礼拝メッセージ – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 調布 深大寺のプロテスタント教会 Sun, 31 Aug 2025 04:15:17 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.3.19 https://domei-nakahara.com/wp-content/uploads/2020/03/cropped-favicon-32x32.png 礼拝メッセージ – 中原キリスト教会 https://domei-nakahara.com 32 32 万物の終わり第一ペテロ4章7~11節 https://domei-nakahara.com/2025/08/31/%e4%b8%87%e7%89%a9%e3%81%ae%e7%b5%82%e3%82%8f%e3%82%8a%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%83%9a%e3%83%86%e3%83%ad4%e7%ab%a07%ef%bd%9e11%e7%af%80/ Sat, 30 Aug 2025 23:53:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6759 "万物の終わり
第一ペテロ4章7~11節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。さて、突然ですがみなさんはこれまで、「世界の終わりが近い」というような話を聞いたことがあるでしょうか?私が初めてこの手の話を聞いたのは小学校の頃で、ノストラダムスの大預言という話を聞きました。五島勉という人の書いた本がベストセラーになり、テレビでも何度も特別番組がありましたので、かなりの人々がその影響を受けていました。それによると1999年に99%の確率で世界が終わるとのことでした。私が小学生だったのは1970年代の後半だったので、あと20年すると世界が終わるのかと考えると怖かったのと同時に、本当にそんなことがあるんだろうか?とも思いました。

しかし、この1999年という数字は結構多くの若者の中に潜在的な恐怖感を植え付けたように思います。というのも、日本中を震撼させたオウム真理教の地下鉄サリン事件、これは1995年に起きましたが、その教団には多くの高学歴の若者が加入していたことが世間を一層驚かせました。しかも、彼らはノストラダムスの大預言に影響されていて、世界がもうすぐ終わると信じ込み、終末を自らの手でもたらそうとしたのだという説すらあります。海外でも似たような事件があり、ブランチ・ダビディアン事件というのですが、1993年にヨハネ黙示録に記されている終末が近いと信じ込んだ人々がテキサスの教団本部に立てこもり、アメリカ政府と50日にもわたる戦争を繰り広げたという事件がありました。ちなみにオウム真理教にもヨハネ黙示録の影響は大きく、ハルマゲドンをもじったハルマゲどんぶり(!)なるメニューが教団内にあったとか...

しかし、その1999年も何事もなく過ぎ去りました。ただ、その数年後の2001年のアメリカ同時多発テロにより、世界は再び恐怖のどん底に叩き込まれます。あの事件は今でも鮮明に覚えていますが、とても現実とは思えずに映画か何かを見ているのかと思いました。その後に始まったテロとの戦争は延々と続きますが、アメリカのイラク攻撃の理由となった大量破壊兵器の存在というのが実は嘘だということが分かり、アメリカに対する信頼が大きく揺らぎました。アメリカはその後も泥沼の戦争を続けますが、バイデン政権下のアフガン撤退でようやくそれも終わったかと思ったらウクライナ戦争が始まり、ガザの虐殺がそれに続き、相変わらず地上に平和は訪れません。したがって、世の終わりが近いという終末思想は現代人の潜在意識の中に残り続けているように思えます。

けれども、こうした終末の予感、あるいは期待の中に生きていたのは現代人だけではありません。これは私たちにとってはなんとも信じがたいことではあるのですが、新約聖書を記した使徒たちは、紀元一世紀に世界が終わると信じていた、あるいは期待していたのです。私はこの8月にパウロについての論文を書いていましたが、そこで改めて思わされていたことは、パウロが彼の生きていた時から十数年以内にキリストの再臨が起り、世界が終わるのだと本気で信じていたということです。これはかなりショッキングなことです。言うまでもないことですが、パウロが生きていた紀元一世紀にはキリストの再臨はなかったわけで、それどころかパウロの時代から二千年経っても再臨は起きていません。つまりパウロが期待したようには歴史は進まなかったわけです。パウロだけではありません。今日の手紙の著者であるペテロもまったく同じように考えていたのが今日の箇所からも分かります。キリスト教の第一世代の使徒たちはすべからく、彼らが生きているうちに世界の終わりが来ると信じていたようなのです。これは現代に生きる私たちを困惑させる事実であり、「再臨の遅延」問題と呼ばれていますが、今日の聖書箇所を読むうえで無視できない問題でもあります。そのことを考えながら、今日のテクストを見て参りましょう。

2.本論

7節は、「万物の終わりが近づきました」という言葉から始まります。「近づいた」という言葉は「エンギケン」というギリシア語を訳したもので、この言葉はイエスが語った「神の国が近づいた」という言葉とまったく同じものです。この動詞は完了形なので、単に近づいたというだけではなく、「もう来たのだ」、という意味合いもあります。イエスが神の国が近づいたと語った時、単にもうすぐだと言ったのではなく、もう来ているという意味でもありました。同じように、ペテロも万物の終わり、すべての終わりがもうすぐに来ているだけでなく、もうそのような終わりがすでに到来したと言っているのです。というのも、終わりは一瞬にして到来するものではなくある程度の期間を有するプロセスであり、そのプロセスはキリストの来臨で終わるだろうということなのです。しかも、そのプロセスというのは二千年とか三千年というような途方もない長さではなく、ペテロが生きている間、長くても二十年から三十年ぐらいの長さでイメージされていたということです。このような、今の時代は世界の終わりのまさに真っ只中なのだという感覚はペテロだけではなく使徒パウロも持っていました。第一コリントの10章11節には、「それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためなのです」というパウロの言葉がありますが、これは直訳すると、「これらが書かれたのは私たちへの警告としてであり、その私たちに代々の終わりが到来しています」となります。この「到来している」も完了形ですので、世の終わりは未来に来るのではなくもう来ていて、コリントの信徒たちはまさに世界の終わりのただ中を生きているのだ、ということをパウロは述べているのです。先ほども申しましたが、このことは私たちには信じがたいと言うか、受け入れがたいことです。なぜならペテロやパウロが生きていた時代が世界の終わりのただ中なのであれば、世界はとっくに終わっているはずだからです。しかし、実際はそうではなかったのです。この点についてどう考えるべきでしょうか?その答えはたった一つで、世界の終わりを知っている人は誰もいないということです。主イエスさえも、自分はその時を知らないと言っていました。イエスが知らないことを、ペテロやパウロが知っているはずがないのです。しかし主イエスは同時に、その時は突然、思いがけないときにやって来るので、いつでもそれに備えておきなさいとも言われました。ですからペテロやパウロがそれに備えていたこともまったく正しいことなのです。私たちも、その日その時がいつ来てもよいように備えておく必要がありますが、同時にその日その時を知っているという人がいるとするならば、その人の言っていることは間違いなく嘘です。ペテロやパウロすら知らないことを、一体だれが知っているというのでしょうか?

ともかくも、ペテロは主の再臨はもうすぐだという期待と緊張感の中を生きていました。そして学ぶべきことは、その準備の仕方です。ペテロはオウム真理教やブランチ・ダビディアンのように、世界最終戦争に備えて武器や弾薬、非常食を蓄えなさいとは命じませんでした。戦いに備えなさいとは一言も言わずに、ただ「愛しなさい」と命じたのです。これこそが一番大切なことです。世界にこれからどんな天変地異が起ろうとも、どんな恐ろしい戦争が起きようとも、すべきことはただ一つ、それは「互いに愛し合いなさい」ということでした。これはすごいことだと思いますが、これこそがキリスト教の本質なのです。世界がもうすぐ終わるのだから、自分だけは生き残ろう、自分だけは何が起こっても助かるように準備しよう、ではなく、互いに愛し合う、互いに仕え合う、それこそが終末の準備だということです。このことは私たちにも大変大きな教訓を与えます。たしかにペテロやパウロが期待したようには、紀元一世紀に世界の終わりは来ませんでした。それどころか、あれから二千年経っても、そのようなことは起こりませんでした。ですから、これからの二千年の間にもそのようなことは起こらないかもしれません。しかし、もしかすると私たちが生きている時代にそれが起きるかもしれません。こればかりは誰にも分かりませんが、私たちもペテロと同じように、そのような期待と緊張感の中を歩むべきです。でも、だからといって特別なことをする必要はないのです。ただ、祈りの中で日々の生活を過ごし、互いに愛し合い、自らに与えられた賜物を生かして仕え合う、奉仕しあう、これがペテロの命じる終末の準備なのです。

そしてそのような生き方こそ、私たちが本当に恐れるべきものの準備となります。私たちが本当に恐れなければならないのは、ハルマゲドンの戦いや世界最終核戦争ではありません。それらのことは確かに想像するだけでも恐ろしいことですが、もしそんな事態になってしまったら私たちにできることはそんなに多くはないでしょう。もちろん、そのようなことが起きないように、私たちは今世界平和のために全力を尽くすべきですが、しかし世界には私たちの小さな力では抗えないような厳しい現実というものがあります。それでも、そういう起きるかどうかもわからないもの、起きてしまったらどうしようもないことを恐れるのではなく、私たちが本当に恐れるべきなのはすべての人に臨む「最後の審判」です。核戦争を逃れることができたとしても、これだけはすべての人が逃れることができません。へブル人の手紙の著者は「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(9:27)と記していますが、それは真実です。私たちが真に恐れるべきは、主イエス・キリストによる厳粛な死後の裁きです。それは公平・公正に、私たちそれぞれの「行い」に応じて裁かれるというとが聖書に何度も記されています。この裁きに備えることの方が、核戦争に備えるよりもはるかに、はるかに重要なのです。しかし、そのためにすべきことも何も特別なことではありません。むしろ、非常に単純なことです。これも、「愛し合うこと」、「互いに仕え合うこと」です。愛は、多くの罪をおおうからです。私たちは主イエスを信じて正しく生きようとしても、それでも人生において多くの過ちを犯してしまうものです。悪気はなくても、弱さや愚かさによって罪を犯してしまう哀れな存在でもあります。そんな私たちのために主イエスは今でも天で祈っておられますが、私たちにもできることがあります。それが互いに愛し合うこと、仕え合うことです。それが私たちの地上の生涯において神に栄光を帰することであり、また神が喜んでくださることなのです。

3.結論

まとめになります。今日は万物の終わり、世の終わりという重大なテーマについてお話しさせていただきました。初代のキリスト教徒たち、ペテロやパウロは世の終わりが近いという確信の中に生きていて、それどころか彼らはもう世の終わりの時代のただ中に生きているのだと信じていました。実際には世の終わりは来なかったのですが、そのこと自体は重要なことではありません。なぜなら世の終わりがいつなのかは誰にも分からないし、にもかかわらず私たちは常にそれが起きるということの期待や予感の中を歩むべきだからです。重要なことは、世の終わりが近いという強い確信にもかかわらず、ペテロもパウロもパニックにならず、また世の終わりに備えて何か特別な準備をしたわけでもなかったことです。それどころか、彼らはいたって落ち着いた生活を送っていました。世の終わりが明日来るとしても、彼らはいつも通りの生活をしていたのです。彼らが心がけたのはただ一つ、互いに愛し合うこと、互いに仕え合うことでした。そして信徒たちにもそのように命じました。

私たちの時代も戦争だけでなく、地震などの自然災害、あるいは感染症の蔓延や気候変動による食糧危機など、考え始めたらきりがないほどの将来の不安があります。世界が終わるほどの究極の出来事ではなくても、世界の多くの人が苦しむような事象が起る可能性は普通にあります。私たちはもちろん地震対策とか、やれることはやるべきです。準備しているかしていないかで、いざ何かが起った時の結果は変わるでしょう。しかし「天災は忘れたころにやって来る」ということわざ通り、どうも私たちが予想するようには災害は起こらずに、思わぬ形でやってくる可能性の方が高いのです。ではどうすればよいのか?それは神を信頼することです。パウロはこう書いています。

あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

私たちの未来のことは私たちが心配する以上に神様が心配してくださっています。主イエスも思い煩うな、「あなたがたの髪の毛さえも、みな数えられています」とおっしゃいました。ですから私たちはペテロが教えるように、日々を平静な心で過ごし、愛し合い、仕え合うべきなのです。そのような思いで今週も歩んで参りましょう。お祈りします。

歴史を導き、司っておられる父なる神様、その名前を賛美します。歴史には始まりがあるように終わりがあります。しかし、それがいつなのかは誰にも分かりません。私たちも、それに備えて歩むべきでありますが、その備えとは愛し合う、仕え合うことです。そのように生きる力をお与えください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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ガリラヤにてマタイ福音書4章18~25節 https://domei-nakahara.com/2025/08/24/%e3%82%ac%e3%83%aa%e3%83%a9%e3%83%a4%e3%81%ab%e3%81%a6%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b84%e7%ab%a018%ef%bd%9e25%e7%af%80/ Sun, 24 Aug 2025 00:09:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6729 "ガリラヤにて
マタイ福音書4章18~25節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。相変わらず猛暑が続きますが、本日もマタイ福音書を読み進めて参りましょう。前回はイエスが天の御国、神の国が近いというメッセージを宣べ伝え始めた、というところを読みました。イエスのこのメッセージを聞いた一般のユダヤ人たちが考えたことは、神の支配が近いということはローマの支配の終わりが近い、ということでした。神は、ユダヤの地を不当に支配するローマの人々を追い払ってくださる、そうしてユダヤの地に神の支配が実現するだろう、というのが多くのユダヤ人が抱いていた希望でした。バプテスマのヨハネもそのような未来展望を持っていたものと思われます。

しかし、イエスはそれとは違う神の国のヴィジョンを持っていました。ローマという外敵を打ち払う、いわば攘夷思想ではなく、むしろイスラエル民族の内部覚醒を促そうというのがイエスの目標でした。当時のユダヤ社会は超格差社会、少数の富んだエリートと大多数の貧しい人々という歪んだ構造になっており、ユダヤ社会は内部で団結できずにバラバラになっていました。ユダヤ人は「罪人」という名のアウトカーストを作り出し、彼らを差別することで人々の鬱積した政治的不満を逸らそうとしていたのです。「罪人」と呼ばれた人々の典型は取税人や遊女たちでしたが、彼らは自らの意志で罪を犯した人々というよりも、貧しさのゆえに「罪人」とされる生き方を選ばざるを得ないような人たちでした。イエスはこうした人々を助け出してユダヤ人の共同体に連れ戻すことを通じて、バラバラになっていたユダヤ人の心を一つにして、神が本来意図していた助け合いの精神、社会的弱者に手を差し伸べるという聖書的な精神をユダヤ人の間に取り戻そうとしたのです。こうしてユダヤ人の本来の役割、すなわち世の光として、弱肉強食の原理に生きていた外国人たちにとっての模範となるという役割を取り戻させようとしたのです。そしてイエスが活躍の場として選んだのは聖都エルサレムではなく、むしろ田舎町、辺境の地であるガリラヤでした。改革は地方から、というのがイエスのやり方でした。では、さっそく今日のテクストを読んで参りましょう。

2.本論

イエスが活躍の場として選んだのは、ガリラヤの自らの出身地であるナザレではなく、カペナウムというガリラヤ湖畔の町でした。カペナウムはシモン・ペトロや彼の兄弟であるアンデレの町でした。つまりイエスは、ペテロの本拠地を彼の活動の拠点にしたのです。イエスが活動の始めにしたのは二つのことでした。一つは仲間集め、同志を集めることで、もう一つは病の人々を癒すことでした。

ここで注目したいのは、ペテロやアンデレ、そしてゼベダイの子であるヤコブとヨハネが、イエスに誘われてすぐに仕事を捨てて彼に従っていることです。これは、普通に考えればあり得ないことではないでしょうか。皆さんも自分事として考えていただきたいのですが、安定した仕事を捨てるというのは大変難しいことです。私事で恐縮ですが、私もキリスト教の道に入る前は15年間サラリーマンをしていました。自分で言うのもなんですが、勤めていた複数の会社は泣く子も黙るような大企業でした。そのような企業勤めを辞めて、キリスト教を真剣に勉強しようと思い立ってから実際に辞めるまでには五年間もかかりました。それは、仕事を辞めるという決断そのものが難しかったためでもありますが、同時にその五年間は仕事を辞めてからの生活費や学費を稼ぐための時間でもありました。これまでずっと頑張って来た仕事を辞めてまで勉強をするのだから、それなりに時間をかけて本場で腰を据えて勉強をしたいし、そのためにはそれなりの蓄えがなくてはならないだろうと、それまでのライフスタイルを見直してじっくりと貯蓄や投資に励んだ五年間でした。そして、そのめどがついたときに仕事を辞めてイギリスに留学しました。何がいいたいかといえば、人生の大きな方向転換をするためにはどんな人でもそれなりの準備をするだろうということです。

しかし、ペテロやアンデレは、それこそ一瞬で仕事を辞める決意をしたように見えます。では、彼らが本当にイエスにやりたいことやヴィジョンを理解していたかといえば、実は全く理解していなかったことが後で明らかになります。彼らはイエスのことを良く分かっていないのに、何もかも捨てて彼について行く決断をしたということです。しかも、ペテロにはすでに奥さんがいたのです。マルコ福音書には、イエスがペテロのしゅうとめの病を癒したという記述がありますが、しゅうとめがいるということはペテロにはすでに奥さんがいたのです。家族を養う責任がある人間が、それを捨てていきなり無名の青年についていくなどということができるでしょうか。私自身については、仕事を辞めて留学をするという大胆のことができたのもそれは私が独身だったからで、自分の性格を考えればもし妻子がいれば仕事を辞めるという決断はあり得なかったと思います。ペテロがイエスの弟子になることで、イエスの秘書として給料がもらえるとか、何らかの安定した収入の道があるということなら話は別ですが、イエスは報酬を受け取らずに癒しを受け取っていたので基本的に無一文の放浪者です。そんな人の弟子になって、いったいどうするつもりか、家族への責任はどうするつもりなのか、というのが普通の感覚ではないでしょうか。

