礼拝メッセージ – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 調布 深大寺のプロテスタント教会 Sun, 04 May 2025 03:40:05 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.3.18 https://domei-nakahara.com/wp-content/uploads/2020/03/cropped-favicon-32x32.png 礼拝メッセージ – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 32 32 トロイの木馬第二サムエル17章1~29節 https://domei-nakahara.com/2025/05/04/%e3%83%88%e3%83%ad%e3%82%a4%e3%81%ae%e6%9c%a8%e9%a6%ac%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e3%82%b5%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%83%ab17%e7%ab%a01%ef%bd%9e29%e7%af%80/ Sun, 04 May 2025 03:38:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6383 "トロイの木馬
第二サムエル17章1~29節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。しばらくイースター関連で新約聖書からメッセージをして参りましたが、今日は久しぶりにサムエル記からのメッセージに戻ります。今日の説教タイトルは「トロイの木馬」ですが、これは古代ギリシアの故事から取られたことばで、敵にスパイを送り込んで内部から崩壊させるという話です。そして本日の聖書箇所は、まさにそのような内容になっています。

今日の世界では、戦争という現実が否が応でも私たちを取り囲んでいます。ウクライナ戦争は2022年の開始からもう三年が経過していますが、停戦はまだまだ難しいように思えます。また、ガザ紛争が始まって、早くも一年半になります。ガザの場合は、一応は停戦になっていますが、それはガラスのような脆さです。私たちは戦争そのものに反対する平和憲法の国の国民なのですが、しかしこうした世界の戦争の現実から逃れられている訳ではありません。それは、第二次世界大戦後の世界のほとんどの紛争に関与してきたアメリカ合衆国の同盟国という立場にあるからであり、アメリカはますます日本の軍事的貢献を期待しています。日本はこれまでのアメリカに守ってもらうという立場から、共に戦う同志になるようと期待されているのです。そして私たちがそれを拒否するのは大変難しいのです。なぜなら私たち日本は、食糧・エネルギー・防衛のあらゆる分野でアメリカに依存しており、アメリカに逆らっては毎日の生活すらおぼつかないからです。そのアメリカは明確に中国を仮想敵国としており、日本はその戦いの最前線に位置する国だとされています。そんなのとんでもないことだ、と多くの人は考えるでしょうが、それが現実なのです。戦後80年戦争とは無縁でやってきたこの日本が、これから80年間も平和な国でいられるかどうか、今がまさに運命の分かれ道、正念場だといえます。

聖書にも、至る所に戦争の記述があります。今日の箇所もまさにそういう記述です。不幸にも戦争が始まってしまった場合、人々はどのように行動するのか、特に信仰者はどう行動するべきなのか、ということを考えさせられる箇所です。聖書には、大きく分けて二種類の戦争があります。一つは「聖戦」、聖なる戦争というもので、神が命じる戦争、さらにいえば神ご自身が戦うという戦争です。神は平和の神ではないか、その神が自ら戦うなどということがあるのか、と思われるかもしれませんが、聖書には確かにそのような記述があります。その特徴は、戦いの主体は神であり、人間側の関与は少なければ少ないほどよい、ということです。普通戦争の場合、如何に相手よりも大きな戦力、兵隊を集めるのかということがポイントになり、兵士は多ければ多いほど良いのですが、聖戦の場合はそれは逆になり、兵士は少なければ少ないほど良いということになります。その典型が士師ギデオンの戦争です。ギデオンはミデヤン人との戦争に臨むときに、味方の兵士は三万人も集まったのですが、それでは多すぎるということで一万人にまで減らし、それでも多すぎるということで何と三百人にまで減らして戦ったのです。三万人が三百人ですから百分の一にしたわけで、普通に考えれば自殺行為ですが、しかしこれは信仰の表明、「神が私たちのために、私たちに代わって戦ってくださる」という信仰の表明なのです。

聖戦のこのような性格を考えた場合、サムエル記の中にもこれまで聖戦と呼べるような戦いがいくつかあったということが言えます。一つはサウル王の息子ヨナタンの戦いで、ヨナタンは圧倒的優位にあったペリシテ人に対してたった二人で奇襲をかけて成功し、ペリシテ軍を敗走させました。これは戦術の勝利というよりも、神は我らに勝利を下さるというヨナタンの強い信仰の勝利と言えるでしょう。そしてもう一つは、あの少年ダビデと巨人ゴリヤテとの戦いです。ボクシングで言えばヘビー級とフライ級のような圧倒的に不利な戦いに、少年ダビデは石礫だけを武器に戦いを挑みました。この時のダビデを支えたのも、神はイスラエルに勝利を下さるという強い信仰でした。そして神は、このように圧倒的に不利な状況にあるイスラエルに力を与え、勝利を賜ります。これが聖書のいう「聖戦」の姿です。

そのような観点から見れば、今回のアブシャロムとダビデとの内戦はとても聖戦とは呼べません。両軍とも、如何に大きな兵力を集めて相手を圧倒しようかという、普通の人間的な考え方で戦術を組み立てているからです。神がどちらかの側に立って戦われたというわけでもありません。たしかに、今日の14節には神がアヒトフェルの戦略を打ち壊そうとしたとありますので、神がダビデ側に加勢している印象を受けますが、しかしそもそもこのアブシャロムの乱そのものが、ダビデの罪に対する神の裁きだと考えられるので、神がダビデの側に立っているのかどうかは自明ではありません。サムエル記はダビデ王朝を擁護する立場から書かれているので、神がダビデ側に立っているという記述は多少割り引いて読む必要もあります。つまりは、アブシャロムとダビデの戦いは聖戦ではなく、人間同士の権謀術数を繰り広げた戦いだということです。その戦いのことを神はどのように見ておられたのか、神の御心はどこにあったのか、というのは判断が難しいところです。

今回の件に限らず、現代の戦争についても、「神はこちら側についておられる、正義は我々の側にある」というような主張は常に疑ってみる必要があります。本当にそう思うなら、ギデオンのように思いっきり軍備を削減して、ほとんど丸裸の状態で敵に挑めばよいのです。そのような覚悟、そのような信仰があるならばそれは「聖戦」と呼んでよいのでしょうが、そんなことをする国はどこにもありません。どの国も「もっと武器をよこせ。もっと強力な武器が必要だ」と叫んでいます。しかし、そんなことを言っているのはそれが聖戦ではない証拠なのです。したがって、神の戦いではない人間同士の戦いとして、今日のテクストを読み解いて参りましょう。

2.本論

さて、それでは1節です。ここではアブシャロムの軍師、神のごとき知恵があると謳われたアヒトフェルが登場します。前にもお話ししましたが、アヒトフェルはあのバテ・シェバのおじいさんです。つまり、ダビデとバテ・シェバの子のソロモンはアヒトフェルのひ孫になります。そしてアブシャロムはソロモンの腹違いの兄であり、王位を争うライバルです。普通に考えればソロモンが王位に就くのを助けるためにアブシャロムに敵対すべき立場です。では、なぜアブシャロムの参謀役などを買って出たのか?ここからは私の想像ですが、アヒトフェルは非常に正義感の強い人で、ダビデがバテ・シェバの夫、アヒトフェルからすれば義理の孫ですが、そのウリヤを謀殺しておきながら、何の罪にも咎められなかったことが許せなかったのでしょう。ですから彼は本気でダビデとその王朝を倒しに来ているのです。実際、彼は非常に優れた作戦を具申します。それは、ダビデ軍がまだ準備が整っていないうちに急襲し、ダビデ一人の首を取ろうというものでした。今回のアブシャロムの乱は入念に準備したものですので、最初の段階では成功しましたが、しかし人々の間のダビデへの人気や信頼は根強く、時間が経てばたつほどダビデに有利な状況に傾いていくだろうというのがアヒトフェルの読みでした。そしてその状況判断は正確だったのです。

このアヒトフェルの作戦計画は、一旦はアブシャロムやほかの長老たちに受け入れられました。しかし、ここでアブシャロムの未熟さが露呈してしまいました。リーダーたるもの、ひとたび戦略を決めたならそれをひたすら敢行すべきなのですが、若いアブシャロムには不安や迷いもあったのでしょう。アヒトフェルを信頼しきれず、本当にダビデに勝てるのかという不安に負けてしまい、セカンドオピニオンを求めてしまいます。アヒトフェルと並ぶ知者とされるフシャイの意見を聞こうとしたのです。そしてこのフシャイこそ、ダビデが送り込んだ「トロイの木馬」だったのです。戦争というものは、戦場だけで決着がつくものではありません。むしろ、戦場の外でこそ熾烈な戦いが繰り広げられているのです。この戦場の外での戦いではダビデは常にアブシャロムよりも上手で、今回もまさにそうでした。フシャイはダビデのために、アブシャロム陣営に毒を吹き込みます。それはダビデへの恐怖心です。フシャイは巧みに、かつてのダビデの勇士を人々に思い起こさせました。ダビデには、それこそ伝説ともいえるような武勇伝がいくつもあります。特に、サウル王の追及をかわしてついにはサウル王を出し抜いたゲリラ戦の名人としてのダビデの記憶はまだ人々の間には新しいものでした。そのダビデを、果たして我々は捕らえることができるだろうか、とフシャイは語るのです。実際には、このころにはダビデはすっかりふぬてけしまっていて、サウル王と渡り合った頃のような面影はないのですが、それでも人々のダビデに対するイメージは昔のままだったのです。フシャイはそれを巧みに利用して、より安全で確実だと思われる作戦を申し出ます。それは、蟻一匹逃さないような包囲陣を引いて、大軍団でダビデたちを押しつぶしてしまおうというものでした。確かに大軍で小さな相手を圧倒するというのは兵法における常道、正攻法です。しかし問題は、そんな大軍をアブシャロムが果たして集めることができるだろうか、ということなのです。アブシャロムは反乱軍であり、その正統性が今まさに問われているという、そのような状況です。そんなアブシャロムにイスラエルの人たちが無条件に従うでしょうか?いやむしろ、ダビデの方に味方するか、あるいは多くの人たちは決着がつくまで様子見をして、どちらにも肩入れしないようにするでしょう。そんな弱い立場にある以上、リスクを取ってでも敵の大将の首を狙いに行くというのがアブシャロムにとっては最善手でした。いや、そこにしか勝機はなかったのです。しかし、アブシャロムは自らの弱い立場も考えずに横綱相撲を取ろうとしました。ここで、アブシャロムの器が知れてしまいました。彼の敗北は実質的にここで決まったのです。さらにいえば、ここでアブシャロムという人物の信仰心も明らかになりました。もしこの戦いが本当に神の御心であるという確信に基づいて彼が行動していたのなら、圧倒的な武力で安全策によって敵に打ち勝とうなどとはしなかったでしょう。先ほどの「聖戦」の説明でもお話ししたように、神の戦いにおいてはむしろ圧倒的に不利な状況でこそ神の力が発揮されるのです。アブシャロムに主の御心を行うのだという強い信仰があるのなら、少ない手勢で戦う方を選んだことでしょう。しかし彼は目に見えない神よりも、現実的な力に頼ろうとしました。したがって、神も彼を助けようとはなさらなかったのです。

ここから後も、ダビデが巧妙に仕掛けておいた罠がことごとく成功していきます。ダビデはフシャイをトロイの木馬としてアブシャロムに送り込みましたが、ダビデが送ったトロイの木馬はこれだけではありませんでした。そのもう一つのトロイの木馬とは契約の箱であり、その箱を管理することのできる、大祭司になる資格のある二人の祭司ツァドクとエブヤタルでした。契約の箱は、日本で言えば三種の神器のようなものです。源平合戦もある意味では三種の神器をめぐる争いでした。なぜならそれを持つものは正統な日本の統治者であると見なされたからです。イスラエルの場合も、神とイスラエルの契約を象徴する契約の箱を持つ者こそが、イスラエルを代表する者とみなされます。アブシャロムからすれば、喉から手が出るほど欲しいものでした。これさえあれば、反逆者から卒業し、正統なイスラエルの王として認められることができるからです。その契約の箱を、祭司たちが持って来てくれました。まさに鴨が葱を背負って来るような状況です。これで、アブシャロムはコロッと騙されてしまいました。ダビデのスパイであるツァドクとエブヤタルをすっかり信用してしまったのです。そして彼らはフシャイと同じく獅子身中の虫としてアブシャロム陣営で動きます。アブシャロムがアヒトフェルの正しい献策を退け、フシャイの悪手を採用したことを、彼らの息子であるアヒマアツとヨナタンを伝令としてダビデに伝えようとしたのです。ダビデは、彼らからの情報を荒野で待つと言っていましたが、そのダビデに向けてこの二人は急いで最新情報を伝えようとしました。彼らはアブシャロムの手の者に見つかりかけましたが、ある女性が彼らを匿ってくれました。このことからも、アブシャロムへの支持は民衆の間では十分には広まっておらず、ダビデを応援している人たちが多かったことが分かります。この情報はダビデに伝わり、アブシャロム陣営の動きを知ったダビデたちは安全な地域に一旦退却します。そこで用意を整えてアブシャロムたちを迎え撃とうということです。こうして、アブシャロムは唯一の勝機を逃しました。また、自分の作戦が受け入れられなかったことを知ったアヒトフェルは静かに自害しました。彼には次に何が起きるか、もう見えていたのです。中国の歴史に項羽と劉邦という有名な二人の武将の話があり、特に「鴻門(こうもん)の会」という出来事があります。その際、項羽に劉邦を討つべきだと献策した范増(はんぞう)という軍師がいましたが、項羽はそれを退け項伯(こうはく)という人の案を受け入れて劉邦を生かしました。この劉邦が後に「漢」帝国を築いて項羽を滅ぼすことになります。范増はこの時大いに悔しがり、自分たちは必ず劉邦に滅ぼされるだろうと預言しましたが、アヒトフェルも同じ気持ちだったのでしょう。

3.結論

まとめになります。今日は、ダビデの「トロイの木馬」作戦が当たり、アブシャロムがダビデの送り込んだスパイによって翻弄され、誤った道を選択していく場面を見て参りました。アブシャロムも入念に準備をして反乱を起こしたのですが、政治家としての経験も実力も父ダビデがはるかに勝っていたことが露呈した事件でした。

今回の話では、アブシャロムという人物の本当の姿が明らかになったように思います。これまでの彼の行動は、勇敢で思慮深い人物という印象が強かったのですが、今回の件では政治的な未熟さのみならず、信仰的な弱さも浮き彫りになったと思われます。アブシャロムが反乱を起こしたのはなぜか?それは自分が王になりたいからという野心から出たものではなく、王として、また父としての責任を果たさないダビデに対して憤りを感じ、この人物にイスラエルは任せてはおけないという彼なりの正義感から出た思いも間違いなくあったでしょう。妹タマルのためになにもしてくれなかった父、自分の行動についてもいいとも悪いとも言わず、宙ぶらりんにして責任を果たさない父王、そのダビデに対する異議申し立てという思いがあったでしょう。そしてそれは主の御心に違いないという、彼なりの信仰の確信もあったものと思われます。しかし、彼はこの戦いを主の戦いとはしようとしなかったし、できませんでした。それを端的に表していたのが、アヒトフェルの作戦に対する彼の態度です。彼はその作戦のリスクが大きすぎると感じ、フシャイにも意見を求め、そのより安易な作戦に飛びつきました。神に信頼するよりも、人間的な安全策を選んでしまったのです。それが彼の墓穴となりました。もし彼が、本当に自分が主の御心を行っているという確信があるのならば、リスクはあっても、より戦死者が敵も味方も少なかったであろうアヒトフェルの作戦を採用すべきだったのです。

私たちも人生において様々な決断が求められるときがあります。その時、人間的にはリスクが大きいと思われても、より主の御心に適っていると思える道があるのならば、その道を選ぶ勇気を持ちたい、信仰を持ちたい、そのように思わされる今日のアブシャロムのエピソードでした。そのような信仰を持つことが出来るように、祈りましょう。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今日はダビデのトロイの木馬作戦が大成功した話を学びました。ここではアブシャロムの信仰の弱さが浮かび上がりました。しかし、相対するダビデの側にも老獪な知恵はあっても、若々しい信仰は失われてしまったのだろうか、という疑問も消えません。私たちもまた、人生において様々な難しい選択を迫られるものですが、そのような時に信仰に立って決断できるように、お助け下さい。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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キリストの模範第一ペテロ2章18~25節 https://domei-nakahara.com/2025/04/27/%e3%82%ad%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88%e3%81%ae%e6%a8%a1%e7%af%84%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%83%9a%e3%83%86%e3%83%ad2%e7%ab%a018%ef%bd%9e25%e7%af%80/ Sun, 27 Apr 2025 00:29:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6358 "キリストの模範
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1.序論

みなさま、おはようございます。私たちは毎週サムエル記を読み進めて参りましたが、月末だけは新約聖書からメッセージさせていただいております。今は第一ペテロを読み進めておりますので、今朝も第一ペテロから学んで参りましょう。

さて、今日のテーマはなかなか重たいものです。それは「理不尽な苦しみ」についてです。私たちの人生においては、自業自得、いわば身から出た錆というような苦しみがあります。人から憎まれたり、ひどいことをされてしまったとしても、自分が過去にその人にひどいことをしてしまった、悪い事をしてしまったという自覚があるならば、私たちはそういう苦しみを割と受け入れることができるのではないでしょうか。では、まったく身に覚えがない場合はどうなのでしょうか?仏教では「因果応報」という教えがあり、物事にはすべて原因がある。あなたの身に起きることはあなたの過去の行いの結果だ、たとえ身に覚えがないとしても、それはあなたが前世で行った悪行に対する報いなのだ、と教えられます。しかし、まったく記憶にない前世の報いだと言われてもなかなか納得できないのではないでしょうか。実際、身に覚えのないことで突然ひどい目に遭ってしまうという場合、私たちはそれを受け止めきれません。今日の悲惨な凶悪犯罪でしばしば耳にするのは「誰でも良かった」という言葉です。人生に深く絶望した人、社会に強い憤りを持った人がその怒りを外に向ける場合、特定の誰かではなく、社会そのものに復讐しようとします。そして、誰でもいいからそこにいる人を無差別に襲うのです。その時にたまたまそこに居合わせてしまったために、その人の怒りの対象になってしまった人、その人とは何の面識もないのにいきなり危害を加えられてしまう、そんな状況は考えただけでも恐ろしいですよね。しかし私たちの誰もが、そのような出来事とは無縁ではいられないのです。そんなことにならないように社会をよくすればいいではないか、と思う方もいるでしょうが、それができるものならもう実現しているでしょう。社会の悪というのは、個人の力では如何ともしがたいのです。

