礼拝メッセージ – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 調布 深大寺のプロテスタント教会 Sat, 07 Feb 2026 00:41:43 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.3.20 https://domei-nakahara.com/wp-content/uploads/2020/03/cropped-favicon-32x32.png 礼拝メッセージ – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 32 32 悪霊を追い出すマタイ福音書8章28~34節 https://domei-nakahara.com/2026/02/01/%e6%82%aa%e9%9c%8a%e3%82%92%e8%bf%bd%e3%81%84%e5%87%ba%e3%81%99%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b88%e7%ab%a028%ef%bd%9e34%e7%af%80/ Sat, 31 Jan 2026 23:45:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=7210 "悪霊を追い出す
マタイ福音書8章28~34節" の
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みなさま、おはようございます。私たちはマタイ福音書を読み進めていますが、だんだんと重要なテーマが出てきます。マタイ福音書では、まずイエスの教えをまとめた「山上の垂訓」があり、次いでイエスのいくつかの重要な癒しの出来事があり、そして今回は悪霊払いです。悪霊払いがイエスの宣教活動における重要な柱の一つだったということは広く知られていますが、実はマタイ福音書では今回の箇所が最初の場面です。

ただ、悪霊払いと聞くと、なんだかおどろおどろしい感じがしますよね。アメリカ映画でずいぶん前ですが、「エクソシスト」という映画が大きな話題を呼び、その後もそれに類する映画がいくつも作られてきました。ローマ・カトリック教会には悪霊払いを主な任務とするエクソシストと呼ばれる聖職者が今でも現実に存在するのですが、そうしたエクソシストたちが人間にとりついた悪霊と戦うというのがそれらの映画の内容です。私はそういう映画が割と苦手で、まともに全部を通して見たことがないのですが、なんというかグロテスクな目をそむけたくなるような映像の映画です。こういうアメリカ映画がはやるのは、アメリカでは聖書が広く読まれていて、アメリカ国民の方々が福音書に出てくる悪霊払いの話に慣れ親しんでいるのが一つの理由なのではないかと思います。しかし、「悪霊」などというものは科学万能の現代人にとってはにわかに信じがたいものではないでしょうか。何か迷信じみた話で、悪霊が存在して人間に悪さをしているなどという話をまともに受け止めるのは難しいと考えるほうがむしろ普通なのではないでしょうか。そんな話は『鬼滅の刃』のような人気アニメと同じフィクションでしかなく、まともに考えられないと感じる人が多いということです。

しかし、福音書に出てくる悪霊という存在は、現代人にも理解できるものなのではないか、ということをここで少しお話ししたいと思います。皆さんはユングという名前を聞いたことがあるでしょうか。カール・グスタフ・ユングという人で、20世紀に活躍した有名なスイス人の精神科の医師です。精神科の医師と言いましたが、彼は心理学者としても世界的に有名で、あのフロイトのお弟子さんだった人です。フロイトやユングは心理学の中でも深層心理学という分野を確立した学者として有名です。私たちには「意識」というものがあり、意識なしには人間は人間とは言えないわけですが、「無意識」というものもありますよね。私たちは、しばしば無意識のうちに行動することがあります。夢遊病者が夜歩いているのはまさに無意識の行動です。そして無意識の状態とは意識が全くないということではなく、自分では気が付かない意識の領域があるということです。自分の心なのに、自分にはよく分からない、あるいは意識していない領域があるということです。こういう意識のことを「深層意識」とも呼びます。深い層にある意識、ということですね。そういう、いわば隠れた意識が私たちを動かすということがあるのです。深層意識の一つの例としてよく言われるのが、例えば子供の頃に非常に怖い出来事があった、あるいはとてもいやで思い出したくもない出来事があると、私たちはそれを思い出さないようにと意識の奥に閉じ込めて蓋をしてしまいます。起きたことを、なかったことのようにして自分の心の平安を保つのです。しかし、閉じ込められた意識や負の感情はそれで消えてしまうわけではありません。何かの拍子に、そうした閉じ込められた記憶が呼び起されて、私たちの精神に強い影響を及ぼし、私たちを思わぬ行動に走らせてしまうことがあります。フロイトやユングは、精神障害とされる症状のいくつかがそうした深層心理、深層意識に起因しているということを解き明かしたのです。そして患者を催眠状態にして、隠れた記憶を語らせたりしてその人の心の病の原因となっている過去のトラウマを見つけ出すというような治療行為を行っていきました。

このように、私たちが普段意識している心の領域の下にある無意識、あるいは深層意識を解明していくという研究が続けられたのですが、ユングはそのような知見にさらに新しい発見を加えました。私たちの意識は私個人の無意識だけでなく、集団の持つ無意識というものがあり、そうした集団の深層意識、集合意識ともつながっているのだ、という説を唱えたのです。どういうことかといえば、日本人一人一人は個人としての深層意識だけではなく、日本民族としての深層意識とつながっており、さらに言えば日本人とかインド人とかいう民族を超えた、全人類の集合無意識ともつながっているというのです。端的に言えば、無意識には私個人の無意識と集団としての無意識があり、私たちはそのどちらにも影響を受けているということです。なんだかとても壮大な話なのですが、ユングは実際に多くの精神病の患者を診断するうちにそのような結論に達しました。例えばある患者が、不思議なシンボルを見たと言ってそれを絵にかくのですが、その描かれたシンボルが実は古代の文書に書かれたシンボルとそっくりだというような事象がありました。そしてその患者は、まちがいなくその古代のシンボルを知りませんでした。なぜならそのシンボルはつい最近発見されたもので、世間には知られていないものだったからです。では、なぜ見たこともないシンボルを正確に描くことができたのかと言えば、それはその患者の深層意識が古代から伝わる人類の集合無意識とつながっているからだ、という説明が成り立つのです。なんだか科学というよりもオカルトのような話ですが、ユングは学者には珍しく超常現象に深い関心を寄せていた学者でした。

 さて、このユングの集合無意識がイエスの悪霊払いと何の関係があるのか、と思われるかもしれませんが、それがあるのです。この集合無意識も人間の心、それも多くの人間の心に根差したものですから、そこには愛のようなプラスの感情もあれば、負の感情、憎悪や破壊衝動のようなマイナスの感情もあります。そして人間が無意識のうちにそのような負の集合意識とつながってしまうと、その人の性格にも甚大な影響、しかも悪い影響を及ぼしてしまうのです。ユングは、その最悪のケースの一つがナチス・ドイツの時代のドイツ人の精神状態だったと論じています。少し長いですが、それを引用します。

ドイツ人を戦争へ追い立てたのには、政治的・社会的・経済的・歴史的なさまざまな理由があったことは、普通の殺人の場合と同様、言うまでもない。どんな人殺しにもそれなりの動機はあるので、さもなければ犯罪は起らないことになるだろう。だがひとたび事が起るとき、そこにはもうひとつ心的な要因がなければならない。そこで犯罪心理学というものが存在するのだ。ドイツは、ある集団精神状態に陥っていたために、必然的に犯罪へと走らなければならなかった。しかし、どんな精神状態もだしぬけに空から降ってくるわけはなく、かなり長いあいだにわたる潜在状態があるものであって、それを精神的劣等(コンプレックス)という。民族にはそれぞれの心理があるように、またそれぞれに固有の精神病理がある。それは多くの異常な特徴の集積から成っているが、なかでも際立っているのが、国民全体に蔓延した暗示性である。(『ユングの文明論』より引用)

つまりユングは、ナチス・ドイツ政権下のドイツ人は集団的な精神病に陥っていたのであり、深層無意識に圧倒されてしまったというのです。そして話は戻りますがイエスの悪霊払いの話です。この悪霊に憑かれた人たちも、集合的な深層意識によって振り回されていた可能性があるのです。それで長々とユングの話をしていたのです。

この悪霊払いの記事は、マルコ福音書の記事をマタイが用いたものです。マタイはマルコ福音書を資料として用いて福音書を書き、マルコの記事の九割以上はマタイで使われています。この記事もそうです。マルコ福音書5章1節から20節までの記事を短くしてマタイはここで用いています。しかし、詳しく比べるとマルコとマタイの記述には細かな違いがあります。まず、マルコでは悪霊に憑かれた人は一人ですが、マタイでは二人になっています。しかしこれはマタイの癖のようなもので、マルコ福音書ではイエスが一人の人を癒したとなっているのに対し、マタイでは二人を癒したと変えられているケースが複数例あります。マタイがなぜそうしたのか、学者の間でも意見が割れており、私にもその理由が分かりませんが、マタイはイエスの偉大さを強調したかったのかもしれません。また、マルコ福音書ではイエスが悪霊払いを行ったのは「ゲラサ人の地」となっていますが、マタイでは「ガダラ人の地」となっています。ゲラサもガダラもギリシア人の住むデカポリスと呼ばれる地域の町ですが、互いにかなり離れた場所にありました。ここもなぜマタイがこの地名に変えたのか、その理由は不明です。こういう細かな違いを除けば、マタイとマルコの話は全く同じです。イエスは悪霊に憑かれて墓場で暴れている人のところに行き、そこで悪霊と対決します。そこでマタイにはないマルコの記事によれば、悪霊はイエスに名前を聞かれて、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と答えています。この「レギオン」というのはローマの軍隊の名前で、数千名からなる精鋭部隊でした。ですから、この可哀そうな人物にとりついた悪霊は一人ではなく数千人にも及ぶということが示唆されているのです。この一人ではなく数千という数は、先ほどの集合無意識雄というものを連想させます。しかし、人類の集合無意識と悪霊とを結びつけるというのはあまりにも乱暴な意見ではないか、と思われるかもしれません。たしかに集合無意識は、悪霊のような悪一色のものではありません。そこには善の要素も悪の要素もあります。そのどちらが人間に影響を及ぼすのかは、その人間次第という面もあります。ここで再びユングの話を聞いてみましょう。少し難しい専門用語も出てきますが、そのままお読みします。

国家社会主義(これはナチスのことです)、これら集団心理学現象の一つであり、集合的無意識の噴出の一例であって、それについて当時私は、二十年近くも説いていた。集団心理学現象の駆動力は、元型的な性質のものである(「元型」とは人類の無意識が持つ、普遍的なイメージのことです)。元型というものはどれも、最高と最低、悪と善を併せ持っていて、だからこそ、およそ矛盾にみちた働きをするものである。したがって、それが肯定的な効果をもたらすか、否定的に動くか、あらかじめ決めることはできないのである。(『ユングの文明論』からの引用)

集合無意識は、無意識であるがゆえに、人にはコントロールできないのです。コントロールできないから、普通ではない、異常な行動になってしまうのです。集合意識の負の部分、悪の部分が人間行動に強い影響を及ぼしてしまうというのが、このレギオンにとりつかれた人の行動の一つの説明だと言えるでしょう。では、そのような病理を如何に克服できるのか。それについてユングはこう説明しています。

私は精神病医だから、無意識内容に圧倒されている患者にとって、意識と理解力を、つまり正常な人格の形成要素を、できるかぎり強化することがいかに大事であるかを知っている。それによって侵入してくる無意識内容を受け止め、意識に統合できるようになるからだ。無意識それ自体は、破壊的ではなく、アンビヴァレントなものであって、それが災禍を来たらすか、恩恵をもたらすかは、ひとえにそれを受け止める意識にかかっている。(『ユングの文明論』より引用)

つまり、集合無意識に振り回されないためには、健全な意識を強化すべきだということです。イエスが悪霊払いを行うというのは、その人の意識を高め、深層無意識の悪い影響に振り回されないような状態に戻してあげたのだ、という説明ができるのです。もちろん、それだけでこのイエスの悪霊払いを説明することはできません。悪霊はそれから豚の大群に乗り移り、その豚の大群が湖に駆け下りておぼれ死んだとありますが、人間の集合無意識が豚に乗り移ることはないからです。この点については、確かに説明はつきませんが、しかし悪霊払いの話はすべてがありのままの事実というわけではなく、劇的な演出ということもあるのかと思います。

では、このレギオンにとりつかれていた人を振り回していた負の集合無意識とは何でしょうか。それは、生活の苦しさや不安だったと思います。当時の村々の人々は、ローマ帝国から課される重税と、ローマの兵士が振るう暴力に苦しめられていました。そういう不満は、しかし表に出すことはできません。そういう感情を押し込めるわけです。不満を述べてローマに目を付けられたくないからです。しかし、人々の不満は深層心理の中にマグマのように沈殿していきます。そうした押し殺されてきたものの影響を一番受けてきたのがこのレギオンにとりつかれた人ではないか、ということです。その人に対してイエスは向き合い、彼を深層意識の悪い影響から救い出したのです。

まとめになります。今日は、マタイ福音書での最初の悪霊払いについて見て参りました。悪霊というと、なんだかおどろおどろしい、おとぎ話のようなもので、私たちの日常生活には関係ない、と思われるかもしれません。しかし、近代以降の心理学が明らかにしたように、私たちの精神や心に悪い影響を及ぼす集合無意識というものがあり、今回の「レギオン」と呼ばれる悪霊もそのようなものとして捉えることができるかもしれません。この集合無意識の影響を受けるのは一人だけであるとは限りません。むしろ、それが一人ではなく集団に影響を及ぼすようになると、ナチス・ドイツのような熱狂的な国民運動、あるいはアメリカに宣戦布告をするという、まさに自殺行為を選択した戦前の日本のようになってしまうということです。では、なぜナチス・ドイツが生まれてしまったのか。それは、第一次大戦後のドイツ人をいじめすぎたからです。ヴェルサイユ条約で、ドイツ系住民はバラバラにされ、チェコスロバキア・ポーランド・オーストリアで少数民族として扱われることになりました。また、敗戦国ドイツへの賠償金は、何と今日の価値で言えば200兆円という天文学的な額に及びました。工業基盤を失ったうえにその賠償を支払おうとして無理を重ねたドイツは二度のハイパーインフレーション、つまり1億円の価値が1円になってしまうという恐ろしい経験をしました。皆さんの貯金1億円が1円になってしまったら、どう思いますか?頭がおかしくなりますよね。そういう不満がドイツ人の深層意識を乗っ取ってしまい、その深層心理に振り回されたのが第一次大戦後のドイツだと言えます。

今日の世界にも不満が鬱積しています。アメリカでトランプという異形の大統領が生まれたのも、格差が大きくなりすぎて、没落した中産階級が多く生まれました。彼らの不満がトランプ政権を生み出したのです。日本についても同じです。対中国に対する強気な発言をする政治家が受けるのも、国民の不満を外に向けようとする力が働いている気がします。そして不満の源は生活の苦しさです。それを何とかしない限り、不満は人々の深層意識の中に蓄積していき、いつか爆発することになりかねません。私は格差を生み出しているのは行き過ぎたグローバリズムだと考えています。この説教ではあまり政治や経済の話をすることはしませんが、イエスの神の国の福音も、格差をなくして「神の下に平等」な社会を作り出そうというものだったことは強調してもよいと思います。悪霊払いの話から、大きなテーマになりましたが、このことをよく考えて、今の選挙でも日本人が適切な選択をするように祈るものです。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今日は悪霊払いの話から、格差の問題へと話が及びました。今日の日本にも多くの不満や不安がありますが、そのために私たちが愚かな行動に走らないように、どうかこの国を導いてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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ますます熱心に第二ペテロ1章1~11節 https://domei-nakahara.com/2026/01/25/%e3%81%be%e3%81%99%e3%81%be%e3%81%99%e7%86%b1%e5%bf%83%e3%81%ab%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e3%83%9a%e3%83%86%e3%83%ad1%e7%ab%a01%ef%bd%9e11%e7%af%80/ Sun, 25 Jan 2026 00:21:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=7202 "ますます熱心に
第二ペテロ1章1~11節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。今、私たちはマタイ福音書を読み進めていますが、これまで毎月の月末だけは別のところから説教をしてきました。昨年11月のアドベントの前に第一ペテロの説教が終わったので、今回からは第二ペテロを取り上げて参ります。

ただ、ここで注意したいのは、第一ペテロと第二ペテロを続けて読むと、これらの書簡が同一人物によって、つまりイエスの十二使徒のリーダーであるシモン・ペテロによって書かれたのは当然だと思ってしまうかもしれませんが、実際には多くの研究者はそのようには考えていないということです。もちろん、教会の伝統ではこれら二つの書簡はイエスの弟子であるケファ、つまりペテロによって書かれたとされてきました。しかし、近代以降になって聖書が客観的なアプローチによって研究されるようになってからは、こうした伝統も無批判に受け入れられるようにはならなくなりました。今や、多くの学者は第一ペテロと第二ペテロの著者は別人だという見解に立っています。もちろん、これは学説であって必ずしも事実とは言えないので、そのような見方は私の信仰にはなじまない、聞く必要はないと考えても構いません。学説というのは時代と共に変わるものですので、今の学説が100年後にはまったく変わっているということもありうるのです。このような学問的アプローチの限界を踏まえたうえで、ではなぜ多くの研究者が第一ペテロと第二ペテロの著者が違うと考えているのかといえば、大きくいえば二つの理由があります。一つは「ユダの手紙」との類似性です。みなさんはユダの手紙と聞いて、すぐにその内容を思い浮かべることができるでしょうか?それはヨハネ黙示録の前に置かれている非常に短い手紙ですが、れっきとした正典の公同書簡の一つです。その内容が、この第二ペテロと非常に似ていて、一方が他方の内容を借用したのではないかと考えられるということです。そして、ユダの手紙が書かれた時期はおそらく紀元二世紀だとされているので、第二ペテロもそうだろうということです。紀元二世紀にはシモン・ペテロはすでに世を去っているので、この手紙がペテロによって書かれることはあり得ないということになります。