しかし、ここで注意すべきことはイエスはペテロを弟子とした後にどこか他の町にいってしまったのではなく、ペテロの町であるカペナウムに留まったのです。ペテロがカペナウムに留まった以上、ペテロとその家族との関係が切れることはありませんでした。それどころか、イエスが拠点にしたのはなんとペテロの実家であったように思われます。つまりどういうことかと言えば、ペテロがイエスの弟子となる決意をしたときに、確かに彼は漁師という仕事を捨てたのですが、彼の家族そのものを捨てたわけではないということです。反対に、ペテロの実家の人々は、それこそ家族ぐるみでイエスを支援、サポートし、家族を代表してペテロとアンデレをイエスの元に遣わしたとさえいえるということです。ペテロの実家は、人を雇えるぐらいの割と豊かな漁師を生業とする家だったと思われます。ですからペテロがいなくなっても、なんとか漁師の家業を続けられるぐらいの余裕というか、力があったのでしょう。それにしてもペテロは一家の大黒柱です。そんな人物をイエスの弟子とすることに同意して送り出したというのは、ペテロの家の人たちがイエスの非凡な力を認めて、彼について行けばペテロも大出世できるかもしれない、ペテロが出世すればペテロの実家も大きな恩恵に与れるだろうという打算というか、野心があったとさえいえるということです。実際にイエスはペテロのしゅうとめの病をいやすという奇跡を行っています。それを目撃した人たちの驚愕は想像を超えるものがあります。皆さんも、家族の中に医者もお手上げの難病を患った人がいて、その家族の病を奇跡的に治した人がいたら、それこそ尊敬を通り越して崇敬の念すら覚えるのではないでしょうか。ペテロの家族の人たちは、イエスが本物の神の人だと認め、彼を何としてもサポートしようという気持ちになったのでしょう。

このように、ペテロやアンデレ、また彼らとは漁師仲間で商売上のつながりがあったであろうヤコブやヨハネは、このイエスがイスラエルを変える、イスラエルの大群衆を率いて世界を変える可能性のある人物だと見込んだのでしょう。それが彼らの動機でした。現代的に言えば、いわゆる宗教の立派な先生に弟子入りするというようなことではなく、新進気鋭の政治家を熱心にサポートする無給秘書になったという感じでしょう。

そのイエスは実際目覚ましい活躍を続けていきます。彼がまず初めに行ったのは病の癒しでした。イエスはあらゆる病を癒された、となっていますが、主としてイエスが癒したのは今日でいうところの重度の精神疾患、心の病であったと思われます。その典型は、いわゆる悪霊憑きとよばれる現象で、悪い霊に取りつかれたのだと人々が考えるような病でした。自分で自分を痛めつける、いわゆる自傷行為を行うような人たちです。自傷行為については今日医学的な知見が積み上げられていますが、これは個人の問題というより社会病理であるということが言われています。今日の若者の10人に1人が精神的な病の診断を受けているといわれ、そうした若者の中にも自傷行為を繰り返す人が少なくないということです。しかし、なぜ自分で自分を傷つけるようなことをするのでしょうか?その原因の一つは、逆説的に聞こえるかもしれませんが痛みを和らげるためなのです。痛みを和らげるために自分を傷つけるなんてことがあるのか?と思うかもしれませんが、あるのです。というのは心に耐えられない痛みを抱えている人がいます。その人が自分の体に傷をつけると、脳の中で痛みを和らげるような成分、一種の麻酔や麻薬のような成分が分泌されるのです。そのおかげで、もともと自分の心に抱えていた痛みが軽減されるのです。イエスが癒した人々の多くがそのような人たちだったと思われます。では、イエスはどうやってそうした人たちを癒したのでしょうか。それは、イエスが超自然的な力で彼らを癒したということもあったかもしれませんが、それ以上に彼らの中に備わっている病をいやす力、いわゆる自然治癒力を高めたということがあったように思います。自然治癒力が発揮される条件の一つは、心の在り方です。前向きな心や強い信頼感は自然治癒力を高めます。イエスは癒しをする際に信仰を求めましたが、それは神への強い信仰、揺るぎない信頼こそが彼らの心を癒す力を引き出すことが分かっておられたのです。心の病に苦しんでいた人たちは、「私は神に見捨てられた」という気持ちに囚われていました。その原因は、社会から見捨てられたような立場にいたからでしょう。当時の人々は重税に苦しめられ、社会的に弱い立場に置かれた人たちを顧みる余裕を失っていました。こうして「自分は社会にとって何の役にも立たない、神様にさえ見捨てられた者なのだ」という絶望感にさいなまれた人たちは心の病を負い、それが体にも影響して様々な病を発症しました。イエスはこうした病の根本原因、つまり彼らの心の疎外感を癒し、彼らが再び神と人とに向き直ることができるようにしました。イエスのもっともすぐれた力とは、心を閉ざした人々に近ずく力、今風に言えば共感力というのでしょうか、彼らの心に再び希望の燈を灯す力にあったように思います。

イエスの働きはこのような癒しの業だけではありませんでした。さらに人々を驚かせたのはイエスの教師としての際立った能力です。専門の教育機関で訓練を受けたことがない、今でいえば学歴のないイエスが、聖書の教えを実に新鮮に、聞いたこともない言葉で解き明かすのです。これについては次回以降のテーマになりますが、こうした優れた教師としてのイエスが、癒し人としてのイエスと共に彼の名声を高め、噂は人伝えに村々に町々に伝わり、今や多くの人がイエスに会うために押し掛けるようになりました。このイエスこそイスラエルを贖うために神が遣わした人なのではないか、という期待が高まったのです。ですので、ペテロの家のように一族を挙げてイエスを応援しようという人たちも現れたのです。しかし、残念ながら彼らはイエスの意図がまだ全然わかっていませんでした。イエスの教えはあまりにも新しすぎて、彼らの理解を超えていたからです。それでも、イエスは一生懸命彼らに教え続けます。その詳しい内容については次回以降に見ていくことにします。

3.結論

まとめになります。今日はガリラヤで活動を始めたイエスの行動を見て参りました。イエスが最初になさったことは、弟子、あるいは同志を集めることでした。イエスはイスラエル社会を根本的に変えようとしていました。そのためには自分一人でできることには限界があります。ですから仲間を求めたのです。では、イエスはどういう基準で仲間を集めたのでしょうか?いわゆるできる人、有能な人たちを集めようとしたわけではないようです。むしろイエスが求めたのは普通の人たちでした。それはなぜか?普通の人たちには普通の人たちの気持ちが理解できるからです。イエスは人々を支配、管理するための能力の高い人たちを求めたのではなく、人々の気持ちが分かる人たちを自分のチームに加えたのです。なぜならイエスが思い描いた神の国は、一部のごく少数のエリートが大衆を支配するというような共産主義やグローバル資本主義のような社会を目指したのではなく、偉い人ほど率先して人々のために働く、そのような王国だからです。イエス自身が率先して自らの行動によって神の国の姿を人々に示しました。イエスは人々の病をいやしましたが、そのために報酬を取ることはしませんでした。では生活ができないではないか、と思うかもしれませんが、生活についてはイエスは人々の善意に頼ることを良しとしたのです。つまり、無償で人々のために働きながらも、自らの生活は人々の善意に頼るということをしたのです。このような助け合い、相互扶助こそイエスの目指す神の国の姿だからです。しかし、イエスの神の国の驚くべき性格、革命的と言ってもよい新しさは彼の教えの中にこそ見いだされます。それを次回以降に学んで参りましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今日からいよいよ神の国のための活動を始めたイエスの働きを見て参りました。イエスの行動から、私たちもどのように御国のために働くべきかを学ぶことができますように。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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神の国が近づいたマタイ福音書4章12~17節 https://domei-nakahara.com/2025/08/17/%e7%a5%9e%e3%81%ae%e5%9b%bd%e3%81%8c%e8%bf%91%e3%81%a5%e3%81%84%e3%81%9f%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b84%e7%ab%a012%ef%bd%9e17%e7%af%80/ Sun, 17 Aug 2025 00:24:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6712 "神の国が近づいた
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1.序論

みなさま、おはようございます。過ぐる週は終戦記念日でした。戦後80年の記念の年でもあります。私たち日本の国は、この80年間まがりなりにも戦争をせずに歩んでこられました。しかし、1945年より前の80年間は戦争に次ぐ戦争で、日本は何度か勝利を収めましたが最後は壊滅的な敗北で終わりました。これからの次の80年が平和な時代になるか、動乱の時代になるか、正に私たちは岐路に立たされています。

今日は、そのような戦後80年ということを踏まえ、イエスの時代の事を考える前に、少し現代の世界についてお話しします。なるべく分かりやすくお話ししたいと思います。今世界ではいくつもの紛争が続いています。今のところアジアでは大きな紛争はありませんが、しかしアジアには超大国でアメリカの最大のライバルである中国があります。この米中対立の狭間にいる日本は難しい立場に置かれています。今日のアメリカと中国は鏡の裏表のような関係にあります。今、トランプ関税が大きな話題になっていますが、この関税の一番のポイントはいびつな米中関係にあります。昨年のアメリカの貿易赤字はなんと185兆円もあります。日本の一年間の税収の二倍以上という巨額の赤字です。昨年アメリカは、グロスではなくネットで185兆円もの買い物を外国からしたことになりますが、しかもその代金は外国からの借り入れで賄っています。ものすごく単純化すれば、アメリカは毎年外国に185兆円もの借金をしていることになります。ちなみに、一番多くお金を貸しているのが日本です。こうした赤字の結果、アメリカの外国に対する純負債は4000兆円にもなります。日本の国債残高が1000兆円になったと大騒ぎしていますが、日本は家計資産だけで2000兆円もありますので、これくらいは十分吸収できますが、アメリカは国内の人々で貯金が全くないという人が人口の四分の一に達すると言われています。国内の貯蓄が十分ではないので、外国からお金を借りて国を回しているのです。因みにアメリカ政府の負債残高は6000兆円にも達しようとしていると言われています。アメリカは国も家計も借金で生活しているような状態です。

反対に、中国の貿易黒字は155兆円にもなります。つまり中国はこれもグロスではなくネットで155兆円もの商品を海外に売りまくっているのです。アメリカの貿易赤字と中国の貿易黒字がほぼ同じだということが、今の世界の歪みを象徴しています。なぜこんなことになるのかと言えば、中国はモノを作る力はものすごくあるのですが、中国人にはそうしたモノを消費できるだけのお金持ちの消費者が十分にはいないのです。来日中国人の爆買いからも分かるように、確かに一部の中国人はものすごく金持ちですが、大多数の中国人は貧しく、モノを買いまくるだけのお金をもっていません。ですから中国は自国で作った製品が自分の国では売れないので、外国に売りまくるのです。そして、それを一番たくさん買っているのがアメリカ人だということです。しかし、アメリカ人がアメリカで作ったものではなく、中国で作ったモノばかり買うようになると、どうなるでしょうか?アメリカでモノを作らなくなるということは、アメリカで仕事がなくなってしまうということです。モノづくりの仕事がなくなると、もっと賃金の安い、地味な仕事しかなくなります。しかし、そうした仕事は大量の移民が奪っていくという状況になります。こうして追い詰められたアメリカのかつての中産階級の人々の怒りがトランプ政権を生み出したのです。

反対に中国は、輸出を続けるためにはライバルの国々との競争に打ち勝たなくてはなりません。今や中国はインドやベトナムなど、多くの輸出のライバルと戦わなければなりません。彼らに勝つには、賃金を下げて製造コストを下げないといけません。しかし、低賃金に留めておく結果、人民は豊かにならず、中国国内での消費は盛り上がりません。ですので、ますます作ったモノは外国で売るしかないという悪循環に陥ります。

このように米中のもたれあいのような貿易関係は中国人民もアメリカ国民も豊かにせずに、一部のグローバル企業や資本家のお金持ちだけが儲かるという歪んだ構造をますます強化します。没落した中産階級がとんでもない方向に向かう危険性は、かつて第一次大戦で敗れたドイツの中産階級が徹底的に痛めつけられた結果ナチスを生み出してしまったケースからも明らかなのですが、しかし各国の政治の行方を決めるグローバル企業や富裕層はグローバリゼーションという企業に有利な国際商業体制を何としても維持しようとします。中産階級の復活を公約に当選したトランプ政権ですが、果たして今の高圧的な関税政策でそれが実現できるのか、甚だ心配なところです。

恐ろしいのは、外国にモノを売りまくるという国家戦略が出来なくなる中国で人民の貧困問題がますます深まり、それを打開するために外国への拡張政策を取ってしまうということです。これはかつて満州国を作った日本のやり方ですが、それと同じ轍を踏んでしまうかもしれないということです。そうならないためには、中国が人民を豊かにして内需主導の健全な経済成長に移行することなのですが、それが実現できるかどうかが今後の世界の状態を決定するように思われます。中国もアメリカも超格差社会で、アメリカではウォール街のエリートが、中国では共産党幹部ばかりが儲かる仕組みになっていますが、この超格差社会を何とかしない限り、世界は再び大戦争の時代に突入してしまうかもしれません。

さて、なぜ説教の冒頭でこんな国際政治経済の話をしたのかといえば、それはこの話がイエスの神の国の話と大いに関連しているからです。イエスの時代のユダヤの人々も、中産階級の没落という問題に直面していました。当時のユダヤは、ローマ帝国の植民地になり、ローマから搾り取るだけ搾り取られた結果ユダヤの民衆は貧困に苦しみ、生活苦に追い込まれた人々は四つの道を選びました。取税人、売春婦、強盗、そして物乞いです。こうした職業は、中産階級から脱落してしまったユダヤの人々がやむなく選んだ生き方だったのです。取税人はローマのために人々から税を徴収する仕事ですから、人々からはローマの犬として蔑まれます。それでも生きていくためには仕方がないと、そういう道を選ぶ人たちがいました。売春婦、あるいは遊女になるのも貧困の故でした。かつて戦前の日本で農家の娘さんたちが貧しさのゆえに遊郭に売りに出されたように、当時のユダヤの若い女性たちは泣く泣くそのような生き方をすることになりました。しかし、体を売ることすらできない体の不自由な貧しい男性たちは物乞いという道を選びました。選んだというより、それしか生きる道がなかったのです。反対に、暴力を用いてでも社会の理不尽に立ち向かっていく人たちもいました。強盗というと、押し込み強盗のような恐ろしいイメージがありますが、当時の強盗はユダヤの民衆から人気がありました。それは彼らが同胞のユダヤ人ではなく支配者のローマ人や、ローマと協力して懐を肥やしていたユダヤ人を標的にしていたからです。彼らはいわばレジスタンスの闘志でした。

このように、極端な格差社会の中で生きていた人々は様々な方法で生き延びる道を模索していました。そうした中で、最終的にユダヤの人々の心を捉えたのが最後の道、暴力で抗う道でした。しかも、彼らの正典である聖書にはこうした力による抵抗を支持するように思える記述がありました。それが「聖戦」です。聖戦とは、力なきユダヤの民が神の力によって強大な敵を打ち破るという奇跡的な戦いのことです。ユダヤの人々は、今こそこの聖戦を通じてローマの支配を打ち破り、神の支配、神の国を打ち立てようという希望に突き動かされるようになります。しかも、聖書にもそうした未来を指し示す預言があるのです。神の国到来の預言として有名なのがダニエル書の一節です。ダニエル書2章44節をお読みします。

この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。

このダニエルが語った永遠の国こそ、イエスの時代の人々が願った「神の国」、「天の御国」です。イエスはこの神の国をもたらそうとしているのですが、しかしこれは当時のユダヤの人々が考えたように、暴力によってもたらされるようなものではないのです。イエスはこのユダヤ社会の問題、超格差社会の問題への怒りを、外部のローマに向けさせるのではなく、むしろユダヤ社会そのものを変革させようとしました。それは旧約聖書に書かれているヴィジョン、助け合い、相互扶助によって形成される社会です。イエスはこのような、人々が愛し合い、助け合う社会を再び作り上げようとします。そのために、この社会からはじき出されてしまった人々、取税人や売春婦、物乞いや強盗たちに語りかけ、彼らをイスラエル共同体の中に連れ戻そうとします。もちろん、ローマによる力の支配を容認したわけではありません。しかし、力には力で対抗するというのはイエスのやり方ではありませんでした。むしろ、イスラエル社会を世の光として輝かせ、その光によってローマを変えていこうとしたのです。このようなヴィジョンをイエスは人々に理解させなければなりませんでした。

2.本論

さて、前回はイエスが荒野でサタンの試みを受けたところを見て参りました。イエスのバプテスマのヨハネによる洗礼、荒野での四十日間の断食、そして今度はバプテスマのヨハネの逮捕です。かなり目まぐるしい展開ですが、このヨハネの逮捕はイエスにとって非常に大きな意味がありました。なぜなら、この時からイエスの公生涯が始まったからです。イエスは、ある意味でヨハネの働きを承継しつつ、同時にヨハネと袂を分かったと言えます。ヨハネの志を受け継ぎつつ、彼から離れたということです。この二つは矛盾しているように思われるかもしれません。しかし、ヨルダン川のあるユダヤの地を離れてガリラヤに北上したことは、ヨハネの教団の本拠地を離れたということです。ヨハネが捕まった後も、彼の弟子たちはヨルダン川にいたのですから、イエスは彼らから離れたということです。イエスがヨハネ教団のガリラヤ支部となったわけでもありません。なぜならイエスは今後、ヨハネの弟子たちと連携して宣教活動をしたわけではないからです。このように、イエスは自らの活動について、明らかにヨハネのそれとは一線を引いています。同時に、ヨハネが捕まった後に宣教活動を開始したというタイミングも重要です。このタイミングは、イエスが自らの活動について、ヨハネを引き継ぐものだと見なしていたことを示唆します。つまりイエスはヨハネの活動をそのままそっくり受け継いだというよりも、批判的に継承したということです。神の支配が近いというヨハネの主張そのものは正しい、けれども、ではどのようにその支配が到来するのかという点については、イエスはヨハネとは異なるヴィジョンを抱いていたのです。

