礼拝メッセージ – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 調布 深大寺のプロテスタント教会 Sun, 05 Oct 2025 03:51:29 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.3.20 https://domei-nakahara.com/wp-content/uploads/2020/03/cropped-favicon-32x32.png 礼拝メッセージ – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 32 32 わたしは言う(1)マタイ福音書5章21~37節 https://domei-nakahara.com/2025/10/05/%e3%82%8f%e3%81%9f%e3%81%97%e3%81%af%e8%a8%80%e3%81%86%ef%bc%88%ef%bc%91%ef%bc%89%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b85%e7%ab%a021%ef%bd%9e37%e7%af%80/ Sun, 05 Oct 2025 01:04:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6848 "わたしは言う(1)
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1.序論

みなさま、おはようございます。私たちはマタイ福音書に収録されているイエスの「山上の垂訓」を読み進めています。新約聖書全体の中でも、最も有名な箇所と言えるこの一連の教えにはとても有名な箇所が多いのですが、今日お読みした箇所もまさにそのようなところです。しかし、同時にこの箇所は最も誤解を招きやすい箇所だとも言えます。

イエスは、モーセの教え、律法によればこう言われているが、私はこう言う、ということを六つ語っています。今回はそのうちの四つを、次回の説教では残りの二つを取り上げます。いうまでもなく、モーセというのは旧約聖書における最大・最高の預言者です。彼は神と語り合ったとされる預言者であって、彼の言葉はまさに神の言葉だと信じられていました。そのモーセを向こうに回して、「モーセはこう言ったが、わたしはこう言う」というイエスはいったい何者なのか、と当時のユダヤ人たちは思ったことでしょう。イエスがモーセを上回る権威を主張しているのだとしたら、イエスはまさにイスラエルの歴史を塗り替えようとしているということになります。モーセ以上の預言者が現れるということは、まさにイスラエルの歴史の転換点だからです。とはいえ、モーセを通じて語られた神の教えは、あくまでも神の教えです。もしイエスがモーセの教えを否定しているのだとしたら、イエスは神の教えを否定していることになります。たとえイエスが神だとしても、つまりかつてモーセに語りかけたのが実は受肉前の神であるイエスだったとしても、神が一度語ったことを後から否定したり、あるいは変えてしまうというのはいろいろ問題があります。神も気が変わるのだ、ということになれば、ここで語られているイエスの言葉もまた後で変えられるということになってしまわないでしょうか?しかし、そうなると「神のことばはとこしえに立つ」と信じている私たちは困ってしまいます。ですから、イエスがモーセの言葉を否定した、というような理解には大きな神学的問題があるのです。このイエスの教えには誤解があると申しましたが、その誤解の一つはイエスがモーセの教えを単純に否定した、というような理解です。

別の誤解もあります。それは、イエスがモーセの教えをさらに厳しくした、ハードルを上げてさらに厳格化したというような理解です。すなわち、モーセは殺人を禁止したけれど、イエスは心の中で怒るということを罪とした、心で怒るだけでそれは殺人と同じ罪なのだと、罪の定義を変えた、厳格化したというような理解です。実際、このような理解がキリスト教の神学の歴史に甚大な影響を及ぼしてきました。実際に行動に移さなくても、心の中で良からぬことを思っただけでアウトだ、それは罪なのだ、となれば、どんな人も罪を犯さないわけにはいかなくなります。どんな人間にも、ふっと悪い考えが思い浮かぶことがあります。しかし、普通はそういう悪い考えを振り払って罪を犯さないわけで、そういう人は別に何も悪くないように思えるのですが、そういう場合まで「それは罪だ」となってしまうと、もう逃げ場がなくなってしまいます。そのような考えに囚われていたのが宗教改革者のマルティン・ルターでした。ルターは宗教改革を始める前、非常に熱心な修道士でした。彼の行いは完ぺきで、だれもが認める立派な修道士でしたが、彼自身はまったくそのようには思えなかったのです。というのも、ルターにとっては単に正しく行動するだけでは十分ではなく、動機においても完全ではなければならないと考えていたのです。つまり、神様から怒られるのが怖いとか、あるいは神様から褒められて報いを受けたいと考えるのはアウトなのです。なぜならそれらの動機は不純だからです。ではどのような動機ならよいかと言えば、それは神への純粋な愛です。神への純粋な愛に基づいて良い行動をすること、それ以外は罪だ、というのがルターの考えでした。しかし、これでは苦しすぎますよね。ルターは自分の内面を見つめ、そこに常に不純な思いがあるのを見て取りました。彼は繰り返し悔悛、罪の告白をしますが、しかしいくらやってもきりがありません。心とは移ろいやすいもので、内面を見つめれば見つめるほど「自分は悪い思いを抱いているのではないか」と不安になってしまうのです。そうしているうちにルターは、このような無理難題を人間に課す神を憎むようになってしまったと書き残しています。しかし、人は行動のみならず、行動の動機においても完全でなければならないなどという教えは聖書の中にあるのでしょうか?ルターは、今日のイエスの教えの中にそのような神の要求を読み取ったようなのです。したがってルターは、イエスの山上の説教を実現可能なものとは思わず、むしろこうした教えは人間に自らの罪深さ、無力さを徹底的に示し、人は神の恵みに頼るしかないのだという結論に導くためのものだと見なしました。これがいわゆるルターの「律法の第二用法」と呼ばれるものです。しかし、このようにイエスの教えを実行できないもの、実現不可能なものと見なすことこそ、イエスの意図を甚だしく誤解するものなのです。イエスは誰にもできないような無理難題を教えたのではなく、むしろ彼の意図はこうした教えを行うことで人々が平和に、幸せに暮らすことだったからです。では、イエスの意図とは何なのか、そのことを見て参りましょう。

2.本論

イエスの最初の教えは、腹を立てることについてです。ここで気を付けなくてはならないのは、兄弟にむかって「ばか」と言っただけで、だれもが地獄の火で焼かれなくてはならないと理解するような直解主義、つまりイエスの誇張表現を文字通りの意味でとってしまうことです。家族や友達に「ばか」と言ったことがない人なんてほとんどいないと思いますので、このイエスの言葉を文字通りに取るとほとんどの人が地獄行きという話になってしまいます。しかし、イエスは腹を立てること自体が罪だと言っているのではありません。人間であれば、怒らない人なんていませんし、一日に一回ぐらいはムカッとするのは普通のことです。それをやめろというのは、人間をやめろというような話になってしまいます。むしろイエスのポイントは、人への怒りを放置しておくと、その怒りがどんどん大きくなり大きな火のように大きくなってその人を怒りで飲み尽くし、ついには最悪の殺人という結果すら生みかねないということなのです。創世記で、兄弟アベルに嫉妬して怒ったカインに対して、神はこう言われました。

なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。

カインはアベルに対し、激しい怒りを抱いてしまいました。カインはこの怒りに向き合って、その怒りの原因は何なのか、それを深く顧みるべきでした。そして必要ならばアベルともよく話し合い、心のわだかまりを解消すべきでした。カインに必要なのは、怒りに呑み込まれないように適切な行動を採ることでした。しかし、そうしなかったためにカインにとってもアベルにとっても最悪の結果を招いてしまいました。イエスがおっしゃったのは、まさにそのことなのです。怒りが大きくなりすぎないように、直ちに行動を起こしなさいというのがイエスの教えです。イエスはなんと、神への礼拝よりも兄弟との仲直りを優先しなさいとまで教えておられるのです。教会で献金をしようとしていた時に、友達との喧嘩を思い出したら、献金はひとまず後回しにして、すぐにその友達のところに飛んでいきなさい、と教えているのです。これが良いスパイラル、良い方向に一歩進むことです。しかし、何もしないで怒りを心にため込むのは悪いスパイラル、悪の方向に進むことです。その怒りは最悪の場合人殺しに発展しかねません。そうならないように、正しい方向に歩み出せ、ということです。ここで注意したいのは、イエスは「人を殺してはいけない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」というモーセの教えそのものを否定したわけでは決してないということです。むしろ、このモーセの教えを守るためには具体的にはどうすれば良いのか、どのようなアクションを起こすべきなのかを丁寧に教えているのです。

第二の教えも同じです。女性をいやらしい目で見てはいけない、もし見てしまったら地獄に落ちるから、そんなことになるくらいなら目を抉り出せ、という教えを文字通りに取ると、とんでもない話になります。現代は性的な情報で溢れかえっています。テレビを見てもインターネットを見ても、雑誌を見ても性的な刺激が氾濫しています。そして人間である以上、男は裸の若い女性の写真を見せられても何も感じないというわけにはいかないのです。もしそんなことになってしまったら、それはそれで逆に大問題です。男性が若い女性のセックスアピールに何も感じなくなってしまったら、人類は子孫を残せなくなってしまうでしょう。ですからイエスも、若い魅力的な女性をも見ても何も感じるな、感じるくらいなら目を抉り出せ、というような滅茶苦茶なことを教えているのではないのです。これはイエスの教えの特徴である誇張した表現なのです。むしろここでも先ほどの怒りの場合と同じで、女性に邪な思いを抱いてしまったのなら、その思いに向き合って、それが最悪の行動、つまり不倫や、もっとひどい場合は痴漢行為などに発展してしまわないように適切な行動を採りなさいということです。では適切な方法とは何かといえば、一番確実なのはパートナーをしっかり持って、他の女性によそ見しないようにするということでしょう。独身であってももちろん構わないのですが、自分の性的な欲求が抑えられないなら結婚しなさいということを使徒パウロも教えています。もちろん結婚とは別に性的な不品行に走らないためにするものではありませんが、それも理由の一つだというのが聖書の教えなのです。

そして次のイエスの教えが、その結婚についての教えです。イエスの離婚に関する教えは非常に厳しいです。現在の日本では3組に1組は離婚している、つまり結婚している人の3人に1人は離婚しているということになりますが、イエスは不貞以外の理由で離婚した女性と結婚する者は姦淫の罪を犯すことになる、と語ります。現在の日本で最も多い理由の一つである「性格の不一致」による離婚ではダメだということです。これは厳しすぎる教えのように思えますし、またこのイエスの教えを文字通りに受け止めると自分は大きな罪を犯しているのか、と苦しい思いになってしまうクリスチャンの方もおられるのではないかと思います。しかしここでもイエスは「これをすれば罪です」と人々を責め立てたいのではなく、むしろ事態が悪い方向に行かないように早く行動を採りなさいと勧めているのです。結婚とは好き合った同士がするものですから、結婚する時には離婚するなどとは思わないわけです。それが、顔も見たくないというような状態にまで至ってしまうまでには、様々な危険を示すシグナルがあるはずです。そのようなシグナルをやり過ごすのではなく、早めに動いて関係の修復、和解に努めなさというのがイエスの真意なのです。

そして最後の四つ目の教えが「誓い」についての教えです。この教えも文字通りに捉えてしまうと、自分を非常に窮屈な生き方に追いやることになります。いくつかのキリスト教の教派は「誓ってはならない」ということを「宣誓してはならない」という意味に解して、宣誓しないために裁判官など司法関係の仕事には就くべきではないと教えています。他の教派を批判するのはよくないとは思いますが、しかしこのイエスの教えも文字通りに取るべきではないというのが私の考えです。むしろイエスは、誓いなど不要になるようなしっかりとした人間関係を築きなさいと教えているのです。「誓い」が必要になるのは、語る人の言葉に信用がないからです。この人はウソをついているかもしれないと思うから、「あなたはそれを神にかけて誓えますか?」と念を押すのです。誓いを破れば神に裁かれることになるので、それを恐れて約束を守ってくれるだろう、という思惑が「誓う」という行動の背後にはあるのです。しかし、ある人の言うことが常に信頼できるもので、あの人が「はい」と言ったことは「はい」で、「いいえ」と言ったことは「いいえ」に違いないという信頼関係があれば誓いなど不要になるはずです。イエスはそのような信頼関係を築くために、誓いなど不要になるような信頼のおける言動を行いなさいと教えているのです。これも、円満な人間関係を築くためにとても大切な心構えなのです。

3.結論

まとめになります。今日は「律法ではこう言われてきたが、わたしはこう言う」というスタイルの一連のイエスの教えの中で、最初の四つについて学んで参りました。冒頭でも申し上げたように、イエスは人間には到底守れないような厳しい教え、つまり心の中だけでも邪な思いを抱いてはいけないとか、離婚は絶対禁止だとか、どんな場合でも誓ってはいけないとか、そういうことを教えているのではないのです。それはイエスのことばを直解主義的に受け止めてしまうときに陥る誤解・誤りです。

むしろイエスの真意は、私たちが負のスパイラルに陥らないように、早め早めに適切なアクションを起こせということなのです。殺人や姦淫という大きな罪に陥るまでには、様々な段階があります。そこまで事態を悪化させないためにできることはいくつもあるのです。そのような機会を見逃さずに迅速に行動しなさい、和解のために行動しなさいというのがイエスの教えの意図なのです。

私たちはつい意地を張ったり、あるいは面倒くさいと思って今すぐにすべき行動を先延ばししてしまうことがあります。しかし、今すべきこと、今できることを放置すると事態は確実に悪い方向に向かっていきます。そうならないように、すぐに和解のための行動を取りなさい、それが平和への道だというのがイエスの言おうとしていることなのです。

このイエスの教えは当たり前のようで、なかなか実践に移せないものです。しかしヤコブが言うように、「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません」ということは非常に大切なことなのです。イエスの教えを聞くだけでなく、実行していくこと、それこそが平和を築くための道なのです。お祈りします。

私たちに平和への道を教えられたイエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今日はイエスの非常に具体的な教えを学びました。私たちは「聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそい」者であるべきですが、そのように行動できるように助けてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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さばきは神の家から第一ペテロ4章12~19節 https://domei-nakahara.com/2025/09/28/%e3%81%95%e3%81%b0%e3%81%8d%e3%81%af%e7%a5%9e%e3%81%ae%e5%ae%b6%e3%81%8b%e3%82%89%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%83%9a%e3%83%86%e3%83%ad4%e7%ab%a012%ef%bd%9e19%e7%af%80/ Sun, 28 Sep 2025 03:12:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6832 "さばきは神の家から
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1.序論

みなさま、おはようございます。第一ペテロを毎月の月末に読み進めて参りましたが、今回の箇所は第一ペテロの中でもとりわけ重要で、しかも難しい箇所です。前回の説教でもお話ししたように、この書簡の著者であるペテロはキリストの来臨による世の終わり、そしてキリストによる最後の審判の日が近いという確信を抱いていました。今日は、そのキリストによる裁きがどのようなものかについて語っています。

今日の箇所を考える上で、日本の伝統的な宗教である仏教の教えと比較してみたいと思います。日本で最も信者が多いのが親鸞の始めた浄土真宗だと言われています。これは鎌倉時代の宗教ですが、この親鸞の教えと宗教改革者ルターの教えの類似性がしばしば指摘されます。20世紀最大の神学者と言われるカール・バルトも親鸞とルターは非常に似ているとの驚きを隠しませんでした。では、親鸞の教えとは何かといえば、それが「悪人正機説」です。これはどういう教えかといえば、善人ですら往生、つまり救われるのだから、まして悪人は言うまでもなく救われる、という教えです。善人でも救われるのだから、悪人は言うまでもない、ということです。でも、なんだか逆説的な教えですよね。悪人ですら救われるのだから、善人は言うまでもなく救われるというのなら分かりますが、親鸞の言っていることはあべこべではないかと。この親鸞の教えの本当の意味はひとまず置いておくとして、この教えそのものはクリスチャンにはなじみがあるものかもしれません。パウロは「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった」と、キリストの死は罪人、つまり悪人のためだと語ります。また、ルカの福音書のパリサイ派と取税人のたとえも、このような理解を助けます。すなわち、自分は善人だと自惚れているパリサイ派よりも、自分の罪を強く嘆いている取税人の方に神は目を向けてくださるのだと。悪人は自分が罪深いことを自覚して一層強く神の救いを求めるので、自分の力で救われようとする善人よりも神の救いに近いのだ、ということが言われます。

ただ、このように自らの罪深さを深く認めて神の前におののく者ならいざしらず、悪い事をしても悪いとは思わず平気で人を傷つけるような悪人、本物の悪人がそのまま救われるとしたら、そういう考えにはついていけないという人が多いのではないでしょうか?神から目をかけてもらえる罪人、悪人とは、あくまで罪の意識を強く持っているような人であり、罪の感覚がないようなサイコパス的な性格の悪人まで神が救うと考えるクリスチャンは少ないのかもしれません。親鸞の場合は、救われる人間の側がどういう状態にあるか、悔い改めているかどうかよりも、救う側の方の意図を重視します。浄土真宗においては、救い主はイエス・キリストではなく弥勒菩薩ですが、弥勒の願いはすべての人を救うことであり、すべての人には善人も悪人も含まれます。そして普通では救われようのない悪人をこそ、弥勒は一層強く救ってあげたいと願っているわけです。救いは私たちが善を成したからではなく、ひたすら弥勒の願いによって達成されます。ですから悪人こそ救われるのだ、ということになります。これはイエスの「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」という教えと通じるものがあります。