そしてもう一つ、これが最も根本的な問題ですが、この書簡の扱っている内容そのものが紀元二世紀の教会の状況を強く反映していると思われることです。それは「再臨遅延問題」です。パウロ書簡を読めば分かりますように、パウロは自分が生きている間に、つまり紀元一世紀の内にキリストの再臨があるという強い確信をもっていました。パウロだけではありません。マタイ福音書には、イエスの「確かなことをあなたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなた方は決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです」(10:23)という言葉が収録されています。つまりこの言葉を福音書に含めたマタイは、イエスの弟子たちが熱心にイスラエルで伝道をしていた紀元一世紀の間に「人の子」つまりイエスが再臨すると考えていたということです。紀元一世紀の教会の大きな特徴は、キリストの再臨とそれに伴う世の終わりが近いと信じていたことでした。彼らが非常に熱心に、それこそ寝る間を惜しんで伝道活動に励んだのは、彼らに残された時間は少ない、世の終わりはもうすぐだと信じていたからでした。

しかし、そう信じていたのになかなか再臨が起きない、それどころか熱心に伝道に励んでいた使徒たちや長老たちはみな世を去ってしまった、そういう事態になってしまいました。そうすると、いろいろな動揺や反動が起きます。再臨なんてないのではないか、作り話ではないかと言い出す人たちや、信仰を捨てるまではいかなくても、それまでの緊張感のある引き締まった生活をやめて、だらけた生活を送るようになる人たちが現れました。そのような人たちを教会は厳しく注意しなければならないのですが、まさにそのような内容がこの第二ペテロに書かれているのです。つまりこの第二ペテロの書かれた時代背景が、ペテロの生きていた紀元一世紀よりも紀元二世紀の方に良くあてはまるということです。

こうした理由から、この第二ペテロ書簡は、紀元二世紀にペテロの名前で誰かほかの人が書いたものだろうと多くの研究者は考えるようになりました。それが事実かどうかは分かりません。しかしこの第二ペテロは教会が二千年もの間正典として受け継いできたものです。ですからそのような大切な聖書の一部として読んでいきましょう。この手紙の著者が誰であろうとも、教会はそれをペテロによって書かれたものとして受け継いできました。そこで私もこの著者のことをペテロと呼んで説教をさせていただきます。

2.本論

今日は冒頭の1節から11節までを扱います。ここで語られている内容を一言でまとめるならば、それは「ますます熱心に」ということです。この11節の中には、「ますます豊かにされますように」、「ますます豊かになるなら」、「ますます熱心に」など、「ますます」という言葉が繰り返されています。慶應義塾大学の創設者の福沢諭吉は「進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む」という名言を残しています。前進しない者は必ず後退し、後退しない者は必ず前に進むということです。このことは、とりわけキリスト者の信仰の歩みに当てはまる、というのがペテロの主張なのです。初代のクリスチャンの間には、主の日、すなわちキリストの再臨が近いという緊張感があり、人々は主にお会いする日に備えて霊的な高みを目指そうという強いモチベーションがありました。しかし、再臨が近い将来にはないのではないかという観測が人々の間に広まると、熱意は冷めて、弛緩した状態に陥っていきました。そんなに無理をしなくても、今のままでいいじゃないかという気持ちになっていきました。信仰そのものを捨てたわけではなくても、そこから前進しようとしない、前に行こうとはしない状態です。しかし、本人は現状維持をしていると思っていても、実はそれは後退なのだということをペテロは指摘します。

ペテロは読者の人々に、初めて救われたときのことを思い起こすように促しています。彼らは何から救われたのか、というのは大事なポイントです。ペテロは4節で「世にある欲のもたらす滅び」と記しています。これはどういう意味なのでしょうか。「世にある欲」の欲は「貪り」と訳すこともできます。人間である以上、食べるものや着るもの、すなわち快適な生活というものを求めます。そうしたものを欲すること自体には何も悪いことはありません。私たちは常により良い生活を目指し、それが頑張る原動力にもなります。聖書はそういう欲求をすべて否定しているのではありません。では、「貪り」の罪とは何でしょうか。それは他人の物を奪ってまでも、自分の快適さを求める行為です。自分と同じように、周囲の人も快適な生活を求めます。しかし、この世にあるものは無限ではありません。限りがあります。私たちはそれを分け合わなければなりません。しかしそれを独り占めする、独占しようとすると、それは他人のものを奪うことになります。他人のものを奪ってでも、自分の欲望を優先すること、これが貪りです。また、自分にとってはどうしても必要ではないのに、他人が持っているから、うらやましいからという理由で自分もそれを欲しがる、そうした行動も貪りと言えます。私たちは「足ることを知る」べきなのです。神様は私たちに必要なものを与えてくださるし、備えてくださいます。しかし、それで満足せずに、「もっと、もっと」という気持ちに突き動かされると、争いが生じます。私たちが欲望の奴隷となるとき、必ずいさかいや争いが生まれてしまうのです。その行きつく先が「滅び」です。「世にある欲のもたらす滅び」とはそういうことです。そのような滅びから免れ、私たちは「神のご性質に与る」者となるべきなのです。与る者という言葉のギリシア語はコイノノスで、コイノニアと同じ語源の言葉です。コイノニアというのはキリスト教の世界ではよく聞く言葉ですが、「交わり」という意味です。「共同体」とか「参与、参加」という意味もあります。ですから「神のご性質に与る」というのは「神のご性質に参与する」ということです。もっとわかりやすく言えば、神のご性質を身に着けるということです。では、神のご性質とは何でしょうか。私たちは神と聞くと、なんでもできる、なんでも知っている方ということを思い浮かべるかもしれません。全知全能ということですね。しかし、ペテロのいう「神の性質に与る」というのは私たち人間が神のように全知全能の存在になるという意味ではありません。私たちは人間ですから、そんなことは無理なのです。では、ペテロはどういう意味でこのようなことを言っているのでしょうか。私たちが神の性質に与るというのは、神の御姿である主イエスのようになるということです。主イエスは、ピリピ人への手紙にあるように、神と等しい方であるのに、それに固執せずに、自らを無にして仕える者となられました。「神のご性質に与る」とは、そのようなイエスの生き方をまねる、自らも身に着けるということです。ペテロはそのことを具体的に教えてくれています。彼はキリスト者が身に着けるべき徳目をいくつか語り、その究極のものとして「敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」と結んでいます。つまり私たちが努力して身に着けるべきものの最大のものを「愛」と呼んでいます。ここで兄弟愛と訳されているこの言葉のギリシア語は「フィラデルフィア」で、「愛」と訳されている言葉は「アガペー」です。フィラデルフィアとは自分にとって大切な人たち、家族や親友など、そういう人たちのために進んで自らを捧げること、そのような愛を指します。それに対してアガペーは、自分にとっての距離の近さとか、自分にとって大切な人とか、そういう「自分」を基準にせずに、むしろ自分から遠い人とか、自分にとっては無価値に思える人にも及ぶ愛です。家族とはある意味で自分自身の延長ですから家族を愛するというのは自分を愛することでもあるのですが、そのような自己愛の延長としての愛ではなく、むしろ自分にとって異質な人にも及ぶ愛がアガペーです。それが、主イエスがその公生涯で示した愛でした。もちろん、自分にとって近しい人への愛は大切です。家族のことをほおっておいて、見知らぬ人のお世話ばかりしているというようなケースには、どこかおかしなところがあります。自分自身のことや家族のことをきちんと面倒を見ることができずに、本当に他人のお世話ができるのかというと、それは難しいと思います。ですからここはバランスが必要です。自分のことしか考えないという極端な状態から私たちは成長しなければなりません。自分のことしか考えられないのは赤子の状態だからです。しかし、自分のことを考えないというのもそれはある種の病と言えるでしょう。私たちはまず自分自身の面倒を見なければならないし、それができない人には他人の世話もできないからです。では、どうすればそのようなバランスをとることができるのか?それは先ほど述べたように「足ることを知る」ことを通じてです。私たちには生きていくために必要なものがあります。それを求めるのは当然のことです。しかし、それは私たちの欲望とは違うものです。欲望は無限ですが、必要は有限です。ですから自分に必要なものがあるならばそれで満足し、それ以上のものは他人に喜んで与える、それが「アガペー」の愛です。私たちはクリスチャンとして、そのような愛を育てていくべきなのです。そのような愛にますます豊かになる、それがクリスチャンとしての歩みなのです。

私たちにはそのような歩みが可能です。なぜなら私たちは主によってそのような生き方と召され、選ばれた者だからです。神様は私たちがそのような歩みができるようにと、召してくださり、それまでの欲にまみれた生き方から清めてくださっているのです。私たちはすでに清められている、というのは新約聖書で繰り返される重要なテーマであり、クリスチャンが覚えておくべき真理です。せっかくきれいにしていただいたのですから、汚れを避けるべきです。そして「汚れ」とは世の欲望です。ただここで繰り返しますが、必要と欲望とは別物です。キリスト教は禁欲主義、つまり人間にとって必要なものを欲する気持ちを否定する宗教ではありません。そうではなく、行き過ぎた欲望、人からモノを奪ってでも自分を満足させようというような欲望から距離を置くべきだということです。現代世界は私たちの欲望を煽ります。必要以上のものを欲しがらせ、買わせようとします。ですからこの時代にあって欲望を抑えることは、聖書の時代よりも難しいかもしれません。しかし、行き過ぎた欲望は自分自身も、周りの人たちも不幸にします。私たちは神の助けを借りながら、そのような欲望に抗っていかなければならない、それが第二ペテロの重要なメッセージなのです。

3.結論

まとめになります。今日から第二ペテロを学び始めました。今日の箇所のメッセージは「ますます熱心に」ということでした。では、何に対して熱心であるべきかというと、愛において、それも兄弟愛であるフィラデルフィアだけでなく、自分にとっては遠い人たちにさえ及ぶ愛、アガペーの愛において成長することにますます熱心でありなさいということでした。

ただ、「自分にとって遠い人」といっても漠然として難しいですよね。私たちのところには世界中から報道が入ってきます。広い世界では、本当に多くの人たちが様々な理由で苦しんでいます。けれども私たちは万能の神様ではないので、それらすべての人たちに救いの手を差し伸べることはできません。この点では私たちは自分自身の限界をわきまえるべきです。では、誰から、あるいはどこから救いの手を差し伸べるべきなのでしょうか。この点でも、あまり極端にならないほうが良いと思います。全く知らない人に手を差し伸べようとしても難しいので、まず自分の住んでいる地域の困った人たちのことを考えるほうがよいでしょう。そういう人は物理的にも近いところにいるので、事情がよく分かるからです。外国に支援をしようとしても、中抜きされたりして、本当に支援が届いているのか不安になることもあります。あまり気持ちの良い話ではありませんが、ウクライナへの外国からの支援が政府高官によって中抜きされているという報道が最近になって連日のようになされていて、しかもそれはフェイクニュースではありませんでした。こういう話を聞くと、海外援助の難しさを実感します。遠くに何かを届けようとすると、その間にいろんな人が介在してしまうからです。ですから私たちは人を助ける時にも、よく考えて、よく調べてから行動すべきです。私たちが与えられるものにも限りがあるのですから。今日は同盟教団の「国内宣教デー」ですが、今日の献金は日本各地で開拓伝道をしている教会を支援するために献げられます。これは、私たちにとっても分かりやすい、明確な支援先だと言えるでしょう。福音伝道を見知らぬ地で推進することの大変さは私たちにも想像できることです。そうした人たちのことを覚え、祈り、またできる範囲で財政的な支援を行っていきましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今日から第二ペテロを読み進めて参りますが、私たちがそのみ言葉を聞いて理解し、また聞くだけでなく実践できるものとなるように助けてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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イエスに従うマタイ福音書8章18~27節 https://domei-nakahara.com/2026/01/18/%e3%82%a4%e3%82%a8%e3%82%b9%e3%81%ab%e5%be%93%e3%81%86%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b88%e7%ab%a018%ef%bd%9e27%e7%af%80/ Sun, 18 Jan 2026 00:23:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=7193 "イエスに従う
マタイ福音書8章18~27節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。私たちはマタイ福音書を読み進めていますが、物語はまだ序盤で、主要な登場人物がまだ出そろっているわけではありません。今「物語」と言いましたが、別に福音書がフィクションだと言っているわけではありません。むしろ、福音書は起承転結という物語の作法に従って進展していくということを言いたかったのです。

物語には主人公と呼ばれる存在が必ずいます。福音書物語の主人公はもちろんイエスです。そして主人公を取り巻く人たちがいますが、大雑把に言えば「味方」と「敵」という二つのグループに分かれます。イエスに味方をする人と、反対する人たちがいるということです。イエスの最大の敵は、これまでも一度登場しましたが、それは「悪魔」です。悪魔は荒野で断食をするイエスを誘惑し、イエスがその使命に歩みだすのを妨害しようとしました。しかし、イエスは悪魔の誘惑をはねのけて宣教を始めます。イエスの敵となるのは霊的な存在である悪魔だけでなく、人間のグループとしても登場してきます。それはユダヤの最高権力者である大祭司や祭司長たち、そして彼らに協力する律法学者やパリサイ派の人たちがいます。こうしたイエスに敵対する人々の存在感がこれから高まっていきます。

主人公であるイエスの周りには敵だけでなく、もちろん味方も集まってくるのですが、これまでイエスに従った味方はシモン・ペテロとその兄弟アンデレ、そしてゼベタイの子ヤコブとヨハネの四人でした。イエスの最側近ともいえる四人です。しかし、イエスの仲間、味方はもちろん四人だけではありません。イエスは全イスラエルに、できるだけ早く神の国の福音を届けたいのです。その手助けをしてくれる仲間は多ければ多いほどよいのです。そしてそのような仲間は「弟子」と呼ばれます。イエスはできるだけ多くの弟子を得て、彼らと共に福音宣教を拡大しようとしています。しかし、誰でもイエスの弟子になれるというわけではありません。ここでいう「弟子」とは、単にイエスの福音を受け入れて、神の国の恵みに与るというだけの人ではありません。恵みを受けるというのは受け身の側ですが、弟子はむしろ恵みを伝える、与える側の人たちです。もちろん、神の恵みを受ける側も与える側もどちらも必要で、どちらか一方が優れているとか、上だということではありません。イエスの弟子たちは仕事を捨ててイエスに従っていったので、生活をしていくための稼ぎの手段を失ってしまいました。そのような彼らが伝道を続けられたのは、彼らを支えてくれるもっと多くの人たちがいたからです。彼らは福音の恵みを受ける側ですが、ただ受けるだけでなく、福音を伝える人たちの活動を支えることで、彼らにお返しをしていたのです。

というわけで、イエスの味方には、彼の伝道活動を直接手助けする比較的少数の「弟子」と呼ばれる人たちと、イエスの伝道には直接関与しないものの、間接的に弟子たちの宣教活動を支えるより多くの人たちという二つのグループがありました。今回の箇所では、この最初のグループ、つまりイエスと常に行動を共にし、苦楽を共にしていく「弟子」となるための心構えが述べられているのです。イエスと行動を共にするということには、それなりの覚悟と犠牲が伴うことを今日の箇所は強調しています。ただ、もちろんすべてのクリスチャンがこのような覚悟や犠牲を受け入れなければならないということではありません。これはイエスに直接従う、どこまでもついていくということを選んだ少数の人たちだけに要求される厳しい要件だということです。そのようなことを念頭に置いて今日の箇所を読んで参りましょう。

2.本論

では、8章18節から読んでいきましょう。ここではイエスの弟子となることを願う二人の人物が登場します。一人は「律法学者」です。律法学者と言うのはモーセの律法の専門家で、人々に具体的に律法をどのように日々の生活で守るべきかを教えていました。律法学者は、福音書ではイエスとは対立する立場の人たちが多いのですが、みんながみんなイエスに敵対したわけではなく、イエスに心酔し、イエスに従おうとした律法学者もいたのです。しかし多くの律法学者は、イエスが自分たちとは異なる律法の解釈をして、それを人々に教えていたのでイエスに腹を立てていました。今でいえば、大学の教授が学生に教えている内容とは違う内容のことをユーチューブで教えている人がいて、学生たちが自分ではなくそのユーチューバーのことを信じるようになってしまったという、そんな感じでしょうか。大学教授は面目をつぶされて怒るでしょうが、イエスに腹を立てた律法学者たちもそんな感じでした。イエスなんて、どこの馬の骨かもわからないやつが自分の教えを否定していると感じて、なんとかこの生意気なやつをつぶしてやりたいと思ったのでした。それでも、すべての律法学者がそんなに心が狭かったわけではありません。なかにはオープンな心持の人もいて、偏見なしにイエスの教えを聞いて、またイエスがなさる驚くべき癒しの業も目撃し、このイエスこそイスラエルが待ち望んでいた救世主に違いないと確信する人もいたのです。ここで登場する律法学者もまさにそのような人でした。彼はイエスにこう語りました。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」これは、ものすごく大胆な発言ですね。この律法学者にも、今まで世話になってきた先生や先輩がいたでしょうし、また当時の律法学者は人々に律法を教えて月謝を貰っていたわけではなく、自分自身で手に職を持っている人がほとんどでした。今の時代の大学教授や、あるいは塾や予備校の先生は教えることで報酬を得ることができますが、イエスの時代の律法学者は「律法教室」みたいな会を開いて給与を得ていたわけではなく、職人のように何かを作ったりしてそれで生計を立てていたのです。律法については、無償で人々に教えていました。もちろん、食べ物とか、何らかのお礼をもらってはいたとは思われますが、それを主な収入源とはしていなかったのです。この律法学者がイエスにどこまでもついていくということになると、自分の仕事を辞めなければならないし、また今まで律法を共に学んできた同僚や先輩がイエスに反対している場合、彼らとも決別しなければならなくなります。つまり彼は仕事も人間関係も捨ててイエスについていくと宣言しているのです。今でいえば、安定した収入がある公務員かサラリーマンが仕事を辞めて、放浪の旅を続ける不思議な人物についていくようなものです。皆さんがその人の家族なら大反対するでしょうね。それほどの覚悟を持って、この律法学者はイエスについていくと宣言したのです。その彼に対し、イエスはこう言われました。

狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。

ここでイエスは自分のことを「人の子」と呼んでいますが、これはマタイ福音書では初めてのことです。イエスは、動物にすら寝床があるのに自分には枕する所もない、とぼやきのようなことを語っています。実際には、当時のイエスはカペナウムのペテロの実家に居候させてもらっていたので、衣食住には不自由していませんでした。それどころか癒し人として大変な人気がありましたので、我が家に泊まってくださいと申し出る人もたくさんいたことでしょう。では、なぜイエスがここでこんなことを言ったのかといえば、イエスについていくということは、そのような非常に困難な場面に遭遇することもありえますよ、あなたにはその覚悟がありますか?と問うているのです。実際、イエスの人気が上がるにつれ、イエスに激しく敵対する人も増えていきます。夜逃げ同然で迫害を逃れるような状況もありうるのです。イエスは自分についていきたいという律法学者に対し、慎重に考えなさい、それだけの犠牲を払って私についてくる覚悟が本当にあるのか、自分に問うてみなさいと言っているのです。

さて、21節には別の人物が登場します。この人物は「弟子」とはっきり呼ばれていますし、イエスのことを「先生」ではなく「主よ」と呼んでいますので、先の律法学者と比べても、イエスとの関係性はもっと近い人物だと言ってよいでしょう。つまり、もうイエスに従っていくということを決めていて、すでにイエスと行動を共にしている人だろうということです。その人が、イエスにいわば「忌引き」を願い出ます。それは父を葬る時間が欲しいというものでした。ここで現在の日本と古代の中近東の文化の違いに気を付けてください。今の日本では結婚も葬式も大体一日で終わりますが、当時の中近東では近親者の結婚あるいは葬儀は一週間ぐらいかけて行っていました。それだけ大変なイベントだったのです。ですから、このイエスの弟子も、イエスに一週間ぐらい宣教活動を離れて家に戻らせてほしいと願ったのです。これは至極普通のことでした。当時のユダヤ人の間では、親の葬儀を立派に行うというのは何にもまして優先されるべき家族の義務でした。十戒にも両親を敬えとありますが、親のためにきちんと葬儀を行うこともその戒めの一部だと考えられていました。ですからイエスにしばしお暇させてほしいと願い出た弟子も、何も無理なお願いをしているという意識はなかったことでしょう。しかし、それに対するイエスの答えは非常に厳しいものでした。

わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。

イエスの言葉には、たまに理解が非常に困難なものがありますが、この言葉もまさにそのようなものの一つです。休暇を認めない、とイエスが言っているのは分かります。でも、死人に死人を葬らせるとはいったいどういう意味なのでしょうか。葬儀をする人たちはもちろん生きていますし、生きていないと葬儀はできません。その人たちを死人と呼ぶのはいくらイエス様でもあんまりではないですか、と言いたくなってしまいます。私は正直に申し上げて、特にこのイエスの言葉の後半の意味を捉えかねています。しかし、ポイントは「わたしについて来なさい」のほうにあります。この言葉が、次の嵐鎮めの話の伏線になっているからです。ともかくも、イエスの要求は大変厳しいものでした。イエスはこれからも、家族の問題よりも神の国を優先しなさいと繰り返し述べています。それだけイエスに従うということは生易しいことではない、ということを伝えようとしているのだと思われます。すべてを犠牲にして、家族との絆を断ち切ってでも私に従う覚悟があるのかと、ここでもイエスは問うているのでしょう。今日でも、イエスに従うというのは容易なことではありません。牧師になると言ったら親から勘当されたという先生の話を聞いたことがあります。その先生は超有名大学を卒業して将来を嘱望されていた方でしたが、親からすれば牧師にするためなんかにいい学校に行かせてやったわけではない、という気持ちだったのでしょう。今や新卒の初任給が30万円を軽く超える時代ですから、安月給の牧師など割に合わないというのが普通の感覚かもしれません。しかし、神に従うことで受ける報いはもっと大きいとイエスは約束しています。ただ、気を付けたいのは、親の世話をするというのは聖書の非常に重要な教えだということです。パウロは第一テモテの5章8節で次のように述べています。

もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。

親兄弟を顧みないことは、信仰を捨てることだとパウロは明言しています。ですから、イエスももちろん家族のことを顧みなくてよいなどと教えているわけではありません。イエスが十字架上でも母マリアの老後のことを心配していたことを忘れてはいけません。むしろイエスは弟子となることの困難さ、代価をあらためて伝えようとしているのです。中途半端な覚悟でイエスについていくことはできないのです。

さて、この二人の人物との対話の後に有名な嵐鎮めのエピソードが来ます。この話はその直前の弟子たちとの会話とは関係がなさそうに見えますが、実際にはあるのです。マタイ福音書はマルコ福音書をベースに書かれていて、マルコ福音書に登場するエピソードをマタイはほとんどそのまま借用しています。実にマルコ福音書の9割以上がマタイ福音書に収録しています。しかし、マタイとマルコを比較すると、マタイはマルコ福音書の記述を少し変えているのが分かります。今回の嵐鎮めもまさにそのような箇所です。では、どこを変えているのか見てみましょう。マルコ4章36節では、「そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした」となっていますが、マタイ8章23節では「イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った」となっています。お判りでしょうか?マルコでは弟子がイエスをお連れしたとなっているのに対し、マタイでは弟子がイエスに従った、となっているのです。これは小さな違いのように思えるかもしれませんが、マタイは明確な意図をもってそこを変えたものと思われます。なぜかと言えば、先ほどの22節の「わたしについて来なさい」というイエスの命令は、「私に従いなさい」とも訳せますが、それと対応するかのように「弟子たちも従った」となっているということです。実際、この二つの文ではアコロウセオーという同じ動詞が使われています。つまりマタイは、この嵐鎮めの話を弟子の道という文脈で提示しようとしているのです。これから弟子たちが向かう船旅を、この世の荒波に譬えているということです。弟子たちはこれからイエスの神の国の福音を携えて、世間という嵐の中を進んでいかなければなりません。死んでしまうのではないか、と思われるほど困難な状況に直面するかもしれません。しかしそんな時でも、彼らは一人ではない、イエスがいつも共におられてこの世の荒波すら克服する力を与えてくれる、そのような堅い信仰をもって歩みなさいというメッセージを込めて、マタイはイエスの嵐鎮めのエピソードを語っているのです。弟子の道は確かに大変です。イエスからの要求もとんでもなく厳しく大きいです。同時に世間からの風当たりも非常に厳しいものがあります。しかし、イエスは彼らにその困難さをも乗り越える力を与えてくださる、だから勇気を出して歩みなさいということをイエスは伝えようとしているのです。

3.結論

まとめになります。今日はイエスの弟子となるために必要な心構えや覚悟をイエスが教えたところを学びました。私たちのすべてがこのことを求められているわけではない、ということを最初に申し上げましたが、しかし今日の世界でも宣教の最前線に立ち人たちはこのような心構えが求められています。自分がそのような立場になるのか、あるいはそういう人達をサポートする立場になるのか、というのは私たちそれぞれが神様との間で考えていくべきことです。ただ、どちらがより尊いとか偉いとか、そういう優劣はありません。どちらも必要なのです。どちらも必要ですが、イエスに直接従うと決めた人に求められる要求は大変大きいのです。でも、大変なだけではありません。イエスはそのような人と常にともにおられて助けてくれるということを嵐鎮めのエピソードは教えています。同時に、神の国のためにそれまでの人間関係や仕事を捨てた人には百倍の報いがあるともイエスは約束しています。そんなこと本当にあるのかと思われるかもしれませんが、私自身がそのようなことを身をもって体験しています。私も、当時としては最高水準の給与の企業に勤めていて、その会社を辞めて聖書を学ぶためにイギリスに行くことにしたのですが、周囲の人たちからは「大丈夫なのか」ととても心配されました。また、海外に行って学ぶのですから当然お金もかかります。それまで働いて貯めたお金のほとんどをつぎ込んだので、経済的にも決して楽ではありませんでした。しかし、そこから得たものはお金には換算できませんが、それこそ何十倍でした。神様は誠実な方です。約束は必ず守ってくださいます。ですから私たちも堅い信仰をもって歩んで参りましょう。お祈りします。

天におられますイエス・キリストの父なる神様。そのお名前を賛美します。今日は弟子となることのコストと、同時にサポートについて学びました。私たちの召命はさまざまですが、それぞれが与えられた使命を果たせるように力をお与えください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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三つの癒しマタイ福音書8章1~17節 https://domei-nakahara.com/2026/01/11/%e4%b8%89%e3%81%a4%e3%81%ae%e7%99%92%e3%81%97%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b88%e7%ab%a01%ef%bd%9e17%e7%af%80/ Sun, 11 Jan 2026 00:14:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=7184 "三つの癒し
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1.序論

みなさま、おはようございます。前回でイエスの山上の説教は終わり、イエスがいよいよ本格的な活動を始めるというところに入ります。これらの癒しは大変有名ですが、ではこうした癒しにどんな意味があったのか、イエスの宣教における病の癒しの意義を考えていきたいと思います。

まず初めに考えたいのが、山上の垂訓とこうした癒しとの関係です。イエスはここまで非常に長い説教を行ってきました。それらは驚きに満ちた、またチャレンジに満ちた、とてもとても深い内容のものでした。また、前回の説教でお話ししたように、イエスはこうした教えを人々が聞くだけで満足しまっては何の意味もない、むしろこうした教えは実践されてこそ意味があるのだ、ということを強調していました。ですから私たちとしては、イエスの教えを実際に人々が実践に移そうとして努力している姿が描かれていると、大変参考になるわけです。私たちにとっても山上の説教の内容を日々の生活でどのように活かすべきか、実践すべきかというのは大変関心のあるテーマですので、時代も文化も大いに異なる当時のユダヤの人たちではあっても、彼らがこうした教えをどのように実践しようとしていたのかを知ることには大きな意味があります。

しかしマタイは、イエスの話を聞いた人たちが、それからどのように行動したのかということについては触れずに、もっぱらイエスの活動に焦点を合わせています。しかも、その活動は大変印象的ではあるものの、イエスのこれまでの教えとは直接関係のないもののように思えます。イエスの山上の説教と、今回の三つの病の癒しを結びつけるものはいったい何なのでしょうか。この二つを結びつけるキーワードは「神の国」です。もっと具体的に言えば、「神の国の到来がもうすぐだ」というイエスのメッセージです。イエスの宣教の目的とは、神の国とはどんなものなのかを人々に示し、その備えをさせようというものでした。マタイ福音書におけるイエスの宣教の第一声は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」でした。「天の御国」というのはマタイ独特の言い回しで、マルコ福音書やルカ福音書では「神の国」となっています。これは日本語でも「神をも恐れぬ」と「天をも恐れぬ」というのが同じ意味であるように、マタイは「神」という言葉をみだりに用いるのを避けて「天」と言い換えたのです。それが近づいている、というのがイエスの伝えようとした福音でした。神の国とは神の支配です。神ご自身がこの世界を愛と正義によって支配する世界の到来がもうすぐ到来するということです。そのような新しい現実、新しい世界に備えなさい、というのがイエスのメッセージでした。では、その神の国に「入る」ためにはどうすればよいのかを教えるのが「山上の説教」の目的でした。私たちは新しい環境に入る場合、新しいルールや決まりを覚えなくてはいけません。新しく学校に進学したり、新たに企業に就職する場合、その学校の校則やその企業の社内ルールを守らなければなりません。それを知らなければ学校生活、企業での生活を円滑に行っていくことができません。「山上の説教」も同じです。これから実現しようとしている神の王国、神の支配の中で人々がどのように生きるべきなのかを教えたのが山上の説教でした。それは近いのですから、人々は今すぐにでも生き方を変えるべきなのです。

それに対して、今回のイエスの行った「癒し」は、神の国がほんの近くまで来ているということを示すための「徴(しるし)」でした。イエスはこうした癒しによって「天の御国が近づいている」というメッセージが本当であることを実証しようとされたのです。そのような大きな背景を考えていきながら、三つの癒しを見て参りましょう。

2.本論

では8章1節から読んでいきましょう。イエスが山上の説教を終えて山から下りてこられて初めに出会われた病の人はツァラアトという病を持つ人でした。このツァラアトというのが具体的にはどのような病だったのか、今でもよくわからない部分があります。それが皮膚の病であるのは確かなのですが、現在の私たちが知っている皮膚病のどれに相当するのか、確かなことは分かりません。ただ、そのツァラアトに罹患した人が社会的に大変厳しい状況に追い込まれてしまったことは確かです。まず一つには、このツァラアトは人に伝染すると考えられていので、ツァラアトになった方は家族から離れたところで寂しく暮らさなければなりませんでした。同時に、ツァラアトの人は宗教的な意味、聖書的な意味で「けがれた」人と見なされました。この聖書的な「けがれ」は罪ではないということは強調しておく必要があります。たとえば女性が出産すると、その女性は聖書的な意味で「けがれ」ます。聖書的な意味でけがれるとは、そのような女性はけがれると聖書に書いてあるということです。しかし、子供を産むのは祝福であって罪ではありません。にもかかわらず、その女性はけがれるのです。ですから聖書的な「けがれ」は罪とは区別する必要があります。ともかくも、ツァラアトになった人はそのような聖書的な意味での「けがれ」の状態にあり、そのようなけがれも人に伝染すると信じられていました。しかも、産後の女性の汚れは時間と共になくなりますが、ツァラアトの場合は治るまで「けがれた」状態のままです。したがって、ツァラアトの人は二重の意味で、つまり病気が伝染するとの、宗教的な意味でのけがれが伝染するのを防ぐために、人々から隔離されなければならなかったのです。しかも、当時はツァラアトに対する医療行為は確立されていませんでした。治る見込みがなかったということです。ですからツァラアトになってしまいことは、社会的な意味では死亡宣告を下されるのに等しいことでした。そして、旧約聖書を見ても、ツァラアトが癒されたという話はありません。唯一の例外は、異邦人の将軍であるナアマンの癒しでした。ナアマンはユダヤ人ではなくアラム人でしたが、彼のツァラアトは預言者エリシャによって癒されました。しかし、旧約聖書の癒しの記事はこれだけなのです。ほかにユダヤ人がこの病から癒されたという記録はありません。したがって、この病が癒されるということはイスラエルの長い歴史においても大事件なのです。イエスがこれから神の国が来ようとしているということを証明するための癒しとして、ツァラアトの癒しほどふさわしいものはありませんでした。

このツァラアトの人はイエスの前にやってきました。これは大変勇気のいる行動でした。なぜなら、聖書はツァラアトになった人が人前に出ることを禁止しているからです。レビ記13章45節、46節にはこうあります。

患部のあるそのツァラアトの者は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない。その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。

