビデは、再び神にお伺いを立てます。ここでダビデは二つの事を主に尋ねます。一つは、自分が助けたケイラの人たちは、恩を仇で返す、つまり自分をサウルに引き渡すだろうかという問いでした。もう一つは、サウルは本当に自分を追ってここまで来るでしょうか、という問いでした。神は最初、二つ目の問いだけを答えました。サウルは確かにここに来る、と主は言われたのです。しかし、最初の問いには神はお答えにならなかったので、ダビデは重ねて問いました。ケイラの人たちは、果たして自分たちをサウルの手に引き渡すでしょうかと。それに対する神の答えは非情なものでした。ケイラの人たちは、あなたをサウルに引き渡すだろうと。ダビデからすると、心底がっかりする答えだったでしょう。こちらは命がけでケイラの人たちを救ってあげたのに、彼らはそのことを何とも思っていないかのようです。当然ながら、わが身の安全のためには、民衆は冷酷にもなり得るということをダビデは思い知ったのでした。こんな人たちのために命を懸ける必要があったのか、という思いももしかすると抱いたかもしれません。しかし、彼らを救出するのは神の御心だったのです。

ともかくも、神のお告げを聞いたダビデは仲間の六百人と共に急いでケイラから脱出します。それからダビデはサウルに見つからないように、次々と居場所を移していきます。サウルは執拗にダビデを追いますが、ダビデを見つけることはできません。神がダビデを守っていたからです。

しかし、ダビデの心は不安で一杯でした。15節には「ダビデは恐れていた」とさらっと書かれていますが、ダビデの不安は相当なものだったと思われます。なぜならダビデはサウルに狙われていただけでなく、民衆を味方に付けることができていなかったからです。まさに四面楚歌の心持ちだったでしょう。また、ダビデは先に主の命令に従ってケイラに行きましたが、その結果彼はサウルに見つけられ、あやうく殺されそうになりました。本当に主に従っていって大丈夫なのだろうか、という不安が彼の心をよぎったかもしれません。

そのように不安にさいなまれているダビデのところに現れたのは、あのヨナタンでした。先にダビデはサウルの所から逃げ出したときにヨナタンと今生の分かれを果たしたのですが、しかし神は最後にたった一度だけ、この二人に再会の機会をお与えになりました。ほんの短い時間ですし、この後この二人は二度と会うことはなかったのですが、しかしダビデがどん底の心持でいたときに、神はヨナタンをダビデの下に遣わされたのです。ここでヨナタンがダビデに語った言葉はまさに預言的なものでした。「恐れるな」、これがヨナタンがダビデに最初に与えたメッセージでした。この「恐れるな」という言葉は聖書に繰り返し登場する神からの重要なメッセージです。人が神を信じながらも、なぜ神の御心、みことばに従うことができないのか?それは「恐れ」のためです。神の言葉に従って本当に大丈夫なのか、神様は本当にわたしを守ってくれるのだろうか、こういう不安や怖れが私たちを神から遠ざけるのです。だから預言者たちは神の民に、繰り返し「恐れるな」というメッセージを与えて来たのです。そのような箇所を一つだけ見てみましょう。イザヤ書41章13節と14節です。

あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。—主の御告げ—あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。

たとえあなたが虫けらのようにちっぽけな存在だとしても、神があなたを助けるのだから、恐れてはならない、これが聖書全体を貫くメッセージです。私たちはたとえ大きなリスクがあるように思えても、それが本当に主の御心なら恐れずに神に従って行動すべきなのです。ヨナタンはまさにそのことをダビデに告げました。あなたはもしかすると自分が不毛な逃避行をしていると考えているかもしれないが、そんなことはないのだと。父サウルがあなたに危害を加えることはない、なぜなら神があなたをイスラエルの王として選んだからだ。私もあなたに従うし、サウルも内心ではそのことが分かっているのだ、とダビデに告げます。このヨナタンの言葉は、ダビデにはまさに神の声と聞こえたことでしょう。ダビデは不安や怖れを振り払い、再び今の難局を乗り切っていくための勇気を得たのでした。

それでもダビデの危機は依然として続いていました。ケイラの人々と同じく、ジフの人々もダビデと同じユダ族の人々でしたが、彼らもダビデをかばおうとはせず、むしろダビデをサウルの売ることで、サウルから大きな恩賞を得ようとしました。民衆は、サウルとダビデのどちらに正義があるのかということよりも、どちらに付けば得なのか、という視点から行動していたのです。残念ながら、このような傾向は古今東西のどの民族にも見られるものです。ダビデもこの逃避行を通じて人間の本質、目先の利益に流されてしまう人間の罪の現実をいやというほど実感させられていくのです。

さて、ジフの人々の手引きでダビデを追って来たサウルたちですが、ダビデもその動きを察知して彼らから逃げようとします。しかし、ジフの人々という現地の民の力を借りたサウルは、今度はダビデたちを射程に収めました。ダビデもいよいよ袋のネズミのように追い込まれました。しかし、ここでも神の助けがダビデにはありました。何と、ペリシテ軍がイスラエルに攻めて来たというのです。ダビデはここで放っておいてもどうということはありませんが、ここでペリシテ軍の侵略を許したらイスラエルの全土は彼らに蹂躙されてしまうでしょう。サウルにもそのことはよく分かっていたので、ダビデを追うのは諦めてすぐにペリシテ軍と戦うために引き返していきました。ダビデのこととなると正気を失ってしまったかのようなサウルですが、この行動を見る限りでは自分の王としての責務を忘れることがなかったのが分かります。

ダビデの方も、今回も神に助けられたという感謝の念を強くしたことでしょう。こうして危機を一つ一つ乗り越えるたびに、ダビデの神への信仰、信頼は揺るがないものとなっていくのです。

3.結論

まとめになります。今回は、信仰の人ダビデも神への信頼を失いそうになるほど厳しい局面を歩んでいる場面を学びました。ダビデはどこまでも神の御心を求め、その御心に従って行動していきますが、それで事態が好転していくようには思えません。むしろますます追い詰められていくように思えてダビデは不安になり、恐れで心が満たされていきます。人が恐れに囚われると、たとえ神を信じていても神の御心に従うのが難しくなります。しかし、そのようなダビデが信仰を保つことができたのも、ヨナタンを通じて聞いた神の声と、そして実際に絶体絶命のピンチの時にも神の手が働いているとしか思えない経験を積み重ねていったことによるのです。信仰とは、試練を通じてこそ本物となります。神が自分を助けてくださるといくら聞かされても、実際にそれを経験しないと、その知識は本物の知識にはならないのです。ダビデはこうした経験を重ね、本物の神の器へと成長していきます。

私たちも本物の信仰を持つためには、神の御心に従っていく必要があります。たとえそれが非現実的に思えたり、あるいは自分にとって不利に思えたとしても、神を信頼し、一歩を踏み出す勇気、それこそが私たちの信仰を鍛えあげ、本物にしていくのです。私自身のことを振り返っても、自分の神への信仰、信頼が本当だと思えるようになったのは、実際に過去の人生で神に助けていただいたという経験を重ねてきたからです。私自身は高校三年生で洗礼を受けて、クリスチャン歴そのものはけっこう長かったのですが、自分の人生に確かに神様が働いておられると感じたのは、人生で初めて大きなリスクを取ったときでした。それまでは一流大学、一流企業という、世の中に敷かれたレールの上を歩いてきましたが、そこからドリップアウトし、聖書を学ぶために渡英するという決断に導かれました。周囲の人からは「一時の気の迷いだ。もったいないからこれまで築いてきたキャリアを捨てるべきではない」というもっともなアドバイスをたくさん受けました。確かに海のものとも山のものともわからないような道に踏み出すのだなとは自分でも思いましたが、実際に歩み出すと、ここぞという時に必ず助けが与えられました。そんな経験はそれまでの人生でしたことがありませんでしたが、そういう経験を通じて神への信頼が増していきました。私自身の事を振り返っても、いくら聖書の知識が増しても、自分の人生で神の導きを経験しなければ信仰は本物にはならないというのは本当だと思います。ですからこれからも、日々の生活の中で神に信頼し、神の御心に従って歩んでいきたいと強く願っています。そのような勇気を与えてくださるように、共に祈りましょう。

死の谷を歩むダビデを導き、伴ってくださった神様、そのお名前を讃美します。主は今の時代を歩む私たちをも、同じように導いてくださるので、私たちも神を信頼し、その御心行うことができますように。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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貧しい人への態度ヤコブの手紙2章1~13節 https://domei-nakahara.com/2024/05/26/%e8%b2%a7%e3%81%97%e3%81%84%e4%ba%ba%e3%81%b8%e3%81%ae%e6%85%8b%e5%ba%a6%e3%83%a4%e3%82%b3%e3%83%96%e3%81%ae%e6%89%8b%e7%b4%992%e7%ab%a01%ef%bd%9e13%e7%af%80/ Sun, 26 May 2024 03:42:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5631 "貧しい人への態度
ヤコブの手紙2章1~13節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。今日は月末ですので、通例通り新約聖書の「ヤコブの手紙」からメッセージをさせていただきます。ヤコブの手紙には、行いの重要性の強調や、試練に対する心構えなど、いくつかの重要なテーマがありますが、今日の箇所もそうした柱となるテーマの一つ、「貧しさ」についてです。それも霊的、精神的な貧しさということではなく、経済的な貧困の問題です。

「貧しさ」というのは、今日の日本では切実な問題になってきています。かつては経済大国と言われ、また一億総中流社会とも言われた日本では、もちろん貧しい人たちは常にいたわけですが、社会全体が貧しさを感じるということは少なかったように思います。しかし、今の日本では、6人に1人が相対的な意味では貧困状態にあるという調査結果があります。6人に1人というのは相当な割合だと言えます。特に、最近の物価の上昇や急激な円安などはエンゲル係数の高い貧困層の人々を直撃しています。さらには、地震などの自然災害のせいで生活の基盤を失ってしまう人たちも少なくありません。日本という国全体が貧しさ、貧困という問題に正面から向き合わなければならない時代に私たちは生きていると言えるでしょう。