さて、このような突然襲って来る理不尽な苦しみにどう向き合うかという問題は、そうした苦しみとは無縁だと考えている人も平素から考えておくべき重要なテーマでしょう。というのも、そういった苦しみとは一生無関係だと言い切れる人などいないからです。自分に向けての理不尽な攻撃、これは文字通りの暴力のみならず言葉の暴力も含みますが、そうした攻撃に対してどうするべきなのでしょうか。クリスチャンの間ではしばしば「キリストを模範にしてどんな苦しみでも黙って受け止めなさい」というようなことが言われます。これは正論なので反論できないような重みがありますが、しかし場合によってはとても危険な勧めでもあります。たしかに、クエーカーやメノナイトのような非暴力主義のキリスト教のグループは、彼らの共同体に対して無差別殺人を犯した人たちでさえ即座に赦しを与えたというような話を聞きます。彼らは敵を愛しなさいというイエスの教えを文字通り実行しているのだと言います。それはクリスチャンを含めた多くの人々に衝撃を与えます。

しかし、なんでも赦せばいいのか、いや赦していいのか、というのはそれほど自明なことではもちろんないわけです。口にするのも憚られるようなおぞましい話ですが、カトリック教会で神父が小さな子供に性的な危害を与えてきたという事実がここ数十年に次々と明らかになっています。ドイツで8歳から16歳までの少なくとも23名の少年に性的な被害を加えた司祭がいました。しかし彼はその罪を問われることなく、他の教区で司祭になっていたことが明らかになりました。しかもそのような異動を認めたのが、先日亡くなられた教皇の前の教皇だったことが明らかになり、深刻な問題になりました。その後、世界中でこれに類する事件が報告されていますが、これらに対するカトリック教会の対応は驚くほど鈍く、むしろうやむやにしてしまおうというケースの方が多かったようです。いうまでもなく、ほとんどのカトリックの聖職者の方々は大変まじめで素晴らしい人格者です。犯罪者は目立ってしまいますが、他のまじめな人たちまで色眼鏡で見るべきではありません。しかし、こうした恐るべき罪を犯した司祭のことを、性被害にあった人たちに「赦す」ように勧めるというのは、なにかとんでもない誤りであるようにも思えます。そのために一生深い傷を負った人に、神の命令だからといって赦しを強要することは、ますますその人を傷つけることにもなりかねません。ですから、今日のテクストでは確かに理不尽な苦しみに耐え忍ぶべきことが教えられていますが、それはあらゆるケースに当てはまることではない、ということには十分注意する必要があります。キリスト教とはひたすら我慢しろ、泣き寝入りをしろ、という宗教ではないのです。むしろ、悪に対してはそれが自分に向けられるものであろうと他人に向けられるものであろうと、しっかりと向き合う、対決する必要があります。

今日のみことばで教えられているのは、「あらゆる不当な苦しみ」をひたすら耐え忍べということではなく、むしろ「神の前における良心のゆえに」、つまり福音のためにいわれのない苦しみを受ける場合に耐え忍べ、ということなのです。主イエスもこう言われました。

わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。(マタイ5:11-12)

私たちは理不尽な行動に対しては立ち向かう権利があるし、さらには責任があります。しかし、私たちクリスチャンが主イエスへの信仰、忠誠のゆえに受ける苦しみがあるとするなら、確かにそれは理不尽なものではありますが、耐え忍ばなければならない時があるのです。そのことを踏まえて今日のみことばを読んで参りましょう。

2.本論

では18節からです。「しもべたちよ」と呼びかけられていますが、このギリシア語原語は「オイケテイス」で、その意味は家隷(かれい)、家に隷属する奴隷ということです。ですからペテロは「奴隷たちよ」と呼びかけていることになります。問題は、奴隷というのは文字通りの奴隷という身分の人たちなのか、あるいは16節でペテロがクリスチャンのことを「神の奴隷」と呼んでいることから、ここでの家の奴隷とは神の家の奴隷であるクリスチャン全般のことなのか、ということです。つまりペテロは奴隷という特定の身分の人たちに向けて語っているのか、あるいはクリスチャン全体に向けて書いているのか、ということです。ここで注意したいのは、ペテロはしもべたちにキリストを模範にしなさいと述べていることです。そしてキリストを模範とすべきなのは奴隷だけでなく、あらゆるクリスチャンです。そこから考えると、ここでの「しもべ」とはクリスチャン全体を指すと考えるべきでしょう。実際、主イエスは足を洗うという奴隷の仕事を自ら行うことを通じて、弟子たちにも互いに奴隷として仕え合いなさいと命じています。先日学んだみことばですが、改めて読んでみましょう。ヨハネ福音書13章14節と15節です。

それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。

と、ここでははっきりと「模範」ということが語られています。私たちにとって主イエスとは信じ仰ぐ存在であるのみならず、その生き方に倣う、真似をする存在でもあるのです。そして私たちが見倣うべき主イエスの生き方とは、奴隷のように人に仕える生き方です。ですから今日の18節の「しもべ」と「主人」とは、単に身分制度社会の中での奴隷とその主人ということではなく、神の奴隷として召されている私たちが仕える社会の様々な立場の人々との関係と考えてもよいでしょう。サラリーマンなら部下と上司の関係もこれに当てはまります。

会社の上司というのは様々なタイプの人がいます。私もサラリーマンを15年間やり、しかも四つの日米の会社で働きましたから、ほんとうにいろいろな上司がいました。私は基本的には上司に恵まれてきたと思いますし、今でも心から感謝と尊敬の念を抱いている上司の方々も数多くおられますが、しかし中にはあまりにも昭和的といいますか、今の基準なら完全にパワハラだよな、というような思い出もあります。そういう経験も私の成長のためには必要だったと今なら思えますが、当時はそのように思えないような経験もしてきました。私自身も上司だったこともあり、若い人たちヘの態度が適切だったのか、もっと親身になって助けてあげるべきではなかったかと、恥ずかしくなるようなこともあります。ともかくも、人間というものは尊敬できる上司には喜んでお仕えできますが、そうでない場合はなかなかそうできない、ということもあります。ペテロも「善良で優しい主人」もいれば、「横暴な主人」もいると率直に語っています。しかし、そのような主人に対しても従いなさいとペテロは諭します。

そして19節と20節です。ここでも「主人」について語られていると思われますが、その主人はしもべが「善を行った」からといって打ち叩くというのです。しかし、そんなことがあるのでしょうか?ペテロは13節や14節では逆のことを言っているように見えます。主人と呼ばれるような人たちは「悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされる」のだと述べています。では、そのような秩序の維持者であるリーダーたちが、善を行ったからといって人を打ち叩くなどということがあり得るのでしょうか。もしそんなことをする指導者や主人がいるならば、身分が高い人だからといって遠慮するようなことはせずに、むしろ断固抗議していくべきなのではないでしょうか?

注意すべきなのは、ここで言われている「善を行う」というのは一般的な意味での善行のことではなく、福音を宣べ伝えたり、キリストのために働くことだということです。今日の先進国では、キリスト教を宣教したからといって非難されたり、暴力を振るわれることなどありませんよね。確かに時と場所をわきまえずに福音宣教をしたら嫌な顔をされるでしょうが、それでも信教の自由が保障されている日本においてはよほどのことがない限り妨げられることはありません。しかしペテロの手紙が書かれた時代のキリスト教はローマ帝国から公式に認められていた宗教ではなかったし、むしろ危険なカルト宗教として、時として非常に厳しい迫害を受けていました。「キリスト教徒は人肉を食べるカルトだ」というような、聖餐式を曲解されたとんでもないうわさが流れていたためです。そのような時代にイエスを宣べ伝えると、自分の上役や主人から厳しく罰せられることがあったのです。その主人が横暴な性格の持ち主であった場合、その処罰は極めて残忍なものにもなり得たでしょう。そのような理不尽な仕打ちを受けた場合の実質的な選択肢は、忍従しかなかったのです。下手に手向かえば、「キリスト教は危険だ、邪教だ」というようなさらに厳しい反応が返ってきたでしょう。

しかし、理不尽な仕打ちに黙って耐えるというのは大変なことです。酷いことをされても、ただ我慢しろ、などということは現代ではあり得ないことですよね。そんなことは、権利意識の強い今日の世間の常識ではあり得ないことです。けれども、キリスト教の黎明期のクリスチャンたちは時としてそのような過酷な状況に置かれていました。そして、ここで非常に強く強調したいのは、そのような理不尽な苦しみに遭ってきた人物の典型が、この手紙の書き手であるペテロ本人だということです。彼は苦しみの中にある読者を励ましていますが、彼自身がそのような苦しみを経験してきたのです。では、ペテロはどのようにしてその苦しい状況を乗り越えたのでしょうか?それは、彼の師であり主である生き方に倣うことでした。ペテロはここで、手紙の読者にイエスに倣うようにと語りかけていますが、それは自分自身が実践してきたことでもあったということを忘れてはなりません。キリストが苦しまれたのは私たちのため、とりわけ新しい契約を打ち立てて私たちをその契約に招き、私たちを神の子どもとして下さるためでした。そのような意味では、主イエスの受難とは唯一無二のものであり、私たちがまねをできるようなものではありません。私たちがどんなに苦しんでも、それで他の人を救うことはできません。このように主イエスの味わった苦しみは比類のないものですが、同時に主が苦しまれたのは私たちに模範を示すためだったともペテロは語ります。主イエスが苦難に遭った際に取られた態度、それはすべてのクリスチャンが模範とすべきものだということです。念のため繰り返しますが、私たちはどんなに理不尽な非難を浴びせられ、ひどい扱いを受けたとしても、それをただ我慢して受け入れなければならない、ということではありません。私たちは自分に対してであれ、他人に対してであれ、不当な扱いには抗議していく大切な義務があります。それぞれの人は神によって人間の尊厳を与えられているのであり、それを損なうような行為は許されないからです。しかし、それでも人間には、特にクリスチャンには、理不尽な扱いを黙って耐え忍ばなければならない時があるのです。そんなとき私たちが思い起こすべきなのは、主イエスもまったく不当な扱いを耐え忍ばれたということです。実際、私たちが主イエスに倣い、主イエスのように生きるならば、私たちもまた理不尽な扱いを受けるであろうことを主イエスも予告しています。その箇所、ヨハネ福音書15章20節をお読みします。

しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。

なんで私がこんな目に、なんて理不尽な、と感じる時には、主イエスもまさにそのような苦しみに遭われたことを思い起こすべきです。しかし、ペテロのようにイエスの苦難をつぶさに目撃した人物ならともかく、イエスを直接に知らない人はどうしたら良いのでしょうか?現代に生きる私たちには四つの福音書が与えられていますが、ペテロの手紙が書かれたころにはまだ福音書は書かれていませんでした。では、イエスを知らない当時の異邦人の信徒たちはどのように主イエスの苦難をイメージすればよかったのでしょうか?そのためにペテロが読者に提示したのがイザヤ書53章でした。イザヤ53章は主イエスの受難を予告した旧約聖書の箇所として大変有名で、「第五福音書」とまで呼ばれています。そのイザヤ書を引用することで、ペテロは手紙の受け手の信徒たちにキリストの受難の意味を深く考えるようにと促しているのです。ペテロの書いている、「その口には何の偽りもなく」や、「その打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされた」、「あなたがたは、羊のようにさまよいっていた」という下りはすべてイザヤ書53章からの引用です。みなさんも、この礼拝の後にぜひじっくりイザヤ書53章を読み返してみてください。そして、もし不当な苦しみに遭った時にはイザヤ書53章を通じてキリストの苦難を思い起こし、それを模範とも慰めともしてください。

3.結論

まとめになります。本日は、理不尽な苦しみに遭った際の心構えというものを、ペテロの言葉から学んで参りました。私たちは時として、意味の分からない不運や苦しみに巻き込まれることがあります。そうした際にどうすればよいのか、ということは人生におけるとても大きなテーマです。この説教で何度も申し上げたように、クリスチャンだからといって、何をされても我慢しなさいということではもちろんありません。今日の箇所でペテロが特に念頭に置いていたのは、福音を宣べ伝える、主イエスを信仰するがゆえに招いてしまった苦難です。これはクリスチャンにとっては全く不当な苦しみですが、しかし迫害する側の気持ちになって考えると、社会にとって有害な教えだから厳しく扱ってもよいのだ、ということになるのでしょう。ここには、キリスト教をどう考えるのかという点についての根本的な見解の相違があります。そんな時に、そうした迫害に対して強く反撃しようとすれば、「ああ、やっぱりキリスト教って危険な宗教なんだ」ということになりかねません。実際、かつての日本ではキリシタンが弾圧に耐えかねて島原の乱を起こしました。反乱を起こした信徒たちの気持ちは分かります。本当に必死だったのだと思います。それでも、この反乱の結果キリスト教はますます危険視されることになり、弾圧はもっと厳しくなってしまったのです。ですから、宗教的な理由での迫害については、表立って反撃をせずに黙って耐え忍ぶということが求められる場合がある、実際主イエスも使徒ペテロもそのような苦しみを通られたのだということを忘れないようにしたいものです。

幸いにも、今の日本ではそのような状況は考えられませんが、広く世界に目を向ければそうした苦難の中を歩んでいる兄弟姉妹たちがいます。私たちは彼らのために、祈り行動したいと願うものです。お祈りします。

苦難の中を歩まれ、私たちに模範を残されたイエス・キリストの父なる神、そのお名前を賛美します。私たちも主の御名のゆえに、不当な扱いを受けることがあるかもしれませんが、そのような時は主イエスの苦難を思い起こして、それをかえって良い証しの機会とすることができるように、私たちを助けてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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エマオの途上ルカ福音書24章13節~32節 https://domei-nakahara.com/2025/04/20/%e3%82%a8%e3%83%9e%e3%82%aa%e3%81%ae%e9%80%94%e4%b8%8a%e3%83%ab%e3%82%ab%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b824%e7%ab%a013%e7%af%80%ef%bd%9e32%e7%af%80/ Sun, 20 Apr 2025 04:49:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6336 "エマオの途上
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みなさま、イースターおめでとうございます。今日は主イエスが死者の中からよみがえられたことを祝う、キリスト教における最も大切な主日です。今朝は、ルカ福音書の復活後における大変有名な物語、「エマオの途上」についてお話しします。この話は大変有名なので、イースター説教で取り上げられることが多いのですが、私も二年前のイースターに取り上げています。私がこの教会にきて五年目で、同じ箇所から説教するというのは今回が初めてになりますが、二年前の説教とは違う視点からこの箇所を読み解いて参りたいと思います。

主イエスは復活された後、多くの弟子たちの前に現れますが、その際に非常に興味深い現象が起こっています。それはどんなことかといえば、復活したイエスに会った人々は、最初はその人物がイエスだとは気が付かなかった、ということです。その典型がまさにこのエマオの出来事なのですが、それはなぜなのか、ということは主イエスの復活の意味を考える上でたいへん意味深いことだと思われます。

相手の顔を見ても、相手のことが認識できないという状態は相貌失認(そうぼうしつにん)と呼ばれているそうで、認知機能障害の一つだとされています。このような方は結構な割合でおられて、100人に1人はそういう問題を抱えておられると言われています。かなり多いですよね。1億人で考えれば100万人ということになります。有名なアメリカ映画のスターであるブラッド・ピットさんも自分はそういう症状を持っていると自ら明らかにしています。けれども、復活したイエスに会って、最初にそれとは気が付かなった人たち、ヨハネ福音書によればマグダラのマリアや十二使徒のペテロたちのことですが、彼らはそのような認知機能の問題を抱えていたわけではありません。彼らは他の人を見てもそれが誰だか分からない、ということはなかったわけですから。彼らは復活のイエスのことだけが分からなかったのです。

今回のエマオの途上でイエスに会った二人の人物、クレオパと呼ばれる人ともう一人の弟子はエマオに向かう途上でイエスに出会います。その際、別にイエスは覆いで顔を隠しているわけはないのですが、二人は道すがらイエスとずっと話し込んでいてもそれがイエスだとは分からなかったのです。17節では「ふたりの目はさえぎられていた」となっていますが、原語のギリシア語を直訳しますと、「彼らの目はイエスを認識しないように留められていた」となります。彼らはイエスと熱心に話し込んでいましたから、イエスの声や話しぶりを聞いて、「あれ、なんだかイエス様と話しているみたいだ」と、たとえ容貌からイエスだとは分からなくても、直観的にイエスだと気がついてもよさそうなものですが、しかし道中では全然気が付かなかったのです。彼らは夕方になり、目的地の家に入りますが、その見知らぬ人の話に興味を引かれて、彼を引き留めて一緒に泊まってほしいと願い出ます。そして一緒に坐って食事までします。立ち歩きではなく、座った状態で相手の顔をまじまじと見れば、今度こそイエスだと気が付きそうなものですが、それでもその相手がイエス本人だとはまだ気が付かないのです。イエスがパンを裂いた時にようやくイエスだと気が付くのですが、その時にイエスは消えてしまったという何とも不思議な結末でこの話は終わります。  

では、いったいどうして彼らはこれほど長い間一緒にいたのにイエスだと気が付かなかったのでしょうか。可能性は二つあります。一つは、イエスの姿が復活前とはまるで別人のようになっていて、顔つきだけでなく、声や雰囲気も変わってしまっていたので、彼らが気が付かなかったというものです。もう一つは、イエスと出会った二人の側に何らかの認知機能を妨げる要素が働いていたのではないか、という可能性です。その二つについて考えてみましょう。