このような悪人正機の教えは、しかし今日のペテロの教えとは相いれないのではないでしょうか。ペテロは「義人がかろうじて救われるのなら、罪人はいったどうなるのか」と語ります。正しい人がやっとのことで救われるのなら、悪人が救われるはずがないではないか、ということです。これはなんだか当たり前の話で、逆説的ではなく、したがってキリスト教的ではない、ということになるのでしょうか?いえ、そのように捉えるべきではありません。私たちは、正しい人が救われて、正しくない人が救われないというのは当然すぎて、そこにはキリスト教的な新しさは何もない、と考えてしまうかもしれません。しかし、そんなことはないのです。実は、「正しい人が救われる」というのは非常にラディカルな教えなのです。この教えを最初に唱えたのがゾロアスター教の教祖であるツァラトゥストラだと言われています。彼は、当時のイラン地方の教えである「金持ちや貴族だけが天国に行って、平民や貧民はみな滅びる」という教え、あるいは「救われるのは男だけだ」というような教えに反対し、「身分はどうであれ、また性別はどうであれ、正しく生きた人は救われるし、正しく生きなかった人はどんなにお金を積んでも救われない」と説きました。つまり神は徹底的に平等・公正な方で、えこひいきは一切ないと教えたのです。このゾロアスター教の教えの様々な要素は、一説にはユダヤ黙示思想を経由して原始キリスト教に流れ込んだとも言われていますが、神の下に、少なくともイスラエル人は皆平等だとする旧約聖書の教えとも相通じるものがあります。

聖書のメッセージについて言えば、神は弱い立場にいる者、神の前にへりくだる者に憐み深い方だ、という点も重要ですが、神は公平無私な方だ、ということも同時に極めて大切です。神は公平な方なので、あなたがイスラエル人だから、あるいはクリスチャンだからといって、えこひいきすることはせずに、万人を公平に裁かれます。そのような観点からは、不公正な社会の仕組みによってやむにやまれぬ事情で「罪人」の立場に追いやられてしまったような人はともかくとして、自ら罪深い生き方を選んでいるような人が救われないというのは当然だと言えないでしょうか。キリスト教は、弥勒信仰のような万人救済説ではありません。人間には自由があり、救われようと思わないような人を神が無理やり救うこともありません。人間は自由だからこそ責任があり、だから神も人を裁くことができるのです。神の裁きの厳粛さを恐れなさい、というのも聖書の大切な教えなのです。そのような気持ちで、今日のみことばを読んで参りましょう。

2.本論

では、12節から読んで参りましょう。ペテロは、これまでと同じように当時のキリスト者が直面していた理不尽な迫害や苦しみについて語ります。これは、せっかく神の子であるキリストを信じたのに、いわれのない迫害を受けてがっかりしていた異邦人の信徒たちを励ますために、ペテロはこのようないわれのない迫害を受ける人は、キリストが現れたときに大きな報いを受けることになるのだから、といって励ましています。しかし、そのような苦難を受ける原因が自分の悪行、悪い行動に起因するのだとしたら、それは大いに問題です。そのような身から出た錆による苦難をいくら受けても、キリストが現れた際に報いを受けることはあり得ないし、むしろ厳しい裁きを招くことになるでしょう。

ペテロの手紙を受け取った異邦人の信徒たちは今苦難の中を歩んでいますが、その苦難が果たして義人の苦しみなのか、あるいは自業自得の苦しみなのかは不明瞭な部分があります。もし、自業自得で苦しんでいたとしたら、キリストが現れた時に喜ぶどころか、むしろ恥をかくことになります。そうならないように気を付けなさい、とペテロは戒めているのです。そして、彼らの苦難の意味が明らかになる時がすぐ来る、いやもう来ている、とペテロは語ります。

ペテロは「さばきが神の家から始まる時が来ています」と語っていますが、このさばきという言葉の原語のギリシア語はクリマという言葉ですが、それは「弾劾」、つまり有罪判決を下すという意味もありますが、有罪・無罪のどちらもありうるという意味での単に「評決を下す」という意味もあります。ですからさばきが神の家から始まるというのは、神の家すなわち教会が神から有罪判決という厳しい裁きを受けるという意味もあり得ますが、しかしここではそこまでの強い意味はなく、むしろニュートラルな意味で教会が神によって審査を受ける、評価されるというような意味でしょう。使徒パウロも第一コリント3章で、教会が神の火によって評価を受けると語っています。それがいったいどういうものなのか、わかりませんが、私はこの「火」というのはこの世における困難や試練、あるいは迫害だと思っています。人間の真価は苦難の時に問われるということがしばしば言われますが、教会の真価も苦難の時に問われる、ということです。たとえば、とても仲の良い家族がいたとします。しかし、その家族に何らかの不幸や困難が生じたとします。その時に、その家族がバラバラになり、互いを非難し合うか、あるいは困難な時こそ互いに助け合い、より結びつきが強くなるか、そのいずれかで家族の真価が露にされます。同じように神の教会も、困難な中にあっても信仰を捨てずに、ますます信仰に燃えて、また兄弟姉妹の間の愛と助け合いの心が深まるなら、それは真の教会、金の教会です。しかし、困難が生じたからといってすぐにも信仰を捨てる、兄妹間の愛も醒めるということになれば、そのような教会は藁の教会、何かあるとすぐに燃えてしまう教会だということになるでしょう。ペテロは、彼の読者である信仰者たちが遭遇している困難が、神の与えた試練、彼らを試すための試練である可能性を示唆しています。だからこそ、彼らはしっかりと目覚めていて、動揺せずにますます兄弟兄に励む必要があります。そのように歩み続ければ、キリストが現れた時に大いなる誉れを受けることになるでしょう。しかし、言うは易しで、それは簡単なことではありません。「義人でさえかろうじて救われる」と言われているように、多くの人がそのような困難な状況の中で信仰を捨ててしまうということがあり得るのです。私たちも、このペテロの警告を真剣に受け止める必要があります。アメリカにはプロスペリティ・ゴスペル、「繁栄の福音」、すなわち福音を信じると豊かになれる、幸せになれる、金持ちになれるという非常に都合の良い教えがあり、クリスチャンは世の終わりにあるといわれる患難に遭うことがないとも教えます。そのような教えを信奉しているクリスチャンが次々と襲い来る困難に直面したら、その信仰に疑問を抱かないでしょうか。下手をすると信仰を捨ててしまうことすらあるでしょう。ですからそのような騙しごとの教えに惑わされてはなりません。むしろ神のキリスト者は必ず試練に会うというのが聖書の教えです。そして、そのような時こそ自らの信仰が試されているという意識を持って固く立つ必要があります。

では、信仰を持たない人はどうなのでしょうか。そのような人に次々と試練が襲った場合に、その人は正気を保てるでしょうか。いやむしろ、そのような理不尽な状況に怒ったり、絶望したりしてニヒリズムに陥ってしまう危険性が高いと思います。神などいない、すべてが偶然だと信じている人にとって、次々と降りかかる困難には何の意味もなく、単なる偶然、サイコロの目だということになります。その偶然の結果、ひたすら苦しいことが続くのだとしたら、人生に何の希望も持てなくなってしまうでしょう。やってられるか、という気分になるでしょう。そのような人の終わりがどれほど暗いものか、想像に難くありません。人間社会がそのような人ばかりになれば、まさしく生き地獄になってしまいます。愛もなく、助けないもなく、憎しみや虚無感に包まれた社会だからです。そのような社会にさせないためにも、私たちは福音を伝えていく責任があります。

3.結論

まとめになります。今日は、第一ペテロから、世の終わりに起きるさばきについて学びました。世の終わりは非常に困難な時代になります。クリスチャンだからといって、そのような困難に遭わないというようなことはありません。むしろ、はじめにクリスチャンにそのような困難な状態が降りかかる可能性の方が高いでしょう。私たちはそうした状況を、何か思いがけないもののように考えるべきではありません。むしろ、神から与えられた試練として前向きにとらえる必要があります。そのような困難を受けるのが、信仰のためであったのならなおさらそう言えます。信仰のために苦しむのなら、大いなる報いがあるというのが聖書の約束だからです。「さばきは神の家から始まる」と言われているように、そうした困難はまず教会から始まります。しかし、では教会の外の人々は安全無事かといえば、決してそうではありません。むしろ、神は教会に試練を与えた後に、全世界にさらに大きな困難を与えることになるでしょう。そのような試練を前にして、確固たる信念や信仰を持たない人がどのようになってしまうか、考えただけでも恐ろしくなります。虚無主義、ニヒリズム、人生には何の意味もないのだから、せいぜい生きている間は出来るだけ面白おかしく生きなきゃ損だ、と考えているような人たちはそうした状況に耐えられないでしょう。教会の使命は、人々をそのようなニヒリズムの泥沼から救い出すことにあります。私たちの人生には意味があります。私たちは愛し合い、仕え合うために創られた者です。イエスはその生涯において、そのような生き方を示してくださいました。私たちもそれに倣って歩んで参りましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。ペテロは世の終わりと、その時に起きる試練や困難について語りました。それがいつなのかは誰にもわかりませんが、私たちはいつでも主に信頼し、ニヒリズムに抗って歩むことができるように助けてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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律法を成就するマタイ福音書5章17~20節 https://domei-nakahara.com/2025/09/21/%e5%be%8b%e6%b3%95%e3%82%92%e6%88%90%e5%b0%b1%e3%81%99%e3%82%8b%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b85%e7%ab%a017%ef%bd%9e20%e7%af%80/ Sun, 21 Sep 2025 00:25:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6813 "律法を成就する
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1.序論

みなさま、おはようございます。今私たちは、マタイ福音書の「山上の垂訓」を学んでいます。そこには様々な教えがあり、私たちを驚かせるような教えや、胸を打つような教えもあれば、それをどう捉えればよいのか、悩んでしまうようなものもあります。今回の部分も、なかなかとらえどころがないような印象を受けるかもしれません。それは「律法」という大きなテーマを含んでいるからです。

今日の箇所の説明に入る前に、前回の説教で少し補足すべきところがありましたので、まず初めにその点について触れさせてください。前回の説教では「異端になることを恐れるな」というような内容を語らせていただきましたが、「異端」というのは非常に強い言葉なのでその意味を少し補足説明したいと思います。初めに断っておきたいのは、「異端」と「カルト」は違うということです。カルト的な広い意味でのキリスト教の一派があり、そうしたグループはしばしば「異端」とも言われますが、私はそういう意味で異端という言葉を使ってはいません。異端というのは、主流の考え方とは違う、反主流的な考え方のことです。今風に言えばみんなとは違う、「空気を読まない」考え方と言えるかもしれません。どの時代にも、人々の大多数が当たり前だと思っている考え方がありますが、そういう考え方や見方に抗うのが「異端」だということです。その最も有名な例は「地動説」です。太陽が地球の周りを回っているのではなく、地球が太陽の周りを回っているという見方を地動説と呼び、それは今日では当たり前のことですが、かつてはそのような見方が「異端」だとされたことがありました。ガリレオの宗教裁判が有名ですが、かつてのキリスト教はこの「地動説」を異端として否定しようとしました。しかし、結局はそれが正しいことが証明されました。このことはキリスト教の歴史の中でも大きな汚点となっています。今日の世界でも多くの「異端」的な考え方があります。主流の学者たち、あるいは権威を持つ人たちが正しいとする見方に疑問を挟むと「異端」扱いされることが少なくありません。それを恐れて口をつぐんでしまうこともあります。しかし、私も学界の端くれの人間として言わせていただければ、「通説」というものが見事にひっくり返ることは少なくなく、あと50年したら新約聖書学界の風景もまったく変わったものとなるでしょう。ですから、主流の見方と違うからといって、「異端」扱いすることには十分注意したほうがよい、ということを語らせていただきました。 

それに対して、「カルト」というのは全く違う性質のものです。異端とは正反対と言ってもよいです。カルトの特徴は異論・反論を一切認めないことです。つまり、私の言っていることはすべて正しく、それに反することはすべて「異端だ」というようなことを言っている人は限りなくカルトに近いということです。カルトは異端だとしばしば言われますが、カルトほど異端、つまり自らとは異なる意見を徹底的に排除しようとするものはないというのは皮肉なものです。よくキリスト教の信仰者の方々でも、「私の話以外は聞いてはいけない」、「他の説教や、キリスト教の本を読んではいけない、危険だから」と言われたことがあるという話を聞きますが、その手の話にはカルト的なにおいがします。確かにキリスト教には様々な考え方や教派があり、その中には明らかにおかしいと思われるようなものも含まれていますが、だからといって他の見方をすべて遮断したり否定したりすることは非常に危ういものがあります。危険な教えに触れさせないようにするために情報を遮断するのではなく、多くの情報の中から何が正しいのか、何が間違っているのかを識別する力を養うようにするのが教会の使命なのです。カルトの問題点は、信徒に何も考えさせないようにし、頭の中身を支配しようとすることです。信徒を育て、成長させて、自分で何でも判断できるようにさせるのではなく、なんでも自分の言うことを聞く依存的な人間、言うことを黙って聞く従順な駒を作ろうとするのがカルトです。

カルトは宗教だけではありません。政府やメディアにもカルト的になり得るのです。つまり、自分の頭で「批判的に」考える国民よりも、政府の言うことが正しいと素直に信じる国民を作ろうとするということです。しばしば使われるようになった「オールドメディア」という言葉がありますが、それは大手新聞やテレビ局を指す言葉です。情報が限られていた時代は、私たちはテレビや新聞が言っていることが真実だと単純に信じていましたが、インターネットで様々な情報や異なる見方に触れるようになると、人々はこれまで「正しい」と思ってきたことに疑問を感じるようになります。新聞やテレビは世論を誘導できなくなっており、それは最近の選挙結果を見れば明らかです。たしかにインターネットには誤情報も含まれていますし、正反対の意見も多くて混乱させられることもありますが、主流メディアの流す情報であればすべて正しいというような見方もあまりにもナイーブです(ただ、主流メディアはなかなか自分の誤りを認めようとしませんが...)。私たちはこうした時代に自分自身で情報の真偽を判断する力を養う必要があります。これはキリスト教信仰でも同じことです。キリスト教についても様々な教えが氾濫する中で、何が本当に主イエスの教えなのか、よい意味で「批判的に」学んでいく必要があります。なんでも無批判に信じるのではなく、「蛇のようにさとく」なくてはならないのです。

さて、脱線しましたが、本論に入ろうと思います。今回は「律法」についてのイエスの教えです。イエスは律法について非常に肯定的なことを語りますが、それがなかなか私たちにはなじめないということです。なぜなら、プロテスタントの伝統においては律法はマイナスのイメージで語られることが多いからです。宗教改革者のマルティン・ルターは「律法と福音とは、二つの、全く対立する教えである」と記しています。ルターによれば、律法とは我々人間に何かをしなさいと要求するのに対し、福音は我々にただで受け取りなさい、空っぽの手で恵みをもらいなさいと語るというのです。このように福音をひたすら受け身のものとして捉えることには大きな問題があると思いますが、ルターの影響力は非常に大きく、プロテスタントの一つの伝統的な考え方として収まっています。ただ、注意したいのはルターはこういう見方、考え方をイエスから学んだわけではなく、パウロの手紙、特にローマ書やガラテヤ書から学んだということです。ルターが福音書から学んでいたのなら、決して律法と福音を対立するものとは考えなかったでしょう。さらにいえば、パウロ自身も律法と福音を対立的に捉えていたわけではありません。そのように読める箇所も彼も書簡の中には確かにありますが、しかしパウロはこうも言っています。ローマ書3章の31節にはこうあります。

それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。

今日はパウロの律法論がテーマではないのでここらへんでやめておきますが、律法と福音が相容れないというような考え方は脇に置いて今日の話を聞いていただきたいと思います。

2.本論

では17節です。イエスはまず、自分は「律法や預言者」を廃棄しようとしているのではないと明言しています。「律法や預言者」というのはすなわち旧約聖書全体のことです。イエスは旧約聖書の教えや預言は必要ないなどとは決しておっしゃらないということです。むしろ自分が来たのはそれらを「成就」するのだと言っています。では、成就するとはどんな意味なのか?預言を成就する、ということの意味は分かりやすいです。マタイは福音書の中で、「これは預言者たちを通して言われたことが成就するためであった」と繰り返し述べていますが、これは預言者たちが語ったことがイエスの生涯において実現したということです。

では、律法を「成就する」とはどういう意味なのでしょうか?それがまさにこの山上の垂訓のテーマなのです。これは単に、イエスがモーセの律法を完璧に実践する、実行するというような意味ではありません。ここでイエスが語っている「成就する」とは、単にそれを誤りなく行うということではなく、さらに前進させる、より深い意味を明らかにするということです。イエスは山上の説教で、「モーセはこう言ったが、私はこう言う」という言い方をします。これはちょっと聞くとモーセの律法を否定しているように聞こえるかもしれませんが、そうではなくモーセの教えの本当の意味や意図を明らかにするということです。たとえば、モーセは結婚している男女では、男の方だけが離婚を申し渡すことができると語りました。ジェンダー平等の現代から見ればおそろしく男尊女卑の教えに見えますが、ではこれが神の真の意図なのかといえばそうではありません。イエスは、当時のイスラエル人の心が頑なだったので、モーセは人々が受け入れられるような教えをいわば妥協して教えたのだ、と語っています。モーセの律法は確かに神の教えですが、生身の人間に対する教えなので、相手が受け入れてくれるようにという配慮も含まれていたのです。イエスが律法を「成就する」と言ったのは、こうしたモーセ律法の限界を突破して、神の本当に意図したことを私は伝えると言っているのです。