このように、聖書で明確に隔離を命じられている人が、イエスとその周りに群がる大群衆の前に出てくるというのはまさに命がけの行為なのです。人々から冷たい視線を浴びせられ、それだけでなく皆が自分の前から逃げ去るという、心が折れそうな状況だったことでしょう。それでも彼はどうしても治りたかったし、イエスならそれができると信じたのです。そこでイエスの前に身を投げ出して、「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます」とイエスに訴えました。「お心一つで」とは直訳すれば「もしあなたが願うなら」とあります。彼はもちろん治してほしいのですが、それをイエスに強いるようなことはせずに、あくまでイエスの憐みの心に委ねました。また、「治してください」ではなく「きよくしてください」という願望を伝えています。ツァラアトは単なる病ではなく、聖書的な概念では汚れた状態なので、その状態をきよい状態に戻してほしいと願ったのです。イエスもその人のまっすぐな気持ちに応えました。イエスは言葉を発する前に、まずそのツァラアトの人に触りました。これは驚くべきことでした。なぜなら聖書の教えでは、汚れた状態の人に触れると自分も汚れてしまうので、触ってはいけなかったからです。また、イエスならばその人に触れなくてもツァラアトを癒すことができたでしょう。なぜなら預言者エリシャはナアマン将軍に触れることなく彼のツァラアトを癒しているからです。しかし、イエスはあえて彼に触れました。このツァラアトの人もイエスに触れてもらってうれしかったでしょう。なぜならすべての人が彼を避けて、触ろうとはしなかったからでした。イエスは彼に触れた後、「私の心だ」と言っていますが、ここも直訳すれば「私は願う」となるでしょう。このツァラアトの人がお願いしたからではなく、イエスご自身の意思で彼のツァラアトを癒したかったということです。そしてその人はたちどころに清められました。聖書ではさらっと書いてますが、これはとんでもない大事件でした。なぜなら旧約聖書でツァラアトを患ったユダヤ人が癒されたという記事は一つもないからです。ですからこの癒しはイスラエルの歴史の中でも前代未聞の大事件だったのです。このような驚くべきことを行ったイエスですが、不思議なことに自分が彼を癒したことは誰にも言うなと命じています。とはいえ、周りにはたくさんの人がいたはずなのでこんな大事件が秘密にされることなどありえないのですが、ともかくもイエスはこの癒しをあまり広めないようにと指示したのです。しかし彼には癒されたからだを祭司に見せるように指示します。これは旧約聖書のレビ記の教えに従ったもので、ツァラアトから癒された人は祭司が「きよい」と宣言することを通じて正式にイスラエルの共同体の中に復帰することができるのです。イエスはこの人を癒してきよめただけでなく、彼がイスラエルの共同体の一員に戻ることを願っておられたということです。ここには、イエスの人々へのやさしい思いと配慮を見ることができます。イエスは彼らの病を治すだけでなく、社会生活をも回復させてあげたかったのです。

これが、マタイ福音書に記されたイエスの第一の癒しでした。次いでイエスは二度目の癒しを行いますが、今度の場合も最初の場合とは違う意味で極めて異例なケースでした。というのも、依頼に来たのはユダヤ人ではなく、ユダヤ人を支配し、高い税金を課し、時にはひどい暴力をふるうローマの兵士だったからです。多くのユダヤ人はローマの兵士をひどく嫌っていたことを忘れてはいけません。今でいえばベネゼエラ人にとってのアメリカ人、ウクライナ人にとってのロシア人のような存在だったのです。そのローマの兵士が、ユダヤの流浪の癒し人に部下の癒しを願ったのです。その病気のローマ人の部下も、ユダヤ人にひどいことをしていた可能性は否定できません。彼に対してイエスはどう対応したでしょうか?7節の訳では「行って、直してあげよう」というようにイエスが躊躇なく癒しに同意したように描かれていますが、より詳しくギリシア語を研究している研究者は、ここは「あなたは私に彼を直すために行けというのですか?」と言うように、疑問文として訳したほうがよいと主張していますし、私もそう思います。イエスはすぐに癒すことに合意したわけではないのです。なぜならイエスはその人を癒すためには異邦人の家に入らなければならないわけですが、当時のユダヤ人は異邦人の家に行くことを躊躇していたということは使徒の働きのペテロの言葉からも分かります。ですから繰り返しますが、イエスはその依頼に直ちに応じたわけではないのです。そして、イエスに依頼に来たローマ兵の隊長も、ユダヤ人が異邦人の家に入りたがらないということをわかっていました。そこで彼はイエスに、私の家に来てもらう必要はない、と言ったのです。むしろナアマン将軍を癒したエリシャのケースのように、言葉で言ってくれるだけでいい、それで私の部下は直るでしょうと言いました。イエスにはそのような「権威」があると認めているのです。これは見上げた信仰です。イエスもこの異邦人の軍人の深い信仰に感嘆し、初めの躊躇は撤回して彼の部下を言葉だけで癒しました。このように、イエスは初めに異邦人の癒しを躊躇したけれど、その異邦人の信仰が素晴らしかったので、それに応えて癒すという話の流れになっています。これはマタイ15章に出てくるカナン人の女の癒しとまったく同じパターンです。その時にもイエスは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と、けんもほろろでした。しかし、そのカナン人の女性の信仰があまりにも素晴らしかったので、「あなたの信仰はりっぱです」と褒めて、癒しを行っています。今回の百人隊長とまったく同じですね。ですからこれらはマタイが好んでいたパターンだということになります。そしてこの話には、マタイの教会人としての意図を感じます。というのも、イエスはその宣教対象をもっぱらユダヤ人に限定し、異邦人との接触を極力避けていたのですが、イエスの時代からだいたい50年後にマタイが福音書を書いていた時代には、なかなかイエスを信じようとしないユダヤ人たちをしり目に多くの異邦人がイエスを信じて救われていました。マタイはこのエピソードを記すことで、異邦人の救いの時代がこれから到来していくことになると、暗示したかったのでしょう。

そして三番目の癒しです。これがある意味で最も普通の癒しの記事だと言えるでしょう。イエスはナザレ出身ですが、ガリラヤでの拠点はカペナウムのペテロの実家でした。イエスはペテロの実家に、言い方は悪いですがいわば居候させてもらっています。そこでいつもお世話になっているペテロのしゅうとめが高い熱で苦しんでいましたので、イエスはそれを癒してあげました。この場合は持ちつ持たれつという具合で、とてもよい話だと思います。

このように、三つの癒しを見て参りましたが、もちろんイエスが癒されたのはこの三人だけではありません。ほかにもたくさんの悪霊につかれた人から悪霊を追い出したり、病の人を癒されました。悪霊を追い出すことは、人々を悪魔の支配から神の支配に取り戻すことなので、神の国、神の支配は近づいているというイエスのメッセージを確証するという意味でもとりわけ重要なものでした。マタイはまた、イエスのこうした活動が旧約聖書の預言者のことばの成就であるということを強調しています。マタイは14節で預言者イザヤのことばを引用しています。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」というのは、あの有名なイザヤ書53章の「苦難のしもべ」の歌から取られた一節です。ここからわかるのは、イザヤ書53章のしもべの「苦難」とは単に十字架だけではなく、むしろイエスの公生涯すべてを指している、ということです。イエスが私たちの苦しみを引き受けてくださったのは十字架上だけではなく、公生涯すべてにおいてだったということです。イエスは、おそらく人々を病や悪霊から解放するときに、ご自身でもそうした人々の苦しみを共有されたのでしょう。それがどういうことなのか、私にはうまく説明できませんが、おそらく相手の病をいやすときに、相手がこれまでどんな苦しみを背負ってきたのかが分かったのだと思います。そのような共感の上で、癒しの奇跡を行ったということです。ですからイエスご自身も、大変な思いをしながら癒しの業を行い続けたのです。

3.結論

まとめになります。今回は、イエスがその公生涯の初めに行った三つの癒しを見て参りました。最初はツァラアトの癒し、二つ目は異邦人の癒し、三つめはペテロのしゅうとめの癒しでした。このうちの最初の二つは、まさに神の国の到来、神の支配の到来がもうすぐだということを指し示すものでした。ツァラアトが癒されるというのは長いイスラエルの歴史でも初めてのことでした。このようなことが起きるということは、イスラエルの歴史に大きな転換点が訪れることを指し示すことでした。また、異邦人を癒したことも重要です。救いは今やユダヤ人に限定されず、広く異邦人にも及ぶということ、これが神の国の大きな特徴の一つです。そのような神の国の福音の拡大のミッションを、ペテロたちがこれから担っていくのですが、そのペテロのしゅうとめが癒されたことは、イエスがこうした働き人たちの生活のことも深く配慮してくださっていることを示すものです。

そして、こうした働きすべての背後にあるのはイエスの人々への深い愛と憐み、さらに言えば父なる神の愛です。神は人々を苦しみから救うために行動を開始したのです。このイエスの始められた神の国運動は、二千年を経た今日でも続いています。私たちにはイエス様のように人の病をいやす力はありませんが、社会の中の孤独や孤立を癒す働きはできると思います。イエスの働きを、今年も続けて参りましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神よ。そのお名前を賛美します。今日はイエスのなされた癒しの業を学びました。今日においても癒しを求める方は多くおられます。主がそうした方々を癒してくださいますように。また私たちも微力ながらそうした働きを担うことができますように。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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イエスの教えへの誤解マタイ福音書7章13~29節 https://domei-nakahara.com/2026/01/04/%e3%82%a4%e3%82%a8%e3%82%b9%e3%81%ae%e6%95%99%e3%81%88%e3%81%b8%e3%81%ae%e8%aa%a4%e8%a7%a3%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b87%e7%ab%a013%ef%bd%9e29%e7%af%80/ Sun, 04 Jan 2026 00:35:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=7173 "イエスの教えへの誤解
マタイ福音書7章13~29節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。今日が2026年の最初の説教となりますが、この箇所を今年の初めの説教として与えられたことは、何か象徴的なといいますか、大変大きな意味があることであるように思います。この箇所はキリスト教の核心的な部分に係ることだからです。

マタイ福音書を読み進めていくと、「おや?」とか、「これはいったいどういう意味なのか?」と思わされるところがいくつも出てくるのですが、今日の箇所などまさに典型的なところです。なぜ「おや?」と思うのかといえば、それはイエスの教えが私たちの普段考えているキリスト教とは違うことを言っているように思えるからです。胸がざわざわするというか、落ち着かない気持ちになってくるのです。たとえばその一つは、「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです」という、マタイ22章14節にあるイエスの言葉です。「少ない」というのがキーワードになっています。「いのちの道を見出す者は少ない」とか、「選ばれる者は少ない」と聞くと、「ああ、救われる人って少ないんだな」となんだがガクッとしてしまいますよね。特に日本のように、キリスト教人口が全人口の1%未満の国で、伝道の難しさが身に染みているような国では、いくらキリスト教を熱心に伝えようとも、大した成果が上げられないのではないか、という絶望的な気持ちになってしまうかもしれません。しかし、それは日本という特殊なケースの話で、世界では救わる人は少ないどころか、大変多いという現実があります。世界の総人口の約三割がクリスチャンと言われていますが、今の人口を80億人とすると、少なくとも20億人以上の人がクリスチャンだということになりますし、国によっては3割どころか5割にも上る国もあります。こんなに多くの人が救われているのなら、とても少ないなんていえないじゃないか、と思えてくるのです。日本だって、今でこそクリスチャンの数は少ないですが、これから数百年後になれば状況は全く変わっているかもしれません。仏教だって、初めはなかなか日本に定着しませんでしたが、鎌倉仏教という一種の覚醒時代を経て、広く庶民にも根付きました。同じことがキリスト教で起きる可能性は十分にあるのです。

ただ、今日の箇所はキリスト教人口が日本の人口の1%なのか世界の人口の30%なのか、というような数字の話ではなく、むしろその30%、世界の20億人ものクリスチャンがみんな本当に救われているのか、自称クリスチャンであれば、あるいは洗礼さえ受ければ、本当にみんな救われているのだろうか、という疑問を抱かせてしまうのです。よく、文化的クリスチャンという言葉があります。日本人でも、自分は神も信じないし無宗教だと思っている人も、自分の家が代々仏教の檀家であると、「私は仏教徒です」と答えてしまうように、伝統的にキリスト教国と呼ばれる国の人々は、教会には年一回ぐらいしかず、聖書も全然読まないような人でも「私はクリスチャンです」という人が結構たくさんいます。こういうケースも、本当に「救われている」と言えるのでしょうか。あるいは、確かに信仰心は篤いのですが、「自分は信じている、救われている」という気持ちばかり強くて、他人に対しては全然親切ではない、それどころか信仰を持っていない人を「救われてない人」というぐあいに蔑むような人は、なんとなくクリスチャンらしくないといいますか、そんな人ばかりが天国にいるとすれば天国ってあまり楽しそうではないな、生きづらそうだな、などと思ってしまうかもしれません。何が言いたいかと言えば、「自分はクリスチャンだ」という自覚があれば、本当に誰でも救われているといえるのだろうか、という疑問が生じてしまうのです。たしかに、しばしば言われるような「信じる者は誰でも救われる」という言葉を聞けば、性格的に難があったり、あまり実践面で熱心とはいえないような人でも、信じさえすればみな救われているということになるのかもしれません。しかし、マタイ福音書を読んでいると、そういう見方が本当に正しいのか、疑問を抱かせるような箇所が少なからず出てきます。さきほどの「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです」というイエスの言葉もまさにそうです。これはイエスのたとえ話に出てくる言葉で、とある王さまが出てくる話ですが、この王は明らかに神を指しています。この王は立派な名士たちを王の宴会に招きますが、彼らはその宴会に来ようとはしません。そこで、おおよそその宴会にはふさわしくない人たちを通りで見つけては、彼らを宴会に招待します。こうした人々はラッキーにも王様に招かれて王宮で御馳走にありつけそうだと喜んで、いそいそと出かけていきます。ここまでは、何のたとえなのか分かりますよね。今日でも、社会で立派な人たちだとされている人がキリスト教に冷淡だったり無関心だったりするのに対し、社会から見下されているような人たちが喜んで福音に応答する、というようなことがしばしばあります。このイエスのたとえも、そのことを示しているように思えます。そういう人たちは、招きに応じさえすればみんな救われるのだ、と。しかし、なんとこうして招待された多くの人たちは、いざ宴会場に入ろうとしたときにふさわしい装いをしていないということで入場を拒否されてしまうのです。ただでごちそうにありつけると思ってやってきたのに、目の前でニンジンをぶら下げられて追い返されるという、非常に残念な結果になってしまいました。ここでの「ふさわしい装い」というのはクリスチャンにふさわしい行動、行いを指していると思われます。信じているといっても、ふさわしい行い、良い行いをしない者は結局は神の国に入れないということを教えているようなのです。マタイが言う「広い道」を通る人というのも、これはキリスト教を信じないで世の中の価値観に流されていく人ということではなく、むしろ自分はクリスチャンだと思いながらも世の中の価値観に流され、クリスチャンらしく生きない人なのではないか、と考えられるということです。しかし、そのような結論は「信じれば、ただ信じるだけで救われる」という多くの人がキリスト教に抱くイメージと衝突してしまうのです。「行いがなくても、信じるだけで救われるのがキリスト教でしょう?行いがないからといって、神の国から除外するなんて、おかしいじゃないか」という反論がありそうですよね。行いによって救われるのなら、ほかの宗教と何も変わらないじゃないか、キリスト教のすばらしさ、これはキリスト教だけでなく浄土真宗もですが、そのすばらしさは「行いによる救い」ではなく「信仰による救い」を説いていることだ、とこのように考える人がとても多いということです。

しかし、行いがなくても信じるだけで救われるなどとは、イエスは一言も言ってはいません。では誰が言っているのかといえば、パウロです。パウロ書簡には、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によるのだ、という教えが繰り返しでてきます。そしてそこから「信仰義認」、平たく言えば「信じるだけで救われる」という教えが生まれ、それこそがキリスト教の本質だと見なされるようになったのです。ただ、このような教えはよくよく慎重に考えなければなりません。いくらパウロが言ったことであろうと、それがイエスの教えと矛盾するのであれば、そこに価値はありません。私たちを救うのはパウロではなくイエスだからです。パウロが本当は何を言おうとしたのかを説明するのは今回の箇所の目的ではありませんが、それではなぜパウロの話をしたのかといえば、おそらく今日の箇所はこのパウロの教えを意識している箇所だろうと思われるからです。こういうと驚かれるかもしれません。パウロがイエスを信じるようになるのは、イエスが十字架で死なれて昇天した後であり、この山上の説教を語っている時点ではパウロはイエスのことを知りもしなかったはずだからです。パウロが活躍する前の時期に、イエスがパウロの教えを意識して何かを語るはずがないだろう、ということです。ただ、注意してほしいのは、確かにイエスの活動の時期はパウロの活動時期の前ですが、このマタイ福音書が書かれたのは、パウロが活躍した時代よりもずっと後のことだということです。マタイ福音書の執筆記事は紀元80年代だとされていますが、パウロ書簡が書かれたのは紀元50年代だと言われています。マタイ福音書は、パウロ書簡よりも30年、あるいは40年も後に書かれた福音書なのです。ということは、マタイ福音書を読んだり聞いたりした人たちは、パウロの教えについてかなり知っていた可能性が高いのです。説教者は聴衆のことをいつも考えます。自分が何を考えているかだけでなく、相手が何を考えているのかを意識しなければ、意味のあるコミュニケーションが成り立たないからです。マタイも、マタイ福音書を書いているときに、自分が記しているイエスの教えが聴衆や読者にどのように受け止められるのかを強く意識していたはずです。そして特にマタイは、パウロの教えを曲解して「行いがなくても信じればよい」などと考える信徒に対して非常に大きな危惧を抱いていたものと思われます。これはマタイ福音書におけるイエスの教えを慎重に読んでいけば分かることですが、今日の箇所はまさにその典型です。マタイは、イエスの教えの中でも行いの重要性を強調する教えに特に注目し、それらを集めて一つにまとめ、この箇所で非常に明確な形で提示しているということです。この点に注意しながら、今日のテクストを読んで参りましょう。

2.本論

では、13節からです。ここでは「いのちに至る道」と「滅びに至る道」という、二つの道が示されています。いのちに至る道は狭く、滅びに至る道は広いと言われています。このイメージは、クリスチャンには当惑させるものかもしれません。なぜなら、キリスト教神学では「狭い道」とは行いで救われようという厳しい道で、ユダヤ教的なものだと考えられてきたからです。ユダヤ人は自らの行いで救われようという厳しい道、険しい道を進もうとしてきたけれど、イエス・キリストはそのような狭すぎる道ではなく、もっと「広い道」、誰でもできる道を切り開いたというのです。すなわちイエスは人類の身代わりとして死ぬことで、良い行いはなくてもイエスを信じるだけで救われるという、もっと広い道を作ってくださったということです。しかしイエスは、救いに至る道は決してそのような安易なものではない、とくぎを刺します。では、いのちに至る狭い道とはどんなものなのか、ということをイエスはさらに示していきます。