先ほども申しましたが、復活のイエスに出会っても、それとは気が付かなかったのはエマオの途上にいた二人の弟子たちだけではありませんでした。ここではルカ福音書だけでなく、他の福音書も見てみましょう。まず最古の福音書であるマルコ福音書ですが、この福音書はイエスの墓に行った女性たちが天使と思われる青年に出会って、恐ろしくなって逃げだすという唐突な終わり方をします。つまりマルコ福音書では復活のイエスの描写がないのです。次いでマタイ福音書ですが、そこではお墓に行った女性たちに復活したイエスが挨拶をしますが、女性たちはすぐにイエスだと気が付いています。それから、イスカリオテのユダを除く十一弟子たちはガリラヤに行ってイエスと出会いますが、彼らもすぐにイエスを認識したようです。ただし、「ある者たちは疑った」という意味深な記述があります。そしてルカ福音書です。ルカ福音書では、イエスの墓に向かった女たちが天使と思われる人物ふたりに会ったという記述はあるものの、彼女たちはその後にはイエスには会っていません。ですから、復活のイエスに最初に会ったのは、このエマオの途上にいる二人の弟子だということになります。この二人の弟子たちがイエスのことに気が付いて、そのことを十一弟子に話すと、彼らもシモン・ペテロが主に会ったということを話していました。その彼らの前にイエスが現れます。彼らはそれがイエスだと直ぐわかりましたが、しかしすぐには信じられずにイエスの霊を見ているのではないかと驚き怪しみます。しかし、イエスが食べ物を食べている様子を見て、本当にイエスが生きているのだ、からだを持って生きているのだということを信じるようになりました。

このように、マタイ・マルコ・ルカのいわゆる共観福音書では、イエスを見てもそうだとは気が付かなかったのはエマオに向かっていた二人の弟子だけでした。しかし、ヨハネ福音書では復活したイエスに会っても気が付かない人物が複数います。まずはマグダラのマリアです。彼女はイエスの墓が空になっていることにショックを受け、泣いていました。その彼女にイエスが声をかけますが、その記述はこうなっています。

彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることが分からなかった。

この場合、涙で目が曇っていてイエスだと気が付かなかった、という可能性がありますが、しかし声を聞けば気が付きそうなものです。しかし、その声を聞いても彼女はその人物がイエスだとは気が付かず、むしろ墓の管理人だと思っていました。その後にイエスが「マリア」と名前を呼ぶと、そこで初めてマリアはイエスだと気が付きます。マリアはそのことを他の十二弟子たちに伝え、その弟子たちの前にイエスが現れますが、彼らはそれがイエスだとすぐに分かります。ところが、ヨハネ福音書21章のエピソードによれば、その十二弟子の多くがガリラヤ湖の湖畔で再び復活のイエスに会うのですが、彼らの誰一人としてそれがイエスだとは気が付きませんでした。彼らはすでに復活の主と出会っているのですから分かりそうなものですが、にもかかわらずイエスだとは気が付かないのです。同時に、彼らはその人物が幽霊のような得体の知れない存在ではなく、普通の人だと見なしています。それから不思議な出来事が起きます。それは、かつてペテロが主イエスから召されたことを思い起こさせるような出来事で、夜通し漁をしても何も取れなかったのに、イエスの指示通りにすると夥しいほどの魚が釣れたという出来事です。その出来事がここで再現されました。ここに至ってやっと、弟子たちの内の一人、「主に愛されていた弟子」がこの人が主だと気付き、ペテロや他の弟子もここでようやく気が付きます。このように、復活のイエスと出会ったこれらの人々は、遅かれ早かれその人物がイエスだと気が付くのですから、復活したイエスの容貌が復活前のそれとは全然違っていた、まるで別人のような顔かたちになっていたということではなさそうです。もし姿かたちが全くの別人になってしまっていたのだとしたら、その人物が「私がイエスだ」と説明しないことには気が付くことはなかったでしょうが、そのような説明なしに彼らは復活の主のことが分かったのですから。

ですから、いくつかのケースで弟子たちがイエスの事を気が付かなかったのは、イエスの容貌が劇的に変わって、まるで別人のようになってしまったのではなく、むしろ弟子たちの側にイエスの認識を妨げる要因があったと考えた方がよさそうです。では、それはどういう要因なのでしょうか?そのことを考えてみましょう。

私たちが物事を認識しようとするとき、私たちの抱いている世界観がその認識を阻害する、邪魔するということがあります。私たちはある物事を目撃したとしても、それが自分の世界観と合わないと、それを受け入れられないのです。みなさんは超常現象というものを信じるでしょうか?そんなもの、信じられるわけがない、詐欺に決まっている、というのが大方の反応でしょうし、それは正しいと思います。世に超能力として喧伝されているもののほとんどは、金儲けのための詐欺話です。では、福音書に記された数多くの奇跡物語はどうでしょうか?それならば信じるけれど、それだけだ、聖書に書いていること以外の奇跡は信じない、というクリスチャンの方も多いと思います。なぜ聖書の話は信じるかといえば、それは「聖書は真実だ」という世界観を私たちが持っているからでしょう。逆に言えば、聖書の奇跡以外は決して信じない、という方が多いのではないでしょうか。

現代人の多くの方は、超常現象といいますか、奇跡的な出来事など決して起きない、信じないという方が多いと思います。それについて興味深い話があります。みなさんはフロイトという名前を聞いたことがあると思います。彼は心理学、特に深層心理学の創設者ともいえる人物で大変有名な人です。その弟子で、同じく大変有名な人物にユングという人物がいます。このフロイトとユングですが、二人は子弟だったのですが、後に決裂します。フロイトとユングの愛憎半ばする関係は有名で、それについてはいくつもの著作が書かれていますが、その決裂の原因について興味深い話があります。その話は、あまり学術書には取り上げられておらず、その理由もよく分かるのですが、それは超常現象に対するアプローチの違いでした。ユングはどうも特殊な能力の持ち主だったようで、若いころ誰もいない食卓の固いテーブルが轟音と共に大きく裂けたり、そのしばらく後に籠の中のナイフが粉々に砕けるという出来事がありました。そんなことがあるはずがない、誰かがそれを壊したのに違いない、と普通は考えるでしょうが、少なくともユングや家の人たちは、それらは自然に起きたと考えていました。しかし、堅いテーブルやナイフが自然に砕け散るなんてことがあり得るのでしょうか?ユング自身は、それは自らの精神的な力が引き起こしたと考えざるを得なかったのです。ユングという人は、滅茶苦茶頭の良い人ですが、しかし自分のそういう力を持て余していたようです。フロイトとユングはこのような現象についての考え方で決定的に意見が異なっており、いわゆる超常現象を信じざるを得なかったユングと、そんなことは決して受け入れないし、受け入れてはならないと考えるフロイトは対立していました。二人が決裂した最後の対談の時も、ユングの精神が高まってくると、バンというものすごい物音がしたのですが、ユングはそれは自分の精神が物理的なものに影響を及ぼしたのだと言いますが、フロイトは決してそんな話は信じずに、ユングが何かのトリックで自分を騙そうとしていると激高したといいます。こんな話は確かに学術的な本にはそぐわないので、このエピソードを紹介している本はあまりありませんが、どうもそのようないきさつがあったようなのです。

なぜ、聖書とは何の関係もないこのような話をしたのかといえば、私たちは目の前で起きる出来事を自らの世界観を通じて見るのだということを強調したかったからです。目の前で起きた不可思議な出来事を、フロイトは子供だましのトリックだと見なし、ユングは本物の出来事だと見なしました。フロイトにとって、そういう不思議な現象が起きるのだということを受け入れるということは、彼の世界に対する見方、世界観そのものを変えなければならないということを意味したのでしょう。世界には、そんな常識を超えたことが起り得るのだと。しかし、科学の法則に反するようなことは決して起こりえないという世界観を持つ人は、そんなことは絶対に受け入れないし、受け入れてはならないことなのです。

そして、イエスの復活を受け入れるということは、まさに私たちの世界観そのものをまったく新しいものに変えなければならないということを意味します。私は、ある弟子たちが復活のイエスを認識するのに相当な時間がかかったという話は、そのような世界観の変更を示しているのだと考えています。よみがえったイエスを認識するということは、ただ死んだ人がたまたま生き返ったということを信じるのに留まりません。むしろ、そんなことが決して起こりえない世界が、起こりうる世界に変わった、そしてそのような根本的な変化をもたらした方がいる、ということを受け入れることなのです。繰り返しますが、イエスが復活したということは、単に死んだ人が不思議なことに生き返ったといことではありません。そうではなく、この出来事は神が死を打ち破ったという事実を証明することなのです。この世界を支配する死は、もはや力を持たない、私たちの世界を支配する死はいずれ完全に打ち破られる、そのことを示しているのがイエスの復活なのです。ですからパウロはこう宣言します。

しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのみこまれた」としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」(第一コリント15:54-55)

イエスの復活を信じるということは、神が死の力を打ち破った、それゆえ私たちももはや死を恐れる必要はないことを信じることなのです。これが信仰です。キリスト教信仰を持つということは、自分が罪びとで、その罪がイエスの死によって赦されたということを信じるだけではありません。イエスの死の意味を深く理解するということはもちろん重要ですが、それだけでは十分ではないのです。イエスがよみがえったということは、脳死状態に陥った人が数日後に蘇生したというような話ではありません。そんな現象なら長い歴史の中で何度も起きています。イエスの復活のからだは、また時がたてば死んでしまう、そういう肉のからだではありませんでした。たしかに触れたり触ったりすることのできるものではあるものの、しかし私たちの朽ちる肉体とは根本的に異なる性質を持ったからだです。それがどんなものなのかを説明するのが難しいので、使徒パウロは第一コリント書15章で長大な説明を提供しています。それは物質的なのに決して朽ちることのない、まったく新しい性質のからだなのです。そうしたからだをもってイエスがよみがえったということは、いわば新しいビックバン、第二のビッグバンです。最初のビッグバンがどうして生じたのか、それは誰にも説明できませんが、ともかくもそれが起り私たちの世界が生じました。その世界は今でも膨張し、拡大しています。しかし、イエスの復活はそのビッグバンを上回る新しい創造の始まり、新しい世界の始まりなのです。正しい人の死がただの無駄死にでは終わらない、「あの人は立派な人だったけれど、残念な死に方をしたね」ということでは終わらない世界の始まりです。エマオの途上の弟子たちは、「イエスはすごい人だったけれど、結局世界を変えられなかった。彼は道半ばで死んでしまったので、これで夢は終わってしまったのだ」と考えていました。しかし、彼らが路上で出会った不思議な人物は、聖書を用いて彼らの世界観を揺さぶります。神はそんなに小さな方だろうか。あなたがたは世界を変えてしまう神の偉大な力を過小評価しているのではないか、と。彼の話に引き込まれた二人の弟子は、ついにその語っている人物がイエスご自身だということに気が付きます。そしてその時には彼らの世界観も一新されていたのです。

私たちも、このエマオの途上の二人の弟子のように、世界観という根本的なレベルで物事の見方を変えること、変えさせられることが求められています。イエスの復活によって、この世界は根本的に変わってしまったということを信じること、これがキリスト教信仰です。それなしには、いくらイエスが立派な人だと信じていても、あるいはいくら自分の罪深さを自覚したとしても、私たちの信仰は虚しいものです。神はこの壊れた世界そのものを贖おうとしておられる、その神の遠大なプロジェクトの初めの一歩がイエスの復活なのです。そのような信仰を胸に、これからも福音を宣べ伝えて参りましょう。お祈りします。

イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた神、そのお名前を賛美します。その大いなる力で私たちの死すべきからだをも生かしてください。復活の光の中を歩ませてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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足を洗うイエスヨハネ福音書13章1節~20節 https://domei-nakahara.com/2025/04/13/%e8%b6%b3%e3%82%92%e6%b4%97%e3%81%86%e3%82%a4%e3%82%a8%e3%82%b9%e3%83%a8%e3%83%8f%e3%83%8d%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b813%e7%ab%a01%e7%af%80%ef%bd%9e20%e7%af%80/ Sun, 13 Apr 2025 00:38:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6318 "足を洗うイエス
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みなさま、おはようございます。今日は、「棕櫚の主日」と呼ばれる日曜日です。それは、今から二千年前、主イエスが最後の一週間を過ごすためにエルサレムに入城されたことを覚え、記念する日です。人々は棕櫚の枝を振って「ホサナ、ホサナ」と叫びながらイエスを歓呼の声で迎え入れました。しかし、その数日後にイエスは逮捕され、十字架に架けられます。エルサレムでイエスが過ごした一週間の中で、それぞれの日に実際に何が起こったのかを正確に再現するのは容易ではありません。しかし、確かなことは、イエスが十字架に架かられる前夜、つまり木曜日の夜にイエスと弟子たちとの間で最後の晩餐が持たれたことです。今日はその時の出来事についてのお話です。

最後の晩餐については、マタイ・マルコ・ルカという、いわゆる共観福音書と呼ばれる三つの福音書と、ヨハネ福音書との記述の間には共通する点と、違いがあります。共通点は、主イエスが迫りくる自らの死をはっきりと自覚し、弟子たちとの告別の意味を込めてこの食事を取られたことです。もう一つの共通点は、この出来事の中でも非常に暗い側面ですが、イスカリオテのユダの裏切りがあったことです。このように、十字架前夜の切迫した状況が、四福音書に共通していることです。しかし同時に違いもあります。それは、この最後の晩餐に込めた主イエスの意味です。あるいは、福音書記者が最後の晩餐に与えた解釈の違いと言ってもよいかもしれません。

まず、マタイ・マルコ・ルカの三福音書のお話をしましょう。ここでの重要な出来事はなんといっても「聖餐式」の制定です。この聖餐式の制定は三つの福音書だけでなく、パウロのコリント人への手紙にも引用されている、初代教会の人々にとっては極めて重要な記憶でした。主イエスは、自らの死が近いことを知り、その死の意味をこの最後の晩餐の席で、聖餐式を制定することを通じて明らかにされたのです。では、イエスご自身が語られた、その死の意味とは何なのでしょうか?言い方を変えれば聖餐式とは何なのでしょうか?聖餐式の式文の言葉では、イエスはご自身の肉を私たちが食べるために与えるという、文字通りに考えれば衝撃的なことを語られていますよね。あるいは、ご自身の血を飲みなさいと命じています。これも、文字通りに受け止めれば理解を超えた話です。人の血を飲むというのは、聖書では絶対にしてはいけない冒涜的な行為だからです。しかし、このイエスの話は過越の食事に慣れ親しんでいたユダヤ人にとってはよく理解できるものでした。というのも、ユダヤ人たちは毎年出エジプトの出来事を祝う過越の食事において小羊の肉を食べ、またぶどう酒を飲んでいたからです。主イエスは象徴的な意味で、ご自身の血と肉とが、過越の食事において飲まれ、食べられるぶどう酒と肉に代わるものになると言われたのです。つまりイエスは、新しい過越の食事を制定されたのです。

では、そもそもの過越の食事とは何だったのでしょうか?それは約三千五百年前、モーセに率いられたイスラエルの民がエジプトから脱出を話したことを記念するものです。いわゆる「出エジプト」です。エジプトで奴隷だったイスラエルの民は晴れて自由の民となり、それだけでなく唯一の真の神にとっての宝となる契約の民となったのです。神とイスラエルとの間の契約は、モーセを仲保者としてシナイ山で結ばれました。ユダヤ人たちが毎年祝う過越の食事は、出エジプトという脱出劇のみならず、このシナイ山での契約が結ばれたことを祝う食事でもあったのです。

それに対し、イエスはご自身の死そのものが新しい契約を制定するためのものとなるのだと宣言されました。そして、そのことを覚え、記念する新しい過越の食事を「聖餐式」として定められたのです。モーセを通じてシナイ山で結ばれた契約において、神との契約が結ばれたのは一民族だけ、すなわちイスラエルとのみ結ばれた契約でした。そのモーセ契約に対し、イエスは新しい契約を結ばれました。この新しい契約はあらゆる民族に開かれた契約です。ユダヤ人はもちろん、ギリシア人にも、アフリカの人々にも、そして日本人にも開かれた契約です。新しい契約に私たちが加わるということは、私たちが神の子となるということです。私たちのそれまでの罪は赦され、私たちには神の子という新しい身分が与えられます。新しい契約とは、まさに私たちの救いそのものなのです。そして新しい契約がイエスその人の命、彼が十字架上で流された血を通じて結ばれることを宣言したのが最後の晩餐であり、その時に制定された聖餐式だったのです。血を通じて結ばれると聞くと、おどろおどろしく感じられるかもしれません。しかし、最初のモーセの契約の際も、犠牲となった動物の血によって契約が締結されました。そして新しい契約では、イエス御自身の血が契約を締結させるために注ぎ出されたということです。ですから私たちが聖餐式を執り行うごとに、主イエスの死という出来事を通じて結ばれた新しい契約を祝っているのです。主イエスは私たちを新しい契約の民としてくださるために、まさにその命を献げられたのでした。

それに対して、ヨハネ福音書では最後の晩餐において聖餐式制定の記述はありません。ヨハネ福音書の最後の晩餐では、イエスの死が新しい契約をもたらすことになる、ということに強調点が置かれてはいないのです。では、ヨハネ福音書における最後の晩餐の意味とは何でしょうか?それは、イエスが弟子たちのもとを離れるのに際して、一番大切なことを教える教育の機会としたということでした。共観福音書とは違い、ヨハネの最後の晩餐の記述は、イエスの非常に長い教え、それは説教とも呼んでよいものですが、その教えから成っています。イエスはこの最後の機会に、弟子たちに改めて一番大切なことを教えられたのです。その一番大切な教えが、13章34節に書かれています。そこをお読みします。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