律法の限界についてもう少し考えてみましょう。モーセ律法の教えは、主としてイスラエル共同体に適用されるもので、イスラエルと対立する敵国には適用されるものではありませんでした。イエスは『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われてきたと語っていますが、モーセ律法には『敵を憎みなさい』という明文はありません。しかし、モーセの『隣人を愛しなさい』という教えが適用されるのがイスラエル共同体の中だけならば、その外にいる外国人は憎んでもいい、憎みなさいということになります。イエスはそのような解釈は律法の本来意図すること、つまり神の御心ではないということを明らかにします。なぜなら神はイスラエルの神であるのみならず、イスラエルの敵にとっての神でもあるからです。神は万人の神なので万人を愛します。ですから神の民も、自分たちの仲間だけでなく、信仰を共有しない人たちをも愛しなさい、それが神の御心なのだとイエスは教えます。このように、イエスはモーセ律法を単に否定しようとするのではなく、むしろその教えの背後にある神の真の意図を明らかにし、それを行うようにと人々に教えたのです。その「真の意図」についてはイエスがこれから詳しく語っていきます。

18節では、「律法の一点一画も決してすたれることがない」と言われています。ここで特に誤解しないようにしたいのですが、主イエスはここで我々クリスチャンに語っているのではなく、ユダヤ人に対して語っているということです。モーセの律法の難しさは、それがモーセを通じて結ばれた契約の民、つまりユダヤ人のためのものだということです。もちろん我々ユダヤ人以外の民族、異邦人にとっても律法は有益であり、私たちも十戒を唱えたり、『あなた自身のようにあなたの隣人を愛しなさい』といった律法の掟を実践しようとします。しかし、ユダヤ人なら必ず受ける儀式である割礼もモーセ律法の一部ですが私たちはそれを行いません。また、豚肉を食べてはいけないといった食事規定もモーセ律法の一部ですが、私たちはそれを守っていません。イエスの言われた「律法の一点一画」にはこれらの割礼や食事規定も含まれるわけですが、私たちはイエスの言いつけにもかかわらずそれを行っていません。これをどう考えるべきでしょうか?ここで、初めて異邦人の使徒パウロが登場します。パウロは繰り返し、「私たちは律法の下にいるのではなく、恵みの下にいます」と語りましたが、ここでいう「私たち」とは主として異邦人を指しているということです。もちろん、語っているパウロは異邦人ではなくユダヤ人ですので、「私たち」の中にパウロが含まれるのならそこにユダヤ人も含まれるはずではないか、という理屈も成り立ちます。しかしパウロは異邦人の使徒として常に異邦人に対して語りかけているのです。それを忘れてはいけません。パウロは、モーセ律法はユダヤ人に対して与えられたものなので異邦人は守る必要はないと考えていました。もちろん律法のエッセンス、つまり神を愛し、隣人を愛するという教えは異邦人にとっても大切なことですが、それは律法の細かな規定を守ることを通じてではなく、聖霊に導かれて歩むことで実現できると教えたのです。このように、異邦人は律法の下にいないというのがパウロの教えでしたが、ユダヤ人は話が違います。今でもユダヤ人は割礼を受けますし、豚肉を食べません。これは契約の民としてのユダヤ人の特殊性です。彼らは今でもモーセ律法を守っているのです。そのようなユダヤ人に対し、イエスは「律法の一点一画も決してすたれることがない」と言われたのです。ですからここの部分に関しては、我々異邦人は「そういうものなのか」と、いわば他人事のように聞くしかない部分があります。「戒めのうち最も小さいものの一つでも破ったならば」と言われても、私たち日本に暮らす人々は豚肉も甲殻類も普通に食べていますから、困ってしまうわけですが、しかしこれはユダヤ人に対して語られた言葉なのです。

とはいえ、イエスの山上の垂訓の教えはモーセ律法とは異なり、私たち異邦人のクリスチャンも守るべきものだということは忘れてはいけません。イエスの教えはモーセ律法の限界、つまり民族宗教としての律法を超えて、あらゆる民族に向けられた普遍的なものだからです。イエスの教えはモーセ律法に基づくものですが、それを超えたものです。それはモーセ律法の持つ歴史的・民族的限界を乗り越えたものです。そのようなイエスの教えを守る人は、モーセ律法を墨守するパリサイ派やサドカイ派の義に勝る義を持つのです。ですから私たちはイエスの山上の教えを心して聞かなくてはなりません。

3.結論

まとめになります。今日はイエスがモーセ律法について語ったところを学びました。私たち異邦人信徒は、異邦人の使徒であるパウロの教えに強い影響を受けています。そしてパウロは、異邦人信徒にモーセ律法全体を守らせようとする試みに断固反対しました。その教えを受けている私たちは、律法の一点一画に至るまでのすべての戒めを守る必要はありません。

それに対し、イエスはこの山上の垂訓をユダヤ人に対して教えました。ユダヤ人に対しては、イエスはモーセ律法のすべてを守ることを要求したのです。それは、モーセ律法とはそもそもユダヤ人に対して与えられたものだからです。同時にイエスは、モーセ律法のより本質的な部分、ユダヤ人のみならず人類全体が守るべき本質的な教え、神の意図をも明らかにされました。そのような教えに私たち異邦人も耳を傾け、従う必要があります。そのことを心に留めて、イエスの教えを今後もさらに学んで参りましょう。お祈りします。

モーセを通じてユダヤ民族に律法を与えてくださった天の父なる神様、そのお名前を賛美します。あなたは御子イエスを通じてさらに勝った教え、「山上の垂訓」を教えて下さいました。私たちに聖霊を与え、どうかそれらの教えを守り行わせてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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弟子の道マタイ福音書5章11~16節 https://domei-nakahara.com/2025/09/14/%e5%bc%9f%e5%ad%90%e3%81%ae%e9%81%93%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b85%e7%ab%a011%ef%bd%9e16%e7%af%80/ Sun, 14 Sep 2025 03:55:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6799 "弟子の道
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1.序論

みなさま、おはようございます。前回から、主イエスの教えの中でも最も有名な「山上の垂訓」に入りました。先週は八福の教えを学びましたが、これは神がイエスを通じてもたらそうとしておられる神の国、神の支配とはどんなものなのか、また神の国に生きる者はどのような人格を持つべきなのか、という内容でした。

そして今回の箇所は、イエスに従って生きていこうと願う者たち、イエスの弟子として生きていく人たちについての教えになります。イエスは、ご自身に従おうとする人たちは迫害に遭うだろうと予告します。しかし、そのような迫害に遭ったとしても、むしろ喜びなさいとイエスは言います。けれども迫害、つまり人々から酷い扱いを受けて喜ぶなんてことができるのでしょうか。いわれのない誹謗中傷を受ければ、普通はがっかりしてしまうでしょう。イエスは、あなたがたより前にいた預言者たちも迫害されたのだから、あなたがたも喜びなさいと語ります。つまり、イエスの弟子になるということは、旧約時代の預言者たちのような存在になるのだ、ということになります。でも、預言者なんて自分とは全く縁遠い存在だと皆さんは思われるのではないでしょうか?では預言者とは一体どんな人なのでしょうか?そして、彼らはなぜ迫害されたのでしょうか?

2.本論

旧約聖書には多くの預言者が登場しますが、最も有名なのは三大預言者といわれるイザヤ、エレミヤ、エゼキエルでしょう。エゼキエルについては、イスラエル人がバビロンに捕虜として連行された、いわゆる「バビロン捕囚」の民の一人としてエルサレムから遠く離れた異国で預言活動をしたのですが、イザヤやエレミヤは基本的にイスラエルの首都であるエルサレムで活躍した預言者です。日本で言えば、地方や外国ではなく、東京で活躍した預言者だということです。では、彼らは預言者として首都で何をしていたのでしょうか。彼らはユダ王国の王に助言をする立場にありました。今の日本で言えば、総理大臣に対する政策アドバイザーだということです。もちろん預言者は自分の考えを王に助言するわけではなく、神の命令を王に伝えるという役割でしたから、彼らは神の代弁者として王に語りかけたのです。しかし、ややこしことに預言者は何人もいて、王に対して「これが神の御心なのだ」と伝える内容が預言者によってはまるで正反対であるということもありました。今の日本で言えば、総理大臣に何人もアドバイザーがいて、しかも彼らの提案する政策はそれぞれ全く違う、というような混乱した状態です。イザヤらの預言者たちが活躍したユダ王国は、アッシリア、エジプト、バビロンなどの超大国にぐるりと取り囲まれていましたから、小国であるユダ王国はどの国と同盟を結ぶか、あるいは従うかで国の運命が決してしまうので、王はどの預言者の声に従うべきか、悩むことも多かったと思います。実際、ユダ王国が滅びたのは仕えるべき国を誤ってしまったからでした。彼らは同盟国としてバビロンではなくエジプトを選んでしまったので、バビロンに滅ぼされてしまったのです。日本も戦前はナチス・ドイツと同盟を結び、英米と戦うという道を選択してしまったために、亡国の憂き目に遭いました。今の日本はアメリカと中国という超大国に挟まれる格好になっていて、日本としてはアメリカとも中国とも仲良くしたいわけですが、アメリカと中国が決定的に対立してしまった場合にはどちらの国にもいい顔をするというわけにもいかず、どちら陣営に付くか決断をしなければなりません。でも、皆さんが総理大臣になったとして、そんな決断できますか?自分の判断一つで日本の一億の人々の運命が決まるとするなら、なかなかそんな決断はできませんよね。今までは絶対アメリカだと思っていた人でも、トランプさんになってからはアメリカでは不安だと感じている人も少なくありません。トランプさんはアメリカ・ファーストだから、いざとなったら日本を守ってくれないのではないかと思う人が増えてきたからです。ですから、もし自分で決断をしないといけないということになったら、それこそ神様にお伺いを立てたいと思ってしまうのではないでしょうか。

また、外交だけでなく内政においてもリーダーは多くの決断をしなければなりません。国を強くするためにはお金が必要で、民から税としてお金を集める必要がありますが、あまり多くの税金を徴収すると民から恨まれますし、また民が貧しくなって国力が衰えてしまうという危険もあります。どの程度までの税金が適切なのかという経済の問題も、王たちを悩ませたことだと思います。預言者たちは、こういう内政問題についても王に助言をしていました。

今の日本は、王が国を支配する王制ではなく主権は国民にあるので、日本の外交や内政を決めるのは王様ではなく私たち国民一人一人です。もちろん私たちは政治の専門家ではありませんので、専門家である政治家を選んで彼らに任せるわけですが、しかし政治のプロである政治家を選ぶのは国民一人一人なのです。ですから、この日本という国の外交や内政の責任は、究極的には私たち一人一人にあるということになります。主権を持つというのは、責任を持つということだからです。でも、そんなことを言われても困ってしまいますよね。しかも、私たちが選挙で選ぶべき政治家の方々の意見が大きく異なる場合、どちらの方に票を入れるべきか、悩んでしまうのではないでしょうか。今の日本では、多くの国民がこれまでの自民党のやり方でいいのか、不安を抱くようになりました。自民党はとにかく税金を上げようとします。消費税は3%から始まり、今や10%ですが、もっと上げたいというのが本音でしょう。国の借金がすでに一千兆円もあり、少子高齢化で今後ますます国家財政が苦しくなるので、国民には応分の負担、つまりしっかり税金を払ってもらわないと困るというのです。

しかし、これまでの日本経済を振り返ると、消費税を上げるたびに大きく景気が後退し、デフレの蟻地獄にはまって人々は貧しくなっていきました。本当に増税一本やりでいいのか?と多くの人が疑問をいだくようになったのです。先に天に召された森永卓郎さんの『ザイム真理教』という本がベストセラーになりましたが、この本の内容を簡単に言えば、よくいわれる「このまま財政赤字を膨らませれば日本は破綻する」というのは神話に過ぎず、国民を脅すための方便なのだ、というものです。私も一応経済学で修士号を取った人間なので、この分野では素人ではありませんが、森永さんのおっしゃりたいことはわかります。日本には通貨発行権、つまりお金を創り出す力があり、さらには日本は膨大な対外資産を抱えているので国家破綻するなどということはあり得ないとは思います。しかし、財政破綻をあおる官僚や大学教授がたくさんいる一方で、彼らとは正反対のことをいう経済学者や官僚もいます。どちらも大変頭の良い人たちです。そして、今の政治家もこの件では意見が大きく割れています。増税・緊縮財政路線が自民党と立憲民主党で、減税と積極財政を支持するのが国民民主党と参政党でしょうか。前回の参議院選挙では、積極財政派が大きく議席を伸ばしました。しかし、こういう積極財政派の人たちは、森永さんのいうザイム真理教の人たちから激しく叩かれます。彼らから見れば、積極財政派は「財政均衡主義」という真理に背く異端者だからです。その叩かれ方は、ほとんど「迫害」と呼びたくなるほどです。異端者に対する迫害は、本当に容赦のないものなのです。

さて、なぜこんな話をしたのかといえば、旧約聖書の預言者たちが激しく叩かれたのも、彼らの提示する神から与えられた「政策」が一部の人たちからは大変不評で、彼らからは「神がそんなことを言うはずがない。お前は偽預言者だ!」とののしられたのです。例えば預言者エレミヤは、大国バビロンと戦っている同胞に対し、「バビロンに降伏するのが神の御心なのだ!武器を捨ててバビロンに投降せよ。そうすれば命だけは助かる」と叫んで回りました。それを聞いたユダの人々は、エレミヤがバビロンのスパイか、あるいは神のみ旨だと言って嘘をふれ回っている異端者か何かだと思い、エレミヤを徹底的に迫害しました。エレミヤは実際、何度も殺されかけたのです。そしてエレミヤを迫害していた人たちは自分たちが悪いことをしている、虐めているなどとは考えもしませんでした。悪いのは異端であり、エレミヤは異端だから叩くのが正しいのです。日本の場合でも同じですよね。太平洋戦争で必死にアメリカと戦っている日本人に対し、「アメリカに負けるのは神の御心だ。降伏せよ」と叫んだら、それこそ非国民としてリンチに遭いかねませんよね。こういうことを言う者は異端者として激しい迫害に遭うのです。

イエスが弟子たちに対して、「あなたがたは迫害に遭うだろう」と予告したのは、多くのユダヤの人々はイエスや彼の弟子たちが言っている教えを異端だと判断したからです。異端者を迫害するのは、正統な信仰に立つ人にとってはよいことだからです。使徒パウロも回心前は激しくイエスの弟子たちを迫害しましたが、それはパウロがイエスの弟子たちのことをユダヤ教の異端者だと思ったからでした。このように、イエスが弟子たちに迫害に遭うことを予告したのは、ご自分の教えがユダヤの権力者たちによって異端だと宣告されることを分かっていたからです。ですから、イエスの迫害を恐れるなという教えは、異端者と呼ばれることを恐れるな、という意味でもあるのです。旧約の預言者たちも時の権力者たちから異端者として迫害されたからです。

この視点から、イエスの「地の塩になれ、世の光になれ」という有名な教えの意味も改めて考えてみたいと思います。地の塩、世の光という教えは大変有名で、クリスチャンの間でもしばしば語られるスローガンになっていますが、実際それを実行するのは難しいな、と感じている方は少なくないと思います。特に世の光になれなどと言われると、とても私には無理だ、と思ってしまうのではないでしょうか。しかし、しばしば世の光というのは、どこから見ても完ぺきな優等生みたいなイメージで捉えられていないでしょうか。光のような人というと、みんなが思わずまぶしいと思ってしまう、輝いている人、というイメージが強いからです。しかし、イエスの「地の塩、世の光」というのはどこから見ても傷一つない優等生、という意味ではなくて、「異質な人」と言い換えてもよいと思います。塩というのはまさに一味違うもの、ピリッとするものであり、他とは馴れ合わずに独自の性質を保っているものです。ですから地の塩のような人とは、人とはちょっと異なる個性を持った人、「ああ、こういう生き方もあり得るのか」と人から思われるような人だということです。完璧クンは無理でも、こういう人にはなれるかもしれないですよね。

世の光のような人というのも、光り輝くまぶしい人ということではなく、むしろそれも異質な存在と呼ぶことができるでしょう。聖書の世界観では、この世は基本的に闇、暗闇のようなものです。光とは闇とは性質の異なるものです。闇の中で輝くというのは、まさに異彩を放つということで、変わった存在と呼ぶことができます。主イエスは、まさに人々からは浮いた存在、変わった存在、権力者から見れば「異端者」と呼ぶしかないような独自の考えや教え、生き方を示した人でした。イエスの弟子になるということは、そのような異質さを模倣する、引き受けるということです。しかもその異質さはただ変わっているというのではなく、人間的な視点から見た神の異質さ、神の特別なご性質を反映しているものなのです。そのような異質な存在としてこの世で生きることを恐れるな、というのが今日の聖書箇所のイエスのメッセージなのです。