イエスはこう語りました。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」この言葉は、3章2節にあるバプテスマのヨハネの言葉と全く同じですね。天の御国というのは直訳すれば天の王国です。前に、マタイはマルコ福音書を参照し、マルコ福音書を拡大してマタイ福音書を書き上げたという話をしました。マルコ福音書では、イエスは「時は満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」と語っています。マルコでは「神の国」がマタイでは「天の御国」になっています。何が違うのでしょうか?答えはこの二つには全く違いはありません。では、なぜマタイは「神の国」を「天の御国」に変えたのでしょうか。マタイは、福音書の読者にユダヤ人が数多くいることを想定していました。ユダヤ人には十戒があります。そこでは、「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない」と命じられています。ですから「神」という言葉を「天」に置き換えたのです。日本語でも「天に唾する」と「神に唾する」というのは意味は同じですよね。それと同じように、マタイもなるべく「神」という言葉を用いないようにしたのです。

このイエスの宣べ伝えた「神の国」、「天の御国」はローマによる力の支配とは異なる形の支配を目指します。「支配」という言葉の意味、概念すら変えてしまおうとしたのです。支配という言葉には否定的な響きがありますよね。何と言いますか、無理やり相手を従えるという感じです。ピラミッド型の構造で、上に行けば行くほど権力とお金が集まるので、人々は互いに競い合い、少しでも上を目指そうとする、そして頂点にたどり着いたものが支配をするという、そんな具合です。しかしイエスは、上に立つ者が奴隷として仕えるという、まったく逆の世界を作り出そうとします。ですからイエスは、ピラミッドの底辺にいる人々を救い出し、支えようとしたのです。しかもそれを義務感や正義感からではなく、愛によって、困難な人生、屈辱的な人生を余儀なくされている人々への共感の力によって成し遂げようとしたのです。

3.結論

まとめになります。今日はイエスが「神の国」、「天の御国」の宣教を始めたことを学びました。イエスが取り組もうとした問題は、現代にも通じる問題です。それは「超格差社会」の問題です。イエスの時代の人々は、この格差問題を解消するために、暴力革命の道を選ぼうとしました。現代の資本主義体制に対しても、これを暴力革命によって打倒しようという思想がありますが、それと同じようなことを当時のユダヤの人々は考えていたのです。

しかし、イエスにはまったく別のヴィジョンがありました。もちろんイエスも当時のユダヤのエリートたちを厳しく批判しました。彼らは貧しい人たちのことを考えずに、自分たちの私腹を肥やすことばかり考えていたからです。けれども、イエスは彼らを暴力的に打倒しようとはしませんでした。むしろ暴力を拒み、十字架の道を選びました。イエスは最期まで、仕えるという生き方を身をもって示したのです。

私たちの時代も格差社会という大きな問題を抱えています。この問題を、暴力や敵意ではない形で解決するにはどうすればよいのか?そのためには、私たちは外部の敵ではなく内なる貪欲と戦わなければなりません。社会のトップにいる人たちがお金のことしか考えないようだと、私たちも彼らから悪い影響を受けてしまいます。合法的な搾取が出来ない人は、非合法な搾取、オレオレ詐欺のようなことに走ってしまうのです。しかし、私たちは今の社会の腐敗したエリートではなく、イエス様こそを私たちの模範、目指すべき姿とするべきです。イエスがその教えと自らの生き方によって示した生き方によってのみ、「神の国」は到来するのです。私たちもこれからますますイエスの生き方を深く学んでまいりましょう。お祈りします。

天におられます我らの父よ。私たちはあの大いなる敗戦から80年の間、曲がりなりにも平和を享受できましたが、その間も世界では多くの悲惨な戦争がありました。これからの未来を平和な時代とするために、あなたの教会を用いてください。そのためにも私たちにより深く主イエスのことを学ばせてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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荒野での試練マタイ福音書4章1~11節 https://domei-nakahara.com/2025/08/10/%e8%8d%92%e9%87%8e%e3%81%a7%e3%81%ae%e8%a9%a6%e7%b7%b4%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b84%e7%ab%a01%ef%bd%9e11%e7%af%80/ Sun, 10 Aug 2025 00:28:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6690 "荒野での試練
マタイ福音書4章1~11節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。猛暑が続きますが、これはまだまだ続きそうです。しかし、現代の日本では冷房がありますし、なんとか暑さをしのぐ手段があります。それに対し、ユダヤ・ガリラヤの地の荒野は草木の茂らない砂漠ですので、暑さをしのぐためのものが何もありません。預言者ヨナが太陽の照り付ける荒野でとうまごにすがり、とうまごながなくなったあとは「死んだほうがましだ」というほど苦しみました。そのような荒野に、自ら四十日四十夜留まられた主イエスの話を今日は見て参ります。

今回の箇所は極めて重要な箇所です。イエスの公生涯はいつ始まったのかといえば、それは前回のバプテスマのヨハネから洗礼を受けた時からだ、と言ってよいでしょう。イエスはヨハネから洗礼を受けた時に、「あなたは神の子だ」という天の声を聞きました。これはイエスにとって「天命を知る」という瞬間でした。イエスは、自分には神から与えられた特別な使命がある。それはこの世界に神の支配をもたらすことだ、ということを神の声を聞いて聖霊を受けた時に悟ったのでした。

しかし、この世界に神の支配をもたらすというのはいったいどういうことなのでしょうか?そして、それはどのようにして実現できるのでしょうか?これは非常に漠然とした話に聞こえますが、当時のユダヤ人にとって明らかなことが一つありました。彼らは神の支配を待ち望んでいましたが、それはつまり、今は神の支配が実現していないということです。なぜなら当時、神の支配ではなくローマの支配の下にユダヤ人たちは置かれていたからです。ですから、このローマの支配が終わらなければ神の支配は来ないということになります。しかし、当時のローマ帝国は現在のアメリカ合衆国のような世界の超大国です。小さな民族に過ぎないユダヤ人がどうやってローマに勝って彼らをユダヤの地から追い出すことができるのか、という現実的な問題があります。そもそも支配者であるローマとは戦争をするしかないのでしょうか?他の道はないのでしょうか?実際、ユダヤのエリートたちはローマと協力することで自らの権力基盤を固めていました。ユダヤ人の中にも、ローマとうまくやることを好んだ人もいたのです。このように、ユダヤ人の中にもローマについて様々な意見がありました。

イエスは神の支配をもたらすという自らの天命を知り、そしてそれを実行に移す前に、自分は何をどうするべきなのかをよくよく吟味する必要がありました。神の声を聞いたイエスですが、さらに明確な神の声を聞くためにイエスは荒野に行くことにしました。それはかつて、イスラエルを率いるという大きな使命を与えられたあのモーセがしたことでもありました。モーセは十戒の書かれた石板を受けるためにシナイ山に行きましたが、その時の様子が申命記9章9節に書かれています。お読みします。

私が石の板、主があなたがたと結ばれた契約の板を受けるために、山に登ったとき、私は四十日四十夜、山にとどまり、パンも食べず、水も飲まなかった。

モーセは神の声を聞くために、四十日四十夜の断食を断行しました。イエスもまた神の声を聞くために、荒野で四十日四十夜の断食を行うことにしたのです。イスラエルの神は荒野、砂漠の神だからです。しかし、砂漠にいるのは神だけではありません。神の敵対者もいるのです。これらのことを頭に起きながら、今日の聖書箇所を読んで参りましょう。

2.本論

では、4章1節です。先にイエスは神の声を聞くために荒野に赴いたと申しましたが、ここではむしろ神の敵対者、つまり悪魔の試みを受けるために荒野に赴いたと書かれています。これは矛盾していません。なぜなら悪魔の試みと対峙することで、イエスは神の真の御心を知ることになるからです。では、イエスを試みる悪魔とはいったい何者なのかをまず考えていきましょう。

悪魔はサタンとも言われますが、驚くべきことに、サタンはそもそも神に仕える天使でした。サタンも神のために働いていたのです。では、サタンの仕事とは何だったのでしょうか?それがヨハネ黙示録12章10節に書かれています。「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」この「告発者」という言葉が実はサタンというヘブル語の意味なのです。告発者とは何かといえば、それは検察官のようなものです。検察官とは、罪を犯した人を裁判所に訴えて罰を下させるという役割を担った政府の役人です。サタンも同じように、神に仕える役人として、犯罪者、つまり人間の罪を暴き出して神の法廷に訴え出て、神に人間に対する裁きを下すように促すという役割を果たしていたのです。しかし、サタンは段々と自分に与えられた役割から逸脱していくようになります。サタンはついには反逆の天使として神と対立することになりますが、それは彼が自らの職分を超えて神の御心に反することを行うようになったからです。本来は、人間の罪を発見してそれを神に告発するという役割だったのに、徐々に人間を誘惑して罪に引きずり落とす、堕落させることを本業とするようになっていったのです。たとえて言えば、罪を見つけて逮捕するのではなく、罪を犯すように誘導しておいて、実際に罪を犯したところで捕まえる警察官のような、そのような悪質な存在になっていったのです。こうしてサタンは神の被造物である人間を破滅させる恐ろしい存在になっていったのです。しかもサタンは人間を長年観察しているので、人間がどのような生き物で、どのように誘惑すれば良いのかを知り尽くしています。ですからサタンは人間の弱いところをつついて、自滅させるのです。こうしてサタン、あるいは悪魔は人間の最悪の敵となっていきました。サタンは同時に、人間を意のままに動かすようにもなっていきます。人間の弱い部分を知り、人間が求める人参、それは権力だったりお金だったりしますが、それをぶら下げて人間を思い通りに操縦するようになっていったのです。今回の荒野での誘惑のルカ福音書の並行箇所では、サタンはイエスに「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されていているので、私はこれと思う人に差し上げられるのです」と言っていますが、サタンにそのような力があるのは人間を知り尽くして自由自在に操縦できるからなのです。

その恐るべきサタンが、荒野で断食をするイエスのところにやってきました。サタンの究極の目的は、人間を堕落させ、神に逆らわせることにあります。しかし、サタンはイエスのことを知っています。イエスは神の子であり、サタンの誘惑に乗るような人ではありません。あのヨブも、サタンからいくら痛めつけられても神を呪うことはしませんでした。イエスはヨブよりも偉大な方です。ですからサタンは、甘い誘惑も恐ろしい脅迫も、暴力さえもイエスを屈服させたり堕落させたりすることはできないことが分かっていました。そこでサタンが狙いを定めたのはイエスそのものではなくイエスの大義、使命でした。すなわち「神の王国をもたらす」、「神の支配をこの地上世界にもたらす」というイエスの天命でした。つまりサタンはイエス本人ではなく、イエスの神の国、神の王国そのものを堕落させようとしたのです。

イエスは世界を変えようとしています。その目標は、いってみれば政治家のようなものです。イエスは人の心の中だけでなく、社会そのものを変えようとしているからです。かつてのオバマ大統領が選挙キャンペーンで「チェンジ!」、すなわち世界を変えるということをスローガンにしていましたが、イエスもまた人々の心の変化を通じてこの世界そのものを変えようとしているのです。しかし、世界を変えるためには人々がイエスの元に結集しなければなりません。人々がイエスのヴィジョンに賛同し、彼のために働かなければならないのです。そのような人が多ければ多いほど、世界を変えられる可能性は高まります。

しかし、イエスは全くの無名の青年です。地盤も看板もカバンもありません。そんなイエスがどのように人々の支持を集めて世界を変えることができるのか?そこでサタンがやって来たのです。私があなたの参謀、アドバイザーになってあげましょう。私の言うことを聞けば、あなたの目指す神の王国が実現できますよ、と。サタンの狙いは、イエスのもたらそうとする神の王国を、これまでのこの世の王国とさほど変わらないものとしてしまうことでした。イエスの王国が、この世の王国とさほど変わらない原理・原則で運営されるのなら、サタンもまたその王国に介入しやすくなるからです。この世の王国の原理・原則とは「カネと力」、つまり経済力と軍事力です。かつての時代の王国ばかりではなく、今日の民主主義諸国が目指すのもつまるところは経済力と軍事力です。その頂点にいるのがアメリカと中国ですが、他の国々も経済と軍事の増強を目指しています。サタンはイエスにも、同じような提案をします。その内容は、ひと言でいえば「パンとサーカス」です。これは、当時の超大国であるローマ帝国がその領民を支配・コントロールするための手段でした。人民が無批判に帝国を支持するようにするためにはどうすればよいか、それは彼らにパンすなわち食事と、サーカスつまり娯楽・エンターテインメントを与えればよいのだ、ということです。人民は腹が一杯になり、娯楽を楽しんでいる限りは帝国に逆らわずに従順な民となるだろうということです。

悪魔は、イエスにも同じことをするように勧めます。あなたがユダヤの人民の圧倒的な支持を集めるにはどうすればよいか?それには二つのものを人々に与えればよいのですよ、と。一つは言うまでもなくパンです。あなたは神の子としての力を使って、人々が求めるだけパンを与えてやりなさい。そしてもう一つは偉大なスペクタクル、人目を驚かす奇跡を行って人民の度肝を抜きなさい、というのです。神殿のてっぺんから飛び降りるというサーカスまがいのことを行って、それで奇跡的に助かれば、人々はあなたを神の子だと信じるようになるでしょう、と。この二つを行えば、ユダヤの人民たちはあなたにひれ伏して、あなたの命じることは何でもするようになる。彼らを使ってあなたは神の支配を打ち立てればよい、というのがサタンからの提案でした。つまりサタンはイエスにローマと同じことを、ローマをはるかに上回るスケールで行うようにと促すのです。そうすれば、ローマさえ凌ぐ神の王国、いや帝国を作り出せるでしょうと。実際、民衆の人気を得るためのこれが一番確実な方法のように見えます。私たち現代人も、つまるところ求めているのはグルメとエンタメなのではないでしょうか?

しかし、イエスはその提案を拒絶します。神の王国は、ローマ帝国をさらに強大にしたようなものではないのです。むしろ、神の王国はローマ帝国とは全く異なる原理・原則、価値観によって打ち立てられるべきものでした。パンは人生の目的ではなく、手段です。人はパンによって生きますが、パンのために生きるのではないのです。そんなのはパンを十分に持っている、すなわちお金を十分に持っている人のきれいごとではないか、パンが満足に食べられない状態では人生の意味も目的もないんだ、まずは食べ物なんだ、という反論があります。しかし、これはよく言われることではありますが、この地球上には食糧は十分にあります。かつては人口が爆発的に伸びると世界中で食糧危機が起きるとまで言われていましたが、世界の人口が80億人にもなった今日でさえ、私たちの生きる世界、地球はその人口を養うだけの十分な食料を供給しているのです。では、なぜ世界にはまだこんなに貧困や飢えの問題があるのか?それは分配がおかしいからです。一部の人があり余る食事を独占しながら、多くの人たちには食事が回ってきません。貧富の差が極度に拡大し、世界の人口の上位わずか1%の人々の持つ富は、95%の人々の富の合計よりも多いと言われてしまいます。このような富の偏在を生む貪りや貪欲こそが、飢餓問題を生み出しています。そしてこのような貪りや貪欲を戒めて抑制するものこそ、神のことばなのです。ですからイエスは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と語ったのです。

奇跡についても同じです。確かに神は、正しい人が不慮の事故で死にそうになったときに、その人を奇跡的に助けるということをなさるかもしれません。しかし、奇跡を行うことで人々をコントロールしよう、支配しようなどという不純な動機を持つ人を神が助けることなどあり得ないことです。そのような人は神の力を自分の思い通りに用いようという不遜な心を持つ者です。そんな人を神が助けることはないのです。ですからイエスは「あなたの神である主を試みてはならない」というみことばによってサタンの提案を退けます。

パンとサーカスという手段を拒否されたサタンは、最後の誘惑を試みます。それは彼がこれまで営々と築き上げてきたもの、すなわち人間を巧妙に操ることで手に入れた世界のあらゆる富と栄光をイエスに見せて、これを全部やるから私を拝めと言ってきたのです。サタンはよく分かっていました。このイエスという人物をコントロールできなければ、自分はすべてを失うだろうということを。ですから、それこそサタンは全財産を差し出すことでイエスを自分の支配下に置こうとしたのです。しかし、そもそもこの全世界は本当にサタンのものなのでしょうか?いいえ、聖書にあるように、「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである」(詩篇24:1)。イエスもそれが十分わかっていました。サタンは人間を欺き騙すことでこの世界をコントロールしているに過ぎず、本当に世界を所有しておられる方は神のみであることを。そこでイエスはこう言われました。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある」と。

こうしてイエスはサタンのすべての誘惑を退けたのですが、しかしサタンはこれで諦めたわけではありません。これからもイエスに付きまとい続けて、なんとか彼の神の王国の成就を妨害しようとし続けるのです。

3.結論

まとめになります。今日は荒野で試みを受けたイエスのことを学びました。イエスは人類の最大の敵であるサタンとの対決を通じて、自分が何をなすべきであるのかということをますますはっきりと知るようになりました。サタンの目論見は、イエスが打ち立てようとする神の王国をこの世の王国と変わらないものにしてしまうことでした。この世の王国は経済力と軍事力を増強してその力を高め、民衆には食事と娯楽を与えることで彼らをコントロールしようとします。サタンはイエスに対し、この世のあらゆる帝国にも勝る圧倒的な神の力を用いて民衆をコントロールしなさい、と提案します。それが神の支配を地上に打ち立てる一番の近道だと。しかしイエスはこのような提案を拒否します。神の支配はこの世の支配とはまったく異なる原理・原則で打ち立てられるべきものです。たとえそれが遠回りであっても、人々の心を神のことばで耕し、そこから芽を出し実を結ぶ収穫、それこそが世界を変える力であるということを明確にしました。ですからイエスは人々の病をいやすという奇跡以上に、人々を教育することに力を注ぎました。「教育」こそ神の王国運動の一番重要な要素でした。ですからマタイはその福音書に、非常に多くのイエスの教えを収録したのです。私たちはこれから段々とイエスの教えを学んでいきますが、それは私たちの価値観を根本的に変えてしまうような革命的なものです。そして、今回のイエスとサタンとの対話・対決の中にも神の王国についての大切な教えを読み取ることができます。私たちも今日の政治経済の中にイエスの教えを浸透させることが出来るように、力を尽くしてまいりましょう。お祈りします。