このあまりにも有名な教え、それが最後の晩餐における主イエスの説教の中核にあります。しかし、同時にこの教えは誤解を招きやすいものでもあります。といいますのも、私たち現代人の用いる「愛」や「愛する」という言葉と、イエスの言われる「愛する」という意味にはかなり異なる意味合いがあるからです。私たちの時代において「愛」というと、まず思い浮かべるのは男女の愛、または親子の愛、というものではないでしょうか。そこには甘い響きといいますが、ロマンティックな感じがあるのではないでしょうか。こうした愛の一つの特徴は排他性です。男女の愛というものは、一対一の愛であり、一人の男性が複数の女性を愛する、あるいは一人の女性が複数の男性を愛するということでは、そんなものは「愛」と呼べるような代物ではないわけです。あるいは親子の愛が特別なのも、その排他性です。自分の子どもも、他人の子どもも同じように愛する、というわけにはいかないのです。自分の子どもに集中するのが親の愛なわけです。英語で言えば、クローズドな愛ということです。

しかし、イエスの語る愛、もっといえば聖書の語る愛は、そのようなものとは異なります。その愛はクローズドなものではなく、すべての人に開かれたもの、オープンな愛です。神の愛は私だけに排他的に注がれるものではなく、すべての人に対して注がれるものだからです。しかし、現代人の抱く愛の理解と、聖書の語る愛との間にはもっと本質的な違いがあります。そしてその違い、イエスの言われる互いに愛し合うことの意味を、端的に、身をもって示したのが、この弟子たちの足を洗うという行為なのです。

このイエスが弟子たちの足を洗ったという行為は教会の歴史においても極めて重大な意味を持ちました。この棕櫚の主日から始まる一週間はホーリー・ウイーク、聖なる一週間とも呼ばれ、大事な日が続きますが、特に最後の晩餐が行われた日は「洗足の木曜日」と呼ばれます。「最後の晩餐の木曜日」とか、「聖餐の木曜日」ではなく「洗足の木曜日」なのです。それだけ、イエスが弟子たちの足を洗ったという行為のインパクトが如何に大きかったのかがわかります。ちなみに、音楽で有名な「洗足学園」の学校名も、このイエスが弟子たちの足を洗ったという故事に由来しています。イエスは最後の晩餐での長い説教の前に弟子たちの足を洗いました。それはつまり、イエスの最後の晩餐での長い説教のエッセンスがこの行為に集約されているということなのです。当時、足を洗うというのは奴隷の仕事でした。その行為を一言で表現するならば、それは「仕える」ということです。ここでお分かりのように、主イエスの言われた「互いに愛し合いなさい」という言葉の意味は、「互いに仕え合いなさい」ということだったのです。これが主イエスの「愛」の教えの本質にある事柄です。愛という言葉のロマンティックな響きとは大きく異なる、「仕える」ということがイエスの教えの中心にあるということです。

主イエスの伝えた「福音」、それを一言で言い表すならば、それは神の王国の到来です。神ご自身が王として治められる平和な王国が、私たちの生きる地上世界に実現する、これが神の王国、あるいは「神の支配」と言った方が分かりやすいでしょうが、その到来です。では、その神の支配はどのようにしてこの地上世界に実現するのでしょうか。イエスが示されたその実現への道筋は、まさに革命的なものでした。私たちは「支配」と聞くと、まず力を連想します。場合によっては暴力と言ってもよいでしょう。力による支配、それは軍事力のみならず、お金の力、つまり経済的な力の場合もありますが、そういった力なしには支配というものは実現しないと考えます。ですから私たちはより多くのお金を持とう、より強力な武器を持とうとするのです。今日の世界秩序の頂点にあるアメリカと中国も、まさにこの二つをめぐって争っています。しかしイエスはそれとはまったく別の道を示されました。ここにイエスの教えの革命的な本質があります。そのことを明確に伝えている、有名な言葉をお読みしましょう。マルコ福音書10章42節以降です。

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

これが、神の王国における支配の姿です。その支配の頂点に立つイエスその人が、率先して人々のために仕える、いのちさえ与える、そういうことなのです。イエスはそのことを弟子たちに対して繰り返し教えて来られたのですが、この最後の晩餐という特別な機会に際し、あらためてその意味を身を持ってお示しになられたのです。自らが率先垂範して、弟子たちのための模範となられたのです。その時イエスは言われました。

イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」

足を洗い合うということは、互いに仕え合う、互いに愛し合うことを象徴的に実践することです。そしてこれが神の支配の本質です。

イエスが最後の晩餐という、弟子たちに教えることのできる最後の機会に、このことを身を持って教えられたことの意義は重大です。これは、21世紀に生きる私たちに向けた最後のメッセージでもあるのです。私たちもまた、この「仕える」という生き方を実践するようにと主イエスから教えられ、命じられているのです。では、今日において「仕える」という生き方とはどんなものなのでしょうか。

ここで一つの具体例を考えてみたいと思います。しかし、その例というのはもしかすると皆さんが思いもよらない話かもしれません。とんでもない話だと感じるかもしれません。今は礼拝の説教ですので、あまり政治や政策の話をするのは適当ではないかもしれませんが、ここでは政策の良し悪しについての話ではなく、その背後にある考え方について話させていただきます。ここまで言えば、勘のいい方は何お話かお分かりかもしれません。それは、今世界を騒がせているトランプ関税の件です。この関税は今や小学生や中学生の話題に上るほど日本でも大きな話題になっていて、しかも非常に否定的な文脈で語られています。しかし、ここでは少し違う視点からお話ししてみたいと思います。皆さんの中にはトランプが大嫌いという人も多いと思いますが、ここではプラスの面に光を当ててみます。

トランプ政権の財務長官はベッセントさんという方ですが、彼がこのトランプ減税の責任者です。では、このベッセントというのはどんな人なのでしょうか?実は、彼はウォール街と呼ばれるアメリカ金融業界を代表する大投資家でした。みなさんはジョージ・ソロスという名前をご存じでしょうか?私も15年ほど金融業界にいましたが、金融の世界では知らぬ者がいない超有名人です。そのソロス氏はヘッジファンドと呼ばれる運用スタイルを有名にした人で、あのイングランド銀行を打ち負かした男として伝説になっています。この運用集団のメンバーたちは年収何千億円という、野球の大谷さんも驚くような大金を稼ぎだす資本主義の申し子のような集団なのですが、ベッセントさんもその一員だったのです。彼らは、悪く言えば金儲けのためなら何でもやる、ハゲタカ集団とも呼ばれるような人たちでした。しかし驚くべきことに、ベッセント氏はトランプ関税について説明するときに、それまでの自分の生き方を否定するような発言をしています。つまりこの関税の目的は、金持ちをますます富ませるような政策ではなく、むしろこういう金融資本主義の犠牲となってきた貧しい人たちを救うためのものだと言っているのです。以下はフィデリティ投信のホームページからの引用です。

「米国人の上位10%は、株式市場の88%を所有しています。次の40%は、株式市場の12%を所有しています。下位50%は借金があります。クレジットカードの請求書があります。彼らは家を借ります。彼らは自動車ローンを持っています。われわれは彼らにいくらかの安心感を与えなければなりません。」

ベッセント財務長官は、アメリカでは所得上位10%の人々が株式の約9割を所有しているといいます。ですから株が上がっても多くのアメリカ人にはほとんど恩恵がなく、ごく一部の富裕層がますます豊かになるだけだと指摘したのです。それに対して、所得の下位50%の人々は貯金がなく、次の給料日までにお金が無くなってしまうという有様です。彼らは仕方なく日々の生活のために借金をしているというのです。アメリカ人の昨年末のクレジットカードローン残高は何と1兆2千億ドル、日本円で180兆円です。しかも、クレジットカードの金利は22%という、かつてのサラ金のような金利です。単純計算すれば、金利だけで36兆円も払わなければならないのです。アメリカの労働者は文字通りに借金地獄に囚われてしまっています。彼らは株式など持っていないので、株価が上がっても何の恩恵む受けることができません。なぜこうなってしまったのか?それはアメリカのこれまでの政策が富裕層をよりお金持ちにするためだったからだ、といいます。つまり株式を持っている上位10%の利益を、株式を持っていない下位50%の人々の利益に優先してきたからだ、というのです。株式を持っているような経営者の人たちは、なるべく安く商品を作りたいわけです。あなたが社長なら、時給千五百円を払わないといけない日本でモノを作るよりも自給150円の発展途上国でモノを作った方がよいわけです。こういう人件費の安い国で作った商品が100円ショップで提供され、私たち消費者も安いモノを買えるということで恩恵を受けます。会社も儲かって利益が増えて株価が上がり、株主も喜びます。しかしその結果、損をする人たちもいます。それは時給千五百円で働いていたのに、発展途上国の人たちに仕事を奪われた労働者です。彼らは仕事を失い、株も持っていないので株が上がっても恩恵がありません。こういう人たちがアメリカの下位50%の人たちです。ベッセントさんは、関税政策でそういう人たちを救いたいのだと語っていました。どういうことかといえば、関税で外国から入ってくる商品の値段が二倍になれば、輸入品を買わなくなります。むしろ国内で作ったほうがよいという話になります。そうすると、国内で仕事が増えて、まともな賃金で働ける仕事も増えるということです。もちろんこれは一朝一夕でできる話ではないし、アメリカ人も国内でモノを作れるようになるまでは高い輸入品で苦しむことになります。一番安い国で作って世界中で売りまくるということが出来なくなるので企業の利益が下がって株価も下がります。しかし、それでも長期的な国民全体の繁栄のためにこの政策を行っていくというのがベッセントさんの考えでした。

なぜこのような話をしたかといえば、これがイエス様の教える「仕える人になる」ということの一例だと思ったからです。ベッセントさんやイーロン・マスクはみな億万長者なので、労働者の苦労など考えなくても生活できる人たちなのです。しかし彼らは、たとえ自分たちの持っている財産が大きく目減りしても苦しんでいる労働者の人々を助けようとしています。マスクさんは政府の無駄を省く大リストラをしたために、大変恨まれて彼の経営する会社は不買運動に遭って、彼の資産は15兆円も減ってしまったと言われています。彼がどんなに億万長者だとしても、さすがに15兆円も減ればへこむでしょう。それでも彼は頑張っています。もちろん彼らの行動は100%純粋な動機から来ているのではないでしょうし、それは当たり前のことです。しかし、彼らは貧しい人々に仕えようとしています。ベッセントさんもフードバンクを回って貧しい人たちの声を聞いたと語っています。自分の身を切ってでも人々に与えようとしています。それは主イエスの姿勢にも通じるものではないでしょうか。彼らが嫌いな人からすればほめ過ぎだと思うかもしれませんが、しかし肯定的な部分も見るべきだと思います。

私たちも彼らのようなスケールの大きなことはできないものの、この世界の不公正な仕組みを正して多くの人々がまともな生活ができる社会にしていきたいと思わされます。それで今回は時事的な事柄にも触れさせて頂きました。今週一週間、主イエスの人に仕える生き方、人に与える生き方を思いながら歩んで参りましょう。

私たちに新しい生き方を身をもってしめしてくださったイエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。これからの最後の受難週を、主イエスの生き方を仰ぎつつ歩むことができますように。われらの平和の主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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ダビデの信仰第二サムエル16章1~23節 https://domei-nakahara.com/2025/04/06/%e3%83%80%e3%83%93%e3%83%87%e3%81%ae%e4%bf%a1%e4%bb%b0%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e3%82%b5%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%83%ab16%e7%ab%a01%ef%bd%9e23%e7%af%80/ Sun, 06 Apr 2025 00:50:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6293 "ダビデの信仰
第二サムエル16章1~23節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。本日は2025年度の最初の礼拝になります。私が当教会に遣わされて五年が経ちました。この五年間、様々な困難もありましたが、皆で力を合わせて歩んでこられたことは、主の大いなる恵みでした。そして今日もサムエル記を読んで参りましょう。

今日の説教タイトルは「ダビデの信仰」です。一般にダビデと言うと、信仰の人、信仰の勇者というイメージがあるように思います。しかし、これまでの私の説教を聞き続けてくださった方は、ダビデが単純に理想的な「信仰の人」とは言えないし、むしろもっと複雑で問題のある人ではないか、という印象を持たれたかもしれません。ダビデの場合は、王になるまでの青年時代と、王になってから後の時代を区別して考えた方がよいでしょう。何の武器も持たず、石礫だけで巨人ゴリヤテに向かっていった若きダビデと、バテ・シェバを奪いその夫ウリヤを謀殺した老獪な王であるダビデは、同一人物とは思えないほど異なった印象を与えるのです。そのようなダビデの生涯を見ていくとき、「信仰」とはいったい何なのか、ということを改めて考えさせられます。信仰とは純粋で恐れを知らない若者だけが持てるもので、世の中の辛いも甘いも味わった後では段々と失われていってしまうものなのでしょうか?そうとも言えません。例えばアブラハムや彼の孫のヤコブの場合を考えて見ると、彼らは年齢を重ねるごとにその信仰が深まっていったように思えます。ヤコブの場合は、明らかに若いころよりも老齢になったときの方が信仰者としての輝きが増しています。それはヤコブが幾多の試練の中で神と出会い、神についてより深く知るようになったからでした。

一方ダビデも、若い時から多くの試練を乗り越える中で神の恵みの大いなることを体験し、ますます信仰を深めていったということがありました。しかしそのダビデが、特にバテ・シェバ事件以降は王としても信仰者としても迷走を重ね、とても信仰の円熟を迎えたとはいえない状態に陥っています。いったいそれはどうしてなのか?そこで今日は、ダビデの信仰の本質について考えてみたいと思います。

私は、ダビデはグダグダになったこの時期においてさえ、神に対して深い信仰を持ち続けていたと考えています。それは神への深い畏れであると同時に、神は恵み深いのだという強い信頼に根差したものでした。私は、神への信仰という意味ではダビデは変わらぬものを持ち続けていたと考えています。では、ダビデの問題はどこにあったのでしょうか。それは、彼が神に対するようには、人に対して誠実ではなかったという点です。私がそのことを強く感じたのはバテ・シェバ事件においてでした。ダビデはバテ・シェバとその夫ウリヤに対して取り返しのつかない罪を犯したのですが、彼は神に対しては心からの服従と謝罪を行いましたが、人に対してはそうではありませんでした。彼は殺してしまったウリヤに何の負い目を感じていなかったかのようにさえ見えます。それは、彼の最愛の妻であったバテ・シェバを直ちに妻として迎え入れたことからも明らかであるように思えます。もしウリヤの立場に立って考えたのなら、そんなことができただろうか、と。

ダビデは、ある種の信仰的な人間の典型であるように思えます。すなわち、彼にとって大事なことは神との関係を維持することであり、それに比べて人に対する関心はずっと薄い、弱いように思えるのです。これはかなりうがった見方かもしれません。しかし、ダビデのような立場に立てば、これはあり得ることではないでしょうか。ダビデは王という、人間としては最高の地位にあります。しかも今やイスラエルは強大な国となり、周辺諸国を恐れる必要はありません。彼にとって厄介なのは、大将軍のヨアブぐらいのものでしょうが、そのヨアブもダビデに対しては絶対的な忠誠を誓っています。ダビデにとって真に恐ろしいのは王の絶大な権力でさえ何の意味も持たない神の力だけです。ダビデは神を深く信じていましたので、王となった彼にとってさえ、神は未だに恐るべき存在でした。したがって、神からの叱責には非常に敏感でした。臆病だったとさえ言えるほどです。しかし、自分の権力の下にある人々の気持ちについては驚くほど鈍感だったようにも思えるのです。神にのみ集中するというのは、宗教的な人間が陥りやすい罠かもしれません。しかし、そのような人間はどこかバランスを欠きます。主は、精神を尽くし、力を尽くして神を愛しなさいと命じましたが、それと同じくらい、隣人を愛するようにと命じられたのです。しかし、ダビデにおいてこのバランスは崩れ、第一の命令にばかり重きを置いていたように思われるのです。そのことを、今日の出来事からも感じとることが出来ます。では、今日のテクストを詳しく見て参りましょう。

2.本論

この16章は大きく二つに分けられます。一つは都を落ちのびるダビデが旧サウル王朝の人々と出会う場面であり、もう一つはエルサレムを制圧したアブシャロムが取った行動についてです。ダビデとアブシャロムという二人の主人公に焦点が当たっているということです。ではまずダビデの方を見ていきましょう。

さて、ダビデは反乱を起こしたわが子であるアブシャロムによって都を追われたのですが、そのようなダビデにとって気がかりな勢力がありました。それは、ダビデ王朝の前の王朝であるサウル家の家臣の生き残りの動向です。ダビデはサウル王朝を滅ぼした側ですから、敵の敵は味方ということで、ダビデに敵対するアブシャロムのことをサウル家の残党が応援・支援するのではないか、という恐れがあったのです。ダビデはこれまで、盟友であったヨナタンの忘れ形見で足の悪いメフィボシェテに温情を施し、彼をねんごろに扱っていましたが、それでも彼はサウル家の正統な王位継承者です。もし彼がダビデに反旗を翻したなら、サウル家の残党たちは彼に従うでしょう。ダビデにとってメフィボシェテは政治的に危険な人物でした。そのような時に、ダビデの元にメフィボシェテの家臣であるツィバがやってきました。ツィバはダビデにメフィボシェテを引き合わせた人物です。その彼が、落ちのびるダビデのためにと、大変な量の食糧を持って来たのです。おそらくは、主人であるメフィボシェテの財産を勝手に処分して得た金で調達した食糧でしょう。パン二百個というのは、ダビデにとっては願ってもない差し入れです。なしにろ、着の身着のまま逃げのびたのですから、十分な食料はなかったわけです。ダビデは彼を大歓迎しました。ところでと、ダビデはツィバに、お前の主人であるメフィボシェテはどうしたのかと尋ねます。するとツィバは、主人はダビデ様を裏切り、サウル家の再興を謀っていますと報告します。自分はそのようなメフィボシェテの裏切りを良しとはせず、あなた様にお仕えするために参上したのです、とツィバはダビデに語ります。しかし、後にメフィボシェテは、自分は裏切ってはいない、足の悪い自分を置き去りにしてツィバが去っていってしまったのだ、ということをダビデに訴えています。私にはメフィボシェテが嘘をついているとは思えませんし、むしろここではツィバの方が主人のメフィボシェテを見限って彼の財産を勝手に処分し、自分の主人については嘘の証言をしているのだと考えています。しかしダビデはツィバの言い分をそのまま受け入れます。ダビデがツィバの言うことを本当にそのまま信じたのか、あるいは薄々嘘だと気が付きながらも、このような緊急時に大事な食糧を届けてくれたということで、その嘘を大目に見たのか、どちらなのかはっきりとは分かりません。ただ、ダビデのこれまでの抜け目のない行動や鋭い洞察眼からは、おそらくダビデはツィバの嘘を見抜いていたものと思われます。にもかかわらず、彼はツィバに恩賞としてメフィボシェテの財産をすべて与えるという破格の約束をしています。これは高度な政治的駆け引きと言えるかもしれません。ダビデとしては、とにかく一人でも多くの味方を得たいのです。ツィバのように、主君を裏切るような多少問題のある人物でも良い条件で受け入れるといううわさが広まれば、ダビデに加勢する人たちも増えるかもしれません。それを見越してダビデはツィバを受け入れたのだと思われます。