今日の社会でも「異端」に対する攻撃は激しく、ときに暴力を伴います。「異端」といっても、ある一方の立場から見て「異端」だということで、別の見方もありうるわけですが、自分が絶対正しいと信じる人たちは違う意見の人々を「異端」と決めつけて弾劾し、時には暴力さえ振るいます。今世界中で大きな問題となっているのが移民問題ですが、それを政治問題として取り上げると、すぐに「人種差別主義者」だとかレイシストだとか言われてしまいます。しかし、移民を短期間に大量に入れて社会が壊れかけていくということが実際にヨーロッパで起きていて、北欧のスウェーデンなどは大変な事態になってしまいました。先週、あるアメリカの熱心なクリスチャンが射殺されました。実は彼は、先週の日曜日には来日していて東京で講演会を行ったのですが、アメリカに戻ってすぐに殺されてしまったのです。彼はリベラル一色になってしまったアメリカの大学で、彼の持つ保守的なキリスト教信仰に基づく保守的な考え方を広めた人物です。彼は無制限に移民を入れるという政策に反対したので「人種差別主義者」、レイシストといういわれのない誹謗中傷を浴びましたが、それでも徐々に支持者を増やし、アメリカの大学で非常に大きな影響力を持つまでに至りました。しかし、リベラルな信条を持つ人にとって彼はまさに「異端者」であり、今回の暗殺事件の背景はまだはっきりとはわかっていないものの、暴力的に殺されてしまいました。しかし、たとえどんなに意見が異なるとしても、自由な言論ではなく暴力によってその声を押しつぶそうとしてはいけないのです。主イエスも暴力によって殺されましたが、暴力はイエスの教えを打ち消すことはできませんでした。

3.結論

まとめになります。今日はイエスが弟子たちに対して、迫害を受けることを予告し、そしてそれをむしろ喜びなさい、誇りにしなさいと教えられたところを学びました。迫害されてうれしい人なんかいるものか、と思われるかもしれませんが、ではなぜ迫害されるのか、と考えるとその意味が分かってきます。なぜイエスの弟子たちは迫害されるか?それはユダヤの権力者たちが彼らに異端の烙印を押すからです。異端者というのはどの世界でも苛烈な迫害を受けます。イエスの教えと生き方は新しすぎた、新鮮過ぎたので、当時の人たちには理解できませんでした。彼らは理解できない新しいものに脅威を感じ、「異端」の烙印を押します。しかし、この世を良いものにしてきたのは、しばしば「異端者」と呼ばれた人たちなのです。イエスは当時のユダヤという古い皮袋に新しいぶどう酒を注ぎ込んだのです。この新しいぶどう酒の価値が分からない人は、それを拒否してしまったのです。

私たちも自分たちが生きる世界で「異端者」となること、神の異端者となることを恐れる必要はありません。むしろそれを喜ぶべきです。人から非難されたり迫害されたりするのは、常にそうであるわけではないものの、時として自分が正しいことをしている証拠になるのです。イエスの教えは、この世の人たちからすればあまりにも新しく、「異端」とさえ思えるものですが、しかしそれは神から来たものです。ですから私たちも自信をもって異端になりましょう。

私たちは世俗社会の中だけでなく、キリスト教会の中においても「異端者」となってしまうことがあるかもしれません。これまでの教会や教団の伝統に疑問を投げかけると、そのような人は「異端者」の烙印を押されてしまうかもしれません。しかし、ルターやカルヴァンも初めは「異端者」と呼ばれていたことを忘れてはいけません。彼らは改革を行いましたが、彼らもまた自分たちとは意見の異なる「再洗礼派」の人たちを異端として攻撃し、殺すことさえしました。これは本当に大きな悲劇でした。私たちは「異端」という言葉を使う時には本当に細心の注意を払うべきです。それが正しかったのかどうかは、いずれ神から裁きを受けるでしょう。教会が神の御心から逸れてしまったと感じる時、しっかりと根拠を示して声を上げるのは少しも悪いことではないし、そうした批判を「異端」として押しつぶすことはさらに大きな問題です。むしろ批判を恐れて口をつぐむことのほうが問題だと、主イエスはおっしゃっているのです。そのような勇気を持って歩みたいと願うものです。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今朝は主イエスの弟子になるということは、世の中から異質な人と見なされること、「異端者」とみられることであることを学びました。しかし、それが主の御心でしたら、私たちは勇気を持ってそれを語ることができるように強めてください。われらの平和の主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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神の国のマニフェストマタイ福音書5章1~10節 https://domei-nakahara.com/2025/09/07/%e7%a5%9e%e3%81%ae%e5%9b%bd%e3%81%ae%e3%83%9e%e3%83%8b%e3%83%95%e3%82%a7%e3%82%b9%e3%83%88%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b85%e7%ab%a01%ef%bd%9e10%e7%af%80/ Sun, 07 Sep 2025 00:21:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6782 "神の国のマニフェスト
マタイ福音書5章1~10節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。今日の説教は、キリスト教においてもっとも有名な聖書箇所を取り上げます。キリスト教に関心を持って、聖書を読んでみようと考える人が最初に読むのがこの「山上の説教」の冒頭にある八福の教えであることが多いのではないでしょうか。この八福の教えはまさにキリスト教のエッセンス、精髄とも言えるものですが、初めて聞く人には驚きを与えるものだと思います。今日はその教えに耳を傾けて参りましょう。

この八福の教えはしばしば「逆説的」だと言われます。それは、世間で常識だとされていることと正反対のことをイエスが語っているからです。常識的に考えれば、「悲しむ人」、「貧しい人」、「飢え渇く人」は不幸な人たちですよね。私たちが目指すのは「楽しむこと」、「豊かであること」、「満ち足りて満腹していること」のはずです。それとは真逆の状態にある人たちが幸いだ、というイエスの言葉はどういう意味なのでしょうか?ここで注意したいのは、イエスはわざと常識に反すること、逆説的なことを言って人々の注目を集めようとしたのではない、ということです。世の中には、人々が驚くような突飛な行動をあえてして、人々の注目を集めようとする人がいますが、イエスにはそんな動機はまったくないということです。

またそれとは別に、この八福の教えは決して手の届かない理想を語るもの、いわば絵に描いた餅のような理想論でもないということも強調しておきます。普通に考えれば、現実に押しつぶされて悲しんでいる人が慰められるなどということはあまりないことなので、せめてそうあってほしい、現実がどんなに厳しくてもそんな優しい世界を夢見ましょう、というような淡い理想論を語っているのではないということです。世の中の多くの理想論とは区別して考えなければいけません。では、実現できそうもない理想論とはどんなものかといえば、これはキリスト者としては問題発言であることをあえて言いますが、ある意味では日本国憲法もそう言えるでしょう。日本国憲法は日本が戦争を放棄し、武器や戦力を持たないと宣言しています。素晴らしいですね。では、現在のウクライナのように万が一外国が攻めてきたらどうするのか、やられっぱなしで一切無抵抗でいくのかといえば、そんなことを本気で考えている日本人は誰もいないでしょう。皆さんも、家族が暴漢に襲われても一切抵抗せずに、相手にやりたいだけやらせるなどという人はいないでしょうが、日本国憲法がそのような無抵抗を国家的なスケールで宣言しているはずがないのです。ですから、日本国憲法は「無抵抗主義」を宣言している憲法ではありません。ではなぜ武力を持たない、戦わないなどと宣言できるかといえば、それは憲法前文にあるように、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」ということなのです。つまり、かつては侵略国家であった日本以外の周りの国々はみんな平和を愛するいい国だから、彼らを信頼して武力を持つ必要などない、ということです。しかし、中国・ロシア・北朝鮮などの核保有国に囲まれている日本が彼らの公正と信義に本当に信頼してよいものなのでしょうか?

日本国憲法は日本が敗戦して主権を失っていた1946年に公布されていたものですから、「国民主権」といいながらも今の憲法は日本人の総意というより、実質的には当時の日本を支配していたアメリカが作ったものだと言って差し支えないのですが、アメリカも当然こうした日本の安全保障の問題に気が付いていました。では、どうやって日本の安全を守ろうとしたのかといえば、それは「国連軍」が守るというのが当初のGHQの構想でした。しかし、朝鮮戦争が始まって、国連そのものが米ソ冷戦構造の中で分裂してしまいました。そこで、国連軍に代わってアメリカ軍が日本を守るということになり、また戦力を持てないはずの日本もアメリカの指令で「自衛隊」を作り、自衛隊が米軍を援助することになったのです。平和憲法と日米安保はセットだと言われますが、それはこのような歴史的背景があるからです。しかし自衛隊の戦力は今や世界八位であり、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という日本国憲法の規定とは完全に矛盾しているのですが、そのようなおかしな状態のまま存続しているのが日本という国です。そして今や在日米軍と自衛隊はますます一体化し、アメリカが東アジアで戦争を始めれば日本もほぼまちがいなく巻き込まれるような状態になっています。そうした状態に、憲法は無力です。なぜなら、今の日本では憲法よりもアメリカの意向の方が優先されてしまうからです。アメリカは日本が平和な状態であることを何よりも優先するわけではなく、むしろアメリカの国益を最優先にして、日本がアメリカの国益に沿った行動をするように望んでいます。日本が戦うことがアメリカの国益に合致するなら、アメリカは日本を戦わせようとするでしょう。日本国憲法が現実と遊離した理想論だと申し上げたのは、そういうわけです。

しかし、八福の教えはそんな実現不可能な理想を謳い上げるものではありません。手の届かない理想を語っているのではなく、むしろ今まさに始まろうとしている現実を語っているものなのです。というのは、この八福の教えは厳密に言えば「教え」ではないからです。イエスは、「心の貧しい人になりなさい、そうすれば幸せになれるよ」という人生訓・教えを語っているのではく、むしろ神が心の貧しい人たちに恵みを施すだろうという、神の行動について語っているのです。私たちがどんなに一生懸命平和を作り出そうとしても、うまくいかないかもしれません。現実は必ずしも私たちの願い通りにはならないものです。しかし、そのように行動する人たちを神は喜んでくださり、神の子にしてくださるのです。この神の約束は間違いありません。このように、八福の教えとは神がイエスの宣教を通じて何をなさろうとしているのか、神について、神の行動についての教え、宣言なのです。神にはできないことはありませんから、これは単なる理想論ではありません。神は現実社会を変える力を持っておられるからです。では、この八福の教えを詳しく見て参りましょう。

2.本論

八福の教えはあまりにも有名な、「心の貧しい者は幸いです」という言葉から始まります。「心の貧しい者」は直訳すれば「霊において貧しい者」となります。聖書において「心」と

「霊」とは似て非なるものなので、本当は「霊において貧しい者」という訳の方がよいと思うのですが、「心の貧しい者」というのがあまりにも定番の訳として定着しているので、今更変更できないのだろうと思います。では、「霊において貧しい」とはどういうことなのでしょうか?これは経済的な貧しさを指しているというわけではないと私は考えています。もっとも、ルカ福音書の並行箇所においては、「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。しかし、あなたがた富む者は哀れです。慰めをすでに受けているから」となっていて、ここでは明らかに経済的に富んだ者、貧しい者について語っています。この違いをどう考えるべきかといえば、おそらくイエスはマタイとルカの二つの記事において、別々の内容について語られているのだと思います。ルカの場合は、非常に現実的な問題、つまり経済的な貧富の問題を語っているのに対し、マタイにおいては霊的な状態のことを語っているということです。神が恵みを賜る幸いな人はどんな人か?それは霊において貧しい人たちだ、というのがマタイ福音書におけるイエスのメッセージなのです。それはイエスのメッセージであると同時に、旧約聖書のメッセージに根差したものでもあります。そういう箇所をいくつか読んでみましょう。まず詩篇69編32節と33節です。

心の貧しい人たちは、見て、喜べ。神を尋ね求める者たちよ。あなたがたの心を生かせ。主は、貧しい者に耳を傾け、その捕らわれ人をさげすみなさらないのだから。

ここで「心の貧しい人」と訳されている言葉は、ヘブライ語では「謙虚な者」、「柔和な者」という意味ですから意訳と言えば意訳なのですが、しかしこのように訳すのは間違いではないと思います。心の貧しい者とは心のへりくだった者、神の前に謙虚な者、という意味だからです。神はそのような人に恵みを施すだろうということを預言者イザヤも言っています。イザヤ書66章2節にはこうあります。「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者。」このように、「霊において貧しい者」がなぜ幸いなのかといえば、そのような人に主は目を注がれるからです。そしてまさに今、神は主イエスを通じてへりくだった人に恵みを施されるのです。

では、二つ目の教えですが、ここで注意したいのは、イエスは悲しんでいる人が幸いだといっているわけではないということです。つまり、悲しんでいるという状態そのものがよいのではなく、むしろそのような人には神の慰めが与えられるから幸いだ、と言っているのです。神が嘆き悲しむ者の味方であるということは、旧約聖書全体を通じて語られる真理です。神はイエスを通じて、悲しんでいる人々を慰めようとしている、だからそのような慰めを受ける人たちは幸いだ、というのがここでのメッセージなのです。

次の「柔和な者は地を受け継ぐ」というのも旧約聖書に根差した教えです。それが詩篇37篇の8節から11節です。

怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。悪を行う者は絶ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。ただしばらくの間だけで、悪者はいなくなる。あなたが彼の居所を調べても、彼はそこにはいないだろう。しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。

ここで言われている柔和な人とは、人の悪事にいつもイライラして怒りをため込むような人ではなく、むしろ神を完全に信頼して主の時を待ち望む人、どっしりと構えることが出来る人です。そのようは人は、時が来れば神から相応しい報いを与えられます。今は貧しくとも、神は必ず豊かな繁栄をそのような人に与えてくださるでしょう。

次の「義に飢え渇く者は、満ち足りるだろう」という教えも、旧約の預言者の言葉に根差したものです。イザヤ書の51章の5節と6節をお読みします。

わたしの義は近い。わたしの救いはすでに出ている。わたしの腕は国々の民をさばく。島々はわたしを待ち望み、わたしの腕に拠り頼む。目を天に上げよ。また下の地を見よ。天は煙のように散りうせ、地も衣のように古びて、その上に住む者は、ぶよのように死ぬ。しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけないからだ。

ここでは「神の義」と「神の救い」が同じ意味で使われています。そのような観点から考えるならば、「義に飢え渇く者」とは「神の救いに飢え渇く者」とも言えるわけです。イエスはまさに、イザヤが預言した神の救いをもたらそうとしているのですから、それを待ち望む人は満ち足りるようになるでしょう。

そして次の「憐み深い人は幸いだ」という教えですが、「憐み」というのはマタイ福音書全体を通じて非常に強調されている点です。「憐れむ」というと何か上から目線のように思われるかもしれませんが、イエスが語る「憐み」とは「共感」と言い換えてもよいでしょう。苦しんでいる人、悲しんでいる人を見て、「この人は自分には関係ないや」ではなく、まさに自分ごととして考える、感じるということです。当時のユダヤ社会は、貧しい人、困っている人があまりにも多くて、それらの人々にいちいち同情していられない、それよりも自分が転落してしまわないように必死に頑張る、そのような社会になっていました。イエスはそうした愛の醒めた社会に再び助け合いの心を取り戻そうとしたのです。ですから、この教えについては憐み深い人を神が憐れんでくださるというのと同時に、人々が互いに憐みの心を取り戻して欲しいという、イエスの願いも含まれていたように思います。

さて、次いで「心のきよい人たちは神を見るだろう」という教えがありますが、これも旧約聖書に深く根差した教えです。詩篇24編3節から5節をお読みします。

だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった者。その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。

こころの清い人とは、単に内面の問題ではなくその行動において神に従っている人だということがこの詩篇からも明らかだと言えるでしょう。

次の教えは、まさにイエスの教え全体を特徴づけるものです。それは平和、「シャローム」の教えです。イエスの福音とは「平和の福音」です。しかもそれは与えられるものではなく、作り出す平和です。トマス・ホッブスはこの世の有様について「万人の万人に対する闘争だ」と喝破しましたが、残念ながら、それがすべてではないにせよ、これも確かにこの世の現実です。しかしイエスのもたらす神の国は、そうした現実を乗り越えようというものです。では、どうすれば平和がもたらされるのか、というのがこの山上の垂訓の一つの重要なテーマなのですが、それはこれからじっくり学んでいきたいと思います。

最後の「義のために迫害されている者は幸いです」というのは、まさに今私たちが読んでいる第一ペテロの重要なテーマです。普通に考えれば、正しいことをする、良いことをしたからといって、褒められこそすれ迫害されることなどあり得ないではないか、と思うでしょう。しかし、そのようなことが起ってしまうのがこの世の現実です。この世がどこかおかしくなっていることの証拠が、こうした現実です。しかし、いかにこの世がおかしくとも、神がおられます。神はそのような理不尽な目に遭っている人に目を留め、彼らにこそ神の国を受け継がせます。神がおられるからこそ、この理不尽な世で、空気を読まずに正しいこと、真実なことを行うことができるのです。