天地万物を創造し、治めておられる神様、そのお名前を賛美します。今日はサタンの誘惑を通じて神の支配、神の王国の本質を学びました。その支配をこの地上で実現させていくためにも、あなたの教会を祝福してくださいますよう、お願いいたします。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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ヨハネとイエスマタイ福音書3章13~17節 https://domei-nakahara.com/2025/08/03/%e3%83%a8%e3%83%8f%e3%83%8d%e3%81%a8%e3%82%a4%e3%82%a8%e3%82%b9%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b83%e7%ab%a013%ef%bd%9e17%e7%af%80/ Sun, 03 Aug 2025 00:22:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6667 "ヨハネとイエス
マタイ福音書3章13~17節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。私たちは今、マタイ福音書を読み進めていますが、今日の箇所はイエスの公生涯の第一歩ということで、大変重要な箇所です。では、イエスはその公生涯の始めに何をなさったのでしょうか?それが、バプテスマのヨハネから洗礼を受けたということでした。今日はこの行動の意味を考えて参りましょう。

バプテスマのヨハネはユダヤやガリラヤの様々な人々に洗礼を施していました。ヨハネは、天の国が近いというメッセージを携えて登場しました。その意味は、神の支配がもうすぐ実現する、より具体的には、現在のローマ帝国という外国の異教徒にユダヤの地が支配されている状態、またそのローマの傀儡であるユダヤの指導者によって統治される時代が終わり、イスラエルの神ご自身による支配が始まるというメッセージでした。それは政治的・社会的な大激変、変革の時となるでしょう。神の裁きはイスラエルの敵に向けられますが、しかしヨハネはイスラエル人、ユダヤ人なら誰でもその裁きを逃れる、救われるとも説きませんでした。むしろ、神の裁きは異邦人だけでなく、イスラエル人の中でも神に忠実に歩まない者にも下されると警告しました。それは数百年も前に預言者アモスが警告したことでもありました。アモスはこう言いました。

ああ、主の日を待ち望む者。主の日はあなたがたにとっていったい何になる。それはやみであって、光ではない。

イスラエル人は、イスラエルの神はイスラエル人をみな救ってくれると考えて、イスラエルの敵が滅ぼされる主の日を待ち望んでいましたが、しかし正義を求めないイスラエル人にとっては主の日は救いどころか裁きの日になるだろう、とアモスは語ったのです。バプテスマのヨハネもそれと同じことを語りました。彼は、こう語りました。

まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるからだ。斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

ユダヤ人たちは、自分たちは族長アブラハムのゆえに愛されている。だから、全地に神の怒りが下る時にも自分たちだけは大丈夫だ、救われると信じていました。それはちょうど、多くのクリスチャンがキリストの再臨の際の大いなる裁きの際に、自分はクリスチャンだから大丈夫だ、さばきに遭うことはないと考えているのと同じです。しかしヨハネは、ユダヤ人であるだけでは十分ではない、それにふさわしい実を結ばなければならないと教えました。まったく同じメッセージはクリスチャンにも当てはまることを忘れてはいけません。主イエスもこう言われました。

良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

このように、イエスのメッセージの中にはヨハネの教えを承継したものが確かにあります。それでは、ヨハネとイエスの関係はどのようなものだったのでしょうか?

イエスはバプテスマのヨハネのメッセージに共感し、彼の元にやってきてヨハネから洗礼を受けました。では、洗礼を授ける者と受ける者との関係はどのようなものでしょうか?普通に考えれば、授ける方が先生で、受ける方が弟子だということになりますよね。ということは、バプテスマのヨハネはイエスの先生だった、ということになります。さらには、バプテスマ、洗礼の目的は「罪の赦し」を与えるためです。ということは、イエスもまた、罪を赦される必要があったのだろうか、という疑問が生じます。

このように、イエスがヨハネから洗礼を授けられたということは、よくよく考えると私たちクリスチャンにとっては非常に不可解な、というか問題含みの行動なわけです。そして、福音書記者たちもこのことが大きな問題をはらんでいるのをよく理解していました。前にもお話ししたように、マタイ福音書はマルコ福音書より後に書かれています。マタイはマルコ福音書をよく知っていて、それを大きく拡大させたのがマタイ福音書です。では、マルコ福音書ではイエスの洗礼はどのように描かれているでしょうか。こうあります。

そのころ、イエスはガリラヤからナザレに来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。

このように、とてもシンプルな記述です。イエスとヨハネの間に交わされた会話は何もありません。イエスも、他の多くの人の一人として洗礼を受けられたという印象を受けます。マルコ福音書でも、ヨハネは自分よりさらに偉大な人物が現れることを予告していますが、イエスがその人物だとは述べていません。天からの声を聞いたのも、イエス一人だったという印象を受けます。ですから、バプテスマのヨハネから洗礼を受けた時点では、イエスはまだ無名の青年だったということになります。

それに対し、今日のマタイ福音書の記述からは、ヨハネはイエスを一目見た時から彼の権威を直ちに認め、自らをイエスの下に置こうとしている様子がありありと伝わってきます。ここでヨハネは、なんとかイエスに洗礼を受けることを思いとどまらせようとしています。マルコ福音書とは相当に異なる印象を受けます。では、どちらが歴史的事実に基づいているのかといえば、常識的に考えれば最初に書かれたマルコ福音書でしょう。イエスがヨハネから洗礼を授けられたという歴史的事実は誰もが認めることでしたが、しかしその事実はクリスチャンたちに狼狽や動揺をもたらしたことでしょう。なぜ神の子であるイエスが、ヨハネから洗礼を授けられる必要があったのか、と。その疑問に答えようとして、マタイはイエスとヨハネの会話を創作したのではないか、ということです。ヨハネは、自分こそがイエスにバプテスマを授けられるべきだと主張していますが、この言葉の歴史的な信憑性は疑われています。福音書の研究者の多くはそう考えています。おそらくバプテスマのヨハネは、イエスの弟子の一人として迎え入れ、洗礼を授けたのでしょう。もちろん、イエスとしばらく行動を共にする中で、イエスの非凡な力や資質に気が付き、彼のことを大いに注目するようになったと思われますが、最初に出会った時点では彼を特別扱いすることはなかったのではないか、ということがマルコ福音書の記述から伺えます。

実際、他の福音書にもイエスがヨハネの弟子だったことを仄めかす記述があります。ヨハネ福音書3章26節には、ヨハネの弟子たちがヨハネに苦情を言っている様子が描かれています。

先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。

これは丁寧語で訳されているので正しくニュアンスが伝わってきませんが、ヨハネの弟子たちはヨハネに文句を言っているのです。イエスという人はあなたの弟子だったのに、今やあなたよりも人気が出て人々は彼のところに押し寄せている。先生、悔しいではありませんか、ということです。また、イエスが復活して使徒たちが活躍した頃でさえ、バプテスマのヨハネの弟子たちはイエスの弟子たちと競合関係にあったことが使徒言行録からも分かります。

これらの点から考えると、イエスは最初バプテスマのヨハネに弟子入りしたものの、後に師であるヨハネとは袂を分かって独立したのだ、というように考えてもよいと思います。イエスはヨハネのメッセージに共鳴しつつも、彼のメッセージにどこか疑問や問題を感じ、別の道を歩むことを決意したということです。では、バプテスマのヨハネとイエスの違いとは何なのでしょうか?そのことを深く理解することは、イエスのメッセージの独自性を理解する上で役立つことでしょう。ですから今日はこの点を考えていきます。

2.本論

では、イエスはヨハネのメッセージのどのような点に問題を見出だしたのでしょうか?ヨハネやイエスの活躍した時代、当時のユダヤ人たちの悲願はユダヤの地を支配するローマ帝国を追い出してユダヤ民族の独立を回復することでした。そして、バプテスマのヨハネもこのような人々の願いを共有していたものと思われます。ヨハネはこの後、ヘロデ大王の息子でガリラヤの領主だったヘロデ・アンティパスに逮捕されて牢獄に入れられます。福音書では、この逮捕の原因はヨハネがアンティパスの不法な結婚を非難したからだと言われています。アンティパスは隣国の王女を妃にしていましたが、彼女と離縁して自分の兄弟の妻と略奪婚をしています。しかし、紀元一世紀の歴史家ヨセフスによると、ヨハネが逮捕されたのは彼の政治力が増して反乱が起きる恐れがあったからだとされています。この二つの記述は矛盾していません。ヨハネがアンティパスの不法な結婚を非難したのは確かでしょうが、アンティパスが民衆に人気のあったヨハネ逮捕にまで踏み切ったのは、ヨハネの政治的な影響力を恐れたからでしょう。ガリラヤという地域は、これまでも何度か政府に対する大きな暴動や反乱が起きています。アンティパスも反乱が起きるのを非常に警戒していました。反乱の芽を早い時期に摘もうとしたということは十分あり得ることです。

では、ヨハネの方はどうだったのか?彼は反乱のリーダーになるつもりはあったのか、といえば、そうではなかったでしょう。彼は自分自身のことを真打登場のための露払いをする役割を帯びていると信じていました。来るべきメシアのための道備えをするということです。では、その来るべきメシアはヘロデとその背後にいるローマへの反乱を率いる人物になるとヨハネは考えていたのでしょうか?この件については、そうだといってよいでしょう。後に牢屋に入っていたヨハネは弟子をイエスの元に遣わして、「あなたが来るべきメシアなのか、それとも他の人物が現れるのか」と尋ねています。これはイエスに対し、あなたは自分を幽閉しているヘロデ・アンティパスと戦う意思があるのか、と尋ねているのと同じようなものです。つまりヨハネは、自分が反乱のリーダーになるとは考えてはいなかったものの、ヘロデやローマに対する反乱そのものは否定していたのではなく、むしろ期待していたということです。

イエスがヨハネと袂を分かつことになった理由は、ここにあるように思えます。ヨハネは、多くのユダヤ人たちの悲願、すなわちユダヤの地からローマを武力で追い出すという期待を抱いていました。イエスは、このような武力抵抗の道が本当に神の御心なのか、ということを深く考えていたように思われるのです。イエスは段々と、ただ黙ってローマに服従するのでもなく、反対にローマに武力で徹底抗戦するのでもない、第三の道を模索し始めたということです。では、イエスが見いだそうとした第三の道とは何か、ということについてはこれからマタイ福音書が進むにつれて明らかになっていくのですが、その道が武力抵抗の道ではなかったことは明らかです。

3.結論

まとめになります。今日は、イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けた場面を学びました。今回の説教では、やや大胆な物言いをしました。それは、ヨハネの言葉、つまり「私こそ、あなたからバプテスマを受けるべきですのに」という言葉は、恐らく後の時代の創作ではないか、ということです。この時点では、ヨハネはイエスを弟子の一人として受け入れただろうということです。つまり、最初イエスはヨハネに弟子入りしたということです。そんなことがありうるのか、と思われるかもしれません。しかし、私たちが青年時代に自分のなすべきことは何なのかと思い悩むように、イエスもまた自分の使命について思いめぐらし、当時預言者として名高かったヨセフの元を訪れた、ということは十分あり得ることなのです。

私たちは、主イエスがその公生涯の始めから自分が何者で、何をなすべきなのかを完璧に分かっていた、というように考えがちですが、おそらくはそうではなく、イエスは自らの使命、天命を公生涯の祈りの生活の中で段々と把握していったのだろうということです。そして、イエスが自分の特別な使命を初めて明確に意識したのがヨハネから洗礼を授けられた時だと思われます。この時イエスは、聖霊が鳩のように自分に降って来るのを見ました。そして、これを目撃したのはイエスただ一人だったことでしょう。イエスだけがこの不思議な体験をして、また「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という神の声を聞いたということです。もちろんイエスもこの時までに、自分には何か特別な使命があるのではないかという予感のようなものを抱いていたでしょうが、このバプテスマの瞬間にその予感が確信に変わったということです。

ここまで述べたことはもちろん私の解釈というか推測であり、それが正しいということではありません。ただ、私がかなり強く確信しているのは、イエスはその公生涯を通じて自らの使命は何であるのかを探し求めていたということです。もしそうでないなら、なぜイエスはいつもいつも早朝長い時間祈り続け、そして最後にゲッセマネの祈りにおいてあれほど必死に祈って神の御心を求めたのかが説明できません。イエスは祈りの人でしたが、それは彼が自らの召命を探し求めていたことの一つの証拠なのではないか、ということです。神の子であるイエスさえ、自らの召命を探し求めていたとするならば、私たちのような凡人が自分の生きる目的、理由について思いまどうのはむしろ当然のことです。私たちは自分の人生についていろいろ思い悩み、こうすればよいのか、こうしたほうが良かったのか、としょっちゅう考えるものですが、それは少しもおかしなことではなく、むしろ当たり前のことです。そして、そのような時は主イエスのように神の前に自分の悩みをさらけ出し、祈る者でありたいと願うものです。お祈りします。

主イエスをバプテスマのヨハネの元に導き、そこで天命を示された父なる神よ、そのお名前を賛美します。私たちも自らの生きる目的に思い悩む者でありますが、私たちをも導いてくださるようにお願いいたします。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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死んだ人々にも福音が第一ペテロ3章18~4章6節 https://domei-nakahara.com/2025/07/27/%e6%ad%bb%e3%82%93%e3%81%a0%e4%ba%ba%e3%80%85%e3%81%ab%e3%82%82%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e3%81%8c%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%83%9a%e3%83%86%e3%83%ad3%e7%ab%a018%ef%bd%9e4%e7%ab%a06%e7%af%80/ Sat, 26 Jul 2025 23:26:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6647 "死んだ人々にも福音が
第一ペテロ3章18~4章6節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。今、私たちはマタイ福音書を読み進めていますが、月末のみは第一ペテロを扱っています。第一ペテロは短いながらも非常に内容の濃い、充実した内容の書簡ですが、今日の箇所はとても難しい、議論を呼ぶ箇所でもあります。ただ、私の説教はなるべく難しくならないように、みなさんに興味を持っていただけるような話にしたいと思っています。

今日の箇所の話のポイントはいくつかありますが、最も興味深いのは6節の「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられた」という下りです。これを文字通りに受け取ると、死んだ人々も福音を聞くことができる、という話になります。ただ、このように聞くと、私たちがこれまで教えられてきたこととは違うではないか、と不審に思われるかもしれません。私たちは、信仰は生きている間に持たなければならない、たとえ死ぬ瞬間の少し前でもいいから信仰を持たなければならない、なぜなら死んでからは福音を信じて救われるチャンスは失われるからだ、と教えられてきました。死んだ後でも救いのチャンスがある、という考えは「セカンド・チャンス」と呼ばれ、そのようなことを説く方々もおられますが、そういう説は異端として激しく非難されてきました。ペテロは「死んだ人にも福音が宣べ伝えられて救われる」とまでは言ってはいませんが、そういう可能性を含んだ言い方とも読めます。これをどう考えるべきでしょうか?

このことばについてはいろいろな解釈があります。一つの有力な解釈とは、ここで言われている「死んだ人」というのはクリスチャンのみを指す、というものです。つまりイエスが、死んだ後にあの世で霊として存在している人たちに向かって福音を語ったということではなく、死んでしまった人がまだ生きている間に福音が伝えられていた、そしてその人はイエスを信じて死んでいったという、こういう話であるという説です。ここを直訳すると、「死者たちにも福音が宣べ伝えられていた」となりますが、ここを「すでに死んだ人たちにも、彼らがまだ生きている間に福音が伝えられた」と解するのです。このように解することも文法的には不可能ではありませんが、かなり無理筋な解釈だと言えるでしょう。また、この人がクリスチャンだとすると、ではなぜその人は肉において裁かれるのか、という疑問が生じます。この動詞は「弾劾される」、「罰せられる」と訳すこともできます。クリスチャンはその信仰ゆえに迫害されることはあるでしょうが、罰せられるということはないのではないか、と。このように、死んだ人が生前に福音を聞いていたとする説は、一定の人気がある説ではあるものの、解釈としてはかなり無理があるように思います。

さらにいえば、3章19節には「その霊において、キリストは捕らわれた霊たちのところに行って、みことばを語られたのです」とあることに注意が必要です。この一文の意味とは、キリストは十字架に架かって死なれた後、復活をする前に黄泉とかヘブル語のシェオール、あるいはギリシア語のハデスと呼ばれる死者の世界に行って、ノアの大洪水で死んだ人々の霊に向かって語りかけたということです。この箇所からは、キリストが死者の霊に語りかけるということがあったということになります。

この箇所について、ジョエル・グリーンというアメリカの聖書学者が興味深いことを書いています。彼はフラー神学校という福音派の神学校で教えていた方ですが、彼によると原始キリスト教において死者に福音が宣べ伝えられて彼らが回心するという考えは珍しいものではなかったと論じています。グリーンは初代教会における第一ペテロのこの箇所の解釈について、四つの見方を挙げています。①は、キリストはシェオール、黄泉に下ることで人と運命を共有した、②は、ハデス、つまり死の世界を打ち壊した、③は、旧約時代の義人たちの霊を救済した、そして④は、死者に救いを宣べ伝えたというものです。実際、キリストがハデスに降って死者たちに福音を語ったという説はエウセビオスやアタナシウスなど、そうそうたる教父たちによって唱えられています。では、そうだとすると今日の聖書箇所のポイントは何なのか?という疑問が生じるでしょう。その問いを抱きつつ、今日のみことばを読んで参りましょう。