聖書でも、貧しさというのはとても重大な問題です。まず、イスラエルの神は常に貧しい人々、社会的に弱い立場にある人々を思いやり、寄り添う神であるということがこのテーマを考える上での根底にある事実です。そのことをはっきりと教えている箇所の一つを読んでみましょう。申命記15章7節から11節までです。

あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。あなたは心に邪念をいだき、「第七年、免除の年が近づいた」と言って、貧しい兄弟に物惜しみして、これに何も与えないことのないように気をつけなさい。その人があなたのことで主に訴えるなら、あなたは有罪となる。必ず彼に与えなさい。また与えるときに、心に未練を持ってはならない。このことのために、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださる。貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。」

このように、貧しい人を思いやる神を礼拝する人々は、神に倣って貧しい人に思いやるべきだ、というのが聖書の教えです。イスラエル民族というのは、もともとはエジプトで奴隷として働かされていた人々でしたから、最初は貧富の差などなく、みな貧しく弱い人たちでした。しかし、彼らがカナンの地、今のパレスチナの地を征服し、そこで農耕生活を始めると段々と格差が大きくなっていきました。イスラエルにサウル、ダビデによる王朝が出来る前の士師の時代には、イスラエル人の持つ土地の面積は、だいたい同じだったということが考古学者の発掘によって分かっています。みんな中流だったのです。それが、王制が始まると政治的な力だけでなく経済的な力も一部の人に集中するようになり、イスラエルはほんの一部の大地主とその他大勢の零細農家や小作農からなる格差社会へと変貌していきました。律法は、そのような格差社会にならないように、7年に一度は奴隷を解放したり債務を免除したりするように教え、またヨベルの年と呼ばれる49年に一度の年にもすべての負債の免除を命じています。しかし、律法を守ることにあれほど熱心だったユダヤ人たちは、こうした債務免除の教えだけはいろいろと理屈をつけて守らなかったり、あるいは骨抜きにしていました。ですから律法を守っていればイスラエル社会は格差社会にならないはずだったのですが、実際には超格差社会になっていきます。このことは北イスラエル王国が滅亡する預言者アモスの時代、南ユダ王国が滅亡する預言者エレミヤの時代、そしてイエス・キリストが宣教された当時のユダヤ社会、それらすべての時代に当てはまることなのです。預言者たちは繰り返し、貧しい人々を顧みなさいと警告しましたが、イスラエル人の有力者や富豪たちたちはその警告に耳を閉ざし、その結果国が滅んでいきました。

そして、現在にもこの問題は重くのしかかっています。世界中で一番キリスト教に熱心だといわれるアメリカ合衆国は、もし国民の7割とも言われるクリスチャンが聖書の教えを守っていれば世界で最も平等な社会になっているはずです。しかし、今日のアメリカほど貧富の差が甚だしい社会はありません。その格差の巨大さは、私たちには想像もできないほどです。10年間の年棒総額が一千億円に及ぶ大谷翔平選手は大きな話題を呼びましたが、アメリカではこの大谷選手でさえスーパーリッチとは呼べないほど、けた外れのお金持ちがかなりの数います。なぜなら一番のお金持ちは20兆円を超える資産を持っているからです。しかもそうしたお金持ちには聖書の民であるクリスチャンやユダヤ人が圧倒的に多いのです。アメリカ人は莫大な寄付をしているから社会のバランスが取れるのだとも言われますが、財団は節税目的の場合が多く、アメリカの大富豪は様々な制度を使って巧妙に資産を守っていると言われています。私も日本の富豪にお仕えするプライベート・バンクというところで働いたことがありますが、財産を守るための方法を頭のいい人たちが必死で考えるわけですから、金持ちがますます金持ちになっていくのは当然とも言えるでしょう。

私たちの日本は、かつては一億総中流と呼ばれる比較的に格差の少ない、平等な社会だと言われてきましたが、あらゆる面でアメリカを模倣する日本も段々と格差の非常に大きな社会になってきました。東京23区ではここ10年でマンション価格が2倍になったと言われています。新築がみんな億ションになってしまったのです。年収1千万ぐらいの、かなりの高給取りのサラリーマンでさえ手が出せないような、そんな状況です。そんな中で、この東京では貧困がかつてないほど広い範囲に広がってきています。そういう時代に生きる私たちであるからこそ、今日のヤコブ書のみことばを心して聞きたいと思うのです。

2.本論

さて、では1節から見て参りましょう。ヤコブは信者たちに、「あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません」と呼びかけます。えこひいきという言葉のギリシア語には、人を外見で判断するというようなニュアンスがあります。人を偏り見る、というような意味合いです。神は背が高くてイケメンのダビデの兄ではなく、少年ダビデを神の器として選ばれた時、「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」(第一サムエル16:7)と言われました。えこひいきをしないとは、つまり人をうわべで見ないということです。そして2節と3節には、人をうわべだけで判断することの具体的な事例が描かれています。この場面を読んで、次のような状況を想像されるかもしれません。ある教会の礼拝堂で、座席以上の数の礼拝者の方々が来られた場合、席に座れない人が出て来てしまうことになります。その際、アッシャーといって来会者を席に誘導する係りの人が、いかにもお金持ちそうな人に席を優先的にあてがい、いかにも貧しそうな人には礼拝中は立っていなさい、と言うようなケースです。さすがにそこまで露骨なことをする教会はないでしょうが、教会といえども世間一般と同じようにお金持ちを優遇するということがあり、その問題をヤコブが指摘しているのではないか、ということです。ただ、聖書注解者たちの意見によれば、この場面は礼拝中の出来事ではなく、むしろ教会員同士の間で争いがあった場合、教会がその問題を裁こうというケース、つまり教会内裁判のような情景である可能性が高いということです。その場合、教会の指導者は争いの仲裁をするわけですが、初めからお金持ちの教会員の方に有利な判決を下そうとする、そのような偏見に満ちた姿勢をヤコブは批判しているということです。私たちは教会内裁判などというものは見たことがないので想像しにくいかもしれませんが、使徒パウロはコリント教会の教会員の間で争いごとが生じたときに、外部の裁判所ではなく、教会の中で問題を解決しなさいと勧めています。そこを読んでみましょう。第一コリント6章の1節と2節です。

あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるでしょうか。あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。

パウロは、聖徒たち、つまりクリスチャンは、終末の先に主イエス・キリストが全人類をおのおのの行いに応じて裁くときに、そのお手伝いをするようになる、そういう大きな役目を期待されているのだから、目の前にある教会の小さな問題さえさばけないでどうするのですか、と問うているのです。このように、初代教会では信徒の間のもめ事を裁く教会内裁判が奨励されていました。ヤコブの手紙の2章2節と3節も、そのような裁きの場を描いていて、りっぱな服装をした人とみすぼらしい服装をした人とは、その裁判を傍聴しに来た人たちだと考えられます。この場合、もし金持ちと見られる傍聴人を教会が優遇したとしたらどうでしょうか。そのような態度の教会は、実際の裁判においてお金持ちの教会員と貧しい教会員が争った場合にも、金持ちの方を優先し、貧しい人の権利を軽んじないでしょうか。実際、お金持ちは献金や寄付などで教会に大きく貢献してくれているのだから、有利に取り扱ってもいいじゃないか、というのは世間一般で考えそうなものです。イエスやパウロの時代の地中海世界の裁判でも、お金持ちが裁判官に賄賂を送って判決を有利に進めたということがありました。今日の裁判では、さすがに賄賂はないものの、お金持ちは多額の報酬を支払って優秀な弁護士を雇うことができるので、お金持ちの方が有利になるのは間違いありません。しかし聖書は、裁判においてはそのような金持ち優遇があってはならないと教えます。同時に、貧しい人を守るべきだからといって、裁判の正義を曲げてまでも貧しい人を助けようとするのも誤りだと教えています。レビ記19章15節は次のように教えています。

不正な裁判をしてはならない。弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない。

このように、神は裁判が公平であることを求めておられます。しかし、実際の裁判では貧しい人の方が不利になる、というのは隠すことのできない事実であるし、教会内裁判においてですらそのような危険があるということをヤコブは指摘しています。

しかし、そのような態度は神に喜ばれません。なぜなら神は、むしろ貧しい人たちにこそ優先的に福音を届けてこられたからです。そのことをヤコブは5節で書いていますが、イエスもそうおっしゃっています。ルカ福音書6章20節、21節には「貧しい人は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから」という有名なイエスの言葉があります。パウロも同じことを記しています。第一コリント1章26節から28節までをお読みします。

兄弟たち。あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足らない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

このように、神はイエス・キリストの福音を貧しい人たち、社会的に追いやられた人たちに最初に届けられました。そのような神に選ばれた人たちを軽蔑することは、神に敵対する行為です。

ヤコブは貧しい人を侮り、富んだ人におもねる人々をこう言って厳しく咎めます。

それなのに、あなたがたは貧しい人を軽蔑したのです。あなたがたをしいたげるのは富んだ人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名をけがすのも彼らではありませんか。

ここで言われている富んだ人たちとは、当時の大地主階級の人たちのことでしょう。当時の地中海世界では、ごく一部の大地主とその他大勢の零細農家あるいは小作農という二極化が進んでいました。イエスを信じるキリスト者の多くは貧しい小作農たちでしたが、彼らにお金を貸し付けて、返せないと裁判所に引っぱっていってみぐるみを剥いだのがこうした富める大地主たちでした。そのような人たちに教会がおもねるということは、自分自身を虐げる者におもねることではないか、とヤコブは指摘するのです。