しかし、ダビデは亡き盟友であるヨナタンとの契約に誠実であったかといえば、そうではなかったのです。かつてヨナタンは、サウル王から命を狙われていたダビデを身を挺して守り、その時に自分の家族のことを頼むとダビデに懇願しています。そのヨナタンの思いを考えれば、体の不自由なメフィボシェテを切り捨てるようなことはできないはずです。しかし、ダビデは自らの生き残りを最優先にしました。これは政治家としては当然のことかもしれませんが、人間としては疑問を感じさせる行動です。先にダビデは神に対する忠誠においては素晴らしいけれども、人に対する誠実さには問題があると申しましたが、この一件にもそのことが表れているように思えます。

そのダビデのところに、もう一人のサウル家の家臣がやってきました。彼の名はシムイで、彼はダビデのことを口汚く呪いました。サウル家が滅んだのはダビデのせいだ、その悪行に主が報いたのだ、とダビデを呪います。ダビデはサウル家の最後の王であるイシュ・ボシェテを直接殺したわけではありませんでした。しかしダビデはサウル家の裏切り者の家臣のアブネルと密約を結び、イシュ・ボシェテの王権を奪おうとしました。シメイはそのことを言っているものと思われます。ダビデの忠実なしもべの一人であるアビシャイはそのような主君を侮辱する言葉に怒り、その首をはねるべきだとダビデに進言します。しかしダビデは、あのシムイの言葉は主が言わせたものなのだから、彼を殺してはいけないと諫めます。私はこのダビデの言葉は、彼の本心から出たものであろうと思います。ダビデも長年主と共に歩んできた信仰者です。自らのこれまでの歩みを振り返って、そこに誤りを認めることができないほど頑なな人物ではないのです。サウル家滅亡の次第のみならず、バテ・シェバ事件から始まった一連の悲惨な出来事に自分の責任を感じないほど愚かでも鈍感でもなかったでしょう。ですからこのシムイの暴言とも思える言葉の中にも、預言者の言葉であるかのように神の裁きの言葉を感じ取り、彼に報復しようとはしなかったのです。ダビデは極度に主を恐れる人物でしたが、このシムイの言葉に対する反応にもそれが表れているように思えます。

このように、サウル家の対照的な二人の家臣、一人はダビデにおもねるツィバで、もう一人はダビデに毒づくシムイですが、その二人への対応には、ダビデの人への非情さと神への敬虔という二つの面を見ることができます。ダビデは自らの生き残りのために盟友との約束を無視するような非情さを持つ反面、自らの過ちを神の前に顧みてへりくだることもできました。人間というのは複雑な生き物で、不誠実さと敬虔さを併せ持っているのですが、まさにここでダビデのそのような複雑な性格を垣間見ることができます。

さて、話は変わって今度はアブシャロムの方です。反乱を起こしている側のアブシャロムは、自陣を強化するために一人でも多くの優秀な部下を集める必要があります。特に必要なのはブレーンとなる人、政策や作戦を立案する軍師です。すでにアブシャロムはその知恵は神のごとしと謳われたアヒトフェルを獲得しました。そして、さらにもう一人の知恵者がやってきました。フシャイです。実は彼は、ダビデからスパイとして送り込まれていた人物で、ダビデからはアヒトフェルを邪魔してアブシャロムに正しい戦略を取らせないようにしてくれと依頼されていました。とはいえ、フシャイがダビデの親しい友人であることはよく知られていましたので、アブシャロムもフシャイを信用して良いものかどうか、判断がつきかねていたようです。しかし、フシャイの見事な応答にコロッと騙されてしまい、彼を自軍に引き入れることにします。このことがアブシャロムの大きな蹉跌となり、ダビデの側から見れば大きな勝因となります。ダビデはまさにトロイの木馬を敵陣に送り込むことができたのです。

その後、軍師アヒトフェルは非常にスキャンダラスな提案をアブシャロムにします。それはなんと、白昼堂々と、皆が見ている前でダビデ王の側室の女性たちと性交をしろというものでした。サムエル記の特にバテ・シェバ事件以降は、ポルノ小説も真っ青というようなスキャンダラスな記述が続きますが、これなどもまさに教会で読むのが憚られるような内容です。しかし、この行動が預言者ナタンの預言の成就であることも思い出す必要があります。まさにこの預言があったからこそ、アヒトフェルはこのようなスキャンダラスな提案をしたものと思われます。つまり、このアブシャロムの反乱は神のご計画に沿ったもの、神の御心なのだということを内外に喧伝しようとしたのです。そのナタンの預言を見てみましょう。12章11節です。

主はこう仰せられる。「聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行おう。」

このようにナタンは預言しましたが、この預言はなんとダビデ自身の息子であるアブシャロムによって成就してしまったのです。預言者イザヤは「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰ってはこない」と語りましたが(イザヤ55:11)、まさにその通りになりました。神の裁きの厳しさを思い知らされる出来事でした。

3.結論

まとめになります。今日はアブシャロムの謀反によって追い詰められたダビデの信仰者としての在り方ということを特に注意して考えてみました。私は冒頭で、ダビデの信仰の在り方は極端なほど神に集中しているということを申し上げました。それは善い事ではないか、と思われるかもしれません。確かに私たちが信じるのは唯一の神のみであり、神をすべてに優先し、神にのみその思いを集中させるのは素晴らしいことのように思われます。しかし、それが本当に神の望まれていることなのでしょうか。詩篇51編はダビデの作だとされていますが、他の多くの詩篇がそうであるように、もしかするとダビデの名を借りた後世の作品であるかもしれません。そうだとしても、この詩篇はダビデの信仰の本質を表しているように思えます。有名な一節に次の言葉があります。

私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御前に悪であることを行いました。

私はこの一文を読む度に違和感を覚えます。確かに私たちの犯す全ての罪は神の掟を破るという意味で神に対して犯すものですが、しかし私たちの罪の直接の被害者なのです。あなたが誰かを殴りつけて、そのことを神に必死に謝ったからといって、あなたに殴られた人はあなたを赦すでしょうか。あなたは神に謝罪したから、それで十分なのでしょうか?いいえ、そうではありません。しかし、ある種の宗教的な人はそのように考えてしまいがちなのです。そして、まさにダビデはその典型でした。彼の関心事は神にばかり向いていて、周りの人々を見ていませんでした。その結果、次々と彼の周囲には不幸な出来事が続いていきます。しかし彼は、神に向き合うようには、ついに自分の家族と向き合うことはしませんでした。今日でも宗教のせいで家族が崩壊するという人が少なくありませんが、そこにも同じような問題があるように思えます。聖書の教え、イエス様の教えとは、神を愛するとは隣人を愛することなのだ、ということです。私たちの隣人は神様のように完ぺきではありません。むしろ欠点だらけです。しかし、そのような隣人を愛することこそ、神を愛することなのだということを忘れずに歩んでいきたいと願うものです。お祈りします。

天におられる父なる神様、そのお名前を賛美します。今朝はダビデの信仰について考えて参りました。その信仰の素晴らしさと欠けの両方について考えました。私たちもそこから学んで、日々の歩みに生かすことができるように導いてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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自由の用い方第一ペテロ2章9~17節 https://domei-nakahara.com/2025/03/30/%e8%87%aa%e7%94%b1%e3%81%ae%e7%94%a8%e3%81%84%e6%96%b9%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%83%9a%e3%83%86%e3%83%ad2%e7%ab%a09%ef%bd%9e17%e7%af%80/ Sun, 30 Mar 2025 00:32:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6269 "自由の用い方
第一ペテロ2章9~17節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。今日は2024年度の最後の礼拝です。私事になりますが、私が当教会に赴任したのが2020年の4月ですので、まるごと五年が経ったことになります。あっという間の五年間でしたが、同時に当教会には本当にいろんなことがありました。また、世界を見渡しても、2020年以降にはコロナのためのロックダウンや、ウクライナ、中東ガザでの紛争における悲惨なニュースが毎日のように飛び込んできて、心穏やかでは済まされない日々が続きました。そんな中でも、当教会がたゆまず歩んでこれたことについて、みなさまに、そして何よりも主に感謝いたします。

さて、今日も第一ペテロからメッセージをさせていただきますが、前回の箇所でペテロは私たちクリスチャンが今や神の神殿であり、そしてクリスチャンの日々の歩み、生活そのものが神への礼拝なのだということを教えました。今回の箇所は、その教えを土台としながらさらに深い内容に入っていきます。特に重要なのは以下のポイントです。すなわち、ペテロは教会が今や一つの民族、さらに大胆な言い方をすれば一つの国家なのだと主張しているのです。「聖なる国民」であるというのは、ある特定の国家に属しているということだからです。しかも、この聖なる国民というのはこれまではある一民族、つまりユダヤ人に限定されていたのですが、この新しい国家はあらゆる民族から構成される超国家とも呼ぶべきものだと言っているのです。

しかし、となると一つの問いといいますか、問題が生じます。この新しい国、聖なる国民からなる国にはあらゆる民族のクリスチャンが属しています。日本の場合でいえば、クリスチャンは日本人であると同時に、キリストの国にも属している、いわば二重国籍の人だということになります。そして日本と神の国、神の国はキリストの王国とも言えますが、この二つの国、二つの国家が同じ方向を向いていれば、クリスチャンにとって何の問題も生じません。しかし、この二つの国家が異なる方向を目指してしまった場合、そのどちらの国民でもあるクリスチャンはどうすればよいのか?という問題が生じるのです。国の命令することが神の法と衝突してしまった場合、どちらに従うべきなのかという問題です。

ここで、日本という国に置かれた教会の立場を考えてみましょう。私たちキリスト教会は、日本という国に守られ、守られているだけでなく様々な特権を受けています。その最たるものは基本的な宗教活動に関しては課税されないということです。具体的には、献金には課税されません。ただ、これは宗教に限った話ではなく、他の公益法人、学校法人のような機関も、学費のみならず金融商品からの利息などの収益にも課税されません。このように学校や宗教団体が優遇されているのは「公益性」があると広く社会から認められているからなのです。しかし、その宗教法人が公益どころか社会の害悪になる場合もあるのです。その最も生々しい事例が30年前の地下鉄サリン事件という化学兵器を用いた無差別殺戮なのですが、そういった事件を前にすると宗教というものの持つ危険性を強く感じるわけです。宗教の持つ力は実に巨大なもので、人々を犯罪行為に走らせたり、また最近解散命令が下された宗教法人の場合は年間400億円という巨大企業並みの金額を、なんと献金のみで集めるという信じがたいことが起きています。その献金が自発的なものであればまだしも、信者さんを精神的に追い込んで献金させた不法なものだったという裁判所の判決が出ています。ただ、日本の有名な宗教法人の財産は正確には分かりませんがこれどころではない強大なものだと考えられます。日本の与党の一角を支える宗教法人の献金額はさらに巨大だと言われています。私どものようなささやかな教会からすると、まるで別世界のような話ではありますが、こうした宗教団体の金満ぶりと、そのお金の使途の不透明さが、多くの日本人が宗教に向ける不信感の一因になっているものと思われます。日本という国に守られながら、日本のためになってないのではないか、という疑念を抱かれてしまうのです。ですから、宗教と国家の関係を考える大前提として、私たち宗教組織は自分たちの住む国家に良い意味で貢献できないのであれば、偉そうなことはいえないということを肝に銘じた方がよいということです。

宗教の危険性ということを申し上げましたが、宗教の持つ危険性の一番深い部分は、実は宗教の持つ魅力、つまり人々を引き付ける力と表裏一体の関係にあります。それは何かというと、「選ばれた人」と「選ばれなかった人」という二元論です。多くの宗教では、「あなたがたは神様から特別に選ばれた存在なのだ」ということを教えます。そう言われると、なんだかうれしい気持ちになりますよね。でもその反面、選ばれなかった人たちがいるということになってしまいます。そうなると、選ばれた人たちは選ばれなかった人たちに対して自ずと優越感を抱いてしまいがちになります。このような優越感が歪んだ形で肥大してしまった結果生じた最悪の事件が、地下鉄サリン事件だということになるでしょう。神に選ばれなかった人たちの命の価値を極端に低く見積もってしまうことによって、こんな残忍な事件が生じてしまうからです。日本人の場合で考えれば、「選ばれた日本人」と「選ばれなかった日本人」がいることになります。こんな風に露骨に考えるクリスチャンの方はいないでしょうが、キリスト教の教理にそのような面があるのは否めませんし、人々がキリスト教に不信感を抱く理由の一つになっているように思います。

このように、多くの宗教が持つ「選民思想」は宗教の魅力であるのと同時に、人々に宗教への警戒感を抱かせる要因にもなっています。宗教の側からも、そうした問題を乗り越えようとする試みがなされています。その一つが親鸞聖人の浄土真宗です。私は浄土真宗の専門家ではないので不正確であるかもしれませんが、その教えは一種のユニバーサリズム、つまり「すべての人が救済される」というものであると思われます。すべての人が救われるのであれば、「選ばれた人」と「選ばれなかった人」という違いはなくなります。

そしてもう一つは「選ばれた人」は「選ばれなかった人」に仕えるために選ばれた、という見方です。フランスの格言にnoblesse oblige、つまり高貴なる者は義務を負うというものがありますが、クリスチャンという聖なる人々は、その他すべての人たちの幸せを願い、その義務を負うという思想です。「選ばれた人」というのは、たとえば学級委員に比べることができるでしょう。学級委員は選ばれた人だから偉いんだ、ということではなくて、むしろ他のすべての生徒の学生生活をよりよいものにするために選ばれたのです。クリスチャンも同じ理由で選ばれたということです。このような視点がキリスト教の主流の考え方であるとまでは言えないものの、こうした見方がキリスト教思想の中にあるのは確かです。私個人も、選民思想はこのような観点から捉えるべきだと考えています。先ほどの、キリスト教の持つ二重国籍の問題、つまり日本で言えば日本人であると同時に神の国の国民であるという問題も、このような観点から考えるべきでしょう。私たちクリスチャンは、キリスト教国ではない日本という国をよりよくするために、積極的に仕え、関わっていくべきだということです。たとえこの国の目指す方向が聖書の示す道とは大きく異なっていると感じることがあったとしても、「この国はサタンのしもべだ」というように頭から否定するのではなく、むしろキリストの教えに従うことが長期的には国益にかなうということを粘り強く訴えていくべきでしょう。確かに、新約聖書ではローマ帝国をサタンに仕える獣、キリスト者が戦うべき存在として描いている「ヨハネ黙示録」のような書があります。しかし、同時に今読んでいる第一ペテロのように、国家を肯定的に捉えている書簡もあるのです。このことを踏まえたうえで、本文を読んで参りましょう。

2.本論

では9節を見てみましょう。ここでペテロは出エジプトの1節を引用しています。出エジプト記19章3節以降を読んでみましょう。

モーセは神のみもとに上って行った。主は山から彼を呼んで仰せられた。「あなたは、このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げよ。あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」

この出エジプト記の言葉は、もちろんクリスチャンに向かってではなく、キリスト教が成立する千年以上も前に、民族としてのイスラエル人に対して語られた言葉です。したがって、ユダヤ人以外の人に対して語られた言葉ではないのです。しかし、この第一ペテロ書簡の受け手はユダヤ人以外の異邦人です。ですから、ペテロは元々ユダヤ人のための神の約束、「あなたがたが私の声に聞き従い、契約を守るならば」祭司の王国になるだろうという約束が、今やユダヤ人ではない異邦人において実現したと述べているのです。これは非常に大胆な言葉であり、当時のユダヤ人はこのことを聞いたらびっくりしたことでしょう。選民はユダヤ人のみであるというユダヤ人の信仰を、自分自身がユダヤ人であるペテロが打ち砕くようなことを述べたのです。ペテロの手紙の受け手がユダヤ人ではなかったことは10節からも明らかです。「あなたがたは、以前は神の民ではなかった」ということは、つまりあなたがたは契約の民であるイスラエルの一員ではなかったということです。

しかし、契約の民ではなかった異邦人たちは、今や新しい契約の民となりました。その結果、かつての彼らの同胞だった人たちは、今度は彼らにとっての外国人、異邦人になってしまったのです。これは、クリスチャンになった日本人が同じ日本人仲間のことを「外国人」と呼ぶようなものです。12節でペテロが「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい」と述べていますが、それは「かつての仲間たちの中にあって、りっぱにふるまいなさい」というのと同じことなのです。これまで当たり前だった生き方、先祖伝来の生き方は実は「肉の欲」に従った生き方であり、そのような生き方をしている人たちはあなたがたにとっては外国人なのだとペテロは語っています。けれども、だからそのような人たちを避けなさい、軽蔑して近づかないようにしなさい、とはペテロは教えません。むしろ彼らの救いのために行動しなさいと教えているのです。具体的には、彼らにあなたがたの立派な行い、生き方を示して、「真の神に従うということは、こんなにも素晴らしいことなのか」と彼らが考えるようになるようにせよ、と教えているのです。もしあなたがたがだらしない生き方をすれば、彼らはあなたがたの神を軽蔑する、軽んじることになってしまう。そうなると、彼らは救われるチャンスを失ってしまう、だからあなたがたは、彼らの救いのために立派にふるまいなさいと教えているのです。先ほど、「選ばれた人」は「選ばれなかった人」のために行動すべきだということを申し上げましたが、具体的にはこういうことです。