2.本論

さて、では今日の聖書箇所の文脈をまず確認しましょう。前回の箇所では、クリスチャンが理不尽な迫害や苦しみに遭うことについて語られていました。ペテロは、「もし、神のみこころなら、善を行って苦しみを受けるのが、悪を行って苦しみを受けるよりよいのです」と語りますが、その善を行って苦しみを受けることの典型としてキリストの受難を思い起こさせます。ただ注意したいのは、18節の訳は意訳しすぎですし、「身代わり」という言葉はギリシア語本文にはありません。より原文に近い聖書協会共同訳では、「キリストも、正しい方でありながら、正しくないものたちのために、罪のゆえにただ一度苦しまれました」となっています。ここではキリストが誰かの身代わりになったということではなく、不法な者たちのために不当な扱いを受けたということが言われているのです。そのため、キリストは肉においては死なれ、霊においては生きました。では、十字架で処刑された後のキリストの霊がどこに行ったのか、というのが19節と20節です。19節では、キリストは「牢屋」に行ったとあります。この言葉は、バプテスマのヨハネが牢に入れられていた時に使われているのと同じ言葉ですので、文字通りの「牢獄」という意味ですが、そこに囚われている霊たちのところに行ったということです。その牢屋にいたのはノアの大洪水で死んでしまった人たちの霊だというのです。イエスの時代から数千年前に生きていた人たちですから、この人たちは死んだ後になんと数千年もの間霊の状態で牢屋に閉じ込められていたということになります。百年でもものすごく長いのに、数千年も牢屋にいるのって、どんな気持ちになるのでしょうか。もう絶望しかないですよね。その人々にキリストはみことばを語った、とあります。この動詞は「ケリュッソー」で、キリストが福音や神の国を宣べ伝えるときに使われる動詞です。ですからここでの一番自然な意味とは、何千年もの間あの世で牢に囚われていた人々にキリストが福音を宣べ伝えたのだ、ということになります。驚くべきことではありますが、これが最も蓋然性が高い解釈なのです。

では、なぜペテロはこんな話をしたのでしょうか?ペテロのここでの関心は、人は信じないで死んだ後に救われることがあるのかどうか、ということではありません。私たちには大変興味深い話かもしれませんが、ペテロはそのことを論じたいわけではないのです。むしろ彼の関心は、大洪水の時に救われたノアと彼の家族8人のことでした。彼らは悪い人たちのただ中にあって、少数派の義人でした。たった8人ですから、少数派といういい方すら適切ではないかもしれません。彼らは正しい人たちだったのに、悪い人たちから相当な嫌がらせや迫害や妨害を受けたことでしょう。なにしろ、人々は飲めや食えやで面白おかしく暮らしているのに、ノアたちは大洪水が来ると信じて一生懸命おかしな方舟を造っているのです。あいつらは頭が狂っている、トンデモ話を信じて人生を無駄にしているとあざ笑う人たちや、方舟建造そのものを妨害する人たちもいたことでしょう。日本でも、南海トラフ地震などを警戒して山奥に引っ込んで自給自足の生活を始める人がいたら、「あの人たちは頭がおかしいのだ」と言われるでしょうが、ノアたちもそのように誹謗中傷に苦しんでいたのです。そのノアたちと、ペテロの手紙の読者たち、すなわち悪い異邦人に取り囲まれている少数のクリスチャンたちは同じ立場にある、ということをペテロは言いたかったのです。ノアの時代に人たちには二つの道がありました。方舟に乗って救われるか、あるいは何千年ものあいだ死者の世界の牢獄に閉じ込められるかです。ペテロは読者に、あなたがたはノアの道を選びなさい、と言っているのです。

さて、キリストの話に戻りますと、キリストは十字架で死なれた後に霊としてシェオールに降って福音を宣べ伝え、その後にからだをもって復活されて、それから天に上ってあらゆる権威の上に立つものとされます。前にマタイ福音書の説教でお話ししたように、イエスはユダヤ人の王として生まれましたが、万物の上に立つ方とされたのは復活の後です。イエスが生きている者だけではなく死んだ者たちの上にも主として立てられているということは、イエスが生きている者にも死んだ者にも福音を宣べ伝えたからだ、ということが言えるのかもしれません。

そして、4章の勧告が続きます。いわれなき迫害に苦しむ読者のクリスチャンたちに、キリストも同じように肉体の苦しみを味わったことを思い起こさせます。キリストの場合は、苦しみを受けたのは人類救済のためでしたが、クリスチャンが苦しみを受けるのは別の理由がありました。それは「罪とのかかわりを断つ」ためだと言われています。これは非常に興味深い見方です。この世で苦しみを受けることがどうして罪とのかかわりを断つことにつながるのでしょうか?いくつかの解釈があるとは思いますが、一つは苦しみを受けることが悔い改めにつながるということではないかと思います。主イエスの有名なたとえ話である「放蕩息子」では、放蕩息子は零落した生活を送ったおかげで正気を取り戻して悔い改めました。キリスト教においても、罪を犯している人に厳しい裁きを与えることがありますが、それは苦しみや罰を与えることそのものが目的ではなく、その苦しみを通じて悔い改めてくれることを願ったものなのです。使徒パウロがコリント書簡でそのことを述べています。そこを読んでみましょう。第一コリント5章1節から5節までです。

あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の間にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行いをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。私のほうで、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行いをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。

このパウロの言葉は大変解釈が難しいところではありますが、おそらくは肉体を持っていた時にすでに裁かれた罪は主の日においては裁かれない、だから主の日に救われるためにこの世において裁きを言い渡したのだ、ということではないかと思います。このような解釈は第一ペテロの4章6節にも通じるものがあります。ともかくも、この世で苦しみを受けることにはプラスの面があり、それは罪とのかかわりを断つことにつながるということです。

ここで注意したいのは、ペテロはノアの大洪水に匹敵するような神の裁きが近いと信じていたということです。これはパウロにも言えます。キリストが来られてから二千年も経つのに主の来臨がない時代に生きている私たちには奇妙なことに思えるかもしれませんが、初代教会の人々は主の来臨と世の終わりが近いという確信の中を生きていました。ペテロは5節で「生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方」と書いていますが、直訳すると「裁きを行う準備ができている」、スタンバイしている、というようなニュアンスです。ですからペテロは、ノアの洪水で滅んでしまった人たちのようにならないようにと、読者たちに罪深い人たちの営みに関わらないようにと勧告しているのです。

そして問題の6節ですが、ここは先にも申したように、キリストは死者たちに福音を語った、という解釈でよいと思います。それは十字架の後の黄泉下りにおいてでしょう。キリストは全世界の人々、生ける者も死んだ者もすべての人を裁く方です。ですからその裁きの前に、生きる者にも死んだ者にも等しく福音を平等に語った、ということではないかと思います。ただ、この箇所は極めて難しい箇所なので、これが正解の解釈であるとは言えないということを申し添えておきます。

3.結論

まとめになります。今日はいわゆるキリストの黄泉下りと呼ばれる事柄について語った非常に難解な箇所を取り扱いました。福音を聞くことなく死んでしまった人たちに、福音を聞く機会が与えられるのだろうか、というのは大変興味深い問題で、今日の箇所はその問題に触れている数少ない箇所の一つです。ただ、今日の箇所のポイントはそこにはなく、むしろペテロのポイントは、ノアの洪水に匹敵するような大審判の日が近づいているのだから、あなたがたは身を慎んで敬虔に生きなさい、ということでした。

ただ、先ほども申しましたようにペテロやパウロの活躍した紀元一世紀には、そのような世の終わりは来ませんでしたし、それどころかそれから二千年経っても世の終わりは来ません。「主の来臨の約束はどうなったのか」という嘲りの声が聞こえてきそうですね。この問題は重大な問題なので、改めてお話ししたいと思いますが、一つだけお話ししたいと思います。確かに死者がすべてよみがえるという究極の世の終わりは来ていませんが、しかし聖書の言う「世の終わり」や「主の日」とは必ずしもこのような究極の出来事を指してはいないということです。むしろそれは一つの時代の終わりを指していることがしばしばで、そのような意味での「終わり」は紀元70年のエルサレム神殿破壊において成就しているということです。そのことを主イエスは預言しました。私たちの時代においても、このような究極の終わりではなくても、一つの時代の終わり、終焉が近づいているように思います。そのような時には非常な困難が伴いますが、しかしそういう時にこそ神への信仰に固く立って生きていく必要があります。そのような固い信仰を保つことができるように、主に祈りましょう。

全世界の歴史を司り、裁かれる神よ、そのお名前を賛美します。ノアの時代、ペテロの時代と同じように、私たちも大いなる審判を予感させる時代に生きています。そのような時代を固い信仰をもって生き抜くことができるように私たちを強めてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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バプテスマのヨハネマタイ福音書3章1~12節 https://domei-nakahara.com/2025/07/20/%e3%83%90%e3%83%97%e3%83%86%e3%82%b9%e3%83%9e%e3%81%ae%e3%83%a8%e3%83%8f%e3%83%8d%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b83%e7%ab%a01%ef%bd%9e12%e7%af%80/ Sun, 20 Jul 2025 04:14:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6628 "バプテスマのヨハネ
マタイ福音書3章1~12節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。今日は参議院選挙の日です。今回の選挙は、これまでとは何か違うな、という印象を持っています。候補者たちの演説を聞いていると、「本当に助けてくれますか」、「救ってくれますか」という若者や中年の方々の切実な訴えを聞いた、ということをおっしゃっている方が多かったのです。長引く不況に加えて、急激な物価上昇でもうこれ以上は耐えられない、という人がとても多くなっています。

このように、救いを求める日本の人が増えています。では、彼らが求める「救い」とは何か?それは「死んだ後に天国に行く」ことではないでしょう。もちろん、不治の病で余命いくばくという方であれば、死んだ後にどうなるのかということが重大な問題になるでしょう。しかし、若者たちが求める救いは死んだ後の天国ではなく、今ここで生きていくための食事、また普通の暮らしをするための安定した仕事です。彼らが求める「救い」とは、安心して暮らせる世の中にして欲しいという願い、祈りなのです。なぜこんな話をしたのかと言えば、イエスの時代、またバプテスマのヨハネの時代にユダヤやガリラヤの人々が求めていた「救い」とは「死んだ後に天国に行く」ことではなかったからです。ここを誤解すると、福音書を根本的に誤解することになります。

イエス、またバプテスマのヨハネたちが語りかけた人々はどんな暮らしをしていたのか、ということを知るのは大変重要なことです。今回の参議院選挙で大変注目されている参政党は、「国民負担率」という言葉で私たちの税負担を分かりやすく説明していました。私たちは所得税や住民税、そして消費税などの税を払っていますが他にも社会保険料というものがあります。各党は「消費税を下げます」、「社会保険料を軽減します」と個別の話をしていますが、参政党はそれらをまとめて「国民負担率」という概念で説明していました。そのグラフによると、私が生まれた1970年は国民負担率は25%ぐらいでしたが、いまや46%にまで上がっています。改めて、「こんなに増えていたのか」と驚かされたわけですが、では、イエスの時代のユダヤ人たちの「国民負担率」はいくらだったでしょうか?当時のユダヤ人は神殿税など、律法に基づく税が2割から3割ありました。これだけならよいのですが、当時のユダヤはローマ帝国の植民地だったので、ローマにも人頭税や通行税などを払っていました。これも収入の2割から3割だったと言われています。ですからユダヤとローマの二重課税でだいたい収入の5割から6割を税として納める必要がありました。しかし、それだけではないのです。神殿税というのは律法に基づく税ですから、それを納めないと律法違反、つまり「罪人」になってしまいます。ですから罪人になりたくないユダヤ人はそれこそ借金してでも税を納めます。ローマ帝国に対する税も、納めないと「謀反」とされて厳罰を下されるので、それも借金してでも納めます。こうして農家の人たちは借金を重ねていきました。そして借金が払えないと農地を差し押さえられて小作農になります。小作農になると小作料を納める必要があります。では、彼らが小作料を払う大地主とは誰か?それがなんと宗教指導者、つまり大祭司たちだったのです。当時のローマ帝国は実質的に大祭司の任命権を持っていましたが、彼らは自分たちの代弁者として大祭司を選びました。いわゆる「傀儡政権」です。彼らは大祭司を大地主の一族から選びました。ですから大祭司たちはみな大金持ちの大地主でした。こうしてユダヤの貧しい人たちの富はローマと、ローマに協力する大祭司たちに吸い上げられてきました。こうしてユダヤの貧しい人たちの「国民負担率」はなんと7割から8割に上りました。私たちの国民負担率が46%でこんなに苦しんでいるのに、なんと70%から80%ですよ。しかも、一番金持ちの大祭司たちはほとんど税を払わずに、貧しい人々ほど税負担が重くなるという逆累進課税でした。

このような境遇に置かれたユダヤ人たちの求めた「救い」とは何だったのでしょうか?それは端的に言えば、ローマ帝国がユダヤの地から出て行ってもらうことでした。これは日本人にも分かる部分があるように思います。日本という国は本当の意味で主権を持っていません。なぜなら、アメリカ軍が日本の国土を自由に使う権利を有しているからです。日米地位協定というものがありますが、それにはこう書かれています。

合衆国は、[米軍基地の] 施設および区域内において、それらの設定、運営、警護および管理のため必要なすべての措置を執ることができる。

とあります。つまりアメリカは日本国内にある米軍基地においてなんでも自由にできるということです。日本国内でありながら、日本国の主権が及ばない場所があるということです。それがもっとも顕著なのはもちろん沖縄です。しかし日本はこのような協定を無理やり結ばされているというよりも、むしろアメリカにお願いして米軍を置いてもらっているという面もあります。日本は平和憲法のもとで、建前上は、あくまで建前では、軍隊を持たないことになっています。では軍隊を持たないでどうやって国を護るのかというと、アメリカに守ってもらおうということになります。平和憲法と日米安保はセットだと言われるゆえんです。じっさい、戦後の日本ではこの体制はうまくいったように思えます。日本は戦後80年間戦争をしないでやってこれたからです。けれども、段々本当にそうなのかと思われるようになってきました。むしろアメリカは、日本にアメリカと一緒に世界で戦ってくれることを望むようになってきたからです。アメリカは世界中に軍隊を展開していますが、その一部を日本に肩代わりして欲しいと願うようになってきました。こうなると、日本はアメリカと一緒に海外で戦う、あるいはアメリカの代わりに海外で戦う、ということにもなり得ます。そんなことならアメリカとの関係を見直したい、という声も当然出てきます。でも、アメリカ軍が日本がいなくなったらどうなるのか?そうなったら、日本は自分で自分を守るしかないだろう、こういうテーマも今回の参議院選で論じられるようになりました。

このように、日本人の中にも米軍の存在を問題視する人が増えて来ました。特に米軍基地の近くに住んでいる方々はそうした思いが強いでしょう。しかし、イエスの時代のユダヤ人たちはそれどころではなく、ユダヤの地におけるローマ軍の存在を徹底的に嫌っていました。なぜか?その理由の一つは先ほどお話しした重税の問題があります。ローマへの税、またローマに協力する大祭司たちへの税に苦しめられていたユダヤ人たちはローマの存在を嫌っていました。しかし同時に、宗教的な理由からローマ軍の存在を忌避していました。なにしろユダヤの地は聖地です。神がイスラエルに与えた地なのです。その地に偶像を拝む異教地たちの軍隊が駐留している、そんなことは耐えられないと彼らは思うわけです。イスラエル人の信仰の核心の一つは、土地への信仰です。パレスチナの地は神がアブラハムに与えると約束したものだ、その土地を異教徒たちが汚すのは許せないということです。

このように、経済的、政治的、そして宗教的な理由から、ローマから多くの特権を受けているユダヤのエリート層を除く一般のユダヤ人たちはローマ帝国を徹底して嫌っていました。ですから彼らが求める救いとはローマからの救い、ローマからの解放でした。そのような願い、祈りの中から登場したのがバプテスマのヨハネであり、ナザレのイエスなのです。

2.本論

では、今日のテクストを見て参りましょう。バプテスマのヨハネの登場の場面です。彼は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたからだ」という、マルコ福音書でイエスが宣教の最初に語った言葉とまったく同じことを語っています。ただ、誤解しないようにしていただきたいのですが、ヨハネのいう「天の御国」というのはいわゆる天国、つまり人間が死んだ後に向かう至福の世界ではまったくないということです。むしろ、ヨハネの言う天の御国とは、ローマ帝国が打ち破られてイスラエルが完全な独立と繁栄を獲得する状態を指しているということです。ヨハネはこの地上世界の話をしているということです。天の御国とは神の国と同じ意味です。ユダヤ人は「神」という言葉を口にするのを恐れて「天」という言葉に言い換えていました。日本人も「神に唾する」ではなく「天に唾する」という言い方をしますよね。それと同じです。そして神の御国、神の王国とは神ご自身が支配する国ということです。ローマではなく、神ご自身がこのイスラエルの地を治めてくださる、そのことを「神の国が来る」という言い方で表したのです。ここでバプテスマのヨハネはイザヤ書40章を引用しています。「荒野で叫ぶ者の声がする。主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ」という下りです。イザヤは何の話をしているかと言えば、イザヤは神がエルサレムに戻って来られて、自ら王となって支配されるという期待を語っているのです。イザヤ書40章10節には「見よ。神である主は力を持って来られ、その御腕で統べ治める」とあります。そのことがさらに詳しく書かれているのがイザヤ書52章7節から8節です。お読みします。

良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。聞け。あなたの見張り人たちが、声を張り上げ、共に喜び歌っている。彼らは、主がシオンに帰られるのをまのあたりに見るからだ。

これがヨハネのメッセージの背後にある聖書のことばです。簡単に言えば、神がエルサレムに帰ってこられ、そこで王となられる、これが福音であると。バプテスマのヨハネは、このイザヤの預言が実現する日が近づいたということを語っているのです。

ただ、そうはいっても神は人の目では見えるお方ではないですよね。神がエルサレムに戻って来られるとしても、それを見ることはできません。また、神が王になるってどういう意味なのでしょうか?神は初めから世界の支配者なのですから、王になる必要などないのではないでしょうか?いったい、このイザヤの預言はどのように理解すべきなのでしょうか?一番ありそうなのは、神ご自身ではなく、神が選んだメシア、つまりある人が神の代弁者としてエルサレムに現れて、そこで王として戴冠され、神の望まれる支配を行うということでしょう。バプテスマのヨハネもそう考えていたと思われます。そしてヨハネは自分がそのメシアであるとは考えずに、その来たるべきメシアの露払い、メシアのための道備えをするのが自分の使命だと考えていました。しかし、ヨハネはメシアが来るという喜ばしいメッセージだけを携えてきたのではありません。彼は「悔い改めなさい」というメッセージも伝えているのです。それはなぜか?それは、メシアがやって来たとしても、ユダヤ人であればみなが自動的に神の救いに与れるとは限らないからです。神の救いに与るためには、神の民であるユダヤ人の一員であるというのでは十分ではないのです。神は、真に悔い改め、神の立ち返ったものだけを救うのだ、というのがヨハネのメッセージの核心でした。そのような考えは、ヨハネから数百年前に活躍した預言者エゼキエルが強く唱えたものでした。エゼキエルは、ユダヤ人たちが国を失って外国で捕虜として暮らしていた時に、外地で暮らしていたユダヤ人たちにメッセージを語った預言者でした。エゼキエルは彼らがユダヤの地に帰ることができると語りましたが、しかしすべてのユダヤ人が帰れるとは言いませんでした。悔い改めた人だけが帰れるのです。その箇所を見てみましょう。エゼキエル書20章36節から38節までです。

わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地の荒野でさばいたように、あなたがたをさばく。―神である主の御告げ―わたしはまた、あなたがたにむちの下を通らせ、あなたがたと契約を結び、あなたがたのうちから、わたしにそむく反逆者を、えり分ける。わたしは彼らをその寄留している地から連れ出すが、彼らはイスラエルの地に入ることはできない。このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。

このように、エゼキエルはユダヤ人ならみな自動的に救われるというような考えを拒否しました。バプテスマのヨハネもそのようなメッセージを送りました。メシアがやって来ても、あなたがたをみな救ってくれるとは限らない。あなたがた一人一人の神への、また隣人への態度が問題なのだ。アブラハムの子孫だ、というだけでは十分ではない、あなたがもし実を結んでいなかったら、切り倒されるだろう、という非常に厳しいメッセージを送ったのです。ヨハネは自分がメシアの露払いをする役割を担っていると自覚していましたが、そのような理解はある預言者の言葉から来ていました。それは、旧約聖書の最後の書であるマラキ書です。マラキ書4章を全部読んでみましょう。

見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。―万軍の主は仰せられる―しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。―万軍の主は仰せられる―あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を記憶せよ。それは、ホレブで、イスラエル全体のために、わたしが彼らに命じたおきてと定めである。見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。

ここで、主はメシアが裁きをもたらす前に、預言者エリヤを遣わすと語っています。そのエリヤこそがバプテスマのヨハネでした。ヨハネのことを、「らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった」と記しています。列王記は、エリヤの事を「毛衣を着て、腰に皮帯を締めた人でした」と記しています(第二列王記1:8)。ですからマタイはヨハネをエリヤの再来として描いているのです。そして、繰り返しますが、メシアはもちろん救いをもたらす方ですが、彼は悪い者たち、実を結ばない者たちに裁きをもたらす方でもあるのです。ですからヨハネは、人々に悔い改めのバプテスマを宣べ伝えたのです。

3.結論

まとめになります。今日はイエスの前に現れて、人々に悔い改めを説いたバプテスマのヨハネのことを、主に旧約聖書の背景から説明しました。ヨハネの時代のユダヤの人々の願いは、彼らを支配する異教徒、つまりローマ帝国からの解放でした。それは宗教的な理由だけではなく、経済的な理由も非常に大きかったのです。彼らの生活はあまりにも苦しかった。だから彼らは救いを求めたのです。その救いは神ご自身がもたらすものです。神ご自身がエルサレムに帰って来られるということを預言者たちは語ってきました。しかし、見えない神が来られるというのはどういうことなのか?おそらくは、神はご自身の代弁者としてメシアを送るのだろうと当時の人々は考えていました。メシアが私たちを救ってくれる、という期待を抱いていたのです。そのような期待の中からバプテスマのヨハネが現れました。しかし彼は、メシアがもたらすのは救いだけではないことを強調しました。メシアは裁きをもたらす方でもあるのです。そのような裁きに遭わないために悔い改めなさいというのがヨハネのメッセージでした。

私たちもこのメッセージをしっかりと受け止める必要があります。メシアは二千年前に来られましたが、再び来ると約束しています。その再臨を私たちは待ち望んでいます。しかし、私たちは再び来られるメシアにお会いする準備ができているのでしょうか?だらしない暮らしをして、なまけているところを帰って来た主人に見られて重い罰を受ける僕の話を主イエスは何度もしています。わたしたちがそのような悪い僕ではないと言い切れるでしょうか?私たちは善良で忠実な僕として歩めているでしょうか?そのことを問いながら、バプテスマのヨハネのメッセージを改めて聞きたいと願うものです。お祈りします。

エリヤを遣わし、また主イエスを遣わされた父なる神様、そのお名前を賛美します。私たちもまた、主が再び来られるのを待ち望む者ではありますが、その主の日が暗闇の人ならないように、しっかりと目を覚まして歩むことが出来るように私たちを力づけてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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出エジプトマタイ福音書2章13~23節 https://domei-nakahara.com/2025/07/13/%e5%87%ba%e3%82%a8%e3%82%b8%e3%83%97%e3%83%88%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b82%e7%ab%a013%ef%bd%9e23%e7%af%80/ Sun, 13 Jul 2025 03:56:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6605 "出エジプト
マタイ福音書2章13~23節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。マタイ福音書からのメッセージは今回で三回目になります。今日の箇所も、大変有名な箇所ですが、同時になかなか難しい箇所でもあります。そこで初めに、何がどのように難しいのかについてお話しさせていただきます。

今日の箇所では、三度も「これは、主が預言者を通して言われたことが成就するためだった」という言い回しが登場します。イエスの生涯において起こったことは、旧約聖書の預言者が語ったことの成就なのだ、ということです。その二つについては、どの預言書なのかがはっきりしています。ホセア書とエレミヤ書です。しかし、三つ目のもの、すなわち「この方はナザレ人と呼ばれる」は、どこを引用したのかまったくわかりません。なぜなら旧約聖書には「ナザレ」という地名は出てこないからです。さて、私がなぜこのような話を始めたのかといえば、今日の聖書箇所の理解のポイントが、マタイの旧約聖書の用い方だからです。

問題の、「これは、主が預言者を通して言われたことが成就するためだった」という言い回しですが、みなさんはこの言葉からどんなことを連想するでしょうか?普通に考えると、旧約聖書の預言者たちが主イエスのことを予告していて、その預言がイエスの生涯においてまさに実現したのだ、ということのように思えます。しかし、実際にマタイが引用した箇所を読むと、そのようには解釈できないのです。たとえば今日の交読文で読んだホセア書ですが、マタイはここから「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した」という一節を引用しています。ホセアは、イエスがエジプトから連れ出されることを数百年も前に予告していたということになるのでしょう。しかし、みなさんもお気付きのように、これはホセアが未来を預言したものではなく、過去を振り返ったものですよね。ホセア書11章1節、2節は次のようになっています。

イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。それなのに、彼らを呼べば呼ぶほど、彼らはいよいよ遠ざかり、バアルたちにいけにえをささげ、刻んだ像に香をたいた。

もしこれがイエスとその両親についての預言だということになるなら、イエス様や母マリアはエジプトから脱出した後に偶像のバアルを礼拝するだろう、というような話になってしまいます。しかし、そんなとんでもないことが起きるはずがないのです。イエス様が偶像礼拝をしたなんてことになれば、キリスト教は崩壊してしまいますよね。そうではありません。ホセアはここで、未来のことではなく、イスラエルの過去の歴史を振り返っているのです。イスラエル人はモーセに率いられてエジプトを脱出し、カナンの地に定住しますが、そこで異教の神々、とくにバアルを礼拝するようになってしまったという過去の失敗をホセアは語っているのです。しかしマタイは、このホセアの預言をホセアの時代から数百年未来の出来事を預言したかのように取り扱っているように見えます。でも、本当にそうなのでしょうか?

また、マタイはヘロデ大王がベツレヘムの2歳以下の子どもを虐殺した件について、これも預言者エレミヤによって予告されていた、と語ります。これはエレミヤ書31章からの預言です。しかし、ここでエレミヤが語っているのは過去の出来事ではありません。エレミヤは、彼の生きていた時代に起った出来事、すなわちバビロン捕囚について語っています。エレミヤの時代、ユダ王国はバビロンに征服されてしまい、主だった人々はユダヤの地から連行されてバビロンに連れて行かれました。この連れていかれた人々を嘆いているのがラケルですが、彼女は族長ヤコブの奥さんです。エレミヤの時代からは千年以上も前の時代を生きた女性ですから、エレミヤの時代に生きているはずもありません。ですからここで言われている「ラケル」とは大昔の人物のことではなく、イスラエル人にとっての母なる大地、ユダヤの地を擬人化した存在だということになります。でも、そうなるとマタイは、イエスの時代から五百年以上も前のバビロン捕囚について語ったエレミヤの言葉を、ヘロデによる幼児殺害の預言だ、と言っていることになります。しかしそれもおかしな話ですよね。

しかし、そんなことは当然マタイも分かっていたはずです。彼はホセア書の内容も、エレミヤ書の内容もよく知っていたはずです。では、なぜ彼はこのように一見おかしな旧約聖書の引用をしたのでしょうか?ここがポイントなのですが、マタイはイエスの生涯において起こることのすべてが旧約聖書に預言されていた、といいたいのではありません。そうではなく、彼が主張しているのは、イエスの生涯においてイスラエルの希望はすべて成就したのだ、ということなのです。マタイがラケルの嘆きについて引用したエレミヤ書31章にはどのようなことが書かれているのでしょうか?エレミヤ書31章のメインテーマとは何でしょうか?ご存じのように、そこにはイスラエルの究極の希望と呼べるものが預言されています。そこをお読みします。エレミヤ書31章31節から33節です。

見よ。その日が来る。―主の御告げ―その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らは私の契約を破ってしまった。―主の御告げ―彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。―主の御告げ―わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

このように、バビロン捕囚という破局の先には「新しい契約」の希望があると、エレミヤは預言しているのです。私が思うに、マタイがエレミヤ書のラケルの嘆きを引用した時に、彼はその先にある新しい契約の希望を意識していたに違いないのです。そして、イエスこそエレミヤによって預言された「新しい契約」を成し遂げる方だ、ということをマタイは言いたいのです。マタイの旧約聖書の引用は、こういう旧約聖書の大きな文脈を意識したものです。ですから私たちはマタイ福音書を読むときに、旧約聖書そのものをより深く理解している必要があります。旧約聖書を知らないと、マタイ福音書は深く味わうことができません。そのような点を踏まえながら、聖書テクストを読んで参りましょう。

2.本論

では13節です。前回は、ヘロデ大王が東方の三博士を使って新しく生まれたユダヤ人の王を見つけ出そうとしましたが、幼子イエスに会った三博士は夢の中でヘロデのところに戻ってはいけないという警告を受けたので、その警告に従ってヘロデに会わずに帰ってしまった、という話をしました。騙すつもりが騙されたと知ったヘロデ大王が怒り狂うのは想像に難くありません。実際、晩年のヘロデの精神状態はまともではありませんでした。これは作り話ではなく、れっきとした歴史書に記録されている実話なのですが、ヘロデ大王の狂気を伝える話があります。それは死の床に就いたヘロデ大王の話です。ヘロデは非常な痛みと苦しみの中で死を待つばかりになっていたのですが、その時彼は恐るべき命令を出します。それはエルサレムの有力者たちを集めて競技場に閉じ込めろという命令でした。そして、自分が死んだらそれらの有力者たちも一緒に殺せという最後の命令を下したのです。なぜそんな途方もない命令を出したのかといえば、ヘロデは自分が死んだらエルサレム中の人々が大喜びしてお祭り騒ぎになるに違いない、そんなことは許せない。しかし、自分と一緒に街の有力者がみんな死んだらエルサレムの人々も悲しむに違いない、だから彼らを殺せというのです。おそろしく自己中心的で無茶苦茶な命令ですが、なんとも物悲しい命令でもあります。ヘロデは自分がそれほどエルサレム中の人々から嫌われていることを自覚していたからです。イスラエルの中で最も大きな権力を持っていた人物にしては、なんと寂しい心の風景でしょうか。ヘロデはユダヤ人たちから尊敬されて愛される王になろうとして必死に頑張ったのですが、かえって自分は誰からも愛されない王になってしまったということを良く分かっていたのでした。自分だけ不幸になるのは許せない、だから一人でも多くの人を道連れにして、彼らにも自分と同じ苦しみを与えてやろうというのです。これは非常に悪魔的な発想です。悪魔も、かつては神の大天使の一人だったと言われています。しかし、自らが神になろうとして神に反逆し、神から裁きを受けてしまいました。自分が堕落して神との交わりを失ったことを知った悪魔は、他の人も自分と同じように堕落させることにすべてを賭けています。悪魔は人間も自分と同じように堕落させようとして私たちを様々な形で誘惑します。悪魔とは、自分と同じ不幸に他人を引きずり込もうとする存在です。晩年のヘロデもまさにそのような悪魔の化身となってしまったのでした。

そのようなヘロデが、騙されたと知って何をするのかは予想がつきます。そこで神は天使を遣わして、ヨセフに警告します。ヘロデが幼子を殺そうとしているから逃げなさい、と。ヨセフはここまでの不思議な出来事の数々を経験し、今やこの幼子こそがイスラエルの希望であることを深く確信するようになりました。ですからこの警告を信じて直ちに行動に移します。まさに夜逃げ同然に、すぐにベツレヘムを離れます。そして、そのおかげでヨセフ一行は命拾いしたのです。なぜならまさにその夜、ヘロデは恐ろしい命令を出したからです。騙されたと知ったヘロデ大王は怒り狂い、ベツレヘム周辺の2歳以下の赤子を皆殺しにせよとの命令を出したのです。さきほどもお話ししたように、ヘロデという人はこのような狂った命令を出しても不思議ではない人物でした。しかし、このような出来事があったという他の歴史的な記述はありません。ヘロデの悪辣さは盛んに喧伝されていたので、ヘロデが本当に嬰児殺害という大罪を犯したのなら、そのことは歴史家たちの注目を集めたはずなのですが、そうした記録はマタイ福音書以外にはどこにもありません。ですので、研究者で出来事の歴史的信憑性に疑問を持つ人が少なくありません。しかし、これまで繰り返しお話ししてきたように、マタイ福音書を読むうえで大事なのはその出来事が本当に起こったかどうかよりも、むしろその意味なのです。マタイがここで間違いなく意識していたのは、出エジプトの出来事です。出エジプト記1章15節、16節にはこうあります。

また、エジプトの王は、ヘブル人の助産婦たちに言った。そのひとりの名はシフラ、もうひとりの名はプアであった。彼は言った。「ヘブル人の女に分娩させるとき、産み台の上を見て、もし男の子なら、それを殺さなければならない。女の子なら、生かしておくのだ。」

この時、エジプトの王ファラオはイスラエル人の数が増えすぎたので脅威を感じて男の子を殺そうとしたのですが、後の時代になるとそれは違うように解釈されるようになりました。紀元一世紀のユダヤ人の歴史家ヨセフスはイスラエルの歴史について詳しい文書を書き残していますが、その書にはまったく別の記述が残されています。それによれば、モーセの父は夢の中で神からお告げを受けます。それは、あなたの子がイスラエルを救う救世主となるだろうという夢でした。同時に、エジプトの王ファラオの神官も神託を受けて、イスラエル人の子どもがいずれエジプトを打ち破るような人物に成長するだろうということをファラオに告げます。それを聞いたファラオが恐れてイスラエルの赤子を殺せという命令を出したというのです。この話はイエス誕生の話とほとんど同じです。おそらくマタイは、ヨセフスが記したようなモーセについての伝承を知っていたのでしょう。そして、イエスこそモーセの再来、イスラエルを抑圧から救い出す救世主であることを示すためにモーセの話に重ね合わせてイエスの誕生物語を描いたのだと思われます。

というわけで、幼子イエスはヘロデ大王から命を狙われるのですが、それは単にヘロデ大王の狂気によるものであるだけではありません。先ほど述べた悪魔、サタンそのものがヘロデを用いてメシアであるイエスを滅ぼそうとしていたことも忘れてはなりません。そのことを劇的に描いているのがヨハネ黙示録です。ヨハネ黙示録12章1節以降をお読みします。

また、巨大なしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星をかぶっていた。この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。また、別のしるしが天に現れた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角を持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもってすべての国々を牧するためである。

長くなりましたが、これはイエス誕生と、それを阻止しようとする悪魔との戦いを描いています。女とはイエスの母マリアのみならず、イスラエル民族そのものを指しているのですが、その女が子ども、つまりイエスを産もうとするときに、悪魔はそれを食い尽くそうとしていた、とあります。それは具体的にはどういうことか?その悪魔の手先として動いたのがまさにヘロデ大王だったということです。そこでベツレヘム近郊の二歳以下の子どもを皆殺しにするという恐るべき行動だったのです。

しかし、ヨセフたちはエジプトに逃げたので、かろうじて難を逃れることができました。これが歴史的事実なのかどうかは、正直分かりません。しかし、マタイはイエスの生涯をイスラエルの歴史の縮図として描いているということを再三お話ししてきたように、マタイはイエスの生涯をイスラエルの歴史と重ね合わせています。そしてイスラエルの歴史においてもっとも重要な出来事の一つが「出エジプト」でした。神はモーセを遣わし、イスラエルを奴隷状態から救い出したのです。マタイは、イエスこそ第二のモーセである、再びイスラエルを奴隷状態から救い出す人物であるということを示そうとして、イエスたちのエジプトからの脱出、新しい「出エジプト」を描いたのです。かつてモーセはエジプトからイスラエルを解放しましたが、イエスはもっと巨大な力、罪を用いて人間を堕落させようとする悪魔の支配から人々を解放しようとしたのです。それで、マタイはヘロデ大王が死んだ後イエスたちがエジプトから戻って来たという「出エジプト」の話を描きました。

イエスの家族はユダヤの地のさらに北にあるガリラヤ地方の、ナザレという小さな村に定着することになりました。マタイはそのことを、「この方はナザレ人と呼ばれる」という聖書の預言が実現するためだった、と書いています。しかし、先ほども申しましたように旧約聖書にはナザレという地名は出て来ません。それほど小さな、名もなき村だったのです。では、マタイはなぜイエスがナザレ人と呼ばれることが聖書の預言なのだと主張したのでしょうか。それはおそらく、このイザヤの預言が念頭にあったのではないかと思います。イザヤ書53章1節、2節です。