さらにヤコブは、貧しい人を侮ることは、律法の最も大切な教えを破ることになると警告します。律法の中で最も大切な教え、律法全体を要約する教えとは、8節にあるように「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」です。主イエスもそう教えられましたし、パウロも「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです」(ガラテヤ5:14)と書いています。そして、この隣人には当然ながら金持ちだけでなく貧しい人も含まれます。いやむしろ、貧しい人こそあなたの真の隣人なのだ、というのがイエスの教えです。主イエスは、「まことに、あなたがたに告げます。これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)と言われました。ですから人が、いくら他の律法全体を完璧に守ったとしても、貧しい人を自分自身のように愛しなさいという教えに躓くならば、その人は律法の違反者となってしまうのです。このヤコブの教えは、福音書にある有名な富める青年のエピソードを思い起こさせます。主イエスに、永遠のいのちへの道を尋ねた青年は、自分は幼いころから律法を皆持ってきましたとイエスに言いました。しかし、そのあり余る財産を貧しい人たちに分け与えて、イエスの弟子たちの群れに加わりなさいというイエスの言葉には従えませんでした。厳しい見方かもしれませんが、もし彼が貧しい人たちを自分と同じように愛していたのなら、イエスの呼びかけに応えることができたでしょう。そうすれば天に大きな財産を積むことができるし、地上においては主にある多くの兄弟姉妹を得ることが出来たのです。しかも、富める青年自体は自分は不正な手段で富を得たのではない、と思っていたかもしれませんが、彼がほぼ間違いなく大地主だったと思われるので、ということは7年ごとに負債を免除しなさいという律法の教えについてはほかの大地主と同じく守っていなかったのでしょう。この一つの点、たった一つかもしれませんが、しかし最も大事な点でつまずいてしまうなら、律法全体を犯したことになる、とヤコブは指摘します。富める青年がここまで大金持ちではなく、ペテロのようにつつましい財産しかもっていなかったのなら、この点につまずくことはなかったでしょう。ペテロのように、喜んで主にお仕えできたかもしれません。あまりにも大きな財産は神の国に入るための妨げになってしまうというイエスの教えは本当だったのです。

そして今日の箇所の最後の一節、13節を見てみましょう。私たちはもし人をさばくことがあるのならば、その時には憐みを持って、つまり相手の立場に立ってよくよく考えた上で裁きを下すべきだということです。なぜなら私たちはみな、主イエス・キリストの裁きの座の前に立たなければならないからです。主イエスが私たちを裁く基準の一つが、私たち自身がどのように他人を裁いてきたのか、その態度そのものだということです。主イエスも「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」(マタイ7:2)と語っておられる通りです。

3.結論

まとめになります。今日は、「貧しさ」という聖書の大きなテーマの一つについてヤコブの教えを通じて考えて参りました。私たちは普通、貧しさを嫌い、もし貧しい境遇にあるのなら何とかそこから抜け出そうとします。戦後の日本があれほど急速に成長できたのは、敗戦でみなが貧しくなり、なんとかそこから抜け出そうとみなで頑張ったからでした。その結果、貧富の差がないとはいいませんが、比較的格差の少ない社会を作り上げることができました。しかし、そのような平等な社会では満足できない人たちもいました。アメリカでは日本とは比較にならないような大金持ちがいて、とんでもない豪邸に住んでこの世を謳歌しています。そんなアメリカで生活して、日本もそうあるべきだ、と考える人たちが増えてきました。また、バブル崩壊後の日本では、正社員の給与を抑えたり、あるいは正社員を非正規社員に置き換えることで企業業績を維持してきました。その結果、大企業の内部留保は天文学的な額にまで積み上がったものの、国民間の格差は広がる一方だったという現実があります。そうした現実の中で、日本には貧しい人たちが確実に増えてきました。

聖書は、人間社会の中である程度の貧富の差が生じるのは認めています。一生懸命働いた人と、怠けた人の間で差が生じるのは自然なことです。しかし、その格差がどこまでも広がっていいともいいません。それに限度を設け、また格差が永久に固定化されないように、リセットするための教えを設けています。その代表的なものが「ヨベルの年」でした。しかし、残念なことにそうした聖書の教えは聖書の民の間で守られてこなかったのです。

このような日本の現実、また聖書の教えを踏まえたうえで、私たちは何ができるでしょうか。私たちは小さな者ですので、日本全体を聖書の教えに従った国に造り変えるというような大それたことが出来ないでしょう。しかし、身の回りの小さなことならばやれることはあるはずです。嶋田さんたちが子ども食堂に熱心に取り組まれています。これは小さなことどころか大きな働きですが、そういったボランティアに参加したり、あるいは少額でも毎月ユニセフなどに献金するなど、いろいろと私たちにもできることがあるように思います。そして何よりも、間違っても貧しい人に対して偏見を持つべきではないというのが今日のヤコブの教えの大事なポイントでした。なぜなら神は、そのような貧しい人に寄り添う神であり、貧しい人を侮ることは神を侮ることになるからです。ヤコブの教えを日々の生活で生かすことができるように、祈りましょう。

やもめやみなしごを憐れまれ、彼らに寄り添われる神様、その御名を讃美します。今日はヤコブの手紙から貧しさの問題について学びました。私たちの生きる社会の現実は、聖書の理想とは程遠い状態にありますが、諦めることなく身近な努力を続ける力を私たちにお与えください。また、特に被災された方々をお助け下さい。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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神の霊に満たされる出エジプト記35章20~35節 https://domei-nakahara.com/2024/05/19/%e7%a5%9e%e3%81%ae%e9%9c%8a%e3%81%ab%e6%ba%80%e3%81%9f%e3%81%95%e3%82%8c%e3%82%8b%e5%87%ba%e3%82%a8%e3%82%b8%e3%83%97%e3%83%88%e8%a8%9835%e7%ab%a020%ef%bd%9e35%e7%af%80/ Sun, 19 May 2024 03:27:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5613 "神の霊に満たされる
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みなさま、ペンテコステおめでとうございます。そのように申し上げてからこう言うのも何なのですが、「ペンテコステ」というのはいったい何なのか、と尋ねられることがしばしばあります。ペンテコステはクリスマス、イースターと並ぶキリスト教の三大主日と言われますが、他の二つと比べてポピュラーであるかという意味では少し見劣りしてしまうのは否めないように思います。また、それが何を祝うものなのか、分かりにくいということもあるようです。

クリスマスはイエスの生誕を祝う日、いわば誕生日会であり、イースターはイエスが死者の中からよみがえったことを祝う日、つまり復活記念日です。第二の誕生日と言ってもよいかもしれません。どちらもイエスの新しい命を祝う日です。それに対して、ペンテコステはイエスについての記念日ではありません。教会の誕生日だというような説明もありますが、正確に言えばそれは少し違います。ペンテコステの前から教会はあったからです。教会に聖霊が与えられた日だ、というのが一般的な説明ですが、ではその前には聖霊は教会には存在しなかったのかというと、そういうわけでもありません。どうも「聖霊」という三位一体の神そのものが理解しにくいということがあるのです。そもそも「ペンテコステ」とはどういう意味かといいますと、これはギリシア語で50番目という意味です。ですから日本語訳にすると、「50番目記念日」ということになります。しかし、では何の50番目なのかという疑問が当然生まれます。 

このことを理解するには、ユダヤ教のお祭りを理解する必要があります。ユダヤ教には、春に祝う「初穂の祭り」という収穫感謝のお祭りがあります。それはユダヤ人の主食である大麦の収穫を祝う日で、実のなった大麦の最初の一束を神様にお献げするのです。そして、それから50日後には、今度は小麦の収穫を感謝する祭が開かれます。ヘブライ語ではシャヴオットといいますが、ギリシア語では初穂の祭りから50日目ということでペンテコステと呼ぶのです。

このように、ペンテコステは初穂の祭りから50日目に行うのですが、実は主イエスが復活した日がこの初穂の祭りに当たります。ということは、ペンテコステはイースターから50日後に祝われる日ということになります。今年のイースターが3月31日でしたが、ペンテコステはそれからちょうど50日目なのです。使徒パウロも、第一コリント書簡の15章20節で、

しかし、今やキリストは眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

と語っています。ここでパウロが「初穂」と言ったのは、初穂の祭りを意識してのことです。つまりイエスの復活が大麦の初穂に譬えられているということです。そしてペンテコステは、小麦の収穫を祝うものです。大麦がイエスならば、小麦はイエスの弟子たちのことです。しかし、これは弟子たちがイエスのように死者の中から復活したということではなく、むしろ弟子たちに聖霊が降り、彼らが大きな働きをするようになったことを指しています。つまり小麦の収穫は、イエスの弟子たちに聖霊が降ったことの譬えとして用いられているのです。このように、ペンテコステの意味を考える上で一番重要なのは、「聖霊」です。イエスの弟子たちに聖霊が降ったことは、イエスの復活と同じように非常に大きな意味のある出来事なのです。

では、いったい何のために弟子たちに聖霊が降ったのでしょうか?ペンテコステの日以前には、聖霊は全然存在しなかったのかといえば、そうではないのですが、要は聖霊の働きの強さが段違いに違ったのです。ペンテコステの日以降、聖霊は非常に大きな力で弟子たちを通じて働くようになりました。それは、イエスの弟子たちがイエスの働きを引き継ぐためです。主イエスご自身が、このことを約束されています。ヨハネ福音書14章12節に書かれています。そこをお読みします。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。