そのような文脈と精神において、ペテロは「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい」と教えています。「従いなさい」という言葉からは、人の立てた制度である国家に盲目的に従いなさい、服従しなさい、というように響くかもしれません。ただ、ここで「従いなさい」と訳されている動詞は、「責任を負いなさい」や「重荷を負いなさい」、または「協調しなさい」と訳した方が良いように思います。つまり、政府の命令は何であれ黙って従いなさいというよりも、政治的な事柄や問題に積極的に関わりなさい、自分には関係ないというような態度ではなく、社会がより良い方向に向かうように進んで重荷を負いなさい、という意味だということです。そのような前向きで善意に満ちた行動、立派な生き方というのは、愚かなおしゃべりを封じます。「論より証拠」という諺通り、キリスト教が何であるのかを示すためには、誰もわからないような複雑怪奇な神学論争で人々を煙に巻くのではなく、行動で示せということです。そうすれば、「愚かな人々の無知の口を封じる」ことになるのです。そしてここで大切なのは、私たちがこの世の制度や政府に従うのは、強いられるからではなく、自由であるからこそなのです。私たちの究極の忠誠心が向けられるのは神のみです。私たちはこの世のあらゆる制度から、不法なことや悪事を強いられたとしても、それに従う必要はありません。そういう意味で、クリスチャンは究極的な自由人です。しかし、その自由は自分勝手な目的のために用いられるべきものではありません。むしろ、すべての人々の幸福のために用いられるべきものです。奴隷が主人に仕えるように、私たち神の奴隷も、神が造られたこの世界に仕える、この世界をよりよくするために働かなければならないということです。私たちが神から与えられた自由は、そのような目的のために用いなければならないということです。使徒パウロも同じことを語っています。その箇所、ガラテヤ書の5章13節と14節をお読みします。

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。

パウロもペテロと全く同じことを言っていますね。ここで隣人というのは、自分のごく親しい人には限定されないということです。むしろ主イエスの「良きサマリア人」のたとえにあるように、私たちは見ず知らずの人でさえ、良き隣人としていくことができるのです。ですから私たちが仕えるべきなのは、ごく近くの人たちのみならず、もちろん可能な範囲の中ではありますが、社会全体でもあるのです。

3.結論

まとめになります。今日の箇所ではペテロは、今やキリストの王国というユニバーサルな国家の一員となった私たちが、それまで自分たちが属してきた国家、当時のペテロの手紙の宛先の人々にとっては小アジアの国々、私たちにとっては日本ということになりますが、これら二つの国家の間でどう生きるべきかを教えていました。

ペテロの時代、ローマやギリシアといった国々はキリスト教に対して必ずしも好意的ではなく、むしろ非常に敵対的であることもしばしばでした。しかしペテロは、そのように敵意を向けてくる国家に対してでさえ、クリスチャンは背を向けたり反抗的になったりしてはいけないと教えています。むしろ積極的に関わり、自分たちに敵意を向ける人たちからでさえ好意を向けられるように立派に振舞いなさいと教えています。翻って私たち日本の教会は、国家から敵視されるどころか、多くの面で保護されています。私たちはまずこの点に深く感謝すべきでしょう。そして、行動によってその感謝の気持ちを表していきたいと願っています。その意味で、当教会の会員の方々が「ちょうふの風」や「子ども食堂」を通じて地域の方々のために貢献できていることは大変うれしいことですし、そうした働きが続けられることを心から願っています。私たちの教会は、ご近所の方々が多く、この地域に根を張った教会です。これからもこの調布や三鷹の地で、「地の塩」として歩んでいきたいと願うものです。お祈りします。

全地を創られ、その上に様々な人間の制度を創られた神様、そのお名前を賛美します。今日はペテロから、この世の制度とどのように関わるべきかを教えられました。当教会もこの地域にあって、主の喜ばれる歩みが出来るように助けてください。われらの平和の主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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生ける石第一ペテロ1章22~2章8節 https://domei-nakahara.com/2025/03/23/%e7%94%9f%e3%81%91%e3%82%8b%e7%9f%b3%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%83%9a%e3%83%86%e3%83%ad1%e7%ab%a022%ef%bd%9e%ef%bc%92%e7%ab%a08%e7%af%80/ Sun, 23 Mar 2025 04:18:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6254 "生ける石
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1.序論

みなさま、おはようございます。第一ペテロを読み始めて、今日は三度目の説教になります。前回は「聖なる者となりなさい」というみことばの意味を考えて参りました。聖なる者になるというのは神の子とされた特別な存在になることだ、ということを前回学んだのですが、ではその特別な者としてどう歩むべきなのかということを論じているのが今日の箇所です。

私たちがイエス・キリストを信じてクリスチャンとなるとき、私たちの生き方が変わることが期待されます。ペテロはクリスチャンになる前の生き方のことを「先祖伝来のむなしい生き方」と呼んでいますが、そのような生き方とは異なる、神の子としての生き方が期待されているということです。しかし、いきなり神の子として歩めと言われても、何をどうしてよいのかよく分からない、と思うのではないでしょうか?イエス様を救い主として告白し、洗礼を受けてみても、何かが劇的に変わって、別人のように清く正しい生き方ができるわけではないでしょう。そういう経験をした方もおられるかもしれませんが、しかし時間の経過とともに段々と元の生活に戻ってしまうという場合も多いのではないでしょうか。

実際、イエスを信じた後も相変わらず罪深い思いを捨てられないし、つまらないことで怒ったり嫉妬心を抱いたりして、自分はクリスチャン失格なのなのではないか、と悩んでいる方も少なくないと聞きます。クリスチャンとしての理想と現実とのギャップに悩むということは、誰にでも身に覚えがあることではないでしょうか。私たちが変わるためには、「変わりたい」という私たちの思いや願いも大切ですが、それ以上に大事なのは私たちを変えてくださる神の力です。実際、聖書を読むと、私たちが変わるために必要なものを神が供えてくださるという約束があります。そして、それには二つあります。その二つはなにかということを、まず確認していきたいと思います。

その一つは、言うまでもなく聖霊です。このことは特にパウロ書簡で強調されています。パウロは「肉の働き」と「御霊の働き」を対比させ、私たちが肉の思いではなく御霊に動かされるときに、主に喜ばれる歩みができるようになると語ります。その箇所を読んでみましょう。ガラテヤ書簡の5章19節以降です。

肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。

このように、クリスチャンとしての望ましい性質を生み出すものは聖霊なのだというのがパウロの教えです。ですから、クリスチャンらしい性格を養い育てるために私たちがすべきことは聖霊を与えてくださるように祈り願うことだということになります。ただ、では自分が聖霊を受けているかどうかを客観的に知る方法があるかといえば、なかなか難しいわけです。聖霊によって突然人格が変わってしまった、性格が別人のようになってしまったというようなことがあればよいのですが、あまりそういうことはないわけです。神学においても、「聖霊論」というのは最も難しいと言われますが、聖霊なる神はどこか捉えどころがないところがあります。

聖霊についてはまた別の機会に考えたいと思いますが、聖書は私たちが変わるために神が与えてくださるものとして、もう一つのことを語っています。そのことが、今日のペテロ書や以前に学んだヤコブ書に書かれています。そのもう一つとは、「神のことば」です。先のヤコブの手紙の1章21節にも次のようなみことばがありました。

ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植え付けられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。

ヤコブ書には聖霊という言葉が出て来ません。パウロのように、聖霊があなたがたを変える、というようには論じません。むしろ、ここにあるように「みことば」が私たちを変えると述べているのです。

これに関連してですが、さきほどパウロの「肉」と「御霊」とを対比していると言いましたが、ヤコブ書ではそれが「肉の知恵」と「上からの知恵」という対比に置き換わっているように見えます。3章15節以降をお読みします。

そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実に満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばれる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。

さきほどのパウロの教えと非常に似ていることがお分かりだと思います。「上からの知恵」を「御霊」と置き換えても、何の問題もなく意味が通じるでしょう。では、「上からの知恵」とは具体的には何を指すのでしょうか。一つの見方としてそれが神のことば、つまり聖書の言葉を指していると考えることができます。聖書のことばは神から与えられた知恵だからです。聖霊が私たちを変えてくださると言われても、どこか雲をつかむようなところがありますが、聖書のみことばが私たちを変えるというのは具体的にイメージしやすいのではないでしょうか。そのような視点から、今日の聖書箇所を読んで参りたいと思います。

2.本論

では、1章22節から見て参りましょう。ペテロは彼が手紙を送っている会衆に対し、彼らが「真理に従う」ことでたましいが清められたと述べています。ここで従順と訳されている言葉は「服従」とも訳される言葉です。真理に従うということは、つまり真理である神の言葉に従う、より具体的には神の言葉を聞いてそれを行うということです。ヤコブもそのことを明確に述べています。

また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。

このように、真理に従うとは聖書の教えを実行する、実践するということです。そうした行動、生き方の変化によってたましいが清められるのです。では、みことばを実践するとはどういうことかといえば、それは兄弟愛を実践するということです。主イエスも使徒パウロも、神の教えを要約すると「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」ということに帰結すると述べています。聖書にはたくさんの教えがあって、覚えきれない、実行できないという人がおられると思いますが、そんなに難しく考える必要はありません。神のことばが教えているのは、要は隣人を愛しなさいということなのです。

22節では、「種」という農業のたとえが突然出てきます。しかし、イエス様の種蒔きのたとえにあるように、「種」というのは神のことばを指す聖書的なメタファーです。ペテロは、クリスチャンが新しく生まれる、新生するのは朽ちない種、つまり神のことばによるのだ、と述べています。そして、その神のことばの素晴らしさを伝えるために、イザヤ書から大変有名なみことばを引用しています。これは私自身にとっての愛唱聖句でもあるのですが、イザヤ書40章7節、8節のことばです。お読みします。

人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。

ここではみことばの不変性が語られています。みことばの素晴らしさはいろいろ挙げることができますが、その一つは「変わらない」ということです。みことばの真理というものは、時代によって変わってしまう、つまりある時代においては真理だったが、別の時代になると真理ではなくなってしまう、というようなものではないのです。いつの時代にも変わらない不変の光を放つもの、それがみことばなのです。もちろん、聖書のことばの一字一句がいつの時代にも適用できるという意味ではありません。旧約聖書の律法を現代のユダヤ人あるいはクリスチャンが一字一句守っているかといえば、そうではないし、今の時代には実践できないような教えもあります。しかし、一番大事なことは変わりません。では一番大事なこととはなにか?それは、神が人類を見捨てずに、救済を約束しているということです。

25節の後半には、このイザヤ書の引用に続いてこう書かれています。「あなたがたに宣べ伝えた福音のことばがこれです」とあります。これは大事なことばです。というもの、このペテロの手紙が書かれた時代には、新約聖書はまだ完成しておらず、書かれた神のことばは旧約聖書だけでした。では、ペテロたちによって宣べ伝えられた福音のことばとは旧約聖書のことなのかと思われるかもしれませんが、そういうわけではありません。むしろ、福音とは旧約聖書のことば、約束がイエス・キリストにおいて成就されたという事実、そのことこそが福音、良き知らせなのです。では、旧約聖書の約束とは何かといえば、それもイザヤ書が明確に述べています。それが52章10節にあります。

主はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現した。地の果てもみな、私たちの神の救いを見る。

イスラエルの神の救いは、イスラエル人だけでなく、全人類に与えられる、これが旧約聖書の約束です。その約束がイエス・キリストにおいて実現した、これが福音なのです。

そのような約束が実現した今、ではクリスチャンはどう生きるべきか、ということを述べているのが2章1節と2節です。

ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。

ここでも、みことばこそが私たちを救うということが言われています。ただ、繰り返しますがみことばはただ聞くだけでは効果はありません。みことばを実行する、実践することを通じてこそ、たましいの救いが実現するのです。

そして、4節以降は、クリスチャンとはそもそもどういう存在なのか、ということが論じられています。クリスチャンは「生ける石だ」と言われているのです。これが今日の説教タイトルなのですが、そう言われて納得できるでしょうか。なんで石なの?と思われるかもしれません。それには訳があります。それはメシア、救世主のことが旧約聖書では「石」と呼ばれているのです。まず詩篇118編22節から24節までを読みましょう。

家を建てる者たちの捨てた石、それが礎の石となった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。

この一節は、ペテロが2章7節で引用している一文ですが、この「捨てられた石」というのがイエス・キリストなのです。この石が、家の礎石となった、となっています。では、ここで言われている「家」とは何のことでしょうか?それは神の家、神殿のことです。家を建てる者たちとは、イスラエルの指導者たちのことです。彼らは神殿を建てようとしますが、イエスのことは拒絶します。しかし、彼らに拒絶された石こそが、本物の神殿、つまり文字通りの石造りの神殿ではなく、霊的な神の民の共同体、つまり教会の礎になるということです。この礎となる石については、預言者イザヤも次のように語っています。イザヤ書28章16節をお読みします。

だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」

ここで言われている「かしら石」というのも、神殿で使われる石です。神殿の四隅に使われる、最も重みがかかる石のことです。その石がイエス・キリストだということです。そう考えると、メシアであるイエス様だけでなく、クリスチャン一人一人が「生ける石」と呼ばれているのか、その理由が分かるでしょう。それは、私たちも霊的な神殿、霊的な神の家、つまり教会の一部になるということです。ペテロはこう言います。

あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

このように、クリスチャンは神の神殿を構成する「石」であるだけでなく、神殿で仕える祭司であり、さらには神殿でささげられる生きたいけにえ、献げものでもあるのです。これと全く同じことを、使徒パウロも述べています。有名な一節ですが、お読みしましょう。ローマ書12章1節です。

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

このように、ペテロもパウロもクリスチャンは神の神殿であり、祭司であり、神への献げものだと述べています。こんなにいろんなことを言われると、ではクリスチャンとは何なのか?と、かえって分からなくなりますよね。ただ、ここでは難しく考えないようにしましょう。「神殿」、「祭司」、「献げもの」はみなユダヤ人の礼拝において必要不可欠なものです。クリスチャンがそれらすべてだ、ということはクリスチャンの存在自体が礼拝そのものなのだ、ということなのです。私たちの生活、神の教えに従う毎日の歩みそのものが神に喜ばれる礼拝だということなのです。

3.結論

まとめになります。ペテロの手紙の今日の箇所は、私たちを神に喜ばれるような存在に変えてくれるものは何か、ということについて書かれています。パウロならばそれは「聖霊」だというでしょうが、ペテロは「神のことば」だと言います。私たちが神のことばに従う時、実践する時に、私たちは変わります。神のことば、神の教えの要約は「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」ということです。私たちが神のことばに素直に従っていくときに、私たちのたましいは清められ、救われるのです。 また、ペテロはクリスチャンとは何であるのかについても語っています。ペテロは、クリスチャンは「生ける石」だと言います。生ける石とは何なのか、と思うかもしれませんが、それは生ける神の神殿、生ける神の礼拝共同体の一員だということです。

ペテロはこうしたことを、二千年前の小アジアのクリスチャンに伝えたのですが、それらはそのまま私たちにも当てはまります。私たちを救うのは「神のことば」であり、私たちもまた「生ける石」なのです。大事なことは、神のことばを聞くだけでなく、実践することです。日々祈りつつ、隣人を愛するということを実践することです。それが私たちを救います。聞くだけにならずに、実践することです。私はこのことを繰り返し言ってきましたが、今日もそれを強調させていただきます。そうすることで私たちも生ける石、生ける神の神殿の一部となるのです。お祈りします。

神のことばを私たちにお与え下さり、私たちを変えてくださる神様、そのお名前を賛美します。私たちがそのみことばを実践し、神の生ける神殿となることができるように、私たちを強めてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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反乱第二サムエル15章1~37節 https://domei-nakahara.com/2025/03/16/%e5%8f%8d%e4%b9%b1%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e3%82%b5%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%83%ab15%e7%ab%a01%ef%bd%9e37%e7%af%80/ Sun, 16 Mar 2025 04:42:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6242 "反乱
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1.序論

みなさま、おはようございます。今日からいよいよサムエル記の後半の最大の山場に入ります。それは、ダビデ王家の第二王子であるアブシャロムが父であるダビデ王に対して反乱を起こすという大事件です。今日はそのいきさつを見て参ります。

この説教の準備として、いくつかの注解書を読みました。すると、どの注解書を読んでも、アブシャロムが反乱を起こしたのは彼の「野心」のゆえだ、というように解説していました。アブシャロムは王になりたいという野心に突き動かされて反乱を起こしたのだと。しかし、本当にそうなのでしょうか。アブシャロムが王になりたいと願っていたとして、彼にはそうなるための手段がいくつもありました。何しろ彼は第二王子で、王位継承権者でした。ライバルはすぐ上の兄のキルアブだけです。彼は才媛のアビガイルの息子でしたが、アビガイルは非常に頭の良い女性でしたから、キルアブも優れた人物だったと思われます。ただ、彼は王になる野心はなかったようです。サムエル記の中でも、彼に言及している箇所はほとんどなく、影の薄い人物です。おそらく彼は利口な人で、王位継承権争いにかかわるとろくなことはないと、そういう争いから一貫して距離を置いていたと思われます。キルアブがそのような人物だったとするならば、アブシャロムが王になるための強力なライバルにはならなかったでしょう。アブシャロムには兄殺しという過去がありますので、普通ならば王になる可能性はそれでなくなるのですが、前回見たようにダビデは実質的に彼の罪を赦しています。ですから、彼は待っていれば機が熟して王になる可能性が最も高い人物なのです。

そう考えると、アブシャロムの最終的な目的が王になるということならば、彼は反乱、クーデターなど起こす必要はなかったのです。クーデターというのは非常に危険な手段です。伸るか反るか、一か八かのばくちです。日本の有名なクーデターは二・二六事件ですが、失敗しています。アブシャロムがダビデ王から命を狙われていて、その危険を回避するために反乱を起こしたというのなら分かりますが、そのようなことは全くなかったのです。そう考えると、アブシャロムが反乱を起こしたのは王になりたいという野心のためではなかったということになります。では、なぜ彼はこのような強硬手段に訴えたのでしょうか?