私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

これは、「苦難の僕」と呼ばれる不思議な人物についての預言です。初代教会の人々はこの苦難の僕こそイエスのことなのだと確信したのですが、この苦難の僕は見ばえのしない人だとされています。そして「ナザレ出身」というのはまさに見ばえのしない人なのです。「ナザレ?どこだそれは。そんな誰も知らないようなしょぼい村からメシアが生まれるはずないじゃないか」と人々は言うでしょう。イエスがナザレ人と呼ばれるというのは、まさにイエスがそのような名もない村から全く無名の人物として現れることを指しているのだと思われます。このように、マタイの旧約聖書の用い方というのは一筋縄ではいかない、旧約聖書を非常に深く理解した上での引用だということが言えるでしょう。

3.結論

まとめになります。今日は、イエスたち親子が狂える暴君ヘロデ大王の迫害を逃れてエジプトに逃げ延び、さらにそこから「出エジプト」を果たすという話を見て参りました。この出来事の背後には、人類を救おうとする神の働きと、それに対する悪魔の妨害という、私たちの目には見えない世界、霊の世界の戦いがあったわけです。そのような戦いを描くためにマタイは旧約聖書、イスラエルの歴史の重要な出来事である「出エジプト」をその舞台背景として用いました。モーセがかつてのイスラエルの人々をファラオの支配から解放したように、イエスも世界の人々を悪魔の支配から解放します。その解放の出来事を予告するのが、この幼子イエスの出エジプトだったのです。

私たちはすでにイエスによる解放が実現した世界に生きています。この後、成長した後のイエスの人生をマタイ福音書は描いていますが、イエスはついに人類解放の偉業を成し遂げます。ですから私たちはもはや悪魔の奴隷ではありません。しかし、出エジプトを果たしたイスラエルの人々を再び奴隷にしようとファラオの軍隊が追いかけてきたように、私たち主によって自由にされた民に対しても悪魔の追撃は終わることがありません。私たちは未だにそのような戦いの中にいます。しかし私たちには主イエスとその御霊がついています。私たちを守り導く方がおられるのです。ですから勇気を持って、信仰を持って歩んで参りましょう。お祈りします。

出エジプトを導かれた神、そのお名前を賛美します。私たちはすでに自由にされた民ですが、しかし悪魔の攻撃はやむことはありません。どうか私たちを守り導き、栄光のゴールへと導いてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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ユダヤ人の王の誕生マタイ福音書1章18~2章12節 https://domei-nakahara.com/2025/07/06/%e3%83%a6%e3%83%80%e3%83%a4%e4%ba%ba%e3%81%ae%e7%8e%8b%e3%81%ae%e8%aa%95%e7%94%9f%e3%83%9e%e3%82%bf%e3%82%a4%e7%a6%8f%e9%9f%b3%e6%9b%b81%e7%ab%a018%ef%bd%9e2%e7%ab%a012%e7%af%80/ Sat, 05 Jul 2025 23:52:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6587 "ユダヤ人の王の誕生
マタイ福音書1章18~2章12節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。私が当教会に遣わされて6年になりますが、同じ聖書箇所から説教するということは今までのところ、ほとんどありません。聖書は膨大な内容が含まれており、まだまだ説教で取り上げていない箇所が山ほどあるからです。しかし、このマタイ福音書の誕生物語だけは例外で、今回でなんと三回目です。最初が2022年のクリスマス、二回目が半年前の2024年のクリスマスになります。そこで今回の説教ではなるべく過去の話と重複しない内容にしたいと思っております。

さて、前回はイエスの系図でしたので、マタイ福音書の物語は実質的には今回が最初になります。そこで、これからマタイ福音書を読み進めていくうえで重要だと思う点を一点だけ、説明させていただきます。今回の箇所に限らず、マタイ福音書全体に関わることなのですが、マタイ福音書の様々なエピソードが本当の「歴史上の」出来事なのかどうか、という問題です。マタイ福音書には様々な出来事が記されています。その多くがイエスのなさったこと、特に奇跡物語なのですが、それらの中には「これは本当に起こったことなのだろうか」と思えてしまうようなものがいくつかあります。奇跡などあり得ない、起きないと確信している人はイエスの奇跡物語をすべて否定するでしょうが、私はそういう立場は取りません。奇跡と呼ばれる、私たちの日常生活では決して起こらないようなことが特別な場合に起きることはあり得る、と私は信じているからです。だからといって、マタイ福音書の奇跡物語はすべて文字通りに起ったのだ、と考える必要もありません。奇跡物語の中には、実際に起った出来事というよりも、象徴的な表現、つまりイエスのなさったことの深い意味を説明するために奇跡をある種のたとえとしてマタイが用いる場合もあるからです。

また、マタイ福音書の中には別の意味で「これは本当の歴史的な出来事なのか」と考え込んでしまうようなことも含まれています。マタイ福音書にしか書かれていない出来事で、他の福音書の記述とは矛盾しているではないか、と思えるものがあります。例えば次回の説教で取り上げるイエスとその両親のエジプト下りとそこからの帰還の話です。当時の歴史的状況から考えても、またルカ福音書との比較で考えても、これは歴史的事実なのか確信が持てないのです。ここで考えたいのは、マタイは現代の歴史家のように、実際に歴史の舞台で起きた出来事を正確に、間違いなく伝えることを第一に心がけたのだろうか、ということです。適切なたとえかどうか分かりませんが、マタイの福音書の内容は写真のようなものなのか、あるいは絵画のようなものなのか、ということです。写真というものは、撮るアングルによって大きく印象が変わっていきますが、しかしそこにないものを付け加えたり、あるいはあるものを削除したりということはできません。赤い花を青い花として写真に収めることは、現像の際に細工でもしない限り不可能なのです。しかし、絵画の場合は、画家は目の前ある風景を絵にする場合に色彩を変えてみたり、そこにはないオブジェを絵の中に加えたり、あるいは描く対象そのものの姿かたちを変えてしまうことすらあります。芸術としての絵そのものが一つの独立した世界ですので、画家の描く絵と、画家の目の前に広がっている世界とが必ずしも一致する必要はないのです。その典型が、いわゆる「印象派」や「ポスト印象派」と呼ばれるグループ画家たちの作品でしょう。セザンヌやヴァン・ゴッホの作品です。ゴッホの絵を見ると、その絵の元になった風景をなんとなく想像できます。南仏のプロヴァンスの強烈な色彩をイメージできるのですが、しかし彼の描く独特の絵画は南仏の風景というよりその風景を目の前にしたゴッホの心象風景、彼の内面そのものと言えます。つまり私たちはゴッホの絵を通じて南仏だけでなく、ゴッホの心の中を覗いているような気持になるのです。 

正確なたとえではないものの、マタイ福音書にも似たようなところがあります。私たちはマタイ福音書を読むことで、マタイの描く対象であるナザレのイエスという歴史的な人物に出会うだけでなく、そのイエスをマタイがどう理解したのか、マタイ自身の解釈とも出会うのです。ゴッホの描く絵が、彼の描いた対象だけでなく、彼の心の中をも表しているのと同じです。ではマタイはイエスをどのように捉え、理解したのでしょうか?前回もお話ししたように、彼はイエスの生涯をイスラエルの歴史の縮図として捉えました。マタイはイエスの生涯を、イスラエルの歴史と二重写しになるように描いたということです。なぜならマタイにとってイエスこそイスラエルの長い歴史を真の完成へと導く人物だったからです。このような観点から、私はマタイ福音書に書かれていることが必ずしも歴史上で起こったものだとは考えません。先ほどのエジプト下りとそこからの帰還の話は、イエスの幼年時代をモーセの時代の出エジプトの出来事に重ね合わせたものといえます。それが本当に起こったかどうかよりも、マタイにとってはイエスもまた、出エジプトを経験したことを示すことの方が重要だったのでしょう。イスラエルの歴史において、出エジプトは決定的と言ってよいほど重大な出来事でした。イエスの生涯がイスラエルの歴史の縮図なら、イエスもまた出エジプトを経験しなければならないのです。他の例では、マタイ福音書ではイエスが十字架上で絶命した時に、旧約時代の聖徒たち、つまりダビデやイザヤのような人たちが墓から出てきてよみがえった、と書かれていますが、私はそのような出来事が歴史上にあったとは信じられません。新約聖書全体も、死者の中からよみがえったのは今のところイエスただお一人だと強調しているからです。むしろマタイは、預言者エゼキエルによって預言されたイスラエルの12部族の再統合、回復がイエスによって成し遂げられたということを、死者たちの復活というたとえによって言い表そうとしたのだと考えます。ですから私はマタイ福音書に書かれていることが歴史的事実かどうかということにはあまりこだわらずに、むしろそこに込められた「意味」に注目して参りたいと思います。それでは、さっそくテクストを読んで参りましょう。

2.本論

さて、今日の箇所ですが、今回の中心的なテーマは「ユダヤ人の王」です。イエスという方はどんな方といえば、「救い主」というのが私たちの真っ先に浮かぶ答えかもしれませんが、マタイは前回の家系図でもお分かりのようにイエスをイスラエルの正統な王、ユダヤ人の王として提示しようとします。ただ、イエスがユダヤ人の王だというと、「王」というのはともかく、「ユダヤ人の」という方が少し気になってしまうかもしれません。イエス様はユダヤ人だけでなく、全世界のあらゆる民族の王なのではないか、と。この点については特に注意が必要です。ユダヤ人の王であるということと、全世界の人々の王、というのでは言うまでもなく同じことではありません。日本の王だからといって、世界の王ではないのと同じです。そしてマタイ福音書は、いやマタイ福音書だけではなく新約聖書全体は、イエスはユダヤ人の王として生まれ、そして復活の後に全世界の王にまで高められたという物語を描いているのです。これは非常に大切なポイントです。つまり、イエスが全世界の王になるのはその苦難の生涯をやり抜いた後の話なのです。ですからマタイはこの誕生物語でイエスがユダヤ人の王としてお生まれになるということを示そうとしています。ユダヤ人の王として誕生したことにどんな意味があったのか、それを示しているのが今日の箇所だということです。

 マタイがイエスをユダヤ人の王として描いている、ということは今日のみことばを読むうえで忘れてはならないことです。1章21節では、天の御使いはイエスの父となるヨセフに対して、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と夢の中で語ります。ここで言われている「ご自分の民」とはほかでもないユダヤ人のことです。私たち日本人を含む全世界の民ではなく、ユダヤ人なのです。では、ユダヤ人をその罪から救う、というのはどういう意味なのでしょうか。それが、ユダヤ人たちを地獄への裁きから救うというような意味ではなかったことに注意してください。この言葉の意味を理解するためには、当時のユダヤの人々は自分たちが神の裁きの下にいると信じていたことを知っておく必要があります。当時のユダヤ人は外国人、つまり当時の超大国であるローマ帝国の植民地になっていました。真の神の民であるユダヤ人が、偶像を拝む異教徒たちに服従しなければならないという屈辱的な状況について、ユダヤ人はそれを自分たちの罪に対する神の罰だと信じていました。したがって、その罪から救い出されるというのは罪の罰から救い出されるということでした。そして罪の罰からの救いとは異邦人への隷属状態、つまりローマ帝国の支配から解放されるということでした。当時のユダヤ人はローマから課される重い税金と、彼らからの暴力に苦しめられていました。それで、神が救世主、すなわちユダヤ人の王を遣わして自分たちをこの惨めな状態から解放してくれることを待ち望んでいたのです。かつてダビデが周辺諸国を服従させたように、ダビデの子孫がローマを倒してくれることを期待したのです。しかし、イエスはローマを暴力によって打ち倒そうとはしませんでした。そのことが、イエスと当時のユダヤ人との間に壁を作ることになるのですが、それについては今後詳しくお話しして参りたいと思います。

 さて、イエスはこのようにユダヤ人から待ち望まれていた王として誕生することになるのですが、しかしそのことを歓迎しない人たちもいました。なぜなら、当時はすでにユダヤ人の王が存在していたからです。今いる王からすれば、別の新しい王の登場など許すことは到底できません。そして当時の王は、有名な「ヘロデ大王」でした。このヘロデ王というのは悲劇的な人物なのですが、彼がどんな人物であったのかを少しみていきましょう。実は彼はユダヤ人ではなく、イドメヤ人でした。イドメヤ人とはエドム人のことです。エドム人というのは、イスラエル民族の族長ヤコブのお兄さんエサウの子孫のことです。ヤコブの12人の子どもたちがイスラエルの12部族になるのに対し、兄エサウの子どもたちがエドム人になったのです。エドム人とユダヤ人は兄弟民族でありながら、長い歴史を通じて犬猿の仲でした。イエスが誕生する100年ほど前の時代、ユダヤ民族の国であるイスラエルはまだローマに支配されず独立国でした。しかも、ハスモン王朝という王家の下で周辺諸国を従えるほどの強国になっていました。その時にユダヤ人たちはエドム人を征服しましたが、エドム人を征服しただけではなく、彼らをユダヤ教徒に改宗させました。つまりエドム人をユダヤ人にしてしまったのです。これは戦前の日本のやり方と似ていますね。戦前の日本は朝鮮や台湾を植民地にしただけでなく、彼らに日本語を習わせて「日本人にしてしまった」のです。彼らの意志に関係なく、強制的に日本人にしてしまったのです。エドム人も、彼らの意志にかかわらずユダヤ人にさせられてしまいました。しかし、そのいわば改宗ユダヤ人であるヘロデが、当時のユダヤの宗主国のローマの力を借りてユダヤ人の王になると、ユダヤ人たちは今度は彼を激しく嫌うようになりました。「エドム人のくせに、俺たちユダヤ人の王になるとは何事か!」ということです。自分たちの都合で無理やりユダヤ人にさせたのに、いざその人が自分たちの上に立つと「あいつは本物のユダヤ人ではない」と言い出す始末です。勝手なものですね。日本の例で言えば、戦後の日本でアメリカの後ろ盾で日本の総理大臣まで上り詰めた元朝鮮人のことを、「あいつは本物の日本人じゃないんだ」と陰口をたたくようなものです。実際、こういうメンタリティーを今日でも多くの日本人が持っているのは否定できないのではないでしょうか。

 ヘロデも、ユダヤ人の王になった後も多くのユダヤ人が自分のことを白い目で見ていることに気付いていました。それで、なんとかユダヤ人たちに認めてもらおうと涙ぐましい努力を重ねました。ユダヤ人の歓心を買おうと、神殿の大規模拡張に乗り出して、その結果エルサレムの神殿は空前の壮麗さを持つ神殿に生まれ変わりました。そして、自らの正統性を得るためにかつての王家、つまりハスモン王朝のお姫様であるマリアムネを妻に迎えました。しかし、いくら努力してもユダヤ人たちは自分をどこか馬鹿にしている、本物のユダヤの王として認めてくれないと疑心暗鬼になり、狂気に囚われてしまいました。そしてかつてはぞっこんだった王女であり妻であるマリアムネをはじめとして、自分の家族を次々と殺すようになります。その結果、ますます周囲の人々から嫌われ恐れられ、それでもっと周囲の人々に厳しく当たるという悪循環に陥ってしまいました。大出世を遂げたはずのヘロデの晩年はまったく暗いものとなっていったのです。

このような寒々としたヘロデ王の元に届けられたのが、東方からやって来た外国の使者からの「ユダヤ人の王が生まれた」という知らせでした。ヘロデからするととんでもない話です。これまでさんざん苦労して、やっとのことでユダヤ人の王にまで上り詰めたのに、何の苦労もせずに生まれながらの王として外国人からすらも祝福される人物がいるという事実が許せませんでした。しかし、ここですぐに怒りをあらわにしてその生まれたばかりの人物を殺そうとしてもきっと妨害する人々、つまり救世主を待望する人たちが現れるに違いないとも考えました。そこで一計を案じました。この東方の博士たちを抱き込もうとしたのです。彼らに協力するふりをして、彼らの探し求めるユダヤ人の王を探させて、その上で殺してしまおうとしたのです。彼らに、その王は預言によればダビデの町ベツレヘムにいるはずだと教えてやりました。

さて、ではこの東方の三博士とはいったい何者なのでしょうか?そもそも、この三博士の訪問は実話なのでしょうか?遥か東方に住む外国人たちが、ローマ帝国の植民地に過ぎないユダヤの地に来て、その民族に生まれた赤子に贈り物を携えて来るというような話はほとんど現実離れしています。当時は当然ながら電車も飛行機もない時代で、その旅は命がけの旅だったはずです。ですから、なんとも夢のない話だと思われるかもしれませんが、この東方の三博士の話は必ずしも実話であると考える必要はないように思います。では、このエピソードの「意味」は何なのでしょうか。マタイはこの出来事を通じて何を読者に伝えようとしたのでしょうか。ここでのポイントは、東方の三博士が贈り物を携えてやってきたことです。黄金、乳香、没薬という、当時としては大変高価な品々でした。それらを外国の人々がユダヤ人の王に献上する、ということはユダヤ人の預言者たちが預言してきたことでした。例えば、バビロン捕囚後の預言者ハガイは、外国人がダビデの子孫である王に財宝を献げるという預言をしました。ハガイ書2章7節をお読みします。

わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられる。

マタイは、ユダヤ人の王であるイエスの誕生によって、旧約の預言者たちによって語られたことが実現しつつあるということを示すために、この外国の三博士による贈り物の話を語ったのだと思われます。この三博士は目的を達した後に、しかしヘロデの依頼を無視して彼に会わずに帰国してしまいました。そのことが大いなる悲劇を生み出すことになりますが、それは次回にお話しします。