主イエスは、彼の弟子たちがご自身よりもさらに大きなわざを行うようになるだろう、と語っています。しかし、そんなことがあり得るのでしょうか?イエス様と同じようなわざを行うということ自体が信じがたいのに、それよりももっと大きなわざを行うというのは、いくら何でもあり得ないのではないか、と思われるでしょう。しかし、それを可能にするのが聖霊の働き、力なのです。ですから主イエスは続けてこう言われました。ヨハネ福音書14章の16節です。

わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

ここで主イエスが「助け主」と呼んだ方が聖霊です。ここで忘れてはいけないのは、イエス自身も聖霊を受けてから大きな働きをするようになったということです。イエスがバプテスマを受けたときに聖霊が鳩のように彼に降りました。それからイエスの偉大な働きが始まったのでした。そして、その同じ聖霊は今度はイエスの弟子たちに降りました。それは彼らがイエスの働きを引き継いで、イエスよりもさらに大きな働きをするためです。

このように聞くと、聖霊が降るというのは途方もなく大きなこと、特別なことのように思えるかもしれません。それはイエスの弟子たちにだけ起きた、一回限りの特別な出来事であると、そのように思われるかもしれません。

しかし使徒パウロは、イエスには直接会ったこともない異邦人たちが聖霊を受けて奇跡を行ったと報告しています。ガラテヤ書簡の3章5節にはこうあります。

とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行われた方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。

パウロはここで、イエスに会ったこともないし、旧約聖書の律法のことも何も知らない異邦人たちが、イエス・キリストの福音を聞くことで聖霊を受けて奇蹟を行ったと言っているのです。ですから、ペンテコステの日に起こった出来事はイエスに従ったユダヤ人の弟子たちだけではなく、イエスを直接には知らない異邦人たちの間でも起こったのです。しかし、そうはいってもこれも例外的な出来事で、教会が爆発的に地中海世界に広がった紀元一世紀という特殊な時代にのみ起こった、特別な出来事なのではないか、と思われるかもしれません。確かに、紀元二世紀以降の教会ではこのような異常なほどの聖霊体験は報告されていないし、むしろ聖霊の働きを強調するグループは異端として警戒されるようになっていきました。

ですから、ペンテコステの出来事は、紀元一世紀という特別な時代に起こった過去の不思議な出来事であり、現代に生きる私たちはそのような体験を求めるべきではないし、求めることもできないのだ、と考える人たちもいます。たしかに、イエスの死と復活、それに続く大きな聖霊体験が続いた紀元一世紀は特別な時代です。しかし、聖霊の働きが紀元一世紀に限定されていたかのように考えるのも、聖書的ではないのです。なぜならイエス・キリストが登場する前の各時代にも、聖霊は人々に何度も降って、歴史を動かしてきたからです。

一つ例を挙げましょう。私たちは今、サムエル記を学んでいますが、これはイエス・キリストから千年も前の時代の話です。しかしこの時代にも聖霊は降り、イスラエルの歴史を動かしていました。先週はサウル王が狂ったような凶行を行ったことを見ていきましたが、そのようにサウルがおかしくなってしまう前は、彼は立派に王として働いていた時期がありましたし、彼にそのような力を与えたのが聖霊でした。実際、サウルにも神の霊が降り、彼はそれによって新しい人に生まれ変わっています。その箇所を読んでみましょう。第一サムエル記10章6節にはこうあります。

主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言をして、あなたは新しい人に変えられます。

これは預言者サムエルがサウルに語った言葉です。そして10節、11節にはこの言葉が実現したことが書かれています。

彼らがそこ、ギブアに着くと、なんと、預言者の一団が彼らに出会い、神の霊が彼の上に激しく下った。それで彼も彼らの間で預言を始めた。以前からサウルを知っている者みなが、彼が預言者たちといっしょに預言をしているのを見た。民は互いに言った。「キシュの息子は、いったいどうしたことか。サウルもまた、預言者のひとりなのか。」

この記述は、新約聖書に書かれていても全く違和感がないでしょう。新約の時代には多くの人に聖霊が降りましたが、その同じ神の霊はサウルに、次いでダビデにも下り、彼らを通じてイスラエルの歴史を動かしていったのです。このように、聖霊の働きはイエスが活躍し、教会が誕生した紀元一世紀に限定されるものではありません。そしてサウルやダビデからさらに数百年も前にも、聖霊が大きな働きをした時期がありました。しかも、サウルやダビデのような王様や預言者などの特別な人たちだけでなく、一般の人々の間で聖霊が大きな働きをした時期があったのです。それが、今日お読みいただいた御言葉です。

この時、イスラエルの人たちはエジプトで奴隷として酷い扱いを受けていましたが、神はモーセを遣わし、イスラエルを奴隷状態から解放します。そして彼らをご自身の民とすべく契約を結びます。晴れて神の民となったイスラエルは、幕屋を建設するように神から命じられます。幕屋とは移動式の神殿であり、そこは神の住処であると同時にイスラエルの人々が神と出会い、また礼拝する場でもありました。ですから幕屋建設は今日でいえば教会堂の建設のような意味がありました。しかも、幕屋建設は建築のプロが行ったものではありませんでした。モーセに率いられたイスラエルの人たちは、みなエジプトでは奴隷として自分では望まない労働をさせられていたのです。建築や美術、装飾品作りが好きな人がいたとしても、そうしたことを学ぶ機会はありませんでした。そうした奴隷の人々が今や自由な身となったのです。神はこうした人たちを通じてご自身の住処である幕屋を造ることを望まれました。また、イスラエルの人々も、自ら望んでこの幕屋建設に加わりました。自分たちを奴隷の家から解放してくださった神に、感謝の気持ちを表すために幕屋建設に加わったのです。

幕屋建設のために様々な形で貢献することができました。まず幕屋建設のためにはいろいろな資材が必要でした。そのために人々は自らが持っていた装飾品や貴金属、より糸や亜麻布、動物の皮などを献げました。また、多くの女性たちがそうした糸を紡いでいきました。幕屋は、非常にカラフルな垂れ幕が用いられるので、多くの人の手が必要でしたが、自発的にその仕事を引き受けてくれる女性がたくさんいたのです。彼らの事は、こう書かれています。

イスラエル人は、男も女もみな、主がモーセを通して、こうせよと命じられたすべての仕事のために、心から進んでささげたのであって、彼らはそれを進んでささげるささげ物として主に持って来た。

また神は特に、ユダ族のベツァルエルという人物を選んで、彼に貴金属や宝石、木製製品の設計加工をさせるために、「神の霊を満たされた」とあります。つまりこの無名の人物に聖霊が豊かに注がれたのです。ダビデやサウルのように、国を動かすリーダーではなく、職人に聖霊が降ったのです。この事実は、聖霊の働きを考える上でとても大切なことです。

新約聖書の中で聖霊の働きを見ていくと、大きな奇蹟を行ったり、預言の賜物を与えたり、あるいは習ったこともない外国語で突然話せるようになったりすることなど、いわゆる超常的な出来事において聖霊が働いているという印象を受けるかもしれません。確かに聖霊の働きにはそのような非日常的というか、普通ではあり得ないような現象が多く含まれます。しかし、もっと普通の意味での聖霊の働きもあります。それが、幕屋の制作に加わり、様々な仕事を担った人々、職人や芸術家にインスピレーションを与えた聖霊の働きです。

そして、このことを考えると、当教会の礼拝堂のためにも聖霊が大きな働きをしてくださったことを改めて覚え、感謝せずにはいられません。私はこの教会に遣わされて今年で5年目になりますが、最初に来た時と、今の礼拝堂とはまったく別の教会かと思うほど変わっています。今では、どんな礼拝堂だったか思い出せないほどです。一番印象に残っているのは、内階段が出来たことです。今では信じられないことですが、ほんの数年前までは、非常階段のような外の階段を使っていたのです。傾斜がきつく、屋根もありませんので、雨が降ったらびしょぬれになって昇らなければなりません。高齢者にとっては、まさに命がけだったと思います。私が当教会に来てから、毎回役員会で話し合ったのはそのことでした。エレベーターを付けるというような話もありましたが、違法建築になるということで諦めました。非常階段の上に雨をしのぐための屋根を付けようというプランもありましたが、突風が吹けが吹き飛ばされてしまう恐れがあり、それも断念しました。そのようなときに、村山唯一兄弟が、まったく新しい発想で階段を作ることを提案されました。一階の、物置のようになっていた牧師館部分を壊して二階まで続く内階段を作るというのです。最初、その話を聞いた時、いったいどんなものになるのか想像もつきませんでした。唯一さんが色々スケッチを見せてくれたのですが、素人の私たちには分からないので、とにかく唯一さんを信じて任せてみようということになりました。唯一さんは、それこそ神の霊が下りて来たというようなことを話しておられたのですが、とても素晴らしいアイデアが浮かんだようでした。それから数カ月に及ぶ工事が始まりました。初めは唯一さんお一人で、途中から若い職人さんと二人で工事が始まりました。私はいったいどんな階段が出来上がるのかと、ワクワクしながら工事を見守っていましたが、出来上がった階段は私の想像をはるかに上回る、本当に素晴らしいものでした。とても上りやすいだけでなく、デザインも素敵で、何より新しい階段ができてから教会が非常に明るくなりました。その階段が出来上がって1年ほどで唯一兄弟は天に召されたのですが、そのことを思うとなおのことこの階段が如何に大きな唯一さんからの、また神様の贈り物だったかと思わずにはおられません。