3.結論

まとめになります。今日はイエスが山上の垂訓の始めに語った「八福の教え」について読んで参りました。冒頭に申しましたように、これらの教えは逆説でも理想論でもありません。また、「こうすればあなたは幸せになれる」という啓発セミナーのような内容でもありません。むしろ、イエスがもたらそうとしている天の御国、神の国が地上に実現するときに人々に何が起きるのか、神が何をなさろうとしているのか、それを教えるというのがその内実でした。そして、この八福の教えはイエスのオリジナルな教えというよりも、旧約聖書の教えや預言を要約したものだ、ということを見てきました。イエスの教えはとても印象的で覚えやすく、また人々を驚かせるような内容のものでしたが、実はそれらは旧約聖書の教えに深く根差したものなのです。イエスのメッセージは、こうした旧約聖書の預言や約束が今まさに彼自身の宣教を通じて実現しようとしている、ということでした。

同時に、イエスの教えは単に旧約聖書の要約であるということでもありません。そこには新しい要素、人々を驚かせたり、チャレンジを与える内容も含まれています。特に「平和」の教えがそれにあたります。そうした内容については今後じっくり考えて参ります。

このイエスの八福の教えは当時のユダヤ人たちを驚かせましたが、21世紀に生きる私たちをも驚かせるものでもあります。多くの人たちは現実に失望したり、慣れてしまったりして、神がこの世界を大きく変えてくださるというメッセージにリアリティーを持てなくなっています。本当に神は悲しんでいる人や貧しい人を慰めてくださるのだろうか、という希望が持てなくなっています。あるいは、そういう人々を慰めるのは政治家の仕事だ、と考えるかもしれません。しかし、神は生きておられ、神を求める人を探し求めておられます。私たちが本当に望めば、与えられるでしょう。もしその望みが自分勝手な快楽を求めるようなものなら神は聞いてくださいませんが、しかし本当に人間の幸せのため、社会の幸福のためのものならば、神は必ず聞いてくださいます。ですから私たちは現実を諦めずに、祈り続けて参りましょう。お祈りします。

八福の教えを通じて神の国のすがたを現された父なる神様、そのお名前を賛美します。あなたのこれらの教えは今日でも真実であることを信じ、期待します。どうか悲しんでいる人々に慰めをお与え下さい。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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万物の終わり第一ペテロ4章7~11節 https://domei-nakahara.com/2025/08/31/%e4%b8%87%e7%89%a9%e3%81%ae%e7%b5%82%e3%82%8f%e3%82%8a%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%83%9a%e3%83%86%e3%83%ad4%e7%ab%a07%ef%bd%9e11%e7%af%80/ Sat, 30 Aug 2025 23:53:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6759 "万物の終わり
第一ペテロ4章7~11節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。さて、突然ですがみなさんはこれまで、「世界の終わりが近い」というような話を聞いたことがあるでしょうか?私が初めてこの手の話を聞いたのは小学校の頃で、ノストラダムスの大預言という話を聞きました。五島勉という人の書いた本がベストセラーになり、テレビでも何度も特別番組がありましたので、かなりの人々がその影響を受けていました。それによると1999年に99%の確率で世界が終わるとのことでした。私が小学生だったのは1970年代の後半だったので、あと20年すると世界が終わるのかと考えると怖かったのと同時に、本当にそんなことがあるんだろうか?とも思いました。

しかし、この1999年という数字は結構多くの若者の中に潜在的な恐怖感を植え付けたように思います。というのも、日本中を震撼させたオウム真理教の地下鉄サリン事件、これは1995年に起きましたが、その教団には多くの高学歴の若者が加入していたことが世間を一層驚かせました。しかも、彼らはノストラダムスの大預言に影響されていて、世界がもうすぐ終わると信じ込み、終末を自らの手でもたらそうとしたのだという説すらあります。海外でも似たような事件があり、ブランチ・ダビディアン事件というのですが、1993年にヨハネ黙示録に記されている終末が近いと信じ込んだ人々がテキサスの教団本部に立てこもり、アメリカ政府と50日にもわたる戦争を繰り広げたという事件がありました。ちなみにオウム真理教にもヨハネ黙示録の影響は大きく、ハルマゲドンをもじったハルマゲどんぶり(!)なるメニューが教団内にあったとか...

しかし、その1999年も何事もなく過ぎ去りました。ただ、その数年後の2001年のアメリカ同時多発テロにより、世界は再び恐怖のどん底に叩き込まれます。あの事件は今でも鮮明に覚えていますが、とても現実とは思えずに映画か何かを見ているのかと思いました。その後に始まったテロとの戦争は延々と続きますが、アメリカのイラク攻撃の理由となった大量破壊兵器の存在というのが実は嘘だということが分かり、アメリカに対する信頼が大きく揺らぎました。アメリカはその後も泥沼の戦争を続けますが、バイデン政権下のアフガン撤退でようやくそれも終わったかと思ったらウクライナ戦争が始まり、ガザの虐殺がそれに続き、相変わらず地上に平和は訪れません。したがって、世の終わりが近いという終末思想は現代人の潜在意識の中に残り続けているように思えます。

けれども、こうした終末の予感、あるいは期待の中に生きていたのは現代人だけではありません。これは私たちにとってはなんとも信じがたいことではあるのですが、新約聖書を記した使徒たちは、紀元一世紀に世界が終わると信じていた、あるいは期待していたのです。私はこの8月にパウロについての論文を書いていましたが、そこで改めて思わされていたことは、パウロが彼の生きていた時から十数年以内にキリストの再臨が起り、世界が終わるのだと本気で信じていたということです。これはかなりショッキングなことです。言うまでもないことですが、パウロが生きていた紀元一世紀にはキリストの再臨はなかったわけで、それどころかパウロの時代から二千年経っても再臨は起きていません。つまりパウロが期待したようには歴史は進まなかったわけです。パウロだけではありません。今日の手紙の著者であるペテロもまったく同じように考えていたのが今日の箇所からも分かります。キリスト教の第一世代の使徒たちはすべからく、彼らが生きているうちに世界の終わりが来ると信じていたようなのです。これは現代に生きる私たちを困惑させる事実であり、「再臨の遅延」問題と呼ばれていますが、今日の聖書箇所を読むうえで無視できない問題でもあります。そのことを考えながら、今日のテクストを見て参りましょう。

2.本論

7節は、「万物の終わりが近づきました」という言葉から始まります。「近づいた」という言葉は「エンギケン」というギリシア語を訳したもので、この言葉はイエスが語った「神の国が近づいた」という言葉とまったく同じものです。この動詞は完了形なので、単に近づいたというだけではなく、「もう来たのだ」、という意味合いもあります。イエスが神の国が近づいたと語った時、単にもうすぐだと言ったのではなく、もう来ているという意味でもありました。同じように、ペテロも万物の終わり、すべての終わりがもうすぐに来ているだけでなく、もうそのような終わりがすでに到来したと言っているのです。というのも、終わりは一瞬にして到来するものではなくある程度の期間を有するプロセスであり、そのプロセスはキリストの来臨で終わるだろうということなのです。しかも、そのプロセスというのは二千年とか三千年というような途方もない長さではなく、ペテロが生きている間、長くても二十年から三十年ぐらいの長さでイメージされていたということです。このような、今の時代は世界の終わりのまさに真っ只中なのだという感覚はペテロだけではなく使徒パウロも持っていました。第一コリントの10章11節には、「それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためなのです」というパウロの言葉がありますが、これは直訳すると、「これらが書かれたのは私たちへの警告としてであり、その私たちに代々の終わりが到来しています」となります。この「到来している」も完了形ですので、世の終わりは未来に来るのではなくもう来ていて、コリントの信徒たちはまさに世界の終わりのただ中を生きているのだ、ということをパウロは述べているのです。先ほども申しましたが、このことは私たちには信じがたいと言うか、受け入れがたいことです。なぜならペテロやパウロが生きていた時代が世界の終わりのただ中なのであれば、世界はとっくに終わっているはずだからです。しかし、実際はそうではなかったのです。この点についてどう考えるべきでしょうか?その答えはたった一つで、世界の終わりを知っている人は誰もいないということです。主イエスさえも、自分はその時を知らないと言っていました。イエスが知らないことを、ペテロやパウロが知っているはずがないのです。しかし主イエスは同時に、その時は突然、思いがけないときにやって来るので、いつでもそれに備えておきなさいとも言われました。ですからペテロやパウロがそれに備えていたこともまったく正しいことなのです。私たちも、その日その時がいつ来てもよいように備えておく必要がありますが、同時にその日その時を知っているという人がいるとするならば、その人の言っていることは間違いなく嘘です。ペテロやパウロすら知らないことを、一体だれが知っているというのでしょうか?

ともかくも、ペテロは主の再臨はもうすぐだという期待と緊張感の中を生きていました。そして学ぶべきことは、その準備の仕方です。ペテロはオウム真理教やブランチ・ダビディアンのように、世界最終戦争に備えて武器や弾薬、非常食を蓄えなさいとは命じませんでした。戦いに備えなさいとは一言も言わずに、ただ「愛しなさい」と命じたのです。これこそが一番大切なことです。世界にこれからどんな天変地異が起ろうとも、どんな恐ろしい戦争が起きようとも、すべきことはただ一つ、それは「互いに愛し合いなさい」ということでした。これはすごいことだと思いますが、これこそがキリスト教の本質なのです。世界がもうすぐ終わるのだから、自分だけは生き残ろう、自分だけは何が起こっても助かるように準備しよう、ではなく、互いに愛し合う、互いに仕え合う、それこそが終末の準備だということです。このことは私たちにも大変大きな教訓を与えます。たしかにペテロやパウロが期待したようには、紀元一世紀に世界の終わりは来ませんでした。それどころか、あれから二千年経っても、そのようなことは起こりませんでした。ですから、これからの二千年の間にもそのようなことは起こらないかもしれません。しかし、もしかすると私たちが生きている時代にそれが起きるかもしれません。こればかりは誰にも分かりませんが、私たちもペテロと同じように、そのような期待と緊張感の中を歩むべきです。でも、だからといって特別なことをする必要はないのです。ただ、祈りの中で日々の生活を過ごし、互いに愛し合い、自らに与えられた賜物を生かして仕え合う、奉仕しあう、これがペテロの命じる終末の準備なのです。

そしてそのような生き方こそ、私たちが本当に恐れるべきものの準備となります。私たちが本当に恐れなければならないのは、ハルマゲドンの戦いや世界最終核戦争ではありません。それらのことは確かに想像するだけでも恐ろしいことですが、もしそんな事態になってしまったら私たちにできることはそんなに多くはないでしょう。もちろん、そのようなことが起きないように、私たちは今世界平和のために全力を尽くすべきですが、しかし世界には私たちの小さな力では抗えないような厳しい現実というものがあります。それでも、そういう起きるかどうかもわからないもの、起きてしまったらどうしようもないことを恐れるのではなく、私たちが本当に恐れるべきなのはすべての人に臨む「最後の審判」です。核戦争を逃れることができたとしても、これだけはすべての人が逃れることができません。へブル人の手紙の著者は「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(9:27)と記していますが、それは真実です。私たちが真に恐れるべきは、主イエス・キリストによる厳粛な死後の裁きです。それは公平・公正に、私たちそれぞれの「行い」に応じて裁かれるというとが聖書に何度も記されています。この裁きに備えることの方が、核戦争に備えるよりもはるかに、はるかに重要なのです。しかし、そのためにすべきことも何も特別なことではありません。むしろ、非常に単純なことです。これも、「愛し合うこと」、「互いに仕え合うこと」です。愛は、多くの罪をおおうからです。私たちは主イエスを信じて正しく生きようとしても、それでも人生において多くの過ちを犯してしまうものです。悪気はなくても、弱さや愚かさによって罪を犯してしまう哀れな存在でもあります。そんな私たちのために主イエスは今でも天で祈っておられますが、私たちにもできることがあります。それが互いに愛し合うこと、仕え合うことです。それが私たちの地上の生涯において神に栄光を帰することであり、また神が喜んでくださることなのです。

3.結論

まとめになります。今日は万物の終わり、世の終わりという重大なテーマについてお話しさせていただきました。初代のキリスト教徒たち、ペテロやパウロは世の終わりが近いという確信の中に生きていて、それどころか彼らはもう世の終わりの時代のただ中に生きているのだと信じていました。実際には世の終わりは来なかったのですが、そのこと自体は重要なことではありません。なぜなら世の終わりがいつなのかは誰にも分からないし、にもかかわらず私たちは常にそれが起きるということの期待や予感の中を歩むべきだからです。重要なことは、世の終わりが近いという強い確信にもかかわらず、ペテロもパウロもパニックにならず、また世の終わりに備えて何か特別な準備をしたわけでもなかったことです。それどころか、彼らはいたって落ち着いた生活を送っていました。世の終わりが明日来るとしても、彼らはいつも通りの生活をしていたのです。彼らが心がけたのはただ一つ、互いに愛し合うこと、互いに仕え合うことでした。そして信徒たちにもそのように命じました。

私たちの時代も戦争だけでなく、地震などの自然災害、あるいは感染症の蔓延や気候変動による食糧危機など、考え始めたらきりがないほどの将来の不安があります。世界が終わるほどの究極の出来事ではなくても、世界の多くの人が苦しむような事象が起る可能性は普通にあります。私たちはもちろん地震対策とか、やれることはやるべきです。準備しているかしていないかで、いざ何かが起った時の結果は変わるでしょう。しかし「天災は忘れたころにやって来る」ということわざ通り、どうも私たちが予想するようには災害は起こらずに、思わぬ形でやってくる可能性の方が高いのです。ではどうすればよいのか?それは神を信頼することです。パウロはこう書いています。

あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

私たちの未来のことは私たちが心配する以上に神様が心配してくださっています。主イエスも思い煩うな、「あなたがたの髪の毛さえも、みな数えられています」とおっしゃいました。ですから私たちはペテロが教えるように、日々を平静な心で過ごし、愛し合い、仕え合うべきなのです。そのような思いで今週も歩んで参りましょう。お祈りします。

歴史を導き、司っておられる父なる神様、その名前を賛美します。歴史には始まりがあるように終わりがあります。しかし、それがいつなのかは誰にも分かりません。私たちも、それに備えて歩むべきでありますが、その備えとは愛し合う、仕え合うことです。そのように生きる力をお与えください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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ガリラヤにてマタイ福音書4章18~25節 https://domei-nakahara.com/2025/08/24/%e3%82%ac%e3%83%aa%e3%83%a9%e3%83%a4%e3%81%ab%e3%81%a6%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b84%e7%ab%a018%ef%bd%9e25%e7%af%80/ Sun, 24 Aug 2025 00:09:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6729 "ガリラヤにて
マタイ福音書4章18~25節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。相変わらず猛暑が続きますが、本日もマタイ福音書を読み進めて参りましょう。前回はイエスが天の御国、神の国が近いというメッセージを宣べ伝え始めた、というところを読みました。イエスのこのメッセージを聞いた一般のユダヤ人たちが考えたことは、神の支配が近いということはローマの支配の終わりが近い、ということでした。神は、ユダヤの地を不当に支配するローマの人々を追い払ってくださる、そうしてユダヤの地に神の支配が実現するだろう、というのが多くのユダヤ人が抱いていた希望でした。バプテスマのヨハネもそのような未来展望を持っていたものと思われます。

しかし、イエスはそれとは違う神の国のヴィジョンを持っていました。ローマという外敵を打ち払う、いわば攘夷思想ではなく、むしろイスラエル民族の内部覚醒を促そうというのがイエスの目標でした。当時のユダヤ社会は超格差社会、少数の富んだエリートと大多数の貧しい人々という歪んだ構造になっており、ユダヤ社会は内部で団結できずにバラバラになっていました。ユダヤ人は「罪人」という名のアウトカーストを作り出し、彼らを差別することで人々の鬱積した政治的不満を逸らそうとしていたのです。「罪人」と呼ばれた人々の典型は取税人や遊女たちでしたが、彼らは自らの意志で罪を犯した人々というよりも、貧しさのゆえに「罪人」とされる生き方を選ばざるを得ないような人たちでした。イエスはこうした人々を助け出してユダヤ人の共同体に連れ戻すことを通じて、バラバラになっていたユダヤ人の心を一つにして、神が本来意図していた助け合いの精神、社会的弱者に手を差し伸べるという聖書的な精神をユダヤ人の間に取り戻そうとしたのです。こうしてユダヤ人の本来の役割、すなわち世の光として、弱肉強食の原理に生きていた外国人たちにとっての模範となるという役割を取り戻させようとしたのです。そしてイエスが活躍の場として選んだのは聖都エルサレムではなく、むしろ田舎町、辺境の地であるガリラヤでした。改革は地方から、というのがイエスのやり方でした。では、さっそく今日のテクストを読んで参りましょう。

2.本論

イエスが活躍の場として選んだのは、ガリラヤの自らの出身地であるナザレではなく、カペナウムというガリラヤ湖畔の町でした。カペナウムはシモン・ペトロや彼の兄弟であるアンデレの町でした。つまりイエスは、ペテロの本拠地を彼の活動の拠点にしたのです。イエスが活動の始めにしたのは二つのことでした。一つは仲間集め、同志を集めることで、もう一つは病の人々を癒すことでした。