3.結論

まとめになります。今朝はイエスがユダヤ人の王として誕生した際のエピソードを読んで参りました。イエスは苦難を乗り越えて世界の王へと昇りつめますが、まずはユダヤ人の王として人生の第一歩を踏み出します。そのイエスに対し、外国人の代表ともいえる三博士は宝物を携えてその誕生を祝いました。これはイエスがこれから外国人、異邦人を祝福する存在となることを暗示します。同時に、当時ユダヤで王の座に就いていたヘロデ王は新しい王の誕生を歓迎しません。ヘロデ自体、ユダヤのかつての帝国主義の犠牲者のような存在でもあるのですが、彼は新しい王の誕生の知らせに警戒感を強めます。それがどんな結果を生むのかは次回お話しします。

今日の話のポイントとして忘れてはならないのは、イエスはユダヤ人の王として誕生したということです。しかし、キリスト教はその長い歴史の中でユダヤ人を徹底的に虐め抜き、迫害してきました。今のイスラエルがガザの地で行っていることを正当化することはできませんが、しかしユダヤ人たちをそこまで追い込んでしまったのはキリスト教徒だということも私たちは肝に銘じなければなりません。同時に、ユダヤ人の王として生まれながらもなぜ多くのユダヤ人がイエスを拒絶してしまったのか、その意味も深く考えなければなりません。多くのユダヤ人は、イエスの愛敵の教えが理解できませんでした。しかし、ユダヤ人だけではなく多くのクリスチャンもまた、イエスの愛敵の教えを実践できていないことも確かです。それは、多くのクリスチャンがイエスを実質的に拒絶しているということでもあることを私たちは知らなければなりません。これからマタイ福音書を通じてイエスの平和のヴィジョンを深く学んで参りましょう。お祈りします。

平和の君であるイエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今日はイエスがユダヤ人の王として誕生した時にことを学びました。このイエスの歩みを通じて、私たちも平和への道を学ぶことができますように。われらの平和の主、イエス・キリストの聖名を通じて祈ります。アーメン

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悪をもって悪に報いない第一ペテロ3章8~17節 https://domei-nakahara.com/2025/06/29/%e6%82%aa%e3%82%92%e3%82%82%e3%81%a3%e3%81%a6%e6%82%aa%e3%81%ab%e5%a0%b1%e3%81%84%e3%81%aa%e3%81%84%e7%ac%ac%e4%b8%80%e3%83%9a%e3%83%86%e3%83%ad3%e7%ab%a08%ef%bd%9e17%e7%af%80/ Sun, 29 Jun 2025 00:48:00 +0000 https://domei-nakahara.com/?p=6557 "悪をもって悪に報いない
第一ペテロ3章8~17節" の
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1.序論

みなさま、おはようございます。ここのところ、ペンテコステ礼拝でローマ書を読み、それから第二サムエル記の後半部分を読み、さらにはマタイ福音書の講解説教を始めてと、聖書の様々な箇所から説教をしていますので、第一ペテロからの説教は久しぶりに感じられるかもしれませんが、実際はこれまでと変わらず、毎月月末の説教として今日も第一ペテロからメッセージをさせていただきます。今日の箇所は非常に深遠なというか、キリスト教の本質について触れた箇所です。キリスト教という宗教の独自性に光を当てているのが今日の箇所だということです。キリスト教の独自性は、人生における苦難の捉え方、そして私たちを苦しめる人たちへの接し方にあります。

世界には古今東西、実に多くの宗教があります。宗教がこれほど普遍的なのはそれが人間性に深く根差したものだからなのですが、様々な宗教には共通する点がいくつかあるように思います。その一つは、人間を超えた偉大な存在に守って欲しい、という気持ちではないでしょうか。それはキリスト教の場合も同じで、私は以前に大変尊敬する立派なクリスチャンの方に、受洗をするきっかけは何でしたか、とお尋ねしたことがあったのですが、そのお答えが「守ってほしかった」というものでした。ちょっと意外な感じがしたのですが、それからも他の方から同じような動機を伺ったこともあって、キリスト教に入信する理由の一つが守られたいという願いにあるのだな、と思いました。

日本人の宗教行動を見ていくと、交通安全祈願とか、家内安全・無病息災祈願とか、安産祈願など、不慮の事故などから守られたいという願いが色濃く表れています。人生に苦しみや悲しみはつきものであり、何の問題もない人生を送る人などいないのですが、それでも私たちはなるべく人生に嫌なこと、辛いことがないことを願うのです。人々がお金に執着するのも、お金そのものが好きということではなく、むしろお金が私たちに安全・安心を与えてくれると信じられているからこそ、お金を求める人が多いのです。しかし、いくらお金があっても病気や老いの問題と無縁でいられる人はいません。それは宗教も同じことで、熱心に信仰していれば病気にも事故にも無縁だ、というわけにはいかないのです。それはキリスト教においても全く変わりません。進化論を提唱したことで有名なチャールズ・ダーウィンは熱心なクリスチャンでしたが、愛する娘を病気で失ったことで信仰に動揺をきたし、それが進化論という見方に傾いていった理由の一つだというようなことが言われています。つまり、神が私たちの人生に深くかかわって私たちを守ってくれるということが信じられなくなり、すべては偶然によって決まっていくというような世界観に傾いていったということです。

では、聖書はどうなのでしょうか。聖書は信仰者と災いの関係についてどのように言っているのでしょうか。神は信仰者を災いから守ってくれると約束しているのでしょうか。一つの見方は、正しい者は災いに遭わない、というものです。箴言12章21節にはこうあります。

正しい者は何の災害にも遭わない。悪者はわざわいで満たされる。

これは聖書の一つの典型的な見方です。正しい者は神によって守られるので災いに遭わない、ということがもっと明確に語られている箇所もあります。詩篇91編10-12節にはこうあります。

わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に当たることがないようにする。

この一節は、サタンが荒野で主イエスを誘惑する時に用いた一節ですので、ご存じの方も多いと思いますが、よく知られた一節です。神は、神を信じて従う人々を守ってくださるという教えは確かに聖書にあります。

しかし、実際の私たちの人生においてはこのことは必ずしも本当ではないのではないか、と思えてしまうことがあります。熱心に神を信じてきたのに、どうしてわたしばかりこんな目に遭うのか、なぜ神はわたしを守って下さらないのか、と思ってしまうような経験は、信仰歴の長い方には一度ならずあるのではないでしょうか。この問題に正面から取り組んでいる書が聖書にあります。それが「ヨブ記」です。聖書はヨブを評して、「この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」と記しています。しかし、そのヨブにありとあらゆる災いが降りかかります。正しい人は神から守られるはずなのに、どうしてヨブはこのような目に遭わなければならないのか、という疑問が生じます。そこでヨブの友人たちが次々やって来て、彼に説教します。君は品行方正に見えるが、実は隠れたところで大きな罪を犯しているんだ、だから神は君に罰を下しているんだ、というように傷口に塩を塗るようなことばかり言います。しかしヨブは、私にはそんな隠れた罪などないと言い張り、彼らの論争は噛み合いません。そして、ヨブの言うことは正しかったのです。ヨブは正しいと、神ご自身も認めておられます。ではなぜヨブが苦しんだのかと言えば、サタンが神に、ヨブは幸せだから神を敬っているだけで、不幸になれば信仰を捨てるだろう、というようなことを言ったので、では本当にそうなのか試してみるがよい、とサタンにヨブを苦しめることを認めた、ということだったのです。つまりこうした試練は一種のテストだったのです。ヨブは最後までそのことを知らされず、それでも忍耐し続けました。このヨブ記は実話ではないと言われていますが、このヨブ記を書いた著者の動機は、なぜ義人が実際には苦しむのか、という難題に取り組むためだったとされています。神は善人を守って悪人に災いを下すと言われていますが、実際は「悪い奴ほどよく眠る」という黒澤明監督の映画ではありませんが、悪人が枕を高くして眠るのに対し、善人が理不尽な目に遭っているということは普通にあることなのです。そんな時に「神も仏もあるものか」という信仰の危機に陥ってしまうことが多いわけです。ヨブ記の著者もその問題に取り組みました。彼は、神は信仰者を災いから守るどころか、かえって何らかの理由により信仰者が災いに遭うことを許容されることがある、と指摘したのです。このように旧約聖書を通じても、この問題についての考え方の違いというか、変遷があります。しかし、新約聖書の時代になると、まったく新しい要素が登場します。主イエスの福音の新しさはここにある、と言ってもよいほどです。今日のペテロの言葉も、そのような大きな問題を扱ったものです。では、さっそくその内容を詳しく見て参りましょう。

2.本論

まず8節です。ここでペテロは、クリスチャン同士の間での在り方、お互いへの接し方について語ります。ここでペテロが語っていることは、使徒パウロが言うことととても似ています。ピリピへの手紙の2章1節と2節とは、特に似通っています。そこをお読みしましょう。

こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。

このように、主イエスを信じる者の共同体においては、互いを思いやり、何よりも一致を保つことが大切です。ペテロもそのように語っています。

ここまでは良いのですが、問題は9節以降です。ここからペテロは苦しみの問題を扱います。ペテロは、主イエスを信じて彼に従えばあなたは苦しみには遭わない、イエス様が守ってくれるからあなたは災いから守られる、とは教えません。むしろその反対です。信仰者は必ず苦しみに遭うのだということを前提にして話しています。このことは、ペテロの書簡以上に第二テモテに明確に言い表されています。第二テモテ3章12節にはこうあります。

確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。

このように、敬虔に生きようとする者は祝福される、ではなく迫害を受けると言い切っています。しかし、それはなぜでしょうか?これは大きな問題です。私はサラリーマンを15年した後にイギリスに留学し、英国の国立大学の学部に入って三十代半ばでイギリスの二十歳前後の学生たちと一緒に聖書学を学び始めたのですが、その時に印象深いことがありました。その時、講師の方がキリスト者の人生には苦難や苦しみがつきものだ、ということを語ったのに対し、ある女子学生が「イエス様が私たちの代わりに苦しんでくれたのに、なぜ私たちが苦しまなければならないのですか」という、単刀直入で、日本人なら遠慮して聞かないような質問をずばりと聞いたのです。その時の講師の答えはよく覚えていないのですが、質問の方は今でもよく覚えています。

この問題については、中間時代、すなわち旧約と新約の間の時代に書かれた書で、七十人訳というギリシア語の聖書に収録されている『知恵の書』がその理由を明らかにしています。そこには、義人を故なく憎む世の人々の気持ちが描かれています。

正しい人は、自分は神を知っていると公言し、自らを主の僕と称している。彼は我々の思いをとがめる存在となり、我々には目に映るだけで重苦しい。その生き方は他の者とは異なり、その振る舞いも変わっているからだ。正しい人は我々を偽り者と見なし、汚れを避けるように我々の道から遠ざかる。正しい人たちの最期は幸せだと言い、神を自分の父だと豪語する。(2:13-16)

このように、正しい人の生き方はこの世の生き方とは異なるので、この世の人はそうした人を見るだけで嫌になります。自分たちの生き方が悪いということを、その人は無言のうちに示しているからです。そのイライラから、正しい人を虐めたくなる、苦しめたくなるというのです。つまり自己正当化のために、正しい人の生き方を破壊したいのです。したがって、正しく生きようとすると、その生き方が苦難を招くのです。つまり、ありていに言えば、キリストを信じることで人は災いから守られるのではなく、むしろ災いを招いてしまうのです。使徒パウロは自らの伝道について、こう述べています。第一コリント4章11節以降をお読みします。

今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます。

このように、パウロの人生はまさに災い続きだったのですが、驚くべきことに、パウロは自分に災いをもたらす人たちを祝福し、慰めているのです。これがキリスト教の新しさ、独自性なのです。ペテロも今日の箇所で全く同じことを語っています。それが9節なのですが、この一節は解釈が分かれるところです。私たちの聖書では、

悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。

と訳されています。しかし、多くの研究者がしてきするように、より字義通りに訳せば、「あなたがたは、あたなたがたに悪をなす者たちを祝福するようにと召されているのです、そうしてあなたがたが祝福を受け継ぐようになるためです」となります。つまり、クリスチャンの召命とは敵を愛する、敵を祝福することであり、そのように行動するからこそ、私たちは神の祝福を受け継ぐことができるのだ、ということです。私はこの解釈の方が正しいと思いますし、それは主イエスの教えとも一致しています。イエスはこう教えられました。

『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、あなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。(マタイ5:43-45)

この、敵を愛しなさい、迫害する者のために祈りなさい、という言葉ほど、イエスの教えの中で衝撃的なものはないでしょう。キリスト教を拒否する人は、このようなイエスの教えは実行不可能だと考えるからだ、ということは皆さんも聞いたことがあると思います。しかし、イエスは私たちがこのように行動するからこそ、神の子となれるのだ、と教えています。そしてペテロも、私たちは敵を愛し、迫害する者たちに祝福を与えるために召されたのだと教えています。そして、これこそがキリスト教の本質なのです。もちろん、敵を愛するというのが人間の本性に反するものだということも事実でしょう。やられたらやりかえす、というのが残念ながら人の自然な行動なのかもしれません。聖書も「目には目を」と教えているではないか、という指摘もあるでしょう。しかし、ここにこそイエスの教えの新しさ、福音の新しさがあるのであり、これを取り去ったらキリスト教はキリスト教ではなくなってしまうのです。そして、敵を愛するというのは感情というよりも行動の問題だ、ということも大切なポイントです。自分に害をなす人を、感情的に好きになれ、というのは確かに不可能でしょう。そんな人はいなくなって欲しい、顔も見たくない、と思うのが普通です。しかし、主イエスが言われているのは、そのような無理な感情を無理やり持ちなさいということではなく、むしろ感情がどうであっても平和作りのために行動しなさい、ということなのです。目には目を、殺されたら殺し返す、という報復の連鎖では、いつまでたっても平和はやってこないからです。

近代以降の戦争で残念なのは、戦争が終わるのは徹底的に相手を痛めつける、報復しようという気持ちすら起こせないほどまでに相手を痛めつけることでしか実現しなかったということです。その典型はまさに日本の敗戦です。戦前は「鬼畜米英」と叫んでいたのに、戦後はアメリカ万歳になりました。それは、アメリカが人格的に素晴らしかった、敵である我々にも憐み深く寛容だった、と多くの日本人が感激したからではなく、その反対でアメリカ人があまりにも恐ろしかったからです。東京大空襲で一夜にして10万人もの民間人の命が奪われ、原爆では一瞬にして20万人もの民間人の命が奪われました。こんな恐ろしい相手には抵抗しても無駄だ、というあきらめが転じて、アメリカは素晴らしいという卑屈な精神構造になってしまいました。ですから戦後の日本人は、アメリカが正当な理由もなくイラク人の民間人を何万人殺そうが批判しない、いやアメリカは正義のために正しいことをしたのだ、とまで言い出すようになってしまったのです。相手への恐怖心のゆえに、相手を批判できないのです。

このように、この世の方法というのは、「目には目を」という報復の気持ちを抱くことができなくなるほどまでに相手を痛めつけることで、それはまさにローマ帝国が十字架でやったことでした。十字架のような惨めな死に方をしたくなければ、ローマに反抗しようなどと愚かなことは考えるな、ということです。しかし、イエスはそれとはまったく異なる道を示されました。平和づくりのために、報復といういわば当然の権利を捨てて、むしろ相手との和解の道を探るために相手を祝福しなさい、というのです。そんなことをすれば悪者を増長させるだけではないか、そんな愚かな行為では平和は実現しない、悪を倒さなければこの世の秩序は保てない、という反論が当然出てきます。私はそれもある意味では正しいと思います。私たちには警察が必要です。警官が武力を行使して一般市民を守ってくれるのはありがたいことです。その延長線上で、国家としての軍事力や武力も必要でしょう。ある一つの国だけが圧倒的な軍事力を持っていて、周りの国はまったく武器を持っていなければ、攻めてくださいと言っているようなものです。平和のためには、いわゆるバランス・オブ・パワー、力の均衡というものも必要でしょう。しかし、そこに安住していたら、いつまでたっても「目には目を」の世界から前進できません。本当に平和を目指すのなら、誰かが「目には目を」ではなく、「砲弾に花束を」という行動を採らなければなりません。すべての人がそうすることはできないかもしれないけれど、ではまずクリスチャンがそれを始めるべきだ、というのがペテロの、そして主イエスの教えていることなのです。ペテロは、善を行ったのに苦しみを受けるなんて理不尽だ、とは言いません。かえってそれは幸いなことだと言っています。今日の箇所の最後の一節をお読みします。

もし、神のみこころなら、善を行って苦しみを受けるのが、悪を行って苦しみを受けるよりよいのです。

3.結論

まとめになります。今日は人生における苦しみの問題、とりわけ真面目に正しく生きている人に降りかかる災いや苦しみの問題をペテロの言葉を通じて考えて参りました。新約聖書と旧約聖書の大きな違いの一つは、新約聖書では正しい人は苦しみには遭わない、神から守られる、とは言わないことです。むしろ正しい生き方は周囲からの反発を招き、あなたは必ず災いに遭うだろうと教えます。なにかとんでもないことのようですが、実はそれが新約聖書の教えです。さらに驚くべきことは、このように私たちに災いをもたらす人に報復せずに、むしろ祝福しろ、と教えていることです。これもとんでもない教えですね。ここ数年間、世界では大きな紛争がいくつも起きて私たちを震撼させましたが、どの戦争でも「憎むべき敵に罰を与えろ」、「報復しろ」、「そのためにはもっと強い武器が必要だ」というようなことばかりが叫ばれてきました。そして、これがこの世の在り方です。しかし、イエスが示した十字架の道は、自分が苦難を引き受けることで敵との和解を目指す生き方です。そんな生き方は愚かしいと思われるかもしれません。しかし、これこそが、いやこれだけが、神の認めた道なのです。そして、そのイエスに対し神は大きな報いを与え、彼を万物の支配者となさいました。今やキリストの支配は始まっていますが、その支配は暴力や強制によるものではなく、自己犠牲的な愛によるものです。そのような生き方、神の支配に私たちは招かれています。その報いは大きいのです。ですから勇気をもって、信仰をもって歩んで参りましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。本日は人生における苦難と、その苦難にどう向き合うべきか、ということを学びました。私たちには不可能にも思える生き方ですが、神には不可能なことはありません。私たちに力をお与えください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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