そしてこの度、礼拝堂を大きく変える、素晴らしい贈り物が与えられました。奇しくも唯一さんと同じ誕生日の美濃部早苗姉妹が製作された二つのステンドグラスです。実は、この教会の講壇の左右の窓にステンドグラスを入れたいという話は以前からありました。私も二人の教会員の方からそのような提案を受けていました。しかし、そうはいってもステンドグラスを作ると言うのは雲をつかむような話で、誰に頼めばよいのか、また費用がどれほどかかるものなのか、まったくわからず、どうしていいのかさっぱり分かりませんでした。業者に頼むとしても、教会にふさわしいデザインをあまりキリスト教に詳しくない方にお願いするのもどうなのか、という思いもありました。そんな時に美濃部姉妹からステンドグラスを作りたいというお話を頂きました。しかも美濃部姉妹は全くの素人で、これから初めてレッスンを受けるというのです。ありがたいと思う反面、失礼ながら大丈夫なのだろうかという一抹の不安もありました。ステンドグラスの制作というのはとんでもなく難しいことのように思えたからです。しかし美濃部姉妹は一生懸命制作に励み、昨年のクリスマスには一つが完成するとのことでした。どんなものなのか、私たちもあまり中身を知らされていなかったので、期待と不安が入り混じった気持ちで待っていたのですが、その完成されたものは私の想像をはるかに上回る、それは見事なものでした。初めてステンドグラスを制作した人に、こんな見事なものが作れるものなのかと驚きました。しかもデザインそのものも美濃部姉妹がなさったというのですから、なお一層驚きました。そうなると、もう一面のステンドグラスには期待しかなかったのですが、それがついに完成し、このペンテコステの記念の日の前に、講壇の両側が見事なステンドグラスで飾られることになりました。もちろんこれは美濃部姉妹の精進と努力、及び指導してくださった先生方のご助力の賜物なのですが、その背後には偉大な聖霊の働きがあったと思わずにはおられません。この私たちの礼拝堂がこれほど大きく変わったのは、みなさんの祈りや献身、そして何よりも唯一兄や美濃部姉妹の上に働いてくださった聖霊の働きのおかげなのだと、あらためてこのペンテコステ礼拝の日にみなさんと確認し、また感謝したいという思いから、今日はメッセージをさせていただきました。この素晴らしい礼拝堂を活かして、これからもますます地域の方々ために主の業をなしていきたいと願うものです。お祈りします。

御霊なる神様、そのお名前を讃美します。このペンテコステの佳き日に、新しいステンドグラスを祝う幸いに感謝いたします。これからもますます当教会が、主の御心を行うことができるように、私たちにも続けて聖霊が働いてくださいますように。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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サウルの凶行第一サムエル22章1~23節 https://domei-nakahara.com/2024/05/12/%e3%82%b5%e3%82%a6%e3%83%ab%e3%81%ae%e5%87%b6%e8%a1%8c%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%82%b5%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%83%ab22%e7%ab%a01%ef%bd%9e23%e7%af%80/ Sun, 12 May 2024 04:44:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5598 "サウルの凶行
第一サムエル22章1~23節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。サムエル記からの説教は今日で24回目になります。第二コリント書簡からの講解説教がちょうど24回ですからそれに並んだわけですが、サムエル記の説教はまだまだ続きます。しかし、今日の箇所はこれまでのサムエル記の中でも後味が悪いといいますか、いったい神様はこの箇所を通じて何を私たちに教えようとしておられるのか、よく分からないと思われるかもしれません。

今日の聖書箇所のポイントは何なのか。明らかなのは、サウルが狂った暴君としてふるまっているということです。ここまでサウルは堕ちてしまったのかと、戦慄すら覚えます。しかし、それだけが今日の箇所のポイントではありません。もっと深いテーマがあります。それは私たちにはあまりうれしくない、人気のないテーマですが、そのテーマとは神の裁きの厳しさです。サムエル記にはいくつか重要なテーマがありますが、その一つが実は神の裁きなのです。私たちは神の愛や憐みというテーマは好きですが、神の裁きというテーマは無意識に避けたいと思ってしまいます。しかし、このような厳しい面にも目を向けないといけないと思うのです。

では、まず分かりやすいテーマからお話ししますと、それは狂えるサウル王です。みなさんもお気づきだと思いますが、私はこれまでの説教で、極力サウル王のことを単なる悪役として描かないように気を付けてきました。むしろサウルの立場に立って、なぜサウルがあの時あのような行動したのか、ある意味で同情的とさえ言えるような視点からお話ししてきました。サウルも神から選ばれた王であり、すべての場面でサウルだけが悪いとは言えないという思いがあったからです。しかし、今日の場面に限ってはどのように見てもサウルを擁護するのは難しいです。今日の場面のサウルは狂った暴君、まるで悪霊に取りつかれた人物であるかのようです。そしてサウルの行ったことは、彼の治世における最大の汚点とも呼ぶべきものです。今回のサウルの心理状態は最悪の状態になっています。しかも悪いことに、彼は最高権力者、絶対権力者と言えるほどに強い力と権限を有していたのです。

このように、今回はサウル王の最悪の凶行を見ていくわけですが、サウルの行動には実は彼自身も気が付いていないような意味がありました。それは、サウルは神の預言、神の裁きの預言を図らずも実行してしまったという面なのです。今回の箇所では祭司のアヒメレクやその一族は、サウルの八つ当たりによって命を落とす、哀れな無実の被害者のように見えるかもしれません。それは一面では真実なのですが、しかしそれだけでもありません。なぜなら彼らは祭司エリの子孫だからです。彼らは先祖の罪のために裁きを受けてしまったとも言えるのです。

サムエル記の前半で学びましたが、祭司エリとその一門は大祭司の家系で、当時のイスラエルの聖所であるエリで祭司職を営んでいました。しかし、祭司エリの二人の息子は、神への献げものを盗んで自分で食べてしまったり、幕屋に女性を連れ込んでふしだらなことをしたりと、やりたい放題で、父であるエリもそのことに心を痛めてはいましたが、あまり息子たちに強くは言えずに彼らを長いこと放置していました。そのために、神の人がエリのところに遣わされ、エリは非常に厳しいさばきの宣告を受けました。少し長いですがお読みします。サムエル記2章30節から33節までです。

それゆえ、—イスラエルの神、主の御告げだ―あなたの家と、あなたの父の家とは、永遠にわたしの前を歩む、と確かに言ったが、今や、—主の御告げだ―絶対にそんなことはない。わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげずむ者は軽んじられる。見よ。わたしがあなたの腕と、あなたの父の家の腕とを切り落とし、あなたの家には年寄りがいなくなる日が近づいている。イスラエルはしあわせにされるのに、あなたはわたしの住む所で敵を見るようになろう。あなたの家には、いつまでも、年寄りがいなくなる。わたしは、ひとりの人をあなたのために、わたしの祭壇から断ち切らない。その人はあなたの目を衰えさせ、あなたの心をやつれさせよう。あなたの家の多くの者はみな、壮年のうちに死ななければならない。

という、非常に厳しいさばきの預言が下されました。この預言は部分的にはもうすでに実現していました。というのも、エリの二人の息子ホフニとピネハスはペリシテ人との戦争で戦死しているからです。しかし、エリ一門は生き残り、細々とですがシロから移転してノブで祭司職を続けていました。その生き残りにもさらに裁きが下される、今回のサウルの凶行にはそういう側面もあったのです。これは私たちにはなかなか受け入れがたいことかもしれません。アヒメレクが罪を犯した訳でもないのに、どうして先祖の罪の罰を受けなくてはいけないのかと。実際、預言者エゼキエルはそんな必要はないと宣言します。エゼキエル書18章20節にはこうあります。「罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負いめがない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。」しかし、聖書には別の見方もあります。出エジプト記には「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし」(20:5)とあります。アヒメレクはエリから数えて四代目ですし、エリの二人の息子から数えれば三代目ですから、先祖の咎を負うことになってしまうのです。こう聞くと、なんというか、神の裁きはしつこいのではないか、と不謹慎ながら感じるかもしれません。もうエリの子孫たちは今や大した権力も持っていないし、今回の祭司アヒメレクも悪い人ではないのに、先祖のエリに対する神の徹底したさばきの実現のためにこんな目に遭うのは理不尽ではないか、と思われるかもしれません。しかし、恐ろしいことですが、神の裁きとは往々にしてこのように徹底的であるというのも事実なのです。エリとその息子たちには何度も悔い改めの機会が与えられ、神は彼らの事を辛抱強く忍耐しておられました。しかし、この猶予期間を無駄にしてしまったエリの一門に降ったさばきはもう憐みのない、非常に厳しいものになったのです。しかもその裁きは持続するものなのです。

この神のさばきの原則は、その後のイスラエルの歴史の中でも、教会の歴史においても繰り返されます。神は憐み深い方ですし、人が悔い改めるのを非常に長い期間待ってくださいますが、裁きがひとたび決定されると、それは徹底的なものとなるということです。そのような恐れの気持ちを持ちながら、今日のみことばを読んで参りたいと思います。

2.本論

さて、22章の1節から5節までは、サウルではなく逃亡中のダビデについての記述があります。前回は、ダビデが逃避行を始めた直後の、ダビデにとっては一番辛い時期、きつい時期を見て参りました。ダビデは命が危うくなり、恥も外聞も捨てて狂人のふりを演じることまでしました。しかし、そこがダビデにとってのどん底だったようで、段々と彼の運気が上がっていきます。ダビデはペリシテ人の地を離れ、自らの出身部族のユダ部族のテリトリーにあるアドラムというところに身を隠します。そこには洞窟があり、隠れるにはうってつけの場所でした。そのダビデをまず初めに尋ねて来たのは、彼の家族の人たちでした。家族の人たちもダビデが無実の罪で追われていることを知って、サウル王を敵に回してもダビデを支援することを決めたのでしょう。あるいは、ダビデの一門ということですでにサウル王から狙われていたのかもしれません。ともかくも、家族が救援に来てくれたことはダビデにとって何よりも心強いことだったでしょう。