それは「復讐」です。アブシャロムは5年前に自分の兄であり、第一王子であったアムノンを殺害していますが、それはアムノンがアブシャロムの王になるという野心のための障害だったからではありません。アブシャロムは王になりたかったから、王位継承権第一位の人物を殺したわけではなかったのです。つまりクーデターではなかったということです。ではなぜそうしたのか?それは「復讐」です。アムノンはアブシャロムが非常に大切にしていた妹タマルを強姦し、タマルはそのショックで閉じこもりになってしまいました。アブシャロムが妹タマルをどれほど深く愛していたのかは、彼が自分の娘にタマルという名を付けたことからも分かります。妹をそんな悲惨な状況に追い込んだアムノンは、第一王子として何のお咎めもなく、のうのうと生きています。そしていずれは王になろうとしていうのです。アブシャロムはそれがどうしても許せませんでした。そこで、二年間も待って、仇討をすることにしました。彼はすぐにも復讐したいと思ったでしょうが、しかし当然アムノンも警戒しているので、相手が油断するのを待って二年も自重したのです。

さて、先ほど「仇討」という言葉を使いましたが、仇討と聞いて思い浮かべるのが赤穂浪士でしょう。大石内蔵助率いる四十七人が吉良上野介に仇討をした話です。しかし、実は大石が復讐したかったのは、吉良だけではなく、同時に片手落ちの裁定を下した江戸幕府そのものだったという話があります。喧嘩両成敗という武士の定めがあったのに、浅野内匠頭は即日切腹、吉良はお咎めなしというのはおかしいではないか、ということです。ですから大石たちの仇討の背景には江戸幕府への異議申し立てがあったのです。アムノンを暗殺したアブシャロムにも、同じような思いがあったでしょう。アブシャロムは妹を辱めたアムノンに激しく怒っていますが、娘のために何もしなかった父親に怒り、また王でありながら正義を行わなかったダビデに激しく怒っていたのです。ではダビデはなぜ正義を行わなかったのか?それは保身のためでした。アムノンの強姦の罪を裁くなら、同じく強姦を犯した自分の罪も蒸し返されてしまうからです。それでも、アブシャロムにも父王への期待があったものと思われます。アブシャロムはダビデに対して逆らったり、危害を与えるようなことは、この五年間一切ありませんでした。その間、アブシャロムはダビデが何をするのかをじっと見ていたのです。もしかすると、ダビデは王として正義を回復するために行動してくれるのではないかという期待があったのです。しかし、ダビデは何もしませんでした。本当に、何もしなかったのです。これはアブシャロムを心底失望させました。そして彼はついに行動を起こすのです。

2.本論

それでは、今日のテクストを見て参りましょう。アブシャロムは実質的にアムノン殺害の罪について不問に付されることになりました。アブシャロムには行動の自由が与えられたわけですが、彼が始めに行ったのが私兵団を作ることでした。戦車と馬、それに五十人の兵士でした。ボディーガードにしては、かなり大規模な私兵です。アブシャロムはすでにこの時点で来るべきダビデとの対決を決意したのでしょう。

これまで申し上げたように、アブシャロムはすでにダビデを見切っています。ダビデは王としては相応しくない、ダビデは王位から追放されるべきだと考えています。ここで強調したいのは、アブシャロムの動機は自分が王になりたいというより、ダビデを王位から追い出したいということだったということです。アブシャロムはアムノンに裁きを下しました。そして今度はダビデに裁きを下そうとしていたということです。

しかし、アブシャロムは慎重な人間でもあります。アムノン暗殺にも二年間の時間をかけました。今度はさらに強大な相手、ダビデです。彼は少しずつ自分のシンパを増やそうとしました。彼が特に標的にしたのは、「ダビデは裁き人として正しいだろうか?」という疑問を抱いている人たちでした。そもそも、アブシャロムがダビデに不満をいだくようになったのは、アムノンがタマルを強姦した罪を裁かなかったことでした。この大きな罪を放置したダビデには、裁判官、裁き人になる資格はないのではないか、というのがアブシャロムの疑念だったのです。

また当時は、多くの人が争いの仲裁を求めて王であるダビデに訴えをしていましたが、当然ダビデの仲裁に不満を持つ人もいます。ダビデに自分に有利な裁定を下して欲しかったのに、そうではなかった、がっかりしたという人たちがいたわけです。そうした人たちにアブシャロムは近づいていきました。ダビデが裁き人として正しくないとアブシャロムが言うと、それには説得力がありました。なぜなら人々はタマル事件のことを知っており、アブシャロムがダビデの裁き人としての資格に疑問を呈するのを理解できたからです。こうしてアブシャロムは段々と自分に味方する人、シンパシーを感じる人を増やしていきました。アムノン暗殺にはアブシャロムは二年かけましたが、ダビデに反旗を翻す準備をするのには二倍の四年をかけました。ここからも、アブシャロムという人が目的を達するためには非常にしっかりと準備をする人物だったことが分かります。

そして四年が経った後、アブシャロムはダビデにヘブロンに行くことを願い出ました。ヘブロンは、ダビデがエルサレムに首都を移転するまでは、ダビデが王として治めていた重要な地です。エルサレムにはまだ神殿が建っていないので、ヘブロンは未だに宗教の中心地であったのでしょう。アブシャロムは亡命先のゲシュルから帰国できたことを感謝するためにヘブロンに行きたいとダビデに願いました。ダビデは何の疑いも抱かず、アブシャロムの願いを聞き入れます。しかし、アブシャロムはそこで重大な行動を取ります。アブシャロムはイスラエルの王になると宣言したのです。ヘブロンは、エルサレムに王都が移る前に七年間も王都だったので、首都機能はすべて揃っています。有力者も多く残っていたことでしょう。また、アブシャロムはエルサレムからヘブロンに行くにあたって、二百人の有力者を連れて行きました。彼らはアブシャロムの行動について何も知らなかったので、ある意味で人質のような形になりました。アブシャロムを支持するならば良し、そうでなければ軟禁されてしまったものと思われます。

アブシャロムはさらに、軍師を呼び寄せます。軍師とは、三国志の諸葛孔明のような、すごく頭の良い人です。その軍師の名はアヒトフェルです。この人物は今後非常に重要な役割を果たすことになります。この人物について、16章23節にはこう書いてあります、「当時、アヒトフェルの進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることばのようであった。」つまりアヒトフェルは神のごとく知恵のある人だったということです。そして、より重要なのは、彼はあのバテ・シェバの祖父、おじいさんだということです。そのような人がダビデに対する反乱軍に加わったのです。しかし、今やバテ・シェバはダビデの妻です。ダビデと彼女との間に生まれたソロモンは、王位継承権を持つ者であり、アブシャロムとはライバルだということになります。アヒトフェルが自分の子孫であるソロモンをイスラエルの王にすることができれば、アヒトフェルの一門は大変栄えることになります。ではなぜ、アヒトフェルはライバルであるアブシャロムに加勢しようと思ったのでしょうか?ここからはわたしの想像なのですが、おそらくアヒトフェルはバテ・シェバの夫であるウリヤがダビデによって謀殺されたことを心底怒っていたのだと思います。彼は孫娘のバテ・シェバの夫であるウリヤの誠実な人柄を快く思っていたのでしょう。その彼が、妻をダビデに寝取られて、さらには騙されて戦死してしまったことはアヒトフェルにとっては大変ショックな出来事であったと思われます。しかも、孫娘のバテ・シェバはダビデの妻に収まってしまったのです。こんなことを許してよいのか、という怒りを抱き続けていました。そんな彼だったからこそ、アブシャロムがダビデに抱いた怒りをよく理解できたし、共感すらしたことでしょう。ですから、アヒトフェルはあえて火中の栗を拾う形で、クーデターに加勢することにしたのだと考えられます。これはダビデ陣営にとっては大変な痛手です。なにしろ、イスラエル最高のブレーンがアブシャロム陣営に加わってしまったのですから。

アブシャロムがヘブロンで起こした行動は、すぐさまエルサレムにいるダビデに伝えられました。その時にダビデはどうしたか?アブシャロムが王になると宣言したからといって、ダビデが直ちに窮地に陥るわけではありません。なにしろエルサレムは難攻不落の要塞都市です。ずいぶん後の時代の話ですが、超大国であるバビロンやローマですら、エルサレムを陥落させるためには何年もかかっています。ダビデには親衛隊もいますので、アブシャロム軍が攻めて来たとしても十分に応戦できるはずです。そしてダビデが断固戦うという姿勢を示せば、大多数のイスラエルの人々もダビデに従ったでしょう。何と言っても、ダビデは生ける伝説、あのゴリヤテを石礫で倒した人物です。その彼が号令をかければ、若いアブシャロムなど一ひねりだったでしょう。しかし、なんとダビデは一目散にエルサレムから逃げ出すことに決めたのです。昔はダビデは勇猛果敢な勇士でしたが、王となってからのここ数年は戦場に出ることもせずに、面倒なことは全部ヨアブに任せてきました。自分の部下たちが命がけで戦っているのに、その部下の奥さんと不倫をするようなだらしのない王になっていました。そのダビデが、この国家の危機に臨んで果敢な行動に出れるかといえば、そうもいきません。普段からぶらぶら遊んでばかりいる王様が、いきなり国家の危機に臨んで勇敢に行動できるはずがないのです。これまでもダビデは、過去に大きなトラブルがいくつもありました。アムノンによる王女タマルの強姦や、その第一王子であるアムノンの暗殺という国を揺るがす大事件が起きた時にも、何もしませんでしたが、今回もなにもせずに、王都を捨てて当てもない旅に出るということにしたのでした。

このように、ダビデは巨人ゴリヤテと勇敢に戦った若い頃とは違って、難敵に立ち向かうための気迫がありませんでした。彼は王という周りが何でもやってくれるという立場に長くいたために、きつい言い方ですが骨抜きにされてしまっていたのでした。同時に、ダビデの中にはアブシャロムと戦いたくないという気持ちが強かったように思います。後にヨアブたちがアブシャロムに対して反撃するときにも、アブシャロムを私に免じて見逃してほしいと頼んでいます。相手が自分の息子だということも、ダビデが戦うことを一顧だにせずに、すぐに逃走することを選んだ理由の一つでしょう。

そのようなダビデですが、部下たちは健気にも彼を見捨てずについて来てくれました。それもイスラエル人だけでなく、イスラエルの敵国のペリシテ人のガテ人もついて来てくれました。そのリーダーがイタイという人でした。彼らはイスラエル人ではないので、いわば傭兵のような立場なのですが、彼も部下たちと共に落ち延びるダビデに従ってくれました。しかしダビデにも、外国人に頼ることに不安を感じていたようです。あなたがたは私と一緒に来る必要はない、あの王のところにとどまりなさい、と言います。「あの王」とはアブシャロムのことです。ダビデがあたかもアブシャロムを王として認めているような言い方です。なぜこんな言い方をしたのかといえば、おそらくダビデはイタイのことを試したのだと思います。この男は信用できるのか、忠誠心はあるのか、ということを試したということです。そのダビデに対し、イタイは「生きるためにも、死ぬためにも、しもべも必ず、そこにいます」とまで言い切っています。そこでダビデも彼を信用して一緒に連れていくことにしました。この問答からも、ダビデはエルサレムを放棄したといっても、王位を諦めてしまったわけでは決してなく、チャンスを待って復権を果たそうとしていたことが分かります。ダビデは信頼のおける仲間を選んで自分の周りに置いて、反転攻勢の機会を探ろうとしていたのです。ダビデはすっかり腑抜けになってしまったわけではなく、まだしたたかさを失っていなかったのです。

ダビデのしたたかさは、次の行動からも伺えます。ダビデが逃げ延びるときに、彼に従う人たちは「契約の箱」も一緒に持ち運ぼうとしました。この契約の箱は、日本の天皇家の「三種の神器」のようなもので、王の正統性を示すシンボルのような意味を持っています。ダビデが自分こそ正統な王であるということを示すために、契約の箱はなんとしても奪われるわけにはいかないのです。しかし、なんとダビデはこの契約の箱をエルサレムに残していくことを決断します。それはなぜか?ダビデはここで、契約の箱を「トロイの木馬」のように用いようとしたのです。トロイの木馬とは、敵国への贈り物の木馬の中にスパイを忍び込ませて、敵の内側に入り込んだというギリシアの有名な話です。ダビデも、この契約の箱と同時に、契約の箱を持ち運ぶことのできる人たち、すなわちレビ人の指導者たちをスパイとしてアブシャロムの下に送り込もうとしたのです。アブシャロムも、「契約の箱」を自分の下に届けてくれたということで、彼らを信用するでしょう。自分に寝返ってくれたのか、と。それがダビデの狙いでした。ダビデは、これから大祭司の家系を担っていくツァドクとその息子たちをアブシャロムにところに送り出してこう言います、「よく覚えていてもらいたい。私は、あなたがたから知らせのことばが来るまで、荒野の草原で、しばらく待とう。」この言葉の意味は、しばらくアブシャロムの下でスパイとして働いて欲しい、そしてチャンスが来たら、私に知らせてほしいということです。

しかし、そのダビデの下に頭を抱えたくなるような知らせが届きました。それはあの神のごとき知恵者のアヒトフェルがアブシャロムの陣営に付いたという知らせでした。アブシャロムは、先ほども言いましたが諸葛孔明のような人物です。そんな人物がアブシャロムの陣営に付いてしまったのです。そこでダビデはここでも一計を案じます。アブシャロムに対抗できる知恵者、諸葛孔明に対する司馬懿仲達のような人物をアブシャロムのところにスパイとして送り込むことにしました。その人物の名はフシャイです。ダビデはフシャイに、「あなたは、私のために、アヒトフェルの助言を打ちこわすことになる」と言って彼を送り出しました。

こうしてみると、武人としてのダビデはすっかり影を潜めていますが、老練な政治家としてのダビデは面目躍如ということになるでしょう。

3.結論

まとめになります。今回はアブシャロムが謀反を起こし、それに対してダビデがどのような行動を採ったのかということを見て参りました。特に強調したのは、アブシャロムが反乱を起こしたのは、王になりたいという野心のためではなかったということでした。彼が本当に王になりたかったのなら、クーデターなどという非常に危険な行動を採る必要はありませんでした。むしろおとなしくしていたほうが、王になるチャンスは大きかったでしょう。ではなぜ彼は反乱を起こしたのか?それは、ダビデは王としてふさわしくないということを彼が見切って、彼なりにダビデに裁きを下そうとしたということでした。ダビデは王でありながら、国家を揺るがす大事件に対して何の行動もとらない、そんな人物を王に留めておいてはならないと信じたのです。 

そしてこのアブシャロムの背後には神のご意思、御心があったのは間違いないと思います。ダビデに次から次へと家族の不幸が起るのは、神がダビデに自らの罪に向き合うように促しているからだと言えます。ダビデはバテ・シェバ事件をもう終わったことにしてしまおうとしましたが、そうはいきませんでした。自らが蒔いた種を刈り取らせるというのが神の御心でした。しかしダビデが自分の罪から目をそらすたびに、新しい不幸がダビデを襲います。それがついには国を揺るがす内戦へとつながってしまったのです。

私たちもここから重要な教訓を学ぶべきでしょう。キリスト教は「罪の赦し」を強調します。では、罪の赦しとはどのように実現するのでしょうか?祈って、「神様、ごめんなさい。わたしはこんな罪を犯してしまいました」と告白すればよいのでしょうか?確かに神に赦しを求めることは重要です。しかし、それだけでは済まないということです。私たちは罪を犯した相手に対し、また自分の罪そのものに真摯に向き合う必要があります。水に流すのではなく、その結果に真摯に向き合わなければなりません。誰かに危害を加えてしまったのなら、その相手から赦してもらうのがどんなに大変でも、そのために努力しなければなりません。相手に真摯に向き合わなければなりません。神様が赦してくれたからそれで終わり、ということではないのです。その努力をしないと、ダビデのように自分の犯した罪から追いかけられる人生になってしまうでしょう。主イエスも神殿での礼拝よりも人との和解を優先しなさいと教えました。それは礼拝を軽んじてもよいという意味ではもちろんありませんが、それぐらい和解のために真剣に行動しなさいということです。そのようなことを思いめぐらしつつ、今後もサムエル記を読んで参りましょう。お祈りします。

公平な裁き主である神よ、そのお名前を賛美します。主がえこひいきせず、誰をも公平に裁かれることをダビデの生涯から学んでいます。私たちもそこから神を畏れることを学ぶことができますように。われらの救い主、平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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アブシャロム第二サムエル14章1~33節 https://domei-nakahara.com/2025/03/09/%e3%82%a2%e3%83%96%e3%82%b7%e3%83%a3%e3%83%ad%e3%83%a0%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e3%82%b5%e3%83%a0%e3%82%a8%e3%83%ab14%e7%ab%a01%ef%bd%9e33%e7%af%80/ Sun, 09 Mar 2025 04:28:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6229 "アブシャロム
第二サムエル14章1~33節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。サムエル記もいよいよ終盤に入って参りました。これからのサムエル記は、ダビデ王朝の第三王子、いえ第一王子のアムノンが殺されているので今や第二王子になりますが、そのアブシャロムを中心に展開していきます。ダビデはライバルであったサウル王家を滅ぼし、周辺民族や国家も次々と征服し、今や盤石な権力を手に入れたはずだったのですが、なんと最大の敵は内側に、その家族の中から出て来たのです。ダビデにとっての最大のライバルはその息子となったのです。

次回の話になりますが、アブシャロムはこれから父であるダビデ王に対して反乱を起こします。とはいえ、アブシャロムはもともと王位継承権第三位にあり、しかも彼の二人の兄たちはとても有能とは言えない王子たちだったので、反乱など起こさなくても父ダビデと良好な関係を維持し、宮廷でうまく立ち回って廷臣たちの支持を集めていれば、兄たちに先んじておのずと王位は手に入ったでしょう。反乱などというリスクを冒さなくても、気が熟せばいずれ王の地位は手に入ったはずです。アブシャロムは外見も素晴らしかったですが、同時に実力を兼ね備え、頭もよく勇気のある人物でした。彼こそ王に相応しいと思っていた人は多かったでしょう。ではなぜアブシャロムは反乱という最もリスクの高い方法に訴えてしまったのでしょうか?その謎を解くカギがあるのが今回の記述です。