ここで注目したいのは、ペテロやアンデレ、そしてゼベダイの子であるヤコブとヨハネが、イエスに誘われてすぐに仕事を捨てて彼に従っていることです。これは、普通に考えればあり得ないことではないでしょうか。皆さんも自分事として考えていただきたいのですが、安定した仕事を捨てるというのは大変難しいことです。私事で恐縮ですが、私もキリスト教の道に入る前は15年間サラリーマンをしていました。自分で言うのもなんですが、勤めていた複数の会社は泣く子も黙るような大企業でした。そのような企業勤めを辞めて、キリスト教を真剣に勉強しようと思い立ってから実際に辞めるまでには五年間もかかりました。それは、仕事を辞めるという決断そのものが難しかったためでもありますが、同時にその五年間は仕事を辞めてからの生活費や学費を稼ぐための時間でもありました。これまでずっと頑張って来た仕事を辞めてまで勉強をするのだから、それなりに時間をかけて本場で腰を据えて勉強をしたいし、そのためにはそれなりの蓄えがなくてはならないだろうと、それまでのライフスタイルを見直してじっくりと貯蓄や投資に励んだ五年間でした。そして、そのめどがついたときに仕事を辞めてイギリスに留学しました。何がいいたいかといえば、人生の大きな方向転換をするためにはどんな人でもそれなりの準備をするだろうということです。

しかし、ペテロやアンデレは、それこそ一瞬で仕事を辞める決意をしたように見えます。では、彼らが本当にイエスにやりたいことやヴィジョンを理解していたかといえば、実は全く理解していなかったことが後で明らかになります。彼らはイエスのことを良く分かっていないのに、何もかも捨てて彼について行く決断をしたということです。しかも、ペテロにはすでに奥さんがいたのです。マルコ福音書には、イエスがペテロのしゅうとめの病を癒したという記述がありますが、しゅうとめがいるということはペテロにはすでに奥さんがいたのです。家族を養う責任がある人間が、それを捨てていきなり無名の青年についていくなどということができるでしょうか。私自身については、仕事を辞めて留学をするという大胆のことができたのもそれは私が独身だったからで、自分の性格を考えればもし妻子がいれば仕事を辞めるという決断はあり得なかったと思います。ペテロがイエスの弟子になることで、イエスの秘書として給料がもらえるとか、何らかの安定した収入の道があるということなら話は別ですが、イエスは報酬を受け取らずに癒しを受け取っていたので基本的に無一文の放浪者です。そんな人の弟子になって、いったいどうするつもりか、家族への責任はどうするつもりなのか、というのが普通の感覚ではないでしょうか。

しかし、ここで注意すべきことはイエスはペテロを弟子とした後にどこか他の町にいってしまったのではなく、ペテロの町であるカペナウムに留まったのです。ペテロがカペナウムに留まった以上、ペテロとその家族との関係が切れることはありませんでした。それどころか、イエスが拠点にしたのはなんとペテロの実家であったように思われます。つまりどういうことかと言えば、ペテロがイエスの弟子となる決意をしたときに、確かに彼は漁師という仕事を捨てたのですが、彼の家族そのものを捨てたわけではないということです。反対に、ペテロの実家の人々は、それこそ家族ぐるみでイエスを支援、サポートし、家族を代表してペテロとアンデレをイエスの元に遣わしたとさえいえるということです。ペテロの実家は、人を雇えるぐらいの割と豊かな漁師を生業とする家だったと思われます。ですからペテロがいなくなっても、なんとか漁師の家業を続けられるぐらいの余裕というか、力があったのでしょう。それにしてもペテロは一家の大黒柱です。そんな人物をイエスの弟子とすることに同意して送り出したというのは、ペテロの家の人たちがイエスの非凡な力を認めて、彼について行けばペテロも大出世できるかもしれない、ペテロが出世すればペテロの実家も大きな恩恵に与れるだろうという打算というか、野心があったとさえいえるということです。実際にイエスはペテロのしゅうとめの病をいやすという奇跡を行っています。それを目撃した人たちの驚愕は想像を超えるものがあります。皆さんも、家族の中に医者もお手上げの難病を患った人がいて、その家族の病を奇跡的に治した人がいたら、それこそ尊敬を通り越して崇敬の念すら覚えるのではないでしょうか。ペテロの家族の人たちは、イエスが本物の神の人だと認め、彼を何としてもサポートしようという気持ちになったのでしょう。

このように、ペテロやアンデレ、また彼らとは漁師仲間で商売上のつながりがあったであろうヤコブやヨハネは、このイエスがイスラエルを変える、イスラエルの大群衆を率いて世界を変える可能性のある人物だと見込んだのでしょう。それが彼らの動機でした。現代的に言えば、いわゆる宗教の立派な先生に弟子入りするというようなことではなく、新進気鋭の政治家を熱心にサポートする無給秘書になったという感じでしょう。

そのイエスは実際目覚ましい活躍を続けていきます。彼がまず初めに行ったのは病の癒しでした。イエスはあらゆる病を癒された、となっていますが、主としてイエスが癒したのは今日でいうところの重度の精神疾患、心の病であったと思われます。その典型は、いわゆる悪霊憑きとよばれる現象で、悪い霊に取りつかれたのだと人々が考えるような病でした。自分で自分を痛めつける、いわゆる自傷行為を行うような人たちです。自傷行為については今日医学的な知見が積み上げられていますが、これは個人の問題というより社会病理であるということが言われています。今日の若者の10人に1人が精神的な病の診断を受けているといわれ、そうした若者の中にも自傷行為を繰り返す人が少なくないということです。しかし、なぜ自分で自分を傷つけるようなことをするのでしょうか?その原因の一つは、逆説的に聞こえるかもしれませんが痛みを和らげるためなのです。痛みを和らげるために自分を傷つけるなんてことがあるのか?と思うかもしれませんが、あるのです。というのは心に耐えられない痛みを抱えている人がいます。その人が自分の体に傷をつけると、脳の中で痛みを和らげるような成分、一種の麻酔や麻薬のような成分が分泌されるのです。そのおかげで、もともと自分の心に抱えていた痛みが軽減されるのです。イエスが癒した人々の多くがそのような人たちだったと思われます。では、イエスはどうやってそうした人たちを癒したのでしょうか。それは、イエスが超自然的な力で彼らを癒したということもあったかもしれませんが、それ以上に彼らの中に備わっている病をいやす力、いわゆる自然治癒力を高めたということがあったように思います。自然治癒力が発揮される条件の一つは、心の在り方です。前向きな心や強い信頼感は自然治癒力を高めます。イエスは癒しをする際に信仰を求めましたが、それは神への強い信仰、揺るぎない信頼こそが彼らの心を癒す力を引き出すことが分かっておられたのです。心の病に苦しんでいた人たちは、「私は神に見捨てられた」という気持ちに囚われていました。その原因は、社会から見捨てられたような立場にいたからでしょう。当時の人々は重税に苦しめられ、社会的に弱い立場に置かれた人たちを顧みる余裕を失っていました。こうして「自分は社会にとって何の役にも立たない、神様にさえ見捨てられた者なのだ」という絶望感にさいなまれた人たちは心の病を負い、それが体にも影響して様々な病を発症しました。イエスはこうした病の根本原因、つまり彼らの心の疎外感を癒し、彼らが再び神と人とに向き直ることができるようにしました。イエスのもっともすぐれた力とは、心を閉ざした人々に近ずく力、今風に言えば共感力というのでしょうか、彼らの心に再び希望の燈を灯す力にあったように思います。

イエスの働きはこのような癒しの業だけではありませんでした。さらに人々を驚かせたのはイエスの教師としての際立った能力です。専門の教育機関で訓練を受けたことがない、今でいえば学歴のないイエスが、聖書の教えを実に新鮮に、聞いたこともない言葉で解き明かすのです。これについては次回以降のテーマになりますが、こうした優れた教師としてのイエスが、癒し人としてのイエスと共に彼の名声を高め、噂は人伝えに村々に町々に伝わり、今や多くの人がイエスに会うために押し掛けるようになりました。このイエスこそイスラエルを贖うために神が遣わした人なのではないか、という期待が高まったのです。ですので、ペテロの家のように一族を挙げてイエスを応援しようという人たちも現れたのです。しかし、残念ながら彼らはイエスの意図がまだ全然わかっていませんでした。イエスの教えはあまりにも新しすぎて、彼らの理解を超えていたからです。それでも、イエスは一生懸命彼らに教え続けます。その詳しい内容については次回以降に見ていくことにします。

3.結論

まとめになります。今日はガリラヤで活動を始めたイエスの行動を見て参りました。イエスが最初になさったことは、弟子、あるいは同志を集めることでした。イエスはイスラエル社会を根本的に変えようとしていました。そのためには自分一人でできることには限界があります。ですから仲間を求めたのです。では、イエスはどういう基準で仲間を集めたのでしょうか?いわゆるできる人、有能な人たちを集めようとしたわけではないようです。むしろイエスが求めたのは普通の人たちでした。それはなぜか?普通の人たちには普通の人たちの気持ちが理解できるからです。イエスは人々を支配、管理するための能力の高い人たちを求めたのではなく、人々の気持ちが分かる人たちを自分のチームに加えたのです。なぜならイエスが思い描いた神の国は、一部のごく少数のエリートが大衆を支配するというような共産主義やグローバル資本主義のような社会を目指したのではなく、偉い人ほど率先して人々のために働く、そのような王国だからです。イエス自身が率先して自らの行動によって神の国の姿を人々に示しました。イエスは人々の病をいやしましたが、そのために報酬を取ることはしませんでした。では生活ができないではないか、と思うかもしれませんが、生活についてはイエスは人々の善意に頼ることを良しとしたのです。つまり、無償で人々のために働きながらも、自らの生活は人々の善意に頼るということをしたのです。このような助け合い、相互扶助こそイエスの目指す神の国の姿だからです。しかし、イエスの神の国の驚くべき性格、革命的と言ってもよい新しさは彼の教えの中にこそ見いだされます。それを次回以降に学んで参りましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今日からいよいよ神の国のための活動を始めたイエスの働きを見て参りました。イエスの行動から、私たちもどのように御国のために働くべきかを学ぶことができますように。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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神の国が近づいたマタイ福音書4章12~17節 https://domei-nakahara.com/2025/08/17/%e7%a5%9e%e3%81%ae%e5%9b%bd%e3%81%8c%e8%bf%91%e3%81%a5%e3%81%84%e3%81%9f%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b84%e7%ab%a012%ef%bd%9e17%e7%af%80/ Sun, 17 Aug 2025 00:24:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6712 "神の国が近づいた
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1.序論

みなさま、おはようございます。過ぐる週は終戦記念日でした。戦後80年の記念の年でもあります。私たち日本の国は、この80年間まがりなりにも戦争をせずに歩んでこられました。しかし、1945年より前の80年間は戦争に次ぐ戦争で、日本は何度か勝利を収めましたが最後は壊滅的な敗北で終わりました。これからの次の80年が平和な時代になるか、動乱の時代になるか、正に私たちは岐路に立たされています。

今日は、そのような戦後80年ということを踏まえ、イエスの時代の事を考える前に、少し現代の世界についてお話しします。なるべく分かりやすくお話ししたいと思います。今世界ではいくつもの紛争が続いています。今のところアジアでは大きな紛争はありませんが、しかしアジアには超大国でアメリカの最大のライバルである中国があります。この米中対立の狭間にいる日本は難しい立場に置かれています。今日のアメリカと中国は鏡の裏表のような関係にあります。今、トランプ関税が大きな話題になっていますが、この関税の一番のポイントはいびつな米中関係にあります。昨年のアメリカの貿易赤字はなんと185兆円もあります。日本の一年間の税収の二倍以上という巨額の赤字です。昨年アメリカは、グロスではなくネットで185兆円もの買い物を外国からしたことになりますが、しかもその代金は外国からの借り入れで賄っています。ものすごく単純化すれば、アメリカは毎年外国に185兆円もの借金をしていることになります。ちなみに、一番多くお金を貸しているのが日本です。こうした赤字の結果、アメリカの外国に対する純負債は4000兆円にもなります。日本の国債残高が1000兆円になったと大騒ぎしていますが、日本は家計資産だけで2000兆円もありますので、これくらいは十分吸収できますが、アメリカは国内の人々で貯金が全くないという人が人口の四分の一に達すると言われています。国内の貯蓄が十分ではないので、外国からお金を借りて国を回しているのです。因みにアメリカ政府の負債残高は6000兆円にも達しようとしていると言われています。アメリカは国も家計も借金で生活しているような状態です。

反対に、中国の貿易黒字は155兆円にもなります。つまり中国はこれもグロスではなくネットで155兆円もの商品を海外に売りまくっているのです。アメリカの貿易赤字と中国の貿易黒字がほぼ同じだということが、今の世界の歪みを象徴しています。なぜこんなことになるのかと言えば、中国はモノを作る力はものすごくあるのですが、中国人にはそうしたモノを消費できるだけのお金持ちの消費者が十分にはいないのです。来日中国人の爆買いからも分かるように、確かに一部の中国人はものすごく金持ちですが、大多数の中国人は貧しく、モノを買いまくるだけのお金をもっていません。ですから中国は自国で作った製品が自分の国では売れないので、外国に売りまくるのです。そして、それを一番たくさん買っているのがアメリカ人だということです。しかし、アメリカ人がアメリカで作ったものではなく、中国で作ったモノばかり買うようになると、どうなるでしょうか?アメリカでモノを作らなくなるということは、アメリカで仕事がなくなってしまうということです。モノづくりの仕事がなくなると、もっと賃金の安い、地味な仕事しかなくなります。しかし、そうした仕事は大量の移民が奪っていくという状況になります。こうして追い詰められたアメリカのかつての中産階級の人々の怒りがトランプ政権を生み出したのです。

反対に中国は、輸出を続けるためにはライバルの国々との競争に打ち勝たなくてはなりません。今や中国はインドやベトナムなど、多くの輸出のライバルと戦わなければなりません。彼らに勝つには、賃金を下げて製造コストを下げないといけません。しかし、低賃金に留めておく結果、人民は豊かにならず、中国国内での消費は盛り上がりません。ですので、ますます作ったモノは外国で売るしかないという悪循環に陥ります。

このように米中のもたれあいのような貿易関係は中国人民もアメリカ国民も豊かにせずに、一部のグローバル企業や資本家のお金持ちだけが儲かるという歪んだ構造をますます強化します。没落した中産階級がとんでもない方向に向かう危険性は、かつて第一次大戦で敗れたドイツの中産階級が徹底的に痛めつけられた結果ナチスを生み出してしまったケースからも明らかなのですが、しかし各国の政治の行方を決めるグローバル企業や富裕層はグローバリゼーションという企業に有利な国際商業体制を何としても維持しようとします。中産階級の復活を公約に当選したトランプ政権ですが、果たして今の高圧的な関税政策でそれが実現できるのか、甚だ心配なところです。

恐ろしいのは、外国にモノを売りまくるという国家戦略が出来なくなる中国で人民の貧困問題がますます深まり、それを打開するために外国への拡張政策を取ってしまうということです。これはかつて満州国を作った日本のやり方ですが、それと同じ轍を踏んでしまうかもしれないということです。そうならないためには、中国が人民を豊かにして内需主導の健全な経済成長に移行することなのですが、それが実現できるかどうかが今後の世界の状態を決定するように思われます。中国もアメリカも超格差社会で、アメリカではウォール街のエリートが、中国では共産党幹部ばかりが儲かる仕組みになっていますが、この超格差社会を何とかしない限り、世界は再び大戦争の時代に突入してしまうかもしれません。

さて、なぜ説教の冒頭でこんな国際政治経済の話をしたのかといえば、それはこの話がイエスの神の国の話と大いに関連しているからです。イエスの時代のユダヤの人々も、中産階級の没落という問題に直面していました。当時のユダヤは、ローマ帝国の植民地になり、ローマから搾り取るだけ搾り取られた結果ユダヤの民衆は貧困に苦しみ、生活苦に追い込まれた人々は四つの道を選びました。取税人、売春婦、強盗、そして物乞いです。こうした職業は、中産階級から脱落してしまったユダヤの人々がやむなく選んだ生き方だったのです。取税人はローマのために人々から税を徴収する仕事ですから、人々からはローマの犬として蔑まれます。それでも生きていくためには仕方がないと、そういう道を選ぶ人たちがいました。売春婦、あるいは遊女になるのも貧困の故でした。かつて戦前の日本で農家の娘さんたちが貧しさのゆえに遊郭に売りに出されたように、当時のユダヤの若い女性たちは泣く泣くそのような生き方をすることになりました。しかし、体を売ることすらできない体の不自由な貧しい男性たちは物乞いという道を選びました。選んだというより、それしか生きる道がなかったのです。反対に、暴力を用いてでも社会の理不尽に立ち向かっていく人たちもいました。強盗というと、押し込み強盗のような恐ろしいイメージがありますが、当時の強盗はユダヤの民衆から人気がありました。それは彼らが同胞のユダヤ人ではなく支配者のローマ人や、ローマと協力して懐を肥やしていたユダヤ人を標的にしていたからです。彼らはいわばレジスタンスの闘志でした。