それだけではありません。サウル王の現体制に不満を持っている人たち、「困窮している者、負債のある者、不満のある者」、こういった人たちが続々と集まってきました。サウル王はもともと平民の出身で、自分の地盤と言えるものを持たない王でした。ですから王制を確立していくために、信頼できる一族郎党や知人・友人などで脇を固め、側近にしていったのでしょう。特に自分の出身部族であるベニヤミン族を重んじました。しかし、こうした新しい体制にうまく入ることのできなかった人、順応できなかった人たちの中にも実力のある人たちがいました。日本の明治維新でも、薩長の出身者ばかりが幅を利かせ、徳川幕府に近かった武士たちは冷や飯食いだったわけですが、サウル王朝の場合にも冷や飯食いに甘んじていた人たちがいたのです。彼らはダビデこそ次の王になるかもしれないと期待し、失う者は何もない持たない者の強みから、放浪の旅をしているダビデを旗頭にして一旗揚げようと集まってきたのです。こういう人たちを引き付けるほど、ダビデの名声は既にイスラエル民族の中で十分に高まっていたのです。そうした人たちを糾合し、ダビデの仲間はなんと400人にも膨れ上がっていきます。ダビデもようやく手勢と呼べるような人たちを従えるようになったのです。

その次にダビデが取った行動は、外国勢力と手を結ぶことでした。ユダ部族のテリトリーと死海を挟んで反対側に位置していたのがモアブの国で、イスラエルとモアブは歴史的には仲があまりよくなかったのですが、ダビデの父エッサイとモアブには縁がありました。それはあのルツ記の主人公、ルツがモアブ人だったからです。ルツはイスラエル人の夫と死別した後も姑のナオミに仕えた孝行娘でしたが、ナオミの夫となるボアズはエッサイのおじいさん、ダビデにとってはひいおじいさん(曾祖父)でした。そういった血縁関係があったことから、ダビデはモアブの王を頼ることにして、サウルから狙われかねない両親をモアブの領内に匿ってもらうことにしました。ダビデは先にもペリシテ人を頼ろうとしたり、敵対関係にあるモアブ人と良好な関係を築いたりと、なかなか大胆なことをします。しかも、後に王になったダビデはモア人と戦い、属国にしています。こういうところからも、ダビデにはしたたかさというか、食えない面があったことがわかります。

さて、このように着々と再起のための準備を進めるダビデのところには、出世を求める人たちだけでなく、預言者もやってきました。ガドという預言者が新たにダビデの下に加わりました。彼はダビデに、国境近くにあった辺境のアドラムの洞窟を出て、ユダ部族のテリトリーの中心に移るようにと勧めます。ハレテの森というところです。これはサウルに見つけられやすいというリスクのある行動でしたが、同時に仲間を集めやすいという利点もありました。ダビデは預言者の声に従ってリスクを取ったのです。

こうしたダビデの行動は、サウル王の知るところとなりました。ダビデが着々と仲間を集めていることに危機感を募らせたサウルは、自らの部族であるベニヤミン族の家来を招集しました。サウルは彼らに不満をぶつけます。サウルは彼らを裏切り者、自分に謀反を企てる者たちだとさえ非難します。これはもちろん誇張なのですが、彼らが自分の息子ヨナタンに気兼ねして、ヨナタンが色々とダビデを助けていたことを自分に報告せずに黙認していたことを責めたのです。ヨナタンは勇敢な武人でしたから、サウルの家来たちの間でも人気があったのでしょう。しかも次期国王になる人ですから、サウルの部下たちもヨナタンを諫めるということができなかったものと思われます。しかしサウルは彼らのこうした行動を自分への重大な裏切りだと見なします。彼らは、ヨナタンが助けたダビデはユダ族の人間だということを強調します。そのダビデが王になってしまえば、彼はきっと自分の出身部族であるユダ族の人々を重用する、そうなれば割を食うのはベニヤミン族のお前たちなのだぞ、とサウルは指摘します。このサウルの言葉からも、イスラエルの十二部族の間には相当なライバル関係があったことが分かります。特にサウルが登場する前は、ベニヤミン族はイスラエルの最弱部族でしたから、万が一サウル王家が倒れてしまえば、ベニヤミン族は再び惨めな境遇に戻ってしまうぞ、それでいいのか?とサウルは問いかけているのです。

そのサウルの呼びかけに応えたのは意外な人物でした。それは身内のベニヤミン族の者ではなく、外様のエドム人でした。エドム人とは、あのイエスの命を狙ったヘロデ王の一族です。先週、ダビデがパンを得ようとして祭司アヒメレクを訪ねたことをお話ししましたが、アヒメレクの傍らにはサウル王の部下でエドム人のドエグがいました。そのドエグが、アヒメレクの行動をサウルに報告したのです。ドエグは、サウルに忠誠心を示したかったのでしょう。ただ、ドエグは何か虚偽の報告をしたわけではなく、事実を伝えただけでした。しかし、サウルはその報告にすぐに飛びつき、アヒメレクを一族郎党共々王都に呼びつけました。アヒメレクの父アヒトブは、祭司エリの孫ですから、サウルが呼び寄せたのはエリ一門の生き残りということになります。サウルはアヒメレクを問いただし、なぜダビデと共謀して自分に謀反を企むのかと問います。しかし、前回もお話ししたように、アヒメレクがダビデを助けたときに、アヒメレクはダビデとサウルが敵対関係にあるとはつゆ知らず、ダビデはサウルの密命を遂行しているものと思い彼を助けたのです。しかも、ダビデはこれまでサウル王に逆らって何かを企てたことなど一切ありませんでした。むしろサウル王のために命がけで戦っていたのです。そのことはアヒメレクも他の人たちもよく知っていることでした。ですからアヒメレクは、ダビデを助けたことについては何も後ろ暗いことはありませんでした。ただ、アヒメレクがまずかったのは、そのことをあまりにもストレートにサウル王に訴えてしまったことでしょう。ダビデは忠実なあなたの部下ではないか、その彼を助けて、いったい何が悪いと言うのですか、と。もちろんアヒメレクの言っていることは正論なのですが、サウル王は、ヨナタンの時もそうでしたが、正論を言われるとかえって逆上してしまうのです。それは、サウル自身も内心ではダビデの命を狙うことがどれほど理不尽なことなのかをよく分かっていたからでしょう。痛いところを突かれると、人は逆上してしまいものです。この時のサウルはまさにそれでした。そしてサウルはとんでもない命令を出します。なんと、大祭司の一族であるエリ一門の生き残り、その一族郎党皆殺しの命令を出したのです。これはとんでもない命令です。アヒメレクがダビデを助けたのは事実だとしても、その時点ではイスラエル人の間にダビデを助けてはならないという王の命令は出されていませんでした。ですから、いくらサウルの気に入らない行動であっても、アヒメレクの行動には何の問題もなかったのです。王といえども無実の人を殺すことはできません。それなのに、そのアヒメレク本人のみならず、その一族すべてを殺せというのですから、正気の沙汰ではありません。しかもアヒメレク一族はイスラエルでも最も高貴な一族の一つ、祭司の一族なのです。ですから、いくら王命といえども、サウルの家来たちもこの命令を実行するのを躊躇しました。誰もアヒメレクたちを殺そうとはしなかったのです。みな、サウルの精神状態がおかしくなっていることに気が付いていたのです。

ところがその命令を躊躇なく実行する人物がいました。外国の傭兵であるドエグです。彼は外国人だったので、イスラエルの祭司たちを神聖視することがなかったのかもしれません。また、これをチャンスとして捉えてサウル王に目をかけてもらおうという打算もあったのでしょう。彼は武器も持たずに無抵抗で怯える祭司たちに切りかかり、次々と殺していきます。なんと、祭司を85人も手にかけてしまいました。ぞっとするような行動です。しかもドエグはそこで止まりませんでした。王都から祭司の町ノブにまで出かけて行き、アヒメレクの一族の生き残り、男も女も、子どもや乳飲み子までも皆殺しにしました。さらには家畜の牛やロバや羊さえも打ち殺しました。かつてサウル王は、預言者サムエルから命じられてアマレク人を聖絶、つまり乳飲み子や家畜までも皆殺しにしろと命じられて、その命令を中途半端にしか実行しませんでしたが、今度はなんとイスラエルの祭司一族を聖絶、つまり皆殺しにしたのです。なんという因果なめぐりあわせでしょうか。サウルはこのとんでもない暴挙によって、永遠に汚名を残すことになります。

しかし、その大虐殺の中でも、一人だけ生き残りがいました。このたった一人だけ助かると言うのは、まさに神の人が祭司エリに予告した通りです。先ほどお話ししたように、神の人はエリに「わたしは、ひとりの人をあなたのために、わたしの祭壇から断ち切らない」と預言したのです。ですから、このサウルの凶行、祭司一族の皆殺しという蛮行でさえ、神のご計画の中にあったことがわかります。神はサウルのあずかり知らぬところで、彼をご自身の裁きの器として用いておられたのです。この、たった一人生き残った祭司の名はエブヤタルでした。彼はエリ一族の「残りの者」、レムナントとなったのです。彼はダビデに匿われて、生き残ることができました。こうして神の言葉はすべて成就していくことになります。

ちなみにこのエブヤタルがどうなるかといえば、彼は後にダビデの後継者争いでソロモンと対立し、失脚します。聖書は、この失脚も神の言葉の成就だとしています。第一列王記2章27節にこう書かれています。

こうして、ソロモンはエブヤタルを主の祭司の職から罷免した。シロでエリの家族について語られた主のことばはこうして成就した。

このエブヤタルは、アナトテという辺境の地にいわば島流しのようになります。しかし、そのアナトテからあの大預言者エレミヤが生まれるのです。ですからエリの一族は厳しいさばきを受けましたが、神の恵みから完全に除外されてしまうわけではなかったのです。むしろ、残れるものの中からイスラエルを救う者が現れるのです。