イエスはまず、預言者たちについて語ります。預言者の良し悪しを判断する基準として、イエスは「実」で判断しなさい、と言います。では預言者の「実」とは何でしょうか?預言者ですから、預言ができることや、エリヤやモーセのように奇跡を行うことでしょうか。そう考える人に冷や水を浴びせるのが次のところです。22節と23節にはこうあります。

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け』

これはかなり厳しいことばですよね。主イエスの名によって預言したり奇跡を行った人たちですら救われないというのはいったいどういうことなのか、イエス様、いくら何でも厳しすぎませんか?という気がしてきます。しかし、このイエスの言葉を記したマタイは、おそらく彼の生きていた時代の教会のことを思い描いてこの言葉を記したのだと思います。パウロ書簡からもわかるように、原始キリスト教、つまりイエスが昇天してから数十年間、パウロが活躍していた時代は教会の歴史にとって例外的な時代でした。というのも、イエス様やパウロのような特別な人たちだけでなく、一般の信徒たちの間にも聖霊が力強く働き、彼らも預言をしたり奇跡を行うことができた時代だったということです。パウロは第一コリント書簡の12章10節で次のように記しています。

ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。

このように、コリント教会の一般の信徒たちは奇跡を行ったり預言をすることができたのです。彼らは、嫌な言い方をすればいわゆる「平信徒」で、特別な役職についている人たちではありませんでした。では、彼らは奇跡を行うくらいだから人格的にもモーセのように高潔な人たちだったかといえば、コリント書簡を読めば分かるように、全然そんなことはありませんでした。コリント教会では、問題のある行動をする人が驚くべき奇跡を行うというような、そういう特殊な状態だったのです。パウロは「正しくない者は神の国を相続できない」とはっきり語っています。主イエスの聖名によって奇跡を行う力があれば、日ごろの行いがいくらだらしなくても救われるとか、そういうことは決してないということです。マタイ福音書の今日の箇所も、このような初代教会の状況を反映しているものと思われます。奇跡を行う能力があれば救いは間違いないというような誤解を解くために、マタイはこの厳しいイエスの教えをここに書き記したのだと思われます。

また、21節には次のような主イエスの言葉があります。

わたしに向かって、『主よ、主よ』と呼ぶ者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行う者が入るのです。

これも厳しい言葉ですよね。イエスに向かって主よ、主よ、と呼ぶ人はクリスチャンしかいないわけですが、そのように主を求める人でも御国に入れない人がいるというのは衝撃的です。自分の行いに自信がある、私は神のみむねを行っていると自信をもって言い切れるクリスチャンはそんなに多くないと思うので、このイエスの言葉も私たちを不安にさせます。しかし、この言葉もある種のパウロ主義に対する誤解を解くためだとも考えられます。なぜならパウロは旧約聖書のヨエル書を引用して「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」(ロマ10:10)と言っているからです。このパウロの言葉を拡大解釈して、「主の御名さえ呼べば、誰でも救われる、行いとかクリスチャンらしい生き方とかは必要ない」という風に考える人がおそらくマタイの時代にいたのでしょう。なぜそういえるかといえば、それから二千年経った今でもそのように考える人がいるからです。マタイは、イエスの言葉としてそのような誤解、ある種のパウロ主義に反対し、口先だけではだめだ、信仰には行動が伴わなければならないということを強調したかったのでしょう。

このマタイの言わんとするところは、イエスの山上の説教の最後のたとえに端的に示されています。それは岩の上に家を建てた人と、砂の上に家を建てた人のたとえです。イエスの話を聞くだけで行わない人は、自分が持っていると信じている信仰をたやすく失うだろうと説教者マタイは警告しているのです。そのような「信仰」は砂の上に建てた家のようなもので、困難が来ると簡単に壊れてしまうというのです。

ここで誤解しないでいただきたいのですが、「行いが大事だ」、「行いが必要だ」という場合の行いとは、一切罪を犯さないこと、完璧な行いのことという意味ではないということです。行いが必要ないという人のしばしば使うロジックは、神様の求めるのは中途半端な行いではなく、完璧な行いだけれども、それは不可能なのだ。だから救いと行いとは無関係なのだ、というものです。しかし、一切の過ちを犯さない人など誰もいないということは、誰よりも神様ご自身がご存じです。神様は人類と何千年も付き合ってこられたので、そんなことが人間には不可能であることをご存じです。神様が求めているのは、私たちの力の及ぶ限り努力することです。それだけです。その行いがどんなに不完全でまずいものだったとしても、神様はそんな私たちを支えてくれます。あなたは自分の子どもや教え子が何かを一所懸命やろうとしているときに、その努力が完ぺきではないからと言って見捨てるでしょうか?そんなことはないはずです。むしろ精いっぱい手助けするでしょう。もし見捨てるとすれば、「私はやりやります。頑張ります!」と口では言いながら、何もしようとしない人、自分では指一本動かさないような子どもや教え子であれば、あなたも助ける気をなくすでしょう。神様も、この点では人間の親や指導者とそれほど大きく変わらないのです。「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません」(ヤコ1:22)というヤコブの教えは本当に真実なのです。

3.結論

まとめになります。今日は山上の垂訓の最後の教えを学びました。そこで言われていることのポイントは、「聞くだけでなく実行しなさい」ということでした。山上の説教には様々な教えがあり、チャレンジを与えるものも少なくないですが、それらの教えをただ聞いて、「イエス様ってすごい、素晴らしい教えだ!」とただ感心するのではなく、実際に自分の手足や頭を動かして実行しなさいということです。日本の伝統的な教えで中国から伝わった儒教には「知行合一」というものがあります。本当に知る、理解するためには行動が必要だということです。イエスの教えの本当の意味は、こうして私や誰かの説教を聞いているだけではだめです。それを実践して初めてその意味が分かる、そのすごさが分かるのです。私も今年の年初に何か新しいことをやろうと思って将棋入門の本を買いましたが、その本がそんなに素晴らしても、私がその本を読んで実際に練習やけいこをしないことにはその本は単なる宝の持ち腐れです。ないのと同じです。ですから私たちも聖書を読んだり聞いたりするだけでなく、それを実践しましょう。ただ、気を付けたいのは実践すると言ってもイエスの意図をちゃんと理解しないでしゃにむにそれを行おうとしてはいけないということです。「右のほほを叩かれたら左のほほを向けなさい」という教えに込められたイエスの意図を理解せずに、ただそのまま実践しようとすればかえってもっとひどいことになります。まずイエスの意図をきちんと理解して、そのうえで実行すべきなのです。ですから聖書を学ぶことはとてもとても大事です。しっかり学び、そのうえで実行する、今年もそのように歩みたいと願うものです。お祈りします。

天におられますわれらの父よ、そのお名前を賛美します。主の年2026年が始まりました。ことしもみことばを聞き、それを正しく理解し、そのうえで実行できるように私たちを導いてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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何を願うかマタイ福音書7章7~11節 https://domei-nakahara.com/2026/01/01/%e4%bd%95%e3%82%92%e9%a1%98%e3%81%86%e3%81%8b%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b87%e7%ab%a07%ef%bd%9e11%e7%af%80/ Thu, 01 Jan 2026 00:18:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=7168 "何を願うか
マタイ福音書7章7~11節" の
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みなさま、新年おめでとうございます。毎年恒例になりましたが、元日礼拝は今年の年間主題聖句を取り上げてお話しします。このマタイ福音書7章7節は昨年の講解説教で取り上げたばかりの箇所なので記憶に新しい箇所でもありますが、年初にあたって改めてこのみことばをよく考えてみたいと思います。

お正月といえば初詣で、多くの日本の方々は二年参りに赴いて神社仏閣で年越しを迎える方も多いと思います。初詣で何をするかと言えば願掛けであり、新しい年を迎えるにあたってお賽銭をしてお願いをするというのが多くの日本の方の行動パターンだと言えるでしょう。お願いする内容は様々で、受験生の方は合格祈願、サラリーマンの方は商売繁盛、若いカップルは子宝を授かることなど、いろいろでしょう。普段は宗教に無関心な日本人が急に信心深くなるように見えますが、日本人が神仏に祈るのは、このように何かをお願いするときだと言えるでしょう。

かくいうキリスト教の場合も、祈りとお願いには深い関係があるように思います。「求めよ、さらば与えられん」というみことばが聖書の中でも最も人気があるみことばの一つであるというのもその証拠と言えるかもしれません。ただ、このようなシンプルで力強い言葉は誤解を招きやすいものでもあります。「信じる者は救われる」という、これまたよく言われる言葉もそうですが、こういう分かりやすいことばほど、よくよく意味を考える必要があります。というのも、神様に願えば何でもかなえられると言われても、そんなはずはないということは子供でも分かるわけです。そこで、何をどう願うべきなのか、ということを聖書の他の箇所を参照しながら考えてみましょう。それは昨年の説教でも取り上げたヤコブの手紙です。この手紙はイエスの実の兄弟であるヤコブが書いたものと言われていますが、その内容はさすが兄弟というべきか、イエスの教えと非常に近いのです。そのヤコブが願うこと、求めることについて何と言っているかを見てみましょう。ヤコブ書1章5節から8節です。

あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いています。

このように、疑わずに信じて願えば与えられる、ということをヤコブは述べています。しかしヤコブはほかのところで願っても与えられないということも話しています。そこを見てみましょう。4章1節から3節です。

何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受け入れられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

このように、自分の快楽のためにというような悪い動機で神に願っても、それは叶えられることはないとはっきり語っています。先ほどのヤコブの教えと一緒に考えるならば、神は私たちにとって本当に良いこと、必要なことを願うならば与えてくださるけれど、私たちの目先の快楽のための願いは聞いてくださらないということです。これは当たり前のことですよね。自分のことで言うのも恥ずかしいのですが、私は小学生に入るか入らないかの頃に、おじいちゃんとおばあちゃんからお正月のプレゼントをもらったことがありました。私はその時、ゲームが欲しくてそれを願っていたのですが、おじいちゃんとおばあちゃんがくれたのは勉強道具でした。私はそれを貰った時に泣き出して、「こんなのいらない」と駄々をこねました。まあ、今から思えばなんてことをしたんだろうと思うわけですが、おじいちゃんとおばあちゃんは私の将来にとって一番良いものを用意してくれていたのですが、私は目先の楽しみで頭が一杯だったわけです。そして、大人になった私たちと神様との関係も、どこか子供の頃の私と祖父母との関係と似たところがあるのかもしれません。

さすがに大人になった私たちは神様に「あのゲームが欲しい、買って」と祈り求めることはないでしょうが、私たちが神に願うものは、後になって少し距離を置いて俯瞰してみて考えると、「なぜ私はあんなことを願ったのだろうか」と思うようなことが少なくないのではないでしょうか。あるいは、自分が本当にしたいことを自分ではわかっていないということもあります。いきなりなんだかエリートっぽい話になって恐縮ですが、私はサラリーマンだった時に強く願っていたことがありました。それは当時勤務していた銀行から海外の大学院に留学させてもらうことでした。私の父もかつてアメリカの一流大学に社内留学生として派遣されたことがあったので、なんとなく留学へのあこがれがあったのです。私は当時そのためにいろいろと努力し、英語力を上げたり資格を取ったりしました。しかし、いざ来年チャレンジしようとしていた時に、バブル崩壊の影響を受けていた銀行は突然留学制度を中止しました。私は目標を見失ってなんだか呆然としてしまいました。仲の良かった先輩から、国内の大学院でもいいじゃないかと言われ、当時渋谷支店に勤務していたこともあり、青山学院の夜間の社会人向けMBAコースに入学しましたが、それはやはり海外留学の代わりにはなりませんでした。

しかし、今から振り返ると、たとえアメリカの一流のMBAに入学できたとしても、自分は全然幸せではなかっただろうな、と思います。今なら分かりますが、MBAで学ぶような内容は、私が本当に学びたいことではなかったからです。またMBAに来るような人たちは非常に上昇志向の強い人たちばかりなので、せっかく海外生活を経験できたとしても、そういう人たちとの競争に明け暮れる二年間というのもあまり幸せではなかっただろうと思います。それに対して、神学の勉強のためにイギリスに留学した七年間は本当に楽しく、学ぶことも自分が心から学びたい内容でした。しかし、サラリーマンをしていた頃の自分は、自分が本当に勉強したいのが聖書学だなどとは一ミリも思っていませんでした。そんな面白い学問があることなど全然知らなかったからです。

しかし神様はそのことをご存じでした。「アメリカのビジネススクールに留学したい」という私の願いは叶いませんでしたが、私に本当の知恵を与えてくれる留学の道は神様がちゃんと用意してくださっていたのです。また、ビジネススクールに行くために英語を勉強したり論文を書いたりしたことは決して無駄になりませんでした。また、金融機関で働いていたおかげで、結構なお給料をいただいていましたから、留学のための軍資金を蓄えることができました。私は30代の半ばで留学しましたが、20代の世間のことが何もわかっていなかった時よりも、ある程度の社会経験を積んだ後のほうが神学の学びにもプラスの影響があったように思います。

と、なんだか私の証しになってしまいましたが、この話から「神は願い求めるものを与えてくださる」ということについての一つのイメージができるのではないでしょうか。神は確かに私たちの願うものを与えてくださいます。それは当初自分が願っていたものとは違うものかもしれませんが、しかしきっとそれは自分すら知らなかった私たちの本当の願いなのです。神様は良い方ですから、私たちに本当に良い物を与えてくだるでしょう。そのことを信じて今年も歩んで参りましょう。お祈りします。

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キリストにあって一つにエペソ書2章1~22節 https://domei-nakahara.com/2025/12/28/%e3%82%ad%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88%e3%81%ab%e3%81%82%e3%81%a3%e3%81%a6%e4%b8%80%e3%81%a4%e3%81%ab%e3%82%a8%e3%83%9a%e3%82%bd%e6%9b%b82%e7%ab%a01%ef%bd%9e22%e7%af%80/ Sat, 27 Dec 2025 23:54:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6973 "キリストにあって一つに
エペソ書2章1~22節" の
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みなさま、おはようございます。本日は2025年最後の主日礼拝になります。この一年かもみなさまのおかげで礼拝を続けていくことができました。ありがとうございます。今日は、これまで取り上げたことのない書簡であるエペソ書からメッセージをさせていただきます。

さて、今年一年を振り返ると様々なことがありましたが、一つの重要なテーマとして浮上していたのが「分断」ということでした。トランプ氏がアメリカの大統領になってから、いや実はその前からアメリカは真っ二つに分裂しているということが言われてきました。アメリカがどのような意味で分裂しているのか、ということについてはいろいろな分析がなされてきました。マスコミに登場する多くの論客はトランプ氏のことを反知性主義、人種差別主義者などと徹底的に批判し、アメリカに分断をもたらしているのはトランプ氏だと批判します。しかし、実際は少なくともアメリカの国民の半分以上がトランプ氏を支持しているので彼は大統領になれたわけです。私は、個人的にはこの分断の背景として最も重要な要素は経済問題、とくに経済格差なのではないかと思います。アメリカ国民を二分するテーマとして、移民を無制限に受け入れるのか、あるいは不法移民を厳しく取り締まるのかということが大きな争点になっていて、不法移民を厳しく取り締まろうとするトランプ氏は差別主義者だとよく言われます。ですが、実際にはこの背後には経済の問題があります。西側先進国では移民を大量に受け入れる国が多いですが、それを支持しているのは主として産業界です。なぜなら人手不足の中、移民は安価な労働力となるからです。人件費の安い海外に工場を移転するということがこれまで行われてしましたが、海外に移転しなくても海外の安い労働力を大量に受け入れれば似たような経済効果が生まれるからです。アメリカも、生産拠点を海外に移すのと同時に大量に移民を受け入れてきましたが、その結果アメリカの工場労働者の賃金は上がらずに、中産階級が没落していきました。アメリカはモノを作らなくなり、もっぱら金融で儲ける国になっていきました。アメリカでは株や債券など金融商品から生み出される利益はなんと500兆円にも上ると言われています。日本のGDP、国民総生産に匹敵する利益が、金融商品だけから生み出されているのです。しかしそのような金融商品からの利益を受け取る人が限られてしまっていることが大きな問題なのです。アメリカ人の約半分は株などの金融商品を保有していないと言われています。反対に、上位1%の人の資産のアメリカの全資産に占める割合は何と30%に達しているとも言われています。このように、アメリカは持てる者と持てない者とに二分され、持てない人たちの不満がトランプ氏を押し上げたということになります。こういうトランプ支持の人々は、経済エリートたちから見れば学歴が高くない人たちなので、彼らに支持されるトランプ氏が「反知性主義」というレッテルを張られてしまうのです。しかし、個人的にはトランプ氏は非常に頭のいい人だと思います。