このように、極端な格差社会の中で生きていた人々は様々な方法で生き延びる道を模索していました。そうした中で、最終的にユダヤの人々の心を捉えたのが最後の道、暴力で抗う道でした。しかも、彼らの正典である聖書にはこうした力による抵抗を支持するように思える記述がありました。それが「聖戦」です。聖戦とは、力なきユダヤの民が神の力によって強大な敵を打ち破るという奇跡的な戦いのことです。ユダヤの人々は、今こそこの聖戦を通じてローマの支配を打ち破り、神の支配、神の国を打ち立てようという希望に突き動かされるようになります。しかも、聖書にもそうした未来を指し示す預言があるのです。神の国到来の預言として有名なのがダニエル書の一節です。ダニエル書2章44節をお読みします。

この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。

このダニエルが語った永遠の国こそ、イエスの時代の人々が願った「神の国」、「天の御国」です。イエスはこの神の国をもたらそうとしているのですが、しかしこれは当時のユダヤの人々が考えたように、暴力によってもたらされるようなものではないのです。イエスはこのユダヤ社会の問題、超格差社会の問題への怒りを、外部のローマに向けさせるのではなく、むしろユダヤ社会そのものを変革させようとしました。それは旧約聖書に書かれているヴィジョン、助け合い、相互扶助によって形成される社会です。イエスはこのような、人々が愛し合い、助け合う社会を再び作り上げようとします。そのために、この社会からはじき出されてしまった人々、取税人や売春婦、物乞いや強盗たちに語りかけ、彼らをイスラエル共同体の中に連れ戻そうとします。もちろん、ローマによる力の支配を容認したわけではありません。しかし、力には力で対抗するというのはイエスのやり方ではありませんでした。むしろ、イスラエル社会を世の光として輝かせ、その光によってローマを変えていこうとしたのです。このようなヴィジョンをイエスは人々に理解させなければなりませんでした。

2.本論

さて、前回はイエスが荒野でサタンの試みを受けたところを見て参りました。イエスのバプテスマのヨハネによる洗礼、荒野での四十日間の断食、そして今度はバプテスマのヨハネの逮捕です。かなり目まぐるしい展開ですが、このヨハネの逮捕はイエスにとって非常に大きな意味がありました。なぜなら、この時からイエスの公生涯が始まったからです。イエスは、ある意味でヨハネの働きを承継しつつ、同時にヨハネと袂を分かったと言えます。ヨハネの志を受け継ぎつつ、彼から離れたということです。この二つは矛盾しているように思われるかもしれません。しかし、ヨルダン川のあるユダヤの地を離れてガリラヤに北上したことは、ヨハネの教団の本拠地を離れたということです。ヨハネが捕まった後も、彼の弟子たちはヨルダン川にいたのですから、イエスは彼らから離れたということです。イエスがヨハネ教団のガリラヤ支部となったわけでもありません。なぜならイエスは今後、ヨハネの弟子たちと連携して宣教活動をしたわけではないからです。このように、イエスは自らの活動について、明らかにヨハネのそれとは一線を引いています。同時に、ヨハネが捕まった後に宣教活動を開始したというタイミングも重要です。このタイミングは、イエスが自らの活動について、ヨハネを引き継ぐものだと見なしていたことを示唆します。つまりイエスはヨハネの活動をそのままそっくり受け継いだというよりも、批判的に継承したということです。神の支配が近いというヨハネの主張そのものは正しい、けれども、ではどのようにその支配が到来するのかという点については、イエスはヨハネとは異なるヴィジョンを抱いていたのです。

イエスはこう語りました。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」この言葉は、3章2節にあるバプテスマのヨハネの言葉と全く同じですね。天の御国というのは直訳すれば天の王国です。前に、マタイはマルコ福音書を参照し、マルコ福音書を拡大してマタイ福音書を書き上げたという話をしました。マルコ福音書では、イエスは「時は満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」と語っています。マルコでは「神の国」がマタイでは「天の御国」になっています。何が違うのでしょうか?答えはこの二つには全く違いはありません。では、なぜマタイは「神の国」を「天の御国」に変えたのでしょうか。マタイは、福音書の読者にユダヤ人が数多くいることを想定していました。ユダヤ人には十戒があります。そこでは、「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない」と命じられています。ですから「神」という言葉を「天」に置き換えたのです。日本語でも「天に唾する」と「神に唾する」というのは意味は同じですよね。それと同じように、マタイもなるべく「神」という言葉を用いないようにしたのです。

このイエスの宣べ伝えた「神の国」、「天の御国」はローマによる力の支配とは異なる形の支配を目指します。「支配」という言葉の意味、概念すら変えてしまおうとしたのです。支配という言葉には否定的な響きがありますよね。何と言いますか、無理やり相手を従えるという感じです。ピラミッド型の構造で、上に行けば行くほど権力とお金が集まるので、人々は互いに競い合い、少しでも上を目指そうとする、そして頂点にたどり着いたものが支配をするという、そんな具合です。しかしイエスは、上に立つ者が奴隷として仕えるという、まったく逆の世界を作り出そうとします。ですからイエスは、ピラミッドの底辺にいる人々を救い出し、支えようとしたのです。しかもそれを義務感や正義感からではなく、愛によって、困難な人生、屈辱的な人生を余儀なくされている人々への共感の力によって成し遂げようとしたのです。

3.結論

まとめになります。今日はイエスが「神の国」、「天の御国」の宣教を始めたことを学びました。イエスが取り組もうとした問題は、現代にも通じる問題です。それは「超格差社会」の問題です。イエスの時代の人々は、この格差問題を解消するために、暴力革命の道を選ぼうとしました。現代の資本主義体制に対しても、これを暴力革命によって打倒しようという思想がありますが、それと同じようなことを当時のユダヤの人々は考えていたのです。

しかし、イエスにはまったく別のヴィジョンがありました。もちろんイエスも当時のユダヤのエリートたちを厳しく批判しました。彼らは貧しい人たちのことを考えずに、自分たちの私腹を肥やすことばかり考えていたからです。けれども、イエスは彼らを暴力的に打倒しようとはしませんでした。むしろ暴力を拒み、十字架の道を選びました。イエスは最期まで、仕えるという生き方を身をもって示したのです。

私たちの時代も格差社会という大きな問題を抱えています。この問題を、暴力や敵意ではない形で解決するにはどうすればよいのか?そのためには、私たちは外部の敵ではなく内なる貪欲と戦わなければなりません。社会のトップにいる人たちがお金のことしか考えないようだと、私たちも彼らから悪い影響を受けてしまいます。合法的な搾取が出来ない人は、非合法な搾取、オレオレ詐欺のようなことに走ってしまうのです。しかし、私たちは今の社会の腐敗したエリートではなく、イエス様こそを私たちの模範、目指すべき姿とするべきです。イエスがその教えと自らの生き方によって示した生き方によってのみ、「神の国」は到来するのです。私たちもこれからますますイエスの生き方を深く学んでまいりましょう。お祈りします。

天におられます我らの父よ。私たちはあの大いなる敗戦から80年の間、曲がりなりにも平和を享受できましたが、その間も世界では多くの悲惨な戦争がありました。これからの未来を平和な時代とするために、あなたの教会を用いてください。そのためにも私たちにより深く主イエスのことを学ばせてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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荒野での試練マタイ福音書4章1~11節 https://domei-nakahara.com/2025/08/10/%e8%8d%92%e9%87%8e%e3%81%a7%e3%81%ae%e8%a9%a6%e7%b7%b4%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b84%e7%ab%a01%ef%bd%9e11%e7%af%80/ Sun, 10 Aug 2025 00:28:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6690 "荒野での試練
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1.序論

みなさま、おはようございます。猛暑が続きますが、これはまだまだ続きそうです。しかし、現代の日本では冷房がありますし、なんとか暑さをしのぐ手段があります。それに対し、ユダヤ・ガリラヤの地の荒野は草木の茂らない砂漠ですので、暑さをしのぐためのものが何もありません。預言者ヨナが太陽の照り付ける荒野でとうまごにすがり、とうまごながなくなったあとは「死んだほうがましだ」というほど苦しみました。そのような荒野に、自ら四十日四十夜留まられた主イエスの話を今日は見て参ります。

今回の箇所は極めて重要な箇所です。イエスの公生涯はいつ始まったのかといえば、それは前回のバプテスマのヨハネから洗礼を受けた時からだ、と言ってよいでしょう。イエスはヨハネから洗礼を受けた時に、「あなたは神の子だ」という天の声を聞きました。これはイエスにとって「天命を知る」という瞬間でした。イエスは、自分には神から与えられた特別な使命がある。それはこの世界に神の支配をもたらすことだ、ということを神の声を聞いて聖霊を受けた時に悟ったのでした。

しかし、この世界に神の支配をもたらすというのはいったいどういうことなのでしょうか?そして、それはどのようにして実現できるのでしょうか?これは非常に漠然とした話に聞こえますが、当時のユダヤ人にとって明らかなことが一つありました。彼らは神の支配を待ち望んでいましたが、それはつまり、今は神の支配が実現していないということです。なぜなら当時、神の支配ではなくローマの支配の下にユダヤ人たちは置かれていたからです。ですから、このローマの支配が終わらなければ神の支配は来ないということになります。しかし、当時のローマ帝国は現在のアメリカ合衆国のような世界の超大国です。小さな民族に過ぎないユダヤ人がどうやってローマに勝って彼らをユダヤの地から追い出すことができるのか、という現実的な問題があります。そもそも支配者であるローマとは戦争をするしかないのでしょうか?他の道はないのでしょうか?実際、ユダヤのエリートたちはローマと協力することで自らの権力基盤を固めていました。ユダヤ人の中にも、ローマとうまくやることを好んだ人もいたのです。このように、ユダヤ人の中にもローマについて様々な意見がありました。

イエスは神の支配をもたらすという自らの天命を知り、そしてそれを実行に移す前に、自分は何をどうするべきなのかをよくよく吟味する必要がありました。神の声を聞いたイエスですが、さらに明確な神の声を聞くためにイエスは荒野に行くことにしました。それはかつて、イスラエルを率いるという大きな使命を与えられたあのモーセがしたことでもありました。モーセは十戒の書かれた石板を受けるためにシナイ山に行きましたが、その時の様子が申命記9章9節に書かれています。お読みします。

私が石の板、主があなたがたと結ばれた契約の板を受けるために、山に登ったとき、私は四十日四十夜、山にとどまり、パンも食べず、水も飲まなかった。

モーセは神の声を聞くために、四十日四十夜の断食を断行しました。イエスもまた神の声を聞くために、荒野で四十日四十夜の断食を行うことにしたのです。イスラエルの神は荒野、砂漠の神だからです。しかし、砂漠にいるのは神だけではありません。神の敵対者もいるのです。これらのことを頭に起きながら、今日の聖書箇所を読んで参りましょう。

2.本論

では、4章1節です。先にイエスは神の声を聞くために荒野に赴いたと申しましたが、ここではむしろ神の敵対者、つまり悪魔の試みを受けるために荒野に赴いたと書かれています。これは矛盾していません。なぜなら悪魔の試みと対峙することで、イエスは神の真の御心を知ることになるからです。では、イエスを試みる悪魔とはいったい何者なのかをまず考えていきましょう。

悪魔はサタンとも言われますが、驚くべきことに、サタンはそもそも神に仕える天使でした。サタンも神のために働いていたのです。では、サタンの仕事とは何だったのでしょうか?それがヨハネ黙示録12章10節に書かれています。「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」この「告発者」という言葉が実はサタンというヘブル語の意味なのです。告発者とは何かといえば、それは検察官のようなものです。検察官とは、罪を犯した人を裁判所に訴えて罰を下させるという役割を担った政府の役人です。サタンも同じように、神に仕える役人として、犯罪者、つまり人間の罪を暴き出して神の法廷に訴え出て、神に人間に対する裁きを下すように促すという役割を果たしていたのです。しかし、サタンは段々と自分に与えられた役割から逸脱していくようになります。サタンはついには反逆の天使として神と対立することになりますが、それは彼が自らの職分を超えて神の御心に反することを行うようになったからです。本来は、人間の罪を発見してそれを神に告発するという役割だったのに、徐々に人間を誘惑して罪に引きずり落とす、堕落させることを本業とするようになっていったのです。たとえて言えば、罪を見つけて逮捕するのではなく、罪を犯すように誘導しておいて、実際に罪を犯したところで捕まえる警察官のような、そのような悪質な存在になっていったのです。こうしてサタンは神の被造物である人間を破滅させる恐ろしい存在になっていったのです。しかもサタンは人間を長年観察しているので、人間がどのような生き物で、どのように誘惑すれば良いのかを知り尽くしています。ですからサタンは人間の弱いところをつついて、自滅させるのです。こうしてサタン、あるいは悪魔は人間の最悪の敵となっていきました。サタンは同時に、人間を意のままに動かすようにもなっていきます。人間の弱い部分を知り、人間が求める人参、それは権力だったりお金だったりしますが、それをぶら下げて人間を思い通りに操縦するようになっていったのです。今回の荒野での誘惑のルカ福音書の並行箇所では、サタンはイエスに「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されていているので、私はこれと思う人に差し上げられるのです」と言っていますが、サタンにそのような力があるのは人間を知り尽くして自由自在に操縦できるからなのです。

その恐るべきサタンが、荒野で断食をするイエスのところにやってきました。サタンの究極の目的は、人間を堕落させ、神に逆らわせることにあります。しかし、サタンはイエスのことを知っています。イエスは神の子であり、サタンの誘惑に乗るような人ではありません。あのヨブも、サタンからいくら痛めつけられても神を呪うことはしませんでした。イエスはヨブよりも偉大な方です。ですからサタンは、甘い誘惑も恐ろしい脅迫も、暴力さえもイエスを屈服させたり堕落させたりすることはできないことが分かっていました。そこでサタンが狙いを定めたのはイエスそのものではなくイエスの大義、使命でした。すなわち「神の王国をもたらす」、「神の支配をこの地上世界にもたらす」というイエスの天命でした。つまりサタンはイエス本人ではなく、イエスの神の国、神の王国そのものを堕落させようとしたのです。

イエスは世界を変えようとしています。その目標は、いってみれば政治家のようなものです。イエスは人の心の中だけでなく、社会そのものを変えようとしているからです。かつてのオバマ大統領が選挙キャンペーンで「チェンジ!」、すなわち世界を変えるということをスローガンにしていましたが、イエスもまた人々の心の変化を通じてこの世界そのものを変えようとしているのです。しかし、世界を変えるためには人々がイエスの元に結集しなければなりません。人々がイエスのヴィジョンに賛同し、彼のために働かなければならないのです。そのような人が多ければ多いほど、世界を変えられる可能性は高まります。

しかし、イエスは全くの無名の青年です。地盤も看板もカバンもありません。そんなイエスがどのように人々の支持を集めて世界を変えることができるのか?そこでサタンがやって来たのです。私があなたの参謀、アドバイザーになってあげましょう。私の言うことを聞けば、あなたの目指す神の王国が実現できますよ、と。サタンの狙いは、イエスのもたらそうとする神の王国を、これまでのこの世の王国とさほど変わらないものとしてしまうことでした。イエスの王国が、この世の王国とさほど変わらない原理・原則で運営されるのなら、サタンもまたその王国に介入しやすくなるからです。この世の王国の原理・原則とは「カネと力」、つまり経済力と軍事力です。かつての時代の王国ばかりではなく、今日の民主主義諸国が目指すのもつまるところは経済力と軍事力です。その頂点にいるのがアメリカと中国ですが、他の国々も経済と軍事の増強を目指しています。サタンはイエスにも、同じような提案をします。その内容は、ひと言でいえば「パンとサーカス」です。これは、当時の超大国であるローマ帝国がその領民を支配・コントロールするための手段でした。人民が無批判に帝国を支持するようにするためにはどうすればよいか、それは彼らにパンすなわち食事と、サーカスつまり娯楽・エンターテインメントを与えればよいのだ、ということです。人民は腹が一杯になり、娯楽を楽しんでいる限りは帝国に逆らわずに従順な民となるだろうということです。

悪魔は、イエスにも同じことをするように勧めます。あなたがユダヤの人民の圧倒的な支持を集めるにはどうすればよいか?それには二つのものを人々に与えればよいのですよ、と。一つは言うまでもなくパンです。あなたは神の子としての力を使って、人々が求めるだけパンを与えてやりなさい。そしてもう一つは偉大なスペクタクル、人目を驚かす奇跡を行って人民の度肝を抜きなさい、というのです。神殿のてっぺんから飛び降りるというサーカスまがいのことを行って、それで奇跡的に助かれば、人々はあなたを神の子だと信じるようになるでしょう、と。この二つを行えば、ユダヤの人民たちはあなたにひれ伏して、あなたの命じることは何でもするようになる。彼らを使ってあなたは神の支配を打ち立てればよい、というのがサタンからの提案でした。つまりサタンはイエスにローマと同じことを、ローマをはるかに上回るスケールで行うようにと促すのです。そうすれば、ローマさえ凌ぐ神の王国、いや帝国を作り出せるでしょうと。実際、民衆の人気を得るためのこれが一番確実な方法のように見えます。私たち現代人も、つまるところ求めているのはグルメとエンタメなのではないでしょうか?