3.結論

まとめになります。今日はダビデがどん底から這い上がって行く一方、サウルはまさに底なしの状態に堕ちていく場面を学びました。サウルはダビデが着々と地歩を固めていくのを知って、正気を失い、王の権利を乱用して無実の人々をいわば八つ当たりで殺すということをしてしまいました。王制の最も悪い面、つまり王自身が法を無視してやりたい放題の行動をするという最悪の事態が起こってしまったのです。この事件で民の心はサウル王から離れて行ったことは間違いありません。今後人々がサウルに従うのは彼を慕っているからではなく、単に恐れからいやいや従っていくことになります。イスラエルに導入された王制は、早くも最悪の状態に陥っていくのです。

しかも、神はこの狂ったようなサウルさえ用いて、裁きに関するみことばを成就していきます。この神の裁きの厳格さやしつこさは戦慄を覚えるほどです。私たちは、神は愛であることを知っています。実際、神は憐み深く、人間の弱さをご存じです。しかし同時に忘れてはならないのは、神は侮られるようなお方ではないということです。神の言葉は無駄に発せられることはありません。その言葉には重みがあるのです。エリの一族のように、神から大きな恵みを受けていながら、その務めを冒涜し、しかも悔い改めを拒み続けると、その結果はまさに恐るべきものです。私たちはこのことを教訓にすべきです。ヘブル人の手紙の著者もこう語っています。

語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。(ヘブル12:25)

このように、神の裁きは恐るべきものなのです。今日はあまり聞きたくない、厳しいメッセージになってしまいましたが、聖書を読み続ければこういう箇所にも行き当たります。そして、そうした警告をしっかり心に留めておくことは私たちの益になるということも強調しておきたいと思います。主を恐れる心を忘れずに、これからも歩んで参りましょう。お祈りします。

エリ、サウル、ダビデを導き、裁かれ、癒された神、そのお名前を讃美します。今日はサウルの凶行を通してさえ、神の厳粛な裁きが下されることを見て参りました。私たちが神を正しく恐れて歩む者であることができるよう、助け導いてください。われらの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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ダビデの逃避行第一サムエル21章1~15節 https://domei-nakahara.com/2024/05/05/%e3%83%80%e3%83%93%e3%83%87%e3%81%ae%e9%80%83%e9%81%bf%e8%a1%8c%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%82%b5%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%83%ab21%e7%ab%a01%ef%bd%9e15%e7%af%80/ Sun, 05 May 2024 04:31:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=5582 "ダビデの逃避行
第一サムエル21章1~15節" の
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*本日の説教には録音がありません。

1.序論

みなさま、おはようございます。ゴールデンウィークが明けて、慌ただしい日常が戻ってきますが、そのようなときにこそ主のみことばにゆっくり耳を傾けて参りたいと思います。前回の説教で、これからダビデは旅に出るという話をしました。もちろん、ダビデは望んで旅に出るわけでなく、サウル王から命を狙われて、いわば強いられてあてどのない旅に出るわけです。

しかし、自ら望まないものとはいえ、旅に出ることはダビデには必要なことでした。ダビデに限らず、英雄と呼ばれるような立派な人物へと成長していく人には、旅は成長のために必ず通らなければならない神が与えた試練だと言えます。人は旅の中で大きく成長し、英雄としての資質を開花させるからです。まさに「可愛い子には旅をさせよ」なのです。旧約聖書の中でも、イスラエル民族の礎を築いた族長ヤコブや、出エジプトを成功させたモーセは、望まぬ旅へと向かいました。しかし、自ら望まない旅という意味では、ヤコブの子であるヨセフほど、不本意な旅立ちをした人物はいないでしょう。ヨセフは、父親からえこひいきと言ってよいほどかわいがられていることを兄たちに嫉妬され、その兄たちに半殺しにされた上にエジプトに売り飛ばされてしまったのです。ですから旅立ちとは程遠い、悲惨な状態でエジプトに行かされ、見知らぬ地で奴隷としての生活をスタートさせます。ゼロからのスタートどころか、マイナスからのスタートです。

しかし、このように奈落の底に一度突き落とされるというのはヒーロー物語の鉄板パターンとも言えるものです。ダビデも、旅の初めにどん底を経験します。これからダビデは長い旅の中で多くの仲間を得て、様々な経験を経て人間的にも大きく成長し、旅の報酬ともいえるような果実や成果を得ていくわけですが、最初からそのような希望の持てる旅であったわけではなく、それどころか失意のどん底のような旅の始まりだったのです。今日の聖書箇所には二つのエピソードが収録されています。まったく性質の異なる二つのエピソードですが、ダビデが如何に死に物狂いの逃避行をしていたのかをうかがわせる話になっています。では、今日のテクストを詳しく見て参りましょう。

2.本論

さて、ヨナタンの手引きでサウルの元から逃げたダビデは、たった一人で逃亡の旅を始めることになりました。サウルはこれまでは、密かにダビデを殺そうとしていたので、イスラエル全土にダビデを指名手配はしていなかったのですが、事態がここに至ればそうなるのも時間の問題です。ダビデはなるべく早く、サウルの手の届かない所に逃げ延びなければなりません。ただし、着の身着のままで大急ぎで逃げ延びてきたので、逃亡中の食事の準備もなにもしていませんでした。必死で逃げて来たものの、気が付けば腹ペコです。何か食べるものを確保しなければ、ということが真っ先に頭に浮かびました。そこで、王都ギブアからあまり遠くないところで、食事にありつけそうなところを考えて、祭司の町ノブに行くことに決めました。祭司の町といえば、私たちは神殿のあるエルサレムをまず思い浮かべるかもしれませんが、エルサレムはダビデが王になった後に王都に定められた場所であり、まだそのころはイスラエルの首都ではありませんでした。エルサレムが首都として定められる前は、祭司がイスラエルの宗教行事を司っていたのはシロという町でした。サムエル記の最初の方に登場した祭司エリがいたところで、契約の箱はそこに安置されていて、預言者サムエルも少年時代をそこで過ごしました。しかし、祭司エリの一族が神の前に甚だしい罪を犯してしまったために、神の裁きを受けて、聖地だったシロは廃墟となり、祭司エリの一族もその多くがペリシテ人によって殺されてしまいました。契約の箱は変転の末にキルヤテ・エリアムという小さな村に置かれることになりましたが、祭司制度そのものはエリの一族の生き残りが細々と支えていました。エリのひ孫にあたるアヒヤという祭司がサウル王に仕える祭司として働いていましたが、その兄弟のアヒメレクは廃墟となったシロに代わって祭司の町となったノブというところで祭司制度を守っていました。そのノブにダビデは行くことにしました。

さて、先ほども言いましたように、まだイスラエル全体にダビデを捕らえよという命令は出されていませんでした。しかし、王の晩餐でサウル王と王子のヨナタンがダビデの処遇を巡って口論になっていたことは噂になって流れていたのかもしれません。どうやらダビデとサウルの間はただならぬものになっているという憶測がアヒメレクのところにも伝わっていたのかもしれません。そのためか、ダビデが供の兵士も連れずに、たった一人で現れたことを不審に思いました。もしダビデがサウル王と険悪な仲になっていたとすれば、そのダビデをもてなしてしまうと後でサウル王に何を言われるかわからないと思ったのです。とはいえ、ダビデは日の出の勢いのイスラエルの若き将軍です。このダビデに失礼なことを言って怒らせてしまうのも具合が良くないとも考えました。そこで恐る恐る、ダビデが一人でやって来た理由を尋ねました。ダビデもそのような質問を受けることを予想していたのでしょう。あらかじめ、どのように返事をするのかを考えていたものと思われます。ダビデはアヒメレクに、自分はサウル王から密命を帯びてやってきたのだと説明します。この任務は誰にも知られてはいけないものであるため、今は誰も連れていないが、然るべき場所で若い兵士たちと落ち合うことになっている、と説明したのです。だから自分と供の兵士たちのための食糧を提供してほしいと願い出たのです。ダビデは数日分の食糧を必要としていたので、自分だけではなく他の若い者の分まで欲しいと、多めの食料提供を求めました。アヒメレクはこの説明に納得し、ダビデに食糧を提供することに合意しました。アヒメレクがダビデの嘘に気が付いていたのかどうかは分かりません。もしかすると、勧進帳の話のように、つまり兄頼朝から命を狙われて落ち延びていた源義経を助けようとして、供の弁慶の嘘を嘘と知りながらも信じたふりをして彼らを通してあげた関所の役人のように、アヒメレクもダビデを助けてあげたという可能性もあります。しかし、後の話を読む限りでは、アヒメレクは本気でダビデの話を信じていたようです。とはいえアヒメレクは本当に手持ちの余分な食糧の持ち合わせがなく、ダビデに与えられるものは聖別したパンだけでした。聖別したパンとは、神の祭壇の前にお供え用に置いておいたパンの事ですが、それを新しいパンに取り替える時には古いパンはおさがりとして祭司たちに与えられることになっていました。日本でも神棚に備えたお菓子や果物をおさがりとして食べる習慣がありますが、それと似たような習慣です。しかし、そのパンを食べでいいのは祭司だけであり、しかも儀式的に汚れた状態にある祭司はそのパンを食べることは許されませんでした。そういう、ただのパンではないお供え用のパンでしたので、むやみに一般の人に与えるわけにはいかないものでした。アヒメレクとしては、兵士たちが祭司ではないのには目をつぶるとしても、儀式的に汚れていないかどうかは確かめる必要がありました。イスラエルの宗教では、性交渉をすると儀式的に汚れるとされていたので、アヒメレクはダビデの供だとされる若者たちが女性を遠ざけているのかどうかを尋ねました。ダビデは、作り話ではありますが、自分たちは特別な任務を帯びているので、もちろん女性たちとは遠ざかっている、心配ないと請け負います。