さて、このように今日でも分断の問題が大きなテーマになっていますが、イエスやパウロが生きた時代にも分断というのは大きなテーマでした。イエスの宣教の大きなテーマの一つは、「義人」と「罪人」という分断でした。ここで間違えないようにしたいのは、私たちはパウロがローマ書簡で「義人はいない。ひとりもいない」と書いていることを思い浮かべて、この世に生きる人はすべて罪人なのだ、と考えてしまいます。しかし福音書で「イエスは罪人の友となった」と言われる場合の「罪人」とは、特定の職業に就いている人々を指す言葉でした。イエスが親しくした「罪人」とは具体的には「取税人と遊女」でした。イエスは当時のイスラエルのエリートたちに対して、「取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです」と語りましたが、この「取税人」や「遊女」たちが「罪人」たちだったのに対し、イエスを糾弾する祭司や律法学者たちは律法をきちんと守る「義人」たちでした。ここで注意したいのは、「祭司や律法学者」というグループと「取税人や遊女」というグループは、そのまま「金持ち」と「貧乏人」という二つのグループだったということです。この二つのグループの違いは道徳よりも、経済力だったということです。取税人というと、あのザアカイさんのようなお金持ちを連想するかもしれませんが、取税人になる人はもともとは貧乏だったのに、取税人という仕事を通じて金持ちになったということに注意してください。取税人と聞くと、今日の税務署の職員のような人たちを連想するかもしれませんが、全然違います。税務署の職員は国家公務員であり、安定した職業ですが、取税人はまったくそのような人たちではありませんでした。彼らは当時ユダヤを支配していたローマ帝国によって雇われた人たちでしたが、彼らに対してローマ帝国は賃金や給料を払わなかったのです。えっ、そんなことがありうるのか、と思うかもしれませんが、本当です。では、彼らはどうやって生活していたのかといえば、彼らは例えばローマから10%の税金を集めろと命じられた場合には、実際には12%とか15%の税金を徴収し、差額の2%とか5%を自分の給料としていたのです。いわばピンハネのようなことをしていましたし、ローマもそれを認めていました。そして、自分の取り分として何パーセントを乗っけるのかというのは取税人の裁量に任されていたのです。悪質な取税人になると、暴力団のような人たちを雇って厳しい税の取り立てをしていました。取税人で金持ちの人たちはこうした不正な取り立てによって貧乏人から成りあがっていったのです。当然人々からは毛虫のように嫌われていました。では、なぜこのような人々から嫌われる仕事を選んだのかといえば、それはそうする以外に生きていく手段がないほど追い詰められていたからでした。今の日本の国民負担率、つまり所得税や住民税、消費税と社会保険料の合計は46%にも達すると言われ、給料の半分は税負担になると言われていて大きな政治テーマになっていますが、しかし当時のユダヤ人の国民負担率は70%から80%にまで達し、しかも逆累進課税で貧しい人ほど税負担が大きかったのです。この恐るべき状況の中で、お金のない人の選べる道はわずかしかありませんでした。若い女性の場合は、戦前の日本の貧しい農家のように、遊女として売られていきました。男性の場合は、人々から「罪人」として後ろ指さされることを覚悟のうえで取税人になっていったのです。このように、イエスが親しく付き合った罪人の取税人や遊女は、道徳的に非常に行いの悪かった人たちではなく、貧困の故に「罪人」とされる職業を選ばざるを得なかった人たちでした。そうした彼らを、義人と呼ばれる人たちは軽蔑しました。ここでいう「義人」とは一度も罪を犯したことのない完璧な人、という意味ではありません。むしろここでは「神との契約の中にいる人」という意味です。ユダヤ社会の中で立派な職業に就いている人たちは契約共同体の一員でしたから、彼らは義人だったのです。こうした社会状況の中で、イエスは罪人たちの友となることで、イスラエル社会の深刻な分断、「義人」と「罪人」との間の垣根を取り除き、イスラエルの民に一体感を取り戻そうとしたのです。

このように、イエスの宣教の目的の一つはイスラエルの分断を解消することにありました。それに対し、「異邦人の使徒」であるパウロは別の形の社会の分断に取り組みました。イエスはユダヤ人の中の分断を問題にしましたが、パウロはユダヤ人とユダヤ人以外の人々の分断を問題にしました。先ほど、ユダヤ社会の中で「罪人」とされていたのは取税人や遊女など経済的な困難にいた人々だと申しましたが、ユダヤ人にとってもう一つの「罪人」のカテゴリーがありました。それはユダヤ人にとっての外人、外国人、いわゆる異邦人でした。ユダヤ人は外人をひとまとめに「罪人」と呼んでいたのです。パウロはガラテヤ書2章15節でこう述べています。

私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。

と、このように、ユダヤ人と異邦人はそれぞれ「義人」と「罪人」として対比されていたのです。先ほども述べたように、「義人」とは何の罪を犯したことのない完全な人、ということではありません。先ほどと同様に「神との契約の中にいる人」という意味です。イスラエルは神との契約の中にいるので、イスラエルのメンバーはよほどひどい罪を犯さない限りは「義人」なのです。パウロは、イエスがユダヤ社会内部の分断を取り払おうとしたように、ユダヤ社会の外の人々との分断を取り払おうとしました。なぜなら、パウロはメシアの使命がイスラエルの救いのみならず異邦人の救いでもあると信じていたからです。パウロは異邦人の救いを「福音」と呼んでいます。その箇所を見てみましょう。ガラテヤ書3章8節です。

聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福を受ける」と前もって福音を告げたのです。

とあります。「アブラハムによって」とありますが、創世記では「アブラハムとその子孫によって」すべての国民が祝福を受けるとなっています。そしてそのアブラハムの子孫がイエス・キリストだ、というのがパウロの福音です。イエスはユダヤ人と異邦人との壁を打ちこわし、異邦人を神の民、神の契約へと導き入れてくださったというのがパウロの福音なのです。

そして今日のエペソ書です。エペソ書はパウロが書いた書簡だとされていますが、実際にはパウロの弟子の一人とされる人物によって書かれた書簡だと多くの研究者は考えています。パウロが死んだあとに、パウロの思想を正しく伝えようとしたお弟子さんが書いたということです。また、「エペソ書」ということで小アジアのエペソ教会への書簡とされていますが、この書簡の古い写本にはエペソ教会のことは書かれておらず、おそらくのちの時代に追加されたものだと思われます。つまり、パウロの弟子が特定の教会ではなく、広くパウロの流れを汲む教会すべてに書き送った「公同書簡」的な色合いが強い文書だということです。

そして、この書簡が特に強調しているポイントが、キリストがユダヤ人と異邦人との間の隔ての壁を打ち壊したということです。この2章など、まさにそのようなテーマが語られています。2章1節の「あなたがた」とは異邦人クリスチャンのことです。彼ら異邦人はかつて「自分の罪過と罪の中で死んでいた者」だった、というのがこの書簡の著者の抱く異邦人理解でした。11節と12節に、そのことがさらに詳しく書かれています。

ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人でした。

このように、異邦人であるということは契約の民であるユダヤ人から見れば神に見放されたような、将来についてまったく希望のない状態だったのです。しかし、そのような異邦人に希望と未来を与えてくれるのがイエス・キリストの到来、とりわけその十字架での死だった、というのがこのエペソ書の著者の主張なのです。そのことが書かれているのが13節以降ですが、そこを改めて読んでみましょう。

しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

このように、キリストの十字架の意味とは異邦人とユダヤ人の隔ての壁を打ち壊すためだった、とこの著者は主張しているのです。そして、その隔ての壁とはユダヤ人と異邦人の交際を厳しく制限する律法なのだ、というのがこの著者の考えです。ここで注意したいのは、イエス様は十字架上で死なれるときに、「私の死によって、ユダヤ人と異邦人との隔ての壁が壊される」と考えていたのではないだろうということです。イエスは自らの死によって新しい契約が結ばれると信じていましたが、その新しい契約とはイスラエルの全家と結ばれるものだからです。新しい契約を預言したエレミヤも、「わたしがイスラエルの家と結ぶ契約」と言っていますので、この契約は神とイスラエルとの新しい契約だということができるでしょう。イエスは自らの民であるイスラエルの救いのために死んでいったのです。では、イエスの死がユダヤ人と異邦人との間の壁を壊すためのものだったというパウロの解釈、あるいはパウロの弟子の解釈が誤りだったのかといえば、そうではありません。むしろ、彼らはイエスの宣教の目的の一つである「義人」と「罪人」との垣根を壊すという働きを正しく拡張して、ユダヤ人のみならず全人類の問題としてとらえなおしたのです。「義人」と「罪人」との間の壁の問題をユダヤ内部の問題としてではなく、全世界の問題としてとらえなおしたということです。これはイエスがはじめられたことを正しい方向で拡大したということなのです。

これは21世紀に生きる私たちにとっても大事なことです。イエスの生きた時代は私たちの時代とは様々な意味で異なります。イエスのなさったことを私たちがそのまま継続しようとしたり、繰り返そうとしてもうまくいきません。なぜなら私たちの時代とイエスの時代とは大きく異なるからです。しかし、イエスのなさったことのエッセンスを正しく理解し、それを私たちの時代に当てはめることはできます。イエスの働きの本質とは、人々を分断するもの、バラバラにするものをうち壊して、人々を自らのもとで一つにすることでした。私たちの時代にも様々な分断が存在し、それが社会を不安定化させます。私たちはそういう問題を正しく見抜いて、分断を解消するために働くべきです。そうすることで、私たちはイエスの働きを21世紀においても継続できるのです。新しい一年も、この目的のために歩んで参りましょう。お祈りします。 イエス・キリストの父なる神様。そのお名前を賛美します。今年一年間も当教会を守り導いてくださったことに心から感謝いたします。新しい一年も主イエスの歩まれたように歩むことができますように。特に、人々の間にある壁を取り払う働きができますように。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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キリストの叫びヘブル書5章1~14節 https://domei-nakahara.com/2025/12/21/%e3%82%ad%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88%e3%81%ae%e5%8f%ab%e3%81%b3%e3%83%98%e3%83%96%e3%83%ab%e6%9b%b85%e7%ab%a01%ef%bd%9e14%e7%af%80/ Sun, 21 Dec 2025 05:07:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6963 "キリストの叫び
ヘブル書5章1~14節" の
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1.序論

みなさま、クリスマスおめでとうございます。今年も様々なことがありましたが、こうして平安の内にクリスマスを迎えることができたことを心から感謝します。今日のメッセージには、クリスマスの喜ばしいイメージからはちょっとかけ離れたようにも思える、「キリストの叫び」という説教タイトルがついています。これはキリストの誕生というよりも受難のほうの話なのですが、クリスマスというおめでたい時にこのような重々しいメッセージを選んだのは、イエスがこの世界に来られた意味を改めて考えたいと思ったからです。

私たちはどんな時に叫ぶのでしょうか?うれしい時に叫ぶ、勝利の雄たけびというようなものもありますが、同時に苦しい時、助けを求めるときの切実な叫びというものもあります。今回のキリストの叫びというのは、まさにそのような苦しい場面での叫びです。救い主であるイエスがご自分の救いを求めて叫ぶ、というのはなんだかおかしなことのように思えますが、しかし今回のへブル人の手紙では確かにそのようなイエスの姿が描かれています。それは同時に、イエスご自身が救いを求めて叫ぶほどに追い詰められていた、ということでもあります。ではなぜイエスはそこまで苦しめられなければならなかったのでしょうか。イエスの受けた苦難にはどんな意味があったのでしょうか?それには様々な答えがありうるでしょう。私たちが受けるべき苦しみを代わりに担ってくださった、という見方も当然あるでしょう。しかし、理由はそれだけではありません。むしろこのヘブル書によれば、イエスが苦しまれたのは私たち人間の苦しみを理解するためだった、というころが言われているのです。この点について、今日の説教では取り上げたいと思います。

2.本論

さて、今日の説教は「へブル人への手紙」を取り上げています。この書簡は、かつては使徒パウロが書いた書簡だと考えられたこともありました。しかしいまではそのような見方は否定されています。誰が書いたのかわからない、匿名の書簡だということです。この書簡は非常に独特な神学を提示しています。それは「大祭司キリスト論」と呼ばれるものです。キリストの叫びの意味を考える前提として、まずこの大祭司キリスト論についてみていくことにしましょう。そもそも論になりますが、私たちは主イエスのことをイエス・キリストと呼びますが、キリストというのはイエスの苗字ではなく、役職を示すタイトルです。トランプ大統領という場合、大統領はトランプさんの苗字ではなく彼の職責を指しています。同様に、イエス・キリストも、キリストという役職を担っているイエス、という意味なのです。キリストというのはギリシア語ですが、それはヘブライ語の「メシア」と同じ意味です。イエス・キリストは、イエス・メシアと同じだということです。では、「メシア」とは何かというと、日本語では「救世主」というような意味合いで使われますよね。しかし、メシアの本来の意味は救世主ではありません。その言葉の意味は「油注がれた者」という意味です。どういうことかと言えば、古代イスラエルでは重要な役職に就く人には、頭から油を注がれるという儀式が行われました。ですからメシアすなわち「油注がれた者」というのは、イスラエルでは特別な地位に就く人のことを指す言葉だったのです。では、その特別な地位とは何かといえば、三つありました。王、祭司、そして預言者です。メシアとはこの三つの地位に就いた人のことを言います。イスラエルの歴史に王、祭司、預言者はたくさんいたので、そういう意味ではイスラエルの歴史にはたくさんのメシアがいたことになります。ダビデもソロモンも油注がれた王、すなわちメシアなのです。イエスもそのメシアの一人なのですが、イエスの場合は比類ないメシア、究極のメシアだというのがキリスト教信仰です。

では、イエスは王、祭司、そして預言者の三職のうち、どのような職責を担ったのかといえば、実は全部です。「キリストの三職」という言葉を聞いたことがあるかもしれませんが、イエスは王であり、祭司であり、預言者だというのがその意味です。ただ、その中でも「王」という意味合いが一番大きいわけです。イエスはダビデの子孫だ、ということが強調されていますが、ダビデは王であり、イエスはその血筋なのだということが言われているのです。イエスがダビデの血筋にあるメシア王だということです。同時にイエスが預言者だ、というのも重要です。イエスはいろいろな奇跡を起こしましたが、旧約の預言者であるモーセやエリヤも奇跡を起こしました。また預言者エレミヤが時の権力者、王を批判したように、イエスも彼の時代の最高権力者である大祭司を強く批判しました。このように、イエスは王として、また預言者として活躍しました。この王職、預言者職に対し、イエスが大祭司であるというのは実はあまり注目されないことでした。大祭司とは、神と民との間に立ち、仲立ちをする存在です。民を支配する王とも、民を叱責する預言者とも違います。その、イエスが大祭司であるということを非常に強調しているのがこの「へブル人の手紙」なのです。

ただ、この「大祭司」という言葉にはあまりなじみがないという方もおられると思います。日本の歴史には「大祭司」なるものがなかったからです。これは、私たちにイメージしやすい言葉で言えば「牧師」と同じです。大祭司は大牧師という感じです。プロテスタントでは教職のことを牧師と呼びますが、カトリックでは司祭と言いますよね。牧師と司祭は基本的には同じ働きをします。その司祭をひっくり返せば祭司となるのですが、ユダヤ教では司祭ではなく祭司と呼ぶのです。そしてその祭司の頂点にいるのが大祭司です。このように考えれば、「大祭司」という呼び名もそんなになじみのないものでもないと思います。

へブル人への手紙は、イエスが大祭司であることを諄々と説いているのですが、この5章では大祭司となるための要件、条件を二つ挙げています。その二つ目の理由が「キリストの叫び」という説教テーマと深い関係があるのですが、それは少し後で話すので、まずは一番目の要件、条件をお話しします。その第一の条件とは、大祭司は神が任命するものだということです。そんなのは当たり前だと思われるかもしれませんが、実はとても大事な点なのです。なぜなら、ユダヤ人の常識では大祭司というのは世襲で自動的に決まるものと信じられていたからです。つまり、大祭司にはそれにふさわしい人物がなるのではなく、父から子へといわば自動的に受け継がれると考えられていたのです。しかし、大祭司がそのように決まるとすれば、イエスは大祭司にはなれないことになってしまいます。なぜなら大祭司はレビ族の中でも、モーセの兄であるアロンの子孫が代々受け継ぐことになっていましたが、イエスはレビ族ではなく、ユダ族、それもダビデ王の家系に属していたからだす。つまりイエスは王にはなれても大祭司にはなれないということになってしまいます。へブル人への手紙の著者もそのことがよくわかっています。そのことは7章13節と14節に書かれています。

私たちが今まで論じて来たその方は、祭壇に仕える者を出したことのない別の部族に属しておられるのです。私たちの主が、ユダ族から出られたことは明らかですが、モーセは、この部族については、祭司に関することを何も述べていません。

これは何を言っているのかといえば、「今まで論じて来たその方」とはイエス様のことで、「祭壇に仕える者を出したことのない別の部族」とは、イエスが祭司の家系のレビ族ではなく、王家の家系であるユダ族だということです。