今回の話は、一読すればダビデ王とアブシャロムの和解の話であるように見えます。ダビデとアブシャロムの親子は、三年間プラス二年間、つまり五年間の音信不通の冷却期間を経て、今やイスラエル王国の実質的ナンバーワンの実力者ヨアブの仲裁によって、公式に和解したように見えます。今回の最後の一文、「王はアブシャロムに口づけした」というのはそれを象徴する行為に思えます。しかし、実際にはこの後アブシャロムはダビデ王を打倒するための準備を着々と進めていきます。つまり、アブシャロムは父と和解するどころか、激しい憎悪を募らせていったのです。では、なぜアブシャロムは父ダビデをこれほど激しく憎むようになったのでしょうか?父からひどい扱いを受けた、いわゆるチャイルド・アビューズ、父からの虐待を受けてきたからでしょうか?いいえ、そうではありません。むしろ、アブシャロムは父から愛されて育ってきました。では何が不満だったのか?それは、ダビデが何もしなかったことなのです。何もしない、王としても父としても何もしなかったのです。これが心底アブシャロムを失望させ、それがついには殺意にまで至ってしまったのでした。

前回から今回の話まで、ダビデの家には様々な大事件が起こりました。最初に起った事件は、なんと兄が妹を強姦するという、前代未聞のスキャンダルでした。しかもその兄というのは王位継承権第一位、ダビデの次に王になるべき第一王子のアムノンだったのです。日本人にとっては、次期天皇になる皇子が妹を強姦したというような話です。まさに耳を疑う大スキャンダルです。しかし、そんな大事件を聞いたダビデは何をしたでしょうか?驚くべきことに、何もしなかったのです。その話を聞いたダビデは激しく怒りましたが、にもかかわらず恐るべき罪を犯した第一王子に何の処分も下しませんでした。こんなことがあり得るでしょうか?父親が強姦された娘のために何もしないなどということがあってよいのでしょうか?しかし、ダビデは何もしませんでした。辱められたタマルは、未来にすっかり失望してしまい、家に引きこもってしまいました。他方で、強姦したアムノンはお咎めなしで、のうのうと第一王子の地位にいます。タマルの兄のアブシャロムはアムノンに激しい怒りを覚えましたが、実の娘のためになにもしてくれないダビデに対しても強い憤りを覚えていたのも間違いないでしょう。

この第一の大事件が、第二の大事件を生み出します。今度は第一王子が殺害されるという事件です。また物騒なたとえで申し訳ないのですが、日本人にとっては次期天皇陛下になられる皇太子が殺害されるというような事件です。まさに国家を揺るがす事件です。しかも、第一王子を殺したのは第三王子なのです。王であるダビデは当然、国家反逆罪を犯した第三王子のアブシャロムを処罰しなければなりません。アブシャロムは母親の実家であるゲシュルという国に逃げ込みました。アブシャロムの母はゲシュルの王の娘でしたので、アブシャロムは王の孫ということになります。さすがのダビデ王も同盟国との戦争になりかねないことから、アブシャロムの引き渡しを求めることは出来なかったのかもしれません。しかし、ヨアブの策略によって三年後にアブシャロムはエルサレムに帰ってきました。そしていくらアブシャロムは王子だといっても、第一王子を殺害した大罪人です。ダビデ王は彼に相応しい裁きをくだす必要があります。そうでなければ、国の秩序は滅茶苦茶になってしまいます。にもかかわらず、今回もダビデは何もしませんでした。むしろ厄介事を避けるかのように、アブシャロムを無視し、二年間も会おうとはしませんでした。放置され、飼い殺しのようになったアブシャロムはイライラします。イライラしただけでなく、ダビデに対する不満や怒りが一層大きくなったでしょう。

ではなぜダビデは、この国家的犯罪ともいうべき二つの大事件について何もしなかったのでしょうか?そこには、王としての深謀遠慮があったのでしょうか。いいえ、そうではないでしょう。むしろダビデは個人的な理由からこうした問題に関わることから逃げたのだというのが私の見方です。まずアムノンによるタマルの強姦ですが、実はダビデ自身も全く同じ罪を犯していました。人妻であるバテ・シェバを強姦し、あろうことか彼女の夫でありダビデに忠実な兵士であるウリヤを策略によって謀殺してしまいました。しかし、ではダビデはこの恐ろしい罪の罰を受けたでしょうか?いいえ、彼は何の罰も受けませんでした。むしろ、自分は神に赦されたのだからということで、罰を受ける必要がないと正当化していたようにすら見えます。そんなダビデが、全く同じ罪を犯した息子に対して、自分は無罪にしたのに息子は厳罰に処するなどということができたでしょうか?いえ、さすがにそれはできませんでした。息子を裁けば、「王様は自分のやったことには何の責任も取らず、ウリヤの奥さんを我が物にしたのに、息子には責任取らせるんだ。サイテー」みたいな噂が立ってしまったことでしょう。それでダビデはアムノンの大罪を不問に付しました。その結果、一番の被害者はタマルでした。強姦されたのに、暴行した側の男は何のお咎めもなしです。それを知った世間は、「タマルもその気があったんじゃないの。だからアムノンは裁かれないんじゃないの。兄と妹の禁断の愛なんて、不潔よね」というような噂が立ってしまったことでしょう。そんな噂が流れれば、結婚前の若い女性からすれば死刑宣告も同じですよね。そのために、花のように美しい、明るい未来が待っていたはずのタマルは世捨て人のように兄の家で引きこもりになってしまいました。自分がかわいがっていた妹のタマルをこんなことにさせられて怒ったのは兄のアブシャロムでした。彼は暴行魔のアムノンに復讐を誓います。

そして、前回の説教でお話ししたように、アブシャロムは二年間も我慢して、機会を待ちました。アムノンを油断させるためです。そして、アブシャロムはアムノンに裁きを下しました。しかし、王であるダビデがアムノンを正しく裁いてくれていたのなら、アブシャロムはそんなことをする必要はなかったのです。そういう意味では、アブシャロムは無責任なダビデによる被害者だということになります。しかし、そうはいってもアブシャロムはクラウン・プリンスを殺した大罪人です。この人物は国家の基盤を揺るがせたのです。そのアブシャロムをダビデがどう扱ったのか、というのが今日の箇所です。では、その顛末を詳しく見て参りましょう。

2.本論

では1節です。ここではダビデがアブシャロムに「敵意をいだいていた」とありますが、この訳は行き過ぎであると思われます。ダビデがアブシャロムを憎んでいたのなら、ヨアブはどうしてアブシャロムをわざわざダビデのところに連れて来たのでしょうか?アブシャロムを殺したかったのでしょうか?いいえ、むしろヨアブの狙いはアブシャロムの復権でした。ですから、ヨアブはダビデが実はアブシャロムと会いたがっているので、その主君の思いをおもんぱかってアブシャロムを連れ戻そうとしたのでしょう。実際、「敵意をいだいていた」と訳されている箇所を直訳すれば、「ダビデの心はアブシャロムに向かっていた」となります。別に憎んでいたという意味ではないのです。敵視していたという意味は一つの選択肢としてはあり得ます。しかし基本的な意味は、単に向いているというものです。ヨアブは、ダビデは実はアブシャロムのことを気にしているのに気が付いて、いわば忖度してダビデのためにアブシャロムを戻らせようとしたのです。実際、最新の聖書訳である聖書協会共同訳では「ツェルヤの子ヨアブは、王の心がアブシャロムに傾いているのに気付いた」となっています。私たちの使っている新改訳の最新版でも「王の心がアブシャロムに向いている」と、従来の訳を訂正しています。 

ただ、ダビデも対面というものがあります。大罪を犯したアブシャロムのことを赦して帰国させるということは、王である自分からは言い出せないことです。王様は自分の子どもだけえこひいきしていると言われてしまうからです。そこでヨアブは、ダビデがアブシャロムを赦すと言わざるを得ない状況を作ってあげようとしたのです。ヨアブは、先にダビデの罪を暴き出した預言者ナタンのやり方を真似ることにしました。ナタンは、金持ちの男が自分の多くの家畜の一匹を屠ることを惜しんで、貧しい人のたった一匹の羊の奪い取った話をしました。ダビデはその話を聞いて怒り、そんなひどいことをした金持ちの男は死刑だ、と宣言しました。しかし、実はこの金持ち男はダビデだったという落ちがきます。

ヨアブはそれとまったく同じことをしました。ダビデのもとに、テコアというダビデの出身地であるベツレヘムからほど近い村からやってきた女性がいました。彼女はダビデの前で身の上話を始めます。彼女の夫は死んで、ふたりの息子が残りました。しかし、このふたりの息子が喧嘩をして、なんと一人がもう一人を殺してしまうという事件が起きてしまいました。この哀れな女性は夫と息子を相次いで失くしてしまったことになります。当時は女性は一人では生きていけない時代ですから、今やこの女性の最後の頼みの綱は、残された息子だということになります。しかし、この息子はもう一人の息子を殺した殺人者です。ですから親族全体はこの息子を殺せと母親に詰め寄ります。この女性は困り果てて、なんとかこの息子を救ってほしいとダビデに願い出たという、このような話でした。

ダビデはこの女を哀れに思い、王命として彼女の息子の恩赦を命じました。そして、自分の裁定に文句をいう人がいたら、その者を自分の所に連れてこいと命じました。ここで注意していただきたいのは、ダビデはここで兄弟殺しの罪を恩赦するという前例を作ったということです。実際は、この女性の話は作り話だったので、この恩赦も実際には意味のないものではあるのですが、それでも事実としてダビデは兄弟殺しの罪を赦すという前例をここで作ったのです。そこで、ヨアブの意を受けたこの知恵のある女はこの機会を見逃しませんでした。あなたは兄弟を殺した私の息子を赦した、それではなぜあなた自身の子どもを赦さないのか、と。ここでこの女はナタンと全く同じことをしたのです。つまり、あなたが赦すと語った息子は、あなた自身の息子なのだと。

ダビデは非常に頭の良い人ですから、ここですべてのカラクリに気が付きました。つまりこの女の話はすべて作り話であり、自分にアブシャロムへの恩赦を与えるように促すために仕組まれたものだと。そして、こんな大胆な仕掛けを王であるダビデに行えることができるのは一人しかいないと。それはヨアブです。今や王であるダビデすら、コントロールできない人物がヨアブです。そのヨアブが、この女を遣わしたのだとすぐに見破りました。そして女にそのことを問いただすと、女も白状しました。これはすべてヨアブの指図でやったのだと。そこでダビデはヨアブを呼んで、彼の願い通りアブシャロムを連れ戻してもよいといいます。ヨアブも喜び、すぐにゲシュルに向かってアブシャロムを迎えに行きました。

さあこれでめでたし、めでたし、となりそうなものですが、そうはいきませんでした。なぜならせっかくアブシャロムが戻ってきたのに、ダビデは彼に謹慎を命じて会おうとはしなかったからです。ダビデとしては、ここでアブシャロムに会うと彼の第一王子暗殺の件を追求せざるを得なくなる、そうして彼を裁くことになってしまうので、それは避けたいというある種の親心があったものと思われます。彼は決してアブシャロムを憎んではいなかったのですから。しかし、アブシャロムの方はそうは受け止めませんでした。三年も亡命して、やっと祖国に帰ってきたのです。しかし、そこでは自由を奪われ飼い殺しのような状態です。彼も第一王子を殺した以上、何らかの処罰は免れないという覚悟はあったでしょう。しかし、このようなどっちつかずの状態にとどめ置かれるということは予想していませんでした。こんなことなら、ゲシュルに留まっておればよかった、そこでは行動の自由もあったのだから、という気持ちになってきました。そして私が思うに、ダビデ王に対する決定的な敵意が生まれたのはこの期間ではないかと思います。つまり、ダビデは父としてだけでなく王としても失格だと。彼には決断ができない、面倒なことから逃げようとしている、そういう客観的な目で、もっと言えば冷徹な目でダビデを見るようになったものと思われます。五年という期間は大変長い期間です。もう怒りや激情に任せて、ということではなく、冷静にダビデを切る覚悟が出来て来たように思います。そこで彼は行動を再び起こします。ヨアブを無理やり動かして、王ダビデとの再会を迫ったのです。

こうして五年ぶりにダビデとアブシャロムとの再会が叶いました、ダビデとしては、万感の思いがあったでしょう。彼はずっとわが子アブシャロムのことを慕っていたのですから。ダビデがアブシャロムに口づけしたというのはもちろん本心から出た行動でしょう。しかしアブシャロムの心は冷え切っていました。妹タマルの名誉回復のためにはなにもせず、自分自身のことについてもヨアブにせっつかれるまでは何もしないダメな父王、無能な王だという侮蔑の思いすらあったように思います。

3.結論

まとめになります。今回はダビデとアブシャロムが一見すると和解したように見える場面に至るまでの、ダビデとアブシャロムの親子の心の動きを考えながら見て参りました。ダビデはまったく主体性に欠けた人物として描かれています。次々と起きる家族の悲劇的状況を傍観するだけの王です。そんなダビデに愛想を尽かせてしまったのがアブシャロムでした。彼はついにはダビデに対して殺意すら抱くようになってしまったのです。

この悲劇的結末に向かっていく事態を、どうすればよかったのでしょうか?ダビデはどこで間違えたのでしょうか。私には、問題は明らかであるように思えます。たとえば皆さんが会社に勤めているサラリーマンだとします。その社長がワンマン社長で、誰も逆らえないような人物であり、なんとその社長が部下の奥さんを凌辱し、その恥ずべき行為がばれないようにその部下を戦争が行われている非常に危険な国の駐在員にして、そこで紛争に巻きこまれて死ぬように画策したとします。しかしその一連の悪事が暴露された後、その社長は熱心なクリスチャンで、教会で自らの罪を涙ながらに懺悔し、教会も彼の罪を赦してくれたということでその社長の座に留まり、殺した部下の奥さんを愛人として囲っていたとします。そんな社長のいる会社で、あなたはこれからも働き続けたいと思いますか?ダビデはまさにそんな社長だったのです。いくら神に赦されたといっても、何の責任も取らない社長というのはあり得ないでしょう。せめて辞任して、殺してしまった部下への償いとして残りの生涯は社会奉仕をするとか、そういうことでもしなければ誰も納得しないでしょう。ですから、こんなことを言う牧師はいないかもしれないでしょうが、私はダビデは少なくとも退位すべきだったと思います。バテ・シェバを妻にするべきではなかったとも思います。ダビデが厳しく自分自身を律していれば、アムノンが同じような罪を犯したときに彼を厳しく罰することも出来たでしょうし、そうすればアブシャロムによる兄殺しの罪も起こらずに済んだのです。ですからすべてはダビデが自分に甘すぎた、神の赦しという大義名分に安住して自分の罪に向き合わなかったことから起きたことだと言えます。

教会は、キリスト教は確かに赦しの宗教です。大きな失敗をしてしまった人をただ切り捨てるのは教会としての正しい姿とは言えないでしょう。しかし、同時に赦しというものを安易に考えたり、あまつさえ悪用してもならないのです。たとえ神に赦していただいたとしても、罪を犯してしまった相手に真摯に向き合う、その人に対してできる限りの謝罪を行動によって示していかない限り、真の和解は成立せず、むしろ人間関係も社会も崩壊してしまうということがあるのです。今日の教会は、教会戒規というものを非常に嫌います。教会戒規とは、大きな罪を犯した教会員に対し、公の司法の場ではなく、教会として何らかの罰則を科すことです。しかし、今日では教会戒規は有名無実化していく傾向があります。たとえば不倫などの罪を教会員が犯したことが判明した場合でも、「イエス様も姦淫の女を裁かなかったじゃないか」というような話を持ち出してうやむやにしてしまう傾向があるのではないでしょうか。しかし、裏切られた配偶者のことはどうなのか、また崩壊した家族で絶望し途方に暮れる子どもの気持ちはどうなのか、ということを考えると、そういう問題を教会が「赦し」ということで曖昧にしてよいものか、という問題意識を私は持っています。先ほどのイエス様の姦淫の女の話も、あれはイエスを陥れようとした罠であって、一般化すべき事例ではないことも申し添えておきます。確かに私たちは弱い存在であり、完璧な人などいません。実際に、いろいろな過ちを日々犯してしまうものです。自分がそうした罪深い存在であるということは決して忘れてはならないことです。それでも、他の人の人生を狂わしてしまうような性質の罪、しかもそういう罪を故意に犯すということは見逃すことはできないということも言うべきでしょう。私たちは自分の行動が他の人に及ぼす影響の責任を取らなければならないのです。今の世の中は不倫などに寛容でもあるので、厳しいことを言うと嫌われてしまうことを恐れてしまいがちです。しかし、こうしたことを曖昧にしてしまった結果どうなるのか、ということを、これからのダビデの生涯から学んで参りたいと思います。お祈りします。

歴史を統べ治める神様、そのお名前を賛美します。今朝はダビデとアブシャロムとの破局に向かう親子関係から、私たちが罪にどう向き合うべきかを考えて参りました。そこから正しい教訓を得られるように私たちに知恵をお与えください。われらの平和の主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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自分を低くするということ-レビ(マタイ)とザアカイの回心からルカ福音書5章27-32節; 18章9-14節; 19章1-10節嶋田浩一 https://domei-nakahara.com/2025/03/02/%e8%87%aa%e5%88%86%e3%82%92%e4%bd%8e%e3%81%8f%e3%81%99%e3%82%8b%e3%81%a8%e3%81%84%e3%81%86%e3%81%93%e3%81%a8%ef%bc%8d%e3%83%ac%e3%83%93%ef%bc%88%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%ef%bc%89%e3%81%a8%e3%82%b6/ Sun, 02 Mar 2025 04:40:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6214 https://domei-nakahara.com/media/Lower%20oneself.MP3

*今回の奨励は録音のみで、原稿はありませんが、ぜひ録音をお聞きください。

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