その話を信じたアヒメレクは、ダビデに聖別のパンを与えることにしました。しかし気になることが一つありました。アヒメレクの傍らに、サウルのしもべがいたことです。彼はエドム人でドエグというつわものでした。ダビデは彼を見たときに嫌な予感がしましたが、後になってその予感は的中することになります。

さて、こうして首尾よく食糧をゲットしたダビデは気を良くしてさらに大胆な申し出をアヒメレクにします。ダビデにとって何よりも必要なものは食糧でしたが、彼は自分の身を守るための武器も必要としていました。そこで、祭司であるアヒメレクに武器の提供も求めたのです。サウルからの命令が急すぎたので、武器を取って来る暇もなかったのだと説明しました。これはいかにも見え透いた嘘のような気がしますが、アヒメレクはこのころにはダビデの事をすっかり信じてしまったようで、その依頼についても応諾しました。祭司の宮に武器などなさそうなものですが、先にゴリヤテとの戦いでダビデが勝利した時に、その勝利への感謝のしるしとして、戦利品であるゴリヤテの剣を神の宮に奉納していたのでした。その剣ならあります、そもそもその剣はあなたが勝ち取ったものですよと、アヒメレクはダビデに告げます。ゴリヤテと戦った頃、ダビデはまだ年端もゆかない少年でしたから、巨人ゴリヤテの扱う剣は扱いかねて、かえってダビデの方が剣に振り回されてしまう有様でしたが、成長して体も大きく強くなった今のダビデには、ゴリヤテの剣は手ごろに思えるものでした。まさかここでこれほどの逸品を手にすることができるとはダビデも思っていなかったので、ダビデにとってはうれしい誤算でした。

このように、首尾よく食糧と武器を手に入れたダビデが次に求めたのはサウルの手の届かない安全な隠れ家でした。そこでダビデは非常に大胆なことを思いつきます。サウルが最も手を出しにくい相手とは、つまりはイスラエルの宿敵で強大な軍事力を持つペリシテ人です。そのペリシテ人のところに逃げ込めば、サウルもうかつに手を出すことはできないだろう、とそのように考えたのです。そこでペリシテ人の五つの主要都市の一つ、ガテに向かうことにしました。彼は約50キロ、マラソンほどの距離のあるガテまでの旅を一人でこなしていきました。しかし、ダビデ自身もイスラエルの有名な将軍であり、これまで何度もペリシテ軍を痛い目に遭わせてきました。さらには、ガテとはあのゴリヤテの出身地なのです。ゴリヤテは地元の人々にとってはヒーローであり、ダビデはそのヒーローを殺した憎むべき敵なのです。そのような思いっきりアウェーな状況の都市に、ゴリヤテから戦利品として奪った剣を引っ提げて、そこで自分を匿ってもらおうとしているのです。このダビデのたくらみは、大胆不敵というよりも無謀なものとしか思えません。ダビデはガテの人々が自分の顔を知らないので、きっと傭兵として雇ってくれるだろうと、そんな気軽な気持ちでいたようです。しばらくそこで時間を稼いで、その間に他の安全な逃げ場を探そうと思ったのでしょう。しかし、それはあまりにも安易な考えでした。こんな判断をするところから考えても、ダビデにはまだいろんな意味で経験や知恵が足りていませんでした。若さに任せてこれまでは戦場では大活躍してきたダビデでしたが、まだ人の心の機微や駆け引きなどは十分に学んでいなかったのです。だからこそダビデは旅をして成長していく必要があったのですが、ここではその安易な行動のせいでいきなりピンチを招いてしまいます。

というのは、ガテの町にやってきたダビデをすぐに見つけて、彼の事をガテの王アキシュに通報する人がいたのです。アキシュの家来たちは、ダビデのことをイスラエルの王だと勘違いしていました。それほど戦場でのダビデの武勇の評判はペリシテ人の間で高かったのでしょう。また、『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った』などというはやり歌がイスラエル人の間で流行しているといううわさを聞いて、今やダビデがサウルに代わって王になったのだとペリシテ人たちが勘違いしたのかもしれません。サウル王はイスラエルの人々が自分ではなくダビデを王だと思うようになるのを恐れていたのですが、なんとその不安は敵であるペリシテ人の間で的中していたのです。アキシュの部下たちは、口々にこのダビデは危険な男だと声高に叫びます。それを聞いてダビデはびっくりしました。うまくペリシテ軍の中に紛れ込んで当座をしのごうとしていたダビデですが、それどころか命が危うくなってしまいました。ダビデは人々の話を聞いて「非常に恐れた」とあります。こういう展開になることは当然予想できそうなものですが、ダビデはまだ世間知らずというか、物事を安易に考えてしまうところがありました。このままでは命が危ないと思ったダビデは、追い込まれてとんでもない行動に出ます。アキシュの部下たちに捕らえられたダビデは、気が違った人物のふりをしたのです。暴れて周囲の物を傷つけたり、大声で意味の分からないことを言って騒いだり、そうかと思えばよだれを垂らしてにやにや笑ったりと、普通の人なら気持ちが悪くて近づこうとはしないような人物を装ったのです。敵とはいえ、戦場で勇名をはせて来たダビデとはどんな男かと興味津々だったアキシュ王も、この見るも無残な哀れな男がダビデとはとても信じられず、すっかり興ざめしてしまいました。気の触れた男など、ガテにはいくらでもいるではないか、と狂人を演じるダビデへの興味を失い、ダビデを立ち去らせるように命じました。こうしてダビデは難を逃れたのでした。

3.結論

まとめになります。今回はたった一人で放浪の旅へと旅立ったダビデの旅路の最初の出来事を読んで参りました。ダビデはこの旅を通じて大きく成長していくのですが、その出だしは順調というわけにはいかず、むしろ将来に悲観的にならざるを得ないような有様でした。ダビデは旅の最初に二つの場所を選びました。最初は祭司の町であるノブ、次いで敵地とも言えるペリシテ人の都市ガテでした。ノブ訪問ではダビデはぜひとも必要としていた二つの物、食糧と武器を首尾よく手に入れることができました。その意味でこの訪問は大成功と言えますが、しかし後に大きな禍根を残すことになりました。この件については次週に見て行くことになります。そしてもう一つの訪問地、ペリシテ人の都市ガテについては、これはいくらなんでも無謀な訪問でした。ダビデはペリシテ人から正体を見破られそうになると、狂人に扮して危うく危機を脱します。このことから見ても、ダビデの行動はかなり行き当たりばったりの、考えなしの行動だとさえ言えます。ダビデはこの時点では、まだまだ様々な面で未熟だったのです。

しかしそれは、逆に言えばダビデには大きな伸びしろがあったということです。成長する余地があったのです。だからこそ神はダビデを旅へと押し出したのです。ダビデはぎりぎりの局面で、どんな状況にも諦めない粘り強さを身に着けていきます。しかし、ダビデが身に付けていく様々な資質の中でも、一番大切なことは「神への信頼を学ぶ」ことでした。というのも、今のダビデには身を守ってくれるものは何もないのです。仲間もいない、お金もない、そして旅をサバイブしていくための経験や知恵さえ圧倒的に不足しています。これまでとんとん拍子で出世して、自分の実力や運に自信を持っていたダビデでしたが、そうした自信も木っ端みじんに打ち砕かれました。なにしろ敵の手から逃れるために狂人のふりさえしたのですから、恥や外聞でさえかなぐり捨てたわけです。ダビデはこの旅の初めで、自分には何もないということをいやというほど思い知らされたことでしょう。これまでの成功から得た自信は皆吹き飛ばされてしまったのです。こういう時に人は何に頼れるのか。もう神しかいないのです。「困った時の神頼み」というのは不信心な人だけではなく、敬虔な人物だと思われている人にさえ当てはまります。神を敬う敬虔な人物でさえも、普通の局面では自分の力だったり人脈だったりを当てにするものであり、神様だけに頼る、神様しか頼るものがない、というような気持ちにはならないものです。人は追い込まれないと、自分の無力さを痛感し、謙虚に神の前に助けを求めようという気持ちにはなれないのです。

ダビデについてもこのことは言えるのではないでしょうか。もちろん、ダビデはこれまでも神への真っすぐな信仰を持った素晴らしい青年でした。しかし、この旅を通じてダビデは一段高い、あるいはさらに深い信仰の境地に至っていきます。それは、絶望的な状況になり、自分のことはもう信じられないという深刻な経験をした人のみが到達できる境地なのです。新約聖書の時代では、使徒パウロがまさにそういう経験をしました。第二コリント書簡1章の8-9節をお読みします。

兄弟たちよ。私たちがアジアで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえ危うくなり、ほんとうに自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。

ダビデも、本当に死を覚悟するようなギリギリの場面、死の谷を歩む中で、究極的に神により頼むことを学んでいきます。王となっていくダビデは、サウロよりも神への全き信頼、全き服従という意味では優れた王となっていきます。ではサウロとダビデの何が違ったのか?それは、ダビデが苦難の旅を通じて、神にのみ信頼することを学んでいったからでした。このような経験がサウロには決定的に欠けていたのです。

このように考えると、人生で苦難に遭うこと、ぎりぎりまで追い込まれることは悪いことだとは単純には言えなくなります。そのような苦難に遭うことで人は成長し、特にクリスチャンはそういう経験を通じて謙虚さと、神への信頼を学ぶからです。ダビデもそうした経験を通じて本物の神の人へと変えられていきます。私たちも、もちろん苦難はないに越したことはありませんが、もし苦しみに会うことがあっても、それを前向きに捉えたい、それを信仰の糧としたい、そう願うものです。お祈りします。

ダビデを苦難の旅へと導き、その中でもダビデを守ってくださった神様、そのお名前を讃美します。そうした経験を通じてダビデが本物の信仰を獲得していったように、私たちをも成長させてください。われらの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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