しかし、へブル人の手紙の著者は、その原則をイエスは破る存在であると主張します。なぜなら、大祭司は確かにモーセ律法によれば系図で決まるのですが、例外的に神が直接選んで任命するケースがあるからです。実はそのような先例があり、それがあのアブラハムを祝福した伝説の祭司メルキゼデクです。イエスもメルキゼデクと同じように、神から直接任命されて大祭司となられたのです。しかも、イエスは大祭司になられるのにふさわしい方なので、だからこそ神はイエスを永遠の大祭司として任命しました。では、イエスはどのような理由で永遠の大祭司になられたのでしょうか?イエスは神の子だから、当然大祭司になれるのだ、と言ってしまえば身も蓋もないのですが、実はそうではなく、大祭司になるために必要な条件というものがあるのです。それが2節に書かれていますのでお読みします。

彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。

このように、大祭司になる条件とは彼が牧する人々の弱さを理解し、思いやることができるということなのです。なぜなら、彼自身にもそのような弱さがあるからです。しかし、実はそのことがイエスが大祭司になるための障害にもなりうるのです。イエスは神です。しかし、神に弱さがあるというのは、神の定義と矛盾するように思われます。むしろ神には人間のような弱さがないのは当たり前でしょう。ですから、イエスは人間の弱さを知るために、人となる必要があったのです。弱さを知るには、それを経験するしかないからです。人々の弱さを思いやるという能力は生まれつき身についているものではなく、経験する他ないからです。昔、フランスの王妃だったマリー・アントワネットが民衆がパンがなくて飢えているという話を聞いたとき、「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」と言ったと言われています。これは本当に彼女が言ったものかどうかわからず、デマである可能性が高いとも言われていますが、ただマリー・アントワネットには本当に飢えるということがよく理解できなかったというのは本当のことだと思います。こればかりは体験しないと分からないのです。また、よく「名選手は必ずしも名コーチにはならない」ということも言われます。これも理解できることです。というのも、天才と言われるような人は、普通の人が苦労して身に着けることが簡単にできてしまうので、できない人の気持ちがわからないのです。どうやればうまくできるのかと聞かれても、「簡単だよ。ただこうすればいい」といって、普通の人には難しいことをいとも簡単にやり遂げてしまいます。しかし、そんな人に教わっても全然上達できないですよね。

イエスの場合にもこれが当てはまります。人間は脆く、弱いものなのです。神にはそのような弱さがありませんから、こうした弱さというのは頭ではわかっても、こういう言い方をするのが許されるとすれば、それを実感することはできないのでしょう。ですから罪深い人間の弱さを赦すことはできても、思いやるということはなかなかできないのかもしれません。しかし、イエスは神でありながら人間となることでそのような人間の弱さ、脆さを身をもって経験したのです。神の子であるイエスでも、何も食べなければおなかは減りますし、殴られれば痛いのです。侮辱されれば悔しい思いをするのです。イエスは人となることで、そういうことを一つずつ経験していきました。しかも王侯貴族としてではなく、社会の底辺にいる貧しい人間として生まれ育ったので、貧しさゆえの苦しみ、馬鹿にされることの悔しさも身に染みて体験したのでした。しかし、イエスはそういう不遇な状況に生まれたことを呪って社会に復讐しようとか、犯罪に走るようなことはしませんでした。そうした苦しみに耐えながら、むしろほかの人々を助けました。このように、罪を犯すことはありませんでしたが、同時にやけになって罪を犯してしまう人々の気持ちも共感したり理解できるようになりました。彼らを思いやることができるようになったのです。へブル人の手紙では、キリストが苦難を通じて従順を学び完全な者とされたということが繰り返し言われています。「完全な者」になるということは、完全になる前は不完全だったということが示唆されるわけですが、キリストが如何なる意味で不完全だったのかといえば、神であるがゆえに弱さを抱えた人間への共感という意味では足りない部分があった、ということだと私は理解しています。しかし、人間であるがゆえに苦しみをつぶさに舐めて、それどころか人間として最悪の運命である十字架という恥辱と苦難すら味わったことで、イエスはあらゆる人の苦しみを理解できるようになりました。そしてこれこそがイエスが永遠の大祭司になるために必要なことだったのです。へブル人の手紙の著者はイエスについて、

キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。

と記しています。「大きな叫び声と涙」とはゲッセマネの園での祈りのことなのか、あるいは十字架上での絶叫なのか、その両方であるかもしれません。しかし、イエスは私たちとまったく同じように人としての痛みを経験し、悩みや不安を抱き、そして救いを求めたのです。本当に辛い思いをされたのです。絶望を味わったのです。そのような中でも神を、苦難から救ってくださる神を信じ、自分では人を憎んだり復讐したり暴力を用いることはせずに、神を信頼して十字架上で絶命したのです。最後まで信仰を捨てなかったのです。そのような苦しみを通られたからこそ、イエスは弱い私たちを父なる神に執り成してくださることができるのです。このような経験をされたからこそ、イエスは永遠の大祭司、大牧者になられたのです。

3.結論

まとめになります。イエスが苦しまれたのは、このように私たちの弱さを思いやることができるようになるためでした。イエスの人生は、客観的に見れば悲惨な人生だという言い方もできるかもしれません。人のために尽くしながら、人々に見捨てられて死んだのですから。しかしだからこそ、イエスは同じように悲惨な状況におられる方々のことを心から思いやることができるのです。そしてそのことは私たちにも当てはまります。私たちも人生において様々な苦難や試練を経験します。なんで私がこんな目に遭うのか、と思うこともあるでしょう。苦難の意味には様々なものがありますが、その一つはその経験を通じて他人の痛みが本当に理解できるようになるということがあります。ずっと恵まれた環境で育った人は、たとえその人がどんなに素直で良い人だったとしても、不遇な立場にずっと置かれてきた人の気持ちはわからないのです。想像はできても、実感はできないのです。しかし、自分もそのような苦しみに遭うと、そういう立場に置かれた人の気持ちが心底わかるようになります。苦しみを受けることに肯定的な意味があるとすれば、私たちがそのような共感力を高めることができることでしょう。主イエスはまさにそのような経験をするために、自ら貧しい人として歩まれたのです。そうして私たちのためにとこしえの救いの道を拓いてくださったのです。そのことに感謝しながら、今日のクリスマスを心から祝いましょう。お祈りします。

御子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださった父なる神様、そのお名前を心から賛美します。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」というみことばにアーメンと言えるように、私たちも主イエスの苦難の生涯から多くのことを学ぶことができますように導いてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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イスラエルの復興エゼキエル書37章1~28節 https://domei-nakahara.com/2025/12/14/%e3%82%a4%e3%82%b9%e3%83%a9%e3%82%a8%e3%83%ab%e3%81%ae%e5%be%a9%e8%88%88%e3%82%a8%e3%82%bc%e3%82%ad%e3%82%a8%e3%83%ab%e6%9b%b837%e7%ab%a01%ef%bd%9e28%e7%af%80/ Sat, 13 Dec 2025 23:49:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6952 "イスラエルの復興
エゼキエル書37章1~28節" の
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みなさま、おはようございます。今日はアドベントの第三週ですので、いよいよ次の主日礼拝はクリスマス礼拝になります。また、今年も残すところあと半月あまりとなります。個人的にはあっという間という感じです。さて今日の説教は、このアドベントにふさわしいかどうか正直申し上げると少し不安なのですが、今日の世界にとって非常に深刻な問題を扱います。

今年の世界の人々の大きな願いの一つは、戦争が終わってほしいということであったと思います。私たちを含めた世界中のクリスチャンも、平和を求めて祈り続けてきました。2022年から始まっているウクライナ戦争は開戦してから3年を超えているのに、まだ終わる見込みが立っていません。これまで膠着状態にあったロシアとウクライナの戦線は、今年に入って明確にロシア優勢に傾いています。ウクライナびいきの西側メディアでさえ、そのことを否定できなくなっています。ウクライナの多くの電力インフラが破壊され、計画停電が続き大変寒い冬を過ごしています。私はヨーロッパで長いこと暮らしましたのでわかりますが、欧州の冬の寒さは日本の比ではありません。そんななかで寒さに苦しんでいる人々のことを思うと、一日も早くこの戦争が終わることを願わずにはおれません。しかしロシアとウクライナだけでなく、アメリカやEUといった第三の勢力が深くかかわっているために、利害関係が複雑になり、なかなか皆が納得する結果にならないという非常に悩ましい状況になっています。戦場になっているウクライナの人々は疲労困憊し、一日も早く戦争が終わってほしいと願っていることと思います。他方で、もう一つの大きな懸念であったパレスチナのガザ紛争は、なんとか停戦にこぎつけましたが、それでもまだガザでは空爆が散発的に起こり、予断を許さない状況が続いています。一般人の被害の大きさという意味では、ガザ紛争はウクライナ戦争以上に深刻な問題を世界中の人々に突き付けてしました。

さて、今日の聖書箇所が、現在の深刻なパレスチナ情勢と関係していると聞いたら驚かれるでしょうか。というのも、今日の箇所はイスラエルという国家の復興を預言している箇所だからです。私は今日のイスラエル共和国がこのエゼキエルの預言の成就だと言いたいわけではありません。けれども、そのように考えている人たちも少なからずおられるのです。このエゼキエルの預言は紀元前6世紀になされたものです。今から2500年以上も前のことですから、日本では神話上の人物である神武天皇の頃ということになりますね。当時のイスラエルの国家であるユダ王国の人々は、バビロニア帝国に国を滅ぼされて、王族以下の主だった人たちはバビロンに捕虜として連行されていました。祭司であり、神の預言者でもあったエゼキエルもその一人です。そのエゼキエルは、滅んでしまったユダ王国、さらにはユダ王国が滅びる100年以上も前に滅んでいた兄弟国である北イスラエル王国、この二つの国が一つになってよみがえる、復興するという預言をしました。ユダ王国と北イスラエル王国は、ダビデ王とソロモン王の時代は統一王国だったのですが、ソロモンが死んだあとに南北に分裂し、先に北イスラエル王国が、次いで南のユダ王国が滅んでしまったのでした。エゼキエルは死人の骨がよみがえるという、なんだか気味の悪い描写をしていますが、これは文字通りの意味ではなく、滅んでしまったイスラエルの二つの王国がよみがえる、復興することの比喩的な表現なのです。エゼキエルは祖国を失って外国の地で意気消沈している同胞たちに、死者の復活という比喩的な表現で、彼らの祖国が回復するというヴィジョンを示したのです。

では、このエゼキエルの預言は実現したのかといえば、部分的には実現しました。紀元前587年に滅亡したユダ王国は、バビロンを倒したペルシア帝国によって帰還と復興を許され、紀元前516年には破壊された神殿をエルサレムに再建することに成功し、一応の復興を達成しました。しかし、エゼキエルの預言が成就したのはせいぜい半分だけでした。というのも、エゼキエルはユダ王国だけでなく、北イスラエル王国も復興すると預言していたからです。しかし、北イスラエル王国はイスラエルの12部族のうち、ユダ族とベニヤミン族を除く10部族から構成されていたのですが、その10部族はどこに行ったのかわからない状態、いわゆる「失われた10部族」になっていて、したがって北イスラエル王国の復興というエゼキエルの預言は成就しないまま時は流れていったのです。しかも、復活したはずのユダ王国のほうも、そのほとんどの歴史を外国の半植民地状態で過ごし、バビロン捕囚が終わってから約600年後、今度はローマ帝国によって滅ぼされます。祖国を失ったユダヤ人たちは世界中に離散しましたが、特にヨーロッパに移住したユダヤ人はキリスト教徒たちによってひどい迫害を受け続け、その最悪の形があのナチスドイツによるホロコーストでした。

特にヨーロッパで迫害され続けたユダヤ人たちが安住の地を求めた結果生まれたのが、1948年に建国されたイスラエル共和国です。ナチスドイツによって追い詰められた、ドイツに住んでいたユダヤ人だけでなく、世界中のユダヤ人たちが移住することで生まれたのが現在のイスラエルです。ただ、問題は彼らが移住した先には、すでに長年の間そこに住んでいた先住民がいたということです。この二つのグループは残念ながら平和的に共存、というわけにはいかず、パレスチナ人を追い出すかたちでユダヤ人の入植が進み、パレスチナ人とユダヤ人との対立が深刻になり、現在に至っています。しかも、このパレスチナ問題にはキリスト教徒も深くかかわっているのです。ユダヤ人の歴史家であるヤコブ・ラブキンという人は、このように書いています。

ユダヤ的伝統においてイスラエルの地が中心的だったとしても、17世紀から〈聖地〉にユダヤ人を集めようとしたのはまずはキリスト教徒、ある種のプロテスタントの福音主義諸派でした。彼らがそうしようとした意図は、キリストの〈再臨〉を早めることにありました。キリスト教とのこの深い共謀関係によって、今日イスラエル国家が、プロテスタントの福音主義集団が何千万人もいる、米国その他の国々から得ている膨大な支援が説明されます。

ここでラブキンは、キリスト教徒たちがユダヤ人をパレスチナに移住させるのを応援している理由は、キリストの再臨を早めるためだと書いているのが注目されます。キリストの再臨とは、文字通りキリストが天からこの世界に戻ってくるということですが、キリスト教徒たちは紀元1世紀からこれを待ち望み、なんと二千年ものあいだずっと再臨を待ち続けてきました。何度も何度も、「キリストの再臨はもうすぐだ」ということが言われながらも、それは実現しなかったのです。では、なぜ二千年もの間再臨が起きないのか?あるキリスト教徒たち、とくに福音派と呼ばれる人たちは、キリストが再臨するためには条件があり、その条件が整わないので再臨がいつまでたっても起こらないのだ、と考えたのです。ですから彼らはキリストの再臨を早めるために、その条件を整えようとしているのです。そして、その条件の一つが今日のエゼキエルの預言なのです。

どういうことか説明しましょう。福音主義の人々は、聖書はすべて文字通りに実現しなければならないと考える人が少なくありません。キリストの再臨とは、歴史の終局、歴史の終わりですから、歴史が終わる前にすべての聖書の預言は実現していなければならないと考えるのです。このエゼキエルのイスラエルの復興については、先ほども申しましたように、その内容はせいぜい半分しか実現していません。なぜなら、確かにユダ王国の回復については実現しましたが、北イスラエルの復興については実現せず、北イスラエルを構成していた失われた10部族についても回復されてはいないからです。そこで、現在のイスラエル共和国はこの失われた10部族を熱心に探していると言われています。なんと、この日本にも失われた10部族が来ていたという都市伝説のような話までありますが、現在の進んだDNA分析などを駆使しながら、10部族の探索は続けられていると言われています。福音派のクリスチャンたちは、このエゼキエルの預言が実現し、イスラエルの12部族がパレスチナに結集し、イスラエルは文字通りに復活し、そのうえでエルサレムについに神殿が再建される。その再建された神殿に反キリストと呼ばれる悪魔的な人物が現れ、その反キリストを滅ぼすためにキリストが再臨する、こうして今の歴史は終わると信じているのです。何でこんな話になるのかといえば、聖書のここかしこの預言を結びつけて一つのストーリーにすると、このような未来予想図になるというのです。

にわかに信じがたい話かもしれませんが、このように本気で信じている福音派のクリスチャンは少なくない、いやそれどころかたくさんいるのです。彼らはこの預言の実現を早めようといろいろ努力をしていて、その努力の一つとして現在のイスラエル共和国を熱心に支援しているのです。しかし、こういうことは本当に正しいのでしょうか。

聖書は、人間が神の預言を自分の力で実現しようとするときに、ろくなことが起きないと警告しています。その最悪のケースの一つが、なんと信仰の父アブラハムです。アブラハムは、神が子供を与えてくださるという約束を信じてカルデヤのウル、現在のイラクを離れてパレスチナに移住します。しかし、待てど暮らせど子供は与えられません。アブラハムは75歳、今日の後期高齢者になってしまい、妻のサラもとっくに閉経しています。もう子供は無理なんでしょうかね、と神に尋ねたところ、神は必ず彼に子孫を与えるという約束をします。それがこの有名なことばです。創世記15章5節をお読みします。

そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」

このように、神はもう子供など望むべくもない高齢のアブラハムに対し、あなたの子孫は空の星のように数多くなることを約束しました。しかし、この約束をアブラハムの妻サラは信じられませんでした。もう自分は子供を産める年齢ではないとわかっていたので、若い女性、奴隷であるハガルをアブラハムに差し出し、アブラハムにこの若い娘を通じて子供を得るようにと促しました。神にはできないことはないと信じていれば、こんなことをする必要はなかったのですが、サラもアブラハムも神の力を自分の常識で測ってしまったのでした。しかし、この行為は大変悲劇的な結末をもたらすことになります。アブラハムはハガルとの間に子供をもうけ、その子はイシュマエルと名付けられました。しかし、このような若い女性によって子供をもうけるのは神の御心ではなかったのです。神はあくまでアブラハムとサラとの間に子供を授けるお考えだったのです。アブラハムもサラも最初は神のこのような申し出を信じませんでしたが、しかし神は実際に100歳になったアブラハムとその老齢の妻サラとの間にイサクをお与えになりました。こうしていざ自分の子供を授かると、サラは自分の子供イサクの相続人としてのライバルになりかねないイシュマエルとその母ハガルが邪魔になり、アブラハムをけしかけて彼らを追い出してしまいました。なんとも身勝手な話ですが、しかし話はここでは終わりません。イシュマエルの子孫はアラブ人になったと言われていますが、ご存じのように今日のアラブ人はユダヤ人とは犬猿の仲というか、うまくいっていません。しかも、このアラブ人とユダヤ人の対立は、そもそも神の約束を信じ切れずに人間的な方法で子孫を得ようとしたアブラハムの不信仰に起因しているのです。神ではなく人間の力に頼ろうとしたアブラハムの行為は、それから四千年後のアラブ人とユダヤ人の不和の遠因になってしまっているのです。