しかし、イエスはその提案を拒絶します。神の王国は、ローマ帝国をさらに強大にしたようなものではないのです。むしろ、神の王国はローマ帝国とは全く異なる原理・原則、価値観によって打ち立てられるべきものでした。パンは人生の目的ではなく、手段です。人はパンによって生きますが、パンのために生きるのではないのです。そんなのはパンを十分に持っている、すなわちお金を十分に持っている人のきれいごとではないか、パンが満足に食べられない状態では人生の意味も目的もないんだ、まずは食べ物なんだ、という反論があります。しかし、これはよく言われることではありますが、この地球上には食糧は十分にあります。かつては人口が爆発的に伸びると世界中で食糧危機が起きるとまで言われていましたが、世界の人口が80億人にもなった今日でさえ、私たちの生きる世界、地球はその人口を養うだけの十分な食料を供給しているのです。では、なぜ世界にはまだこんなに貧困や飢えの問題があるのか?それは分配がおかしいからです。一部の人があり余る食事を独占しながら、多くの人たちには食事が回ってきません。貧富の差が極度に拡大し、世界の人口の上位わずか1%の人々の持つ富は、95%の人々の富の合計よりも多いと言われてしまいます。このような富の偏在を生む貪りや貪欲こそが、飢餓問題を生み出しています。そしてこのような貪りや貪欲を戒めて抑制するものこそ、神のことばなのです。ですからイエスは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と語ったのです。

奇跡についても同じです。確かに神は、正しい人が不慮の事故で死にそうになったときに、その人を奇跡的に助けるということをなさるかもしれません。しかし、奇跡を行うことで人々をコントロールしよう、支配しようなどという不純な動機を持つ人を神が助けることなどあり得ないことです。そのような人は神の力を自分の思い通りに用いようという不遜な心を持つ者です。そんな人を神が助けることはないのです。ですからイエスは「あなたの神である主を試みてはならない」というみことばによってサタンの提案を退けます。

パンとサーカスという手段を拒否されたサタンは、最後の誘惑を試みます。それは彼がこれまで営々と築き上げてきたもの、すなわち人間を巧妙に操ることで手に入れた世界のあらゆる富と栄光をイエスに見せて、これを全部やるから私を拝めと言ってきたのです。サタンはよく分かっていました。このイエスという人物をコントロールできなければ、自分はすべてを失うだろうということを。ですから、それこそサタンは全財産を差し出すことでイエスを自分の支配下に置こうとしたのです。しかし、そもそもこの全世界は本当にサタンのものなのでしょうか?いいえ、聖書にあるように、「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである」(詩篇24:1)。イエスもそれが十分わかっていました。サタンは人間を欺き騙すことでこの世界をコントロールしているに過ぎず、本当に世界を所有しておられる方は神のみであることを。そこでイエスはこう言われました。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある」と。

こうしてイエスはサタンのすべての誘惑を退けたのですが、しかしサタンはこれで諦めたわけではありません。これからもイエスに付きまとい続けて、なんとか彼の神の王国の成就を妨害しようとし続けるのです。

3.結論

まとめになります。今日は荒野で試みを受けたイエスのことを学びました。イエスは人類の最大の敵であるサタンとの対決を通じて、自分が何をなすべきであるのかということをますますはっきりと知るようになりました。サタンの目論見は、イエスが打ち立てようとする神の王国をこの世の王国と変わらないものにしてしまうことでした。この世の王国は経済力と軍事力を増強してその力を高め、民衆には食事と娯楽を与えることで彼らをコントロールしようとします。サタンはイエスに対し、この世のあらゆる帝国にも勝る圧倒的な神の力を用いて民衆をコントロールしなさい、と提案します。それが神の支配を地上に打ち立てる一番の近道だと。しかしイエスはこのような提案を拒否します。神の支配はこの世の支配とはまったく異なる原理・原則で打ち立てられるべきものです。たとえそれが遠回りであっても、人々の心を神のことばで耕し、そこから芽を出し実を結ぶ収穫、それこそが世界を変える力であるということを明確にしました。ですからイエスは人々の病をいやすという奇跡以上に、人々を教育することに力を注ぎました。「教育」こそ神の王国運動の一番重要な要素でした。ですからマタイはその福音書に、非常に多くのイエスの教えを収録したのです。私たちはこれから段々とイエスの教えを学んでいきますが、それは私たちの価値観を根本的に変えてしまうような革命的なものです。そして、今回のイエスとサタンとの対話・対決の中にも神の王国についての大切な教えを読み取ることができます。私たちも今日の政治経済の中にイエスの教えを浸透させることが出来るように、力を尽くしてまいりましょう。お祈りします。

天地万物を創造し、治めておられる神様、そのお名前を賛美します。今日はサタンの誘惑を通じて神の支配、神の王国の本質を学びました。その支配をこの地上で実現させていくためにも、あなたの教会を祝福してくださいますよう、お願いいたします。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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ヨハネとイエスマタイ福音書3章13~17節 https://domei-nakahara.com/2025/08/03/%e3%83%a8%e3%83%8f%e3%83%8d%e3%81%a8%e3%82%a4%e3%82%a8%e3%82%b9%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b83%e7%ab%a013%ef%bd%9e17%e7%af%80/ Sun, 03 Aug 2025 00:22:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6667 "ヨハネとイエス
マタイ福音書3章13~17節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。私たちは今、マタイ福音書を読み進めていますが、今日の箇所はイエスの公生涯の第一歩ということで、大変重要な箇所です。では、イエスはその公生涯の始めに何をなさったのでしょうか?それが、バプテスマのヨハネから洗礼を受けたということでした。今日はこの行動の意味を考えて参りましょう。

バプテスマのヨハネはユダヤやガリラヤの様々な人々に洗礼を施していました。ヨハネは、天の国が近いというメッセージを携えて登場しました。その意味は、神の支配がもうすぐ実現する、より具体的には、現在のローマ帝国という外国の異教徒にユダヤの地が支配されている状態、またそのローマの傀儡であるユダヤの指導者によって統治される時代が終わり、イスラエルの神ご自身による支配が始まるというメッセージでした。それは政治的・社会的な大激変、変革の時となるでしょう。神の裁きはイスラエルの敵に向けられますが、しかしヨハネはイスラエル人、ユダヤ人なら誰でもその裁きを逃れる、救われるとも説きませんでした。むしろ、神の裁きは異邦人だけでなく、イスラエル人の中でも神に忠実に歩まない者にも下されると警告しました。それは数百年も前に預言者アモスが警告したことでもありました。アモスはこう言いました。

ああ、主の日を待ち望む者。主の日はあなたがたにとっていったい何になる。それはやみであって、光ではない。

イスラエル人は、イスラエルの神はイスラエル人をみな救ってくれると考えて、イスラエルの敵が滅ぼされる主の日を待ち望んでいましたが、しかし正義を求めないイスラエル人にとっては主の日は救いどころか裁きの日になるだろう、とアモスは語ったのです。バプテスマのヨハネもそれと同じことを語りました。彼は、こう語りました。

まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるからだ。斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

ユダヤ人たちは、自分たちは族長アブラハムのゆえに愛されている。だから、全地に神の怒りが下る時にも自分たちだけは大丈夫だ、救われると信じていました。それはちょうど、多くのクリスチャンがキリストの再臨の際の大いなる裁きの際に、自分はクリスチャンだから大丈夫だ、さばきに遭うことはないと考えているのと同じです。しかしヨハネは、ユダヤ人であるだけでは十分ではない、それにふさわしい実を結ばなければならないと教えました。まったく同じメッセージはクリスチャンにも当てはまることを忘れてはいけません。主イエスもこう言われました。

良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

このように、イエスのメッセージの中にはヨハネの教えを承継したものが確かにあります。それでは、ヨハネとイエスの関係はどのようなものだったのでしょうか?

イエスはバプテスマのヨハネのメッセージに共感し、彼の元にやってきてヨハネから洗礼を受けました。では、洗礼を授ける者と受ける者との関係はどのようなものでしょうか?普通に考えれば、授ける方が先生で、受ける方が弟子だということになりますよね。ということは、バプテスマのヨハネはイエスの先生だった、ということになります。さらには、バプテスマ、洗礼の目的は「罪の赦し」を与えるためです。ということは、イエスもまた、罪を赦される必要があったのだろうか、という疑問が生じます。

このように、イエスがヨハネから洗礼を授けられたということは、よくよく考えると私たちクリスチャンにとっては非常に不可解な、というか問題含みの行動なわけです。そして、福音書記者たちもこのことが大きな問題をはらんでいるのをよく理解していました。前にもお話ししたように、マタイ福音書はマルコ福音書より後に書かれています。マタイはマルコ福音書をよく知っていて、それを大きく拡大させたのがマタイ福音書です。では、マルコ福音書ではイエスの洗礼はどのように描かれているでしょうか。こうあります。

そのころ、イエスはガリラヤからナザレに来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。

このように、とてもシンプルな記述です。イエスとヨハネの間に交わされた会話は何もありません。イエスも、他の多くの人の一人として洗礼を受けられたという印象を受けます。マルコ福音書でも、ヨハネは自分よりさらに偉大な人物が現れることを予告していますが、イエスがその人物だとは述べていません。天からの声を聞いたのも、イエス一人だったという印象を受けます。ですから、バプテスマのヨハネから洗礼を受けた時点では、イエスはまだ無名の青年だったということになります。

それに対し、今日のマタイ福音書の記述からは、ヨハネはイエスを一目見た時から彼の権威を直ちに認め、自らをイエスの下に置こうとしている様子がありありと伝わってきます。ここでヨハネは、なんとかイエスに洗礼を受けることを思いとどまらせようとしています。マルコ福音書とは相当に異なる印象を受けます。では、どちらが歴史的事実に基づいているのかといえば、常識的に考えれば最初に書かれたマルコ福音書でしょう。イエスがヨハネから洗礼を授けられたという歴史的事実は誰もが認めることでしたが、しかしその事実はクリスチャンたちに狼狽や動揺をもたらしたことでしょう。なぜ神の子であるイエスが、ヨハネから洗礼を授けられる必要があったのか、と。その疑問に答えようとして、マタイはイエスとヨハネの会話を創作したのではないか、ということです。ヨハネは、自分こそがイエスにバプテスマを授けられるべきだと主張していますが、この言葉の歴史的な信憑性は疑われています。福音書の研究者の多くはそう考えています。おそらくバプテスマのヨハネは、イエスの弟子の一人として迎え入れ、洗礼を授けたのでしょう。もちろん、イエスとしばらく行動を共にする中で、イエスの非凡な力や資質に気が付き、彼のことを大いに注目するようになったと思われますが、最初に出会った時点では彼を特別扱いすることはなかったのではないか、ということがマルコ福音書の記述から伺えます。

実際、他の福音書にもイエスがヨハネの弟子だったことを仄めかす記述があります。ヨハネ福音書3章26節には、ヨハネの弟子たちがヨハネに苦情を言っている様子が描かれています。

先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。

これは丁寧語で訳されているので正しくニュアンスが伝わってきませんが、ヨハネの弟子たちはヨハネに文句を言っているのです。イエスという人はあなたの弟子だったのに、今やあなたよりも人気が出て人々は彼のところに押し寄せている。先生、悔しいではありませんか、ということです。また、イエスが復活して使徒たちが活躍した頃でさえ、バプテスマのヨハネの弟子たちはイエスの弟子たちと競合関係にあったことが使徒言行録からも分かります。

これらの点から考えると、イエスは最初バプテスマのヨハネに弟子入りしたものの、後に師であるヨハネとは袂を分かって独立したのだ、というように考えてもよいと思います。イエスはヨハネのメッセージに共鳴しつつも、彼のメッセージにどこか疑問や問題を感じ、別の道を歩むことを決意したということです。では、バプテスマのヨハネとイエスの違いとは何なのでしょうか?そのことを深く理解することは、イエスのメッセージの独自性を理解する上で役立つことでしょう。ですから今日はこの点を考えていきます。

2.本論

では、イエスはヨハネのメッセージのどのような点に問題を見出だしたのでしょうか?ヨハネやイエスの活躍した時代、当時のユダヤ人たちの悲願はユダヤの地を支配するローマ帝国を追い出してユダヤ民族の独立を回復することでした。そして、バプテスマのヨハネもこのような人々の願いを共有していたものと思われます。ヨハネはこの後、ヘロデ大王の息子でガリラヤの領主だったヘロデ・アンティパスに逮捕されて牢獄に入れられます。福音書では、この逮捕の原因はヨハネがアンティパスの不法な結婚を非難したからだと言われています。アンティパスは隣国の王女を妃にしていましたが、彼女と離縁して自分の兄弟の妻と略奪婚をしています。しかし、紀元一世紀の歴史家ヨセフスによると、ヨハネが逮捕されたのは彼の政治力が増して反乱が起きる恐れがあったからだとされています。この二つの記述は矛盾していません。ヨハネがアンティパスの不法な結婚を非難したのは確かでしょうが、アンティパスが民衆に人気のあったヨハネ逮捕にまで踏み切ったのは、ヨハネの政治的な影響力を恐れたからでしょう。ガリラヤという地域は、これまでも何度か政府に対する大きな暴動や反乱が起きています。アンティパスも反乱が起きるのを非常に警戒していました。反乱の芽を早い時期に摘もうとしたということは十分あり得ることです。

では、ヨハネの方はどうだったのか?彼は反乱のリーダーになるつもりはあったのか、といえば、そうではなかったでしょう。彼は自分自身のことを真打登場のための露払いをする役割を帯びていると信じていました。来るべきメシアのための道備えをするということです。では、その来るべきメシアはヘロデとその背後にいるローマへの反乱を率いる人物になるとヨハネは考えていたのでしょうか?この件については、そうだといってよいでしょう。後に牢屋に入っていたヨハネは弟子をイエスの元に遣わして、「あなたが来るべきメシアなのか、それとも他の人物が現れるのか」と尋ねています。これはイエスに対し、あなたは自分を幽閉しているヘロデ・アンティパスと戦う意思があるのか、と尋ねているのと同じようなものです。つまりヨハネは、自分が反乱のリーダーになるとは考えてはいなかったものの、ヘロデやローマに対する反乱そのものは否定していたのではなく、むしろ期待していたということです。

イエスがヨハネと袂を分かつことになった理由は、ここにあるように思えます。ヨハネは、多くのユダヤ人たちの悲願、すなわちユダヤの地からローマを武力で追い出すという期待を抱いていました。イエスは、このような武力抵抗の道が本当に神の御心なのか、ということを深く考えていたように思われるのです。イエスは段々と、ただ黙ってローマに服従するのでもなく、反対にローマに武力で徹底抗戦するのでもない、第三の道を模索し始めたということです。では、イエスが見いだそうとした第三の道とは何か、ということについてはこれからマタイ福音書が進むにつれて明らかになっていくのですが、その道が武力抵抗の道ではなかったことは明らかです。

3.結論

まとめになります。今日は、イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けた場面を学びました。今回の説教では、やや大胆な物言いをしました。それは、ヨハネの言葉、つまり「私こそ、あなたからバプテスマを受けるべきですのに」という言葉は、恐らく後の時代の創作ではないか、ということです。この時点では、ヨハネはイエスを弟子の一人として受け入れただろうということです。つまり、最初イエスはヨハネに弟子入りしたということです。そんなことがありうるのか、と思われるかもしれません。しかし、私たちが青年時代に自分のなすべきことは何なのかと思い悩むように、イエスもまた自分の使命について思いめぐらし、当時預言者として名高かったヨセフの元を訪れた、ということは十分あり得ることなのです。

私たちは、主イエスがその公生涯の始めから自分が何者で、何をなすべきなのかを完璧に分かっていた、というように考えがちですが、おそらくはそうではなく、イエスは自らの使命、天命を公生涯の祈りの生活の中で段々と把握していったのだろうということです。そして、イエスが自分の特別な使命を初めて明確に意識したのがヨハネから洗礼を授けられた時だと思われます。この時イエスは、聖霊が鳩のように自分に降って来るのを見ました。そして、これを目撃したのはイエスただ一人だったことでしょう。イエスだけがこの不思議な体験をして、また「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という神の声を聞いたということです。もちろんイエスもこの時までに、自分には何か特別な使命があるのではないかという予感のようなものを抱いていたでしょうが、このバプテスマの瞬間にその予感が確信に変わったということです。

ここまで述べたことはもちろん私の解釈というか推測であり、それが正しいということではありません。ただ、私がかなり強く確信しているのは、イエスはその公生涯を通じて自らの使命は何であるのかを探し求めていたということです。もしそうでないなら、なぜイエスはいつもいつも早朝長い時間祈り続け、そして最後にゲッセマネの祈りにおいてあれほど必死に祈って神の御心を求めたのかが説明できません。イエスは祈りの人でしたが、それは彼が自らの召命を探し求めていたことの一つの証拠なのではないか、ということです。神の子であるイエスさえ、自らの召命を探し求めていたとするならば、私たちのような凡人が自分の生きる目的、理由について思いまどうのはむしろ当然のことです。私たちは自分の人生についていろいろ思い悩み、こうすればよいのか、こうしたほうが良かったのか、としょっちゅう考えるものですが、それは少しもおかしなことではなく、むしろ当たり前のことです。そして、そのような時は主イエスのように神の前に自分の悩みをさらけ出し、祈る者でありたいと願うものです。お祈りします。

主イエスをバプテスマのヨハネの元に導き、そこで天命を示された父なる神よ、そのお名前を賛美します。私たちも自らの生きる目的に思い悩む者でありますが、私たちをも導いてくださるようにお願いいたします。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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