さて、なぜアブラハムの話をしたのかといえば、今日のイスラエル共和国にもこのことが当てはまってしまっているようにも思えるからです。驚かれるかもしれませんが、現在のイスラエル共和国を認めていないユダヤ人も多く、特に信仰心の篤い正統派と呼ばれるユダヤ教徒の中にはいまのイスラエルを認めない人が少なくありません。彼らは、自分たちが国を失ったのは神の御心であるのだから、神が自分たちを祖国に帰してくださるまで待つべきだ。それなのに力づくでパレスチナの地を奪うようなことはしてはならないと主張しています。先ほどのアブラハムは、神様が子供を与えてくださるのを待ちきれなくなって自分の力で子供を得ようとしましたが、現在のイスラエル共和国に反対するユダヤ人たちはこの建国運動に神の時を待ちきれずに自分の力で歴史を動かそうとする不信仰を見出しているのです。彼らは、神がメシアを遣わしてくださるまで待つべきだと訴えています。今日のエゼキエルの預言にも、神が失われた10部族を含む全イスラエルを奇跡的に回復してくださるときに、神はダビデの子孫であるメシアを遣わすと約束しています。そこをお読みします。24節です。

わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行う。

現在のユダヤ教の正統派の人たちは、イエスが彼らのメシアだとは信じていませんが、それでも神は必ずエゼキエルの約束したダビデの子孫であるメシアを遣わしてくださる、だからイスラエル建国もその時まで待つべきだと主張しているのです。

さて、いままでイスラエルについて話してきましたが、私たちクリスチャンはユダヤ人のことをあまり偉そうに批判できない立場にいるということを十分に自覚しなければなりません。彼らがそもそもパレスチナに半ば強引に国を作ろうとしたのも、キリスト教徒たちから二千年もの間あまりにもひどい迫害を受けてきたので、どうしても自分たちが安心して暮らせる国を作りたいと願うようになったのです。その彼らの苦しみや悲しみを知らずに、その苦しみを作り出してきた我々クリスチャンが上から目線でユダヤ人を批判するなどということはあってはならないことです。彼らの苦しみを理解しつつ、同時にパレスチナ人の痛みもしっかりと理解して、彼らの和解のために汗を流すべきなのです。そのうえで、現在のイスラエル共和国を批判する正統派ユダヤ教徒の方々の声にも真摯に耳を傾けなければなりません。

私たちは「待つ」ということが苦手です。神の約束を信じ切って、神の時が来るのをじっと待つということがなかなかできないのです。しかし神は必ず約束を守られる方です。メシアである主イエスも、約束通りに世に来られて、世界の救済の業を成し遂げてくださいました。私たちもまた、自分たちに与えられた責任や課題をしっかりと果たしていく必要があるのと同時に、神の究極の約束についてはそれを自分の力で成し遂げようなどとは思わないことです。神の究極の約束とは『キリストの再臨』のことです。キリストの再臨を早めるために、人間の力でそのおぜん立てをしようなどということはすべきではないということです。

アドベントは日本語で「待降節」と呼ばれます。この期間は、私たちは辛抱強く神の約束を待つということを学ぶための時期でもあります。そのことを胸に抱きながら、アドベントの最後の一週間を過ごして参りましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。私たちは不信仰なもので、神の約束を待ちきれずに自分の力でなんとかしようと思ってしまうような傲慢な者ですが、どうかこのアドベントの期間に今一度「待ち望む」ことを学ぶことができますように。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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賛歌詩篇40篇1~17節 https://domei-nakahara.com/2025/12/07/%e8%b3%9b%e6%ad%8c%e8%a9%a9%e7%af%8740%e7%af%871%ef%bd%9e17%e7%af%80/ Sun, 07 Dec 2025 00:43:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6943 "賛歌
詩篇40篇1~17節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。アドベント第二週になりました。今日は詩篇からみことばを取り次ぎます。私が当教会にお仕えするようになって六年になりますが、驚くことに詩篇からの説教は今回が初めてになります。いつも交読文で詩篇を読んでいるので、意外に思われるかもしれませんが、説教で話すのはこれが最初になります。詩篇というと、先月天に召された森田兄弟が大変愛しておられ、詩篇からの奨励をなさっていたことを懐かしく思い出します。

さて、今回は詩篇40編からの説教になります。この詩篇40編というのは私にとっても非常に思い入れのある詩篇です。といいますのも、私の思い出話をして恐縮ですが、はるか昔、私が高校生だった時に、大好きだったロックバンドがいました。今ではロックはほとんど聞かなくなりましたが、高校生の頃はいくつか好きなバンドがあって、よく聞いていました。そのバンドが、皆さんも名前ぐらいは聞いたことがあると思いますが、U2というバンドです。世界最高峰の賞であるグラミー賞を22回も獲得しているという、ロックの歴史に残るバンドの一つです。ある時期から、いくつかの理由で私はこのバンドへの興味を失ってしまったのですが、高校生の頃は大好きでした。彼らがライブで最後に歌う曲が「40(フォーティー)」という曲なのですが、何の四〇かというと、まさに詩篇40編で、詩篇40編の1節から3節までに曲を付けたという、クラシック音楽ならいざ知らず、ロックミュージックでは大変珍しい曲です。私はこの曲から初めて詩篇40編を知り、それからこの詩篇は私の愛唱聖句になりました。

この詩篇40編の聖句は新約聖書にも引用されていますので、アドベントにふさわしい箇所ではないかとも思いました。では、さっそく詩篇40編を読んで参りましょう。

2.本論

さて、この詩篇は伝統的にはダビデ王の書いたものとされ、タイトルにも「ダビデの賛歌」と書かれています。ダビデがサウル王に命を狙われていたとき、あるいは息子であるアブシャロムの反乱でエルサレムから逃げ延びた時の作品とされています。私たちはずっとサムエル記を学んできたので、なじみ深い話です。しかし、詩篇にある多くの歌はダビデ作とされていますが、実際は少なからぬ作品は後世の人がダビデの名前で書いたものだとされています。旧約聖書にはダビデ作、あるいは彼の息子のソロモン作という作品が大変多いのですが、実際は詠み人知らずの作品が、後に時代にダビデ作とされたことが少なくないということです。ですから、この詩篇についても著者は誰なのかということはあまり考えずに、内容そのものにフォーカスしたいと思います。

この詩篇は大きく三つの部分に分けられます。最初は1節から5節までで、作者の個人的な感謝の気持ちが詠われています。苦境にあった作者が助け出されたことを神に感謝するという内容です。今日の説教タイトルにあるように、まさに「賛歌」、神に感謝し、賛美する歌です。そして6節から10節までは、礼拝について書かれています。神はいけにえを求めない、ということが書かれています。神学的な内容と言えるでしょう。そして11節から17節までは、救いを求める嘆願の歌になっています。最初に苦境から救い出された感謝があるのに、最後は苦境から救ってくださいという嘆願になっているというのはおかしいと思われるかもしれません。最後にもう一度、救われたことを感謝するくだりがあれば、私たちも安心できると言いますか、ハッピーエンドで気持ちよく終われるのですが、なんだか尻切れトンボで終わってしまう印象を受けます。これは、この詩篇がもともと別々の機会に歌われた歌だったものを、後で編集して一つのものにまとめたという可能性を示唆します。つまり、救いを求める嘆願の歌がまずあり、それに救いを感謝する賛歌が加えられ、さらに礼拝についての考察の歌がそこに加わり、一つにまとめたのではないかということです。これについては確かなことは言えませんが、聖書は長い時間をかけて編集された文書なので、そういうこともありうるということです。ですから、ここでは思い切ってこの詩篇40編を再構成したいと思います。順番をさかさまにして、最初に救いを求める部分、次いで救われたことを感謝する部分というように読んでいくのです。具体的にはまず11節から17節までを読み、それから1節に戻って読んでみるということをしたいと思います。

まず、詩篇の著者は自分の苦境を正直に神に申し上げています。「数えきれないほどのわざわいが私を取り囲み」と、苦しい胸の内を打ち明けています。

それで13節ですが、「主よ。どうかみこころによって私を救い出してください。主よ。急いで、私を助けてください」という一文から始まります。詩篇にはこのような救いを求める歌がたくさんありますが、ここもその典型です。次いで作者は、自分を辱めるものを神が辱めてくださいますように、と祈ります。

私のいのちを求め、滅ぼそうとする者どもが、みな恥を見、はずかしめを受けますように。私のわざわいを喜ぶ者どもが退き、卑しめられますように。

こういう復讐を求める歌は、多くのクリスチャンをつまずかせてきました。イエス様は「敵を愛しなさい。迫害する者のために祈りなさい」と教えられたのに、ここまで赤裸々に敵の辱めや破滅を神に願ってよいのか、と思われるかもしれません。しかし、私たち人間は神ではなく人です。自分にひどいことをする人のことを怒るというのは人間としては当たり前の感情で、そういう気持ちがなくなってしまったらもはや私たちは人間とは言えません。もちろん私たちには理性というものがありますから、そういった怒りに満ちた自分を抑えようとする働きも持っています。私たちはたとえ相手に腹を立てても、一呼吸おいて冷静になろうとします。とはいえ、詩文学というのはそういう理性的な自分だけでなく、ありのままの自分をさらけ出す文学形式です。本音をぶつけるのが詩文学だと言えます。だからこそ、それを聞く私たちも共感できるのです。きれいごとではすまない赤裸々な人間、それをありのままに表明するのが詩文学なのです。復讐の思いを乗り越えるには、まず初めに自分の中にはそのような思いがあるのを認める必要があります。それを吐き出す必要があります。そして初めて人は冷静に自分を見つめることができるのです。そういう意味で、ここで詩篇の作者が自分の気持ちをありのままに書いていることは素晴らしいことだと思います。預言者エレミヤも、同じようなことを述べています。エレミヤも、自分を殺そうとする者に怒り、彼らに復讐してくださいと神に祈ります。エレミヤ書18章23節をお読みします。

しかし、主よ。あなたは、私を殺そうとする彼らの計画をご存じです。彼らの咎をおおわず、彼らの罪を御前からぬぐい去らないでください。彼らを御前で打ち倒し、あなたの御怒りの時に、彼らを罰してください。

このように、エレミヤも激しい復讐の祈りをしています。私はこういう祈りが正しいと言いたいわけではありません。エレミヤも、こういう復讐を求める気持ちから抜け出して、さらに預言者として成長していったのを見ることができます。しかし、繰り返しますが人間であればこういう思いを持つのは自然なことだし、自分のこころにそのような思いがあるのを認めることは大切なことです。認めたうえで、私たちはそういう気持ちを取り扱い、乗り越えることができるからです。

さて、詩篇に戻りますが、16節では今度は主を求める人ヘの祝福を求める祈りが続きます。

あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「主をあがめよう」と、いつも言いますように。

私たちが主を求めるのは、究極的には敵を罰してほしいからでも裁いてほしいからでもなく、私たち自身が喜ぶためです。もし私たちが本当に幸せなら、敵に対してですら優しい気持ちを持てるでしょう。自分が幸せだと、苦しんでいる人を見ると辛くなります。自分が不幸だと、人も自分のレベルに引きずり下ろそうとしますが、自分が幸せなら、周りの人も幸せになってほしいと願うものです。ですから、敵に対する復讐心を乗り越えようと思うのなら、まずは自分自身が幸せになるということが必要になってきます。そこで、詩篇の記者は自分を泥沼から救い出して、幸いを見させてくださいと願います。それが17節です。

私は悩む者、貧しい者です。主よ。私を顧みてください。あなたは私の助け、私を助け出す方。わが神よ。遅れないでください。

この救いを求める熱烈な祈り、その祈りが応えられた結果が1節の「賛歌」なのです。

私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は私のほうに身を傾け、私の叫びを聞き、私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。

この詩篇の作者は、自分が滅びの穴、泥沼にいたと述べています。それが具体的にはどんな状態なのか、私たちには分かりません。この詩篇がダビデ王の書いたものならば、サウル王に命を狙われていたことを指しているのか、あるいは息子のアブシャロムに王位を狙われていたことを指すのか、どちらかである可能性が高いでしょう。けれども、これがダビデの作品ではないのならば、作者がどのような苦境にいたのか、私たちには分かりません。しかし、それでもいいでしょう。なぜなら私たちは自分自身の苦境をそこに重ね合わせることができるからです。私たちも人生において大変暗い時期、辛い時期を歩むことがあるわけですが、この著者も自分と同じような経験をしたのだろうと共感することができます。ともかくも、この詩篇の著者は、自分が滅んでしまうかもしれないと思うほどの辛い経験をし、その悲惨な状態から抜け出すことができ、さらには自分が泥沼ではなく巌、つまり非常に確かな土台に立つことができたと感じていたのです。皆さんにはそういう経験があるでしょうか。私も自分自身の人生を振り返ると、確かにそういうことがあったと思います。ここで私の個人的な経験を話すと説教ではなく証しになってしまうので、今は話すことはしませんが、こうした経験をした後に私の心に残されたのは神への賛美でした。神に感謝の気持ちを伝えたいのです。そのような気持ちをこの詩篇の作者も抱いたのです。それが3節です。美しい一節です。

主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。

このように、この1節から3節まではまさに詩篇の白眉ともいえる箇所で、本当に素晴らしい、美しい箇所だと思います。4節、5節も同じ内容が続きます。

さて、しかし6節からは内容が大きく変わります。私たちは神に感謝の思いを抱くとき、それを形にしたいと思います。それはちょうど、人間関係において大変お世話になった人に対して、なにか贈り物をしたいと思うのと同じです。「ありがとう」の気持ちを贈り物に込めたいということです。古代の人々は、神に感謝の献げものをしました。ここで使われている「いけにえ」という言葉のヘブライ語はザバーとかオラーという言葉ですが、新約聖書にも出てくる言葉には「コルバン」という言葉もあります。このコルバンはあらゆる種類の神への献げものを意味するような包括的な言葉ですが、それは「贈り物」とかギフトと訳したほうがニュアンスが伝わるように思います。いけにえ、というと何かおどろおどろしい響きがありますが、ギフトというともっと明るい感じがしますよね。6節で言われている「いけにえ」は、みなギフトと言い直してもよいと思います。つまりここで言われているのは、神様は私たちに与えてしてくださった恵みのお返しに、私たちからお礼の贈り物を求めることはしない、ということです。今風に言えば、たくさん献金をしなさいという風に求めることはないということです。念のために言いますと、教会の献金は不要だということではありません。私たちは小さな群れですが、しかしこの教会を維持していくためにもお金は必要です。教会はみなで支え合って維持しているので、献金なしには教会は存続できないのです。しかし、献金を神に対する義務のように考える必要はないのです。神にそういう形で「お返し」をする必要はないのです。では、神に対してどのように感謝の気持ちを表せばよいのでしょうか?その答えが8節に書かれています。

わが神、私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。

神にお返しをすることは、神のみこころを行うことです。それが神への最大の感謝の献げものになります。では、神のみこころを行うというのは具体的にはどういうことでしょうか?周りの人々に親切にしたり、貧しい人や困っている人たちのために働くことでしょうか?もちろんそうしたことも大切ですし、神のみこころを行うことになります。しかし、詩篇の著者はここでは別のことを語っています。彼が語っているのは、「義の良い知らせ」を告げ知らせることです。大きな会衆に対してそれを語ることです。ここでの「会衆」という言葉は、ヘブライ語の旧約聖書をギリシア語に翻訳したいわゆる七十人訳聖書では「エクレシア」、つまり教会となっています。神の御心を行うとは、つまり教会の人々に対し「義の良い知らせ」を告げ知らし、神の義、神の真実、神の救い、神の恵みとまこととを語ることです。これは私たちがいつもしていること、つまり「証し」をすることです。神が私たちに与えた恵みの応答として私たちに求めているのは、お礼の贈り物を神に献げることではなく、むしろその受けた恵みを教会の人たちに語り掛けなさい、分かち合いなさいということなのです。

3.結論

まとめになります。今日は、苦難にある詩篇の作者が切々と神に救いを求め、神がそれに応えて彼を苦境から救い出してくださった、その恵みの業に対する詩篇の著者の感謝の賛歌を見て参りました。そして、驚くべきことに、神が私たちに求めておられるのはその恵みへの応答としての献げものではなく、その感謝の気持ち、賛美の言葉を会衆の多くの人々に語り掛けることなのだ、ということです。私たちの教会でも「証し」を非常に大切にしていますが、それは神がまさに私たちに求めておられることなのだ、ということです。 

ですから、私たちは今後も「夏の会」や「冬の会」で証しをする機会を大切にしていきたいと思います。それだけではなく、主のご降誕を待ち望むこのアドベントの期間にも、「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」というみ言葉を胸に、神が私たちになしてくださった恵みをともに分かち合ってまいりたいと思います。お祈りします。

私たちを人生の苦難から救い出してくださる神よ、そのお名前を賛美します。私たちも神への賛美を隠すことなく人々に分かち合いたいと願うものです。どうかこのアドベントの歩みをますます豊かなものとしてください。われらの平和の主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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